屋上の少女

   一

 まだ梅雨の明けきらない七月のその日、私たちはエレベータに乗っていた。
 年代物のエレベータには、屋上に向かう私たち三人のほかに、この季節特有の蒸し暑さが乗り合わせていた。そのせいで、荒川の作業着には大きな汗染みができていたし――昔から荒川は汗っかきだったが――私の背中には、にじんだ汗でワイシャツが張りつき始めていた。
 ただ〝禍福はあざなえる縄のごとし〟――この困った同乗者が、足立を黙らせてくれたことだけには感謝していた。おとなしくなった足立は、手にしたハンカチで額の汗をしきりに拭っている。
 ようやく階数表示が最上階である『9』を示し、エレベータが停まる。少しの間を置いて、ドアがきしみながら開いた。
 荒川が『開』のボタンを押す。私たちの中で一番年若な足立が真っ先にエレベータを降りた。今の職場では足立が荒川の上司だとはいえ、一昔前では考えられない光景だった。戸惑う私に、荒川が「おゥ」と小さく言ってすぐ降りるよう促したので、私が足立の次にエレベータから降りることになった。
 最後にエレベータを降りた荒川は小走りで私と足立を追い抜き、正面の『非常口』と書かれた鉄製のドアを開けた。三人の中で一番年長の荒川が、甲斐甲斐しく「どうぞ、こちらです」と頭を下げた。
 足立、私の順で中に入った。鉄製のドアの向こうは階段の踊り場になっていて、三人の中で一番大柄な荒川が――身長一八三センチ、体重は九〇キロ近くある――俊敏に動いて私たちを追い抜き、屋上へ続く階段を昇っていく。
 首筋の汗を拭いながら、甲高い声で足立が言った。「たまらないですねェ、この暑さ」
「まァ、この時期ですからね。暑いのはしょうがないでしょう」そう言って、私は足立に先を急ぐよう促した。
 不快指数が高いせいか、私の口調にはトゲがあったようだ。階段の半ばまで昇っていた荒川が振り向いて私を睨みつけていた。私は気づかぬふりをして、足立の後に続き階段を一フロア分昇った。
 屋上のドアを荒川が開ける。足立が、当然のように先頭を切って屋上に出た。
「鍵は、かけてないんですか?」私は訊いた。
「二カ月前に、壊されちゃったみたいで」答えたのは、足立だった。振り向いた足立の顔はニヤついていた。答えた内容と表情が合っていない。
「壊されたって、すぐに修理しなかったんですか?」私は荒川に訊いた。
「本当は、すぐに修理しなきゃいけないんだけどよ。修理するには、本社に報告しなきゃいけないんだよ」荒川が私の耳元で呟くように答えた。
「だからって、壊されたまんまってわけにはいかないでしょう。そんなことだから――」
 私の話を止めてから、荒川が声をさらに小さくして続けた。足立には聞かれたくない話のようだ。「いや……あいつがさ、管理不行き届きってことで、ボーナスの査定に響くから、査定が終わるまで待ってくれって」
「ボーナスの査定……ですか」
「そうなると、俺の首も危ないって言われるとよ」荒川が私から目をそらした。
 私は無言で荒川の脇をすり抜けて屋上に出た。
「俺も生活がかかってるし――」荒川が追いかけてくる。
 昔の荒川なら足立を殴ってでも、修理を依頼していたはずだ。屋上で微かに感じる風は、先刻までの不快感を和らげてくれたものの、私が先刻から感じている寂しさまでは拭い去ってくれなかった。
「鍵のことなら、大丈夫です。今月中にはなんとかしますから。来月の頭に花火大会があって、ここを開放しなきゃいけないんで」先に屋上に出た足立が笑顔のまま答えた。
 事の重大さを把握できていないのか、開き直っているのか。どちらにしろ、聞かされる方は不安を煽られるばかりだ。
「花火大会とか、そういうことじゃないと思うんですけどね――」
 私の皮肉を遮ったのは、携帯電話の着信音だった。日曜夕方の演芸番組のテーマ曲。緊張感のない着信音は、時として硬化した場面を和ませることがあるのだろう。しかし、今の私にその効果はなかった。
「ちょっと、すいません」足立がカバンから携帯電話を取り出しながら、屋上から姿を消した。
 ため息をこぼす私に荒川が言った。「あいつも、大変なんだよ」
「なにが大変なんです?」
「ああ見えてさ。子供が三人もいるんだよ……年末には、四人目が産まれるっていうしな」
「〝生活がかかってる〟って、わけですか」
「そうだよ。お前も所帯を持てばわかるさ」
「なんですか、その自分が結婚してるみたいな言い方は」
「俺、結婚してんだよ……娘もいる。今、二年生なんだぜ」照れくさそうに、荒川が笑った。
「結婚したんですか? 子供も?」私は声を張り上げてしまった。
 無理もない。私が覚えている限り、当時そろそろ五十に手が届こうとしていた荒川は結婚を薦められても、
 ――家族ってのは、仕事の邪魔になりますから
 そう言って断り続けていた。〝同じ釜のメシ〟を喰っていたあの頃、荒川の生活はいわゆる〝家庭生活〟とは対極にあったのだ。ただ、子供が二年生――七歳か、八歳――ということは、荒川が所帯を持ったのは、私があの稼業から足を洗った後という計算になる。あれから荒川に心境の変化があったのかもしれない。ようやく、先刻から〝生活がかかっている〟と荒川らしくないことを言い続けていたことに合点がいった。
 なんにせよ気を落ち着かせるには、ニコチンの力を借りるしかない。私はワイシャツの胸ポケットから煙草を箱ごと取り出し、一本くわえた。
「おい、煙草はよせよ」
「一本だけ勘弁してください。灰皿も持ってきてますから」私は上着から携帯用の灰皿を出した。
「そうじゃない。俺、煙草やめたんだよ」
 続く告白には、言葉を失った。缶入りピースを一日で二缶喫い尽くすほどのチェーンスモーカーだった荒川が禁煙した。常に両切りのピースをくわえ、ブレーキの壊れた蒸気機関車よろしく煙を撒き散らしながら、仕事をしていたあの荒川が――所帯を持っていること以上の驚きだった。
「子供が産まれたときにな、思い切って禁煙した」そう言って笑う荒川の顔は、誇らしげだった。
 ――お前は、いつまでその性悪女とつき合うつもりだ。俺は、もうすっかり手を切ったぜ。いい加減、目を覚ませよ
 なんと言われようと、私は好きでこの性悪女といまだにつき合っているのだ。早々にこのつき合いをやめる気はない。ただ、荒川の誇らしげな顔を見て沸き出した妙な対抗心が、私に煙草を諦めさせた。一本ぐらいなら我慢することはできる。
「〝問題の場所〟というのは?」気を取り直して、私は言った。
「こっちだ」という荒川に導かれて、私は〝問題の場所〟――給水タンクと屋上入口の建屋との間へと向かった。そこは、ちょうど大人が三人は座れるほどのスペースがあり、そのコンクリート剥き出しの床に、なにかが焼け焦げた痕跡が残っていた。
「どう見る?」と荒川。
「専門家じゃないんで、なんとも言えないですね。ただ――」
 足立がここまでの道中で言ったように、放火といえば放火の跡に見えるが、子どもの火遊びの跡と言われたら、そう見えなくもない。しかし、どちらにしろ結果として待っているのは火事ということになる。見逃せる状況ではなかった。
「ただ?」
「なんにせよ、鍵が壊れてることが問題なんですよ」
 荒川は難しい顔をして、なにも答えなかった。私は厳しい言葉を続けた「〝生活がかかっている〟のは、ここの住民だと思いますけど」
「……そう、だよな」荒川が巨体を小さくして、うなだれた。
「鍵の件は、私が見つけたことにして、処理しましょうか? もっとも、足立さんが了解してくれるかどうかは、わかりませんけどね」
「そうしてくれると……助かる」
 こんな提案を簡単に承諾する荒川を、目の当たりにしたくなかった。煙草が喫えれば、気を紛らわせることができるのだが――寂しさといらだちだけが募り、ほんの二時間ほど前にこの依頼を引き受けてしまった自分の軽率さを呪った。

   二

 二時間ほど前のことだった。
 パソコンの前で、私は扇風機の購入について真剣に悩んでいた。
 私の事務所がある雑居ビルでは、エレベータが三カ月以上をかけた定期点検をようやく終えたばかりだというのに、今月からは空調設備の定期点検を始めた。着込んでしまえば寒さをしのげる冬場ならいざ知らず、西日しか射さない上、ただでさえ風通しの悪いこの雑居ビルで梅雨時に空調が停まってしまうのは、まさに死活問題だった。
 同じフロアに事務所を構える鈴木という男は、わざわざこの季節に空調の点検を行うことについて、抗議の署名活動を発案したそうだが、大家に「嫌なら出てけ」の片付けられてしまうことは想像に難くなく、実際には行動に移せなかったようだ。結局のところ、入居者自ら手を打たねばならなくなってしまい――鈴木はエアコンを購入することにしたそうだ――私の場合は、扇風機を買うことにしたのだ。
 とはいえ、事務所にこもるこの暑さのせいで、パソコンの画面上に表示された検索結果がどれも同じに見えてきた。私はひとまず扇風機の選定を諦め、くわえたままだった煙草にブックマッチを使って火をつけた。吐き出した煙は、開けっ放しにしている窓辺で漂うだけだった。
 その忌々しく漂う煙を眺めていると、たとえ抗議の署名活動はできなくても、あの因業ババア、いや大家に嫌みのひとつぐらい言う権利はあるだろうと思い立った。
 不思議なことに、この手の作業はどんな状況下でも順調に進むもので、数パターン思い浮かんだ嫌みの中から〝最善の嫌み〟を選び出すのに、扇風機の選定より時間はかからなかった。次は、その〝最善の嫌み〟をどのタイミングで大家に伝えるのが効果的なのか――を選考することになるのだが、それは別の場所にしよう。さすがにこの暑さには耐えきれない。
 事務所のドアがノックされたのは、こうして私がクーラーの効いた〈オリオンズ〉への避難を決心したときだった。
 私が「どうぞ」と応える前に入ってきたのは、濃紺の背広を着た色白の男だった。年の頃は、三十代半ばといったところだろう。最近の流行りなのか、男は顎の髭だけを残していた。ただ、クールビズだ、スーパークールビズだと言われるこのご時世だというのに、ご丁寧にネクタイをきっちりと結んでいた。
 男は、立ち上がった私が「どちら様ですか」と訊ねる前に、深々とお辞儀しながら言った。「どうもォ。私、〈パシフィック興産〉の足立と申します」
 私は用意していた「押し売りならお断りだ。出てけ」という返事を、男――足立に伝えることができなかった。足立の後から事務所に入ってきた大柄な男に気を取られてしまったせいだ。
「突然、申し訳ございません」足立がすかさず名刺を差し出した。
 悔しい話だが、私は見事に機先を制されて、この場の主導権を握られていた。なにしろ、差し出された名刺を思わず受け取っていたのだから。もしも、このときの足立が本物の飛び込みのセールスマンだったとするならば、相当の〝腕っこき〟ということになるだろう。おそらく私は〝メッキすらかけていない金塊〟かなにかの購入契約書にサインをさせられて、後々悔やんでいたに違いない。
 私の視線が自分に向いていないことを察した足立が言った。「ああ、彼のこと、覚えてらっしゃいましたか? 彼は以前、あなたの――」
 話の途中で大柄な男が動き、私に歩み寄った。足立はそれを見て、話を続けるのをやめた。
 デスクを挟んで向かい合ったこの大柄な男のことは、いま会ったばかりの足立にわざわざ紹介されるまでもなかった。私は忘れていない。お仕着せの作業着を身につけた五分刈りの大男――荒川は、前の稼業で私の上司だった男だ。
 荒川は私の前まで来てはみたものの、その後にかける言葉を用意していなかったようで――元来、口下手なのだが――黙りこくってしまった。もっとも、私の方も荒川にかける言葉を見出せず、最終ホールのグリーン上で優勝を決めるパットを打つゴルファーを見守る観客席さながら、私の事務所は静まり返ってしまった。
 足立がこの沈黙を破った。「覚えていらしたのなら、話は早いですね。実は……」
「お久しぶりです」甲高い足立の声を遮って、私は荒川に声をかけた。口をついて出たのは、時間をかけて選び出した割には、我ながら陳腐な言葉だった。
「元気そうだな」返ってきた荒川の言葉も、私とそう大差のないものだった。
「おかげさまで……荒川さんも、お元気そうで」
「なんとかな」と荒川は曖昧な返事をしてから、辺りを見渡して続けた。「ここ、ひとりでやってるのか?」
「ええ」
「儲かってるのか?」
「なんとかやってます」と今度は私が曖昧な返事をした。「……荒川さんは、今はなにを?」
「足立さんの会社で、マンションの管理人やらせてもらってる」
「管理人ですか……荒川さんが」こわもての管理人。防犯にはうってつけかもしれない。作業着姿のかつての上司に、私は先刻から気になっていることを訊いた。「よく、ここがわかりましたね」
「古河に聞いたんだ。お前が、ここで事務所を開いてるって」
「あいつには、なにも教えてないですけど」
「……まァ、ヤツも、それなりに気にかけてるってことじゃないのか」
「ありがたい話です……泣けてくるな」私は手にしたままだった煙草をデスクの灰皿で揉み消した。「さて、今日はどういったご用件で? まさか、思い出話をしに来たわけではないでしょう?」
 荒川が苦笑を返してきた。口が悪いのは、相変わらずだな――そう言っているような気がした。
 ようやく自分の番が来たとばかりに、足立が口を開いた。「いやァ、今日はあなたに是非、お願いしたいことがありまして」
「仕事の依頼、ですか?」
「そうです」
「でしたら……ちょうど、出かけるところでしてね。よかったら、そちらで話をしませんか?」こんな空調の効かない事務所で、仕事の話などまっぴらごめんだ。扇風機の選定すらできないというのに。
「申し訳ありません。できれば、このままでお願いしたんですが」足立が殊更、声をひそめて言った。「あまり他の方に聞かれたくない話なもので……」
 確かに、私の事務所で扱っているのは他人には聞かれたくない用件ばかりで、その意味では足立の言い分は〝ごもっともなこと〟なのだが――間が悪いときには、なににつけても間が悪いものだ。私は仕方なく荒川と足立を来客用の応接セットに通した。
 冷蔵庫から取り出してきたペットボトルのお茶を置いた私が腰を降ろすなり、足立が話を切り出した。「私どもは、マンションや商業施設の管理を請け負ってまして――」
 そこからは足立の独壇場、いや独演会になった。私に口を挟ませることなく話し続けられるのは、昨今求められている〝雑談力〟というヤツ――豊かなボキャブラリで楽しい会話を――なのだろうが、私には無駄な言葉が多いだけのように思われた。結局、二十分ほどの時間を費やして足立が言いたかったのは
 ――明後日から一週間、荒川の代わりに住み込みで、管理人をやってもらいたい
 これだけのことだった。
「お引き受け、いただけますか?」本人は言葉を尽くして、説明をしたつもりなのだろう。足立は満足そうにペットボトルのお茶に口をつけた。一気に半分ほどがなくなる。
 ただ、足立は肝心なことを私に伝えてはいなかった。「いくつか、訊きたいことがあるんですが、よろしいですか?」
「どうぞ、どうぞ。なんでも訊いてください」
「明後日からということですが、随分と急ですねェ……荒川さん、明後日からなにがあるんですか?」
 私の質問を聞いた荒川は両の拳をグっと握り、ゆっくりと開いた――しばらくぶりに見る荒川が言葉を探しているときのクセだった。私は自分のペットボトルのお茶を一口含んで、荒川の回答を待った。
 荒川は、それから二度ほど拳を開くクセを繰り返したが、言葉を見つけ出せなかったようで、回答を出したのは足立だった。「実は、荒川は明後日から、研修に行かなきゃならないんです。これは、前から決まってたことなんですよ」
「だったら、そちらの会社で代理を立てたら、いいじゃないですか? 私に頼むと余計なお金がかかりますよ」
「仰るとおりです。ところが、荒川の代わりに入るはずだった社員が、急に会社を辞めちゃいまして……これは、お恥ずかしい話なんですけど」
「だからといって、私というのも、ちょっと……」私は核心をつくことにした。「なにか、わけありですね?」
 この依頼を受けたくないのではない。〝仕事には常に忠節を尽くせ〟というフレーズは、荒川の口グセだった。研修に行かなければならない立場とはいえ、そんな男が自分の仕事から手を引くのだ。さらには、こんな稼業の私を捜し出してまで依頼をするには、それなりの理由があるに違いない。どうしても訊いておかねばならなかった。
「そうなんです。本当のことを申しますと、あなたのような方にお願いしたい問題がございまして」答えを渋るかと思った足立があっさりと認めた。
「私じゃなきゃできない問題?」
「はい。申し上げにくいんですが、あなた以外の方にも接触はとってみたんです。でも、荒川が自分の部下だったあなたが、こちらで事務所を開いていることを聞きつけまして……それならば、あなたにお願いしようと、あなたなら解決してくださるだろうと、お伺いした次第なんです」
 芝居の口上のような口調でしゃべる足立の隣では、荒川が頷いていた。
「是非とも、お引き受けください」足立が、そのまま土下座でもしそうな勢いで頭を下げた。
 足立に続いて荒川も「すまん、頼む」と頭を下げた。
 荒川に頭を下げられるのは、これで二度目になる。一度目は、私があの稼業から足を洗った日だった。思い出したくはないが、忘れられない記憶。
「……荒川さん、まずは頭を上げてください」
「じゃァ――」頭を上げた荒川が言った。
 私もなにか理由を探さなくてはならなかった。「先ほど〝住み込みで〟と仰いましたよね」
「はい、そうです」足立が笑顔を張りつけて答えた。
 もう一度、ペットボトルに口をつけてから、私は言った。「そこ、クーラーあります?」
 荒川と足立が揃って首を縦に振る。
「お引き受けしましょう」

   三

 その女に気づいたのは、荒川だった。
 私はニコチンで誤魔化すことのできないやり切れない思いを、空を覆い始めた分厚い雲を眺めてやり過ごしていた。荒川に肩を叩かれ、彼のごつい指が差す先に視線を走らせた。
 グレーのスカートをはいた女が屋上の角に立っていた。長い髪とスカートがゆるやかに風になびいている。
 彼女は、私と荒川が〝問題の場所〟で話し込んでいる間に屋上へ上がってきたのだろう。では、足立はなにをしていたのか。彼女とすれ違わなかったのか――いや、今はそんなことはいい。
 このマンションの屋上にはフェンスがないのだ。彼女が一段上がって、へりを一メートルも歩けば、地面は無くなる――
 私と荒川は、ほぼ同時に動き始めていた。相手を刺激しないよう駆け寄るわけにはいかない。かといって、悠長にのんびりと歩み寄るわけにもいかない。私たちは、慌てず急いで屋上の角へ向かった。
 近づくにつれ、そこに立っているのは少女だということがわかった。この年頃の少女が――十七、八といったところだろう――身につけるには、地味すぎる色のスカートは制服のようだった。
 少女は遠くを見つめたまま、立ちつくしていた。私たちは歩み寄るスピードをゆるめ、三メートルほどの距離を取って立ち停まる。
 私たちに気づいた素振りを見せない少女に、荒川がそっと声をかけた。「そこで、なにしてるの?」
 荒川の声に振り向いた少女は、大きな目が印象的だった。少女は突然現れた私たちの存在に少し驚いた表情を見せた後、眉間にしわを寄せた。思い詰めているのか、それとも私たちを睨みつけているのか。
 説得役は、最初に声をかけた荒川に任せることにした。なにかの拍子に、少女は屋上の向こうへ駆け出してしまう恐れがある。それに、こういった場面では話しかける相手はひとりの方がいい。二対一で〝やいのやいの〟言い含めるよりも、一対一でじっくりと説得する方が相手に安心感を与えるものだ。
 少女がその大きな目を屋上の向こうにやった。分厚い雲を見つめたまま、少女が呟いた。「死にたいの」
「今、なんて言ったのかな?」荒川に緊張感が走ったのが、隣の私にもひしひしと感じられた。
「死にたいの」今度は、はっきりと口にした。
 少女の言葉に荒川は息を呑み、私はいつでも飛び出せるよう足に力を込めた。
 右手を口元に運ぶと、少女は絞り出すように続けた。「でも、死ねないの」
「そう、死ねないのか……それは、悪いことじゃない。そこは、危ないから――」
「わたしは死にたいの」少女は荒川に言葉を続かせなかった。「でも、死ねないの。わたしには死ぬ勇気がないの」
「〝死ぬ勇気〟なんて、必要ないんだよ」と荒川。
「……なんで?」
「人間、いつかは死ぬんだよ。だから、〝死ぬ勇気〟なんて必要ないんだよ」
「違うの。いつか死ぬとかじゃなくて……わたしは今、死にたいの」
「どうして、死にたいの?」
「生きてる意味がないから」屋上の向こうを見つめていた少女が振り向いた。
 まずは彼女の気を私たちに向けることには成功したようだ。私は足に込めていた力を少しだけゆるめた。
「それは、どういうことなの?」荒川が訊いた。
「……男にでも、振られたか」私は思わず口にしていた。足の力を抜いたことで、緊張感もゆるめてしまったようだ。さすがに自分の失言に気づき、謝罪の言葉を続けようとしたが、その前にすかさず荒川が私の頭をその大きな掌で叩いた。昔の荒川は口よりも手が早く、よく殴られたものだった。ただ、少女を刺激しないよう心がけているのか、今日は昔ほどの強さではなかった。
 少女は大の大人が頭を叩かれる様子を目の当たりにして、ちょっとだけ表情を穏やかにした。私の口の悪さも役に立つことはあるのだ。
「馬鹿にしないで。わたしはその辺にいるつまらない女とは違うの」その大きな目で私を睨みつけ、どこか大人びた口調で言った。
 ――なにが〝つまらない女とは違う〟だ。まだ、ガキのくせに
 これは口にしなかった。少女を刺激しないためというのもあるが、いい歳をして他人前で二度も頭を叩かれるのは、ごめんだ。それも、こんな子供の前で。私にだって、それぐらいのプライドはある。
「ごめんね。こいつ口が悪いから」こわもての荒川も表情を柔らかくした。「――でも、〝生きている意味がない〟っていうのは、どういうことなの?」
 荒川の問いかけに、少女は考え込んだ。右手を口元に運んでいる。考え事をするときの少女のクセなのかもしれない。やがて少女が答えた。「……わたしには生きてる意味がわからないの。なにかできるわけでもないし、わたしがいなきゃいけない理由なんてないもん」
 荒川は拳を握っては開く例のクセを出しながら、少女の話を聞いていた。
 話を終えた少女は右手を口元に運んだまま、黙り込んでしまった。少女はその胸の内にある言い知れぬ爆発しそうな感情の中から、慎重に言葉を選び出しているのだろう。ただ、口下手な荒川とは不思議と会話のリズムが合っていた。
「――だから、死にたいの、わたしは……でも、わたしには死ぬ勇気がないから、死ねないの。だから、嫌なの」先刻と同じことを少女が言った。
「あのね……おじさんの歳になっても、〝生きている意味〟は、まだわからないんだよね。自分のために生きてるのかもしれないし、奥さんのため、子供のためかもしれない……でっかく世の中のためなのかもしれない。その辺は、まだわからない。でもね、だから生きてるんだと思ってるんだよ。〝生きてる意味〟を探してるんだと思う」一語一語噛み締めるように、口下手な割には哲学的なことを言った。
 ところが、少女の出した答えは、荒川の努力を無にしてしまうものだった。「その歳になっても、〝生きてる意味〟がわからないの? 馬鹿なんじゃないの?」
 私に負けず劣らず口が悪い。しかし、口よりも手が早いはずの荒川は少女の頭を叩こうとはせず、例のクセを二度繰り返して、少女に答えた。「そうだね。おじさんたちは馬鹿なのかもね」
 おじさん〝たち〟と言ったことが気になったが、私はそのまま荒川の次の言葉を待った。
「それとね、おじさんたちにも、まだ〝死ぬ勇気〟はないんだよ。でも――」
「――でも?」
「〝生きる勇気〟はあるんだ……どんな嫌なことにも立ち向かう〝生きる勇気〟だけは、持ってる。嫌なことから逃げない〝生きる勇気〟を持っていれば、いずれ死ぬっていうことと、正面から向き合えると思うんだ。それが、〝死ぬ勇気〟ってことなんじゃないかな」
「〝生きる勇気〟があれば、いずれ〝死ぬ勇気〟が持てるってこと……」と少女。
「そう……だから、〝死ぬ勇気〟よりも、まずは〝生きる勇気〟を持たなきゃ」
「意味がわかんない」少女がまた右手を口元に運んで、黙り込む。
 その少女に荒川が語りかけた。「ごめんね……おじさん、頭が良くないから、うまく言えなくて」
「わかんない! もうわかんない!」そう声を上げると少女は、私と荒川の間を強引にすり抜けて、入口の方に大股で歩み去った。少女が荒川の言葉を理解できたかどうかは別にして、今この場で最悪の事態だけは、回避することができたことは確かだった。
 私は大きく息をついた。「――取り敢えず一件落着って、ところですかね」
「そうだな……」額の汗を拭いながら、荒川が怖い顔で答えた。
 荒川がまだ緊張感を解いていないのかと思ったが、荒川の鋭い視線はワイシャツのポケットに伸びた私の右手に注がれていた。無意識のうちに、煙草に手を伸ばしていたようだ。私は慌ててポケットから手を離した。「それにしても……荒川さん、あんなに優しく話せるんですね」
「一応、子持ちだからな」荒川が入口の方へ目をやった。柔らかい表情で、少女の後ろ姿を見守っている。数年後の自分の娘と重ね合わせているのだろうか。
 少女は、ようやく屋上の入口建屋から姿を見せた足立――今の今まで、どこでなにをしていたのだろう――と、すれ違うところだった。
 荒川が呟いた。「百点満点とはいかないけど、久しぶりにしちゃァ、俺たち、いい仕事したんじゃないか?」
「まァ、お互いに昔取ったナントカってヤツでしょう……」
「かもな」荒川が私に向けて、笑顔を見せた。久しぶりに見る一仕事終えた男の顔だった。
 すれ違ったばかりの少女を何度も振り返りながら、足立が駆け寄ってきた。「あの女の子、なんなんです?」
「自殺志願者だよ」答える荒川の口調は、かつての上司のものだった。

 それから、自分の口で〝問題の場所〟を説明したがる足立をなんとかなだめて、私たちは屋上を後にした。あの年代物のエレベータに乗り一階まで降りると、私と荒川は足立に伴われて自治会長と副会長を頭を下げに行った。
 その場で足立は私について
 ――荒川の元部下で、転職してきたばかりの新入り
 という口数の割には、なんの面白みもない紹介をした。しかし、〝荒川の元部下〟ということが重要だったらしく、自治会長の品川という七十前後の老人はしきりに「荒川さんの部下なら大丈夫だ」とこぼし、副会長の北という荒川と同年輩の女性は、研修に行くという荒川に「頑張ってくださいね」とエールを贈っていた。どうやら、こわもての元上司は住民たちに好印象で受け入れられているようだった。
 一週間だけとはいえ、私はそれなりのプレッシャーを感じざるを得なかった。

   四

 管理人の代役初日――
 約束の時間に待っていたのは、足立だった。荒川は朝一番に研修に出発したそうで、仕事の引き継ぎは足立から受けることになった。一階のエレベータホールでマンションの受付も兼ねている管理人室で、「八時から十九時までは管理人室を開けておくこと」「管理人室を不在にする際には〈不在票〉を置いて出かけること」に始まり、その他ルーティンワークや書類のつけ方などのレクチュアを受けた。レクチュアを受けながら私は、それとなく受付窓の向こうをうかがっていたが、不審者などの出入りはなかった――まあ、初日からそんな騒ぎがあっても困るのだが。
 最後に足立は
 ――自治会に任せておけば、大丈夫
 ――私が代役を務める一週間に業者の出入りはないから、大丈夫
 ――そして、なにかあったら、すぐに足立に連絡しろ
 と念を押し、管理人室やら電源室の鍵をひとまとめにした鍵の束――二カ月前から壊れている〝屋上の鍵〟もまとめてあった――を私に手渡してレクチュアは終了となった。ここまで、二時間半。足立としては、コンパクトにまとめたのだと思う。
 レクチュア終了後、足立が手配してくれた弁当を少し早めの昼食として管理人室でふたりで食べ、つい先刻教わったとおり〈不在票〉を置いてから、エレベータホールで足立とは別れた。
 私はあてがわれた〝クーラーが使える〟二〇三号室――来月には新しい住人が入居するとかで、禁煙なのは、残念なことだが――に自分の荷物を運び込むと、用意された作業着に着替えて二〇三号室を後にした。管理人室に戻りがてら荒川の家族に挨拶しようと、一家が入居している一〇一号室の呼び鈴を押してみたが、反応はなかった。子供は学校だろうし、荒川の妻も働きに出ているのかもしれなかった。
 それから管理人室から抜け出せる十九時までの間は、慣れない仕事をこなしたせいか、あっという間に過ぎ去っていった。私は〝管理人室は十九時までです。御用の方は二〇三号室まで〟と書かれた〈不在票〉――〝二〇三号室〟の部分は足立が書いたのか、部屋番号が手書きされた紙が張りつけてあった――を置いて、ひとまずエレベータホールの外まで出た。
 携帯用灰皿を手にしながら、ブックマッチで煙草に火をつけて、最初の一服を肺いっぱいに喫い込んで吐き出した。人心地つくと、辺りに立ち込めた夕餉の匂いに煽られたのか、私は空腹感に襲われた。私にあてがわれた二〇三号室は、空き部屋のため冷蔵庫があるわけもなく、管理人室に備え付けられた冷蔵庫には、腹の足しになるようなものは、なにひとつなかった。夕飯を食べに行くついでに、買い出しをしておくしかない。
 いつ降り出してもおかしくない空模様を眺めながら、そんなことを考えていたときに、後ろから声をかけられた。振り向くと、私と同じ年頃の小柄な女と女の子が立っていた。
「荒川の家内です」小柄な女が頭を下げた。傍らの女の子――荒川の娘もちょこんと頭を下げる。「今日はいろいろとありまして、ご挨拶が遅れて申し訳ございません」
 私は喫っていた煙草を携帯用灰皿に押し込めた。「いえ、こちらこそ」
「……あの、晩御飯はお済みでしょうか?」
「まだ……ですが」
「でしたら、ウチに用意してありますので、召し上がって行ってください」
「いや、そんな……そこまでしていただかなくても――」
「こんな突然のお願いを受けていただいたわたくしどもの気持ちです。お食事の世話ぐらいはしろ、と荒川にも言われています」彼女の口調はおだやかだったが、言葉の端々に芯の強さがうかがわれた。
 私はこの申し出を無下に断ることもできず、着替えてからお伺いすると答えた。彼女は「では、お待ちしてます」と笑顔を見せて、娘を連れて部屋へ戻っていった。
 荒川宅で夕食にあずかった後、私は屋上に向かった。先日の少女の姿もなければ、足立の言う〝放火犯〟も姿を現さなかった。クーラーに三食まで付いた今回の依頼に、この巡回さえなければ破格の待遇といえるのだが――そんな贅沢な依頼など、あるはずもなかった。

 二日目は困ったことから始まった。
 七時に荒川の娘が二〇三号室まで私を迎えに来て、突然の訪問に戸惑う私に「朝ご飯ができました」とだけ言って一〇一号室までエスコートした。一〇一号室では荒川の妻が朝食の準備を済ませていて、彼女も交えて三人で朝食を採ることになったのだ。しかも、昼食として手製の弁当を手渡された。彼女に言わせれば、荒川にしていたことなので、大した手間ではないということなのだが、どういった顔を作って弁当を受け取ればいいのやら――荒川の言う〝食事の世話〟を、差し入れ程度のものと考えていた私は面食らってしまった。どうやら、今となっては〝家庭生活〟というものの対極にいるのは、荒川ではなく私のようだった。
 朝食の後、登校する荒川の娘とともに私は、一〇一号室から〝出勤〟した。
 管理人室に籠もって一時間ほどして、荒川の妻が受付窓から顔を覗かせ「少し出かけてきます。娘には鍵を持たせてありますので……」と言って外出したほかは、午前中はなにごともなく経過した。
 昼食を終えて睡魔に襲われ始めた十四時過ぎに、自治会長の品川と副会長の北が管理人室に姿を見せ、小一時間ほどとりとめのない世間話をして帰っていった。世間話の中でわかったのは、足立が昨日、私に伝えた〝自治会に任せておけば、大丈夫〟という理由だった。
 築三十年近いこのマンションでは、いわゆる〝団塊の世代〟以上――それなりに体力はあるのに、リタイアして暇を持て余している住民がほとんどを占めているせいか、敷地内の清掃などは自分たちで片づけてしまうのだ。そこへきて、二年前にこのマンションに住み込むことになった荒川一家を除けば、ほとんどが二十年近く入居していることもあり、住民たちの結束は強く、住民同士のいさかいなどは滅多に発生しないとのことだった。仮に発生したとしても、古株の入居者が多い自治会で収めてしまうそうだ。マンションの管理人という仕事は、暇そうに見えて実は忙しい仕事なのだと思っていた私の想像は、このマンションに限っては外れたようだ。
 やることのない私がエレベータホールの外で煙草を喫っていた十五時半頃、荒川の娘が学校を終えて帰ってきた。一〇一号室に自分の鍵で入りランドセルを降ろすと、とんぼ返りで出かけて行った。どこかへ遊びに行ったのだろう。
 荒川の娘が戻ってきたのは、およそ三時間後の十八時四十分頃、ちょうど私は昨年、肺炎で入院してから家で煙草を喫いづらいという理由で再び管理人室を訪れた品川と、エレベータホールの外で煙草を喫っていた。どこかで待ち合わせたのだろうか、買い物袋をぶら下げた母親と一緒だった。
 荒川の娘が目を丸くした。「あー、お仕事さぼってるゥー。明日、パパに言いつけちゃうぞ」
 母親が「さくら」と小さく言ってたしなめたが、母親を見上げて荒川の娘――さくらは私を指差して続けた。「さくらが出かけるときも、おじさん、煙草喫ってたんだよ」
 どうやら私は、彼女に三時間ほど仕事もせずに、ここで煙草を喫い続けていたと思われているらしい。
 品川が私の携帯用灰皿で煙草を消しながら、場をとりなした。「違うんだよ、さくらちゃん。品川のじいちゃんが、ついさっき誘ったんだよ」
「だったら、おじさんは品川のじいちゃんの誘いを断んなきゃ駄目なんだよ。悪い誘いは断りなさいって、パパが言ってたもん」さくらは負けてなかった。
 煙草に関する勘違いは別にして、さくらの言葉は正論だった。さすがは荒川の娘だ。
 荒川の妻が、娘と目線を合わせた。「さくら……パパのお友だちが、さぼり屋さんなわけないでしょ」
 前の稼業で上司と部下だったという私と荒川の関係を子供に簡単に告げるのが難しいのもわかるが、〝お友だち〟と言われるは、なにやらくすぐったい気がした。
「そうだね……おじさん、品川のじいちゃん、ごめんなさい」母親の言葉に、素直に従ったさくらが私たちに頭を下げて、謝った――この素直さは、荒川の妻の遺伝だと思う。
「では、後でいらしてくださいね」と私に言い、荒川の妻はさくらを連れて一〇一号室へ帰っていった。
 荒川の妻のいう〝後で〟という言葉に興味深げにしている品川に、食事の世話になっていることを告白して、ふたりでもう一本ずつ煙草を喫い、私は管理人室を閉じた。
 私は荒川宅で夕食をご馳走になり――さくらの目を見る限り〝さぼり屋さん〟疑惑は、完全に解消されていないようだった――屋上と二〇三号室を定期的に行き来しながら、二日目の業務を終えた。

   五

 朝から雨の降った三日目は、三人で朝食を済ませて弁当を手に〝出勤〟した後、九時過ぎに出かける荒川の妻を見送ってからは、ルーティンワーク以外とりたててやることはなく、時折エレベータホールの外へ出ては〝さぼり屋さん〟になって午前中を過ごした。
 十四時を過ぎた頃、管理人室の電話が鳴った。代役を勤めてから初めてのことに、年甲斐もなく緊張していたが、私はきっちり二コール目で受話器を上げた
「元気か?」
「おかげさまで」電話の主が荒川とわかり、私は肩の力を抜いて答えた。「……荒川さんは、どうです?」
「まァ、研修だからな……なんとかやってるさ」
 受話器の向こうから聞こえてくる荒川の声は、弱々しく聞こえた。研修も三日目ともなれば、疲れが溜まってきているのだろうか。
「お前こそ、ちゃんとやってるんだろうな? 品川さんと煙草を喫ってるところを、さくらに見つかったそうじゃないか」
 毎日連絡を取り合っているのか、さくらは早速、昨日の出来事を報告したようだ。「あれは、タイミングの問題です。真面目に〝慣れない仕事〟をやってますよ」
「そうか……ならいいんだ」やけに素直に荒川が納得した。少し間を置いてから――おそらく例のクセを一回分だ――荒川が続けた。「俺な、戻ったらちゃんと仕事するよ」
「どうしたんですか、急に」
「お前と久しぶりに会ってさ、昔のこと……お前と一緒に仕事をしてた頃のことを思い出したんだ。そしたらな、お前の言うとおり、生活がかかってるとか、かかってないとか、そういう問題じゃァないってことに気づいてな。そうだよな、仕事だもんな……ちゃんと、しなきゃ」噛み締めるように、ゆっくりと荒川が言った。
 私の減らず口を聞き流したことといい、突然の告白といい、単に〝研修で疲れが溜まっている〟だけではなさそうだった。なにかが、荒川を弱気にさせている。
「――この前、屋上で自殺したがってた子を助けただろ? あのときの俺たち、いい仕事したよな。ああいうのが、本当の仕事だよ」それにしても、今日の荒川はよくしゃべる。「……そう言えば、あの子、また来たか」
「いいえ」と私は答えて、夜は定期的に屋上を巡回していること、そしてこの三日間はなにも起きなかったことを報告した。
「そうか……それは、良かった」受話器越しにも、荒川が安堵しているのが伝わってきた。
「……荒川さん、気になりますか?」
「そりゃァ、気になるさ。ああいう子はさ、寂しがり屋なんだよ。友だちがいるとか、いないとかじゃないんだ。あの子はさ、多分、学校や家なんかでは、しっかりしたいい子で通ってるんだよ。でもな、本人はいろんな不安や悩みがあって、誰かに助けてもらいたいんだけど、周りの見る目がさ……〝あんなしっかりしてる子が、そんなつまんないことで悩んでるわけがない〟って思ってるから……自分でも周りにそう見られてるのがわかってるからさ、弱い自分を他人に見せられないんだよ。だから結局、自分ひとりで抱え込んで、あんなことをしちゃうんだよな――」
 弱気は人を冗舌にさせるらしい。いつになく口数の多い荒川に、私は憎まれ口を返すのがやっとだった。「要するに、外面がいいってことですよね?」
「そういう言い方をするなよ……ああいう子はな――」
 荒川の話は取り留めもなさそうだった。私は我慢できずに、言葉をかぶせた。「研修で、なにがあったんです?」
「なんにもないさ。ただ、あの子のことが気になるだけだ。俺たちは……ひとつの命を救ったんだぜ。お前も、気になるだろう?」
 やはり今日の荒川は様子がおかしい。その原因がわからないことが、もどかしかった。
 私が答えずにいると、沈黙を恐れるように荒川が言葉をつないだ。「お前も子供を持てば、わかるって話さ」
「――そんな話ですか」
「そんな話さ」
「わかりました。次にあの子に出くわしたときのために、今の話はきっちりと頭の中に入れておきます」
「頼んだぜ。俺が戻ったら、俺がちゃんと対処するから……」
「了解です。これでも、仕事は真面目にやってるんですよ」
「そうだったな」受話器の向こう側で、荒川が笑った。
 それから仕事に関する話をいくつかして、最後に荒川は「お前に会えて良かったよ。申し訳ないけど、あと四日頼むぜ……」と言って電話を切った。
 私の目の前にあるデジタル式の置き時計は、十四時二十二分を示していた。
 口下手な荒川にしては、長電話だった。

 黄色のレインコートと長靴姿で下校してきたさくらが昨日と同じようにマンションをとんぼ返りで飛び出した十五時過ぎ、彼女と入れ違いで足立が管理人室に顔を見せに来た。
「これ、陣中見舞いです」ぶら下げてきた紙袋を、足立が差し出した。紙袋の中には、ピンクのリボンの付いた白いケーキボックスがある。「〈シエスタ〉のプリンです」
 お礼を言っただけで紙袋を受け取ったままの私に、足立は少し興奮した調子で言った。「〈シエスタ〉のプリンですよ? 一時間ぐらい並ばないと買えないレア物なんですからね。三つ買ってきたんで、奥さんとお嬢さんにも、わけてくださいね」
 私は「後で食べる」と答えて、〈シエスタ〉のプリンなるものを管理人室の冷蔵庫にしまった。この天気の中、わざわざ一時間も行列に並んだ上、荒川の妻とさくらの分まで買ってきてくれた心遣いはうれしいのだが――プリンというヤツは、私がこの世の中で食べられない数少ないもののひとつなのだ。
 せっかくの陣中見舞いに心を動かされない私にあきれた足立は早速、仕事にかかった。「――じゃあ、書類をチェックさせてもらいます」
 この三日間で私がつけた数々の書類に問題がないことを確認した後、足立は「そういえば、気になる話があるんですけど……」と切り出した。
 足立の聞きつけてきた〝気になる話〟は、私にとってプリン以上に心を動かされる陣中見舞いだった。このもうひとつの陣中見舞いは冷蔵庫ではなく、記憶の中にきちんと刻みつけておいた。
 ありがたく冷蔵庫にしまった陣中見舞いは、夕食に招かれたときに荒川の妻に手渡した。この厄介な陣中見舞い――〈シエスタ〉だか、〈コモエスタ〉だかのプリンは足立の言ったとおりの〝レア物〟らしく、食後のデザートとして箱の中身が明らかになったとき、荒川の妻までもが声を上げて喜んだ。しかも、私が満腹であることを理由にして、自分の分をさくらに譲ると申し出ると、さくらの私の見る目は〝さぼり屋さん〟から〝優しいおじちゃん〟へと一気に昇格したほどだった。
 上機嫌でプリンを食べる親娘を前にして、私は荒川の妻が煎れてくれた紅茶をすすっていた。
 昼間の弱気な荒川に接したせいなのか、目の前で陽気にはしゃぐ荒川の妻の様子は、なぜか私の心に引っかかった。
 別に彼女が、普段は笑顔を見せない陰気な女というわけではないのだが――

 理由がわかったのは、その夜遅くのことだった。
 いつもどおり屋上を見廻って帰ってくると、二〇三号室の前に彼女が立っていた。
「夜分にすいません。あの……お話をさせていただきたいことがあるんです」突然のことに戸惑いを覚える私に彼女が言った。
 時間は二十二時を回っている。当然、気になることを私は訊いた。「さくらちゃんは?」
「もう眠ってます。あの子、寝つきは悪いんですけど、眠ってしまえば朝まで起きませんから」眠りの深い娘について恥ずかしそうに答えてから、彼女はもう一度言った。「お話をさせていただきたいことがあるんです」
 私をまっすぐに見つめる彼女の目は、夕食時の印象とは違っていた。
「お伺いしましょう」私は、彼女を私の事務所以上になにもない二〇三号室に招き入れた。
 敷きっぱなしにしていた布団を片付けた和室で、畳の上に直接腰を下ろした彼女は一度大きく息をついてから話を始めた。途中、何度か涙で言葉に詰まりながらも、泣き崩れることなく話し終えると、私にお願いをふたつした。
 彼女の話で、私はすべての理由がわかった。そして、ひとつめの願いは応えることはできる。ただ、ふたつ目の願いは――私は彼女に訊いた。「後悔……しませんか?」
 涙を拭った彼女は、再び私をまっすぐ見つめた。「しません……いや、後悔するかもしれませんね。でも、なにもしないのは、逃げ出すことと同じですから……それだけは、したくありません」
 ――さすがは、荒川の女房だ。腹が据わっている
 私は、彼女のふたつの願いに応えることにした。

   六

 翌朝も、さくらが朝食に迎えに来ることから始まった。
 昨晩、話したことを決してさくらに気取られないように――これが、荒川の妻のひとつめの願いだったのだが、私が思う以上に彼女の願いを叶えることができそうだった。
 昨日の〈シエスタ〉のプリンなるもののおかげなのか、さくらは四日目にして私を受け入れてくれたようで、これまではドアをノックして遠慮がちに「朝ご飯ができました」と言うだけだったのが、今朝は呼び鈴を連打された後、「ご飯だよ」と笑顔で声をかけられた。食事の間も、これから学校でやらなければならないこと――理科の時間に、なにやら発表をしなければならないそうだ――をしゃべり続けて、母親から「早く食べないと、遅刻するわよ」と叱られる始末だった。
 慌てて飛び出したさくらを見送った荒川の妻が、私に弁当を手渡しながら小さく「ありがとうございます」とお礼を言ったので、私も目礼を返して〝出勤〟をした。
 午前中は降ったりやんだりを繰り返していたが、午後にはすっかり雨もやんで日が射し込んできた。そんな忙しい空模様とは打って変わって、仕事の方は相変わらずルーティンワークの他は取り立ててやることはなく、夕方には顔を出した自治会長の品川と、さくらの姿を捜してびくつきながら煙草を喫うという高校生のようなことをした。
 荒川の妻とさくらが、荒川の〝研修〟先から戻ってきたのは、ちょうど煙草を喫い終えた私と品川が世間話を始めた頃合いで、さくらは私の姿を見つけるなり「今日はカレーだよ」と献立を教えてくれた。品川は荒川親娘と一緒に帰宅し、私は十九時まで管理人室に残った。
 夕食に、少し甘めのカレーにあずかってから――子供向けというより、辛いものが苦手な荒川向けなのかもしれない――私は二〇三号室に戻り、夜の巡回業務に就いた。
 夜の巡回は、代役を始めてから毎正時を目安に行っていた。懐中電灯を片手に、屋上の隅々までを点検して、エレベータではなく非常階段を使って戻ってくる。次の正時までは、暇つぶしに持ち込んだ『坂口安吾全集』を読んで過ごした――二時以降は読書ではなく小一時間程度の仮眠に充てていた――それを七時まで繰り返す。
 この日も二十二時の巡回までは何事もなく終わり、『坂口安吾全集』に収められた『青春論』――ここで語られる宮本武蔵論は秀逸だった――を読了した二十三時過ぎ、私は懐中電灯を手に取り二〇三号室を後にした。
 動き出す際にガタガタと音を立てる年代物のエレベータに乗り、九階に向かう。『非常口』と書かれた鉄製の
 ドアを開け、非常階段を一フロア分昇った。屋上へと続くドアに手をかけたとき、鍵の修理について足立に話をしていなかったことを思い出した。
 ――明日にでも、相談しなければ
 そんなことを考えながら、私はドアを開けた。
 屋上に出て天を仰いでみれば、雲ひとつなかった。空が近づいてきている。新しい季節がすぐそこまで来ていることが、夜空でも見て取れた。
 夏へと移りゆく空の下、少女がひとり立っていた。先日のように屋上の角に立ち、遠くを見つめている。
 私は先日よりも、速いペースで彼女に歩み寄った。
 私の足音に気がついた少女が、こちらを振り向いた。先日は制服姿だったが、今日は淡いブルーのワンピースだった。
「そこで、なにをしている?」私は声をかけた。
 少女は一瞥をくれると、私の問いかけを無視して屋上建屋に向かって歩き始める。私が少女の前に立ちふさがると、今度は私の横をすり抜けようとした。
「待ちなさい」私はすかさず少女の腕をとった。
 少女は私の左手を振りほどこうとしたが、私は当然離さなかった。
「離して」少女が私を睨みつけた。「大声出して、警察呼ぶわよ」
「呼べばいい。曲がりなりにも、俺はこのマンションの管理人だ」私は暴れる少女の左腕をつかんだまま、答えた。「そして、お前さんはここの住人じゃない。正当な理由がないのに、他人の住居に侵入するのは犯罪なんだよ。これをね、刑法第一三〇条……住居侵入罪と言うんだよ」
 〝犯罪〟というキーワードが効いたのか、少女が動きを止めた。そして、小さい声で言った。「痛い……離して」
 私が思っている以上に力がこもっていたのかもしれない。私はゆっくりと手を離した。「また、死にたくなったのか?」
 右手で左腕の私が握りしめていた辺りをさすりながら、少女が頷いた。
「それで、また〝死ぬ勇気〟がないっていうのか?」
「そうよ、わたしは死にたいけど、〝死ぬ勇気〟が――」
「いい加減にしろ」
 張り上げた私の声に、少女が肩を震わせて驚いた。
「お前さん、あそこのマンションの子なんだろ?」私は右手にそびえる十五階建てのマンションを指差した。「それで、あそこのマンションでも同じような騒ぎを起こしてるよな」
 足立が昨日残してくれたもうひとつの〝陣中見舞い〟は、この少女に関する情報だった。右手にそびえる新築のマンションは、屋上が共用スペースとして開かれていることもあり――このマンションと違って、立派なフェンスもあるそうだ――住人は自由に屋上へ出入りができる。住人である少女は、屋上へ何度となく上がっては、自殺騒動を繰り返したらしく、今では屋上への出入りは制限されてしまったそうだ。
「それで、自分の住んでるマンションが駄目になったら、今度はあっちだ」私は右手を少しだけ動かし、このマンションと同じぐらいの高さのマンション――足立の話では十階建てだった――を指し示した。「残念なことに、あっちのマンションは屋上に出るには、鍵がいる。それで、一悶着あったそうじゃないか」
 屋上に出ようとする少女を発見した住人が説得を試みたが、先日の私と荒川のときのようにはいかず、警察を呼ぶ騒ぎになった。もっとも、警察が到着する前に、この少女は住民の目を盗んで逃げ出してしまったそうなのだが。
「お前さん、一体なにがしたいんだ?」
「なによ、説教する気?」少女が眉間にしわを寄せて、あからさまに不満の色を見せた。「この前のおじさんだって、偉そうに説教したけどさ、あの歳になるまで〝生きてる意味がわかりません〟なんて言っちゃって、馬鹿なんじゃないの。大体、〝生きる勇気があれば、死ぬ勇気だってもてるはず〟って意味わかんないし」
 ご丁寧に荒川の言葉は声色を使って再現してくれた――まったく、似てないのだが――少女に気取られないよう右の拳を強く握り、ゆっくりと開いた。それを二回繰り返す。荒川のように言葉を探してみたが、なかなか見つけることはできなかった。ただ、殴りつけたい衝動は抑えつけることはできた。
 少女は右手を口元には運ばず、左腕に置いたまま、まくし立てた。「わたしは生きる勇気なんていらないの。生きてる意味なんか知りたくもないし……あのおじさんの歳でわからないことが、今のわたしにわかるわけないじゃない。それに、わたしが死のうが生きようが、あなたには関係ないでしょ。あなたこそ、いい加減にしてよ。もうこれ以上、私に関わらないで」
 おそらく私の右の掌には、爪の跡がついているだろう。私はようやく少女にかける言葉を見出すことができた。口調は、自分で思った以上に落ち着いていた。「だったら、死になさい。今すぐ。俺が見届けてやるから。〝死ぬ勇気〟がないなら、俺が手伝ってやる」
 少女はなにも言わず私を見上げ、私は空に目をやった。久しぶりに星がいくつか瞬いていた。
「今日は死ぬにはいい日だ……お前さんの背中、蹴り飛ばしてやるから、あそこの角に立て」
「――ちょっと、なに言ってんの?」
「だから、俺が死なせてやるって言ってるんだよ」
 左腕から右手を離した少女は、その場を動かなかった。
「あのなァ、なにがあったか知らないけど、生きることに真っ正面から向き合えないようなヤツが……いつも逃げ回ることしか考えてないようなヤツが、自分の弱さを棚に上げて〝死にたい〟とか〝死ぬ勇気がない〟とか……甘ったれんじゃないよ、まったく。そうやって他人の気を引いて、他人を振り回して遊んでるんだったら、とっとと家に帰んなさい。それでも、死にたいって言うんだったら、俺が死なせてやるよ」
 唇をきつくかみしめて私の言葉を聞いていた少女の目に涙が浮かんでいた。私は構わずに続けた。「ほら、早くしろよ。こう見えて、俺は忙しいんだよ」
 大きな目を閉じて、少女がうつむいた。そのまま泣き出すのかと思ったが、右腕が突然動き、私の頬に鋭い痛みが走った。なかなかどうして、手首のスナップを効かせたいい平手打ちだった。
「あんたなんかに、なにがわかんのよ!」思い切り叫んだ少女が私に背を向けて、走り出した。
 死ぬにしろ、生きるにしろ少女には、勇気がないようだった。私は叩かれてまだ熱を帯びている頬をさすりながら、屋上建屋に消える少女の背中を見送った。
 不意打ちとはいえ、あんな子供に平手打ちを見舞われて恰好はつかなかったが、今回も一件落着といったところだろう。私はもう一度、空を仰いだ。星の瞬く色の濃い空がそこにあった。
 ――確かに、いい日だ
 しかし、死ぬには、まだ早すぎる。

 この四日目の夜以降は、何事も起こることはなく、ただ淡々と過ぎ去っていった。
 私に平手打ちをくらわした少女と屋上で出くわすことはなく、足立の言う〝放火犯〟にいたっては、姿を見せる気配すらなかった。ルーティンワークをこなすだけの漫然とした日々を過ごす私は、再会した荒川が腑抜けのようになってしまったのも、少しだけ理解できるような気がしていた。
 屋上の鍵を修理する件については、五日目と六日目に電話で足立に提案をしてみた。しかし足立の回答は「今は忙しく、手が離せない。必ず修理はしますから」というもので、結局はうやむやにされた。
 荒川が〝研修〟を終えて戻ってきたのは、最終日の昼過ぎのことで、地味な茶色のスラックスに半袖シャツを身につけた荒川は、妻と愛娘に伴われて管理人室に顔を出した。〝研修〟の中身を知ってしまったからだろうか、少しやつれた印象を受けた。
「俺のワガママで、すまんな」それが、荒川の第一声だった。
「いいえ。滅多にできないですから。いい経験をさせてもらいました」
「お前は、本当に口が――」
「班長、お疲れでしょう。今晩までは私の担当ですから、ゆっくり休んでください」
「いや、お前もゆっくり休め。今晩からは、大丈夫だ」
 まさか、荒川は早速、職場復帰をするつもりなのか。私は荒川の妻に視線を移した。荒川の妻は、柔らかく微笑むだけだった。
「足立さんが所轄に手配してくれたおかげで、所轄が夜廻りをしてくれることになったんだ」足立の手回しの良さに呆気にとられる私に、荒川が言った。「今晩からお前も、俺もゆっくり休めることになった」
 ――なぜ、あの男はその手際の良さを屋上の鍵を修理することに使えないのか
「まァ、お前の気持ちもわかるけど、所轄に手配するのも大変なんだぞ」私の気持ちを察したのか、荒川が足立をかばった。
「班長がそれでいいというなら、私は従うだけです」
「そうか。じゃあ、今晩はウチで一緒にメシを食おう」荒川が私の肩をポンと叩いた。「俺もユウコのメシを食うのは、久しぶりだからなァ……」
 荒川の妻――ユウコが、荒川の隣で会釈をした。さらにその隣で、さくらが私を見上げてニッと笑う。
「わかりました。十九時までは仕事をまっとうします」
「おゥ。待ってるぜ」
 荒川に促され、三人は管理人室を後にした。
 最終日にして初めて品川の〝悪い誘い〟を断り、十九時まで仕事をした私が一〇一号室を訪問すると、テーブルの上には鶏の水炊きとビールが用意されていた。
「ありがとう、お疲れ様。さァ、飲んでくれ」席に着いた私に下戸の荒川がビールを注いでくれた。
 ありがたくビールを口にする。気がつけば、代役を始めてから一滴もアルコールを口にしていない。そのせいか、ビールの味はやけに苦く感じられた。
 さくらは、家でビールを飲む大人を初めて見たのだろう。最初の一杯を飲み干す私を物珍しそうに見ていた。
「よし、俺の復帰祝いとお前の慰労会の開始だな」
 荒川の一言に、さくらが拍手で応えた。
 鍋奉行を務めた荒川とアルコールを口にすると食べ物を受けつけなくなる私は鍋にあまり手をつけず、水炊きのほとんどはユウコとさくらの胃に収まった。
 締めの雑炊を口いっぱいに頬張る愛娘の様子を荒川とユウコが見守っていた。私はそれを眺めながら、ビールを飲み続けた。
 荒川が食事の後、私を二〇三号室まで送ると言い出したので、私はなんとか説得をして、見送りは玄関で勘弁してもらった。
 靴を履く私に荒川が言った。「あの子……また、来たか?」
 私は足立が聞きつけてきた情報と、先日の屋上でのやり取りを荒川に話した。当然、少女にひっぱたかれたことは割愛した。
「そうか……これで、あの子が立ち直ってくれればいいんだがな――」荒川は、誰に聞かせるでもないといった風に呟いた。
「班長……」靴を履き終えた私がした申し出は、ユウコが私にしたふたつ目の願いを無下にするものだった。私は酔っぱらっていたのかもしれない。「このまま私が仕事を続けてもいいんですよ」
「よせよ。俺の仕事を取るな。お前のおかげで、またやる気になったんだぜ」荒川の回答は、ユウコの――いや、荒川の願いそのものだった。「お前は、自分の仕事があるだろう。お前は、今の仕事で筋を通せ」
 私の目をまっすぐに見つめる荒川の目は、かつての上司のものだった。私は目をそらさずに頷いた。
 私を見る荒川の目は細くなり、その目尻も下がった。「なあ……お前、気づいてるか? お前、さっきから俺のこと〝班長〟って呼んでるんだぜ……お前にそう呼ばれるのも、随分と久しぶりだな」

 相当に疲れが溜まっていたところにアルコールを口にしたせいで、翌朝は朝食を告げに来るさくらの呼び鈴の連打が目覚まし代わりになった。慌てて布団を片付け、着替えてから一〇一号室へ向かう。
 荒川一家と朝食を食べてから、管理人室で一週間ぶりに作業着を身にまとった荒川と、仕事の引き継ぎを行った。引き継ぎを終える頃、足立が姿を見せたので、私は今回の依頼料――荒川の月給を日割りした七日分に五万円を足したもの。五万円は足立のポケットマネーだろうか――の精算手続きをした。
 すべての事務処理を終えた私がマンションを立ち去るときには、荒川とユウコ、さくら、そして足立が見送ってくれた。五十メートルほど歩き、角を曲がるときに振り返ってみると、三人の大人に囲まれたさくらが、まだ手を振り続けていた。

   七

 管理人の代役を終えた三日後に梅雨明けが宣言され、それからさらに一週間が経った。
 私の事務所のある雑居ビルでは、あの忌々しい空調設備の定期点検が継続中で、戻って来て早々に購入してみた扇風機は気休めにしかならず、高まる気温と不快指数に比例して、私が〈オリオンズ〉で過ごす時間は日に日に長くなっていた。
 熊谷で午前中のうちに最高気温が三十度を超えたその日、私は昼食がてら〈オリオンズ〉に逃げ込むことにした。ランチタイムであることに加えて、今どき珍しく分煙すらされていない〈オリオンズ〉は、私のようなニコチンに依存したオールドスクールな人間にとっては、サバンナにある水場のようなもので、昼食を終えた後もそのまま長居する常連客で賑わっていた。
 カウンターでは、マスターの村田が常連客の園川とスポーツ新聞を間に、オールスターを前にして首位の座にある今年のマリーンズについて熱心に語り合い、私の隣のテーブルでは近所の証券会社に勤める堀と高沢が名古屋に転勤となった落合という社員と、その落合と入れ替わりでやって来る牛島という社員の噂話に花を咲かせていた。さらにその奥では、不動産会社を経営する八木沢が、会社を辞めてアメリカに留学する渡辺という社員の壮行会について、打ち合わせていた。
 〝本日の特製ランチ〟と銘打たれたアジフライ定食を平らげた私はブックマッチで煙草に火をつけ、事務所から持ち込んだ朝刊を広げた。政党と代議士の名前を入れ替えても成立してしまう型通りの政局やら、私にとってはただの数字の羅列でしかない株価や為替の動向といった記事については、ざっと斜め読みで済ませた。私の稼業に直接影響はないにしても、依頼人との会話で役に立つときはある。その程度の知識で充分だ。
 私の目に留まったのは、社会面の片隅に小さく掲載されたいわゆる〝ベタ記事〟だった。記事の見出しは『マンション屋上に男性遺体』。
 テーブルに置いた私の携帯電話が振動する。ディスプレイに表示された電話の主は、荒川の名前だった。私は食後の一服を揉み消して、電話に出た。
 受話器の向こう側にいたのは荒川ではなくユウコだった。ユウコは「いろいろと手続きがあったもので、ご連絡が遅れました」と前置きをして、話し始めた。
 覚悟していたとはいえ、それは早すぎる報告だった。

 私が管理人の代役を務めていた一週間、荒川は研修ではなく精密検査を受けていた。春先から体調を崩しがちだった荒川を見かねたユウコが足立に相談し、ふたりの説得でようやく荒川も検査入院を承諾した。この入院を〝研修〟という名目にしたのは、私の事務所を訪れた際に足立が咄嗟についた嘘で、自治会にも荒川の不在については〝研修〟で押し通すことになった。
 精密検査の結果は、末期の膵臓癌。余命は三カ月――
 余命を宣告された荒川は、医者と妻を前に
 ――あと一カ月、仕事を続けさせて欲しい
 と訴え出た。管理人の契約は半年毎の更新で、その契約が切れる八月まで仕事を続けさせて欲しいということだった。
 ――まだ小さい子供のことを考えれば、治療に専念するべきなのだろう。しかし。自分はかつて部下に〝仕事に忠節を尽くせ〟と教えた。その自分が子供に仕事に忠節を尽くす姿を見せてない。仕事に忠節を尽くせない、だらしのない父親で一生を終わりたくない。
 ユウコによれば、そう語る荒川の様子は取り乱すこともなく落ち着いたものだったそうだ。
 医者は荒川の訴えは受け入れられないと回答をした。ユウコも当然、荒川には治療に専念するよう伝えようと思ってはいた。しかし、医者とやり合う荒川を見ているうちに、気がつけば荒川と一緒になって医者に頭を下げていた。
「どうして……でしょうね」二〇三号室で私にすべてを語った際、ユウコはそう言って涙をこぼした。
 結局、医者はふたりに折れる形で――医者に責任は問わないという誓約書を書かされたそうだが――本格的な治療開始は一カ月後となり、荒川は退院をすることになった。

 荒川とユウコが出会ったのは、私が前の稼業を辞めた年のことだった。
 荒川は私が辞めた直後に、異動を申し出ていた。希望した異動先は慣れない事務方だったが、あっさりと認められ――おそらく私がこだわった一件をうやむやにしたかったのだろう――その異動先の上司に紹介されて見合いをしたのが、同じ職場のユウコだった。やがて荒川はユウコと所帯を持ち、子供を授かると、定時には帰宅をして家族と過ごす時間を大切にするようになった。定年後の再就職先に足立の勤める管理会社を選んだのも、家族と一緒に住み込みで仕事ができるからだった。
 ユウコは一度だけ荒川に、広く知れ渡っていた〝家族は仕事の邪魔になる〟というポリシーを、なぜ捨てたのかと訊いたことがあった。
 ――それは、あの職場だから貫けるポリシーだ。俺はあの職場にいられる資格がなくなったから、異動を申し出た。そして、そこでお前を紹介されただけだ
 素っ気ない荒川の回答にユウコは、少しだけ腹を立てたらしい。
「せめて〝お前と出逢って初めて気づいたんだ〟……ぐらいのことは言って欲しかったんですけどね」ユウコはいたずらっぽく笑った。
 そんな気の利いた科白を言える人ではないでしょうと、私は彼女に微笑を返した。
 ユウコは「そうですね」と言った後で続けた。「……なにがあったのかは、わたしは良く知りませんけど、荒川は、あの職場にいる資格があるのは、あなただと。そのあなたに、なにもしてやれなかったと悔やんでいました」
 あのとき私がしたことといえば、単にひとりで意地を張っただけのことで、〝あの職場にいる資格がある〟とか、〝ない〟とかの話ではない。ましてや、荒川になにかをしてもらおうとは考えもしなかった――私はユウコにそう伝えた。
「でしょうね。荒川も、あなたのことで悔やんではいましたけど、あなたのことを恨んでいる様子はありませんでした」
 私自身も荒川のことを恨むようなことは、今までなかったと答えた。
「何年ぶりになるのかしら、あなたとお会いしたときに、屋上で女の子をひとり助けたそうですね。あの日、荒川はあなたに会えて良かった。久しぶりに、ちゃんと仕事をしたと。これが本当の仕事なんだと、ひどく興奮してました」
 〝研修〟先――病院から私にかけてきた電話で話したことと、同じことを荒川は妻にも話していたようだ。
「家族のために働いてきた荒川を、私は尊敬しています。だけど、あそこまで仕事に本気で向き合おうとしている荒川を見るのは、初めてでした。それに荒川は残りの命を、死ぬために使うんじゃなくて、生きるために使おうとしてるんです……わたしはその荒川の気持ちに応えたいんだと思います」
 ――だから、あなたも荒川の気持ちに応えて欲しい
 それが、二〇三号室で彼女が私にしたふたつ目の願いだった。

   八

 司法解剖を終えた荒川の通夜は、翌週の土曜に営まれた。
 後日、新聞に小さく掲載された記事によれば、直接の死因は〝食道静脈瘤破裂による出血性ショック〟――深夜の屋上で大量の吐血をして、そのまま息を引き取った――ということだった。
 深夜の屋上への巡回は、足立が近くの警察に手配をしたはずなのに、なぜ荒川は深夜の屋上で倒れていたのか――通夜の行われる斎場に向かいながら、私はそんなことを考えていた。
 斎場に到着したのは二十一時を回った頃のことで、ほとんどの参列者は焼香を終えて帰宅したようだった。顔を合わせたくない参列者がいる恐れがあったので、わざとこの時間を選んだのだが、私の思惑は外れてしまった。斎場の入口で私と同年輩の男がひとり佇み、そのクセのある目つきで私をじっと見つめている。
 荒川に私のことを教えたかつての同僚――古河だった。
「お前を待ってたんだ」古河は私の姿を認めると、入口脇に設置された灰皿の方へ私を誘い出した。「話がふたつある。どっちから聞きたい?」
「どっちでもいい。話したい方から話せ」私は煙草にブックマッチを使って火をつけた。
「じゃあ、早く終わる方からにする……あいつらが、まだ残ってる。以上だ」
 私が思わず舌打ちをすると、古河は唇の端をキュッと上げた、それから、私と同じセブンスターをくわえてジッポーで火をつける。
 私にとっての精神安定剤――ニコチンのたっぷり詰まった煙を、思い切り肺に喫い込んでから訊いた。「もうひとつの話は?」
「これは、新聞になんざ載らないと思うんだが……荒川さんのことで、昨日、近所の悪ガキが出頭してきた」
「どういうことだ?」
 古河がネクタイをゆるめて――喪服とはいえ、この男のネクタイ姿は珍しい――話し始めた。
 話のあらましはこうだった。
 私が管理人の代役をしたマンションに渋谷という住人がいる。そこの中学三年になる息子が、屋上の鍵が壊れていることを発見し、夜な夜な悪友たちを誘っては屋上で酒を飲んだり、煙草を喫ったり悪さをしていたらしい。その悪さをしていた場所が例の〝問題の場所〟で、あそこに残っていた焼け焦げた痕跡は彼らの火遊びによるものだった。梅雨時ということもあって、しばらくの間は屋上で悪さをすることはなかったのだが、彼らのうちのひとりが〝屋上に女の幽霊が出る〟という噂を聞きつけてきた。梅雨が明けたこともあり、あの年頃特有の意味のない度胸試しもあって、彼らは再び屋上に上がるようになった。
「――で、そこで班長と出くわしたってわけだ」話の途中から、古河も荒川については、昔の呼び方で語るようになっていた。
「ちょっと待てよ。夜の巡回は、所轄に手配したって聞いてるぜ」
 私の言葉に、古河が自嘲気味に笑ってから答えた。「ああ……夜の巡回な、所轄は三時間毎にやってたんだよ。だから、夜の二時までの間は、班長が一時間毎に巡回して穴埋めしてたらしい。これは、班長のカミさんに聞いたんだがな」
「それで?」私は先を促した。
「悪ガキどもと班長の間で、ちょっとした小競り合いになったらしいんだが、その途中で班長が突然、血を吐いて倒れたらしい。悪ガキどもは、一目散に逃げ出したそうなんだが……まァ、そりゃそうだよな。あんな大男が突然、血を吐いてぶっ倒れたら、誰だって逃げ出すわな」
「余計なことはいいから、早く話を進めてくれ」私は昔から口が悪いが、この男は昔から余計な一言が多い。
「すまん……で、しばらくはダンマリを決め込んでたんだが、新聞にも載っちまったし、自分たちが班長を殺した犯人にさせられるんじゃないかって怖くなったその……渋谷ってガキが昨日、オフクロさんと一緒に出頭してきたってわけさ。ただな――」
「ただ?」
「あのマンションには、ホントにコレ出るのか?」古河がくわえ煙草のまま〝コレ〟のところで、両手を前に出してだらりと下げた。「あのな、渋谷ってガキが言うには、屋上に若い女がいたらしいんだよ……ところが、女がいた痕跡が、まったくない」
「だったら、女がいたなんてのは、その出頭してきた悪ガキが、嘘をついてるってことじゃないのか?」
「それがな、一一九番に通報してきたのは、若い女なんだよ」
 屋上にいた若い女――私の脳裏には、あの少女が浮かんでいた。病を押した深夜の巡回で、荒川はあの少女と再会した。そこでは先日のようなやり取りがあったのかもしれない。そして、少女目当て――〝幽霊〟扱いだが――の少年たちと鉢合わせた荒川は、小競り合いの中で大量に吐血して倒れた。
 少女もその場を逃げ出した後で、少年たちのように恐怖に駆られて通報だけしたのか。それとも、まだ息のあった荒川が通報する少女に逃げるよう促したのか。
 今となっては知る術はないが、私は後者だと思っている。荒川は命を賭して、あの少女をもう一度救い、足立の言う〝放火犯〟を出頭させたのだ。最期の最期で、荒川は〝仕事に忠節を尽くした〟――
「女の幽霊ねェ……出るのかもな。まァ、その辺りを調べるのが、お前の仕事だろ」
「確かにそうだな……」古河が空に向かって、ぷぅっとセブンスターの煙を吐き出した。
「話はこれだけか?」私は灰皿に煙草を押しつけて消した。
 古河がくわえ煙草のまま頷いた。
「さて、線香をあげてくる」
 背を向けた私に、古河が訊いてきた。「なァ、探偵ってのは儲かんのか?」
「気になるなら、自分でやってみろ」私は振り向かずに答えた。

 どういうわけか、受付には石岡と守谷が立っていた。どうせ、仕切りたがりの坂東がねじ込んだのだろうが、あの頃と変わらないまぬけ面が受付に適しているのかどうか。まぬけ面のふたりは、私が香典を渡して記帳を終えるまで、目を合わせようとはしなかった。もっとも、目を合わせるなど、こちらから願い下げなのだが。
 通夜の会場にユウコとさくらの姿はなかった。時間が時間なだけに、寝付きの悪い娘を寝かしつけに一旦帰宅したのかもしれない。人気のない参列席には、足立と品川が残っていた。品川は足立の背中に手をやり、なにか語りかけている。
 通夜の会場の右奥から、下卑た笑い声が響いてくる。おそらく精進落としの場なのだろう。笑い声の主を知っている私にとっては、中を覗かなくてもどんな状況なのかは、容易に想像できた。
 私に気づいた足立と品川が立ち上がったが、私はそれを手で制した。香典袋を手にした石岡が、精進落としの場へ小走りで向かうのを目の端で捉えたからだ。あの腰巾着は、私が来たことを親分にご注進に及ぶ気らしい。厄介事になる前に、焼香だけは済ませておきたかった。
 焼香を済ませてから、私は足立の横に腰を下ろした。
「僕が……ちゃんと、警察にお願いしてれば。こんなことには……」絞り出すように言う足立の目は、泣き腫らして真っ赤だった。
「足立さん……あなたは、やるだけのことはやったんだ。あなたは、あなたの仕事をまっとうしたんですよ」
 私の言葉を聞いて足立は泣き崩れた。足立の背中をさすって慰める品川に、私は「失礼します」と言って立ち上がった。
 これで厄介事を起こさずに会場を後にできるはずだったのだが、私は下卑た声に呼び止められた。
「貴様、なにをしに来た!」石岡と守谷の親分――坂東が精進落としの場から姿を見せた。あの頃より髪の毛は幾分薄くなったが、品の悪さは随分と濃くなっていた。
 私は一度、大きく息をついて振り返った。
「なにをしに来たと言ってるんだ」坂東の目が座っていた。たいして飲めないくせに、人前では虚勢を張って飲み散らかす悪い癖も相変わらずだ。「貴様のせいで、どれだけ荒川君が苦労したのか、お前わかってるのか!」
 ――お前に言われる筋合いはない
 そう言ってやりたかったが、参列席に残った足立と品川が怯えているのを見て、私は黙ったままでいた。
「お前の香典なんか、荒川君が受け取るわけがないだろう。帰れ!」坂東が私の香典を投げつけた。香典袋は床の上を滑って、私の足元で止まった。こういうどうでもいいことだけは、昔から一級品だ。
 怯える足立と品川に気がついた石岡が「部長」と言ってから、坂東の耳元に口を寄せた。それを聞いた坂東は、ばつが悪そうに足立と品川に頭を下げて、すべては私のせいとばかりに睨みつけてきた。他人に責任を押しつけるのも変わっていない。
「坂東さん……出世したんですね。部長になったんですか?」と私は訊いた。
「そうだ。だから、どうした」
 私は足元の香典袋を拾い、上着のポケットに入れた。「いや、なんとかと煙ほど、高いところに登りたがるって言いますからね」
「貴様ァ!」と叫んで、私に飛びかかろうとした坂東は、足をもつれさせてその場にみっともなく転ぶと、床に打ちつけたのか、膝を抱えてのたうち回った。その横では、石岡がまぬけ面でおろおろと立ちつくしている。
 私はふたりを無視して――あいつらにさよならを言う方法は、いまだに発見されていないそうだ――厄介事に巻き込んでしまった形の足立と品川には一礼してから、会場を立ち去った。
 出口のところで振り向くと、祭壇で柔和な笑みをたたえる荒川の遺影が目に入った。
 ――お前は相変わらず口が悪いな
 そう言われたような気がした。

   九

 翌日の告別式に、私は参列しなかった。
 昨晩のような厄介事を避けるには、私が顔を出さない方がいいと判断し、なにかと忙しいであろうユウコにではなく、足立と品川に電話で告げた。足立は電話の向こうで泣きじゃくるばかりで、「後日、改めて挨拶に伺いたい」というユウコへの伝言は、品川にだけ頼んだ。
 告別式が始まろうとしている時間、私はあのマンションにいた。エレベータホールに入ると、管理人室の前には告別式に参列できない住人のためだろうか、献花台が設けられていて、花束の山ができていた。あのこわもての管理人への住民たちの想いが、そこにあった。
 私はその献花台の前を通り抜けて、エレベータに乗り込んだ。『9』のボタンを押すと、年代物のエレベータはガタガタと音を立てて動き出し、最上階に向けてゆっくりと昇ってゆく。
 ようやく階数表示が『9』を示し、エレベータが停まる。少しの間を置いて、ドアがきしみながら開いた。
 開いたドアの向こうに、あの少女が立っていた。今日はジーンズにTシャツというざっくりとした恰好だった。少女は私を見るなり、その大きな目をさらに大きくして驚いた。そして、頬をぷくっとふくらませると「なによ」と一言毒づいた。他人のことは言えないが、この少女は口が悪い。
 私は彼女に応戦した。「また、死にたくなったのか?」
「違うわよ」少女が私の手元に気づいた。「――あなたこそ、なにしに来たの?」
「大きなお世話だ。お前さんこそ、なにしてたんだ?」
「大きなお世話よ。馬鹿」少女が私を押しのけて、エレベータに乗り込んだ。
 少女と入れ替わる形でエレベータの外に出た私が振り向くと、少女は私に向かって思い切り舌を出していた。エレベータのドアが閉まるまでの短い間に、ようやく見せた年相応の仕種だった。
 私はエレベータに乗った少女を見送ってから、鉄製のドアを開けて階段を一フロア分昇った。私や荒川が身につけていたのとは違う作業着姿の男が――鍵を修理しに来た業者だろう――屋上のドアの前で工具を選んでいた。彼に「管理会社の許可は得ている」と嘘をついてドアを開けるよう頼むと、彼は「また、ですか……仕事が進まないよ」とぼやきながら、しぶしぶ屋上へ通してくれた。
 屋上へ出た私は、夏空から降り注ぐ日射しの下、すべての始まりである〝問題の場所〟へと足を運んだ。私にとっては献花台ではなく、ここがふさわしい場所だと思ったからだ。
 〝問題の場所〟には、やはり先客がいたようで、まだ真新しい花束がひとつ供えられていた。メッセージカードが添えられている。
 ――この前は、ごめんなさい。頑張って生きてみます。ありがとうございました
 私は昨日渡せなかった香典で買った花束を、その真新しい花束の隣にそっと置いた。

屋上の少女

屋上の少女

まだ梅雨の明けきらない七月のその日、私たちはエレベータに乗っていた。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2014-01-02

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