トモちゃん

トモちゃん

「お前は何をやっても駄目だよ」「お前には出来ない」「人間のクズ」
そうかぁ。やっぱり、そうなのかなぁ。
残り20キロの標識のところで自分をいびる声が心の奥のほうから聴こえる。
咄嗟に練習中に挫いた左足の痛みがカムバックしてきた。
ズシリ、ズシリと響く疼きはすぐに激痛へと早変わりする。
しかめ面になり、びっこを引きながら、走る。
走るしかない。それ以外の選択肢は無い。走るしかないから走る。非常にシンプルなことだ。とは言ってもやはり疲れた。今までの経験上、自分は成し遂げることが出来ないきっと。このマラソン大会も。これから先も。
何をやっても続かない。典型的なダメ人間。怠惰とともに惰性によって生きる。
高校をなんとか卒業し、映像学科の専門学校へ行くも一年で挫折。
バイトも転々とし、何をやっても途中で投げ出す半端な男だ。
いつしか自分の心に住み着いた嫌な奴は耳元で往々にして囁いてくる。
「お前何をやっても駄目だよ」
「出来損ない」「クズ」
「お前は生きる意味無し、価値無し、資格無し」
これ全部実際に言われた言葉だ。言葉では違うことを言いへつらう奴もいる。
しかしその表情で同じことを語っている。奴らの言葉尻のアクセント、話しのニュアンスから本音を察することが出来る。何よりもその表情、特に目が語っている。
そういう時、目は口ほどにものを言うっていうアレ、本当なんだなぁと実感する。
「お前は生きる意味無し、価値無し、資格無し」
これは現にそのまま言われた言葉だ。実際の言葉は少し違う。「生きる」というところが「作品を造る」から変換されているわけだが、自分にとっては丸っ切り同じ意味なのである。
先生は散々にネチネチと自分が全く課題にそぐわない作品を提出したことに対して続く文句というか愚痴というのかをとめどなく口から流れる。それを打ち消すかのごとく、思わず口が開いた言葉が「じゃあ辞めます」だった。そして先生は最後にこう言い放った。
「お前は作品を造る意味無し、価値無し、資格無し」
ブラボー!そうそう、それそれ、その通り!俺は価値の無いクズなんだよ。
ゴミを産み出すだけの存在。

ソファーにもたれ掛りながらボーっと真っ白な天井を一点に見つめながら、煙草の煙をぷかぷかと吹かしながらボソっとつぶやく。
「俺って、ホントクズだよなぁ」
「そんなことないよ。それは嘘だよ。たっちゃんは本当は誰よりも価値あるんだよ。特別だよ。」
そう言うといつもトモちゃんはそれをきっぱりと否定するかのようにはっきりとした口調で言い返す。
「ホント?」「ホントだよ」
自分の口癖に対してトモちゃんは必ずそう応答してくれる。
そう言ってほしいからこそ言うわけだが。
もし「俺って、ホントクズだよなぁ」と言って「ホントにねぇ」と共感されたなら「なんだとぅ」と激昂し、二度と言わないだろう。
仕事も辞めてヒモ状態でタバコをぷかぷかと吸いながらボーっと映画を観てニートを堪能していた自分に会社から帰宅したトモちゃんは片足をあげ靴をよいしょよいしょと脱ぎつつ「マラソン大会参加者募集中」とでっかく書かれた文字が目に入るチラシをもう片方の手でヒラヒラしながらこう言ってきた。
「こんなの、どう?」
地元で開かれるフルマラソン大会らしい。
「トモちゃん、バカだなあ。そんなの意味無いって。どう?ってなんだよ。どうでもいいよ。相変わらず訳わからんなぁ。」
そっけなくそう一蹴し、そのチラシから視線を外し寝っころがり足を組みタバコに火を付けようとした。パシンッ
靴を脱ぎ終え一直線にズカズカと突進してきたトモちゃんはライターを取り上げ、俺の頭に投げつけた。
「いったぁい・・な!何すんだよバカ。」
「意味ある!たっちゃんがやれば出来るってこと証明するんだよ。大ありだよ!」
「誰に証明すんのさ。観てないっしょ誰も。意味無いじゃん。おかしいよその思考。」
「自分に証明するんだよ。出来るってこと。」
トモちゃんは涙を浮かべながら震える声で言った。
ぎょっとして慌てて立ち上がり、手で覆ったトモちゃんの顔を覗きこみながら弁明した。
「分かったよ、俺、出るよ。証明しよう。俺出来るって自分に証明する。そんじゃあ俺働ける。そして就職しよう。就職して家賃と光熱費半分払って初給料で美味い飯おごるよ。」
トモちゃんは涙を手で拭いてほんわかした笑顔で言う
「うん、そいじゃ寿司奢ってね。」
物言えば唇寒し秋の風。
いつもその場の感情に身を任せてそこまで言う必要も無いことを言ってしまう。
そして後で後悔する。学習能力がてんでない。
マラソン?なんで俺が。とんでもない流れになってしまった。
寿司?いくらするんだ。空気的にまわらない寿司だろ。いくらするの。コース1万ぐらい?
走るってなんで?しんどいだけじゃん。なんだそれ。なにが楽しくて42キロもの距離走らねばならんのだ。
なんといっても運動というのが嫌いだし、その中でも走るのは群を抜いて嫌いなのに。
ニートでヘビースモーカー、ここ3年ぐらい走った記憶が無い。小走りさえない。
早歩きも無い。大体いつものっそり、のっそり、と靴を地面に擦りながら歩くのに。
自ら四面楚歌に追い込んでしまった。
トモちゃんの性格上推測出来る。彼女は明日から自分がベテランコーチかのように振る舞うはず。すぐに役に入る。

・・ジリリリリッリッ・・・リン・・
小鳥のさえずりが聞こえる前に、太陽が昇る前に目覚ましのけたたましい不快音が鳴り響いた。言わんこっちゃない。案の定、来た。鬼コーチ気取りだ。
「たっちゃん起きるよ!大会まで後2ヶ月しかないんだよ!」
「ともちゃん朝5時だよ。頭おかしいって。」
電気を付けて僕の布団を剥ぎ、彼女は叫ぶ。
冷え冷えとした風が直に体に触れてくる。ウゥゥウ・・っと呻きながら情けない声で答える。
「トモちゃん。七時半に出ないといけないでしょ。時間無いし大変だよ。会社帰ってきてからでいいじゃん。俺部屋で念入りに準備体操とかしとくからさ。」
トモちゃんは自分の上半身を力任せに肩で押してねじ伏せながら起き上がらせた。
「そんなこと言ってたっちゃん夜になったら夜遅いから明日って言うでしょ。そうやって今の絶賛ヒモニート中のたっちゃんが形成されたんだよ。いいから走るの。2ヶ月だよ。たった2か月」
仕方が無い。自分の撒いた種だ。刈り取らないと。それに絶賛ヒモニートの自分にとってトモちゃんのやることに反論する余地は無い。
ヒモなんて羨ましいと思うかもしれないがヒモというのは自由がありそうで自由が無い。
「仕事」という生活に必需品のやらないといけないことをやらないで良い代わりにやりたいことも出来ないという事態に陥る。まさに自由と言う名の牢獄だ。
世の中は上手いこと出来ている。自由を得るには義務を果たさなければならない。
だからみんな働くんだなぁ。でも自分にはその自由を勝ち取るための革命を起こすために働くという労力を惜しむほどのロクデナシ精神である怠惰という罪深い性質を人一倍持っている。
なんでも怠惰という罪はカトリックのキリスト教の中の七つの大罪のうちの一つである。
と、セブンという映画で言ってたな。
憤怒、情欲、食欲、怠惰、後なんだ。Etc..
自分はトモちゃんの奴隷だ。ああ、自由という名の奴隷。
他人には働かなくていいなんて羨ましいなと羨望の眼差しで見られることもあるが其の実、誰よりも不自由な奴隷なのである。それが自分。
などと嘯き思いながらしぶしぶと返事をする。
「もうわかったよ。分かったっていうか、なんだかもう良く分からないけどやるよ。やりゃぁいいんでしょ。やりゃあ。」
2ヶ月トモちゃんの茶番劇に付き合おう。それで全て解放されるんだ。
どうせ意気地無しの自分がフルマラソンなんて完走出来るわけない。
15キロメートル地点で足の痛みを訴えて棄権すればそれで終わりだ。
やるだけやった感を醸し出せばトモちゃんも納得してくれるだろう。
トモちゃんのご機嫌取りのためにエントリーしただけだ。
気怠そうに靴をはき、ちゃっちゃと先に行くトモちゃんをフラつきながら追いかける。
夜明けの土手は今日も素晴らしい朝が始まる予感をさせるかのように晴れ晴れしく眩しい。
師走の張りつめた寒さも何処か心地よい。そんな訳が無い。
氷点下じゃねぇか。末端冷え性の自分の手足は悴んでいる。
狂ってやがるぜ。殺される。トモちゃんに殺される。そうか、そういうことか。
自分一人を養うのに疲れ、このクズさ加減に呆れ果てて、別れようにも情の厚いトモちゃんは別れなく已むを得ずこの俺を凍死、もしくは過労死させようという魂胆だきっとこれは。人間ってぇのは恐ろしい。あれだけ愛し合っていたのに。
愛と憎しみは表裏一体って言うのアレ、本当なんだなぁと実感する。
肩で息をし、足がもつれそうになり、今にも倒れて土手のほうに転がりそうになりながら横に並ぶほど少し後ろから、トモちゃんは自転車でついてくる。
「たっちゃん!5キロ走ったね。偉いね!良い子だね!後五キロだよ!たっちゃんなら出来る!たっちゃんは全力を出せる!」
偉いね良い子だねじゃねぇよバカ。寒すぎる。この場所もこのスポ根気取りのトモちゃんの空気も同じくらに。
「トモちゃん、もう3キロ走った時点で全力出し切ったよ。今は残りカスでなんとか動いてる状況だよ。燃え尽きた、燃え来たよ。真っ白にね。」
その通りかのごとく、腕をだらんとし、前のめりになりながらゾンビのように走る。
いや実際にその通りなんだ。
「もう無理だってよホント、ホントに・・フハ・・フフフハ・・」
自分が走っていることがアホらしくて笑いがこみあげてくる。
そんな自分を裏腹にトモちゃんは叫んでいる。
「それは嘘!たっちゃんはまだ本気だしてない!人生いま本気ださないなら一生本気出さないよ!明日やるなんて嘘!私はダイエット明日やるって言ってた時期はずっと体重変わらなかった。今日やるって決めた時から変わっていったの。徐々に。」
天晴、まことにもってその通り。たぶん自己啓発系の本とかにそういうことも書いてると思う。そういう類の本を出してくれ。それで印税で飯を食わせてくれ。
最もなのだが今の自分はやりたくない。
そういや、ムーミンに出てくるミィが「正論過ぎる正論は嫌いよ」って言ってたが、
今の俺はまさしくそんな感じだよトモちゃん。疲れたんだよ人生そのものに。

昔から、人より出来なかった。
勉強もいくら努力してどう足掻いてもテストの結果は平均以下だった。
頑張ってそれなんだから頑張らなかったら悲惨だった。明らかにみんなより劣っている。
運動神経も悪い。体育の時間は自らピエロとなり、人を笑かせるのが自分の役目だった。
きっと自分はそういうピエロとなって人に笑われるのが人生の役目なんだ。と思った。
自分の唯一の趣味、唯一才能があると自負していることはプローモーションビデオなどのショートムービーを創ること。個性が強いアートムービーを好んで創作していた。
いつかは自分の作品が評価され、そして世に馳せ参じて見せる。
専門学校では先生と生徒の前で自分の映像作品を公開するという見世物タイムがあった。
そして先生達に批評されるのだ。自分が下された評価はこれだ。
「独創的過ぎてついていけない」「万人ウケはしない」
「趣旨と異なる」「アートチックを気取っているが中身は無い」
「自分の世界に酔いしれている」「自己満足」「市場に出せないとんだ代物」
これでもかというほど酷評される。ごもっとな意見である。自分を真っ向否定する。
その上、生徒は生徒でこう陰で囁く。
「あいつの作品本当に意味分かんないね。気持ち悪いよ。」
陰で自分を否定する。正面からも陰からも自分の作品、人格自体を否定されるのだ。
学校の奴らとは気が合わないので孤立していた。
しかしそんな棒にも箸にもかからないと言われた代物作品を行きつけのダーツバーで知り合い仲を深めていったトモちゃんに観せた時に、トモちゃんは目を輝かせて手を口に当てながらこう賞賛してくれるのだ。
「すごい・・全然意味分からないけど凄いよこれ。たっちゃんはみんなに合わせないで自分の世界を完璧に持ってるから凄い。そういうの凄いかっこいいし尊敬する。たっちゃんは特別だよ。」それは本心から言っていることだと目の輝きと言葉のアクセントによってすぐに感じ取った。目は口ほどにものを言うっていうアレ、本当なんだなぁと実感する。
マニアックなグロテスクな作品が好きな友人は「ヒュウ、中々やるじゃん」と賛辞をくれる。しかしトモちゃんだけは、専門学校のあの連中とも友人とも違う。
トモちゃんは自分の存在自体を、この自分という「個」を唯一認めてくれた取り分け特別な女性だ。

「俺は疲れた、トモちゃん。」
「俺は結局駄目なんだ。俺の作品も、俺自身も価値無いってみんなは言うしさ。」
そう嘆く自分に対してトモちゃんは叱責する。
「みんなって誰?私は言ってないよ。そんなことないったらそんなことない。たっちゃんはいつかみんなに認められて凄い人になる。」
「・・そうかな?」「そうだよ!」
自分はトモちゃんに物質的にも精神的にも生かされている。嗚呼、やっぱし情けない。
腑甲斐ない。カタジケナイ。

筋肉痛が取れぬ日々を過ごし迎えた一か月後の早朝マラソンが終わった後、トモちゃんは歓喜の声を上げている。
「たっちゃん凄いよ!タイムも上がってきてるし、最初みたいに死にそうな顔してないし、それに死んでない!だから言ったでしょ。たっちゃんはやれば出来るんだって。」
「トモちゃん、まだやってないよ。本番まで後1ヶ月。俺も最初やる気無かったけど強制的に泣きながら走らされてるうちにタイムも上がってきて嬉しいし。それになんか走るのが楽しくって気持ち良くなってきたよ。マゾなのかなぁ俺。」

昔はそこまでネガティブでは無かった。もちろん自分は運動も勉強も何も出来ないという劣等感は付き纏っていたが、自分の最後の砦はアート作品だった。
しかし唯一自信のあったその作品を否定され続け、かげ替えのない砦が崩壊してからは、もうてんで駄目になった。自分の創造した作品を貶されるということは自分自信を、自分そのものを貶されている気がしていた。
仕事を辞め、酒に酔っては喧嘩をし、喧嘩をしては酒を飲み、そうこう繰り返してるうちに家賃滞納処分で住居を失いトモちゃんのマンションに転がりこみヒモになる始末。
夢を捨て、アル中に陥った俺の姿にトモちゃんはショックを隠しきれなかった。
トモちゃんはなんとしても、あの夢を見ながら夢に向かって突っ走るあの意気軒昂なたっちゃんに戻って欲しかったのだろう。
マラソン大会を完走したぐらいで本当に変わるかもトモちゃん自信も半信半疑だろう。
それはそのチラシを見た時の咄嗟の思いつきだったに違いない。
しかし、トモちゃんはそれに賭けた。
可能性が0・1%でも感じたからこそ、それに賭けたのだ。
その行動力とプラス思考には頭が上がらない。まぁヒモの自分にはどうであれ頭は上がらないわけだが。
マラソン大会1週間前に足を捻挫した時もそうだった。
「嗚呼、もう駄目だよ今度こそこれはもう。後ちょっとてとこでドジを踏むんだよね毎度毎度。」
泣き言を言う俺にトモちゃんはいさめる。
「まだ終わってない!たっちゃんはいつも終わってないのに諦める。諦めるって終わってないのに途中でやめたことを言うんだよ。生きて、息して、喋ってるじゃん。大会まだ始まってもないよ。死んだら諦めなさい。生きてるうちは諦めるなんて無いよ!」
とあるバンドの歌のフレーズが頭の中でコダマする。
「諦めるなんて死ぬまで無いから」
いやぁ、それとこれとは別・・でもないのか。ということは死ぬしかないのか死ぬしか。
なんて口に出したら怒られるから大げさに心の中でつぶやき捻くれてみる。
夜寝静まる頃、ベッドの中で足をほぐしながらトモちゃんにつぶやいてみた。
「それにしてもなんでトモちゃんはそこまで俺のためにしてくれるんだい。ヒモニートの俺なんて普通健全な女子なら見捨てるでしょ。トモちゃんは健全な女子なのにね。いや、ちょっと違うか。」
「たっちゃん」
「なんすか」
月明かりがカーテンの隙間から差し込む。今日は満月かなんなのかは知らないがやけに明るい気がする。
「あたし良く想像するんだ。たっちゃんがマラソン大会やり終わった後、ニート卒業して、なんでもいいから映像製作系の会社にバイトでもいいから入って、マラソン大会で自信ついたたっちゃんは人付き合いもスムーズになり、仕事も毎日一生懸命になって、会社で認められて就職するの。そんであたしと結婚して、子供が三人出来るの。いつかたっちゃんの映像作品が認められて世に出るの。そしてたっちゃんはフラッシュをバチバチいっぱい焚かれてその後家に帰って来るの。そんであたしが言うの。ほらね、あたしが言ったとおりでしょ。たっちゃんは凄いからいつか認められるって」
「ほぉ。凄い想像力だねぇ相変わらず。しかし、マラソン大会完走したぐらいでそこまで人生スムーズに・・・」
最後まで言い終わらないうちにトモちゃんが喋りだした。
「あたしクリスチャンなんだよ」
「共子っていうのは神様と共にいる子っていう意味でお母さんが付けたんだって」
「はえぃ?」
藪から棒に分けの分からないことを言ったので素っ頓狂な声をあげてしまった。
「お母さんがクリスチャンで小さいころ、お母さんが癌で死んじゃうぐらいまで毎週日曜日の教会行ってたん」
「何故今は行ってないの?もうクリスチャンじゃないんか?というか何故急にそんなことを?」
「違うよ。クリスチャンは一回クリスチャンなったら一生クリスチャンだよ。神様信じたらそれだけで天国いけるっていう約束だから。だからもう天国行けるし日曜教会行くのめんどいからいいやってなってそっから教会行かなくなった。」
「はぁー偉く気前が良いもんだね神様って」
「でもね、また教会行くよ。」
「なんで?天国行けるなら意味無いじゃん」
「神様にありがとうっていう気持ちで行くんだよ。このマラソン大会応募者募集のチラシ、風に飛ばされてきて私の顔に張り付いたんだ。その時神様がこのチラシを風を使って運んできてくれたんだって分かったよ。なんか顔にチラシがバッて張り付いた時、神様がいつも傍にいてくれたんだって分かったの。神様は目に見えないけど確かにいつも共にいるって実感した」
「え?チラシが顔に張り付いた時に神様が分かったの?それとも顔に張り付いたチラシを取って、マラソン大会応募者募集と書かれてる文字を読んだ時?」
「そういう細かいことは忘れたけど、そんなことは大して問題じゃなくてさ」
「ふむ」
トモちゃんは天井を見上げたままニンマリと笑みを浮かべなら母親の声真似らしき口調で語りだした。
「トモコ。神様は聖書の中でトモコにこう言ってのよ。私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。って。神様の目から見たらトモコはとっても大事な子で愛してるんだよって。ママも同じように。トモコは神様とママ二人にも愛されていて幸せねってね。お母さん言ってたよ」「たっちゃんも同じだよ。」
自然が与えてくれた恩恵とでもいおうか。カーテンから漏れてくる闇を照らす月明かりの光は暖かく、優しく感じた。
「はっトモちゃん相変わらず寒いなぁ。」
鼻で笑いながらそう言った後トモちゃんと反対方向に寝返りを打ち肩を震わせながら寝たふりをした。

予想だにしなかった。このマラソン大会がこんなに大規模なものだったなんて。
1万人もランナーがいるとは思いもしなかった。
朝の駅のホームのように混雑したスタート地点できょろきょろしていると突如音楽が流れだし、「パンッ」という破裂音とともに訳の分からないまま、マラソン大会がスタートしてしまった。
「がんばれー!ファイトー!」スタートからゴールまで42.195kmの沿道沿いに老若男女問わずエールを送ってくれている。家の前、会社の前に椅子を出して座っていたり、本格的にテントを張りだして飲み物、お菓子、果物を提供してくれたりしている。
全て自前でやってくれていることに頭が下がる。応援に調子を乗り、序盤からペースを上げていく。5km地点に来ると、高校生の吹奏楽部の子達が演奏してくれる。そこでまたハートに火が付き、あたかも走り込んでるアスリートのごとく軽快なフットワークで走っていく。
10km地点ではなんとかというライブハウスの人達がバンド付きで歌ってくれる。
ちょっとしたお祭り気分だ。いや、ちょっとではない。大したお祭りになっている。
これまた予想だにしなかったが、このマラソン大会がここまで上がり降りのアップダウンが激しいとは。
緩やかな坂道は僕の体力を一気に奪ってくる。計算ミスだ。トモちゃんの。
普通は大会コースを把握して練習して大会に挑むものだろう。おそらく。
そのうえ途中で雨がパラパラと降ってきた。
師走に雨の中走ることは生涯これが最後だろう。
何故、この一番クソ寒い時期にマラソン大会なんてしようと思ったのだ。苛々が募る。
体が冷え、体力が余計消耗される。雨は強くなる一方だ。
あろうことが残り約10キロと言うところで左足が傷みを訴えだした。
ゴール地点で手を合わせているトモちゃんの顔が目に浮かぶ。
クリスチャンだからきっと手を合わせてるだろう。
降りしきる雨の音、アスファルトの窪んだところに出来た水溜りに足を入れた。
パシャンッという音とともに水が弾け顔に泥水がかかった。

(なぁ、お前にはやっぱり無理なんだよ)
「そうかなぁ。」(そうだよ)
足の痛みが増していき、いつの間にか悲鳴をあげている。
左足を地面に着地する都度、激痛が走る。ほとんどケンケンの状態で走っていた。
このマラソン大会は6時間30分までにゴールを完走しないと完走賞を貰えない。
順位も時間もどうだっていい。ただ俺は完走したという証が欲しい。
既に残りカスしか残っていない気がする。真っ白に燃え尽きた後の残りカス。
ジョーでも真っ白に燃え尽きた後に死んだ。ということは俺既に死んでるということだ。走るゾンビ。いや、生きてる。心臓は辛うじて動いてる。。
ここまで幾度となく奴と戦ってきた。意識朦朧の中、奴がまた語りかけてきた。
(やっぱり無理だったんだよ。止まれ。諦めろ)
「やっぱりそうかなぁ。」
(そうだ。止まれ。)

「お前には生きる価値無し、意味無し、資格無し」
大きくため息を吐き、ふてぶてしく椅子に座り、あたかもそうだといわんばかりの蔑んだ顔の先生の顔がフラッシュバックした。
その瞬間、左足を庇いながらスローダウンしていき、やがて立ち止まる。
数秒の間、茫然とそこに立ちすくんでいた。「はっ」と鼻で笑い
ボソっと呟いた。「やっぱりな」
自分で自分を蔑む。走っている時の希望を追いかける目はとっくに死に、光の消えたうつろな目で地面をみつめる。

刹那、心のずっと奥のほうからトモちゃんの声が聴こえてきた。

「そんなことない!!たっちゃんは凄い!出来る!!」

トモちゃんの張り裂けんばかりの声が自分の足の隅から頭のてっぺんまで響き渡り、そして貫いた。体がビクッとした。こうべを垂れていた顔をバッと前に上げた。
顔を前を上げた瞬間に涙がぶわっと溢れ出してきた。
自分の心の中に渦巻き絡んでいた暗闇がばぁっっと一気に吹き飛んだ。
光と暖かさで体が包まれた。
溢れる涙は雨と一緒くたになり頬をつたり地面へと着地する。
そうだよ。奴らは一体俺の何を知っているというんだ。
トモちゃんは奴らの何十倍も俺のことを知っているのにも関わらずどうして奴らの声に耳を傾けるんだ。俺のことを否定する奴らの声に聴き従って唯一自分を愛して認めてくれているトモちゃんの声を聴かないなんてどうかしてる。
自分で自分を否定するということは嫌いな奴らの仲間になってトモちゃんと敵対するということになる。
自分を否定するってことはトモちゃんを否定するということだ。
口元がほころびニヤっと笑みがこぼれた。
バカだなぁ。いい加減目ぇ覚ませよ。
そうつぶやいた瞬間に背中からぞわわっと武者震いが起き、「ッアァッ!!」
堪らずに叫んだ。ダッッ
激痛が走り地面に触れるのがやっとだったその左足でおもいっきりアスファルトを蹴り上げ、瞬間、僕は飛んだ。空との距離が縮まった。
胸が熱い。焼けそうだ。目頭が熱い。視界が滲む滲む。涙と雨で前が見えない。
足の痛みが消えた。疲れが吹き飛ぶ。
タッタッタッタッ軽快に、リズミカルなフットワークで駆け抜ける。
ダンッダンッダンッダンッ
自分のスピードが加速すると同時に大粒の雨がこれでもかというぐらい容赦なくランナー達の上に叩きつけてきた。
地面を蹴り上げる強さが増していき、スピードが一気に上昇する。
いつの間にか全速力で駆け抜けていた。
ダダダダッダダダダダッ
自分の足の音と同じタイミングで雨の音も激しさを増していく。
ランナー達はその雨の激しさに圧倒され、心が雨の冷たさに支配され、走る情熱の火をくすぶらせた。
しかし自分にとってはその雨の激しさはガソリンの役目を果たし自分の闘志に引火させることとなった。
脳内麻薬が溢れだし頭のてっぺんからゾゾゾっという音が聴こえる。
勢いが更に増す。周りのランナーが止まって見える。
後ろからダッシュで駆け抜けてくる雨音に隠れた足音を聴き、ランナー達はぎょっと後ろを振り返る。振り返ったと同時にすでに前方遠くまで走り去っている。
まるで気が違ったかのように疾風迅雷の如く走り抜けていった。
なんだろうか、これ。多幸福感で満たされて気持ち良すぎる。
最高にハイってやつだ。やばいなぁ。ゴールした後に脳の後遺症とか残るんじゃないのか。少し不安になる。これがランナーズハイってやつだろうか?
周りのランナーをごぼう抜きにし全速力でひたすら駆け抜ける。後ろから全力疾走をしてF1のごとく走り去る僕に周囲は唖然としている。
自分がターミネーター2の出てくる敵のT1000と瓜二つの走りをしていることに気付いた。
やはり、トモちゃんが最後に背中を押してくれた。
やはり、トモちゃんがいないと何にも出来ないと実感させられる。
残り1キロでトラックに差しかかった。
どでかいアーチのゴールが見える。
ゴール前にはランナーを今か今かと待ち構える人と、完走して力尽きてる人がたくさんいる。トモちゃんは何処だろうか。
「たっちゃん!!」
トモちゃんの張り裂けんばかりの声と同時にゴールの前の人だかりがモーセの海割りのごとくゴール前の人だかりが真っ二つに割れた。すげぇよさすがクリスチャン。
全力疾走をする自分を見て、トモちゃんは目を丸くしてキョトンとする。
そりゃそうだ。普通想像するのは死にそうになりながら涎を垂れ流し右往左往しながらヨタヨタと走り、危篤状態のままゴールを目指すたっちゃんのはずだ。
そのたっちゃんが全速力でゴール目指して駆ける姿は想像力豊かなトモちゃんでさえ想像出来なかったみたいだ。最後の10mは噛み締めながら走った。
いつでも反芻して思い出せるように。
タイムは6時間17分42秒。ギリギリのタイムであった。
完走したのだ。誰が?この俺が。負傷した足を抱えながら。
類を見ないほどの運動音痴の自分が。
全ての不可能が消えた。
全てが可能となった。たかがマラソン大会で大げさと思われるが、はっきりと自分の中の不可能という闇の支配が打ち砕かれ、可能という光が全身を支配したのだ。
小柄なトモちゃん。いつも小さいがいつもに増して縮んだトモちゃんの震える肩を抱きしめ、肩で息をしながら途切れ途切れに語った。
「トモちゃん、俺明日からバイト探すよ。出来たら映像系。でも皿洗いでもなんでもする。そんで、ショートムービー作品のコンテスト応募したり、色々する。順番はちょっと違うけどバイト決まったらお金を貯めて婚約指輪買って結婚しようってプロポーズする。そんで、子供二人造ろう。その後のフラッシュをバンバン焚かれたりするのはオマケみたいなもんさ。無くてもあってもいいよ。でも俺はもう諦めないよ。ゴール出来たからね。」
涙を拭ったトモちゃんは含み笑いで答える。
「たっちゃん、子供は三人がいいよ。後、美味しいお寿司も忘れないでね。一番初めに約束したでしょ。」
気付けば周囲に人だかりが出来ていた。
ゴール前で人の波を割ったほど叫んだモーセの再臨のごとしトモちゃんとT1000の再臨のごとく全力疾走でゴールした二人が抱きあってるんだ。圧倒的にドラマチックじゃないか。
人は皆、予想もつかない感動的な作品を観たいものなのだ。あっと驚きたいのだ。その感動こそが生きる糧となる。そしていつかあっと驚く大展開が自分にまわってくる。
そしてまた周囲にあっと言わせてみんなの糧となる。
いつも自分のストーリーは未完のバッドエンドといったところだったが、いつもと違う完成された純然だるハッピーエンドを迎えることが出来た。
誰かが叫んだ。「いいぞ!感動した!」
わっという歓声とともに拍手が沸き起こる。
雨上がりの美しい夕焼けはこのうえないワンシーンとなりこのストーリーを終わらせるに相応しい絵となった。
画面にはENDの文字が浮かび上がり、そして幕は降ろされる。

トモちゃん

トモちゃん

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted