世界で一番やさしいケモノ #2

「いただきます」
 すぐそばでそんな声が聞こえ、
「はむ」
 噛まれた。
 最初は甘噛みという感じだったが、徐々に力がこもってきて――
「……っ痛ぇーな! おい!」
 さすがにそのまま寝ていられず、俺はベッドから跳ね起きた。
「おい!」
 怒鳴られた御冬は、俺の右腕にかみついたまま、きょとんという目でこちらを見つめていた。
 俺は、左手でいらいらと頭をかきながら、
「何やってんだよ、おまえは!」
「………………」
 御冬は俺の腕から口を離し、そしてぽつり、
「朝ごはん」
「ざけてんじゃねーよ。なにが、朝ごはんだ」
「あ」
 はっと目を見開く御冬。さすがのこいつも今回のこれはおかしいと気づいて――
「いただきます」
「え?」
「忘れてた」
「いっ、いやいや、そうじゃねーだろ? 朝っぱらからこんなことしてんのが……」
「おはようございます」
「………………」
「忘れてた」
 そして御冬はあらためて、
「はむ」
「って、噛みついてんじゃねーよ!」
 勢いよく右腕をふりまわし、小さな御冬の身体を吹き飛ばす。しかし、御冬は空中でくるりと一回転し、壁に足をついて膝のクッションで反動を消したあと、またも一回転して音もなく床に着地してみせた。まるでサーカスのような軽業。しかし、俺たちにとってこの程度の動きは目をつぶってでもこなせる。
「ハル」
 御冬がかすかに恨めしそうな目で、
「おなか、すいた」
「あー、そーかそーか。じゃあ、いま、メシ作っから。まだ卵とハムが残ってて……」
「ハルを食べたい」
「………………」
「ハルは朝ごはん」
「じゃねーよ!」
 ああもう! 朝から大声出させるなってんだ!
「いいか、御冬」
 もう何度目になるかわからないが、兄貴という立場として何度でも言い聞かせる必要がある。
 俺はベッドを下り、ハルと目線を合わせるようにしゃがみこんだ。
「俺たちは、同族は喰えねえ」
「食べる」
「『食べる』じゃねえ、食べられねえっつってんだ! つか、まだ人間も食えねえガキがなに言って……」
 そのときだ。
「っ!」
 ぎりぎりだった。俺が上半身をのけぞらせた直後、御冬は俺の顔があった場所でがちんと歯を閉じた。
「むぅ」
 不満そうに唇をとがらせる御冬。俺はあせって、
「なっ、何しやがるんだよ、おまえは!」
「おいしそうだった」
「だからって、いきなり人の顔に噛みつこうとするんじゃねえ!」
 こいつには、俺の鼻がミートボールにでも見えてるのか? 我が弟ながら、その感覚は俺の理解をはるかに超えてしまっている。
 それでも俺は兄として辛抱強く、
「いいか、御冬? 百歩ゆずって、おまえが俺を食ってもいいとするぞ」
「いただきます」
「だから、待て! 食ってもいいっつったけど、おまえにその力があるかどうかは別問題だ」
「力?」
「そうだよ」
 説明するより手っ取り早いと、俺は御冬の首筋をつかんで子猫のように持ち上げた。
「何をする」
 じたばた、じたばた。
 つまみあげられた御冬が手足をふり回して暴れる。飛んできた拳や蹴りを、俺はすべてかわして見せる。そして、御冬をつかんでいる手は微塵もゆるがない。
 これが俺と御冬との、厳然とした力の差だ。
「ほら、どうした」
「むぅ」
「わかったか? これがいまのおまえの力だよ。これくらいで、俺のことを食うとか言ってんじゃねえ」
「………………」
 ぶうっと頬をふくらませる御冬。しかし、俺の言うことに納得したのか、再び暴れ出すようなことはなかった。
 俺は、御冬を下におろした。
「ほれ、朝メシにすんぞ。俺を食いたかったら、ちゃんとメシを食え。食って俺よりでかくなって強くなれ」
「わかった」
 ふん、と気合を入れるように鼻をならし、御冬は早足に台所へ向かった。
(……よけいなことを言いすぎたか)
 いくらその場しのぎとは言え……。妙にやる気になっている御冬を見送り、俺はため息まじりに頭をかいた。
 と、
「ハル」
「うおっ!」
 不意に戻ってきた御冬に、俺はさすがに意表をつかれた。
「な、なんだよ、御冬!?」
「管理人」
「あ?」
「管理人が来た。話があるって」
「あ……」
 俺は一瞬で我に返る。
 たびたび言われていたのだ……マンションの中ではもう少し静かにしてほしいと。
 おそらく、さっきのドタバタを隣のやつが聞きつけ、それで――
「ったく……」
 俺はさらに大きなため息をついた。

 俺の名前は、月村春(つきむらはる)。
 北藍男子高校の養護教諭。いわゆる保険の先生だ。
 これまで大した事件も起こさず、やるべき仕事は無難にこなし、周りともうまく折り合いをつけてやってきたこの俺がいま――
「つきあってください、月村先生」
 告白されていた。
 俺の職場――学校の保健室で。
「………………」
 言葉をなくした俺は、つとめて冷静さを保とうとしながら、
「……えーと……なんて言いました、志藤先生?」
「だから、つきあってほしいんです! 月村先生に!」
 そう言うと、目を輝かせぐっと顔を近づけてきた。
「いやいやいや……」
 顔をそむけ、小さく口の中でつぶやく俺。
 なんで、男子校で、しかも男の教師にこんな昼間から告白されなきゃならねえんだよ……。
 俺はちらりとそいつのほうを見る。
 志藤大地(しどうだいち)。
 今年赴任したばかりの新米数学教師。新米といっても、すでに三十を過ぎている。結構いい大学の研究室にいたとのことだが、興味がなかったのでよくは覚えていない。学歴があろうとなかろうと、そんなものそいつの〝味〟には何の関係もない。
 三十代に見えないほどの童顔。加えて新米らしいフレッシュさというか、そういう類いの若々しい精気にあふれているため、さらに幼く見える。美男というほどではないが、顔立ちは整っているほうだろう。スーツにしわや着崩れはなく、髪型もさっぱりとして全体的に清潔感がある。かといって四角四面な印象はなく、むしろ小動物のような愛くるしさを感じさせ、周りからかわいがられるタイプだろうと思われた。
 いや、だからといって、俺がかわいがってやるつもりはないのだが。
「あの……」
 一応、同じ職場に勤める同僚だ。本当ならすぐにでも怒鳴りつけ拳の一発でもくらわせてやりたいのだが、俺はそれを抑え、
「えーと……ちょっと意味がわからないっていうか……」
「わからないですか!?」
 無意味な大声で返す志藤。そのテンションに俺はさらにいらっとさせられる。
「つきあってほしいんです! つきあってもらいたいんです、月村先生に!」
「あの……それは十分に……」
「自分一人では不安なんです……だから月村先生に……」
「ああっ! もうそれはいいんだよ!」
 俺はあっさり我慢の限界を超える。
「いいか!? こっちにそのシュミはねえ!」
「趣味?」
「だから、つきあえねーって言ってんだよ!」
「そんな……」
 とたんに飼い主に捨てられた小犬のような顔になり、
「お願いします! つきあってください!」
「ざけんな! なんで俺がつきあわなきゃならねーんだよ!」
「月村先生が保険の先生だからです!」
「な……!? お、おまえのそんなマニアックな趣味とか知るか! 他の保険医に頼みやがれ!」
「でも、うちの保険医は、月村先生じゃないですか!」
「知るか! この学校の保険医であっても、おまえの保険医になるつもりはねえ!」
「そんなこと言わずにつきあってください! できれば、いい人も紹介してほしいっていうか……」
「は、はぁ!? てめえ、俺一人じゃ足らねえっていうのか? どこまで鬼畜野郎なんだよ!」
「けど、先生は専門ではないでしょう……」

「心のほうは」

「こっ……え?」
 俺は思わず声をつまらせる。
 ココロ? 心?
「………………」
 ひょっとして……俺は何かとんでもないカン違いを――
「こんなこと他に相談できる心当たりがなくて……ネットで探すのも不安ですし……」
「お、おう……」
「だから、よろしければ月村先生に紹介していただきたいんです。そして、よかったらそこへ行くのにもつきあってほしいというか……いい年をして情けないとは思うんですが」
「………………」
 俺は、なんとなくわかり始めていた。
「近所の内科へ行ってはみたのですが、身体には特に悪いところがないとのことで……となると、やっぱりこれは精神的なこととしか思えないんです」
 あぜんとしている俺に、志藤がぐっと顔を近づけてくる。
「お願いします、先生! どうか……どうか僕のことを……」
 そのとき、
「うおああっ!」
 頭の悪そうな驚き声に、俺ははっとなった。
「う……」
 最悪だ……顔を向けたそこにいたのは、
「おいおいおい……センセら、何やってんの!?」
 志藤がいなかったら、有無を言わさずたたき出していただろう。保健室の入口に立っている矢田部は、あたふたとこちらを見て、
「え? え? つか、上も下も見境なしかよ! ケダモノかよ!」
「はぁ?」
 何を言っているんだ、このバカは。……まぁ、ケダモノであることはある意味間違いではないが……いやいや〝ダ〟は余計だ〝ダ〟は。せめて獣と……と、そんなことを俺の口から言えるはずもなく、
「あんた、この前は弟とやろうとして……今度は教師!? ケダモノだよ、マジケダモノがここにいるよ!」
「っ!」
 そのとき俺は気づく。
 顔を近づけてきたとき、志藤が同時に俺の両手を包みこむように握っていたことに。これでは誰がどう見たってそういうことになってしまう。
「お……おいっ!」
 意味なく声をあけ、俺はあわてて志藤の手を払いのけた。この状況で何を言うべきかあせって考えたあと、ひとまず、
「……おい、馬鹿」
「え? なにそれ、俺のこと?」
「いいか……このことは誰にも言うんじゃねえぞ」
 矢田部が息をのみ、
「それって……じゃあやっぱりホントのホントにマジってこと!? 人に知られちゃマズい関係ってこと!?」
「違う! いいから何も見なかったことにしろ! わかったな!」
「………………」
「聞いてんのか!? おい!」
「……ちょっと、センセぇー」
 不意に矢田部が小ずるそうな笑みを見せる。俺はいやな予感しかしない。
「『何も見なかったことにしろ』とかさー、それ、どういうつもりで言ってんの?」
「は?」
「あれー、わかってないの? 先生、俺に弱みを握られてんだぜ? 秘密にしてほしかったら誠意ってものを……」
 くらわせてやった。
「うぎゃああああああああああああああああああああ!」
「ほら、お望み通り。握ってやったぜ」
「ちっ、違っ……! なんでそっちが握っ……ぎゃああああああああああああああああああああ!」
 矢田部の絶叫を聞きながら、俺はさらに顔面をつかむ手に力をこめてやる。
「や、やめっ……マジやめっ……わ、割れるうううっ!」
「割るのもいいな。そうすれば静かになってくれそうだ」
「い、言いません言いません言いませんっっ! ここで見たことは何にも誰にも言いませんからあああああっ!!!」
 フン。これくらい痛めつけてやれば十分だろう。本当に握りつぶしてしまったら、あとで掃除するのが面倒だ。
「おっ……おぼえてろよーーーっ!」
 相変わらずの三下ゼリフを残して、矢田部は一目散に逃げていった。そのあまりに馬鹿すぎる姿に、どうしようもなくため息をついてしまう。
 と、
「ありがとうごさいます!」
「……は?」
 突然礼を言ってきた志藤に、俺はけげんな顔になる。
「僕のためにこんな……本当にすみません!」
「いや、おまえのためっていうか……」
「あっ、そうですね。学校のためでもありますよね。教師の僕が精神的に不安定なんて知られたら、生徒たちが心配しますから」
「………………」
 どうもこいつは、俺が怒った理由をまったくわかってないらしい。
 まぁ、いい。わざわざ教えてやる必要もない。
「ですが」
 志藤の目が、かすかに非難するような色を帯び、
「生徒をいじめるのは……どうかと思います。もっときちんと、このことを秘密にしてくれるよう頼めばよかったのではないでしょうか」
「あのなぁ」
 あまりにのんきな発言に、俺は猫を被ることも忘れ、
「あいつは馬鹿なんだよ、馬鹿。馬鹿には言って聞かせるより、ああしたほうが手っ取り早いんだって」
「そうでしょうか……」
 不満そうに口をとがらせる志藤。こういう仕草がいちいち子どもっぽい。
 俺は、もうさっさと話をすませようと、
「で、なんなんだよ? 心のほうの問題ってよ」
「………………」
 志藤の表情が曇り、無言のまま目をそらす。
 子どもっぽいだけじゃなくて、女々しい。俺はさらにいらつくのを感じながら、
「言えねーのかよ。だったら、こっちも何もできねーぜ」
「っ……」
 それは困ると言いたそうに志藤は顔をはねあげ、しかし、すぐに恥ずかしそうにまた顔をうつむかせる。
「おい!」
「………………」
 わずかな沈黙のあと、志藤は消え入りそうな声で語り始めた。
「……です」
「は?」
「……だめだと……思うんです」
「だめ? なにが」
「だから……こういうことは……やっぱり素人の月村先生に話すより専門家の先生に聞いていただくほうが……」
 キレた。
 気づいたとき、そこには俺に胸倉を強くつかまれ、呼吸困難で意識を失った志藤の姿があった。

「やさしいねー、はーくんは」
「おい」
 視線だけで貫き通すとばかりに、俺はそいつのことをにらみつけた。
「何度言わせんだ、ヘボ医者。今度そう呼んだら、ぶっ殺す」
「わー。ボクのこと殺すんだー。そのあと、じっくりと味わってくれちゃうわけ? 屍姦ってやつ?」
「ぶっ!」
 とんでもないことを言われ、俺は思わず吹き出した。
「なっ……バッ……! するか、ンなこと!」
「えー? じゃー、ボク、殺され損じゃーん。無駄に殺して捨てるだけ? そーゆーのって環境にもよくないよ?」
「うるせえ! 黙れ!」
 だめだ……。こんなやつをまともに相手しようとした俺が馬鹿だった。ていうか、こんなやつには心底関わりたくなかった。
 三澄音彦(みすみおとひこ)。
 いつもにこにことガキのように笑ってるこいつは、しかし、俺が知る中で一番〝都合のいい〟精神科医だった。
「で……」
 俺は不毛な話をさっさと切り替える。
「どうなんだ? あいつ」
 音彦がわずかに真面目な顔になった。ひとさし指をあごにあて、何か考えこむように視線を宙にさまよわせる。
「んー」
「どうなんだ、おい」
 音彦が俺を見た。そして、
「バカ?」
 にっこり笑ってそう言った。
「……あ?」
「だからー、あの先生だよー、はーくんの高校の。あの人、三十代なんでしょー? そんないい歳したオジサンがウジウジしちゃってさー。超絶カッコ悪いよねー」
「………………」
 さ……最低だな、この精神科医。さすがの俺も言葉をなくす。
 駅前の総合ビルのワンフロアに、こいつの経営する病院はある。田舎の地方都市に精神科医なんて珍しいとも思うが、意外に需要は多い。俺の印象だが、都会はもともと他人同士が多く集まっている社会だ。最初から人間関係にはクールで、あまり事をこじらせずに立ち回るのがうまいと思う。田舎のほうが、地縁社会のストレスも、学校でのいじめも陰湿だったりする。都会の住人が田舎に抱く幸福な共同体のイメージなんて限りなく幻想に近い。まあ、もっと田舎のほうはどうなのか知らないが。
 そんな病院の一室で、俺は音彦と向かい合っていた。
 志藤は、すでに音彦の診察を受け帰っていた。しかし、本人不在とはいえ、たったいま看た患者のことをこうも悪しざまに言えるものかと……。
「実際、悩みだってたいしたことないしねー。大学に戻れるかどうか不安なんだって。そんなのこっちが知るかってカンジ?」
「おい」
 別に志藤に同情したわけじゃないが、俺はそれ以上の言葉をさえぎる。
「手短に言え。その不安とかのせいで、あいつは調子が悪いってことなのか?」
「うん、そう」
 そして、音彦はあっさり志藤の抱えていた悩みについて話し出した。守秘義務も医者と患者の信頼関係もあったもんじゃない。
 志藤がうちの学校に来たのは、出向という形だったらしい。数年勤めたあとは、大学に呼び戻すと約束されていたそうだ。しかし、五年目の現在になっても、大学からは連絡一つ来ないらしい。
「ていうか、あれだよねー。もう完全にクビってやつ? お払い箱ってやつ? それくらい察してよねー、日本人なんだから」
 たぶん、音彦の言う通りなのだろう。
 肩たたきという言葉があるように、日本人は誰かを辞めさせるといったことを直接口にするのをいやがる。空気を察しろという感じで、あくまで辞めさせたい相手が自分の意思で辞めたという形をとりたがる。
 誰かを追い払うことの責任をとろうとしない。この国で頻繁に見る卑劣さだ。
 学校では「人の気持ちを大切にしろ」と教える。しかし、そう教えた教師たちが言いたいのは上位者であるこちらの気持ちを察しろということで、彼らが子どもたちの気持ちを考えているとはとても――
「はーくん」
「っ」
 つつかれた。
 ふいに眉間を人差し指で押され、俺は自分でも恥ずかしくなるほど過剰に反応してしまった。
「なっ……ンだよ!」
「ここ」
 音彦が自分の眉間を指さし、
「しわになってたよ。そんなにいつもそこにしわ作ってたら、とれなくなっちゃうんだから」
「っ……」
 とっさに眉間を触ってしまい、あっさりのせられた自分に俺はさらにいたたまれない気持ちにさせられる。
 音彦は、にやにやとこちらを見て、
「いやー、はーくんは精神科医にはなれないね。だって……」

「やさしすぎるから」

「うっ……うるせえ!」
 そう返すのがせいいっぱいだった。
 な……なに言ってやがるんだ、こいつは。いつもいつも他人をからかうようなふざけたことばかり……。
「……で」
 音彦の顔から笑みが消える。
「食べるの? あいつのこと」
 突然の問いかけに、俺は不意をつかれたような思いがした。
 しかし、音彦の問いかけは、おかしなものでもなんでもない。そう……そのサポートの一つとして、この『三澄メンタルクリニック』はあると言っていい。
 精神科医・三澄音彦も、俺たちの同族だった。
 人間社会で〝専門家〟として生きている同族は、俺たちに貴重な情報をくれる。
 精神医療関係は、その好例だ。放っておいても、心の弱った人間たちが向こうからやってくる。罠に勝手にかかってくれるのと同じことだ。
 その点では、俺の〝保険医〟と同じ役割と言えるかもしれない。
「ねーねー、はーくーん」
「!」
 鼻にかかる音彦の声に、俺は一瞬で我に返って怖気を震わせる。
「食べないならー、ボクがもらっちゃうけど?」
「はあ!?」
 挑発に乗るな……そう頭では思っていても、俺はどうしようもなくむきになり、
「なんで、てめえに食わせるんだよ」
「じゃー、はーくんが食べるの?」
「……決まってんだろ」
「ふーん。ボク、本気であいつのこと診せに来たのかと思った」
「なんで、俺がそんなこと……」
「やさしいから」
「!」
 だめだ……こいつの挑発に……。
「おい、てめえ!」
「やーん。殺されるー。殺されてから犯されるー」
「あぁ!?」
 だめだ! この変態につきあってたら、こっちまでおかしくなる! とにかく、必要な情報は得ることができた。
 あとは――

「ありがとうございました!」
 保健室――
「本当に月村先生に相談してよかったです。あんなにやさしいお医者さんを紹介してもらえて」
「………………」
 俺は顔の引きつりを抑えるので精いっぱいだった。
 やさしい医者? 誰が?
 あいつの外面が完璧すぎるのか、それともこいつがただの馬鹿なのか……。
「あ」
 さらに何を勘違いしたのか、志藤は俺に向かってあたふたと、
「せ、先生もいい先生ですよ。三澄先生に負けてませんから」
(おいおい……)
 あまりの脱力感に、立っているのさえ正直つらい。こんなやつがよく三十過ぎまで社会でやってけたもんだ……。いや、やっていけてねーのか。だから、大学を追い出されてこんな田舎の男子校の教師になんかなってるわけか。
「………………」
 目的を忘れるな。俺は自分に言い聞かせた。
 俺がやるべきことは、このお人よしに無意味にふり回されることじゃない。
 やるべきことはわかった。あとはさっさと済ませるだけだ。
「……で?」
 そっけない風を装って、俺は口を開く。
「これからどうするんです?」
「え……」
 志藤が目を泳がせる。
「どうする……とは?」
 俺はため息が出そうになるのをこらえ、あらためて志藤に向き直り、
「大学のことですよ。このままにはしておけないでしょ」
「あ」
 理解の息をもらした直後、志藤はおどおどと下を向き、
「ええと……ですが……三澄先生に相談したことですこし楽になりましたし……もうすこし待とうと……」
 ああ、イライラする! 結局こいつは自分からは何もできないのだ。
 待ったところでどうなる? 五年なかった連絡が来るはずもない。こいつの性格からいって、未練を引きずったままうじうじとし続けるだけだ。
 しかし、俺が思ったことをそのまま言えば、こいつのか細い心はあっさり折れる。それでは意味がない。それでは、俺の望む魂の弱りには足りない。
 俺は、言葉にいらつきがにじむのを抑え、
「はっきりさせたほうがいいと思いますけど? 悩みを聞いてもらったって、それで根本的な解決にはならないんだから」
「で、でも……」
 志藤は、もじもじと下を向いたまま、
「もう五年も経ってますし……いまさら僕が一人で行くのも……」
「だったら俺も行きますよ!」
 俺は思わず声を張り上げていた。これ以上こいつのペースにつきあっていられない。あぜんとしている志藤に向かって、俺はさらに、
「俺が一緒に行きますよ! それでどうですか?」
「は……はい?」
「ああっ、だから!」
 頭をかきむしった俺は、敬語を使うのも忘れて、
「だから、俺もついてってやるって言ってんだよ! 一人で行けないってんならよ!」
 声を張り上げ、勢いあまって志藤に顔を近づける。
「う……」
 近づきすぎた……。我に返ってとっさに顔をそらそうとしたが、ここで引いては逃げられると思い、俺は志藤を間近で見つめ続ける。
「つ……月村先生……」
 志藤の目が乙女のようにうるみ、白い頬が徐々に色づいていく。
 ああっ、つか、男相手に赤面してんじゃねーよ!
「先生……そんなに僕のことを……」
 違う! 断じて違う! 俺はただおまえを餌にしたいだけだ! ……なんて言えるはずもなく、俺は志藤の熱い視線に耐える。
「……けど」
 そこで、すっと志藤の目が冷静なものになり、
「なんで知ってるんですか? 僕が大学のことを気にしてるって」
「!」
 しまった……。
 そういえば、こいつは俺にいっさい大学のことを言っていない。
「それは、えーと……わ、わかるに決まってんだろ!」
「え……?」
「だって、ほら……その……」
 だめだ……どうしても目が泳ぐのを抑え切れない。早く適当な言いわけを――
「っ」
 志藤が息をのんだ。
 俺は、苦しまぎれに志藤の頭を両手ではさみ、ぐっと顔を近づけていた。
「せ……先生?」
「わかるに……決まってんだろ……」
「………………」
「こんなにおまえのことを……見てんだからよ……」
 あぜんと声をなくす志藤。その瞳がさらに大きくゆらぐ。
 一方、俺は、
(な……なにわけのわかんねえことを……)
 自分で自分の言ったことに、頭の中でつっこみを入れていた。本当にどういう意味なんだ……自分でも何を言ったのかわからない。
 こんなことでごまかせるはずがない。必死に次の言いわけを考えようとする。
 と、
「………………」
 無言のまま、志藤が目をそらした。
 頬をいっそう赤く染めて。
「う……」
 嫌な予感に顔が引きつる。その予感は見事に的中し、
「だ……だめです……」
「あ?」
 何がだよ! と俺が言う前に、
「ここ……学校ですから……」
 学校じゃなかったら何かしていいってのかよ! ていうか、野郎相手に何をするつもりもねえ! あ、いや、『する』つもりではあるのだが、それはおまえの想像しているようなことじゃなくて……。
 なんて当然言えるはずもなく、俺はひたすらこの空気に耐えるしかなかった。

「ハルは、趣味が悪い」
 その週の日曜日――突然の断言に俺は顔を引きつらせていた。
「………………」
「ハルは、趣味が悪い」
「おい……」
「趣味が悪い」
「おまえ、なんでここに……」
「趣味が悪い。こんなまずそうなのを食べるなん……」
 言い終わる前に、俺は御冬の口をふさいでいた。思わず人間離れしたスピードを見せてしまったが、この場合はやむを得ない。ていうか、人間並みに抑えた力ではこのチビ犬を抑え切れない。
「あ……あの……」
 暴れる御冬を必死に抑えこんでいるところに、志藤がおずおずと声をかけてきた。
「その子は……一体……」
「お、弟だよ!」
 返す俺の言葉には敬語のかけらもない。もうこれでいこうと開き直っている。
「弟……?」
「そうだよ! だから、何もおかしいことはねーんだよ!」
 いや、おかしいだろう。自分で自分にそうつっこんでしまう。
 日曜日の駅前――
 大学へ行く志藤と、俺はここで待ちあわせをしていた。
 そこに現れたのが、御冬だった。
 そして、突然のいまの台詞だ。あせるのも当然というか、とにかくいまはこいつのことをごまかさないとならない。
「あの……なんで弟さんが……」
「そ、それは……」
 はっきり言って、こっちが聞きたい……。なんで、ここに御冬がいるんだ! 家を出るとき、御冬には単に用事とだけ言って来た。ここで待ちあわせをしているなんて、もちろん一言も言っていない。
 ということは、
「つけてきやがったな、おまえ」
 御冬の首根っこをつかみあげ、思いっきりにらみつけてやる。
 しかし、御冬は平然と、
「調査」
「は?」
「浮気調査」
「はぁぁ!?」
 御冬のやつは、誇らしげに胸をはり、
「気づいた。ハルが怪しい。それでスクープ」
「スクープじゃねーよ!」
 怒りのままに、俺は全力で御冬を放り投げた。
「っ……」
 しまった……! と思ったのは、御冬の身を心配してのことじゃない。実際、御冬はあっさり宙返りを決め、猫のようにすたっと着地してみせた。
 失敗したのは、この一連の状況すべてにだ。
 普通の人間が、子ども相手とはいえ力任せに放り投げるなんてことを簡単にできるはずがない。
 しかも、御冬が常人離れしたアクロバットまで決めてくれたわけで……。
「月村先生!」
 志藤が、声をあらげて俺に詰め寄った。
 まずい……。早くも最悪の予感に俺は身構える。
 と、
「こんなかわいい子に、なんてことをしてるんですか!」
「え……?」
「あんな乱暴なこと! 怪我をしたらどうするんです!」
 いや、どう見たって御冬のやつはピンピンしてるんだが……。どうやら、御冬が投げられた驚きでいっぱいになり、それ以外は頭に入ってないらしい。
 と、詰め寄ってきた志藤と俺の間に、御冬が身体を割りこませる。
 そして、ぎろっと志藤をにらみあげ、
「ハルは、御冬のもの」
「え……?」
「御冬のもの」
 くり返す。そして志藤をにらみ続ける。
 ただただあぜんとしている志藤。……当たり前だ。俺は頭を抱えつつ、御冬を追い払おうと――
「あのね」
 志藤が御冬の目の高さにまでしゃがみこんだ。そして、やさしく微笑みかけ、
「御冬くん……っていうの?」
「御冬は、御冬」
「そうか。こんにちは、御冬くん」
「………………」
「御冬くんは月村先生の……息子さん?」
「弟だ、弟!」
 よけいなことを言おうとした御冬の口をふさぎつつ、あわてて訂正する。
 と、
「月村先生」
 立ち上がった志藤が俺のことを非難するように見て、
「いくら兄弟だからって、乱暴なことをしないでください。御冬くん、苦しがってるじゃないですか」
 いや、たんに俺の腕の中から逃れようと、ジタバタしてるだけなんだが……。
「……っ!」
 御冬が思いっきり俺の手に噛みついた。
 とっさにまた放り投げそうになったが、さっきの失敗を思い出しかろうじてそれを抑えこんだ。
 自由になった御冬は、志藤を指さしつつ俺を見て、
「こいつ、食べる?」
「おい!」
「食べる……?」
 しまった……聞かれた!
 とにかくごまかそうと、俺はあわてて、
「ば……馬鹿! 変なこと考えてんじゃねーよ! こいつが言ったのは、その、つまり普通の意味で……」
 なんだ『普通の意味』って! 自分で言っておきながら、自分でその台詞につっこんでしまう。
 しかし、志藤は納得した顔になり、
「あ、そういうことですか」
 何が『そういうこと』なんだよ! ……と俺が言ってしまうより先に、
「御冬くん」
 再び志藤はしゃがみこみ、
「月村先生には、ちょっと僕の……仕事につきあってもらうだけなんだ。二人だけで一緒においしいものを食べに行くわけじゃないんだよ」
 なんだそれは! どこからそういう解釈になる! ……いや確かに、俺に食べられようとしてるなんて、普通は想像できるはずもないのだが。
「仕事?」
 御冬はきょとんと首をかしげ、
「ハルと……仕事?」
「うん、そう」
 にっこり笑顔で答える志藤。細かいことを語るより、仕事と言ったほうが御冬にも理解しやすいと判断したのだろう。正確には嘘だが、悪意のある嘘ではない。
 ていうか……こいつ、意外と教師に向いてるんじゃねーか? かわいげのない男どもが集まるウチより、小学校とかに。俺だったら、面倒くさいガキの相手なんか絶対にできない。いい年した高校生相手だって、ちょくちょくキレそうになってんのに。
「んー……」
 腕を組んで考えこみ始める御冬。
 な……何を考えてるんだこいつは? はっきり言って悪い予感しない。
 と、御冬は俺を見上げ、
「……仕事?」
「お、おう」
 とりあえず、俺も話を合わせておく。
「夜の仕事?」
「おい」
「月村先生! 子どもになんてことを教え……」
「教えてねーよ!」
「わかった」
 御冬がこくりとうなずいた。
 そして、志藤を指さし、
「これ、ハルと仕事」
「人のことを指さすな! 『これ』とかも言うな!」
「エサ、ハルと仕事」
「餌!?」
「ちょっ、バッ……! き、気にするなよ! こいつ、バカだから、たまにおかしなこと……」
「先生! 子どもに『バカ』なんてひどいこと……」
 ああもうっ、なんなんだよこれは!
 目的地に行く前から、俺は早くも疲労しきっていた。


 電車に乗って、およそ一時間。
 目指すキャンパスは、到着した郊外の駅からさほど遠くない場所にあった。まあ、郊外と言っても都心から見て郊外という話で、俺たちの学校がある町からはぜんぜん都会よりだ。実態は似たり寄ったりかもしれないが、地方の住人からするとささやかなその差が重要だったりもする。まあ、俺にはどうでもいい話だが。
「ハル」
 御冬が俺のほうを向く。ったく……こんなとこまでついてきやがって。
「ここで、仕事?」
「んー、まーな」
「月村先生」
 入り口前ですでにがちがちに緊張している志藤がふり返った。
「ぼ、僕は……大丈夫です」
「は?」
「だから……ここで御冬くんと待っていてください」
「えっ?」
 思わぬ言葉に、俺は目を見開いた。
「み、美冬くんを放っておくわけにはいきませんから。だから、ここからは僕一人だけで……」
「おいおい、あんた一人で大丈夫なのかよ」
「そ、それは……」
 おろおろと志藤の目が泳いだ。
「それは……」
 口ごもったきり、いつまで経ってもその先を言おうとしない。
 つか、一人で行くって言い出したのは自分だろうが。三十過ぎて決断力のかけらもないこいつに、俺はあらためていらつかされる。
「おい!」
「あ……」
 突然俺に手をつかまれ、志藤の頬が赤くなる。だから、いちいちそういう反応すんじゃねえよ!
「さっさと行くぞ! さっさと行って終わらせればいいだろーが!」
「は……はい……」
 俺に引っ張られるまま、志藤は大学の門をくぐった。いや、つか、こっからはおまえが先に歩けよ! 俺には行き先はわからねーんだから。
 と、
「ずるい」
 空いてるほうの手を、御冬がつかんできた。
「御冬も」
「あのなあ……」
 男二人と手をつなぐとか……何の罰ゲームだよ、これは。御冬のほうは年の小さい弟の手を引いてるということでまだ説明がつくが、志藤に関しては……もう完全にそっちとしか思われねーじゃねーか。
 しかし、ここで手を離したらまた尻込みするするかもしれねえ、このヘタレは。
「行くぞ」
 とにかく歩き出す。周りのやつらに変な誤解をされる前に。目的の場所が近づけば、いくらぼけてる志藤でも「ここだ」と自分から言うだろう。
 とにかく、さっさと終わらせる。
 これ以上、俺が――
 ………………。
 ああっ、つか、これ以上なんだってんだよ。俺は――

 俺は――

 翌日――
 志藤は学校を無断で休んだ。
 ケータイも自宅の電話も、まったくつながらないとのことだった。
 頃間だ――俺は思った。
 様子を見に行く。
 そう言って聞き出した住所にあったのは、木造二階建ての古いアパートだった。三十過ぎてこんなとこにしか住めないのか……。あらためて教師の薄給ぶりを俺は思い知らされる。いや、あえて住むところに金をかけてないのかもしれない。何が起こるかわからない昨今、万が一に備えて貯金しているといった理由で。あの気弱そうな志藤なら、十分あり得る話だ。
 俺は『志藤』と表札のかかった103号室のドアベルを押した。ベルしか機能のない旧式の物だ。
 扉の向こうで音が響く。
 すこし待つ。返事はない。
「おい」
 強めに扉をたたく。といっても、もちろん力は抜いている。本気で叩いたら、こんな薄い板なんて簡単にぶちぬいてしまう。
 何度かノックする。やはり返事はない。
「いるんだろ? わかってんだよ」
 いら立ちをこめて扉の向こうに呼びかける。
 そう、わかっている。俺ははっきりと人の気配を感じ取っていた。昨日の今日で、その気配が誰のものか間違うはずもない。
 と、
「月村先生……ですか?」
 普通だったら聞き取れないような声。しかし、俺の耳ははっきりとそれをとらえる。
 鍵の開けられる音。
 そして、扉が開き、志藤が顔を見せた。
 男の一人暮らし特有の臭いが俺の鼻をつく。しかし、さほど強くは感じない。こまめに掃除をする几帳面な性格のためか、それとも志藤の〝オス〟としてのにおいがもともと弱いためか。
「あがるぞ」
 俺は返事を待たず部屋の中にあがりこんだ。
 場合によっては、今日が〝その日〟になるかもしれない。証拠を残すへまをするつもりはないが、目撃者はすくないほうがいい。
 予想通りというか、ワンルームの志藤の部屋は、整理整頓が行き届いていた。置物や観葉植物といったインテリアはいっさいなく、大きな本棚とそこに収められた大量の本が目につく。生真面目な学生の部屋といった感じだ。
「す、すいません……」
 とっとと中に入った俺を、あわてて追いかけてくる志藤。あらためて見ると、普段の学校での服装と変わらない小ざっぱりした格好だ。男が一人で家にいたらもっとラフな格好をしていそうなものだが……。こんなところにもこいつの性格が表れている。
「あの……うちいま、お客さん用の座布団とかスリッパとか、そういうのなくて…」
「昔はあったのかよ」
 黙りこむ志藤。
 そして、重い吐息まじりに、
「ずっと使わないままで……結局捨てちゃいました」
 つまり、誰も来客がなかったということだ。こいつのことだから、友人だけじゃなく女出入りも皆無だったのだろう。
「別にいい」
 俺は手近のベッドに座りこんだ。他に座れるような場所は、これまた本が大量に並べられた机の前の椅子しかない。戸惑いを見せつつ、志藤はその椅子に腰をかける。
「あの」
 おそるおそるという感じで、志藤が口を開く。
「どうして……月村先生が……」
 俺は何も答えなかった。
「……月村先生?」
 けげんそうに俺を見つめる志藤。俺は無視を続ける。
 そう……ここからが仕上げだ。
 俺が安易に口を開くことで、こいつに逃げ道を与えてはならない。自分で自分を追いこむように仕向けなければならない。
 行き所のなくなった魂は……やがて俺の望むままに――
「……すいませんでした」
 狙い通り。うつむいた志藤が消え入りそうな声で話し出す。
「昨日のこと……ちゃんとお礼言えてなくて」
「………………」
「月村先生には、ちゃんと話してませんでしたよね。研究室で何があったか」
 そう、俺は知らない。
 大学の敷地に入り、研究室があるという建物の前につくと、志藤は「ここからは自分一人で行く」と言った。教授との話が終わるまで、俺と御冬には近くの食堂で時間をつぶしていてほしいと。俺は素直にその言葉に従った。「大丈夫」とでも声をかけて、より心の傷を大きくしてやろうかとも思ったが、結局俺は何も言わずにそのまま別れた。
 そして、三十分後。
 食堂に姿を現した志藤は、予想通りの憔悴した顔を見せた。そのまま、俺たちは大学をあとにした。帰路の間、志藤は何も話そうとしなかった。
 そして、今日の無断欠席というわけだ。
「昨日……僕は教授に会いました」
「………………」
「教授は突然僕が来たことに驚いていました。本当は連絡してから行くべきだったんですけど……それだと……なんだかだめな気がして……」
 おそらく、志藤は察していたのだろう。しかし、最後までそれを認めないでいた。
「教授は笑顔で僕に言いました。『今日はどうしたんだ』と」
「………………」
「僕は聞きました。僕は……いつになればここに戻れるんでしょうかって」
「………………」
「教授は、あらためて驚いた顔になりました。意外なことを聞かれたという顔になりました。そして言いました」
 俺は驚いた。
 一瞬、自分が志藤の言葉を止めようとしていたことに。
(……馬鹿か!)
 俺は心の中で自分に毒づいた。なぜここで止める必要がある。志藤は俺の思惑通りに自分で自分のことを――
「もうすこし待て……教授はそう言いました」
 志藤の顔がゆがむ。こいつに似合わない感情――怒りと憎しみがその瞳にちらつく。しかし、すぐに嘆きの波がそれを飲みこむ。
「教授は笑って言いました。もうすこしすれば呼び戻すよう手配する。それまで待ってほしいと。いつか必ずなんとかするからと」
「………………」
「それは……五年前とまったく同じ台詞でした」
 椅子が細かくきしみをあげる。
 志藤がふるえていた。そのふるえはどんどん大きくなっていく。
「僕にはわかりました。『いつか』なんて来ないんだって。教授は……僕を研究室に戻すつもりなんてないんだって!」
 のめりこむように。志藤は顔を手で覆った。
「僕は……僕はもうどうしていいかわかりません。研究室に戻れると思ってたからずっとがまんしてました。人見知りの僕が、生徒相手に授業もしてきました。けどそれが全部無意味だってわかったら……もうどうしていいか……」
「………………」
「こんなの……もう……生きていたって仕方ない……」

「じゃあ、死にたいのか?」

 口を開けていた。
 自制心も目論見も何もかも超えて、すっと言葉が口をついて出ていた。
 驚いた顔で俺を見る志藤。
 と、その目が潤み出し、すがるような視線が俺に向けられる。
「なんで……」
「……………」
「なんでそんな……そんなことを……月村先生は言うんですか……」
 志藤が椅子から腰を浮かせる。
 よろよろと足を踏み出し……そのまま――
 倒れこむように、俺に向かって身体を投げ出した。
「月村……先生……」
「………………」
「して……ください……」
「………………」
「僕を……僕を……」

「僕を……無茶苦茶にしてください」

 俺の腕の中で、声をしぼり出すようにして志藤は言った。
 俺は――
「月村先生……」
「………………」
「僕は……もうわからないんです……」
「………………」
「どうしていいかわからない……僕はこれしか知らない……周りの言うことを聞いて……真面目に言われたことをやるしか……」
「………………」
「本当にわからないんです……それ以外は何をしていいかわからないんです……だから……」

「だから……――!」

 俺は、力任せに志藤の服を引き裂いた。
「!」
 志藤が大きく目を見開いた。
「え……え?」
「なに驚いてやがる」
 俺は、そんな志藤を冷たく見返す。
「おまえが言ったんだろうが。こうしてほしいって」
「あ……」
 志藤の瞳がゆれる。そして、
「………………」
 無言のまま、志藤は目を閉じた。俺にすべてをゆだねるというように。かすかに肩をふるわせながら。
 そして、つぶやいた。
「来て……ください……」
 瞬間、
「っ」
 息をつまらせる志藤。
 俺は志藤の首筋に唇を近づけた。吐息が生っ白い肌に当たってはね返る。
 あとは、一噛みで終わる。
 しかし――
「………………」
 しかし……こいつは――
 こいつの魂は、本当に絶望しきってはいない。
「……なんなんだ?」
 俺の口からもれた不意の問いかけに、志藤が閉じていた目を開ける。俺は至近でその目をのぞきこみ、
「俺はおまえのなんなんだ? ああ?」
「つ……月村先生は……」
 声をふるわせながら、志藤は言う。
「とても……とてもいい人で……僕のために力になってくれて……だから……」
 だめだ。こいつはわかっていない。
「違ぇよ」
「え……?」
「俺が……いい人なわけねえだろ」
 そうだ。
 そもそも人ですらないのだ。
 こいつは、勝手に俺に救いを見ているだけだ。いるかいないかわからない神様を拝むのとまったく同じだ。
 そんな俺がこいつを喰ったら……どうなる?
 きっと、こいつは満足してイッちまうだろう。本当の俺とは関係なく。
 どうしてこうなった? どこで間違った?
 俺は、荒れ狂う感情のまま、志藤の肩をつかむ手に力をこめた。
「せ、先生……痛い……。もっと、やさし……」
「うるせえ!」
 俺は、乱暴に志藤を突き飛ばした。本気は出さなかった。どこかで、俺の頭は覚めていた。本気を出せば、確実に志藤の身体は壊れていただろう。
 これ以上、ここにいる理由はない。
 俺は志藤に背を向け、この場から去ろうと――
「待ってください!」
 志藤があわてて俺にすがりついた。
「どうしてですか! どうして行っちゃうんですか!」
「もう用がねえからだよ」
「そんな!」
 悲鳴じみた声が上がり、
「どうして、そんなことを言うんですか! 僕は……僕は月村先生の言うことならなんでも……」
「………………」
「僕を見捨てないでください……もうイヤなんです……誰かに見捨てられるのは……もう……」
「………………」
「教えてください……僕が……どうすればいいか……」

「おまえはどうしたいんだよ」

 志藤の身体が大きくふるえる。
 俺はくり返す。
「おまえは――何がしたいんだ?」
「え……え?」
「人がやれって言ったらいやなことでも従うのか? 人がいいって言ったらそれでいいのか? 全部人がなんとかしてくれると思うのか?」
「………………」
 言葉をなくす志藤。瞳がはかなくゆれ続ける。
 俺はくり返す。
「おまえは何がしたいんだ?」
「………………」
「おまえは!」
 ふり返った俺は、志藤を突き飛ばした。

「おまえは何がしたいんだよ!」

 机にぶつかり、そのままへたりこむ志藤。
 下を向いたまま、細かく肩をふるわせている。
 と、
「…………い……」
 消え入りそうな声が、志藤の口からもれる。
「……や……しい……」
 くり返す。
 志藤の拳が握りしめられ、涙が頬をすっと伝う。
 そして、うめくような声が、はっきりと俺の耳に届いた。
「……悔しい」
 あふれる涙が志藤の顔を濡らしていく。小動物のようにおびえることしかできなかった志藤が、初めて俺の目の前で激情をあらわにしていた。
「悔しい……悔しい……悔しい……! あんなふうに笑って嘘をついて……僕の思いを踏みにじって……」
「……で?」
 俺は、さらに問いかける。
 自分でもわかっていた――無意味な言葉。けど、俺は問いかけていた。
 志藤は答えた。
「……見返したい」
「はあ?」
 俺は、その言葉を鼻であしらう。
「見返す? おまえを捨てたやつをか? それじゃ、結局そいつに未練持ったままってことじゃねえか」
「っ」
「違うだろーよ」
 俺は、確信をこめてつぶやく。
「おまえがしなきゃならねーのは……」

「おまえが――おまえでいることだろうが」

 目を丸くして、俺を凝視する志藤。
「僕が……僕で?」
 なに一昔前の歌みたいなこと言ってんだ、俺は。
 けど、俺の中に他の言葉はなかった。そして、俺はさらに言う。
「他人も周りも関係ねーよ。おまえは……おまえ自身はいったい何がしてえんだよ?」
「ぼ、僕は……」
 声をつまらせながらも、志藤は言った。
「……たいです」
「あ?」
「したいです! ずっと……これから先も……」
 背後の本棚へ視線を移す志藤。静かな想いのこもった目で、
「僕の……僕の好きな……研究を続けたいです」
「………………」
 俺は何も言わなかった。はっきりした。もう――
 こいつを喰らうことはできない。
「やれよ」
 最後にそう言って、俺は玄関の扉に手をかけた。
 志藤は、もう俺を止めようとしなかった。
 去っていく俺の背後で、頭を下げる気配だけが伝わってきた。

「それで食べないで終わっちゃったんだー」
「……来んな」
「ホント、はーくんはやさしいんだからー。やさやさなんだからー」
「くっつくんじゃねえ!」
 俺は一切の容赦なく音彦に向かって拳をくり出した。こいつが相手なら遠慮なんていらない。
 が、拳は当たらなかった。
 御冬のようなアクロバットを見せたわけではない。音彦はそこに立ち続けている。ただ拳が当たる寸前、風に吹かれたように身体をゆらしただけだ。それだけで、俺の拳はきれいにかわされていた。
 音彦はムカつく笑みを見せたまま、
「ねーねー、ちゃんと教えてよー。あのダメ男がどうなったのかさー。一応、アレの主治医なわけだしー」
「本人から聞け!」
「だって、アレ、うちに来ないんだもーん。学校もやめちゃったんでしょ?」
 そうだ。
 志藤のやつは、うちの高校の教師の職を辞めた。
 あいつがこれからどうするのかわからない。俺にも何も言わず、あいつはどこかに去っていった。
 まあ、興味もない。
 喰らえないとわかった人間だ。どうだっていい。
「なんで?」
 唐突な質問が俺に投げかけられる。
「ねーねー、なんでー?」
 無視しようとも思ったが、音彦は逃がさないというように俺に顔を近づけ、
「なんで、はーくんは食べなかったの? いろいろ苦労して追いつめようとしてたのに」
「………………」
「あのさー」
 不意に音彦の目が真剣なものになり、

「はーくんは、何がしたいの?」

「!」
 動揺を抑えられなかった。
 何がしたい? それは……俺が志藤に向けた言葉――
「………………」
 何も言えない俺。
 そんな俺に視線を注ぎ続ける音彦。
 と、
「じゃあ、ボク、帰るよ」
「え……?」
 思わぬところであっさり引かれ、俺の動揺はさらに広がる。
「おい……」
 思わず止めようとして、しかし俺はその手を引く。
 止めて……どうする? 止めて俺は音彦に何を言う? その言葉を、俺は見つけられてない。
「さよなら、はーくん」
 保健室の扉を開ける音彦。志藤の様子を知りたいとの口実で、自称主治医のこいつは学校に入りこんでいた。
 と、
「はーくん」
 音彦がふり返る。やさしい……いや、どこか同情するようなまなざして、
「いつでも相談に乗るから」
 そう言い残し、音彦は保健室から去っていった。
 俺は、
「………………」
 俺は――
「………………………………」
 無言のままふるった拳が、薬の入っている棚にめりこんだ。
 瓶の割れた薬品の刺激臭が鼻をつく。
 しかし、俺は、顔をあげることができなかった。
「俺は……」
 うめくように声が俺の口からもれる。
 それ以上――
 俺は何も言えなかった。

世界で一番やさしいケモノ #2

世界で一番やさしいケモノ #2

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2014-01-03

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