壁女
三月某日。
大学を卒業し仕事も決まって職場に近いところに部屋も借りた。
温かくなってきた昼間に小さなトラックで、
運ばれてきたダンボールを開くと、
最低限必要な荷物が顔を見せる。
生活に必要なものが入っているだけでそれ以上のものはない。
何もかも一から始まる。
新しい自分。
何が悪いということもないのだが、
家族とは気まずい関係だったこともあり、
逃げ出すかのように家を出た。
今日からようやく何もかもがスタート地点。
少ない荷物をすぐに片付け終えると、
買っておいたコンビニ弁当をたいらげた。
そして疲れきった男は仮眠を取ろうと横になった。
微かに聞こえてくる電話のベルの音に目が覚めた。
古いアパートだけあって隣の電話も筒抜けなのかもしれない。
夢現の中、早く出ろと思うがいつまで経っても、
鳴り続けている。
気になり起き上がるとベルの音が聞こえなくなり、
声が聞こえてきた。
「やっと起きたの?
疲れたからってちょっと寝すぎじゃない?」
隣に住んでいるのは女性らしい。
しばらくの間会話が続くと再び静かな時間がやってくる。
聞きたくもない会話まで聞こえてしまって、
悪いという気持ちがあった。
それに喧嘩をしている両親の声や、
兄弟たちの騒ぎ声に悩まされていた昨日までとを比べると、
和やかなムード。
ほんわかする会話の半分ではあったが、
相手側の気持ちもわかる内容に、
ちょっと羨ましさまで感じてしまっていた。
しかしその電話は毎晩続いた。
それも決まって同じ時間帯。
始めはほんわか和まされると思っていたものも、
次第に苛立ちへと変化しる。
たいした内容でもないというのに毎晩来る電話。
いい加減苛立ちが自分の器からこぼれ落ちるのがわかると、
隣の部屋へ行きチャイムを鳴らす。
しばらく待ったが返事はない。
いることは分かっている。
怒られると思って出てこないのだろう。
戸をドンドン叩き呼び出そうとするが、
静かにしてみても足音一つ聞こえてこない。
するともう一軒隣の住人が顔を出してきた。
「こんな夜に何してんの…。
そこ空き部屋だけど。」
「え!?」
毎晩悩まされるあの声について聞いてみたが、
そんな冗談はよせと眠たそうにする住人は、
戸を閉めてしまった。
急に恐怖が頭を支配する。
真っ暗な部屋へ戻ると頭は真っ白。
何をするわけでもなく静まり返った布団の上に座った。
するとタイミング良くベルが4回鳴る。
いるはずのない隣の部屋から声がする。
「どこ行ってたの?
さっきから何度も掛けてたのに。
今度からすぐ出なさいよ。」
なんでもない日常会話にも聴こえるが、
誰もいない部屋から聴こえる声だと知った途端、
全ての苛立ちが恐怖に変わった。
布団にくるまって耳を塞ぎ目を瞑る。
聴きたくない。
聴きたくない。
何も聴きたくない。
塞げば塞ぐほど大きく聞こえてくる会話。
震えも止まらずどうしようもなくなった末に、
とうとう布団をガバっと剥ぎ、
声の聞こえる側に振り向いた。
「お前はいったい誰なんだ!?」
そこに誰もいるはずがない。
何かあるはずもない。
ただ壁があって隣の部屋がある。
恐る恐る近づくとますます声だけが聞こえる。
声の大きさに比例するように恐怖も増す。
そして自分の鼓動までも高まり、
今までに感じたことのない速さでなっている。
それでも止まっているよりは何かした方が、
恐怖を抑えられると思い声の聞こえる正確な位置を探った。
壁を手で触りながら耳をあて良く聞こえる位置を確かめる。
ある位置まで来た時だった。
聞こえていた通話の声が止まった。
聞こえているとそれはそれで奇妙だったものの、
突然無言になるとどうしたのかという不安まで加わり、
恐怖がつのっていく。
耳を澄ませ微かな音にも集中して壁へ耳をあてていると、
ガサガサっと雑音が聞こえたかと思うと、
急に腕をガシっと掴まれた。
「ドウシテイツモヘンジシテクレナイノ」
それからというもの。
その部屋を借りる者は次々と消えていったという。
いつしか言われ始めた壁の中に住む女には、
何があっても返事をするな。
そんな都市伝説が今でも極一部の人たちに、
語り継がれているという。
壁女