竹馬と婆ちゃんと、風

竹馬、婆ちゃん、風

――いつの間にか2感で風を感じなくなった。どうしてだろう。風が死んでいる。

極端に痩せ細り、喋ることもままならない状態の婆ちゃんが精一杯、声を振り絞り、僕にこう言った。
「祐太、保育園の頃の竹馬、覚えてるか?婆ちゃんが必死になって保育園から取ってきて一緒に練習したやろ。あんたは出来る。やりたいこと、やらなあかんで、裕太」
――病室でのばあちゃんの最後の言葉だった。
『あんたは出来る。やりたいこと、やらなあかんで』
婆ちゃんの言葉を心の中で反芻する。
「せやけど、出来ないことかってあるわ。婆ちゃん」
ほとんど声にならないほど小さい声でそうつぶやき、婆ちゃんが骨となって出てくるまでの間、幼い頃の思い出が脳裏によぎってくる。
天を見上げると雲一つ無い青い空が一面に広がっている。
――竹馬、か。
心の片鱗にある幼き頃の竹馬と婆ちゃんとの出来事を思い出してみよう。

婆ちゃんの家と僕の実家は3分の距離。
保育園から婆ちゃんの家まで10分の距離といったところ。
「にひゃくさんっ、にひゃくよんっ、にひゃくごっ、にひゃくろくっ、にひゃくななっ」
「着いたぁ。207歩やったな、裕太。」
しゃがれた声の婆ちゃんが僕の頭をくしゃくしゃに撫でながら言う。
屈託のない笑顔で「うん」と頷く。
「じゃあ婆ちゃんまた迎えにくるからな。みんなとなかようしぃや」
30人ほどの園児が集う保育園での日常はいかに何をしてみんなと遊ぶかということが課題だった。
入園式が終わって1~2か月ほど遅れて僕は入園してきた。
既に友達同士のグループが出来あがり非常に心細かった。
「裕太、婆ちゃん行くからな。また夕方迎えにくるで。みんなとなかようしぃや。」
婆ちゃんが行ってしまう。婆ちゃんが。また独りになってしまう。独りに。
入園して3日経つが誰にも声を掛けることが出来なかった。
人見知りの僕は一人ぽつんと運動場に佇んだ。
またあの気まずい時間がやってくる。婆ちゃんは行ってしまった。
内気で思っていることが上手くいえない僕はダダをこねて泣きながら
「婆ちゃんいかんといて」
という子供戦法を使うことが出来なかったし使いたくもなかった。
まず婆ちゃんを困らせたくないし、大きい声を出し自分という存在をアピールするのが恐ろしい。
なんとも子供らしくない子供だった。
すると、不意に婆ちゃんの怒鳴り声が聴こえた。
「こら! そこの子たち、裕太にもそのボール渡してやりなさい!」
婆ちゃんは帰り際、振り返った時に一人で佇んでいる僕を観て叫んだのだ。
その場でボール遊びをしていた子供たちは突然、いきなり怒られたものだからビクつきながらコクコクと頷いた。
――婆ちゃん、何もそんな威嚇しなくても。
僕は余計に友達が出来なくなってしまうじゃないか……
といったような感情を幼ながらに抱いた記憶がある。
婆ちゃんがその場から立ち去り見えなくなってしまうと、その中の一人が「どうする?」とリーダー格の子に尋ねるとリーダー格の子は僕の方を横目で見ながら嘲笑うように
「ええやろ。ほっとけ」と言い放ち、僕のことはお構いなしで再び遊び始めた。
まるで空気のような扱いだ。
胸がズキリと痛んだ。人生で初めて胸の痛みを覚えた日かもしれない。
「孤独」と「裏切り」という、生きている中で耐えがたい3大苦痛のうちの2つを3歳にして味わった。ちなみにもう一つは「陰口」である。
自分で勝手に造った人生の3大苦痛の3つである。
僕は近くにあったプールの錆びたフェンスをぎゅっと手で掴み、遠くの方をじぃっと睨み、そのうちしゃっくり混じりに声を押し殺しながら泣き始めた。
自分が仲間外れにされたことで泣いたわけではない。そんなことはどうでも良かった。
婆ちゃんとあの子供たちの間で交わされた約束を裏切られたことでの悔し涙だった。
婆ちゃんは子供立ちに「裕太にボールを渡してあげなさい」と言ってくれた。
それに対して子供たちは頷いた。
なのに、婆ちゃんがいなくなるとその約束を平気で裏切った。それは婆ちゃんを侮辱する行為と感じ、悔し涙を流したのだ。
自分のために流れた涙ではなく、婆ちゃんのために流れた涙だった。
今思い出しても少しおかしな子だと思う。3歳児がそんな小難しい涙を流せるなんて。
子供の頃からこんなだったのか僕は。子供というか幼児。
泣き始めた僕を見て、ギョギョッと驚いた子供、もとい幼児たちは、
「おい、やばいで泣きよったこいつ」と言い、動揺し始めた。
おそらくさっきの怖い婆ちゃんが何処からともなく現れて
「こら!裕太泣かしたな!」と、どやされると思ったのか、もしくは先生に怒られると思ったのだろう。
慌てた子供、もとい幼児、いやもう子供でいいが、子供たちは僕にボールを
「ほら、使い」と渡してくれたのだが、「みんなで遊ぼう」と誘うわけではなく、僕にボールを渡したまま何処かへ逃げるように走り去ってしまった。
これじゃまるで新手の強奪方法みたいだ。泣きの強盗。
その時にボールを渡してきたリーダー格が「たっちゃん」という保育園から小学校、途中で転校するまでの間、この地域を治めていたガキ大将なのだが、たっちゃんについてはここではあまり触れないでおこう。たぶんもう一回ぐらい出てくるかと思う。またいつか 機会があれば僕の思い出の何処かで出演するだろう。
僕とボールは運動場にぽつんと取り残されることになった。
仕方無くボールを地面にポンポンと叩き、一人ドリブルをひたすら行うことにした。
独りで淡々と、ルーチンワークのごとく同じことを繰り返すような遊びが好きな僕にとってこれが案外楽しかった。
「にひゃくじゅういちっ、にひゃくじゅうにっ、にひゃくじゅうさんっ、にひゃくじゅうよんっ」
「着いたぁ。今日は204歩やったなぁ裕太。」
「うん!」
家から保育園までの道のりをいつも歩数を数えながら歩く、歩く。それが日課のごとく。
保育園での生活は初めのうちは居場所が無く恐ろしかった。
しかししばらくすると話しかけてきてくれる子も出てきて一緒に遊ぶようになり、それなりに充実した日々を過ごすことが出来た。
遊べる友達は少ないが僕は2人ぐらいで遊ぶかもしくは1人で遊ぶのが好きだった。
3人までならまだ大丈夫だが4人以上になると一気に息苦しくなる。
そういや、今でも同じだ。
僕は3歳にして人付き合いに躓いていた。
4人以上になると自分の存在を出すことに臆病になり押し黙ってしまう。いつ口を開けばいいのか、口を開くタイミングが分からなくなる。タイミングがズレると場の雰囲気がおかしくなるかもしれない。
とは言っても何も喋らなければ変な奴だなと白い眼で見られそうだし。
よってタイミングを計るのは重要だ。言葉を語るのは責任重大。白けることを言って場の空気を悪くすると嫌われる。言って欲しい言葉を言って欲しいタイミングで言わないと。
言葉を発するタイミング、塩味の効いた言葉を考えるあまり頭がショートしそうになる。
訳の分からないプレッシャーに押しつぶされそうになる。
3歳にして人付き合いに疲れ、鬱病になりそうになっていた。
やたらと人に気を遣い、空気を読むことを意識する3歳児だった。全然可愛くない。
なんだこのガキは。もっと子供らしく出来ないのか。と思い返してみて、思う。
もちろんそんな深く考えられる訳ではない。3歳児なのだから。
「いくつ?」と聞かれて「しゃんしゃい」と答えるのが精いっぱいではあるが、
「3つ子の魂100まで」とあるようにすでにその性根は出来上がっている。
人間というのは面白い。3歳にして大体のことは感覚でわかっている。
ただ、言葉数が足りないのと深く考えることが出来ないだけで大体のことを把握している。
あまり考えることが出来ないから自分で『分かっている』ということも
『分かっていない』のだ。
しかし今保育園にいた頃の自分の心境を思い出してみて色々なことが『分かっていた』、ということが分かった。3歳の頃から僕は根本的な性格は変わっていないようだ。
今の僕となんら変わりない。ほぼ成長していない。
まさに3つ子の魂云々。
要するに感覚で人付き合いの難しさを感じていた。
みんながそういう訳ではなく僕が異常に成熟だったのかもしれない。ただ成熟過ぎたせいか全く成長していない訳だ。
苦痛の中の遊びに楽しさなんてあるわけがない。
遊ぶとは本来楽しむためのものであるのに、苦痛を伴う遊びなんて矛盾している。狂っている。病的だ。
大人になるにつれ社交的な付き合いや接待として無理して我慢して遊ぶという病的な行為をしないといけない。だから病気になるわけだ。
3歳の僕にとっては社交のために遊ばなければいけないという複雑な社会で生きていない。
矛盾と上手く付き合おうなどと大人のように無理する必要は無いので当然のごとく自分が好きな遊びを好きなだけ楽しんだ。
そうすると自然と自分と趣味が合う奴が集まってきた。安心した。
1人の時は人形で妄想ごっこやカチカチでツルツルな泥団子を目指して創作したり。
2人の時は子供用のシャベルで砂場を掘り返し続けるという目的も意味も無い流れ作業のような遊びを淡々としていた。
東大阪には中小企業の工場が多いのでその影響を受けていたのだろうか。
昼ご飯を食べた後、昼寝の時間があり、必ず寝なければいけなかった。
その昼寝の時間に眠ることが出来たのは3年間の保育所生活のうち、一度たりとも無かった。
1時間ただ横になり天井を見上げたり、寝返りを打って隣の子供の寝顔を見るだけの時間は辛かった。何もしない時間というのは耐え難い苦痛だ。
しかしそれに対して特に疑問を持つこともない。
そういう時間だという規則だからそうして、うろつき回ると怒られるので大人しく従順していた。
ガキ大将のたっちゃんは良く先生の目を盗んでは何処かをほっつき歩いたり、寝ている子供にちょっかいを出したりを繰り返していた。
そのたっちゃんに対しても特に何か嫌悪感を持つわけでもない。ただ自分がちょっかいをだされると嫌だなと思っていたぐらいだ。

――1987年(昭和63年)バブルが弾けた平成景気のこの時代。
僕は3歳で保育園児だった。
ボディコンの若い女性たちがジュリアナ東京で羽根付扇子を振って踊り狂い、日本中に札束が乱舞し金満社会になっていたといわれるが、そんなきらめくネオン街のことなど幼い僕が知る由もなく、この東大阪の片隅にある小さな町では淡々とのどかな日々が過ぎてゆく。
中小企業の工場が多い、古びた家が立ち並ぶこの町が僕の世界であり僕の全てだった。
ある時、保育園でかけっこの時間があった。
その時に日頃存在感が薄い僕は一躍スターダムにのし上がることになる。
僕は良く走っていた。母と一緒に外に出る時は常に走っていた。
町内を走り回っていた。
走るのが好きだったのだ。子供の頃から今に至るまで走るのはある種の快感だ。
心地良い風が肌に当たる。速く走るほど肌に当たる風の刺激も強くなる。
風が僕を包み、そしてすり抜けていく。
「ズォォンズォン」と響く風の声も気持ちが良い。
その肌で感じる風と、風の声をずっと聴きたいがために走り続ける。
目に見えない風がそこに確かに存在している。いつか風が僕をすり抜けていくことなく、僕の内側に入り込み僕の一部となる、或いは僕が風の一部になれるような気がした。
5感で風を感じることが出来た。いや、2感。
走り続けるといつかその風に、それを追い求めるためだったのかもしれない。
人間を辞めたかった訳ではないが風の様に自由に振る舞いたかった。
走っている時だけ限定で体験する2感で感じる、風。
その風は生命として確かに生きていた。
その2感で感じる風をひたすら求めもっと確かに感じるために無我夢中で走っていた。
いつまでも。
走り込んでいたためか、競争をしたことは無かったが走るに関しては自信があった。
「はい、次の6人来てね」
僕を含めて6人の児童がスタート地点に着いた。生まれて初めての競争。
一体どうなるんだろう。僕の実力は如何程なのか。心拍数が上がる。
園児にとっては少し長い、1周50メートルのほどの運動場を走る。

「よーい、どん!」
先生の掛け声とともに僕を含めた5~6人の園児がトテテテーッと走り出す。
僕は面白いぐらいスタートを大きく出遅れた。
周りの先生からは「予想通り」、と言った感じのため息交じりの笑いが聴こえる。
というのも、僕は痩せぽっちで背も小さく、いつもオロオロと挙動不審で何も出来そうにない、頭も体も弱い子のように先生の目には映っていただろう。
しかしその「しょうがないなぁ」と言う慰めにも似た先生達の笑いは後で間違っていたことに気付かされることになっただろう。
僕の足の回転はあっという間に加速した。他の子供の雰囲気はトテテテーッと可愛らしい走りだが僕の走りの雰囲気はシュダダダーッといった感じだ。
ゴールの半分もいかないうちに後ろから閃光のごとく追い上げる。
異様な雰囲気に気づいた子供は後ろを振り返り、異常なスピードで追いあげてきて、凄まじい形相で一点を睨みつけている僕の姿を見て泣き出しそうになる。
何かバケモノに追われてると錯覚し、青ざめた顔でわんわんと泣きながら逃げるように走る子もいた。
あっという間に、前にいた5人をゴボウ抜きにした。
こんな頃から僕は速かったのだと思い返してみて思い出す。
いや、他の子供達よりも走り込んでいたから速かったのだ。
出遅れた時の他の園児たちとの距離の差と同じぐらいの距離の差を広げてゴールをした。
園児と先生からは、
――あの内気で痩せっぽちの裕太がという、まさかと
――あの出遅れからの圧倒的な1位というまさかの二つの感動を味わせてやった。
それからというもの、運動会等のイベントを含めかけっこでは一度も負けたことがなかった。
狙っている訳ではないのだが、スタートの時に必ず大きく出遅れ、そしてその後の痩せて小さい僕が弾丸のごとく追い上げてくるというドラマチックな展開が非常にウけた。
ディープインパクトより先に僕がいた。あの馬は僕の再来と言っても過言ではない。
「おぉっ」という周囲のどよめきが僕を刺激し高揚させる。
確か、僕は幼ながらに心の片鱗でこう思っていた。
「どうだ!思い知ったか!」
自分を出せずに臆病で弱く反抗することが出来ない僕にとっては「まさかあの子が出来るわけがない」と考える大人達の観念を打ち砕き、驚愕させることが大人達に対するある種の復讐でもあった。
ある時、いつものようにかけっこの時間があった。
いつものように大きく出遅れ、そして前にいた園児達を一人ずつ抜かしていく。
最後の一人、運動場の円を曲がる時、外側から抜かそうと大きく左に体を傾けながら曲がろうとした時に、バランスが崩れ、玉がバシッと弾かれたように豪快に吹き飛んで転んだ。転け方がやたらと豪快だったので心配そうな「ウワァッ……」という悲痛な声があがる。
先生が駆け寄ってこようとしたところ、僕はよろけながらもムクッと立ち上がり、先生の手をパシッと払いのけ、膝から滲み出る血を気にも留めずにケンケン状態で「ワギャア」と半狂乱で泣きながらゴールをめざして鬼の様な形相で走り出した。
しかし50m足らずの距離を巻き返すことは出来ずに最下位でゴールとなった。
ゴールの後も泣き続けた。僕はこの時初めて人前で声をあげて泣いたんだ。
痛かったからではなく負けたのが悔しかったのだ。こう僕は記憶している。
しかし、去年保育園が一緒だった友達と再開したのだが、彼が証言するにはこうだった。
「お前さ、かけっこの時一回おもいっきりこけたよな。あの時すぐに起き上がって足から血ぃ出して泣き叫びながら鬼の様な形相して鬼神のごとくスピードで追い上げて一位でゴールしたよなぁ。あれはビビったね。震えたよ。衝撃的過ぎて未だに覚えているよ。」
小さい頃の記憶というのは非常に曖昧だ。
友達の記憶のほうが恰好良い。もしかしたらそうだったのかもと思った。
しかし思い出というのは頭の中で誇張され美化されるケースが多い。
僕が、かけっこでヒーローだったからそういう風に美化された可能性が高い。
確かめる方法はすでに無い。
ただやはり僕は今思い返している自分の記憶が正しいと思う。
何故ならその時の悔しさという感情をはっきりと思い出すことが出来るからだ。
あの時の悔しさは僕だけしか知らないが、間違いなく僕の心に存在した。
僕が駆けっこでおそらく負けたであろう最初の記憶。
それから高校の今の今まで駆け抜けた。インターハイの地区大会も駆け抜け全国のイイトコまで駆け抜けた。
そして今はあの時のように、次は曲がり損ねたわけではなく、自分の才能の壁にぶつかり、弾かれ、豪快に転けた。
その時から走っていても2感で風を感じなくなっていた。
保育園生活に話を戻そう。
「にひゃくさんっ、にひゃくよんっ、にひゃくごっ、にひゃくろくっ、にひゃくななっ、にひゃくはちっ」
「着いたぁ。208歩やったなぁ裕太。」
「うん!」
家から保育所まで、大体200歩。とは言ってもいつも途中から数えるので適当だったが。いつものように保育所に着き、そして婆ちゃんは帰宅。
婆ちゃんが帰った後に朝の朝礼……らしきものが始まるまでの間、僕の日課は一人ドリブルをすることだ。
飽きもせずに毎日朝にボールをドムドムと叩く。そこに意味も目的も無い。
ただ、ガキ大将のたっちゃんにボールを渡され、そのボールを地面に向かって叩いてみるとリバウンドしたのでもう一度手のひらで叩き、地面にリバウンドし、という反復動作に陥ったので何か事が起こるまでそのままひたすら反復運動をさせることになった。
もしもあの時ボールを地面に向かって投げ、ボールが上手いことリバウンドせずに、もしくは僕の手元に戻ってこずにボールを叩き損じたならば、この一人ボール叩きゲームをしていなかったと思う。ただボールが跳ね返って僕の手元に戻って来たのだ。
だからボールを突いている。面白いのか? 確かに面白いからやっていた。
面白くなかったのならばやっていないと思う。
根底には面白いからやっているという理由がある。
それが一番の理由であってしかしそれ以上の意味もそれ以下の意味も無い。
ただ無心にボールを叩く、叩く。
飽きなかったのか? その時の僕は「飽きる」ということを知らなかった。
あの頃から毎日朝礼の時間までこの1人ドリブルをひたすら繰り返していた。
他に何をすれば良いのか分からなかったし何も出来なかった。
与えられたボールをもって、ビクビクと人の目を気にせずに暇をつぶすには、地面を見ながらボールを叩くというこの流れ作業がベストだった。
人の視線に怯えていたので地面を見ながら顔を上げないですむこの遊びが一番楽だった。
与えられた場所で、与えられた物でなるべく人と関わらずに時間を潰すのが幼い頃の僕の生き方だ。今は少し違うが。
いつもの様に1人ドリブルをしていたが、この日は何やらいつもと違う。
校門の前で先生たちが軽トラから荷物を運び出している。
ドリブルを一旦やめて門のほうを見てみると、先生たちは長い竹の棒をたくさん運びこんでは用具入れの中に入れている。
竹の棒の長さはまちまちで大体1~2メートルほどだ。
平べったい長方形の25センチほどの竹が棒の先のほうに縄紐で括り付けられている。
――なんだなんだ?
いつもの日常と違う何かが起こったことに僕の心はときめいている。
あれはなんだろう?一体何が始まるんだろう?
しばらくすると先生が園児達を集めていつもの朝礼となった。
「今日は新しいおもちゃが来ました。竹馬です。今日はみんなでこの竹馬で遊んでみようね。」
竹馬。これが僕の青春、否、幼春。
爪先が棒に当たる様に足場に乗り、棒を掴んでいる手と足を共に動かして歩行する。
といった感じだ。運動神経の良い先生が一人ひょいっと乗り歩いてみせた。
続いて子供たちも挑戦した。竹馬は自分の乗る高さを調節出来る。
最初はみんな地面スレスレの最も低い高さから乗ることを始めた。
運動神経に自信のあった僕は「任せろ」と言わんばかりに竹馬を手に取り、乗ろうとした。
ひょいっと乗ったが、一歩動こうとすると硬直し、足がガクガクとなり、あっという間にバランスを崩し転んでしまった。何度挑戦しても乗れない。おかしい。
気付けば他の子供たちはどれだけ下手な子でも3歩以上は進めるようになっていた。
僕だけは1歩も進むことが出来ない。
そう、自分だけが。まさかこの僕が?毎回かけっこで1位になるこの僕が。
このうえない屈辱だ。しまいに僕は泣き出した。
しゃっくり混じりに泣きながらも何度も挑戦する……
「裕太君が出来ることと裕太君には出来ないことがあるから」
先生は慰めのつもりで言ったのだろう。しかしその言葉によって僕はより一層惨めな気持ちになった。
幼い頃僕が泣きだすのは悔しい時だけだ。それ以外で泣いたことがない。
夕方迎えにきた婆ちゃんにいの一番にこう言った。
「ばあちゃん、僕あの竹馬、家帰って練習したい」
婆ちゃんはにっこりと微笑み頷いた。
「分かった。練習し。先生に言って貸してもらったるからな」
しかしここは市立の保育園。公務員だけあって先生も融通が利かない。
竹馬は保育園の所有物なので貸出は出来ないとのこと。
「なんで竹馬の一つぐらい貸してやれへんの !裕太は練習したいって言ってるんです !子供の言うことなんやからそのぐらい貸してやりなさいよ!」と声を荒げて怒りながら先生と論争するがやはり先生は「貸せない」の一点張りだ。
婆ちゃんは論争するのを諦め、僕を連れて一旦家に帰った。
「裕太、婆ちゃんの家でまっとき」
そう言い放ち、また婆ちゃんは何処かへ出かけた。10分後、婆ちゃんは竹馬を片手に持ち戻ってきた。
「裕太、竹馬取ってきたで。好きなだけ練習しぃや」
『取ってきた』とは、『盗ってきた』ということである。
婆ちゃんは竹馬を保育園から無断で奪ってきたのだ。
この婆ちゃん、凶暴につき。
力ずくで竹馬を奪った婆ちゃんと涙ずくでボールを奪った僕。
祖母が祖母なら孫も孫である。
保育園の先生も竹馬を婆ちゃんが無断で持っていったのを知っていたようだが目をつむってくれた。
次の日から僕はひたすら練習することにした。
保育園から帰ってくるのが午後15時30分。
そこから婆ちゃんの家の前でひたすら練習をする。
婆ちゃんはずっと見守っていてくれる。
「がんばれ!ほら!裕太!」
裸足で親指と人指し指を広げて棒を挟むので擦れて皮がめくれる。
しかし、アドレナリンが出ているせいなのか痛みが無かった。
頭の中でロッキーのテーマソングが流れ出す。
途中で爺ちゃん、母、兄も練習している僕を応援しにくる。
しかしその練習風景は目を伏せたくなる痛々しさだった。
1歩動こうとすると、バランスを崩し、転げる。膝が擦りむける。
そしてまたすぐに竹馬に乗り、そしてまた転げる。膝から流れる血が痛々しい。
「危ないからやめといたほうがいい」「出来ないから諦めたほうがいい」
との周囲の声が聴こえる。しかし婆ちゃんだけは
「やらせたほうがいい。やらせてあげなさい」と言う。
「裕太、もうやめとき」という声を無視してひたすら練習した。
僕はその時「やめておきなさい。諦めなさい」という意味が分からなかった。
言葉の意味は分かるが、何故やめないといけないのかということが、本当に分からなかったのだ。
ここに竹馬があって練習が出来る。そして僕は竹馬に乗りたいから練習しているのに諦めるというのがどうしてか分からなかった。
そこに竹馬が無くて何処にも竹馬が売ってなくて「諦めなさい」と言われるなら理解は出来る。理解は出来るがきっと泣いて拗ねるだろう。
しかし竹馬があるのに諦めなさいと言われる意味を理解することが出来なかった。
つまり僕の中では「練習しても竹馬に乗ることが出来ない」ということは想像さえしていなかったのだ。ただ練習すれば乗れるとしか思っていなかった。
しかし婆ちゃん以外の大人は「裕太には才能が無いから練習しても乗れない。」と決めつけていた。
「裕太、そろそろご飯やで。もうそのへんにしとき。」
気が付くとすでに辺りは暗くなっている。4時間ぶっ続けで練習をした。
豆が潰れていることに気付き、練習を辞めた途端ズキズキ、ヒリヒリと痛みがやってきた。
「裕太、あんまし無理したらあかんよ。出来ないこともあるんよ。」
そういう母の声に応答をせずに練習の疲れでお腹が空いている僕は無心でご飯をパクパクと食べている。
まだ幼かったので言葉を知らなかったしあまり深く何も考えていない。
しかし今の僕があの頃のままで成長しているのなら「出来ないこともある。諦めろ」と言う大人達に対して、僕はこう言いたい。
「僕に何が出来るか決めつけるな。」
二日目、いつものように保育園に行くが保育園で竹馬に乗る気がしなかった。
もう屈辱を味わいたくない。
そういえば僕はあの日から、ある日までの間、保育園で竹馬で一度も乗ることはなかった。
しかしそれとは裏腹に保育園にいる間ずっと竹馬のことを考えていた。乗りたい。竹馬に乗りたい。
同じクラスの結衣ちゃんの事をいつも考えている今の僕の気持ちと同じのようだ。
恐ろしく高い竹馬に乗り、周囲のどよめきと歓声が起こっている想像を幾度となく繰り返していた。
夕方、婆ちゃんの姿が見えるやいなや、校門の前に駆けていき、婆ちゃんの皺くちゃの手を両手でギュッとつかんだ。
「婆ちゃん、帰って竹馬練習しよ!」鼻息を荒げ、足をバタバタして速く帰ることを促す。
5歳足らずの子供を一人で練習させるわけにはいかないので、婆ちゃんがいつも傍にいてくれた。足の指の潰れた豆がジクジクと痛む。
少しコツをつかむことが出来、3~4歩歩くことが出来た。しかしそれ以上の成果はこの日見れなかった。
大体の子供は練習し始めて1時間後には10歩は歩けるようになっているのであるが……理由は分からないのだが僕は恐ろしいほどに竹馬のセンスが無かったみたいだ。
夕暮、17時。後1時間半もすると晩御飯を呼びにそろそろ来るのではないかという時、何千回目だろうか、竹馬に両足を乗っけて歩いた。
2歩、3歩・・・いつもならここでバランスを崩すはずだが、4,5,6,7、8、・・・・
トトトトトと駆け足で前のめりになりながら10歩以上歩くことが出来た。
「お、お、お、おー。やったぁ!」婆ちゃんが子供のように声をあげて喜ぶ。
 ――あっと思わず声が出て驚いた。
 走ってる時の2感で感じる、風がそこに在った。
次に乗った時も同じように7歩、8歩と歩くことが出来た。
迎えに来た父と母に婆ちゃんは得意げに言った。
「裕太、凄いで。見てみぃ。」
僕は竹馬に乗り、トトトトトっと駆け足で竹馬で歩いてみせた。
「おぉっ」と母も父も感嘆していた。
それもそのはず、何度となく練習を重ねるも3歩足らずしか歩けなかった僕がトトトトっと駆け足で何十歩と歩けるようになっていたのだ。
同じことを継続が出来るのは飽きないからだ。
飽きることを知らないというのは才能だ。しかしどうして飽きないのだろうか。
目標があるからか。そしてその目標が必ず達成できると信じているからだ。
信じている、というかその目標が達成出来ないということを考えていなかった。
つまり、やらなければ出来ないけど、やれば必ず出来る。
やって出来ないということなんて想像出来なかったのだ。なんという強みだろうか。
来る日も来る日も、飽くことを知らずに竹馬の練習に没頭していた。
保育園が終わり夕飯の時間まで他のことは何もせずにひたすら竹馬に乗っている。
保育園が休みの日は朝から夕方まで竹馬に乗っていた。
みんなからは少し頭がどうかしてしまったんじゃないかと思われているようだ。
僕を動かしていたのはもちろん竹馬が好きだったというのはある。
まず好きでないと何事も続けるのは難しい。
しかしそこまでのめり込むほどに好きだったのは2感で感じるあの風があったからだ。
竹馬で感じる風は高いところに行くと余計に生き生きとしている。
 僕はもっと高いところから生きる風を感じたかったためにより高い竹馬に乗ることに挑戦した。
婆ちゃんは声のトーンを上げてこう言った。
「裕太、うんと高いのに乗れるようなったら、保育園で乗ってみんなびっくりさせたろな。裕太は出来るんやで」

――1989年、昭和天皇崩御により元号が昭和から平成となる。
僕は5歳で保育園児だった。
世界ではベルリンの壁が崩れアメリカとソ連による冷戦も終戦に向かう。
日経平均株価が史上最高値38,915円を記録し、いよいよバブルも折り返し地点に近付くこととなる。世間ではリクルート事件で政界が揺れ、竹下首相辞任後も宇野首相が69日間で退陣し、その後海部内閣が誕生するなど、短期政権の象徴となる騒がしいこのバブル 時代から取り残されたような東大阪の片隅に存在する、くすんだこの小さな町の町内を、 僕は竹馬で闊歩している。
竹馬から見える町並みは大人たちが見る町並みよりも肩から上だけ高く見える。
そこには彼らの知らない、彼らが決して気付かない景色が広がっている。

――竹馬の練習に明け暮れること、3ヵ月目の朝。
「ななじゅうごっ、なんじゅうろくっ、ななじゅうななっ、ななじゅうはちっ」
いつものように婆ちゃんと歩数を数えながら保育園に向かう。
いつもと違うのは婆ちゃんの手に竹馬が握られていることだ。
「ちょっと先生!来てください!裕太凄いんですよ。みんな呼んで見たってください。」
保育園に着くやいなや婆ちゃんは先生を呼び出した。
婆ちゃんは本当にいつも強引でお構いなしだったな。
保育園にその時いた先生3人を呼び出し、子供たちも群がってきた。
婆ちゃんから「ほらっ」と竹馬を手渡される。
僕は竹馬の足台高さを調整しだす。竹馬の高さは180㎝ほどあった。
僕は何食わぬ顔をして足代の高さを170㎝ほどまでに上げる。
先生は思わず声を出した
「え?ちょっ」
僕は段差を利用して、校門の上に登り始める。
「ちょっと、裕太君、それは危……」
と言い終わる前に何食わぬ顔でひょいっと竹馬に乗った。「ぅえーっ」と先生が素っ頓狂な声を上げた。コツッコツッ……1歩、2歩とゆっくりと竹馬を交互に繰り返し歩み始める。そして勢いを増していく。トトトトトーッ
見事な竹馬さばきでそのまま向こうのほう、姿が見えなくなるまで駆けていき、姿をくらました。と思うとそのままトトトトーッと戻ってきてある位置まで来ると段差を利用し、ひょいっと竹馬から降りた。
先生はあんぐりと口を開けたまま、固まった。
周囲からどよめきが起こる。
先生達はまたしても二つの「まさか」を体験することになった。
――あの誰よりも竹馬に乗れなかった裕太が誰よりも竹馬を自由自在に乗れるようになったという「まさか」と
――そしてその裕太が誰も挑戦しようとも思わないほどの、大人でも不可能な高さの竹馬に乗ったことに対する「まさか」である。
保育園の年長の最後の運動会で僕は出し物として竹馬に乗り、運動場を1周することになった。集まった先生、父兄、子供たちから「ワッ」という歓声と拍手が沸き起こる。
「どうだ。婆ちゃんの孫やで」と言わんばかりの表情で、婆ちゃんは誇らしげに辺りを見回していた。
僕は竹馬に乗りながら高いところから大人達を見下ろし、彼らが知らないであろう景色と、そして2感で風を感じていた。
――婆ちゃんの骨を拾いながら思う。
僕は走りたい。でも、自信が無い。臆病になった。それに、何よりも気力が萎えている。
あの頃の僕は、何も恐れていなかった。周りの声も信じない。ただ目の前にある目標、自分の頭の中にある想像を必ず具現化出来ると信じていた。否、知っていたのだ。
そこには「出来ない」という選択肢が存在していなかったのだ。
僕は大人達の「出来ない」という固定観念にいつの間にか洗脳されていたようだ。
“つまらない大人”の仲間入りをしていたのか。

 婆ちゃんの家の遺品を片づけている時に、ふと物置小屋に目が留まった。
物置小屋の扉は錆びついていて、中々開けれず、バールで無理矢理「ガッシャァン」とこじ開けた。
最初に目に飛び込んできたのがあの時の竹馬が薄暗く狭い置物小屋の真ん中で威風堂々と目の前に立ちはだかっていた。僕の胸は高鳴った。
かび臭い、忘れられたようなくたびれた薄暗い物置小屋に押し込められている癖して、誇らしげな竹馬を物置小屋から取り出し、手にとってじぃっと見つめる。
足台のところが赤く滲んでいる。あの時の血痕がそのまま付着し、竹馬と一体化していた。
これは僕が「出来る」というなによりの証だ。再度、胸が高鳴った。
僕の中の血が竹馬の血痕と共鳴し、冷めきった血がふつふつと湧き上がってくる。
その時「自分は出来る」というピースが、
僕の中の欠けていたパズルのピースの中にガッチリと嵌った。
瞳孔がバッと開き、ふいに声が聴こえた。
「あんたは出来るねんで。」
「やりたいこと、やらなあかんで、裕太」
はっとした。紛れもない婆ちゃんの声だった。
それは心の中で聴こえたのではなく、確かに聴こえたのだ。
辺りを右往左往するが、婆ちゃんの姿、幽霊らしきものは見当たらなかった。
――玄関の扉がガラッと開き兄が声を掛けてきた。
「裕太、片付いたからそろそろ帰ろっか」

涙がバレないように天を見上げながら立ち上がった。
天を見上げると雲一つ無い青い空が一面に広がっている。
何処からともなくバァッと吹いた、風、2感で感じた、風。

竹馬と婆ちゃんと、風

竹馬と婆ちゃんと、風

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-06

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