ティティ

一、思い出

はる はたけは しろく
そらは たかく
あさがくるたび
みんな あたらしく うまれる

なつ はたけは みどり
かわは ごうごうと
よるにはおどり
いつまでも おわららい

子供たちは幼稚園に入るとまず初めに、この歌を教わります。災害を忘れないためにつくられた歌なのでけして楽しい歌ではありませんが、大きな声を出すのが楽しくてしかたなくて元気いっぱい全身で歌います。なかにはちっとも口を開かず俯いてエプロンの端をいじくっている子もいますが、まあそれは照れているか何か別の事を考えているかでしょう。

みんな てとてを つないで 
おどろう そして いつまでも 
あいしつづけましょう
われらの だいち
われらの そら
われらの やまやま
われらの ふるさとを

先生の記憶はまだまだ鮮やかです。いまピアノを弾いている女の先生は去年も、その前の年も、この歌を教えながら泣いてしまって泣いてしまって駄目だったので、今年こそはと、くちびるをぎゅっと結んでがんばっていますが、すでに目にはなみだがいっぱいに溜まって鍵盤が歪んで見え、指も震えて仕様がないのです。少しでも口があいてしまえば、先生はたちまち大声で泣くでしょう。先生はあの日、お姉さんと弟と犬をなくしました。時間はかなしみを癒してはくれません、むしろ日に日にさびしさはふくらむのです。先生は毎日、ただ生きています。ただ単に生きています。朝、鳥の声に目を覚まし、夜、木々がざわめく音をききながら目を閉じるまで、たださびしい思いで生きています。午後五時。町の教会の鐘が、かーんーかーんーかーんーと鳴らされるのを聞くとき、一番苦しい。生きているとはなんだろう、いのちとは生活とはなんだろう、鐘の音は先生のからのこころに響きます、いない、いない、いない。
幼稚園もあのとき駄目になりました、焼け野原に作った仮設のあおぞら幼稚園から、この春、ようやく新しい幼稚園に移ることができ、床も窓もカーテンもピカピカの新品。嫌な思い出は忘れてしまいましょうよ、と言われているみたいで、先生たちは落ち着かないと感じています。それは災害を忘れてしまうという不安からくるのではなく、さびしさからくる落ち着かなさのようなのです、がれきと焼けた木のそばで、ゴザをしいて作った幼稚園のほうがよかったと思うのです、楽しかったと思うのです、人間はなかなかしぶとくて何処でもやっていけるなという気になれたのです。災害が生むのは悲しさだけじゃない、自分たちの強さを知ることだってあるのです。

みんな てとてを つないで うたおう
よるになっても あさが きても
かなしみは いつか とおいそらで
あたたかい ほのおとなり
ぼくらを みまもりつづけるだろう
さらば さらば

ピアノも新品です。かきんかきんと耳につく音色です。教室の窓からは今もかわらず山がみえます。緑のない、ごつごつの黒い大きな山で町の窓という窓からみえます。山がとても大きいので町の人たちはとおくにでかけても帰り道がわからなくなることはありません。「道に迷ったら山を目指せ」町の人の常識でした。
しかし今でもそうでしょうか。目印だった頂上はあのとき、大きく崩れ落ち端に稜角を残すのみとなりました。ちょうどそのあたりから白い煙があがっているのが、見えるかとおもいます。今日は割とおとなしいようです。

山は生きている、人間は山に生かされている。3年前のあの日、人々はそれを思い知りました。わたしたちの体の中を、たえず赤い血が巡っているのと同じに、山のなかでは真っ赤なマグマがどくどくと巡っていたのです。人はどうしてそれを、ずっと覚えていることができないのでしょうか。人はどうして、世界には裏と表が、光と闇があることを忘れてしまうのでしょうか。3年前、みんなが光の中にいたとき、只ひとり、光と闇の世界にいた子供がいます、ティティといいます。ティティの話をします。

二、ティティ

春の夕方です。
「だめだめ、もっとおなかから息を吐かなくちゃ、もう一回やってごらん」
ティティは思いっきり息を吹きましたが、ほのおはちらと揺れただけで、しつこくろうそくの先にひっついています。
「ちがうんだよティティ、それじゃあぶーっだろ、ぶーじゃだめなんだよ、おなかから出てないもん。こうやってさあ、ふうううっと、やってごらん」
ティティはお父さんのマネで、大げさな素振りで息を吹きましたが、ぶうぶう音ばかり出てやっぱりうまくいかなくて、暗闇のなかでおばあちゃんがくすくす笑っていました。「ちがうんだ、ちがうんだっ、こうふーっと。そうだなあ、じゃあ一度おもいっきり空気を吸って、ほっぺたに溜めてごらん、そしたら、今度はそれをいっぺんに…」
ティティはさっと椅子の上に立ち上がり、くちびるをほのおにあたりそうなくらい突き出してぶうううっとやりましたら、しぶしぶというふうに十本目のろうそくが消え部屋はさっ、とまっくらになり、煙の匂いがつんと鼻をさしました。
「やったやった」
「あーあ、まあいいや。まっくらだ、お母さん電気電気」
パチっと電気が付くとなんだかとても眩しくて、煙はまるでのろまのうみへびのようにそこに漂っていました。
「ハッピーバースデー、ティティー」
みんながわあっと手を叩くので、ティティもマネして手を叩き、自分で自分に言いました。
「ハッピーバースデー」
ティティは今日で十歳、パン屋さんの子供です。一人っ子ですが店の手伝いやら何やらでお客さんにかわいがられて、さみしそうなこともなく、素直で明るい子にそだちました。しかし両親は時々、ティティは少し神経質すぎるなと、思うのです。例えば家で飼っている白い犬のこと。毎年季節の変わり目に、犬の衣替えが始まってたくさん毛が抜けるのをお母さんは、服につくとパン生地に入る、と言ってとても嫌がります。そんな話をすると犬は、自分の話をしているのがわかってるかのように、首を傾け目をぱちぱちさせて、そんな仕草がかわいくて、お母さんもぶつぶつ言ってはいるけれど、白い犬のことが大好きなのをティティは知っています。犬も大事に家族に愛されています。さてその白い犬。去年の、ちょうど今頃のことです。朝、いつものようにティティがご飯をやりにいってもしっぽも振らず、ぐったりと寝そべって元気がない。ドッグフードにも全く口をつけない。ティティが犬の耳元でどうしたの、どこか悪いのと話しかけると、犬は疲れたようにティティをちら見て、ぎゅっと丸くなって目を閉じてしまいました。お母さんは、まだ眠いのよ春だもんと言って笑いましたが、ティティはそんなことはない、こんなに弱っているのにどうして何とも思わないのかしら。ティティ怒って、犬を抱いて黙って家を出ると、5キロも離れた獣医さん目指して歩き始め、犬の体の温かさや、小さくて速い心臓の鼓動を感じながら、改めて犬の命の小ささを思いました。自分の悪いところを自分で言えないなんて、この子のぐあいが悪いのに気が付いたのは私だけ、私がこの子を守るんだ、この子には私しかいないんだ。ティティは自分の心の温かさに涙するのと同時に、お母さんのことを少し憎たらしく思いました。今頃家が大騒ぎになっているとしても、ちっとも構わないわと、そしてそれは優しさだと、ティティは信じて疑いませんでした。結果、犬は膀胱炎で、少し熱もあることがわかりました。ティティは自分の見立てが当たったのにすっかり自信を持ち、黙って家を出たことをとうとう謝りませんでしたが、みんなは犬が病気になったこと、幼いティティが8キロある犬を抱いて歩いたことに驚いて、あまり怒りませんでした。犬も、薬と注射ですぐ元気になり、大事にはいたらなかったのですが、それからティティは、非常に神経質に、犬の体調を気にかけるようになりました。弱った犬の姿と、そのことに自分以外誰も気が付かなかったというのが、とてもショックだったのです。どのように犬の体調を気にかけるかというと、ティティは前に、犬の皮膚は汗をかかず、舌を出して体温調節する、汗をかくのは肉球だけと何かの本に書いてあったのを思い出して、どういうわけだか、肉球の温度を確かめれば熱があるかどうかわかるんじゃないかと考え、それからは毎朝、白い犬と握手して健康診断をするようになりました。起きたらまず一番に犬のところへ行き、深刻な顔をして手を握って黒い肉球がひんやり冷たいのを確認すると、ようやくほっとして、それからみんなにおはようを言う。もし何かの加減で肉球が温かかったりすると、(日向に手をほうりだして眠っていたとか)ティティは次の健康診断まで一日暗い顔をしていたりするのです。これが必ず毎日なので、だんだん両親はちょっと神経質すぎるぞと思うようになりましたが、今日、こんなふうに誕生日のケーキを口いっぱいにほうばって手やほっぺたをクリームまみれにしているのをみると、やっぱりティティも普通の子となんら変わりない、無邪気な子供だと思ってほっとするのでした。

「ティティ、プレゼントだよ、十歳のお誕生日おめでとう」
お父さんからは鳥の刺繍が入った麻のエプロン、お母さんからは50色のクレパス、おばあちゃんからはガラス細工の小物入れをもらい、ティティは大喜びでいちばんにエプロンを引っ張り出すと鏡のほうへ駆けていきました。白い犬は不思議そうにクレパスのにおいをかいでいます。
「早いなあもう十歳か」
少し寂しそうにお父さんがつぶやきました。お母さんは、おばあちゃんのプレゼントの小物入れをしげしげと眺めながら、
「おばあちゃんこれよくできてるのね、立派なものをありがとうね。それでもみんな言うけれど子供の成長なんて、本当にあっというまね」
おばあちゃんはいたずらっこのように、すばやく指にクリームをつけて、ぱっくと食べると、にやにや笑って言いました。
「ほんとにねえ、こないだあんたを生んだと思ったけど」
「そりゃあ大袈裟だ!」
三人が、はっはっと声をあげて笑ったところへ、エプロンをしたティティが嬉しそうに駆けてきました。
「見て、ぴったり」
「やあ、よかった、よく似合ってるよ、ほんとのコックさんみたいだ。それよりティティ、さっきから犬がクレパスのにおいをかいでるよ、気になって仕方がないみたいだよ」
それを聞いてティティは、慌ててクレパスを頭の上に持ち上げ、
「だめだめ、あんたの食べるもんじゃないよっ」
「あっ、いけないいけない、すっかり忘れてた、犬のプレゼントだ、ティティつけてあげな」
おばあちゃんは紙袋の底から小さな袋を取り出しティティに渡しました。赤い首輪が入っていました。
「ちょうど変え時だろう、ほら、赤も似合うじゃないか」
新しい首輪をはめられた犬は少し迷惑そうに頭をぶるぶる振るいましたが、確かによく似合っていて、ティティは自分のエプロンと合わせて誰かに見せたくなってきました。
「もう一回犬の散歩にいってこようかなあ」
「駄目よ、今日はもう遅いんだから」
「湖の側だろ、だめだめっ、あぶないよ」
お父さんは、少しこはい顔をしましたが、すぐに笑顔にもどって、そんなことよりケーキを全部食べちゃおよ、と言いました。なるほど、朝の湖は、陽を浴びてきらきらしていますが、夜は何か得体のしれない巨大なばけもののようで、ティティは確かにこはいなと思いました。

三、幸せだと思うこと

ティティの家は大きな湖の側で、ティティは毎朝、健康診断を終えた後、この湖のまわりを犬と散歩します。湖の水は、しーんと青く澄みわたり、鏡のように山を映す景色は素晴らしいものですが、大人は実は、あまりこの湖を好きでないと言います。何故かというと、例えば夏の暑い日、家の前に青々とした水がたっぷりあるというのに、飛び込んでもちっとも冷たくないのです。この湖の水温は、不思議に、年中生ぬるく、泳ぐとよけい暑くなるくらいで、まるで気持ちよくならなくて、やりきれない気持ちになるのです。泳ぎたい人は、別の町の小さな湖を目指しますが、ただそこは、遠いうえにみんなが集まって大変ごちゃごちゃする。そして疲れて帰って、全然役に立たない、澄ましたように美しい湖を見て、がっくりとするのです。だから大人は、あまりこの湖が好きでないのです。
夏にこの湖に飛び込むのはティティと白い犬くらい。でもまあ、見るぶんにはいいもので、天気のいい日には、庭にバーベキューを出して、肉をちびちび齧ったり、湖をぼんやり眺めたりして一日過ごすのです。お父さんはよく、酔っぱらって真っ赤になった顔で、湖を泳ぐティティと白い犬に手を振ります。

「おおーい、とおくにいくなよー」

ティティは、必ず、ちからいっぱい腕を上げ、しぶきを跳ね上がらせながら、手を振り返します。

こんな時、大人の目には、ティティは無邪気な子供にしか見えません。だけど、大人は、子供たちが、本当はなにを考えているのか、少しもわかっていないものです。また、そのことに気が付いている大人も大変少ない。大体大人は子供のこころに盲目です。

神様、今、世界を終わらせてくださいっ。ティティは泣きそうになりながらそんなことを考えていました。
お父さんの林檎のようにつやつやした真っ赤な顔。お母さんは夏の陽射しに、手でかげをつくって、優しく笑ってティティを見ている。日陰で、紅茶を片手に読書するおばあちゃん、この時が一番幸せだと、前言っていた。みずうみ、底の深い湖。もし、私が諦めたら、きっとまっすぐ沈んでいく。私はこんなに、こはいところにいるのに、みんなとても幸せで、陽射しがじりじり痛くてあったかくて、私とあの庭を、しっかり繋いでいる。私はきっとあそこに戻れる。そしてずっと幸せに暮らしていける。
ティティはそう思うと、幸せで苦しくなって、切なくて泣きそうになります。神様が今、一瞬で世界を終わらせてくれればいいのにと、本気で願うのです。

これは、すごく変なことだと私は思います。普通でないことだと思います。ティティが幸せで切なくなるときは他にもあります。

ティティの家はパン屋さんで、小さい頃からパンばかり食べていましたが、今朝食べたのだって、初めてのようにおいしい。ティティは両親の作るパンが本当に大好きです。でも、お父さんが毎週休みの朝に作る新作パンは、おいしいかどうか、よくわからない。家族に味見をしてもらって評判がよければ店に出すことにしていたので、お父さんは気楽に、結構むちゃくちゃなパンを作るのです。
一番ひどかったのは、クルミパンの中にヨーグルトを入れてシュークリームのようにしたパンで、あれは、甘いんだか酸っぱいんだか、熱いんだか冷たいんだか、さっぱりわからなくて、おばあちゃんは、食べ物で遊ぶなっと言って、後で本気でお父さんに怒っていました。こんな調子で大抵失敗ですが、中には成功して、すっかりお店の人気商品になったものもあります。あのパンを焼き上げたときのお父さん。ほっぺたがベーグルみたいにつやつやしてて、湯気が出そうな笑顔だった。

「おーい、すごいぞ、すごいパンができたぞ、だれかきてくれー」
お父さんは新作のパンが焼き上がるといつもそう言って、家族を店の厨房へ呼びます。大体が変なパンなので、お母さんは洗濯物を干しながらくすくす笑って一向取り合わないし、おばあちゃんは玄関の花に水をやっていて聞こえていないようだし、お茶係のティティは、今紅茶の葉っぱを蒸らし始めたところで行きたくなくて、聞こえないふりをしていましたが、お父さんが台所までどたばた走ってきて、
「ティティなにしてんだ、はやくはやく、今度は本当だぜ」
と言って子供みたいにぐいぐい引っ張るので、しぶしぶ厨房に行ってみました。その時はちょうど、朝陽がいっぱいに入る時間で、釜も、小麦粉も、のばし棒も、金粉のような光を浴びてきらきら輝き、焼きたてのパンからはほくほくと掴めそうなくらい湯気が出ていました。味はどうであれ、焼きたてのパンっていうのは、この世で一番おいしい食べ物に見えるものです。あちちちちっと言いながら、お父さんは、ゆっくりパンをちぎって、クリームの多い方をティティに差し出しました。
「おじょうさん、どうぞ。熱いから気を付けて」
言って、自分はもう半分をひゅんっと一口にほおりこんで、満足げな顔をし、それを見てティティもそっとパンを齧ってみました。とたんに、冷たいミルクの味が爽やかに広がり、後からやってくる塩の食感がしゃりしゃりと楽しく、ますます甘さを引き立てて、甘くてしょっぱくて、ティティはそのおいしさにびっくりしたものです。
「すごい、すごいおいしい」
心配そうだったお父さんは、ちぎったパンから湯気がでるみたいにふわあと笑顔になって、
「な、ほんとだったろ。塩がポイントなんだ、これはすごい発見だぜ。もう一個食べよう、朝ごはん前だけど」
そう言って、パンをちぎって嬉しそうにティティに渡す、その笑顔を見たとたん。ああ、ティティはいますごく幸せだっと感じて胸がきゅうっと苦しくなって、涙が出そうに喉がきゅっと縮まって、パンがなかなか飲み込めませんでした。その後みんなが揃った朝ごはんで、紅茶が渋くて飲めなかったのだって、ただ、幸せな思いでした。
でも。

子供が幸せ、と思うなんて、やっぱり変です。でもティティはなぜだか、小さい頃から
、幸せとはどういうことなのかわかっている。人が、幸せだ、と思うのは、逆に言えば、こはいこと、かなしいことを知っているということ。ティティは幼い頃から、繰り返し繰り返し、悲しくさびしい夢をみます。ティティの不思議な幸福感はこの夢をみるところからきているのです。人生から、幸せを感じるようになったほどのこはい夢。ちょっとやそっとのこはい夢では無いということを、話します。

四、悪夢

ティティはお母さんと暗い森の中を歩いていて、そこへ小さい家が建っているのを見つけます。入ってみよう、と手をとり中へ入ると、家の中は薄暗く、空気が蒸し暑くてべたべたしていて、天井や壁も赤黒く、どくどくと震えていて、まるで生きてるようなのです。ティティが、気味が悪いなとぼんやりしているうちに、お母さんはスケート靴に履き替えて、まるでティティのことはすっかり忘れてしまったみたいに、すいすい楽しそうに滑って何処かへ行ってしまいました。部屋の隅々は、暗くてよく見えませんが、どうも奥に扉があるようで、行って、開けてみると、そこも薄暗く、狭く、中では体の大きな男たちが、ぎゅうぎゅうになって、あせでびっしょり体を濡らしながら、ああああ、とか、おおおお、と大声で吠えていました。その声が、耳をちぎたくなるほどうるさくて、ティティは大急ぎで部屋を抜け、次の扉を開きます。するとそこは、真っ白の世界。一体どのくらい広いのかも、全然わからないのです。少し、眩しい。そして、なんにも音がしない。(どんなに静かでも、静かになればなるほど、自分の呼吸の音や耳鳴りが聞こえてくるもので、本当の無音なんて誰でも知ってるわけではないと思いますが、しかしそこは正真正銘無音の世界でした)ティティは途端に、ぞっとします。ふと、気が付くと、小さな赤い花が一輪、咲いていて、女の子が一人、ティティに、背中を向けて座って、その花を見ています。だんだん耳が、きんっとしてきて、風も無いのに、花が激しく揺れた。ティティが、女の子に声をかけようと、口を開いた、そのとき、扉が開いて、さっきの男たちが、あああああ、おおおおお、叫びながら次々、入ってきて、男の声の恐ろしさにティティの腕にざあっと鳥肌がたちます。男たちは、どのう、のような物を、どんどん、運んできて、女の子の体に、積んで、埋めていきます。やめてっ、息が出来なくて、死んじゃうっ、とティティは、叫びますが、その声は、男たちの叫びに、かき消され、やがて、自分の視界も、どのうで、埋まっていきます。

と、必ずここで目が覚めるのです。小さい頃はよく窓が割れんばかりの泣き声をあげて、そのたびにお母さんがすっ飛んできて、ティティの眠るまで側にいてくれました。それはティティにはちょっと嬉しいことでしたが、実際両親はとても心配していました。ティティの泣き声があまりに異常だからです。そりゃもう、悲鳴に近いくらい。お母さんは自分がどんなに気持ちよく眠っていても、どんなに大事な事をしている最中でも、その声が聞こえると慌ててティティのもとへやってきてくれました。お母さんて大変です。ティティは大きくなっても、この夢を見続けましたが、そうそういつまでも、お母さんを叩き起こしたりはしません。そっとベッドから出て、好きな絵本を取り、一文字一文字小さく声にだして読んで、それからもう一度ベッドに入るとちゃんと眠れるくらい、ティティは大人になったのです。でもその頃には窓の外がすっかり明るくなってることも、しばしばありました。そしてその次の日は、一日中心が重く、学校に行っても早く帰りたくて仕方なかったり、授業中に急に胸騒ぎがして、お母さんのことが心配で堪らなくなって、教科書のかげに隠れて泣いたりしました。そして一番不思議なことに、しばらくするとすっかり忘れてしまうのです。すっかり忘れて、もっと時間がたって、忘れたことさえ忘れたころに、また同じ夢を見る。ティティのお父さんやお母さんが同じ目にあっていたらノイローゼになっていたかもしれません。ティティはすっかり馴れていましたが、これってすごく不思議なことです。でもティティは、やはりまだ幼く、この夢に何かの意味を見いだそうとはしませんでした。

五、夏のスコール、火山研究所

夏の日曜日。ティティは朝からお店の手伝いをしていました。日曜の朝は一番忙しいのですが、昼には客足もまばらになり、暇をみつけては、こっそり厨房でクッキーを齧ったりしていました。
「ティティちょっといいかい」
「はあい」
急におばあちゃんに声をかけられ、慌ててクッキーを飲み込み、
「配達に行ってきてくれるかい、わかるかなあ、あの火山の所の向かいの向かいの筋にあるキーポーキっていう人のとこなんだけど」
「キー…、知らないなあ、火山って?」
「ほら、火山のなんとかなんとか所ってあるじゃないか、白い建物の。その次の次の筋にある花がいっぱいあるお家だよ、小さい本屋が近くにあってさ」
「うんうん、だいじょうぶ、わかったよ」
おばあちゃんの説明を聞いても全然わかりませんでしたが、火山研究所なら知ってるので、近くに行ったらまあ誰かに聞いてみようと、ティティはあいまいに返事しました。
「そう、よろしくね、ちょっと遠いんだけど、あたしが行ったらお店、ティティひとりになっちゃうだろ」
その日両親は友達に赤ちゃんが生まれたとかで昼から出掛けていて、お店はおばあちゃんとティティの二人で開けていました。おばあちゃんは歳のわりにしっかりしているし、お母さんがお嫁に来る前には、お父さんと二人で店を切り盛りしていたので、両親はこんな時安心しておばあちゃんに店を任せられるということです。
「何をもっていくの」
「ええと、チョコドーナツが4つ、アーモンドクッキーが4袋、あと、バター、ジャム、と。ちょっと重いけど、真っすぐ持つんだよ」
夏の、空はまるでまっさらのカーテンのようにどこまでも青く、高く、太陽はじりじりと痛く、ティティは湖の橋をわたり、畑を抜けて、山のふもとの火山研究所を目指しました。
この火山研究所とは、正式に言うと、国立火山観測噴火予知研究所ジーデ地方第9支部のことです。研究員も20人ほど入っていて、みな礼儀正しく、良い人たちだと聞きます。

「みなさん、僕たちは全員、この土地の人間ではありません。ここに来るまえ、僕たちは、たくさんの本や資料で、この町のことを学びました、それでも、この町の人たちにとっては、僕たちは部外者です、何もわかっていないやつらです。でも、僕たちにも故郷があります、故郷を思う気持ちは、きっと同じなはずです。みなさんに今日、お願いしたいのは、ここを僕たちの、もうひとつの故郷にさせていただきたい、守らせていただきたいのです。今はこの山は、死火山、だと言われています。しかし、この山は地球で5番目に大きく、それに死火山と言っても安全じゃありません。先のシレン山の大噴火、たくさんの人が犠牲になりました。あれも、ほとんど死火山だと考えられていました。二度とあんな災害を起こしてはならない、その考えのもと、僕らはここへやってきました。火山の、災害は短く、その恩恵は長い。火山のそばに生まれ、暮らすことは幸福だと思えるように、自然の恩恵をいつまでも、安全に、享受できるように、僕たちが、必ず、町を守ります。共にこの山を愛し、共にいつまでも生き続けましょう!」

研究員が町へやって来たときの、最初のスピーチです。どんな難しいことを言うのかと顔を強張らせていた町の人たちは、すっかり喜び、嵐のような拍手で研究員を迎え入れました。(この頃、シレン山の大噴火を受け、テレビで死火山の危険性を訴える番組が増え、なかには火山の側にすむ人たちを嫌な言葉で非難する学者も居て、みんなナーバスになっていたので、この研究員の、心に届く言葉はよけい嬉しかったのです)スピーチは大成功。山の麓に建った白い建物は、研究員とみんなとの、約束の証になりました。それから30年の時がたち、火山の恐いのなんて、みんなすっかり忘れてしまいました。

おばあちゃんの言っていたとおり、キーポーキさんの家には花がたくさんあって庭では奥さんのような人が遊んでいるみたいに水を撒いていました。
「あらあら、かわいい子が来たと思ったら。暑いのにありがとう」
ティティの姿と荷物に気付いて奥さんは、にっこり笑ってそう言うと、門を開いてティティを中庭へ招き入れました。キーポーキさんの家では、今日誰かの誕生日会をするみたいで、薄暗いダイニングのテーブルの上には、ローストチキン、スパゲティ、山盛りのブレッド、フルーツ、壁には折り紙でつくったハッピーバースデーの文字。夏の昼間、眩しい中庭から見たそれらの風景には、まるで深海に置き忘れられた宝物のような、妙な静けさがありました。
「来てくれた友達のお土産にしようと思って」
奥さんは、ティティから配達の袋を受け取り嬉しそうに中身を見ながら言いました。差し出されたアップルジュースはたいへん冷えていて、一気に飲み干してティティは、体の底からきいんと冷える感じでした。
「どうして誰もいないんですか」
「今、駅まで友達を迎えにいってるとこなの、もうすぐ戻ってくると思うけど」
食事もプレゼントもティティの届けたクッキーも、今日の主役が帰るのを待ちこがれているような気がして、ティティは急に早く帰りたくなって奥さんにお礼を言って足早に山の方へと向かいました。帰る前に寄ってみたいところもあったのです。ティティは火山研究所の白い建物めがけてずんずん歩いていきました。町の人はみんな、火山研究所を大変褒めます。研究所があるから、安心してこの町に住めるので、誰も悪くは言わないのです。しかし、実際研究所の中へ入ったり、近くまで見に行ったという人はいませんでした。ティティにはそれが不思議でした。
「どうして何も見てないのに褒めるんだろう」
もちろん大人は、火山研究所といっても、普通の人が見て面白いものなんて無いとわかっていたし、麓に白い建物が見えていれば、それで十分だったのです。でもティティには、まだそんな理屈はわからない。なんの研究かは知らないけれど、きっとすごい機械があって、わくわくするような実験をしてるんだろうと、胸を高鳴らせ研究所へ近付いて行きました。
しかし、いざ研究所の前に立つと、思っていたのと全然違いました。高い門はきっちりと閉められていて入ることは出来なさそうですし、どの窓にもカーテンが掛かっていて、中で何をしているのか、人がいるのかどうかもわからないのです。ティティは放課後の理科実験室に似てる気がしましたが、こんなに淋しい感じじゃないなとも思いました。遠くで雷の音がして、蝉の無く声がやけに大きく響いて、研究所からはなんの物音もしませんでした。まあとにかく、とティティは気を取り直して、建物の周りを一周して見ましたが、やはり面白いものは何も無く、裏口の錆びた鉄板の扉と、その横に立てかけられた、
「火山研究所関係者以外の立入りを禁ず」
と書かれた看板を見つけたきりでした。看板は泥やホコリでぼろぼろに汚れ、やっと読めるくらいで、扉のほうも錆びて蜘蛛の巣が張ってあったりと、長いこと使われていないみたいでした。研究所の建物自体も、遠くからは真っ白で眩しく見えましたが、実際は薄暗く汚れて、ヒビが入っていたりして、ティティは何となく裏切られたような、嫌な気分になりました。
「なんかかっこわるいな」
その時、ほっぺたでぷつっと雨粒が潰れて、はっと顔を上げるや否や、弱い雨が降り始めました。ティティはここにいても何も無いし、だんだん気持ち悪くもなってきたところで、急いでもと来た道へ帰ろうとしましたが、その間にも雨は、息をするのも苦しいほど激しくなり、道は白くかすんで、方角がわからなくなってしまいました。ティティはすっかり慌てて、泣いてがむしゃらに走り回り、ふと前に洞窟のようなものがあるのが見え、とにかく雨がしのげるならと、夢中でそこへ飛び込みました。洞窟は観光用のものらしく、中は広く綺麗に整備されていましたが、非常に蒸し暑く、少し変な匂いがしました。よくみると奥にまだまだ続いているみたいでしたが、ティティはそっちのほうはあまり見ないようにして、入り口近くに座り雨の止むのを待つことにしました。
ちょうどその頃、出先から戻ってきたお父さんが、ティティを探しにキーポーキさんの家と火山研究所のあたりをうろうろしていましたが、突然降り出した激しい雨に視界はすっかり遮られて、心配がつのっていらいらしました。家で待っていたおばあちゃんとお母さんも、お互いに、お互いが悪いと思ってむっつりしながら、窓を流れる雨粒を睨んでいました。
雨は一向に止む気配がなく、ティティはしだいに、変な気分になっていきました。ぼんやり洞窟の壁を見て雨の音を聞いていると、だんだん壁がティティに迫ってくるような、洞窟の中がどんどん縮んでいくような、そんな錯覚に襲われ始めたのです。ティティは目をつぶり頭をふってこの錯覚を断ち切ろうとしましたが、やはり壁はずんずんせまってきて、雨の音もどんどん大きく聴こえてくるのです。しだいに、ぐらあっと体も変になって、ふわふわ浮かんでいるような感じで、ティティはぎゅっと目をつむり壁を見ないようにしましたが、体はやっぱり浮いてるみたいで、ひどく吐き気がしました。それに、どうもさっきからこの洞窟を、知っていたような気がしてならないのです。確かに来たことがあると思うのですが、どうしても思い出せなくて、ティティは一所懸命記憶を探りましたが、それは生き物のように、掴んだかと思うとするりとぬけて、しかし、ふいにあの悪夢の中で見る男の部屋にそっくりだということに気が付いたのです。まるで、ティティの耳元で誰かがそう囁いたかのように、全くふいに。ティティはあっ、と声を上げて再び大雨の中へ飛び出しました。理由のわからない不安と恐怖にかられ、自分で思うよりも速く、体が飛び出していった感じです。とにかく洞窟から離れたくて、むちゃくちゃに走りました。気が付いた時、真っ白く霧になった先にあったのは、あの火山研究所の裏口でした。
「立入りを禁ず」

お父さんは、ざあざあという雨の音にまじって子供の泣き声が聞こえた気がして、じっと耳をすませました。泣き声は火山研究所の裏の方から聞こえてくるみたいで、それが、いよいよティティの泣き声だとわかると、お父さんは雨水をばしゃばしゃ跳ね上がらせながら火山研究所へ走りました。見つけた時ティティは、背中をまっすぐに伸ばし、雨を飲んでいるのかと思うほど大きく口を開いて泣き叫んでいて、涙と雨でぐしゃぐしゃになったティティの顔には、朝のような清楚な光が射し始めていました。お父さんは、ああ、雨が止むと思いました。
「ティティっ」
お父さんはティティを一気に抱き上げました。ティティは一瞬ぽかんとして、それからまたわあっとさっきよりも大きな声で泣きました。
「はははっ、なんだ。なんでも無い、なんでも無い。お父さんはすぐにティティを見つけてあげられるんだから、ほら、何だ、もう陽が出てきた。ただのスコールだったんだよ」
お父さんも安心してお腹から大笑いしました。帰り道には、本当に何もなかったみたいに空は晴れ、蝉も蛙もがあがあ鳴いて、2人はすっかり邪魔になったお互いの傘をぶらぶらさせながら帰りました。結果的にこの日のことは、夏のちょっとした冒険の思い出となりましたが、あの不思議な洞窟と、火山研究所のうらぶれた裏口は、ティティの心に嫌な、しみのようなものを残しました。

六、噴火の歴史

「火山について」
先生は、黒板に大きく書きました。間近に迫った夏休みに、すっかり落ち着きを失った子供たちは、それを見てぴたりとおしゃべりを止めました。
「ええ、今日の授業は、火山について、であります。みなさんはこの町の山が、火山で、昔は噴火活動を繰り返していたことを知っていますか。知っている人は手をあげてください」
ティティは、噴火とは何かすらわからなくて、そんなこと誰も知らないだろうと思いましたが、周りの子供たちの半分くらいが誇らしげに手をあげたので、少し恥ずかしくなりました。
「はい、ええ、ありがとう。知らない人も結構いるみたいですね。えー、そもそも噴火とは、地下に溜まったマグマが、何らかのきっかけで沸き上がり、火道を通って火口から噴出される現象を指します」
みんなぽかんとしました。
「ああっ、そうだな、わかりやすく言うと、えー」
先生は大きな「へ」の字と、その下に楕円の卵のようなものを描きました。
「これが山。下の丸がマグマ溜まりというものです。石やプレートが溶けてどろどろになった高温のマグマが、ここに溜まっているのです。これがマグマ溜まり。そして」
円の真ん中から、山頂へまっすぐ線を引きました。
「これがかどうというものです。火の道、と書く。名前の通り、ここを通って溶岩が、マグマ溜まりから山頂へと出る。これが噴火の概要であります」
先生は山のてっぺんから、ぶしゅーっと溶岩を噴き出し、下の方へ流れていく様子を描き足しました。そこでみんなの顔をぐるりと見渡すと、急に心配そうな顔をして、
「えー…、わ、わかりますか?」
この髭もじゃで眼鏡の先生の話し方には少し癖があって、子供に話すには固い気もしますが、まっすぐに子供と向き合う気持ちはちゃんと伝わるもので、みんなこの先生の話し方も下手な絵も好きでした。噴火を知っていた子はすまして、そんなの当たり前といった顔をし、知らなかった子もようやく納得したというふうに頭をうんうん振りました。先生はそれで元気を取り戻して、
「では続けます。えー、もちろんこの町には、昔からたくさんの人が住んでいたんですね」
先生は少し迷ってから、えいっと絵を全部消し新しくへの山を描いて、その下に人やら家やら豚のようなものを描きました。
「このようにですね、今も昔も人々は山の麓で生活していたのであります。さあ、昔も昔、大昔のある日、いきなり山が噴火した、どどどーんっ」
子供たちはびっくりして顔を見合わせくすくす笑いましたが、先生は大真面目に、山のてっぺんから勢い良く溶岩を噴き出させ、麓にいた人や豚は真っ白に塗りつぶされました。
「このように、町は山から降りてきた溶岩にのまれ、ごほんごほん、一瞬にして溶けた。逃げ遅れた人々や家畜は死に、町は焼け野原になってしまったのです。なんにもなくなっちまったっ」
先生は溶岩を全部消して、がつんっと黒板消しを置きました。残ったのはへの字の山だけになって、教室はしんとし、ティティもだんだんこはくなってきました。
「こうした噴火活動は、今もなお、事前に予測するのは大変難しく、ここの地域は何度もこのような噴火による災害を受けてきました。しかし、人々はその度、必ず、復興を遂げてきた。では何故、そんな危険な火山の側を人々は離れなかったのか、それは」
ミネラル、と先生は黒板に書きました。
「ミネラル、であります。町を焼け野原にした溶岩、火山灰、しかし奇しくもそれらには、農業に最適なミネラルがたっぷり含まれていたのです。世界には今もなお、干ばつや土壌がやせ細った影響で、深刻な飢餓に陥っている国がたくさんあります」
先生はみんなの顔をぐるりと見ました、よく集中して聞いてくれています。
「しかし僕らの住む地域は火山があるおかげで土が良く、また雨も多く、野菜が良く育つため、未だ飢餓というものを知らないのであります。確かに、火山は大変危険であります。しかし、僕たちはやはりこの土地を離れることは出来ない。むしろ土地を、火山を愛し、感謝の心を忘れないようにするべきなのです」
教室はまだ静かで、先生は、子供たちが何を言って欲しがっているのか十分わかっていました。
「ちなみに、長い長い自然との闘いのすえ、今では、この町の火山は死火山、つまり活動の終わった火山となり、噴火することはもう無いと言われています」
この時ようやく子供たちはほっとして、先生は教室の空気が一気に緩んだのを感じ、大きな声でいいました。
「はい、えーっ、それにですね、万が一、万が一のことがあっても皆さんご存知の、はい君」
「研究所っ」
「そう国立火山観測噴火予知研究所っ、今からおよそ30年前に建てられ、いつでも山を見守っているのです。どのように見守っているのかというと、えー、僕が最近読んだ科学雑誌によると噴火が起こるかどうか、辺りのガスの濃度を調べるとわかるようになったそうで、しかるに僕の考えですがきっと火山研究所もガスを調べて山の動きを見ているものと思われます。あそこの研究員はみな立派であります。彼らがここへ来た時の最初のスピーチを聞いて僕は…」
だんだん先生の独り言みたいになってきたので、子供たちはそれぞれ勝手にお喋りし始めました。ティティはスコールにあたった日以来、研究所に対していいイメージを持っていなかったので、先生の話は聞かないようにして自分もお喋りにまざりました。
「噴火してたって知ってた?」
「初めてっ、でも先生はもう大丈夫って言ってたよね」
友達の手前、ティティは平気なふりをしていましたが、内心すっかり怯えていて、もっと安心させて欲しくてしつこく聞きました。
「ねえ、大丈夫っていってたよねっ」
教室がだいぶ騒がしくなって、先生はごほんごほん、とわざとらしく咳をしました。
「えー、マグマがあるから噴火する。噴火するから野菜が育つ。火山のいいところは他にもあります。何かわかりますか」
教室は再び静かになりました。
「それはね、温泉です。そもそもどうして地下から温かい水が出るのか。それは地下のマグマ溜まりで地下水が温められるからなのであります。それが湧き出て温泉となる。みんな喜んで着ているものを投げやって、男も女もすっぽんぽんになって湯につかるのであります」
くすくすと笑い声が起こりました。
「人間は湯が大好きであります。火山のある町では、温泉を観光の名物として栄えているのです。残念ながらこの近くに温泉はありませんが…」
「先生」
「うん」
「あの、湖がちょっとあったかいのって、もしかしてマグマ溜まりがあるからですか」
ティティはぞっとしました。家の側の湖です。
「ザーッツライト、その通りです」
先生はまるで舞台役者のようにオーバーに両腕を開いて言ったので、みんなはげらげら笑いました。答えた男の子も真っ赤になっています。
「最近ある学者が湖の水中のマグネシウムの量を調べました。それによると…」

子供は、ティティほど神経質でなくても、一度は何かに怯えて無性に不安になるものです。そうした不安は、例えば、人の死について考え始めた時に訪れることが多いと、私は思います。ティティはそれまで、多くの子供がそうであるように、死について考えたことはありませんでした。ティティの家族や周りの人々はみんなとても元気で病気知らずで、ティティのおじいちゃんはもう既に亡くなっていましたが、それもティティの生まれるずっと前の話で、つまりティティには死の概念が全然ありませんでした。しかし、最近3つ隣の国で内戦が勃発しました。(考え方の違いは時に酷い誤解を生みます)ティティはそれまで戦争とはなにかわかっていませんでしたが、連日報じられる戦地の映像や写真は幼い心にはかなりショッキングなもので、ティティは次第に、死への恐怖、戦争への恐怖に取り憑かれていきました。もし、戦争が広がってこの町にまでやってきたら、もし、何かの間違いで家にミサイルが落ちたら、もし、自分や家族の体から血が流れるようなことがあったら、嫌なイメージは拭いきれなくて、ティティはこの頃、いつにも増して神経質になっていました。そこへ今日、火山の話を聞いてしまい、また新しい心配の種が生まれたティティの顔は、この時よほど深刻になっていたと思います。周りの子供のお喋りも、先生の大声も、眠りかけの頭で聴くラジオみたいに、ざらざらざら、とうるさく耳にまとわりつきました。ざらざらざらざらざら。

「えー、このように火山は確かに恐ろしいものですが、うまく付き合えば無くてはならない存在となるのです。おわり」
ティティには、もう先生は噴火の危険を隠したがっているようにしか見えませんでした。この時チャイムが鳴って、この日の授業は終了しました。
ティティがいつものようにまっすぐ家へ帰ると、お父さんは庭のハンモックで昼寝、お母さんとおばあちゃんはキッチンでお茶を飲んでいて、この時ティティの目には、こんな平和な時間を過ごしている大人たちが、呑気で、ひどく無知なまま生きてきた人間に見え、一瞬他人のような気さえしました。
「ティティおかえり、お茶飲む?」
ティティはおばあちゃんの淹れたミルクティーの中でゆっくり蜂蜜を溶かしながら、今日の噴火の話をしようかどうか考えました。
「それでね、おじいちゃんがもう頑固で頑固で、家族もなかなか素直に手助けできないそうよ」
「まあ」
「でも見てるとやっぱり不便そうだから手を出すんだけど、やっぱりすごい怒るって」
「まあ、あの人は見るからにそんな感じだよ」
「それでもやっぱり家族としては、ねえ?それでそうそう、孫が、6歳だっけ?その孫のことしか可愛がらなくて、最近はちょっとした用事は全部その子に頼んじゃうから、いま家で一番忙しいのは、孫なんだって」
「あははは、かわいそうに」
「あのねっ」
「ん、なに?」
ティティはなるべく平静を装って言いました。
「今日学校で火山の授業があったよ、昔は噴火したりして大変だったって」
「そうか、ティティは知らなかったんだね、まあ昔って言っても、おばあちゃんも知らないような大昔だよ。一回だけ危ないとか何とかで避難になったことがあったけど、結局何にもなかったしねえ」
「ねえ、いま噴火したらどうなるの?」
お母さんとおばあちゃんはティティがこはがっているのにすぐ気が付いたので、出来る限りの優しい顔をしました。
「ティティ、噴火はもうしないよ。噴火する時期は終わったんだよ、それもずっと前にね」
「うん、それも学校で聞いたよ、でもね、もしもなったらどうなるの?」
「火山研究所が出来たんだ、もしも何かあったらすぐわかるさ、何にもないよ」
「さあティティ、そんな話はもういいから、犬の散歩に行ってあげなさい。さっきから玄関でまってるわ」
タイミングよく、白い犬がクウーンと鳴いてみんなを笑わせました。
「でもね、もしも火山研究所もわからなくて、急になったとしたらみんなどうなるの」
お母さんは、また始まったなと少しうんざりして聞こえないように小さくため息をつきました。おばあちゃんは哀れんだ目でティティを見つめ、優しく頭を撫でながら
「ティティ、そういうことは口にしちゃいけないよ、思っていても口に出しちゃいけない。災いをよぶよ」
「わざわいって?」
「嫌なことだよ、みんながいなくなるような、こはいことだよ。だからもうそんなことは言っちゃいけないよ、さあ、散歩に行っておいで」
ティティはとうとう、誰にも安心させてもらえず、話すことさえ禁じられ、この問題について一人で抱え込まなくてはいけなくなりました。

七、おばあちゃんの足

嫌なことが続きました。おばあちゃんの足が悪くなったのです。おばあちゃんは強がりな人なので、そんな仕草を見せたがりませんでしたが、ほうきを杖がわりに使ったり、時々足をごしごしと摩ったりしていることに、家族はとっくに気が付いていました。それでもおばあちゃんはみんなに気を使われるのがとても嫌だったみたいで、痛いの?と聞くと、ひどく不機嫌になり、椅子で足をぶつけたから等と苦しい言い訳をして何ともないふりをするのです。なので、家族みんなでいる時におばあちゃんが無意識に足をごしごしやり始めると、みんな気を使って何にも聞こえてないふりをして、無意味に果物かごをしげしげと眺めたりしなければいけませんでした。それに歩くのもすっかり遅くなり、家族で出掛けるときには両親は、速くもなく、しかし遅すぎもなくという難しい歩き方をしなくてはいけませんでした。そんな時ティティは、左右にぴょんぴょん飛んで石ころを蹴飛ばしたりして、歩調を持て余しながら、黙って家族の関係を見ていました。みんなの気遣いにおばあちゃんが気が付いているかどうか、ちょっと微妙でした。誰も、何も言わない、難しい時間が流れました。
そうしたある日、おばあちゃんがお父さんとお母さんの結婚記念日のお祝いにおいしいパスタをごちそうしてくれることになって、遠くの町まで電車で出掛けることになりました。夜からのひどい雨は、朝にはすっかり止んでいましたが、道はじっとり黒く濡れ、空も重い雲に覆われていたので、用心のため傘を持って出掛けましたが、駅に着いた時には眩しい陽射しが出始めていました。
「今から行くお店ね、最近お客さんに教えてもらって行ったとこなんだけと、ポモドーロがもう絶品でねっ」
「おばあちゃんいつの間にいったの?」
「この間芝居を観に行ったときさ、ふと思い出して行ってみたんだけど、本っ当においしかったよ。あんたたち悪いことは言わないからポモドーロにしな、一回食べてご覧って」
電車はがらがらでした。駅に停車する度、虫がそれっとばかりに一斉に鳴くのが聞こえました。窓の外の雲はどんどん晴れて、お店のある駅につくころには、すっかり夏の太陽がぎらぎらしていて傘は邪魔になりましたが、おばあちゃんには必要みたいでした。雨が降ると足が痛むようで、おばあちゃんは電車の中でもしきりに足を摩っていました。幸せな休日、おばあちゃんのごしごし足を摩る音がするたび、緊張の糸がピンと張られるのをティティは感じていました。ティティは賢い子でしたから、もうそろそろこんなことは続けていられないだろうなと思っていましたが、やっぱり自分では何も出来ないので、何か爆発的なそれでいて平和的な解決が訪れるのをティティは望んでいました。
駅からお店まで歩いていける距離だからとおばあちゃんは車を断って、傘を杖がわりに歩き始めたので、かつかつかつと地面を突く音がまたみんなを緊張させました。昨日の雨が
嘘のように、空には雲ひとつなく気温もぐんぐん上がり始め、傘の存在はどんどん浮いていきました。両親は相変わらず困った顔をしながらそっぽを向いて歩いていて、もう一度雨が降れば良いのにと思ってるだろうなと、ティティは考えました。ティティは最近家にいるのが少し嫌でした。ようやく着いたお店は小さいけれど、花がたくさんあって上品で、椅子もテーブルもよく使い込まれてアンティークで、いい雰囲気でした。ティティの家族は窓際の席へ案内され、おばあちゃんとお母さんはポモドーロを、お父さんはトマトソースのシーフードをティティはカルボナーラを注文しました。
「ここは注文してから全部作り始めるからね、少し時間がかかる」
「いい雰囲気ね、おばあちゃん今日はありがとう」
おばあちゃんは何を今更と笑って手を振りましたが、お母さんは本当にこの店が気に入ったようで、ぐるぐる店の中を見ていました。
店の中にはいくつか絵が掛けられていて、
「あの絵をみてご覧ティティ。印象派の絵だよ。おばあちゃんあの絵が大好きなんだよ」
と奥を指差し言いました。傘をさした女の人の絵でした。夢の中みたいな絵だとティティは思いました。
「おばあちゃんはこの人の描く絵がみんな好きだよ」
「ふうん、なんか優しい感じがするね」
「よくわかったねえ、そうだろう?タッチが優しいだろう?あったかい感じだろう?いやあ、この子は賢いねえ、絵描きになれるよ」
おばあちゃんは嬉しそうにティティの頭を撫でお父さんとお母さんを交互に見ました。二人ともにこにこしていました。ティティはもっと褒められたくて他にも何か言ってみようとしたその時、スープと前菜が運ばれてきました。お母さんは一口一口おいしいおいしいと言って喜びました。野菜は新鮮スープはあつあつで舌でとろけるおいしさにティティは一番にぺろりと平らげてしまいました。さて、この店はここからが長い。すばらしい前菜を食べた後ではかえってお腹がすいて、口にのこったスープの味を辿りながら、メインのパスタを想像してどんどん楽しみにして待つようになるのだから、コースっていうのはよく出来ています。そうして待っている間、ティティはまたおばあちゃんの絵の話を聞いていました。
「ティティあの絵の女の人の腰の辺りに、赤い花があるだろう」
「どこ?」
「あそこだよ」
とおばあちゃんが指を伸ばした時、肘がぶつかってテーブルのすみにかけてあった傘がばしんと落ちてしまいました。お母さんは、うっかり言ってしまったのです。
「あら、つえが」
その瞬間、おばあちゃんはさっと顔色変え、突き刺すような高い声で叫びました。
「傘だ!」
でも実際、おばあちゃんの傘の柄は木で出来ていて杖にそっくりで、ティティだって何度か間違えたくらいでした。それに窓から入る眩しい夏の光が、今朝の曇り空をすっかり忘れさせて、みんな自分の傘のことも忘れてしまっていたのです(おばあちゃんはこの傘が大のお気に入りで決して傘立てに立てない)
しかし、これでおばあちゃんの機嫌はとても悪くなり、誰も喋らなくなりました。もうこうなってしまうと、なかなか来ない料理なんてただいらいらするだけで楽しむことは出来なくなりますが、もう、さっきまでの幸福な気分には逆立ちしたって戻れないとみんなわかっていました。それくらいおばあちゃんの傘だ!と叫んだ声は大きかった。おばあちゃんはじっと窓の外を睨んだまま動かず、お母さんはずっと俯いていました。お父さんはそわそわして、おばあちゃんの表情を窺ったり、何か言って欲しそうにティティをじっと見つめたりしましたが、しかしティティも何も言いたくなくて、誰の顔もみないように俯いていました。そのうちにお母さんが、すんすんと鼻をすすり始めたかと思うと、すっと立ち上がり、目に涙を溜めて急いで店から出て行ってしまいました。パスタが運ばれてきたのはそれからすぐのことで、向かい合った二皿のポモドーロがティティには悲しくて、味なんてわかったもんじゃありません。食べている間にまた傘が、今度はひとりでにばしんと倒れましたが、おばあちゃんはもうほったらかしにして怒った顔をしてぐるぐるパスタを巻いていました。その巻き方が、とても上手で、いかにおばあちゃんが食べ馴れてるか、どれだけこの店を気に入ってたかがわかった気がしてまた胸が苦しくなり、ティティは心の中で神様にお願いしました。さっきおばあちゃんが好きだと言ったあの絵を上手に描けるまで練習します。何度も何度も描いて、きっとおばあちゃんにプレゼントします。だから神様、二人を仲直りさせて下さい。元通りにして下さい。ティティはこっそり、でも真剣にお願いしました。
しかし、家に帰ってみるとお母さんは、意外にもにこにこ笑って3人を迎えてくれ、おばあちゃんが家に入ると、
「おばあちゃん、ごめんなさい」
とおばあちゃんの手を掴んで、まっすぐ目を見て言いました。お母さんは大事にするべきものが、何かちゃんとわかっていました。
おばあちゃんは怒ったような困ったような顔をして不器用にその手を離すと俯いてすたすたと自分の部屋に入ってしまい、残った家族は台所でお茶を飲み、お父さんはようやく安心したというふうにネクタイを緩め、お母さんは持って帰ってきたポモドーロをまた、おいしいおいしいと食べました。
「やれやれ、持って帰るの大変だったんだぜ、あんないい店で詰めるのなんてあるわけないし、だからそれお店の皿なんだよ。変な顔されたよ」
「いい入れ物だと思ったらそうなの?どうしたらいいのこれ、もらっていいの?」
「なに言ってんだよ、食べたら君が返しに行くんだぜ」
「えっ」
ティティがそれでけらけら笑うのを見て、お父さんも大笑いした時、お母さんはさっと立ち上がり、驚いて二人が振り返るとおばあちゃんがしんみり笑って立っていました。
「おばあちゃんもお茶飲むわよね」
「いや、いいんだよ、いいんだよ」
おばあちゃんは自分の椅子に座り、しばらく黙っていましたが、ゆっくり足を摩りながら言いました。
「わたしもね、もう、足が悪くなったから」
お母さんはまた少し泣いて、お父さんも目を赤くしていましたが突然大きな声で
「ようし、俺もこれからはもっともりもりご飯を食べるぞっ」
とよくわからないことを言ってみんなを笑わせました。ティティも笑ってすっかり安心して、さっきの神様との約束なんて忘れてしまっていました。だから神様は大抵の場合お願いなんて聞いてくれないのかもしれません。

八、止まった時計

最初の地震が起きた日、ティティは苦手な算数の授業中でした。
「…つまり男の子の歩く速さを求めるには、距離と時間がわかればいいのです…」
かつかつと、チョークの音が響く静かな授業中、ティティは急にくらっと目眩がして、でもそれが長く続いたので、だんだん地震だとわかって、にわかに他の子供たちも騒ぎ始めました。一番最後に気が付いたのは先生でした。
「あっ、はやく机の下に潜りなさいっ」
この地方は昔から地震が多いので、子供たちは馴れたもので素早く机に潜ると、お互い顔を見合わせてくすくす笑っていました。揺れは小さいものでしたが長く、最後にがくんっと大きく揺れ、とたんにぴたりと止みました。子供たちがそっと頭を出すと
「まだ頭を出しちゃ駄目よ、放送があるまでじっとしてるように」
先生は注意して、避難もするかのかしら、と一人で呟きました。まもなくブツっとスピーカーの入る音がして、
「ただいまー、えー、ただいま地震がありました。揺れは収まりましたが、全生徒ならびに、えー、職員は速やかにグラウンドに避難すること。訓練を思い出し、落ち着いて行動しましょう」
スピーカーはまだもごもご何か話していましたが、先生はそれをかき消すように大声を張りました。
「はい、避難しますよ、廊下に整列しなさい。グラウンドに避難しますよ、何も持っていっちゃ駄目よ」
ティティのクラスはわいわいお喋りしながら歩いて避難しましたが、中には血相を変えてどたばたと避難してくるクラスもあったりして、その温度差が少しおもしろいのでした。子供たちの避難を待っている間、教頭先生は、じっとラジオに耳を傾けていました。
「マグニチュード3、深さ10キロ、震度は2です。津波の心配はありません。また国立火山研究所ジーデ地方担当者は火山性の地震ではなく、噴火の心配は全くないとコメントしています。…先ほど午後1時32分に発生した地震…」
教頭先生は、はてなと首を傾げました。2てことは無いと思ったんだがなあ。しかしラジオはすぐにダンスミュージック特集へと変わって、地震の影響は本当に全然ないみたいだったので、先生は場違いな音楽を消して、グラウンドへと急ぎました。子供たちは久しぶりの地震にすっかり興奮して、グラウンドまるで蜂の巣をつついたような騒ぎで、教頭先生はストップウォッチをちらりと見ると、満足そうな顔をして、それから厳かに集会台へと上がりました。
「静かに、静かに。ラジオで確認したところ、先ほどの地震は震度2と小さいもので津波も心配無いそうです。みなさんは少しお喋りが多いようですが、放送からグラウンドに集まるまで(先生はストップウォッチを高々を上げて)大変素早く、落ち着いて出来ていたと先生はとても嬉しく思います。大地震はいつやってくるかわかりません。その時も今日のように素早く冷静に避難出来るよう日頃から心がけましょう、以上」

子供たちはその後も興奮冷めやらぬ様子ではしゃぎまわってなかなか教室へ戻らず、ティティも算数は嫌だったので友達とお喋りしたりしてたっぷりもたもたしてから席に着いたつもりでしたが、時計を見てがっかりしました。思った以上に時間は経っていなかったのです。先生もがっかりしたように笑いながら、残念ですけど頑張りましょうといって子供たちを苦笑いさせたその途端、キンコーンとチャイムが鳴って、みんな一瞬ぽかんとしました。教室の時計は、地震のあった時刻で止まっていたのでした。
ティティは家に帰ってすぐ今日の避難のことを話しました。
「あんな地震でも避難したの?しっかりしてんのね」
「でも、最後ちょっとだけおっきくならなかった?」
「そう?いらっしゃーい」
お母さんがお店に出て行ったので会話はそれっきりになりました。ティティは鞄を置きに自分の部屋に入って、本棚の本が全部2センチ程前に出ているのに気が付いて、押すとトンと音がして、新しい遊びを見つけたみたいでなんだか楽しくなりました。

しかし、その日から、似たような地震が2、3日に一度起こるようになりました。それはいつも始めは小さく、そして最後にまるで地面が痙攣するみたいにビクッと大きく揺れ、その一瞬の揺れが何とも気持ち悪いのですが、震度はやはり1とか2なのです。大人たちもだんだん気味悪がるようになりました。
「近頃頻発している地震は海のプレートが微妙に動いているもので、大きくなる心配も無く、また火山性の地震ではない」とテレビで学者が言っていましたが、ティティにはプレートも火山性の地震も何のことだかわからず、心配ないという言葉にすがる他ありませんでした。学校にいる時に揺れたことも、何度かありましたが、そうそう授業を中断する訳にもいきませんし、それに前の避難がとてもうまくいったので、教頭先生は安心して少々の揺れでは避難させなくなり、子供たちはがっかりしました。
「震度いちっ」
「震度にっ」
次第にクラスの男の子たちは震度の当てっこをして遊ぶようになりました。
「ピンポンパンポン。ただ今、震度2の地震がありました。マグニチュードは3…」
「ほら当たった」
「マグニチュードって?」
みんな顔を合わせて黙り込んでしまいました。
「知らない、忘れたっ」
「もー、遊んでないで掃除してっ」
「わあ、震度じゅうっ」
「震度ひゃくっ」
男の子はけらけら笑って逃げていきました。ラジオやテレビでは相変わらず心配は無いといいます。この時子供たちが地震をこはがっていたかどうか、大人にはわかりませんでした。

九、朝と夜、光と闇

ある夜ティティが部屋で古いノートをぱらぱらとめくっていたら、ちょうど噴火の話を初めて聞いた時の授業のノートが見つかって、その中のある一文に目が止まりました。
「火山のふん火のぜんちょうにはしばしば地しんがともなうことがある。これを火山せい地しんという」
ああ、いつもテレビで言ってるのはこれだと納得すると同時に、本当にこれとは関係ないのかな、といつもの靄のような不安が湧いてきて、ティティはパタとノートを閉じると、あまり余計なことを考えないよう、早めにベッドに潜り込みました。

そしてその晩、あの悪夢を見ました。目が覚めて自分の部屋の天井を見た時、まだ男たちの吠える声が、耳の底でこだましているような気がして、ティティはぞっと鳥肌がたち、何となく部屋の中が狭苦しくて、ティティはこはいのをぐっと押さえてベッドから出ると、一番好きな絵本を手に取り、小さく読み始めました。
「こ こ に お は な を う え ま
 しょ う 。 は る に なっ た ら
 あ か や き い ろ の…」
あの夢は、きっと、火山が噴火することを知らせる夢だ。ふっと、そんな思いがどこからともなく浮かんできて、ティティは本からゆっくり顔をあげて、ああ、と窓をみると、カーテンの隙間から夜明けの光がぼんやりと入ってきて、ひどいことになったという思いと、長い間の謎がようやく解けたという喜びに似た気持ちとがわいてきて、少しの間ぼんやりしました。全ての夢がそうであるように、あの悪夢も、予知夢であると言える理由はどこにもありませんでした。それなのに、ティティの心は不思議に、夜明けの空のようにしんとして、恐ろしい夢の告げるところを落ち着いて考えることが出来、ティティは火山が噴火したら自分はどうなるのか、家族は、町はどうなるのか、逃げ遅れたらどんなことになってしまうのかを、知ってる限りいろいろ考えてみました。眠る気は、もう少しもおきませんでした。とうとう目覚まし時計がけたたましく鳴って、ティティはカーテンを一気に開けて山を見た時、私だけが噴火することに気が付いた、私が町を守らなくちゃ、何とかみんなにしらせなくちゃ、ティティの心は静かな覚悟と正義感でいっぱいでした。しかし、その覚悟にはやはり何処か、嘘だと思いたいような、この先も、当たり前に、何事も無く人生が過ぎていくと思いたい気持ちがあったのだと思います。ですから、台所へ下りていって、眩しい朝の光の中で、お母さんが朝食の準備をしているのや、おばあちゃんのそっと新聞をめくる音や、厨房からお父さんの焼くパンのバターの匂いを感じると、急に、夜明けに考えた恐ろしい予知夢のことなんて全く信じられなくなったのです。
「おはよう、いつも早いね」
「偉いね、ティティ」
おばあちゃんの歯が一瞬きらりと光ったように錯覚しました。今朝は天国のように眩しい台所でした。こんな光の中で悲しいことなんて考えられるものではありません。そうだ、全部ただの悪い夢だ、どうして予知夢なんて思ったんだろう、ただのしつこい夢じゃない、テレビだって火山研究所だって大丈夫だって言ってるじゃない、きっと夜は暗いから、考え方まで暗くなっちゃうんだ、やだやだ、また噴火がとか、予知夢がとか言ったらお母さんが心配する、みんなこんなに幸せそうなのに、そんなこと言っちゃ駄目だ、何にも心配すること無いんだ、何にも。ティティは、紅茶の湯気が朝日にゆらゆらするのを見ながら、夜明けの静かな覚悟がゆっくり溶かされていくのを感じて、やっと安心して大きくあくびをすることができて、
「あーあ、昨日は嫌な夢を見てから眠れなくて、寝不足なの」
誰にともなくそう言って、少しわざとらしく顔をしかめてみせました。
「嫌な夢って、あの小さい頃から見るって夢かい」
「そう今でも時々見るの」
「昔はよく叩き起こされたわよ」
お母さんは小気味よくしゃりしゃり音をたててりんごの皮を剥いていて、ちょっと意地悪そうに笑って言いました。
「もう平気だもん。でもなんであんなに何回も見るのかな」
おばあちゃんはにこにこ笑って
「まあ、そんなに気にすることじゃないよ、誰にでもあることだし。ティティがもっと大人になったらきっと見なくなるよ。夢なんてそんなもんだよ」

今朝は、もしかしたらこっちが夢なんじゃないかと思うほど平和な朝で、ティティは心から安心することが出来たのですが、やはり夜になると色々な不安に襲われてよく眠れず、朝になってまた安心してというふうに、ティティはこの日から朝と夜、光と闇の間を激しく行き来するようになり、ティティを酷く疲れさせました。だんだん闇の世界が勝ってきているようでした。

十、遁走

いくつもの橋を越えました。実りをたっぷりつけた金色の稲穂の畑をぬけました。商店街を抜けました、山盛りに積まれたポテトサラダの白さを見ました。切ないオレンジ色の光が並ぶ家々の前を走りました、子供の声が聞こえました。そして再び稲畑に出た時、ティティは初めて足を止め後ろを振り返り、置き去りにしてきた人たちのことを思いました。どうして今まで一度も思い出さなかったのか、自分でも不思議でなりませんでした。すでに陽は傾き、風は秋の夜のひやりとした空気をおびていて、ティティは途端に不安になりました。

相変わらず続く地震は、ティティだけで無く、街の人たちをも不安にさせました。火山の麓に暮らす人間の本能が、揺れ方に尋常でないものを感じさせていました。しかし火山研究所は、データや数字やらを集めて、とにかく問題は無いといい続けます。人々はむりやりに納得させられた体でした。
あの、噴火の危険に初めて気が付いた朝の、静かな覚悟、正義の心は何処へいってしまったのか、ティティの心は、日に日に恐怖で占められていきました。ティティは夜、怯え、朝、安心して、昼、忘れようとした。そうした毎日を繰り返すうちに、神経は酷く疲れ、どうすればいいかわからない諦めの心や、泣き出したい程の不安がその隙間を埋める様になり、山を見る事もどんどん恐ろしくなりました。山が見える、真っ黒く山が見える、朝日が当たって銀色に光る山が見える、教室の窓から私だけを睨む様に山が見える、帰り道も、散歩の時も、眠る前にいくトイレの窓からも、山が見える、山に見られている!
最近のティティは安眠とはほど遠い所にいました。眠ったと思ってもすぐに不安で飛び起きてしますのでした。ティティは心の余裕をすっかり無くして、とにかく山の見えない所に行きたいとばかり考えていました。そしてある日、全く自分でも気が付かないうちに遠くへ遠くへと走り出していたのです。

不思議に、いつから走り出したのか、どのくらい走ったのか全然思い出せませんでした。もう、全く知らない土地まで来ていて、ずっと、只まっすぐ走ってきたので、もと来た道をまっすぐ帰れば町に戻れるはずでしたが、遠くにぼんやり火山が見えると、ティティは安心してしまって、道の隅にしゃがみ込んで、三角座りの膝に顔を埋めました。陽はすっかり沈み、辺りは真暗で、秋の虫が鳴いていました。自分の膝からは、赤ちゃんみたいな肌の匂いがして、ティティはいつの間にか眠ってしまったようです。

どのくらいそうしていたのか。ふいに、手に、何かぬるぬるしたものが当たって、驚いて目を覚まし、顔を上げると。

十一、光の中

光の中でした。朝とも、夕方ともわからない、黄色いのもやのような、眩しい光の中にティティはいて、辺りは稲畑で、金色の、実をたっぷりつけた稲穂が、たわわと揺れて、光の粒を反射していました。不思議なのは、全然眩しくないことです。眩しいと感じる光とは、また違う、水のように心地のいい光なのです。風は冷たく、やはり秋の夜風でしたが、ぐんっと強く吹くたびに、光のもやが大きく波打ち、ぶつかり合って、水しぶきのように粒子が散らばり、その様子は信じられないほど美しくて、そのたびに、さわやかに森の匂いがして、肺の中まで喜ぶようなのです。ティティはぼうっとしてしまって、ふと気が付くと、茶色い耳の垂れた野良犬が、不思議そうにティティの匂いを嗅いでいました。さっきティティの手に触れたのは、この犬の濡れた鼻でした。
「きっと私から犬のにおいがするんだ」
その時誰かが犬を呼びました。顔を上げると、誰か立っていて、その人の姿は、辺りの眩しさに、すっかり影になって、真黒にしか見えませんが、体の大きさや、首の辺りがもじゃもじゃしている感じから、ひげの生えたおじいさんみたいでした。
「ここはどこですか」
ティティは言いました。おじいさんは、何か、答えました。
「こはいゆめをみるのです」
ティティは言いました。おじいさんは、何か、答えました。
「わたしだけ火山が噴火することを知ってしまったのです。どうしたらいいのかわからないのです」
稲穂がきらきら揺れました。おじいさんはよく見ると、帽子をかぶっているみたいで、頭のてっぺんが不自然に膨らんでいました。おじいさんは、何か、答えました。
「きっとみんな死んでしまいます。町もなくなってしまいます」
おじいさんは、何か、答えました。
「こはい、わたしはそんなの絶対いやです」
おじいさんは、ティティにいいことを、教えてくれました。いつからいたのか、大きな黒い鳥がおじいさんのすぐ後ろで羽ばたき、斜めに飛んでいきました。ばたばたっ。
「おじいさん、それは本当ですか」
おじいさんは、何か、答えました。おじいさんの黒い影は、だんだん膨らんで大きくなって、いや、それは、ティティの目がおじいさんの姿にずんずん吸い寄せられているからかもしれませんが、
「それは絶対ですね、絶対にそうなるんですね」
その証拠に、ふとした瞬間に、おじいさんの影は、元の大きさに戻っていました。犬がじっとティティの顔を見ています。風がぐっと強く吹きました。おじいさんは、何か、答えました。
「ああ、あ、よかった。きっとですね」
おじいさんの体の内側から、小さな光がぼんやりと輝きはじめ、光はどんどん膨らんでまるで、おじいさんの体を辺りの眩しさに溶け込まそうとしているかのようでした。風はぐんぐん強くなり、金色の稲穂が狂ったように揺れました。おじいさんは、何か、答えましたが、その声は高く、いーん、いーんと辺りに響きました。
「必ずそうします」
ティティは澄んだ声で、そう答えました。稲穂が一斉に、その実を空へと飛ばし、それはまるで、地上から空へと昇る雪のようでした。おじいさんは、最後に何か、言いましたが、風の音で聞こえず、いーん、いーん、いーん、と響いただけでした。とたんに目の前が真白になりました。

さあ、もう私にはこはいことは何もない。目を覚まそう。

夕日をうけて、オレンジ色に透き通った楓の木が、ゆっさゆっさと揺れていました。その葉っぱの間から、青とグレーを混ぜたような空が見え、遠くからは学校のチャイムの音が聞こえて、それは全く平和な、秋の夕暮れでした。ティティはがさりと身を起こすと、湖をぼんやり眺めて、おじいさんの言葉を忘れないよう、つぶやいてみました。
それはもうすぐ始まる。
家の、台所の明かりが灯って、お母さんの影が窓に映りました。ああ、ご飯の時間だ。ティティは思いました。

十二、前日

王宮の前の広場には、国中の人々が集まり、ひしめき合い、手に手に小さな国旗を持って、王子様と、新しい王妃様の現れるのを、今か今かと待ちわびておりました。ティティ一家もそこにいました。指揮者の合図に、楽隊が盛大にラッパを鳴らし、太鼓を鳴らすと、馬車に乗った王子様と王妃様が現れて、群衆はさながら歓喜の海、狂ったように国旗をふって、王子様の凛々しさに、王妃様の美しさに涙するものもおりました。みんな自分のことのように喜びました。2人が教会へ入り、姿が見えなくなると、あたりの店や、家の人たちは、あらかじめ表に出しておいたテレビのチャンネルをひねり、中継の映像をみんなで食い入るようにみつめました。二人が誓いのキスをすると、群衆は再び大騒ぎ。おばあちゃんは、ティティにもいつかこういう日が来るのだと思うと、涙が出て、誰にも気付かれないよう、慌ててその涙を拭いました。式が終わっても、人々の興奮は収まらず、広場はお祭り騒ぎ。王宮の使用人たちは、まるでバケツリレーのように、次から次へとお酒を運んで、みんなに振る舞い、コックはもういくら料理しても追いつかないので、しまいには、包丁も足りなくなって、キャベツを只ちぎって、そこに塩と間違えて砂糖をふってしまったものも、構わず出したりしていました。王宮楽団はワルツを鳴らし続け、それは朝からずっとなので、もうみんなくたくたでしたが、人々が嬉しそうに輪になって踊っているのを見ると、やはり止めてはいられないと、音楽家の意地にかけて、ワルツを鳴らし続けました。知っている人も知らない人も、手と手を繋いでダンスしました。疲れたら、何処でも座って、お酒を飲んで、お喋りして、またダンスして、お祭りは夜まで続き、フィナーレには、国一番の花火師が、大きな大きな花火を打ち上げました。
ぴゅうっと高く、花火の上がる音、一瞬の静寂、夜空、そして爆音、はじける赤や青の火花。終わりと、始まりの、大きな花火が、人々の涙で潤んだ目に映りました。どどーん、どどーんと響く爆音を、全身で感じながら、この国に生まれ、暮らしていることの喜びを噛みしめていました。ですから、花火の震動と相まって、地震に気付いた人は、殆どいませんでした。ラジオやテレビも、地震のニュースを流しませんでした。こんなにめでたい日に、小さな地震のニュースなんて流すこと無いよと、放送局のデスクは言いました。(この人たちもだいぶお酒を飲んでいました)しかし、この地震は、結果的に、火山が噴火する前の、最後の地震となりました。
みなさん、ティティはこの日、どんな気持ちだったのでしょう。明日はむちゃくちゃになる、この平和を、一体どんな気持ちで見ていたのでしょう。どんな気持ちで、隣の人の手を握って踊ったのでしょう、その手の温かさを感じていたのでしょうか。どんな気持ちで、踊る人々を見ていたのでしょうか、足は浮いたように、おばけのように見えていたでしょうか。
そんなことは、全くありません。ティティはこの日、みんなと同じように喜び、笑っていました。隣の人の手からは、その喜びが熱となって溢れているのを感じました、みんなの幸せで、自分の体も浮き上がっていきそうでした。その頃、山の地下では、恐ろしいことへの準備がちゃくちゃくと進んでいるのを知っていながら、ティティは、ちっとも悲しくなんかありませんでした。
ティティは次の日、午前3時、外はまだ真暗な中、こっそり家を出て行きました。

十三、静かな朝

国の大きな祝い事があった次の日は、学校も会社も休みになります。いつも早起きなティティがなかなか起きないのを、お母さんは珍しく思いながら、昨日は夜まで大騒ぎだったし、あの子もたまには思いっきり寝たいわと、そっとして置くことにして、ティティの代わりに白い犬の散歩に出掛けました。おばあちゃんは、いつものように玄関の花に水をやりながら、今日はお店は昼から開けよう、とか考えていました。いつもならば、とっくにパンの焼ける匂いがして、まもなく開店という時なのに、夕べだいぶお酒を飲んだお父さんは、まだベッドで大いびきをかいていました。みんなこんな風に、祭りの次の日は寝坊するので、朝一番にパンを買いにくる人なんていないのです。散歩にでたお母さんも、全然人の姿を見かけませんでした。湖の水面は音も無く揺れ、鳥が高く鳴いていました。お母さんは、祭りの次の朝の、少し気だるい、そわそわした、町の空気が好きでした。
早起きのご褒美だわと、湖に向かって思いっきり体を伸ばして、声に出してあくびして、せっかく開放的な気分でいるのに、今朝の白い犬は、ちっとも落ち着きが無くて、しきりにリードを、家の方へぐいぐい引っ張るので、
「わかってるから、ちょっと待ってよ。せっかくいい気持ちでいるんだから」
とムキになって、リードを引っ張り返しました。散歩はティティに任せっきりだから、私だと落ち着かないんだわ。犬はなおも、家に帰りたそうに、お母さんの顔をじっと見つめていました。
帰ると、おばあちゃんは新聞を読みながらコーヒーを飲んでいて、紙面には、王妃様にキスする王子様の写真に、王子様ご結婚国民大歓喜とありました。
「朝一番に見るニュースがこういうのだと、気分が明るくなるわね」
おばあちゃんは、お母さんがいるのに気付かなかったらしく、はっと顔をあげると、照れ笑いして、そうだね、と言いました。お父さんも間もなく、ぼさぼさの頭で台所に下りてきました。
「おはよう」
「おはよう…、あれ?」
「まだ寝てるみたい」
「ティティが?珍しいなあ」
「コーヒー飲む?」
「今日は店は、もう昼からにするだろう?」
「うん、そのつもりだよ。お母さん、表に張り紙しといてくれよな」
「ああ、そうだった」
お母さんは、真白い紙に太いマジックで、朝はお休みします、昼から開店いたします、と書いてドアに張り付けると、だけど誰か見る人いるかしら、と辺りを見渡しました。町はいまだ静かで、ひとっこ一人いませんでした。お母さんは、ふとさっきの会話を思い出して、
「ティティが?珍しいなあ」
そういえばあの子が寝坊したことなんてあるかしら、と記憶を探ってみましたが、思い出せませんでした。無かったのです。

十四、皺のないシーツ

お父さんは、どんどんパンを焼いて、昼近く、店はようやくいつもの活気を取り戻していました。窓からは人の姿もちらほら見え始めていて、じりりりと電話が鳴ると、さっそく配達の注文でした。
「いやあ、今日は家でもお祝いしようと思ってね、特大の苺のケーキを焼いて欲しいんですよ」
「おめでたいですものね、でもケーキは少し時間がかかるんです。いつ頃までにお届けしたらよろしいでしょうか」
おばあちゃんは、イチゴ、特大、とメモを取りながら尋ねました。
「うん、うん、夜でいいんです。いやあ、めでたいでしょう。もういっぺん家でお祝いしようってね」
「ええ、ええ、本当に。何遍もあることじゃありませんからね。いいことですわ。それで、お宅はどちらに?」
おばあちゃんはにこにこして聞いていましたが、そこへ突然、どたばたとお母さんが現れたので、驚いて危うく受話器を落っことす所でした。お母さんは目をいっぱいに開いて、顔は青白く、何か伝えたそうに口をぱくぱく動かしますが、その表情はあまりに深刻で、おばあちゃんは、ただ呆然とその目を見つめ返すことしか出来ずにいましたが、電話の向こうでお客さんが
「昨日の結婚式は本当によかったですなあ。私ら、王宮の前のパレードを見に行ったですが、お二人とも眩しいくらいに幸せそうで。ああ、よかったなあ。おたくも昨日は行かれましたか?」
と、まだ話したそうにするので、おばあちゃんは、さっとお母さんから視線を外すと、固い笑顔を作って、ええ、とか、本当に、とか言って一所懸命調子を合わせ、お母さんが、おばあちゃん、おばあちゃんと小さい声で呼ぶと、顔をしかめて、ますますお母さんの顔を見ないようにしてしまいました。お母さんは電話のなかなか終わらないのにいらいらして、厨房でお父さんがぼーっと窓の外を眺めている姿が見えたので、おばあちゃんが駄目なら、と足を動かしかけて、止めました。この時はまだ、お母さんの中には、きっと何でも無いという気持ちと、大変なことだという気持ちの、両方があって、お父さんに話すということは、ティティが部屋にいないことの異常さを決定付け、騒ぎを大きくすることになる気がしたので、やはり、いらいらと、おばあちゃんの電話が終わるのを待たなくてはいけませんでした。
「ええ、ええ。では、確かに。それでは……えっ?…ああ、ええ、あははは。はい、それでは。失礼致します」
ガチャリと受話器を置いたおばあちゃんが、きっとお母さんを見て、何だいっ、電話中にっ、と怒鳴るのと同時に、
「ティティがいないのっ」
お母さんは叫んで、はっと反射的にお父さんを見ましたが、全く聞こえていないようでした。おばあちゃんは、何のことだかよくわからず、しかし、もうほとんど泣き顔のお母さんを見ていると、少し胸がざわざわして、小声で聞きました。
「何だい、何のことだい、ティティがどうしたって?」
「だからいないのっ、部屋に」
「なんだいそりゃ、いつも部屋にいるわけじゃ無いだろうよ、あんた少し落ち着きなさいよ」
「おばあちゃん、いいから来て」
お母さんは、無理矢理おばあちゃんを引っ張って行こうとしたので、おばあちゃんは慌てて厨房へ、
「おーい、ちょっと離れるよお」
と言いました。お父さんは、窓の外をぼおっと眺めたまま、おう、と短く答えました。
ティティの部屋に、別に変わったことはありませんでした。気になったといえば、やけに部屋の中が整いすぎている、ベッドのシーツが、まるでホテルのベッドのように、きちんと伸ばされすぎていて、子供の部屋らしくない気はしましたが、それ以外は、ティティの不在以外、いつもと何ら変わりありませんでした。お母さんにも、それはわかっていたようで、はっ、はっ、と息をつきながらも、何を言うでも無く、黙っていて、おばあちゃんはとにかくお母さんを落ち着かせようと、ふむ、と腰に手を当てて、ゆっくり部屋の中を見てから言いました。
「何だい、やっぱり何も無いじゃないか。どこかに遊びにいったんだろ」
「どこへっ」
驚いて振り向くと、お母さんは顔を真赤にして、ぽとぽと涙をこぼしていました。
「どこへ行くっていうんですかっ」
「あんた、一体どうしたんだい?何を心配してるんだい?」
「おばあちゃん。私、今日いつもよりは遅かったけれど、それでも、5時半に起きたのよ、おばあちゃんも、同じ位だったわよね。それからずっと、家にいたでしょう、でも、ティティは、下りてこなかった。一度も下りてこなかったっ、私も、おばあちゃんも、見てないもの、ティティに、何かあったのかもしれない。夜の間に、何かあったのよ、あの子が、黙って出て行くはず、ないものっ」
話は飛躍しているように、おばあちゃんには思えましたが、お母さんの涙を見ているうちに、だんだん不安になってきて、確かに、少しおかしい気がしてきました。いくらティティがいい子でも、この部屋はあまりに散らかってなさすぎる、自分の眠ったベッドのシーツを伸ばす子供がいるだろうか、まるで自分の存在を消すみたいに!
「おばあちゃん、どうしよう、おばあちゃん…」
お母さんは、とうとう床に崩れて、わあっと泣き出してしまい、おばあちゃんは、胸がどくどくして、体が震えるのを隠すように、厳しい声で言いました。
「あんた、泣いたってなんにもならないよっ、まだ何かあったわけじゃないんだ、まだ昼だよ、もう少し待ってみるんだ。出て行ったのに気付かなかったのかもしれないじゃないか」
お母さんは、聞いているのか、いないのか、床に崩れたまま泣いていました。
「どうしても心配だっていうんなら、あんた、探しにいっておいで。店番はあたしがして、息子には、あんたは配達に行ったってことにしておくから…でもね、きっと気付かなかっただけなんだ、何にもあるわけないよ、ティティがいなくなるなんて、そんなことはね…、絶っ対に無いんだ!」
絶っ対に無い。ばかに力一杯叫んだ声が、まるで、自分で自分をあざ笑うかのように、白々しく耳に響いて、絶っ対に、絶っ対に、絶っ対に…、ああ、酷いことになった、とおばあちゃんは、初めて泣きたくなりました。

十五、地面の割れる音

果物屋の店先の、楽しげに太った、赤や黄色のフルーツと同じように、ころんとよく太ったその店の主人は、昼まで眠った体をうんと伸ばして、さあ、準備運動、準備運動と、ティティのお母さんに、元気よく声を掛けました。
「えーい、奥さん、おめでとうさん、家でもお祝いしませんかあ、りんごもぶどうも採れたてだよっ」
しかし、お母さんは、まるで、この世に無いものを探している人のように、ぼんやりと、ふらふら歩いていて、果物屋の主人の声はちっとも耳に入っていないようでした。
「奥さん。どうしたんだい、何か探し物かい」
果物屋の主人は、不審に思って、今度は少し真面目な声でそう聞くと、お母さんははっと振り返り、途端に泣きそうな顔をして、
「ティティが…うちの子が、ここを通りませんでしたでしょうか、その…配達に出て行ったきり迷子になってしまったのです」
「奥さん、パン屋さんだね。てえことはあの女の子か、いやあ。見てないな、まあ俺も寝坊で、さっき店を開けたところだけど」
「そうですか…」
「いつからいないの?」
その主人の声は、もう届かず、お母さんは、じっと地面を見つめ、こんなところにティティがいるはず無いと、本当はわかっていた自分に気が付きました。何故だか、あのからっぽの部屋を見た瞬間から、もう二度とティティには逢えない気がして、仕方ないのです。果物屋の主人は、じっとお母さんの顔を見ていました、あまりに顔色が悪い。ふと、お母さんは、何事か思い出したように、顔を上げて、
「あの、もしも、見かけたら、声を掛けてやって下さい。家に帰るように。どうか、必ずお願いします」
力なくそう言うと、ふらふらと何処かへ行こうとしたので、主人は、慌ててお母さんの肩をつかみ、
「いよいよとなったら、また来なさい。俺も、近所のやつを集めて探すから。なに、狭い町だ、すぐ見つかりますよ。ただ暗くなってからだと、あまり良くないから、極力早く来なさい」
お母さんは、果物屋さんの手の熱さに、とても勇気づけられ、景色もゆがみそうに、まぶたが熱くなりました。それからは、始めに、騒ぎを大きくしたくないと思っていたのも、すっかり忘れて、お母さんは、もう、なりふり構わず、只々ティティに逢いたい一心で、道行く人、道行く人、ティティを見つけたら教えて下さいと、声を掛けていきました。町の人は、みんな親切で、優しく、力強く、ええ、必ずと約束してくれ、お母さんはそのたびに、目が熱くなりました。一番知らせなくてはいけない人に、まだ知らせていないことも、すっかり忘れて。

その頃、おばあちゃんは、店のカウンターに座って、雑誌をめくりながら、そわそわとお母さんとティティの帰りを待っていました。今日はいつもより客足はまばらで、本を読むにはぴったりでしたが、文章はちっとも頭に入ってこず、一行と読まないうちに、外を見たり、ティティのことを考えたりせずにはいれなくて、おばあちゃんは、諦めて雑誌を閉じると、ほおづえをつき目を固くつむって、思考の中へと落ちていきました。まだ何も知らないお父さんは厨房で、大きな苺のケーキを焼いていて、その上機嫌の鼻歌が、おばあちゃんの耳にまで届きました。
あの子がいなくなるはずがない、黙っていなくなるなんて、だって、何も変わったことが、無かったじゃないか、昨日も、あんなに楽しそうに踊って、出て行く理由が無いよ。遊びに行ったのに気付かなかっただけなんだ、いってきますを、大きな声で言わなかったんだ、帰ったら叱らないと。
しかし、ふと、今朝がお祭りの次の日の、最近で一番静かな朝だったことを思い出すと、おばあちゃんはゆっくりと目を開き、知らず知らず大きなため息をつきました。おばあちゃんは、もう、自分もじっとしているのがだんだん辛くなってきて、何でも良いから、何か起こらないだろうか、と考えていました。店の扉が開くとか、電話が鳴るとか。
「あいつ、遅すぎる!先にお茶にしようか」
突然、お父さんにそう言われておばあちゃんは、飛び上がりそうなくらいびっくりしました。
「あ。ああ、お茶か、そうしようそうしよう。ケーキはもう出来たのかい」
「うん、今オーブンに入れたところだから、焼けるまで休憩だ」
お父さんは、帽子を取ると、ふーっと息を吐いて、どすんと休憩室の椅子に腰を降ろしました。
「…そういやあ、今日まだティティを見てないけど、まさかまだ寝てるのか?」
お茶を用意していたおばあちゃんは、ぎくりとして、
「もう出掛けたよ、友達のところへ」
用意していた嘘を、精一杯落ち着いて言いましたが、そんな嘘を口に出して、自分自身、ちっとも信じていないのに、驚きましたが、幸いにも、お父さんは、ちょっと頭を掻いて、全然気付かなかった、とぼやいただけで、それ以上は何も言いませんでした。
と、その時、からんと店の扉の開く音がして、おばあちゃんは咄嗟に、ああ、二人が帰ってきたっ、とそんな気がして、いらっしゃいませと言うのも忘れて、慌てて店へ飛び出しましたが、しかしそこにいたのは、果物屋の太った主人でした。
「まあ…。まあ、果物屋さんの。いらっしゃいませ」
おばあちゃんは、がっかりしたのを押さえて、笑顔で挨拶しましたが、果物屋の主人はドアの前に仁王立ちになって、おばあちゃんを見つめたきり、奥へ入ろうとしません。
「あのう、ご主人?」
「…あの子はどうした」
怒りのこもった、噛み付くような声でした。
「…は?」
「見つかったのか」
おばあちゃんは、ようやく、はっとして
「あの子とは…」
「あんたの家の子だ!他に誰がいるんだっ、見つかってないんだろうっ、山の方が暗くなってきているぞ、雨が降るぞ、早く俺に言えと言ったのに!」
主人は一気にそう怒鳴ったので、お父さんは驚いて店に飛び出しましたが、おばあちゃんはおろおろして、ああ、とか、ええ、とか言うだけで、何が起こったのかわからずきょろきょろして、そんなお父さんを見て、果物屋の主人も、だんだんきまり悪くなってきて、お父さんとおばあちゃんを見て、頭をぽりぽり掻きました。
「ええっと、何の御用でしょうか?ティティが、うちの子がどうした、とか…」
「いや、あんたのとこの奥さんが、子供がいない、子供がいないってふらふら歩いてて、確かパン屋の奥さんだと思ったが、俺は家を間違えたかな…」
お父さんは驚き、目を丸くして、さっとおばあちゃんを見ると、
「見つかっておりません」
俯き、消え入りそうに小さい声でおばあちゃんは言いました。
その瞬間、地面が、がたがた揺れ始め、あっ、と思う間に、上へ下へ、激しく揺れて、パンがぼろぼろ床にこぼれ落ち、そして、バリバリバリイ、とまるで、巨人が大地を破いたような、まるで、雷が自分の隣に落っこちたかのような、凄まじい音がして、地震はぱたりと止みました。その音は、地獄の門が開いたような、足下からぞっとする音で、とても嫌な予感がして、三人は静かに目を合わせました。
「何だ今の音は…」
誰かがつぶやくと同時に、三人は恐怖に足をがたがたさせながら、店の外へ飛び出し、さっと、山を仰ぎ見ると、山頂から、ドドドドドと音を立てて、どろ色の煙が噴き出し、三人が唖然としてる間にもそれは、ずんずん膨らんで、山そのものより、高く大きくなり、太陽を覆いました。ふいに、硫黄の匂いがツンと鼻をついて、おかげでお父さんは、ようやく我を取り戻し、
「噴火だ、噴火しちまった」
果物屋の主人は、口をあんぐりあけたまま、一歩、二歩、後ずさりし、それから、だっと走り出し、噴火だぞおっと大声で叫びながら、何処かへ行ってしまいました。お父さんはとたんに不安になって、こうしてはおれんと、
「ばあさん、俺たちも逃げるぞっ、ティティと母さんは何処へいったんだ!」
とおばあちゃんの肩を揺らしましたが、おばあちゃんはすっかり放心して、山を見つめて、ああ、ああ、と言うだけで、
「しっかりしろばあさん、逃げるぞっ、母さんは何処だ、ティティは何処いった!」
暴力的なまでにおばあちゃんの肩を揺らしましたが、全く駄目でした。お父さんは、ここにいろと言い残し、おばあちゃんをその場へ置いて家に走り、獣のように階段を上って、ティティの部屋の扉を勢いよく開けましたが、やはりそこには誰もおらず、続いて自分たちの寝室と、おばあちゃんの寝室の扉を開いて、はっと思い出して、もう一度ティティの部屋へ行き、ベランダの窓を開きましたが、やっぱり誰もいませんでした。そこで、お父さんは、がっかりするのと同時に、恐ろしいものを見ました。ティティの部屋のベランダは、湖に面していて、いつもならば、湖と山の壮観な景色をあおぐことができるのですが、いま、その湖からは、気泡がぷつぷつと出て、時折、大きな泡がぼふっと音を立てて弾け、湖面は熱さにゆらゆらと揺れているのです。呆然としてその光景を見ているうちに、喉の奥がぴりぴり痛み始め、はっとして、このガスは、絶対に長く吸ってはいけないと思うと、お父さんは一瞬、恐ろしさに体が動かなくなって、床から足を引き剥がすみたいに、ゆっくりゆっくり後退して、つまづいて後ろにひっくり返り、四つん這いになりながら、転がるように家の外へ飛び出し、店の前で放心しているおばあちゃんをおぶさり、とにかく湖から離れなければと、がむしゃらになって走り出しました。火山はもうもうと煙を吐きながら、時折、どんっどんっと大砲のような音を立てて火弾を打ち出し、青い雷が、ばりばりと、竜のように煙を取り巻き、お父さんは、パニックになった人々の群れに足を取られながら、その光景を美しいとさえ感じました。逃げ惑う人々の中には、同じように、ぼんやり山を見ている人もいれば、両手いっぱいに荷物を持って、人を押しのけながら泣き叫ぶ人もいましたが、お母さんとティティの姿を見つけることは出来ず、二人ともどうか生きていてくれよ、お父さんは心の中でそう願って、そう願ってびっくりしました。生きていてくれ、だと?そうだ、俺たちは死ぬかもしれないんだ、よほどうまくやらないと今日、死ぬかもしれないんだ。
全く信じられない、全く信じられないぞ!お父さんは、ふっと笑いたくなって、うわはははと大笑いして、そして顔をくしゃくしゃにしてぼとぼと泣きました。周りの人は、お父さんを怪訝そうに、ちらりと見ただけでした。火山は、ますます激しく火の玉を打ち上げ、それは人々に、昨日、喜びの中で見た花火を思い出させました。一体どこからが夢で、どこまでが現実なのか。今では、もう、昨日のお祭りは、この、全く突然の悲劇を、強める為のシナリオとしか思えませんでした。誰が、死火山と呼ばれていた山が、噴火すると思ったでしょう。何万分の一の確率が、自分の身に降り掛かるなんて、一体、誰が?人々はまるで、(逃げ惑う人々)と名のついた、その他大勢の役者のように、一様に泣き、叫んで、右往左往するしかないのでした。やがて、煙で覆われた空からは、恐ろしいほどの灰の雨が降り始め、人々の視界は奪われて、舞台は真っ暗になりました。

十四、終わり

山頂に近付くにつれ、灰はどんどん濃くなり、自分の手の先も見えないほどの暗闇の中、ティティは四つん這いになって、山を登りました。火口から火弾が飛び出す、ものすごい爆音に、いつしかティティの鼓膜は破れ、辺りは全くの無音になり、真っ暗の灰の中、火の玉を目で確認しながら山を登るしかありませんでしたが、どうしたわけか、さっきからぴたりと火弾は収まって、山の震えも止まり、辺りは妙に静かになりました。ティティは地面の感覚だけをたよりに、ひたすら山をよじ登っていきましたが、辺りは本当に真っ暗で、だんだん、自分は登ってるのか、降りているのか、よくわからなくなり、ふと雷が光った時、辺りが真っ平らの畑になっているように見えて、あれと思ううち、また雷が音も無くカッと光って、やはりどこまでも、稲畑が広がっているのです。稲穂がふわりと風に揺れたのも、はっきり確認出来たくらいで、ティティは、畑を歩いているんだと思うと、安心して立って歩くことが出来ました。辺りは相変わらず、真っ暗でしたが、ふと、ずっと先に人の姿が見えて、その人の姿は不思議とぼんやり光っていて、見失うことが無かったので、ティティはまっすぐその人に向かって歩いていくことができました。カッと、雷がまた光った時、ティティは、たくさんの人と動物が、畑の畦道にそって、ずらりと並んでいるのを見ました。それらは、じっと動かず、ただティティを見ていました。ティティは、なんだか賑やかになって、楽しくなって、ずんずん光る人に近付いていきました。その時、その人の姿が、突然ぐんっと空高く伸びて、体の幅もどんどん広がり、眩しく輝いたので、ティティはようやく、それが火柱なのだということに気が付きました。音もしなければ、熱さも感じませんでした。ただ、まばゆいばかりでした。火柱が収まったので、ティティは走ってその火口へ近付き中を覗き込みました。溶岩とは、もっともっと恐ろしげなものかと思っていましたが、案外、きらきらとして気持ち良さそうで、ティティはここだ、と思うと、地面を力一杯、蹴り上げました。

火砕流は、今まさに、町を襲わんとしていました。湖で起きた爆発が起に、ティティの家はとっくに消し飛んでいました。パックリ開いた地面のひび割れに、家ごとのみこまれてしまった人もいました。ガスを吸いすぎて、体が動かなくなった人が、何人も道に転がっていました。安全な高台まで、何とか逃げることの出来た人々は、皆一様に、顔も体も灰で真黒にして、赤い口をぼんやり開いて、燃える山を見つめていました。その中にはティティのお父さんとおばあちゃんの姿もありました。
「…火山研究所はどうした」
誰かがようやく思い出した、というふうに呟き、その途端、人々は、そうだ、なにをしていたんだ、なぜ何も知らせなかったんだ、と目をぎらぎらさせ火山研究所をののしり始めました。中には、朝、白い服を着た研究員が、町から逃げていくのを見た、という人までいました。しかし、実際のところ、研究員は全員、火山研究所もろとも焼け死んでしまっていました。一番最初に溶岩に襲われたのは火山研究所でした。彼らは、噴火の兆候を認めていたのか、今日一日、一体何をしていたのか、何故、すぐに逃げなかったのか、それはもう誰にもわからず、ただ確実に言えることは、彼らは、町を守るという約束を果たせなかったということでした。

怒り狂い、泣き叫ぶ人々の中に、お父さんはお母さんの姿を見つけ、慌てて駆け寄り、肩を掴みました。
「おいっ、お前」
はっ、とお母さんは、その声に我を取り戻すや否や、
「ティティは?」
お父さんと同時に叫びました。お母さんの涙と疲労でむくみきった顔がみるみる崩れていくのを、お父さんは、じっと見つめました。自分はもう涙する気力もありませんでした。おばあちゃんが、お母さんに駆け寄り、覆いかぶさって、一緒になって大きく泣きました。
「ティティが、いなくなるはずない、ティティが、いなくなるはずない、あんなにいい子が、いなくなるはずは無いんだ」
周りの人々は、この家族に、ちらりと疲れた視線を投げ掛けただけでした。みんな今日、何かを無くしたのです。
突然、火山のてっぺんが爆音を立てて崩れ、落ちた岩石が火道を塞ぎ、噴煙は急速に収まりました。とたんに山は、不気味な程、おとなしくなり、それは、まさにティティが、その小さな体を火口に投げた時でした。

こうして、噴火は収まりました。夜があけて、恐ろしい煙が晴れてみると、噴火が早く止まったおかげで、幸いにも、壊滅はまぬがれたようでした。生き残った人々は、その後、町を離れる人もいましたが、多くは残り、土壌の豊かさを求めて、新しい人々も移り住み、100年程すると、町はすっかり元の姿を取り戻しました。
                   終

ティティ

ティティ

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-10-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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