おやゆびくんとハリガネちゃん
さようなら。あなたの幸せを祈っています。
おやゆびくんとハリガネちゃん
深夜がまだきちんと暗かった頃、ふたりは車の中でのできごと全てに、砂糖をかけて食べていた。私は甘党ではなかったから、量を少なくしたり、たべているフリをしたりしていたが、六年目の春に、とうとうそれにも飽きてしまった。それからしばらく経っても、彼ははやめようとしなかった。手元に残った記憶に砂糖をかけて、いつまでもゆっくりと反芻していた。だから彼は、いつどこで会っても咀嚼をしていた。それが視界の隅でちらつくたびに、私は目蓋を縫い付けた。
今更ながら、私は五回目の初春を思い出す。車の中で、彼は足を酷く痛がった。足のおやゆびにトゲが刺さっているみたい、と困ったように笑うから、抜いてあげる、と私は言ったのだった。
靴を脱がせ、靴下を脱がせ、足の親指を見ると、なるほど何か細いものが刺さっている。しかし、そのトゲは私の思っていたトゲと少し違っていた。爪で挟んだ時に木製のトゲではないと感じた。とっさに私は彼にツメキリを出すよう言った。爪が手入れが好きな彼が、車に爪切りを常備しているのは知っている。彼は不思議そうに首を捻りながら、いつも使っている爪切りをどこからともなく取り出して、差し出した。
私はそれでまず親指の皮を少しはいだ。プライドの高い彼は、決して声をあげない。私もできるだけ神経に触れないように、慎重に皮をはいだ。上手い具合にいき、突起がほんの少し見えたところで、爪切りの角でそのトゲをつまんだ。やはり、かちりと金属同士の触る感触がする。手先に神経を集中させ、切ってしまわないようにゆっくり引く。細いくせにかなり強靭なその棘は、まるで大根が抜けるようにずるずると気持ち良く抜けた。途端、そこからはルビーのように赤々とした血がぷくりと玉になってでてきた。私は慌ててティッシュで傷口を抑え、カットバンを貼る。
ひと段落つき、ひきだされたそれを眺めてみる。棘というよりもシャープチ ペンシルの芯のようだった。長さもそれに相当する。しかし、その硬さは明らかにシャー芯とは違っていた。見た目はシャー芯であるのに、かなり力を入れても歪みさえしなかった。私がしげしげとそのハリガネを観察していると、今まで治療跡をまじまじとみていた彼は次にそのハリガネに興味を示した。そして見るなり、ああ、と冷蔵庫のプリンを思い出した時のような甘みを含んだ声をあげた。
「仕事で使ったやつだ」
途端に私は癇癪を起こした。もし、もしもだ。私がこのまま気がつかなかったら、彼の足は腐って落ちていたかもしれない。悪い菌が入り込んで、名前も知らない病気にかかっていたかもしれない。大声でそう吐き出すたびに恐ろしさで身震いし、比例して眼からぼろぼろ涙が溢れた。
それにもかかわらず、彼はプリンを口に含んだ時のように赤らんで、私の目蓋にキスをして、「しょっぱい」と笑った。
どうして、そんな風になったあと、こんな砂糖漬けの甘ったるいものがポッケから出てくるのか分からない。私は突然軽くなった肩を抱えて、浅い深夜を練り歩きながら、その砂糖漬けのなにかを摘み上げる。外側の砂糖が、街灯にあたって控えめにきらきらする。口に含もうとは微塵にも思わない。すっかり胸焼けしていて、しばらくは何も食べたくないのだ。
海は好きだが、船に乗る気はさらさらない。お節介にも、陸の心配はするだろうが、祈る程度である。アーメン。ただ、いつまでも彼の親指に食い込んで、彼の足を腐らせて、名前も分からない病気にして殺してしまう前に、あなたに抜いてもらえて本当によかったと思うのだ。
おやゆびくんとハリガネちゃん