『武当風雲録』第一章、ニ、不意の来客

『武当風雲録』第一章、ニ、不意の来客

不意の来客

二、不意の来客

 時が経つこと二十年、乱世が続き、天下は四分五裂でなかなか治まらない。人は時代に生き、時代は人を造る。乱世は英雄豪傑を生み、平和は凡夫俗人を温める。どんな時代にあっても、慣れてしまえばその環境の良し悪しに鈍感になってくる。時を見極められるのはほんの一握りの者しかない。ほとんどの人はどんよりした頭で目先の暮らしにだけ齷齪しているに過ぎない。しかし、そのようなどんよりした空気の中に、他人が入ってくると、小鳥にかき乱されるどぶ水のように刺激が生まれる。好奇心と警戒心の混じった刺激である。
 この日、湖北武当山武当派の正門の前で、門番をしている孫貫明は、昼下がりの蝉時雨を聞きながら、ぼんやりと考え事をしている。
 武当派に入ってから五年になり、年を重ねていく以外、何も変わることはなかった。ときどき、このままでは行けない、武林の世界では朝鍛夕錬に腕を磨き、大志を抱かなくては身を立てられぬという道理を思いつつも、なかなか覚悟は続かず、ついつい日々の暮らしに甘んじてしまう。
 武当派という江湖名門正派に身を寄せながら無事に日々を過ごして行く自分が嫌いだが、それを変えようという気持ちはどうしても湧いてこない。そういうふうに彼はだらだらして何年間も派で日を送り、大した過ちもなければ、大した功績もなかった。
 「俺は結局、自分の一番嫌いな人間になってしまうだろうか。」
 鬱蒼した林を眺めながら、孫貫明はそう考えた。
 ん?――
 気がつくと、山坂の下から一人の男は上ってきている。
 武当派は武当山の奥に建てられており、市井の喧騒から隔てられている。とはいえ、江湖に名を聞かせる武林宗派だけに、雑貨商売や武器商人から、弟子入りに来る者、大小の武林紛争の相談、乃至他派掌門の訪問まで、毎日いろんな者が出入りしているのである。見ると、男は山の風景をきょろきょろ眺めながら軽快な足を運んでいる。足取りから大した内功はなく、武器も佩いておらず、おそらく弟子入りに来たであろうと孫貫明は思った。
 こっちの姿を認めると、男は足を早めた。孫貫明の前で両手を重ねて一礼をした。
 「某(それがし)は李志清と申します。今日貴派へ弟子入りをお願いに参りましたでございます。掌門馬先輩にお伝え願えないでしょうか。」
 近くなってみるとずいぶんと背丈のある者である。年は二十二三であろう、口元に若気が現れている。
ここ数年、孫貫明はいろんな新米に出会い、後輩も結構増えた。彼は生来態度の低い性格なので、後輩の前でも先輩面をすることはほとんどなかった。その一方、自分より若き者が現れるたびに、彼はいつも心の底に、なんとなく恐怖心のようなものを感じるのであった。
 「一応伝えておきましょう。ご存知かもしれぬが、武当派には入門の掟というものがございます。武術に向いており、かつ苦労に耐えられる者のみは許される。それを通ればの話ではございますが――」
 「は、左様でございました。」
 男は思い出したように、急いで懐から何かを取り出して差し出した。
 「申し遅れましたが、某は少林方丈大師の推薦で参りましたのでございまして、ここに大師の書簡がございます。」
 孫貫明は書簡を受け取った。表に「武当派馬掌門親展」という力の籠った数字が書かれている。
少林寺では賄賂も権力も効かぬところであり、少林方丈の推薦となれば、きっと武功において見込みのある者であろう。孫貫明は推薦状を見ながら、この男に対して言い知れぬ恐れを感じた。
 「それならば。」
 孫貫明は李志清を門外に持たせておいて中へ入った。
 武当派の敷地は広く、平方二百坪ほどもあり、中には大きく、「青龍堂」と「白虎堂」の二つの練武館が設けてあり、さらにそれぞれ細かく仕切られている。
 広大な派を管理するのは、当然掌門一人では成し得ない。毎日門を叩く者をいちいち面会していっては、他のことは何もできない。実際、孫貫明自身でさえ、年に数回しか掌門の顔を見ることができない。彼は当然馬掌門のところへ行くつもりはなかった。自分の属している青龍堂に行って、堂主に書簡を見せた。
 青龍堂堂主程礼は、書簡を一読すると「すぐに掌門にを届けよ。」と言った。
 めったにないことだ――
 普通の者なら、程礼の一存で、青龍堂か白虎堂のどちらかに入れて済むことだが、掌門まで呼び出すとは、やっぱりただの者ではないと孫貫明は思った。
 「いや、わしが行ってくる。その者をここに通してこい。」
 程礼は考え直して、孫貫明に命じた。
 孫貫明は命を受けて正門へ戻った。そして改めて男の顔を見た。
 「どうぞ中へ。」
 孫貫明はへりくだるのでもなく、変わらぬ態度で接した。
 正門を潜ると、広い道場はすぐ目の前に広がっている。幅三四十丈ほどで、次の門までは百歩もある。
 「これは、ご立派な!」
 男は思わず感嘆して見せた。
 「少林寺にもこれほどの場所はございません。みなさんは日々ここで練武されるんでしょうか。」
 「いえ、ここは朱雀道場、もとは練武する場所として造られたところだが、今では主に派の行事や武林大会などに使われておる。練武館は青龍堂と白虎堂の中に、別々にある。」
 武当派のことが褒められて孫貫明も満足した。何気に自慢するように説明してやった。
 「なるほど。左様でございますか。話に聞くと、武当派では陰陽両派に分かれているとのことでござるが、先輩はどちらで――」
 「青龍堂だ。これからもそちらへ参る。」
 「は。すると、某も青龍堂に入るというわけでしょうか。」
 「いや、それはまだわからん。師匠の指示を伺ってから決まる。」
 二人はそうやって話しながらいくつかの門を潜り抜けて青龍堂の敷地に入った。正門の大練武館ほどではないにしろ、こちらもかなり広い道場である。
 武当派は山の峰を背にして建てられている。左手に青龍堂で、右に白虎堂がある。その両の堂主は掌門馬忠の師兄にあたる者である。二人は昔から仲がしっくりしないので、競争するようにいずれも広い敷地を占めており、両方とも掌門の居る玄武堂より立派に作られているのである。
 堂主の屋敷に入ると、そこに程礼はすでに戻ってきて、もう一人の男と何かを話しながら中で待っているのである。孫貫明はすぐに片膝を突いて、
「掌門、堂主に申し上げます。少林寺からの者を連れてまいりました。」
と報らせた。
 それを聞いて、李貫清もすぐに膝を突いた。
 「某李志清と申します。武当掌門にお目にかかります。」
と、程礼に向かって挨拶をした。
 「掌門はこちらだ。」
 程礼は隣の人を示して言った。
見ると、程礼よりやや年下の男は地味な服装を纏い、真剣な顔つきで自分を見つめている。無理もない、外見からでは、どちらかといえば、程礼のほうは掌門らしく見えた。
 「そちらは李志清か。ご苦労だった。聞声大師はお元気でしょうか。」
 掌門馬忠は声をかけて、しげしげとその顔を覗き込んだ。
 聞声は今の少林寺の方丈である。馬忠が受け取った書簡も聞声からのものであった。
 「は。お蔭様で、大変達者でございます。」
 と、李志清は答えた。彼は方丈から書簡を渡されて武当派へまっすぐ向かったが、途中空けてはならぬと特に注意を受けたので、中身は知らない。今、馬忠の事あり気な表情を見て少し気になってきた。
 「師兄、この者を青龍堂へ入れて、しばらく面倒を見てくれないか。」
 馬忠は程礼に言った。
「うむ、わかった。」
 程礼は少し考えてから応じた。掌門とはいえ、程礼は馬忠に対してとくにへりくだっている様子も見えない。
馬忠は李志清の前へ来てその肩に手を掛けて言った。
 「志清、これから程堂主を師とし、しばらくここに居て武当派の武功を習うが良い。わからぬことがあれば何でも聞いてくれ。」
 「は!どうかお願い申し上げます!」
 李志清は馬忠と程礼へ向かってそれぞれ礼をした。一方、後ろにいる孫貫明はなんとなく心が重くなった。
 流れから見れば、むろん李志清が青龍堂に入るのは自然ではあるが、孫貫明はできれば自分と同じところに来てほしくなかった。掌門と堂主が自ら出迎えるような相手なら、ただならぬ背景を持っているに違いないが、そんな者を後輩に持つのは、なんとなく不愉快に思った。
 しかし、決められたことにはどうしようもない。平静な水面は乱されたが、彼はその水が再び平静に戻っくるのを期待するしかなかった。
 このように青龍堂に一人の新入りが増えた。李志清はほかの者と同様に、堂で寝起きし毎日練武したり、掃除番をやったりして、師匠からの特別な待遇も見受けられなかった。武当派に入った日の面会については、程礼も明言していないし、孫貫明も話さなかったので、みんなは普通の弟子として李貫清に接した。
 一方、李志清は新人らしく、武当派のいろんなことに興味を持ち、また意欲を示した。聞いてくれば孫貫明は説明してやるが、自分から話をかけてやることはほとんどない。できれば自分とかかわってほしくないが、武当派で最初に会ったのは自分だし、面倒を見てやれと程礼から言われることはないにしても、その場に居合わせたので知らぬ顔するわけにも行かない。それに生来きっぱり人を撥ね付けるような性格ではない。彼は内心いやいやながらもいろいろ教えてやった。
 李志清は武術も熱心で、雑事もせっせと働いた。若者らしく生意気な面もあるが、熱血の性格のようで、友を大事にする点は特に孫貫明と違った。
孫貫明は武当派で五年間過ごしたとはいえ、誰とも打ち明けて話したことはなく、「親友」と呼べるような者は一人も居ない。だが、それについて彼は特に気にしていない。誰とも衝突せず、また親しくもならないという、不即不離の関係を保っている。親友を一人くらい持ったほうが良いとわかっているが、なんとなく億劫のような気がする。彼は人に頼まれるのが嫌いだし、またなるべく人に頼み事を避けている。
先輩後輩も彼の性格を飲み込んでいて、互いに距離を置いている。孫貫明はいわば、自分の手で自分の周りを網で囲い、面倒な人間関係から逃れた一方、自分自身を孤立に立たせたわけである。
 しかし、李志清は他人とやや違って、孫貫明の態度の如何にかかわらず、いつも熱く近寄ってくるのであった。孫貫明からみれば、それは少し厚かましく見えた。曖昧に対応していて、心に少なからず反感を感じている。
 日がたつにつれ、李志清もだんだん武当派の生活に慣れてきた。孫貫明に対して敬語をやめ、くだけた口を使うようになった。それは別にかまわないのだが、孫貫明に一番気に入らないのは、李貫清はいつも自分に付きまとっていることである。練武はもちろん、掃除や洗濯から、水浴まで自分の傍に居なければ気がすまない。しかも絶えず何かの話題を持ち出してはしゃべる。
 しかし、一方では、孫貫明の生活は李志清によって変わったことも確かである。特に李志清の練武振りを見ていると、自分も追い抜かれないようにやらならねばと、知らず知らず、胸に競争心が湧いてきた。
最初に出会った日に、掌門と堂主の李志清に対する接待振りを見て、なんとなく偉そうな者だと思っていたが、しばらく付き合っていると、自分とは大して変わらず、これといった特別なところもないように思えたので、追い抜かれてはたまるかと、暗に意地を張った。
 ある日、孫貫明は部屋で休んでいると、李志清が目を輝かせながら、謎めいた笑いを浮かべて入ってきた。
 「師兄、これを見てくれ。」
 そう言って懐から取り出したのは、一冊の書物である。
表に書かれる、「太極純陽気法心譜」の字を目にすると、孫貫明が大いに驚いた。
 「これは、どこで手に入れたんだ!」
 「白虎堂の者から借りてきたのだ。」
 李志清が平気な顔で言って、なおも笑っている。
 しかし、それは簡単に「借りて」来れるようなのもではない。
 青龍堂にも「陰流心譜」という気功書がある。武当派に入った者は最初の数日で、これを写すように命じられているので、ほとんどの人に一冊を持っているはずである。
 しかし、白虎堂と青龍堂の気法はともに太極気法から案出されたとはいえ、気の使い方が異なるゆえ、どちらか一つに専念することを厳しく言われている。孫貫明は武当派に入って数年というもの、陰流気法を暗唱できるほど熟読しているが、陽流気法については、名前だけを聞いており、見たこともなければ、読んだこともない。
 所詮自分のかかわる分野ではないので、関係がないことだと思っている。孫貫明の中では、掌門や師匠が言うことは絶対である。決まり事は決まり事であり、それを変えようとも考えていない。
 そして、当然のことながら、彼は決まりを変えようとする者に対しては反抗心を覚える。
 孫貫明は李志清の顔を見つめながら低く、しかし厳しく詰った。
 「こんなものが、借りて来れるもんか。お前は武当派門規を忘れたわけじゃあるまいな。」
 「そう怒るなよ、師兄。なに、心配することはない。ちょっと見たら直に返すさ。それより、白虎堂の気法心譜を読んでみたくはないか。」
 「誰が読むもんか!良いか、武功を習う者は、一事に専念することが肝心だ。中途半端は百害あって一利なし。お前はまだ江湖へ出てないから分からんが、日々の修練を怠っていると、時には命取りになるんだぞ。」
 そう言っている本人も、実はほとんど江湖経験がないのだが、自尊心と敵愾心に駆られた言葉だけに、なんとなく説得力もあった。
 李志清はいちいち納得するように頷いて同意を示した。江湖の言葉を聞いて思わず胸が熱くなってきた。
 「師兄、我が武当派は武林江湖で知らぬ者がない。やっぱり他の門派より武功のほうでは優れているだろうか。」
 李志清は話題を変えた。
 「無論だ。武当派は始祖張三豊が立ち上げられた以来、険しい江湖の中を生きていくのは容易なことではなかった。武功の切磋琢磨だと称しながら、その実、道場破りに来る者は数知れない。そんな江湖の武林人らを信服させるには、並の武芸では決して成し得ぬ。しかしそれだけではない。人を心から敬服させるには、力だけでは足りぬ、徳も必要なのだ。武当派は少林寺とともに尊敬されるのはそれゆえなのだ。」
 孫貫明は一通り語ったが、自分がほとんど掌門の受け売りを披露していることに気づいて、口を噤んだ。
 「なるほど。」
 と李志清は言った。
 「師兄、俺が悪かった。これをすぐに白虎堂に返して、これから青龍堂の気功に専念するよ。」
 「うむ、それがいいだろう。」
 「ところで、師兄――」
 李志清は続けた。
 「聞くところによれば、我が派は、立ち上がる当時では青龍堂も白虎堂もなく、みんな同じ気功を習っていたそうだが。なんでも『太極気法』とか呼ばれるもので、今では習うことが出来ないだろうか。」
 「確かに少し前まではそうだった。その気法書は今でも派に珍蔵されておるが、一人の力では到底習えるものではない。三代掌門の師父および師兄弟が亡くなり、掌門自身がどうしても弟子に習得させることができなかったのだ。そのため、三代目の掌門は、これだと武当派の武功は廃れると思い、山に籠もって数年間、自らの力でそれを陰と陽の二つの気法に案出したのだ。これもやむをえないことだった。」
 「なるほど。そうだったのか。……もし、二つの気法は同じものに根ざしているとすれば、両方からもとへ辿れないでしょうか。」
 「それは絶対にやってはいけないことだ。」
 孫貫明は顔をなして言った。
 「確かにそれはもっともな考え方だが、四代目掌門即位してから以降、これまでそれを試してきた者も数少なくない。ほとんどの者は無理だと悟ってあきらめたのだが、前代徐掌門の下に一人の弟子、つまり我々の師叔父にあたる方だが、これを必死な思いで修練し、ついに大惨事を起こしてしまった。あれ以来、徐掌門は両気法を合わせ習うことを固く禁じておられた。悪いこと言わない。早いとこその考えを捨てることだな。」
 「それはそれは、ずいぶんと危険なものだな。」
 李志清は目を大きくして孫貫明の話を聞いた。しかし、その目の中には、恐れているるよりも、好奇心の光がいっそう宿ってきた。
 「大惨事とは、いかなるものだったでしょうか。」
 「まぁ、どうせ過ぎ去ったことだ。今更何を言いっても無駄。」
 孫貫明は無関心に言った。実際、彼はそれ以上李志清と話したくなかった。自分とは別種類の人間であることはだんだんはっきりしてきた。李志清の性格に対して、孫貫明は嫉妬とも嫌悪とも呼べないような、ただ離れていたい気持ちを感じている。蝙蝠が日を避けるように、孫貫明はできることなら李志清から離れていたいのだ。できればこの男を知らないで居たいと思う。要するに、自分のこれまでの生活が乱されるのが嫌である。
 しかし、李志清は気づいているかいないか、なおもくっついて離さない。
 「我々の師叔父だとすれば、あのころは師兄がまだ――」
 「ずいぶん前のことだから、俺はまだ派に来ていなかった。後にその場で見た者の話を聞いただけだ。しかし、武当派にとっても、武林にとっても、あまりにも悲惨な出来事だったから、今でも覚えている者が多かろう。」
 「ほぉ、左様でございますか。」
 李志清はますます興味を示した。
 孫貫明は、ここまで話してくれば全部聞かせてやらなければ、むしろ意地悪く取られると思った。仕方なく彼は続けた。
 「良いか。いくら江湖の有名な事件だといえ、派にとっては不名誉なことだ。ここで聞いたら誰にも言うんではないぞ。」
 「無論だ!」
 李志清は好奇に満ちた表情でうなずいて見せた。
 孫貫明はひと息ついてから、あの出来事について語りだした。

『武当風雲録』第一章、ニ、不意の来客

『武当風雲録』第一章、ニ、不意の来客

李府の惨事から二十年後、舞台は湖北武当山武当派に移る。いよいよ二人の主人公は登場する。なぞの来歴を持つ李志清に対して、孫貫明はなるべく冷たく遇するが、師の命令でその面倒を見なければならない。二人は果たしてどのようになるのか・・・

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2014-01-01

CC BY-ND
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