あの日のコロッケパン -下-


 年季の入ったイルミネーションがラストスパートと言わんばかりに放つ光は
無駄に広い町内会長の額をまぶしく照らしている。
彼がこちらを見るたびに、脂ぎったその光が目に飛び込んできて不快な気分になる。
 そもそも彼が店頭に立つ事など1年を通してほとんどない。
だが今日に限ってはお決まりの真っ赤な衣装に身を包み、買い物にきた人たちに風船を配り歩く。
雰囲気を出すのならば、先端に白い毛玉が付いた、これまたお決まりの帽子をかぶればよいものだが、
本人は「蒸れるから」という酷く現実的で個人的な理由から帽子の着用を拒んでいる。
 煙草の吸い過ぎで少し黄ばんだ歯をこれでもかと見せ、嫌らしい笑顔で風船を差し出してきたが、
軽く会釈をしてそれをやり過ごし、足早に電気屋の前を通り過ぎる。

 そう、今日はクリスマスだ。



 実はあの日以来花屋には顔を出していない。
というのも、アイに相応しい物をプレゼントしようと考えたときに
明らかに一般的な中学生の財布から捻出できる予算を軽く超えていたので、
普段は滅多に会話もしない父に頭を下げてまで仕事を手伝わせてもらっていたからである。
もちろん、そこには父の仕事を無償で手伝う健気な子供の姿などなく、
あくまでビジネスライクな関係でただ指示された事を黙々とこなす無愛想なアシスタントがいるだけであった。
 お陰で2人の福澤諭吉が財布に移住してきた。期間と仕事量を考えれば少しばかり多い気もするが、
父なりにささやかなクリスマスプレゼントとして色をつけてくれたのだろう。
まぁそんな移住したての福澤諭吉も、すぐに数人の夏目漱石を連れてまた別の場所へと旅立ったのだが。

 当初はアイに会えない事が何事にも勝る苦痛だった。
しかし、毎日顔を出していた自分を慕っているでいるであろう人物が、ある日を境に顔を出さなくなったら、
何とも言えない不安に苛まされ、様子を伺いに連絡のひとつでも寄こしたくなるのが人の性である。
本屋で立ち読みした雑誌の「恋人との駆け引き特集」に書いてあったその言葉を信じて、
心を鬼にして、花屋に立ち寄りたい衝動を抑えつつ、父の仕事を手伝った。

 呉服屋の前で歩みを止める。
鞄の中から可愛らしくラッピングされたプレゼントを取り出す。
渡す前にちゃんとそれを所持しているかの確認と、最後の気持ちの整理整頓のためである。

 21日と18時間25分。アイと出会ってからの時間。
思えばこの長いようで短い期間で、およそこれまでの人生で日の目を見なかった恋愛感情は
それまでの鬱憤を晴らすかの如く、一気に溢れ出た。
友人たちが毎日口癖のように吐き出す恋の悩みなど、ただの耳障りな音としか聞こえなかったのが
今となっては自分も同じように友人たちに吐き出している。
自分は他の同世代の人間に比べて大人である、などと吹聴していたのが気恥ずかしく思えるほど、
結局は自分も恋に恋するお年頃を謳歌するごくごく一般的な中学生なのである。

 約3週間の間にアイと交わした会話の数々を、全て事細かく覚えている。
好きな女性との繋がりを鮮明に記憶していたいというのは勿論の事だが、
歳の離れた大人の女性が口にする言葉は、世間知らずの中学生には単純に興味をそそるものばかりだった。
こんな田舎では有り得ないような都会での話。
母が言えば自動的に耳が塞がるような小言も、彼女の口から発せられれば
それは自分にとってどんな神様の説教よりも心に響く。
彼女との会話の一語一句を思い返していくのはとても簡単なことだが、
仮に自分の心情をまるでライトノベルのように読んでいる存在が居たとして、彼らがそれを見て
やたらと間延びするネタに困った時間稼ぎのような話を読んでも苦痛しか感じないのは火を見るより明らかだ。
アイとの会話は、自分の胸の中に在りさえすれば充分なのである。
そもそも他人の惚気話など聞いていて、誰が幸せになれるだろうか。少なくとも自分は、
幸せな日々からやがてどん底の不幸に転がり落ちる様を期待してしまうような、ひねた読者だ。

 そんな展開にならない事を、切に願う。
そんな次元を超越した読者が呆れ返るほどのハッピーエンドを迎えてやる。
このプレゼントを渡して、アイに対する想いの丈を打ち明けるのだ。
勝算など皆無に等しいのは分かっているが、そんな事を考えているようでは良い結果もついてこない。
諦めたら、そこで試合終了ですよと囁いてくる恰幅のいいおじさんが頭に浮かぶ。
 意を決して呉服屋の角を曲がる。



 やたらと乾く喉を唾を飲み込む事でなんとか誤魔化し、花屋を覗き込む。
そこには、店頭に並ぶどんな花々よりも美しい笑顔を振り撒くアイの姿が・・・・・・なかった。
何やら誰かと口論をしているアイの顔は、今まで見たこともないような怒りに満ちた顔だった。
「出てって!!」 一瞬、自分に言われたのかと思い顔を引っ込めた。
だがすぐにそれは、その口論の相手に向けられたものだと理解した。
「いやぁ、そんな事を言われてもねぇ・・・・・・参ったなぁ」
明らかに狼狽した様子で口論の相手は呟いた。
「あんたが何と言おうと私はここから出るつもりはないですから」 アイが静かに、だが確かに怒りを込めて言う。
そんな普段と違うアイを見て困惑したのか、物陰に隠れていた事さえも忘れ、
気付けば、店の入り口のど真ん中に立ち尽くしていた。
それに気付いたアイはハッと目を見開いてこちらを見た。「・・・・・・ヒカル、ちゃん」

 それから秒針が何周したのか、はっきりと覚えていないほどしばしの沈黙が流れる。
アイがこちらに歩み寄り、罰の悪そうな顔で、舌をペロっと出した。
「ごめんなさいね、ヒカルちゃん」 いつもの、アイの顔だ。
「なにか・・・・・・あったの?」 困惑が続いて頭が真っ白のまま、とりあえず聞いてみた。
別に具体的な回答を期待したわけではなかった。ただ、アイを悲しそうな顔のままにしたくなかった。
だが、希望とは裏腹に、アイの顔は悲しみから再び怒りへと変化した。
「うーん、この人がね。少し、物分りが悪いもんだから」
そう言うと、先ほどからその場に立ち尽くしているだけのスーツ姿の人物に目をやった。
アイの影からその人物を覗き見ていると、その人物はゆっくりとこちらを向いた。
 その瞬間、なぜか自分の中にある種の懐かしさが生まれた。
その人物は前髪にうっすらと白髪が混じった短髪で、顎に無精ひげを蓄えていた。

 自分はどこかでこの人物と出会っている。それを思い出すのにそう時間は掛からなかった。
そう、約1週間前に出会った、というか目撃したあの「偽怪しい男」だったのである。
普段なら人の顔などすぐに頭の片隅に追いやられ忘れてしまうのだが、彼は違った。
自分の怪しい男像を台無しにし、苛立ちすら感じた男の顔である。少なからず印象には残っていた。
「あっ・・・・・・あの時の」 思わず口にしてしまったが、男はきょとんとした顔でこちらを覗いている。
こちらとは違い、男にはそこまでの印象はなかったようですっかり忘れているようだ。
そんな何とも言えない微妙な空気に割って入るように、アイは再び男に向かって敵意を剥き出しにする。
「とにかく! なんと言おうが私はここから出るつもりはありません。お引取りください」
男はやれやれと言った様子で首を振りながら溜め息をついた。
「しかしねぇ、お前を必要としてる奴だっているんだよ」
「そんな事・・・・・・そっちの勝手な言い分じゃない!」

 それから2人は再び口論を始めた。というより一方的にアイが怒鳴り散らしているだけと言った方が正しいか。
その様子を見て、自分はというと、今の状況を整理しようと足りない頭をフル回転させていた。
ひとまず2人の関係を考えてみる。恐らくこの口ぶりから2人は少なからず顔見知りなのだろう。
でなければ女性に対して「お前」などという呼び方は出来ないはずだ。
何度なく2人の会話に出てくる「戻る」とか「お前が必要」などと言った言葉。
戻る、というのはアイが以前住んでいた場所に対してだろうか。
お前が必要・・・・・・年頃の女性が必要・・・・・・
そこで何故か、母との何気ない会話を思い出す。

 とある日の母との会話で、クラスメイトの家族関係についての話だった。
「そういえばあんたのクラスメイトの・・・・・・何ちゃんだっけ」
「自分から話振っておいてそこまでノーヒントなのはどうかと思うけれど」
2人ともテーブルの上の煎餅に噛り付きながら会話を続ける。
「そうそう、リカちゃんだ。最近ご両親が離婚したんだってねぇ」
5枚目の煎餅に手を伸ばしながら、母がさらりと呟く。
「前から仲が悪いってのは聞いてたけど・・・・・・あの歳の子供が親を失うってのはどうもいい気分じゃないねぇ」
テレビを見ながら「ふーん」とだけ答え、自分も3枚目の煎餅に手を伸ばした。


 そんな事を何故今思い出したかは分からない。分からないが、きっとそういうことなんだろう。
自分の中である仮説を立てた途端、急に焦りと怒りが胸にこみ上げてきた。
きっとこの男は、アイの別れた元旦那なのだろう。そうに違いない。
以前商店街で出会ったのも、アイを説得するために様子を伺っていたのだ。
アイが必要というのは、この男も含め、別れた家族の事だろう。きっとそうだ。きっとそうだ。
でも、きっとお互いに話し合って決めた離婚で、いざ生活が苦しくなったからと言って
別れた女性に戻ってきてくれと懇願するのは、すごく身勝手な話ではないか。
それに対してアイも自分と同じ考えで戻る事を否定していた。きっとそうだ。きっとそうだ。


アイは結婚していた子供もいたでも離婚してここに移り住んできたでも別れた旦那も子供もアイがいなくなってはじめてア
イの大切さに気付いたでもそんなの身勝手じゃないかどんな原因で別れたかなんて知らないけどアイほどの女性がそういる
はずもなくそれを結婚した当初から分かっていたはずなのに離婚する事自体この男は何を考えているんだろう馬鹿じゃない
わざわざこんな片田舎まで戻ってきたのもアイの決意の表れであって二度と元家族には会わないそういった決意がそうさせ
た事は明白なわけで彼女を失ってしまったことに対して家族特に旦那はそれを一生背負って生きていかなくてはならない事
さえ分かっていない様子だからこんな調子では例えまたアイが別れた家族のもとへ戻ったとしても同じ結果になる事は明らか
なわけであってあぁもう何も考えられない頭が割れそうだ兎に角アイは渡さないアイは渡さないアイは渡さない渡さない渡さな
い渡さない渡さない渡さない渡さない渡さない渡さない渡さない渡さない渡さない渡さない渡さない渡さない渡さない


「嫌だよ! そんなの、嫌だよ!」 行き詰った頭が出した答えは、とにかく叫ぶことだった。
2人は急に飛び出してきた中学生に驚きを隠せない様子だった。気持ちを抑えきれずに、続けた。

「そりゃぁ子供に親は必要だって事くらい分かるよ。でも、でもっ! アイさんにだって事情はあるんだよ!
 だいたい本当にアイさんが必要だったら、アイさんがこっちに来てすぐ迎えにくればいいじゃないか!
 それをあんな遠くから見てるだけでさ! それでも、それでもアイさんの元旦那なの!? 情けないよ!!
 そんな情けない人にっ・・・・・・そんな情けない人にっ! アイさんを渡すもんか!」



 その後も思うがままに、言いたい事を全てぶちまけた。
普段ここまで声を荒げた事がなかったので、声が裏返ってしまったのも気にせずに。
言い終わって、全てを出し切ったせいか、膝の力がガクンと抜けその場に座り込んでしまった。
男は鳩が豆鉄砲をくらったような顔でこちらを見ている。
商店街に流れるクリスマスソングがやけに大きく聞こえる。

 そんな張り詰めた空気を壊したのはアイだった。
「・・・・・・ぶっ、くくくくくくく、あっははははははは!!」
アイは目に涙を浮かべ、腹を抱えて笑い出した。
呆気にとられた自分には、もう何がなんだか分からなかった。
するとつられるように男も笑い出した。有名なお笑い芸人のような引き笑いだった。
「ヒ、ヒカルちゃん、ごめ、ごめんねぇ・・・・・・勘違いさせちゃってみたいで」
アイが笑いながらギュッと抱きしめてくれた。その感触はとても柔らかかった。
「あのね、ヒカルちゃん。この人は元旦那なんかじゃないの。というか私、結婚してないし」
アイは目を見つめ、優しく微笑みながら説明してくれた。

 この男はアイが都会で働いていた時の同僚で、突然アイが仕事を辞め田舎に引っ込んできたので
連れ戻しに来たらしい。アイの事が必要だったのは優秀だったアイを連れ戻したかった社員一同だった。
アイ自身は仕事を辞めた理由は、田舎の祖母が体調を崩した事ともう一つ、会社の自分に対する態度が不満だったらしい。
確かに自分は会社のために必死で働いてきたが、自分ばかりに頼る会社の姿勢に嫌気がさしていたそうで、
社長を含めたその他社員に一度自分が居ない状況を経験させるのもいいと思い、逃げるようにして会社を辞めてきたそうだ。
「ちょっと大人気ないなとは自分でも思ったけどね」とアイは舌を出す。

 盛大に勘違いをしてしまった。
穴があれば入ってそこで一生を終えたいほどの恥ずかしさに見舞われたが、
身に覚えのない事を散々言われた男の心情を察すると申し訳なさが湯水のように溢れ出てくる。
恐る恐る男の顔を見上げると、何故か男はどこか晴れ晴れとした顔をしていた。
「確かに・・・・・・この子の言う通りだな。俺たちは少し、いや、かなり情けないよな」
「あら、今頃気付いたの?」 アイはいたずらっぽい笑顔で男に言った。
「会社に戻ってみんなに伝えるよ。お前がいなくたって出来るって所をこの子にも見せてあげないとな」
そう言うと男は、こちらに近づき、頭をポンッと叩いた。それは大人の男の、逞しい掌だった。
「ありがとう。目が覚めたよ」 そう耳元で囁くと、男は店を出て行った。
自分はというと、言葉を返す事も出来ず、しばらくその場に座り込むだけだった。



 アイに暖かいお茶を出してもらい、落ち着きを取り戻した頃には、時計の針は5時を指していた。
「そういえばヒカルちゃんが顔を出すの、久しぶりね」 アイはカウンター越しに言った。
急に本来の目的を思い出し、一瞬にして鼓動が速くなる。飲んでいたお茶も噴出しそうになった。
先ほどの一件のせいで思わずこのままお茶を飲んで帰るところだった。
しかしそれでは何のために汗水はそこまで垂らしていないが自分なりに一生懸命働いたのか分からない。
深呼吸をして、鞄の中からラッピングされたプレゼントを取り出す。
「あ、あの・・・・・・これ、プレゼント・・・・・・。あ、開けて、みて・・・・・・」
もごもごと自分でも何を言っているのかはっきりしない。それでもアイにプレゼントを渡す事が出来た。
「これ・・・・・・私に・・・・・・?」 きょとんとしながら、アイはプレゼントを手に取る。
少しにやけながら、アイはラッピングを解いていく。
「わぁ・・・・・・素敵なイヤリング・・・・・・嬉しい」
 アイの好みはこれまでの会話の中でさりげなく聞き出しておいた。
いざアクセサリー売り場に行くとどれも見たこともない金額のものばかりが並んでいたので
どんよりした目で商品を眺めていると店員が声をかけてきたので、予算とデザインなどを伝え適当に見繕ってもらった。
「前にアイさんが、好きだって言ってたから」
洋蘭をモチーフにした小さめのイヤリング。仕事の時もつけられるようあまり華美なものにはしなかった。
子供のように目を輝かせながら、アイはイヤリングを耳につけた。サファイアの鮮やかな青がよく似合う。
「ありがとう、ヒカルちゃん。大事にするね」 アイはそう言うと頭を撫でてくれた。
アイの目は少し潤んでいるようだった。それが先ほどの泣くほどの大笑いのせいなのかは分からなかった。

 この瞬間が来るまでは、きっと告白をするのには酷く勇気が要るものだと思っていた。
だが、実際にこの瞬間を迎えると、思いのほか滑らかに口が動き出した。

「あのね、サファイアには『慈愛』とか『誠実』って石言葉があるんだって」

それは先ほど突拍子もない勘違いをして、恥ずかしさなどそういった感情が麻痺してしまったせいかもしれない。
自分が思っているよりも低く、落ち着いた声が喉から顔を出した。

「そのサファイアのように、優しく輝いてくれるアイさんが・・・・・・好きです」

思えば、それを青天の霹靂と例えなければ、恐らく使いどころがないというほどの出来事だった。
それほどまでに、アイとの出会いは自分にとって衝撃的で、運命的だった。

「こんな中学生が何を、って思うかもしれないけど・・・・・・アイさんが、好きです。
 この想いは、そのサファイアのように、誠実な想いです」

その想いを今、驚くほど淡々とした口調で、アイ本人に伝える。
およそ21日と19時間53分前には想像さえしなかった行動を、今自分はとっている。
アイは・・・・・・アイは、どう想ってくれているのだろうか。


 「・・・・・・嬉しい。私も大好きよ、ヒカルちゃん」



 そう言って、アイはそっと、だが力強く抱きしめてくれた。
目からは大粒の涙が流れる。耳元では嗚咽交じりの吐息が漏れている。
どうやら、アイへの想いは伝わったらしい。素直に、ただ素直に、嬉しかった。
まさかアイの口から自分に対して「大好き」という言葉が聞けるとは思っていなかった。
嬉しいな、嬉しいな。


 でも、やっぱりというか、何と言うか、『そういう事』なのだ。

 涙を袖で拭いながら、アイはエプロンのポケットから小さな袋を取り出した。
「ごめんね、ヒカルちゃんからもらったものに比べたらだいぶ見劣りしちゃうと思うけれど」
そう言ってその袋を差し出した。両手でそれを受け取った。
「開けてみて」と催促されたので、恐る恐るその袋を開けてみると、
そこにはアイの、自分に対する『気持ち』が入っていた。




 そこから先は、よく覚えていない。
気付けば、日も沈んだ公園のブランコに座っていた。
手のひらにはアイからの『気持ち』が握られている。
急に飛び出して、アイには悪いことをしたな。きっと驚いたろうな。
そんな事を考えていると、街灯に照らされた小さな影が目の前に現れた。
影の主の少女は不思議そうな顔でこちらを覗きこんでいる。
こちらが何も言わずに少女に力ない笑顔を見せると、少女は、言った。



 「どうして泣いてるの? おねえちゃん」


 必死に堪えていた何かが、その時、音を立てて崩れ落ちた。
あどけない少女の前で、中学生が声を上げて泣き叫んだ。

 そうだ。自分は、女なのだ。
それは、揺ぎなく、決して否定することは出来ない事実なのだ。
アイからプレゼントされた、アイからの『気持ち』、このヘアピンもそう言いたがっているではないか。
アイが「大好きだ」と言ってくれたのも、所詮同性の女の子から好意を寄せられている程度に感じたからに他ならない。
実際それは間違っていないのだけれど、一つ自分の中ではっきりと否定したいことがある。
自分は確かに女だ。だが、自分はアイを『男』として好きになったのだ。

 鏡を嫌いになったのは、自分なりにそれらしい理由をつけてみたものの、
詰まる所、日に日に女として成長していく自分を見るのが堪らなく嫌だったから。
胸が膨らみ、女性特有の丸みを帯びていく自分の体を直視するのが、堪らなく嫌だったからだ。

 小さい頃は特に不思議な事とは思わなかった。周りも性差なく自分と接してくれた。
昨今では一般的にも認められてきているとは言っても、こんな田舎ではやはりまだまだ認知されているとは言いがたく、
自分の考えが他人のそれとは違うとはっきり認識したのは中学に入る頃だった。
周りの友人、親にさえ相談することは出来ずに未だに誰にも打ち明けてはいない。

 そもそも、アイは何一つ間違っていないのだ。
アイの目の前に居たのは紛れもない中学生の女の子だった。やたら自分に懐いてくる、ただの女子中学生だった。
そんな相手に対して、歳相応の可愛さを出すためにヘアピンを送るのは、何一つおかしな話ではないだろう。
ただ、ただ、自分はアイには分かってもらいたかったのかもしれない。
部活をやっているとは言え、普段からスカートを履かなかった事。
一人称を「俺」とも「私」とも言えず、仕方なく「自分」と少々堅苦しく言っていた事。
ヘアピンなど必要ないくらい髪を短くしていた事。
アイなら、都会から来たアイならもしかしたら自分の事を理解してくれるかもしれない。
そんな事を思いながら、アイに惹かれていったのも事実だ。
もしかしたら、直接アイに打ち明ければ良かったのかも知れない。
だけど、だけど。 やっぱり駄目だった。
もしアイに拒絶されたらと思うと、それこそこの身が張り裂けてしまいそうで、恐ろしい。
結局は、本当の意味ではアイに告白出来なかったのかもしれない。

 もう、そんな事もどうでもいいとさえ感じてきた。
気付けば、先ほど声をかけてきた少女はどこかに行ってしまったようだ。
それはそうだろう。いきなり目の前で『おねえちゃん』が泣き出したのだから。

 遠くから昔ながらのクリスマスソングが、澄んだ空気に乗って聞こえてくる。





 寂れた商店街を通り、馴染みの総菜屋でコロッケパンを買って帰る。
揚げたてのコロッケを頬張り、見慣れたアーケードを歩いていく。
結局、あの後花屋へ戻り、アイへは突然飛び出した事を謝った。
アイには嬉しさのあまり気が動転して落ち着くまで走り回っていたと説明したら、意外とすんなりと納得してもらえた。
やっぱりアイへの感情を押さえ込む事など出来るはずもなく、しばらくは今のままアイと接していこうと決めた。

 別に自分が特異な存在だとはこれっぽっちも思っていないが、まだまだ世間において認知されていないのは事実である。
ただ、自分はいつだって『自分』だ。それはいつだって変わらない。
だが、この先自分の考えは変わるかもしれない。今の境遇を受け入れる日が、いつか来るかもしれない。
それに、時代は日々移り変わるものなのだから、こんな寂れた田舎でも、
自分のような存在が受け入れられる日がくるのかもしれない。

 それは誰にも分からない。変わらないものなんてこの世にそうあるものでもない。

 この世で変わらなくていいもの、それはこのコロッケパンだけだ。

あの日のコロッケパン -下-

あの日のコロッケパン -下-

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-08

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