善意の寄付

木村夫婦のひとり娘、沙耶は重い心臓の病気を抱えていると判明する。そして彼女の症状は少しずつ悪化していた。そんなある日、塾の帰り道で沙耶が何者かに誘拐されてしまう。

「身代金は用意出来ますか?」
 現場の責任者である安藤が単刀直入に質問すると、向かい合って座る木村は一枚の紙を取り出して、テーブルの上に広げた。
「大丈夫です。保険に入っていますから……」
「保険? といいますと?」安藤の右の眉がピクリと動く。
「誘拐保険です。日本では馴染みがありませんが、P国に滞在していた時に入ったまま、まだ継続していたんです。当時はとても安全とは言えない国でしたのでね」
 P国は今でこそ経済発展著しいが、ほんの二年程前までは、テロやゲリラが頻繁に出没する不安定な内政状態だった。
 彼は現在、木村印刷という会社の社長に収まっているが、その時はまだ某機械メーカーで技術営業という仕事をするサラリーマンだったのだという。
 もちろんP国での滞在は、販売支社を設立した会社の業務命令による物で、家族揃って一年半程そこで生活していたのだと説明を受けていた。
「なるほど、話しには聞いた事があります。つまり犯人に金を支払った場合、同額を補填してくれるという訳ですね?」
「おっしゃる通りです。ですから警察の方から銀行に事情をお話し頂いて、一時的に借りられるよう手配して貰えれば、お金は何とかなります」
「分かりました。時間がありませんから早速手続きに入りましょう」

「娘は預かった」そう電話が入ったのは昨日の夜だった。
 沙耶は小学五年生で、私立の中学を受験する為に塾に行っていたが、帰りが遅いので心配していた矢先の出来事だった。
 いつもは妻が送り迎えをしていたが、その日は事故による渋滞に嵌って動けなくなり、ひとりで帰宅するよう言い付けた物の、先に戻ったのは妻の方だった。
 こんなに時間が掛かるはずがない。
 持たせていた携帯は繋がらず、たまたま早く帰宅していた木村が急いで塾までの道のりを遡ったが、娘を見付ける事は出来なかった。
 そしてその時、もう一度同じ内容の電話が掛かってきた。
「この電話がイタズラではないと理解して貰えたかな?」と。
 身代金の要求額は一億円。しかもなぜかすべて通し番号で揃えろと要求される。
 普通は番号を控えられるのを嫌ってバラバラにする物だが、どんな意図があるのかは不明だった。
 親の跡を継いで小さな印刷会社を経営している木村は、人よりは多少楽な生活が出来る身の上ではあったが、さすがに一億ともなると手も足も出ない。
 ふたりはとにかくもすぐに警察に電話を掛ける事に決めた。
 担当は捜査一課の特殊班という部署だという。
 そのまま家で待機しているよう言い付けられた二人は、彼らが到着するまでの間に、一億という途方もない要求を満たすにはどうしたらいいか話し合った。
 しかし会社を売るか、さもなくばそれを担保に金を借りるか、方法はそれくらいしか思い付かない。しかもそれでいくら出して貰えるのか、すぐに計算出来るはずもなかった。
「そういえば、まだ例の保険にお金を振り込んでいるんじゃない?」突然思い出したように妻が
口を開いたのは、そんな時だった。
 調べてみると、果たして彼女の言う事は正しかった。
 P国から戻った時はドタバタしていたので、保険の事など頭から飛んでいたのだ。
 日本の治安の良さは世界一といっていい。因って保険料は大幅に安くなっていた。だから勝手に引き落とされるそれをわざわざ解約する手間を惜しんで放っておく事になった。
 なぜなら近い場所に手続き出来る窓口という物が存在しなかったからだ。
 とにかく保険証書を引っ張り出した二人は、頭を突き合わせて内容を読み耽る事になった。
 五人の男女が木村の会社の人間を装って現れたのは、それから三十分程経った頃だった。
 中のひとりが木村に、部下に接するような態度を取るよう耳打ちする。
 家中のカーテンを引いた彼らは、すぐに自宅の電話に逆探知の装置を取り付け、同時に家の中から違法な電波などが出ていないか探索を始めた。
 そこまで終わって初めて彼らの責任者は安藤と名乗り、状況の確認が行われる事になった。
 どうやら犯人に盗聴されていないか確認をしていたらしい。
 そこでまず木村が話したのは娘の身体の特別な事情についてだった。

 会社関係で懇意にしている銀行に到着した木村は、付き添って貰った安藤に事情を説明して貰い、保険が下りるまでの間必要な短期の融資を依頼した。
 もちろんすぐに犯人が捕まれば、その金はそのまま返金される事になる。
 対応してくれた担当者は顔馴染みの人物で、驚いたり、慰めたり目まぐるしく態度を変えながら、それでも事情を理解してくれたようだった。
 しかし通し番号という条件と、金額の大きさから、さすがにすぐには用意出来ないと断りを入れられてしまう。
 まだ昼前だったが、各支店にある在庫を掻き集めるのに、どうしても時間が必要だというのだ。
 木村はひたすら頭を下げて、とにかく急いで貰うようお願いした。
 結果、最終的な担当者の答えは、明日の夕方までに何とかするという物だった。
 そこまで話しが纏まると、実際のやり取りは木村に一任され、安藤は一度捜査状況の確認の為に本部に戻る事になった。
 とにかく融資が可能になり、思ったより短時間で身代金が手元に来る事にほっと胸を撫で下ろす。
 犯人もすぐに金が用意出来るとは思っていなかったらしく、電話の声は初めから三日の猶予を与えてくれた。
 でもこれで丸一日以上時間を短縮出来る事になる。
 沙耶が無事に戻って来る為に、身体への負担を少しでも減らす為に、とにかく取引は急がなければならなかった。

 ***

 娘は身体に問題を抱えている。
 会社を辞めてP国から戻ったのも、充実した医療を求めての決断だった。

 ある日、突然現地の日本語学校で倒れた娘は、検査の結果、心臓を動かす筋肉、つまり心筋に問題があると判明する。
 それはそれまで健康だと疑わなかった本人はもちろん、木村と妻にも大きな衝撃を与えた。
 ベッドに横たえられた娘はいかにも苦しそうな表情だったが、薬の点滴を受けるとじきに症状は和らいだらしく、笑顔を見せるまでに回復した。
 とにかくもっと詳しい検査が必要だ。
 病状が落ち着いた所で、娘と妻を日本へ帰す事に決めた木村は、会社に掛け合って自らも日本へ戻ろうとした。
 しかし話しは纏まらず、結局会社を辞めた木村は、両親が熱望していた印刷会社を手伝う事に決めたのだった。
 日本に戻った沙耶の病状は少しずつ悪化し、やがて薬を手放せないようになっていく。
 学校には通っていた物の、体育の授業を受けるのは無理だったし、すぐに息が切れてしまう彼女は、ふらついては保健室に運ばれるようになっていた。
 体調を崩して休む日も増えていく。それでも娘はベッドの中で勉強を続けた。
 なぜなら娘には目標があったからだ。それは私立のQ中学に通いたいという物だった。
 制服こそ昔とは変わってしまったが、大好きな母親と同じ学校に行きたいという夢を聞けば、首を横には振れないだろう。
 本来こんな状態で塾に行わせるべきではなかったが、Q中学に入る為には色々必要な事柄があるらしく、許さざるを得なかったのだ。
 正直今の状態では、例え受験は許されたとしても、通い続けるのは難しいと思っていた。
 しかしそんなささやかな願いすら止めさせるのは、娘の情熱を奪うような気がして出来なかった。
 週に一度だけの塾は夕方六時から八時まで。
 何かあってはいけないので、行きも帰りも妻が車で送り迎えをする事になっていた。

 そして昨日の事情は先の通りだ。
 僅か電車でひと駅分。通い慣れた道のりは、少し遠回りにすれば人通りも多かったし、夜は必ずその道を使うように言い聞かせてあった。
 そしてここの所体調がよかった沙耶の身体も、左程心配はしていなかった。
 元々妻が塾に辿り着けなかったのはアクシデントだ。
 それでもそこを狙われたという事は、犯人はかなり前から誘拐の機会を窺っていたという事に他ならない。
 薬は肌身離さず持ち歩いていたが、とにかく身体が心配だった。
 ストレスが掛かると体調も崩し易くなる。熱を出すだけでも、普通の子供とは重みが違うのだ。
 電話を掛けてきた犯人も、まさか誘拐した子供がそんな病人だったとは思いもよらなかったのだろう。
 木村の訴えに困惑しながらも、死なれては困ると、こちらの要望を受け入れてくれる余地はあった。
 とにかく暖かくして、絶対に風邪をひかせないようにと懇願する。
 そして一日も早い解放を望んだ木村には、身代金の要求額を下げる交渉など初めから頭になかった。
 確かに”相場”よりは高いのだろう。しかしそんな事をしている内に、娘の身に何かあったら取り返しがつかない。
 もちろん保険があったからこそ可能な訳だが、その辺りの事情はあとで保険会社に説明が必要かもしれなかった。
 
 ***

 翌日夕方。
 銀行からの電話を受けて、金を取りに行く。
 額が額なので二人の私服警官が護衛に就く事になったが、警察の存在を悟られない為に、木村の車の前後を覆面パトカーで挟む形を取る事になった。
 銀行に到着した木村は持参したバッグに現金を詰め替える。このバッグは犯人に指定されて、前日デパートで購入した物だった。
 金額を確認し終わり、バッグのジッパを閉じると奇妙な沈黙が二人を包んだ。
 木村が立ち上がって担当者の努力に深々と頭を下げると、彼は恐縮したように首を横に振った。
 これからが正念場だ。もちろん彼もその事を知っている。
 それでももう一度頭を下げた木村は、背中に無言の声援を受けながらその場をあとにした。
 百万の束が百個。これだけあるとさすがにずしりと重い。
 車のトランクにバッグを収めると、後ろから現れた警官にちらりと視線を走らせて小さく頷いた。
 大急ぎで自宅へ戻るべきだが、万が一にも事故を起こしてはいけないので、安全運転を心掛ける。
 駐車場に車を入れ、再びバッグを手にして家の中に入った木村は、早速安藤に受け取ったばかりの現金を見せながら、その記番号の控えが印刷された紙を手渡した。
 紙幣の記番号は束の単位で続き番号になっているので、その先頭のナンバーが百並んでいるだけだ。
 一覧表を眺めた彼が一層気を引き締めたのが分かる。
 ずっとリビングに張り付いている妻も、バッグの現金を手にして頷いた。
 まだ沙耶の行方はようとして知れない。犯人に結び付くような関する手掛かりも見付かっていないと説明されていた。
 前日の夕方掛かってきた三度目の電話で、犯人には金を用意できる大体の時間を知らせてあったが、まだそれより三十分は早い。
 それなのにまるでどこかで見ていたかのような絶妙なタイミングで電話が鳴り始めた。
「準備は出来たか?」とぼけているのか、偶然なのか、昨日と同じ声がそう訊いてくる。
「たった今帰った所です」
 安藤が家の周囲に不審者がいないか確認するよう指示を出しているのが見えた。
「そうか。じゃあ、ちょっと警察に代わってくれ」
 ひと呼吸置いた犯人の男は、突然とんでもない事を言い出した。
「え?」
「いいから、警察の責任者に代わるんだよ」
 その場でイヤフォンを耳にさして会話を聞いていた全員が硬直する。安藤が慌てて腕でペケ印を作った。
「け、け、警察なんていません。本当です」
「そんな猿芝居はしなくていい。別に警察がいるからといって、取引を中止するつもりはないから安心しろ」
 木村が安藤の顔を見上げると、どうした物か判断に迷っているのが分かった。
「早くしろよ、時間が惜しいんだろう?」
 宙に浮いた受話器を差し出すと、彼は仕方なさそうにそれを受け取った。
「電話を代わった。安藤という者だ」
「やっぱりいたな。まあ、居て貰わないと困るんでね」そう言って男が笑う。「お宅らヘリコプター飛ばせるかな? この後すぐに」
「ヘリ? どうかな? 機体が空いてるか確認しないと回答出来ないな。それにどこへ行くのかにもよるし。つまり航続距離の都合もあるという事だ」
「別に海外へ行こうって訳じゃない。ヘリはどこにあるんだ?」
「お台場に駐機場がある」
「なるほど。それじゃあ、これだけ言っておこう。そこから半径二百キロ以内の場所に飛んでほしい」
「それくらいなら大丈夫だと思うが、二分だけ待ってくれ」
 すでに会話を聞いた部下が連絡を取って、確認した内容のメモを安藤の手に渡してくる。二分は単なる時間稼ぎだった。
 逆探知の担当者がNTTと連絡を取り合っているのを確認しながら、安藤は腕時計の秒針を目で追っていた。
 探知班が手を上げる。安藤が刑事のひとりに現場に向かうように無言で指示を出す。
「……オーケーだそうだ。一時間あれば準備出来る。で、どうすればいいんだ?」
「金を木村に持たせて、ヘリで飛ぶんだ。今からジャスト一時間後にまた連絡するから、その頃に飛び立つようにしてくれ。携帯電話を忘れずにな」
 そして木村の携帯の番号を控えた犯人からの電話は切れた。
「逆探知先は埼玉です。今現場に埼玉県警の特殊班に急行して貰ってます」
「こちらからももう一班合流させろ」
 それでもすぐに飛び立てるようヘリの準備も始めて貰う。
「木村さん、出ましょう。
 例え犯人が見付かっても、すぐには手を出せません。
 娘さんの居所を掴み、安全に救出出来る事が確認されるまではどうしようもない。
 相手に気付いた事を悟らせない為にも、従順を装いましょう」
 すでに警察がいるのはバレているで、玄関に堂々と車を着ける。
 急ぐのでパトカーのサイレンを鳴らして先導させる事にした。
 まったくどういう犯人なんだ。安藤は前後をパトカーに挟まれた車の中で、腕を組んで目を閉じた。
 半径二百キロは広い。陸地なら関東甲信越のすべて。海の上なら伊豆諸島まで範囲に入る。
 どこへ行くのか分からないので、警察庁経由で近隣の県警や海上保安庁などにもすぐに動けるよう準備をお願いしてあった。
 陸か、海か。それだけでも分かれば大分対処の仕方も変わるんだがな。
 最も犯人がそんな事をとうとうと語ってくれるはずもない。
 埼玉の方で収穫があればいいんだが……。安藤が目を開けると、隣の木村の身体が小さく震えているのが分かった。

 ***

「安藤課長。現場は一軒家。二階建ての住宅です。到着後、宅配業者を装ってチャイムを押しましたが、誰も出てきません」
「近所の人の話しでは、共働きで昼間は誰も家にいないはずだという事です」
「小学生の女の子を見掛けたという目撃情報はありません」
「住人の携帯番号を入手。基地局の電波追跡から、二人共会社周辺ににいるのが確認されました」
「ちゃんと本人なのか、確認しろ」安藤が言葉を挟む。
「勤務先にも電話を入れて、呼び出して貰ったので間違いないと思います」
「家は空か? なら犯人が侵入して、電話を掛けたという事か?」
「先程まで、その家の前に車が止まっていたという目撃情報があります」
「住人の顔写真を入手しました。勤務先に監視が到着しました」
 携帯端末に写真が載った。氏名や勤務先のデータなど、次々と情報が入力されてくる。
「取り敢えず、次の電話を待とう。そうすればまだいるかどうか分かるしな。中の様子を確認出来るよう知恵を絞ってくれ」
 安藤がそんな忙しないやり取りを終えた時、車はヘリポートに到着した。

 ***

 轟音と共にヘリのローターが回転し始めると、周囲に猛烈な風が吹き下ろされた。
 時間は前回の電話からジャスト一時間。
「ゴー! ゴー!」地上職員の掛け声と共に機体がふわりと浮かび上がる。
 高度が上がると、すぐに目の前の東京湾が見渡せた。
 携帯電話が鳴る。
「そのまま南東に向けて飛行し、房総半島を横断して太平洋に出ろ」機内は煩いので、木村が安藤に怒鳴るように伝える。
 それだけ伝えると電話は切れ、今度は安藤の携帯が鳴った。
「さっきとは違う電話でした。携帯です。今度は神奈川の相模原市内の基地局周辺です。移動しているので、相手が車なのは間違いありません」
「家はどうなってる?」
「何も動きはありません。
 先ほど電気の検針に入って裏の窓に盗聴器を貼り付けました。そこから聞き取れる範囲では、人がいる様子は窺えません。
 南側の窓から室内を撮影した写真にも、人の存在は確認出来ませんでした。赤外線でも反応なしです。
 現在最新の光盗聴器を使って中の音を拾う準備中です」
 眠らされていれば検出は難しい。五年生ともなれば立派に証言が出来る年齢だ。もう小さい子供ではない。
 本当にその家がアジトなのか見極めないと、手を出すのは難しかった。

 ヘリは大きく上昇すると、アクアラインを越えてしばらく南下した後、浦賀水道を右手に見ながら左へと旋回し始めた。
 湾上にはたくさんの船が行儀よく並んで航行している姿が目に入る。それらとお別れすると、犯人の指示通り南東に進路を変え、房総半島の緑の山々を見下す事になった。
 陸地を飛び越えて、すべての視界が海になってしばらくすると、安藤の持つ警察無線の呼出し音が鳴った。
 すでに海岸線から離れたヘリは、携帯電話が繋がらない。犯人は木村の自宅へ電話して、警察無線を頼る事にしたらしかった。
 伝言を受けた刑事の声が北緯と東経の数字を読み上げる。
 ヘリはさらに南東へ移動し、高度を保って、その場でホバリングするよう指示された。
 海上からの追跡はとても間に合わないが、犯人は船に乗っているに決まっている。金を投下させて、そのままどこかへ逃走するつもりなのは間違いなかった。
 とにかく追跡して貰う為に海上保安庁にも依頼は掛けておく。

 パイロットが、指定された海域に到着した事を知らせた。
「でも、何もありませんよ。海上には一隻の船も見当たりません」
 再び無線が鳴った。スイッチを入れると、いきなりものすごいノイズが叫んで、安藤は思わず耳を離した。
 どうやら電話と無線機の、送話と受話を互い違いにして直接犯人の声を届けているらしい。
「着いたかな? では最後の指示といこうか」ノイズに埋もれながら変わらぬ男の声が聞こえた。
「下はもちろん海だよな?」
「そうだ」
「では、バッグをそのまま海に投げ込んでくれ」
「海に?」
「そう。それだけやったらヘリポートに戻っていい」
 木村と安藤は顔を見合わせる。
「どうやって回収するつもりなんだ! バッグはすぐに沈んでしまうぞ。海底までは数百メートルもあるんだ、分かって言ってるのか?」思わず安藤の声のボリュームが上がった。
「そんな事はあんたの知ったこっちゃないだろう?」
「しかし金を確認してから、沙耶ちゃんを解放するんだろうが? 違うのか?」
「もちろんそのつもりさ。
 大丈夫。あんた方の想像のつかないやり方で金は回収するから、ご心配なく。
 子供の居場所はあんたらが戻った頃、そうだな、一時間後にまた連絡する。
 それからお宅らが取り囲んでる埼玉の家だけど、関係のない人の家だからさっさと解放してあげてくれ」
 沈黙した無線機をしばらく眺めていた安藤だったが、おもむろにシートベルトを外して立ち上がると、ヘリの扉に手を掛けた。
 外が見えると同時に、猛烈な風と音が吹き込んで機体が揺れ、木村はバッグを抱えたまま身体を竦めた。
「仕方がない。やるしかないでしょう」
 木村は安藤の顔を一度見てから、その手にバッグを渡した。
 えいやっ、という感じで投げられたそれは、すぐに垂直に落下して、僅か数秒で白い飛沫を上げた。
 そして何事もなかったように、すぐに水面はバッグを飲み込む前の状態に戻っていた。
「これでよかったんでしょうか?」どう考えても海の藻屑になったとしか思えない。
 しばらく海面を眺めていた二人に、次の言葉は見付からなかった。
「戻りましょう」
 扉を閉めた安藤は無線で状況を報告した後、パイロットに戻るよう指示を出した。

 ***

 一時間を五分過ぎた所で、沙耶の居場所が伝えられた。
 場所は自宅から電車で二駅程離れた大きな公園の脇に路上駐車された車の中だった。
 毛布にくるまれた沙耶は、後部座席ですやすやと寝息を立てていたという。
 報告を聞いた妻はほっとして、思わず涙を流した。
 すぐに運ばれたという病院に向かう為に出掛ける事になる。
 どうやら犯人は娘を丁重に扱ってくれたらしい。もちろん誘拐という犯罪を、そしてその犯人を憎まないはずもなかったが、無事に返してくれた事には感謝しなければならなかった。
 肩を抱き合いながら車に乗り込んだふたりを、安藤の微妙に揺れる瞳が見詰めていた。

 ***

「金は確認した。娘はR駅の近くにあるS公園の脇に止められた車の中にいる。これで取引は完了だ」
 犯人からの最後の電話は、一方的にそう告げると切れた。
 確認した? 一体どうやって海の中から回収したっていうんだ。
 バッグに細工など出来なかったはずだ。いや、例え出来たとしても、多少の小細工でどうにかなるような問題ではない。
 まさか潜水艇でも使ったというのか? それこそバッグにスクリューでも付いていなければ、到底陸に上げる事など不可能に思えた。
 バッグに仕掛けた発振器は、海中投下から僅か十秒で信号が途絶えた事が分かっている。
 現場海域は伊豆小笠原海溝と呼ばれる裂け目のように落ち込んだ地形の端に当たり、落ちた場所次第ではバッグは千メートルを超えるような深海に沈んだ事になる。
 それとも本当に金を回収したから、信号が途絶えたというのか? それなら移動の軌跡が少しは残るに違いない。
 しかし安藤はあとで木村を怒鳴り付ける事になる。
 発信機は水に濡れても大丈夫なように、外装が上下のカプセルを捻じ込んで、密閉する構造になっていた。
 ヘリでの最初の電話で、木村はそれを緩めるように犯人に指示されたというのだ。
 機内は煩くて、声を大きくしなければ会話は聞こえない程だった。そして安藤が無線でやり取りしている隙を突いて、バッグに腕を入れた木村はこっそりそれらを緩めたのだと証言した。
 つまり発信機は水に浸かってすぐに死んでしまった事になる。
 それでは信号が途絶えて当たり前だった。 
 結局未だに犯人がどうやって現金を回収したのかは分かっていない。
 一方木村の娘が解放されたのと同時に、例の埼玉の家にも捜査員が踏み込んだ。
 しかしこちらも犯人の言った事は嘘ではなかったようだ。
 家の中に誰もいなかったのはもちろん、沙耶の指紋や毛髪も発見されず、住人は困惑するばかりだった。
 どうやらその家にあった電話の子機と同じ物を使って、外から回線を勝手に拝借したと推測された。
 当時家の外に止まっていたという車を探しているが、こちらも未発見のままだ。
 もちろん電話の機種を知り得た人間も当たっているが、、家に出入りする人達の中に怪しい人物は見付からず、五年前に購入したという販売店はなくなっていた。
 製品自体もとっくに生産中止になっていて、トータルの販売台数は数万単位だという。人員は裂いているが、買ったとは限らないし、もしヒットすればラッキーという感じだった。
 犯人が全部で何人いるのかは分からないが、電話でのやり取りを担当したA、金を回収したB、沙耶の世話をしていたCの最低三人の他に、きっともう数人は関与している人間がいると思われた。
 木村家に恨みを持つ者、誘拐の為に娘を監視していたであろう人物、そして連れ去られた周辺の捜索からも有力な手掛かりは見付かっていない。
 沙耶は黒い服を着た女に車に連れ込まれたと証言したが、すぐに眠らされてあとの事は何も分からないという。
 そして気付いた時には目隠しをされていたという彼女は、起きている間は常に布団の上らしい場所で過ごし、食事とトイレ以外はやはりほとんど眠らされていたと語った。
 誘拐犯達は木村の訴えを聞き入れて、娘を大分丁寧に扱ったらしいが、唯一犯人を見たはずの彼女からも犯人を絞り込めるような話しが聞けていないのが実情だった。
 そして彼女が発見された車は以前からその場所に放置されたままになっていたいう事で、どうやら初めから鍵も掛かっておらず、単に屋根代わりに使用されたに過ぎない事が分かってきた。
 目撃者。物証。いずれもまだ犯人へ迫る手掛かりは何も見付かっていないと言ってよかった。
 そして沙耶はこの後、心臓の病気療養の為に渡米する予定が組まれている。もちろん両親も一緒だった。
 木村は会社があるので行きっぱなしという事はないだろうが、娘が無事に戻った今、彼らの関心が事件から離れ、娘の病気の治療に向かっている事は間違いなかった。
 安藤も子供を持つ身なれば、それも仕方ない事だとは思う。
 聞けば、すでに沙耶の病状を克服する為には相当な困難が予想されていた。
 最近開発されたという最新の手術を受けるか、さもなくば移植を待つか、それはこれから慎重に検査をして決められるのだという。
 これでは”過去”の事件など頭から追い出されて当然だった。
 そして費用も数千万単位の金が必要なのだという。
 会社経営者の木村でなければ、いや、例え木村であっても、相当な無理を強いらるはずだった。
 親戚を中心とした支援者が寄付を募っているが、それは全体からすれば微々たる物だろう。
 木村は、犯人に支払った金が手元にあれば、と思っているかもしれない。
 しかし例の保険がなければ、今頃治療どころではなくなっていただろう。そういう意味では、彼は、彼らは運が良かったのかもしれなかった。
 
 安藤は沙耶が健康になれる事を祈りつつ、捜査に励む事しか出来なかった。

 ***

 これは止むに止まれず計画した物だった。
 失敗イコール逮捕。それはもちろん分かっていたが、娘の命を救う為には最早手段を選んでいる時間はなかったのだ。
 金が必要だった。
 治療費と療養に付き添う自分達の生活費に最低五千万。しかも不測の事態が起これば、さらに費用は嵩むだろう。
 それは木村の捻り出せる金額を大きく超えていた。
 会社を清算、譲渡する事も考えたが、例え無事に手術が済んでも、それで終わりという物ではない。しばらくは継続して治療や検査にお金が掛かるのだ。
 そう考えると今収入を絶つようなマネはとても出来なかった。
 そこで考えたのが、入りっぱなしになっていた誘拐保険の金を頂戴する事だ。
 娘が誘拐された事にして、偽札を犯人に奪わせる。そして本物の現金は懐に入れる。そういう計画だ。
 
 まずは一億円分の偽札を作った。それにはもちろん手間と費用が掛かったが、費用の方はあとで回収出来る。
 それに餅は餅屋だ。印刷の事ならお手の物。
 業務用プリンターの紙幣識別プロテクトを外す事が出来たのは、サラリーマン時代、いつか実家の印刷屋の役に立つだろうと機械メーカーに勤めた経験が活かされた。
 P国に行った時は技術営業だったが、元はエンジニアの木村は、内蔵されたソフトウェアを解析して紙幣の印刷を可能にした。
 偽札はとにかく見た目重視で、特殊なホログラムなどもそれっぽく見えるように気を配った。だが紫外線やら磁気に反応する特殊なインクは不要だ。
 どうせすぐに捨てるのだから余計な事は一切しない。
 そして水に溶けやすい性質と手触り感を考慮して、紙を慎重に選んだ。
 本物の紙幣は和紙で出来ているが、その感触に人の手は馴染んでいるからだ。
 業務用の印刷機に拘ったのは、やはり家庭用の物とは見た目の質感が全く違うから。
 警察の目に触れるのは、多分一度か二度だが、これをやり過ごせなければ意味がなかった。
 札束はそれぞれが百万単位で通し番号になっている。もちろん”犯人”がそう要求するからだが、とにかく数が多いので印刷の手間を省く為にそうする事にした。
 そして知っての通り、誘拐捜査ではお札の番号を控える事になる。
 犯人の手に渡った後、それがどこかで発見されれれば重要な手掛かりになるからだが、これに無闇に引っ掛からない工夫が必要だった。
 紙幣一枚一枚に印刷された番号の名称を、記番号という。
 印刷される記番号には規則があり、頭からお仕舞いの番号までを使い切ると、印刷の色を変えて、再び同じ番号が使われる。
 つまり番号だけを控えても、同じ物は市場に何枚か流通している事になる。
 現在のE券が登場したのが十二年前。黒から始まった一万円札は、三順目の褐色になっている。
 実際に何番までが印刷されて市場に出回っているかは、それこそ印刷局の人間しか知らないが、当然早い方の番号は三枚存在する訳だ。
 本来汚れたお札は回収され、どろどろに溶かされてその一生を終える。そのサイクルがどの程度なのかは分からないが、硬貨と違って札は痛み易いので、寿命は意外に短いというのが定説だ。
 つまりこの世の中に存在している黒の数は極めて少ないという事だ。ゾロ目など価値がある物を除けば、ほぼないと言ってもいいだろう。
 という事で、偽札には黒で、且つ価値のない、適度に若い方の番号を使う事にした。

 準備が出来れば、実際に娘を”誘拐”する訳だが、当然発見されれば事情聴取を受けなければならない。
 娘には演技など出来ないので、仕方なく仲間が実行する事になった。
 もちろん娘の身体の事情は十分に理解している。睡眠薬もかつて医者に処方して貰った物を使った。
 誘拐の電話。それには予め購入しておいた”飛ばし”の携帯を使い回す事になる。
 基地局から犯人の位置が割り出されるのは周知の事実だが、都心部はその範囲が極端に絞られてしまうので注意が必要だ。
 ついでに警察を攪乱する為に、申し訳なかったが、無関係の人間にも迷惑を掛ける事にした。
 無線でデータをやり取りするタイプの電話の子機を使って、見知らぬ他人の回線を拝借する事にしたのだ。
 アイデアはかつて電機メーカーのサービス部門に勤務した経験のある仲間が考え出した。実際に使った”電話”は不要になった部品を組み合わせた彼の自作で、迷惑を掛けた家は、彼が歩き回って見付けた何の接点もない他人だった。

 自分達夫婦は当然自宅に缶詰になるだろうから、実際の犯人役は仲間に託さざるを得ない。
 電話のやり取りを行い、沙耶の面倒をみて貰いつつ、裏では木村と連携して計画を進めていく事になる。
 こちらも飛ばし携帯のメールを使って、妻はトイレに隠れながら、木村は警察の目を盗んで必要な変更やタイミングなどを打ち合わせた。
 さて一番重要なのは、木村が銀行から融資して貰った金と偽物を入れ替える部分だ。もちろんこれも警察の目を盗まなくてはならない。
 その為に車のトランクを改造した。トランクに入れた金と、取り出す金をそこで入れ替える為だ。
 バッグは”犯人”に指定されている。
 そのバッグをトランクに入れ、蓋を閉めると、横にスライドして隠しスペースに移動する。
 次に開く時には逆の隠しスペースから、贋金の詰まったバッグが移動して現れる、という構造になっていた。
 何度もチューニングして、うまく動くようにするのに苦労した部分だ。
 そして自宅へ戻ってから、偽札の記番号を控えとして警察に渡した。警察に番号をチェックさせてもよかったが、紙幣にあまりじっくり触られるのは宜しくないと考えた。
 これで入れ替えは完了だ。
 以降は多少覗かれるれる事はあっても、もうベタベタ触られはしないだろう。ここまでくればひと安心だった。
 そしてそのままヘリで海中に投下される事になる。
 現場の深度は深い。海の底から引き上げるのは多分無理だと思ったが、アクシデントへの対策は必要だ。
 あの高さから落下すると、さすがにバッグも無事では済まない。
 一応念を入れて壊れ易くはしてあったが、口を開けたバッグは海中で札をばら撒く事になる。
 海底の様子など知る由もないが、散乱したそれらは水に溶け易い紙質のお蔭で、やがて消えてなくなってしまう。
 そう。犯人に回収されたかのように、だ。
 発信機の反応がなくなったのは、単に水圧に耐え切れなかったからだろう。
 木村はその偶然に乗っかったに過ぎなかった。その方が”らしく”見えると思ったから……。
 そうして沙耶が発見されれば、ジ、エンドだ。

 すでに保険会社には一億円の支払いを申請済みだった。
 保険金が手に入れば、それで銀行からの融資を返済する。警察の口添えで金利は免除して貰ったが、あとで何らかのお礼はしないといけないだろう。

 警察には無駄な捜査の継続をして貰う事になって、申し訳ない気持ちで一杯だ。
 しかもどこかが綻べば、すべては自分に返ってくる。
 しかしそれは仕方がない。所詮は素人が考えた事。いつかは罪を償う時が来るかもしれない。
 それに備えて木村は新たに生命保険に加入した。経営者なら一億のそれも左程不自然な額ではないだろう。
 仲間には無理を言って手伝って貰ったのだから、累の及ばないよう心掛けなくてはいけない。
 すべては時間との戦いなのだ。
 一年後では手遅れかもしれない。
 例えどんなにエゴと非難されようと、木村に弁解するつもりはなかった。

 ***
 
 沙耶と同じ病気を抱える鈴木さん夫婦と共同で設立した団体に寄付が集まり出したのは、それからしばらくしての事だった。
 細かい小銭から、十万を超えるような大きな額まで、”善意の寄付”が寄せられる。
 鈴木さんの長男、翼くんの病状もかなり悪化していたが、やはり手術費用が工面出来ずに焦っていた。
 一人でやるより二人の方が共感を受けられるのでは? そう思って、”手を取り合った”のは
正解だった。
 さあ、目標額までもう少しだ。

善意の寄付

※ストーリー上、お札の説明は脚色しています。また偽札判別機の仕様は不明な為、実際にこのストーリーが成立するかは何ともいえません。

善意の寄付

木村夫婦のひとり娘、沙耶は重い心臓の病気を抱えていると判明する。そして彼女の症状は少しずつ悪化していた。そんなある日、塾の帰り道で沙耶が何者かに誘拐されてしまう。

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted