太陽が燃えている

太陽が燃えている

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<人物> 長内孝美(31) OL 長内修一(34) 会社員、孝美の夫 大川季衣(5x) 無職

 2005年晩夏、夕暮れの終わり。薄墨色の夜が端から夕焼けを侵食している。新宿駅東口から南口へ伸びる線路沿いの道を、多くも少なくもない雑踏がそれぞれの目的に向かって歩を進めている。当り前の新宿である。
 長内孝美が、左手の中に小さく折りたたんだ紙をのぞきながら、不安気に歩いて来た。前方の道路沿いの看板に一瞬目を留めて見つめ、足は緩めず進みながら、ふうと息を吐く。
「ホットヨガスタジオGara」。
 ビルの入口を少し探した。再度紙と照らし合わせてから入って行く。
 商業用というよりoffice向けの、小振りな雑居ビルである。くねくねしたエントランスを抜けてエレベータに乗り、7Fで扉が開く、と同時に正面奥のフロントから「おはようございます」×2、とはっきりした声が投げかけられた。
 孝美は足を止めて一度目を見開いてから、フロントへ進んで行った。左手が、背負っているリュックサックの肩掛けを握り締める。
孝美「予約の長内です」
フロント「おはようございます。はい、長内さんですね。はい、少々お待ちください」
 白いポロシャツ姿のフロントの女性がパソコンを叩き始めた。中から、嫌な感じではないが女性特有の、少し湿った空気が伝ってくる。孝美は待ちながら、入口横の靴箱から奥の方へ、少しずつ視線を泳がせた。Tシャツに膝丈スウェットの女性がひとり、裸足でゆっくりと通って行った。
フロント「はい、19:00からのショートコースですね。本日体験レッスンということでよろしいですか」
孝美「はい」
フロント「では、まず、当スタジオのシステムを説明させていただきます。・・・」

 更衣室と言われたパーティションに入り、孝美も半袖のTシャツと、旅行のときなどに寝巻き替わりに使っている綿のスパッツに着替えた。更衣室を出ると、オープンスペースには、細長い、鏡やドライヤーを備えた化粧直しの領域がある。これを境にした向こう側に「スタジオ」と言われた、ヨガを行う部屋があるらしい。静かなオープンスペースをそっと渡って、薄暗い部屋に入って行く。胸元に、予約時に言われた通りの大きな水のペットボトルとタオルを抱えているので、扉を開けるときもたついた。知らず、呼吸が小さく細くなった。
 室内は畳敷きで、適当な間隔で配置されたバスタオルの上に、受講生が銘々座ったり仰向けに寝転んだりしている。バスタオルは20枚くらいあるだろうか。女性専用のスタジオなので、全員女性。しんとしているので皆が幽霊のようだ。
 室内灯は小さく、ほとんど真っ暗だ。そんな中、孝美より若い女が多いように見える。また小さくなる。前、左右、3方の壁一面が鏡張りになっており、孝美は空いているバスタオルの中で一番後ろのところを占め、周りに習って寝転んだ。
 落ち着いていられなくて、脚を曲げたり伸ばしたりしてストレッチしていると、ようやくインストラクタが入ってきて、正面鏡前のバスタオルの上に正座して受講生に向かった。
インストラクタ「えーそれでは、19:00からのショートコースを始めて行きます。本日体験レッスンの方、恐れ入りますが手を挙げていただけますか」
 穏やかな、ゆっくりしたしゃべりだ。おや、いつの間にかほとんど全てのバスタオルの上に人が座っている、と気付いた。
 孝美を含む3人の受講生がそっと手を挙げた。インストラクタはそれぞれの名前を聞き、暗い中でメモを取る。注意事項等の文言が続く。
インストラクタ「はい、ありがとうございます。体験レッスンの方、それからいつも受けていらっしゃる方も、皆さんご自身の身体に意識を向けて、集中して行っていきましょう」
 インストラクタが立ち上がった。
インストラクタ「それでは皆さん、ご自分のバスタオルの上に立ってください。準備運動から初めて行きましょう」
 全員がバスタオルの上に立ち、インストラクタの見本に習って動く。
 孝美は結婚前まで、3年程だがクラシックバレエを習ったことがあるので、大人の手習いではあったけれども、まあ何もしていない人よりはましに動けるだろうと思っていた。問題は暑さかなあ、と。サウナ苦手だからなあ、と。でもこのところ身体がガチガチなので、だから来たわけだが、少しでも柔らかくなればいいなあ、と。
 しかし始めてみると、暑いのも暑いし、湿気があるから息苦しいし、息苦しい中で口にしてみると水がそんなに喉に入っていかないし、後ろ気味に場所を取ったので隣り近所の女性を盗み見てみると、自分よりぽちゃぽちゃやぎしぎしの筋肉をしている女たちが、まるで平気そうに動いて行くのだ。
 バレエ止めてから何年経ったんだっけとか、そう言えば元々身体が恐ろしく硬かったんだとか、そんなことが頭の中をキン、キンと通りながら、遅れがちに動いていると、一層身体に力が入って、ああヘンな筋肉使ってる、明日ヤバいな、と思う。
インストラクタ「はい、息を吸って、・・・吐いて。はい、では次のポーズに行きます。まず私がお手本をやりますので見ててくださいね。このポーズは後ろに反りますので、腰から折らないように注意してやってください」
 インストラクタが呼吸のタイミングとか、こうすると身体を傷めるからとか注意事項を付けながら見本を見せる。孝美は、ああいっぱい反れるんだなあ、私も腰を傷める前は反るの得意だったけど、これはキそうだなあ大丈夫かな、などと思いながら、見つめた。左右の鏡が横目にチラチラと入る。鏡は薄暗い中でお互いを写し合って、見えない光の玉を高速に投げ合っている気がする。・・・次第に、光の玉が孝美の目の中で、次第に、より高速にキャッチボールし始めた。
 インストラクタから各自やってみるようにコールがかかった。孝美ははっとして焦点を前に戻し、光の玉の残像が残ったまま、言われるままに両手を背中で組んだ。そして耳の端で聞こえる指示通りに、息を吐きながら後ろに反った。
 ぐーん・・・。・・・。
 
 孝美は反った延長線上にばったりと倒れた。
 インストラクタは、そのとき違うところを見ていた。
 揺れるように、しんとして同じポーズをしていた幽霊たちの動きが乱れた。インストラクタは、ほんの少し遅れて異変を感じた方向に視線を移し、そして、ぎょっとして固まった。室内がほのかにざわつき、近くの受講生がゆっくりと孝美を遠巻きに取り囲む。インストラクタは自分を取り戻して、飛んで駆け寄った。
インストラクタ「大丈夫、大丈夫ですか」
 孝美は気を失っていた。インストラクタはおろおろと周囲を見回し、飛んで自分のバスタオルの位置に戻り、開始時のメモを確認した。また飛んで戻る。
インストラクタ「長内さん、長内さん」
生徒A「頭を打ったんじゃないでしょうか」
インストラクタ「そうですね、後ろに倒れましたもんね。・・・どうしましょう」
 入り口近くの生徒が部屋の外に出て、フロントで待機している受付員を呼びに行く。スタジオの入り口が開放されたことで、ほとんど真っ暗な部屋の中に外の明るい光が一本、太い筋になって入ってくる。
 受付員はインストラクタより、むしろ落ち着いていた。
受付員「救急車を呼びましょうか」
インストラクタ「ああそうですね、そうした方がいいかもしれないですね。もう、どうしましょう。こんなのはじめてです。ああ」
 受付員が受付に電話を取りに戻る。と、孝美がぼーっと目を開いた。生徒のひとりがあっと声を上げて、また受付員に報告に行く。
インストラクタ「長内さん、長内さん、大丈夫ですか」
孝美「?え??」
 孝美はゆっくりと左肘を付き、起き上がる。
インストラクタ「あっ、ゆっくり起きましょう。ゆっくり起きましょう。頭、打ってないですか。どこか痛いところ、無いですか。ゆっくり」
 孝美は左手を後頭部に置いて、首を傾げる。受付員が戻って、電話を片手に、入り口のところに立ち止まる。インストラクタと受付員が目を合わせ、受付員の方が首を傾げた。
受付員「明るいところで確認した方がいいかもしれませんね」
インストラクタ「あっそうですね、外で、明るいところで確認した方がいいかもしれませんね。あの、立てますか」
 孝美は受付員に付き添われて立ち上がり、スタジオの外に出た。

 4日後、週末、土曜日の夜。11:30をまわったところ。長内修一が自宅リビングルームの座椅子にくつろぎ、テレビでスポーツニュースを見ている。孝美は畳んだ洗濯物を箪笥にしまっていた。
修一「お前、今日病院行ってきたのか」
孝美「え?ううん。何それ」
修一「何って、こないだヨガだったかに行って倒れたんだろ。行ってないのか」
孝美「病院?ううん、行ってないよ。何それ」
修一「お前、行けって言っただろう。今日昼間、時間あっただろう」
 孝美は首を傾げた。確かに今日は、修一は朝から野球の練習に出かけてしまったので、昼間はひとりだった。でもそれはそれで、やることがあったのだ。
修一「行ってないのか。お前はっ。なんかおかしなとこがあったらどうすんだ」
孝美「えー病院?えーだって、何科に行けばいいか分かんないじゃない。全然なんとも無いし」
 修一はテレビを見たまま話す。
修一「なんとも無いかどうか、分かんないだろう」
孝美「えー大丈夫だよ。あそこ少し暗かったからさ、で湿気多かったし、何か酔っちゃったんじゃないかなあ。慣れなくてさ」
修一「お前な、そういうので大きな病気を見過ごしたりするんだ。何科に行けばいいか、受付で聞けばいいんじゃないか」
孝美「えー」
修一が片方だけ眉を吊り上げて、孝美を見た。
修一「お前っ。てか、内科でいいんじゃないか、取り合えず」
孝美「えー」
 洗濯物は箪笥に入れ終わり、孝美は眉間に皺を寄せて立ち上がった。修一はふんと息を吐く。
 孝美は洗面所に移動した。歯ブラシに歯磨き粉を5mm程ちょぼっと出す。
 先日買ったおうち用の大きな髪留めの止まり具合がふと気に掛かって、歯ブラシを置き、手鏡と洗面所の鏡で後ろ髪を写し出そうとした。なかなか見えない。鏡をずらしながら凝視していると、また鏡どうしで見えない光の玉が高速に、次第により高速にキャッチボールし始めた。
 キャッチボール。どんどん速く。どんどん速く。どんどん。・・・吸い込まれた。
修一「知らんぞ、俺は」
 修一がいらいらしながら怒鳴った。座椅子の角度を深く変えヤンキース松井のニュースに向かった。・・・そのとき、洗面所でばたっと倒れる音がした。

 割合綺麗に整備された、向こうとこちら2車線ずつの街並み。都会の新興住宅地のメインストリートと言ったところか。
 車道には車が1台も走っていない。歩道にも人がひとりも見当たらない。歩道は塵ひとつ無くて、比較的広そうだ。道の両側には商業施設または社屋と思われる、そんなに高くないビルがびっしりとつながっている。が、生気が無い。道も、建物も、街全体がライトグレーがかっている。空も曇っていて、同じ色を添えている。良く分からないが午後らしい。
 孝美は車道の真ん中近くに、ポンっと立っていた。周囲をぐるっと見回し、首を捻った。5~6メートル歩いてみた。立ち止まり、また周囲を見回す。靴下のままで、靴を履いていないのに気付いた。洗面所に居たのだから当り前だと思った。何か息苦しい。
——曇っているのに。
——空気に妙な圧迫感がある。このせいか。
 くらりと眩暈がして、跪いた。
——ここはどこ。どうなってるの。
 へんてこな格好の、おばちゃんらしい人間がビルのひとつから出て来た。孝美から10数メートル先、くらいだろうか。
季衣「あっ貴方!何してるの!」
 へんてこな格好の女=大川季衣は素早くちょこちょこ歩きで車道を渡って、孝美に駆け寄った。背中側に回り、半ば強引に両脇に手を入れて助け起こす。
季衣「貴方、どうしたの?何で外に居るの」
 季衣は孝美を支えながらぐいぐいとひきずるように近くのビルに入る。
季衣「気分が悪いの?まさか外に長く居たの?どうして?」
 孝美はぼーっとしたままだ。実際、頭が良く回らなかった。
 季衣は周囲を見回した。歩道同様、ここにも人影は無い。
季衣「—大丈夫?」
 季衣は、へたりこんだ孝美の前に、困ったように突っ立った。
季衣「私は買い物があるから、だからね、行くけど、いい?しばらくそこにじっとして。外に出ちゃだめ。いい?分かってるでしょ。まだ日射病にはなってないと思うけど」
 と言いながら季衣はほんの一瞬立ち尽くし、しかし小刻みにちょこちょこ足を出しながら去って行った。
——日射病?暑くもないし、どんより曇ってるのに?
 孝美はぼーとしたまま、通路のど真ん中に居るのに気付いて、ビルの入り口付近に居座るように移動し、言われた通りじっと座り込んだ。たまにまばらに、人が通ることに気付いた。が、誰も孝美の近くを歩かないし、気にも止めない。ビルの1階どうしがつながっていて、人々は外に出ず、皆ここを使って移動しているようだ。
——中には人が居るのか。で、外は無人?
 孝美は眩しそうに目を細めて、それらを見ていた。
 季衣が小さな買い物袋を提げて、また通りかかった。
季衣「ああやっぱり。まだ居た。ちょっと!どうして窓際に居るの!」
 季衣が孝美の腕を引っ張って、むしろ薄暗い、気の向かない場所へ引きずって行く。ビルの太い柱の影で立ち止まった。孝美はまだふらついて、しゃがみこんだ。
季衣「窓際なんかに居るから」
 仕方無さそうに季衣もしゃがみこんで孝美の顔を覗き込んだ。
季衣「どう、気分悪い?家は近くじゃないの?」
 孝美は首を傾げ、不思議そうに季衣を見上げる。銀の、つばがぐるりと顔の周りを覆った、おばちゃんの野良仕事を思わせる帽子に、これとつながるように着ている、やはり銀のつなぎ、のようなファッション。靴もこれまた銀色のスニーカーだ。
季衣「あのね、聞いてるの。話せない?そこまで気分悪いの?家は近くじゃないの?どうしようかしら。ううん。え、もしかして聞こえてないの?」
 孝美はゆっくりと右手を上げて制した。
孝美「いえ、・・・すみません」
季衣「あっ聞こえるのね。良かった。もう。具合が悪いの?何で外になんて出たの」
 孝美は分からず、また首を傾げた。
季衣「どうしようかしら。全くもう。・・・でっ家は遠いの?」
 孝美は分からず、眉根を寄せて見上げた。
季衣「どうしようかしら。全くもう」
 季衣は似たようなことを何度も孝美に問いかけ、でも孝美には何とも分からないし、季衣をぼーと見るばかりだ。
季衣「・・・しょうがない。取りあえず私の家で休ませてあげるわ。来なさい。うちは反対側だから、もう一回外に出なきゃいけないわよ」
 季衣は、全くそんな格好で、と言いながら孝美を急き立てて立たせた。立たせた後で孝美が靴を履いていないのに気付き、一層いぶかしそうな目をする。

 季衣の家、というか部屋は、小さかった。1DKのアパートだった。玄関を入ってすぐのところがダイニングキッチン、らしいものになっている。孝美は、季衣が横になるかと聞いてきたときに断ったので、ダイニングの椅子に腰掛けていた。裸足になっている。深く腰掛け、爪先だけ、ちょこんと床につけていた。季衣は、玄関先で孝美に脱ぐよう命じた、汚れた靴下を摘み上げ、バスルームに行ってしまった。
 バスルームから声がする。
季衣「あなた、若いけどアルツハイマーとかなの?ああでも、そうだったら分かるわけないか。私ったら何聞いてるんだろう」
 季衣は孝美の靴下の汚れをさっと手洗いで落としてから、自分の洗濯物と一緒に洗濯機にかけた。銀一色から、ふつうの部屋着に変わって戻って来る。家の中でも小刻みにちょこちょこ歩いているのが目について、孝美はそれを、ぼーと見つめた。
季衣「さて、じゃ何か飲みましょうかね」
 季衣は右左と小刻みに数回首を泳がせて、遠くを見て、そのくせ手元にあった電気ポットに唐突に視線を戻した。冷蔵庫から水を出して電気ポットに入れて仕掛ける。
——どうも人間ぽくないというか。鳥、そう、鳩っぽいというか。
 孝美はぼーっとした目線で、でも季衣を、それから周囲を丹念に見回した。鈍った頭を働かせようと試みる。
——そうだ。
孝美「あの、すみません。新聞ありますか」
季衣「新聞?新聞って。??ええと、ありますよ。新聞ね。ええと」
 季衣は面食らって、おやしゃべるのね、という目線を投げてから隣りの部屋に隠れ、掌より一回り大きい薄い液晶画面だけのPCのようなものを持って来る。孝美は目だけに小さく驚きを浮かべながら、手渡されたPCもどきの両端を握りしめて凝視した。季衣はいぶかしそうに目を細めてからそれを取り返した。
季衣「うちで取ってるのは産朝なんだけど、これでいい?」
 PCもどきをポンポンっとタッチして、孝美の手に戻す。
 液晶に産朝新聞の1面が出ている。PCもどきの縁を握りしめた孝美の指に力が籠もった。
孝美「・・・やっぱり」
 季衣が、あっという間に湧いた湯をティーポットに注ぐ。
季衣「あなた、何かの病気なの?それとも何か?・・・何か事情がある人なの」
 と言いながらも、季衣はちょこちょこした手付きで2つのカップに茶を注ぎ分け、ひとつを孝美に勧める。ガラスのようなガラスで無いような、コップのような湯呑みのような、透明で厚手の細長いカップだ。孝美は軽く頭を下げて、茶を口に含む。口を歪めた。 季衣はそれを見逃さない。
季衣「お口に合わなかった?」
孝美「いえ、すみません。そんなことありません。・・・飲んだことの無い味だったものですから」
季衣「??普通のお茶ですけどね?」
 季衣は、おやちゃんとしゃべるのね、という顔をした。孝美はカップを両手でくるみながら、考え込む。季衣が壁に向かって命令するように「テレビ!」と小さく叫び、すると白壁と思われた一画が浮き上がるように映像を流し始めた。孝美は小さく眉だけを動かして壁のテレビを注視した。季衣は椅子に寄りかかり、手にしたお茶をすすった。
孝美「あの、唐突な話なんですが、いいでしょうか」
季衣「?」
孝美「ああ。でも信じてもらえるかどうか」
 孝美が壁のテレビを流し見る。夕方のニュースが流れている。季衣は孝美がテーブルの上に置いたPCもどきを手に取り、またポンポンとタッチした後テレビに向けながらその上で指をスライドさせ、それによってボリュームが少し落ちた。孝美は見つめて、季衣が操作を終えるのを待った。
孝美「・・・そうだ。今、ていうか今年、2062年?なんですよね?」
 孝美は季衣がテーブルに戻したPCもどきを横目で見やり、先程の新聞の1面に戻っているのを確認した。画面右上に今日の日付が出ている。その下に、今日の天気予報も見えた。更にその欄の端っこに富士山情報というのもあって、煙が上った山のイラストが付いている。
季衣「え、そうねえ。確かそうだわね。年々、何年か分からなくなって来ちゃいますけどね」
 孝美はそっと首を傾げた。
——いやそういうことじゃなくて。
 もう少ししゃべってみる。
孝美「すみません。私、実は前にも同じようなことがあったんです。さっき思い出した。だから、そういうことなんだわ。でもこんなに入り込んだことはなかったんです」
季衣「??」
 季衣は聞く気があるのか無いのか、また小刻みに右左に数回首を泳がせる。少し止まると、また同じように動く。孝美はこの人は正常な人だろうかといぶかった。でも寄る辺が他に無い。また、話を続けてみる。
孝美「前のときは、ええと、そうですね。縁がぼやけた覗き窓のようなものから、望遠鏡みたいなものでしょうかね?そんなのから、覗いている感じでした。実際に街に立って、しかも人と話すなんて」
 季衣が斜め下に視線を落として呟いた。
季衣「?さっぱりだ?やはりこの子、おかしいんだわ」
 孝美は慌てた。
——お互いが、少しおかしいんじゃないかと探っている訳だ。
孝美「あの、・・・じゃええと、不思議な現象っていうんでしょうか、そういう類いのもの、信じますか?」
季衣「え?不思議な現象?ああ!それなら、私はとても柔軟ですよ。世の中色々なことがありますからねえ」
 孝美は反対側に首を傾げた。先を進めたものかどうか。新聞に戻って、当てずっぽうに画面をタッチして何画面か先に進んだ。当てずっぽうでやれる程操作しやすく出来ているところに2062年=未来を感じる。記事の、日本語の文章の中に絵文字のようなものが入り混じっている。季衣はテレビを横目に、別の、こちらは掌に納まるサイズのPCもどき、を手にして、考えながらキーパッドをたたき始めた。「・・・人参」とつぶやいたところを見ると、夕飯か何かのメモのようだ。孝美は勇気を絞り、切り出した。
孝美「・・・あの私、先刻まで2005年に居たんです」
季衣「え?」
 季衣が掌サイズのPCもどきから顔を上げた。
孝美「すみません。でも2005年の、確か、9月24日?」
季衣「え?」
孝美「夜でした。家で、夫はリビングでテレビを見ていた。私は歯を磨こうとしてました。だから靴を履いてなかったんだと思います」
季衣「ええ?」
 ずっと小刻みに右左に泳いでいた首が止まったのが見えた。孝美はぐっと首を引いた。
孝美「今日は9月21日なんですね。2062年の。私、前にもこんなことがあったんです。・・・今日が同じ9月後半なのには意味があるのかしら。・・・私、前にもこんなことがあったんです。・・・そうだ、そしたら、今話してる途中でも、引き戻されたら、いきなり消えるかもしれない・・・それより、まさかもう戻れないのかしら?」
 孝美は泣き出しそうになる。季衣は眉を吊り上げて目を見聞いている。
季衣「は?何ですって?何て言った?・・・何年に居たって?」
孝美「2005年」
季衣「は?2005年?ええ?・・・2005年から来たと言うの。そんな」
孝美「・・・」
季衣「は?そんな?映画じゃないんだから」
 季衣は笑ったものかどうか迷って、曖昧な顔をした。
孝美「分かりません。でも今年が2062年だと言うなら、そうです」
 孝美は、また、液晶画面の新聞の縁を握り締めた。
孝美「この新聞、文の中に不思議な記号みたいのがありますね。これ何ですか、文字の一種ですか?」
 季衣が向かいから覗き込んだ。
季衣「え?若い人なのに知らないの?イソドキア文字でしょう?」
孝美「文字というより絵記号に近いですね」
季衣「そりゃそうだわ。古代文明の絵文字からイメージしたらしいからね。ほんとに知らないの?」
 孝美は頷いた。
季衣「若い子たちが、そうね10年くらい前になるかしらね、使い始めて、ちょうど貴方の世代でしょう?今じゃ新聞でも使われるようになっちゃった。ほんとに知らないの?まさか」
 季衣が孝美を覗き込む。孝美は首を傾げながら更に数ページ進めた。
孝美「絵文字。するとこれは、見つかって嬉しい、って意味かしら」
季衣「え?どれ?」
 季衣が記事を覗き込んだ。
 坊主頭に近い中年男が口を開いてしゃべっている写真と、「大往生の末・・・」という小見出し。
季衣「ああ、榎田荘助の話じゃない。歌舞伎の榎田荘助。この間死んだ父の荘治郎の私物を整理したら、別れた、ええと名前何て言うんだっけ、とにかく荘助のお母さんよ、その人の写真とかが詰まった箱が見つかったんでしょ。 何で知らないの。テレビで随分やってたでしょう」
孝美「ええ、だって」
季衣「荘助のお母さんはもう大分前に亡くなってるから、嬉しかったんでしょうねえ。妾だし、私物が少なかったらしいわね。お母さん、誰って言ったっけ?ううん、名前が思い出せない」
孝美「あの。すみません。実はもっと気になることがあるんですが」
 季衣は遮られ、孝美を凝視した。
孝美「ええ、すみません。良ければ教えてもらえますか。ええと、あ、あの」
 孝美が季衣に呼びかけようとして、口ごもる。
孝美「あっ名前・・・。名前をうかがってもいいですか」
季衣「え?何?ああ私の名前?」
 季衣はほんの少し躊躇してから答えた。
季衣「大川季衣」
孝美「あっみません。大川季衣さん。ありがとうございます。私は長内孝美と言います。大川さんは、さっき何故あんなに銀ずくめの格好をしてたんでしょうか。で、なんで私はお会いしたときに怒られたんでしょう。関係ありますか?」
 季衣が目を見張る。
季衣「あの格好の方が有害な放射線を避けられるって言われてるでしょ。外をうろついてたら、皮膚癌とか、色んな病気になるでしょ。高かったわあ。1個1個買っちゃったのよ。セットで買っておけば・・・」
 季衣はふいっと話を止めて、孝美の様子を伺った。
季衣「・・・皆恐がって、昼は絶対外に出ないけど、私だっていつもは出ないけど、さっきトイレの電気が切れちゃって」
 季衣は目を横に泳がせて、肩をすくめた。
季衣「私、そういうの我慢出来ないのよ。夜まで待ってられないの」
 季衣は席を立って、ダイニングの奥にある小さな窓辺に移動した。少し沈黙があった。
 季衣は外を覗き、それからふうと小さく息を吐いてから首をかしげ、孝美を振り返った。
季衣「建物のガラスには皆、放射線遮断シートが張られてる。でも皆気にして昼は窓にもなるべく近寄らない。分かった?そう言えばそろそろ日が暮れるから、人が外に出る頃だね」
 季衣が窓から街路を覗き、孝美を手招きする。孝美は席を立って、季衣の隣りに立った。
孝美「ほんとだ」
 孝美は薄汚れた小さな窓越しに、歩道に現れた数人の人影を見下ろした。季衣が孝美の様子を横目に伺う。
季衣「前に大きな放射能漏れの事故があったのよ。ずい分前。まだ私は子供でした。その頃は昼も夜も危なくて随分騒いだけど、今は太陽の放射線の方が問題なの。でもまあ、夜になれば大体安全という訳」
孝美「放射能漏れ?」
季衣「東北よ。東北に大きな地震があって、そのときに原子力発電の事故が起きたんです。それから大きい地震は、その後にも、何年かしてからあった。こっちは東京でね、首都圏でも大きな地震が起きたの・・・こっちの地震は・・・」
 と言ったところで、季衣は言葉を切った。きっと大きな悲しみがあったのだろう、と見えた。
季衣「貴方さっき2000何年って言った?ほら、貴方が来たって言った・・・」
孝美「2005年」
季衣「2005年にはまだどっちも起きてないわね、確か」
孝美「えええ??」
 孝美は言葉を失う。手にしたままだった液晶を、もう一度見直した。画面の中の「富士山情報」。
孝美「富士山情報って何ですか?この数字、火山灰の飛散予報みたいですけど」
季衣「えっ?そりゃもちろん、富士山の火山灰の予報でしょう」
孝美「まさか富士山は噴火したんですか?」
 季衣は当たり前のことを聞かれて面食らったようだ。
季衣「えっ?・・・あっそうか、富士山が噴火したのは、さっきのその、東京の地震と同じ頃よ」
孝美「えええ??」
 季衣は半信半疑な目で見ている。2人がそれぞれの椅子に戻ると、夕方のニュースで偉そうな外人が大興奮で演説していた。
孝美「何か問題があるんですか」
季衣「すると、この人が誰かも分からない訳ね?これはアメリカの大統領。石油確保で紛争が起きてて、・・・もうすぐ大きな戦争になるんじゃないかって言われてる。日本も確実に巻き込まれるって。・・・恐いわ」
孝美「石油はそんなに大事な資源なんですか?・・・2062年なのに?」
季衣「そう」
孝美「だって、石油って、発電ですよね?・・・えっじゃあもしかして、その原子力発電の事故が関係あるんですか?」
季衣「ええとそれは。そうね。確か・・・確か」
 季衣が、こんな難しい話久し振りにするわ、と呟きながら、また顔が左右に小さく動き始めた。
季衣「でも私、こういう歴史とかはね、聞いたら忘れないのよ。確か・・・確かにその事故が元で大問題になって、世界で、あちこちで、原子力反対運動が起きたんだそうです。そして代替エネルギーが求められた・・・と、昔小学校で習ったわね」
 と言いながら、季衣は孝美の手から液晶を取り上げて、さくさくと検索した。
季衣「これ、これとか?これの方がいいかしら。読んでご覧」
 液晶には原子力発電の近代史が表示されていた。孝美は震えながら読み始めた。季衣は被せて話し始める。
季衣「でもその日本の事故は取っ掛かりだわね。その後、原発の放射能漏れがまた、フランスと中国だったかしら、そこでも出て、放射性廃棄物の問題も出て、・・・今はほとんど閉鎖してるはず、・・・と書いてない?」
孝美「閉鎖。日本だけでなく?」
季衣「ええそう。世界中。中国は大分反発したみたいだけど。事故を起こしたのにね」
孝美「じゃ、何で?石油?石油で発電してるんですか?」
季衣「家庭用はほとんどソーラーよ」
孝美「ソーラー。ソーラーで電力がまかなえるなんて」
季衣「ええ?十分よ。その、貴方の時代より技術が進歩したんじゃないの?」
 孝美はここに“落ちた”ときに通りで感じた、曇っているのに妙にじりっとした日差しを思い出した。
季衣「でも工業レベルだとソーラーじゃ間に合わないんでしょうね。発電だけじゃなく、石油からでなきゃ出来ないもの、何だっけ?アスベスト・・・じゃない、スーパーなんとか・・・、違うな、思い出せない。そういうものもある。で、石油確保にやっきになってる訳です・・・ああ、久し振りにこんな難しい話するわ」
孝美「すみません・・・石油はあとどれくらいあるんですか」
季衣「さあ?詳しいことは知らないけど、そりゃ。検索してみれば?でも残り少ないんでしょう。だからみんなが寄ってたかって、戦争になりそうなのよ。ほんとに恐いわ」
 季衣と孝美は口を噤んだ。しばらくテレビのニュースを見る。50数年経っているが、言葉は大体分かる。季衣がそわそわと見回した。
季衣「さて、夕飯の買物に行かなきゃいけないけど、どうしよう。あなた、留守番出来る?」
 孝美は少し考え込んだ。
季衣「それとも、今のスーパーマーケット、見てみたい?」
 孝美は顔をぱっと上げて、躊躇無く返事した。
孝美「あっはい。いいでしょうか」
 季衣は孝美の身なりをざっと見た。茶色がかった7分袖のTシャツに黒っぽいスウェット。如何にも部屋着だ。
季衣「日が暮れたから、その格好でもまあ大丈夫でしょう。靴貸すわ。ええと、靴下は乾いたかな」
 洗濯機らしきものに入れて放って置いたのに、季衣が手にしてきた孝美の靴下は、1時間かそこらでちゃんと綺麗になって乾いていた。2人でマンションの玄関から外に出る。季衣はカードと指紋認証らしいものを使って鍵を閉めた。
季衣「さて、あなたをどうしたらいいだろう」

 スーパーマーケットは孝美が落ちた大通り沿いを10分も歩かないところにあった。比較的大きく、季衣は「ここは恵まれている」と言った。通常は、近所にはコンビニエンスストア規模のごく小さなものしか無く、不足する分はインターネットで注文して配達してもらうのだそうだ。でもやっぱり実物を見ないとねえ、と季衣が言う。
 スーパーマーケットに入った。キャスター付きの買い物籠を取ってすぐのところで、プランターの帯がベルトコンベアに乗っているようなものが、幾つも、回転寿司調にゆっくりと流れている。プランターには、ほうれん草等の葉野菜や人参のような根菜といった定番の野菜が、家庭菜園のように生えている。根菜は品物が見えるように、ガラスとの間の土を少し除けてある。
孝美「この野菜はこのベルトに乗ったまま育てられてるんですか」
季衣「そうよ。外じゃ育てられないもの。危なくて」
孝美「危ない」
季衣「紫外線が強すぎるし、土壌も汚染されてる。放射線やら何かで」
孝美「じゃ、この野菜たちは全然太陽に当たってないんですね。野菜はみんなこんな感じですか」
季衣「今は大きなスーパーはみんなこれね。お陰で安心。外で育てたやつを買ってた頃は、恐かったわあ」
孝美「・・・だから、さっき飲んだお茶、何か違う味がしたのかな」
 孝美が首を捻る。
季衣「あなたのところだと、何、・・・50年くらい前?50年前だったら、食べ物はもっと美味しかったんでしょうね」
 2人は乾物コーナーにだらだらと歩いて行く。孝美が見たこともない、おびただしい種類の乾物が並んでいる。
季衣「紫外線と言えば、外、不透明のアーケードが延びてたでしょう。あれ、いちおう紫外線を除けるように出来てるんだけど、他の放射線も除けられるものにして、で、もっと透明なのにして、出来るだけ街全体を覆うように交換するんだって。何年も先になるんだろうけど。でもアーケードが出来れば、少しは安心だわ」
 と言いながら季衣はキャスター付きの買い物籠に寄りかかるように押して、乾物を幾つか品定めし、ひとつを籠に入れた。
 振り返ると、孝美が居ない。
 先程貸した靴だけが無造作にあった。季衣は狼狽を押し隠すようにして、靴を抱え込んだ。

 孝美は揺さぶられるようなめまいと共に目を開けた。リビングのソファに寝ていた。そっと身体を起こしかけると、修一が電話を手に玄関の方から戻って来た。
修一「あっ孝美っ!!目ぇ覚めたのか!」
孝美「え?・・・うん」
 ほっと、短く強く、息を吐いた。
——戻れた。良かった。
 しかも戻った時間も場所も、ほとんどずれていないらしい。
——ということは何?私の身体はここにずっと居たの?
 ものすごくぐったりしているために、両手で身体を支えつつソファの背もたれを伝いながらずるずると起きた。
孝美「修ちゃん、私?・・・私どうなってた?」
 修一は孝美が起き上がったソファの前を、半ば口を開いて電話を持ったまま行きつ戻りつしていた。
修一「お前っ!動くな、寝てろっ!頭打ったかもしれないだろっ」
孝美「いや、大丈夫と思う・・・」
修一「全く、だから病院に行けと・・・」
 修一の態度は高圧的だ。孝美がいやーな気分になったときに、どどどという数人のはやった足音と声が外に聞こえ、玄関のチャイムが鳴った。
修一「あっ来た!」
 修一が玄関に飛んで行く。孝美は耳をそばだてながらソファからそっと両足を下ろした。誰かが修一に「担架は要りますか」と聞いている。
——いけない!
——救急車だ。
 孝美は玄関に走ろうとした。が、ふらつき、壁伝いに両手を当てながら追いかけた。
孝美は、自分は大丈夫でもう問題ないのだと、申し訳無いがお引取りくださいと、落ち着いた感じを出さなければと頭の中でぐるぐる回しながら、救急隊員に一生懸命説明した。隣りで修一が真っ赤になって怒っているのが見え、罵声が聞こえた。
——乗せられてはいけない!とにかく車に乗せられてはいけない!
 孝美は今まで見せたことがない冷たい目で修一を睨み、救急隊員に繰り返しお引取りを請うた。
(以上、2013.12.28)


 孝美は修一に、体験したことを話すべきと思った。しかし彼は聞く耳を持たなかった。
救急車が来た日は、無理に帰ってもらった後ひと言も口を利いてもらえなかった。
 暗い方が話をしやすいと思って、夜ベッドに横たわったときに切り出そうと数日努めてみたが、そういうことは察知するのかさっさと背中を向けて眠りに入ってしまい、進めようもなかった。
 軟らかい話から行こうと思い、機嫌が良さそうと見えた日に「私は貴方に会う前から、貴方と結婚するのを知っていた」というようなことを言ってみたのだが、「へーそう。女ってロマンチックなものなんだ」と呟いて終わり。
ーーそう。確かにそうだ。
 孝美は修一と結婚することも知っていたのだった。孝美はしみじみ思い返した。忘れていたのだが、思い出した。しかしそれは、こうこうこういう馴れ初めで、このようにして進展して、・・・というように一部始終を知っていた訳ではない。つまり、時間を追った、連続した記憶として知っていた訳ではないのだ。
 修一と出会う前に、どのくらい前だったのだろう?入社前だったことは確かだ。就職活動をしていた頃だったと思う。それは夢に見たのだっただろうか?ぼーっとしていたときに頭に浮かんだのだったか?とにかく、誰かの隣りに座って、披露宴らしき雛壇から招待客を見下ろしている映像が浮かんだように思う。そのイメージでは相手の顔が見えなかったので、修一と付き合ってからもすっかり忘れていた。が、実際に披露宴を迎えて、入場して雛壇に登って、ふたりで招待客に頭を下げて、ゆっくりと腰を下ろす瞬間に、あっこの光景は既に見たものだと気付き、押し戻されるような衝撃を覚えたのだ。既に体験した記憶がある、全く同じ映像だった。
 孝美は記憶を辿ってみた。
 小さな頃から妙な夢を見ることがあったように思う。大体は断片的な映像として頭の隅に残る。そしてときどき、あれっこれはもう知っている、これはもう前にやったことだよな、と思う。そう、例えば、中学校の体育でバスケットボールをやったとき、あの日、孝美はボールを持ったまま敵チームに囲まれてしまった。あのとき、館野さんが向こうから「右に捻らないとだめなのよ」と言った。そしてそれを既に知っている、と思った自分にびっくりしたのだ・・・。
 時間軸をひゅうと飛び越えるかねじり曲げて、覘いて戻ってくる感じ。そして未来のその時になると、もう知っている映像をすっぽり見ることになってびっくりする。きっと過去に飛んだ分もあるのだろうが、記憶のひとつとして片付けてしまっているのだろう。
 でもあれらは皆、夢に近いレベルだ。ぼんやりした穴から、ある日ある時のどこかの映像を覗き込んでいるだけ。こんなに、肉体まで入り込んだことは無い。
ーーきっかけは?何だろう。きっかけは?
 孝美はあの日の行動や環境をぐるぐると思い返した。何日も、考え続けた。

ーー鏡だ。
 孝美は、会社で座席表の更新をしている手を止め、はっと顔を上げた。
 孝美の会社は中堅のタイヤメーカーだ。実際には多種のゴム加工品を開発したり生産しており、孝美の部署はゴムの耐久や防水力の研究と開発をしている。そして彼女はここの事務員だ。ちなみに修一は同じ部署の1年上に入社した先輩で、毎日ゴムを縮めたり引っ張ったりしている技術者である。
 時計を見ると、午後4時26分。10月も半ばと言うのに、今日も25度近くあった。毎年夏がどんどん長くなっているように思う。それは世の中の人みんな言っているが、その他にもここ数年、夏でも妙にひんやりした風が吹くようになったと、孝美は感じている。このことを職場のお昼メンバーの女性に言ったことがあるが、気付かないようだった。
 誰も言わない。気付かない。でも孝美は確実にそうと感じる。南極か、北極の氷が解けているせいなんだろうかと思う。恐ろしいことだと思う。孝美は夕方の強い日差しが差し込む窓を眺め、すると先日自分が落ちた灰色の街がよぎり、身震いした。誰も居ない、灰色の街並み。
ーーそう、鏡だ。
 鏡と鏡が写し合ったときに、何かが作用するらしい。光の加減もあるのだろう。自然光でなく、蛍光灯のようなぼんやりした光の方がそっちに導きやすいというか、そういうことらしい。良く覚えておかなければ。これらの要素を重ね合わせてはいけない。また未来か過去へ落ちてしまうようなことがあってはいけない。
ーーあのときはたまたま戻ってこれたけど。
 行くきっかけも不明瞭なら、戻るきっかけはもっと、皆目分からないのだ。
 孝美は実際恐ろしくてたまらなかった。しかし修一が相談に乗ってくれないので、ひとりで考えるしかなかった。
ーーとにかく、家の鏡を減らそう。
 事務所は朝・昼・夕の決まった時間を除いて、業務中は多くの者が開発センターに移動してしまう。同じフロアに居る隣の部の事務員は、今日は休んでいる。今は室内に、孝美ひとりきりだった。
 季衣はもうすぐ大きな地震が起きると言っていた。放射能漏れがあると言っていた。確か東京でも何か大きな地震だか事故だかが、続いて起きると言っていた。
ーー本当だろうか。
 孝美のキーボードを打つ手が、止まった。
ーー・・・本当に違いない。
 目だけでそっと左右を見回した。
ーー私は事実、そこに落ちて、結果を見たのだから。
 誰も通らない、灰色の街。
 結婚してもうすぐ2年になる。孝美としては、もうそろそろ子供が欲しいと思っていた。
ーーでも。私の子供は確実にあの灰色の街で生きなければいけなくなる。地震や放射能の中で育たなければいけなくなる。
ーーそれどころか、私自身、そんな中を生きるのは恐ろしい。
ーー・・・生きられるのだろうか?
 孝美は社員が戻ってきて雑事に戻してくれるのを願って、数分おきに時計を見た。

ーー何これ?
 地震だ。
 今まで体験したことの無い種類の揺れ。続いて、巨人に両手で家を捕まえて揺さぶられているような衝撃が来た。
 孝美の家は東京都練馬区の端っこにある。8階建ての小ぶりのマンションで、そこの4階の、奥から2番目。賃貸だが結婚以来ずっとここに住んでいる。孝美は慌ててよろめきながら、部屋の奥に据えているベビーベッドに走った。
 孝美はベビーベッドを守る、というよりベビーベッドの縁にしがみつくようにしてにじり寄り、我が子の無事を確認した。我が子=広太は危険を察知してか、泣き叫び始めた。 ベッドを守るように被さりながら周囲を見回し、物が落ちて来ないか伺う。彼の足の方向にある古いブラウン管のテレビが揺れているのを発見して、押さえつけに飛んで行った。
 収まったところで広太を抱き上げると、また揺れが来た。孝美は広太を抱きかかえながらベビーベッドを背にへたりこんだ。
 壁に掛かったカレンダーを見た。
 3月11日だ。2011年。
ーーそうか。今日がその日だったのか。季衣さん。
ーーいよいよ来たのだ。では震源は東北?・・・東京もこんなに揺れるの?
 孝美の頭には、5年半前に灰色の街に落ちたときに伝えられた歴史が、こびりついていた。銀色のおばちゃんの、季衣から伝えられた歴史だ。しかしそれが具体的にいつ起こるか分からなかったので、そして多分、恐怖は頭の隅にしまい込んでしまいたかったので、次第に麻痺してしまった。そして結婚8年目にして子供が出来てしまった。いや、出来てしまったと言うのは良くない。実際良くない。だが、子供が出来てみると心の底に根付いていた恐怖よりも喜びが勝った。だから普通に産んで、それなりに奮闘して育て、産休と合わせて計2年間取った育児休暇が、終了まであと1ヶ月少々、というところだった。
ーー頭を鈍らせてはいけない。
 孝美は左手で広太の頭を抱えて胸に押し付けるようにして守りながら、回りの危険度を推し量った。
 大きな揺れが収まったのを見て、立ち上がった。部屋のものは比較的皆無事だった。チェストの上に無造作に重ねていた本やCDは雪崩落ちていた。が、その隣りの、孝美がずっと凝視していた、ブラウン管のテレビはずれながらも持ちこたえたし、キッチンに行ってみると冷蔵庫や食器棚も飛び出してはいなかった。孝美はぐずっている広太をベビーベッドに戻して横たえてから、ベビーベッド自体を部屋の中央の、危険物に当たらなさそうな場所に押して移動した。
 広太が歩き出してから、ベッドは壁に押し付けて、部屋に向いている側の柵を取り外してあり、彼の昼のプライベートエリアになっていた。広太はここにおもちゃを持ち込んで遊んだり、ごろごろ転がったり昼寝をしたりするのだ。このベッドの取り外した柵を、元に組み立て直そうとした。結構時間がかかる。苛々した。
 あっ、と思って顔を上げた。
ーーそうだ逃げ道の確保!
 急いで立ち上がり、テラスのサッシを開けると、まだ少しひんやりする空気が入って来た。走って玄関の扉も開けた。テレビはチェストの上から下ろした。スイッチを入れてみたが、揺れたときに配線が緩んだか孝美の下ろし方が乱暴だったのか、映らなかったので、慌ててベッドルームのパソコンを立ち上げた。
 小さな地震がなおも続いている。
ーー情報が必要だ。
 孝美の居るマンションは、共働きの家が多いためか隣り近所はしんとしていた。
ーー焦ってはいけない。
 情報を得たかった。だが、情報を求めるために広太を置いて外に出ることは論外だ。
ーー彼を抱いて行けば良いか?このまま?着のみ着のままで?そこまで急いで非難すべきかどうか?
 ・・・躊躇した。
ーー頭を鈍らせてはいけない。
 孝美はリビングルームの広太を振り返りながら、ベッドルームのパソコンに向かい、インターネットイクスプローラを立ち上げた。手が震えてトリプルクリックした。
 少々古いパソコンなので、すぐには立ち上がらない。孝美は画面を横目で見ながら携帯電話を取りに走った。
 孝美の携帯電話はインターネット使い放題の契約にしていなかったので、インターネットはほとんどパソコンでしか使ったことが無く、やり方が分からなかった。取り敢えず修一にメールを打っておくことにして、孝美と広太が無事であることを簡単に入力して送信した。修一の携帯電話も鳴らしてみたが、つながらなかった。これは予想通りだった。

 パソコンのインターネットイクスプローラが立ち上がった。
ーー良かった。インターネットはつながる。
 大海原で孤立したような寂寞感だ。そこから少し開放されたと思った。Yahooのトップページが地震情報を伝えている。早いな、と感心してしまう。そして確信した。
 震源地は東北だ。
 時計を見ると、午後3時15分を過ぎたところだ。驚いた。
ーー真昼間じゃないか!
 大きな地震は早朝に来ると思っていた。情報を求めてあちこちページを開き続けた。
津波が来ていた。震源地は東北の海沿いだったらしいから、成程津波は発生するだろう。漁業関係者が自分の船を守りに行って、呑まれたのだろうか。大きかったのだろうか。日本人なのだから津波が来ることは予想がつくはずだ。船を見捨てることができなかったのだろうか。
 孝美は何年か前に起きたインドネシアの大地震のことを思い出した。
ーーあれは何だっけ。
 「インドネシア 津波」で検索した。
ーーそう、スマトラ沖地震だ。
 あの地震でも大きな津波が起きたのだった。画面から起きた年月を辿る。2004年12月。
ーーそうか、7年前になるんだ。
 あの頃、ある日いきなり、部長から妙なメールが転送されてきたのだ。タイトルが「私は今元気です」。
 スマトラ沖地震の後、半年程も経っていたと思う。地震のことは勿論孝美も知っていたのだが、いきなりこのタイトルを見せられてふざけていると思い、声を上げて笑った。  「部長~、これ何ですか~」と言いながら読み進めると、それはスマトラ沖地震で被災した、部長の友人の現地出向者からのメールだった。笑った口が固まって、ゆっくりと閉じた。
 地震によって発生した大津波に、住民たちは非難方法も知らず多くの人が呑み込まれて行ったという。メールをくれた人は、たまたま走って高台に逃れることが出来て助かったのだという。その人は孝美の知り合いではなかったけれど、部の中には知っているメンバーも居たので、部長がざっくり全員宛てで転送したのだ。
 「私は今元気です」。
 孝美はメールを読み進めながら、涙をこぼしそうになった。日本は地震国だから、地震の後は津波が来るという予備知識があるけれど、スマトラの人たちは知らなかったのだろう、と思った。
ーーさっきの津波の規模はどうだったんだろう。
 と考えているうちに、何度も繰り返していた揺れが収まってきた。開け放ったサッシ越しに、近くの住民と思われるおばちゃん同士が外に出てきて声高に話しているのが聞こえてきた。おばちゃんたちは無事らしい。この辺はどうやら大丈夫らしい。孝美はほっと息を吐いて、微笑んだ。そう言えば寒くなって来た。
ーー停電してたらどうしよう!
 と思いついたところで、リビングの隅で電気ストーブが点いているのが目に入った。馬鹿だなと思った。
ーー停電してないから、こんなにパソコンを使い続けられるんじゃないか。寒いのはテラスのサッシや玄関を開け放っているせいだ。
 孝美は立って、サッシと玄関の開け幅を少し狭めた。おばちゃんたちの声を聞いて、落ち着いて来た。少なくともすぐに非難する必要はないらしい。
 実際、孝美の家では5年半前から、彼女があの灰色の街を見た後からすぐ、災害セットは万端にしてあった。水も非常用食料も電池も定期的に入れ替えていたし、手動で逐電できる懐中電灯まであった。
 ただ度胸を用意していなかった。いつ地震が起きるか分からなかったし、起きないかもと思い始めてきていたからだ。
 孝美は非難用具一式が入ったバックパックをクローゼットから出して、ベビーベッドの傍に置いた。地震が起きたときの避難先についてもあれこれシミュレーションしてあった。が、ここ2~3年は危機意識がぼんやりしていたせいか、シミュレーションしてあった割に、直面してみるとざっくりとしか思い出せなかった。徒歩にしろ、車が使えるにしろ、とにかく西に逃げようと思った。
ーーだから、田舎に引っ越したかったのに!東京を脱出して!西の方の!
 孝美は修一を恨んだ。あのときから何度も何度も説明しようとしたけれど、聞いてくれなかった。説明しはじめると本気で精神科に連れて行こうとするのだ。
ーーいつも!
 動機を摩り替えて、とにかく転居をほのめかしてもみた。しかし修一は今の環境を変える気はさらさら無かった。環境を変えるとしたら、自分が変わるのでなく、精神科に入院させて孝美を追い払うか、離婚だろう。近頃は何も無いときでも、言葉の端々にぶっといトゲを感じる。

 それにしても修一から電話なりメールなりの連絡が来ないのは不安だった。再びパソコンに向かうと、Yahooのトップページに、福島の原子力発電所で事故が起きたニュースが見えた。
 これは考えたくなかったことだ。
 今日地震が起きてからずっと、頭の隅にこびりついていたのは、これだ。孝美は再び驚愕した。記事は大きな問題でも無いように見える、さらりとした内容だった。
ーーこれがきっと、これがきっと。
ーー爆発するんだろうか?放射能は東京まで飛んで来るんだろうか?私たちは、日本は、どうなるんだろうか??
ーーいけない。早く非難しなければ。広太が。
 孝美はすぐにでも非難しようと心に決めた。
ーーこの子は小さいのだ。弱いのだ。一時的な非難ではなく、どこか遠くに引っ越さなければ。
ーー私はどうして今、広太を産んでしまったのだろう。そうだ、迂闊にもどうして。
 涙が滲む。でも泣いている場合じゃない。
 逃げ出すためには修一と連絡を取る必要があった。早急に。しかし先程から何度かけても、電話はつながらない。インターネットによると、車以外の交通機関は全て止まっているらしい。
ーー夜までに回復するんだろうか?修一は帰って来れるんだろうか?帰ってきたとして、…修一は非難することに耳を傾けるだろうか?

 修一は夜中1時過ぎになって、徒歩で帰って来た。
 JRは当日中の復旧を断念した。他の電車も、復旧は夜半近くになった。このため、多くのビジネスマンが、また、昼間出かけていた人たちが帰宅する手段を失ったのだった。修一は田町にある会社で夜8:30まで粘ったが、どの路線も復旧せず、決意して、上板橋に住んでいる隣りの課の若尾と2人で歩いて来たと言う。22時過ぎ頃に、修一が歩いている途中でかけてきた携帯電話がつながり、孝美も構えていることができた。が、帰り着いた修一は玄関にへたるように座り込み、孝美が靴を脱がせると足のあちこちで豆がつぶれて血だらけだった。孝美はガスが止まっているらしくお湯が出ないことを報告し、玄関先に電気ポットで沸かした湯をぬるくした洗面器を置いて、修一の足を洗った。修一は何度も顔を歪めたが、痛みに声を上げる気力が残っていないようだった。
 修一は昼間電話をかけようとしたし、メールも出していた。孝美からのメールは届いていたという。修一は半年前にI-Phoneに切り替え、孝美は慣れたauの携帯電話を使い続けていた。Softbankはつながらないって聞いていたけど、こんなときほんとにつながらないんだ、と思った。
 修一が小腹を充たせるようお茶漬けを出しながら、取り合えず自分たち家族の無事を喜び合って、お互いの実家のことを話し合った。
 孝美の実家は茨城県の大子町だ。だめもとで何度も電話をかけてみたが、やはりまだ連絡がつかなかった。海沿いから離れているから津波の心配はしていないが、かなり揺れたはずだし事故を起こした福島の原子力発電所からも近い。これからもう一度電話してみようと思う。一方修一の実家は埼玉だ。こちらもまだ連絡がついていないが、距離的にここから近いので揺れもさほどでなかっただろうし、あまり心配していなかった。
 修一は疲れているときのパターンでいらいらしていた。孝美は修一の傷ついた足を見て以降つっこんだことは話せなくなり、相談事を明日に引っ込めた。
(以上、2014.01.05)


 地震が起きたのは金曜だった。
 翌日の土曜、孝美はまだ少し揺れるなあと思いながら、天気も良かったので、いつものように洗濯し、掃除をした。普通に生活したかったのだ。
 でも、掃除機をかけながら、浴槽をこすりながら、昨日の夜パソコンでぐるぐる検索し続けたニュースの映像がキン、キン、と頭をよぎる。昨日の夜、広太を寝かしつけた後、修一の帰りを待っている間がキツかった。8:30きっかりに、修一が会社の電話からかけてきて、もう待っていられないから徒歩で帰ると聞かされてから、到着するまでの4時間半。
ーー4時間半も!
 田町からこの家までは、軽く東京を斜めに横断することになる。
ーーどれだけ遠かったことか!暗い中、道にも迷っただろうし!
 修一は、今日も、昼前に起きてから不機嫌顔のままだったので、仔細は聞けずにいた。ただ結果論で言えば、夜半前にJR以外の鉄道の多くが復旧したので、電車を乗り継いで帰った方が早かったかもしれなかった。とそこで、昨日パソコンで見た、駅の係員に詰め寄る人々の写真が浮かんだ。
ーー昨日、駅員はどれだけたいへんだっただろう。電車が動いた後は、夜通し走らせたって言うし。
ーーそれに。
 地震の後は、全部の線路を鉄道員が直接歩いて、見て、叩いて、チェックするのだと言う。
ーー私たちは、わあわあ言うばっかりだけど。
 たいへんな仕事だなあと、しみじみ思う。災害のときに骨を折らなければならない仕事の人たちみんな。
ーー鉄道。・・・電気。・・・ガス。・・・水道。・・・自衛隊?
 掃除しながら、頭の中がくるくる回る。そして掃除しながら、薄くなっていた記憶を蘇らせた。5年半前に歩いた、灰色の街の記憶。
ーー東京の地震はまだしばらくは来ないはず。
 すると、今注意を集中させるべきことは、原発が爆発するか否かだった。
ーー原発の事故。彼女は「爆発」と言ったのだったか?
 銀色のおばちゃんが、季衣が、頭を左右に、小刻みに揺らしているのが目に浮かぶ。
 孝美は、当てずっぽうだが、歴史は日々置き換わって行くように思う。だから爆発するとは限らないと思う。
 平穏な1日に思えた。周囲に耳を澄ましてみたりもしたが、静かだった。修一は昨日の地震のとき以来映らなくなっていたテレビを直そうと苦心していたが、午後遅くなって思い立ったようにバッティングセンターに行くと言って出かけてしまった。孝美がこっそり試してみると、テレビはやはり映らないままだった。
 これは古くなって以前からときどき映らなくなっていたし、今回の揺れか、孝美が手荒に下ろしたことで寿命を迎えてしまったらしい。テレビの機能は寝室にあるデスクトップパソコンにも付いているので、孝美も修一もそれ程差し迫った思いは無かった。このテレビの機能、地震のときには全く思いつかず、インターネットばかりをぐるぐる開きまくっていたのを思い出す。どれだけうろたえていたんだろうと思う。
 パソコンは寝室にあるので、立ち上げてはいても、報道は1日中流れているのだが、耳に入るのは途切れがちになった。お昼に見たニュースでは、福島の原子力発電所は停止出来たと言っている。
ーーでは季衣の言った歴史は起きなかったのかもしれない。未来は変わったのかもしれない。
 孝美は平静を保ちたかった。だからいつものテンポで掃除をこなした。それでも、どこまでやったか不安になって同じところに何度も掃除機をかけたり、引っ掛けてお風呂荒いのスポンジのネットを破いてしまったりした。

 孝美は夕方、夕飯の買い物に出た。
 そして愕然とした。・・・マーケットの中が、空なのだ。
 買い物客は、居た。レジ打ちも居る。だがまず、生鮮食品は空だった。野菜も肉も魚も、ハムやベーコン等の加工肉も、冷凍食品も、ほとんど空だった。替わりに、それぞれのチルドボックスの中に手書きの看板が掛けられていた。「地震のため入荷が遅れています」。
ーーマーケットに来るまでは、道も、歩く人もごく普通だったのに。
 でもパニックにはなっていない。それは救いだと思った。人々が右往左往しながら、「あらぁ」「おやこれもだ」とつぶやいている。孝美は最後の2個になっていたソーセージをようやく1袋掴み、冷蔵庫にストックしてあるものを浮かべて献立を組み直した。

 夜10時過ぎになりようやくテレビを見る時間が出来た。昼見たのと同じ大御所の女性キャスターが、昼と変わらず、いやほんの少し脂がかった髪をしながら、変わらず報道を続けている。立派だなあと思った。その直後に息が止まった。
 ・・・原子力発電所が爆発していた。孝美はPCのモニターの両端を掴んで凝視した。
ーー爆発。
 爆発の、同じVTRが繰り返し流されていた。無音のVTRだった。白い噴煙が空に向かって弾き飛ばされていた。
 爆発は孝美が優雅に掃除をしていた午後に起きていたのだ。
孝美「修ちゃんっ!!修ちゃん!修ちゃんっ!!」
 修一が風呂上りのホカホカした顔立ちでベッドルームに入ってきた。
孝美「修ちゃんっ!!原発が!原発が爆発してる!!」
 修一はホカホカしたままゆっくりと首を傾げた。
修一「あ、そうだろ」
孝美「そうだろって何っ!!原発、原発が爆発したんだよ?!」
 修一はホカホカしたままベッドにどさりと座り込んだ。
孝美「何でそんなとこに座り込んでんのっ!」
 修一はホカホカしたまま孝美を見た。
修一「・・・落ち着けよ。水素爆発って言ってただろ?ちゃんと見たのか?水素爆発。原発が爆発したんじゃないって」
孝美「だから何なのっ!」
 修一は明らかにむっとした顔をした。
修一「水素爆発!原発が爆発したんじゃないって。水素爆発!騒ぐ前に良く聴けよ」
孝美「だから何なのっ!」
 孝美は泣き出した。わめき出した。
孝美「水素爆発なら放射能が出ないって言うの?そんな訳ないじゃんっ!そんな訳ないじゃんっ!!・・・ああ、お父さんとお母さんが!助けに行かなくちゃ!」
 孝美は故郷までの交通手段を考え始めた。のほほんと構えている修一を憎いと思った。
PCをインターネットに切り替え、交通情報の検索画面を出そうとした。修一は更にむっとした。
修一「お前っ!頭おかしくなったのかっ」
孝美「修ちゃんっ、車出せる?車出せる?」
 修一は、もう勘弁してくれという顔をする。またか、と。
修一「お前っ!いいかっ。聞けっ。馬鹿っ。こっち向けっ!」
孝美「修ちゃん、車出せる?ガソリン入ってたっけ?今入ってるので持つかな?」
 孝美は道路の被災情報を出そうと苦心していた。修一は孝美をPCから引き剥がした。孝美は抵抗したが、条件反射で逆らってはいけないことを察知し、驚愕の目でベッドの前にへたり込んだ。修一は対面の、ベッドの縁に腰を下ろし直した。そのまま孝美を見下ろした。
修一「いいかっ。非難が必要な人はもう非難してる!大子は非難区域に入ってない。そのくらいは俺だって見といたよ、昼のうちに」
 めまいがした。
孝美「非難区域?修ちゃんは非難区域に入ってなければ大丈夫だって言うの?」
修一「大丈夫だろ」
孝美「修ちゃんっ、修ちゃんこそっ、頭おかしくなったのっ?大丈夫かどうか分かんないじゃん!!大丈夫なわけ無いじゃんっ」
修一「大丈夫だろ!」
 孝美はポロポロと涙をこぼした。
孝美「政府がほんとのこと言う訳ないじゃんっ!枝野さんだって、菅さんだって、言う訳ないじゃんっ!」
 頭の中で季衣の銀色のへんてこな姿がぐるぐる回った。
修一「じゃ俺にどうしろって言うんだ!」
孝美「だから、お父さんとお母さんを迎えに!」
修一「お前っ、頭大丈夫かっ。連れて来てどうすんだっ」
孝美「だから、うちにっ!」
修一「うちは2LDKなんだぞ!」
孝美「あっそうかっ、うちだって危ないんだった!・・・修ちゃん、お父さんとお母さんを拾って、それから別のとこに非難しよう!」
修一「はあぁ??」
孝美「だって、季衣さんが!」
修一「はあ??」
孝美「だって、季衣さんが!」
 孝美は咳き込んだ。涙と鼻水がぐちゃぐちゃになってきて、這いながら右手を伸ばしてティッシュ箱を乱暴に取った。修一が拳を握り締めるのが見えた。噴火一歩手前だ。でも止められない。止まったらいけない。
ーーこのままじゃ皆死んでしまう。
孝美「前に、前に私が気を失ったとき、あのときのこと、話したでしょう?あのとき行った、確か2062年だった、あのとき、あのとき季衣さんが!この後東京にも大地震が来るって言ったの!!話したでしょう?ねえ?」
 孝美はふいに黙り込んだ。修一が静かになったのが見えたからだ。
修一「お前、明日病院に連れてく」
孝美「だって、季衣さんが!」
修一「お前、やっぱ頭おかしい。そうだ、あんときにさっさと病院連れてかなきゃいけなかったんだ。俺としたことが」
 修一が汚いものでも見る目付きで目を細めた、のが見えた。そして、光の園病院には精神科あったっけ、とつぶやきながら孝美を押しのけてパソコンを操作しはじめた。
 孝美は真っ白になった。修一が、大体何でお前の親と同居しなきゃならないんだ、と呟くのが聞こえた。顔も頭の中も真っ白になっていたが、聞こえた。小さな声だったのに、耳にがんがん響いた。
 孝美は床を凝視したまま目を見開いた。息を吸って、吐いて、それから立って、修一がパソコンに向かっている後方の、ベッドの縁に静かに座った。両手が行儀良く膝に乗った。
孝美「分かりました。もう言いません」
修一「信じない。お前は、明日病院に連れてく」
孝美「分かった。分かりました。もう言いません、何も」
修一「お前、絶対おかしいだろ。いいか、ちゃんと診てもらって直した方がいいんだぞ。お前は分かんないのかもしれないけど」
ーーこの人は心配しているというより、厄介ごとに巻き込まれてうんざりしているのだ。
 修一の全身がそう言っている。孝美の口の中に、苦いものが充満した。
 修一の左肘にそっと手を置いた。
孝美「分かりました。頭冷やします。・・・地震が恐かったのよ」
修一「でも、病院行っといた方がいいんだ」
孝美「お願い」
修一「だめだ」
孝美「お願い」
 孝美は真剣な目で見上げた。
孝美「じゃあ、あと1日。明日まで、様子を見てください。そんでやっぱりおかしかったら病院に行くから。ちゃんと行く」
 修一は手を止めて、身体半分孝美の方に向いた。首を傾げて値踏みする。・・・随分時間がかかった。
 そして鼻から大きくふん、と息を吐いた。
修一「じゃあ、明日の夜までだ。いいか、覚えとけ。俺はやらなきゃいけないことが色々あるんだよ。会社はきっと月曜になったら大忙しだ。だから休むわけいかないんだよ。山形の工場がどうなってるか分からないし。面倒かけないでくれよ」
孝美「分かりました」
修一「明日の夜、もいっかい様子見る。変だったら病院に行ってもらう」
孝美「分かりました」
 修一は腕を組んで、また少し考え込んだ。そして静かに言った。
修一「いいか、ほんとに危険なら避難勧告が出る。それから考えればいいだろう。心配なら大子にもういっかい電話してみろ」
 確かに大子町は非難区域に入っていなかった。それは孝美自身、直ちにインターネットで確かめた。電話は今日の朝8時にかけていた。母はすこぶる元気だった。でも修一に言われてもう一度かけた。
 やはり母はすこぶる元気だった。父も元気と言った。原発のことはこれっぽっちも気にしていなかった。家に帰れなくなって困っていた友人たちを車で送って、久し振りに長い時間運転した話を、武勇伝のように聞かされた。拍子抜けした。水道以外は止まっていると言っていた。でもガスボンベのコンロがあるし今日はそんなに寒く無さそうだし、と言って笑っていた。この辺は地盤が固いらしくてどの家もしっかり立ってるわーと言っていた。事態が呑み込めていないと思った。でも不安をあおることは言えなかった。
 孝美に車の運転が出来たら、無理にでも迎えに行きたかった。でも救いようが無いほどペーパードライバーなのだ。
ーーどうしたらいいだろう。どうしたらいいだろう。
ーー修一の前で二度と取り乱してはいけない。悟られてはいけない。精神科に送られるなんて。
 ・・・結局孝美は、修一が寝た後もパソコンで非難区域図を繰り返しリニューアルして見ていた。

 翌日の日曜は、開店10分後にマーケットに入った。
 ほっとした。昨日の土曜と違って、少ないながらひと通りのものがあるように見える。今日は修一も連れて来た。口を利きたくもなかったが、家族3人が食いつなぐだけのものを揃える必要があると思った。
 いつもは孝美ひとりで買い物を済ませるので、修一はスーパーマーケット慣れしていないというか、完全な荷物持ちだった。広太はいつもと違う時間のお出かけに、ベビーカーの中ではしゃいでいた。孝美は、少々高くても色々買い揃えておこうと思った。が、周りが考えていることも同じらしい。スーパーマーケットはいい勢いで混雑していた。
牛乳は無かった。代わりに豆乳を買った。パンも無かった。つなぎにお菓子コーナーにある“かにぱん”を買った。購入予定には無かったが、納豆が全く無いのも見えた。無いと見えると欲しい気がした。
 卵はあった。普段の2倍の値段だったが、開店直後なのに、残り10パック程になっていた。慌てて手を伸ばした。肉、魚も種類を考えず手に取れるものはかごに入れた。米を20kg買った。
 広太のフォローアップミルク・・・これが無かった。
 これには慌てた。広太はもうすぐ2歳だ。だから、普通のミルクでももちろんいいのだが、そのミルク、つまり牛乳が無いのだ。豆乳では、大人だって嫌がる人もいるのだから広太がすんなり飲んでくれるとは思えない。頭がくるくると回り、家に残っている分をシミュレーションした。
ーーくうう。多分あと1週間足らずで使い切ってしまう。
 紙おむつも無かった。ついでに近くを見ると、トイレットペーパーも箱ティッシュも無かった。そう言えば孝美たちがスーパーに入るのと入れ替えで出て行った人たちがトイレットペーパーや箱ティッシュを抱えていた。
 孝美は毎日様子を見ようと思った。
ーー育児休暇中で良かった。

 修一は米20kgを括り付けた自転車を押してとぼとぼ歩き、孝美はその後ろを、ベビーカーを押しながら帰った。途中、家の近くの狭い通りの4つ角を、20代くらいの女性が、携帯電話で話しながら大声で泣きじゃくって横切って行くのが見えた。
 家族か恋人を亡くしたのだろう。真ん前に顔を向けたまま、わーわー泣いていた。修一はほとんど立ち止まり、しかし何も言わなかった。孝美も何も言わなかった。
 女性が見えなくなった後、修一は無言で歩き出した。孝美も無言で付いて行った。
 結局日曜日中、修一とはほとんど口を利かなかった。

 次の月曜は、修一は朝早く出勤し夜遅く帰って来た。
 彼は、自分で予測した通り、地震の対応に追われた。会社の工場が被災していた。山形県長井市の工場だ。他の下請工場もいくつか被災していると言う。
 しかし彼の所属は、「開発」だ。「生産」とは直結しない部署だ。おやと思い、夕飯を出しながら孝美が探りを入れると、朝出勤してみると部の連中はのほほんといつもの仕事をしていたのだそうだ。修一はキリッと来て、総務やら営業やらを回って情報収集し、地震対策本部なるものを立ち上げて来たと言う。
ーーやっぱりね。
 修一ひとりで対策本部を立ち上げたとは思わないけど、人々の真ん中に入ってやんややんやと神輿を上げて来たのだろう、と思う。
 次の日も、次の日も、修一はずっと、朝早く出勤して行った。東京自身が電力不足に陥り、電車の本数が制限されたためだ。そして引き続き地震の対応に追われ、遅く帰って来た。
 実際修一は会社への愛が強い人間だ。Tタイヤは、大人数でも小ぢんまりでもない、ほど良い規模の会社だ。だからなのかもしれない。多くの社員が、徐々に事態と影響を把握し、地震から発する対応に、部署をまたがって精力的に動いていた。
 孝美は家で、独りぼっちで考えていた。
ーー季衣が東京でも起きると言った地震は、何時来るのか。どれほどの規模なのか。
ーーどうしたら広太を守れるか。非難しなくても乗り切れる可能性はあるのか。
ーー修一も、両親も諦めて、私と広太だけで逃げるか。
 目をぎゅっとつぶって頭を振った。
ーーそんなこと、まさか。
 でも更に考えを進める。
ーーだとしたら?・・・どこまで逃げれば大丈夫だろう?
 自分や近親の者が助かることばかり考えていると思った。何てことだろうと思った。でも周りの人や、東京に住んでいる人や、・・・もしかしたら日本全域なのかもしれない、そんな広い範囲を救うことは不可能だと思う。

 東京の食糧事情は、納豆や牛乳、パンなどの決まった商品を除いてほんの数日で改善した。広太のミルクも紙オムツも、何とかなった。孝美はパソコンを居間に移動させ、毎日パソコンTVを付けっ放しにした。
 報道番組から報道番組を渡るようにして見た。合間に、TVは最小画面にして音だけを聞くことにして、インターネットで日本や日本近隣の国について調べた。安全な場所を検討した。
ーー日本なら。北はダメだ。九州?沖縄?・・・ダメだ。亜熱帯性気候に転換するにつれて、水害が深刻化している。今年は去年よりもっとだろう。
ーー台湾?中国?韓国?
 外国は不安だった。
ーー広太に何かあったとき、病院の数は?医療技術は?
 そのうち、パソコンに負荷がかかって壊れるのではないかと思いはじめ、実際に何度かハードディスクエラーが出てびっくりし、明らかに他の用事で見る暇がないときには一度シャットダウンするようになった。

 インターネットでの検索は、堂々巡りになってきていた。そして少しずつ、TVにもかじりつかなくなっていった。
 ひとつは孝美が元々TVっ子ではなかったから。ひとつは報道が冗長になってきたから。ひとつは、被災者の様子が繰り返しレポートされ、それを見るのが辛かったから。
孝美は依然父母を引き取りたかった。あれだけ元気なことを言っていても、不安を抱えているに違いなかった。
 孝美はひとりっ子だ。両親からしてみれば、娘が半端に成績が良いばっかりに東京の大学に出してやり、すると娘はその流れで東京に就職し、そしてその流れで、東京で、しかも長男の修一と結婚してしまった、という感じ。今では年寄り二人、自分の家の分くらいの畑をやりながら、田舎で年金暮らしだ。
 土地に生活のしがらみがある訳でもないのだから、こっちに出てくるくらい何てこと無いだろうと思う。しかし引き取るためには大子がどれだけ危ないかとくとくと言い含めなければいけないだろう。
 実際、地震後3日程経ったころ、軽い口調になるよう気をつけながら、提案してみたのだ。しばらく私の家にくるのはどうか、と。すると母は、父は電話に出ないので、いつも母が答えるのだが、私たちだけ逃げるわけには行かない、ときっぱりと言った。武士のような口調で言ったのだ。
 その後TVで、被災地の人たちが自分たちの町を元に戻そうと懸命に働いている姿がレポートされているのを見た。成る程と思った。放射能がどうのこうのと言っても、とにかく自分たちの町に住みたいのだ。だめと言われるまでは住みたいのだ。
 根拠の無い予言を振り回すことは、できなかった。

 3月末、修一が所属する開発部門は、全て、当面活動停止を宣告された。その分の人員は、被災した長井の工場復旧にそっくり当てられた。
 長井の工場は、乗用車用タイヤの50%以上を生産していた。そのうち3種は今年の新製品として大々的に広告したものであり、この工場復旧は、Tタイヤ、会社そのものの生命線と言えた。修一は長井の工場に居ずっぱりになった。週末でさえ、隔週程度しか帰って来なかった。
 同じ会社とは言え、開発と生産ではほとんど異業種と言える。週末、ぐったり疲れて帰宅した修一から得る少ない情報でも、大変苦労していることがうかがい知れた。それでも修一が、陣頭指揮を取る勢いで立ち回っていることも分かった。孝美は頼もしく誇らしく感じ、しかしそれ以上に彼の身体の安全が心配だった。大小の余震が絶え間なく続いていたのだ。

 この生活は、7月いっぱいまで続いた。長井の工場は、7月半ばになってやっとひと通り生産できるところまで立ち直り、この時点で開発部門も活動再開が許可された。
 孝美の方では会社に復帰する日程を大幅にずらした。
 広太を保育園に預けることが躊躇われたし、会社の方も地震から派生する業務に追われ、2年席を空けていた孝美を受け入れる体制が整わなかったのだ。このまま辞めるか、迷った。そうして夏になった。

 この年の夏は、暑かった。酷暑だった。そんな中で、東京は、切実な電力不足に陥った。
 この年の東京の夏の夜は、暗かった。
 パチンコ屋も、飲み屋も、電気屋も、あらゆる店が、看板の電飾を落とした。新宿も、渋谷も、銀座も、六本木も、夜になると真っ暗だった。ついでに外国人の退去勧告が出されたせいで、都会を歩く人の頭も黒っぽくなった。
 エアコンの設定温度が28度に規制された。
 エスカレータやエレベータの稼働が半分以下になった。
 駅や電車の明かりも半分になった。
 デパートは、営業時間を短縮した。
 それでも電力が不足して、時間帯と地域を割り振って、計画的な停電が実施された。TVでも、インターネットでも、供給可能電力量と東京全体の使用電力量のパーセンテージが、刻々と報じられた。
 孝美の家は計画停電の地域から外れ、そこはほっとした。でも節電節電と方々で言われていたし、実際気が咎めたので、エアコンは最小限に使うようにしていた。昼は、なるべく暑くならないうちに広太のベビーカーを押して、板橋区の図書館に行った。住居の区外だが、この図書館なら電車と徒歩で行けたからだ。ただ、他のお母さんたちも同じようにしているらしく、図書館は連日、終日満員だった。

 結局、9月になって会社に復帰した。
 本当のところは、どこかの田舎に新しい職を求め、修一と別居して、広太とふたりで引っ込もうと計画していたのだ。とにかく広太を守りたかった。毎日インターネットをくるくる検索して、どこがいいか、職はありそうか、どの程度の田舎か、検討し続けた。でも、西には親戚も知り合いも居ないし、それに何だか一度は会社に復帰した方が良い気がした。何か、そんな夢を見たのだ。それで、またしても避難を先送りにし、とりあえず社に戻ることにした。
 最終的に決めたのは7月の後半、会社への申請も1ヶ月前ギリギリだった。夫にこの決断を話すと、とても驚いていた。孝美はこのまま辞めるのだと思っていたと言う。この頃は、修一は長井の出張から解放されたところで、以前にも増して毎日精力的に働き、休日にもしばしば出勤している程だった。
 孝美は会社に復帰して、休職前に居たところのひとつ隣の部の、ゴム開発二部に配属された。ゴム開発一部には修一が居るのだが、新人の配属以来、育児休暇前までは、結婚後も同じ部に居たままだった。この会社は夫婦を離して働かせるという方針が無いらしい。
 だから、古巣に戻った感じ。孝美たち事務職の女性以外は皆技術者なので、年中作業服だし、町工場風で、庶民的な温かみ、という感じの場所だ。社内の顔ぶれもそれ程変わらない。懐かしかった。
 しかし。
 2~3日して、何かときどき、キン、と刺さるような、引っかかる雰囲気に気付いたのだ。孝美が以前居たゴム開発一部は、今は孝美の2期下の熊田由美子が受け持っていた。彼女は元はゴム開発二部に居て、孝美が休職に入るときに人数の多いゴム開発一部の方に転属し、孝美が居ない間、ゴム開発二部は派遣の人にお願いしていたのだ。というわけで現在は休職前と逆の位置になるが、事務職どうし、比較的仲が良かった。
 でもこの熊田由美子が、そもそも、ときどき孝美によそよそしい感じがするのだ。他の旧知の社員も、ときどきよそよそしい感じがするのだ。それは町工場風な雰囲気の中に浮き立っているようで違和感があった。
ーー休職するって、こうなるもんなんだろうか。
 孝美は、まず、自分の処理能力が落ちたためではないかと考え、実際復帰後の手際に自信が無かったので、真面目にちゃっちゃと仕事をこなそうと集中した。
 数日して少し慣れてくると、やはり違うようだと思った。他の理由もあれこれ考え、・・・ある日昼休みが終わったときに2島向こうの夫が席を立つのが遠目に見えた。
 あっ、と思った。
 修一は隣りの席の女性に声をかけて作業場の開発センターに向かうところであった。この女性も修一に続いて席を立った。そのとき周囲の、孝美の視界に入る者たち全員が、それとなく、しかし一斉にこの2人に視線を当てたのが見えたのだ。その一瞬が、孝美の視界のフレームにくっきりと切り取られた。
 孝美が知らない女だ。
 というのは、彼女は去年の新人で、・・・技術職で、修一が教育担当をしている、・・・とその夜聞いたとき、修一本人が孝美に説明した。説明は、以上だった。修一は俺流の人だから面倒と思ったことは何もしゃべらない。孝美はへえーそう、とだけ返事した。
(以上、2014.01.15)


 孝美は翌日からこの女性の観察を始めた。
ーー違和感の原因は本当にこの子なのか?
 見極める必要があった。
ーー美人?いや、どっちかと言うと地味な方だ。
 でもほとんど聞こえないけれど臆せずものを言っているらしいし、むしろ堂々とした感じがする。2年目であることを考えるとびっくりなのだが、これはこの人に限らず、この世代全般の、うーんジェネレーションギャップっていうのかな、と思う。でも修一の言うことにはいちいち素直に頷いて、可愛いらし気に聞いている。
 修一は一般的な男性に漏れず、態度に分かりやすく出る。つまり、この女の子に対する態度や行動全て、嬉しそうなのだ。そして親しげなのだ。うわあ、と思った。憤りよりも嫌悪感が勝った。
ーーいつからなのだろう。どの程度のことが起きているのだろう。プラトニックの程度か、実行動まで発展しているのか。
 孝美は観察を進めた。どんどんささくれ立って行った。

ーー席に座っているときより、開発センターの方が自由に振舞っているに違いない。
 丸2日経って、孝美は思いついた。こんな自分は嫌だ、と、頭の端っこで思う。でも。
ーーそんなこと言ってる場合じゃない。修一は夫だし!
 でも、少し理屈が通らない気がする。
ーー確かに夫婦だけど、…こんなときばっかりって感じ?敵が出ていきなり所有欲って感じ?
 突然気付いた。自分は、用事があるとき以外は、修一とは話さないようにしている。
ーーいつからだろう。いつから話をしなくなったんだろう。
ーー・・・そうだ。あの地震からだ。
 つい何回も、瞬きをした。
ーー修一が、何でお前の親と同居しなきゃならないんだ、と言うのを聞いた、あの日からだ。…そうか。
 孝美はなんだかんだいって、俺流の修一が好きだった。だから精神科に行けと言われても、結局心配してくれているのだし、憤りは感じてもいなしてきたのだ。でも、あの言葉は心のど真ん中に突き刺さって、あれ以来、徐々に気持ちが遠ざかったように思う。修一の方でも、いつからかは定かでないが、同じだけか、それ以上か、近頃ではずい分遠ざかっているように思う。
 しかし修一は夫だ。確かに所有欲はまだ残っているらしい。孝美は用事がある風にしてクリアファイルを適当に胸に抱え、席を立った。別棟に用事があるように見せて、開発センターの横を通過する寸法だ。

ーーふつうに歩いてるだろうか。そろそろ歩きになってないだろうか。
 ああ、こんなの嫌だ、と思いながら進んで、大きなガラス越しに開発センターの中が見える場所で止まった。目が泳ぐ。じっくり探すのは無理だと思った。
 しかし見つけるのは簡単だった。見えすぎるほど近くに居た。ふたりきりで居た。確かに仕事をしている。同じ図面を覗き込んでいる。
ーー・・・この2つの頭は近すぎないだろうか。
ーー近すぎるだろう。
 と、思ったところで、センターの奥の方から男がひとり出てきて、修一と女の子を見る。どちらかに用事があるのだろう。しかし少し首を傾げて観察した後、諦めて戻ってしまった。
ーーほらやっぱり。
 その、二人を観察しているときの、男の微妙な雰囲気。ガラス越しでも容易に分かる。
 近すぎるのだ。私の見方が曇ってるせいじゃない、と確信する。開発センターの中の反対側、比較的手前で、孝美に背を向けてサンプルを検分していた他の男も、ちらりちらりと肩越しに視線を投げて修一たちを見ていた。
 ものすごい嫌悪感と羞恥心が、半々で襲ってきた。あの人も、あの人も、目新しいものを見た感じでないのだ。みんなが知っているのだ。
ーー本人は気付いてないんだろうか。本当に恥ずかしい。

 その日も修一は夜遅く帰って来た。孝美は修一の分の夕飯のおかずをレンジで温めて、目を上げないまま、すとんすとんと並べた。
ーーだから私が会社に戻ると言ったときあんなに驚いたのか。で、ほんとに残業なの?今日。ていうか、毎日毎日?
 修一は黙々と食べ始めた。何も気付かないらしい。
ーー私が怒ってるのが見えないんだろうか。
 孝美は修一の向かいに静かに腰を下ろして、頬杖を衝いた。
 お前は何考えてるんだかさっぱり分からない、と孝美は良く母に言われたのを思い出した。
ーーほんとに気付いてないみたい。やっぱり私の表情は分かりにくいのか?
ーーだけど。いや私は怒ってる。
ーーこの人のこの態度。これって鈍感?それとも傲慢なんだろうか。
 頬杖越しに、修一がうつむいて食べている頭の向こうの壁をにらみつけた。でもじっとしていられなくて、すくっと立った。目だけを下ろし、顎越しに修一のつむじをすうっと見下ろす。
ーー少し薄くなってきたんじゃないの。
 孝美は回れ右をして、ベッドルームのパソコンの前に移動した。

 チェックしているメールの中に、同期入社だった河本純からのものがあった。河本は2年前、孝美が産休に入った少し後に退職して、今は岡山の親の工場を継いでいる。プラスティック製品の工場らしいが、孝美と同じ会社で培ったゴムの知識が役立つのかどうだか、定かでない。というか、暮らしぶりや気候のことは話しても、仕事のことは聞いたことが無い。
 孝美と同期入社は、孝美を含めて5人。それなりの仲を保ち、配属されて散っても、変わったことがあったときには連絡を取り合っていた。今回の会社復帰についても、同期メンバーにはメールで報告しておいた。河本はそれの返信をくれたのだ。
 河本は、同じ会社で働いていた頃はほとんど顔を合わせない部署だったのだが、何だか愛着を感じさせる人で、同期の中でも比較的仲良しだった。大人しげで優しげ。見た目はどこから見ても普通。
ーー犬系かな。ゴールデンレトリバーみたい?いやもっと庶民的なところで、ちょっと年取った柴犬てとこかな。若い頃から。でも着々とできることをこなすタイプで、黒の角縁の眼鏡は割といい感じ。
 メールを読みながら思い返す。メールの最後には、岡山に遊びにおいでと書いてあった。常套文句なのかもしれないけれど、河本純だと、行ってもほんとに歓迎してくれそうと思う。
ーー岡山か。・・・西だな。
 そして孝美はもっと考えなければいけないことに移った。
ーーさて。いつ暴露するのがいいだろう。もう少し観察するか?…まず、どこまで深みにはまってるか見定めるか。…見定めるのにはどのくらいかかるだろう?
 ふと、他の選択肢に気が付いた。
ーー・・・それとも知らない振りを通すか?
 くっ。
 思わず笑い、声が出た。ひとりきりの部屋に響いてびっくりして、うしろを振り返ってしまった。
ーーあんなに部署中が注目しているのに。
 成程ね、私が復帰するって聞いてびっくりするはずだわ、とまた思った。
 悲しいことだった。孝美は修一が仕事をしているところを見るのが好きだった。いつもやるぞやるぞという感じで、まわりを巻き込んでテンションを上げて行く人。
 開発の仕事で重要なのは忍耐と根性・・・と、昔修一が言った。進んでるんだか、戻ってるんだか、実際戻ってると思うことの方が多いんだ、とも言った。いつでも、開発のプロジェクトには、予算と、納期=結果の提示時期ががっちり組まれていて、上からきゅうきゅう締め付けられながら、実現するんだか無理なんだか分からない新しいものを手探りして行くのだ。修一は、チームが冗長な、または停滞のムードに陥ったとき、そういう空気を一蹴するパワーを持っていた。
 頭が良い奴程、立ち止まって考え込んでしまう。でもとにかく色々やってみないと進まないんだ、とも言った。孝美はわっしょいわっしょいと輿でも担ぐように仕事をしてる修一に、男気とでも言うのだろうか、そんな姿に憧れて、同じ島で事務作業をこなしながら、私も技術職で開発に加われたら、と何度も思った。孝美は文系なのだが、高校時代は文理両方行ける感じだったし、化学も数学も好きだった。ただそれは女子高の中の話だったので男女混じった中では通用すまいと思ったし、どうも不器用で、実験のような手を動かすものになると何かしらやらかして周りに迷惑をかけていたので、結局文系に進んだのだ。そこのところは納得しているけれども、でもやはりあんな風にものを作り出す人たちには憧れた。
 ところでこの新入りは、・・・本当は綿引あやのだか、あやめとか言うのだが、覚える気にならない、とにかくこの新入りは、孝美が15年前に居たかった場所に、しゃあしゃあと収まっているわけだ。プリプリのお肌を見せ付けてだ。
ーーそうだ、15年も前になるのだ。修一も幾つ年が離れてると思ってるんだろう。
ーー全く恥ずかしい。
 そのとき、修一がベッドルームを覘いた。
修一「あのな」
 孝美はものすごくびっくりして、ぐりんと振り向いた。修一はびっくりした孝美にびっくりして、ぐいっと首を引いた。
修一「あのな」
孝美「?」
 少し間が空いたが、返事する気にならないのでそのまま固まって待った。微妙な数秒間。
修一「あのな、俺、明後日の土曜、出勤」
 孝美は眉ひとつ動かさなかった。固まっていたから。
孝美「あ、そう」
 唇だけ動かして、声を絞り出した。
修一「んで、進みが悪かったら、そのまま日曜もやるから」
孝美「あ、そう」
修一「そう。てわけでよろしくな」
孝美「ふうん。うん分かった」
修一「風呂入る」
 修一の後姿がぎこちないのは、うがった見方だろうか。
 孝美は頭の中で、風呂に向かう修一を追いかける。そして背中越しに話しかける。
ーー土曜の仕事、何人でやるんでしょうね?もちろん新入りは居るんだよね?あっふたりっきり?なんちゃって、仕事じゃなかったりして?
ーーそういや、この頃は広太のお風呂が終わってるかどうかも聞かないもんね。家族のこと、やる気無いんだね。
ーーあっ、日曜も続くのって、実はもう決まってる?もしかして泊りがけ??
 孝美の頭の中で、修一が、そりゃそうだ決まってるだろう、と答える。
ーーもしかして、ここんところの休日出勤って、皆それ?うわ、先月も実験で帰ってこなかった日あったよね?
 孝美の頭の中で、修一が、そうだよ当り前だろう、と答える。
 泣けてきた。
ーーこの人はほんとに部署のみんなから注目されていることに気付いていないんだろうか。
 ・・・気付いていない可能性は高かった。自分に没頭してしまいやすい人だから。
ーー新入りはどうなんだろう。
 彼女については、さっぱり読めなかった。
ーー天然なのか?全部分かってるのか?分かってるんだとしたら、本気なのか?それとも修一は軽くあしらわれてるのか?

 翌朝、修一は先に出ていった。これは孝美の職場復帰後パターン化されている。孝美は家の細かい片付けやら洗濯やらを済ませた後に、広太を保育園に送りつつ遅刻すれすれで出勤するのだ。
 しかし今日は出たくなかった。キッチンのまわりをことさら丁寧に拭きまくった後、ダイニングの椅子にすとんと腰を下ろした。リビングの柱時計がカチカチいう音が耳に刻まれる。
ーー本気なのか?彼は、本気なのか?
 柱時計の音が耳の奥に響いて、意識が遠くなってきた。孝美は前屈みになった。
ーーしまった。さっき冷たい牛乳を飲んでしまったんだった。お腹痛い。
 少し治まるのを待ってから、そっと立ち上がった。リビングの時計を仰ぎ見てからトイレに向かう。
ーー遅刻だな。
 ふと止まり、前屈みのままリビングに戻って広太の様子を見た。大人しいものだった。いつの間にかベビーベッドに上がり、お気に入りの端っこの方に這って行くところだった。孝美はベッドの足元の方に転がっている電車のおもちゃを取って、広太の右手に握らせた。そして、もっと前屈みになってトイレに向かった。

 孝美は結局、1時間遅刻して出勤した。技術職の男たちの大半は既に席を立っている。孝美の部の部長と課長が席に残っていて、孝美は渋い気持ちで、実際渋い表情をしたまま、まず部長に、それから課長に、遅れまして申し訳ありません、と謝罪した。
課長「何、牛乳に弱いのー」
孝美「はあ、すみません。すっかり忘れて、冷たいのを飲んでしまったんですよねー。少し古かったかもしれません、その上」
課長「古かったんだー。まだ暑いからねー。気を付けないとねー」
孝美「はあ、ほんとにすみませんでした」
 まろんとした人だなあと思う。いい会社なんだよなと思う。ここにスキャンダルを持ち込んでいるのかと思うと、しみじみ申し訳なかった。

 1週間観察を続けた。でも進展の様子も、びしっと指差すような証拠の尻尾も、掴めなかった。自分の意識と関係無いところで、時間がとろとろと流れていく。
ーーどうなってしまうんだろう。
 歯がぎりぎりする。
ーー結末が見たい。もう何でもいいから。
ーー鏡を立てれば見れるだろうか。
 ふっと気付いて、びっくりした。
ーー未来を見たいの?まさかあれをやりたいの?
 あれ=未来に落ちる。
 家の鏡は、6年前のあのとき以来、最小限に減らしてしまった。今いちばん大きな鏡は、玄関先の靴箱の隣りにある、幅20cmの全身が映る細長いものだけだ。この幅なら鏡どうしが映しあうことは無いだろうと思って、6年前に取り替えたのだ。洗面台の鏡は横に大きいが、左右からタオルを下げて狭めてしまっている。
ーーこれを拡げるか。手鏡・・・無いことは無い。化粧はする訳だし。
ーーでも本当にやりたいの?
ーー自分の見たい時間の、見たい場所に行ける訳じゃないだろう。しかも戻り方が分からない。コントロールできないならやれない。
ーー・・・コントロールできないんだろうか?
 ふっと視線を感じて横目で見ると、課長が心配そうにこちらを見ている。孝美は慌ててメールの整理に入った。

孝美「修ちゃん、疲れてるとこ悪いんだけどさ」
 修一はひとりで食べている夕飯から顔を上げた。今日も22時過ぎに帰ってきて、取り分けておいた一人分を孝美が電子レンジで暖めて、並べたところだった。孝美は向かいの椅子にすとんと腰を下ろす。
孝美「前――のこと聞いてみてもいい?」
 修一は箸を止めて怪訝そうに見る。
修一「前?」
孝美「うん。前。6年前かな」
修一「6年前?」
 6年前と聞いて何だか少し安心したように見える。修一はこのところ、何にしろ探り探り話すような気がする。孝美は少し癇に障って言い淀んだ。
 孝美は、6年前に洗面所で気を失ったとき=未来に入り込んだとき、修一が何かをしたことで気が付いた=こちらに戻れた、と思う。その詳細を知りたかった。かなり遠回しに質問したつもりだったが、修一は嫌な顔をした。よく覚えているらしい。そして、思い出したくもないらしい。
修一「何でそんなこと聞くの」
ーーやっぱり聞かれた。そうだよね。何で今更、だ。
孝美「いや、何でってこともないんだけど」
 孝美はTVで倒れた人の救護方法をやっていたので、自分のときはどうだったのかなと思ったのだ、と作っておいた説明をでっちあげた。
 修一の記憶によると、呼んでも手を叩いても反応が無かったらしい。まずいと思って救急車を呼んだ後、洗面所に室内干しの洗濯物が所狭しと垂れ下がっていたので恥ずかしくなり、孝美をリビングのソファに運んだのだそうだ。以上。
 孝美は適当に礼を言った後、こりゃだめだと思った。微妙に場所を移動したことが鍵なのかもしれないが、何の決め手も無い。
ーーそもそも入り込むことは危険なのだから、未来に行くなんて考えるのは止めるか。でも。身体ごと入るのではなく、うまく覗き込むことだけできないだろうか。
ーーそうだ。未来が把握できれば、もしこの先別離が必要なのなら、構えて準備できる。考えたくないけれど。でも。
ーーそうだ。未来の、東京の地震が何時来るか分かれば、西に非難するためのリミットも分かる。
ーーそうか。未来を覘くことが出来たら。必要なパーツは何だろう。
ーー鏡、室内灯。他には?条件は?明るさと角度・・・。強弱をコントロールして「覘く」ことだけできるようにならないだろうか。
 孝美は暇な時間全てを費やして、未来を覘く方法と可能性に没頭した。幾つか仮説を立て、しかし実験には至らなかった。入り込んだり、戻れなくなるようなことがあってはいけないからだ。もちろん孝美自身恐いと思うからだが、でも。
ーー・・・何よりも広太が。
 まる3日間考え続けた後、夜、孝美はベビーベッドで眠ってしまった広太を見つめ、ため息をついた。いつものように、彼をそうっと抱き上げ、寝室に移動させた。

 2週間が経過した。
 河本純からまたメールが来た。
 「再来週、10/16の週に、遅い夏休みということでそちらに行きます。2年前に岡山に引っ込んで以来、4日も東京入りするのははじめてです!都合がつく人、一緒に飲みませんか? 10/16〜19の予定。飲む日は、皆の都合いい日に会わせます(笑)――」
 同期5人全員への同報送信だった。河本純は、いつも何だかほっとする。ちょっと涙が出そうになった。孝美は返信で参加を伝えつつ、幹事を買って出た。

 田町の会社近く、2年前にも良く行っていた普通の居酒屋にした。孝美が会社を一緒に出た2人と入っていくと、河本純は既にひとりで奥の方に座っていて、にこにこーっと笑って右手を上げる。
同期1「よっ次長!」
同期2「よっ課長!」
河本「いやいやいや」
同期1「えっ違うの?えっ社長?」
同期2「えっ社長?え、社長かよ?おい」
河本「いやいやいや~」
同期1「いやいや偉くなったもんだな、おい」
 小突きあいながら席に座る様も、みんなそれなりにおっさんになってきたなあと思いながら、孝美もにこにこ席に着く。
孝美「幡錦君は残業で遅れて来るって」
河本「おおー、諸橋(孝美の旧姓)久し振りー。幹事頼んじゃって、ありがとなー」
孝美「いやいや。元々同期会は私がいつも幹事やってたんだもの」
河本「いやいや~、それは諸橋が紅一点で事務職だったからさ。つい、さー。今は子供居るし大変だったろう」
孝美「いやいや大丈夫。いつもの店予約しただけだからね」
河本「いやいや~、それでも全く面倒かけたねー」
孝美「いやいや~」
 孝美はにこにこ顔のままで、ずっと、河本と「いやいや~」を繰り返した。
 各々てきとうに、メニューから目に付いたものをぽんぽんオーダーする。そして普通にビール生ジョッキで乾杯。
同期2「そんで河本、お前彼女とこっちに来てるんだろ」
同期1「えっそうなの?」
孝美「ええ?」
 事情通の同期はにやにや笑いながら全体を見渡す。
同期2「しかもその彼女は、フィアンセだ!」
河本「いやいや」
 河本は年寄りのように背を丸めて小さくなった。
同期1「向こうでgetしたってこと?」
孝美「どんな子?どんな子?」
同期1「どーして今日連れて来なかったのよ?」
 皆の視線が集まって、河本は一層背を丸くした。
同期2「ええーでは、恥ずかしがりの河本くんに変わり、私から紹介しましょう!――いいよな、河本?」
河本「ええー。どうぞ、お願いします」
 河本は首をすくめて、右手で促した。
同期2「まず何?名前。良し名前な。名前は、ちゃんと覚えて来たんだぞ。名前は、えー張替さかえ・・・で良かったっけ?おい」
河本「はい、そうです」
同期2「次、何?年?・・・年。それは俺も知らんな。幾つだ」
河本「――2、26です」
 騒然となる。犯罪だろー、やりやがったー、溜まらんー、などなど。
同期2「や、まだある。まだある。なあんとその彼女は、――市長のひとり娘だそうだ!」
 騒然となる。
河本「ちょっと、三池、話広げ過ぎ広げ過ぎ」
同期2(三池)「え?違ったっけ」
河本「えーと、――市議会議員の、娘です」
 そんだってすごいだろー、さすが社長―、重責背負っちゃったなー、お前も議員立候補かあ、などなど。聞き込みが続く。

 ひと通り腹も膨れて、ばらけた感じになってきた。メンバーのひとりがトイレに立った。
河本「諸橋、子供置いてきて大丈夫だった?」
孝美「う~ん。分かんない。正直なところ。はじめての経験なの。旦那に頼んでは来たけどね」
河本「まだ小さいからなあ。幾つになったんだっけ?」
孝美「んー、2歳。と、・・・7ヶ月」
河本「そっかあ。そんじゃ早目に帰る感じ?」
孝美「そうねー、あと30分がMAXかな」
河本「悪かったね、今日は」
孝美「ううん」
 孝美は思わず真剣な目で河本を見てしまった。それから、あ、と思って目を逸らした。
孝美「ううん。楽しみにしてた。実のところ」
河本「――」
孝美「このところ色々あって」
河本「――」
孝美「同期は、勇気付けられる」
 河本はこちらを見たまま少し考えるようにして首を傾げ、でも何も言わなかった。その間が何だか温かい感じで、孝美は涙の粒を落としてしまいそうな気がして、トイレに立った。メンバーのひとりが河本にすり寄って来た。
同期1「あのさ。諸橋、今結構大変みたいよ」
河本「?」
同期3(幡錦)「何、高齢出産だから?」
同期1「ま、それもあるかも。・・・って、そうじゃなくて!」
 右手の甲でピシッと叩いてから、続ける。
同期1「諸橋の旦那のところに去年来た新人がさあ」
同期3「あー知ってる!綿引綾乃だ。東工大の院卒ちゃんだ。大型新人らしいよねえ、綿引綾乃」
 そのとき、トイレに立っていたひとりが戻ってきた。
同期2(三池)「何、綿引綾乃?」
同期1「おっ、お前もか」
同期2(三池)「そりゃお前、綿引綾乃って言ったら誰でも知ってるだろう。何たって、地震のさ、長井の工場の後処理で、くるくる動いて大評判だ」
河本「ふうん。それが諸橋の旦那のところに居るの」
同期1「そうそう」
河本「諸橋の旦那ってことは、諸橋と同じ部でもある訳?」
同期2(三池)「いやいや。諸橋は今は“ゴム二(ゴム開発二部)”さあ。で、旦那はゴム一(ゴム開発一部)」
河本「そんで何が大変なの?」
同期1「ん。諸橋の旦那は、その新人ちゃんの、あ、今は2年目か、その教育係なんだと」
同期3(幡錦)「えっ、そうなんだ。俺知らなかった」
同期1「お前、これ、ここんとこ社内じゃ軽く有名」
 ここで話し手が前屈みになったので、皆一斉に顔を突き出した。
同期1「そんで、諸橋の旦那はその新人ちゃんとデキてる」
同期3(幡錦)「えーっ!!」
同期1「・・・んじゃないかと言われてる」
同期3(幡錦)「えーっ!えーっ!そうなんだ。うわあ知らなかった」
同期1「や、ほんとのところは知らないよ。真面目な師弟関係かもしれん」
同期2(三池)は神妙にうなずいた。河本は口をへの字にして頬杖を衝いた。
同期2(三池)「ふん、お前(河本)がいちばんたかみーと仲良かったけど、やっぱ知らなかったか」
河本「――仲良かったっていったって、岡山だから。なあ。」
 そこで孝美が戻ってきたので、皆真っ直ぐに座り直した。
孝美「あのねえ、悪いけど私、これで帰るわ」
同期2(三池)「何、子供?」
孝美「うん。今電話かけたらさー、やっぱ大変みたいだから」

 河本は店の外まで送って来た。
孝美「ごめんねー。お会計まで働けなかった」
河本「いやいや、後は私に任せてください」
孝美「そんな、河本くんお客様なのに」
河本「いやいや、俺は言いだしっぺの招集者」
 孝美は腕時計を確認してから、せわしなくカーディガンに袖を通した。
河本「たかみー、俺、またこっち来ると思うから」
孝美「えっそうなの」
 河本は気を遣う方なので、ごくたまに、慣れた間だけ、たかみーと呼ぶ。
河本「今回のはねえ、夏休みって書いたけど、ほんとのとこ、メインの目的は見舞いなの。世話になった親戚の」
孝美「あっそう」
河本「うん。そんで、その人が心臓のパイパス手術受けるって言うから、あと何回か来ないといけない」
孝美「ふうん。あ、じゃ婚約者紹介したんだ」
河本「え、さかえ?いや?あの子はそういうの好きじゃないから」
孝美「?」
 河本は少しもぐもぐと言葉を選んだ。
河本「あの子はこっちに遊びに来たかっただけ。俺の用事に合わせて付いて来たの。今夜も楽しく六本木めぐりさあ、多分」
 ギャルの姿形がぼわんと浮かんだ。浮かびつつ、孝美は駅まで急ごうとして半歩踏み出した、そこで河本が呼び止めた。
河本「困ったことがあったら相談乗るから」
孝美「え」
河本「次来るとき、またメールするよ」
孝美「え」
河本「それと連絡して。困ったことがあったら」
 孝美は頭の中で十分に消化できないままお別れし、駅までダッシュに入った。河本は首を傾げるようにして立って、右手を招き猫のようににぎにぎしながら、お疲れ、と言った。
(以上、2014.01.25)


ーー真実がどうかなんて、分からないし、今となってはどうでもいい。
ーー毎日顔を突き合わせる場所に出勤したくない。何よりも、修一よりも、私を見る周囲の目に耐えられない。このままだと鬱病にでもなりそうだ。
 11月に入り、孝美は目に見えて衰えてきた。修一も多少痩せたように見える。でもお互い核心には触れずにきた。
 広太が、男の子にしては手が掛からないのが救いだった。夜泣きもしないし、ぐずることもあまり無い。心配したと言えば、歩くのもしゃべるのもまわりより遅かったので、知恵遅れなんじゃないかと思ったときくらいだった。今は普通の子と同じレベルに追いついた。
ーーそうだよねー。私の子だもんねー。マイペースなんだねえ。
 ベビーベッドは、地震前の形に戻し、足側と右袖を壁にくっつけ、リビングに向かった左袖の側は柵を取り外してあった。孝美は床にぺたんと座り込んでベビーベッドの縁にもたれかかり、広太を見つめていた。広太はベッドの中でお気に入りの電車のおもちゃを抱え、感慨深げに天井を捉えながら、今まさに目が閉じようとしているところだ。涙がこぼれてきた。このところ毎晩こうだ。孝美はもうコントロールするのを諦めていて、水分が流れ出るまま、止まるまで広太を覗き込んでいた。柱時計が2~3小節くらいの短いメロディを流した。
ーー9時半か。…でも私は。
 孝美は立ち上がった。
ーー鬱病になんてなってはいけない。広太を守らなければいけない。
ーー修一はあと1時間くらい帰って来ないだろう。
 孝美は洗面所に行き、室内干ししてある洗濯物を幾つか握って乾き具合をチェックして、それからベッドルームへ移動し、PCを立ち上げた。
 今はもうPCのTV機能は使用できなくなっていた。アナログ放送用のチューナーしか搭載していないから。でもWindowsXPは優秀で、インターネットやメールの機能は十分果たす。孝美は習慣に従って、メールのチェックから入った。
 迂闊に登録したダイレクトメールがいっぱい、に紛れて、見慣れないメールアドレスが見えた。件名で、・・・あっ河本くんだ、と思った。マウスのコロコロでどんどんスクロールしている間だったから、押しやられて画面から消えてしまった。戻して、河本のメールを引っ張り出す。
 携帯電話からだ。
 「明後日そっちに行く予定です。前に話した親戚の件、手術日に近親が詰めることになったので。諸橋の方はこの頃どうですか。よければ連絡ください。あと、念の為僕の携帯telも知らせておきます。Xxx-xxxx-xxxx」
 最小限の文面になっていた。宛先が夫婦共有のメールアドレスだから、気を遣っている。
 「諸橋の方はこの頃どうですか。よければ連絡ください。」
 やっぱりこの間の飲み会で、同期連中から何か聞いたのだ。別れ際の文句を思い出した。優しい人なんだよな、としみじみ思う。
 孝美は河本のメールを自分の携帯電話に転送しようとして、ちょっと考えた。
ーー送信履歴が残る。
 やっぱり手入力で、自分の携帯電話に河本のメールアドレスと電話番号を登録する。
ーーこれで良し。
 携帯電話から返事を書き始めた。
「連絡ありがとう」
 ところがここで、また涙がこぼれてきた。携帯のパネルに落ちた水滴をこすりながら続けて書く。
 「ところで、これ、婚約者に怒られないの?」送信。
 すぐに返事が来た。びっくりした。
「お疲れ~。ホットライン接続〜!怒られないのって、何?で、どう」
 続けてチャット並みのメール数往復。
孝美「どうって何」
河本「その後どう。困ってることとかあったら、そっち行ったとき話聞くよ。溜まってることとか」
孝美「でも、手術の立会いに来るんでしょう。忙しいでしょう」
河本「そうだけど、ちょっとお茶するくらいなら可能」
 孝美はメールを見つめて1分以上考え込んだ。大きく決意の息を吐いて、河本の携帯に電話した。
孝美「電話にした。今大丈夫なの」
河本「おお。生声。――大丈夫だよ。もう家で一杯やってくつろぎ中。こんなのめずらしいんだけどね」
孝美「ひとりなの」
河本「うん。そっちは?」
孝美「私もひとり。あっ広太がいるけど」
河本「長内さんは残業?」
孝美「多分ね」
河本「・・・多分か」
 河本は静かに繰り返した。
孝美「あっでも、忙しいのは忙しいらしいの。ほんとに。こないだ納期だったヤツ、ダメになったから。これがかなりおおごとだったらしくて」
河本「そうなんだ」
孝美「うん。透明のゴムの開発、ずっとやってるんだけどさあ。ここんとこ何年もね。それが、いよいよ仕上がったーってなって、納期直前に一応やった確認テストで、紫外線にちょー弱いのが発覚しちゃったんだって」
河本「紫外線」
孝美「うん。紫外線はテスト項目に入ってなかったんだって。でもいちおうやっとくかってなってテストしたら、すごい勢いで発熱してボロボロになっちゃったんだってさ」
河本「ふうん」
孝美「確か2日後が納期だったのよ。で、大騒ぎ。・・・ま、私は隣りの部から見てただけなんだけどね。遠目で」
河本「透明、か」
 河本が電話の向こうで呟いた。それから、この間の宴会のことや、親戚の病状の話に移った。
河本「だからさ、帰る前だったらちょっと会えるよ。東京駅のあたりとかに来てくれられるんならベストだけど。すごい限定でごめん」
孝美「ううん」
河本「いや、たかみー忙しそうだな。順調ならいいんだ。必要無いなら真っ直ぐ帰るし」
孝美「ううん!」
 河本は驚いたようだった。
河本「――今話してくれてもいいけど」
孝美「あっごめん。ううん。ううん。じゃ、河本くんが時間取れるなら、こっちに来たときに、ちょっと会いたい」
 日ごろ近くに居ない人に話すのがいいのだ。
 孝美は何回もありがとうを言ってから電話を切った。

ーー遅刻だ。
 2日後。田町駅、孝美は発車の音が鳴り終わった山手線に飛び乗った。乗降ドアの上の掲示板を凝視して東京駅までの乗車時間を確認した。
 4個・・・9分か。帰宅のラッシュアワー圏内だから、やっぱり少し遅刻しそうだ。
 密着している中で細く動いて携帯電話を取り出した。

 河本は待ち合わせのJR東京駅八重洲南口改札の、人込みから少し離れたところに立っていた。見つけやすいところを探して立ってくれてる、と思いながら改札へダッシュした。
孝美「ごめんねえー」
 河本は、ズームアップされてくる孝美をほんのり笑って迎えた。
孝美「遅刻だ」
 河本が腕時計を見た。
河本「だいじょぶ。5分しか遅れてないよ。今7時20分」
孝美「仕事終わんなくてさー。もう猛ダッシュ」
河本「何、何時に出たの」
孝美「んー」
 と言いながら二人とも歩き出した。
孝美「あっ河本くん、悪いんだけどさ、1個買い物行きたいんだけどいいかな」
 河本が静かに首を傾げるのを見て、孝美は思い出し、慌てて訂正した。
孝美「あっ河本くんは手術の立会いしてきたんだった。そうだ、疲れてるんだった」
河本「いや、それはいいんだけどさー」
孝美「?」
河本「買い物してるとお茶する時間無くなっちゃうと思うよ。8時半の電車だから」
孝美「あっそうか。うん――いや」
 孝美は少し言い淀んだ。
孝美「うん、でも――やっぱり、歩いて良ければ買い物行っちゃだめ?――かしこまっちゃわない方がいいの。話すのに。向かい合ってさ」
河本「あっそう。じゃ、それなら散歩する?」
 孝美がほっと息を吐いた、のは、河本にも見えたらしく、また静かに首を傾げて微笑んだ。
ーーやっぱり疲れてる感じだな。
孝美「ん。ありがとう。ありがとう。じゃチョコレートショップ。ちょっとだけ、そこ行っていい?あそこだったら中でお茶出来るし」
 で、孝美は結局予定を通してしまい、河本を明治屋のチョコレートショップに連れて行った。
孝美「今日、保育園に延長お願いしちゃったから、差し入れしないとと思って」
河本「何、ここ有名なの?」
孝美「そうだよー。一回来たかったんだあ。河本くんもお土産買って行けば」
 ところで買い物はできたが、喫茶は7時半までと言われ、腰を落ち着けることができなかった。仕方なくふたりでとぼとぼ東京駅に戻り始めた。
孝美「すみません」
河本「いいよー」
 河本と居ると、何だか話し方がゆっくりになるなあと思う。田舎に引っ込んでゆったりしたのかなあとも思う。元からこんな感じだったようにも思う。
孝美「河本くん、岡山、いい?」
河本「ん?岡山?いいよー」
孝美「岡山、西だよなあ」
河本「西だよー」
孝美「岡山、住みやすい?」
河本「んー、そうだなあ。――いいんじゃないの」
孝美「岡山―」
河本「来てみるー?」
 孝美はふと立ち止まった。
ーーそうか。岡山か。
孝美「行ってみたくなってきた」
 河本も立ち止まって、にやにや笑った。
河本「東京より暑いかもしれないけどね」
 それはこの際いいのだ。
孝美「行ってみたくなってきた――もし良ければ住みたくなるかも」
河本「えっ」
 河本は面食らって、また首を傾げる。
ーーしまった。爆弾発言だった。
 でも続いて言葉が出た。
孝美「あっ河本くんにはお世話をかけないようにするから!――広太は岡山まで旅できるかな・・・」
 河本は、住むって?とつぶやき、今度は反対側に首を傾げる。
河本「たかみー」
 孝美は知らないうちに立ち止まり、突っ立って、すっかり考え込んでいた。河本は数m先に進んでしまってから戻って来た。そして隣りに突っ立った。…少し待った。
河本「たかみー、・・・もしかして別れる気なの」
 孝美の方がびっくりした。
孝美「えっそうか」
河本「そうか、って・・・」
 河本は、孝美のびっくりにびっくりした。
ーーそうか。説明。説明が必要だ。西に住みたい理由の説明。
孝美「別れる別れないよりも、西に引っ越すことが必要なの」
河本「はい?」
ーー説明。説明。
孝美「――東京におっきな地震が来るから」
ーーあっ失敗した!
河本「はい??」
 大きめの交差点に差しかかろうとしていた。孝美は取り敢えずまた歩き出し、信号が点滅し、赤になろうとするのを目の端で捉えた。河本が少し遅れて追う。やっぱり渡るのを止めた。信号待ちになった。
ーー説明。説明。
孝美「あのね、東京におっきな地震が来るのよ。もうすぐ。来年か再来年か、もっと後かもしれないけど――私の頭、おかしいって思ってる?」
河本「いや?――いやでも・・・」
孝美「――私の頭、おかしいって思ってるでしょう。うちの旦那なんか、これ言うと激怒する。でもでもね、もうすぐ」
河本「いや・・・」
 河本は硬直して考えてから、右の掌をずん、と出して「STOP」のマークをした。孝美はぐっと詰まった。ふたりで沈黙したまま信号を渡る。東京駅が見えてきた。
河本「八重洲の地下街にドトールかなんかあるよね」
孝美「えっ、良く知らないけど。でもあるでしょう」
 河本の方が半歩先に立って歩き始めた。
 八重洲地下街に向かって階段を下りはじめたところで、河本が話し出した。
河本「取り敢えず、たかみーが話したいことは聞くよ。そのまんま聞く。あんま時間無いけど」
 孝美は無言で河本を見た。
 地下街にスターバックスコーヒーがあった。二人はほとんど無言で入って行った。
河本「全く、こんなになるとは思わなかったな」
 河本は入口すぐ近くの席に、ずん、と腰を下ろした。孝美は俯きながら、向かいにぎくしゃくと座った。
河本「じゃ、さっきの妙な話の続き、聞くよ。で、どうして東京に大きな地震が来ると思うの。TVかインターネットに出てたの」
孝美「河本くん。――私、正夢を良く見るのよ」
 孝美は俯いたまま、溜息と一緒に言った。
河本「正夢」
 河本は考え込みながらコーヒーにミルクと砂糖を入れた。顔にまだSTOPマーク=拒否マークが出ている。孝美は先をつながずに待った。仕方無さそうに、河本から話をつないだ。
河本「正夢。ってことは、当たるんだ」
孝美「そう」
河本「どのくらい見るの」
孝美「ええと・・・。でも1年に1個か2個・・・。良くって言わないか・・・」
 孝美の頭の中に、以前TVに出ていた南米の正夢の予言者が浮かぶ。
ーーあの人は毎日幾つも見ると言っていた。
 また仕方無く、河本から話をつないだ。
河本「じゃその、東京の地震の他はどんなの」
孝美「ええ?どんなのだろう・・・」
 突っ込んで聞かれて面食らった。
孝美「・・・普通は、ごくちっちゃいのよ。普通に生活してて、あれ、これ前に見た、って思うの。そのくらい――例えば」
ーー軽いところで、分かり易いもの。分かり易いもの。
孝美「例えば、昔の話だけど、結婚式。私の。入場して、雛壇でお辞儀をして座る瞬間。その景色が、あっこれ見たことがある、って。・・・えーと、他には、会社。配属されて1週間経った頃の夕方、ひとりで座ってたとき、夕暮れで西からお日様が照ったとき、その光景まるごと前に見たのを思い出した」
 孝美が言い難そうに言葉を切った、その顔を、いぶかしげに河本が覗き込んだ。ちっとも分かりませんが、何の話ですか、て顔だ。
ーー分かったわよ。言います。
孝美「・・・東北の、今年の春あった大震災も、・・・知ってた・・・」
河本「知ってた?」
 河本にしてはめずらしく大きな声だ。孝美は小さくなった。
孝美「・・・いやでも!でもね。日にちを知らなかったの。だから・・・」
 孝美は自分のバッグの持ち手をぐにぐに、よじりまくった。
孝美「・・・来たときはほんとに驚いた。見たのは6年くらい前だったから・・・」
河本「6年??」
 河本はふんっと鼻から息を吐いて、勢い良く背もたれに身体を投げた。孝美を見たまま。
孝美「・・・東京の地震も、おんなじときに、その、6年前に、聞いたの。来るって」
 河本は動かない。
孝美「・・・富士山も噴火するって」
河本「聞いた?誰かに聞いたって言った?…誰に聞いたって?」
孝美「・・・えと、あんときは、プチタイムスリップっていうか、そんな感じになって、向こうで助けてくれたおばちゃんが教えてくれた」
 河本の左の眉毛がぴくっと上がった。
河本「はい?」
 やっぱり。話しすぎだ。
 孝美は後悔の波に落ち込んで口をつぐんだ。背を丸くして、沈黙して待った。河本は取り敢えず考えをまとめようとしているらしかった。
河本「えーと、さっき歩いてたときの話と総合すると、つまり、東京に地震が来るから、その前に西に引っ越したいの?そんで、じゃあ、そしたら、諸橋は、別れるんじゃなくて、旦那も子供も連れて、引っ越したいの?」
 孝美はぱっと顔を上げた。
孝美「そうしたい」
 でもすぐに顔が元の位置に沈んだ。
孝美「そうしたい。そうしたいけど・・・いつ起きるか分かんないし・・・これ言うとうちの旦那激怒するし・・・それじゃなくても今うち、ぐちゃぐちゃだし・・・でもすっごく恐い・・・でももうすぐ来るの。もうすぐ、と思う・・・」
 ああ、支離滅裂だ。
 河本はいつの間にか両腕をぎゅっと組んでいる。
河本「何だかな」
 孝美は唇を噛んで黙った。河本はしばらく動かなかった。孝美は居心地が悪くてたまらなかったのだが、合わせて動かず我慢していた。
 河本は更に数回、「何だかな」を繰り返した。
河本「俺は今日は、旦那の愚痴かなんかを聞かされると思って来たんだぜ」
 河本は孝美をちょっと見てから、膝に視線を落とした。
河本「さっき、旦那は激怒するって言ったよな」
孝美「うん」
河本「じゃ、旦那にもこれ話して、信じてもらえなかったんだ?」
孝美「うちの旦那には」
 孝美は息を吸ったところで一瞬固まった。
孝美「うちの旦那には、地震のことは、6年前に、その、夢ってか、プチタイムスリップのすぐ後に、話したよ。でも」
 河本は腕を組んで背中を丸めたまま、孝美を見上げた。
孝美「――病院に連れて行かれそうになった。精神科だって」
河本「――」
孝美「そんで、すいませんって謝った。もう言いません、って。じゃなければ、ほんとに連れてかれてたの。こないだの地震の後だって!――もいっかい、6年前の話して、避難しようって言ったの!だって、次のは、東京に地震が来たら、ほんとに死んじゃうもん!――でも。また病院に連れて行かれそうになった。本気で」
 孝美はぐにぐにしていた手を止めて、呆然と見つめた。
孝美「そんで、すいませんって、また謝った。もう言いません、って」
河本「――まっそれで」
 河本は背を少し真っ直ぐにした。
河本「それで、その旦那ので、普通だろうな」
 孝美は歯を食いしばった。河本は孝美を斜め上から見つめていた。その時間が長く長く感じられた。でも動けなかった。
河本「ちょっと考える」
 河本が組んでいた腕を緩めた。
河本「ちょっと考えて、また連絡するよ」
 孝美は判断に困って、見上げた。
河本「今日は無理だ。キャパシティ・オーバー、俺」
 河本がコーヒーのトレイに手を掛ける。孝美は首を傾げて、河本を見つめた。
河本「考えてから、また後で連絡する。そうする。ごめんな」
 河本が腕時計を見た。
河本「うわっ、嘘だろ」
孝美「えっ何」
河本「乗り遅れる。やばい」
 河本は、たかみ―悪いけど俺のも片付け頼む、と言い捨ててスターバックスコーヒーを飛び出して行った。
(以上、2014.02.02)


 でも、3日経っても、1週間経っても、河本から連絡は無かった。孝美は毎日じりじりした。そのまま言い過ぎたと思った。「避難」でなく、「夫との別離」が目的と言うべきだった。
ーーでも、できるなら、今でも修一を連れて、父や母も連れて、避難したい。
 西には親戚も知り合いも居ない。河本だけだ。
ーーでももう無理だろう。では人に頼らず、広太と私と、ふたりだけで飛び込むしかないか。
ーーそれなら岡山でなくてもいいわけだ。それなら。鳥取?島根?
 孝美は漫然と出雲に興味を抱いていた。神有月があるところ。神様が集まる場所。馬鹿みたいと思われるかもしれないけれど、そこなら守られる感じがするから。しかし島根は過疎地域のはず。飛び込んだところで、上手に仕事を見つけられる見込みは・・・低そうだ。それでももう、居ても立ってもいられない。孝美は毎日少しずつ身の回りの荷物を整理し、旅立ちの準備を整えて行った。
 ところで、退職するには1ヶ月前に上司に報告しなければならない。
ーー今月末までに課長に話して、12月末で退職。これを死守しよう。それまで地震が来ませんように。修一には、どうしよう。…離婚届をもらってきておくべきだろうか。
 修一と綿引綾乃との関係は、今だにしっぽが掴めなかった。これだけ掴めないのだから、しっぽなんて無いのかもしれなかった。
ーーでももう、どうでもいい。やってられない。自分が壊れる前に、修一から離れるべきだ。修一もそれを望んでいるはず。離婚でも、別居でも、どっちでもいい。

 夜9時43分。孝美は柱時計を見上げた。河本と東京駅で会ってから2週間が過ぎようとしていた。
 修一はもちろん今日も帰って来ていない。近頃では残業云々というより、家に帰りたくない感がありありと見える。孝美はいつものようにひとりの時間を使い、インターネットで今日は島根の求人情報を検索した。
 バッグの中の携帯電話が振動した。PC操作用に置いているちゃちな椅子から急いで立ち上がろうとして、足がもつれた。椅子の脚に向こう脛をぶつけて、顔をしかめめながら脚を引き摺って、携帯電話が入っているバッグに辿り着く。・・・河本からだ。
河本「よ。今、平気?」
孝美「・・・うん」
 河本の声は、むしろ沈んで聞こえる。孝美よりも。
 孝美はぺたんと床に女の子座りをして電話を耳に押し付けた。
河本「長内さんは?まだ?」
孝美「・・・うん」
河本「ごめんな。連絡しないで」
孝美「・・・うん」
ーー何も期待したくない。
 河本にも。誰にも。
河本「じゃあ、今話してても平気?」
孝美「・・・うん」
 河本はため息を吐いた。
河本「ごめんな、このところ忙しくて連絡できなかった――いや。・・・って言おうと思ったんだけど、いや。・・・正直なところ言うとさ。――いや、分かんないんだよ」
孝美「うん」
河本「ごめんな。俺、こないだ会ったとき、旦那の相談されるとばっかり思ってたから。すごいびっくりしたんだよ」
 孝美は、あっ、と思った。
孝美「それは。ううん、ううん、私が悪いの。・・・私も、旦那のこと、相談ていうか、話そうと思ってたんだから」
河本「え、そうなんだ」
孝美「うんそうなの。それが何だか、つい突っ走ってしまって・・・」
 言わなくていいことを「どあたま」に言ってしまったのだ。
孝美「言わなきゃ良かった」
 河本はそのまま繰り返した。
河本「言わなきゃ良かった、って」
孝美「?」
 少々の沈黙。
河本「・・・今、何してたの。忙しいとこだった?」
孝美「今?・・・ううん。PCで検索してた」
河本「検索」
孝美「うん。検索」
河本「何の」
孝美「・・・えと、今日は・・・、島根の求人情報」
 孝美は電話口で眉間に皺を寄せた。
河本「島根。・・・じゃっ本格的に西に引っ越す計画なんだ?」
孝美「・・・それは。・・・そう」
河本「島根。岡山は止めたんだ」
孝美「いや?・・・違うよ。・・・いろんな選択肢をね、検討してるの」
河本「ふうん」
孝美「だって!やっぱ河本くんに頼っちゃいけないでしょう?」
河本「そう思ったんだ」
孝美「そうだよ。だって!河本くんに頼っちゃいけないでしょう?第一、河本くん結婚するんだし」
河本「そうか」
孝美「そうかって・・・」
 少々の沈黙。
河本「もしかして、もう、すぐにでも引っ越す気なんじゃない?」
孝美「・・・うん。そう。・・・河本くん、読みがいいね」
河本「で、西には親戚とか、知り合いとか居ないの?俺以外で」
孝美「・・・居ない」
河本「居ないの?」
孝美「居ない。誰も居ない」
 河本は、今度はふうと大きく息を吐いた。
河本「あのさ、ちょっと聞くけど、その、諸橋の正夢って、どのくらいの確率で当たるわけ」
孝美「確率」
河本「だってさ、正夢ってのはさ、考えてごらんよ。夢に見たことが実際に起こってはじめて、ああ正夢だったんだ、って思うもんだろ。たかみーの言う、東京の地震ってやつは、まだ起きてない分だ。未来のことなんだけど正夢だって言ってるわけだ」
孝美「成程」
河本「だから、どんな確率なのって聞いた訳」
孝美「成程」
 孝美は考え込んだ。
孝美「・・・分かった。多分絶対、だよ。ほぼ100%」
河本「100%?・・・恐い話だな。・・・でかいの?」
孝美「・・・うん。でかい。多分こないだの東北のとおんなじくらい、…と思う」
河本「・・・恐い話だな。・・・そうだろ?東京だろ?軽く、日本崩壊だ。・・・すると。その確率はどのへんから出てるの。全然はっきりしてこないんだけど」
 孝美は考え込んだ。
孝美「・・・説明しにくい」
河本「 説明しにくい」
 河本は孝美の言葉をそのまま繰り返しながら咀嚼した。
河本「それは、根拠の無い夢だってことかな?ああ夢に元々根拠なんて無いか・・・えーとそれは――そのまんま言ってごめんな、じゃその、当たるかどうか分かんない夢にすがってさ、絶対起きるって思いこんでさ、たかみー、どっかに逃げたいって思ってるんじゃないの?」
孝美「違うよ!」
 河本が電話口でぐっと詰まったのが分かった。
孝美「違うよ。根拠。根拠って言ったの?」
 孝美は考え込んだ。
孝美「根拠。あるよ。根拠。・・・河本くん覚えてないかもしれないけど。先刻から正夢正夢って言ってるけど、地震の話は夢じゃなくて、未来の人から直接聞いた話だもの。・・・こないだ会ったとき、プチタイムスリップって言ったでしょう?6年前、気失って、プチタイムスリップみたいになって、そんとき向こうで助けてくれたおばさんが教えてくれたの。・・・教えてくれたの。東北の地震も。東京の地震も」
河本「――」
孝美「――ああこんな話、したくなかったのに!」
河本「――」
孝美「こんな話、信じたりしないでしょう?」
河本「――」
孝美「河本くんも、精神科に行けって言うの?」
河本「――」
——これは肯定の沈黙だ。
孝美「・・・そうか。やっぱり。・・・やっぱり。でも!私は広太を助けなくちゃ・・・私、広太を助けなくちゃいけないのに・・・」
河本「――」
孝美「・・・もうキレそうなんだから・・・毎日・・・」
 しばらく沈黙があった。孝美はしゃくりあげないようにこらえながら、目の周りの濡れた髪を何度も払った。
河本「――ごめん、話変わるけどさ。旦那の方のこと聞いていい? 旦那の方、どうなの。大変なの?」
孝美「・・・分かんない」
河本「分かんないって何が」
孝美「・・・分かんない」
河本「分かんないって何が。長内さんと、話してないの?」
孝美「・・・うん」
河本「全然?」
孝美「・・・うん」
河本「全然?全然なの?――うーん」
 沈黙。
河本「・・・まあ、長内さんの気性だと、って言っても俺は伝え聞く限りしか知らないけど、・・・そうか。そうなんだ」
孝美「――」
河本「あのさ、はっきり聞いちゃっていい?」
孝美「――」
 沈黙が流れた。孝美はぼーっと待ってから気付いた。
ーーあっ、返答を待たれているんだ。
孝美「――すみません。何でしょう」
 河本が電話口でため息を吐くのが聞こえた。
河本「長内さんの、その、浮気は確定なの?現場押さえてるの?」
孝美「――いや、ううんそれは・・・。確定?・・・現場?って何?どんなの?・・・だ・・・抱き合ってるとこ見たかとか、そういうこと?」
ーー口にするのもおぞましい。
河本「ごめんな。ごめん。でも、まあそんな感じかな。探り入れたんだろ?」
孝美「――かっ、会社に居る間に観察したくらい」
河本「ええ?それじゃなかなか――分かんないだろう」
孝美「うっ、うん。――分かんなかった」
 河本がまたふうと息を吐くのが聞こえる。
河本「たかみー、優しいね。・・・ていうか、手緩いと言うか。尾行くらいしてみれば」
孝美「ええ?」
ーー尾行なんてしようと思ったこと無かった。だって。
孝美「河本くん。私、尾行なんてしない。尾行なんてしない。・・・意味が無いもん。私には」
河本「何で」
孝美「河本くん、浮気って、どういうのを言うと思う?ラブラブ、ラブシーン?一線っての?越えたら、浮気と思うの?」
河本「――」
孝美「私は思わない。実際に何かしててもしてなくても、その人に気持ちが行っちゃったら、それは浮気だよ。もちろん一瞬のは浮気って言わない。…気持ちが重なっていって、日々、気持ちが重なっていって、妻よりもその人が大事って思ったら。――大事って思ったら、それは浮気だよ」
 孝美の目から新しく大粒の水滴がぼとぼとこぼれ始めた。
孝美「――何したかなんて、関係無いんだよ・・・」
 河本は沈黙してから、静かに小さく言った。
河本「――たかみーは真面目だから」
 で、口調を変えた。
河本「――そんで、長内さんはその、たかみーの言うケースなわけで、そんで許せんと思ってんだな?」
孝美「・・・うん。でも許せんってのは・・・ちょっと違う。かな。・・・もう耐えらんないの・・・」
 河本は今までの話をまとめて、つなぎ合わせようとしているようだった。
河本「で、西に引っ越して、別居だか離婚だかしたいんだ。――いや?」
孝美「?」
河本「諸橋は、こないだ旦那も子供も連れて、西に引っ越したいって言ってたっけ?ううん??」
 孝美は息を吸った。
孝美「河本くん。私だって、できれば別れたくなんてない」
河本「うん」
孝美「でも、あの後考えた。もう疲れてしまったし、限界だし、無理と思う。だから」
 孝美はもう一度深呼吸した。
孝美「私と広太だけで、西の、どこかに行こうと思う」
河本「西のどこか」
孝美「うん。でもとにかく、静岡より西には親類も知り合いも、ひとりも居ないの。だからつい、河本くんが居るし岡山、って思ったけど――岡山じゃなくてもいいと思ってる。・・・世話かけちゃいけない」
河本「世話」
孝美「・・・迷惑かけちゃいけないし」
河本「成程」
孝美「・・・河本くん、婚約中だし」
河本「・・・ああ、だからそれは、・・・まあ」
 頭がすっきりしてきた。
ーーそうだ。私と広太だけで、西の、どこかに行こう。
 河本は依然考え込んでいた。孝美は待った。ほんとうにしばらく待った。
 それから河本は突然話し出した。
河本「――あのさ。どこまで面倒見れるか分かんないけどさ。じゃやっぱり、岡山来れば。アパート見つけたり、町のこと教えたりすることは出来ると思うよ。・・・ちっちゃい子連れて全然知らない町に行くのは無謀だろう。どう考えたって」
孝美「えっ」
河本「・・・どんだけ役に立つか分かんないけどね。――うちはちっちゃい会社だから、切り盛りに手間がかかるんだよ」
孝美「えっ」
河本「・・・だからどれだけ力になれるか、分かんないけど。ほんとに」
孝美「えっ、えっいや。・・・ありがとう・・・ありがとう」
 今度はあったかい涙が出てきた。
河本「ところで・・・」
 河本はふっと笑った。
河本「・・・携帯の電池無くなりそうだ」
 孝美がはっとして柱時計を見ると、23時になろうとしていた。
孝美「ごめんね・・・ごめんね」
河本「いや、俺はいいんだけど、長内さん遅いんだな。そろそろ帰ってくるんじゃないの?」
孝美「うん。そうだな」
河本「毎晩こんなに遅いの」
孝美「うん。うーん?・・・ま、大体こんな感じかな。・・・ここんとこ、家に帰りたくない感じ見え見え」
 ちょっと沈黙。
河本「たかみー。いいか」
孝美「うん?」
河本「ちゃんと聞けよ」
 孝美は横座りになってベッドに頭をもたせかけていたのから、ずいっと起きて、座り直した。
孝美「はい」
河本「長内さんと、ちゃんと話しな。・・・いいか。こっちに来るにしろ来ないにしろ」
 河本はまた息をふっと強く吐いた。
河本「こっちに来る気なら尚更だ。ちゃんと話つけてから来いよ」
 孝美は音を立てないように気をつけながら鼻をかんだ。
孝美「・・・分かりました」
 河本が電話口で、ふっと小さく笑ったのが聞こえた。
河本「物件とか仕事のこととか、調べといてやるから。・・・そうか」
孝美「?」
河本「最短、いつ頃来るつもりで居るの」
孝美「・・・そうか。うん。12月いっぱいで退職して、その後すぐ、のつもり」
河本「ほんとにすぐだな。じゃ、尚更だ。ちゃんと長内さんと話しろ。今日にでも明日にでも」
孝美「はい」
河本「そんで・・・全く、こんな予定じゃなかったんだけどな」
 河本がまた、小さく笑ったのが聞こえた。
河本「そんで、さっきのその、正夢だかタイムスリップだかの話も、も少し聞いてやるよ」
孝美「ええ?」
河本「ええ、て何」
孝美「ええ?だって・・・河本くんは神様だ」
 河本が、ははと笑った。
河本「そうか。そうだな。・・・てか、馬鹿なのかもな。・・・近いうちにもう1回くらい、そっちに叔父の見舞いに行くと思うから。そんとき聞くよ」
孝美「えっそうなの」
河本「うん。何かはまってきたから、すっかり聞いてやるよ。すげー変わったこと言っても聞いてやる」
孝美「ええ?」
河本「だから、ちゃんと話す準備と心構えしといて」
孝美「ええ?うん、・・・うん、ありがとう」
河本「おおお、ほんとに電池無くなりそうだ。じゃまたな」
 で、電話を切った。
ーーほんとに。河本くんは、神様だ。
 孝美の顔は、冷たかったり温かかったりする涙でぐしょぐしょだった。柱時計がメロディを流した。23時だ。
ーーやばい。電話代を、どれだけ使わせてしまったんだろう。

 修一は、それから15分くらいして帰って来た。
(以上、2014.02.10)


 孝美は15分の間にベビーベッドで寝入っている広太をベッドルームに移動し、その後、リビングのソファにきちんと座って待っていた。
 修一がリビングに入って来て、声を出さずにぎょっとした、のが見えた。
孝美「修ちゃん。話しましょう」
修一「今?これから?」
孝美「そう。これから」
修一「今日は遅いんじゃないか?」
孝美「修ちゃん。・・・いっつも遅いじゃない。どうせ。ずっと」
 修一はちょっと考えてから、リビングの低いテーブルの向こうにどっかと腰を下ろし、身体を斜にして胡座をかいた。
修一「そうだな」
 で、右腕でテーブルに頬杖をついた。
修一「で?」
孝美「で?・・・で?って、言うんだ・・・」
修一「お前が言い出したんだろう」
孝美「成る程ね。分かった。・・・修ちゃん。どうしたいと思ってる?」
修一「どうしたいか?」
孝美「毎晩遅く帰ってくるのには理由があるんでしょう」
修一「仕事」
孝美「そうね。・・・修ちゃんが仕事愛してるのは知ってる。忙しいのも知ってる。でも」
 孝美はきりっと修一を見た。
孝美「今日片付けなくてもいい仕事でも、わざと残ってやってるでしょう。それってつまり・・・帰りたくないんでしょう?」
修一「——」
孝美「大体、毎日必ず仕事なの?」
 修一はそっぽを向いて、テレビを点けようとした。地震の後しばらく様子を見てから吟味して買った、32インチの液晶テレビだ。
孝美「テレビつけないで」
 修一は大人しくリモコンをテーブルの上に置いた。
孝美「修ちゃん。私と別れたい?」
修一「そりゃ極端だな」
孝美「だって、そういうことでしょう」
 修一が手持ち無沙汰そうに胡座をかき直す。
孝美「私は・・・何してたのとか、くどくど聞きたくないの。・・・誰とどこに居たのとか・・・」
修一「——」
孝美「・・・聞かなくても分かる。聞かなくても分かるから・・・」
修一「何が分かるんだ」
——何と?
 孝美の頭に血が上った。
孝美「会社でどんだけ噂されてるか、分かってるでしょう」
 修一はこっちを見ないままで、テーブルを人差し指でとんとん叩いた。
孝美「もう限界だから。・・・とにかく、私は12月で会社を辞めようと思う」
 ここで修一が目を上げた。
修一「・・・それには賛成だな」
 孝美はしみじみ腹が立って、鼻でふんっと息を吐いた。
孝美「そんで家、出るから」
修一「実家に帰るのか」
孝美「帰らない」
修一「じゃどこ行くんだ」
孝美「西に引っ越す」
修一「西?西ってどこだ」
孝美「西」
修一「どこの西」
孝美「検討中」
 修一の顔が怒りで歪んだ。
修一「お前、また地震だの避難だのとぬかすんだな?」

 河本は、電話から1週間後、11月28日に再び東京にやって来た。孝美は翌日には絶対に退職の意思を上司に伝えようと決意していた。でないと12月いっぱいで辞められなくなる。
 今回は、時間を浪費しないよう、河本とは最初から八重洲地下街のスターバックスコーヒーで直接待ち合わせた。正に前回の続きという感じ。孝美は先に席に着き、待ち構えた。河本は入口から孝美を見つけると、よ、と片手を上げて、注文口に並ぶ。
 河本はアイスコーヒーのトールサイズとチョコレートのマフィンをトレイに乗せてきた。孝美の目がトレイの上のマフィンを追う。
河本「お疲れ」
孝美「河本くん、甘党だっけ?」
河本「ん、んー。日による」
孝美「・・・疲れてるとこ、ごめんね」
 河本は小さく笑った。
河本「いや、むしろ今日は楽。働いてないからね。うちの会社結構大変でさ」
孝美「・・・それなのに。ご迷惑をおかけしてすみません。ほんとに」
 でも、私のことは気にしないでいいから、とは言えなかった。河本以外、寄る辺が無い。見つからない。
河本「ところで、こないだの電話、ごめんな」
孝美「?」
河本「何か、すげー偉そうな言い方した気がする。 本来、キャラじゃないことしたっていうか」
孝美「いやそんなこと」
河本「・・・あんとき、すんげー緊張してたからな」
孝美「緊張してたの?」
河本「そうだよ」
 孝美はほのぼのして、笑った。 河本の持ち味の、いいところだ。 河本も、マフィンを崩している自分の手元を見ながら、笑った。
 少しばかり、河本の見舞いの状況や、孝美の会社の近況を報告し合った。しかしすぐに、本題の説明に入るよう促された。
 前回の電話の後、修一と話したことから始めた。広太をどうするかで大喧嘩になったのだ。修一は、気違いに息子を預けることは出来ないと言う。
河本「でも、長内さん面倒見れるの」
孝美「無理!・・・埼玉の実家にでも預けるんでしょうね、きっと」
河本「それもまた」
孝美「そうよ。非現実的な話だわ。まあでも、・・・大丈夫。私が連れて行く」
河本「そうなの」
孝美「そう。だって実際、地震の予知のこと以外、気違いって言われるようなことは言ってないし、あの人だって、私が普通に生活出来ない人間だとは思ってない。引っ越し先はちゃんと知らせて、様子が分かるようにするつもりだし。それに・・・それに、東京に地震が来る可能性がゼロでないことくらい、修ちゃんだって知ってるから」
河本「最終的には同意する、と」
孝美「同意させる」
 孝美は言い切った。実際、この点には自信があった。
孝美「あっそんで、ごめん、河本くんの名前出した」
河本「えっ」
孝美「うん。あの、行き先が岡山だって話になって、必要上。ごめんなさい」
河本「・・・いや」
 と言いながら、河本はマフィンから手を引いて、紙ナプキンでちょっと指先を拭いてから静かに背もたれに寄りかかった。そして腕を組んだ。
孝美「でも、河本くんは、元同期として助けてくれてるんだって、親切で助けてくれてるんだって、言ったから。ちゃんと」
河本「・・・うん。そうか。同期」
孝美「婚約中なのも言っちゃったの。いちおう、その方がいいかなと思って。ほんとごめんなさい。先に言っとけば良かった」
河本「・・・うん。・・・いや?いいよ別に。・・・事実だし」
 河本は腕を組んだまま戻り、テーブルのトレイを少し前に押しやってから両肘を衝いた。
河本「で?たかみー、別居なの?・・・それとも離婚?」
 孝美は首を捻った。この点は甚だグレーなままだった。
孝美「・・・分かんない。・・・取り敢えず、別居、になるのかも」
河本「復活の見込みは?」
孝美「・・・分かんない」
河本「そっか」
 そして次に、正夢やタイムスリップのことに移った。
 孝美は1週間の間に、これまで起きたことをできるだけ思い返して整理しておいた。事象の流れを追って、ヨガスタジオのことも、歯磨きのときに倒れたことも、その後落ちた場所のことも季衣のことも・・・できるだけあったまま、主観を入れないよう注意して語った。小さい頃から時間軸をちょっとだけ渡ってしまう癖があったらしいことも、・・・全部語った。河本は静かに聴いた。だから孝美も淡々と話し進めた。
河本「俺そーいうことには全く疎いから」
 孝美は思わずごっくんと唾を飲み込んだ。
河本「だから、漫画みたいって思うけど、でも起きる可能性が無いとも思わない」
孝美「・・・河本くん、驚かないの」
河本「驚いてるよ」
孝美「・・・だって顔に出てないもの。・・・私のこと気違いだって思ってない?」
河本「そうだなあ。いちおう、気違いとは思わないけど・・・そうだなあ」
 手元のコーヒーから孝美の顔に、一瞬、ちりっと刺さる目線を投げた。
河本「その、諸橋が見る未来は、確実に起きるものなんだろうか、ては思う。やっぱり」
 今度は孝美が腕を組んで、背もたれにどさっと寄り掛かった。
孝美「・・・ものに寄ると思うんだ」
 河本も背もたれに沈み、孝美を見る。
孝美「・・・人の気持ちとか意思が関係するものだとね、結構変わると思う。でも・・・」
 孝美は腕を組んだまま背中を戻し、テーブルに両肘を付いた。
孝美「自然の現象は、大体そのまま起きる・・・多分。・・・だからその」
 河本は足を組んで、片手で顎を捻った。
河本「東京の地震も起きるのか。その、おばちゃんが言ったようにか」
孝美「そう」
 河本は考え込んだ。孝美はコーヒーカップを両手で包み込んで、待った。しばらく待った。
河本「…じゃあ起きるとして。いつ起きるかは、ほんとに全然分かんないの?」
孝美「そうなの。――ごめん。あのとき、PC、てかPCみたいなのが手元にあったんだから検索すれば良かったんだけど・・・やらなかった・・・季衣さんから話聞いただけ・・・」
河本「そんで、東北の地震は、今年起きたってか。6年も経ってから」
 河本は、おおごとだな、と呟いた。
河本「で、誰も信じそうもないから、次の地震が起きる前に諸橋と子供だけでも避難する、と」
孝美「・・・仕方ないでしょう」
河本「そうだな」
孝美「・・・もう一回未来を覘ければ・・・」
 孝美は思わず身震いして、自分でもびっくりした。
孝美「・・・もう一回未来を覘ければ・・・、もっと上手に未来を覘ければいいと思ってる。あんなに入り込むのでなく。覘き穴から覘く程度がいい。できれば覘きたい時間や、場所を決めて」
河本「そんなことできんのか」
孝美「・・・色々、あのときの条件を洗ったり、方法とかも考えたんだけど・・・。やってみるとすると、試行錯誤になると思う。とすると、こっちに戻れなくなる可能性も大きい。って考えたら危険で」
河本「そうだな」
 河本はまたしばらく考え込んだ。孝美は自分のコーヒーを少しずつ、ゆっくり飲んだ。静かな時間が流れる。
 それから河本は腕時計を確認し、そろそろ行かないと、と呟いた。
河本「・・・ところで」
 黒いビジネスバッグをごそごそと探る。
孝美「河本くん、今日仕事じゃないのに」
河本「ん?」
孝美「・・・今日仕事じゃないのに、そんな仕事用のバッグで来たんだ」
 河本はバッグを探り続けながら苦笑いした。
河本「ああ。・・・入れ替えるの面倒で。・・・あった、あった」
 孝美にA4のコピー用紙を数枚渡す。
孝美「?」
河本「岡山の物件。まあ、サンプルと思って見て。・・・岡山市内のを持ってきたけど、それでいいんだっけ」
孝美「えっ。わあ、ありがとう。・・・助かる」
 孝美はすーっと集中して見入った。
河本「市街地の1DKのアパートで出してきたけど」
孝美「河本くんはどこに住んでるんだっけ?」
 孝美は紙を凝視したまま聞いた。
河本「は?」
孝美「いや、河本くんが住んでるのってどこ?岡山市?」
河本「は?・・・全く・・・」
 河本の両眉が上がり、おでこに皺が寄る。
河本「倉敷だよ。・・・全く・・・」
 彼は、全くそれで引っ越そうって・・・、と呟いた。
孝美「そうか、岡山市じゃないんだ。倉敷より岡山市の方がいいってことだよね?私が行くのは」
河本「だって働くとこも探さなきゃならないんだろう?そしたら、できるだけ大きい町の方がいいんじゃないか」
孝美「うん、そうね。・・・うん、そうか。そうだね」
 孝美は紙をめくったり戻したりして凝視したままだ。が、いきなり目を上げた。
孝美「倉敷と岡山市って、遠い?」
河本「いや、そんなに遠くないよ。車で30分くらい」
孝美「車。車の感覚って、良く分かんない・・・」
河本「電車だと、山陽本線。で駅から駅で1時間ちょっとってとこ。20km弱かな」
孝美「そうか成程。ありがとう・・・車の方が近いんだ」
 そして孝美は、そうか車も要るのか、と呟いた。
ーーどれだけ貯金があるか洗わないと。
河本「今更だけど・・・ほんとに来るの?」
 孝美はきらっと目を合わせた。
孝美「うん。行く」
 河本はため息を吐いた。
河本「まあ、思うようにやるのがいいんだろうさ・・・ただ」
 河本も孝美をきりっと見た。
河本「ちゃんとしてから来なよ。・・・長内さんとちゃんと決着してからってことだよ」
 孝美の目尻がいきなりひゅうんと下がった。河本は泣き出すんじゃないかと思って慌てた。
河本「たかみー」
 孝美は目を伏せたまま答えた。
孝美「分かってるよ」
河本「たかみー」
孝美「分かってるよ。だいじょぶ。河本くんには迷惑かけないようにするから」
河本「いや、迷惑云々じゃなく・・・」
 で、ふと店内の柱時計に目が行って、うわあ、と叫んだ。
河本「大変だ!・・・たかみー、今日も片付け頼む」
 そして河本は今日も走り出て行った。
(以上、2014.02.18)


 翌日、ゴム開発二部の部長に退職希望を話すと、予想外に渋い答えが返って来た。
復帰したばかりですぐに辞められると困ると言う。
ゴム開発二部部長「また派遣さん雇うにしてもねえ。まず予算確保しないといけないでしょ。それに今までは熊田さんがフォローしてくれてたから何とかなってたけど、熊田さん、前からゴム(ゴム開発一部と二部の総称)異動したいって言ってるんだよ。ほらあの子、ひとつのとこに長く居るの、好きじゃないからさ。そういうのも考慮に入れないと」
 3月までは働いて欲しい、という意向だった。もちろんそれより前に人の手当がついたら知らせる、と言ってくれた。
 当たり前だと思った。自分の事情ばかり考え過ぎだったと思った。
ゴム開発二部部長「色々たいへんなのも分かるんだけどねえ」
 これは聞きたくなかった。部長は、業務中のため空席になっている、修一と綿引綾乃の席の方をちらっと見た。仕方無いことだけど、嫌悪感が充満した。

 退職の時期がずれたことは、河本には帰宅後すぐにメールで報告した。
 修一への報告は、彼が深夜帰宅してから話したために、河本よりも後になった。修一は、仏頂面で、そうか、と言っただけだった。全く驚いていない風だった。
 修一は新人でゴム一(ゴム開発一部)に配属されて以来、ゴム一の成長株だった。ずっとゴム一のままで、ずっと中核だ。何年も前から、今年は課長か、いや飛んで部長かと注目されて来た。だからきっと、人事事情や予算にも詳しいのだろう。
ーー今回のことが、昇進するのの妨げになるかも。
 何だか申し訳無い気がした。孝美が職場に復帰しなければ、または復帰したとしても、もっと上手に、さりげない風を装えれば、綿引綾乃とのことがこんなに周囲の目にクローズアップされなくて済んだかもしれない、と思う。
 修一には、やはりゴム一で大成して欲しい。修一の働きに憧れて、追い続けた孝美の目が、そう思う。

 正月には、各々の実家に顔を出し、引っ越しの旨を伝えた。引っ越しの旨だけ、伝えた。広太が小児喘息になりかかっているので、都会を離れたいのだ、でも修一は東京から離れるのは無理なので、取り敢えず自分と広太だけ岡山に移る、と言った。
 実際、広太は軽度の小児喘息にかかっていた。この際、これを格好の理由として使わせてもらった。大子でも、浦和でも、うちに来いと言われた。何故岡山なのだと言われた。
 大子のあたりでは、まだ大小の余震が続いていた。広太が地震をすごく怖がっている、と言った。浦和は都会なので、東京に居るのと大して変わらないのだ、と言った。そして双方の親に、岡山の友人が是非来いと誘ってくれたのだ、と言った。友人とは誰なのかと聞かれ、ここは正直に言っておいた方がいいと思ってここでも河本の名を告げたところ、男性であることにまず猜疑され、一方、会社社長であることから、頼り甲斐という意味で多少の安心を持ったらしかった。更に市議会議員の娘と婚約中であると告げたことで、安心を増したらしかった。大子でも、浦和でも、不思議なくらい同じような反応だった。
 大子でも浦和でも、孝美が西に引っ越したい真の理由は、東京の地震を危惧しているせいだと、うすうす推測していた。東北の地震の後、孝美が双方の親に、一緒に西に引っ越さないかと何度も提案したからだ。あの頃、修一が話を聞かないので、親たちに談判したのだ。それで、一様に聞き入れられなかったのだった。親たちは、そのときの切実な様子を浮かべ、何を言っても聞かないだろうと、どうやっても引っ越すのだろうと、諦めたらしい。そして過敏な妻を持った夫に、同情を抱いていた。だから取り分け、浦和の目は冷たかった。そして、1〜2年したら馬鹿なことをしたと気付いて帰って来るのではないかと思っているようだった。
 孝美の方でも、実際、岡山に永住しようとまでは考えていなかった。岡山は一時的な避難地。岡山で、もっと東京の地震が詳しく予知出来ないか実験する。もし日にちが予知出来たら、その前に、地震の前に、何とかして修一や両親を、岡山に呼び寄せる。一時的にでも安全なところに避難させる。災害が収まって、もし大丈夫そうだったら、また東京に戻ってもいい。東京近郊には今稼働中の原子力発電所は無いので、そこのところは安全だ。しかし長期的には、…灰色になる街に住み続けるのはどうかと思う。でもどこなら安全かが分からない。太陽からの有害放射線のせいならば、太陽が燃えているせいならば、地球上のどこでも危険ということになる。また、季衣の銀ずくめの格好が目に浮かぶ。
ーー私が落ちたあの「時間」以降は、どうなるんだろうか。
ーー取り敢えず地下に逃げるのか?…それじゃターミネーターみたい。敵は機械じゃないけど。…でその後は?…人類滅亡??
ーー食い止められないの?
 頭の中で、季衣の首が右左に不安定に揺れる。それが諦めのサインに見える。

 2月には、祭日にくっつけて1日休みを取り、岡山に物件と就職先を見に行くことにした。
 1泊2日の旅程。広太を連れて行くか迷った。修一は、変わらず仏頂面のまま、浦和に預けていけと言った。広太はもうすぐ3歳だった。
 でもやはり、連れて行くことにした。万が一、この2日間に東京の地震が起きたらと思うと、たまらなかったのだ。
 このところ使用していないベビーカーを持って行った。
ーー広太は歩きたがるので乗らないだろうけど、疲れて途中で眠ってしまったら、これが無いと到底運べない。
 そして予想通り、ベビーカーは専ら荷物置きになった。広太の手を引きながら、道々この状況でどれだけこなせるだろうかと思った。8:47品川発ののぞみ。お昼過ぎには岡山駅に到着し、早速不動産屋に向かった。
 岡山は、予想していたより都会だった。でも、長閑に見えた。良いところだった。
 孝美は部屋を決めるのが最優先と思った。今日のうちに決めてしまうつもりだった。
物件は、これまで4〜5回も河本が送ってくれていて、孝美の方ではその中から3件程選んであった。
 2月の祭日の不動産屋は混んでいた。でもひるんではいけないと思った。部屋は、期待していた通り、選んでおいた分は空いていたので、無理を言って車を出してもらって、不動産屋で新しく見せてもらった候補物件と合わせて、見に行った。
 3件見て、既に夕刻近くになってしまった。不動産屋は最初の1件しか回っていないけれど、見た1件に決めてしまうことにした。
ーー岡山駅徒歩圏内だし。南向きだし窓も多いし。何と1LDKで家賃4万円!すごい!
 但し、築29年だし、何故か今ではめずらしいユニットバスだ。
 築29年は気になった。岡山だって揺れないとは限らない。でも見せられた物件が一様に似たり寄ったりの古さだったので、取り敢えずはと思い、諦めたのだ。部屋の契約が終わったときには、広太は眠り込んでしまっていた。
  次に就職先と保育園。しかし初日は祭日だったので、公共施設は休みだった。仕方無く広太を乗せたベビーカーを押しながら、宿泊予定のビジネスホテルに向かう。薄暮の中ちらりちらりと電光掲示が点き始め、その中のインターネットカフェの文字を見上げながら、ひとりだったら行きたかった、と思った。孝美はモバイルPCも、スマートフォンも持っていなかったから。ハローワークの開館時間や求人情報や、保育園情報も検索したかった。
 夜、ホテルの近くのファミリーレストランで広太と夕食を取っているとき、もうすぐこの町に引っ越そうと思うのよ、と話した。
孝美「広太、ママと一緒に来てくれる?」
 広太は口数の少ない子だ。しばらく自分の皿を見つめてじっと考え込んだ後、うんいいよ、と言った。
孝美「パパは東京にお仕事があるから、来れないの。だからね、ママとふたーり。ママもお仕事しなきゃならないから、広太にお留守番を頼まなきゃいけなくなるかもしれないけど、できるかな」
 広太はまたじっと考え込んで、うんいいよ、と言った。そして、何故パパが来れないのか、いつ引っ越すのか、ポツポツと質問した。広太はまだ3歳にならないけれど、もっと大きな子みたいに筋道を付けて話すことが多い。誇らしかった。愛しかった。
 翌日、地元のハローワークに求人登録して、少しだけ検索した。就職先については、河本が知り合いの会社を紹介しようかとも言ってくれたのだが、有り難く辞退した。後々、万が一自分が何かしでかした場合、河本に迷惑がかかるから。
 ハローワークの後は、さすがに広太が飽きて来たので県庁通りの天丸屋の屋上で遊ばせることにした。天丸屋はふつうのデパート。だが、孝美ははじめて入った。地域直結か、西の方にしか無いのだろう。ここでジュースを飲みながら休憩した。やっぱり、はか行かないな、と思った。こっちに来てしまってから動くしかないな、と思った。
ーー貯金は持つかな。
 でも、この地に長く腰を落ち着けるかもしれないと考えると、ひとつひとつ、十二分に吟味する必要があった。広太とふたり、できるだけ無理なく、居心地よく暮らして行けるように。
ーー車も必要だな。こっちに来る前にペーパードライバー講習・・・行ってる暇あるかなあ。
 今回の行程では河本には会えないことになっていた。これを機に、ひとりで解決する癖をつけようと思った。天丸屋のレストランフロアで遅めの昼食を取った後、県庁で保育園情報をもらった。1件くらい下見が出来れば・・・と思って向かおうとしたところで、河本から電話が入った。
河本「よっ。どんな感じ」
孝美「もういいよー河本くん。忙しいのにありがとねー」
河本「いやいや。ま。で、どう」
 河本は豆蔵だなあと思う。孝美は彼の仕事の邪魔をしないように、今回のあらましを手っ取り早く説明した。
河本「夕方そっちに用事があるからさ、ついでに見送りしてやるよ。何時に帰んの」
孝美「んー、4時25分ののぞみかなあ。いやでもいいよー」
河本「4時25分かあ。これからだと、ほんのちょっとかなあ。でもま、いっか」
孝美「えー来てくれるの」
河本「行くよー。どの部屋にしたか見たいもん」
 そして河本は、部屋探すの好きでさ、と言って笑った。
(以上、2014.02.25)

 4月、2週目の木曜日に引っ越した。荷物は最小限にしたので、孝美の私物も多くは練馬の家に置いたままで、ほんとうに一時的な別居、という感じだった。
 岡山では仕事も保育園も決まっておらず、家財道具も揃っていなかった。しばらく段ボールに囲まれるしかないなと思った。でも何だか長閑な感じだった。大学から結婚前までの一人暮らしを思い出した。あれはあれで楽しかったのだ。
 3日後の日曜、ひょっこり、ほんとうにひょっこり、修一が新居を訪れた。玄関のピンポンが鳴って、はーいと出向いて、孝美は目の玉が飛び出るかと思った。インターネットで注文したチェストか4段ラックが届いたのだと思っていたから。
ーーえっ?ここ、岡山ですけど?
 修一は、広太の親として、何かあったときのために確認しておきたかったのだと言う。
ーー岡山くんだりまで?
 子育てにほとんど関わらなかった人の発言なので、違和感があった。不思議と捉えて終わるべきか、思いやりと捉えるべきか、信用が置けないための偵察と捉えるべきか、…正直迷った。修一はほとんど手ぶらで来ていたのだ。
 取り敢えずお茶を出して、それから広太が喜んでいるので、近くの公園で一緒に遊んでくるようにふたりを送り出した。孝美の方は注文したチェストと4段ラックが届くのを待った。
 届いて、4段ラックをひとりで組み立てる段になって舌打ちした。
ーー早く帰って来ないかな。…いやでも、修ちゃんに頼ってどうすんの。
 説明書を握りしめて唇を咬んだ。
ーーひとりでやるのだ。
 しかし奮闘していた間に修一と広太が帰って来て(早い帰宅だった。公園での遊ばせ方が良く分からなかったらしい)、修一がさっくりと後を引き取って組み上げた。3時過ぎになって、今度は3人で散歩に出た。アパートの周りを一周したところで、修一が言った。
修一「この駐車場はうちのなのか?」
 アパートの直ぐ裏に、契約の駐車スペースがある。この中のひとつが空いていて、「長内」のプレートが掛かっていた。孝美は、そうだと返事した。孝美が部屋を契約するときに、1台分ちょうど空いたところだと不動産屋から聞いて、車はまだ無いが取り敢えず借りておくことにしたのだ。
 すると修一は、車を見に行こうと言う。修一は何故か岡山市の車屋の在処を知っていた。お気に入りのi-phoneで岡山の中古車shopを調べてあったのかもしれない。散歩の続きのようにして3人で岡電に乗り、・・・修一はその場で車を1台、ポンっと買った。
孝美「えっこれは」
修一「要るんだろう。先月ペーパードライバー講習行ってたじゃないか」
 涙が出た。意味が分からなかった。でも素直に深く感謝した。

 保育園は、5月から入れることになった。
 就職先も決まった。保育園に合わせて、5月から働くことになった。不況だし、年も年なので、就職には相当苦労するだろうと思っていた。が、思いの外すんなり採用された。従業員60名程度の小さな運送会社。専務が面接してくれたのだが、パソコン操作をチェックする段で、ひゃー東京の人はやっぱり打つのが早いねえ、こんな早いの始めて見たよー、だそうだ。パソコンのスキルではなく、キータッチスキルに関心して採用されてしまったらしい。
 修一は、引っ越しの3日後に姿を見せて以来、音沙汰無しになった。あれは何だったんだろう、と思う。特に車の贈り物が不思議だった。
ーー思いやり?・・・手切れ金?
 4月、様々な準備で忙しくはあったが、広太とふたりきりで1週間、10日間と過ぎ、孤独になったことを痛感した。修一について、綿引綾乃について、両親や義理の父母について、河本について、・・・考える時間が山ほどあった。但しタイムスリップについては考えなかった。どうにも考える気になれなかったのだ。
(以上、2014.03.02)

 4月最終週、水曜の午後。
 河本からの電話。メールで都度報告してはいたが、3週間以上声は聞いていない。
河本「お疲れー」
孝美「お疲れ様ー」
河本「どう、片付いた?」
孝美「んー、まあぼちぼち」
河本「仕事、来週からでしょ」
 そして、就職祝いに食事でもしようかと言ってくれる。心底嬉しかった。目の前に居たら飛びつきたかった。
ーーでも。
孝美「いやでも、婚約者の人にマズいんじゃないの?」
 実際、3週間も電話がなかったのは、婚約者のせいなんじゃないかと思っていた。だから、こちらからかけるのは差し控えていた。
河本「えー、あーそうか。・・・うーん、それもあるけど。多少。・・・期末期初って奴だよ」
孝美「えっあっそっか。そういう時期だった。私てっきり」
河本「・・・」
孝美「?」
河本「ま、いいや。会って話そっか」
 河本は、広太も入れるレストラン、と言ってくれたのだが、孝美は部屋に招待して食事を作ると提案した。
ーー何せ、緊縮財政だし。
 しかし、夕刻訪れた河本は一緒にスーパーマーケットについてきて、材料、それに日用品や広太のお菓子まで入った会計を、すいっと払ってくれてしまった。
孝美「あああ、ほんとうにすいません」
河本「え?何言ってるのー。俺が食事しようって言ったんだぜ」
 そして、孝美が準備している間中、部屋でTVを見ながら広太相手に電車で遊んでいた。台所から、河本くん好き嫌い無いの?と聞くと、ほぼありませーん、と右手を上げる。
孝美「ほぼって何、ほぼって」
 河本はにやーっと笑った。

 新品の丸い小さなちゃぶ台を囲んで、3人でほうれん草と豚バラ肉のお鍋を食べた。ちなみにちゃぶ台は、狭い部屋の中で広太が台の角にぶっつかってたんこぶを作らないように、丸いのをあちこち探したものだ。あとは缶詰を利用した小鉢とトマトが入ったサラダ。
河本「いいねー」
孝美「あっいける?」
河本「いける。豚バラ、美味しいんだな」
孝美「良かった。これ前にねー、TVでのたぽんがやってたんだよ」
河本「おー、のたぽんか」
 デザートに広太が好きな牛乳羹。
河本「落ち着いちゃうな」
 孝美は、ははと笑った。
孝美「何、婚約者の人はごハンつくんないんだ。議員の娘だっけ」
 河本の母は、河本の父を看取った後ボケが進み、今は特別擁護施設に入っているそうだ。だから、婚約者が作らなければ家庭料理らしいものを味わうことが無いのかもしれなかった。
河本「うん。いや議員は関係無いと思うけど」
孝美「そういや、結婚式いつ?もう大分前から婚約してない?」
 河本の眉間に皺が寄った。
河本「いつだろう」
孝美「ええ?」
ーーもう、河本くんたら。ボケも大概に・・・。
河本「無いかもな」
孝美「ええ? 無いって何」
河本「結婚式」
孝美「結婚式が? ええ?」
 河本は口の端に笑いを滲ませて言うので、冗談かどうか分からなかった。でも、ふいっと渋い顔を作った。
河本「うーん、つまり」
 渋い顔のまま、首を振った。
河本「諸橋、俺、さかえとはもうダメだよ、たぶん」
孝美「へ?」
 広太は河本が来たことで緊張してはしゃいで疲れてしまい、夕飯を食べた後すぐに眠り込んでしまった。お陰でふたりぼっちの静かな夜を迎えていた。
 河本は、説明したら長くなるよ、と言った。孝美は全部聞きたいと言った。それで河本は、勿体ぶった挙げ句、本当に気が進まなさそうに話し始めた。

 河本の婚約者の「張替さかえ」が登場したのは、河本が倉敷に帰った後、直ぐだ。
 河本は父の死後会社を引き継ぐために故郷へ戻ったのだったが、存続が危ないことは、生前の父にも、子にも見えていた。父は潰しても構わないと言い遺して逝ったし、河本もそのつもりだった。会社の後処理をきっちりして、それが済んだら再度上京して新しく就職でもしようと思っていた。
 張替さかえは、東京の短大卒業後、不況の波のせいか、就職できずふらふらしていた。継続して仕送りをもらいながら、六本木界隈で遊び、J事務所所属のアイドルグループ「stormy night」の追っかけをしていたのだ。卒業から半年後、資金の足しにキャバクラでアルバイトしていたのが親にばれて、ついでにホストクラブ通いもしていたのがばれて、故郷に連れ戻された。しかし娘は東京に戻る気まんまんで、常に戻るきっかけを探していた。たまたま出会ったときの河本は、まだ故郷に戻りたてで、岡山土着の若造より幾分イケて見えたらしい。
河本「俺が東京に戻るつもりだったから近づいて来たんだよ」
 河本の方では、ギャルから好きよと言われたら、いい感じになってしまったのだそうだ。そしてあれよあれよという間に婚約。ところが河本自身は、自社の社員たちを見ると、使命感を感じてしまい立て直すのに奮闘しはじめたのだ。さかえの方からすれば、河本はどんどん都会っ気は無くなるわ、金は無いわで、どんどんじいさん扱いになっていったと言う。
河本「一昨年の夏、F生命の岡山支店に、24歳イケメンってのが転勤してきたのさー。さかえは、自分より年下でかわいいの見たら、もうstormy nightの追っかけばりでまっしぐら」
孝美「・・・」
河本「でも婚約破棄とは言わなかった。その辺、計算高いんだ。イケメンが上手く行かなかった場合のこと考えてるのさー。・・・9月に、イケメン追っかけはじめてから大体1ヶ月後だね、その9月に、式場が気に入らないって言い出して、キャンセルしたんだよ。そんで別のとこ予約した。遠い日にしてね。で、去年また式場が気に入らないって言い出して、また別のとこ取り直した。また遠い日設定してさ。でも、どうせまたキャンセルするんじゃないかな」
孝美「でも河本くんは岡山に住んじゃってるわけでしょう?その子が上京したいんだったら意味無いんじゃ?もはや」
河本「うちの会社は今も綱渡りだからね。イケメンを捕まえ損なった&うちが潰れたら、俺を説き伏せて夫婦で上京、ってしたいんじゃないの」
孝美「ええーそうなの。やるねー張替さかえ」
河本「そうね。やるよー張替さかえ」
 おうむ返しに答える。
孝美「んで」
 どうしても聞きたかった。だから聞いた。ちょっと勿体ぶった後で。
孝美「河本くんはどうなの。・・・今も結婚したいわけ?」
 河本は沈みがちな顔をしてテーブルに頬杖をついていたが、そのまま両眉を上げた。
河本「俺?・・・さあ」
 それから腕組みをした。もう分かんないな、と呟いた。
河本「ま、ただ、あんま敵に回したくは無いね。親、いちおう議員だから」
孝美「あ、そうか」
河本「うちの会社なんてさ」
 で、右手を首の周りでくるりと回してから、きゅっ、と締める形にした。
孝美「そうか」
河本「いやでも、いざとなったときうちを守る手も考えてあるんだよ。嫌がらせされないようにさ」
孝美「?」
河本「結婚がダメになったとき、俺のせいにされる可能性あるからな。あいつ、やりかねないからな。慰謝料とか言い出すかもしれん。そうなっても言い返せるように」
孝美「?」
河本「俺、さかえがイケメンとホテル入ってくところの写真、何枚か抑えてあるんだ」
孝美「ええ?」
 孝美は飛び退って驚いた。瞬時に、以前電話で河本が「尾行するとか・・・」と言った行を思い出した。
ーーほんとの話だったんだ。
 しばらく口をぱくぱくさせて何を言ったら良いのか困った後で、伊座ってちゃぶ台の縁に戻った。
孝美「河本くん・・・なかなかハードな人生渡ってんのね」
 河本はちゃぶ台に頬杖のポーズに戻っていたが、ちらと孝美を見て、口の端だけ上げて笑った。
ーー私だけと思ってたわ。全く。
ーーでも元に戻る可能性もあるんだ。それで、その婚約者と結婚することになったとして、それでもいいのかしら?この人。
 流れで結婚してしまいそうに思う。
ーー不思議だ。
河本「・・・たかみー、そんなにガン見しないでくれる?」
 孝美は河本をじーっと見ていたのだ。孝美には愛ある結婚しか思い浮かばないからだ。
(以上、2014.03.09)

 夏が来た。
 仕事にも慣れてきた、と思う。しかし、かなりキツかった。体力的に、というより精神的にキツい仕事だった。カテゴリとしては営業事務になるのだろう。顧客や業者との電話応対がとても多くて、気を遣った。前の、田町の会社が懐かしかった。あの頃は総務事務で、こんなにスピードを求められることもなかったのだ。
 広太の方では、こちらの生活にすんなり慣れたように見えた。
 広太は、新しい保育園で、リトルプリンス扱いになっていた。東京から来たシティボーイで口数少なめ、というのがプリンスの称号を取るに容易だったのだろう。広太自身も特別扱いされているのに気付いていて、得意げで楽しそうだった。
 東京の地震はまだ起きていなかった。いつだろうと思う。
ーー季衣さんの言葉通りなら、まだ先のはずだけど・・・。
 来られては困るのだが、思い出すといらいらした。
ーーその日、大子はどれだけ揺れるのだろう。浦和の義理の父母のところは。・・・修一は田町で被災するのだろうか。果たして助かるのか。
ーー血縁だけでない。東京は。東京に支えられている日本全体は。
 未来を覗く実験は、今もやってみたかった。鏡も何枚か用意した。ただ、孝美ひとりで行うことは出来なかった。戻るきっかけを与えてくれる「外の力」が必要に違いないと思うからだ。やるとしたら、誰かの、多分河本の協力が必要になるだろう。
 河本の会社は、こちらも何とか持ちこたえていた。ただ彼はいつも忙しそうだった。でもお互いの事情、孝美の方だと修一とのその後、河本の方だと張替さかえとのその後、に興味があるからか、月に1度か2度のペースで河本の岡山市の用事に引っ掛けて会っていた。但し、冗長になって、短時間化していた。
 疲れている河本を巻き込むのには気が引けて、孝美の実験計画は、実現の目処が立たなかった。

 8月あたまの週の週末。河本がやって来た。
 広太を連れて、天丸屋の屋上に行った。天丸屋は、会うときのローテーション入りしていた。暑いさなか、広太が遊具の穴の空いた箱に入ったり、滑り台を下りるのを見守りながら、孝美と河本は日影のベンチに座った。つばの広い帽子に片手を添えながら、これは焼けるなと思った。
河本「来週あたり、草加に行かないといけないんだ」
孝美「草加?草加って、えと、埼玉だっけ?群馬だっけ?の草加?」
河本「埼玉だよー。もう、たかみーは」
孝美「あっそう。埼玉」
河本「あっちに姉貴が居てさあ」
孝美「えっ河本くん、お姉さん居たんだ」
河本「うん。言わなかったっけ」
孝美「どうだったかな」
河本「ま、その姉貴がさあ。5つ上なんだけどね、今度胆石の手術をするのさー」
孝美「うん」
河本「子供がひとり居るんだけどね、なんと、その間預からなきゃいけないんだ」
 河本は目を丸くして、びっくりの顔を作った。
孝美「旦那さんは?」
河本「離婚済み」
孝美「おやまあ」
河本「んで、海外逃亡中」
孝美「逃亡」
河本「ま実際のとこは、インドネシアだったかな?の支社に居るんだと。そっちで蝦の養殖をやらせてるんだ」
孝美「ふむ」
河本「んで、姉貴の手術中、俺が子供預からなけりゃ行けない訳」
孝美「ふむ。他に預ける先が無いってこと?」
河本「そういうこと」
孝美「・・・河本くん、独身なのにね」
河本「そうだよー。独身なんだよー。この年なのにさあ」
 で、しばらくして、参ったよーと言った。
孝美「参ったって、どっちが」
 河本は、はははと笑った。こめかみから汗が流れた。一瞬、拭いてやろうかと思った。
河本「それがさあ。来週は結構忙しくなりそうなんだよ。参った参った」
孝美「そうなんだ」
河本「どこで時間を作るかなあー」
 と言って、うーんと腕を組んだ。孝美は、お役に立って、少しでも恩返しをする気が湧いて来た。
孝美「私が行きましょうか」
河本「え」
孝美「広太、電車に乗るの好きだし。あっでも」
河本「?」
孝美「出来たら電車代カンパしてもらっていい?」
 実際、関東を往復する旅費は馬鹿にならなかった。
河本「そりゃするでしょー」
 河本は腕をほどいて、ばーんと胸の前で広げた。
河本「いやでもな」
孝美「いや冗談じゃなくて。私でいいなら」
河本「いやでもな」
孝美「何?難しそうなの?子供、小さいの?」
河本「いや?結構大きいよ。小学3年生」
孝美「なんだ。じゃあものすごく人見知りなの?知ってる人じゃないとだめなの?」
河本「いや、そうでもないよ。多分。実際季代子は社交的なくらいだ」
孝美「季代子ちゃんって言うんだ」
河本「うん。ただね。・・・ちょっと難しいんだ。たかみーの手に余ると思う」
孝美「そうなの」
河本「その・・・季代子は自閉症なんだよ」
孝美「自閉症」
河本「うん、自閉症。あっでも、軽いんだよ。理解できれば知らない人でも結構平気。俺は何回も会っててなついてるし。ただ、物事呑み込むまでに時間がかかるんだよね」
孝美「自閉症」
河本「だから俺でないと」
 孝美は考え込んだ。
孝美「自閉症のことなら、以前大分調べたな」
 広太がしゃべるのも立つのも遅かったので、何か先天的な病気なのではないかと思い、幾つかの病気を調べたのだ。自閉症は有力候補だったので、かなり調べ込んだ。実際に自閉症の子供たちも見に行った。
孝美「河本くんがやっぱり忙しいなら、そんで私でも役に立ちそうなら、ほんとに行くよ」
河本「えっ」
孝美「大丈夫と思う。・・・お姉さんに話してみて」
(以上、2014.03.17)

 8月の2週目は、お盆前だというのに本当に河本は忙しくなってしまった。連絡を受けて、孝美は本気でお迎えを買って出た。
 強行軍だが、日帰りにした。8月の2週目の、週末の日曜の朝。広太はご機嫌でのぞみに乗り込んだ。親子で、社内で朝ご飯とも昼ご飯ともつかない感じでおにぎりを食べ、お昼過ぎには草加の駅に到着した。
 河本の姉は、季代子と一緒に改札の前に立っていた。
 胆石という病気はさっぱり知らないけれど、辛くないんだろうかと思いながら、丁重にお預かりした。河本の姉は、孝美を弟の会社の事務員か何かだと思っているらしかった。孝美はそのままの方が分かりやすいなと思って、訂正しなかった。そして季代子を、大した説明も無く、ぽんと引き渡された。
 季代子は、成る程風変わりな子だった。でも外見では、以前見たような自閉症特有の感じがなく、普通の子に見えた。少なからず安心した。ただ、頭が不規則にあちこちに動く。鳩みたいと思った。
 孝美は折り返すように逆向きの電車に乗り込みながら、広太に声をかけた。
孝美「ごめんね。日帰りなんで遊びに行けないの。でも乗り換えのときに、上野動物園だったらちょっとだけ寄れるかな。行ってみようか?でも暑いかなあ」
 実際、広太を連れ回すだけ連れ回して何もしないで帰るのは、可哀想だった。それで、真夏の上野動物園に行ってみた。電車好きの広太もさすがに乗りっ放しでは飽きがくるらしく、入口を抜けるなりきゃあと言って走り出した。孝美はとっさについて行けず、日陰を選びなさいと、うしろから大声で呼びかけた。季代子はそれまでずっと無言で付いて来ていたのだが、広太を追って急に走り出した。
 季代子は広太が気に入ったようだった。 日陰を選びなさいと、孝美と同じ文句を叫びながら女性特有の母性を見せて、広太を追って行った。
ーー成る程ね、リトルプリンスだわ。
 孝美は目を見張って、日陰に入ってハンカチを取り出しながら、ぷぷと笑った。

 岡山には19時半頃に帰り着いた。仕事を切り上げた河本が、駅の改札の中の新幹線入口まで来て待っていた。
 眠ってしまった広太を両腕に抱え、左肩にかけた大きなショルダーバッグの根元を季代子に捕ませながら、孝美はもつれ加減で歩いて行った。他の乗客の足は孝美よりはるかに早く、同じ便の客は周囲に誰も残っていない。でも歩いても歩いても進まない感じだった。駅員は改札で待ち構えていて、孝美の特急券を取り上げると、さっさと持ち場を引き上げてしまった。それでごく一瞬、改札のまわりは孝美たちのプライベート空間になった。
 河本はほんとうに申し訳無さそうに微笑み、何も言わずに孝美の腕から広太を抱き取った。
河本「お疲れ」
 孝美はほんとうに疲れ切ってしまって、無言で立ち尽くした。
河本「ありがとな」
 河本は、自分の身体の、広太に占領されていない左側1/3に、左手で包みこむようにして孝美の頭を抱き寄せた。泣けて来た。河本は孝美を離してから、季代子を手招きした。
河本「季代子。いらっしゃい。長旅ご苦労さんだったねえ。疲れただろう」
 そして季代子の頭をぽんぽんと優しく叩いた。季代子は不思議そうに、鳩のような早さであちこちを見回した。

 取り敢えず全員、岡山駅から徒歩圏内ということで孝美の家に入った。即席の家族みたいだった。
 出前の中華丼を食べたところで、孝美は少し元気が戻った。
孝美「あああー、やっと息吐いた」
 河本はカツ丼をとっくに食べ終えていて、ひとつだけの座椅子に寄りかかってTVを見ていた。
河本「ほんとごめんな」
 広太と季代子は、部屋の奥に敷いた布団で、並んでぐっすり眠りこんでいた。
孝美「いやいや、私が言い出したことだから」
 そして、思ったより大変だったけどね、と呟いて舌を出した。
孝美「広太が日々重くなってさ」
ーーそう、そこは大きな誤算だった。
孝美「上野動物園ではしゃいじゃったもんだから、東京駅に着いたときには眠っちゃって 」
河本「動物園行ったんだ」
孝美「うん。往復だけじゃ可哀想でさあ。広太抱えて東京駅歩くのは無茶だったわ」
河本「季代子は大丈夫だった?」
孝美「うーん。・・・ただ、すぐ止まっちゃうから。季代子ちゃんの場合は、こっちが待ってないといけないじゃない。その間に広太が鉛のように」
河本「季代子のこと待ってくれたんだ」
孝美「うん。だって自閉症って、そういうもんでしょ」
 河本は、良く知ってるね、と言って微笑んだ。孝美は溜息を吐いて、手を右肩に乗せる。
河本「ちょっとそこに手ついて、顔乗せてみ」
孝美「?」
河本は自分の両手を重ねてちゃぶ台の上に乗せ、突っ伏すジェスチャーをした。孝美は、え、と言いながら、食べ終わった中華丼の器をちゃぶ台の奥に押しやって、真似をした。よいしょ、と言いながら座椅子を立って、河本は孝美の後ろに回る。首のうしろに揉みが入る。
孝美「え、いや、申し訳ないです」
 突っ伏しているので、孝美の声が籠もる。
河本「いや、あんま上手くないんだけど」
孝美「いやいや、十分・・・ごめんね、河本くんだって疲れてるのに」
 河本も、いやいや、と言いながらもみ手を肩まで進める。ふっと考えるように手が止まり、それから肩越しに河本の顔が近づき、囁きかけた。
河本「・・・今日、揺れなくて良かったな」
 突っ伏した中で密かに孝美が目を見開く。
ーー・・・地震のことだ。気が付いてたんだ。
 これは孝美も言わずと心配していたことだった。安全を考えれば、広太は岡山に置いて行くべきだった。でも今日は預ける当てがなかったし、離れているのも怖かったのだ。
孝美「・・・うん」
河本「・・・まだ大丈夫そうなのか?」
孝美「さあ。・・・分かんないよ」
 ここ半年程で分かったことがある。河本は昼間よりも夜の方が、少し大胆な言葉遣いになるのだ。孝美にはむしろこの方が心地良い。修一が俺流だったせいだろうと思う。
河本「・・・タイムスリップの実験、まだやってみようとしてんの?」
孝美「・・・覚えてたんだ」
河本「・・・覚えてるよ」
 ふたりとも、自然に声が小さくなる。
孝美「・・・うん。やってみたい。でも・・・」
河本「?」
孝美「ひとりじゃ無理なの。やるときは・・・河本くん、手伝ってくれる気ある?」
河本「いいよ」
 あまりにあっけらかんと返って来たので、孝美はびっくりした。
河本「でも何が見たいの。例えば・・・。そうだな、長内さんたちを助けたいのかな、地震から」
孝美「——」
河本「それとも、夫婦復活の可能性があるか見たいの」
孝美「ああそれは!」
 孝美は遮った。頭が腕から少し浮いて、ちらと宙を見た。
孝美「・・・それは、もう無理と思う」
河本「・・・そうか」
ーー実際、音沙汰無しだもの。
 孝美は頭を上げて座り直した。うーんと考える。しばらく考える。河本はゆっくりと元の席に戻り、待つ。
孝美「東京の地震はね、うちの家族に限って考えちゃいけないと思うんだ。少しでも出来ることがあれば、役に立つ情報とか準備とか、提案できないかって思ってる。かな。日本全体に向けて・・・みたいな?ちっちゃなことしかできないだろうし、馬鹿にされて突っぱねられるのがオチだけど」
 と言ってから、孝美はぺろりと舌を出した。
孝美「なんちゃって、違うかな。ほんとのところは広太が少しでも安全に生きられるように、準備したいのかな」
ーーほんとにそうだ。広太をあの街に置くのかと思うと、寒気がする。
ーーあの、灰色の街。
河本「・・・そう。ううん。良く分かんないけど、ま、いいか」
ーーそりゃ分かんないよな。私だって自分で言ってて分かんなかったもん。
 具体的な実験方法について、少しばかり話し合った。かけっ放しだったTVで、日曜の深夜のスポーツニュースが始まったのが見えた。
孝美「ところで、河本くん、今日泊まって行けば」
河本「ん」
孝美「季代子ちゃん、これから動かすの難しそうだし」
河本「ん」
孝美「雑魚寝になっちゃうけど。そんで暑いけど」
河本「えー、まさかエアコン切るの」
孝美「切るよ。節電。電気代高いし」
 河本はひゃあと言いながら、ナチュラルに寝床こしらえに入った。元から泊まる気だったのかもと思った。
 河本には買い置きの新しい歯ブラシを提供した。孝美も歯を磨いて、さっと顔も洗って、風呂は明日の朝にしようと思った。
ーー明日早起きしないと。
 ちゃぶ台をどかして電気を消して、河本の隣に横になると、逆に、先に寝ていた河本の方が身体半分起こして肩肘を衝いた。
河本「たかみー、今日ありがとな」
孝美「いやいや。それもう聞いたし」
 ところがその後、河本が孝美の首の後ろに腕を入れて引いてから元の位置に寝転がったので、孝美は連られて反転して、上半身が河本の上に乗ってしまった。孝美は河本の胸の上に鼻をぶつけた。
孝美「うわっ、ちょっとっ」
 河本は、くくくと笑っている。孝美は鼻に皺を寄せながら、顔が見えるように、河本の胸の上を這い上った。
河本「いらっしゃい」
 そして、孝美は頭を、河本の両手で捕まえられた。河本は少し首を傾げて、ふむ、と頷いてからそうっと引き寄せてキスした。孝美がきゅうと小さくなった心臓を整えるために元の位置に仰向けに戻ると、ゴムで引っ張られたみたいに河本が孝美の上にくっついてきた。ときどき離れて深呼吸しながら唇をくっつけ直す。頬も。顎も。・・・首も。
孝美「・・・でもね。無理よ」
 孝美は顎で広太と季代子の寝ている方をしゃくった。
河本「・・・そうか。そうだね」
 そして、暑いのにくっつかんばかりにして眠った。
(以上、2014.03.22)

 ふいっと目が覚めた。5:40。
 孝美は抵抗する身体を鞭打って、起き上がった。
ーー出勤しなくちゃいけないし。
 やっぱり暑かったらしく、河本の身体は寝ているうちに離れていた。
 孝美はふっと微笑んで、音を立てないように部屋を出た。ユニットバスのプライベート空間に入って頭からお湯を浴びはじめると、少しだけしゃっきりしてきた。でも頭の端っこが昨夜から緊張したまま残っていてどうにも拭えない。しかも今日は月曜日。
ーー今週はキツそうだな。
 と、そこで、ドアが開く気配がした。トイレのあたりが動く。
ーー広太のトイレか。
孝美「広ちゃん、上手に出来た?」
 髪のコンディショナーをすすぎながら言ったところで、ユニットバスのシャワー口と反対側のカーテンが少しめくられたらしいのが分かった。
孝美「広ちゃん、ママ今お風呂だから、もうちょっと待ってくれたら広太も洗ってあげる・・・」
 背中から胸に向かって誰かの腕が、両腕が、回って来たのではっとした。あわあわと声にならない声が漏れ出た。
その腕から、左手の方がついと上がって、孝美の口を塞ぐ。
ーー???
河本「どこまで洗った」
ーー???
ーーそうだ。河本くんも部屋に居たんだった。
 マジボケだ、と思った。
孝美「何すんの」
 ほとんど口パクだ。河本は耳元に唇をくっつけて繰り返した。
河本「どこまで洗ったの」
孝美「えっ髪だけ」
 河本はお風呂用のナイロンタオルにボディーソープを落として、泡を立て始めた。
孝美「・・・だめよ!」
河本「何で」
 河本は後ろから、孝美の首筋、耳の後ろに泡をこすりつけた。孝美は思わず言葉を失う。
河本「・・・逃せないね。こんなチャンス」
 孝美は上を向いて、小さく息を吐いた。
河本「積年の思い今果たす、だ」
孝美「積年?」
河本「そうだよ。入社1年目に遡る」
孝美「えっ」
河本「・・・やっぱ気付いてなかったか。・・・まあ、たかみーは長内さんしか見てなかったから」
孝美「・・・ええ?」
 ほんとに気付いてなかった。頭がぼやけて、ぼーと突っ立った。でも。
ーーえっと、ちょっと待って?
 すぐ向こうに広太が寝ているのだ。それから季代子も。と、外でかさりと音がする。
広太「マーマ」
 河本も孝美も、びりっと固まった。が、すぐに、孝美は少し距離があるなと察知した。
ーーきっとリビングのドアあたりだ。
孝美「あっ、広ちゃん、ママ今お風呂」
 少し大きめの声で答える。声が震えたかもしれないと思う。
広太「マーマ、ヨーク飲んでいい?」
 息を整えて、明瞭な声を出そうとする。
孝美「・・・いいわよ」
ーーきっと冷蔵庫を開けているんだ。
孝美「あるとこ分かる?」
 河本の手が再び動き始めた。孝美はびっくりして足を踏み替えた。
広太「うん。きーちゃんが見つけた」
 広太が言い切れないので、昨日から季代子は「きーちゃん」になっていた。季代子が広太に何事か言ったのが聞こえた。季代子の声はは広太よりもっと小さく、くぐもっている。リビングの中からしゃべっているらしい。
広太「マーマ、河本くん帰ったの」
孝美「えっ」
広太「河本くん、居ないよ」
 河本が耳元で囁いた。
河本「・・・散歩」
 えっと思ったけど、言うしかない。
孝美「・・・あっ、お散歩じゃないかしら。まだ帰ってないわよ。すぐ戻ってくるわよ」
 大きめの声で答えた。広太はまた季代子と何事か話している。
広太「ヨーク、きーちゃんにもあげていい?」
孝美「・・・いいわよ」
 台所でごそごそする音に耳を澄ます。
孝美「お利口にして、TV見ててね」
 大きめの声で呼びかける。
広太「うん、いいよー」
 耳で広太が居なくなる動きを確かめた。
孝美「・・・だから、無理だって」
 河本は取り合わない。無言で仕事を進め、・・・そして首筋で囁いた。
河本「嫌なら身体で抵抗しな。そしたら止めるから」

河本「まだ時間あるよな」
孝美「さあ?」
河本「風呂、浸かっとこうぜ」
孝美「え」
河本「ふたりならすぐ溜まるだろ」
孝美「この暑いのに、お湯に浸かるの?」
河本「ぬるくするから」
 そして河本は風呂の栓を閉めて、シャワー口を足下に転がした。奥側に背中を付けて座り込み、脚を投げ出す。振り返って初めて、河本が薄暗い照明越しに見えた。河本は少し孝美を検分してから両腕を差し伸べた。孝美はほとんど条件反射で腕の中に入った。
河本「たかみー、奇麗なのな」
孝美「うっそ」
河本「しっかし、細いのな、気付かなかった」
孝美「ああ・・・痩せちゃったのよ」
 湯が腰くらいまで溜まって来て、河本は孝美をくるりと反転させて自分の上に座らせ、背中から抱えた。孝美は寄りかかってくつろいだ。ちゃぷちゃぷと湯を自分にかけて弄んだ。
ーー安心な感じ。
 すごく久し振りで、もしかしたら何年か振りで、何十年か振りで、ゆったりとして力が抜けた。少し動いて、河本の首筋に自分の頬をくっつけ直した。嬉しかった。

孝美「あのさ、季代子ちゃん、こっちで預かろうか?」
 孝美が台所のシンクに寄りかかって、声をかけた。シンクの向かいが玄関、と言うにはささやかすぎる出入り口、だ。河本は玄関先に座り、靴を履いているところだった。季代子はまだ部屋に居て、広太のシャツのボタンを正しく留めようと格闘していた。
河本「えっ」
孝美「広太もなついてるみたいだしさ。・・・大体河本くん、食事とか、ちゃんと世話出来んの?」
河本「食事と言われると、確かに自信ないな」
孝美「でしょ?だから」
河本「・・・でも、昼間どうすんだ。諸橋だって会社だし、子供は保育園だろう」
孝美「あっそうか・・・河本くんは昼間どうしようと思ってたの」
河本「俺?・・・うんまあ。うちの会社の隅にでも転がしとこうかと思ってた」
孝美「転がすって・・・」
 河本の会社は社員20名足らずの町工場だ。薄暗い隅に季代子がうずくまっている図を目に浮かべた。行ったことが無いので工場の様子は浮かばず、暗い中に季代子がクローズアップされる。
孝美「・・・そうね。ううん。良き姿とは思えないけど…。まっそれしか無いか・・・」
河本「だろ?」
 河本は、実際今は河本家の非常事態なんだよ、と付け加えた。
河本「 お袋がしゃんとしてたら良かったんだけどさ」
孝美「・・・」
 孝美は曖昧な顔をして首を傾げた。
ーーこの人はどれだけの苦労を背負ってるのかな。
孝美「じゃっ夜だけでも預かる?」
 河本はちょっと考えた。肩越しに振り返った。
河本「毎晩俺が季代子を連れて来るってこと?」
孝美「うん」
 そして、にやりと笑って言った。
河本「そんで、俺も泊まるってこと?」
孝美「・・・いや、そうは言ってない」
 河本の両眉がひょうきんな形に上がった。
孝美「・・・河本くん、あれはもう無しよ」
河本「・・・」
孝美「だって。河本くん、婚約中なんだよ?それに。それに広太はともかくとして、季代子ちゃんはもう大きいんだよ?」
ーーほんとだよ。今朝のだって、季代子ちゃんに気付かれてる可能性大だ。
 孝美は唇を噛んだ。
河本「成る程」
孝美「でしょ?」
河本「成る程」
孝美「・・・朝は私が連れてくよ」
 河本の両眉がもう一度上がった。
河本「ええ?だって、倉敷だぜ?」
 そして、近所に買い物に行くのと違うぜ、と付け加えた。
孝美「分かってます。・・・大丈夫だよ。運転、大分慣れたし」
 河本は考え込んだ。
孝美「ずっとって言われたらヤだけどさ。土日抜いたら7日くらいのもんでしょ?」
河本「・・・まあ、本人に聞いてみるのがいいだろうな・・・季代子!」
 しかし季代子は孝美の予想に反して、河本の家に行くと言い切った。母にそう言われたのだそうだ。自閉症児の行動パターンを失念していた。彼らは予定されていたことは実現しないと気が済まないのだった。それで孝美は、ああ大丈夫かなあと思いながら、ふたりを送り出した。
 その日は仕事に忙殺された。思い出す暇が無い程だった。

 翌日も、朝から忙しかった。配送の問い合わせやトラブルの電話が相次ぎ、孝美は昼休み終了15分前になって、ようやくコンビニの弁当を一口口に入れた。そこで、河本からメールが入った。
 季代子が広太に会いたいと言って聞かないと言う。孝美は、夜連れていらっしゃいと即答した。
 
 季代子は孝美の家に到着するなり、玄関先に靴も持ち物のリュックサックも投げ出して、飛んで入った。孝美は玄関の扉を開けたまま押さえて、後から来る河本を迎えた。河本は両手に敷布団と夏掛けを抱えて、ほとんど前が見えないで進んで来た。
河本「これ、やるよ。良ければ」
 孝美は自分の家に布団が1脚しか無いことを、やっと思い出した。
孝美「うん。ありがとう。助かる」
 河本が部屋の隅に布団を積み上げるのを、後ろから見守った。
孝美「てことは、季代子ちゃんはこっちに泊まって行くのね?」
河本「まっそうなるだろうな」
孝美「じゃあ、昨日の話に戻して、夜だけ季代子ちゃん預かるって感じにするの?」
河本「うん、そうなるだろうな。・・・それでいい?」
孝美「・・・いいけど」
 孝美はため息を吐いた。
孝美「夕飯、食べて行くでしょ?」
 河本が首を傾げた。
河本「疲れてんだね」
孝美「・・・忙しかったの。昨日も今日も。・・・簡単なもんでいい?」
河本「いいよ。・・・手伝うよ」
 本当に疲れ切っていた・・・のだが、河本と立って支度を進めるうち、すうっと身体の重みが引いて行った。
ーーアドレナリン?
 孝美はひとりで赤面した。

 どうやら季代子は、叔父の家に1泊したことで、母親との約束を守ったことにしてしまったらしい。それで季代子の居場所は、孝美の案通り、夜は孝美の家に宿泊、昼は河本の会社、というパターンになった。季代子は孝美を押し退ける勢いで、広太の世話を焼きたがった。それが比較的役に立つ方向に働いたので、孝美は有り難くそのままやらせておいた。広太はおっとりとして、別に嫌でもない風だったのだ。
 但し、朝季代子を河本の会社に送って行くのは、骨が折れた。毎朝1時間半も早く起きなければいけなかったし、車の運転はやはり緊張した。今が夏で良かったと思った。夜が明けていなければ絶対に起きられなかった。
 河本も頑張っているようだった。いつも忙殺されている仕事を何とか早く切り上げていたし、孝美の言った通り、毎晩ちゃんと家に帰った。そして全行程のうち2日間は、朝会社に詰めなくても大丈夫な日には、河本が朝も迎えに来た。正に共同戦線だった。
 季代子が帰る1日前には、孝美はちょっと無理矢理だったが休暇を取った。欠勤になってしまうけれど、いい加減疲れが溜まってしまったし、一方で季代子の送別をしてやりたい気にもなったからだった。季代子と孝美は広太を分け合う感じで、ものすごく打ち解ける関係は築けなかった。が、替わりに、同志のような、こんなに年が離れているのに同じ目線のような雰囲気があった。
ーー女同士って、こういうもんなのかもしれない。
 孝美はそれが嫌ではなかった。これはこれでけっこういい感じだった。季代子は確かに自閉症なのだが、ゆっくり繰り返して言い含めるとちゃんと理解出来るのだ。孝美自身のんびり屋なので、何度も説明するのはそれほど苦にはならなかった。
 午後になって、定番の天丸屋の屋上に行った。8月の天丸屋の屋上は、平日でも子供たちで賑わっていた。ふたりを、広太のお気に入りの穴の空いた箱がある遊具のところで遊ばせた。と、そこへ河本が現れた。
孝美「仕事、平気なの」
 河本は、よいしょ、と言いながら重そうに孝美の隣に腰を下ろした。
河本「うん。こっち(岡山市)の用事1個今日に回した。それ、今終わらせて来たから、あと今日はオフ」
 そして河本は、暑そうに空を見上げ、疲れたねえ、と言った。孝美は、でも明日で終わりよ、と言った。明日には河本が季代子を草加へ送り届ける。
河本「終わりか。ちょっと残念な気もするな」
 孝美は流し見て笑った。
孝美「でももう体力持たないでしょう」
 確かに、と言ってふたりで笑った。朝夜、岡山と倉敷を行き来することは、驚く程体力を消耗したのだ。めいめい、ジュース片手にしばらく子供たちを見守っていた。暑すぎるから引き上げるかどこかに移動しようか、と言おうとしたところで、季代子が近づいて来た。ジェットコースターに乗りたいと言う。
孝美「行って来れば。私広太のこと見てるから」
河本「いや、たかみー行けば。俺が広太のこと見てるから」
ーーその不安気な発言は?もしかして?
 孝美はうさん臭そうに眉を潜めた。口元が笑って来た。河本は口をへの字に結んで、嫌です、をアピールしている。
孝美「大丈夫よ。デパートの屋上のでしょう?そんな大したもんじゃないって」
河本「う、うーん」
 河本と季代子を無理に送り出しながら、孝美は笑いが止まらなかった。
 しかし。河本は真っ青になって帰って来た。
河本「マジ、気持ち悪い」
孝美「えーー」
 仕方が無いので、屋内に移動して2階下にある休憩コーナーに避難する。この階には催し物の会場があるのでかなり煩いが、目の届く範囲で子供たちを遊ばせつつ休憩することが出来たのだ。すみません、と言って場所を空けてもらい、河本をベンチに寝そべらせた。
孝美「どうお、大丈夫?この向こうトイレだから、気持ち悪くなったら吐いちゃいなよ。・・・女子トイレだけど」
 河本は苦しい中で拒否の表情を作った。孝美は、はははと笑った。
孝美「大丈夫だよ。私も一緒に行くからさあ」
 で、やっぱり薄く笑いながら、こめかみを拭いてやった。それから、隣りに座ってじっとしていた。河本は真剣に体調と戦っていたが、しばらくして指で孝美をつつき、近づくよう合図してきた。孝美は河本の対面に移動して、河本の顔と同じ高さにかがみ込んで、自分の顔を近づけた。河本が待ちかねたように、でも小さな声で言う。
河本「・・・あれ、マジで怖いよ」
 ぶぶぶと吹き出した。河本のおでこを叩いた。
(以上、2014.04.01)

 その夜。孝美が夕飯の洗い物をしていると、広太が泣いて足下に飛びついて来た。しゃがみこんでどうしたのと聞いたけれど、泣きながらしゃべっているので何だか良く聞き取れない。
広太「・・・僕もうパパに会えないの?」
 季代子だ。
 季代子が広太に、叔父さんは広太くんのパパなの?と聞いたらしい。広太は否定した。パパは今違うところに居ると説明した。すると季代子は、じゃ、広太くんのママは「りこん」するんだわ、そして広太くんはパパには会えなくなるのよ、そして叔父さんが新しいパパになるのよ、と宣言したのだ。
 あっと思った。
ーー季代子の母は離婚したんだった!忘れてた。
 もちろん季代子は、河本が独身であることを知っている。 そして彼女は、今日孝美が河本を介抱する様子を観察していたのだ。明らかに。今日だけでなく、きっとこの滞在中、いつも観察していたのだろう。
 迂闊だったと思った。彼女の知識を、目を、見くびっていたと思った。見ると、季代子はこちらに背を向けて、平気な風で自分のリュックサックの中を探っている。
 孝美は広太を抱きしめた。
孝美「パパね。パパ。・・・もちろん会えるわよ。ただ今遠いところに居るからね、簡単に会えないだけ」
ーーでもこれは嘘だ。

 翌朝、季代子は口をへの字にしたまま帰って行った。広太は部屋の隅に座り込み、見送りに出て来なかった。河本は、ほとんどコメント無しだった。
ーーこのままにしておいたらダメってことだ。いずれにしろ。
 涙が出た。
ーーでも、どうやって勇気を溜めたらいいんだろう??

 夜、修一の携帯に電話した。案の定残業中だった。けれど、少しだけ、と言って広太と話をしてもらった。少しだけ、孝美も話をした。通り一遍の報告だった。不足は無いかと聞かれた。大丈夫と答えた。ときどき今日のように広太と話をしてもらえるか、と聞いた。いいに決まってる、と返って来た。そして最後に、東京に帰って来てもいいんだぞと言われた。

 季代子が帰った後は、ぱったりと河本に会わなくなった。時折メールを入れたが、簡素な返信が来るだけだった。
ーー忙しいのだろうか?
 確かに、9月に入っていた。期末期初という奴が近づいていた。
ーー「さかえ」とはどうなったのだろうか?
 寄りを戻した可能性も大いにあった。河本から聞いた少ない情報からでも、さかえがターゲットにしているイケメンは、手に入れにくそうだったから。それで傷ついて泣いて戻ったら、河本は迎え入れそうな気がしたから。
 孝美の仕事は8月以来、忙しいままだった。8月に、孝美と同じ事務の古株の女性が辞めてしまい、人が入れ替わったせいだ。心が擦り切れて来た。
ーーひとりは辛い。
 しみじみ思う。溜まらなくなると広太を抱いて寝た。広太は拘束されるのを嫌がった。広太の方が上手に、環境に順応していると思った。
 
 10月になった。10月最初の土曜日の午後、孝美は広太を連れて、近くの図書館に新しい絵本を借りに行った。広太はさんざん物色して孝美を待たせ、出たときには夕刻になっていた。
ーーあああ、疲れが倍増した。
 歩きながら借りた本を開こうとする広太に、お家に帰ってからよと注意して、とぼとぼと進んだ。・・・その先に河本を発見した。
ーーあっ!
 嬉しさが込み上がり、同時に右手が半分上がった・・・ところで、ぱたと固まった。
 河本は、女と歩いている。
 見ていられなくて、無意識で広太の方に視線を移した。広太は立ち止まったことにも気付かず、本を細く開いて中を覗き込もうとしていた。
孝美「広ちゃん、あっち回って、少しお散歩して帰ろっか」
 孝美は広太の手を引いて、まわれ左、をした。が、そうしならが、つい、既に遠ざかった河本をもう一度見てしまった。舌打ちした。
広太「マーマ、天丸屋行こうよー」
孝美「でも広ちゃん、もう夕方だよ」
 でもすぐ家に帰りたくなくて、遠回りした挙げ句、やっぱり天丸屋の屋上に行って広太を少しだけ遊ばせた。
ーーあれが「さかえ」か。
 そうに違いないと思った。天丸屋の屋上のベンチに座って、孝美は知らず、ため息を吐いた。思ったより全然可愛らしい女だった。
 河本が前に「ギャル」と言ったのが残っていて、孝美の頭の中では、さかえは、渋谷の109に良く居る店員のような女になっていたのだ。ところが本人は、姉camのモデルにでも居そうな感じだった。男なら絶対好きに違いない感じ。
ーーちっ、明日は日曜か。
 忙しく働いた方が良かったのに、と思った。ベンチで広太を見守っていると、先刻見た映像が何度も何度も再生された。
 河本は、長年一緒にいる夫婦みたいにすっかり溶け込んで、 その上相手は可愛らしい女で、その女と寄り添って、歩いていたのだ。

 夜が更けても見た映像がくるくる回る。むしろ頻繁に再生される。ああもうこんなのは嫌だ、と思う。
ーー秋が嫌いになりそうだ。
 そう言えば1年前の今頃も、悶々と考え込んでいたのだ。でも1年前は、河本が救い上げてくれた。
ーー大体において。
 河本に頼ろうとすること自体間違っている、と思った。
ーーとにかく西に避難しようと思って、ひとりで頑張ろうと思っていたのではないか。
ーー河本が彼女と寄りを戻そうが別れようが、どっちだって。
 でも。
ーーそりゃあ、結局どうなるかは気になる。それはそれでいい。そこは当たり前だ。
 でも。
ーー結局、奴は「チャラい」奴なのか?
 と考えて、訂正した。河本はもう40だった。言葉が似合わないと思った。
ーーじゃ、奴は「たらし」なのか?
 何もしないでいたらいけないと思った。どこかに出掛けようと思った。
孝美「広ちゃん、来週の週末、どっか行こうか。どっか、行きたいとこない?」
 広太はもうすっかり寝る支度が出来て、布団に入るところだった。彼は不思議そうに首を傾げた。岡山に来て以来、季代子を迎えに強行軍で東京を往復したの以外には、出掛けた試しがなかった。広太の世界は、保育園と、図書館と、天丸屋の屋上で出来ていた。
孝美「じゃっ仮面ライダーウィザードかは?に会いたくない?」
 と言ってから、それじゃまた天丸屋になりそう、と思った。広太はおっとりと考え込んでいた。で、しばらくしてから答えた。
広太「マーマ、僕ウィザードより、パパに会いたい」
ーーあっ。
 びっくりした。いけない事態だった。孝美はぽろっと流れた涙を隠すために、広太に背を向けた。

 電話すると、修一は来いと言った。予想外だった。週末には何か、仕事か野球か何か、予定を詰めていると思った。
 上京に当たり、予めホテルを取るべきか迷った。綿引綾乃が入り込んでいるのか否か、電話越しではさっぱり様子が見えなかったのだ。彼女は、孝美の記憶の中に、堂々とした風情で巣食う。それでつい、びくついてしまう。でも東京なんだから、ホテルは必要ならいくらでも当日取れると思って、気にしないことにした。

 行ってみると、東京の家は、孝美が出る前とほとんど変わっていなかった。これも何だか予想外だった。普通に只今という感じで家に入り、但し大分散らかっていたので掃除から入って、・・・その後は普通に家族として過ごした。
 もうひとつ予想外だったのは、会いたいと言ったくせに、実際に会うと広太が父に人見知りをしたことだった。
 広太はまだ3つだ。
ーー数ヶ月会わないうちに、広太の頭の中の修一のイメージが実物とズレてしまったのかもしれない。
 哀れだった。
ーーとすれば、もっと頻繁に定期的に会わせるか、・・・きっぱりと別れるか・・・。
 躊躇した。孝美から見れば、出て行ったときから時間が進んでいないかのように、修一の様子に変わりが無かったのだ。機嫌を見計らって、さりげに岡山に来ないかと言ってみた。返答は、全く変わり無かった。住むんじゃなくて、広太に会いに岡山に来るのはどうか、と言ってみた。
修一「何で俺が岡山なんか行かなきゃならないんだ」
 取りつく島が無いと思った。
 孝美の方から上京するのは難しかった。今回はやっつけで来てしまったけれど、地震が何時来るか分からない。もし今後、あの実験が成功したとして地震が来る日が分かったら、それなら、その日を避けて来てもいい。だが、定期的に上京するとなれば旅費の工面が馬鹿にならないし、孝美から頑な修一に会いに来るのは気が重かった。来てしまえばその後は、慣性の力とでも言うもので、するりと家族に戻ることは分かった。
ーーそう。「家族」には戻れる。
 しかし何事かのきっかけで、再び簡単に、夫婦の亀裂が表面化するだろう。その亀裂は今目に見えないだけだから、きっと明るいところに出る度に少しずつ深みを増して、そしてどんどん深まっていくのだろう。・・・だから東京に来るのは難しい。広太のためと分かっていても、骨が折れる。
ーーやはり別れるか・・・。
 離婚届は、修一には話していないが、岡山に移る前に一応もらってきてあって、東京の家のチェストの引き出しに入っていた。
 岡山で、ひとりで広太を育て上げる。ひとりで。可能だろうか、と思う。まだ自信が無かった。
ーー岡山はいいところなのだけれど。
 そこで河本とさかえが歩いている映像がよぎった。岡山にも、好きでない印象が出来てしまった。残念なことだった。
(以上、2014.04.08)

 10月の終わり、東京行きから2週間経った頃、河本がふいっと姿を見せた。少し悪びれた様子をする。孝美は困ってしまい、つっけんどんな態度になった。
河本「タイムスリップの実験はした?」
 正直驚いた。
ーーそう来たか。
孝美「してないよ。・・・ひとりじゃ出来ないって、言ったでしょう」
ーーそう。ひとりでは出来ない。
 孝美の考えたところでは、こちらに戻るには呼び戻してもらうためのアクションが要る。孝美は、孝美の身体を、ちょっとした距離だけ移動してもらうことが必要と考えていた。魂?が違う次元をふらふら彷徨っている中で、帰る肉体が移動すると、帰れなくなってはいけないという心配が生じて、ぐいっと戻って来る感じ。・・・だから、岡山に来て以来、ずっとずっと試してみたかったけれど、どうにも実現出来なかったのだった。
ーーそうだ。明日地震が来てしまう可能性もあるんだ。
 改めて考えるとぞっとする。取り敢えず自分が避難してしまったことでのんびりしていたことを反省する。でも、夏に違う方向に気持ちがブレてしまい、考えることが増えて、「未来を見ること」に集中出来なかったのだ。その、集中を欠いた原因が今ここに居る。・・・孝美はつい、黙りこんでいた。
河本「怒ってんの」
孝美「怒ってないよ」
 余計につっけんどんになる。
河本「すみません」
 孝美は思わず目を見張った。
ーー何にすみません、なんだ?
 取り敢えず謝っちゃうんだ、と思った。修一と真逆だ。でも謝られるとどうにも脱力してしまう。
孝美「・・・すごい戦法だね」
 金曜の夜で、孝美はシチューを作り始めたところだった。河本は薄く笑って、苦笑いかもしれない、台所と対面の柱に寄りかかって、腕組みをした。そのすぐ右手がユニットバスの扉だ。孝美は振り返ってシンクに向かい、ジャガイモの皮剝きに戻った。
孝美「夕飯、食べてく?」
河本「うん、そうだな・・・」
 孝美はため息を吐いた。
河本「仕事はどう」
 それで、河本に背中を向けたまま、河本も位置を変えないままで、少しだけ近況を交換した。
河本「うちもさ、少しましになって来たよ」
孝美「そうなの?」
河本「うん。やっと受注と、それから生産ラインも安定してきた」
孝美「そう・・・それは良かった」
ーー本当に良かった。
 実際河本は奮闘してきたのだ。孝美は河本が自分の貯蓄も全て会社につぎ込んでいることを知っている。勝算は5分5分か、それ以下だったはず。
河本「だからさ。土日、片方くらいは休めるようになりそうだ」
孝美「って、今まで全然休んでなかったの?」
河本「いやいや」
 河本は両方の手のひらを上に向けて、参った、みたいなジェスチャーをした。
河本「丸1日の休みは無かったってだけ」
孝美「・・・そうなんだ」
 孝美の頭の中が、ふっと10月頭の土曜に戻った。
ーーじゃあ、こないだ「さかえ」と居るとこを見かけたのは、やっと出来た時間をふたりで過ごしてるって図だったわけ。
 と思ったら言っていた。
孝美「・・・こないだ、さかえさん見たよ」
ーーあああ。
 無計画な発言だった。河本が背中で立ち直したのが分かった。孝美は横目で、立ち直した足下の影だけ見た。
河本「・・・いつ?」
孝美「10月のあたまの土曜、かな」
河本「どこで」
孝美「えと、図書館出た辺り。河本くんとふたりで歩いてた」
 河本は考え込んだようだった。孝美は心の中で溜息を吐いた。
ーーもういいや。進めてみよう。
孝美「あれ、さかえさんでしょう?・・・夫婦みたいだったよ。結婚して何年も経つしっぽりした夫婦」
  後ろに動きが無い。
ーー手、切りそう。
 包丁をしっかり握り直した。仕方が無いのでジャガイモの皮剝きを進める。少し経って、河本が動いたので思わず少しだけ振り返った。河本は脚を組み替え、腕を組み直した。
河本「諸橋、それならいちおう報告しておくけど」
孝美「?」
ーー手、切りそう。
 今度はまな板の上に包丁をすとんと置いた。
河本「さかえとは「解消」で相談中」
孝美「えっ」
河本「でも難航中、なんだ。・・・穏便に進めたいから。なかなか難しくて」
 河本は顎に手をやって苦笑いした。
河本「慰謝料で協議とかなったりしたら、ことだからな。今うちはそんなことで出費してるときじゃない」
孝美「・・・」
河本「・・・自然消滅みたいな形に持って行きたいんだ。もうそろそろ終わりにしたいだろ?みたいな」
孝美「で、さかえさんは何て」
河本「えーどうしようかなあ、だってさ。ほんとに不思議だ」
 孝美は、もう一度、あの日見た河本とさかえの、ごく自然な雰囲気を思い浮かべた。別れ話を進めている雰囲気には見えなかった。
孝美「さかえさんは、やっぱり河本くんと結婚したいんじゃないの?」
河本「ええ。まさか」
 河本は本当に嫌そうに、鼻に皺を寄せた。
河本「たかみーは知らないんだよ。・・・どんなことになってたか。・・・俺がどんな思いしたか。あの頃」
ーーあの頃?
 孝美はくるりと振り向いて河本に向かい、シンクにもたれた。顎を引いたまま、河本を見上げる。
孝美「あの頃」
 河本は言い淀んだ。
河本「つまり・・・さかえがイケメンに走ってった頃だ」
孝美「・・・」
河本「俺、さかえかイケメンかどっちか、殺してやろうと思ったんだぜ。マジで」
 河本の声がどんどん小さくなる。
ーー・・・。そんなに好きだったんだ。
河本「ところが俺は小心者でさ。・・・後つけて写真撮るので精一杯」
 河本は腕組みした右手を外して、げんこつにして眉間に持って行った。小心者なんだ、ともう一度呟いた。
河本「でも・・・」
 河本が、くっと笑う。
河本「さかえは、何にも気付いてないだろうな。後つけられたことも。写真撮られたことも・・・さかえにとって俺は・・・絶対安全な崇拝者だったんだろう」
 ここで、部屋との仕切りの扉が細めに開いて、広太が顔を覗かせた。
広太「河本くん、まだ?」
 広太は、河本に見せたいものがあったのだ。でもママと話が済むまでTVを見て待っているように、と言われたのだった。
河本「ああ、ごめん」
 広太が台所に入って来た。河本は両膝に手を当てて中腰になって、広太に近い目線になった。
広太「もうすぐドラえもんはじまっちゃう」
 ドラえもんは見たいので、始まる前に済ませたいらしい。
河本「うん分かった。すぐ行くから、部屋で待ってて。な」
 実の父より河本の方が父親みたいだ、と思った。実際会う頻度が河本の方が多いのだから、当たり前かもしれなかった。広太は素直に、早くね、と言い残しながら部屋に戻った。
 河本は中腰より高い位置には戻らないで、そのままさっきの柱にもたれて、ずずずと床に腰を落とした。体育座りのコンパクトバージョンみたいになる。顔に近づいた膝の上に、両手の指先を組み合わせて乗せて、そのまま眉間を押さえた。
河本「たまに、いきなり戻って来るんだよ。・・・イケメン捕まえる自信が無くなったときなんだろうな、きっと」
孝美「・・・」
河本「本来、早く破談にすべきだったんだろうけど。でもさかえの親は、結局はさかえが可愛いから、だから、あそこの親が出て来たらどんなことになるか分からないし。俺はうちの社と社員を守らなきゃいけないし」
孝美「・・・」
河本「もうどうでもいいかって思ってたんだ。・・・だから婚約中のままになってた」
孝美「・・・」
河本「でも・・・でもこの頃、欲が出て来たみたいだ。何だ、もっと幸せになりたいって・・・欲・・・か? 」
 ほとんど自分自身に言っているようだった。孝美はシンクにもたれたまま、脚を踏み替えた。空白の時間が経った。すごく長い感じがした。でも沈黙を破って、声を出した。
孝美「・・・それ」
河本「?」
孝美「それ、いつの話」
 河本が目だけ孝美に向けた。
河本「何?」
孝美「その、さかえさんとイケメンので、河本くんがいろいろ動いてた頃。それっていつ頃」
河本「ああそれ」
 河本の目が膝元に戻った。
河本「婚約して半年くらいの頃だよ。いつだ?ん・・・2年経ったか。2年前の、夏だ」
ーー2年前の、夏。
 孝美は首を傾げて考えた。
ーー私が修ちゃんのことでぐちゃぐちゃになってたのが1年前の、夏。河本くんに相談したのが、その秋。
孝美「・・・じゃあ河本くんは、そーいうのがあったから、私のときに相談に乗ってくれようとしたんだ」
 河本は顎に手をやって、考えた。
河本「・・・そうだな。そうかもしれない」
ーー私は河本くんに助けられたけど。
 孝美はちらっと河本の脳天を見た。
ーー河本くんはひとりで頑張ってたのか。
 河本の頭頂部は、白髪がチラチラ。こんな折なのに、見えた。
 河本はいきなり立ち上がって、部屋の方に移動した。孝美もはっとして料理の続きにかかった。河本と広太が何やら話しているのを小耳に挟みながら、手先に上手く力が入らなくて、何度も包丁を握り直した。
河本「たかみー」
 顔を上げると、河本が部屋の扉のところに立っている。
河本「やっぱ俺、もう帰る」
孝美「えっ」
 と言っている間に、もう靴を履いていた。
河本「・・・てわけで、孝美の実験、付き合う時間作れそうだから。後で連絡して。そっちの都合いいときに」
孝美「え」
河本「・・・今日は、そもそもこれだけ言うつもりで来たんだぜ・・・全く」
 そして、孝美と居ると調子狂うことばっかりだ、と呟いた。
 あっと言う間に河本は居なくなった。孝美は、会話を反芻して初めて、「みー」を伸ばして呼ばれていないことに気付いた。
 
 シチューの具材は、なるべく小さく切った。河本と話していたことで時間を取られて、広太を待たせてしまっていたから。小さく切れば、早く煮える。その上、孝美の中で何かが、早く、早く、と急き立てていた。それが何なのか良く分からなかったけれど、突き詰める気になれなかった。そして、河本が帰った後、30分で夕食が出来上がった。 広太が食べられるよう甘く味付けしたわかめの酢の物を2つの小鉢に分けながら、自己最短記録だ、と頭の端っこで思った。
 ちゃぶ台で、ぼーっとひと口シチューを口に運んで、スプーンを置いた。時計を見た。
ーー40分。
 河本が帰ってから、今で40分だ。
ーーあと5分したら、電話しよう。
ーー運転中だったら、危ないもの。
 孝美の家から河本の家まで、河本の運転でざっと30分。車の乗り降りやその他何やかやあるとして、プラス15分というところと思った。ちゃんと帰れているかどうか、本当に心配だった。前にもさかえの話は聞いたけれど、でもあのときは過去談の報告調で、淡々としていたのだ。今日みたいに辛そうな顔を見たのは、初めてだった。Tタイヤに入社して河本と知り合ったときから数えても、初めてだ。
ーーあんなに追い込んだのは私だ。

 柱時計の秒針を数えて、45分ぴったりで電話をかけた。・・・河本はすぐに出た。
孝美「河本くん。ちゃんとうちに着いた?」
河本「え?」
孝美「え?・・・って、まだ運転中なの?」
河本「え」
孝美「あ、だったら・・・」
ーー邪魔しちゃいけない。
 孝美は、あとで、と言いながら急いで電話を切ろうとした。
河本「え?ちょっと待て。 ちょっと待て。何だって?」
孝美「え、いいの。運転中ならいいの」
 と言いながら急いで電話を切ろうとした。
河本「あっちょっと待て。だから!聞けっ」
孝美「え」
河本「・・・何慌ててんだ。俺運転してないけど?」
孝美「えっ」
 ちょっと沈黙があった。
河本「・・・まだ岡山に居るけど」
孝美「えっ」
河本「時間潰してた。・・・もうちょっと落ち着いてから帰ろうと思って」
ーーそうか。河本くんは無茶なことする人じゃなかった。本来。あれ?
孝美「 で?え?じゃあ何処に居るの?」
 また沈黙があった。
河本「インターネットカフェ。行きつけの」
孝美「 インターネットカフェー???」
河本「って言うなよ。ここの設備、いいんだよ。ときどきここのプライベート席で年代物の洋画なんか見て・・・」
孝美「どこにあんの」
河本「え?」
 孝美の声がちょっと大きくなった。
孝美「どこにあんの」
河本「え?えーと?あくら通り。ああ、・・・図書館、たかみーがいつも行ってる図書館な、あの先の、あくら通り分かる?」
孝美「分かる」
河本「そう、そこ左に折れて田町の駅に向かう途中、のビルの、何階だ?ここ。・・・4Fか」
ーーうちから徒歩圏内じゃん!!
 かっとなった。
孝美「これから行くから!そこに居て。・・・何て店?」
河本「え?サイバースペースカフェ」
孝美「 サイバースペースカフェ」
 孝美はその辺にあった紙の余白に、素早くメモした。
河本「え?って来るの?え?」
孝美「行くから!そこに居て!」
 それで、電話を切った。広太はスプーンを舐めながら、不思議そうに見ていた。
孝美「広太、ママちょっと用が出来たから、ちょっとだけ出掛けて来る。ちょっとだけなんだけど、お留守番出来るよね?」
 孝美は広太の皿をさっと見て、食べ終わったところなのを察知した。
ーー食べるの早いな。でも良かった。
ごめんね、と言いながら、小走りで広太のシチュー皿をシンクに運んだ。手荒にカーディガンを羽織った。でも部屋を出ようとしたところでもう一度テーブルを振り返った。広太の蓋付きコップの中のジュースが無くなりかけているのを見て、慌てて補充した。
孝美「ご免ね。これ飲んで待ってて。すぐ。8時半までに帰って来るからね」
 それで飛び出そうとすると、広太が呼びかけた。
広太「ママー、シチューにラップかけなきゃだめでしょ」
孝美「えっ」
 孝美は、心の中でちっと舌打ちしながら、でも教育の一貫性を考え、自分の食べかけのシチュー皿に素早くラップをかけた。
 それ以上は、口数の少ない広太が言う暇がないうちに、 家を走り出た。
ーーご免ね、広太ー。
 広太にこんな仕打ちをしたのは初めてだった。
ーー早く、早く帰って来よう。
 でも頑張って走っているつもりでも息が切れて、途中歩きが入った。するとイライラが募った。頭の端で、甚だ運動能力が落ちていると思った。
ーー サイバースペースカフェって、一体どんな名前なんだ。
 八つ当たりだ、とは思った。
 あくら通りに出て左に折れて、早足で少し行くと、・・・河本がもう居た。

 彼は通りに出ていた。携帯電話を持ったまま、腕組みをして立っている。
河本「たかみー」
ーーあれっ不機嫌??
 孝美は河本の3m程手前で、ききき、と止まった。河本の不機嫌もまた、あまり無いことだ。
孝美「はい?」
河本「・・・何で電話持って出ないの」
孝美「え?あれ?」
 そう言えば、家の鍵とお財布だけを持って、飛び出して来たのだった。
河本「電話したら、広太が出たよ」
孝美「あああっ・・・すみません」
 河本は孝美の背中を押して促して、あくら通りと交差する、寂し気な裏通りに入った。こんな通りは、夜ひとりでは絶対通りたくない。
 河本は少しの間、無言でさくさく歩いた。孝美はほんの半歩遅れながら、頑張って付いて行った。それから河本は、ま、大丈夫そうかな、と言って歩を緩めた。
河本「この間一緒に天丸屋に行ったときの、写メ撮られてたんだよ」
孝美「?」
河本「いや、動画だった。・・・さかえの友達があそこに居てさ」
孝美「へ?いつの?」
河本「多分、季代子を送ってく前の日に行ったときの」
孝美「・・・」
河本「天丸屋の屋上でふたりで並んで座ってるとこの動画を、さかえに送って来たらしい」
孝美「・・・」
河本「で、速攻さかえから俺にメールが来て、何か楽しかったみたいねと来た」
ーー屋上の動画。
河本「まっ、俺が伸びてるとこの動画じゃなかったのは、不幸中の幸いってとこか」
孝美「・・・私も今そう思った」
ーーあれは顔と顔が近かった。
 でも河本にとって、格好悪いところを撮られるのが嫌だったのか、孝美と近づいているところを撮られるのを恐れたのか、どっちか分からなかった。
河本「で、話がこんがらかってしまわないように・・・だから孝美のとこ行かないようにしてたんだぜ、ここんとこ」
孝美「え」
河本「ま、ほんとのとこは、それが半分と、俺の気持ち整理するのが半分」
孝美「え」
河本「それをまあ、飲屋街のど真ん中を、こんな金曜の晩に」
 河本はくすと笑って孝美の横に立ち止まった。
ーーあ、機嫌が直った。
 一気にほっとした。河本は何事か考えているようだった。孝美は隣りに立ったまま待った。でも結構待ったけれど動きが無いので、声をかけてみることにした。
孝美「夕飯、食べてって」
河本「いいよ」
孝美「あ!で、早く帰らないといけないの。広太をひとりで置いて来ちゃったから」
河本「分かった」
 ふたりで歩き出しながら、孝美はちょっと考えた。
孝美「あっでも今日、超ぼーっとして、そんですごい急いで作ったから不味いかも。・・・特にわかめの酢の物が・・・」
河本「いいよ」
孝美「酸っぱくなくて、甘いかも」
河本「へ?」
 河本は笑い出した。
河本「酢の物が甘いの?」
孝美「ええと、広太の好きな味にすると、そうなっちゃうんです」
河本「分かった。いいよ」
 そして、危険だけど、これはすごいチャンスだなあ、と言って、立ち止まった。それで、また頭を両手で捕まえられてから、唇に、頬に、顎に、キスが降って来た。
(以上、2014.04.15)

 タイムスリップの実験は、すぐに始めたかった。なので、家が近づいた辺りで、孝美は、取っ掛かりだけでも今夜から手をつけられないか、と言ってみた。
河本「いいよ。ただ・・・」
 孝美のアパートの駐車場が遠目に見えてきていた。なんと河本の車は、孝美のアパートの駐車場に駐めたままだった。
河本「いちおう、孝美の車の方、前に出して、俺の車後ろに下げとくか」
 孝美のアパートは、岡山駅から徒歩7分。裏手の通りではあるが、通行は多い。さかえや、さかえの友達もかもしれない、その連中が河本の車を見つける可能性があるのだろう。
 河本の車は孝美の車の前に微妙に斜めの横付けになって、車体のハナ先が隣りの駐車スペースにはみ出ている。河本が孝美の家を訪れるときには、いつもこんな無茶な止め方をしているのだが、これは孝美の駐車スペースがいちばん奥にあるから出来る技だ。微妙に斜めに止めることで隣りの車もいちおう出入り出来るので、今のところ文句は来ていない。
 ふたりめいめいに自分の車に乗り込んで、前後を入れ替えた。ただ、孝美がぶつけないでギリギリで駐めるのは難しかったので、途中で河本に運転を替わってもらった。河本の車はダイハツの軽自動車、ちなみに色が可愛くて男が乗る車とは思えない、のだが、河本に言わせると燃費がいいんだからこれでいい、のだそうだ。一方、孝美の車は日産ノートのシルバー。購入の際、孝美も燃費を最重視したかったのだが、出資者の修一が”軽”にはNGを出したのだ。万が一ぶつかったらひとたまりも無いから、だそうだ。
 家に入ると、広太が河本に飛びついて行った。こんなほのぼのしたのが日常になったらいいのに、と思った。
 実験は、広太が眠ってからでないと始められなかった。広太が起きないように、台所を使うことにした。面積では、何故かリビングより台所の方が大きい間取りなので好都合だ。
 孝美が購入してあった鏡類を部屋からそっと運んで、置き方を考えていると、後ろから河本が布団を運んで来た。
孝美「こっちで寝るの?」
ーーそこまで気合い入れて夜通しやる気なのか?あるいは・・・。
 孝美は赤くなった。
河本「だって、トリップしたら倒れるんでしょ。でっかいクッションが無いと」
 河本は孝美の顔を覗き込んだ。にやと笑う。
河本「そっちにも使おう」
 孝美は真っ赤になって、手をひらひらさせて、否定する。河本はくっくっと笑った。
河本「で?どう置くのがいいの」
 河本が鏡に向かう。全身が映る姿見が2枚。光源は暗いものがいいので、台所の60wの明かりひとつで丁度良いだろう。問題はそれぞれの距離と角度だ。
 孝美はぶるると震えた。大きな鏡は、7年前のトリップ以来、見ないようにしてきた。どうしても怖い。
孝美「まず、鏡がお互いに映し合って、その間に私が入らないといけない」
河本「じゃあ、こうか?」
 河本が2枚の鏡が真直ぐ向き合うように調整する。
孝美「あと、明かりが入る角度と距離も関係あると思うけど・・・」
 と言いながら、鏡の間にそろそろと入った。脚が震える。
孝美「鏡どうしが、光の玉みたいのをキャッチボールし出すの。上手く行けば」
 孝美はそっと、右の鏡を見てから、左の鏡を見た。
孝美「そんで、その動きに捕われて、ふわんと来る・・・んだけど。確か」
 孝美は首を捻った。
孝美「来ないな」
河本「そうなの?」
 孝美は再び、右の鏡と左の鏡を検分した。
孝美「全く」
河本「少し変えてみる?」
 河本が鏡の位置を少し移動する。
 鏡を少しずつ捻って角度を変えたり、鏡どうしの距離を大きくしたり縮めたり、台所の明かりをスモールランプに変えてみたり、思いつくことを色々やってみた。が、気配も無かった。
河本「能力がもう無くなったとか」
孝美「・・・その可能性もあるけど・・・」
ーー何だ?
 そもそも何かが違う気がする。
 孝美は台所のシンクにもたれて、考え込んだ。河本は眠そうに欠伸をした。ちょこちょこやっているうちに時間が経過して、午前3時になろうとしていた。河本は、来週またやろうぜ、たかみー、と言って、布団にダイブした。

 河本は律儀な性質だ。次の週、土曜の夜に、きっちり現れた。今日は河本の車の音が聞こえたら下に降りて行って、すぐに車の前後を入れ替えた。
孝美「ご飯食べた?」
 午後11時を回っていた。
河本「いや」
 孝美はじゃあ、と言って、秋刀魚を焼いたのの残りを電子レンジでチンした。広太が隣りで眠っているので、こそこそ話す。
孝美「相変わらず忙しいんだね」
 そして、そんな中すみません、と謝った。
孝美「まだまだたいへん?」
 河本は定位置になった座椅子に座ってきゅうりの浅漬けを口に入れながら、小さく微笑んだ。
河本「まあ、ぼちぼち」
 孝美は河本の疲れた顔を見ながら、ふうと息を吐く。
河本「でも、少し見えて来たから」
孝美「それなら良かった。・・・せっかく続けることにしたんだもんね」
河本「うん」
 少しの間、ふたりとも黙り込んだ。
河本「うちの技術はさ、実際、高いんだよ」
 河本が前方の何かを見るとも無しに見つめて、呟く。孝美は首を傾げた。間が空いた。
孝美「ええと、プラスチックで何か作ってるんだっけ?」
河本「何か。・・・って何だと思ってんの」
 河本がふいっと笑う。
河本「消しゴムとか下敷きとか作ってると思ってんでしょう」
孝美「え?違うの?・・・お弁当箱とか、タッパー?」
 河本は、日用品しか浮かばないんだな、と言って、掌で孝美のおでこをぺちと叩いた。河本の手は真四角。孝美はほんとは細長い手が好きなのだが、これはこれで、いい。
河本「うちは透明度の高いプラスチック板を作るののね、技術がすごく高いんだよ」
孝美「透明度」
河本「そう言えば、長内さんも透明のを開発してたんだよね」
孝美「ん?ああ、透明のゴムのこと?・・・良く覚えてるね」
ーー確か前ーに一度話したな。・・・いつだっけ?
 河本はまたふいっと笑った。
河本「うちも透明にこだわってるからね。頭に残り易い」
孝美「あっちも透明、こっちも透明」
 孝美はどうでもいいんだけど、という顔をして大きく息を吐いた。河本はまあ聞けよという感じで促す。
河本「ま、うちの場合はね、いわゆるアクリル樹脂って奴。聞いたことある?」
孝美「あるけど、・・・何だっけ?」
河本「水族館の、水槽の壁とか」
孝美「ああ。あれか。あれアクリル樹脂なんだ。・・・ふううんん。すごーいい。アクリル樹脂って、プラスチックなの?」
河本「うん、プラスチックの一種だよ。最も、うちは、日用品みたいのも作ってるけどね。せっかく技術が高いんだから、アクリルで勝負したいと思って。でも、そうすると、受注生産になるから営業力が求められる。プレゼン行ったり。そこそこでかいプロジェクトの入札に参加したり」
孝美「河本くんが営業」
河本「そ。およそ似合わないだろ。でもやらないと」
 そして、日々勉強することばかりです、と言って微笑んだ。それが何とも愛しい。孝美は、ただゆっくりと、見た。
河本「中小企業と大企業の技術力の違いってさ」
 河本は真面目な顔で孝美をちらと見る。
河本「大企業は、資金回して、最新技術の研究とか開発が出来るわけ。でまあ、実物作る段階になると下請けに回すわけなんだけどね。一方、中小企業の方はというと、そういう金が無い分、汗かいて物作って試して、納得が行くまで詰めて行く。いわゆる職人技の技術。・・・日本が世界に誇る技術力というのはね、実際、地方の中小企業が支えているんだよ」
 で、また前方の何かに目を戻した。
河本「俺だってあっちに居た頃は、東京が全てみたいに思ってたけどさ。確かに東京は世界に開けてるから、営業とか、広報なんかの意味では、東京が便利。でも東京に全てが集約されてるわけじゃない。実際の製品は、地方の、むしろ田舎の方で、まずパーツが作られて、それがまた地方の、何某かの町で製品に組み上げられる。・・・例えば有名なとこでは、・・・何だろう。車だったら?・・・車だったら、例えば愛知の豊田市?いやこれは本社も地方にあるパターンだな。タイヤだと・・・例えばヨコハマタイヤは・・・これは本社は東京で、工場が地方か。Tタイヤと一緒だ」
 ふっと箸を置いて、頬杖を衝いた。
河本「とにかくうちの受け持ちはその中の、パーツを作るとこだ。今、うちは職人が15人。でも確実に「透明度の高い」のを作れるのは4人しか居ない。これをどう継承して拡げて行くかが問題だ」
 で、孝美の方に目だけ向けて、口の端を歪めて微笑んだ。
河本「その上さ。経理のおばちゃんが、早めに引退したいみたいなんだよね」
孝美「引退」
河本「うん。55(歳)なんだけどさ。うーん。辞めちゃったら、アルバイトでも入れるしかないかなあ」
 孝美は思わず右手を伸ばして、河本が自分の顎を支えている左手をそっと包み込んだ。
ーー山積みなんだ。
 河本は頬杖を外して孝美の右手を取って、孝美の手が自分の頬に当たるように順番を変えた。そして目を閉じて少しの間じっとした。
河本「やばいな。寝ちゃいそうだ。よし、やるぞ」
 そしてご飯の残りをさっと食べ終えて、立ち上がった。

河本「さて。今日のプランは?」
 孝美はシンクに向かって河本の食器を水に浸していた。振り返って、首を傾げる。
河本「何か計画立ててんだろ?」
孝美「うん・・・今日は片方の鏡を小さくしてみようと思う」
 そしてリビングに戻って手鏡を取って来た。
孝美「前回トリップしたときって、片方の鏡は洗面スペースので、もう1個は手鏡だったの。そんで、髪留めがちゃんと留ってるか確認しようとして鏡で映しっこして、ガン見したの」
河本「ん」
孝美「で、同じとこずーっと見てたらひゅうんってなって、で」
河本「未来に落ちた、と」
孝美「そう。で、こっちに残った身体の方は、・・・うちの・・・」
 孝美はちょっと言い淀んだ。
孝美「うちの・・・旦那・・・は、ばったり倒れた音がした、と言っていた」
 孝美は腕を組んで、またシンクにもたれた。
孝美「鏡の中の、1点を集中して見ることが必要なんじゃないかと思うんだ。大きい鏡どうしだと、散れるっていうか」
河本「成る程ね」
孝美「あとはまた、角度や光源からの距離が関係するかな・・・」
河本「分かった。じゃやってみて」
 でも、今日も上手く行かない。今日は一方が手鏡なので、河本の手を煩わせることもあまりない。孝美が自分で動いて、首を捻りながら鏡を見つめ続けた。河本はクッション替わり?の布団に座って、検分するように注意深く見つめていたが、やがて布団に引かれるように横になり、肘枕になり・・・うつらうつらし始めた。始めてから1時間程経過した頃、河本が居眠りを始めてから20分程経っていた、なので孝美は横目でそろそろ上に何かかけてやった方がいいかなと思った頃だった、その頃、河本ががばっと目を開けた。
河本「おおっと。・・・どんな感じ?」
孝美「あっ寝てていいよ。・・・多分、声くらいかけれると思うんだ。多分。光の玉っての?が出たあたりで」
河本「そう。そんで、どんな感じ?」
孝美「まだ全然」
 河本は布団の上に座り直して、半ばぽーっと考えていたが、重そうに立ち上がった。
河本「俺、少し居なくなっても平気?」
孝美「えっ。うん。いいよ」
河本「ちょっと出てくる。・・・すぐ戻るから」
 と言って、外へ行ってしまった。
ーーそりゃあ飽きるか。
 「すぐ」と言われたので気にも留めず、実験の続きにかかった。が、15分以上経過したところで、どこに行っちゃったんだろうと気になり出した。手につかなくなって、自分も外に出てみようかと考え出したとき、・・・河本が戻って来た。コンビニの袋と、もうひとつ、小脇に抱えている。
 河本は台所の作業台にコンビニの袋を下ろして、350mlサイズのビールを取り出した。
孝美「えっ、あっそうか。これは気が付かなくてごめん」
ーー買っとけば良かった。
 河本は、いやいやー、と小さく言いながら手をひらひら振った。
河本「いやいつもは飲まないから」
 そう、河本は酒飲みではない。
ーーでは何故に?やっぱ飽きちゃったのか?
 と思っていたところで、河本は小脇に抱えていたものを床に置いて、電源を繋いだ。
ーー・・・パソコンだ?
孝美「え?」
河本「これ、うちで廃棄待ちになってるヤツなんだけどさ。フォーマットしといた。ネットワークには繋がらないけど、いちおう(Microsoft)XPだし、Office入ってるから、結構使えるよ」
ーー何に?何に使う?
 孝美は本当に分からなくなって、首を傾げた。
河本「どうもその実験、やっつけだと再現しなさそうだろ。テストケースをちゃんと立てる必要がある」
孝美「テストケースう??」
 孝美の間抜けな声を聞いて、河本はきりっと見た。
河本「俺に協力して欲しいなら、ちゃんとテストケース立てて実験しな」
 そして河本は、胡座をかいてパソコンの前に座り込み、操作し出した。
ーーそうか、河本くんは(Tタイヤ時代)品質管理部だったー!!
 生理的に、やばいと思った。面倒なことになったと思った。河本は Tタイヤ時代 、新製品の出荷前テストや、発売済み商品の品質保持のためのテストを重ねて来たのだ。それが彼の仕事だったのだ。
河本「電池無くなっちゃってるから、電源繋がないといけない。そこんとこが不便なんだけどね」
 うしろから覗くと、Excelを立ち上げて項目をリストアップしている。B列に、行を空けながら入力する。「鏡」「光源」「孝美」。
河本「まず、要素の整理からだ。必須のものはこれだけ?他にある?」
孝美「ええと?・・・うーん」
 河本は明確な返事を待たずに続いて入力していった。「鏡」の下に空けた空白行を使って、C列に入力していく。「2枚」
河本「2枚より多くてもいいんだよね?」
孝美「え?・・・うん。多分・・・?」
 書き直す。「2枚、またはそれ以上」
 そして、孝美に確認しながら、記憶にある実績に基づいてどんどん入力していった。
 「鏡」
  「2枚、またはそれ以上」
  「2枚の場合:1枚は、半身以上が入る大きさ。1枚は手鏡」
  「3枚以上の場合:全て、全身が映る大きさの鏡。映し合う角度に配置されていること。前、左、右」
 「光源」
  「天井(高さ約2.5m?)に配置された電球(60w?)」
  「天井(高さ約4m?)に配置された蛍光灯(60w?)」
 「時間帯」
  「夜」
 「孝美」
  「鏡が映し合う位置に立つこと」
  「鏡が映し合った位置を凝視すること」
 これらの項目を少しの間見つめてから、違うシートに切り替えた。
河本「止めた。発生したときの事象に沿って詳しく洗った方が良さそうだな」
 「1回目」と入力。
河本「何時だったか、日にち覚えてる?何年の何月何日」
 仔細は覚えていない。河本のスマートフォンでカレンダーを出して、2005年9月を表示して、記憶を辿った。
孝美「9月の、月末だったのよ。だから多分・・・?」
 「1回目」
  「日時= 2005年9月20日(火)19:30頃」
  「場所=東京都新宿区 雑居ビル8F(?)ホットヨガスタジオ内」
  「光源= 天井(高さ約4m?)に配置された蛍光灯(60w?かなり暗いもの)」
  「鏡=全身が映る大きさの鏡。 前、左、右 3方向を埋めるように配置」
  「孝美と鏡の距離=各、約5m(?)」
 「2回目」
  「日時= 2005年9月24日(土)23:30頃」
  「場所=東京都練馬区 マンション4F 長内宅、洗面所」
  「光源= 天井(高さ約2.5m?)に配置された電球(60w?)」
  「鏡= 2枚。1枚は、上半身が入る大きさ。1枚は手鏡」
  「孝美と鏡の距離=洗面台の鏡:約50cm(?)、手鏡: 約20cm(?)」
孝美「でも1回目のは倒れただけで、トリップまで行ってないから、2回目のを再現するのがいいと思う」
河本「洗面所か。とすると、もっと狭い場所の方がいいのかもな」
孝美「東京の、あの場所だから、ってのもあると思う?」
河本「あるかもな」
 河本は布団の上にノートパソコンを移動した。柔らかいものの上に乗って、少し斜めになった状態。でも目線が少し高くなった。孝美は、河本の左斜め後ろから画面を覗き込んだ。
孝美「そしたら再現不可能になる」
河本「まあ、出来ることから試すんだろうな」
 河本がポケットから何かを出す。台所の端の壁際に移動した。
河本「孝美、こっち来て、端っこ持って」
 金尺だ。
孝美「へっ」
河本「早く」
ーーこんなことまでするのか??
 河本は台所の床の寸法、縦横を測って、パソコンに記入した。更に50cm毎に、床に小さく切ったピンクのガムテープを貼って行った。
ーーこれ買うのにコンビニに行ったってこと?
 ひゃあ、と思った。
孝美「・・・ピンクのガムテなんて売ってたんだ」
 河本は嬉しそうに笑った。
河本「かわいいでしょ」
 ひゃあ、と思った。更に、布団を台所の中央に押して上に上って、台所の灯りから床までの距離まで測った。
河本「良し。じゃ、この座標を使って、鏡の置き位置と孝美の立ち位置を変えながら試して行こう」
孝美「・・・」
 河本は、またも嬉しそうに、Excel表に座標毎のテストパターンを記入していった。
ーー冗談でしょ・・・。
 座標の「点」のガムテープは、3×6=計18個貼ってあった。この点上に大きい方の鏡を置いて、残り17個の点上に1個ずつ孝美が立って、手鏡で映せ、と言う。
 
その夜も3時まで粘ったが、気配も無かった。孝美は当たり前と思った。本人の気持ちが乗る乗らないも関係しそうだった。
ーーそうか、こんなめんどくさい人だったのか・・・。
 3時に諦めて、二人共顔を洗って歯を磨いて、先週と同じように、台所のリビング寄りのところに、何となくな感じで布団を拡げた。河本が眠そうにだーっと横になって孝美を手招きする。
河本「膨れっ面すんなよ」
 ほんとうに眠そうに欠伸した。
孝美「だあって。・・・大体、このガムテどうすんの」
河本「え」
孝美「剥がさないの」
河本「いいじゃん」
孝美「 広太が何か言うでしょ」
河本「けんけんぱの練習するんだって言えばいいじゃん」
孝美「そんな適当な!」
 そこで河本がちょっと不機嫌な顔をしたので黙った。
河本「いいからこっちおいで。寒くなって来た」
 電気ストーブを切ってから時間が経ったからだ。孝美もくたくただった。口を結んだまま、河本に背中を向けるようにして布団に入った。河本が背中から抱き抱えて、ぶるっと震えた。
河本「冷たっ。これじゃ湯たんぽにならん」
 でも河本は孝美より暖かかったので、孝美はあっと言う間に眠りに落ちて行った。

 次の週末は、先週立てたテストケースの残りを消化してから、問題点と対策を整理した。
河本「大きい鏡を2枚に増やして、その間に孝美が手鏡持って立つ、ってパターンもあると思う」
孝美「それも座標全部で試すの?」
ーーご免被りたいです。
河本「やなんだ?」
 ーーあっ読まれた。
孝美「虱潰しに試すより・・・根本的なダメの原因考える必要があるんじゃないかと」
 河本は、しばらく沈黙して考えて、それから小さな声で、成る程ね、と言った。
河本「その、今再現しようとしてるので、前と違うところを洗う?」
孝美「うん。そうだね。・・・、前と違うところか・・・。そりゃ一番は「場所」だけど。東京と岡山」
河本「光源は?」
孝美「それが、そこんとこは、上手い具合にほぼおんなじ感じと思う」
河本「じゃ、鏡は?・・・そうか。鏡の幅が狭すぎるんじゃないの。片方は洗面台の鏡って言ってなかったっけ。今の、大きい鏡、2枚とも縦長でしょ」
孝美「あっそうか」
 ーー成る程。でも・・・。
孝美「別のを買う?」
河本「それがいいかもな。でも、どうやって目の高さに置くかが問題だ」
孝美「うん。それ、私も思った」
 二人で、うーん、と首を捻った。
孝美「これ以上ここにものを増やすのはちょっと・・・。それじゃなくても、鏡って尖ってるから、今だって広太が引っ掛けそうで怖い」
ーーこの広さじゃな・・・。
 河本も同意の印に頷いて、更に考え込んだ。
河本「うちでやる?来週から」
孝美「へ?・・・河本くん家?・・・倉敷の?」
 孝美は、まだ河本の家に行ったことは無い。季代子が来ていたときに送って行ったときも、工場の方に直接行ったのだ。
ーーどんなんだろう??
河本「人を呼ぶような家じゃないんだけどね。古いし」
ーーやっぱり。
 でも、見てみたい気はした。
ーー散らかってるのかな。
 週末、自分の家と河本の家と、両方を掃除する図を浮かべてみた。
ーー体力使いそう。・・・んん?
孝美「そんなあからさまなことして、大丈夫なの?」
河本「ん?」
孝美「いや、さかえさんが」
ーー車、入れ替えて駐車してるくらいなのに?
河本「・・・ああ、成る程」
 沈黙だ。さかえの話になると、大抵、まず沈黙だ。考えをまとめる必要があるらしい。
ーーこれは何かあった印??
 当たった。河本の動きが大分読めるようになってきたと思った。
河本「一昨日、さかえが来たんだ」
 で、また沈黙。1分以上待ったと思う。
孝美「・・・で、何て」
河本「・・・ん・・・東京から追っかけて来た主婦と出来上がってんのね、と来た」
ーー東京から追っかけて来た主婦・・・。
河本「で、キレてさ。こんな侮辱って無い、だってさ」
孝美「・・・」
河本「お前の浮気の方が先だろうって言ってやったんだけど。聞いちゃーいないし」
 河本は腕を組んで、口をへの字に曲げた。
河本「・・・F生命のイケメン、こっちの任期が切れて、東京に戻ったらしい。そんで、東京の彼女に戻ったらしい」
孝美「元々二股だったんだっけ?」
河本「ていうか、元々、東京に彼女が居るの知ってて、分捕りに行ったんだ。・・・で、負けたってことだな」
孝美「それは・・・」
ーーどっち?さかえは、意気消沈?怒り心頭?
 河本は読んだように、孝美をちらりと見た。
河本「怒り狂ってるって感じ。・・・でも、俺と結婚式する気も無いらしいな。少なくとも今のところはね。・・・でもとにかく怒り狂ってて・・・ 慰謝料請求されんのかって思ったんだけど。・・・違った。「婚約解消しないわよ」だそうだ」
孝美「え」
河本「俺を自由にしないのが一番の制裁と思ったらしいね」
孝美「そんな」
 河本は重そうに立ち上がった。
孝美「大体、さかえさんの両親って、どうなってんの。・・・そんな、娘がふらふらしてて、いつまでも婚約したまんまで、怒んないの?」
 河本が振り返った。
河本「あいつは、父親の選挙運動の手伝いもしてるんだよ。大体は鴬嬢やってるみたいだけど、握手会みたいのにも立っててさ。支持者のおっさんから人気絶大。・・・すると、独身の娘の方が都合良いってことなんだろう」
孝美「・・・そうなんだ」
河本「まっ、あいつがいつまでそう思ってるか、分かんないけどね」
孝美「何」
河本「「婚約解消しないわよ」」
孝美「そのうち気が変わるってこと?」
河本「その可能性はある。でも、そうだな・・・。無いかもしれない」
 河本は、小さく、畜生、と呟きながら、冷蔵庫からビールを取り出した。ぷしゅっと開けながら、孝美の隣りに戻る。
河本「て訳で、どこで実験しようが一緒になったって訳だ」
孝美「・・・」

 翌日、広太も連れてホームセンターに行った。 広太ははしゃいでくるくる走り回った。 横にも大きい鏡と、それを乗せる台としてステンレス製のラックを購入した。ラックは、丁度良い高さを探した結果、意味無く3段になった。そして、その日はそこで時間切れだ。もう日曜の夕刻になっていた。買った物は河本に託して持って帰ってもらい、ホームセンターでまた来週、と言って別れた。
(以上、2014.04.22)

 しかし、その後は河本に社用が入り、次の週も、その次の週も、そのまた次も会えなかった。3週目の週末になったところで、孝美は、ある意味自由だと思い、ひとりで、テストケースを無視して試してみることにした。土曜の夜だった。当初は、すぐに再現してしまうつもりだったから、ひとりでやるのは危険と考えていたが、こんなに気配も無いのなら「へ」でも無い、と思ったのだ。でも、あっちこっちに鏡を向けて、どんなに、何回凝視しても、やっぱり気配も無かった。
孝美「ああ、もう」
ーーやっぱ大きい方の鏡に変えないとだめかな。
ーーおんなじこと何回もやってる気がする。
 そこでつい、河本のPCを立ち上げた。こなしたテストケースを見直す。
ーーこんな、距離変えるパターンやってもなー。あっでも、灯りからの距離を近づけるのは試してみるべきか・・・。
 そのとき、電話が入った。取る前にちらと携帯電話の時計を見た。午前1時34分。
河本「どう、やってる?ごめんな。行けなくて。いや違った。呼べなくて、か」
孝美「今帰ったの」
ーー今日は、どこだったか遠くへ行っていたはずだ。
河本「いや、8時くらいには帰ってたんだけど。こっち(倉敷)には。宿題もらっちゃったから」
孝美「宿題」
河本「末広さんと、会社で練り直して、作戦詰めてた」
 末広さんは、河本の会社の専務で、工場の要の人だ。河本は、重要なプレゼンや入札には必ずこの人と一緒に行く。 末広さんは、河本に輪をかけて、会社を復興させたい人だ。
孝美「今日はどこ行ってたの」
河本「神戸」
孝美「一昨日は東京って言ってなかったっけ?・・・そんなあちこち行ってるんだ」
河本「うん。案件が重なっちゃって」
 河本の疲れた顔が浮かぶ。
河本「顔が見たいな。孝美の」
孝美「明日は?明日、休めないの?」
河本「うーん。・・・午後から主要メンバーの招集かけてるんだ。そんで月曜中に試作品作り直して、火曜にリベンジ」
孝美「正念場なの?」
河本「うん。 正念場なの」
ーー私が行ければいいんだけど。
ーー行きたいけれど。今。すぐ。
 でも行けない。リビングの、広太が寝ている方に目が向いた。
河本「そっち行こうかな」
孝美「えっ?でも疲れてるんでしょう」
ーー事故でも起こしたら。
河本「だいじょぶだよ。・・・だめ?」
孝美「でも・・・運転・・・」
河本「気をつけます。寝ません」
 頭の中で、いろんなことが取り留めも無く回った。
孝美「・・・じゃ来て」
河本「・・・うん」
孝美「でも、寝ないでよ。寝たらビンタだからね」
河本「ひゃあ」
 ぷ、と笑って電話を切った。でもそこからが心配だった。
ーーこれから30分。
 時計とにらめっこした。その間に、すぐ眠りたいかもと思って布団を敷いたり、お茶の1杯も飲みたいかもと思ってお湯を沸かしたり。いちおう鏡を覗いたり。
ーーちょーすっぴんだけどね。
 ふと、さかえの若さと比較する。
ーー可愛かったよな。あの顔。たぶん。
 で、孝美は自分自身、美人とは思えない。
ーーその上、この年だ。
 鏡に向かって、頬のしみの上に指を這わせていると、外に小さな足音が聞こえた。玄関に飛んで行った。22分で到着だ。
孝美「えっ、雨降ってんの」
河本「うん。出る頃に降り出して来た」
 河本はほんのり濡れていた。そして、すごく疲れた顔をしていた。
孝美「うわ、じゃ、シャワー浴びた方がいいんじゃない」
ーー風邪なんてひいたら。
 河本が重そうに汚れたスニーカーを脱ぐのを見守った。
河本「うん・・・。てか、風呂かなあ」
ーー風呂好きだからな。
 そう。河本は風呂好きだ。真夏でも風呂に浸かろうと言うくらい。
孝美「そっか。その方がいいかも」
 河本は台所のシンクを背にずずずと腰を落として、孝美が風呂に湯を入れ始めるのを見つめた。
孝美「はい。じゃ、入って。入ってるうちに(お湯が)いっぱいになるでしょ」
河本「・・・孝美は?」
 バスタオルを用意しながら、顔に血が上った。
孝美「もう入ったもん」
河本「いいじゃん。もいっかい入ろうぜー」
ーーこの疲れてる人相手に長舌は無用だな。
 ちょっとわたわたしながら、蓋をしたトイレの上にバスタオルを置いた。
孝美「分かった分かった」
ーーあっでも。
孝美「先、入ってて」
河本「うーん」
 で、河本をバスルームに押し込んでから5秒考えた。そして、5分で戻って来るから大人しく入っててよ、と声をかけて、返事を待たずに家を飛び出た。傘とお財布だけ持って。
 孝美の家は岡山市の都会的位置にあるので、コンビニも充実している。家からいちばん近いところには1〜2分で行けてしまう。その、いちばん近いコンビニに飛び込んで、男物のトランクスと靴下を1個ずつ買った。すごく恥ずかしくて、レジでずっと、財布の中を覗くふりをしていた。こんな時間に女がこんなもの買うなんて、怪しいに決まってる。
ーー当分このコンビニには来れないな。
ーーでもいい。
 濡れた物を肌に付けさせたくないから。
 そして走って戻った。孝美がそーっとシャワーカーテンを開けると、河本は湯の中で眠っていた。手で湯を弾いて河本の顔に引っ掛けると、眉間に皺を寄せて半目を開けた。
河本「優しくして」
孝美「・・・すみません」
 それで、もう少し目を開いて、薄暗い中で孝美を見た。
河本「早く」
 逆らう気は毛頭無かった。ぱっぱと脱いで、そーっと湯の中の、腕の中に入った。でも孝美が沈んだことで浴槽が満杯になった。危険と思い、そーっと離れて浴槽の栓を少しずらして湯を抜いた。
河本「吸われる吸われる」
 河本は半ば眠りながら笑った。孝美は、もう、と言いながら戻って、河本の両腕を取って、自分に巻き付けた。
ーー安心な感じ。
 孝美も少し眠ってしまった。でも目覚めて、河本の首と頬とおでこを触って、暖まったか確認した。
ーー良さそう。けど・・・。
 河本の髪に手が行った。河本が、孝美が反転したのに気付いて、半目を開けた。
河本「何」
孝美「髪、洗いたい」
 多分自分はきれい好きの方だ、と思う。脂ぎった髪が、気になる。
河本「じゃ洗って」
孝美「えーでも、背中に回んないと」
 河本は、んー、と言いながら頑張って背中を起こして、風呂の真ん中に伊座って胡座をかいた。孝美はそれを除けて、かなり恥ずかしい体制で河本を跨がなければいけなかった、そして背中に回った。
 寒くなるといけないので、湯を張ったままでシャンプー・リンスする。河本の髪がナイーブのにおいになって、孝美はふ、と笑った。広太と、孝美と、おんなじ匂いだ。
 ついでに湯を抜きながら、河本の身体もささっと洗うことにした。大きさは違うが、広太を風呂に入れるのと全く同じ手順。但し大きい分手間がかかる。河本はされるまま何食わぬ顔で眠っていた。が、身体に続いてお風呂用のナイロンタオルでおでこと頬を撫でたところで手首を掴まれた。
河本「顔もタオルでこするんかい」
 孝美がひるんだところで両手で頭を掴まれて、キスが飛んで来る。くっついたので孝美の顔も泡だらけになった。孝美は、もう、と小さく抗議した。
ーーこいつ、絶対映画の見過ぎだ。
 仕方が無いので、顔は孝美のビオレで洗ってあげて、泡だらけの顔に孝美からキスし返してあげた。河本の目は既に閉じていて、閉じたまま嬉しそうに笑った。

 翌朝、広太は河本を見つけてぴょんぴょん跳ねて喜んだ。孝美は人差し指を唇に当てて、しーっと言った。
孝美「河本くん、すっごい疲れてるから、もうしばらく寝かせてあげようね」
 実際河本は死んだようになって寝ていた。そう言う孝美も疲れたままだった。多分2〜3時間しか寝ていない。でも、広太が朝早く起きてしまうので仕方無い。広太が河本の布団の端をめくり上げて中を覗いて、河本くん裸だよ、と叫んだ。孝美は、昨日の夜風呂で眠ってしまったので救出したのだ、と説明した。広太は「救出」の言葉の意味を聞いた。把握してから改めて笑い、孝美にしいっと言われたのも忘れて、ちうしう、ちうしう、と叫びながら河本の布団の周りを駆け回った。
 10時半近くになって、そろそろ起こさないとまずいなと思い、河本の枕元にぺたんと座った。躊躇しながら、河本の、横向きねんねで上を向いている方の頬にそーっと触れる。と、ゆっくり目が開いた。そしてこっちが恥ずかしくなるくらいの、嬉しそうな笑顔が来た。
 3人でちゃぶ台を囲んで、早めの昼ご飯を食べ始めたところで、河本が口を開いた。
河本「そう言えば、神戸に「王子動物園」てのがあるの、知ってた?」
 関西に疎い孝美が知るはずも無い。河本は孝美の返事を待たず、続ける。
河本「あそこ、ミラーハウスがあるらしいよ」
 河本は広太がTVを指差しながら何事か言って来るのをうんうんと適当にいなしながら、2局併行で話を進める。
孝美「ミラーハウス」
河本「そ。子供向けらしいけどね。・・・広太が居て良かったね」
孝美「 ミラーハウス・・・」
 孝美は箸を止めて考え込んだ。
ーー成る程。
 河本は読んだように続ける。
河本「そ。・・・最初に、ヨガだったかで鏡に囲まれたんだろ。再現するきっかけになるかもしれない。・・・行ってみる?」
孝美「行く」
 即答だ。
ーーあっでも・・・。
孝美「でも、河本くん忙しいんでしょ?」
河本「うん。でもまあ、今のが片付けば、何とかなるんじゃないかな」
孝美「片付くの」
河本「片付くよ。そりゃ。・・・そうだなあ、あと2〜3週間かなあ。片付かなくても、それから先は年末年始が入っちゃうから、一旦小休止が入るはず」
孝美「2〜3週間」
 河本は、壁にかかったカレンダーを眺めた。
河本「とすると。クリスマスあたり目標にするのはどう?」
孝美「クリスマス。うん。素敵」
 何だか目の前が開けて来た。

 その日は、車2台で倉敷の河本の家に行った。孝美が置きっ放しになっている鏡をチェックしたいと言ったからだ。もうひとつは、河本の家がどれだけ荒れていることかと考えて、放っておいてはいけない気がしたのだ。
河本「さて。驚かないでよ」
 河本は車を降りながら言った。
 孝美が河本の家に来るのは初めてだった。夏に季代子を送って来たときには工場の方に直接行っていたので、機会が無かったのだ。
 見るからに古い家だった。古民家では無いが、とにかく古いという感じ。河本が鍵を回して玄関を開けると、古い家の匂いが扉からずいっと染み出て来た。 広太は孝美のジーンズにしがみついて隠れた。
河本「俺もう行かなきゃいけないから、上がらないけど」
 と言って、家の鍵を孝美の掌に落とす。
河本「適当に見て帰って。鍵は郵便受けにでも入れといてくれたらいいから」
 そしてせかせかと車に乗り直して、居なくなった。
 静かになったところで、孝美は広太を見下ろした。
孝美「さて。行くよ」
広太「マーマ。僕怖い」
 実際、家の中は暗くて何か出そうだった。孝美は口を歪めて笑った。
孝美「ママもちょっと怖い。・・・嫌だったら外で待っててもいいよ。車の中か、お庭で」
ーー12月だけど、昼間のうちは外に居ても大丈夫だろう。
 でも広太は頭を振って、いやいやをした。一層孝美のジーンズにしがみつく。
孝美「じゃ一緒に行こう。・・・そんなに時間かからないようにするから」
 と言いながら、靴の踵を踏んで外した。
 主要な部屋のカーテンを開け、 雨戸を開け、窓を開け放った状態にして、やっと少し息を吐いた。孝美は広太を縁側の日の当たるところに座らせて、持って来たブロックのセットで新しい電車を作るよう促した。広太の創作はいつも、独創的で、とても素敵なのだ。
 縁側から部屋の中を見渡してみる。思った程は荒れていなくてほっとした。河本は散らかさないようにして生活するタイプらしい。
ーー台所からやるか。
 孝美はスリッパを探して足を入れ、おそるおそる進んだ。
 台所とお風呂場とトイレを掃除して、使っている気配のある部屋にざっと掃除機をかけた。次はゴム手袋を持って来ようと思った。最後に、先日買った鏡が、買ったまま放置されている部屋に入った。ひと際暗い部屋で、ぶるっと来た。台にするのに買ったステンレス製のラックが、組み立てられないまま放置されている。
 ひとりで組み立てる気になれなかった。疲れてしまっていたし、この部屋の暗さが作用して、何か起こりそうだったから。もし組み立てて自分を映し出してみたりしたら、そこで何か起きたら、今日は呼び戻してくれる人が居ないから。
(以上、2014.04.29)

 10日程経った。
 会社の会議室で同僚の女性たちとお弁当を食べていると、経理の女性が年内に退職するという情報が入って来た。孝美は営業事務だが、こちらの担当は孝美を含めて5人。そのうち1名は既に入れ替わっている。雰囲気は悪くないのだが、やたら煩雑な仕事だし気を遣うし結構体力も使うし、入れ替わりが激しいようだった。だからすんなり採用されたのか、と思う。しかし経理担当は1人しか居ない。経理が辞めるのは珍しいのだと、いちばん古株の女性が言った。
 孝美はその日の帰り際に上司を捕まえて、経理にまわして欲しいと願い出た。
孝美「いろいろな仕事が出来た方がいいと思いまして」
 実際は、営業事務がキツいのが半分。もう半分は、本当に経理が出来るようになりたいと思ったのだ。河本の会社の経理担当が退職したがっているという話が頭の端っこにあった。岡山に来るとき、河本は孝美が自分の会社で働いたらどうかとも考えたと言った。でも、それは無しになった。共倒れになるから、だそうだ。
ーーもし将来、あの会社が立ち直ったら。
ーー経理を知っていれば、手伝えるかもしれない。

 3日経った朝、出勤すると、上司から経理兼務になったと伝えられた。
孝美「兼務ですか」
上司「そう。人員削減なんだよ。まっ総務の渡辺さんが経理も出来るから、分かんないとこは相談に乗ってくれると思うよ」
孝美「人員削減ですか」
ーー余計忙しくなりそう・・・。
上司「市役所の定期配送、来年から契約切られちゃったからね」
孝美「えっ。そうなんですか?」
上司「うん。だから、配送の方も、先週辞めたアルバイトの分、補充されないでしょう」
孝美「何で・・・契約切られちゃったんでしょうね?」
上司「さあ。社長も困ってるよ。誰か議員の機嫌損ねるようなことでもしたかねえ」
 上司は、はははと笑った。
ーー議員・・・。て。
 ふと息が止まった。
ーー市議会議員?・・・まさか。 まさかね。
 無意識で歩いて席につきながら考える。
ーー「さかえ」は私を怨んでいるか?
 髪を無造作に掻き上げた。
ーーそりゃそうだろう。・・・どのくらい?そして・・・。
 引き出しを開けていつもの筆記用具を出す。
ーー彼女は私の情報をどれだけ掴んでいる?
 手の動きが止まった。
ーー職場の情報も掴んでいる?そして?・・・私を締め上げるか、または締め出そうとする?いや、している?
 どろどろに混乱してきた。
 昼休みを使って、河本に、時間があるときに電話が欲しいとメールした。

 河本から電話が来たのは、その日、夜12時を回ってからだった。
孝美「忙しいとこごめんね。ちょっと・・・いちおう確認したいことがあって」
河本「うん。何」
孝美「うん」
 孝美は言い淀んだ。
孝美「うん・・・あの、さかえさんのお父さんって、どこの議員?倉敷?岡山?」
 昼の上司とのやりとりをかい摘んで説明した。河本はひと通り終わるまで黙って聞いていた。
孝美「で、倉敷?岡山?」
河本「・・・岡山だけど・・・」
 孝美はびくりと首を引いた。
孝美「運輸担当?」
河本「いや、運輸担当ではないと思うけど、・・・でもあの人議員長いから、いろいろ顔は効くだろうな」
 少し沈黙があった。気が進まない感が電話越しに伝わって来る。
河本「さかえがそこまでやるかって言うと、・・・どうだろう」
孝美「やらないと思う?」
河本「いや、むしろやりそう・・・かな」
 また沈黙。考えているようだ。
河本「ま、今度来たとき聞いとくよ。それとなく」
ーーえっ?
 孝美がぴりっとしたのに、電話の向こうでも気付いたらしい。小さな咳払いが聞こえた。さかえが河本の会社に突然現れるというのは以前にも聞いたことがあった。
孝美「さかえさんは、来るの?今も?」
河本「まあ・・・」
孝美「どのくらいの頻度で?」
河本「そりゃ・・・決まってないよ」
ーー決まってないだって?
 いらっと来た。
孝美「じゃ最近来たのはいつ」
 少々の沈黙。
河本「・・・先週の水曜、かな」
孝美「えっ」
 いきなり記憶が蘇って来た。
ーー先週の水曜?先週の水曜?
孝美「それって、何しに来るの」
河本「え?そりゃ、様子見に来るんだろう」
孝美「そんで、河本くんの顔見て、帰るわけ?」
 沈黙。孝美は何が何でも情報を引き出すつもりで、沈黙し返した。
河本「分かったよ。・・・大体は夜、飲みに連れて行かれるんだ。夕方来るんだよ。見計らって」
孝美「飲みに?・・・それって、こっちに飲みに来てるんでしょう?倉敷じゃなくて」
 以前、はじめてさかえを見かけたときも、岡山市で、夕方だった。そして。先週の水曜。
 何故か先週の水曜は、夜アイスが食べたくなって、夕食後、広太を連れて外に出たのだった。でも良く行くコンビニには欲しかった「パルム」が無くて、そのまま足を伸ばしてその先のコンビニまで行ったのだ。そうしたら広太が突然前を指差して、河本くんだ、と叫んだのだ。そのとき孝美はコンビニの看板を探して、反対側の道の先を見ていた。ええ?と言って、広太の指の方向を見たが誰も見えなかったので、見間違いだよと言ってそのまま忘れてしまった。
 そう、広太の指の方向は飲屋街の入口だった。
ーーなんでこう上手く当たっちゃうんだろう。
 これも超能力のひとつかなと思う。しかしどれとしてコントロール出来ないのが歯痒い。とても歯痒い。それに呼応するかのように、河本が小さな声で、魔女なんじゃないか?ほんとに、と呟いた。
 びりっと来た。
ーーこれは肯定だ。
 孝美は頭を今日に戻して、考えを進めた。
 孝美は河本が付き合い程度にしか飲めないことを知っている。
ーーまさか。
孝美「でっどうやって帰ってるの。 こっちに来て飲んだら、車では帰れないでしょ」
 ここの人たちは、余程のことが無い限り、移動手段には自分の車を使う。
ーー電車やタクシーでわざわざ帰るとも思えない。
 河本は沈黙したままだ。孝美もまた沈黙で返した。
河本「・・・。分かったよ。泊まるんだ」
孝美「泊まる?」
河本「あいつの好きなとこがあってさ」
ーー泊まるって、つまり。
 くらりと目眩がした。先週。先週の水曜。何ヶ月も前ならいざ知らず、先週。
ーー前に、河本は婚約解消を交渉中だと言わなかったか?
なのに先週。
ーー2週間前に、河本は夜半に電話して来て、孝美の家に来たのではなかったか?
孝美「・・・何ですって?」
河本「毎回、歩けなくなるくらい飲まされちゃうんだ。あいつ酒、ものすごく強いんだよ」
孝美「だからって泊まるんだ」
河本「・・・」
 ほんとに、ほんとに、くらくらする。あんまりくらくらして、長い間口が利けなかった。黙った後、目の先にある目覚まし時計の針が、3分は進んだのが見えた。
河本「あのさ・・・」
孝美「河本くん、私」
河本「?」
孝美「・・・いかなる理由があったとしても、他の人と「共有」するつもり無いから」
河本「・・・」
 涙が出て来た。
孝美「てか、無理だから。そんなら、ずっと婚約者やってて、恋人やってればいい!・・・私は、無理だから!!わあああんん」
 急いで電話を切ったけど、泣いた声が入ってしまった。
 どくどく涙が出て、わあわあ言う自分の声が聞こえた。
 頭の端で考えた。
ーー声を上げて泣くなんて、子供の頃以来あっただろうか?
ーーいや無い。
 確か中学に入った頃、TVドラマで、好きなタレントが声を立てずにはらはらと涙を流すのを見てかっこ良いと思った。それ以来、何だかこらえて泣くようになってしまったのだ。大人になると、悲しいというより悔しくて泣けることが多くなった。それこそ、唇を噛んで押し殺した中で涙が出た。わあわあ泣きながら、そんなことを思い出した。
 広太がびっくりして目を覚ました。よたつきながら立ち上がって、ママーママーと言いながら背中をさすって、誰がいじめたのと聞いた。しまいには冷蔵庫からヨークを持って来てくれた。広太は一緒に泣いてしまう子ではなかった。しっかりした子だと思った。そんなことを片隅で思いながら、なおも涙がどくどく流れた。止まらなかった。
 翌日は目が半分も開かなかった。
 仕事を終えて家に帰ると、ポストに封筒が1枚入っていた。切手無し。走り書きのメッセージ、と、鍵。
 「倉敷の家の鍵です。土日は大体仕事で居ないから、好きなときに実験に使ってください。事前にメールくれれば、確実に空けるようにします」
 また涙が出て来た。急いで家に入った。封筒を握りしめると、紙がよれて、皺が寄って細くなった。孝美を追い越して先に家に入った広太が戻って来て、玄関先で孝美に抱きついた。ママーまた悲しいの、と言った。また目が腫れてきた。
 こんなことは生まれて初めてだ。そう言えばあんなに泣いたのも生まれて初めてだ。今日一日どう見ても様子がおかしかっただろうけれど、職場の薄い人間関係では、同僚は皆遠巻きにして何も触れなかった。
 久し振りに、ひとりでお風呂にゆっくり浸かることにした。温まって顔が重いのが倍増したと思いながら身体を拭いて、バスルームから出る。と、リビングで広太の声がする。台所で立ち止まってそのまま聞いた。誰かと話している。
ーー誰?
広太「・・・だからね、ママに謝ってよね?分かった?うん。ちゃんとね?」
ーー河本に電話してるのか!
 そうとしか思えなかった。緊急時に備えて、広太には孝美の携帯電話の使い方を教えてある。短縮登録の、「3」が東京のパパで、「4」が茨城のおじいちゃんとおばあちゃんで、「5」が河本。しかも、練習と言って電話をかけさせた相手は、その日一緒に居た河本だった。
ーーやり方覚えてたのか。・・・広太、お利口。
 何も言えなくなった。その夜は、広太を抱いて寝た。珍しく、広太の方から首に巻き付いて来た。
(以上、2014.05.05)

 そんな訳で、楽しみにしていた王子動物園行きは実現しなくなった。孝美と広太とふたりで行けば良いのだが、気力が抜けてしまった。それでも、東京の地震が何時来るかという恐怖は、日に日に膨らんで来た。確か、季衣が「東北の何年か後」と言ったと思う。それを勝手に解釈して、少なくとも2年くらいは来ないだろうと踏んでいたのだ。それで、どこか「うかうか」していた。だが、それにしても、既に1年9ヶ月経過してしまった。
 ・・・ジレンマに陥っている中で、正月が来た。

 正月に岡山に留まっていることは許されなかった。
 帰郷。・・・帰郷してどれだけくだくだ言われるのかと思うと、本当にどこかに消えてしまいたくなる。大子の実家。練馬の家。・・・浦和の家・・・。
ーー・・・にもやはり行かなければいけないだろうか。
 孝美は奥歯をぎりりと噛み締めた。
ーー行かなきゃいけないんだろうな。全部。

 魂の平安が少しでも保てるように、まず大子の実家に帰った。今は高速バスが発達しているから、孝美のように小さい子を連れている者にはとても有り難い。それでも1日まるまる使った移動で、12月30日の朝岡山を出ると到着したのは夜になった。
孝美の母「広太の喘息はもういいんだろ?」
孝美「えっ」
 母は夕食の支度を進めつつ、台所の中から声をかけてきた。広太は、父=広太から見ればおじいちゃん、と一緒に風呂に入っている。孝美は居間の、食卓となるテーブルをざっと拭いて布巾を手に戻って来たところだった。母は孝美が石化したのを見て、苛立たしそうに手を止めた。
孝美の母「・・・忘れてたのか」
 母は台所の入口まで出て来て突っ立った。
孝美の母「そんなこったろうと思ったけどね」
 孝美は母の背中を回って流しに付き、布巾を洗い始める。母が見つめるのが刺さる。
孝美の母「で、どうすんの」
孝美「・・・」
孝美の母「戻ってくんの」
孝美「・・・」
孝美の母「お前、明日修一さんとこ帰るんだろう?大体・・・」
 母の怒りが増して来た。
ーーあああ、着いた早々・・・。この展開・・・。
 正直どうしていいか分からない。気を失って倒れてしまえたらいいのに、と思う。
孝美の母「聞いてんだよ」
 母が右足を強く踏んだところで、これは母の限界値だと思った。幼少からの記憶ってやつだ。
孝美「・・・別れることになるかもしんない」
 言った孝美が自分で驚いた。
ーーそうか。そういうことか。
 不意に釈然とした感じ。ところで母の方では、それ程驚いていないのだ。母は小さく目を見開き、キッチン台の端っこに左手を付いた。
ーー想定の範囲内だってことだ。
 孝美は洗い終わった布巾を四角く畳んだ。
孝美の母「別れるって、修一さんとか」
ーーおお。言葉尻が鋭い。
 孝美は縮み上がっていたのだが、見せてはならぬ意地で地蔵のように布巾を見つめていた。
孝美「うん」
孝美の母「どうしてそんなことになったの」
 孝美はぐだぐだ目線を泳がせて、遠くを見て、母の背中を通って台所から抜けたい気持ちを汲み取ってもらおうとした。でも母は岩のように突っ立って出入り口を塞いでいる。
孝美「それは・・・大体ひとことじゃ言えないし。そんなの」
 母はふんと鼻で息を吐いて、食器棚から醤油皿を3枚出した。孝美は受け取り、その皿と箸を3膳握って、食卓に行って並べた。もちろん母は戻るのを待ち構えていた。
孝美の母「そんで」
ーーああ、もう許してくれそうにない。
 孝美は力が抜けて、台所の前にあるダイニングテーブルの椅子に座りこんだ。ここはコーヒーや調味料を並べてしまっているのでテーブルの上にあまりスペースが無く、ちょっとした朝食を流し込むようなときにしか使わない。
孝美「前からちょこちょこあったのよ。いろいろと」
 自分で、言っててさっぱり分からないなと思う。母は包丁をまな板の上に置いて中断し、台所の中からじいっと見て来た。じいっと。
ーー分かりました。分かりました。
孝美「浮気された。・・・と思う。多分」
孝美の母「え?」
孝美「いや。実際は確定。本人の口から聞いてないだけ。会社の中ですごい噂になってたから」
孝美の母「会社の中で?・・・えっ何?」
孝美「うん」
孝美の母「噂になってたって?え?何だって?浮気?修一さんがか?」

 母は台所を出て孝美の隣の椅子にどんと座った。
孝美の母「何だって、そういうことを早く言わないんだろう」
孝美「えっ、いやだって・・・」
ーーこっちにも落ち度がある・・・感じはするし。あれ?
 孝美は首を捻った。
ーーいや、落ち度が出来たのは岡山に行った後か?
 分からなくなって首をぶぶんっと振った。母は孝美を見つめて、があと溜息を吐いた。
ーーいずれにせよ今となっちゃダブル不倫。・・・挙げ句私は振られてだめだめぼろぼろ。
 うなだれて背中が丸くなって行くのが分かる。
孝美の母「で?修一さんとは話し合ったの?」
孝美「うん?」
 母は噛み付くように乗り出す。
孝美の母「だから。浮気のことさ」
孝美「・・・浮気のこと?」
孝美の母「ああもう。普通話し合うもんだろう?」
ーー話し合ったよ。いや、ちゃんとは話し合って無いか・・・。
 孝美がぼうとしているので、また母はいらいらと息を吐いた。
孝美の母「孝美!」
 そして、くだくだと長々と怒られた。食事の間だけ中断して、後片付けになってまた二人きりになると、また続きをぐちぐち怒られた。
 親への報告がちゃんとしてないと言う。修一との関係を放置しすぎだと言う。そもそも孝美の我慢や努力が足りなかったのではないかと言う。
ーー我が子の見方になってくれないのか。
 孝美は死にそうと思った。

 そんなわけで翌日の大晦日は、本当はもっと実家にゆっくりして勇気を溜めようと思っていたのだが、午前中のうちに退出してしまった。この先の目的地は、練馬の家だ。一瞬、時間があるなら運賃節約でまた高速バスを使おうかとも考えた。
ーーいやでも、広太が。
電車好きの広太にしてみれば、高速バスは単調なのだ。結局電車にした。
 水郡線も奇麗になったものだと思う。でも無人駅は今も無人駅だ。そこのところは懐かしい。水戸で乗り換えて、常磐線の上りの終着駅は、上野。夏に動物園に来たなあと思い出す。道路から湯気が立つのが見えたくらい暑い日だった。季代子が広太を追って走って行った姿が、後ろ姿が、浮かぶ。日帰りで、強行軍で、くたくたに疲れたのだった。
ーーまた動物園に行ってもいいけど。
 大晦日だからやってないだろうな、と思う。
ーー池袋に移動しとこうかな。サンシャインシティにでも寄ってみるか。
 でも水族館は、大晦日もやっていたけれど、前売りのチケットを持っている人しか入れなくて、プラネタリウム?と思ったが、広太が飽きてしまいそうだった。結局ナンジャタウンに入園だけしてぶらぶら見て回った。まあ広太にしてみれば何でも目新しいのだから、これで十分楽しそうだった。
 ナンジャタウンは広太が家まで歩ける余力が残る程度で切り上げて、道すがらのデパートで手土産をさっと購入して、それでも家に着いたときには日が暮れていた。
 修一は家に居た。リビングから首を出したのを見て、玄関先で思わず手に力が入った。
広太「マーマ、痛い」
ーー?
 左手は広太の手を握っていたのだった。
孝美「あっ。ご免ご免」
 修一は、遅かったな、とだけ言った。見回すと、修一の住処にしては思ったより片付いている。大晦日を意識して、そして家族、というか主に息子か?を迎えるにあたり、掃除してみたらしかった。これは比較的めずらしいことだ。広太はまた孝美のジーンズの腿のところを捕まえて、身体半分後ろに隠れた。修一は困った顔をした。
 修一は外食しようと言ったのだが、孝美はうちでゆっくり食事させてくださいとお願いした。では出前を取ろう、と修一が言った。いや、簡単なもので良ければ作るのでそうさせてください、と孝美が言った。どうもすっかり節約癖がついてしまっていた。そして互いに人見知りする親子を残して、大丈夫かなあと思いながら、疲れたなあと思いながら、近所のスーパーマーケットに買い出しに出た。
 出来合いの、ちょっと豪華な天ぷらが乗った天ぷらそば、を食べながら(買い出しに出るところで修一が1万円札を差し出したので、ここは有り難くいただいたのだった)、TVのバラエティ番組を見て、CMのときに孝美がチャンネルを変えて定番の紅白歌合戦をチラ見した。
ーーうう。緊張するなあ。
 この間、秋に突然来たときと違って、家族に戻った感じがしない。何が違うのだろうと思う。広太もあからさまに緊張を見せていたが、TVを見ながらうつらうつらし出した。孝美はふたりで先にお風呂をいただくことにして(修一と風呂、は論外に見えたので)、その後広太をさっくり寝かしつけた。でも孝美自身も疲れてしまっていたらしい。広太の寝顔を確認した後、ついベッドルームに直行してごろりと横になり、そのまま眠り込んでしまった。ベッドは元々シングルベッドをふたつくっつけた置き方だったので、眠るにつけてはリビングで相対するよりも緊張が無かったと見える。

ーーうわっ!
 翌朝目が覚めてびっくりした。びっくりして、布団を両手で叩いてしまった。
ーーあのまま眠っちゃったのか!
 そして不味いと思って右を見た。修一は左の衝撃音に目を覚まし、額に手をやって嫌そうに声をくぐもらせた。
修一「・・・お前はっ」
孝美「あっ、ごめんなさいっ」
ーーあっ、この声も大きすぎだ!
 修一は孝美を相手にせず、反対向きに寝返りを打った。
ーーあああ。これ、正月だっけ? え、正月?帰って来て、これ?・・・最悪・・・。
 大失敗だと思う。正月の朝から反省したくないのに、と思う。柱時計を見た。6時32分。時計を見つめて、頭がまとまらないまま数分が経過した。
広太「・・・マーマー」
 広太がぐしぐし泣きながら入って来た。孝美は反射的にがばっと起きた。
広太「おしっこ出ちゃった・・・」
 パジャマの下のところを押さえている。
 広太がおもらしをするのは珍しいことだ。本人もものすごく悔しいらしい。泣きながら口元がぐいっとへの字に引き結ばれている。
孝美「あっ、うん分かった。・・・うん大丈夫だよ。だいじょぶ。いつもとお布団が違ったからね。「きんちょう」しちゃったんだよね」
 と声をかけながら、たたたと駆け寄る。ぐしぐし泣きが、同情を得てえんえん泣きに変わったところで、広太の肩を抱きながら部屋を出た。
孝美「まずおトイレ行く?まだ出る? ・・・だいじょぶ 、だいじょぶ」
 母子共に緊張しているのだと思う。
 広太にさっとシャワーを浴びさせて気持ちを切り替えさせて、布団を干して、 シーツや何やを洗濯機にかけて、朝が過ぎた。
 スーパーマーケットで昨夜買って来たお正月風の練り物や煮物を食卓に並べているところで、修一が起きて来た。ずんっ、とダイニングテーブルの椅子に座る。で、テーブルに頬杖をついてぼおっとする。孝美は緊張を増しながら、何を言っていいのか分からず、そのまま作業を続けた。と、修一はまたずんっと立ち上がり、行ってしまった。
 遅めの朝食になったところで、はじめて会話になった。
孝美「・・・今日の予定は」
修一「別に」
孝美「無いの」
修一「無い」
 孝美が少し驚いたのに気付いて、修一が探るように見る。
修一「何だ、初詣とか?行くか?」
孝美「いや、そうじゃなくて」
 修一がまた探るように見る。今度は訝しそうだ。そのまま間が空いた。
修一「何だ。言え」
孝美「いや、出掛ける予定とか・・・あるのかな、と。・・・他の人と」
修一「・・・」
 修一が面倒くさそうにテーブルに頬杖をつくのが見えた。
孝美「・・・つっ、つまり・・・」
ーー言え。言うんだっ。
孝美「・・・わっ綿引さんとは出掛けないの?」
 修一が頬杖越しにじろりと見たので、ぐっと詰まった。何とも、今初めて綿引綾乃の名前が、ふたりの前で明るみに出たことになる。
修一「ふん」
ーーえっ?まさか。いや?でも?
孝美「・・・もう付き合ってないの?」
 少し間が空いた。修一は頬杖をついたまま、もそもそと箸を口に運んだ。
 孝美が口を動かそうとしたところで修一が制した。
修一「付き合ってるとかないとか・・・そもそも」
ーーえっ?
 孝美の目は避難の色をしていたらしい。修一はふうと息を吐いた。
修一「綿引は俺のことなんかどうとも思っちゃないんじゃないか?・・・そもそも」
ーーえっ?
修一「・・・ああ何だ、全く。綿引みたいな若いのが本気で俺とか相手にする訳ないだろう」
ーーええっ??
 沈黙。広太は空気を読んだのか、大人しく食に専念している。
孝美「じゃ何・・・」
ーーじゃ、それって、修ちゃんの片思いだったってこと??
 沈黙。
ーーだって、修ちゃんは絶対好きだったよね??どう見ても?
修一「広太の前で話すのはどうだろうな、こんなの」
孝美「あっそうか。そうだね。ごめんね」
 ふたりで一斉に広太を見つめた。広太はむしろ迷惑そうにした。
 混雑は大義なので、初詣は夕方になってから近所のどこかに行くことになった。朝とも昼ともつかない食事の後は、またリビングで手持ち無沙汰にTVの正月番組を見る。広太が部屋の片隅に移動してブロックで創作に入ったのを確認して、孝美は朝の続きを聞き込むことにした。
孝美「あの・・・」
 修一は目だけで孝美を見た。
孝美「さっきの続き、聞いてもいい?」
 鼻でふんと息を吐いたのが見えた。これを許可と取ることにした。
孝美「・・・つまり」
ーー簡潔に。簡潔に。
孝美「綿引さんとは付き合ってなかったってこと?元々?」
 修一は口元を曲げてTVを見つめた。
孝美「それともちょっとは付き合ったの?」
 沈黙。ここは待つべきだろう。TVがお気楽で意味の軽い言葉をハミングしていく。
 修一は胡座をかき直した。頬杖もソファテーブルの上に付き直した。
修一「・・・長井の工場の処理。・・・あれは、・・・あれがどんなだったか、想像つかないだろうな」
 孝美も座り直した。
ーー長井。・・・長井?
 想像してみるべきかと思って、眉間に皺を寄せる。
修一「いやいいんだ。・・・行った人間じゃないと分からないってことだ」
孝美「・・・」
修一「実際綿引は良く働いたよ。あいつは(入社)2年目だったし、メイン(で働くメンバー)じゃなかった。でも俺たちがやってるのを見てて、必要なとこ嗅ぎ取ってフォローに入るんだ。言われる前から入るんだ。あいつ頭いいからな。・・・それ絶妙だったな。てか、どう対処すべきか次々思いつくんだな」
 独り言を言ってるみたいにして、珍しく言葉がとうとうと流れ出た。
修一「あいつ頭いいから。困ったとこですうっと入って来る。綿引が入ることでむしろ、・・・どんどん仕事が流れてく。・・・会社のメンバーの家族のケアなんてのは。あれは特に良かったな。あれはあいつがメインで動いたんだ。・・・家族のケアってやつはな。特にな。俺たち男だとどうしても気がつかないとこあるから。大活躍・・・ほんとに」
 修一はTVの方を向いたまま、口を歪めるようにして微笑んだ。
修一「あいつ母子家庭で、小さい頃から家のこといろいろやってたんだと。そういうの、出るよなやっぱ」
ーー母子家庭。
 広太の、小さいながら、いつも考えながら立ち回る姿が浮かんだ。
修一「皆、いっぱいいっぱいで働いてたんだ。長井が復旧しないと生産が回らない。あの空気、てか連帯感、かな。分かるか。・・・特殊な連帯感」
 想像してみようとした。スピード(映画)の、キアヌ・リーブスしか浮かばない。
ーーええと、相手役は誰だっけ?ううん思い出せない。あとで調べてみよう。
 こんなんでいいのかなと首を傾げる。大体、キアヌ・リーブスじゃかっこ良すぎる。
 修一は無視して続けた。
修一「そういう、連帯感の延長、だな。たぶん」
孝美「連帯感」
 答えになってない。
ーー・・・つまり?
孝美「・・・でも一緒に働いてただけじゃなかったんでしょう?」
ーーそんなわけないでしょう。そんなの、あの雰囲気見れば分かる。誰だって。
 会社の、あの席の雰囲気。皆が遠巻きに修一と綿引綾乃を観察する、あの目。
 修一が咳払いした。
修一「だから、延長、だ。俺だって良く知らん」
 と言い切った。
ーー開き直るのか?
 ちょっとカチンと来た。
孝美「延長って、・・・延長で?・・・ね、・・・寝たり、するってこと?」
 脇の下から汗が流れるのが分かった。冬なのに。
 修一はふん、と言って首をそっぽに向ける。席を立ちたいらしい。腰が少し浮いた。
修一「・・・そういうこともあった」
ーーあったのか!
 やはり衝撃だった。でも平静に見せる。
孝美「あった?じゃ、長井だけだったの?」
修一「いや、・・・そうでもない」
ーーあのねー!やっぱ浮気してたんじゃないかー!
 イライライラ。
孝美「今は?どうなってんの?」
修一「知らん」
孝美「知らん?」
ーー無責任発言!
修一「 知らん。本当に知らん。綿引に聞いてくれ」
 そして立ち上がってキッチンの方へ行ってしまった。
ーーつまり、今はどうなってるってことだ?
 得た情報をまとめて、導き出そうとした。
 イライライラ。
 そのまま居なくなるのかと思ったら、修一は缶コーラを手に戻って来た。
修一「ビール、無くなってた」
孝美「ああごめん」
ーーちっ。
 条件反射で謝るって奴だ。
修一「いや」
 修一は孝美の謝りを「不要」の意味で否定し、ちょっと考えてから、静かに隣りに戻って座った。
ーー全て私の杞憂で、見なかった振りすれば良かったってことか?いや、会社に復帰しなければ良かったってこと?
 修一はぐるぐる考えている孝美を横目で見た。
修一「俺たちがこうなったのは、綿引のせいじゃないと思うけどな」
孝美「えっ」
 不意を突かれた。
修一「あいつのせいじゃないだろ。・・・前からおかしかった」
ーー・・・もっと前から。
ーーそうだ。確かにおかしかった。前から。それじゃ何時が発端だったのか?何時からおかしかった?
ーー地震のときか?
 孝美はテーブルを見つめたまま、目を見開いた。
孝美「・・・そうね」
 確かに地震=東日本大震災のときから、二人の間にはズレが出来て、それが少しずつ少しずつ広がって行った。そうだ。
ーー私たちの間に出来ていた裂け目に、その裂け目に綿引綾乃がすべりこんだということ?か?しかも一時的?だったの?
 混乱してきた。
ーーそもそも夫婦の裂け目って何だ?何が裂け目になったんだ?
ーー良く言う価値観の不一致という奴だろうか。
 孝美は地震のとき、修一が「何でお前の親と同居しなきゃならないんだ」と言うのが聞こえて深く傷ついたのを思い出した。地震の後、孝美が茨城の両親を東京の孝美の家に連れて来ようとしたときだ。あのとき、孝美の家族を他人と思う、その愛情の無さに、孝美自身への愛情の浅さを感じたのだ。
ーーそういうちょっとした感覚?いや?でも?
 もっと前からかも、と思いついた。もっと遡って、過去を辿った。
 はっとした。
ーーそうか。タイムスリップして、そのことを話して、まるで信じてもらえなかった頃からだ。
 見つけた。
ーー・・・そうか。・・・そうだ。そうだったのか。
 考えないようにしてきたらしい。でも、タイムスリップなんて恐ろしい体験をして、実際戻れるとは思えなかった、あんな体験をして、奇跡的に戻って、それをいちばん親しい人に告白したのに全く信じてもらえず、聞く耳も持たず、気違い扱いされた。
ーー・・・それか。・・・そんな昔からだったのか。
 河本がぱあっと浮かんだ。
 信じてくれた人だ。もう去ったのだと思い出したら、また涙がにじんで来た。
 修一からしてみれば、普通の人間だと思っていた妻が実は頭がおかしくて、それを結婚前からずっと隠していたと、騙されていたと思ったのかもしれない。
 修一は孝美が考え込んでいるのを横目でずっと観察していた。
修一「もう無理かもな」
孝美「・・・」
修一「言っとくけど」
 修一は腰を右左にゆすって、胡座をかき直した。
修一「俺は「家族」やってくつもりでいたんだぜ。何にしろ。広太のこと考えてみろ・・・それをお前は」
ーー岡山に逃げ出した、と。私が広太の未来もぶち壊している、と。
 孝美は唇を噛んだ。確かに近い未来に地震が来るという、その恐怖を杞憂と思うならば、そう思うならば、当然のことだ。
修一「もう1回だけチャンスをやる。今すぐ戻って来い。今すぐ戻って来れば、家族に戻ってやる」
 そして、本当に嫌そうな顔をした。これから一生大儀な義務を果たす覚悟だってことだ。
ーー戻ってやる。戻ってやるだって。それが男の務めだ、って感じ?
 だめだ、金輪際従えない、と思う。
孝美「戻らなかったら」
修一「お前は好きにすればいいさ。だけど広太は」
 そして広太をどっちが引き取るかで激論になった。岡山に行くときの口論の発展版だ。途中で声高すぎると思い、広太を残してふたりでベッドルームに籠もった。小1時間以上続いた。
 修一は、こんな女とは思わなかったと言った。これも、改めて、孝美の胸に深く刺さった。
 修一は孝美の憧れだった。会社に入って、配属されて目に入った、キラキラ働いている素敵な先輩だった。その頃修一は大学のときからの彼女とずっと付き合っていて、だから見ているしかないお星様だった。でもその彼女がスリランカに転勤することになって、あっさり行ってしまったために破局してしまった。修一は結婚するなら自分に付いて来る女にしようと思ったはずだ。だから、一介の事務員で、いつも同じ場所から(事務員は席に座っていることが多いからだ)ずっと見つめ続けていた孝美が、その空席に入り込むことが出来たのだ。
ーーそう思ってた女が、安全牌と思ってた女が、タイムスリップとか気違いなこと言い出して、挙げ句地震が来るからとか言って岡山に逃げ出したら、そりゃ愛想も尽きるって訳ね。
ーーもう、いい。
 孝美はすくっと立って、チェストの引き出しの中をかき回した。あのときもらってきておいた離婚届は、簡単に出て来た。

 広太を家に閉じ込めすぎだった。だから夕方になって、3人で予定通り初詣に出た。インターネットで検索して一番近場にあった、千川の「粟島神社」にした。帰りにファミレスに入って夕食を取った。帰宅して早目に広太を寝かしつけた後、仔細の相談に戻った。冷静に話し合った。
 広太は少なくとも小学校を卒業するまでは孝美と暮らすこと。小学校卒業以降は、どちらの親と暮らすかは広太自身に選択させ、好きなときに変えられるようにすること。それまでの間、半年か少なくとも1年にいっぺん以上、父親に会わせること。
 もちろん孝美は広太とずっと一緒に居たい。中学校や高校も一緒に居たい。岡山は教育に熱心な県だと説明したのだが、聞き入れられなかった。いずれにしろ広太の判断に委ねることにしたので、離れる確率は低いと思う。修一は最低限大学は東京、と言った。これも受験の頃になれば広太が自分で判断するだろう。
 離婚届のサインはあっけなかった。但し今は区役所が閉まっているので、正月が明けたら修一に提出してもらうことになった。
 浦和が問題だった。この正月、浦和の修一の親に広太を見せないで帰るのは不味いだろう。しかし離婚も成立した以上、親子3人で訪問するのはどうにもおかしいと思う。1月2日の朝、日帰りで修一と二人で浦和に行くよう広太に言うと、いやいやをした。予想通りではあった。でもここは行ってもらうしか無い。少々無理に支度をさせて、ぐずる広太に玄関で靴を履かせると、巨大な癇癪泣きになって孝美にしがみついてきた。はがそうとしたけれど、全身の力でしがみついてきた。
孝美「分かった分かった。じゃあママも行く。ああもう。ね。分かったから。ママも行くから。ね」
 日頃口数が少なく感情も豊かに出さない広太が泣き叫ぶのは、珍しいことだ。余程ストレスなのだと思う。
ーー私の方が泣けそう。さてどうしたらいいか。

 結局親子3人で浦和の駅に降り立った。孝美はここで広太と修一を送り出した。電車で移動する中で、ママは駅でお買い物があるから、その間パパと二人でおじいちゃんとおばあちゃんのところに行っていてね、と広太を説得したのだ。ご用があったらパパに頼んでママの携帯に電話してね、そしたらすぐに行くから、と言った。それでやっと広太は、修一に手を引かれて歩き出した。母をちらちらと振り返りながら。ほんとうにごめんねと思う。
 二人が見えなくなったところで、ふうと息を吐いた。
ーー予想外の空白の時間が出来てしまった。
 浦和の駅まわりで、3〜4時間も潰さなければいけないだろう。ぼうっと伊勢丹の初売りに揉まれる間、何故か岡山の会社用のお土産を購入してしまい、何で今荷物を増やしてるんだろうと思った。荷物ついでに広太の冬服でも買おうかと思い、伊勢丹のカウンターでユニクロは入っているかと聞くと、伊勢丹には無いが「コルソ」に入っていると言われた。コルソという商業施設は伊勢丹に直結しているのだそうだ。それで、少々方向音痴の孝美でもカウンターで教えられた通りに進んだら辿り着くことが出来た。だがユニクロに到着する前から混雑に酔って疲れてしまい、せっかくのユニクロを横目に通り越して外に出てしまった。
ーー仕様が無いな。コーヒーでも飲む?
 それで、東口にドトールがあったことを思い出して、そちらに向かう。疲れた中で、くすと笑った。今居る西口にスターバックスなりタリーズがあっただろうと思う。でも節約癖が先行した。
 一人になることなど滅多に無いのだから、楽しめばいいと思う。でも楽しくない。広太はどうしているだろうと思う。
ーー広太と離れて暮らす未来なんて想像出来ない。
 孝美はしみじみ悲しかった。
(以上、2014.05.14)

 正月明け、何事も無かったかのように去年までと同じ生活が戻って来た。岡山での生活。見た目は同じ、でも内容は大きく異なる。
 孝美は大きな責任を実感した。自分ひとりで、ひとりきりで広太を立派に育て上げること。慰謝料みたいなのは一切無し。修一には何も頼りたくない。車を買ってもらっただけで沢山だ。
 会社は予想していた通り、経理兼務になったことでもっと忙しくなった。しんどい、でも仕事があるだけいいと思った。何とか赤字すれすれでやって行ける。何よりも、広太が岡山に馴染んで楽しそうなのがいい。
 正月に関東に帰ったことで、大事なことが分かった。最も向こうにいる間は離婚という事件にまぎれてしまっていたのだが、岡山に帰って来て確信したこと。
ーーなぜ私はタイムスリップの実験をしたいのか。
 それは以前河本に聞かれて、答えたけれど、どこかしどろもどろになってしまったこと。でも分かった。
 孝美は、自分だけ予知していて関東から逃げ出したことを、やはり卑怯と思う。東京の地震が起きる日を、富士山が噴火する日を、調べること。これは課せられた義務だと思う。災害の日が分かったところで、 両親も修一も信じてくれないだろう。言いくるめても避難してくれないかもしれない。でも調べるべきだ。そして災害に向けて最大限の努力をすべきだ。身内だけではいけない。何とかして被害地域の人みんなに、事前に知らせるべきだ。避難先や避難後についても、どうしたらいいのか導きたい。災害を最小限にするための対策を提案したい。
ーー自分だけが逃げ出してはいけない。
 そもそも岡山だって安全だとは言い切れない。これも確認しようと思う。
 3月で震災からまる2年になることも、孝美を急き立てる要因となった。季衣の言った「東北の地震から何年か後」に「東京の地震」と「富士山の噴火」が起きる。ぐずぐずしていてはいけない。ひとりでもやらなければいけない。

 週末はほぼ毎週、河本宅に赴いた。木曜か金曜の夜にメールで予定を伝えておくと、河本はまるで存在しないみたいに姿を眩ましてくれた。
 ひとり実験の初日、決意と共に、河本宅に鏡を移設した薄暗い部屋に入ると、鏡を置くために買ったステンレス製のラックが組み上がっているのが見えた。
ーー正月の間に組み立ててくれたのかしら。
 涙が滲んだ。
 根拠は全く無いけれど、この部屋は行けるような気がする。広太は今日も、居間の縁側でブロックの創作に熱中している。孝美はラックに乗せた鏡に向かいながら後ずさって、部屋の中央で静かに正座した。
 こちらに戻るきっかけとしては、音を出してみることにした。孝美はけたたましいベルを鳴らす目覚まし時計を持ちこんでいた。まず目をつぶって、精神集中。 十分だと思ったところで目を開けて、10分後に鳴るように目覚まし時計をセット。そしてラックの鏡からくるりと背を向けると、手鏡で自分の後頭部を映し始める。
ーーどこがポイントだろう。
 探すうち少々疲れて来て、こんなアニメあったな、ああ秘密のアッコちゃんだ、と思ったところできゅっと集中し直した。つむじのあたりまでゆっくり視線を上らせたところ。
ーー?
 チンチンチンチン、ジンジンジンジン! チンチンチンチン、ジンジンジンジン! !
ーー???
 心臓が止まったと思った。半腰を上げたところでよろけて尻餅をついて、膝行りながら頭が真っ白の中で目覚まし時計を止める。
ーー痛いっ。
 畳みで摩って、手の甲が赤くなった。くうう、と唸った。恐ろしい音のベルだ。
広太「マーマ、どうしたのー?」
 広太が心配して見に来た。孝美は大丈夫と言って居間に追い返し、あと何回かこの音が出るけど何も無いからと言い添えた。
ーー今?何か??
 すうっと暗い中に引き込まれるところだったのだ。でも光の玉には会えなかった。
ーー行けそう?これって、行けそうってこと?
 その後は再現しなかった。無意識で恐怖感が働いて、目線を集中しきることが出来なかったのだ。
 正月明けの初日はここまでだった。鏡の部屋に籠もっていたのは1時間に充たなかった。しかしこの集中は体力を奪い、部屋を出るときには壁伝いでないと歩けなかった。
 以降は1時間と決めて、同じように河本宅の部屋に籠もって鏡を覗き込み、暗い中に引き込まれる感じのタイミングと確率を詰めて行った。
 トリップする目安と思っていた「光の玉」は、あの頃のようにキャッチボールしない。この部屋のせいなのかは分からない。でも全く出ないのではなくて、暗くて半透明なのが目線の遠方にぽわんと浮かんで見えることは多い。そいつに導かれるようにして、真っ暗な中を進むのだ。水先案内の玉。ゲゲゲのキタロウのカラカサお化けみたいな感じ、か?
 「暗い中に引き込まれる感じ」までは回数を重ねることで大分上手に行けるようになった。でも暗い中の向こうが開けて行かない。何とかして、身体は入り込まずに異なる時間枠を覗きたいのだ。映画館のスクリーンを見る感じで。
 じりじりじり。
 状況が進まぬまま2月も半ばを過ぎた。

 2月23日の土曜、孝美は焦燥を感じつつ、今日も河本宅に訪れた。広太の方でも同じブロックを使った創作に飽きてしまっていたので、新しい形のものを買い足して、更にブロックの創作に背景をつけられるよう、今日はクレヨンと色鉛筆の間の子のようなものと、スケッチブックも持って来た。クレヨンと色鉛筆の間の子のようなもの、これは先日孝美自身が一目惚れして買ってしまったのだが、発色が良くて、手に付かない。広太のような小さい子がぎゅうぎゅう描いても折れない。最近のものは良く出来ていると思う。
 玄関で靴を脱ぎながら、それにしても、と考えた。
ーー行き詰まりを感じる。・・・今日も進展無しだろうな。 何か突破口が必要。
孝美「広太ー、来週、神戸の動物園に行こうか」
 河本宅の居間に向かって、慣れた様子でずんずん前を行く広太に声をかける。広太は関心が湧かない様子で、振り返りもしない。
ーー動物園を忘れちゃったか。
 それで、動物園とはどんなところか説明を加えて、神戸の距離感についても説明して、電車だよと言ったところで、広太は呑み込んできゃっきゃと跳ねて喜んだ。
ーーそう。これはもう、ミラーハウスしか無いよな。
 溜息を吐きながら、先週と同じように広太と広太の荷物を居間の縁側近くに拡げて、自分は実験部屋(居間の隣にある)に向かおうとして立ちかかった・・・ところで、ぴたと止まった。
 外に車が止まった気がする。
ーーええ??河本くん?
 たじろいだ。というか、動けなくなった。耳を澄ませる。
ーー・・・やっぱり。うちだ。何?何で戻ってくんの??
 心臓が止まった。まずいと思ってぱくぱくしていると、玄関のピンポンが鳴った。
ーー何で鳴らす?
 四つ足の動物みたいなポーズを経てようやっと立ち上がると、広太が孝美を追い越して玄関に走って行った。全速で追う。
 見たことのある男が玄関先に立っていた。
男A「やあ、また会ったね」
 男は広太を見て声をかけていた。広太は男に対峙してぴたと止まり、困惑している。孝美が追いつくと、孝美のジーンズを掴んで身体半分隠れた。
男A「おや、怖がらせちゃったかな」
ーーあっ、河本くんの会社の人だ。
 やっと思い出した。
ーー末広さん、だ。
 夏に季代子が来ていたとき、毎朝季代子を送って河本の会社に行っていたのだった。河本が何かの用事ですぐに出て来れないときには、この人が迎えてくれた。この人=末広さんが専務で、河本の右腕だからだ。
 末広さんは突然の登場を詫び、今日のプレゼンテーションで使用するものを河本が自宅に置いて来てしまったので取りに来たのだと説明した。
末広「(孝美が)いらしてるだろうって社長から聞いてたんですがね。どうもすみません、お邪魔して」
 孝美はどうぞどうぞと言って末広さんを招じ入れながら、自分の家じゃないのに妙だよな、と思う。末広さんは知った様子で廊下を進み、あったあったと言いながら居間の片隅に屈み込んで、古新聞を被っているものに手を伸ばした。
末広( 男A)「全くねえ。これ、何だと思います?」
 末広さんは、物を古新聞ごと部屋の真ん中へんに引っ張り出したところで、座り込んだまま指差した。
孝美「?」
末広「全くねえ。社長この頃調子悪いと思ったらこんなの作っちゃってねえ」
ーーん?
孝美「・・・調子悪いんですか?」
 末広さんはちょっと渋そうに笑いながら、はたはたと手を振った。
末広「あ、いやー違いますよ。病気じゃないです。違います。・・・やる気が出ないってことです、仕事のね」
孝美「そうなんですか?」
末広「そうなんですよ。どうもねー。困っちゃいますよ。そんでまた、こんなの作っちゃって」
 孝美はしみじみ古新聞を被っている何かを見つめた。末広さんは、孝美の様子を見ていた、が、孝美は胸の内がざわざわして気付くところではなかった。
孝美「・・・で、これ何なんですか」
末広「ああ」
 末広さんが古新聞をぱあっと取り除ける。
ーー模型?てか、ジオラマ??
末広「水族館の完成イメージ、だそうです。・・・今日のプレゼン、鳥取の水族館の改築なんですよ」
ーーこんな趣味あったんだ。
 結構上手いじゃんと思う。広太がそーっと寄って来た。
末広「全くねえ。こんなの作ってるんだったら、他にやんなきゃいけないこと100も200もあるでしょう」
 孝美は聞きながら模型を見つめ、口の端をきゅっと歪めた。
末広「って言ったらね、社長、しゅんとしちゃって」
 思わずはっとして末広さんの方を見る。
末広「それで今日、プレゼンでしょ、それで模型何処にやりましたかと聞いたら、家に持って帰ったって言うじゃありませんか。全くもうねえ。せっかく作ったんだったら使わなきゃ勿体無いでしょ。少しでも印象の足しにしなきゃ」
孝美「・・・」
末広「そんで、とにかく社長先に行かせて、私がこれ持って後から追いかけることになったんですよ。・・・さて、どうやって運ぶかな」
 30cm四方くらいの小振りの模型だが、壊れやすそうだ。広太が触ろうとしているのが見えて、びっくりして腕を引っ掴んだ。強かったらしい。広太は半泣きになった。
孝美「あああ、ごめん広太。だって。・・・触っちゃだめなんだって」
 ぴーと泣く広太を抱き抱える。
孝美「河本くんがね、大事に作ったんだって。これ。ね」
 そして膝をついたまま末広さんを見上げる。
孝美「固い紙かなんかで、上、覆って、紐かけるしか無いんじゃないですかね」
 それで、末広さんとふたりで「固い紙」らしきものと紐を大急ぎで探して家の中を漁り、ちょっとへんてこながら運べる状態に包み上げた。末広さんはありがとうありがとうと言いながら玄関に急いだ。
 ところが、末広さんは玄関先に座って靴を履きはじめたところで、はたと止まる。腕時計を見た。振り返った。
末広「あの、ちょっとだけ、いいですか」
孝美「はい?」
 孝美は見送りに来て、玄関先で末広さんの後ろに立っていた。
末広「私、次の電車絶対乗らなきゃいけないけど、でもまだちょっとだけ時間ありますんで。・・・せっかくだから」
孝美「??」
 末広さんはほんの一瞬、言葉を選んだ。
末広「社長とけんかでもしました?」
 孝美は驚いて、ぐっと顎を引いた。
末広「ああ、私が首突っ込むことじゃ無いですかね。そうですよね。そうなんですけどね」
孝美「・・・」
末広「社長、ほんと調子出ないんですよ。うちの会社まだまだ危ないんです。頑張ってもらわないと」
 何とか言おうとして孝美がちょっと口を動かした。が、その前に末広さんが続きを喋っていた。
末広「社長、あなたが来てからすごく良かったんですよ。いいアイデア出すし、営業も嫌そうだったのに頑張って出るようになったし。・・・8月頃からですかね」
孝美「・・・」
末広「あれ、あなたが季代子ちゃん連れて来てた頃ですよね。それがどうしたんだか、今度はすっかりふさぎ込んじゃって」
 孝美がまた何か言おうとした。でも末広さんが続けて喋った。
末広「社長はあなたがお好きなんでしょ」
孝美「えっ」
ーーでも・・・。
 さかえのシルエットが頭の中でくるっと回った。
 末広さんはちょっと上を見て考えた。
末広「私ゃね、うちの会社の立ち上がりの頃から居るんです。先代には大分可愛がっていただいて、この家にも結構お邪魔してまして。そんで社長のことも子供の頃から知ってます。社長はちっちゃい頃から優しい子でしてね。でもその分気が弱いとこあります。・・・社長ってなるとねー、そのへんが難しいとこなんですよ。ねえ」
 末広さんは、ふうと息を吐いた。
末広「先だってなんてね、・・・12月の頭くらいでしたかね。うちが生きるか死ぬかってくらいの大きい受注がかかってたんですよ。それがプレゼン行ったら、社長があの気性でしょ、良いように言われてダメ出しされて、宿題もらっちゃいましてね。中1日で練り直してもういっかい持ってかなきゃならなかった。それがまたちょうど土日でね」
 孝美は首を傾げて考えた。この件、憶えがある。
末広「土曜のプレゼンの後、遅くまで社長と詰めて練り直しまして、日曜にはうちのメンバー集めて試作品作り直すことになってたんです。で日曜、メンバーが来る前に社長ともういっかい打ち合わせしようと思って、朝から待ってたんです。ところが社長、来ないでしょ。メンバーが集まっちゃった後でやっと来て」
ーーやっぱあれか!?
末広「しかも頭からいい匂いさせてるでしょ。私もう、あったま来ちゃいましてね」
ーーうちのシャンプーの匂いか!
 孝美がびびった目をしたので、末広さんはまあまあ、と目でなだめる。
末広「いやいや。ところが社長、あの日がまた冴えてましてね」
 末広さんは、くすと笑った。
末広「よく寝たんですかね」
 孝美は困惑しながら、ふうと密かに息を吐いた。
末広「お陰であの仕事、取れました」
 末広さんは孝美をじいっと見る。
末広「あれ、あなたでしょ」
ーー・・・!!
 動かなかったつもりだったけど、目が大きくなったのを読み取られた。
末広「すみませんね。立ち入ったこと聞いて。でもあれ、あなたでしょ。私分かるんだ。・・・あんた、「あげまん」だね」
孝美「あげまん?」
末広「知らない?・・・映画だよ。伊丹十三(監督)の。何てったかな」
 末広さんはうーん、と考えた。
末広「まあいいや。男が力、発揮出来るようにする女のことですよ」
 孝美は眉間に皺を寄せながら、首を傾げた。
末広「・・・だからね。私は、「あなた」が良いと思ってる。・・・だからね。仲直りしてくださいよ。出来れば。・・・いや、是非ともね」
 孝美は困惑し続けながら、もごもごと口を動かした。これを口籠るって言うんだ、と思う。
孝美「・・・でも、・・・でも、さかえさんが」
末広「さかえさん?」
 と末広さんはおうむ返しにする。
ーー知らない訳ないでしょう。
 で、一瞬してから、末広さんは、ああ、さかえさん、と呟いた。
末広「張替さんとこのお嬢さんですか」
孝美「そうです」
 末広さんは、顎に手をやってひねり出した。
末広「社長もへんなのに捕まっちゃいましたねえ」
ーーええ??
 末広さんは、孝美が明からさまに驚いたのに気付いた。
末広「いえ、訂正します。困ったのに捕まった、です」
孝美「・・・はあ」
ーー「困ったの」?・・・違いが分からん。・・・いやでも。
ーー河本の話によると、会社的に張替議員には頭が上がらないんじゃなかった?
 末広さんは孝美の顔色を見て、頷いた。
末広「そう、そうですね。・・・確かに。・・・確かに、張替さんは市議会議員だし、確かに、うちがつぶれそうになってるときに、仕事幾つか回してもらったことあります、お嬢さんのつてで」
孝美「・・・」
末広「でも」
 末広さんは孝美を見て、もう一度頷いた。
末広「でもね。あのとき張替議員に融通してもらっても、もらわなくっても、あんまりは変わらなかったと思いますよ。・・・自力でなんとか残ったと思いますよ、うち。・・・これ、強がりじゃありません」
孝美「・・・」
末広「ま、問題は社長が優しすぎることだね。・・・でも」
 末広さんはまた孝美を見て、今度は2度頷く。
末広「そういや年が明けてからこっち、見てませんよ。あの子。2〜3週にいっぺん、大体、顔見せるんですけどね。こりゃ社長がなんか、ぴしっと言ったかな」
 孝美の口が「え?」の形に開いた。が、音にならなかった。
末広「いや分かりませんよ。当てずっぽうです。・・・私ゃ、早く別れちまって欲しいんですよねえ。あの子ときたら、忙しかろうがなんだろうが、社長のこと引っ張って、連れ出しちまうんだもの。・・・ほんと迷惑なんですよねえ」
ーーでも、付いてく方も付いてく方だ。
 末広さんは、孝美が口をへの字に曲げたのを見て、冠りを振る。
末広「いや、社長だって、好きで付き合ってませんよ。今じゃね。貴方も見たら分かりますよ、あの現場ね。・・・そうか。いよいよぴしっと言ったかなあ」
 末広さんは、にやにや笑って、大分嬉しそうだ。でも、はっとして、腕時計を見た。
末広「いけね。まずいです。もう行きます」
孝美「・・・はあ」
 でも玄関から身体を半分出したところで、急いで振り返った。
末広「あのね、頼みますよ。社長と仲直りしてください。あなたならいい。なんなら私が、間、渡しますんで」
 言葉の最後の方は、車へのダッシュに被って、聞き取り難かった。
 孝美は、末広さんが閉め損なった玄関のドアを見つめて、そのまま玄関先に座り込んだ。

 結局その日は何一つ集中することが出来ず、口惜しい気分を残して帰って来た。
ーー「 社長はあなたがお好きなんでしょ」「 社長はあなたがお好きなんでしょ」
 おんなじ言葉がくるくる回る。
ーーいやでも、あれ、末広さんの勝手な憶測だし。
 その手に乗ったらいけないと思う。誰の策謀か知らないけれど。
ーー取り敢えず、何も聞かなかったことにしよう。そうしよう。そうしよう。
 でも、 おんなじ言葉がくるくる回る。私はこんなにも弱い、と思う。
(以上、2014.05.20)

 「来週、神戸の動物園」。
 悲しいかな、この企画は延期せざるを得なくなった。木曜になって、広太が熱があると、保育園から呼び出しが来たからだ。
ーー風邪か、インフルエンザか?まさか、おたふく(風邪)とか風疹とか?
 申し訳有りません、と心から謝って会社を早退した孝美は、保育園に向かいながら心配で心配で心臓が痛くなった。今お世話になっている保育園は結構良心的で、37度ちょっとくらいの熱なら、子供は体温が高いものだしと言って連絡して来ない。そして一方、広太自身も丈夫に育ってくれているので、こんな呼び出しのシチュエーションはこれまでほとんど無かったのだ。保育園に着くと、真っ赤っかの顔をした広太が部屋の片隅に座り込んでぼーっとしていた。ぐったりして重い広太を抱き抱えながら、車を持っていて本当に良かったと思った。
 帰りに飛び込んだ近所の小児科医の判断によると、風邪らしい。でも夜になると39度以上も熱が出た。孝美はほんとうにすみません、と心から謝って、金曜日は有給休暇をいただいて、広太につきっきりになった。こんなことになると、スーパーマーケットにさえいつ行ったら良いのか分からない。しっかりしろ、これからこんなことが何度もあるんだぞ、と思う。金曜は良く分からないまま昼が終わり、夜が更けて行った。
 夜、12時をまわってすぐ、携帯電話にメールが来たメロディで目が覚めた。孝美は広太の枕元でうたた寝をしてしまっていた。
ーー私にメール?
 と思った。そのくらい、孝美は近頃人付き合いが薄く、孤独に落ちていた。
ーー・・・河本くんだ・・・。
 今週末はどういう予定かと聞いて来ている。このところ毎週末、河本宅にタイムスリップ実験に赴いていたので、木曜か金曜に孝美から行く予定をメールしていたのだ。それが無かったので確認まで、と言っている。
ーーそんなこと忘れてたよ・・・。
 12月の一件以来ずっと河本の方からメールが来ることは無かったので、複雑、な感じ。それで、広太が病気であることを簡単に返信した。河本からは、了解、とだけ返って来た。何だか冷たい気がする。
ーーいや、これは私の気が弱っているせいだ。これで当たり前、これで当たり前だ。
 冷蔵庫のストックを見て、溜息を吐いた。牛乳も卵も無くなっていた。
ーーそろそろスーパーマーケット行かないと。葱とうどんも欲しいな・・・。
 でも広太から離れられなくて、家から出られなかった。はじめてネットスーパーを利用した。でも孝美にはパソコンもスマートフォンも無かったので、携帯電話からのオーダーになった。携帯電話でネットスーパーを検索するのは、不便だし不安が残った。
ーーむむう。やはりスマホにすべきか・・・。
 この貧民の状態で、と思う。それから、これからこんな事態が起きたときのために、非常用の食材をストックをしておこうと思った。
ーー取り敢えずスキムミルクかな。・・・あと、冷凍のうどんと、焼きおにぎりとか?それから基本的な野菜を切って冷凍しとくか・・・。
 
 広太の容態は3日程で改善した。が、それを確認したら、孝美の方が調子が悪くなった。
 同じ風邪だ。でもこれ以上会社を休めないので、よたつきながら週いっぱい、出勤した。金曜の夜、震える手で広太にうどんを食べさせると(孝美がうどんくらいしか受け付けなかったのでこのメニューになったのだ)、限界が来てふとんにダイブした。熱が38.6度あった。
 また携帯電話がメール着信のメロディを流した。取り上げる電話がとても重い。
ーーまた河本くんか・・・。
 と確認したところで眠りに落ちた。

 翌朝、今度は電話のメロディで起こされた。仕方が無いので取る。
ーーやな予感・・・。
 やはり河本だった。
孝美「・・・今何時?」
河本「え?・・・10時、・・・3分。・・・諸橋、調子悪いの?」
孝美「・・・うん」
ーー諸橋、だ。
 手が重くて、もう電話を切りたくなった。
河本「・・・やっぱな。 広太の風邪が遷ったのか」
孝美「・・・うん」
河本「・・・何か困ってることあるんじゃないの?」
孝美「ううん。大丈夫」
河本「大丈夫って。・・・広太はどうしてんの」
孝美「広太?・・・治った」
河本「治ったって・・・そりゃそうだろうけど」
孝美「しんどいからもう切る」
河本「ああ、待てっ。・・・要るもん無いの?持ってってやろうか?」
孝美「無い」
河本「買い物は?」
孝美「ネットスーパー」
 河本が大きく溜息を吐くのが聞こえた。
河本「ほんとに無いの?」
孝美「無い」
ーーめんどくさい。
河本「・・・じゃっ。・・・困ったことがあったら連絡して来いよ?」
孝美「うん。じゃね」
 電話をぶちっと切って、手に持ったまままた眠りに落ちた。

 玄関の鍵がガチャッと鳴った音で目が覚めた。河本と広太が話しているのが聞こえる。咄嗟に上半身、飛び起きた。
 河本と広太が話しながら靴を脱いでいる。孝美は這うようにして進み、リビングと台所を仕切るドアを開けた。
河本「あっ起きた?」
 広太がママーと言って飛びついて来た。
孝美「何で」
 怒りが心頭してきた。河本は広太の腕を孝美から外す。
河本「広太、ママ病気だからな、抱きついちゃダメだ」
孝美「何で」
 あんまり怒って、涙がこぼれ落ちて来た。
ーーくやしい。
河本「何でって」
 河本が広太を見下ろす。
河本「昼過ぎに電話したらさ、広太が出たんだよな?」
 河本は広太に向かって、なっ、と言い、広太がうん、と頷く。
河本「そんで、昼まだかって言ったら、まだって言うから」
 河本が広太を背中から抱き抱えた。
河本「じゃー一緒に行くかって言って、食べて来たのさー」
 で、河本は広太に背中越しに、なーと言い、広太はなーと答えた。孝美は頭が真っ白になった。
河本「んで、帰りに天丸屋行ったんだよな。なー」
 で、広太もまた、なーと答えた。河本に脇をくすぐられて、きゃきゃと笑った。
 心配になって広太を見つめた。・・・ひと通り、暖かそうで、ちゃんとした格好をしているようだ。河本は広太を離して、好きに歩かせた。
河本「怒ってんだね」
孝美「だって」
河本「泣く程怒ってんだ」
孝美「だって!」
河本「じゃあ早々に帰ります」
 河本は溜息を吐いてから孝美の横を横切って、リビングに入り窓に手をかけた。
河本「ちょっと窓開けるよ。寒いけど」
 外の空気が部屋に侵入すると孝美の弱った身体にキンッと刺さって、思わず息を止めた。
孝美「・・・夕方だ・・・」
 孝美はリビングのドアの柱を背にへたったまま、夕方の景色を見つめた。広太は部屋の隅に座っておもちゃに向き合ったところだったが、んしょと立ち上がった。
広太「寒いよー河本くん」
河本「ん?ああ、悪い悪い。でもちょっとな、部屋の空気入れ替えよう。そしたらママの風邪、早く治るから」
 広太はほんと?と言いながら座り直した。河本はほんとだよ、と言いながら歩いて行って、広太がさっき脱ぎ捨てたジャンバーを再び肩にかけた。広太が嫌がるのをなだめて腕を通させながら、頭半分を孝美に向けた。
河本「少しすっきりした?」
 孝美は 首を傾げた。 ぼーとして、ただ一部始終を見ていたのだ。
河本「熱測っとけば?」
孝美「・・・うん」
 孝美は這うようにして、ちゃぶ台の端っこに乗っていた体温計にのろのろと手を伸ばした。
河本「俺としゃべりたくないにしても」
 河本は移動して、ちゃぶ台の向こう側に、のしっと胡座をかいた。孝美は河本と目が合わないように下を向いた。
河本「広太が可哀想だろ。飯も食ってなかったんだぜ」
 孝美は下を向いたまま、唇を噛みしめた。
孝美「だって。・・・大丈夫だったはずだもん。ヨーク、(冷蔵庫の)手の届く段に入れといたし」
河本「ストローが見つからなかったみたいだよ」
孝美「・・・あっ」
 くそう、と思った。
ーーすると広太は何も飲めなかったのか。私が眠ってる間。・・・でも。
孝美「でも!」
河本「でも?」
 孝美はきりっと河本を見た。
孝美「誰にも頼らない癖をつけなくちゃいけないの。・・・私も、広太も」
河本「誰にも?」
 河本はちゃぶ台に頬杖を突いて、顎を捻った。
河本「 ・・・成る程 。確かに」
 それから一度、窓の外を見た。
河本「確かに・・・でも、諸橋はこっちに知り合いが居なくて来たんだろう?そんで、俺は出来ることはサポートするって言った。俺は・・・そこんとこは続けるつもりで居たんだけど。まあとにかく・・・顔見たくないにしても、そこんとこは折れた方がいいんじゃないの?広太のこと考えて」
 孝美はまた唇を噛んだ。気張ったのでごほごほと咳き込んだ。ついでに鼻水も出て来たのでティッシュペーパーに手を伸ばした。
河本「それに・・・。誰にもって言うけど、いざとなれば長内さんだって東京から来るだろう」
 孝美の手がティッシュペーパーの箱の上で止まった。河本は、 まっ風邪くらいじゃ呼ばないでもいいだろうけど、と呟いた。
孝美「・・・来ない」
河本「え?」
孝美「来ない」
河本「え?」
 孝美はああもうやだ、と思いながら、勢い良くびーんと鼻を咬んだ。
孝美「・・・もう、こんなとこ、見られたくないんだけど」
 河本は、さっきの、え?で止まったままだ。
ーーもう!
孝美「来ないのよ。・・・離婚したんだもん」
 河本は静かに頬杖を衝き直した。
河本「・・・いつ」
孝美「正月。こないだの」
 河本はしばらく考え込んでから、そうか、と言った。孝美は体温計を出してチェックした。
河本「何度」
孝美「37度4分」
河本「何度あったの」
孝美「38度6分」
河本「まあまあだな。何か食べる?それとも何か飲むか?」
孝美「・・・お茶」
 河本は無言で立って、湯を沸かしに行った。孝美も続いて膝をついて立ち、まあ真直ぐ歩けそうだと思って、後を追った。
 軽く手を洗ってから急須と茶葉と茶碗を出す。
孝美「こんなとこ見られるの、やだ」
 河本は横目で孝美をちらと見た。
河本「あのね・・・」
 そして反転してシンクにもたれて、腕を組む。
河本「全く。まあ、諸橋の決意は分かった。分かったよ。だけどね。・・・助けてくれる人がいるときは、助けを借りた方がいいんじゃないの?」
孝美「・・・」
河本「他のシングルマザーやってる人だって、そうやって、やれるとこは人の手上手に借りて、・・・借りながらやってるんじゃないかと思うよ。・・・もしほんとに誰も居ないときが来たら、そんときは自分で頑張ればいい」
孝美「・・・そうなのかな」
 と言っているうちに、また鼻が辛くなったので急いでリビングに戻った。
河本「と思うけどね」
 河本はポーズを変えずに、リビングで、孝美がごほごほと咳き込む音を聞いていた。孝美はしんどくなってきて、そのままちゃぶ台の前に座り込んだ。河本は茶を入れ、それをちゃぶ台に置いて、サッシの窓を閉めてから向かいに座った。
孝美「・・・河本くんに移ったらどうしよう。帰ったら良くうがいしてね。ね?」
ーーあれ?
 孝美はふと首を捻った。
孝美「・・・そう言えば河本くん、土曜も大抵仕事してるよね?もしかして抜けて来たの?」
河本「ああ、まあ」
 孝美はわたついた。
孝美「ええ?じゃあすぐに帰らないと」
 河本は胡座をかき直して、笑った。
河本「いや。末広さんが、後はやっときますから今日はいいですって言って。むしろ送り出された」
 孝美の目が伏し目になって大きくなった。河本は改めて笑った。
河本「末広さん、諸橋のことお気に入りなのな」
 孝美は目をくるりと回してから、末広さんの顔を回想した。
河本「で。やることがないなら帰るけど。ほんとに無いの?」
 孝美は唇を噛んで考えた。
ーーあると言えばある。
 河本は読んだ。目で、言えと促して来た。
河本「何。・・・えっ、何?」
 孝美がごにょごにょ言ったのが聞こえなかったのだ。
孝美「・・・広太のお風呂」
 河本は予想外の顔をしてから、ああそうかーと言って、ふふと笑って納得した。
 いつも孝美は、自分は服を着たままで、広太をユニットバスの中に立たせて風呂に入れるのだが、河本はそんな芸は出来ないと言って、一緒に湯に浸かって行った。広太が本当に楽しそうで、きゃあきゃあ叫ぶ声が聞こえて来た。度々風呂の中から呼び出されて、髪を洗うときはシャンプーハットを使うのかとか、いつ湯を抜くのがいいのかとか聞かれた。
ーー替えのパンツ、・・・あるな・・・。
 河本が以前夜にやってきて風呂に浸かって行ったときの、あのときのパンツがある。洗ってある。孝美はバスタオルの上に、それもちょんと乗せた。また、即席の家族みたいな感じが戻ってしまった。
ーー私は、馬鹿だ。
 そして自分の思慮の足りなさを思いながら、また鼻を噛んだ。

河本「ところで、タイムスリップの実験ってどうなってんの」
 河本が玄関先で靴を履きながら聞いた。孝美は厚い御礼を込めて見送りに来ていたが、力が抜けて座り込んだ。
孝美「ん」
河本「俺んちは役に立ってんの?」
孝美「それが」
 孝美は目を見開いて、うん、と頷く。
孝美「これが予想外にいい感じ。・・・なんでか分かんないんだけど」
河本「えっそうなんだ」
 河本にも予想外らしい。
ーーそりゃそうだろうな。
 孝美はまた頷いた。
河本「で、どうなってんの」
孝美「うん。・・・すーっと落ちる感じまでは行った。でもその先まで行かないの。・・・戻って来れなくなるのが恐くて、無意識で止めちゃってるのかもしれない」
河本「・・・戻るののきっかけって、どうしてんの」
孝美「きっかけ」
河本「ひとりで戻れるように、何か仕掛けてんでしょう」
 ふたりでやっていたときは、こちらに戻るために、河本に孝美の身体を移動してもらうよう頼んでいた分だ。
孝美「目覚まし時計セットした。煩い音が鳴るヤツ」
河本「それで行けそう?」
孝美「こっちに戻る意識喚起にはなると思ったんだけど、どうなんだか。まあ、全て手探りな訳だし」
河本「目覚まし時計か。・・・その、目覚まし時計、ごとき?それで戻れるかどうか不安なんで、行くのを途中で止めちゃってる?ってことか?」
 孝美は素直に認めた。
孝美「その可能性も大きい」
 河本は突っ立ったまま腕を組んだ。
孝美「取り敢えず今は行き詰まりなんで、ミラーハウス?・・・ほら、前に河本くんが教えてくれた動物園のだよ、あれに行こうって広太と約束したのよ。そしたらその途端、この子風邪引いちゃって」
 河本がちらと孝美を見た。孝美はそろそろ鼻が限界になり、河本を立たせたまま一度リビングに戻って、鼻を咬んでから戻って来た。
河本「ごめんな。もう切り上げよう。で、諸橋の風邪が治ったら、動物園行くの」
孝美「うん。・・・あったかくして行こう。ぶり返したら困るもん」
 河本は口をへの字に曲げた。そうじゃないだろ、と言う。
河本「ていうか、考えてる?ちゃんと。・・・ミラーハウス入って、もし上手く行ってさ、孝美が倒れたら、どうしようと思ってんの」
孝美「えっ」
河本「広太じゃうまいこと説明できないでしょ。だし、あんたのこと運べないでしょ」
孝美「え」
河本「救急車呼ばれるんじゃないの」
孝美「え・・・」
ーーそうか・・・。
河本「ほんとにふたりで行く気だったの?」
ーーくそう。
 不覚で口惜しい。河本が、手伝ってくださいと孝美が言うのを待っている。それが口惜しい。
ーーくそう。
孝美「分かりました」
 河本はポーズを変えず、眉だけを上げて孝美を見た。
河本「何」
孝美「一緒に動物園行ってください」
ーー畜生。負けた。
 それで河本は、口の端だけを上げて、小さく笑った。
河本「いいよ」
 でもまだポーズは変えない。
ーーもひとつ、言えってか。
 孝美は溜息を吐いた。
孝美「 分かりました」
河本「ん?」
孝美「タイムスリップの実験も、やっぱり手伝ってください」
 ところで、こちらは河本は確と考えていなかったらしい。自分の期待に今気付いたのが、もろに顔に出ていた。
河本「ん・・・そうか。分かった。いいよ」
 少しの狼狽。
孝美「でも!」
 河本は立ち直して、顔に緊張の色を見せた。
河本「分かってるよ。・・・分かってるよ、そりゃ。タイムスリップの実験だけ。それだけ。手伝います。Tタイヤの同期として、手伝います。それに・・・あのねたかみー、信じてくれないかもしれないけど、俺、ほんとにそんなこと出来んのか、ほんとに興味あるんだよ」
孝美「興味ね」
河本「ああ。語弊があるんなら謝る。でも俺は現場見たことないんだから、これしか言いようが無い」
孝美「・・・」
 そのまま少し沈黙して、考えさせてもらった。
孝美「じゃあ。ありがとう。取り敢えず。手伝ってもらったら、進むような気がする」
 河本は小さく微笑んだ。
孝美「実際、焦って来てるの。もう、まる2年だもん。...2年。間に合わないかも。・・・間に合わないのかな。何にも出来ないのかな、私」
 そう思ったらパニックになってきた。自分だけが大災害を握っているのは、そんなにも恐ろしい。
 河本は孝美の方に手を挙げて、でもふいっと戻した。
河本「だから手伝うよ」
孝美「・・・ありがとう」
 河本は玄関にもたれて、声の調子を変えた。
河本「実際、諸橋には借りがあるんだ」
孝美「借り」
河本「そう。俺はそう思ってる。・・・夏に、季代子の面倒見てくれたろ。・・・あれ、あれはね、実際、ほんとに危機だったんだよ。うちの。河本家の」
孝美「・・・」
河本「そうなんだよ。諸橋は気が付かなかったかもしれないけど。・・・だからね、出来ることは何でも手伝うつもりなんだ。そんで」
孝美「?」
 河本は、ここのところは大事だから、と、まず言い置いた。
河本「繰り返さないから。おんなじ失敗は。ね」
ーー失敗。
河本「てわけで、風邪が治ったら連絡くれ。あと、困ったこと出来たときもだ。・・・広太のお風呂とかね」
 河本は、くくくと笑った。孝美は苦笑いした。
ーー失敗。
河本「いいか、たかみーは我慢しすぎる。我慢しすぎないで、人の助けを借りるんだよ」
ーー失敗か。
河本「分かった?」
孝美「・・・えっ?」
河本「ああもう」
ーーどんな失敗?・・・私なんかと関係しちゃったっていう失敗??
 でも河本は、孝美のぼーっとぶりを風邪のせいだと考えて、さくっと帰って行った。
(以上、2014.05.27)

 3月24日。
孝美「あのー、ここ全員で入ってもいいですか?」
 入口の係員が、彼女の顔を縁取った、顔の大きさより一回り大きいだけの仕切りのガラスの向こうから目をきょろつかせた。
 広太は、また、孝美のジーンズを掴んで腿の後ろに半ば隠れ込んだ。係員は慣れた顔で、広太にふっと微笑んだ。
係員「ああ、はい。いいですよ」
 大人2人と子供1人の入場料を払って、河本を振り返った。河本はさして何を考えているようにも見えず、のたーっと立っている。孝美は、こほこほと小さく咳をした。
ーーいよいよ念願のミラーハウスに入るのだ。王子動物園の。
 どうも先日の風邪が全快しない。河本は、春休みだし混むから、もう少し待ってからにした方がいいんじゃないかと、風邪も治りきってないんだから、と言った。でももう先延ばしにするのは嫌だと言った。言い切った。
 2年経った。地震から。季衣の姿が浮かんで、ぶるっと来た。既におぼろになってしまった。今では、へんてこだったという印象と、鳩のよう突然動く頭のことしか思い出せない。孝美はもう一度、 河本を振り返った。
孝美「いい?」
 河本は、ぼーと少し向こうを見て、言った。
河本「いいよ」
 少し向こう、そこには、青いベンチがあった。
孝美「・・・私、運べる?」
ーーもし私が中で倒れたら。
 河本は眉を上げて微笑んだ。
河本「・・・と思うけど。練習しとく?」
孝美「何の」
河本「お姫様だっこかなあ」
孝美「ええ!」
河本「担ぐのは無理でしょ」
 と言って、両手でシミュレーションし始めた。孝美は恥ずかしくなって真っ赤になったのが分かった。
孝美「もうっ」
 で、広太を引きずるようにしてずんずんと中に進み始めた。
河本「練習しときゃ良かったなあ」
ーーこの人、身体鍛えてないからなあ。
孝美「分かったわよっ。じゃ倒れないようにします」
河本「そんじゃ意味無いんでしょ」
孝美「分かんないよ」
河本「いや、頑張るから思いのまま行って」
 そして、軽そうだから行けると思うんだけどさ、と言い添えた。
孝美「もうう」
 広太は入口付近で初めての視界にびっくり立ち止まっていたが、わあと声を上げると中に駆け出した。そして、てーんとおでこから鏡にぶつかって、漫画みたいに仰向けにぶっ倒れた。ひゃああと言う孝美の横をすり抜けて、河本の手が、床に激突するほんの少し上で広太の後頭部をキャッチした。真四角の手だ。
 広太はぎゃんぎゃん泣いている。それで進めなくなり、後ろのお子さん方にすみませんと言いながら追い越してもらい、鏡に囲まれて立ち往生になった。河本が、初めて聞くような音量で腹から笑いながら、屈んで広太を抱き抱える。依然豪快に笑いながら、他の子の歓声を聞かせて、ほら大丈夫だろ、進んでみろ、と言い聞かせている。孝美も後ろから立って眺めながら笑った。
 笑いながら、・・・鏡がだんだん押し迫って来た。
ーーああもう進む道幅も無くなった。
 と、耳の遠くで河本がもう一声かけて広太を立たせ、そろそろと進み始めたのが見えた。
ーー追わなくちゃ。
 でも、視界に足を出せるスペースが見当たらない。思いっきり鏡をべたべたと両手で触って、位置を確かめる。一瞬、指紋をたくさん付けてしまっているんだろうなあと思う。一歩二歩と進む。足下がふわふわして、雲の上を歩いているみたいと思う。前で広太と河本が立ち止まる。孝美も後ろで立ち止まる。彼らが進む。孝美も追う。その繰り返し。だんだん息苦しくなってきた。
 広太がまた、てーんと転ぶのが見えた。孝美もまた立ち止まった。えええんと泣くのが、水に潜ったみたいな音で聞こえる。
ーーでも光の玉が出るはずだ。…だからまだ落ちない。きっと落ちない。
 と思ううちに、いきなり目の前に大きなフラッシュみたいな白黄色いのが割り込んできた。
ーーえ?これ?
ーーいけない。
 立っていられない。すーっと腰が落ちて、膝を付いた。
 
ーー寒いっ。
 目の先の遠くに広がるのは、灰色の雪原。吹雪。
 吹きすさぶ風と、それにあおられて斜めにあちこちの方向から降る強い雪。真っ白で、いや灰色で、平坦で、他に何も見えない。その風景が、ぼんやりとした額に縁取られて、目の先で揺れている。その風景が、孝美を吸う。強く吸う。景色がどんどん大きくなる。
呑み込まれそうだ。
ーー寒いっ。これは耐えられない。

 誰か助けて、と思ったところで目が開いた。
 湿って籠もった匂いのする、生暖かい空気。見たことが無い天井。
ーー・・・首が動かせない。
 もがこうと思った、ところで、河本の顔が天井との間に入った。
河本「・・・だいじょぶか」
孝美「・・・たぶん」
 河本の四角い手が、孝美の顔の周りの髪をそっと払った。
孝美「ここどこ」
 河本の顔がずれて、もう一度天井が見えるようになった。
河本「動物園の従業員用の場所」
孝美「外のベンチじゃなかったんだ」
河本「結構派手に倒れちゃったんでね。生憎」
孝美「・・・そうなんだ。まずかったな。ごめんなさい」
 と言いながら河本の方を向きたかったが、死にそうに疲れていて、首が動かせなかった。
河本「いや、びっくり。構えてたのにな」
 孝美は背中に当たる感触を探った。カウチのようなところに寝かされているらしかった。河本が膝を付いて、小声で話せるように顔を孝美に近づける。河本がジェットコースターで酔っ払ったときの逆バージョンだ、と思う。
孝美「広太は」
河本「そこでジュース飲んでる」
孝美「大丈夫そう?」
 河本は顔を少し遠ざけて、ふうと息を吐いた。
河本「ママがぶっ倒れて大泣きしてたけどね。落ち着いたところ」
孝美「ごめんなさい。・・・あ、てか、助かった。ありがとう」
 河本は広太を含めた周りをそっと見回した。孝美はやっと少し首が動かせるようになって、河本を視界の端っこに捉えることが出来た。河本の頭が、再び孝美に近づく。
河本「行けたの」
孝美「・・・うーん・・・。良く分かんない」
河本「そうなの?」
 河本の眉に落胆が見えた。
孝美「いや、じゃなくて。(行けた)と思う、んだけど・・・」
河本「・・・」
孝美「何か妙で」
河本「妙」
孝美「でもお陰でコツが少し掴めたような」
河本「コツ?」
 そこで広太が、孝美に気付いた。遊園地の従業員と思われる人も、孝美に近づいて来た。
ーーふつうに見せないと!
 最大限に頑張って、手に力を入れた。
ーー良かった、動かせる。私の手だ。
孝美「河本くん、私のこと起こして」
河本「えっ」
孝美「早く!」
 そして、だーっと飛び込んで来る広太を何とか抱えることが出来た。普通の人みたいな動きで。
(以上、2014.06.03)

孝美「でも、一面雪の原だったんだよ?」
 3月30日の土曜。いや、夜の12時をまわっているので31日。
 孝美は古くて大きな、飴色のちゃぶ台の向こう側に斜めに座って、台の上に左肘を衝いた。河本は孝美が置いた大きなどんぶり鉢を左手で取ったところだ。鉢からは湯気がいっぱい出ている。中身は、孝美と正太が夕飯に食べたお鍋、が煮込まれてくたくたになったもの。それをどんぶり鉢に入れて、電子レンジでチンしたもの。
河本「それ日本じゃないんじゃないの?」
 河本は、汁をひと口すすってから言った。孝美は同じ姿勢のまま左腕を頬杖に変え、ふん、と息を吐いて考え込んだ。河本は急かさず、箸を持って鉢の具に取りかかる。
 先週末、ミラーハウスで孝美が倒れた後は、孝美の身体はほとんど使い物にならず、帰りの車の中でもぐっすり寝入ってしまった。河本は後日、あれは車で行ってほんとうに良かった、と言った。孝美は這うようにして月曜の朝起き、働き、疲れたまま鞭打って週の間働き続けた。河本の方は、いつものように”期末期初”という仕事に謀殺された。それで結局ミラーハウスについてまともに話しておらず、今日に至る。孝美はもっと後に落ち着いてからでも、と言ったのだが、河本が、忙しいのはあと2〜3週続くから、今日(30日)のうちに聞いておきたい、と言って来た。メールで。それで、忙しい河本の方に寄ることにして、土曜の夕方河本宅にお邪魔したのだ。
 孝美は先週末からの疲れがたまったままでしんどかった。で、河本宅で夕飯を作って食べて、そのまま泊まってしまうことにしていた。そして、もし体力が残っていたら、実験を少しやってもいいしと思っていた。ところが、これは想定内ではあったが、河本はやはり土曜も仕事漬けになり、帰って来たのは深夜、12時をまわってからだったのだ。
 孝美はポーズを変えず、目だけをふいっと河本に向けた。
孝美「河本くん、今日忙しかったんでしょう?」
 河本は、うん、と言ってから、ふーんん、と鼻で大きく息を吐いた。
孝美「じゃ、明日の方が」
河本「あ、明日も仕事」
孝美「あ、やっぱり?」
河本「んんー」
孝美「ほんとにずっと忙しいんだね。期末期初って」
河本「あーでも、明日の朝は遅めでもいいようにしてある。末広さんに言っといた」
 孝美は有らぬことを連想して、目が泳いだ。泳いだ先で、部屋の隅で眠り込んでいる広太を捉えた。
 広太は知らない家に泊まるので興奮していたのだが、1時間程前にやっと眠ったのだ。河本の目も、追って、広太を捉えた。
河本「布団、大丈夫そう?寒くないかな?」
孝美「今日そんなに寒くないから、だいじょぶだよ。もう4月だし。…布団、あれ使っちゃって良かった?」
河本「うん。和布団だから重いんだけどね」
 孝美は、ふ、と笑って、河本宅の居間を天井から床までくるりと見回した。何から何まで古い。
孝美「じゃ何、この夜中に頭使う話、していいの?」
河本「ん。・・・うん。いいよ。頑張るよー」
孝美「いや頑張んなくても」
河本「いや」
 河本は箸をちょっと止めて、孝美をきらっと見た。
河本「いや実際、仕事から頭切り替えたいから。むしろ話して」
 それから、一週間ずっと気になってたんだぜ、と言い添えた。孝美はちょっと考えた。
孝美「どっから行こう?さっきの話の続きから?」
河本「ん。そうだね」
孝美「雪原ね」
河本「そう。それ、行った場所、あ、見た場所か?が、北極とか南極なんじゃないの?」
 孝美は考えた。
河本「・・・或いはロシア。アラスカ?」
孝美「いや?」
 河本が箸を止めて孝美を見た。孝美もきらっと河本を見た。
孝美「場所は、居た所からそれ程離れてないと思う。・・・何かね、・・・落ちるとき、そう、落ちるとき頭の端っこで感じるイメージなんだけど、同じところで、時間だけがずるっとずれてく感じなの。・・・ただ、全く同じ位置じゃなくて、少ーし擦って、ずれるみたい、場所も。時間の軸が変わるのに引き摺られて、微妙に場所もずれるっていうか」
 孝美は左手で頬杖を衝いたまま天井を見て考える。
孝美「前に、身体毎落ちて、季衣さんに会った時、あのときの場所って練馬の駅の近くなのよ」
河本「え」
 孝美は天井を見たまま目を丸くした。そして目を河本に戻して、頷いた。
孝美「岡山に来る前、区役所に離婚届もらいに行ったの。あのとき、いちおうもらっておこうと思って・・・まあ結局それ、こないだ使ったわけだけど。ま、それはいいや、あのとき、電車の出口間違えて違うとこから出て、外でちょっと迷ったのよ。そんでちょっと駅の周りぐるぐるしてから区役所に辿り着いたんだけど、そのときの、迷った中の通りなんだけど、それが・・・」
河本「・・・一緒だったの」
孝美「うん。驚愕した。あそこ、多分私が落ちて、季衣さんに助けられた通りと思う。もちろん左右の建物は大分変わってるんだけど・・・あっちでは建物どうしがつながるようにしたみたいだし・・・でも概観は一緒だった。道のつながりとか、曲がり具合とか」
河本「ふむ」
孝美「とするとね、うちは氷川台だから、練馬の駅まで・・・どうだろう、直線だと1kmくらいかな、もうちょっとかな。・・・そのくらい」
河本「時間と一緒にそのくらいずれる、と」
孝美「うん多分。今度もね、場所が少し移動してる感じがしたの。足下がざわざわして、擦って動いてる感じ。・・・1kmとは限んないと思うけど、まあmaxそのくらいなんじゃないかな」
河本「すると、未来のどっかで、神戸が雪だらけになるってことか」
孝美「ううん。「雪だらけ」じゃないよ。雪しか無かった。建物も木も何もかも。・・・真っ平で雪だけ」
河本「神戸が?」
 孝美は更に考え込んだ。
孝美「いや、あれ神戸だけじゃないんじゃないかな。・・・日本全体か、・・・地球全部?」
 考えついたところで恐くなって、両腕を胸の前で抱え込んだ。
孝美「何年後なんだろう?」
 河本も箸が止まった。
河本「そういう規模だとしたら・・・その、季衣さん?に会ったときより後なんじゃないか」
孝美「そうか。季衣さんに会ったときはまだ街があった訳だから」
河本「うん。それよりずっと先なんじゃないか」
孝美「成る程ね」
 孝美の目が歪む。
孝美「人は・・・どうなったんだろう?皆死んじゃったのかな」
 河本は箸を置いて、腕を組んだ。暫く沈黙が続いた。
河本「どのくらい先かに寄るんじゃないか?1億年も後だったらさ、氷河期だって来るだろうし、あっ今も氷河期だっけ?まあいいか、そしたら寒くなる前に人類なんてとっくに滅亡してるかもしれない。・・・そうじゃなくて100年後とかだったら?だったらどうかな。・・・人が居る間に寒くなったんだとしたら、・・・どっかに逃れた可能性はあるか。未来なんだから・・・地下とか、・・・月とか?・・・スペースコロニー?半宇宙の・・・SFみたいだな」
孝美「ああもう!」
河本「何?」
 と言いながら河本は、思い出したように鉢の汁をすする。
孝美「だって。・・・どんだけ時間がずれたか分かりさえすれば!」
 河本は鉢に口をつけたまま、孝美を上目で見る。
河本「(そう)だな」
孝美「実験繰り返して、もっと検証すれば分かるようになるかな」
河本「ふむ。で、うちにある鏡でも再現出来そう?」
 孝美は両手の頬杖に変えて自分のほっぺたをくるっと包み、うーんと考える。時間をかけて、神妙に考える。河本は黙々と鉢の中身に集中する。深夜の、しーんとした時間が流れる。
河本「それもそれなんだけどさ。ところで」
 河本は食べ終わって、鉢をちゃぶ台に置いた。
河本「その、副作用、・・・ちょっと違うか、後遺症か?そういうのは無いの?その、タイムスリップした後」
孝美「え」
河本「だって尋常じゃないことしてるんだぜ」
孝美「そうか。うん。そんじゃ、うん、あれ、尋常じゃないくらい疲れる」
河本「疲れるだけ?」
孝美「うん。・・・少なくとも、今までのところは」
 言葉が尻すぼみになった。自分でも心の底で不安だったことだ。いつか失敗する気がする。何かが起きる気がする。
 河本もちゃぶ台に頬杖を衝いた。
河本「あのさ」
孝美「うん」
 河本は頬杖越しに、真直ぐに孝美を見た。
河本「身体に問題が出るようだったら、止めなよ?」
孝美「え」
 そして視線を外して溜息をふっと吐いてから、また戻した。
河本「ミラーハウスでぶっ倒れられて、実際どきっとしたよ。・・・このまま戻って来なかったらどうしようってさ。それから戻ってもさ、もし頭のねじが緩んじまってたらどうしようって」
孝美「・・・」
河本「目ー覚めてさ、俺のこと見て、誰?とか言われたらどうしようって」
 夜が、一気にふたりのまわりに押し寄せて来て、きゅうとした空気に締め付けられた。孝美は苦しくなって、魚みたいに口を半開きに開いて、息をした。河本の真直ぐな目を捉えてしまうと、もうそこから外せなくなった。
孝美「・・・だいじょぶだよ」
河本「何が」
孝美「…忘れない」
 いけない瞬間だ、と思った。何だかんだ言っても、私はやっぱりこの人から離れられないのだろう、と思った。
 とそこで、河本がポーズを変えずに、ふうと溜息を吐いた。
河本「で、まだ実験は続けるの?」
 孝美は思わず座り直した。
孝美「うん」
河本「何で」
孝美「・・・責任がある」
河本「何の」
孝美「・・・広太」
河本「広太?」
 じっとして居られず、今度は横座りに直して、左肘をちゃぶ台に衝いた。その掌が、考え込んで重くなった額を支えた。
孝美「広太をあんな未来に置いておきたくない。・・・私が見た・・・季衣さんに会った・・・2062年?ほんとにああなったら・・・2062年て、広太の時代だわ。広太が大きくなって、活躍してる頃」
河本「・・・俺らも生きてるかもな」
孝美「私たちは、よぼついてるだろうから、まあ置いとこうよ。・・・だって外をまともに歩けないのよ?あんな未来って・・・」
河本「でもさ。未来を探ったからって、何か出来るの?孝美に」
 孝美はまた、うーん、と考える。
孝美「分かんない・・・分かんないよ。でも、何にもしないのはいけないと思う。知ってるのに何にもしないのは・・・やっぱり卑怯なんじゃないかな。大したこと出来なかったとしても・・・やれるだけやって・・・でも何のアクション起こすにも、今のままじゃ誰も信じてくれないし・・・うん、とにかくまず、未来がああなるっていう根拠?てか証拠?とか押さえないと。・・・何が出来るかな。太陽の危険な放射線が来ないように・・・いや無理か・・・弱められるようなものが早く開発されるように仕向けるとか・・・」
 河本がちゃぶ台を指で小さく、たん、と叩いた。孝美ははっと顔を上げた。ぶつぶつ言いながら、すっかり考え込んでいたのだ。
河本「まあ実験したいって言うなら、それでいいけど。でも」
 河本はまた、きらっと見た。
河本「もいっかい言っとく。いいか。危ないと思ったら、すぐ止めなよ?」
孝美「・・・」
河本「約束して。いいか。俺はくるくるぱーになった孝美なんて見たくない。それにあんたは広太の親なんだぜ。いいか。くるくるぱーになっちまったら、広太のこと育てられないだろ」
ーーくるくるぱーって・・・。
 久し振りに聞いた言葉だなあと思っていると、河本がもう一度、約束して、と言った。
孝美「・・・分かった」
 そして、ほんとに分かった?と念を押された。その後は、トリップに落ちるための鏡の条件や、落ちるときの”前兆”について報告し、二人で少しばかり考察した。
 どっと疲れが押し寄せて来た。今夜は実験は止めて、もう寝ると宣言した。そして広太の隣りに積み上げておいたもう一脚の和布団を見た。広太は自分用の布団を欲しがって、近頃は一緒に寝てくれないのだ。
 河本はちゃぶ台を部屋の端っこに押して移動して、布団を敷いてくれた。孝美はその間に河本が食べた後の鉢を洗った。
 河本の部屋は2階だ。2階へは孝美は足を踏み入れたことが無い。河本は立ちすくむようにして孝美を見つめた後、・・・孝美は目を合わせることが出来ず、心臓がきゅうと鳴った、・・・その後河本は、お休みと言って2階へ引き上げた。
(以上、2014.06.10)

 実験は、基本的に土曜の晩にやることになった。土曜の晩、河本の家で、河本が帰って来て、広太が寝た後。神戸のミラーハウスで孝美が派手にぶっ倒れたことから、河本が居るときでないと何かと危ないと思われたからだ。
 「広太が寝た後」も必須条件だ。広太が、孝美がばったり倒れた音でも聞きつけて見に来たりしたら、そして孝美が死んだようになって動かないのを見つけでもしたら、きっと大騒ぎになる。それでも、広太に何らかの説明は必要だった。どうして母が鏡だらけの薄暗い部屋に籠もるのか。・・・孝美は、事実をそのまま、搔い摘んで説明することにした。
 広太に嘘をつく必要は無いと思った。ママには実は不思議な力が有る。その力で、これから良くないことが起きることが分かったのだが、みんなに知らせるためにはもっと詳しく調べる必要があるのだ、と。不思議な力を使うためには鏡が必要なのだ、と。
ーー鏡が必要なのだ、か。
 鏡。自分で説明していて、説明しながらふと考えてみるとどうも馬鹿馬鹿しくて、秘密のアッコちゃんかい、と思った。なのに広太はびっくりするくらい、あっさり受け入れた。但し、どれだけ意味が分かっているのかは疑問だ。そして僕も手伝うと言った。孝美はあったかい気持ちになって、心を込めて有り難うを言い、じゃあ大きくなってからね、と、ママをだっこして運べるくらいになったらかな、と言った。
 ところで、これを保育園で吹聴されるのは良くなかった。それで、こういうことは大人の人は信じてくれないのよ、と、だからお願いだから誰にも言わないで秘密にしておいてね、とも言っておいた。
ーーまあ万一、広太が何か言ったとしても、誰も気にしやしないだろう。
 ところで、実験のとき河本の助けは大事だが、トリップに入るまでは部屋にひとりきりにしてもらうことにした。集中したいから。実験している部屋は襖1枚隔てた居間の隣りなので、河本には居間に居てもらえれば、孝美が倒れた音を聞きつけて来てもらうことが出来る。コツが掴めたら、最初から隣りに居てもらっても平気かもしれないが、今はまだ手探りだから。河本は鏡の方に倒れたら怪我をするだろうと心配したが、倒れる瞬間に、手を付く方向くらいはコントロール出来ると言い切った。
 しかし4月は河本の激務が続いて、孝美の方もいい勢いで仕事を振られて疲れ切ってしまい、毎週土曜に河本宅までは行くものの、夜中に頑張って起きていることが難しかった。これだけ通っていて、婚約者「さかえ」が何も言って来ないのは不気味な感じがした。が、河本に軽く聞いてみたところによると、何だったかのスターの全国ライヴを追っかけて、岡山に居ないのだそうだ。次の岡山市の選挙は2015年なので、そこはきっちり手伝うという約束の元、父親は放任&甘やかすことにした模様とのこと。
 5月のゴールデンウィークを過ぎたあたりから、二人ともようやく脳みそと身体がもつようになって、それから少しずつ、粘り強く試して行った。コツを掴んだ気がしたとは言っても、タイムトラベラーになるにははるかに遠く、地道に実験を重ねるしかなかった。

 はじめて意識して、出来た気がしたのは、5月の末。
 行った先は、過去だった。
 夕方らしかった。雲の多い空で、薄暗かった。雲の端っこが赤く染まっていた。
 見通しが良いとは言えない風景を目を凝らして見ていると、中年の女性が、いやでも実際には30歳代かもしれない、あの頃の30代は今より大分老けて見えたはずだ、そのくらいの女性が、自転車に乗って向こうの方からこちらに向かってやって来た。次第に近づいて大きくなるのを見ていると、自転車の前の籠にはわら半紙色の茶色い紙袋が入れられていて、その紙袋の中から長葱の頭が出ていた。袋には他にもたくさん入って、いびつに歪んでいた。ああもう目の前だ、やろうと思えば話しかけられそうな距離だ、と思ったところで、ぐりんと右へ折れて長屋調の建物に入ってしまった。質素な木造の2階建てで、10数世帯分が横にくっついたようにつながった建物。見渡すと同じ建物が幾つも点在して筋を作っていた。
ーーもうちょっとずれて、移動しても大丈夫だろうか?
ーーとにかく身体毎吸い込まれてはいけない。
 それでなくても吸い込まれそうなので、流れに逆らわないように、流れに合わせて身体を揺らしたり自転したりしながら覗いていたのだ。そろそろと見えない足で左(と思われる方向)に移動して、女性が入って行った建物をもう少し見ようと苦心していた、・・・そこで、ぐいと引き戻された。
 目を開けると、今度も河本が上から見下ろしていた。全く何度見てもぞっとしないな、と言われた。孝美の身体は居間に移されて、座布団1枚を枕にしてちゃぶ台の横に寝かされていた。
孝美「・・・あの部屋(の中)じゃ足りなかった?」
河本「うん」
 河本は、孝美が落ちた5分後に目覚まし時計が鳴った後、打ち合わせ通り実験の部屋に来て、孝美の身体を部屋の中で2〜3m移動してくれたのだ。でも目を覚まさなかったので、居間まで運んでくれたのだ。多少肝を潰しながら。孝美は脳みその中がまだ安定しない感じがして、寝たまま左手の甲を額に当てて、ちょっと目をつぶった。
河本「時計はちゃんとセット出来たんだ」
孝美「うん」
 戻り時間お知らせ用の目覚まし時計、実際には目覚まし時計に付いているタイマー機能を使った訳なのだが、この、時計のスイッチを手の下に置いておいて、孝美が落ちる直前に自分で「5分後にお知らせ」のタイマースタートをかけることにしていたのだ。河本は別室に居て様子が見えないので、スイッチを押し損ねるのではないかと心配していた。
孝美「・・・タイミング分かって来たから、だいじょぶ」
 河本はふうと息を吐いた。そして今の一連の騒動で目を覚まさないかと、広太が寝ている布団の方を見た。広太はびくともしないで眠っていた。
河本「・・・何か見えた?」
 ひそひそ声になる。ひそひそ声が、夜中の部屋にしみ込んで行く。
孝美「ん。何か・・・団地?だったんだけど、団地かな?」
河本「団地?」
孝美「うん。あれ、過去と思う。・・・団地、ある?っても、一戸建ての団地じゃなくて、2階建ての木造が長屋みたいにつながってるみたいなの。そんなの、あった?」
 孝美もぐったりしているので、ひそひそ声でゆっくりしゃべった。
河本「長屋?」
孝美「うん。2階建ての木造の」
河本「2階建て」
孝美「うん。その2階建ての、同じのが何棟もあった」
 河本は孝美の枕元で胡座をかきながら、うーんと考え込んだ。
河本「ああ!」
孝美「あった?」
河本「鞘川団地かな」
 孝美はそれ何、の目になる。
河本「市営住宅だよ。確かにここから1kmくらいだ・・・今はもう立て替えちゃって5階建てになってるけどね」
 孝美は目をつぶって、うん、と頷いた。そして見た様子をぽつぽつと報告した。そして、ふいっと考え込んだ。
孝美「茶色い紙袋で買い物した時代っていったら、確実に昭和だよね。私らが生まれた頃かしら?・・・ね」
河本「だな」
 そしてタイマー時間の妥当性や、トリップ先で移動して、見える先をずらす方法は無いか、未来につなぐにはどうしたら良いか等を話し合った。

 8月になってやっと、未来につなぐことが出来た。
 倉敷の未来。
 でも倉敷の未来も、灰色に見えた。
 未来に、人と会うのは難しい。ちなみにここで言う未来とは、大体2050年以降。その頃になると、人は皆昼に行動しなくなる。いや、正しくは、昼間外に出て行動しなくなる。倉敷は東京のように人が密集していないから、季衣に会ったあの街のように建物どうしの横を接続させてはいない。そういう接続をしている場所もあるのだろうが、そういうのは、きっと繁華街のようなごく一部だけなのだろう。
 代わりに、人は皆車で動く。アメ(リカ製の)車かと思うような重厚な鉄板?のボディに濃い色の窓ガラス。それが戦車ばりにゴロゴロ、ゴゴゴゴと走る。重そうにゆっくり。あのガラスじゃ前も横も見える訳ないのだから、多分コンピュータの自動制御なのだろうと思う。自動制御で、安全を確保して、結果のろのろ運転になる。車から降りて来る人は何人か見た。どの人も防護服にすっぽりくるまれている。防護服はどんどん進化しているようで、未来につなぐ度に形や色が変わる。そして、先の時間になる程、どんどん宇宙服化していくように見える。
 季衣と話したときのように未来の人を捕まえたいが、捕まえて日時や気候のことや、地震の情報を聞きたいが、話しかけられるような距離に人間が居ることがまず無い。・・・孝美が知りたい未来の情報が、手に入らない。
 夜を選んで行けばよいのだ。でも暗い先にはつなげられない。光の玉が作った道筋を追って、その先に見える明るい箇所を目指してつなぎに行くからだ。光の玉は1回にひとつでなく、幾つか出る。それがいつも、ゲゲゲの鬼太郎の唐傘お化けみたいな感じで、水先案内をした。孝美は都度、どれに付いて行くのが良いか迷う。どの玉に付いて行けば、近い未来に行けるか。
 夜を選べないとしても、出来るだけ夜に近い夕方を選びたい。でもどうにも明るい玉に惹かれやすくて、つないでしまってから、ああまた誰も居ない、と舌打ちする。

 トリップの実験は亀のような速度で進捗した。
 河本宅に土曜の夜訪れるのはすっかり習慣化した。疲れた日ややることが溜まった日など、孝美が今週は止めようと思っていると、広太が行かないの?と言う。
 広太は、まあ孝美もそうだが、最初はあんなに怖がっていたくせに、河本の古い家が平気になった。広太からしてみれば河本の家は慣れればファンタジーの塊りだった。河本の家には、本人が制作したプラモデルやジオラマがあちこちに放置されていたからだ。しかも河本も結構な電車好きだ。従って作品も電車関連が多く、彼が土曜に比較的早く帰れた日などは、男2人で頭を突き合わせて、孝美そっちのけで盛り上がっていた。
 土曜に、孝美が本当に疲れて体調が悪い日もあった。でも広太は行きたいと言う。わんわん泣く。それで仕方無く、声でも聞かせるかと思って電話して河本と話させることになる。するとそんな日は、河本の方が出来得る限り頑張って仕事を片付けて、広太が起きている時間に間に合うように岡山市の孝美宅にやって来た。
 孝美と河本の関係は、どうとも変わらなかった。毎週会っているけれど、微妙な距離感を保ったままになった。すごく仲が良くて助け合う元同期の友達、という感じ。または、それを装っている感じ。但し、広太が入るとすっかり落ち着いてしまった普通の家族、という感じ。
 河本は今も時折、さかえに呼び出されて会っていた。但し、会うときには何日の何時に行くとメールで知らせて来て、帰った直後には、帰りましたと、またメールが来る。これに関して、孝美からは何も要求した憶えは無い。河本が、そうするのだ。
 河本の話によれば、さかえにも思い悩みがあり、相談する先が必要なのだと言う。さかえは父の選挙運動でも鴬嬢を手伝っている通り、元々声を使った仕事がしたくて、声優かイベントコンパニオンがやりたいのだと言う。東京ではそういう事務所に登録して、幕張メッセとか国際フォーラムとかのイベントのオーディションに応募していたのだが、こちらに戻されてから父の制限が厳しく、地元のイベントのオーディションに応募することもままならなくなった(ほとんど全てのイベントを選挙にマイナスになると判断し、父が却下するからだ)。河本自身は具体的に何をしてやれるというのでも無いが、さかえのぶっちゃけの捌け口を担うことが必要なのだそうだ。さかえは酒好きなので、今も引っ張って行かれるらしい。でも肝に命じて、河本は1滴も飲まないのだそうだ。そしてどんなに遅くなっても家に帰る。
 孝美は、さかえは浮気はしてもやっぱり河本を捕まえておきたいのだろうと、頼りたい存在なのだろうと、推測する。心の底ではずっと好きなのではないかと。
 ところで、孝美はこの手の河本からの報告メールには、一切返信しない。河本もそれでいいと思っているようだった。でもこのメールのお陰で徐々に、過日孝美が熱を出した日に彼が言った「失敗」とは、繰り返さないと言った「失敗」とは、それは孝美と作ってしまった”ふれ合い”のことを指していたのでは無かったのだと思えるようになっていった。
(以上、2014.06.17)

 夏が過ぎて、秋が過ぎた。
 東北のあの大きな地震から、実害のあまり無かった人々は記憶を薄れさせ、一方、多くの傷を負った人々は立ち直る力を振り絞り、日々を刻む。ごく一部のエキセントリックな人々が、また大きな地震が来るに違いないと叫んでいた。孝美もエキセントリックと呼ばれる人の一人に違いなかった。
 彼女は当初は、大地震が今日来るか明日来るかとびくついて焦っていた。だが、こうも実験が進まないとなるようにしかならないさと思うしかなく、開き直ってしまった。すると、それによって、頭をすっきりさせて考察できるようにもなっていった。
 鏡は結局4枚、買い足した。それらがそれぞれ孝美の方に向くように、鏡全体では平たい楕円の半円のような角度になるように置く。それぞれの鏡の左右が、少しずつ、でも最低10cmくらい、は重なるように置く。この重なりがポイントだ。この鏡の他、孝美の立ち位置からだと左手にあるサッシのガラスが、夜は孝美をうつろに映す。この気味悪い感じもどうやら助けになるらしい。
 河本はテストケース、テストケースと言わなくなった。但し、条件を再現する手段として、鏡の位置を調整するごとに色々な角度から写真を撮って、記録させた。
ーーそう言えば。
 孝美は、鏡自身が何か作用してトリップを導くのだと思っていた。が、今では違うと思う。鏡が映し合う中は、無限。それが孝美の気分をいつも不安定に、不安に、させるのだ。不安をより掻き立てる環境ではトリップし易い。あの日、不覚にも未来に落っこちたあの日は、気持ちの底で元々不安が大きかったのだ。どうしてホットヨガで倒れたのだろうという不安。修一に責められているという悲しい気持ち。グレーで、ざわざわした気分。それが膨らんで、だからあの日は、あんな、たった2枚の鏡で落ちてしまったのだろう。
 だが、何ヶ月も実験をしているが、気を付けているとは言え身体毎知らない間に落ちてしまうという掃除機みたいな吸引にあったことは、まだ無かった。すると、あの落ちた日は、何か、また別の要素が加わったのかもしれない。岡山市の孝美の家ではさっぱりなのに、河本宅ではいい感じ、というのも気になる。
 別の要素とは何か?

 冬が来た。
 2014年。
 年末には去年と同じく大子に帰り、正月2日には修一に広太を渡して、浦和の家に行かせた。修一に会うのは1年振りだった。送り出そうとすると、広太は去年に増していやいやをして孝美に貼り付いた。広太は修一を、ほぼ忘れていた。知らないおじさんに連れて行かれる恐怖を身体いっぱいに表した。修一は落胆と怒りが混じり合った顔で、拳を握りしめて黙り込んだ。
 だが孝美に浦和の敷居を跨げる訳が無い。孝美は今年も広太を説き伏せて、恐いことは無いからと言って説き伏せて、1時間くらいで良いからお願い、と、すぐ近くに居るから、と、新しい電車の本買ってあげるから、と約束して、また浦和のドトールコーヒーで待った。待つ時間は、去年と同じかむしろ上回って悲しく、悲しくて、浦和に知り合いが居ないのをいいことにハンカチを頬骨にくっつけて、ずっとぐしぐし涙を拭っていた。
 2014年になっても、河本の会社はあまり太くない綱を渡っていた。これ以上太くなることなんて無いのかもしれなかった。但し、河本の話に寄れば、借金は少しずつ返済出来ていると言う。上手にトリップして未来のプラスチック市場なんかを覗けたりしたらいいのにとも思うが、ままならない。全然思うように行かない。
 実験では60〜70%くらいの確率でトリップ状態に入れるようになった。でも未来や過去へ身体毎落っこちてはいけないので(身体毎落ちたら依然帰り方は皆目見当がつかない)、そこの景色や様子を遠目に見ながら、つないだ先に引き込まれないように、引き込む力のスピードに合わせて逃れる方向に自分でくるりくるりと自転して回る。回りながら未来の景色を見る。このスピードは時によりまちまちなので、早いときには自転をいっぱいしなければいけない。そうするとあっという間に目が回ってしまう。
 目が回ってしまっては引き込まれてしまう。そういう、引き込まれそうだ、危険だ、みたいなときは、孝美の残った身体の方でも手が小さくもがくらしい。爪でかりかり引っ掻くような動作をするらしい。そこで、トリップに入るときには肘掛けが付いた椅子に座ることにして、両手は肘掛けの上に乗るようにして(気が遠くなりながら、いつもようやっと手を乗せるのだ)、両方の掌の下には警告音を出すためのスイッチが当たるようにした。”爪でかりかり引っ掻く”指の動きのどれかが大体ヒットして、このスイッチを入れることが出来る。引き込まれる危険が起きなかった場合は、タイマーセットしておいた時間が経過すると、同じ警告音が出る。
 この警告音を出す仕組みは、素人作業だ。河本苦心のお手製。なので警告音は河本の好みで、鳩がぽっぽとかわゆく鳴く。そして河本がその音を聞きつけて、孝美の身体を居間に運んでくれるのだ。
 問題のトリップ地点、すなわち接続しに行く向こう側の時間だが、これは、接続先に相性があって、選べないらしい。と言うか。タイムラインというのは、1つの毛糸玉のようなものであるらしい。と、孝美は考える。
 タイムラインは、こんがらがっているように見えてこんがらがっていない毛糸玉。時間軸、という風に考えてしまうと、X軸Y軸のような直線の座標軸が浮かぶが、時間は、実際には自由自在の方向に曲がる柔らかくて強い糸。これがタイムライン。しかもこれには毛羽がある。
 モヘヤ糸のような、毛羽立った毛糸程ふんわりと軽い玉になるが、これの発展版とでも言うか。糸どうしはくっついてはいなくて、でも引き合うように微妙に近い距離にある。これの全体が1本の糸で出来ていて、つまり1本の毛糸玉で、糸どうしが近い地点では過去と未来が引き合う感じになるのだ。そしてところどころで「毛羽」が微妙に触れ合う箇所があり、これを狙って上手く乗ることで別の時間に行ける。別の時間が覗ける。
 という訳で接続する時間は自在には選べない。でも渡れそうな「毛羽」、つまり接続先が複数あるときは、ある。そしてそれらの接続先は、条件によって、引き込む力(=接続する力)が強いときと弱いときがあるのだ。
 従って、孝美が最も知りたい東京の地震についての情報を得るためには、経験値から未来につなぐコツを掴む必要があった。つまり回数をこなす必要があった。しかし1日に1回、実際には土曜の夜だけだから週1回、のトリップが限度だ。トリップ中、自転しながら引き込む力に抵抗するところで、多くの体力を消耗する。だから週1回以上やったら、立ち上がることも出来なくなる。しかも未来の景色を、概観を覗くだけなので、未来のTVや書物を都合良く見ることが出来ない。それは、両目の脇に手を添えて視界を狭めて、その顔を濁った金魚鉢をくっつけて中を覗くような感じ、とでも言ったらいいだろうか。勿論、この金魚鉢の中身が接続した「未来」だ。
 戻るときには。自転に疲れたり、目が回って来たりしたところでいつも戻りたくなるのだが、目をつぶって同じ方向に自転を続けながら背中の方に後戻りするように強く意識する。外では(時間の狭間に潜り込んでいる孝美の感覚からすると、「外」という感じなのだが、実際は河本宅の実験部屋)、仕掛けられたタイマーの目覚まし時計が鳴ったところで河本が孝美の身体を居間に運んでくれる。その、身体の移動に反応して、孝美の脳みそが戻って来る。タイマーの設定は、現在6分後。前に10分に伸ばしたときには、もう戻りたくて、でも時間の狭間でくるくる自転を繰り返しながら呼んでも呼んでも起こしてもらえない状態になって、戻った後は本当に動けなくなった。その日は介護老人のように、河本に居間の布団に寝かしてもらった。
 接続する「時」は、勿論、未来である場合も過去である場合もある。が、いずれの場合でも、タイムラインの流れが同じ方向でないと、接続出来ない。タイムラインの流れが逆方向、このシチュエイションも、勿論ある。これはつまり、接続先の時間が遡って見える状態だ。これに接続しようとすると、対向車線を走って来る車に飛び移るような感じになる。孝美の技能が向上すれば、或いはいつか飛び移れるようになるのかもしれないが、行ってしまったらそれこそ戻れなくなりそうだし、逆行の世界を見る必要は全く感じない。なのでそっちは見ないことにしている。それから「過去」も、見る必要を感じない。孝美が知りたいのは、未来がどうなるか、だから。従って効率を上げる為には、過去を選択しないようにする必要があった。
 河本は、もう止めれば?と何度も言った。でも孝美は続けたいと言った。毎回、もう少し、もう少し見れれば、と、そして次はこんな風にしたらどうだろう、と、思うのだ。孝美を抱っこして運ぶのが重くてしんどいのかなと思った。疲れている中、土曜の夜中に居間で待っているのがしんどいのかなとも思った。だから止めれば?って言うのかな、と。でも河本はそうじゃない、と言う。そうしてそれから、孝美の目の中をじっと覗き込む。または目を外して、ふうと息を吐くのだ。
(以上、2014.06.24)

 2014年6月の第2土曜日。
 梅雨に入り、昼から細かい雨が降っている。
今日は早めに、日が暮れる前に河本宅に移動してきた。河本にもメールで、夕方で仕事を上がってくれるようお願いしておいた。広太が父親参観のお絵描きをすることになっていたからだ。
 広太は4月から別の保育園に変わった。孝美は本当は幼稚園に入れたかったのだが、幼稚園に入れると早い時間にお迎えに行かなければいけないし、何より夏休みや冬休みがある。そこで、河本のスマホを借りたり、人間関係の薄い職場でも少しばかり聞き込みを入れてみたりして幼稚園に近い教育をしてくれる保育園を探したのだ。
 すっかり岡山に馴染んだ広太は、孝美の心配をよそに新しい保育園にも程なく慣れて元気いっぱいだ。孝美の方では、今度のところは家から結構遠く、車での送り迎えが必要になった。その上、前の保育園ほど親切に延長保育をしてくれないところなので、残業しないようにどう仕事をやっつけるか、一層キリキリした状態。でも、小学校に入る前に、同じ年の子たちに囲まれて集団生活をして規律を守る、そういう癖を付ける必要があると思ったのだ。孝美は毎日、小学校に上がるまで(の我慢)、小学校に上がるまで(の我慢)、と念仏のように唱えながら頑張る。
 いいこともある。
 母の日は、彼が新しい保育園で作った折り紙の赤い花をもらって軽く感動。しかし、花を壁に飾ってうるうるしているうちに、父の日が来た。
 父の日にお絵描きの宿題が出ると、孝美はどうしたものだろうと首を捻ってしまった。もちろんクラスには他にもシングルマザーは居る。なのでお母さんの顔を描いてもいいことにはなっていた。でも当の広太が、河本の顔を描くので当たり前だと思っているのだ。
ーーまっいいか。
 近頃は考えるのも面倒になった。で、河本にモデルになっていただく。
 彼はつい先程帰宅し、着古したスウェットに着替えて、ちゃぶ台の前にどーんと腰を下ろしたところだ。顔の向きとか少しばかりやりとりをした後で広太が描き始めたのを見届けてから、孝美は台所に下がって夕飯の支度に取り掛かった。
孝美「ビールでも飲んで待っとく?」
 台所の中から声を張り上げる。
河本「んー。そうねー」
 で、ま、たまにはね、と言いながら(河本はあまり飲めない人なので「たまには」なのだ)冷蔵庫に入りっ放しだった小さい缶ビール1本と、サラダに使おうと思って切っていたトマトを少し取り分けて、小皿に入れて持って行った。
 河本はビールをプシュッと開けながら、ふーんん、と鼻で息を吐いた。
河本「・・・何で」
孝美「?」
河本「何でこんな。・・・こんな生活を手放そうと思うんだろうな」
孝美「?」
 孝美は河本の顔を伺った。
ーーああ、修ちゃんのこと言ってるのか。
 ほとんど独り言だったらしいので、聞き流して台所に戻ろうとした。が戻ろうとしながら河本の左手が目に付いて、ふと止まった。腰を支えているように見えたからだ。
孝美「何、河本くん、腰痛いの」
 河本は弱い奴みたいにふーんと薄く笑った。
河本「いやあ」
孝美「何、痛いの」
 河本は、いやまあちょっとねー、と言いながらちびちびビールを飲んだ。孝美はそれ以上追求せず、首を傾げながら台所に戻った。
ーーあの人、実験する度、私のこと運んでるんだよな。
 夕飯を作りながら、くるくる考える。
ーー私はイっちゃってるから・・・重いよな。
ーーどんだけぐったりしてるんだろう。

 献立は、どうしても広太中心になる。今日はTVで知恵をもらったお手軽グラタン、と、河本にはプラス、鯖の塩焼き。
孝美「ママのはこれから焼くから、先に食べてて」
 河本家にはオーブンレンジが無いので、小分けにしてオーブントースターで二人分までしか一気に焼けないのだ。広太は慣れたもので、はーいと言いながらスプーンを取り上げた。台所に戻ろうとする孝美を河本が呼び止める。
河本「まだやることあんの」
孝美「ん?うん、いやぼちぼち終わり」
河本「じゃこっち座っときなよ」
 孝美は、じゃー私のグラタン(をオーブントースターに)入れたら、と告げて、本当はお鍋をひとつ洗ってしまいたかったのだが、水に浸けるだけにして、居間に戻って大人しく河本の90度左に座った。これも習慣て奴だ、と思う。十数年続いた練馬での生活の習慣。俺流の修一には逆らわないで、基本的に従うのが上手く行くという習慣。染付いている。・・・でもちょっと違った。
 河本が自分のグラタン皿をちらと見つめてから、滑らせて孝美のところによこしたからだ。
孝美「あっいいよ」
河本「いいから」
 それで、これも習慣て奴でそれ以上言わないで、ひと匙いただいた。まあ人様に食べていただける程度には出来ている、と思った。その後河本のスプーンが伸びて来て、孝美の前のグラタン皿からすくい取って行った。味加減等を伺いながら、孝美は広太が上手に食べられているかチェックした。
孝美「ところでさ」
河本「ん」
孝美「実験で使ってる椅子、改良しない?」
河本「え」
 河本は実物に目をやった。実験で使っている部屋と居間との仕切りの障子が半開きになっていて、暗い中に椅子がぼわんと見えていた。孝美もそっちを見て、何だか気味が悪くてぶるっと来た。魔法使いの部屋みたいに見える。
河本「どんな風に」
孝美「うーん」
 で、キャスターなりを付けて、時間になったら自動的に数メートル動くようにするのはどうだろうと提案した。そうしたら河本が自分を運ばないで済むから、と。
孝美「疲れてるとこ夜中に運んでいただくのはどうだろうと思ってさ。今更ですいません」
 腰痛そうだしさ、と付け加えた。河本は箸を置いて考え込んだ。
河本「まあね。腰痛いのは、痛い」
ーー痛かったんだ。げげげ。
河本「でもなあ」
孝美「?」
河本「貴重なスキンシップが」
孝美「ええ?」
 ぼわっと赤面した。
河本「えっ。何もやってない、何もやってない」
 あんなのに手出してどうすんの、と付け加えた。孝美は眉間に皺を寄せて、目をくりくり動かしながら口をへの字にした。
孝美「て、どうなってんの、私」
 河本は少し考えた。
河本「うーん。死体みたい。かな?いや?・・・とにかくすごい苦渋に満ちた顔してるよ」
 河本は少し笑った。
河本「そんで、すんげー老けこんでるの」
孝美「えっ」
ーー何と予想外な。
河本「なんでこう何度もやりたがるのかと思うね。こんな苦しそうなのをってさ。見てる方はさ」
 孝美はしゅんと首を垂れた。
河本「まあ、止めろとは言わないよ。どうせ納得するまでやるんだろうし。但し」
 で、きりっと見られた。
河本「身体に無理が来てるのが見えたら止めさせる」
 で、孝美の目尻が一気に下がった。そこで、オーブントースターがチンと言うのが聞こえる。
 河本は、孝美が持って来たグラタン皿から熱いところをひと匙すくって、はふはふしながら食べた後で続けた。
河本「だから、ちゃんと監視しておきたいんだけど。戻りの装置作ったら勝手にやりそうだからな」
 と言いながら、河本は右手で顎を捻って考えた。
河本「まあでも・・・腰が痛いのは事実だな」
孝美「そうだよ。もっと痛くなったら」
河本「そうか。もっと痛くなって運べなくなったら」
ーーそれだけは嫌。
 孝美の目に恐怖が走った。未来(接続先)と現在の中間地点に置き去りにされたら。
ーー考えられない。
河本「分かった。何か構造考えようか」

 この夜は河本の帰宅が早かったので、実験も早い時間から取り掛かった。と言っても夜中の12時過ぎ。孝美があっそうだ、と言いながらバッグから斜めに撚られた荷物用の括り紐を取り出す。それを見て、河本が怪訝な顔をする。
河本「何それ」
孝美「こいつに戻りの道を教えてもらう」
 で、上手く行けばいいんだけど、と言いながら一端をトリップ中に座る椅子に括り付けた。
 つないだ先であまり歩き回れないのが課題になっていた。向こうの世界に入り込まないにしろ、外周を回りながら、そのとき目に付いた物に出来るだけ辿り着きたいのだ。でも歩いてしまうと帰り道を失いそうでどうしても進めない。
 トリップしている間、目の先にぼんやり広がる「向こうの世界」だけが明るい。ほの明るい程度だ。この他は真っ暗。掴むものも踏みしめるものも無いから、自分の手や足がどこにあるのか分からない。そんな中ではそろそろと数歩進むくらいしか出来ず、いつも断念しているのだ。だから、帰り道の道標があればいいと思う。チルチルミチルならパン屑を落とすのだろうが、真っ暗なんだからそれじゃ意味が無い。身体で感じられる帰り道の道標が必要なのだ。それで、紐でつないでみたらどうかと思ったのだ。もちろん、孝美の身体はこちらに残っているのだから、向こうでこの紐をたぐり寄せられるとは思わない。しかし現世と結びつける意識喚起としては使えるのではないかと思う。
 河本は、孝美がもう一端を自分の腰に巻き付けるのを見て、露骨に嫌な顔をした。
河本「・・・ほんとに魔女みたいだ」
 孝美も気分を害した。
孝美「いいからもうあっち行っててよっ」
 河本も気分を害してさっさと居間に引き上げたが、閉めた障子がすぐに開いて、つかつかと戻って来た。無言で孝美が腰に巻いた紐の結び目を手に取ってチェックして、またつかつかと戻って行った。タイマーが鳴った後で解くための予習だ。孝美は怒っていたのがひゅうと飛んで、落ち込んだ。

 いつものように、居間に寝かされて目を覚ました。
河本「・・・どう、首尾は」
孝美「・・・うん。・・・悪くない」
河本「・・・日誌、行く?」
孝美「・・・うん」
 孝美は溜息を吐いて、脳みその中をゆっくりとまとめにかかった。
 トリップ後は、いつも河本がパソコンを開いて待っている。そしてその日にあったことを出来るだけ克明に、ホットなうちに「日誌」と読んでいるExeel表に書き込んでいくのだ。トリップしたときの状況・条件、接続の道筋、接続先の状況・見え方、推定年・季節等。項目が種別毎に分類されていて、孝美は質問形式で答えていく。そしてその合間にとにかく気が付いたことは何でもしゃべり、河本が表の欄外にメモる。そしてひと通り話し終わった後で河本が丹念に分類し、必要であれば質問項目を追加していく。
 孝美は喋り散らかした後はすっかり疲れて眠り込んでしまうことが多い。大抵は翌週に河本宅を訪れたときに、河本が帰る前にパソコンを一度立ち上げて日誌を読んで、へえーこんなことがあったんだあ、と思ったり(眠った後はきれいさっぱり忘れてしまうことも多いのだ)、今日の実験の課題を整理したり、する。Exeel表は良くまとめられていて、本当に河本様々だ、と思う。
 この表を見て確信したことがある。
 未来は日々、動的に変化している、ということ。これは孝美の予想をはるかに超えた。実験に使っている場所が固定で(河本宅)、接続先がそこから約1km圏内であることから、似たような時間枠の似たような場所に接続しに行くことがあり、その度にあれ、と思うのだ。同じようで異なる事象が見える。または以前見た事象から全然違う事象に繋がって行く。
 比較的変わらないのは、自然現象。それは以前から孝美が思っていたことだ。が、この自然現象でさえ、起きる時期が簡単にズレるし、ときには事象そのものが無くなってしまうこともある、ことが分かってきた。人間に関しては、もうぐちゃぐちゃに変わる。生きている人の数だけ、毎分毎秒、ぐちゃぐちゃに変化する。昔のヒット映画で、過去にタイムスリップした主人公が未来を変えてはいけないと苦心するシーンがあったが、いやそんなこと考えてもしょうがない、と思う。そのくらいぐちゃぐちゃに変化してしまう。孝美は、過去が何らかの要因で変わって孝美の両親が出会わないことになり、自分が存在しないことになっていきなり消えてしまったとしても、きっと驚かないと思う。今では。
 パラレルワールドについても考えてみた。
 パラレルワールドなるものが存在するというのを、何かのドラマとか漫画で見たことがある。が、これはパラレルな、つまり並行して進む時間軸の世界が別にあるのではなく、全ての事象があまりにも動的に変化するためにパラレルワールドが存在するように感じるのではないか、と思う。しかしこれは、あくまで孝美の私見だ。
ーーとすると。
 季衣が言っていた「東京の大地震」も、起きない可能性がある。起きない可能性は、ある。「東北の地震の数年後」ではなく、数十年後とか、数百年後になる可能性だってある。でもこれについては、孝美は起きると思う。少しはズレるかもしれない。でも地震か、それに相応する災害が起きると思う。そんな悲観を起こすくらい、接続する未来の自然環境が、悉く危ういのだ。人間が生息して行ける未来は、そんなに長くない。
 神戸の動物園で見た「雪原」は。やはり地球規模で起こるのだと思う。河本宅でも2度だけ、雪原の時間枠に接続した。そのうち1度は、雪だらけの地面が口を開いて、その中から完全防備の人間がちょこっと出て来るのを見た。・・・そういうことだ。それがいつかは特定出来ていないけれど、そういうことだ。
 また別に、孝美が気になっていること。
 タイムトラベラーが、この世に自分ひとりとは思えない。これについては、河本からスマホを借りて(河本宅にはパソコンが無い。河本の生活の大半は会社にあるので、彼のインターネットの使用は会社でまかなえるのだ)、思いつく色々なキーワードで検索してみた。でも孝美に似たようなケースは出て来ない。大体がフィクションのタイムトラベルのページに埋め尽くされてしまい、全く探せない。
ーーあったとしても国家的に隠蔽されているとか?
 いずれにしろ、情報が掴めない。
(以上、2014.07.01)

 9月になった。
 実験で使う椅子は、7〜8月いっぱいをかけて段階的に改良された。
 最初、キャスターを付けて、河本が手で運ぶのと同等の距離だけ滑るようにしたのだが、これでは戻って来れなかった。河本は青くなって、トリップ中の孝美を抱え上げて移動したが、駄目スイッチが入ってしまったようにうんともすんとも戻らず、もっと真っ青になって家の中を右往左往したそうだ。結局孝美が目を覚ましたのは河本宅の玄関先で、河本が孝美を外に出そうとして靴を履いているところだった。孝美自身もいつもよりトリップ時間が長くなったことで消耗していたが、危険の予測がつけられるようになってきていたので精神的には落ち着いていて、まあ呼ばれるまで待っているしかなかろうと考えていた。山で遭難して最低限安全なところに身を隠して救助を待っている、みたいな感じか。でも河本は命が縮んだと言い、その日孝美はブルっている河本の手を握って、並んで眠った。ほんとうにご免なさいと言いながら。でもその後3週間は、まるで実験に付き合ってくれなかった。
 椅子の移動が滑らかすぎたのだ。その後孝美の提案で、まず実験部屋の中で椅子の高さが変わって低く沈み込むようにして、バウンスしながら上下移動をさせ、それからするーっと居間に向かって距離を移動するように改良した。下には、孝美と椅子を支えられる程度の強度を持ったベニヤ板を敷いておき、実験部屋から居間の間にある段差を解消する。
 さて9月になり最初の土曜日、さあやるぞーと意気をつけながら、孝美は河本宅に赴いた。近頃は近い未来へつなぐ光の玉を選ぶことが出来るようになって来た。その上、この週は仕事に振り回されることも無くて、体力が残っている。実際、キャスターは付けておいて良かった。夏になってから一度、河本がぎっくり腰になったからだ。
 ふんふんと鼻歌を歌いながら夕飯を作った。
 でもこの日、河本は22時半頃にプンプンに怒って帰って来た。
 孝美はいつものように、取り分けておいた河本の分の夕飯を電子レンジでチンして、何も言わないで彼の前に並べた。河本が怒っていることは滅多に無いので、こんなとき何を言ったらいいのか分からない。河本は黙々と食し、孝美は困ったなあと思いながら食器を下げて洗い物をした。
孝美「・・・私、何かした?」
 定位置の、河本の90度左に座る。河本は横目でちらっと見て、いや、とだけ小さく言った。で、仕方が無いのでテレビを一緒に見ていた。テレビでは深夜のバラエティ番組をやっていたのだが、軽い笑いが河本の癇に触ったらしく、彼はチカチカとリモコンを押して、スポーツニュースに切り替えた。
河本「・・・さかえがさ」
 孝美の目だけが少しだけ大きくなった。
ーー「さかえ」か!
 さかえは、河本と孝美を放置するようになっていた。だからと言って婚約を解消はしない。けれど自分が必要とするときに河本は付き合って話を聞いてくれるし、迫ってもそれ以上のことはしてくれないことが分かったので、一歩引いた感じなのだろう。孝美が河本を受け入れていないということも、もしかしたら河本から聞かされていて、その点も彼女の自尊心を潤わせているのかもしれない。
でも孝美が持っている「さかえ」の情報は、そこまでだ。
河本「・・・あいつ、日本から居なくなってた」
孝美「?」
河本「今月から、ハワイの大学だとかに入って、語学留学だと」
孝美「ハワイ」
ーー・・・昔おんなじことしたアイドルが居たような・・・。
河本「今日、向こうからメールが来た」
孝美「おやまあ」
ーー何でハワイなんだ?ほんとに語学留学なのか?
河本「この頃音沙汰無しだと思ったらこれだ。行っちゃってから事後報告って奴だ」
ーーで、どの点がプンプンに怒ってるんだ?
河本「2〜3年戻らないつもりだと」
 河本はちゃぶ台をだん、右の掌で叩いた。
河本「向こう2〜3年、俺のこと解放しないつもりだってことだ」
孝美「あ」
 ここで河本はやっと、横目でちらっと孝美を見た。
孝美「婚約・・・」
河本「解消しないままだ。向こう2〜3年」
孝美「ああ」
ーーああそうか。
 何だかどっと疲れて、背中がまるく落ち込んでいった。それが見えて、河本の左手が孝美に向かってちょっと上がり、・・・でもまた下ろされた。
河本「ごめんな」
 河本の語気が弱くなっている。
孝美「え、何」
河本「ごめんな」
孝美「・・・いや、いいよ」
ーー私は何を夢見ていたんだろう。
 その後は何もしゃべらず、ふたりでスポーツニュースが終わるまでTVを見ていた。
河本「・・・今日、やる?」
 スポーツニュースが終わって、孝美が手持ち無沙汰にトイレに立って戻って来たところで、河本が声をかけた。
孝美「うん、どうしよう・・・やろうかな。せっかくだから。・・・いい?」
河本「・・・いいよ。あでも、気をつけてね、今日。・・・気持ちの持ち方が影響するんだろ?」
孝美「うんまあ」
河本「悪かったね」
 孝美は、そんないいよ、毎週ここを提供してくれてるだけでも感謝しきれないです、と言ってから実験部屋にこもった。
 トリップ用の椅子にタイマーで動く仕組みを付けてからは、実験に入るまでの気負いが小さくなった。孝美ひとりきりになってから、集中を高めながら準備出来る。仕切りの障子を1枚分開けて、部屋の中からスロープ用の板を居間に向けて擦って出して、タイマーを確認して、道標用の魔女紐(この紐は当初使用していた荷物用のものを河本が嫌がり、スポーツ用品のもう少し見てくれが良いものに変わった)を腰に巻き付けて、終了。河本の方では居間でTVを見続けるなり居眠りをするなりしていて、鳩がぽっぽと鳴いたら孝美が滑り出て来るんだなと待機にかかる。実際、滑り出て来るところは、良く良く見ると笑えるのだそうだ。椅子は実験部屋の中で高さを変えて脚を降り畳んだ状態になっているから、出て来るときには座椅子調になっている。それが板の上をジェットコースターみたいに滑って来るのだ。河本の方では誤って滑りすぎて向こうの壁に激突しないように注意しながら、パソコンと一緒に待ち構えている。
 戻りは上手く行った。孝美が目を開けると、河本がうすら笑っていた。
河本「しかし何だな。その、失神したのがひゃーっと滑って来るの見ると、やっぱ・・・」
 でも孝美はそれに応酬していられなかった。
孝美「・・・河本くん・・・たいへん・・・」
 孝美は疲れ切って小さな声しか出ないままで、河本に向かって両腕を伸ばした。
河本「えっ?」
 河本は慌てて腕を絡めて、孝美を抱き取った。
 孝美は混乱しながら、河本にしがみついた。河本のTシャツをよじるようにして、自分の手が自分の手として力が入るように戻って来るのを確認する。
孝美「河本くん。私、もう一度行かないと」
河本「え?」
孝美「今すぐやれば同じとこにまた行けるかもしれない。早く行かないと。も一回行かないと」
河本「え?」
 孝美はイライラと声を上げた。
孝美「河本くん、椅子と私、部屋に戻して」
河本「ええ?」
孝美「早く!」
 河本は孝美を一旦下ろして、居間の壁を背にしてもたれかけさせた。孝美の身体はこちらに戻ったばかりで言うことを聞かない。
ーーちっ。介護老人みたいだ。
 河本は椅子を実験部屋に戻し、折り畳んだ脚を元の高さにセットし直した。でも孝美をすぐには運ばなかった。孝美の前に戻って来たところで、きっ、と見る。それから広太の方を顧みて、この騒ぎで目を覚ましていないか確認した。・・・大丈夫だった。
 河本は顔を近づけて、小声にした。
河本「何があったか説明しな。でなきゃやらせない」
孝美「う」
河本「2回やって、身体もつのか?」
孝美「う」
 河本の語気は強かった。孝美はまとまらない頭を回そうとした。
ーーどうやったら早くあの椅子に座れる?
 椅子に戻ることばかり考えて、伊座って自力でそちらに行こうとした。でも河本にがっちり押さえつけられた。
河本「何があったか説明しな。ざっとでいいから・・・まずいことがあったのか?」
ーーああそうか。
 怒られているのではないらしい。混乱した頭が少しほぐれ、孝美は小さく息を吐いた。
孝美「いや違う・・・違うよ」
河本「じゃ何」
孝美「だいじょぶだよ」
河本「だから何」
孝美「えと、季衣さん・・・季衣さんだよ・・・そう。季衣さんが居たの!」
河本「え」
 河本は、それって、と口籠った。
孝美「だから、季衣さんだよ。その、あの、前に未来に落ちたときに向こうで私としゃべった人。季衣さんだよ」
 河本は不思議そうな顔をした。
孝美「季衣さんなら、またしゃべれるかもしれない」
河本「・・・あのさ孝美。ここ、倉敷だぜ?」
 確かに、以前季衣と会ったときは東京だった。よりにもよって、日本全国の中の倉敷に、それも倉敷の河本宅から1km圏内に、季衣が現れる可能性があるだろうか?
孝美「そんなの知らないけど、でも季衣さんだったんだもの!季衣さんならしゃべれる!」
 河本は溜息を吐いた。
河本「ほんとに?・・・仮にそのおばちゃんだったとしても・・・今まで実験した中じゃ、向こうで誰かとしゃべるどころか、気付かれることだってなかったんじゃないか?」
 確かに、これまで接続先で人を見かけたときには、頑張って追いかけて、頑張って声をかけてみたのだが、誰一人反応してくれなかった。
ーーでも季衣さんだもの!
孝美「だから!季衣さんなら、きっとしゃべれる」
 河本は怪訝な顔をしたままだ。
孝美「だって!・・・私を見て、逃げたんだもの!・・・だから!だからお願い!」
 河本は怪訝な顔をしたままだ。孝美を眺め回して検分する。
河本「・・・体力、残ってんのか?ちゃんと戻って来れんのか?」
 孝美はちょっと躊躇してから、強く頷いた。
孝美「だいじょぶ。ちゃんと、戻って来る」
河本「戻って来れるんだな?」
 実際は、一日に2回もやったことはないので、自信は無い。でもそういう問題じゃない。やるのだ。やって、それで、戻るのだ。
 河本は、孝美がもう一度強く頷いたのを確認してから、孝美の両腕を取って、自分の首に巻き付けた。河本に抱かれて運ばれながら、孝美は頭の端っこで、ほんとに介護老人みたいだ、と思った。どうせ運ばれるならもっとロマンティックな感じが良かったのに、と思った。・・・後に、この「介護老人」が冗談事でなくなる。
(以上、2014.07.10)

太陽が燃えている

太陽が燃えている

これは、6〜7年前に書き始めたものです。そして、今回公開した部分は、当時通っていたシナリオスクールの課題として、物語の冒頭部分のみ書いたものです。 当時はまだスマートフォンやipad等のタッチパネルは流通しておらず、もちろん東北の震災も起きていませんでした。続きをいつか書こうと思っているうちに、文章の中身が現実化されてしまい目新しいものでなくなってしまってびっくりです。そこのところは残念なのですが、とにかく書き上げてしまいたいと思います。でもまだ、草稿が半分か1/3程度、やっと出来たところです。頑張りたいです。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-28

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  1. <人物> 長内孝美(31) OL 長内修一(34) 会社員、孝美の夫 大川季衣(5x) 無職
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