『武当風雲録』第一章、三、惨事
師の命令で李志清の面倒を見るようになった孫貫明は、ある日、李の熱意に負けて、武当派数十年前の一大惨事を語りだした。その恐るべき内容とは・・・
三、惨事
孫貫明の語るところによれば、今の馬掌門は前代掌門徐問亭の三番目の弟子である。徐問亭は生来武術好きで、武当派に入ってから早くもその天分を現している。ほかの者が十日で習うことを、彼は一日で覚えてしまい、いつも師範が教えたことの先を行っている。
残念ながら、すでに前の代から「太極気法」の伝授が終わり、彼は最初に純陽気法を、のちに純陰気法を両方習得し、それに飽き足らず、「太極気法」を借りてきて一人で研究するようになった。
しかし、太極気法書に書かれる文章は簡単だが、何せ昔に書かれたものだし、難解する部分が多々あり、武功天才である徐問亭でさえ、そう簡単に理解することは出来なかった。
その後、五代掌門は急病で亡くなり六代掌門の座は自然に徐問亭に譲られた。掌門ともなればいろいろ忙しくなるもので、だんだん太極気法にかかわる暇もなくなり、不本意ながら徐はいったん研究を諦めた。
そのうち、弟子が増え、徐問亭の下に五人の弟子が集まった。この五人は選りに選ばれた者で、大弟子は程礼、二番目は銭有生、三番目は馬忠、四番に成雲飛、最後に許直という者が居た。
ことはこの四番目の弟子、成雲飛の身に起こったのである。
成雲飛は徐問亭に劣らず武術の天分を持っていた。五人の弟子の中で一番理解が早く、かつての徐問亭を思わせるような天才肌であった。
徐問亭は自分が掌門になった早々、早くも自分の座を継ぐ者が現れてくれたことを喜びながら、その成長ぶりを見守った。一方、心の中に一つの期待が生れた。案の定、ある日成雲飛は自分のところへやってきて、太極気法を研究してみたいと申し出た。
徐問亭は成雲飛にむかって、まず太極気法の難しいさや、これまでどれほどの者が試しても習得できなかったことなどを語ってやり、自分もかつてこれを研究してみたが、陰気と陽気が互いに影響しあい、うまく制御できなければかえって悪い結果になるかもしれない、などのことを言って聞かせた。
それでも、成雲飛は引き下がらなかった。彼が言うには、
「太極気法は武当派本来の気法であり、これを失うのは派の恨事であって、武林の損失でもある。武当派の名誉にかけても、太極を復活させなければならぬ。」
「よくぞ言ってくれた!」
成雲飛の言葉に、徐問亭は膝を叩いて言った。彼はすぐに代々掌門のみが保存している太極気法の書を取り出して渡した。さらに、修練する場所として、東にある青龍堂をまるごと空けてやった。
成雲飛は翌日から青龍堂に閉じこもり、気法の研究を始めた。
人が一事に夢中になれば、時が経つのも忘れるものである。成雲飛が堂に籠もってから早くも三ヶ月が経った。物事を研究する場合では外界から邪魔されるのが一番忌まれることである。特に武術においては、頭で考えるだけではなく、我が体を材料に実験を行うわけだから、体の重要な脈や穴道を通る気が乱れると非常に危険なことである。成雲飛が修練を始めてからというもの、毎日食事を運びに行くほか、青龍堂に近づいた者は、一人も居なかった。
徐問亭も事務を勤しむ一方、心の中で成雲飛のことを案じていた。ときどき食事を運ぶ者を捕まえて聞いてみると、堂の中には成雲飛の姿がほとんど見えず、食事を下げに行くときには、きれいに食べられることもあれば、まったく手をつけられなかったこともあった。
その日々、武当派上下は成雲飛の動静を見守っていた。
そんなある日、いつも食事を運んでいた者がなかなか戻って来ないので、炊事番頭はもう一人呼びに行かせると、これもまた戻って来なかった。
武当派全員の食事を賄っているところは白虎堂と朱雀門道場の間にあり、数十人がその役を担っている。一人二人居なくとも大して差し障りがないが、遣らせた二人が翌日になってもなお戻って来ないので、番頭が不審に思い、数人を率いて青龍堂へ赴いた。
この数人のうち、最後に生き残ったのは、番頭だけだった――
彼の話によると、青龍堂の前庭に踏み込んだとたんに、何か嫌な予感に襲われた。特にこれといった変化もないが、妙に陰気が籠もっていて、息苦しかったという。それも自分だけではなく、その場の雰囲気はみんなが感じていて、誰一人さきに堂室の門を開けようとしなかった。
結局、番頭は勇気を奮い、扉を叩いて成雲飛を呼んでみたが、返事がない。仕方なく押し開けて中を覗いてみると、暗い堂室の中に、灯りが一本もつけておらず、汗の匂い、生臭い匂いが充満している。
日が傾け、夜に入ろうとする時分だった。一同は玄関に立ちすくんだまま、どうすべきか迷った。その時、突然、奥から人の笑い声が聞こえてびっくりした。
番頭が言うには、それは人とも獣とも付かぬ、甲高い声だった。彼はそれを聞いたとたん、体中の血が引き、文字通り身の毛が総立ちになった。自分一人だったらその場で逃げてしまったに違いない。
番頭は腰が抜かれたのところ見せたくないので、勇気を奮ってもう一度成雲飛の名を呼んで中へ入った。しかし返事はなく、笑い声だけが続いている。声主はどこに居るのかも見当が付かない。
炊事番頭はおそるおそる中へ入って、二三歩と歩かないところで、足が何かに躓いた。だいぶ暗さにも目がなじんできたので、足元をよく見ると、これもまた驚いた。
地面に一男一女の死体が横たわっている。女は喉が引き裂かれて、男のほうは胸が抉られて内臓が取り出されているようで、ふた目と見られない光景だった。
服からして紛れもなく自分が遣わした部下だった。番頭はまずいと思って帯剣を手に取り、みんなに引き下がろうと命じたが、すでに遅く、何者かが飛び出して襲い掛かってきた。あわてて剣で防ぐと、あっという間に横を通り抜けて後ろに回った。
番頭は振り返ったとたんに、さぁっと顔面に血が撥ね掛かった。袖で血を拭きとって見ると、自分の後ろに立った一人の部下がて口をぱくぱくしながら白目を向いている。その胸に大きな穴が開いて、血はそこからくんくん噴出している。
生れて初めての経験で番頭は逃げようにも逃げる力はなかった。
背後に何かもぐもぐする音が聞こえて、彼はおびえながらゆっくり振り向いて見ると、獣が部下の胸から取り出した内臓を貪り喰っているのである。
服を纏っているからしては、人間に違いないが、その髪は乱れ、真ん中から分けて、右が黒髪で左が真っ白になっている。
その者は食べ終わって顔を上げてこっちを見た。目が狼のように鋭く光、真っ赤に染められた顔立ちから辛うじて成雲飛だと認められた。
「にぇひぃひぃひぃひぃーー」
成雲飛の口からこんな音が漏れてきた。
わぁー、と一人が逃げ出すと、釣られるように、一同は我が先に出口を争った。
さすがの番頭も剣を投げ捨て逃げ出したが、成雲飛がまた襲ってきたのを見て、慌てて腕で遮り身体を伏せた。だが間に合わず、肩が捕まえられて、さぁっ、肉が引き裂かれ、右腕は服とともにもぎ取られた。
成雲飛は番頭を飛び越えて逃げ去る者たちを追った。叫び声はあっちこっちから聞こえてくる。番頭は急に閃いて玄関とは逆の方向、奥のほうへ逃げ込んでいった。
激痛で眩暈するほどだったが、彼は手で肩を覆いながら、なんとか裏口を見つけて、ようやく外へ逃げ出した。
青龍堂の裏には薬を作る「煉丹堂」があり、番頭はそこへ逃げ込んで助けを求めた。煉丹堂の者は番頭の姿を見て大いに驚き、急ぎ手当てをしてやる一方、人を遣わして徐問亭およびその弟子らのところに、知らせに行かせた。
徐問亭は玄武堂にて一日の事務を終えて休んでいるところだった。その報告を聞いて飛び上がってすぐに青龍堂へ向かった。
堂へ着くと、前庭に数人の死体が無残な姿で横たわっており、堂室を数人が囲んで、中から戦う音が聞こえてくる。
事情を聞いて見ると、大弟子の程礼がさきに到着し、中で成雲飛と話そうとしたが、向こうから襲われてきたのでやむを得ず手を交わしたという。
そのとき窓が割れ程礼は外へ飛び出してきた。服がところどころ破れ、手を焼いている様子だった。
続いて、成雲飛も飛び出してきた。乱れ髪は半分白くなり、顔を覆っている。甲高い声で口の中で何かを呟いては笑い、呟いては笑っている。
徐問亭は最初、これはどうしても成雲飛だとは信じられず、何者かがやってきて成雲飛を殺してから、ここで暴れているに違いないと思った。
しかし、服やその仕草から見ると、だんだん成雲飛であることが分かってきた。
その動きは、一見武当派のものと違うようだが、よくよく観察すると、或いは純陰気法、或いは純陽気法で、時には青龍堂の七星拳を振るい、時には白虎堂の玄武掌を使って、そのいずれも武当派の武術であった。ただ拳式は互いに連絡せず、それぞれ一式一手を取り出してでたらめに継ぎ合わせたような感じだった。
程礼は武当派に入ってから久しく、江湖では大小の実戦を経験してきたもので、成雲飛とは日々、手を合わせてきたのだが、今日の成雲飛は普段とずいぶん違って、動きも早く、その気法はあまりにも常識を逸したもので、程礼が今まで習ってきたものが何一つ使えなかった。
続いて、徐問亭のほかの弟子も到着し、みんなが成雲飛を囲んだ。程礼がやられているのを見て、銭有生と馬忠は剣を抜き取り、加勢に入った。
成雲飛は囲まれながら、構えも取らず、怯える様子もなく、恐ろしい目つきで三人を睨んだ。三人は三方から挟み撃ちしたり、正面から叩き込んだりして戦ったが、成雲飛は素手でこれらを造作もなく返しては反撃を仕掛ける。
程礼らは人数で勝っているものの、成雲飛一人に手も足も出ず、劣勢になっている。周りでは、三人が自分の師弟を傷つけぬように手を許しているかと思い、はらはらして見守っているが、一人徐問亭だけは、はっきり分っている。
三人は成雲飛を傷つけるどころか、自分が怪我をしないようにするだけでも精一杯だった。
突然、成雲飛は身を躍らすと、屋根に飛び上った。程礼ら三人はようやくひと息ついて、気を整えた。
時に満月が雲から現れ、月光を背負って立つ成雲飛の姿は、屋根の上に黒く見える。
はっはははー
成雲飛は屋根の下の衆人を忘れたかのように、月を見上げながら一層甲高い声で笑い出した。内力が深く、一声はずいぶんと長く続いた。まるで世にも可笑しいことを聞いたかのような笑い声で、聞いているだけで心臓が止まりそうな不気味なものだった。
成雲飛が派に入った当初から天才だと言われ、程礼は以前からこの師弟を不満に思っていた。堂に籠もって三ヶ月だけで、ここまで差をつけられたとは、内心悔しく思った。彼は成雲飛が月に気を取られている隙に、屋根に飛び上がり、襲っていった。
その足がまだ瓦に着かぬところに、成雲飛は待っていたかのように突然顔を振り向け、掌を打ってきた。
程礼は、はっとした。自分の身体はまだ空中に浮いており、足場がなく、避けるすべもなかった。考える間もなく、彼は片手で成雲飛の掌とあわせると、剣に気を込めて刺していった。
電光石火、一瞬のうちに二人の体は別れた。
程礼は成雲飛の手とあわせたとたんに、とてつもない気流に押され、身体ごとに吹き飛ばされた。同時に自分の刺していった剣にも手ごたえがあった。
成雲飛は依然として屋根の上に立っている。左肩に一本の剣が差し込んでいる。しかし、まるで痛みを感じていないようで、地面に倒れた程礼を見下ろして、また笑い出した。。
すかさずに、銭有生と馬忠は同時に飛び上がって挟み撃ちしようとした。
成雲飛は、さぁと肩の剣を抜いて遠くへ投げ捨てた。足を動かすと、数片の瓦は馬忠のほうに蹴飛ばされていった。
暗い中によく見えず、馬忠は空中で剣を振りまわして二三片を防いだが、足に一発したたかに喰らって再び地面に落ちてきた。
一方、銭有生のほうはなんとか屋根に足をつけたが、成雲飛の掌がすぐさま目の前に届いた。彼は落ち着いて、両手で素早く剣を横にし、「天気剣」の上雲式を構えた。
これは相手の武器を遮った後に、反撃を加える一式であり、武器を持たない成雲飛にしては、まるで卵が石にぶつかっていくようなものである。
だが、成雲飛はかまわずに腕を伸ばしてきた。銭有生の剣身に触れると、これを握り締めて強引に押しやって行った。
素手で剣を掴むなど、銭有生にとってはまったく意外なことであった。ちょっとでも剣を振ればその手は切り落とされるに違いない。
しかし、銭有生はなかなか剣を動かすことが出来なかった。成雲飛の手から押し寄せてくるすさまじい気流に、剣身はみるみる真ん中から撓んみ、自分の胸に触れてきた。銭有生はこれではまずいと思い、足を蹴り上げると屋根を飛び降りた。見ると、胸元の服は引き裂かれ、もう少し遅れたら、自分の剣に切られるところだった。
このように、武当派で一二を争うような弟子は、三人とも瞬時に敗れた。周りで見守っている者たちは、驚きで開けた口が塞がらず、成雲飛の姿をまるで鬼のように見上げた。もし徐問亭がここに居なければ、本当に逃げ出してしまっていたかもしれない。
一方、徐問亭は四人の勝負を悉く眺めた。そして、だんだん事情が分かってきた。
成雲飛は一人で太極気法を研究し、さまざまな気の使い方を試しているうちに、おそらく何かの間違いで気が乱れ、意識錯乱になったに違いない。彼を救うためにはとりあえずその身体を捕らえるしかない。
徐問亭は剣を抜き取り、屋根に上がった。
襲ってくるのを警戒していたが、案外、成雲飛は動かなかった。こちらに気づいていないようで、背を向けて何か真剣に考えている様子だ。
徐問亭は静かに近づいていった。屋根の下では衆人が息を呑んで二人を見上げている。
二人の間が一丈ほど縮まったところで、徐問亭は足を止めた。成雲飛はなおも俯いたまま動く気配を見せない。
ときどき首を傾げたり口の中にこんなことを呟いている。
「身心合一而不互撓、自他無形却乗其形……無形……」
突然、成雲飛はあぁーと叫びだした。手で頭を叩いたり、髪を毟ったりして、かなり苦しんでいる様子だ。
徐問亭は好機だと見て、一歩踏み出した。
成雲飛はやはり太極気法を考えすぎて錯乱し分別を失っている。今その口から漏らした言葉は紛れもなく太極気法の一節である。
太極気法と言っても、紙一頁に書かれたものしかなく、半時ほどあれば暗唱できるほどの短い気法書である。その中核を成すのは以下のようなものである。
見色即色而非色、聞声即声而非声
心似雲起霧落、身如盤石巨木
身心合一而不互撓、自他無形却乗其形
争必敗、譲一歩眼明心亮
欲則乱、退三分風平浪静
無眼耳鼻舌心意、無色声香味触法
一式抵万式、無式勝有式。
これはかつて張三豊が考え出した気法であるが、他の気功法に通じる所もあり、所々は処世訓のような文句も書かれている。中で特に難解とされているのは、「身心合一而不互撓、自他無形却乗其形」の一文である。
この文、前半は体と心は調子を合わせて動き、互いに影響せぬようにする、という意で、なんとなく理解できるが、後半では、自他に形が無ければ、何故またその形に乗じることが出来ようか。
徐問亭もかつてここでつまずいた。成雲飛の様子から察すれば、きっとここで悩んでいるに違いないと分かった。
徐問亭は指に気を送り込んで、成雲飛の背中にある「命門」、「脊中」の二つの穴道を目掛けて刺していった。これは人間の背中にある急所で、触れれば忽ち力が抜け動けなくなる。
そして、手ごたえがあった。指は正確に二つの穴道に刺さっている。
しかし、成雲飛は急に身を向け徐問亭に反撃した。徐問亭はあわてて手を抜き後ろに飛び下がり距離を取った。その様子からみれば、徐問亭の攻撃はまるで効いていないようだ。
徐問亭は弟子の身体を案じてそれほど力を入れなかった。要するにその身体が怯んだところで捕らえようと考えていた。どんな武功の優れた者でも、この二つの要所が刺されては応えるはずだのに、成雲飛の身体はいったいどうなっているだろうか。
それでも痛みを感じたか、成雲飛は怒った獣のように、猛烈に攻撃してきた。徐問亭は落ち着いて一つ一つ受け止めては、隙を伺った。
徐問亭は武当派一番の達人であり、純陰純陽の両気法を使い分けている上、長年太極気法と付き合って来た者だから、いくら成雲飛の動作が突飛とはいえ、一々その意図が読み取れる。
武功比べは、ある程度囲碁や将棋の勝負に似ている。自他の優劣を的確に判断し、いかに相手より先が読めるかは勝負を決める。
狂気に満ちた成雲飛の動きはいわば将棋の定石を外したような指し方であり、こんな相手に対しては定石にこだわっていては却って不利になる。相手に惑わされずにちゃんとその意図を読み取るのが肝心である。
手を合わせていくうちに、徐問亭は、成雲飛がどんな相手でも素手のみで攻撃しているのに気づいた。
頭に血が上った人間の特徴である。動物じみで一番直接な手段に訴えたがる。慎重に止めていけばいずれ攻めが切れる時がくると、徐問亭は思っていたが、その攻撃はなかなか止まない。
徐問亭はしかたなく剣を抜き、少し懲らしめてやろうと思った。
成雲飛は腕を伸ばして横から頭を打ってくると、肩を沈めこれを避け、剣で下に足を払った。一人では四方八方を守りきれず、上に攻めれば、下にアラが出る。いかに己を守り相手の隙に突っ込むかは肝心なところで、また瞬時の判断が要る。
さすがの成雲飛でもこのままでは足が切られると直感し、上に飛び上がって避けた。しかし、すぐさままたやってくる。飢えた狼のように獲物に食いついて離さない。
徐問亭は剣をまっすぐに伸ばして二人の距離を設けた。成雲飛の攻め方は猛烈といえば猛烈だが、隙だらけといえば隙だらけである。まして生身の腕と剣が対決しているわけだから、徐問亭はその気になれば倒すのも決して難しいことではない。だが、彼は愛徒を傷つけたくない一心に、さっきから迷っているのである。
「雲飛、おちつけ!お前は気が乱れておる。気を整えるんだ!」
徐問亭は距離を取りながら何度も話しかけていたが、成雲飛はまるで言葉を理解できないようで、喉を鳴らして獣のような音を吐きながら徐問亭の周りをぐるぐる回って近づけないでいらいらしている。
突然、成雲飛は徐問亭をあきらめたように、横へ飛ぶと、屋根を降りていった。
まずい!
徐問亭は、はっと思ったが、もう遅れている。屋根の下から悲鳴が次々と聞こえてきた。程礼らですら相手にならないものだから、成雲飛はまるで羊群れに飛び込んだ狼のようで大暴れに暴れた。衆人が一様に門を争って逃げようとするが、遅れる者は無残に成雲飛の手にかかっていった。ある者は腕をもぎ取られ、ある者は胸が突き破られて瞬く間に数人が倒れている。徐問亭は続いて飛び降り、止めに入った。
「雲飛、やめろ!」
徐問亭は呼びながら成雲飛を追った。成雲飛は来るものかまわず追いかけては一撃で倒した。彼の通った所には死体が増えていく。
徐問亭は成雲飛の背中を狙って剣を投げていった。力を調整し、うまく当たっても命は取らない程度だった。
思ったとおりあと二、三寸のところで、成雲飛は剣に気づいた。腕を後ろに振り回して剣頭に触れると、逆さまに方向を変えて、徐問亭のほうに撥ね戻していった。
この「仙人指路」の一式は武当派だけではなく、昔から武林に使われているものである。
空中を移動するものの方向を変える時には、どうしても思うとおりにならない。まして剣を逆さまに戻すときなど、慣性で方向が狂ってしまうが、そこで気をうまく調整してはじめて成せるわざである。
成雲飛は気が狂っているとはいえ、長年身につけていた武芸が本能で働いている。しかも十分な気力が込められているので、剣はみるみるうちに徐問亭のほうへ逆戻りに飛んでいった。
徐問亭は落ちついて剣先を見定めると、足で蹴り上げてから指でぽんと剣身を叩くと、また成雲飛のほうに戻した。
二人は数丈を隔てながら、一本の剣を送り合った。一瞬の誤りは命取りになる。
徐問亭はだんだん距離を縮めていき、これと思うところに、飛んできた剣の柄を掴むと、身体ごとに成雲飛に向かっていった。
雲飛、許せっ――
掌門としてこれ以上死人を出してはならない。一人の弟子を庇うには代価が大きすぎる。徐問亭はやむをえず、最後の手段に出た。渾身の力を込めて剣とともに成雲飛に攻めていった。
成雲飛も徐問亭の殺意を感じたのか、まともに身体を向け、両足を踏ん張った。
徐問亭の剣が空を切って成雲飛の胸に向かった。成雲飛は今度、避けもせず、撥ね返すのでもなく、両手を出して剣先を真ん中に、大きな球を抱くような格好を取った。
徐問亭の剣は渾身の気力が込められており、まさに「矛盾」という諺に言われるように、どんな盾も突き破る勢いだった。が、その成雲飛の両の手の間に入ると、急に止まった。
傍から見れば、剣を遮るものは何もない。しかし、徐問亭はこれ以上一寸も先へ進むことが出来ない。
気が狂った人間は、考え方も突飛である。成雲飛は両手の間に気を張り詰め、無形の「盾」を作ってこれを防いだ。
人間の気は主として丹田より生じ、身体中に送るのである。練達していれば、身体のどの部分からでも送り出すことができるが、手のひらから出す気はもっとも制御しやすいし、もっとも強力なものである。
成雲飛は服が膨らみ、髪が逆立ち、渾身の気力を胸の前に集めた。徐問亭の剣は大きな岩石に挟まれているようで、進にも退にもならぬ状態となった。
その一方、成雲飛も、これ以上どうすることも出来ない。剣は胸よりわずかのところにあり、ちょっとでも気を緩めば胸に穴が開けられるのは明らかだ。
二人はしばらくそのまま対峙した。どっちが優勢でどっちが劣勢ともつかない。気力がより長く持つほうは勝つ。
徐問亭は両手でしっかり柄を握り締めた。強力な気流で剣真は震えだした。成雲飛の気は悉く剣に集中していて体が無防備になっているが、かといって手を緩めば自分に押し寄せてくるに違いない。至近距離にあっては、千万の石をまともに受けるも同然である。
徐問亭は目を閉じて剣に集中した――
彼は掌門になった以来、ここまで全力で戦ったことはなかった。若いころの勝負心が蘇り、久々に好敵手に会う興奮を味わっても居た。成雲飛が気を増せば、自分もこれを強めていく。二人は一本の剣を間に気力比べをした。あまりにも無心にやっているので、周りに何があるのか、今はどこに居るのかさえ忘れるくらいだった。
突然、成雲飛の気が弱まった。
急な変化だ。何の兆しもなかった。徐問亭は、自分の剣がちょっと動いたかと思ったら、すぅーと前に進んでいった。
そして手ごたえがあった――
成雲飛の気はまったく感じなくなった。
目を開けて見ると、自分の剣は柄まで成雲飛の胸に差し込んでいる。一方、もう一本の剣がその左胸から斜めに突き出ている。
その時、徐問亭は後ろに立っている程礼に気づいた。二人が無心に戦った隙に、後ろから手を出したのだ。
成雲飛は前後二本の剣に刺されたまま仆れた。二本とも身体の要所にあたっている。徐問亭は助かるまいと思いつつも近寄ってその脈を取った。
成雲飛の脈はかすかなものとなった。
徐問亭はその身体を向きなおして顔を覗き込んだ。さっきまでの獰猛さは消え、普段の成雲飛に戻った。口が動くたびに血が流れ、何か一所懸命言っているようだ。耳を近づけてみると、
「師父…師父……」
と、自分を呼んでいる。
「雲飛、師父が悪かった。お前に一人でやらせるのが悪かったのだ。」
成雲飛はなおも口を動いているが、もう何も聞こえなかった。やがて力が抜け、悔しさに満ちた目が静かに閉じていった。
徐問亭は悲しさで胸がいっぱいになり、しばらく弟子の死体を抱いたまま動かなかった。
前庭では、怪我人の呻き声、駆けつけた人の騒ぐ声で忙しくなった。師父がしばらく動かないのを見て、程礼は代わりに指揮を執った。
あわせて十数人ほどの死者が出た。先ほどの戦いを見た者は成雲飛の凶暴さに怯えてその死体一丈以内に近づこうとしない。みんなが心の中で成雲飛を恨んでいる。しかし、言葉に出して言う者は一人も居ない。
成雲飛の修練は徐問亭が許したのだから、成を責めるのは掌門を責めるも同然だ――
成雲飛は死んだ武当派の弟子らと一緒に武当山の裏山に埋葬された。徐問亭は葬式に出た日から、いつも事務をしている玄武堂に閉じこもって一歩も外に出なかった。
掌門の心情は武当派の全員が分かっている。成雲飛はかつて若かりし日の徐問亭を思わせるような天才であり、徐問亭は我が子のように大事に育てていった。いずれ徐問亭の跡を継ぐ者であることは、誰の目にも明らかだった。
が、その成雲飛は死んだ。天才たるが故に死んだのである。しかも大惨事を起こした無残な死に方である。徐問亭は子を失った親が如く、毎日玄武堂で何を考え、いかに一人で嘆いているのか見なくとも分かる。
十日ほど過ぎて徐問亭は程礼ら四人の弟子を堂に呼んだ。
ほどなく、四人は玄武堂を出て、武当派各所に行って、掌門の伝令を伝えた。
――武当派各堂に伝令せよ。この日より、武当派上下の者は純陰か純陽のいずれかの気法に専念し、両方を習うことを禁ずる。ひそかに修練する者あれば、これを破門せよ。――
言われるまでもないことである。
成雲飛の事件は人から人へ伝わり、短い間に武当派だけでなく、武林に知れ渡った。しかも噂というのは恐ろしいもので、伝わるたびに誇張されていき、武当派の二つの気法は、いかにも火と水が如き相容れない危険な気功と言われるようになり、成雲飛の姿はいつの間にか地獄夜叉になってしまった。
さらに、その後、江湖の人々を驚かせることが起こった。
徐問亭は両気兼習の禁令を伝えた日から一週間の後、突然武当派から姿を消したのである。
気づいたのはすでに二三日後だったと思われる。毎日食事を運んでいく侍女は、食べ物が二三日も手を付けられないのを不審に思い、程礼のところに報告した。
成雲飛がなくなった今では、大弟子の程礼は次代掌門と思われていた。程礼は思いっきり玄武堂に入ってみたが、どこにも師匠の姿が見えなかった。どこかへ出かけているだろうと思っていたが、やがて、彼は師父の書斎の文机の上に一通の手紙を発見した。
手紙は封筒に入れられており、封がしてあった。表に、「一人で封を切るべからず」とだけ書かれてある。
程礼は嫌な予感がした。
封筒の字は掌門徐問亭のものだ。日々師事しているので、それは一目でわかる。しかし、玄武堂を探し回っても師匠の姿が見当たらず、代わりにこの手紙が出てきたとは、徐問亭は武当派に居ないということなのか。
程礼は手紙に手をつけず、いったん堂から出てきて、銭有生、馬忠と許直を呼びに行った。
師匠の手紙には何か重大なことが書かれているに違いない。そう直感したのだ。
「一人で封を切るべからず。」
つまり、残りの弟子らが集まったところで、武当派衆人の前でこれを示せよとのことだろう。
銭有生と馬忠はすぐにやってきた。二人とも見当がつかなかった。
なぜ師匠が突然失踪したのかが一番知りたいが、手紙はなかなか開けられなかった。というのは、徐問亭の第五弟子の許直はどこにも居ない。
気がつくと、許直は徐問亭とともに失踪したのである。
この人は同じく徐問亭の弟子であるが、普段から振舞いがおとなしく、存在感の薄い人物である。許直は程礼らのように、下に弟子も受け持っていないのだから、二三日いなくとも気づかれなかったのである。
掌門とともに失踪したとはどういうことか。一番存在感の薄い男が一番の謎の的となった。
しかし、それにかまう場合ではない。二三日経ってから程礼らは武当派全員を集めて臨時集会を開いた。
その日はすでに夕方も過ぎようとした時分だったが、成雲飛の一件でみなは神経が高ぶっており、臨時集会と聞いてすぐに集まってきた。
自然に程礼が指揮を執るような形となった。
ついに、この日が――
程礼は内心そう思って感慨無量だった。
成雲飛が武当派にやってきた日から、自分は掌門の座を諦めていたが、めぐりにめぐってついに自分の世がやってきたのだ。道場に集まった数百人を見下ろして、程礼はおもむろに口を開いた、
「武当派衆人よく聞いてください。つい先日それがしの師弟、成雲飛が大きな過ちを犯し、派に甚大な損失を蒙り、江湖内外知らぬ者ないほどの大惨事となった。それゆえ、掌門様が陰陽両気法の兼習を禁じておられた――」
程礼は気を張りあげて語った。声がよく通り、人々の胸に響いた。徐問亭の居ない今では、みなの前で次代掌門としての気力を示そうとした。
「これから、掌門をはじめ、衆人の協力で派を建て直し、再び名誉と取り戻そうとする暁だが、みなに残念な知らせがあります。つい先ほどに掌門様が武当派から出ておられたと分かりました。もし心あたりのある方がおられたら、是非申し出てください。」
ざわめきが起こった。しかしすぐにまた静かに戻った。
徐問亭と成雲飛の関係を天才師徒として、武当派だけでなく、江湖にもよく知られている。あれほどの大惨事を出した上、愛徒を失った徐問亭の失踪も、なんとなく理解できるものである。
程礼はそこで銭有生に目配りすると、銭有生は懐から徐問亭の手紙を取り出し、頭上に上げてみなに見せた。
玄武堂でこの手紙を発見した以来、程礼はなるべくそれに手をつけないようにしていた。次代掌門が自分だと分かれば、なるべく自然な形でこれを受け継ぎ、嫌疑を受けないほうが良いと考えた。
「ここに、掌門様の手紙があります。」
程礼は封筒を高々に挙げて見せた。
「ご覧の通り、『一人では開くべからず』とかかれてあるゆえ、今ここで、武当派一同の前でこれを開けようと思います。」
程礼は言い終ると、丁寧に封を切り、手紙を取り出した。
「程礼、銭有生、馬忠、及び武当派全員へ」
程礼は大きな声で読み上げた。
「私事でやむなく派を離れる。真に無責任なことで申し訳なく思う。武当派は始祖張三豊様の手によって立ち上げらるる、古くからの武林名門正派であり、小生の手で絶たれては先祖に申し訳が立ちませぬ。ここで武当派一同に我が意志を告ぐ。この手紙が読まれた日より、わたくし徐問亭は武当派の掌門をやめ、次代掌門は……」
程礼は突然言葉をやめた。手が震えだして信じられないように目を開いた。
銭有生、馬忠は思わず師兄を見た。
どうしたのだろう。手紙に何が書かれている――
「次代掌門は――」
程礼は驚いた表情で続けた。声に先ほどの勢いが急に消えた。
「小生の弟子、馬忠に譲る……武当派鎮派宝剣および太極気法は玄武堂奥の石室にあり、馬忠は掌門になるべくこれを受け取り、これから武当派が一丸となって彼の指示に従うべし。徐問亭これを認める。」
程礼は読み終わってもしばらく手紙と睨めっこをしていた。最後の数行を読むにはたいへんな努力が要った。やがて放心したようにそれを馬忠に渡した。
馬忠が手紙を受け取ると、これもやはり信じられない目で一読した。
ざわめきが風のように一面に広がった。
掌門が失踪し、成雲飛が亡くなった今では、程礼は掌門となるであろうと誰もが思っていた。徐問亭の馬忠指名は誰にも理解できなかった。確かに、馬忠も徐問亭の弟子としてそれなりの武芸を持っているが、一門派の掌門となる者はたんなる武術だけでは成しえないものである。
しかし、掌門は馬忠に決められた――
前掌門のじきじきの指名である以上誰も変えられない。徐問亭、許直の失踪も謎だが、馬忠の掌門となることもまた謎だった。
あれから、程礼は悶々として数日を過ごした。
一派の掌門となることは前々からの望みだった。成雲飛が亡くなった日に、その望みが急速に高まった。徐問亭が堂に閉じこもった数日、程礼は武当派を我が物としてひそかに未来を描いていた。
しかし、結局自分は掌門になれなかった。
きっと、成雲飛の一件だ――
程礼は思いつくところがあった。
(あの日、自分の一剣で成雲飛を殺した。師匠はそれを恨んでいるに違いない。だから掌門を譲ってくれなかったのだ。きっとそうに違いない。)
そう思いついてもなかなか諦めきれなかった。いっそのことで派を出ようかとも考えたが、せっかくここまで上り詰めたのも惜しいし、我慢した。
数日後、馬忠の掌門就任式は簡単に行われた。少林方丈も立会い成雲飛と徐問亭の事件を弔い、馬忠に祝いをした。
孫貫明が武当派に入る十年前のことであった。
『武当風雲録』第一章、三、惨事