夏の終わりの静かな風 15
「大丈夫だよ。」
と、僕は狭山さんの言葉を遮るようにして言った。
「今日、狭山さんのお姉さんにはじめてあったけど、元気そうに見えたし・・大丈夫だよ。治療だって順調に進んでるんでしょ?」
「・・・うん。そうなんだけどね・・。」
と、狭山さんは僕の科白に考え込むようにして弱く頷くと、少し間をあけてから、
「今日、お姉ちゃんが吉田くんに見せた詩集あったでしょ?」
と、唐突に言った。
「・・・あの詩集をお姉ちゃんにプレゼントしたひとと、ほんとうはお姉ちゃん、結婚するはずだったの。」
と、狭山さんはポツリと小さな声で言った。
僕は彼女が一体何の話をしようとしているのか不思議に思ったけれど、黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。
「・・・でもね、そのお姉ちゃんの婚約者だったひと、死んじゃったの。」
と、狭山さん淡々とした口調で言った。
僕は狭山さんの口にした科白があまりにも唐突だったので、上手く相槌を打つことができなかった。僕は驚いて彼女の横顔をただじっと見つめた。
「・・交通事故だったの。」
と、狭山さんは少し小さな声で続けて言った。
「車を運転してるときにカーブを曲がりきれてなくて・・・それで・・・。」
「・・・そんなことがあったんだ。」
と、僕は少し間をあけてから曖昧に頷いた。どんなふうに感想を述べたらいいのか僕にはわからなかった。
「婚約者が交通事故で死んじゃうなんて嘘みたいでしょ?ドラマとか小説じゃないんだから。・・・でもね、ほんとに死んじゃったの。」
僕はどう答えるべきなのかわからなかったので黙っていた。
「わたしもそのひとに何度か会ったことあるんだけどね、お姉ちゃんそのの婚約者だったひとに。」
と、狭山さんはゆっくりとした口調で話し続けた。
「・・・すごく優しそうなひとだった・・予備校で英語の先生をしてるんだって話してたけど・・。」
狭山さんは、どこか遠くの、淡い色合いに霞んだ風景を見つめるようにときのように、微かに目を細めて言った。
「笑ったときの顔がね、すごく温かくてね・・ああ、お姉ちゃん、いいひとと巡り合えたんだなって、そのとき思ったの・・。でもね、まさかあんなことになるなんて・・。」
狭山さんはそこで言葉を区切ると、当時のことを思い返すように少しの間黙った。僕も何を話したらいいのかわからなかったので黙っていた。
訪れた沈黙のなかを、カーステレオから流れくる女の人の透明な歌声が、まるで波打ち際に打ち寄せた海のように静かに満たしていった。僕は窓の外に視線を向けると、その流れてくる音楽に耳を傾けながら、狭山さんのお姉さんが失ってしまったもののことや、そのときの狭山さんの気持ちを考えた。
「・・・どうして。」
だいぶ経ってから、狭山さんはふいに口を開くと言った。
僕は窓の外に向けていた視線を再び狭山さんの横顔に戻した。
「・・・どうして今度はお姉ちゃんが病気ならなくちゃいけないの。」
狭山さんは呟くような声で言った。それは僕に向かって話しかけているというよりも、ただ心に思ったことをそのまま口にしただけのように感じられた。
「・・・お姉ちゃん、あのひとが死んだとき、すごく哀しんだのに・・ほんとにほんとに哀しんでやっと・・それなのにどうして今度はお姉ちゃんが病気ならなくちゃいけないの。」
狭山さんはほんの少し感情的な口調になって言った。
「だって、お姉ちゃん、あんなに哀しい思いをしたんだから、もっと幸せになれてもいいはすでしょ。それなのにどうして・・・。」
狭山さんの科白は最後の方、ほとんど泣き出しそうな声に変わっていた。
僕は狭山さんの言葉に何か答えなきゃ、何か言わなきゃと思ったけれど、でも、結局、僕は何も言葉を見つけることができなかった。
狭山さんは車を道端の隅に寄せて停車させると、顔を両手で覆うようして泣いた。僕はなんとか彼女を慰めてあげたいと思ったけれど、こんなとき、何をどうしたらいいのかわからなかった。僕は声を殺して泣いている彼女の横顔をただ見つめていることしかできなかった。僕は自分の無力さを情けなく感じた。
さっきまで流れていた音楽はいつの間にか聞こえなくなっていた。
いくらか長い沈黙のあとで狭山さんは顔を覆っていた両手をどけると、その細い、きれいな指先で涙を拭いながら、
「・・・ごめん。」
と、掠れた小さな声で謝った。
「突然変なこと言い出して。」
僕は彼女の言葉に軽く首を振ってそんなことないよと答えた。
「こんなこと話すつもりじゃなかったんだけど・・・それに泣いちゃったりして・・わたしバカみたいにだよね。ほんとにごめん。」
と、狭山さんは僕の顔に視線を向けると、取り繕うように小さく笑って言った。
僕は誰にでも泣きたいときはあると思うし、泣きたいときは思い切り泣いちゃったほうがいいよと言った。
狭山さんは僕の言葉に目元で微かに微笑むと、小さな声でありがとうと言った。
それから、狭山さんは僕の座っている助手席の窓に目を向けると、
「見えないね。全然。曇ってるせいで。」
と、いくらか唐突に言った。
「見えない?」
僕は狭山さんの言った言葉の意味がわからなくて訊き返した。すると、狭山さんは可笑しそうに少し口元を綻ばせて、
「夕暮れの光。」
と、穏やかな口調で言った。
僕は振り向いて窓の外に目を向けてみた。すると、そこにはどんよりとした灰色の空が見えた。もうとっくの昔に夕暮れの光が広がっていてもおかしくないはずなのに、ただ空には灰色の色素がぼんやりと広がっているだけだった。
「このまま夜になっちゃうのかな。」
と、狭山さんは窓の外に視線を向けたまま残念そうに言った。
「そうかもね。」
と、僕は少し考えてから答えた。
「わたし、お姉ちゃんのお見舞いにいったあと、こうやって海岸線の道に車を停めてひとりで夕暮れの空を見るのが空きだったのにな。」
と、狭山さんは窓の外に視線を向けたままそう冗談めかして言うと小さく笑った。それにつられるようにして僕も少し笑った。
窓を開けてみると、海の匂いが感じられた。それから微かに潮騒の響きも聞こえた。窓の外には防波堤があって、その向こう側には砂浜と海が見えた。
狭山さんがちょっと海を見ていかない?言って、僕はいいねと答えた。
僕たちは車から降りると、防波堤を乗り越えて海の方まで歩いていった。
遊泳禁止の海なので浜辺には誰もいなかった。浜辺にはいつ死んだのか、亀の白骨化した死体があった。でも、それはあまり不気味だという感じはしなくて、ただいつかは失われてしまう命の儚さのようなものを感じただけだった。
目の前に広がる海は何日か前に降った雨のせいでいつもよりも荒々しかった。波打ち際には打ち上げられた海草や、流木などがたくさんあった。
繰り返し響く波の音はじっと聞いていると、恐ろしいようでもあり、懐かしいようでもあった。海のずっと遠くの向こうには一隻の船が浮かんでいるのが見えた。それはとても小さな漁船のように見えたけれど、もしかすると、巨大なタンカー船か何かなのかもしれなかった。
狭山さんはしばらくの間波打ち際付近に立って、何か自分の思考のなかに沈みこんでいる様子でいたけれど、やがて振り向いて僕の顔を見ると、
「吉田くんは明日東京に戻っちゃうんだよね?」
と、唐突に訊いて来た。
「うん。」
と、僕は頷いた。
「明日の十時四十分の飛行機で東京に戻るよ。」
と、僕は答えた。
「そっか。」
と、狭山さんは僕の言葉に頷くと、
「寂しくなるね。」
と、言った。
そうだね、と、僕は言った。
「東京に戻ってもときどきメールちょうだいね。」
と、狭山さんは微かに目元で微笑んで言った。
「ほら、お姉ちゃんに小説見せるっていう約束もしたし。」
「そうだね。」
と、僕は苦笑するように微笑して頷いた。
「楽しみだな。吉田くんの小説。」
と、狭山さんは冗談めかして言った。
「あんまり期待されても困るけど。」
と、僕は苦笑いして言った。
それから少しの沈黙があって、僕も狭山さんも黙って目の前に広がる海を見つめていた。たくさんの潮騒の響きと、風の音が通り過ぎて行った。そしてそれらの音を重ね合わせようにして聞いていると、それはどうしてか誰かの哀し気な歌声を聞いているようにも感じられた。
いくらか長い沈黙のあとで狭山さんは口を開いて何か言った。
「なに?」
僕は狭山さん言った言葉がよく聞き取れなかったので訊き返した。すると、狭山さんは苦笑するように口元を綻ばせて、なんでもないと軽く首を振った。そして微笑んでもう帰ろうかと狭山さんは言った。そうだねと僕は頷いた。
狭山さんは僕に背を向けると、ゆっくりと歩き出した。僕はそんな狭山さんの少し後ろを後れて歩いた。狭山さんの背中のあたりまである髪の毛が風に吹かれて時折寂しそうに揺れた。
「花。」
と、狭山さんは突然立ち止まると、足元の地面を指差して言った。なんだろうと思って狭山さんの指差している地面のあたりを見てみると、そこには名前の知らない花がいくつか咲いていた。それは、小さな、白い、きれいな草の花だった。その花は海から吹き付けてくる強い風に震えながら、そっと静かに咲いていた。
夏の終わりの静かな風 15