降水確率50%

 ママの口癖はさ、「悪い男と良い男を見極める目を養いなさい。悪い男っていうのは、けちな男のことよ。お金のこともそうだけどそれだけじゃなくて、時間、感情、すべてにおいてけちな男のことよ」っていうのでさ、それをあたしが小学生だったころからときどき言って聞かせられたわけ。もちろんそのときはその意味なんてよくわからなくてね。それにママが選んだはずのパパがものすごくけちな男の典型だったからさ。ま、だから別れたんだろうけど。極めつけはさ、家の本棚にあった山田詠美の「放課後のキイノート」を手にとってみたら、あとがきに、ママの口癖とおんなじことが書いてあってさ、ちょっとママ、あなたの教訓、パクリじゃんって。笑っちゃうでしょ。あれ、これ言ったことあったっけ? あ、聞いた、あ、そう。
 でさ、二十歳ちょいのときにあたしは大恋愛をしたわけ。でもあたしはママの教訓をひとつも生かせずに、もう史上最強のけちな男を選んでしまったわけよ。しかもそのけちな男に五年も費やしてしまったの。もう、無駄以外の何物でもないよね。二十代前半の、女としていちばん瑞々しい時を、ドブに捨ててしまったわけよ。元彼がけちな男だと見極めるための時間だったと思えば無駄じゃないのかもしれないけどさ、やっぱり五年は時間かけすぎたよね。楽しかったこともあったけどさ、男を見極めて、バツだったら、さっさと見切りをつけることも大切よね。でもさあ、顔がすごいドンピシャでタイプでさ、あたし面食いじゃん? だからずっと我慢してたんだよねえ。でもさ、大恋愛敗れて考え方改めたよ。男は顔じゃない、初心に帰って、次はけちじゃない男を選ぶんだ! って。……え、あ、そう、これも言ったっけ、……そう。
 しばらく会っていなかった人と会うと、自分の近況報告をどこまでしたかわからなくなる。カウンター席の横でノンアルコールビールを飲む、幼なじみの崇とは、わたしが件の元彼と付き合って以来一度しか会っていなかった。元彼にばれないように、こっそりメールや電話でちまちま連絡はとっていたので、五年間分の互いの報告をしようとしても、それ聞いた、ばかりになって、でも面と向かって話していないので、どれを話してなくてどれを話したのかわからなくて、会話はちぐはぐになった。
「崇、なんで傘持ってんの?」
 わたしは話を変えようと、彼のイスにかけてあるビニール傘に目をやった。
「え、繭、天気予報見てこなかったの?」
「ケータイで見たよ。降水確率五十%」
「じゃあ持ってくるだろ、ふつう」
「だって五十%なら、五分五分じゃん。降らない確率も五十%なわけだし、降ったら運がなかったってあきらめるもんでしょ」
「おまえバカだね。降水確率五十%なら降るよ。そういうもん」
 崇はノンアルコールビールをおかわりした。そして腕時計に目をやり、
「お、あと十五分で繭もアラサーの仲間入りだ。おめでとう」
 と言ったので、
「ちょっと、まだおめでとうって言わないでよ。十五分後にもう一回余計にトシとるみたいでいやだ」
「なんだその理屈……まあいいや。あ、繭のお母さん、まだ深大寺の蕎麦屋で働いてるっておふくろから聞いたけど」
「あ、まだうちらのママ仲良いんだ。うん、そうそう。なんか、接客業が楽しいみたい。というか、ちやほやされるのが、かな」
「あー繭のお母さん、美魔女だからなあ」
「ビマジョってなに」
「なんでもない」
「ふうん。でもさ、別れた旦那にプロポーズされた場所で働くのって、どうなの?」
「思い出の場所だからでしょ」
「別れたのに? それって未練がましくない?」
 わたしがそう言うと、崇はふっと黙ってしまった。ゆっくりと瞬きをする崇の「未練」に、自意識過剰かもしれないけれど、自惚れかもしれないけれど、思い当たることがひとつだけあった。
 二十歳のとき、わたしと崇は一度だけ寝たことがある。わたしの「大恋愛」がさっそくうまくいかなくなって、元彼に内緒で崇と会った。
 わたしは散々元彼の愚痴を言い、崇はそれを文句ひとつ言わずただ聞いてくれていた。そして、散々飲んだわたしは、あーもー崇にしとけばよかった、と、ティッシュ一枚分くらいの重みでつぶやくと、崇は真顔で、「そうしろ。おれは繭が好きだから」と言われてびっくりした。のは、ちょっと嘘だ。本当は、たまに、わたしに甘い視線を向ける崇に気づいていた。そしてわたしは、彼の想いに甘えて、彼と寝た。酔っていたからとか、傷ついていたからとか、そういう言い訳はふさわしくない。単純に、寝たかった。それだけだ。
 でもわたしは崇と付き合ったりしなかった。顔が全然タイプじゃなかったし、なにより、たまに愚痴を聞いてくれる男友達、という貴重な存在を失いたくなかった。だから今までわたしたちはまっさらな仲の良い幼馴染でいられたのだ。寝なきゃよかったのだけれど、過ぎたことはしかたない。コトが済んだ翌朝、向かい合って朝食をとっているときに、わたしは崇に「これからも友達でいてくれる?」と、本当に卑怯でずるいことを言った。崇はただ「うん」と言った。
 崇はまだわたしのことを好きなのだろうか。この五年間、崇から女の話は聞かなかった。もっとも、崇との電話は、わたしが一方的に元彼の惚気や愚痴を一方的にまくしたてることで成立していたので、彼女がいたかどうかはわからない。
 自分の気持ちを打ち明け、寝てみたら、翌朝「これからも友達で」なんてのたまう女と、よく今まで友達でいてくれたよなあ。
「あ、一分切った」
 崇が腕時計を見て言った。
「十二時まで? うわー」
 わたしは頭を抱え、ため息をつき、カルーアミルクを細いストローで飲んだ。
「十秒切った! 九……八……七……」
「細かいなあ」
「三……二……一……0と、結婚しない?」
わたしは呆気にとられ、は? とぽっかり口を開けた。
「なんで?」
「いや、好きだからでしょ、そりゃ」
 崇は右手の人差し指で鼻の下をこすった。
「え、ずっと? 小学生から?」
「あー、まあ、そうかな」
「まあってなによ」
「いや、人並みに別の女の子と付き合ったこともあったし」 
「ああ、あったねー」
「なんで不機嫌そうに言うんだよ。おまえこそ俺のことずっといいように使ってたくせに」
「うーん……すいません」
 わたしは素直に謝った。
「でもなんでいきなりプロポーズ? 結婚を前提としたお付き合いとかはないの?」
「だって……今更じゃね?」
 崇の言いたいことはよくわかったので、わたしは「まあね」と言った。
 お互いになんとなく黙ってしまった。小学校に入学してからすぐ、わたしを好きだったとすると十八年か、これはすごく長いのではないだろうか。
 わたしが筆記用具を忘れて、おろしたてのバトエンを貸してくれた崇。シロツメクサで冠をうまくつくれないでいるわたしに、自らつくった王冠をそっと頭にのせてくれた崇。運動会ではちまきを忘れたわたしに自分のをくれ、自分が忘れたと先生に申告した崇。文化祭の看板をつくるグループにハブられて、一人で作業していたら手伝ってくれた崇。マラソン大会の練習のために夜中にジョギングをしていたら、危ないからと毎晩一緒に走ってくれた崇。
 ひとつ、またひとつ思い出してゆくと、あれ、なんかイイやつじゃん、と思った。顔はタイプじゃないけど、まあ、でも。
「降水確率くらい」
「え?」
 崇はすっとんきょうな声を出した。
「降水確率がなに?」
 崇は言った。
「今日の降水確率くらい。あたしが、あんたと、結婚する確率」
崇は顔を輝かせ、前もって打ち合わせでもしてあったのか、『まゆちゃん たんじょうび おめでとう』と書かれたプレートの乗ったホールケーキが奥から出てきた。ノンアルコールビールを飲んでいたはずの崇が、あの、さっき、プロポーズ成功したんすよ、と酔っぱらいのようにケーキを持った店員さんに絡み、店中から恥ずかしいくらいの祝辞と拍手をいただいた。まだOKとは言っていないのに。でも、でも。十八年、わたしを想い続けてくれた男。顔はタイプじゃないけど、でも、それだけ長い間わたしに心を向けてくれていた男って、それって、けちではないよな、と思った。
「今週末にでも、繭のお母さんに挨拶しに、深大寺に行こう」
 崇は言った。
 四角く切り取られた窓の外には、たっ、たっ、と雨がはじけていた。

降水確率50%

降水確率50%

深大寺短編恋愛小説賞に応募するために書いた作品です。 最終選考まで行きましたが、そこで落ちたので、こちらに投稿させていただきました。 私も主人公と同じく、降水確率50%は五分五分でしょ、というような馬鹿な勘違いをしてきたので、そのことを題材にしたいと思って書きました。 拙著を読んでいただき、ありがとうございました。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-09

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