タブチさん

 冬の夜に握る金属バットは冷たい。
 薄汚れたそれを素手で撫でながらそう思った。
 何度も素振りをして、今日の調子を確かめる。
 腰の回転を意識して、ボールを上から叩くように。先日タブチに言われたことをふと思い出す。バットを振ると風を切る音は鋭く、今日はきっとホームランが打てるような、そんな気がした。
「よし」
 俺は呟いて、120kmと描かれたバッティングマシーンに200円を入れた。

 仕事おわりにここのバッティングセンターに来るようになったのは、俺がサラリーマンになってちょうど一年目のことだった。なんとなく運動不足の解消になればいいな、と思った、ただそれだけの理由だ。それに、デスクワークのあと、バッティングセンターでバットを振る自分というものも味わってみたかった。そういう姿はドラマなんかで見て、サラリーマンの普遍的な姿の一つとして自分のなかにあった。
 スーツを着たまま無心でバットを振り、白球を跳ね返す男たち。
 なんだか闘う男という感じがして、かっこいいじゃないか。
 白球、薄給、白球、薄給、と心の中で呟いて、俺はひとりほくそ笑んだ。
 意味は無い。
 ボールをどれだけ遠くに飛ばしても、俺の給料は変わらない。でも、何にでも結果を求められる日々のなかで、そういったことはすごく価値があるように思えた。といってもほんのお遊びで、何度も通おうなんて気はさらさらなかったんだ。
 そうなったのは、紛れも無くタブチのせいだった。

「相変わらずダメダメだな」
 打席と外とを区切るネット越しに、タブチが言った。いつのまにか来ていたらしい。
「そんなことはない、ヒット性のあたりも多かった」
 俺はたった数本の、鋭く飛んだ自分の打球を思い返しながら言った。あの数本は、きっと宮本でも井端でも捕れないだろうと思った。惜しむらくは、ボールが飛んだのはあさっての方向で、試合なら完全なるファールだということだ。
 俺がムキになるのを見て、彼は笑った。
「代われよ、手本を見せてやるから」

 タブチが自前の黒いバットを取り出すのを見ながら、俺はヤツと出会った日のことを思い返していた。といってもなんてことはない。今日と同じように、俺が不器用にバットを振り回すのをヤツが見ていたというだけだ。
 それは俺が仕事終わりにバッティングセンターに行った、3度目のことだった。
 同じ打席に1000円ほどを投じ疲れきって打席を降りた俺は、見知らぬオッサンのニヤニヤ笑いで出迎えられた。タブチはよれたグレーのスーツを着て、流行遅れのダサいネクタイをつけていた。いかにも仕事のできなさそうな、しょぼくれたオッサンだ。ああはなりたくない、と普段心の中で馬鹿にしている、そんなオッサンだった。
 しかしそのオッサンは今、俺のことを見下したように笑って立っている。
 俺は腹がたって、なんだよ、誰だよ、と言った。
 ヤツはますます笑って、下手くそだな、と言った。
 あんたはどうなんだよ。
 俺の言葉にニヤニヤしたまま頷いて、ヤツは俺と入れ代わりに打席に入った。
 俺はヤツを舐めてかかっていた。
 まさかこんなヤツが、俺より打てるわけがない。
 そう思っていた。
 そして、あの時もヤツは自前の黒いバットを取り出し、流れるようなキレイなフォームでホームランを量産したんだ。
 汗のひとつもかかずに出てきてタブチは、また「下手くそ」と言った。俺は悔しくて、なんにも言えなかった。
 タブチはニヤニヤしたまま俺にバットを握らせ、バッティングの基本について教授しはじめた。
「あんた、名前は」
「タブチだ」
 俺はタブチに促され、ヤツの教え通りにバットを振った。
 ブン、と鋭い音がして、白球が遥か彼方に飛んでいくのが見えた気がした。
「ムカつく野郎だ」
 俺が呟いても、ヤツはニヤニヤと笑うばかりだった。
「いつか、あんたを超える」
 俺はタブチにバットを突きつけた。メジャーリーグのバッターが、予告ホームランをするように。我ながらなかなかにカッコイイ。
「絶対に、無理だ」
 ヤツは目をしばたたせて、予言をするようにただそう言った。俺たちの他には誰もいない、閉店間際のことだった。

 そうして、実際ヤツの予言通りになった。
 どれだけバッティングセンターに通っても、俺はタブチを超えるどころか一本のホームランも打つことができなかった。
 そんな俺を横目に、タブチはいとも簡単にホームランを量産し続けていた。
 いつしか俺は、タブチに勝利宣言をしたことを後悔しはじめた。
 ヤツはきっと、元高校球児とか、そんなのに違いない。
 小さいころから地元のチームで野球に打ち込み、確実に技術と力を蓄えたタブチ少年は中学生にして誰もが認めるスラッガーとして有名になる。高校は当然野球の名門に進学し、敏腕の監督と才能に溢れたチームメイトに囲まれ、より一層野球に打ち込むタブチ少年。ぐんぐんと力を伸ばすタブチ少年に、プロのスカウトも練習を覗きにくるほどだ。
 タブチ少年のプロ入りは間違いないかと思われた。
 高校二年の夏、あの大きな怪我をするまでは―。
 自分に都合のいい妄想は際限なく広がっていった。
 俺はタブチの存在を無闇に神格化した。俺と違って十分な金と時間をかけひたすら野球に打ち込んだタブチ。本当なら大きな野球場で、満杯の観客を沸かせていたであろうタブチ。ちょっとした事故で選手生命を絶たれてしまったタブチ……。
 ヤツには敵わなくても仕方ない、と保険をかけたんだ。
 一方でタブチに挑み続けることは辞めなかった。
 俺にだって、プライドがある。そう言い聞かせて、バッティングセンターに通った。そうしてタブチに健気にも挑み続ける自分をこっそり讃えた。自分で自分にかける憐情は妙に心地よかった。
 公然のプライドと秘密の諦めとの間には気持ちの良いぬるま湯があって、俺はそこに浸り続けた。
 いつか、本当にタブチを超えるときが来るかもしれない。
 例えばいつか途方もない時間がたって、ヤツが老いぼれてバットも振れなくなったときとか。そんなことを考えて、俺は自分に呆れ笑いをしながらもバットを振り続けてきたのだった。

「お前はさ」
 タブチがボールを打ち返しながら言う。白球はキレイな角度で飛距離を伸ばし、遠くのネットに描かれた「ホームラン」の文字に突き刺さる。
「進歩しようって気がないから下手くそなんだ」
「そんなことはない」
 嘘だった。
 近頃はタブチの教授もろくに聞かず、やたらめったらにバットを振り回すばかりだった。まぐれ当たりを期待する俺の汚いスイングは、どうやらタブチにはお見通しだったらしい。
「本当か?」
 ヤツの黒いバットは鋭く弧を描き、次の瞬間ボールははるか彼方にある。またホームラン。
「うまくなろうって、必死だよ」
「嘘だ」
「わかんないだろ」
「嘘だね」
 ピッチングマシーンの投げる正確無比な投球をタブチもまた憎たらしいくらい正確に打ち返す。ボールはショートとサードの間あたりを、うなりをあげて飛んでいった。いい当たりだ。三塁打。
「確かに、本当に必死かと言われると違うかもしれない。俺はサラリーマンで、野球は本業じゃないからな」
 俺はヤツがポンポンと長打を量産するのを見ながらそう言った。
 そうだ、野球は俺の本業じゃないんだ。それなのに、なんで俺はこんなオッサンに偉そうにされているのだろう。そう思うと、なんだか馬鹿らしくなった。
「あんた、偉そうにしてるけど、仕事の方はどうなんだ。見たところ、バリバリのビジネスマンってわけじゃなさそうだけど」
 俺の嫌味に、タブチは返事をしなかった。
 それで俺は調子にのって、まるで言わなくていいことを言った。
「俺も昔、野球をしていた。高校からはじめて、チームは弱かったけど、それなりに頑張ってたんだ。必死にバットを振って、捕れない打球もけなげに追いかけた。俺もアンタと同じで、野球少年だったんだよ」
 俺の頭に、当時の情景が蘇り始めた。
 砂埃の舞う石ころだらけのグラウンド、ボロボロの野球道具。試合はいつも一回戦負けで、それでも家族は応援に来てくれた。
 小さな旗に俺の名前を書いて、それを母さんは観客席で恥ずかしそうに振った。
「まあ、下手くそすぎてアンタは気づかなかったみたいだけど」
 俺は自嘲気味に笑っていった。
 いつしかタブチはバットを振ることをやめていた。ネット越しに黙って俺を見ていた。ピッチングマシーンが投げたボールは鈍い音を立ててネットにぶつかり、コロコロと地面を転がった。
「俺にとって、野球は本業じゃないんだよ。今も、昔も」
「じゃあ、お前の本業ってなんなんだ」
 俺はタブチの言葉に答えることができなかった。
 そんな俺を見て、タブチは口を歪めて笑った。
「お前さ、あんまり必死にバット振ってるもんだから。それこそ、鬼の形相さ。ありゃ、仕事に満足いってるって顔じゃなかったぜ」
 気が付くとタブチは目の前にたって俺を見下ろしていた。
 俺はバッティングセンターにはじめてきたときのことを思い出していた。
 あの日も俺は部長にこってりしぼられて、気がついたらここに来ていたのだった。
 なんだかんだと理由をつけて、バットを握る手には掌が痛いくらいに力が入っていた。
「年長者として言ってやろう」
 タブチの顔には、なんの表情もなかった。俺は黙ってヤツの言葉を待った。
「お前は大きな間違いを犯している。目の前の嫌なことから逃げ出すのは、間違いだ。あとで後悔する。逃げ出した先に中途半端にプライドを置いてちまちま続けるのは、もっと間違いだ」
 そのときタブチの顔にはじめて感情が浮かんだ。嫌なものを見るような、侮蔑の表情だった。
「そんなことをしたら、野球に失礼だろうが」
 それだけ言われても、俺は何も返す言葉がなかった。
 ただ、高校三年になるころ、野球部を辞める、と伝えたときの、母さんの顔を思い出していた。
 受験もあるしさ、と言った俺に、母さんはただ一言、そうね、とだけ言って寂しそうに笑った。

「俺はさ」
 俺は立ち上がって言った。
「野球が好きなんだ」
 タブチの手からヤツの黒いバットを奪い、打席に入った。
「昔っから、野球選手に憧れていた」
 200円を投入して、バットを構える。モニターに描かれたピッチャーが、大きく振りかぶった。
「ホームランが、打ちたかったんだ!」
 俺の振ったバットがボールに当たったとき、いつもとは違う感触がした。
 白球を力強く跳ね返す、確かな手応え。
 バットを握る手がビリビリ震えた。
 今までのバッティングとは全然違う、得も言われぬ快感がそこにはあった。
 俺の放った打球は、まっすぐにバックネットへ吸い込まれていった。
「俺だって、やればできるんだよ」
 タブチにはそう言ったものの、俺は自分で自分に驚いていた。
 気持ち一つで、俺はこんなバッティングもできるのかと、感動しさえしていた。
 今までの自分に、無性に腹が立った。
 なんてもったいないことをしていたんだろう。
 昔も、今も、俺は間違いを犯していたんだ。
 タブチはニヤニヤ笑って、「その意気だ」と言った。

 ネットくぐり打席を降りた俺に、タブチが言った。
「お前にもうひとつ、間違いを教えてやる」
 タブチは俺からバットを奪い返した。
「お前はさっき、アンタと同じで俺も、と言ったな」
「言った。アンタも俺と同じで、野球少年だったんだろう?」
 タブチは答えず、ブン、とバットを振った。
「それが間違いだ。俺は野球はやっていなかった」
「じゃあアンタは、独学でそこまでのバッティングを身につけたっていうのか」
 にわかには信じられなかった。タブチの打球はいつも鋭く、打ち損じたところなど見たことがなかったのだ。
「俺は野球なんてロクにできない」
「嘘だ」
「そうなんだよ」
「ポンポンと簡単そうにホームランを打つじゃないか」
 タブチは俺にヤツの黒いバットを渡し、先端の太い部分を触らせた。
「このバット、ゴム製だ。固めの、弾力性抜群の、少年野球とかで練習に使う、当てさえすれば誰でも飛ばせる」
 俺はヤツの顔を見た。ニヤニヤと笑うタブチは、どこからどう見てもただのしょぼくれたオッサンだった。
「俺にとって、野球はただのストレス解消法なんだよな」
「騙しやがって」
「ボールを飛ばすと、気分がいいからな」
「そんなの詐欺だ」
「『俺だって、やればできるんだよ』」
「やめろ」
「ナイスバッティングだったぜ、若者よ」
 そう言ってタブチはバットを抱えて、愉快そうに笑いながら帰ってしまった。
 結局、あのオッサンの本業はなんだったんだろう。
 聞きそびれてしまったことは残念だったけれど、そんなことはどうでもいい気もした。
 なんにしろ、俺はあんなしょぼくれたオッサンに負けるわけにはいかない。それだけはハッキリしていた。
 俺が200円を入れた打席では、ピッチングマシーンが無人のホームに向かってボールを投げ続けていた。

タブチさん

タブチさん

かっこいいオッサンが出てくる話です。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted