君の名前を僕はまだ知らない
たった一つの願い
僕の隣にもう君はいない。
それはとても悲しい事なのに涙が流せない。
なぜなら……僕には記憶がないから。
君のことを思い出せないし、名前さえ分からない。でも、白い靄がかかったようにまったく知らなくなった君だけど、どうしてだろう?
無性に愛おしんだ。
――君に、会いたいです。
遠い日の記憶
窓から草の香りと春の木漏れ日が降り注ぐ。カーテンが揺らぐたびに風が頬をくすぐって瑞希はそっと眼を開けた。
頃は春風が時々吹く3月上旬の昼寝時。
昼は清浄な空気が流れ夜は不気味な雰囲気をかもしだす病院の一室で瑞希はベットに寄り掛かってイヤホンを耳にはめながら聞き入っていたが、訪問者の気配がしたので片方だけイヤホンをはずした。
思った通りドアから夏季が制服に身を包んでやってきた。
「瑞希、調子はどう?」
「いつも通り異常なし。まあ、明日は定期的な検査があるから気持ちはややブルーだけど……」
「ふふっ、昔から瑞希、検査嫌いだもんね。検査とは長年の付き合いなんだからそろそろ慣れない?」
「それが僕には苦手を克服する力が薄いみたいで」
二人して笑いあい、夏季はベットの脇に置いてあったパイプ椅子に腰を下ろした。
肩で切りそろえられたボブヘアに大きく開かれた瞳、声を上げて笑う彼女は名前のごとく陽だまりのような性格だった。実家の隣に住んでいて幼馴染、昔からよくお見舞いに来てくれる。
「昨日の帰りね、瑞希が好きだって言ってたバンドの最新アルバムが出てたから買ってきたんだ。はい、どうぞ」
学生鞄からビニール袋に包まれたCDを取り出して瑞希に見せる。まさかバンドの最新アルバムが出てるとは知らず驚きで「え?」と大声を上げてしまった。
幸い一人部屋で迷惑をかけることはなかったが、目の前の夏季がお腹に手を当て笑っているので羞恥に赤面しつつCDを受け取る。
「……わあ、新しいのでたんだ!病院(ここ)じゃ情報の入手先がないから知らなかったよ」
空気を換えるように心がけてみたがそう簡単にはいかなかった。
「くくっ……そうみたいね」
まだ笑い続けてる夏季を横目で軽く睨む。
「そんなに笑わなくてもいいんじゃないか」
「ごめん、でも瑞希、そんなに気持ちを表に出さない方だから」
なんだろう、変なツボにでも入ったのか。
笑いが止まらない様子の夏季を瑞希は諦めて横に置いとくことにした。
「ねえねえ夏季、早速聞いてみない?」
気持ちをリセットしてせかせかとCDの蓋を開けセットの準備をする。病院では騒音厳禁なのでイヤホンも取り付けた。
「はい」
片方のイヤホンを夏季に渡して瑞希もつける。
うきうきしながら音の出だしを待つ瑞希には、イヤホンをかたっぽづつ付ける事によって近くなった距離に赤面している夏季を知る由もなかった。
自分には10歳までの記憶がない。
持病がこれ以上良くならないものだと昔から承知もしている。
幼い時、突然ひどい熱が襲い掛かりそのまま意識を失って病院に運ばれた。数日経つと具合は安定していて異常はなかったが、なぜかぽっかりと今までの記憶が所々消えていた。
病気の症状だとか、熱のショックから来るものだろうなど言われたが詳細は結局分からず、そのまま入退院を何度か繰り返して今にさかのぼる。
もともと体が弱い関係もあり学校には通っていない。だが学力は問題ないので高校卒業年齢18まであと一年、瑞希はこのまま病院に居座ることにしていた。
夏季が病院に来てから数日経った昼時、突然睡魔が訪れ読んでいた本を開いたまま眠り込んだ。
「みずきくん、みずきくん」
誰かが僕を呼んでいる。
呼んでいるのはだれ?
「みずきくん、私はあなたの記憶の中の一人。忘れてしまった記憶の一部。でもどうかお願い、思い出して」
長い黒髪がさらさら揺れ、白いワンピースをまとった幼い少女が遠く離れたところにいる。だが声は耳元で囁かれているかのように響いた。
「ごめん、どうやっても思い出せないんだ」
記憶を失ってすぐは尽くせる手の全てを尽くして記憶を取り戻そうとしたが失敗に終わり、それから失った日々の記憶はひとかけらも戻ってこない。
幼かった頃の友達、好きだったアニメ、今は亡き大切な愛犬のこと。それは全て自分の記憶ではなく他人から聞くもので、どこか別世界の話に思えた。
「……ごめん」
覚えてない側より忘れられる側の方がショックが大きいだろうと瑞希は思う。
少女も幼かったときの友達だったのだろうか。
「君の名前は?」
せめて名前でも今から覚えよう。
「私は……たんぽぽの花が好き」
求めていた答えとは違うものが返ってきて聞き返そうとしたとき、断片的に夢が切れた。
「……なに、今の?」
さほど眠りに落ちたときから時間は経っていなかったが長く感じた。
あれはもしかすると過去の記憶なんだろうか。今まで何も思い出せなかったのに今頃になって甦ってきたのだろうか。
「結局、だれなんだろうあの子……」
心に引っ掛かるものを抱きながら、今は丁度少女が好きだと言っていた、たんぽぽが咲く時期だろうと考えていた。
瑞希が不思議な夢を見た次の日、夏季は病院を訪れていた。
今日はすっかり外にでないインドアになってしまった瑞希を外出させようと決意を固め病室のドアを開けた。
「ちよーっす……ってあれ、瑞希?」
いつもいるはずの瑞希のベットは空で部屋には誰もいない。
(検査中? いやいや、それはこの前終わったはずだし……トイレ? 待ってれば帰ってくるかな?)
思い直し病室に入ろうとしたとき、顔見知りの看護婦が声をかけてきた。
「あら、今日もお見舞いに来てるの?」
おしゃべり好きそうな熟練看護婦だ。
「はい。あの、瑞希を見かけませんでした?」
「瑞希君ならさっき病院の庭に出てるところを見たけど……それより、ねえ。あなたって瑞希君のこと好きなの?」
いきなり突飛した話に夏樹は一瞬耳を疑ったが看護婦は内緒話をするように近づいてくる。
「ほら、あなたよく昔から来てるから恋がらみかなーって看護婦の間で有名で! 実際のところどうなの、誰にも言わないから、ね?」
誰にも言わないというのは嘘だろう。
そう確信できたが、ここで言わないとさらに質面攻めにあいそうなので素直にうなづいた。
「まあはい、実は……でも、片思いだと思いますよ」
「何言ってるの、弱気になって! 自分を慕って、寄り添ってくれる女に惚れない男がいないわけないでしょ!!」
激しい口調でばしばし夏樹を叩いてまくしたてる。本人は応援してるつもりだろうから悪い気はしなかったが苦笑まじりの笑みを浮かべてその場を後にした。
(瑞希は私のことをどう思ってるのかな?)
看護婦の影響で庭へと足を運ぶ途中、ふと考えた。
瑞希は誰にでも優しくて、すぐ人と親しくなることができる。だから逆に今は瑞希に一番近い存在は自分だが、そのうち違う人が一番になってしまうかもしれない。
正直、瑞希が自分へ抱く感情が恋愛感情よりも友情に近い気がしてため息が漏れた。
そのまま庭へと出ると、探していた瑞希は真っ先に見つかった。
「瑞希、こんなところで日向ぼっこなんて珍しいじゃない。変なものでも食べたの?」
からかう口調で草むらへ近づいていくとパジャマのような姿に薄いカーディガン羽織った瑞希が振り返って何かを差し出してきた。
「たんぽぽ……?」
「うん、そうだよ。久しぶりに庭へ出てみたら花がいっぱい咲いてて、許可を取っていくつか摘ませてもらったんだ。CDのお返しとまでいかないけど日頃の感謝をこめてどうぞ」
笑顔でたんぽぽを差し出してくるしぐさは幼くて愛おしくなった。だがパジャマの袖口から覗いた手首は自分より細くて白く、なんだかか弱い。
(なんかあたしより女の子っぽいんだよなー)
たんぽぽを受け取って夏喜は瑞希の隣へしゃがみ込んだ。
隣に座る瑞希の横顔は整っていて外に出ないから日に焼けない白い肌が美しさを倍増させている。少し伸びかかった真っ直ぐな髪が頬にかかり、ついつい見とれてしまった。
なんだか女子として妬いてしまうくらい瑞希は美少女に近い男の子だった。
夏季に自分が観察されているとは知らずに瑞希は他に何本か持っていたたんぽぽを日にかざすようにかたむけた。
「たんぽぽの花言葉って知ってる?」
「うーん……笑顔とかかな。なんだかそんな感じがする」
「確かにたんぽぽは可愛くて優しい印象だよね。でも生命力がとても強い雑草でもあるんだ。そんな花言葉は真実の愛、神のお告げ、離別」
「離別……?」
たんぽぽには似合わない意外な花言葉に夏季は首をかしげる。それに反応して瑞希は脇に置いてあった図鑑を見せた。
「たんぽぽは咲いた後に白い綿毛ができるだろう? でもその綿毛はすぐに空へと飛んで行ってしまう。だから離別とか思わせぶりっていう意味もあるんだ」
へーと夏季はうなづきながらも穏やかな時間に今日は外出しないで庭でゆっくりするのもいい、と考えてしまった。
病室に戻ってから花瓶にたんぽぽを挿して窓の脇に飾った。日が落ちていく間もなんとなく瑞希はたんぽぽを眺めながら思考にふけった。
(少女の言ってたたんぽぽって、どういうことなんだろう)
事実、今日庭へ行ったのは気まぐれなどでなく先日の夢が気になったからだ。だがやはり何もわからない。
その時突然窓から風が入り込んでカーテンが大きく舞った。ふわりとカーテンは浮かんでしぼんでいく。その奥には夢の中で見た少女がいた。
「君は……!」
瑞希はがばっと身を起こす。少女はカーテンと一緒にワンピースをはためかせながら嬉しそうに笑った。
「たんぽぽ飾ってくれたのね。ありがとう。どう、何か思い出せた?」
「……何も思い出せない……ごめん、僕きっとこれからも君の記憶が甦るとは思えないんだ。あの日から僕の失った記憶は一つも帰ってきてない」
少女は悲しそうな顔をした。それが申し訳なくて少女からそっと眼をそらす。
もう記憶を思い出そうとするのはとうに諦めたことだった。
「そうよね、こちらこそ今更ごめんなさい。もう無茶なお願いはしないわ」
うつむき気味で少女は頭を下げると数歩下がる。なんだかそのままどこかへ行ってしまいそうで瑞希は思わず手を伸ばした。
「待って、せめて君の名前だけでも教えて!」
なぜかどうしても聞きたかった。しかし少女へと手が届く前に世界が一瞬にして暗闇へと閉ざされる。
「っ!」
閉じていた瞼を上げて起き上る。先ほどと風景は同じだが少女はなく、今までのものが夢だったと気づいた。
「まただ……あの子は一体誰なんだろう」
夢の中にだけ現れる幼い少女。それは自分の空想の一部なのか、それとも記憶の一部なのか、どちらともはっきりしないが少女に会うとひどく愛おしい気持ちにかられる。
瑞希はその真相を解き明かすために決心をきめ、携帯電話を手に取った。
少女の名前
「瑞希ーあったわよ」
数週間ぶりに聞く母、千恵美の声が呼ぶ。懐かしい我が家の畳を踏みながら瑞希は声のする部屋へ向かった。
部屋の中に入ると無数に散らばった本やアルバムで埋め尽くされていて、その中に千恵美が埋まりそうになりながらも一冊を手渡してきた。瑞希はそっとそれを受け取りながら机に置いた。
「それにしても瑞希、あなた昔のアルバム嫌いじゃなかったかしら?」
千恵美が不思議そうに見つめながら本の中から抜け出して向かいに座り込む。
「なんだか見たくなっちゃって。もうあれから年月も経つし逆にね」
見たくなったなんて嘘だ。瑞希は微笑みつつも小刻みに震える手に力を込めた。
今まで幼い頃のアルバムは極力見ないようにしてきた。どれも自分とはまったく関係のない写真に見えて写っている人物が誰かわからない。それに恐怖を覚えてからアルバムや写真はあまり好きではなくなったのだ。
それでも今日はもしかしたらあの少女のことがわかるかもと思って家に久しぶりに帰ってきた。千恵美に電話をいれたらいつでもいいということだったのでしっかり心の準備もしてある。
瑞希の決意に気づかない千恵美はのんびりとお茶をすすりながら数冊か他のアルバムをめくっていた。
「お母さん、本当にこれが僕のなくなった時の記憶がつまったアルバムなんだよね」
「そうよ、瑞希が嫌いだっていうから一冊にまとめてしまっといたんだけど、まさかこんな日が来るとは思わなかったわ」
嬉しそうに笑う千恵美はこくりとうなづく。瑞希はできるだけそっと、覗き見るようにアルバムを開けた。
どの写真も幼い頃の自分であろう子供が写っており、時折若い頃の母や父、友達であろう子供も写っている。けれどその中に夢の中の少女はいなかった。
肩を落としながらつまっていた息を吐く。考えてみれば、親しくなければ写真に移っていることもないだろう。やはり彼女はただの夢の中だけに存在する人物なのかもしれない。
その時頭上から驚いた声が降ってきた。
「あれ、瑞希!? どうしてここにいるの?」
早くもTシャツ一枚で元気そうな格好の夏樹が眼を丸くしてこちらを凝視していた。
「ここは僕の実家なんだから、居ても不思議じゃないでしょ」
「そりゃそうだけど……滅多に家なんか帰らないじゃん」
まだ驚いた様子で近づいてくるので瑞希も質問を返した。
「夏季こそなんで家にいるの」
その質問に夏樹は忘れていたかのように手に持っていた箱を持ち上げた。
「夏までには早いけどようかん持ってきたの。ほら、うちのお父さん夏大好きっ子じゃない? 子供の名前に夏の字をいれちゃうくらい。今から特大サイズのスイカ探して、浮き輪膨らませて、風鈴まで飾りだしたの。それでお母さんが怒って買いすぎたようかんをおすそ分けにって」
「それは、ご苦労様……」
相変わらず夏季の父はすごい人だと思いながらも、同情せざる負えなかった。一度台所に引っ込んでいた千恵美は夏季に気づくとはしゃぎながらようかんを受け取って代わりにフルーツや野菜を渡す。
「こんなに貰っていいんですか!?」
「いいのよ、お返し」
両手いっぱいに抱え込むほどの量を抱え夏季は眼を白黒させていたが、千恵美は気前のいい笑顔でうなづいた。
瑞希はその時ふと思いついた。昔から幼馴染でよく一緒にいた夏季なら、夢の中の少女を知っていないだろうか。
「夏季、小さい頃に髪の長くて白いワンピースを着た少女って会ったことない?」
「え? うーん……」
夏季は考えるように黙り込み沈黙が流れた。知らないだろうと話を切り上げようとしたとき、ポンッと手を打った。
「思い出した! 一回だけ見たことあるよその子。あんまり長いロングヘアだったから印象的だったんだ」
その言葉にバッと立ち上がって駆け寄る。夏季は少しおののくが、それも瑞希には視野に入っていないようで詰め寄った。
「その子の知っていること、全部教えて」
これで一気に少女の正体に近づける気がした。まだ夢の中の少女と夏季が言っている少女が同一人物か分からないが話を聞いてみればきっと何かがわかるだろう。
しかし帰ってきた答えは予想だにしないものだった。
「あたしが知ってるのは今瑞希が行ったことだけだよ。あたしは昔、偶々瑞希とその子が公園で遊んでるのを見かけて。でもあたしも遊びに行く途中だったからそのまま通り過ぎてった」
一気に急上昇した希望が降下し始めて、やはりそう簡単にはいかないものだと実感した。そしてここまで少女にこだわる自分が馬鹿らしくなってくる。
夏季から離れて重そうな野菜を運ぶのを手伝おうとしたとき千恵美が急に声を上げた。
「私も知ってるわ、その子! 確か近所に住んでた子じゃなかったかしら? 名前は……――」
瑞希は千恵美の言葉に眼を見開いた。まさか母が少女の事を知っているとは思わなかったがそれ以上に驚くことがあったのだ。
頭をかなづちで殴られた様な衝撃を受け、そのまま瑞希は意識を失った。
時計の針は動き出す
人を小馬鹿にしたようなカラスの鳴き声が響く。穏やかな眠りから目覚めるようにゆっくり瞼を開くとと、その奥には心配そうな顔の夏季がこちらを覗き込んでいた。
「っ瑞希! ……よかったー。いきなり倒れたから救急車で運ばれたんだよ」
安心しきった様子の夏季はたちまち笑顔になる。
確かにあれからの意識がなく、いつの間にか第二の我が家と呼んでいい病室のベットの上にいた。
「お母さんは……?」
水分不足のようで声がかすれてしまう。
「おばさんは先生に詳しい症状を聞きに行ってる。病気の再発かただの風邪か分からないからこれから検査するって」
「また検査かー」
やっと定期検査が終わったのにまた来るかと思うと愚痴を言わずにはいられなかった。すっかり元気になった様子の瑞希に夏季は声を上げて笑うと立ち上がった。
「あたし、おばさん呼んでくるね。すごく心配してたからきっと喜ぶ」
そのまま病室を出ようとする夏季を呼び止める。少し口をつぐんでから真面目な面持ちで声を発した。
「記憶を……思い出したんだ、全部」
その言葉に夏季はぽかんとした顔をしていたがばっと口元を押さえた。
「それ、本当……?」
疑うように聞き返す。微かに声が震えているのは気のせいじゃないだろう。
「うん。多分急に倒れちゃったのも記憶が一気に戻ってきた反動で体に負担がかかっちゃったんだと思う。夏季がやんちゃしてた時も思い出したし、学校の事や家族のことも思い出した。それにあの子のことも……」
やっと夢に出てきた少女が誰だか、何なのか分かったのだ。そして取り戻した想いを抱えて瑞希はベットから降りた。喜び今にも他の人へ報告しようとうずうずしている夏季へ声をかける。
「行かなきゃいけないところがあるんだ。今からそこに行ってくるからお母さんに伝えといてくれるかな?」
「でも、もう夕方だよ!? あと30分くらいで外出禁止時間なのに今からどこに行くの!」
驚いた様子で駆け寄ってくる夏季を安心させるように笑みを浮かべながらコートを一枚手に取った。春とはいえまだ夕暮れは肌寒いからだ。
「大丈夫、すぐ帰ってくる。どうしても行かなきゃいけないんだ、会いに……」
「……――あの子?」
夏季が神妙な顔で訪ねる。あの子とはきっと夢の名の少女のことだろう。瑞希がうなづいて見つからないように窓から出て行こうとすると夏季が腕をつかんで止めた。
「行かないで!」
夏季はこのまま瑞希が何処かへ行ってしまうのが怖かった。もう戻ってこない気がしたのだ。
「でも……」
困り果てた顔でどうしようかと悩む瑞希は夏季の手を振りほどこうとはせず、やはり優しい人だと思えた。
だが瑞希が夢中になっている少女がどうも胸の中の不安を掻き立てるのだ。
「明日じゃ駄目なの……?」
必死で止めようとするが瑞希は困り果てた顔をするばかりだった。その様子に夏季は覚悟を決めて口を開いた。
「あたしが瑞希を好きだって言ったらどうする」
心臓の音がうるさいほど鳴る。瑞希は一瞬耳を疑った様子で固まり「え」と声を発した。その時ふいに窓の脇に飾ってあるたんぽぽが眼に入った。
(そういえば……この答えはもうとっくの前から決まってるんだった……)
幼い時、公園で見かけた瑞希と少女はたんぽぽを摘んで楽しんでいた。その時の瑞希の顔があまりにも優しくて胸がドキッと高鳴った。それと同時に寂しさも感じた。
きっとあれが初恋の瞬間で長い片思いの始まりだったんだろう。
瑞希は幼い頃から記憶を失った時も、今この瞬間も――あの少女を想っている。
本人はそれに無人格で逆に腹立たしいくらいだ。
「何本気にしてんのよ、嘘に決まってるじゃん」
ぱっと腕を話してとんっと背中を押した。
「ほら早く行きなよ。後は私が何とかしといてあげるから」
繕った笑みで瑞希を窓の外に放り込むとグッチョブサインをした。それに瑞希もサインを返し走り去っていく。
「長い片思いも失恋に終わったか……」
小さな声で呟いたとき瑞希が突然振り返った。
「夏季、さっき言ってたことだけど、僕は夏季に好きだって言われたらすっごく嬉しいと思う。素直で明るくて頼りがいのある夏季なら好きな人にも想いが伝わると思うよ!」
自信満々で親ばかみたいなセリフを吐きながら去っていく瑞希に夏季は苦笑せざる負えなかった。
「好きな人はあんただっつーの、バーカ」
もう瑞希の後ろ姿が見えないくらい遠くなった時に小さく呟く。
たんぽぽの花言葉は『離別』
なんだか今の自分にぴったりのような気がした。
瑞希は走って走ってあの日少女に出会った公園を目指した。
母から少女の名前を聞いたとき、突然鮮明に失った記憶が目の前を流れたのだ。
少女とは偶然公園で出会い、たった一日だけ遊んだ。そのあとすぐに少女は引っ越してしまったが、引っ越す前にもう一度公園で出会ったのだ。
「みずきくん、わたし引っ越すんだ」
「……ひっこし?」
あまり聞きなれない言葉に瑞希は首をかしげる。それに彼女は寂しそうにうなずくとすぐに笑顔を作った。
「だからね、やくそくしよう!」
まだ小さい掌を握りしめて小指を立てる。
「あのね、出会いの一度目は偶然、二度目は運命、三度目は必然、なんだよ。だからもう一度会おう、やくそく!」
瑞希も嬉しそうに小指を立てて、少女の小指を握りしめる。
二人はしっかりとお互いの小指を握りしめ合うと笑いあった。
「っ、はあ……はあ」
息が上がるまで走り続けると公園にたどり着いた。そこには人っ子一人いなく冷たい風が舞っている。
高揚した頬を風で冷たくなった手で押さえながら少女と初めて出会った広場のほうへ向かった。
広場は足の踏み場もないぐらいシロツメクサやクローバーで埋め尽くされ、その中にはたんぽぽも咲いている。
誰もいないのに瑞希はそっと笑った。
「思い出したよ、君のこと」
その場に座り込んで赤く染まった空を眺める。だんだん強くなってくる風に髪をなびかせながら眼を閉じて深呼吸すると、砂を踏みしめる音が背後から聞こえた。
「み、ずき……くん?」
弱弱しくて震えた声が名前を呼ぶ。夢の中の少女の声だ。
「……――やっと、君に会えた」
今はもう少女から大人に成長した同い年の彼女は多少変わっていたがあの時の面影を残していた。
瑞希はたんぽぽをいくつか手に取ると彼女の髪へそっと挿す。
「遅くなってぐめんね」
「ううん…………会いたかったっ」
彼女の頬を伝う涙をぬぐいながら瑞希は優しく笑った。
【END】
君の名前を僕はまだ知らない