ミラーボールシティ

ミラーボールシティ

プロローグ

 血の海を見た。この手のひらの中に豊饒(ほうじょう)な血の海を。

「どういった経緯であの場にいたんですか?」
 夜中の警察官は機嫌が悪い。明らかに疎んじるような口調の目の前の男を睨みつけながら、ドンヘは心の中で舌打ちをした。
「あのねー、答えてくれなきゃ何も始まらないんだから。こっちだって家に帰りたいわけ。早く本当のこと話してよ」
 ドンヘはうつむいた。
 本当のこと?いいのかな、話しても。
「・・・わかりました。すべて、お話ししますよ」
 ドンヘは深く息を吸い込む。首の関節を鳴らしながら、目を綴じた。
 思い浮かべる。今遠くで眠っている、最愛の人との輝かしい日々を。そして、あの深い赤の海に溺れるまでのすべての思い出を。まるで、写真を取り出すみたいに。

 これから話すことは、すべて真実です。
 よく、漏らしの無いように聞いてください。

 あれは、ある寒い冬の夜のことでした――――。

ひとつめの打撃

 あたり一面のネオンの光が夜の始まりを告げていた。轟々と地下から漏れあがってくるミュージックと形にならない無数の声たちが、まるで鬱蒼と茂る森のように夜の街を包み込んでいる。極寒に溶ける喧騒にてんで耳と目が慣れていないドンヘには前も後ろも分からないような状況だ。そんなドンへが道の真ん中で狼狽する姿は、まるで怪しげな森林に迷い込んだ仔羊のようだった。
「なに突っ立ってんだよ早く来い。いい子が売れちまうだろ!」
 二メートルほど離れたところから、ヒチョルの声がドンヘの耳にも聞こえてきた。ヒチョルの声はこのむせ返るようなざわめきの中でもよく透る。
「ヒョン!」
「なんだ!」
「俺、やっぱ帰る!」
 ドンヘが言うと、ヒチョルは面倒くさそうに頭を掻き、ずいずいとドンへの方に向かってきた。
「あー、もう、いちいちへたれてんじゃねえ!ごたごた言ってねえで、黙ってついてこい!」
 そう言ってヒチョルはドンヘの腕を掴み、半ば強引に夜道をずかずかと闊歩した。言いかえす時間も与えられなかったドンへは、ヒチョルの強力に引きずられるようにしてその後を追う。すれ違った人の中には裸よりも寒そうに見える薄いドレス一枚の女性や、いかにも高級そうなスーツを着込んだ中年男性などがいた。その誰もが浮かれた、だらしのない表情をしている。
 ドンヘは眉をしかめてヒチョルの腕を振りほどいた。ヒチョルはそんなドンヘを一瞥し、
「今夜くらいいいだろ。俺のためと思え」
 と低い声で言った。ドンヘはあいまいに頷くと、一歩前に出てヒチョルに並んだ。

 そこは会員制のクラブだった。ヒチョルがプラチナ会員(寄付金を送ったり、頻繁に店に訪れる会員のみが得られる称号らしい)だったこともあり、一見のドンへもすんなりと入店できた。
「クラブ・ミラーボールシティにようこそ」
受付のホストの背中を越えると、そこはもう地球の裏側のような熱気と爆音で溢れかえっていた。
 ドンヘは生まれて初めて鼓膜が震えるという感覚を直に覚えた。
 夜空よりも暗いホールに、さまざまな種類の色の光が蜘蛛の巣のように張り巡らされている。その轟音の中で踊り狂う若者たち。頭を思い切り振り、腰をウェーブさせ、身体を寄せ合う。その光景はとても健全な風景とは言えそうになかった。
 ドンヘが周囲の様子に圧倒されていると、背後からウェイターがドリンクの注文を尋ねてきた。「今日は出世祝いってことで、好きなだけ飲め」というヒチョルの言葉が聞こえていなかったわけではないが、もともと酒は好きではない。ドンヘはノンアルコールのこじゃれたカクテルを頼んだ。


「ヒョン、毎日こんなとこ来てんの」
「毎日ってわけじゃねえけど、遊ぶならここって決めてる。この店は客を選ぶからな。俺らみたいな『曰くつき』のやつらでも、周りの目を忘れて楽しませてくれる」
「いわくつき」
「まあ、お前にはまだ早ぇなあ」
 ヒチョルは深いグラスに入ったシャンパンを一気に飲み干した。そして空気のように滑り込んできた、猫のような目をした女性の腰を抱く。ヒチョルはそのぬくもりに満足そうにしていたが、ドンヘにはヒチョルの方がよっぽど美しく見えた。
「ヒョン、おめでとう。俺、自分のことみたいに嬉しいよ」
 ドンヘの微笑みは会場のボルテージとは不釣り合いすぎて、それがさらにドンヘの柔和な性格を相乗させた。ヒチョルは照れたように唇をへの字に曲げ、「サンキュ」とだけ返した。
「ゴールデンタイムのドラマで主演だなんてさ。しかもKBCだろ?最初言われた時はまた冗談かと思ったけど・・・本当だって知って、俺、泣いたよ。ヒョン、本当におめでとう」
 彼に巻きつく女性の存在を極力眼の中に入れないようにして、ドンヘは目の前の美しい男の姿を見つめた。ヒチョルは相変わらず照れて目を合わせてくれなかったけれど、本当は心底嬉しいんだということをドンヘは分かっていた。知り合ってもう十年以上になる。
「なあ、ドンヘ」
「なに、ヒョン」
「この世界でやってくのに、一番大切なものってなんだかわかるか」
 ヒチョルは仰いでいたグラスを置いて、真剣な表情で言った。応えるようにして、ドンヘも真剣な表情で耳を傾けた。
「それはな、縁だよ」
 ドンヘは、自分の喉元が動くのがわかった。ヒチョルの声に神経が傾いて、外界の騒音が一切遮断される。
「人とのつながり。それがないと、この世界で道は開けねぇ。コネだって、運だって、俺は立派な才能だと思ってんだ」
 ドンヘは頷いた。ヒチョルも満足げに頷いた。
 つながり。それは、ドンヘにとって最も遠い言葉のように思えた。いや、この世界での成功こそが、今のドンヘにとっては夢のまた夢の話だったのだ。
 
 ヒチョルとは、事務所の養成所で出会った。ドンヘが十七歳のときだった。そのときヒチョルはもうすでにモデルとしていくつかの契約を持っている、いわゆる売れっ子モデルだった。世間一般では名前を知っている人は少ないにしても、熱狂的なファンはもうすでに数えきれないほどいた。そんなヒチョルをドンヘは尊敬したし、あんなふうになりたい、と彼の影を追った。
 そもそもドンヘが養成所に通うようになったきっかけは、スカウトだった。最初はただ単にスカウトされたことが嬉しかったし友達にも自慢できると思い養成所に入ることを決めたが、日々レッスンを享けるうちに、真剣にモデルになりたい、と思うようになった。養成所では演技、歌、ダンスのほかに、ポージングの授業があったのだ。ポージングを一度褒められただけで「これなら俺も?」と思ったことが始まり。ああ、なんて安直な動機だろう。
 一方ヒチョルはもともと演技専攻だった。アジア人離れしたヒチョルの美しい顔立ちに加え、ヒチョルは声も同様に美しかったこともあり、彼は練習生の中でもひときわ演技映えする性質だった。その後正月の二時間ドラマでドラマ初出演にして初主演という鮮烈なデビューを果たし、ヒチョルはまたたくまに売れっ子俳優と呼ばれるまでに上り詰めたのだ。
 ドンヘはそんなヒチョルの後ろ姿を、誰よりもそばでずっと見てきた。だから、今回連続ドラマの主演が決定したときは、本当に両手を上げて喜んだ。ヒチョルの成功は、ドンヘの成功。そう言ったとしても、まったくの過言ではなかったのだ。

「ヒョン」
「ん?」
 ヒチョルはもうすでに三人の女性に囲まれ、頬を染めている。ドンヘは苦いものを噛んだような気持ちになりながらも、長年慕っている兄の手前、そのむずがゆさを表情には出さないよう努めた。
「俺もいつか、ヒョンみたいになれるかな」
「それは、どうだかわからんが、すべては神様だけが知ってんだ。お前が頑張ってどうこうなるもんじゃない。でも、人生って不思議なもんでよお。なりたい、って願えば道は自然と開けるんだよ。神様が、こっちこっち、ってさ。だからお前は何も心配しないでただ本気で好きなことやりゃいいと思うけどな」
 酔っぱらっているんだろうか、とドンへは思った。ドンヘは胸が熱くなるのを感じた。
「お前に足りないことはいっぱいあるけど、まずは――――」
 ヒチョルは横にいた女性の胸を撫でた。すぐに女性の手がヒチョルの頬に飛んだ。
「こういう、打撃よ」
 ヒチョルは愉快そうに笑った。
 ドンヘは呆れながらアルコールの味がしないカクテルを飲んだ。甘ったるい舌触りがこめかみに来た。
 打撃、なんて、そんなもの今のドンヘに降り注いだら、自分は消えてなくなってしまうんじゃないかと思う。ただでさえほんのわずかな気力と金で生活を繋いでいるのが、今の現状なのだ。こんなふうに賑やかな空気の中にいたって、消えない。いつだって頭の中は不安と焦りで占拠されたままでいる。
 ドンヘは今まさに雲と地上の狭間で浮遊する風船のように、不安定に揺れ動いていた。夢だけは一丁前に構えて、それなのにその夢の実現に繋がる仕事がいっこうに来ない。来るのを待っているだけじゃ駄目だと奮い立ち、自ら身売りのような行為に出ても、やってくるのはその場しのぎの代わりが利くような仕事ばかりだった。AV男優、下着モデル、自分がやれる仕事なら片っ端から何でもやった。正直屈辱感と羞恥心は否めなかったが、しかし、なにもしないよりはましだ。そう言い聞かせて唇を噛んで耐えてきた。そんなふうに時間と暇を満たしたところで、目指す頂の姿は一向に見えるわけもない。そんな状態では、やはり心の奥ではいつまでたっても不安が胸の内を蠢くのが人間の常だろう。
 これからもこのまま夢を見ていられるだろうか。こんなふうにたゆたんでいられるのだろうか。いつまでもこのまま、社会に自分の居場所を見いだせないまま、一生を終えるのが自分の運命なのだろうか。
 ヒチョルを見ていると自分が本当にちっぽけな人間に思えるのだ。実際、ヒチョルが今のドンへと同じ二十七歳の時には、もうすでに売れっ子俳優兼モデルとして雑誌の表紙を飾るのはもちろん、テレビにも頻繁に出演していたからだ。
 ドンヘは今、アルバイトを二つ掛け持ちしている。コンビニエンスストアとアパート近くの中華料理屋だ。それでも生活は厳しい。住んでいるアパートは風呂なし、トイレは共同。家から事務所までは自転車で通っているし、その家賃も二ヵ月分滞納している。先日二十七歳の誕生日を迎えたというのに、いまだに実家に仕送りをする余裕もない。情けなく、引け目を感じつつも、どうしようもなかった。ヒチョルの言葉のように、ただがむしゃらに願うことしか、ドンヘは知らなかったのだ。

「お前も飲め」
「いや、俺はいいよ」
「今日くらい飲めよ。お前くらいだぞ、この店で素面で・・・ん?あれ、下でなんかやってんな」
 ヒチョルは手すりの隙間から下のステージを見下ろした。「なになに?」とついていた女性たちも面白そうに覗きこむ。渦巻いていた思考を強制終了させ、ドンヘも横目で彼らの向く方向を見た。中央にある金色のステージは、照明が消されて真っ暗に暗転していた。これからショーかなにかが始まるのだろうか。
「なんだなんだ、またバーレスクダンスか?」
「やーん、ちがうよォ。これは、そっちより、もっと、シ・ゲ・キ・テ・キ」
 先ほどから他の女性たちより密にヒチョルに近づいていた女性のうちでもっとも豊満で年増の一人が言った。その言葉の意味がドンヘにはよく分からなかった。バーレスクダンスをついさっき入店してからすぐに目にしたが、あれも相当に刺激的なパフォーマンスだった。いや、刺激的というより、率直に官能的だった。今にも香水と女性の体臭が漂ってきそうな気さえした。あの舞台よりも刺激が強いなんて、ドンヘには想像もできない。まさか素っ裸の女性が飛び出してくるんじゃないだろうな、とドンへは警戒してステージを見つめた。
「へえ、どんなエロい子が出てくんの」
「そりゃあもう、エロいなんてもんじゃないんだから。うちの名物ストリッパーよ」
 彼女の声とほとんど同時に幕が開いた。暗黒の舞台の真ん中に、まるで月の光が映し出されたかのようなまん丸のスポットライトが突然当たった。その中に浮かび上がった一つのシルエットに、ドンヘは思わず息を呑んだ。
 ―――それはまるで、刃物が突き抜けるような衝撃だった。
 その瞬間、視覚から聴覚から感覚から何から何まで、ドンヘは奪われてしまったのだ。その銀色に光る刃物に、すべて掻っ攫われていく。それを自覚した。自分はとんでもないものを見ている、とドンヘは自覚した。
「うわっ、なにあの子。めちゃくちゃすごい人気じゃん。俺、知らなかったんだけど」
 ヒチョルがもの惜しそうに嘆いた。豊満な女がヒチョルの肩を叩いて笑う。
「やぁだ~、あれ、男の子よォ」
 登場と同時に会場は静まり返った。そこにいるものすべてがそのシルエットに注目していた。客の喉が動く機微な音までありありと聞こえてくるような静けさの中で。
 彼――今だから彼と言えるが、もっともこのときドンヘは周りの言葉が耳に入っていたはずもなく、性別など考える余裕もなかった――の身体が少しずつ動き出す。バックミュージックは一切ない。無音の中、彼は腰を床に滑らせたり、突き上げたりを繰り返していく。徐々にテンポがその動きに合わせて導入されてくる。
 ミュージックが彼を躍らせているのではなく、彼のダンスがミュージックを導いていた。そのミュージックが大音量まで引き上がったとき、会場のボルテージは最高潮になった。彼の動きに合わせて会場は揺れた。ドンヘは我を忘れてステージに見入った。
 それは、官能的という形容詞をはるかに超えたものだった。先程のバーレスクダンスとは天と地の差があるように思えた。もはやダンスではなく、それを超越した『生命の訴え』のようにドンへの瞳には映った。
 彼は、血の色に染まった髪の毛を、飼い馴らした蛇を愛でるように縦横無尽に操る。彼は、露呈した上半身をしなやかにうねらせ、そのたび波のように鍛え上げられた肉体に、汗が無駄なく泳ぐ。
 黒い細身のパンツからのぞく紅い下着に、炎が引火しているように見えた。彼の動きはたった一言の言葉で表すとしたら、それは本当に『美』そのものだった。一切の余分を脱ぎ捨てて研ぎ澄まされた肉体。そこから繰り出される糸のような繊細な動き。そこに眠り、息をひそめる大胆さ。そして彼の表情―――彼は笑っていたと思う。ドンヘにはそう見えた。自分を恍惚とした目で見つめる(まさにドンヘのような)人間を嘲るかのごとき挑発的な目をしていた。
 ステージの中央で堂々と身一つで踊る彼を、ドンヘは瞬きひとつせずに見つめた。
 美しかった。この世で本当に美しいものはこれだと、ドンヘは思った。これほどの衝撃は、人生の中で今まで一度も覚えたことがなかったからだ。

 突然、彼の動きが止まった。と思うと、彼の脚が勢いよく割れた。細長い脚がステージを横断する。ステージ上手の方までやってくるともともと設置されてあったポールを掴んで、くるりと一回転する。するとそのポールに沿って、円を描くように股間を上下し始めた。その瞬間会場が歓声に沸いた。
男も女も彼のパフォーマンスに夢中だった。そしてドンへもその一人だった。彼の表情に、彼の動き。なにもかもが衝撃だった。
銀のミラーボールがポールと彼の瞳を照らす。膝をポールに引っ掛け、彼は思い切り上半身を逸らせた。形の良い喉仏が浮き彫りになり、隣にいた女性がうっとりと溜め息を漏らしたのが分かった。そしてそのままの体勢で彼はポールを軸に三回転した。接着点は膝の裏だけなのに、彼はまるで指で輪ゴムを回すようにいとも簡単に回ってみせた。そのしなやかかつ扇情的な動きに、クラブにいた客全員が感嘆の声を上げた。


 ショーが終わっても、ドンヘはその場から動けなかった。最後に見せた、烈しさの中に潜む、世界は自分のものだと言わんばかりの傲慢な眼つきが、ドンヘをいつまでもその場から離さなかったのだ。
 ぼうっとしているドンヘを心配して、ヒチョルが隣に座ってきた。
「おい、大丈夫か?疲れたなら帰っていい」
「・・・いや、そうじゃない」
「じゃあなんだよ。あ、今の男がそんなに良かった?」
 ヒチョルは茶化すように笑ったが、ドンヘはもう笑えなかった。彼がドンへの頭の中で、彼のポールダンスのように、ぐるぐるといつまでも回っていた。
「あーあ、本当、やんなっちゃうよねェ。女の私たちでも出せないような色気、あんなガキんちょが出せちゃうんだもん」
「へー、ガキなの」
「そうよォ。まだ二十七。でも、ダンサーとしての才能は私が知ってる中でダントツね」
 女の声に嫉妬のようなものは一切見受けられなかった。彼に対して抱く感情はすべて無意味に思えるのかもしれない。嫉妬も、羨望も、彼に対して抱くのにはあまりに無意味だ。彼に近づけるものはいない、と思った。彼は彼で独立した、唯一の生物のような気がした。それくらい、彼の美は人間離れしていた。
「ねえねえあんた、本当はいくつ?ずっとこの店にいるよね」
「ちょっとォ、そろそろあたしのこと名前で呼んでェ。あと、女に年齢訊くのはタブーだからァ」
「はいはい。で、あんたいくつ?」
「あんたじゃないィ。源氏名は、ユリっていうのよォ」
 ヒチョルとユリ(と後々呼ぶようになった)の会話は、面白いほど耳に入ってこなかった。ただ、身体の中を熱と血がものすごい速さで駆け巡っていた。彼の舞台をもっと見たい、と思った。そして彼のことを知りたい、と思った。
 彼はいったい何者なのだろう。
 ドンヘの頭の中にはそればかりが溢れて、その日は一滴も酒を飲まないまま、店を後にした。


「また連れてきてやるよ。ユリがお前を気に入ったってさ」
 ヒチョルはそう言って家の前まで送ってくれた。
 その夜、夢を見た。彼がステージの上でオルゴールについている人形のように永遠に踊り続けている、という夢だった。彼の真っ赤な髪は、夢の中でも激しく燃えていた。

最高のショー、最悪の出会い

 彼の名前は、ウニョクと言った。
 最初にあの舞台に魅せられてから約半月。ドンヘはなけなしの貯金を崩し、毎晩のようにクラブに通うようになっていた。もちろん、そこにはヒチョル同伴、そしてもてなしの女性は何を言わずともユリが出てくる。ヒチョルとユリは長年の付き合いがあるから仲が良く、二人のせっつき合いのような会話を聞くのがドンへは好きだった。そして何よりの理由として、ウニョクについてもっと知りたいという気持ちが抑えられなかったからだ。
 「なァに、アタシのことは調べてくれないわけェ?」
 と口を尖らせるユリをたしなめつつ行われたドンヘの懸命な聞き取り調査により、他にもいくつかウニョクの情報を得ることができた。

 歳はドンヘと同じで二十七歳、夜八時からの時間帯(クラブではゴールデンタイム、というらしい)で最も稼ぐ、今一番旬の売れっ子ストリッパーなのだそうだ。

「あの子、ああ見えてこの仕事結構長いのよ。ここに来て・・・そうね、ちょうど十年くらいになるかなァ」
 ユリが真っ暗な天井を仰ぎながら記憶をたどる。今夜も店内は相変わらず沸騰した湯のように煩く煮えたぎっている。ヒチョルが水割りウォッカを啜りながら、
「へえ、そうなの」
 とユリとは別の女性の尻を撫でた。
「アタシ初めてあの子見たときね、世の中にはこんなに可愛い子が本当にいるんだ、って思ったわァ。一瞬子作り願望が芽生えたくらいよ」
 ユリは甲高い声をひくつかせて笑う。自分で言っておいてこんなに笑えるなんて不思議だ。自虐ネタなのは十分にわかっているが、もし万が一ユリが子供を産んだとして、ウニョクのような美しい子が生まれないことだけはたしかだ。ドンヘは苦笑しつつ、擦り寄ってくるユリからの襲撃を恐れてもぞもぞと尻の位置をずらした。
「で、彼はどうしてそんな若くにここに?」
 ドンヘが聞くと、ユリは萎んだ風船のように表情を消し、「さあ、知らない」とつぶやいた。そしてすぐにいつものような豊満な笑顔でにこっとドンヘに笑いかけ、
「彼には秘密が多いのよ」
 と言った。
「突然開店前にオーナーが連れてきて『今夜からこいつがこの店の華だ』って言ったの。オーナーのうしろには肩ちぢこませて震えてるウニョクがいたわ。今思えばあのときまだウニョクは十六だったのね」
 七年前のウニョクの姿がドンヘには到底想像できなかった。なんせドンへはステージ上でのウニョクしか知らない。赤ん坊から幼少期を飛びぬかして大人になったと言っても過言ではないほどの風格が、あの堂々とした高慢なパフォーマンスから感じられるからだ。
「まあ、私が教えてあげられるのはここがゲ・ン・カ・イ」
「え、ちょっと」
「あとは自分で聞きなさァい」
 ユリは細かいビーズで豪奢に飾られたおせちのような爪を器用にグラスに絡め、シャンパンを一気に飲み干した。その飲みっぷりを見てヒチョルがにやにやと笑う。ヒチョルの頬が反面赤くなっていた。またべたべたと女性を触って平手打ちを喰らったのだろう。
「おー、いい飲みっぷりじゃん。昔のこと思い出してちょっとセンチメンタルになっちゃった?」
 ヒチョルが意地悪そうな顔で言う。ユリは変態親父のようなヒチョルをぎっと睨みつけ、間髪入れずにヒチョルの華奢な肩を音がするほど強く叩いた。「ってぇ!!」
「ちょっとあんた、ドラマ中なのにこんなとこで呑んだくれてて言いわけ?!仕事は?主演なんでしょ?この店がプライベートを一切口外しないからって、最近遊びすぎなんじゃない!?」
 ユリが顔を真っ赤に染めてヒチョルを怒鳴りつけると、ヒチョルはケラケラとくせのあるいつもの笑い方で肩を竦めてみせた。まるで往年のハリウッドスターのようだ。
「いんだよ、欲求も金もあるんだから。どっちもこの店で落としてってやってるだろ?それに、こいつがおたくの可愛らしい野郎にお熱でしてねえ」
 ヒチョルは胡散臭い詐欺師のような顔でドンヘの方を見た。ユリがドンヘを睨みつける。ドンヘはびくりとして口をつぐんでしまった。
「ホントはもうちょっとウニョクについて教えてあげようと思ったのにィ・・・もういいっ!ホントにホントに教えてあげない!」
 ユリは勢いよくグラスを飲み干した。そのままヒチョルの膝によろけて倒れ込む。ヒチョルが「うげぇっ!」と悲鳴を上げた。ドンヘは、
「ごめん、ヒョン」
 というひとこととヒチョルをその場に残してソファを立った。背後から、
「お前、覚えてろ!」
 というヒチョルの怒声が聞こえたが、無視した。
「ごめん、ヒョン。もうすぐ彼のショーが始まる」


 ドンヘは人ごみに揉まれながら一階の正面中央まで移動した。幾度も重ねた研究により、ここが一番彼の視線を長時間味わうことができることが発覚したのだ。
 彼の出番を待っているあいだ、ドンヘの手のひらはぎとぎとに濡れる。しぼれるんじゃないかというほど分泌されていく汗に比例して、心臓を叩くような痛みの往来もどんどん増していく。八時になったらショーが始まる。
 たった十五分。でも、その十五分のあいだ、俺は彼のものに、なれる。

 ショーが始まった。今夜はバーレスクたちを率いたジャズダンスだった。彼のソロではないことに思っていたよりも落胆してしまった。こうして視界に入れることができるだけでも歓びなのに、いつのまにか欲が出てしまっている。
 彼の動きは今宵もどの女性ダンサーたちよりもしなやかで美しかった。身体を守るために必要な肉がないからだろうか。それとも自分の瞳にすっかり覆い尽くされたフィルターのせいだろうか。いや、どちらもだ、とドンへは思う。
 ウニョクがこちらを見た(それは思い込みによるものだが)。ドンヘの心臓が急上昇する。ウニョクの紅い唇の端がきゅっと引き攣られる。その表情に撃たれた客たちの感嘆とも恍惚とも取れる溜め息がウニョクの肌の輝きをますます艶めかせた。
 ウニョクの脚が宙を舞い、女性たちの腰に当てられた彼の指は白い毒蛇のようだ。鬱蒼と木々が茂る夜の森の奥深くで月の光を反射して探検者たちの好奇心をくすぐる白い蛇。顔を近づけて様子を覗くと小さな牙の隙間から赤い糸のように細く薄い舌を使って毒を刺す。かかったら一生解けないほどの猛毒。身体を、命を、すべてを絡め取る、とてもとても恐ろしい猛毒。
 ウニョクは白い毒蛇だ。ドンヘはその毒に、まんまとすべてを絡め取られてしまったような気分だった。
 女性たちと同じように化粧を施された今宵のウニョクは本当にきれいだ。どんな女よりも美しい、と思う。ウニョクの挑発的な目に支配されたドンへは相変わらず身動きもとれずにただ口を開けてぼうっとその妖艶なステージを見ていることしかできなかった。


「どうだった?今夜の彼は」
 突然背後から声を掛けられ、一瞬誰の声だか分らなかった。ウニョクのステージに引き込まれていた耳がやっと現実の世界と一致してくる。
「売れてなくとも一応お前もモデルだろ。なんちゅーだらしない顔してんだよ。シャキッとしろ、シャキッと」
 ヒチョルはドンヘの頭のてっぺんを財布で叩いた。
「俺はもう帰るけど、お前は?」
「俺も、もう帰る」
「いいのか?見てるだけで」
「え?」
 ドンヘは言葉の意味が理解できず、もう一度「え?」と聞き返した。ヒチョルは面倒くさそうに眉を歪ませると、今度は撫でるように頭のてっぺんに手を置いた。
「ウニョク、だっけ?あのストリッパーだよ。見てるだけでいいのか?」
 ヒチョルの手のひらから熱が伝わって来て、酒を飲んでいないのに頭がぼうっとしてきた。ヒチョルの言葉をよく咀嚼し、しかしそれでもいまいちピンと来なくて、
「あ、うん・・・え、あ、うん?」
 などと訳の分からない曖昧な返答しかできなかった。
「あいつ、ステージ以外で裏の厨房手伝ってるって」
「そうなんだ」
「そうなんだ、じゃねえ。間抜けな声出しやがって。俺様がわざわざユリの気引いて聞きだしてやったんだから、ちっとはアクションを起こせ」
 ヒチョルの声は一見機嫌が悪いように聞こえるが、底に潜む確かな温もりがドンへには分かった。ヒチョルが自分のことを思って背中を押してくれるのだと分かり、やっと「うん」と明瞭な声で返事をした。
 ヒチョルはその返事を聞くと満足げににやりと笑って、
「今日は俺のおごりでいい。俺しばらく地方で撮影だから来れねえんだ」
 と言ってタクシーを呼びとめた。ヒチョルの後ろ姿を見つめながら、ドンヘは「頑張れ、ヒョン」と付け足した。


 もうすぐ日付が変わろうとしている。さすがに冬の真夜中は身体に堪える。ジャンパーの隙間からするすると滑り込んでくる冷風がドンへの毛穴をちぢこませた。彼を待って二時間が経とうとしているのだ。けれどいっこうに姿が現れる気配はない。
 クラブの裏口からは、十時を越えたあたりから続々とウェイターやダンサーたちが溢れてきた。絡まれるか、と思ったが、通る人通る人、みんなドンヘに怪訝そうな視線を寄越しただけで特に触れることもなく過ぎて行った。彼らはすっぴんだったのだろう。店の中にこんな人いないぞ、と思うほど地味で質素な顔面と服装だった。そりゃ外まで着飾ってたら疲れるのは当たり前だよな、とドンへは妙に納得した。それと同時に彼らに少し同情した。
 冷たい風が吹いている。肌の感覚が著しく失われてきた。もうそろそろ帰ろうか、と思っていた矢先、がさごそと物音がした。じっと耳を澄ませてみると、ごみ袋の擦れる音のようだ。しかし、どうだろう。目を綴じて、風とごみ袋の擦れる音の向こうに、細いわたあめのような声が流れている。
「I don't want us to fall through the cracks of a broken heart…Don't want us...」
 澄ませば澄ますほど聞こえてくる、甘い声。誘われるままに身を乗り出した。その瞬間、ドン、という鈍い音を立てて誰かとぶつかった。目を開けた次の瞬間には、尻は冷たいアスファルトの道路に投げ出されていた。
「った・・・」
「すんません!大丈夫っすか!?」
 突然飛び込んできた大きな瞳に、ドンヘは脳みそが追い付けなかった。
 誰だっけ、この人。声は乾いていて気さくな感じだ。
 きっと、三十秒くらい静止していたと思う。しばらくして相手がじっとこちらを見ているという奇妙な状況に気づき、急いで立ち上がった。
「ごめんなさい、俺もボーっとして・・・て」
 ―――ウニョクだった。尻を叩いていた手がぴたりと止まる。思考も止まる。心臓が震えた。
「あの、けがとかは?手、切れてるし・・・」
 ウニョクはドンヘの手を取った。反射的に振り払ってしまう。ウニョクはドンヘを困惑した表情で見つめる。
 手を委ねられるわけがない。ずっと憧れていた人に。
「こ、これは、元から・・・」
「うそ、まだ血が鮮やかですよ。すみません、今絆創膏出します」
「や、大丈夫・・・」
「なんでですか、俺のせいなのに」
 ウニョクは肩にかけていたリュックを下ろし、無造作にその中身を探った。「あった」と言うと、安心した顔で見つけた絆創膏を丁寧に剥がす。ドンヘはその様子を息も出来ずに見ていた。ウニョクが、目の前にいる。しかも、俺のために手を動かしている。どうして。どうして。自ら彼に会おうと出向いたはずなのに、この状況が全く理解できなかった。つくづくあがり症の自分に嫌気が差す。
「手、貸してください」
「あの、ほんとに大丈夫ですから・・・」
「いいから」
 少し強引に手を引かれた。心臓がうるさくてウニョクの顔を見ることさえできない。
 せっかくこんなに近くにいるのに。いつも遠く遠くに感じていたステージの上の人物が、こんなに近くにいて、自分の手を取り、自分を心配をしてくれているというのに。
「はい、できた。本当すんませんでした。前見てなくて」
「いえ、こちらこそ、こんな邪魔なところにいてごめんなさい」
 ドンヘが頭を下げると、ウニョクは申し訳なさそうに、
「謝んないでください」
 と言った。優しい声をしていた。
「夜も遅いんで気を付けてくださいね。では」
 ウニョクが通り過ぎる。行ってしまう。だめだ、という気持ちがドンへの中にはたらいた。それを認知したときにはもう、さっきまでウニョクの手の中にあった手で、彼の手首を掴んでいた。
「あのっ」
 声はかけたものの、なんと言っていいか全く見当もつかない。失敗した、と思う。どうして考えずに行動してしまったんだ。待っている時間は何十分もあったはずなのに、いざ声をかけると口がうまく開かなかった。
「はい?」
「あ、えと・・・実は、待ってたんです。俺、あなたのこと。あの・・・ウニョクさんですよね」
 言ってすぐに後悔した。これでは不審者だと思われる。どうしよう、と焦っていると、薄暗い電灯の下に一輪の花が咲いた。
「はい、そうです」
 とウニョクが笑った。
「え、あ、あの・・・俺、ファンです。ウニョクさんの、ファンなんです」
 笑顔を見せてくれたことが嬉しくて、思わず声がうわずった。興奮して自分が何を言っているのかわからなかったけれど、とりあえずもう後には戻れないことを悟った。
「ありがとうございます」
 ウニョクは微笑むと、ドンヘに握手を求めた。求められたままに、ドンヘは両手を差し出す。握られたウニョクの手はつめたくて気持ち良かった。
「あの、いつもショー楽しみにしてます」
「ありがとうございます」
「ウニョクさん見るためだけに店に来てます」
「そんな、ありがとうございます」
「今夜も最高でした。や、でも、欲を言えばもっとソロが見たかったな、っていうか・・・」
「あはは」
「あの、次はいつクラシックやりますか」
「んー、来週あたりには」
「あの、好きです」
 飴玉が口からこぼれるように。沸騰した味噌汁があふれ出すように。いつの間にか、声にしていた。
 慌てて訂正を試みる。
「いや、ちがくて・・・その、あなたのダンスが」
 好きなんです、と言おうとして、やめた。これ以上墓穴を掘ってどうする。
 自分で招いた事態に慌てていると、目の前のウニョクの笑顔が翳った。
「あのさ、」
「勘違いしないでくれる」
「え・・・?」
「俺、ゲイじゃねえんだわ」
 ウニョクの声が外套の中に落ちる。冷たい風が吹いた。耳が凍りかけている。
「ストリップやってるやつが全員ゲイだなんて思い込んでんならそれとんだ大間違いだから。その考え改めて。気分悪い。じゃなきゃ、俺のファンやめて」
 ぽんぽんと飛んでくる鉄砲玉のようなウニョクの言葉はドンヘの心臓を震わせるには十分だった。いや、この寒さで震えているのか。それさえ見当もつかないほど寒い。
「ちがうっ・・・俺はそういうこと言ってるんじゃなくて、ただ、君のステージを見て、君のダンスを見て、きれいだって・・・ただ・・・」
 上手い言葉が紡げず狼狽していると、ウニョクが鼻で嗤うのがわかった。
「あんた今俺のハナシ聞いてた?」
 ウニョクにぐい、と肩を掴まれた。そのとき初めて手のひらの擦り傷に痛みを覚えた。
「俺がやってんのはあくまでもサービス業なんだ。個人的に外で夜中まで出待ちされたり、わざと怪我してそれを餌に脅そうとかそんなことされちゃ困るんだよ。俺にだってプライベートってもんがある。わかる?」
 その声色に気圧されて、訳も分からずにこくこくと頷くと、ウニョクはため息をついた。
「好きとか、本当迷惑なんだよ。恋人にでもなれると思った?所詮ファンだろ。なれるわけないんだよ、特別になんて」
「だから俺は君のダンスが好きって・・・」
「あー、何度言えばわかるわけ?好きとかいらない!金ちょーだいよ!言葉なんていらないんだよ。金になる?それって儲かる?好きなんて、そんなんいらねえからさ、お金ちょーだいよ。そんなに好きなら、俺を喜ばせたいなら、チップの一万や二万払ってよ」
 あまり気迫になにも言えず押し黙っていると、ウニョクは諦めたようにふっと溜め息をもう一度ついてドンへの肩をポンとたたいた。
「やっぱいい。あんたビンボーそうだもんね」
 そう言って通り過ぎた。
 行ってしまう、と思った。でも手首を掴む勇気はもうない。
 俯いたままでいるドンヘに、思い出したようにウニョクは背後から言い放った。
「俺は求められても何も聞こえない。何も見えない。何も感じない。俺の心は誰がどうしたって一ミリも動かないの」
 ばちばち、と外套が揺れた。蛾がドンヘの視界を掠めた。光を求めて電灯に集まってくるなんて、寂しがり屋なんだなあ、と思う。
「ごめんね、おバカさん」
 目の前に映った影を見て、ウニョクがひらひらと自分に手を振ったことが分かった。
 少しうれしかった。もう彼と一生会うことがないとしても、うれしかった。
 それと同時に泣きたくなった。拒絶された痛みは案外うすく、それだけドンへの心臓は何重にも彼によって覆われ強靭な筋肉を手に入れていたことを知る。しかし、ドンヘの喉の熱は胸の少し違う部位―――つまりはもっと深いところでドンヘを切なくさせた。

 彼の瞳は漆黒で、その奥に潜む暗闇を見た気がした。遠い遠い彼。それよりももっと遠い彼の暗闇。ステージの上の彼はあんなにも傲慢で自信に満ち溢れているのに、実際の口調はもっと輪をかけて高飛車だったのに、それなのにその裏には何もない。ただコンクリートのように分厚く立ちはだかる冷たい漆が、彼の瞳の奥を隙間なく塗り固めている。

 何も聞こえない、と彼は言った。
 このわずかに震える唇から発する声が彼にいつか届く日が来るのだろうか、と夢想したが、虚しくもその思案はすぐに真夜中の星に吸い込まれて消えた。

豪雨前線

 蛍光灯がからからと音を立てて痙攣した。中に虫でも入っているのだろうか。
「それじゃ、ポージングしてみて」
 眼鏡をかけた重役らしき男に指図され、ドンヘは事前に用意してきたポーズをいくつか取ってみせる。
 今日は飲料水の広告モデルのオーディションだ。今入っているまででは、これが今年最後のオーディションとなる。これは絶対に落とすわけにはいかない。
「ん~、回って」
「かがんで」
「上向いてみて」
「はい、ありがとう」
 無言のドンヘを好きなだけ操ると男は表情一つ変えず参考資料をつき返してきた。
「それじゃ、今日はもう帰っていいから」
「え・・・!?」
 あっさりと言われ、ドンヘは手を伸ばしかけたまま固まってしまった。まだオーディションが始まって5分も経っていないのに。
「なんで・・・」
「不採用。またの機会にね。はい、次~」
「え、ちょっと待ってください!なにがいけなかったんですか」
 ドンヘは無理矢理押し付けられた書類をくしゃりと両手で丸め、男を問い詰めた。男は辟易しきった顔で肩を竦めてみせると、嗤うように言い放った。
「顔はいいんだけどねぇ・・・華がない。あ、あと身長もない」
 ドンヘは自意識過剰な性格ではないが、自分の寛大で温和な性格には自信を持っていた。そのドンヘもさすがに今の言葉にはカチンときた。唇を噛みしめ、男を見つめる。
「その顔、いいねえ。でもね、モデルだから。華やかさとスタイルがないと」
 はい帰った帰った、と男に言いくるめられ、ドンヘは部屋の外に追い出されてしまった。ドアに背中をついて俯く。悔しくてやるせなくて涙も出ない。
 もう何度目だろう。この屈辱を味わうのは。

「あ、雨」
 事務所に報告したあと家に向かう途中、頭皮を冷たい雫が濡らした。ただでさえ極寒の冬の町で、雨だなんてむごすぎる。しかも今このタイミングで。
 俺はつくづく神様に嫌われている、とドンへは空を恨めしそうに睨んだ。


 オーディションだめでした、と言おうと口を開いたら、その瞬間「分かってる」と喰い気味で言葉を制御された。
「分かってるさ、落ちたんだろ」
 そう言った社長の声はたいそう呑気なものだった。これでも人気俳優をごろごろと所属させている会社の主なのだろうか。ドンヘは何も言えずに黙った。
「そうやって黙っちゃうのが君の魅力でもあり、腹立たしいところでもある」
「腹立たしいって、そんな」
「地道な身売り営業はどうなった?最近さぼってるようだが」
 痛いところを突かれて、またドンヘは何も言えなくなった。ウニョクを見るためにクラブに通いまくっていたせいで、夜に入れていたレッスンを数本抜くようになったのは確かだからだ。
「でも、オーディションの数は減らしてません」
「なのに仕事は減るばかりだな」
 社長は唄うように言うと、くるりと椅子を回転させて背中を向けた。彼は全面ガラス張りの窓から灰色の空を見つめ、
「雨だねえ」
 と言った。子供みたいに回転いすをぐらぐら揺らしながら空を見つめるその後ろ姿は、あの晩のヒチョルの姿と重なった。
「それでも俺、やめたくないです」
 と一言残してドンヘも背中を向けて歩き出す。それ以外に言えることなんて、もう「夢を諦めます」のほかには残されていない。その二つしか選択肢はないのだ。ならば今の自分なら迷わず前者を取るしかない。

 こんなにも夢を叶えたいと願う気持ちは強いのに、どうして望めば望むほどその夢は遠ざかってしまうのだろう。街中でスカウトされて、「君、モデルになれば」と社長に薦められたときは、本当に嬉しかった。でも、今思えばそれも一瞬の光だ。そう、よろこびなんて一瞬の光。ほんの刹那の幻想だ、とドンへは苦々しく思う。自分はその一瞬のよろこびを力に変えて、あの栄光をたまに思い起こしながらエネルギーを少しずつ切り崩して毎日邁進している。それなのに、なにもかもが遠ざかってゆくばかりなのはなぜだ。
 もし自分がウニョクだったら、とドンへは夢想する。俺もウニョクのように大胆に、顎をつんとあげて自分を表現できたなら。ドンヘはウニョクに対して、一種のコンプレックスのような嫉妬のような、どちらにしても燃え滾る憧憬の念を抱いていた。
 自分もウニョクのように生きてみたい。ウニョクから見る世界はどんな色に映るだろう。
 そこまで思考を膨らませて、ドンヘはすぐにそれを綴じた。雨がそろそろ本降りになってきたからだ。
「やべ、風邪引きたくない」
 ドンヘは小走りで道をかけた。途中で傘を差した女性の肩と盛大にぶつかった。すみません、とドンヘが反射的に言うと、女性はまるで何もなかったかのように走りすぎていった。
 たしかにいるのに、とドンへは心の中で呟く。この灰色の雨が降り注ぐ街の真ん中に、俺は確かに存在するのに。
 ―――いや、存在するのか?ドンヘの胸を一抹の不安が掠めた。
 もしかしたら、周りには自分の存在が見えないのではないか。それとも、今は見えていたにしても、幼いころ観た魔法使いの映画に出てきた幽霊のように、足元からどんどんと消えかかっているのではないか。
 求められても何も感じない、と彼は言った。
 自分の居場所を大声で探し続けても見つからない、いや、もはやその自分自身さえどこに所在しているのかわからないような人間がここに一人存在するというのに、彼は自分が必要だと言われても何も感じないのか。
 なんて悲しいことだろう、とドンへは思った。
 求められるとは、とても幸せで貴いことなのに。彼はその幸福を知らない。そんなウニョクをドンへはいっそう愛しく思った。


「ウニョクさん」
 思い続けて道を彷徨っていると、ウニョクにばったり遭遇した。
 と言うのは嘘で、ウニョク目当てにクラブの裏口にしばらく張り付いていたのだ。このクラブは昼は二階でカフェをやっている。そこでウニョクがアルバイトをしているとユリから聞きだしたので、ウニョクが来る保証はなかったが、一縷の望みにかけて根気よく待っていた。
「また、あんたか」
 ウニョクはごみ袋の上角を乱雑に縛りながら、屈んだまま言った。声は明らかに迷惑そうな色だ。
「雨宿りしようと思って走ってたら、ここに来てました」
「体のいいうそつくなよ。昼間までしつこく付きまといやがって、あんた暇なの」
 ウニョクはごみ袋をドンとドンヘにぶつけた。反動でドンへは雨が降る外に押し出される。ドンヘは笑って一歩踏み出し、また裏口のわずかな屋根の下に入った。
「ひまじゃないです、毎日それなりに仕事もしてるし」
「へえ、その金で俺を買ってくれてるってわけ」
「俺は金で君を買ってるつもりはないってば。俺は金で君との時間を買っ・・・」
「気色悪ぃ」
 ウニョクはドンヘの言葉を遮ると、さっさと店の中に戻ってしまった。一人残された屋根の下で、ふうっとドンへの溜め息が響く。
「さ、バイトでも行くか」

 そろそろ働かないと本当に生活がピンチだ。それでもひと月前よりはずっとましになった方だと思う。ユリの献身的な情報提供により裏口でウニョクの顔を見れると知ってから、以前よりかはクラブには通わなくなったからだ。それでもウニョクの舞台とは比べ物にならないので、週に一度は店に顔を出している。ユリもドンへの経済事情を知ってか、それともヒチョルの言いつけか、少し料金をサービスしてくれるから助かる。
 さきほどウニョクが暇なのかと問うたのにも無理はない。なぜならドンヘは毎日ウニョクを求めては裏口で彼の姿を待ち伏せているからだ。最近はウニョクも気味悪がってあまりごみ捨ての仕事をしてくれなくなった。
 それでも、顔を見たからと言って何をするというわけでもなく、ただドンヘは言い続けた。
 君のダンスが好きだ、と。そのたびに彼は舌を出して威嚇の心をあらわにすると、「しつこいんだよ」と言って睨んできた。それさえも快感と思ってしまう自分はついに狂ってしまったのだろうか、と今真剣に悩んでいる。


「いらっしゃいませ」
アパートの近くにある中華料理屋でバイトをしている。食堂の中に客は2組しかいなかった。突然の雨で職場に残って昼食をとることに変更したサラリーマンが多いのだろう。普段ならこの食堂は昼時には首から社員証を提げたサラリーマンでごった返しているのだ。
 その和気あいあいと食事をする姿、そしてその社員証を見ていつもドンヘは心苦しくなる。
 この人たちの居場所は保証されているのか。それを証明してくれるものもあるのか、と思うと、ドンヘの鼻の奥は悲鳴を上げる。そして途端に田舎でひっそりと暮らす両親に申し訳なくなるのだ。

 きゅっきゅと音を立てて食器を拭く。厨房からちょうど見えるところにあるテレビの声だけが皿とフォークがぶつかる音に混じって店内に響いていた。
「なんだか最近は物騒な事件が多いねえ。ストーカー殺人だってさ。怖いねえ」
 大将の奥さんが怪訝そうな顔でドンヘに同意を求めた。ドンヘはあいまいに頷きながらテレビ画面を見た。テロップで事件の経緯が箇条書きにされていた。ひと月にわたって女性をストーキングをしたのち迷惑電話を繰り返したある男がいた。女性の恋人がその男を、山奥で首を絞めて殺したのだという。ドンヘは手を動かしながら、
「本当怖いですね」
 とできるだけ感情を込めて言った。
 きっと、彼は彼女のことを本当に愛していたんだな、と思う。
 深層心理とか、本能と理性、とか、四角い液晶の中で専門家とみられる中年たちが事件の分析を饒舌な口調で語らっている。殺した男はこれを観てどう思うのだろう。笑うだろうか。恥ずかしいだろうか。
 いや、少なくとも恥ずかしくはないだろう、とドンへは思う。愛する人を愛しぬいた結果がただ彼にとってこのような残忍な殺人事件に至ってしまっただけで、愛し方など人それぞれなのだ。もちろん法を犯し命を奪うのは根本的に良くないことだ。人間の正義に反することだ。
 しかし、どうだろう。自分はどうだろう。俺は、ウニョクのために人を殺せるだろうか。

「あはは、見てあの子供の顔。鼻が真っ赤だよ」
 ニュースは早くも次の話題に切り替わっていた。画面には雪山でそり遊びをする冬恒例の風景が表示されていた。
 その人の人生さえも箱庭のごとく閉じ込めてしまうテレビという媒体は本当に浅薄で恐ろしいものだな、とドンへはぼうっと画面を見つめながら思う。ヒチョルのあのむせ返るように放たれる魅力的なオーラも、一度捉えたら耳から離れない声も、このテレビの中で動けばすべて本物ではなくなるのだ。
 しかしそうして世界中の人が彼の存在を知ることができる。ヒチョルの居場所はテレビの中なのだ。悲しくも、自分はその中には入れない。
 ただの僻みと嫉妬だ、と自分の頬を軽く叩いて気を取り戻した。
「今日はお客さん来そうにないねえ。もう店しめようか」


 奥さんから借りた傘は広げると少し黴臭かった。それでもないよりはましなので少し鼻息を弱くしながらもありがたく傘を差す。
 俺は多分、ウニョクのためでも人は殺せないだろう、とドンヘは濡れた地面を見て思う。
 そして悔しい、と思う。
 誰もいない。誰のためにも命や正義を放り投げることなど自分にはできない。そんな勇気も、そんな愛も持っていない。それが情けなくて悔しい。今はただ、自分のことだけなのだ。
 ウニョクを崇拝し、心から憧れを抱いているのは本当だが、彼を諦めたら一生仕事が保証されると持ちかけられたら真っ先に仕事を選んでしまうだろうと推測する(もっともそんなことあり得るはずもないのだが)。
 現実はそうもうまくいかない。よくできた世の中だ。人には二つの目が存在するのに、その眼はあまりにも近くにあるのだ。ひとりの人間にできることなど少ない。たった一つのことを極めることでさえ難しいのに、ましてや二つのことを叶えようとするだけ時間と労力の無駄だ、とヒチョルは昔言った。本当にその通りだ、と思う。少なくとも今のドンヘにはそれだけの度量がない。

「また来たの」
 俯いて泣きそうになっていると、声をかけられた。ウニョクだった。
「あ、ウニョクさん・・・」
 顔を上げると、喉の奥から熱のかたまりみたいなものが込み上げてきた。言葉に詰まった。ウニョクはそんなドンヘの顔を見てぎょっと目をかっぴらき、
「は!?」
 と醜い生き物を見るかのような目で言った。
「なに泣いての?ありえねぇんだけど」
「ご、ごめんなさい。なんか、ウニョクさんの顔見たら安心しちゃって」
「知らねえよ・・・本当なんなの、あんた」
「なんなんでしょうね」
 ドンヘは笑った。切なかった。どうしてもウニョクの前では言葉がうまく選べなくて困る。いや、ウニョクの前だけじゃないか、と思う。
 だからいつだって自分は誰からも見つめてはもらえないのだ。
「ごめんなさい、帰ります」
 ドンヘがぺこりと頭を下げると、ウニョクは「そうしてくれ」と言って店の中に入っていった。私服だったようだから、これからショーのリハーサルなどを行うのだろう。雨で夕陽の色は皆無だったが、たぶん今はちょうど夕刻だ。家に帰ろうとしたのに気が付いたら店の前まで来ているなんて、本当にどうしてしまったんだ、とドンへは少し羞恥を覚えた。

 しょんぼり一人で店の前に突っ立っていると、また誰かに肩をつつかれた(いや、訂正。ウニョクはドンヘに一切触れてはいない)。
「なァにこんなとこでしょげてんのよ。あらあら雨に濡れてますますいい男に見えるわァ」
 ウニョクとの落差にがっかりした。ドンヘがあからさまに溜め息を着くと、
「失礼しちゃう!」
 とユリは頬を膨らませた。ドンヘは微笑んで「こんばんは」と言った。ユリはその笑顔を見てすぐにドンヘを許した。
「いやねェ、あなたのその笑顔。あともうちょっと背が高かったらなァ。ま、その微笑みは買うわ」
 才能ね、才能。と言ってユリはドンヘの腕に手を絡ませてきた。「ちょっと来なさァい」
「え、ちょっと、なんですか」
「開店前に到着の優等生ゲストにはご褒美よ」
「今日は店行くつもりは・・・」
「いーの。黙ってついてきて」

 ろくに反論もさせてもらえないまま、ドンヘはユリの思いのままに店内につれて行かれた。回転前で準備中の店内は見ちがうほど明るかった。ストリッパーやダンサーたちが舞台上で談笑している。無意識に彼の影を探してしまう。胸がどきっとした。
「オーナー。ほらほら見てェ、この子ねェうちのお得意さん・・・の連れなんだけどォ」
 ユリはそう言って見知らぬ男の前にドンヘを差し出した。まるで恋人扱いだ。
「こ、こんばんは・・・」
「こんばんは」
「彼、モデルさんやってるのよォ」
 ユリは得意げになってドンヘの腕を擦る。ドンヘは冷や汗がわきを流れるのを感じながら、オーナーらしき人物にぺこりと頭を下げた。この状況、なんなんだ。
「へえ、モデル」
「うん、顔いいでしょ」
「まあそうですね、綺麗な顔をしてる」
 男の顔がぐっと近づいて、ドンヘは驚いて目をぱちくりさせた。これがウニョクを連れてきたというオーナーだろうか。それにしてはドンヘとさほど歳の変わらないように見えた。
「あの・・・」
「ユリさんのお得意先の方ですか。準備中の店を知られたからには、ユリさん、そういうつもりで?」
「もちろん。この子、きっと才能発揮するわ」
「ユリさんが言うなら間違えない。わかった、採用します」
 男はそういって手を差し出してきた。ユリが「ほら握手握手」と小声で言ってくる。訳が分からない。才能?採用?どういうことだ。
「うちでは契約書というものは一切書きません。ただし、俺と握手を交わしたもののみ、ここの入店を許可される。いや、正しくはここで金を稼ぐことができる」
「懐かしいわァ。私もしたな、この契りの握手」
 ユリは浮足立った顔で言う。楽しそうだ。ドンヘの頭に昇る「?」マークを読み取ったのだろう、男がユリに「もしかして」とせっついた。
「言ってなかったんですか」
「あ、ごめんごめん。あなたをうちのウェイターに任命するってことォ」
「へ?ウェイター?」
「ユリさん。何も言っていなかったならそう言ってください」
「ごめんってェ」
 濁流のようにめまぐるしく展開された数分の会話のペースに、ドンヘの脳みそは無論追いつけるはずもなかった。
 自分が、この店のウェイターに?真っ先にウニョクの顔が浮かぶ。本当に、ここで働けるのか。
「いいんですか」
 ドンヘのつぶやきに、言い合っていた二人の視線が傾く。
「本当に、ここで働かせてもらえるんですか」
 ドンヘの声が微かに震えているのを察知してくれたのか、男は優しくドンへの肩を抱いた。そのぬくもりに包容力ともなんとも言えない重圧をドンへは感じずにはいられなかった。
「もちろんです。ようこそ、当店へ」
 しかしその男の微笑みはドンヘの心を綻ばせるには十分なほどに優しかった。男は見るからに高そうなスーツの内ポケットから名刺を一枚取り出し、ドンヘに渡した。『ミラーボールシティ二代目オーナー、チェ・シウォン』と書かれている。そうか、だから年も若くユリに敬語を使っていたのか、と納得した。
「今日から働けるなら、さっそく・・・」
「シウォナ、」
 シウォンの声が遮られ、三人いっせいにその発信源の方を向いた。とてつもない暗黒のオーラを放ってウニョクがこちらを見ていた。
「どういうことだよ」
 ドンヘは心臓が高鳴るのを感じた。
 しかしそれはいつもの胸のときめきではなく、あまりの苛立ちと怒りで震える視線を寄越してくるウニョクに対しての怯えの高鳴りだと、確信した。

押せないシャッター

「ふざけんなよ!」
 ウニョクの罵声と何かがテーブルに衝突すぐ激しい音とが店内の騒然を一瞬で鎮めた。話し声と戯れていた準備中の従業員たちがいっせいにこちらを向く。ユリもこの声にはさすがに驚かされたのか、びくりと震えると小動物のように小さくなってしまった。
「なんでそんなことすんの!信じらんない」
「ウニョク、うるさい。静かにしてくれ」
「こいつ、俺のファンだよ!?」
 ウニョクは懇願するようにシウォンに訴えた。『こいつ』と指差した先にはドンへがぼうっと突っ立っている。その泣きそうな目を見てドンヘの心は揺れた。ウニョクに拒絶された悲しみではなく、そのわずかなウニョクの自分に対する感情の変化が、ドンヘの心を高ぶらせたのだ。
 ウニョクの中で自分の存在は確実に膨らんでいる、と思った。それがさらにここで働きたい気持ちを強くした。
 当事者のくせに口は一文字に結んだまま、ここは二人の動向を見守る。
「早く追い出して・・・シウォナ、お願い」
 そのとき、初めて見るウニョクの姿にドンヘの心は再び揺さぶられた。
 ウニョクの声には切実な思いのほかに、何か甘いものが含まれた気がしてならなかったからだ。電波障害のテレビのように胸の内が荒くざわつく。
「ウニョク、いい加減にしないか。みんなが心配するだろう」
 なだめるようにシウォンはウニョクの肩に触れようとした。寸でのところでウニョクがシウォンの手を振り払う。店にいた者全員が二人の動きを見張っていた。そんな緊張を張り巡らせた張本人である自分も、まるで第三者のように現場を見ていることしかできなかった。
「・・・お前は俺のことなんかちっとも心配してないくせに」
 ウニョクはそう言ったっきりすたすたと客間から出て行ってしまった。
 数秒のあいだ皆がウニョクの背中をじっと息を呑んで見ていた。それからすぐにシウォンが振り返り、何事もなかったかのような貼り付けた笑顔で一礼した。
「うるさくしてすみませんでした。あと一時間で開店です。今夜も最高のパフォーマンスを」
 言うとシウォンはもう一度胡散臭いほどの美しい笑顔を残し、ウニョクが出て行った場所と同じ方向に消えた。
 ドンヘも我に返ってすぐにそのあとに続いた。


「ウニョク、」
 シウォンは穏やかな声でウニョクに声をかけた。
 ウニョクは厨房の裏にあるパフォーマー専用の楽屋に戻っていたらしい。客間以外に足を踏み入れるのは初めてだったし、二人の重苦しい雰囲気に負けて、ドンヘにその少し開いたドアノブを押すほどの勇気は出せなかった。ドンヘは固唾を呑んで耳を澄ませ、小さな隙間から二人の様子を覗いていた。
「ウニョク、聞いてくれ」
 シウォンがもう一度同じように穏やかに声をかける。そしていっこうに顔を向けようとしないウニョクを背中から抱き寄せた。ウニョクがものすごく小さく見える。
「なんで、あいつを採用したの」
「ユリさんが絶対に後悔しないと言ったから」
「俺はいやだ。それにユリだっけ、あいつはきらいだ」
 ウニョクの顔が鏡に映って少しだけ見えた。顔を赤くして俯き、唇をわずかに尖らせたその顔は、まるで駄々をこねる幼稚園児のようだった。本当にいろんな顔を持っているんだな、とドンへはこんな状況にいても呑気にそんなことを考えてしまう。
「あの男、俺のストーカーなんだよ。毎日毎日会いにくる。だいたい、あいつなんかになにができるの?ウェイターなんて、人手は今で十分足りてるだろ」
 ウニョクはせっつくように言った。声が少しだけ震えていた。シウォンは表情を一ミリも変えずにただウニョクを抱きしめたままでいる。
「いくらなんでも急すぎる。何で俺にひとことも言ってくれなかったの?もしかして、あの女に脅されてるの?それともやっぱりあのストーカーに?なんで俺になんの相談もなしに・・・」
「ちがうよ」
 シウォンはようやく口を開くと、ウニョクの口をそっと封じた。唇に優しく当てられた手の先はとても滑らかで陶器のようだ。
「そんなふうに言っちゃあいけない。ストーカーだなんて、ドンヘさんに失礼だ。彼は心から君を尊敬してくれているんじゃないのか。客席にいる彼の瞳を見る限り、俺はそんなふうに感じたけど?」
 シウォンの言葉にドンヘは驚いた。まさか、以前客席で発見されていたなんて。恥ずかしさと熱が込み上げ、ドンヘはその場でうつむいた。
 火照りも冷めたところでもう一度顔を上げると、部屋の雰囲気が先ほど見ていたときとは一変していることに気が付いた。
「シウォン、やっぱり俺やだよ。なんか、怖いし。な?」
「それはわがままって言うんだ」
「なんなんだよ・・・もしかしてシウォン、あの男みたいなのがタイプなの?」
「そんなんじゃないよ。なあウニョク、これ以上俺を困らせないでくれ」
 いつの間にか二人は向き合っていた。そして相変わらず抱きしめ合っている。ねだるようなその顔をじっと見つめると、シウォンより少し身長の低いウニョクが、シウォンの顎に額をくっつけながら「もう」と、困ったように言った。
「俺はいつも君のことを一番に考えてる」
「知ってる」
「君が大切なんだ」
「それも、知ってる」
 シウォンは言い聞かせるように言った。ウニョクの頬が桃色に染まっている。
「だから、君を悲しくさせるようなことは絶対にしない。そう誓ったうえでの決断だよ。俺を信じてくれ、ウニョク」
 ウニョクがゆっくりと頷いた。
「許してくれる?」
 シウォンが訊くと、ウニョクは呆れたように笑った。ドンヘはなんだかいけないものを見てしまったような気がして一瞬目を逸らした。ウニョクの笑顔は、当然今までに一度も見たことのない部類の表情だったからだ。
「ヒョクチェ」
 シウォンの声が甘く囁く。ウニョクはくすぐったそうに耳をシウォンの口から遠ざけると、肩を竦めてはにかんだ。とてもかわいらしい表情だった。見知らぬ者の名前が連呼されている。ヒョクチェ、ヒョクチェ。そのたびにウニョクは嬉しいのだかいやがっているのだかわからない素振りでシウォンの胸に拳を当てた。シウォンはウニョクの腰に手を回し、そっと身体を抱き寄せる。
「あ、シウォナ・・・」
 熱っぽいウニョクの声に合わせて、シウォンはウニョクを化粧台の上にひょいと持ち上げて座らせた。ウニョクは背中が鏡に沿うくらい深くまで腰を掛けると、シウォンの唇をものすごい勢いで貪った。
 ほんの一瞬の出来事だった。

 それからの光景は目を見張るものだった。
 ドンヘは瞬きひとつせずその様子を見ていた。いや、瞬きをしていたとしてもそれさえも呑み込むほど自然な、本当に自然なセックスだった。男同士、だなんて微塵も疑わなかった。二人の身体は軟体動物のようにうまく絡み合い、まるでそれが生命の従来の行いであるかのように、平然とセックスをしていた。
 しかしそこから漏れる声と二人の迸る熱情は、官能を髄まで染み渡らせるような烈しいものだった。行為を見ている最中、ふとウニョクのステージ上でのあの妖艶な眼つきを見た気がした。すき間すき間にちらついた。ウニョクのあの美の源は、ここから育まれるのか、とドンへは思った。
 本当に美しいセックスだった。


 その日、結局研修も兼ねてそのまま夜働くことになった。ウェイターの仕事は大学時代に一度経験があったので(そこは健全とした“昼間”のカフェだったけれど)、なんとか仕事はスムーズに終えることができた。最初はどうなることかと不安ばかりだったが、やってみると以前やっていたカフェのバイトとさほど変わりがないことが分かった。違うのは客のエネルギーとテンションだけだ。
「どう?初仕事は」
 突然背後から声をかけられ、ドンヘは飛び上がってしまった。
「シウォンさん!」
「驚かしちゃったね」
 ごめんごめん、と言いながらシウォンは笑った。
「今日はもうあがっていいよ。あとは他のに任せるから。また明日店に来てもらえるかな。詳しいシフトとかまだ決めてないから」
 はい、と言ってから、予期せずさっきの光景を思い出してドンヘはシウォンから目を逸らした。シウォンはそれに気づくわけでもなく、
「それじゃ、お疲れさま」
 と言って店の喧騒の中に紛れ込んで行った。すぐに常連らしき中年女性に声をかけられ、営業スマイルで「いつもありがとうございます」と言った。
 ふう、思わずまたやらかしてしまうところだった。
 ドンヘは危機一髪で最悪の事態を免れたことに胸を撫で下ろし、先ほど案内された控室に向かった。

 向ってる途中、楽屋を通り過ぎる。また思い出して、赤面する。立ち止まったら蘇ってくるだけなのに、立ち止まってしまう。
 だめだ、しばらく忘れられそうにないな、となんとなく諦めてその場にじっと立っていると、「おい」という声がした。背後にどす黒いオーラを感じる。ぎこちなくうしろを振り向くと、案の定ウニョクが仁王立ちしていた。しかし思っていたより顔は強張っていなかった。それでも少なからず、威嚇はしている。
「もう帰んの」
 ぶっきらぼうに聞いてくる。突然話しかけられてどうしていいか分からず口をぱくぱくさせていると、
「めんどくせえやつ。もういい」
 と言ってウニョクは背中を向けてしまった。そしてすたすたと廊下を歩き出す。
「待って。待ってよ、ウニョクさん」
「なに。これ以上何がしたいわけ。付きまとって、同じところで働いて、これ以上何が欲しいの?俺はゲイじゃねえし。言っとっけど金なら一文もねえから」
「いらない」
 ウニョクの手首を思い切り掴んだ。半月前に掴んだウニョクの手首よりも、あたたかい。ウニョクは機嫌悪そうに小さく舌打ちをすると、その場で立ち止まった。
「見返りなんていらない。ただ、君のそばで君を見ていられたら、俺はそれだけで本当に幸せだ」
 ドンヘは微笑んだ。心からの言葉だった。胸の底がほかほかとあたたかい。
 けれどウニョクにはちっとも伝わらなかったみたいで、彼は手首をドンへに預けたまま、吐き出すように言った。
「あんた、見てたでしょ」
「・・・え?」
 なんのことを言われているのかはすぐに分かった。ドンヘは驚いてウニョクの手首を離した。ウニョクは首をコキコキと鳴らしながら「やっぱり」と言った。
「人の楽屋勝手に覗いてんじゃねえよ」
「あ、ごめん。いや、でも、開いてたから・・・」
「うるせえなあ」
 ウニョクは再び早足で歩きだした。この状況でうるさいとはさすがに理不尽じゃないか、とドンへは思う。ウニョクは例の楽屋に入った。ドンヘもついていく。部屋には誰もいない。
「本当にごめん。いけないことしてるっていうのは分かってたんだけど・・・」
「あんたまじで悪趣味」
「だから悪かったよ。ねえ、ウニョクさんとオーナーは付き合ってるの」
「だったらなに?」
「ううん、そうならすごくお似合いだなって」
 ドンヘがさらりと言うと、ウニョクは動きを止め、ドンヘの方をじっと見た。突然鋭い瞳に見つめられて息が止まる。「なに?」とドンヘが訊くとウニョクは盛大な溜め息をついて白いソファに深く座った。
「お気楽なやつ。ファンがそんなんでいいのかよ」
「え、いいよ、だって、愛し合ってるんでしょ?」
「ちがう。そんなんじゃない」
 即答されて返答に困った。なにかフォローの言葉を、と言葉を探して視線を彷徨わせていると、ウニョクの表情に若干の違和感を覚えた。
 ウニョクは遠くを見つめている。まるで床の裏に深海魚でも泳いでいるのかと思った。ドンヘは「そうなの」と訊いた。知りたくなった。その視線の先になにを描いているのかを。誰を探しているのかを。しかし、すぐにその願いは打ち砕かれた。
「あんま潜入すんな」
 ウニョクの声がドンヘを突っぱねる。やはりウニョクの心臓の周りは強靭な漆で塗り固められているようだ。
「あ、ごめん・・・」
「あんたには関係ない。出てけよ」
 ウニョクは顎で扉を指した。出てけ、の合図だ。こっちがこんなに謝っているのに、まるで聞いちゃいない。
 いっさい人権を無視されて、ドンヘもさすがにぴきりと来た。ドンヘはむきになって言った。
「関係ないってなんだよ。さっきからこっちはなんの被害もこうむってないみたいに言うけどさ」
 だんだん声のボリュームが上がってくるのを感じつつ、ドンヘはウニョクにぐいと近づいた。ウニョクもドンへの言葉を受けてソファから勢いよく立ちあがる。
「被害?はあ?なんだそれ」
「俺だって立派な被害者だよ!あんな男同士のセックス見せられてさあ!」
「んだと!?」
「おかげでこっちは勃起したんだぞ!!」
 毛穴から水蒸気が噴射するんじゃないかと思うほど皮膚の裏側まで煮えたぎっていた。ウニョクとドンヘのあいだにしばらくの沈黙が落ちる。
「だから・・・」
 と居心地が悪くなって言葉を濁していると、ドンヘの顔面にウニョクの唾が盛大に降りかかった。
 ウニョクは噴き出して腹を抱えて笑っている。
「まじで!!」
 ウニョクは大声で叫んだ。おかしくてしかたない、といった表情で。
「まっ、まじだよ!!!」
 ドンヘも大声で叫んだ。どうしていいかわからない、と言った表情で。
「勃起したよ!さっきオーナーの顔見てちょっと思い出しただけでまたしそうになった!」
 涙を滲ませて大笑いするウニョクを後目にドンヘはこの上なく恥ずかしさが込み上げるのを感じつつ、むしろ真剣な顔で言った。
 ウニョクはひーひー言っている。
「やばいね、あんた。変態なの」
「ちっ、ちがう。そんなんじゃない」
「あー、おもしれえ」
「あんな声聞いてあんな光景見たら誰だって勃起するよ・・・」
 なんだかウニョクの爆笑顔を目の前にしていると自信が薄れてきて途端に自分がとんだ変態に思えてきた。ウニョクはまだひくひく肩で笑いながら「へんなやつ」と言った。
「あのさ、ウニョクさん。あと・・・」
「なに」
「ひょ、ひょくちぇって、誰?」
 真面目な顔をして聞いたら、また盛大に噴き出された。本日二度目の顔面唾噴射攻撃を見舞われる。
 何が面白いのかわからないドンヘはひたすら真顔でその姿に赤面するしかない。ウニョクはまた大きな口を開いて手を叩いて猿みたいに笑うのだ。
「あー!おもしれえ!まじでヘンだよ、あんた」
「フツーだよ!それにあんたじゃない、ドンヘだよ」
「ドンヘ?ドンヘ。ドンヘはおもしれえなあ」
 案外さらりと名前を呼ばれて、肩透かしを食らった気分になる。憧れの人に初めて名前を呼んでもらうという貴重な瞬間が、ものすごく呆気なく訪れた。もっとときめくと思ってたのに流しやがってこの野郎、と少し腹が立った。
「ヒョクチェは俺の本名。ウニョクは俺の源氏名」
「なるほど」
 簡単に納得するドンヘにまたウニョクは小さく笑った。
 また一枚。いや、大爆笑の顔を含めて今ので二枚。新しいウニョクを知る。
「ヒョクチェ、かあ。イ・ヒョクチェ?ウニョクの名前の由来って・・・」
 言いかけたところでウニョクはドンヘの脇をすり抜けた。野生動物のような素早さに目をくらまされていると、ポンと後頭部を叩かれる。
「今日はおしまい。どうせ明日も来るんだろ」
 ドンヘがこくりと頷くと、ウニョクははなはだ迷惑そうに眉をしかめたあと「じゃあまた」と言って走り去っていった。
 本当に何を考えているのかわからない人だ、とドンへは思った。
 さっきまで大爆笑していたのに、すぐに平生の様に戻って何食わぬ顔で去ってしまった。さっきまでうるさいだとか気色悪いだとか嫌いだとか言っていたのに、最後あの迷惑そうな顔を見てもあの嫌悪感は感じられなかった。むしろ好意的な印象を持った。多分、思い過ごしだとは思うけれど。

 楽屋に一人残されたドンへは、化粧台の淵をそっと手でなぞった。なめらかでやわらかい。真っ白な丸い角はいつまでも続いていきそうだ。このうえに、ウニョクは乗っかって、シウォンに愛でられていた。そう思うと、三度ドンヘの中心は硬くなってくる。いけないいけない、と我に返り、ドンヘは背を向けた。
 本当は、もっとずっと悲しかったし、失望していた。ウニョクに。他でもない、ウニョクに。
 この気持ちの正体が一体なんなのかをドンヘは知らない。けれど、心にぽっかりと空いた喪失の中を覗きこめば、今でも簡単にあの楽屋での情事が映し出されるだろう。悲しい。失望。それ以外の言葉が見つからない。ただそれだけは事実として深く心に残った。


 その晩、当たり前のようにあの光景にうなされた。さあ寝ようと目を綴じると、ウニョクの仰け反った首筋が脳裏をよぎる。美しい曲線。触れてみたい、と思う。
 そしてドンへは悟った。
 シウォンの腕の中で、ステージでのウニョクが度々ちらついたのにもかかわらず、ウニョクをステージの下から見上げているときに感じる思いとは全く別物の感情が生まれている、ということを。

 ショーを初めて見た晩、ドンヘは彼の舞台をもっと見たい、と思った。そして彼のことが知りたい、と思った。
 しかし今ドンヘは、彼のあのセックスをもっと見たいとは思わないし、彼とシウォンの関係を知りたいとも思わない。できれば、一生知りたくない。
 知ってしまったら、自分が壊れてしまう気がした。自分の本能の根底の部分、そのあたりで、察知した。その反応が何からくるものなのかはいまだに分からないが、ただ身体に滾るのは肉欲の熱だけで、頭ではあのセックスを完全に拒絶している。そのことがドンヘに確信を持たせた。

 社会に自分の居場所はない。仕事も金も、なにもない。
 ドンヘはぼうっと思い出す。昔好きだったアメリカのバンドの曲で、こんな歌詞があった。

『僕は生きていけない。君がいても、いなくても。』

 そうだ、俺は生きていけない。君がいても、どうせ生きていけない。だから君が欲しい。
 そう強く思った。

 夜明けは近づいている。あの笑い声が鼓膜にこびりついている。
 会いたい、と思う。ウニョク。いや、ヒョクチェ。
 会いたい。

 赤い髪をした愛しい堕天使がドンヘの瞼の裏で大きな口を開けていつまでも楽しそうに笑っている。これから始まるウニョクとの生活を思い描きながら、ドンへはこの宵眠りについた。

愛しのマリリン


 それからの毎日は怒涛だった。まさに激流の川の氾濫のような日々が続いた。
 スーパーのレジのバイトを辞め、中華料理屋のバイトも今までの半分に減らした。ドンヘはほとんど毎日クラブでウェイターとして働き、夜型の生活にシフトしていった。
 気が付いたら一か月の月日が過ぎ、新しい年を迎え、それも落ち着き始める時期に差し掛かっている。ドンヘは持ち前の勤勉さと気弱さで仕事は一度も休まなかった。夕方五時から閉店の深夜一時までの超重労働だ。
 そんな中でも文句ひとつ言わずに一か月間も続けられたのはやはり彼の存在が大きい。
「おい、ドンヘ!!」
 楽屋の方からドンへの名を呼ぶ声がする。ウニョクはすっかりドンヘをマネージャーのようにこき使っている。
「はいはい、なに」
 それでもかまってもらえるのは嬉しいから、ドンヘは忠犬のようにウニョクの声に引かれてしまう。
 ウニョクは背中を向け、「ファスナー」と言った。
「俺、この衣装、好きだな」
 ドンヘは言いながら後ろのジッパーを上げてやる。乳白色のシースルーで、身体のラインにぴったりと添うような作りになっているセクシーな衣装だ。端整に鍛え上げられた肉体を包む薄い膜のような生地がいやらしくてドンヘはとても好きだ。好きな衣装を挙げろと言われたらベスト3にはランクインするだろう(とドンヘはなぜか自慢げになる)。
「エロい目で見んな」
 身体を翻すと同時にウニョクに額を叩かれ、思わず頬が緩む。そんなドンヘを見てウニョクは心底嫌そうに「まじ気持ち悪い」と声を上げた。
 それでも嬉しい。だってこうしてウニョクに直々に指名され、肌には触れられなくとも声を交わすようになった。名前を呼んでもらえるようになった。たしかな進歩である。
「ねえねえ、ウニョク。この衣装ってことは、今夜はモンロー?」
「知ってんだったらいちいち聞くなよ」
「モンロー、俺一番好きだよ。化粧すると本当にきれいだなあ」
 ドンヘは世の女性に対しては一度も思ったことのないことを言った。
 正直、街中を歩く女性たちのあの化粧はやりすぎだと思う。まるで仮面の上に絵具を塗っているみたいだ、とドンへは常々思っている。でも、ウニョクのマリリン・モンローとなると話は別だ。唇の下にほくろをつけ、つけまつげを重ねて、唇は血よりも鮮やかな赤で染める。マッドなウニョクの肌理やかな肌は雪のように白く、その日ばかりはウニョクの赤髪も肌と同じ色のウェーブがかったブロンドに変わる。
「化粧すると?それどういう意味だよ」
「ううん、しなくてもきれいだけどさ」
 ドンヘが慌ててて言い加えるとウニョクは満足したのか不満なのかわからない様子で「ふん」と鼻で答えた。ドンヘは微笑みながら化粧を施されているウニョクの顔を鏡越しにじっと見つめる。幸せだ、と思う。
 あの次の日、ウニョクの逆鱗に触れないように慎重に質問を繰り返した。年齢は同い年で、彼の本名はイ・ヒョクチェと言った。でも、たったそれだけ。歳と本名と源氏名。その三つの情報だけを教えてくれた。でも、ドンヘはもうどうだってよかった。手を伸ばせばいつだって触れられる距離にウニョクがいる。それだけで天にも昇る気持ちだった。つい三か月前はこんな風に近くで彼を拝めるなんて思ってもみなかったのだ。
 神様は俺に味方している。
 そのことをウニョクに言うと、
「お前は本当に楽観的だな。能天気すぎるだろ」
 と返された。ドンヘは「どうして」と訊いた。
「モデルの仕事は?昼間とかなにしてんだよ」
「ちょくちょく入ってる。相変わらずすかすかだけど。でも営業も続けてるよ」
「どうせエロビデオの顔素材だろ」
「エロビデオって・・・。AV男優だってちゃんとした仕事だよ。選んでくれるだけありがたい」
 ウニョクはつまらなそうにまた鼻で「ふん」と言った。
 何度も重ねて言うようだが、ドンヘは本当に仕事には恵まれていなかった。いや、恵まれていなかったと言えば失礼になるが、入っているのはウニョクの言う通りアダルトビデオの顔モデル(身体と顔を別々に撮る手法のものに出演する)と、ドラマのエキストラなどの仕事のみだ。エキストラと言っても顔さえも映らない。これでは顔だけはいいと言われてきたモデルとしてのプライドも何もない。しかし、ドンヘにはどうすることもできない。今ではウェイターとしての給料の方がずっとモデル業よりも高い。
「ドンヘは人が善すぎるんじゃねえの。いつか詐欺被害に遭いそう」
 ウニョクは笑いながら言った。心配してくれてるのかな、と思い、ドンヘは「ありがと」と返した。ウニョクはまた眉を下げてククッと笑う。
「なんでそこでありがとうなわけ。褒めてねえし」
「え、だって、嬉しかったから」
「はあ?馬鹿じゃねえの」
 マリリン・モンローに扮したウニョクが笑うと、自分しか知らないウニョクの一面を作り出したようで、なんだか得意げな気分になった。
「あーあ、お前といると気が抜けるわ。んじゃ行ってくる」
 時計を見て、ウニョクは立ち上がった。網タイツに包まれた細い脚が黒のレザーのフレアスカートから伸びている。ウニョクがスカートを着ても女装っぽくない。そればかりか男性だって常套的にスカートを履くものなのだと錯覚させるほど自然に着こなしてしまうのがウニョクだ。
 彼は本当に魅力的な人だ、とドンへは思う。
 衣装も、曲も、客も、ウニョクが合わせるのではなく、ウニョクにそれらが合わせざるを得なくなる。けれどウニョクは媚びたりなんかしていない。見ているこちらがウニョクに媚びたくなるのだ。そんな甘く辛辣な視線。あの眼はドンヘが知っているモデルの中でも出せる人はいない。そんな彼を近くで応援することができて、たとえ嫌われているとしても話しかけてもらえるようになって、本当に幸せだ。

 ドンヘはウニョクの後に続いてカウンターに出た。今頃ウニョクは舞台裏でステージの準備中だろう。
 カウンターからまだ閉まったままの幕を見つめる。
 ウニョク。君をここから見つめられる日が来るなんて、思ってもみなかった。
 心の中でウニョクに向かって呟いた。


 幕が開いた。と同時にスポットライトがウニョクに降り注ぐ。ウニョクの切れ長な一重まぶたが客を捕える。客の視線が一気に彼に集中する。マリリン・モンローの『I wanna be loved by you』のイントロが流れ出した。
 ウニョクの着ているワンピースの胸の部分は小振りに膨らんでいる。そういう衣装をさらりと着こなしてしまうのもまた、ウニョクのすごいところだ。羞恥も躊躇いも一切見せない。それはきっとウニョクの長年の慣れとショーの積み重ねがなし得る技、というより精神だ。ドンヘは恍惚として舞台を見つめた。きれいだ、ウニョク。マリリン・モンローなんかより、ずっとずっとセクシーだ。ドンヘはグラスを拭いていた手を止め、その他の観客と同じようにショーに見入った。

 『あなたに愛されたい。あなたなの。他の誰でもなくあなただけに。』

 ウニョクのぽってりと膨らんだ赤い唇が歌う。小さくウィンクをした。心臓に小さな矢が刺さるような感覚を覚えた。
 激しくて鮮烈なステージから、こんな可愛らしくて女性的なステージまで熟してしまう。ドンヘはうっとりして何も手を動かすことができなくなっていた。
 すると、そんなドンヘの視界に、ふと二、三の黒い影が横切った。どこかに向かって叫んでいるようだ。荒々しい声の持ち主だな、と思った。

 『あなたにキスされたい。あなたなの。』

 そうウニョクが足を宙に伸ばしたその時だった。
 先ほどドンヘの前を歩いて行った男たちが、ウニョクの立っているステージの中央で何か騒いでいるのに気が付いた。周りの客たちは騒ぎを察知してそこから離れたらしく、男たちがステージの下に取り残されているような状態になっていた。堀のようにぽっかりと周囲が開いている。それなのにまるでウニョクにだけはあの男たちの存在が見えないのではと思うほど、彼は表情を一ミリも変えずにいる。振る舞いも顔もマリリン・モンローのままだ。
 男たちの輪郭のない野太い声は、やがてドンヘのいるカウンターの方まで聞こえてきた。
「マリリン!俺のマリリン!」
 ドンヘはグラスと布巾を置いた。そして何も考えずにカウンターを飛び出し、ステージの方に駆けた。ウニョクは小さく膨らませた胸を張って堂々とパフォーマンスを続けている。
「ちょっと、ちょっとどいて!」
 人ごみをかき分け、ドンヘはやっと男たちの近くにやってきた。
 男は三人いた。色レンズのサングラスをした一人の肥った男がステージに乗り上げるような形でウニョクに手を伸ばしている。あとの二人はその様子を見てゲラゲラ笑い、動画を撮影しているようだ。
「マリリン!好きだ、好きだ・・・!ずっとずっと見てたんだよ」
「おーおー、行け先輩」
「ぎゃははは」
 どんどん周りの客が後ずさりするように散っていくなか、ドンヘは人の波に揉まれて身動きが取れなかった。ステージの方に行きたいのにそれが逆流という形になってしまう。
 「なんなのあの人たち」「怖いね」「どうなってんの」などの囁きが口々に聞こえた。
 ドンヘの額から汗が噴き出した。
「マリリン、愛してるよっ―――!!」
 男はついにステージによじ登ってウニョクに襲いかかろうとした。
 ドンヘは渾身の力で人の波を振り払い、ステージに飛び乗った。
「ウニョク!」
「ドンヘ!」
 ウニョクが叫んだ。
 さっきまで毅然とした表情で踊っていた男と同じ人物だとは思えないほどウニョクの顔は青ざめ、口から「怖い」と声をこぼした。かつらの脇からはドンヘの何倍もの汗が滴り落ちていた。
 きっと、本当はずっと怖かったんだ。
 ドンヘはたまらない気持ちになった。ドンヘは男の頬を拳で思い切り殴った。できるだけ、ウニョクから離れた距離に飛んでいくように。
「あ、ドンヘ・・・」
 相当酔っ払っていたのだろう、すぐに男は足を絡ませよろけながら倒れた。ステージに突っ伏して呻く男をウニョクは震える目で見る。客席からは「おーいいぞいいぞ」「喧嘩か?」という好奇の声が飛んできた。
 ドンヘはウニョクの手を取り、「大丈夫」と言った。人を殴るのなんて人生で初めてだったドンヘはいったい何が大丈夫なんだか自分でもさっぱりわからなかったが、とりあえずウニョクを安心させなければ、という脳が働いた。
 ウニョクを取っていた手と反対の手を誰かに掴まれる。あの肥った男の後輩たちだ。
「なにしてくれてんだよ!」
 殴られる、と思い、ぐっと強く目を瞑った。顔全体に激しい痛みと衝撃が走る。一瞬のあいだ意識が飛んだ。それなのに脳髄に響いた音は鈍かった。
「ドンヘ!!」
 ウニョクは悲鳴にも似た声を上げてステージの端に突き飛ばされたドンヘに駆け寄った。近づいた瞳には溢れんばかりの涙がたまっている。
「どうしよう、血が・・・」
「いいから早く行こう」
 ドンヘは立ち上がり、再びウニョクの手を取った。よろけそうになる足を必死に立たせてウニョクを連れ去った。後ろから「待て!」という声がした。
 ドンヘは無我夢中で走った。息をするのも忘れた。殴られた頬以上に、心臓が軋むほどに痛かった。


「はあっ、はあっ・・・」
 死にもの狂いで走っていたら、店の外まで来ていた。ウニョクはいつ落として来たのか、かつらは取れ、髪は赤に戻っていた。ドンヘも髪全体が竜巻に巻き込まれたあとみたいに悲惨なことになっている。
 二人は膝に両手をつき、ひとしきり酸素を吸いまくった。ぜえはあ息をする音がひと気のない真っ暗な道路に轟いた。
「つ、つかれた・・・」
「俺も・・・死ぬかと思った」
 二人は声をそろえて息を整えた。やっと声が出せるようになって、肺も落ち着いて、心臓の痛みが消えかかったと同時に、今度は顔面の痛みがものすごい勢いで襲いかかってきた。ドンヘは顔をしかめる。その様子を見てウニョクが、「やべえ。ドンヘ、血が」と言った。
「ああ、血なら平気。制服汚れちゃったけど」
 心配をかけまいとドンヘはなるべく気丈に言ってみたが、唇を伸ばすだけでとてつもない痛みが頬を走る。
 つい「いてっ」と声を漏らしてしまった。
「ほら、痛いんだろ!?制服なんてどうでもいいから、早く手当しないと・・・」
「とりあえず口、ゆすぎたい」
「店戻ろうよ」
「いやだ」
 ドンヘはウニョクの肩を掴んだ。ウニョクの喉仏が上下する。安心させるようにドンヘはウニョクに微笑みかけた。
「せっかく二人きりになれた」
 ウニョクは泣きそうな顔をした。ドンヘは微笑んだのに、ウニョクはちっとも笑わなかった。
 「こんな状況でお前はよくそんなお気楽発言が」と罵声をくれたらよかった。「笑うな!」と怒ってくれればよかった。ただ黙って見つめてくるから、ドンヘも調子が狂って笑うのも途中でやめた。

 近くの公園の水道で口をゆすいだ。透明な水がドンへの口を通り抜けて濁った赤い水に変わる。鉄の味が鼻に通る。唇を歪めつつ、ドンヘは懸命に血を流した。
 その様子をウニョクは黙ってじっと見ていた。


「あ、ウニョク」
 ドンヘは慌ててウニョクの肩に顔を近づける。シースルーの布が破れ、その奥のウニョクの本物の小さなほくろの隣にも、出血の痕があったのだ。公園のベンチに座って外套に照らされ始めて気が付いた。スパンコールがウニョクの白い肌にめり込んでいる。肩は他の部位に比べて出血量が多い。今スパンコールをはずしたら止血には時間がかかる。
「ああ、平気」
 そう言ってウニョクは何食わぬ顔でスパンコールを抜いた。血が溢れた。
「あっ!血が!」
 ドンヘは急いで自分のシャツで傷口を覆った。ウニョクは「いいってば」と言って腕を払おうとする。ドンヘはシャツを当てる。払われる。その繰り返しをしばらくした後、ウニョクが諦めておとなしくなった。
「肩は止血に時間がかかるよ」
「・・・お前それでここにいる時間を長引かせようってそういう魂胆だろ」
「うん、ばれた?」
 ドンヘが悪戯に笑うとウニョクは気の抜けた表情で溜め息をついた。
「馬鹿じゃねえの」
 ウニョクは言った。声が少し震えているのに、ドンヘはもちろん気が付いていた。
「馬鹿だろ。なんで殴られてんだよ。走ってんだよ。助けてんだよ」
 ウニョクは俯きながら唇を噛んだ。赤い口紅ももうすっかり薄くなって、公園が背景ではほくろなんてセクシーどころか虫みたいだな、とドンへは思った。
 気が付いたら、ステージまで来ていた。気が付いたら、拳で殴っていた。気が付いたら、走り出していた。
 あんな腕っ節の強そうながたいのいい男に殴りかかったなんて、今思うとぞっとする。何の躊躇いもなしに男を殴った自分が信じられない。冷静に考えれば、喧嘩という喧嘩を一度もせずにぬくぬくとした横社会で生きてきた自分が勝てるはずなんかないのに。
 けれど、あのときのドンヘにはウニョクを守らなければ、ということしか頭になかった。人が誰かを真剣に守りたいと思った時の威力は計り知れないな、とドンへは思わず感心した。
 ウニョクは俯いたまま、ちらりとドンヘを一瞥する。ドンヘがにこりと笑いかけると「俺が悪いんだ」と口を開いた。
「あいつ、俺が騙した男。ゲイだって嘘ついて1回寝た。やったつっても挿れてはねえけど。で、1回しかやんないっつったのに、もうすっげえしつこくてさ。貢物とか半端ないし。うざくなったから、吸えるだけ金吸い取りまくって、捨てたの。彼女出来たから、ってまた嘘言って」
 ウニョクは両手をグーにまとめ、乾いた声で白状した。それならあの狂気じみた求愛も納得だ。ウニョクを抱けるなんていいなあ、とドンへは思い、すぐに何考えてるんだ、と恥ずかしくなりその思案をかき消した。
「いくら?」
「200万ちょい」
「うわ、鬼畜」
「だろ?」
 ウニョクが笑ったので、ドンヘも笑った。傷口が開いていたかったけれど、ウニョクの笑顔と共存できるのが嬉しくて我慢して笑った。
 痛みさえもウニョクのためと思えばどうってことない。いや、この痛みを覚えてくれればいい―――俺が、痛がったことを。俺の痛みを、ウニョクがいつまでも覚えていてくれればいい。そうした罪悪やうしろめたさに束縛されて、一生俺のそばから離れられなくなればいい。ドンヘは思う。
 俺もあの男も変わらない。ウニョクの虜になってしまえば、金も痛みも無駄になる。燃えかすになる。
 無意味なのだ。彼の前では、なにもかもが。
「俺のせいで、ごめん。モデルなのに、顔に怪我させた」
「いいよ、いつか治るし、それに――――」
 避けようと思えば避けられた。交わそうと思えばかわすことができた。なのに自ら目を綴じて痛みを享受したのだ。
 あの瞬間、契約を交わしたのだな、と思った。ウニョクと自分のあいだに、確かに傷という名の契約が交わされたのだ。
 人はふたつのことでしか心を繋ぐことができない。それは、罪と愛だ。いや、愛だって不明確なのかもしれない。罪を償うために愛するのかもしれない。そしてその罪を赦すこともまた、愛なのだ。
「本当に、大丈夫だから。でも、一つだけ俺のお願い聞いてくれる?」
 ドンヘは問うた。ウニョクは不思議そうな顔で「お願い?」と訊き返した。
「うん。お願い」
「なんだよ。言ってみろ」
「友達になってほしい」
「は?」
「ウニョクと友達になりたいんだ」
 ドンヘが真剣な眼差しで言うと、ウニョクは拍子抜けしたような顔で「は、なんだそれ」とぎごちなく笑った。
「真面目だよ。俺は真面目に言ってる。ウニョク、俺と友達になってくれる?」
 ドンヘは今度はウニョクの顔を覗きこんだ。ウニョクはなにかを考えたのか、それともただ呆気にとられていただけなのか、しばらくしてこくん、と頷いた。「いいよ」
「本当に?!」
「お前を同僚って言うのもなんか癪だしな。なってあげてもいい」
ウニョクはそっけなく言った。ドンヘは嬉しくて「ありがとう」とウニョクの肩を思い切り抱いた。
「ちょ、痛えつってんだろ!!!」
「あ、ごめん」
 痛いのはきっと自分のほうなのに、とドンへは思う。
 頬なんてどうでもいい。ドンヘは心臓が痛くて仕方なかった。

 好きなのかもしれないな、と思った。憧れとか尊敬ではなく、愛とか恋というかたちで。

 守りたいと、助けたいと、思ったんだ。
 もし俺がこうして君に捧げることで君の心が少しでもなにかを感じてくれるようになったのなら、嬉しい。たったそれだけ。それだけのこと。
 ドンヘがステージに乗り込んだとき、ウニョクは「怖い」と震えた。彼の神経はもう限界だった。その崩壊の線とドンへの心が動き出す線が一致したあの瞬間、ぴたりと時間が止まったのだ。ウニョクが泣きそうな目でドンヘ、と名前を呼んだとき、ドンヘは全身がはちきれそうに切なくなった。
 守りたい、と思った。
 ドンヘの名前を呼んだウニョクの声が、助けて、と確かに訴えていたのだ。

 友達になりたいというドンへの言葉に「いいよ」と言ったウニョクの耳たぶが、林檎色に染まっているのをドンへは決して見逃さなかった。

 深夜の公園に笑い声が響いている。もうすぐ夜が明ける。
 多分、ウニョクの血はきっともうとっくに止まっている。

世界を照らす宝石になれ

 二人にはそれぞれ二週間の出勤・出演禁止令という処罰が課せられた。
 加害者であるドンヘにとっては仕方のない罰とも思えたが、ウニョクにまでそれが及ぶなんてドンヘはどうしても納得がいかなかった。
「どうしてですか。なんなら俺が四週間休んでもいいんです。悪いのはすべて俺です」
 ドンヘは必死に抗議した。しかしその願いが受け入れられることはなかった。
「そういう問題じゃないんだ、ドンヘ。あっちも被害届を出すつもりはないみたいだから、なるべくほとぼりが冷めるまでヒョクチェにも謹慎してほしい。もしまた舞台でヒョクチェを見て熱が再発したらそれこそ今度は警察沙汰になってしまう」
 シウォンがウニョクではなくあえてヒョクチェと言ったので、これは本当にウニョクのためを思った最善の方法なんだということが分かり、ドンヘの威勢が少しだけ弱った。
 あれから時を見計らって二人は裏口から店に戻ると、店内にいたのはシウォンだけだった。二人の姿を認めると、シウォンは「話がある」とドンヘだけを呼びとめた。そして処分内容を告げられたのだ。
 シウォンは多分、ウニョクの恋人だ。そして三人は奇遇なことに同い年で、波長もなかなか合った。
 ドンヘがこのクラブで働き始めてから三カ月、三人のあいだには同僚や同業者としての連帯感だけでなく、それよりもっと不確かなもの―――流動性の塊である友情のようなものが芽生えたような気が勝手にしていた。友情とは恋愛よりも流れやすく壊れやすい。そんな脆い形ないものだからこそ大切にしたい、という思いがドンヘにはあった。
 二人が恋人同士ならばなおさらだ。失くしたくないと思えた初めての関係に自ら水を差す勇気など、ドンヘはとてもじゃないが持てそうになかった。
「わかりました」
 ドンヘは低い声で呟き、ゆっくりと背を向けた。
「ごめん、ドンヘ。俺だって本当はこんなことしたくないんだ」
 背後から寂しそうなシウォンの声が聞こえた。ドンヘは「はい」と言って振り向きはしなかった。シウォンはまだ言い足りないことがあるらしく、遠ざかっていくドンヘに届くように声を張り上げて続ける。
「ヒョクチェを助けてくれてありがとう。本当は俺が行くべきだったのに、君に怪我までさせてしまった。そのうえ出勤禁止令なんて・・・本当にごめん。もしよかったら、ヒョクチェを呼んできてくれないか。彼を抱きしめたい」
 ―――それは、牽制のようにも聞こえた。どうしてわざわざ俺にそんなことを言う必要があるんだ、とドンへは憤慨する気持ちが少し生まれたが、行動には起こさなかった。
 抱きしめたかったなら、抱きしめればよかったんだ、もっと早く。ウニョクがあんな怖い思いをする前に。
 一番近くにいて何もしなかったなんて、それこそ罪だ、とドンへは思った。
 気づいていたにしろ、気づいていなかったにしろ、ウニョクのあんな顔を見たら、きっとシウォンは正気でいられないだろう。店に不在だったとはいえ、今晩のような大事件に発展する前に未然に防ぐことなんていくらでもできたはずだ。誰よりもウニョクの、いや、ヒョクチェのそばについていながらそれを遂げることができなかったシウォンは男として情けない、と思った。
 俺だったら絶対にそんなことはさせない、と同時に強く思う。これからは俺がヒョクチェを守らなきゃ。そう、固く握りしめた拳の中で誓った。


「あ、」
 とドンヘが間抜けな声を出したのと、
「よっ」
 とウニョクが明るい声を出したのはほとんど同時だった。
 いつものように裏口から店を出ると、外套にもたれたウニョクがぼんやりとした光の下に立っていた。
 ドンヘはウニョクの姿をちらりと見やると、何も見なかったような顔で手袋をはめた。
「オーナーが呼んでる。早く行ったほうがいいかも」
「なんで?」
「いや、なんとなく」
 それは、自分のためでもあった。
 早くシウォンのもとに行ってほしい。そして抱きしめてもらってほしい。自分ではどうにもできないからだ。いくらウニョクを安心させたくても、抱きしめて「大丈夫だよ」と言ってあげたくても、自分にはできない。それをウニョクにしてやれるのは世界でたった一人しかいない。
「ドンヘは?帰るんだろ」
「うん。もう三時だよ。朝になる」
「そうだな」
 雨の振り始めのようにぽつぽつと会話が途切れる。ウニョクは動かない。ドンヘが自転車の鍵を解いてからも、店に入ろうとする気配は見られなかった。
「早く店行きなよ。俺、帰っちゃうよ」
「うん」
 ウニョクは依然として微動だにしないので、ドンヘは躍起になって自転車にまたがった。どうせシウォンが様子を見に来てウニョクを連れ去るだろう。そうしたらウニョクは忘れるだろう。今夜、ドンヘが振り絞った勇気も、気持ちも、情熱も。すべてシウォンの腕の中へ、消えてしまうんだろう。
「・・・じゃあね、おやすみ」
 声が若干ぶっきらぼうになってしまったな、と言った直後に少し後悔した。自転車をひと漕ぎする。もうひと漕ぎ。そしてもうふた漕ぎ。涙が出そうになった。冬の寒さが骨の芯まで染みる。風で滲んだ涙が凍りそうだ、と目尻を手でこすったら、手とは違うものの影が視界の隅をちらついた。なんだと思って振り返ると、ウニョクがものすごい勢いでドンヘの自転車の後ろを追いかけてきていた。
「うわっ!なにしてんの!?」
 ドンヘは急ブレーキをかけて止まる。しばらくして息を切らしたウニョクがドンへの影に追いついた。
「はあっ・・・お前、助走ってもんを知れっ・・・」
 膝に両手をつき、息を整えながらウニョクは怒ったように言う。そんなこと言われても、とドンへはたじろぎながら、とりあえず「大丈夫?」とウニョクの背中を擦った。ドンヘの毛糸の手袋とウニョクのチェック柄のPコートとの摩擦で、薄暗い街燈の中に毛糸と埃が優しく毛羽立つ。
「あー、お前はどれだけ俺を走らせれば気が済むんだよ」
「だって、うしろにいるなんて言ってくれなかったじゃん!」
「言ったよ!うしろから『待て』って!それでもお前がしょっぱなから猛スピードでぶんぶん走ってったんだろ」
 まったく聞こえていなかった。ドンヘが「ごめん」と素直に認めると、ウニョクは呆れたように小さくため息をついた後、何も言わずに歩き出した。両手をコートのポケットに突っ込んで寒さのために肩を竦める後姿をドンへは慌てて追いかける。
「オーナーのところには?」
「行ってるわけないだろ。すぐお前追って走ってきたのに」
「そっか」
 自転車を引いているドンへはウニョクの早歩きにもちろんついていくことができない。
 朝の気配が漂う真夜中の道路に二つの長い影が伸びる。
「行かないの?オーナー、待ってるんじゃないかな」
 三歩ほど離れたウニョクに聞こえるようにドンへは声を張り上げた。ウニョクが突然立ち止まる。思わず自転車の前輪の先がウニョクのかかとにぶつかってしまった。
「あ、ごめ・・・」
「“世界を照らす宝石になれ”」
「え?」
 何の前触れもなくウニョクの口から不思議な言葉とともに白い息が昇った。
「俺の芸名の由来。一代目オーナーがそう言って、俺に『ウニョク』って名前をくれた」
 ウニョクの頭が下に傾く。一歩近づいてウニョクと並んだ。ウニョクは懐かしんでいるような、思い出したくない過去を思い出してしまったときのような顔をしている。
「銀色って意味の『ウン』と本名の、光り輝くって意味の『ヒョク』で『ウニョク』だって。ちっさいときはその名前がめちゃめちゃ嫌いだったんだけど。今は好き。すっげえ好き」
 ウニョクはくすぐったそうに笑った。
 好き、と言った声に胸がどぎまぎした。
「そうなんだ。あれ、一代目ってことは、じゃあ・・・」
「うん。シウォンの父ちゃん。俺にこの世界を教えてくれた人」
 シウォンからもらった名刺には『二代目オーナー』と書かれていた。ウニョクが店に来たのは彼が16歳の時だったという。16歳だなんて、まだ高校入学して間もない歳だ。
「今の俺は一代目なしでは存在しない。育ててくれたことにすごく感謝してるし、恨んでなんかちっともないのに」
 ウニョクの声が震えている。ドンヘはきつくハンドルを握りしめた。
「シウォンは、負い目を感じてるんだ。自分の父親のせいで俺の将来が閉ざされたと思ってる。知らなくてもいい世界を知ってしまったと思ってる。あいつは真面目だからさ、今でもこういう業界を快くは思ってないんだ。まあ仕事だから経営はしっかりやってるけど」
 シウォンが真面目なのは普段の様子から見てよく分かる。とても真摯に誠実に人と向き合うことのできる、今の時代ごくまれなタイプだ。
「それに、もしかしたら血を分けた兄弟かもしれないから」
 ドンヘはぱっと顔を上げた。そんなドンヘを見て、目が合ったウニョクは寂しそうに笑う。
「俺の母ちゃん、一代目の愛人だったんだ。あのクラブで働いてた、ナンバーワンバーレスクダンサーだった。まあ、血は争えないってことよ」
 言ってウニョクは真っ黒な天を仰ぐ。その横顔がなめらかに濃密な寒空に溶ける。
「俺はずっと父ちゃんと母ちゃんの子だって思ってるよ、今でも。でもどこかで分かってもいる。そんなはずないって。だって俺の母ちゃんは俺が生まれる1年前には父ちゃんと別居してたんだって。それなのに俺は言い続けてる。俺は父ちゃんと母ちゃんの子だって。多分、これからも言い続ける。自分のためなんかじゃなくて、シウォンのために」
 ―――ああ、と思った。
 初めてウニョクに好きだと伝えたとき、彼は求められても何も感じないと言った。
 彼は感じないのではなかった。感じてはいけないと、自分を制御しているのだとこのとき初めて分かった。ウニョクの寂しそうな横顔が、すべてを語っていた。
「シウォンとは16のころからずっと一緒に育ってきて、何も知らなければきっと今でも普通に友達としてやっていけてたんだと思う。でも、過去を知ったその日、シウォンは言ったよ。『俺は君のために生きる。父の罪を贖うために生きる』って。あがなう、って言葉がなんだか俺にはそのときまだよく分かんなくて、でも、今思ったらあいつの覚悟は相当なもんだった。どうして実の父を恥じる必要があるんだって、思う。でも、シウォンはその贖罪のために、今俺のそばで生きてる」
 一度、思ったことがあった。ウニョクのためにウニョクを殺すことができるか?と。
 きっとシウォンはやってのける。それがウニョクの望むことならば。シウォンの居場所は店でも自分の中でもない。ウニョクという罪の象徴にきっとそれを宿している。
「俺たちが店に帰ったときのシウォンの顔・・・なんて顔してんだって叫びそうになったよ。同時に、ごめんって土下座したくなった。あいつにだけは心配とか、後ろめたさとか、これ以上感じてほしくない。あいつのあの顔見た瞬間、自分がとんでもないことをしちまったんだって思いが、こう、なんか、ぶわって溢れてきて・・・」
 ウニョクがうつむく。厚手のコートから少しだけ出した指先で前髪を掻いた。その指先を絡め取って、口に咥えて、今すぐにあたためてあげたくなった。
 でもドンヘにはそんなことできない。
「俺を一人にしちゃいけないと思ってる。あいつは俺のためだったら人殺しだってなんだってやるよ。父親の責任を自分が取る、とでも思ってるんだ。俺は一代目に恨みどころか感謝さえしてるっていうのにさ。それをシウォンにいくら伝えてもだめだ。あいつは一生俺に引け目を感じて生きていく。もう遅いんだよ、なにもかも」
 いつかウニョクが見せた地下を彷徨わせるような昏いうつむきをドンヘは思い出していた。あれは、シウォンによって張り巡らされたウニョクへの執着や二人の罪の意識で繋がった奇妙な絆を見ていたのだろう、と思った。
 シウォンが背負っているのは単なる責任なんて言葉じゃ足りない。彼はウニョクという愛しい人の後ろに十字架を張り付けて、それを背負っているのだ。ドンヘはシウォンを罵倒した自分が途端に恥ずかしくなった。
「だから俺たちは恋人なんかじゃない。いつのまにか友達っていう認識さえも忘れてた。いや、最初からそんなもの存在しなかったのかもしれない―――そうだな。俺たちは、もう大丈夫だと思って切ろうとしてもいつまでも切れないよく伸びるゴムみたいな、そんな血腥いもんで雁字搦めになってんだ。シウォンは自分が許せずにいる。俺を愛してるけど、愛してなんかない。そんなシウォンを見ると俺は、自分が許せなくなる。悪循環だよな。お互いに自分のことが許せなくて、過去と罪にとらわれたまんまでさ。それが不毛で無意味なことだと心のどっかでは分かってるのに。なのに罪悪感を放り投げて真っ新になれるほど俺たちは強くない」
 人生で初めて人を殴り大切な人の手を取って逃げたときに感じた、あの契約のような恩着せがましい感情。人は罪と愛でしか繋がれないと思った。許すことで、償うことで、人は人を愛することができると。
 しかし彼らの場合は、許すことも償うことも愛ではなく、それさえもまた罪を呼ぶと思っている。父親のせいで誰かの人生を台無しにしてしまったという罪悪と、母親のせいで心から愛す勇気を振り絞れない罪悪とが重なって、二人は身動きが取れずにいるのだ。彼ら自身は何も悪くなんかないのに。ましてや彼らの父親も母親も、罪なんて一つもない。ただ人を愛し、その人の子供を育てたい一心が招いたことだ。
 たったそれだけのことなのに、世代を越えて大人になった彼らは、それに気づかずいつまでも因縁を引きずり続けている。まるで死体を紐につないで当てのない火葬場に連れて行くみたいに。
「オーナーは今もあのユリとかいう女を愛人にして楽しんでるみたいだけど。それが気に入らねえんだよなあ。あんなの一代目のタイプじゃないのにさ」
「今、お母さんは?」
「死んだ。俺を一代目に引き渡してから、病気で、すぐに。俺の母ちゃん、すっげえ美人だったんだぜ。それに、店の稼ぎ頭だったんだって。そりゃもう伝説のダンサーで、一日に数百万はざらに稼いでたって。すっげえだろ、俺の母ちゃん」
 ウニョクはキラキラした目で言った。ドンヘは精いっぱいの微笑みで「うん」と返した。でも、だめだった。
「うおっ、なにすんだよ」
 ドンヘはウニョクを抱きしめた。自分を包むジャンパーとウニョクの重めのPコートとがかさばって腕がウニョクの背中まで届かなかったけれど、それはもう大きく強い力で。
 ウニョクは一瞬抵抗を試みたが、ドンヘが何も言わずに抱きしめてくるので途中から諦めて力を入れるのをやめた。
「だめだよ、うまく笑えない・・・」
「うん。そうだよな。ごめんな、急にこんな重い話して」
「たくさんありすぎて、整理できないよ・・・俺、馬鹿なの知ってるだろ」
「知ってる。だから言った」
 ウニョクの声を聞くたびに涙が出そうだった。
 ウニョク。ヒョクチェ。俺がいるよ、と言ってあげたかった。
「俺、お前がいてくれてよかった」
 ウニョクは言った。とてもとても、優しい声で。俺が君のそばにいたいと願ってしまったことを、すべて見透かしていたのだろうか。ドンへは胸が締め付けられるほどに苦しかった。
「お前みたいな存在を、ずっと探してたのかもな・・・なんのしがらみもなく、ただ信じられる相手っていうのをさ」
「信じてくれてるの?」
「信じるよ」
 身体が離れ、ウニョクと目が合う。照れくさくても目が乾いても、瞬きはしたくない。いつまでも、こうして見つめ合っていたい。
「そりゃ、あんなに身体張ってダッシュで俺のこと拉致しては、顔から血流してへらへら笑ってるようなお前だもん」
「あはは、なにそれヒョクの中の俺超カッコ悪い」
「ヒョク?」
「え、ヒョクチェのヒョク。俺ずっとそう呼んでみたかった」
「なんだそれ」
 ウニョクは笑った。そしてゆっくりと歩き出す。ドンヘもゆっくりと、その後に続いた。
「店には戻らないの?」
「うん。今戻ってもどうせセックスするに決まってる」
「ふーん」
「あ、今いやそうな声出した。やっぱ妬いてんじゃん」
 ウニョクがにやにやするので、ドンヘはむきになっていっそ認めてやった。「妬いてるよ。いやでいやで仕方ない」
「・・・確実な進歩だな」
「え?」
「もうお前は俺のファンじゃなくなったってことだよ」
 最初ウニョクの言っている意味が分からなかったので、しばらく黙っていた。するとウニョクが、
「あー、今のナシ!撤回!」
 と赤面したから、やっと意味が分かった。嬉しくて走り出しそうなくらいだった。ドンヘはウニョクの手を後ろから攫うように握った。

「俺の夢はね、」
 真上ではなく、遠くの空を見上げた。もうすぐ朝がやってくるだろう。
「顔だけじゃなく俺全部を撮りたいって思わせられるようなモデルになること。身長なんかも、全部どうでもいいって言ってもらえるくらいの」
「ふーん。じゃあ、俺の夢、教えてあげよっか」
「うん、知りたい!」
 ドンヘが喰い気味に答えると、ウニョクは「よし」と背筋を伸ばして胸を張った。大仰な素振りにドンヘは思わず噴き出しそうになったが、何とかこらえてウニョクの言葉を待った。
「俺の夢は、ミュージカル俳優になること。昔一代目が連れてってくれたミュージカルの風景が忘れられない。今は舞台を学ぶためにストリップやってるけど、いつかはミュージカル俳優として、世界を回りたい。色んな国に行って、色んなダンスと歌を学んで、世界中にお前みたいなきちがいなファンを作る」
 ウニョクが片頬を挙げて笑ったので「なんだよそれ」と言って手を握っていない方の手でウニョクの肩を叩いた。ウニョクは笑う。「恥ずかしいから一生誰にも言わずにいるんだろうと思ってたのに」
「どうして恥ずかしいことなんてあんだよ。俺はウニョクが歌もうまいこと知ってるよ」
「うそだ。俺、音痴って言われるよ」
「ううん。俺は聞いたもん」
 初めてウニョクと裏口で顔を合わせた日―――。
 あのとき聞こえてきた綿あめのような繊細な歌声が忘れられない。ストリップで魅せる妖艶な姿からは想像もつかないほどの美しい音色だった。そのことをウニョクに言うと「聞こえてたのかよ!」と言って怒られた。
「あれは、俺が一番好きな曲。Eric BenetのCracks of my broken heart」
「歌って」
「いやだ」
 笑いながら歩いていると、いつのまにか朝日が見えていた。
 どこに向かって歩いていたんだっけ、と思う。いつの間にか店の周りを何周もしていた。もう何度目かの店の看板が見える。
「もう朝んなるな」
「そうだね」
「二週間、お前何する?」
「とりあえず、モデルとして働くよ。ヒョクチェは?」
「俺は家でごろごろDVDでも観てよっかな。お前、うち来る?」
「行く!」
 即答したら盛大に噴き出された。どうもドンへはウニョクの笑いの沸点を下げる天才らしい。ウニョクは「わかったって」と笑いながら携帯電話の番号を教えてくれた。
「これで連絡して。でもちゃんと仕事頑張ったやつに限る」
「はい、頑張ります」
「一緒に夢掴もうな」
 ウニョクと握った手に自分ではない力が宿った。ウニョクの力だ。ドンヘは嬉しくなって握り返した。ウニョクが前を見ている。その原動力となれたなら、この上なく嬉しい。

 ウニョクとシウォンを繋ぐ因縁は、拭っても拭ってもいつまでも浮かび上がり、彼らを束縛し続けるのだろう。それに、自分はシウォンにはなり得ない。いくら頑張ってもウニョクの特別は一生シウォンのままだろう。
 しかし、俺は、とドンヘは思う。
 シウォンのようにはなれなくたって、俺はそれでいい。俺は俺なりに、ウニョクのそばにいたい。たとえ、俺の気持ちをウニョクが一生知らないままでも。俺はウニョクを求め続ける。ウニョクの心が動くまで。
 動いてもいいんだ。こわがらなくていいんだ。誰かに求められ、そして求めることは、決して罪なんかじゃないんだと、教えてあげたい。
 俺は君と、生きてみたい。

 朝日が出て、二人は別れた。次に会う約束を交わして。遠い空の向こうに小さな鳥のさえずりが聞こえる。とりあえず今は睡眠と食事が必要だ。ドンヘはおんぼろのアパートへ向かう。
 手袋はウニョクに貸してしまって手が凍えるように寒かったけれど、曝された素の手のひらを見つめては、この空の下のどこかにいるウニョクを感じてドンヘは小さく微笑んだ。

恋は偉大で忙しい?

「ごめん!」
 ぜえはあ息を切らしながらドンへは走った。
 待ち合わせの時計台にもたれたウニョクは腕組みをしてその姿を不機嫌そうな顔で眺めている。
「遅い!五分遅刻!」
「ごめん・・・本当、ごめん・・・」
 息を整えながら両手を合わせて謝罪した。ドンヘの肺は酸素を求めて暴れ回り、心臓はというと、緊張と喜びで飛び跳ね回っている。
 両方の暴走を何とか隠しつつ、ウニョクに微笑んでもう一度「ごめん」と言った。
「笑顔で謝れば許されると思うなよ。今回は俺が誘ったからまあ良しとするけど、次はないからな!分かったか!?」
 がくがくとドンヘは頷く。五分ちょっと遅れたくらいで・・・と思うところはいろいろあったが、ごくりと呑み込んだ。なにせ、こうして朝からウニョクと待ち合わせをして出かけるというこの現実自体が奇跡のようなものだ。少しの理不尽ぐらい、いくらだって我慢することができる。
 本当は今朝、ドンヘは早朝四時には目が覚めていた。というか寝ていない。それなのに服やら髪型やらを悩んでいるうちに家を出るのがぎりぎりになってしまった(もっとも迷うほどの服のレパートリーはないのだが)。
「行くぞ」
「うん」
 ウニョクはずかずかと歩き出す。ドンヘはそのあとを追う。いつもの構図だ。ドンヘはにやけそうになるのを必死に堪え、「寒いね」と明るく言う。ウニョクはぼんやりと低い声で「うん」と答えてくれる。ついに我慢が効かなくなって(会って5分だというのに)、
「やっば。俺、幸せでどうしよ」
 と言うと、振り返ったウニョクに、
「気持ち悪いからにやけんな」
 と怒られた。
 空は人工的なまでの水色で、その中に雲がぽつぽつとこぼれている。
 ドンヘは息を思い切り吸い込んだ。今日が本当に待ち遠しかった。


 あれから数日は、ドンヘもウニョクもバイトに明け暮れる毎日を過ごした。ドンヘはいくつか撮影も入った。しかし、今までは夜行性だった生活を一般的なものに修正するのはなかなか難しく、ドンヘは毎晩眠れずにいた。
 そんな日が三日か四日続いたある日の夜中、ついにドンヘの携帯に待ち望んでいた名前が表示されたのだ。
 ウニョクだった。
「起きてる?」
 第一声から涙が溢れそうになった。きっと、ウニョクも同じく眠れなかったんだろう。ドンヘは震える声で「うん」と言った。
「なに、泣いてんの?」
「泣いてない。ただ、ヒョクから電話が来たのが嬉しくて」
「アホか」
 電話越しのウニョクの笑い声。ウニョクが、俺に電話をかけてきてくれた。俺に向かって。俺という特定の人物に向かって。それって、なかなかすごいことだ。
 ドンヘはにやにやする。
「今にやにやしただろ」
「しっ、してないよ!」
「まあいいけどさ、」
 ウニョクは相変わらず切り替えるのが早い。もう少しかまってくれてもいいのに、とドンヘが惜しく思っていると、何の前触れもなく「ミュージカル行く?」と聞かれた。
「ミュージカル?」
「うん。いつもは一人で行ってんだけど、どうせお前ひまだろ。付き合えよ」
 行く、と即答した。ウニョクは「はや」と言って笑った。
 電話一本で、遊びの誘いひとつで、こんなにも胸が苦しい。これは完全に恋煩いだ、とドンへは自覚する。
「んじゃ、明日朝九時にクラブの前の時計台」
 そう言ってウニョクはすぐに電話を切ってしまった。
 おやすみ・・・と、機械音のする携帯にドンヘはつぶやく。ウニョクと二人で昼間外に出るのは出会ってから初めてだ。

 ドンヘは天にも昇る気持ちで早速ヒチョルに報告した。ヒチョルは今撮影のため地方に長期滞在しているため、テレビ電話を使った。
「お前らいつのまにそんなカンケーになってんの」
「そんなカンケーって、なんでもないよ」
「まあ、そうだろうな。だってあっち、その気ねえだろ」
 ドンヘが訊き返すと、意外な言葉が返ってきた。チケットが余ってたからとか面白いミュージカルがあるからとか変に理由づけをしないあたり、自分に気がないと言われているようなもんなんだ、と言われた。それもそうか、とドンヘは思った。
「ま、がんばれよー」
 ヒチョルはどうでもよさそうに言って画面を切った。頑張ります、と答えると同時に、ドンヘを多大なる不安が襲った。
 服、どうしよう・・・。

 
 そして悩んだ結果がこれだ。
「お前、いつも同じ服着てんな」
「え、そう?」
 言われて自分の格好を改めて確認する。水色のシャツの上に紺のセーター、その下には黒いジーンズ。そこに上から小振りのダウンを羽織る。靴はいつものコンバースだ。たしかに言われてみればいつもと変わらない。自分なりにシャツを少しよそいきのタイプにするなど一応工夫は施してみたのだが。
「ヒョクはいっつもおしゃれだよね。何着服持ってるの?」
「わかんない。服なんて数えたことないから」
 ウニョクの格好といえば、膝の部分に加工がされてある細身の薄いデニムに紺と黄色のボーダーのニットを着て、マフラーを巻いている。鮮やかなグリーンのもこもこしたマフラーだ。寒くないのかな、とドンヘは思う。しかし、今にも冬の雑踏に溶け込みそうなほど暗い色のコーディネイトのドンヘと比べると、ウニョクのそれは雲泥の差があった。
「ドンヘは派手すぎるぐらいがちょうどいいんじゃねえ?お前、すぐ迷子になりそうだから」
 ウニョクの言葉にドンヘはもちろん反論できなかった。本当に迷子になりやすいたちだし、それ以上にときめきで声が出なかったのだ。
 迷子になりたい。ウニョクが探してくれるのなら、俺はいつだって姿を消してしまうだろう。ドンヘは切なくなる。こんな一挙一動でいちいち心が大きく揺れて、恋とは偉大だ、と思った。


「いや~、面白かったな。やっぱりあの劇団は捨て役がないんだよ。どれも教育に滞りがない」
 ウニョクはご満悦でシアターから出た。ドンヘはその後ろをいそいそと続く。
 ミュージカルを観ているあいだ、心臓はろくに作動しなかった。本当に恋とは偉大なもので、ミュージカルの内容はほとんど覚えていない。だって思っていたよりも席と席とのあいだが狭かったのだ。ウニョクの息遣いが耳元を掠めているのに、平常心でいろというほうが無理なものだ。
「どう?よかっただろ?」
「う、うん。とくに中盤の空飛ぶ回想シーンとか」
 これはさっきパンフレットで仕込んだネタだ。
「ああ、あれな!俺も好き」
 どきん、と役立たずの心臓が跳ねる。自分に言われているわけじゃないのにドキドキする。返答に困っているとウニョクは「トイレ」とだけ言ってどこかに消えてしまった。
 ドンヘは一人取り残され、息を整えた。
 これは思っていた以上にしんどいぞ、とドンヘは覚悟した。今まで夜の店以外で一度もまともに会ったことがないというのに(しかも接触はほとんどない)、いきなり真昼間の密室空間でとなりに並ぶなんて大躍進すぎて頭も身体もついて行けない。
 ドンヘはこめかみを揉んだ。おもむろに携帯を取り出し電源をつける。
 するとすぐに『着信あり』と表示された。知らない番号である。「誰だろ」
「どうした?」
 振り向くとウニョクの顔がすぐ近くにあってドンヘは飛び上がってしまった。
「トイレ綺麗だった。お前も行けば?」
「ああ、俺はいい」
「ふん。で、誰?」
 ウニョクに顎で示され、電話のことを思い出す。
「なんか知らない番号。劇中にかかってきてたみたい。でも気にしなくていいや。なんか怖いし」
「いいんか?」
 ウニョクが心配そうな顔で聞いてくるのでドンヘはしっかりと頷いた。
「それより腹減らない?俺、このへんで美味しい・・・」
 事前に調べておいた店を探そうとドンヘが携帯電話を覗きこむと、突然盛大にバイブが鳴り響いた。「わあっ!」
「お客様、劇場内での携帯のご使用は・・・」
 と近くにいるスタッフに注意される。
「すみません!」
 二人は逃げるように劇場を出た。


「もしもし」
 電話の向こうからは人の声のような機械の音のような雑音が聞こえて来た。
 電話をかける隣でウニョクはホットコーヒーを啜っている。そのもう一つの手にはドンへの分のコーヒーを持っているようだ。ドンヘは嬉しさでにやけそうになるのをこらえ、もう一度「もしもし」と言った。
「ドンヘ?今ひまだろ。すぐ来い」
「へ?ちょ、社長?!」
「ああ」
 いきなり知った声が聞こえてきて驚いた。雑音の中に、確かに社長の声がする。
「今って、そんな急に・・・」
「仕事が欲しくないのか?」
「欲しいです」
「モデルやりたいんだろ?」
「やりたいです」
 社長は満足そうな溜め息をついた。いやな予感がする。
「じゃあ決まりだな。モデルに空きが出た。今すぐK社の第三スタジオに来い。場所は分かるな?」
「え、ちょっと」
 ドンヘが答える前に電話は切られた。最近そんなことばっかりだ。自分から電話を最後に切ったのはいつだっけ。ドンヘが途方に暮れていると、それまで空を見上げてコーヒーを飲んでいたウニョクが「どうした?」と訊いてきた。
「うん・・・本当申し訳ないんですけど」
「うん?」
「急に仕事が入って、今すぐ撮影に行かなくちゃいけない」
 ウニョクは素直に驚いているみたいだった。ドンヘはそれよりずっと落ち込んでいた。
「仕事って、モデルの?」
「うん。予定してた人が体調悪くて来られなくなっちゃったから代役として今すぐ来いって、社長が」
 こんなにも仕事が恨めしいと思ったことはない。今までどんな仕事でもハイエナのように喰らいついてきたが、今日ばかりは別だ。せっかくのウニョクとの時間を、誰にも邪魔されたくない。
「本当ごめん。この埋め合わせは次に・・・」
「いいよ」
 ドンヘは顔を上げた。ウニョクはコーヒーを啜る。「俺も行く」
「ええっ!?」
 ドンヘの大声に、うるさいなあと言わんばかりにウニョクは眉をしかめた。
「だめだめだめ!それは絶対だめ!」
「なんで。今日は一日俺にくれる約束だっただろ?」
「ヒョク・・・」
 そんなことを言われたら何も返せない。ウニョクはにやりと片頬をあげて笑う。
「早く連れてってくれ。お前の『仕事場』に」
 ドンヘは目の前が真っ暗に染まるのが分かった。その暗闇でウニョクの意地悪な笑顔がドンへの首をさらに絞めつけていた。


「いーねえ。いいわよ。もっとクールな表情ちょーだい」
 フラッシュの中でドンヘは死んだような気分だった。光が途絶えるたびにウニョクの姿が視界をちらつく。離れたところに立っているウニョクの顔が怖くて見れない。ドンヘの肩はがちがちだった。
「モデルさーん、すっごいいい表情してる」
 カメラマンの褒め言葉も全く耳に入ってこない。女性のカメラマンにとられることには慣れていたし(ゲイビデオのカメラマンは女性が多い)、幸いなことにこの日の撮影のテーマが「男」という抽象的なものだったので、なんとか救われた。それでも今にも失神してしまいそうだ。
「はーい、おつかれー。いったん休憩ね」
 終わった。色んな意味で終わった、とドンヘは息を吐いた。社長の影が近づいてくる。
「どうした」
 突然社長に問われ、ドンヘはたじろいだ。「ど、どうしたって、どうして?」
「なにかあったか?」
 社長が心配そうな顔で聞いてくる。そうです、実はめちゃくちゃ今やりにくい状況で・・・そうドンヘが言い訳をしようとしたら、いきなり社長に肩を掴まれた。
「!?!?」
「恋したんだろ!」
 社長の目が光り輝いている。ドンヘは言葉に詰まった。図星だったことよりも、どうして社長が分かったのかなんてことよりも、ウニョクに聞こえてしまうことを恐れた。
 ドンヘが何も答えられず黙っていると、
「そうか、そうなのか。ははは。やっぱりな。そうかそうか」
 と大仰に笑いながら社長はスタジオから出て行ってしまった。何を考えているんだか本当に分からない。
 ヒョク、やることなくてひまだろうな・・・。
 初デート(こんなことを言ったらウニョクに殺される)がこんな気まずいものになるなんて本当についていない。ドンヘはひどく落胆していた。スタイリストがドンへの前髪を整えてくれる。その腕のあいだからドンヘはちらりとウニョクのほうを見た。ウニョクは一寸のぶれもなく、ドンヘをじっと見つめていた。

「はーい、じゃあ再開しまーす!」
 アシスタントの号令で撮影は再開した。なぜか次は緊張しなかった。むしろやってやる、という意地にも似た気持ちさえ湧いてきた。ドンヘはごくりと息を呑む。こんな気持ち初めてだったからだ。
「いいよー・・・うん。男を感じる。好きな人をイメージしてくれる?」
 カメラマンの要求に、ドンヘは一瞬戸惑った。しかしすぐに「はい」と返事をした。好きな人なんて、簡単にイメージできる。
 だって今、そばにいる。
 ウニョクが見守ってくれているから自信が湧いたんだと、そのときドンヘは気が付いた。
「うん。すっごく素敵よ」
 ドンヘはスタジオの端のほうにいるウニョクを見た。じっとではなく、撫でるように。
 ヒョク。君が好きだ。
 君と一緒にいたい。君を抱きしめたい。
 ドンヘは溢れる思いをそのままカメラに向けた。カメラマンの声掛けもだんだんなくなっていった。
 その日の撮影は夜遅くまで続いた。


「あーつかれた。っていうか、腹減ってやばい!!」
 ドンヘの悲痛な叫び声が冷え込んだ夜空のもとに響いた。
「わっ」
 ぽんと頭を叩かれ、ドンヘは振り向く。ウニョクは笑って「おつかれ」と言った。
 スタジオを出て、今から二人で夕飯に向かうところだ。
「ごめんな、ヒョク。こんな遅くまで付き合わせちゃって。ヒョクのが疲れたでしょ」
 ドンヘはなるべく軽い調子で言った。ウニョクは「ううん」と首を振る。
「雑誌の撮影って、ああやってやるんだな。初めて見た。なんかすっげー人いたし」
「今回は特別だよ。本来やるはずだった人がすごい有名なモデルだったんだ」
 さきほど名簿を見たら驚いた。運がいいのか社長が根回ししてくれたのかは分からないが、あんな大きな撮影に呼ばれたのはもちろん初めてのことだった。いい経験をさせてもらえて光栄に思った。
「社長が片っ端からモデルに電話かけて、ひまだったの俺だけだったんだって」
 ドンヘが笑うと、ウニョクが「ひまじゃねえだろ」と小さくぼやいた。でも、ドンヘは聞こえなかったふりをした。
 もちろん、ドンヘにとって今日半日は夢のような時間だった。ひまだったなんて、とても思えない。ウニョクもそう思ってくれていたなら、嬉しい。
 けれど、期待するのは苦手だ。夢も、きっと恋もそうだと思う。シウォンとの話を聞いてから、ドンヘはもう過度な期待は寄せないと決めた。自分がウニョクのことが好きで、うざがられてもそばにいられればそれでいい。期待をすれば、手に入れたくなってしまうから。ウニョクをシウォンの腕の中から奪い連れ去りたいと思ってしまうから。
「店にはあれから行った?」
 ドンヘの問いかけに、ウニョクは首を振った。顔の下半分をマフラーに埋めているからか、首が不自由で着ぐるみみたいになっている。
「俺がいないと売り上げも半分以下だろ、どうせ。本当は早く復帰してほしいと思ってるくせに、シウォンは何の連絡もしてこねえ」
 マフラーの中でウニョクはもごもごと悪態をつく。ドンヘは胸が痛くなって、声を出すのがためらわれた。
 今声を出したら泣いてしまうと思った。シウォンに嫉妬するなんて見当違いにもほどがある。ウニョクにとってシウォンと匹敵するほどの人間はいない。いや、いらない。きっと一生作らないだろう。
「行って夕飯でも食べる?」
「馬鹿。そんなやつがどこにいんだよ。突っぱねられるに決まってんだろ」
「そっか」
 テキトーにものを言うな、とウニョクが笑った。
 テキトーなんかじゃない。ウニョクが好きだから、なにを言っていいのかわからなくなるだけだ。
 言ってしまいたい。ウニョクが好きだと言ってしまいたい。身体が冷えていくたびに、胸が苦しくなる。ウニョクの手を握りたい。そう思っていると、ウニョクが手を握ってきてくれた。そっと触れるように優しい力で握られたので、ただ手が当たっただけかと思ったが、本当に握られていた。
「鍋食いたい」
「え?」
「あったかい鍋が食いたい」
 今の時刻は22時だ。もう普通の店舗はしまっている。
「店、きっとどこも開いてないよ」
「うん。おまえんち、土鍋ある?」
 ウニョクが当たり前のように訊いてくるので、ドンヘは押し潰されるように「あるけど・・・」と言った。ウニョクは満足そうにと頷く。「お前んち行こう」
「は!?だめだよ!!」
「なんで?彼女いねえだろ」
「そういう問題!?」
 泣きそうになってるドンへを見て、ウニョクは楽しそうだ。そんな笑顔を見せられたら何もできないことを、ウニョクは分かっているのだろうか。
「材料と酒は今から買ってこ。スーパーならどっか開いてるだろ」
 ドンヘが以前バイトしていたスーパーは十一時まで絶賛営業中だ。ドンヘは涙目になる。ウニョクはにやにやと得意げだ。
 まさかこんな一日になるなんて・・・。強引なウニョクに説得するまでもなく押し倒され、諦めて二人でスーパーに向かった。

 ひとしきり材料を買って、ドンヘ宅へ向かっている途中、ウニョクは初めて踏み入る路地裏に興味津々だった。
 「うわ、くっせ」と言ってはごみ袋を蹴飛ばし、「暗くてよく見えねえ」と言ってはドンヘの腕を思い切り掴んだ。材料の入ったビニール袋がものすごく重い。
「ねえ、まだ?うっわ、ここチョーぼろい・・・って、え、ここ?」
「そうだよ」
 ドンヘは悄然とアパートの階段を上る。恥ずかしいとかどきどきとかそういう前に、まず情けなかった。こんなにぼろぼろのアパートに好きな人を呼び入れるなんて、できれば避けたかったのに。
 ウニョクは「へー」とか言いながら大きな音を立てて階段を上った。
「どうぞ」

 ウニョクは靴を綺麗にそろえた。その几帳面な後姿を見て、こういうところが好きだなあと思いつつ、光の速さでリビングを簡単に片づける。ドンヘの部屋はものすごく狭い。だから物がない。だから片づけも早い。
「おじゃましまーす」
「そのへんテキトーに座って」
 土鍋を探すふりをしながらウニョクの様子を血眼で観察する。なにか不足はないだろうか。いや、この家に招いている時点でもう十分すぎるくらいに不足なんだが。ドンヘの手に汗がびっちょりと滲む。そんなドンヘの切迫をよそに、ウニョクは部屋の中をぐるりと見回すと、まるで自分の家かのようにごろんと横になった。
「は、なに寝てんの!?」
 ドンヘが土鍋片手に驚いているとウニョクはへへっと笑って「だってなんか懐かしいにおいすんだもん」と言った。
 懐かしいにおい?なんだそれ。
 ドンヘは不思議に思ったが、気持ちよさそうに寝転がるウニョクを見て少し安心した。


「あーうまかった!最高!やっぱり冬は味噌鍋に限る」
「いや、今度はもつ鍋しよう」
「ええー」
 ウニョクは自分で締めの雑炊を自分で提案しておいて、炭水化物と酒は一緒に摂取しないというポリシーがあるとかなんとか言って、結局一滴も酒を飲まなかった。ドンヘも合わせて飲まなかった。きっとウニョクは酒に弱いんだろう、とドンへは踏んだ。強がってかわいい、とドンへは素直に思った。
「ねーみっ」
 ウニョクが先ほどのようにごろんと寝転がる。部屋の中は暖房が利いていてあたたかかった。鍋の湯気と眠気で頭がぼうっとするほど、あたたかい。
「懐かしいにおいって、どんなにおい?」
 ドンヘが聞くと、ウニョクは笑った。「気になった?」
「気になるよ。こんなぼろい家のどこが懐かしいんだろうって」
「そうだな。たぶん、昔の家に似てるんだよ」
「昔の家?」
 ドンヘもウニョクの隣に寝転がった。ウニョクは天井を見上げている。ドンヘは首を傾けウニョクの横顔を見つめた。
「母ちゃんと昔住んでた家。すっごいぼろぼろのすき間風が通るようなアパートで、ここによく似てる。においとか、色とか」
 ウニョクは目を綴じて息を吸った。ドンヘはなんだか恥ずかしくなって「やめてよ」と言った。ウニョクは聞かずに息を吸う。
「母ちゃんがよく歌ってたんだ。Cracks Of My Broken Heartを、夜中仕事から帰ってきてさ。ご機嫌だなって思ったり、元気ないなって思ったり。その日の声ですぐに分かった。子供ってそういうところがへんに敏感で残酷だよ」
 ウニョクは寂しそうに笑う。
 思い出したのだろうか。全ての元凶である自分の母親のことを。そして今でも愛しているたった一人の母親のことを。
「ヒョクは、シウォンが好き?」
 ドンヘの問いかけに、ウニョクは答えるでもなく、ゆっくりとドンへのほうを向いた。目が合って、時が流れる。
 ウニョクのことを知るほどに、自分が分からなくなっていく気がした。いつからこんなに切ない甘い声が出るようになったんだっけ、とドンへはぼうっとかすむ脳裏で思う。
「ドンヘ、」
 ウニョクがドンへの名前を呼ぶ。胸が苦しくなる。涙が溢れ出そうになる。ドンヘは「うん」と言った。精一杯の愛しさを込めて、言った。

 Maybe we need just a little more time
 多分僕たちにはもう少し時間が必要で、
 Time that can heal what's been on your mind
 君の心の中にあるものを癒すことができる時間が必要で
 You can find what we lost before it all slips away
 全てが消え去ってしまう前に、君は失ったものを見つけることができる
 We need time to mend from the mistakes I've made
 僕たちには犯した過ちを償うための時間が必要なんだ
 God only knows what a heart can survive
 心が生き残る方法は、神のみぞ知るんだから

 ウニョクの声はドンヘの心を優しく溶かしていった。まるで粉雪が朝日のもとで消えてゆくように。
 ドンヘの瞼が綴じていく。やっぱりウニョクの声が好きだなあ、と思った。

 君が犯した過ちは、きっともう俺の中にもあるんだ、とドンヘは思う。その証拠に今ドンへの心はウニョクによってこんなにも支配されている。それが嬉しくて誇らしくてやっぱり俺って変態なのかな、と思わずにはいられない。
 誰に向かって歌っているの?お母さん?君のお父さんかもしれない人?お父さん?シウォン?それとも俺―――?

 ウニョクを抱きしめたくて手を伸ばした。でも瞼が重くて開けない。探るように手を震わすと、何か違うものに包まれる感じがした。ああ、ヒョクだ。ドンヘは安心して微笑んだ。
 今俺は、ヒョクの腕の中にいるんだ。
「寝てんじゃねえよ。ばーか」
 ウニョクは笑ってドンヘの額と自分の額をつき合わせた。そしてそっと触れるようにドンヘの前髪の上に唇を当てる。ドンヘはうっすらとした意識の中で、それを感じた。
「今日のお前、格好良かったよ」
「え・・・?」
「惚れそうになった」
 あたたかな感触。やさしい息遣い。声を出そうと思っても、意識ばかりが遠のいていく。
 結局質問に答えてもらえなかったなあ、と思いつつ、ドンヘはウニョクの腕の中で静かに眠りに落ちた。

 ウニョクの腕に頭を委ねて寝息を立て始めたドンヘをウニョクはじっと抱きしめる。やがて二人の寝息が混じり合い、部屋のぬくもりとともに夜の深いところに消えていった。

俺から目を離すな

 朝陽とともに目覚めた朝、まぶたを開けるとそこにはウニョクがいた。
 ドンヘはとっさに微笑みが隠せなくなって、「おはよう」と掠れた声で言う。ウニョクは愛おしそうな視線をドンヘに向け、前髪にそっと触れた。ドンヘはくすぐったそうに目を綴じる。と同時にウニョクの唇がドンへの唇に落ちた。
「ヒョク、好き・・・」
 甘く囁いた声はウニョクの耳に届いて、ウニョクは微笑んで、ドンヘは胸がいっぱいになる。少し強く首元を手繰り寄せられて、寝転んだままウニョクにもたれるようなかたちになった。ドンヘは窮屈そうに身をちぢこませる。それをウニョクは強く抱きしめる。
「俺も、好きだよ」
 ああ、ヒョク。
 ドンヘは思った。
 今唇の向こうにはウニョクがいて、自分を好きだと言ってくれている。夢みたいだ。ウニョクに導かれるままに、ドンヘもゆっくりと口を開いた。舌が絡まり合う、もうあと2センチ―――。

 ・・・というところで目が覚めた。本当に夢だったみたいだ。
「まじかよ・・・」
 周りを見渡しても誰もいない。代わりに枕元に「お前寝相悪すぎ」と書いた紙入れが置いてあった。ドンヘはがっくりと肩を落としてその白い紙を見る。ウニョクの文字は意外と丸っこかった。
「ん?」
 紙切れの端っこになにか小さく書いてある。なんだろう、と思って目を近づけてみる。
 それは「また来る」の四文字だった。

 シンクを覗くと食器はすべてきれいに片づけられていた。丁寧に水も拭いてくれている。心なしか台所の水垢が薄くなっているように感じた。
「おはよう。洗いもの、ありがとう。 ドンヘ」
 という文面のメールをウニョクに送った。この一行を打つのに三十分かかった。
 また来てね、とか、待ってる、とか、本当はいろいろ伝えたいことはあったが、いざ送信ボタンを押そうと思うとなかなかできなかった。

 それから一週間と半分。ウニョクとは一度も連絡を交わさなかった。電話も、メールも。
 でも、ドンヘは特に寂しくはなかった。あの日のデート(やっぱりウニョクに殺されそうだ)があまりに幸せだったからだ。あまりに幸せすぎて、あの日だけが額縁に入れられたひとつの絵画みたいに変わらない輝きをまとってドンヘの胸の内を照らした。ウニョクから誘ってくれた待ち合わせ。二人並んでみたミュージカル。ウニョクが仕事を見守ってくれたこと。ウニョクの手のひら。前髪にしてくれた小さなキス。それでもドンヘは期待したりはしない。あれはきっと愛情とは違う、友情のような、同情のような、そんな曖昧なもの。
 ただ、幸せだと思うだけだ。


「こんばんはー!」
 いつになく大きな声であいさつをする。その声を聞いて店内で準備をしていたスタッフやダンサーたちがドンヘに駆け寄ってくる。
「久しぶり、元気にしてた?」
「怪我はもう治った?あれからなにもされてない?」
「さみしかったよ、イケメンバーテンダーさんがいないんじゃ」
 さまざまなねぎらいの言葉が素直に嬉しい。ドンヘはどの言葉にも丁寧に礼を言い、
「もう大丈夫です。心配かけちゃってすみませんでした」
 と全員に向かって頭を下げた。大丈夫だよー、と言ってくれる周囲の人たちのあたたかさに涙が出そうだった。この職場で働けて良かった、と心から思った。すると降り注いでいた声が途端にぴたりとやんだ。
「ドンヘ」
 シウォンがいきなりドンヘを抱きしめてきた。
「久しぶり」
 とドンへの耳元で絞り出すようにシウォンは言った。
「オーナー。本当にご迷惑おかけしました」
「謝る必要なんてない。こちらこそ血も涙もない処分を下して悪かった」
 シウォンの声が微かに震えている。本当に申し訳ないと思っていることが伝わってきて、ドンヘはやっぱりシウォンに謝りたくなった。シウォンの誠意のこもった真摯な態度にドンヘも誠実で素直な気持ちになってくる。自分もよく人が善すぎるなどと言われるが(ウニョクにも言われた)、シウォンこそ本当の善人だな、とドンヘは思った。
 ドンヘは先ほどからずっと気になっていたことをシウォンに訊いた。
「あの、ヒョクは?」
 ヒョク、と言われてシウォンは数秒経ってから「ああ、ウニョク」と理解したようだ。再び店内に心地よいざわめきが帰ってくる。
「ウニョクなら、今メイク中だよ。彼も今日から復帰。彼の復帰を待ち遠しく思っていたファンも大勢いるから、今日は大盛況なんじゃないかな」
 そう言ったシウォンはとても嬉しそうだ。シウォンの笑顔を見てドンヘもつられて嬉しくなる。
 こうやっていられたらいい。嫉妬とか、略奪とか、そんな汚いものに染められずに、ウニョクを大切に思うシウォンとこうしていつまでも笑い合っていられたらいい、とドンヘは呑気に思った。

 開店から一時間。だんだんと客が増えてきた。それもそのはずだ。店の看板ストリッパー、『ウニョク』の二週間ぶりの復帰ステージなのだから。
 あれからメイク中のウニョクに会いに行こうと楽屋に行ったが、彼はもうすでにリハーサルを始めていた。仕事モードが入るとウニョクは非常にストイックな面がむき出しになるので怖い。ドンヘはいそいそとグラスを磨き始めた。
 ユリの話によると、ウニョクは出勤停止期間の間ほぼ毎日店に来ていたらしい。ウニョクがどうしてあのとき嘘をついたのかドンヘには分からなかったが、言ってくれれば自分も店に行ったのに、とウニョクを深く追及しなかったことに後悔した。
「毎晩閉店間際にオーナーのこと迎えに来るのよ。二人は一緒に住んでるみたいね」
 ドンヘはその様子を想像して胸にちくりと針が刺さったような感覚を覚えた。そしてドンへの家で夜を明かしたあの晩、シウォンはどうしていたのだろう、と思った。自分には入り込めないような深い深い渓谷が立ちはだかっている。
 ドンヘには一生足を踏み入れることのできない二人だけの世界を目の当たりした気がして、少し顔を出しかけていた期待も、一切打ち砕かれた気がした。

店が開くと常連の女性客から「あら、久しぶり」など声をかけられた。ドンヘの心の温度が急上昇する。こんなふうに人に接してもらうのは初めてだったので、ドンヘはなんて答えればよいかわからず、とりあえず「ありがとうございます」と微笑んでおいた。


 ショーが始まった。ドンヘの手の動きが自動的に止まる。
 店内にいた客全員の視線がステージ中央のスポットライトに向かった。ウニョクが登場した。
 ウニョクは丸い光に照らされ、片手を天井に突きあげるようにしてポールに絡みついていた。髪の毛が赤から金髪になっている。上半身を大胆に曝した上にファーの白いジャケットを羽織り、ズボンは今にもずり落ちそうなほど下で履いている。少しだけ覗く下着のラインが金色に光った。蜘蛛のような太いアイラインの中に沈むウニョクの瞳が客席を震撼させた。
 今までにないような表情だった。
 曲はドンヘも聞いたことのあるものだった。イントロと同時にウニョクがなめらかにポールを滑り出した。

 Just gonna stand there and watch me burn
 ただそこに立って私が燃えるのを見るのね
 that’s alright because i like the way it hurts
 それでいい、私は傷つくのが好きだから
 Just gonna stand there and hear me cry
 ただそこに立って私が泣くのを聞いてるのね
 that’s alright because i love the way you lie
 それでいいわ、私はあなたが嘘をつくのが好きだから
 I love the way you lie
 あなたが嘘をつくのが好きだから

 客席は震えていた。その美しさに。その強さに。
 ドンヘはいつのまにかバーカウンターを飛び出し、一階の特等席―――ストーカー呼ばわりされていたときにいつもいた中央の席に移動していた。
 ウニョクと目が合った。ドンヘの心臓がどくんと跳ねる。ウニョクはドンヘと目が合うことを予期していたかのような飄然とした態度でじっとこちらを見据えてきた。客もその視線の矛先に気づき、ドンヘの方を一斉に向く。ドンヘが突然の事態に慌てる間もなく、ウニョクはステージから降り立った。
「えっ!?ちょ、な、なに!?」
 思わず声を上げるドンへを無視し、ウニョクは挑発的な動きでドンヘの手を引いた。
 ドンヘは気が付いたらステージの上に昇っていた。男を殴ったときは夢中で気が付かなかったが、ステージはものすごく広かった。しかも客席が思っていたよりも近い。客がみな、自分の方を見ている。ドンヘは全身から汗が噴き出すのが分かった。
「な、なに、ヒョク・・・」
「しっ」
 ウニョクは人差し指をドンへの唇に当てた。客席が湧く。ドンヘはわなわなとその唇を震わせた。ウニョクの顔が近づいてくる。心臓はねじが外れたように震えている。思わずぐっと目を綴じた。
「・・・俺のことだけ見てろ」
 顔をするりと通り過ぎ、耳元でウニョクがそう囁いた。ドンヘはぎこちなくうなずく。それを確認すると、ウニョクはドンヘの手を引き、ポールに絡ませた。自分の腕の感覚やら場所やら全てが分からなくなるくらい頭は混乱し、腕もまた複雑な構成をなしていた。ウニョクはにやりと片頬を上げ、客席に向かってウィンクした。客のみならずドンヘも失神しかける。
「ヒョ、ヒョク・・・」
 ドンヘの呼びかけも虚しく歓声の中に消える。
 ステージの上に立つのは初めてだったし、こんなに大勢の客からの歓声を浴びることももちろん初めてだった。恥ずかしくてどうしようもなく混乱する。それなのに逃げ出したくても腕が絡まって逃げ出せない。目が渦巻くほど狼狽していると、いきなりドンヘの肩に軽い衝撃が生じた。何かと思って前を見るとウニョクの姿がない。「え!?」

 You ever love somebody so much you can barely breathe
 君はほとんど息もできなくなるくらいに誰かを愛したことはないだろう
 When you with em you meet and neither one of you even know what hit em
 その人といるとき、その人と会ったとき、お互いに何に惹かれたのかもわからないままに
 got that warm fuzzy feeling
 ふわふわしたあたたかい気持ちになるんだ

 曲のリズムが早くなっていく。
 客を見ると皆が上を向いているのでドンヘも上を見上げた。ドンヘの腕が絡まるポールの最上の部分にウニョクはいた。命綱も脚立もない。この一瞬でどうやってあんな高いところまで飛んだんだろう。ドンヘが感心して真上を見上げていると、今度はいきなりウニョクが上から落ちてきた。目の前のギリギリ―――まさに一センチのところでウニョクの顔がぴたりと停止した。
 ドンヘの息が止まった。二人はじっと、見つめ合った。
「・・・だから言った。俺から目を離すなって」
 ウニョクの言葉にドンヘは顔全体が熱くなるのを感じた。ウニョクはひょいとポールから飛び降り、ドンヘの周りを美しいステップで舞った。
 ドンヘは今度は言われたとおりにウニョクから片時も目を離さずにいた。するといつの間にかポールから腕は外れていた。すべてウニョクの計算しつくされた絡まり方だったのだ。ウニョクが手がドンへの背中に回る。くるりと翻され、運動神経の悪いドンへはこけそうになった。しかしそれさえもウニョクはフォローしてダンスのステップに変えてしまった。客席もステージも客に包まれている。
 ―――ウニョク。
 ドンヘは心の内で呼ぶ。
 君はどうしてこんなにも期待を裏切らない。いつだってウニョクは新しいものを見せてくれる。楽しませてくれる。客席のみんなは笑顔だ。ドンヘも楽しい。
 これって本当にすごい才能だ、とドンヘは思う。ウニョクがミュージカル俳優になったら無敵だろう、と思った。ストリッパーのウニョクも好きだが、ミュージカルをやるウニョクも見てみたい。
 ふと、客席の端にいるシウォンの姿が目に入った。シウォンは腕を組み、壁にもたれてステージを見ていた。遠くて表情はうかがえない。けれど、こちらをじっと見ている。
「ヒョク、」
「なに」
「・・・うん、なんでもない」
 表情を一切変えず、小声でやり取りをした。ドンヘはどうしてもシウォンのことが気になった。どんな思いでこのステージを見ているのだろう。楽しんでみてくれてれば嬉しいが。
 ドンヘのもやもやは消えないまま、今日のステージが終わった。拍手喝采、アンコールつきの最高のショーだった。
 もちろん、この日の収益は今月トップの数字を叩きだした。


「おつかれさまでした」
 ダンサーたちが次々と帰っていく中、ドンヘはウニョクのことを一人待っていた。どうしても顔を見て帰らないと気が済まない。ドンヘはそわそわして楽屋の前に立っていた。
 もしかしたら、と思う。
 もしかしたら今頃、シウォンと過ごしているかもしれない。あのシウォンの様子を見ると、ドンヘに対して腹を立てていてもおかしくないはずだ。ドンヘの胸の中を急に不安が襲った。
 行き場を失くした手先を弄んでいると、
「ちょっと来い」
 とつぜん首根っこを掴まれ声の持ち主も分からないままに楽屋の中に押し込まれた。もちろんその声の正体はウニョクだった。
「どういうことだよ」
 ドン、と大きな音を立てて壁に押し付けられた。ウニョクの手のひらがドンへの耳の横に壁突く。ドンヘはじりじりと首を横に向けた。
「な、なんだよ、急に・・・。手、怖いよ」
「うるせえ。どういうことだって聞いてんだよ!」
 ウニョクの怒声が楽屋に響いた。ドンヘはびくりと肩を震わせ、思い当たる節がないか頭の中を点検する。しかしどこにも見当たらない。
「なんの話?さっぱりわからないんだけど」
「あいつ」
「え?」
「あいつ、誰」
 あいつ?これまた思い当たる節はない。てっきりシウォンのことを言われるのかと思っていた。気を抜いていると、今度は反対側の耳の横にウニョクの手のひらがドンと飛んできた。ドンヘは左右を塞がれる。おまけにウニョクの顔がものすごく近い。ウニョクの影の中でドンヘはじりじりと壁に背中をつけた。
「あいつって?」
「カウンターに座ってた男だよ。あのおっさん、ずっとお前のこと見てた」
「へ?」
 正直『おっさん』風貌の客は何人もいるし、カウンターと言われてもぴんと来ない。ドンヘが頭にはてなを抱えて黙っていると、ウニョクは「スーツ着てた」と言った。それで点と点が繋がった。ノンアルコールカクテルを頼んだのは彼だけだったのでよく覚えている。グレーのストライプのスーツを着た、紳士風の男性だった。
「ああ、あのお客さん!それがどうしたの?」
「だからお前のこと見てたんだって!」
「えーまたまたー。ヒョクを見てた、の間違いでしょ」
「ほんとだって!実験にお前をステージにあげたらまんまと最前列まで引っ付いてきやがった」
 あれは実験だったのか、となんとなくドンへは納得した。それと同時に少しだけがっかりした。俺のどきどきを返せ、とウニョクに怒鳴ってやりたかったが、ウニョクがあまりに必死な顔をして言ってくるのでできなかった。噴き出すのを頑張って堪える。
 ウニョクの顔があまりに真剣でおかしい。期待しない、と決めていたのに、これでは期待してしまう。いやだなあと思いつつ、やっぱりウニョクの表情に噴き出しそうになっていると、突然ドンヘをもう一つの大きな影が覆った。
「あ、」
 ドンヘの間抜けな声に、ウニョクが若干キレ気味で「あ゛ぁ゛ん?」と返した。ドンヘが口をパクパクさせて「あ、」ともう一度言うと、ウニョクは機嫌悪そうに振り返った。
 「あ、」とウニョクも言った。


「すみません、取り込み中だったかな?」
「いえいえ、全然!」
 例のノンアルコールサラリーマンにコーヒーを手渡す。彼は合うや否や強引にドンヘを連れ去った。状況を窺っているような口を利いたが、それはまるで表面上の話だけだったようだ。彼はシャープな見た目とは裏腹になんだか偉そうな喋り方をするな、とドンヘは思った。しかしそこで眉をしかめる勇気はドンヘにはない。ドンヘはサラリーマンの隣に腰かけた。
「で、話ってなんですか?」
 ウニョクの背後に話題の人物が立っていたのだ。ドンヘに「話がある」と言うので楽屋のそばにある控室の自動販売機の前に連れてきた。二人のほかには誰もいない。俺もついて行く、と言い張るウニョクを何とか言いくるめてやっと二人きりになれたところだ。
「話っていうのはね・・・」
 サラリーマンがおもむろに眼鏡の位置を上にあげる。ドンヘはじっと聞き入った。
「君を俳優として一から育てたいと思っているんだ」
 思わず「は?」と言ってしまった。
 俳優として?まったく言葉の意味が理解できない。
「僕はこういうものだ」
 男はそう言ってスーツの内ポケットから名刺を取り出した。スーツの裏地はワインレッドのボーダーだった。いかにも高級そうなスーツだ。名刺には『N芸能プロダクション 育成部責任者 イェソン』と書いてある。
「・・・え!?Nプロ!?」
 Nプロとは国内最大手の芸能プロダクションだ。そこの育成部責任者って、相当この人エライんじゃ・・・。ドンヘはめまぐるしく襲ってくる様々な衝撃にとうとう耐えかねて聞いてしまった。
「で、俳優って、どういうことですか?」
 男―――イェソンはうなずいた。とても切れ長な目が期待に満ちた目でドンヘを見てくる。ドンヘはその視線に圧倒されながらも、イェソンの言葉を待った。
「実は、先日の雑誌の撮影に同席させてもらった」
「はあ・・・」
「あんな大物の代理だからどんなんだろうと思ってた。そしたら無名のモデルだって言うじゃないか。最初は本当に見くびってた。記念撮影じゃないんだから、と思っていたよ。スミマセン」
 イェソンはぺこりと頭を軽く下げた。謝る気は全くなさそうだ。
「でも、撮影が始まって、すぐにその疑念は掻っ攫われた。それでスタッフに聴収したらここでバイトしていると言われてな。今日のステージを見て再確認した。ドンヘさん、あなたは紙面の上だけで生きるにはもったいない。俳優になるべきだ」
 イェソンは言い切った。ドンヘはあまりの驚きで何も言えなかった。
「うちの俳優教育プロジェクトでは他事務所との並行所属も許可してるんだ。今の事務所のまま、うちのプロダクションに加わってもらえないか?」
 選べるわけがない。迷える権利も理由もない。ただ、一人の大人が自分のために懇願してくれている。今まで土下座してまで仕事を搾取していたこの自分の前で。
 ドンヘはゆっくりと頷いた。まだ何が起きているのかよく分かっていなかった。
「本当に!?」
「あ、ええと・・・その、金がないです」
「ああ、投資資金としてそちらは当社が負担させていただく」
 ドンヘは突然やってきた運のツキに、信じられない思いと足の裏をくすぐられているようなむずがゆさが拭えなかった。まるで夢のような条件だ。ドンヘは意を決した。
「やります。よろしくお願いします!」
 夢を叶えたい。夢を掴むと、ウニョクと約束したのだ。
 イェソンはドンへの返事を聞くと、とても嬉しそうに「それではまた連絡しますので」と言って店を去って行った。
 取り残されたドンへはしばらくぼうっとその場に立ち尽くしたまま、思い出したかのように走り出した。

「ヒョク!!!」
 楽屋の扉を開けると同時にドンヘはウニョクに飛びついた。足を背中に絡ませる。
「うわっ!重っ!俺はポールじゃねえぞお」
 ウニョクの声が潰れている。「ごめん」と言ってすぐに離れた。
「どうした」
「うん。それがね、俺、Nプロからスカウト来たんだ。あのサラリーマン、Nプロの回し者だった」
「・・・まじで!?」
 ウニョクは目を真ん丸にして驚いた。ドンヘはぶんぶんと頷く。
「すっげーじゃん!え、うそ!すげえ!!」
 ウニョクは嬉しそうに口を大きく開けながらドンへを思い切り抱きしめた。
 自分だってポールみたいに扱うじゃないか、とドンヘは思う。ポールみたいに簡単に抱きしめたり話したり、俺の気持ちも考えろ。
 でも、今は歓喜の気持ちの方が勝って、ドンヘも思わずウニョクを抱きしめ返した。
「俺、ヒョクに一番に伝えたくて飛んできた」
「飛んできたって、俺はずっとここにいたちゅーの」
「ううん。もしヒョクが地球の反対側にいても、俺一番にヒョクに伝えたと思う」
 ウニョクの肩に顔を埋める。嬉しい。ウニョクとこの喜びを共有できて本当に嬉しい。
「よかったな、ドンヘ」
 ウニョクはポンポンとドンへの背中を叩いた。ドンヘの目に涙が滲む。
 夢に一歩でも近づけたこと。それを大好きな人に一番に伝えられたこと。そしてその人に喜んでもらえたこと。
「ウニョクに出会ってからいいことづくしだ」
 とドンヘが言うと、
「俺から運気を吸い取ってきやがって」
 とウニョクは笑った。
「実はな、俺も、ある劇団のオーディション受けようと思ってる」
 ウニョクはドンヘの身体を剥がしながら言った。恥ずかしそうにうつむくので、ドンヘは頬を両手で挟み、ぐいと上に持ち上げた。
「すごい。ヒョク、すごいよ」
「そーかあ?」
「そうだよ。ヒョクは今のままでも十分に人を幸せにできる力を持ってるし、それを仕事にしてお金を稼げてるのに、そうやってやりたいことを諦めないヒョクは本当に格好良い」
 ドンヘが真剣な顔で言うと、ドンヘの両手に包まれたウニョクは声を出して笑った。そして、
「ばーか。俺が格好良いことくらい知ってるよ」
 と言ってドンヘの額をこつんと叩いた。ウニョクがそのままドンヘの頭をぐしゃぐしゃと撫でる。撫でるというよりはかき回す感じで。
「ヒョク、」
 ドンヘの呼びかけに、ウニョクは「ん?」と振り仰ぐ。一瞬、ステージから見えたシウォンの姿が脳裏をよぎったが、知らんぷりをした。どうしても伝えたかった。
「好きだよ」
 君のことが好きだ。ずっと前から、君のことが大好きなんだ。
 夢に近づいた。笑顔を向けられる喜びを知った。すべて君が与えてくれたもの。君と生きた、俺の証。君は俺の、スーパーヒーローだ。
 ドンヘはウニョクに近づくでもなく、引き下がるでもなく、ただそこに立っていた。そうしたらウニョクが近づいてきてくれた。いつだってこうやってあっけなく、ウニョクはドンヘの願いを叶えてしまう。手を繋ぎたいと思えば繋いでくれる。声が聞きたいと思えば電話をくれる。
だからお願い。好きでいさせて。
 ドンヘはウニョクの瞳に願った。
「・・・知ってるよ」
 頬にウニョクの手が触れる。次にその手でドンヘの前髪の束をそっと梳いた。そして、ひどく優しく微笑んだ。


 ヒョク――――。
 俺は君と出会ってからいいことづくしだと、そう本当に思ったんだ。今だってそう思っている。君と生きた時間は、俺にとって本当に大切な宝物だった。
だから俺は気が付かなかった。この夢心地にまみれて気が付かなかった。
 もし、時計の針を戻せる力が俺にあったなら、あの夜に戻りたい。何も知らずに深い眠りに落ちていったあの夜に。懐かしいにおいのする部屋で過ごしたあの夜に。

 ヒョク。
 君がくれた宝物で君を失うことになるなんて、あのときはまだ誰も知らなかったんだ。

うすあじのチャーハン

 まるで海底にいるような気分だった。
 空気ってこんなに硬かったっけ、とドンヘは思う。そしてかき消す。緊張と高揚のあまり、難解な作品ばかり書く詩人みたいなことを考えてしまう。
「はあ・・・」
 息をする。吸って、吸って、吐く。吐く。吐く。苦しい。だめだ、呼吸が全く整わない。
 ドンヘのこの乱れた呼吸の原因は、ウニョクのある一言にあった。
 それは今から一時間前に遡る――――。


「・・・知ってるよ」
 頬にウニョクの手が触れて、前髪をかき分けられる。光をまとって見えるほどの優しい微笑みは、ドンヘの心をたまらない気持ちにさせた。
「なんなんだよ、もう・・・」
 ドンヘはウニョクの手をそっと払った。ウニョクが不思議そうな顔で「なにが?」と訊いてくる。ここまで鈍感だと腹が立ってくる。でも口には出さない。腹が立っても愛しいという気持ちの方が勝る。
 ドンヘはあえて軽い口調で返した。
「っていうか、なにってこっちの台詞だよ。さっきのなに?ヒョクってば、すごい剣幕で怒ってたじゃん」
 ドンヘは皮膚の上の部分で笑いながらコートを一枚脱いだ。もうすぐ梅雨に差し掛かるというのにこの厚手のコートでは暑すぎたようだ。
「壁に思いっきり手ついたりしてさ、なにあれ少女マンガみたい」
 ドンヘの言葉をウニョクは黙って聞いている。何の言葉も返してくれないウニョクに煽られるようにドンへはいっそ躍起になってきた。
「え、なに、やきもち?やきもち妬いてくれたの?」
 自虐発言をする自分が痛い。一緒に心臓も痛い。笑顔がさすがに引き攣ってきた。ウニョクはしばらくずっと黙っていた。なにかを考えている様子で。そして突然納得した顔で「そっか」と言った。「これ、やきもちか」
「え?」
「いや、なんかうまく言い表せられなかったんだけど、そっか、そうだな。うん、言われてみればそう。やきもちだな」
 ウニョクは一人で悄然と頷く。ドンヘの鼓動が畳みかけるように走り出した。
「え、ちょっとなんだよ。え、なに、それ。え、え、え!?」
「驚きすぎだっつーの、ばか」
「いやいやいや、驚くでしょ!」
 ドンヘが飛ばした唾をウニョクが眉をしかめて拭いた。「あ、ごめん」とドンヘが言うと、ウニョクは気にしていない様子で、しかしすぐにぷいと背中を向けてしまった。
「ヒョク」
 怒ったかと思ってドンヘの声が弱くなる。ウニョクはそれを敏感に感じ取ったのか、またくるりと振り返ると、ドンヘの頭をがしっと掴んで無表情のまま言った。
「裏で待ってろ。すぐ行く」


 そして、今に至るわけである。
 裏口でウニョクを待つのは慣れている。それなのにこれから起こる出来事が全くと言っていいほど予測がつかない。今日はシウォンはいいのだろうか。ウニョクの考えていることがドンヘにはちっともわからなかった。
「だめだ、死にそう・・・」
「誰が死にそうって?」
 いきなり肩の上に顎を乗せられた。ウニョクがにやりと笑っている。
「わっ、ヒョク」
「おまたせ」
 ウニョクはそう言ってドンヘの手を取り歩き出す。あまりに自然に手を握られ、そして前触れもなく歩き出されてドンヘの心は振り子のようにぐらぐらと揺れ始めた。
「ちょっと、ヒョク」
「なんだよ」
「なんなの?」
「なにがだよ」
「わかんないよ」
「わかんないのか」
「わかんない」
「うん、俺もだ」
 そう言って立ち止まり、ウニョクはドンヘの身体を引き寄せた。ドンヘの身体がウニョクの身体に重なる。
 心臓の音がウニョクに聞こえてしまう気がして怖かった。
「俺も、わかんない。でも、今俺の心はこうしたいって言ってる。ドンヘに触れたいって心が言ってるから俺は触る」
 なんだそれ、とドンヘは思った。
 なんて自分勝手なんだ。なんてわがままなんだ。俺の気も知らないで。
 いくつもの外套の光が二人を照らす。月も星もないのにこんなにも明るいなんて残酷だ。照らさないでほしい。泣きそうなのが、ばれてしまう。
「オーナーは・・・」
「なあ、ドンヘ」
 ウニョクはドンヘの言葉を遮った。聞こえていたのか、聞こえていなかったのかは分からない。けれど二人の身体は重なったままだ。
「とりあえず」
 ウニョクはぎゅっとドンヘの脇の下から腕を差し込んだ。
 ドンヘの心臓に血が満ちる。どくどくどくと、大きな音を立てている。
「キスでもしよ」
 ウニョクの影が脳に伝達されたときにはもう、ドンヘの唇はウニョクのものになっていた。
 頭が真っ白になって目をかっぴらいたままでいると、「こえーからやめて」と言ってすぐに剥がされてしまったのだが。
「お前は俺のテンポを乱すんだよ」
 ウニョクは笑った。思わず涙がポロリとこぼれた。
 その結晶を見てもウニョクは全く心配の色を見せずに乱雑にそれを拭うだけだった。頬が少しひりひりした。甘い痛みだ、と思った。


「おじゃましまーす」
 どうぞどうぞ、とドンヘはウニョクを先に部屋に入れた。昨日の雨で部屋の中の湿気がすごいことになっている。部屋に干された無数の洗濯物(一週間分だ)。その部屋干しの独特の臭い。散乱するハンガーと洗濯バサミ。これだからシングルが突然人を呼ぶとなると大変だ。
 ウニョクはそれを見ていちいち文句を垂れた。
「くせえ!きたねえ!なんだこれ!!」
「ごめんなさい・・・」

 三十分もすると部屋は綺麗に片付いた。 
 ウニョクは整理整頓の才能がある、と言うと「全然嬉しくねんだけど」と言ってすでに敷いてあった薄い布団に寝転んだ。
「かってー」
 ウニョクは目を綴じて言う。ドンヘはウニョクの枕元にそっと体育座りで並んだ。「硬い?もう一枚下に敷こうか」
「いい」
 ウニョクは立てていたドンヘの膝をバタンと倒して開かせると、その内腿のうえに思いきり頭を乗せた。
「うおっ」
「やらけー」
 ウニョクは楽しそうにげらげら笑う。その振動がくすぐったくてドンヘも一緒に笑った。
 ウニョクは自分の心が触れたいと言っているから触れる、と言った。だったらこっちも、とドンヘは半分自棄になってウニョクの頬を撫でてみた。ウニョクの動きは案の定ぴたりと止まった。あれあれまた地雷踏んだかな。ドンヘは少し焦った。
「お前ってさ、」
 ウニョクがじっとドンヘを見上げる。真っ直ぐで真っ黒な瞳に吸い込まれそうになる。前に見つけたウニョクの瞳の中の暗闇は、いつのまにか静かな湖畔のような透明に様変わりしていたことにドンヘは今気が付いた。
 ウニョクの唇が少しだけ動いた。「お前って、なに考えてんの」
「ヒョクのこと考えてる」
 即答したらまた盛大に噴き出された。ウニョクは両手をラッコみたいに叩いて大笑いした。
「そーゆーとこ。それが俺はきらいで、でも気になる。それがまたむかつくんだよなあ」
 相変わらず理不尽な言い草にドンヘはこつん、とウニョクの額を叩いてやった。ウニョクは笑う。こんな無防備な姿をさらすなんて、心を許してくれた証拠かな、と遠慮がちに思っていると、再び唇を奪われた。今度は舌からすくうようなキスだった。
「ぼけっとしてんじゃねえよ、ばーか」
 唇と唇のわずかな隙間から漏れるウニョクの声が愛しくて、ドンヘはそのままウニョクを抱きしめた。
 「おーおー」とウニョクは笑っている。ドンヘは意を決してキスをした。目を綴じた。ウニョクはまだ笑っている。
「笑わないでよ」
「だってお前、必死」
「そりゃそうだ、一世一代の好きな人とのキスだよ」
「なるほど」
 ウニョクはうなずいた。ドンヘは上半身だけを上げて寝転がっているウニョクに合わせて自分も横になった。
 ウニョクの首を後ろから押さえ、自分の方に寄せる。どこで大事なねじを落としてきてしまったのか、自分の辞書に理性という文字はない!状態になってきた。心臓の音だけが驀進している。ウニョクの唇を追いかける。酸素を求めて開いた唇のあいだから舌と舌が触れあって、ドンヘは思わず唇をとっさに離した。自分の息だけがあがっていた。
「俺、ヒョクがいやだったらやめる」
「いやじゃない」
 ウニョクは言い切った。そしてまた口を封じられた。いつも遠くから見ていたふくよかな唇で。
 息が止まった。ウニョクの言葉を信じたい。そして愛したい、と強く思った。

「するか」
 急にウニョクが言ったので、何のことだかわからず「へ?」と間抜けな声を出してしまった。ウニョクが呆れたように言う。
「セックス」
「え!?ちょ、ま、しっ、していいの!?」
「うっせーな、早くやるぞ」
 ウニョクは面倒くさそうな顔で早速着ていたセーターを脱いだ。ウニョクの鍛え上げられた繊細な肉体があらわになる。
「え、なんで!?本当に!?」
「あーもう!早くやろ。決心が鈍る」
 決心って。ドンヘは思わず笑いそうになった。いつだってなんでも飄々とこなしてしまうウニョクをこの自分が振り回しているなんて、おかしくて仕方ない。笑いをこらえるドンへを見てウニョクが不機嫌そうに唸った。
「やってやんねえぞ」
「いやですやります」
「当たり前だ」
 ウニョクはドンヘの身体を吸い寄せた。

 キスが深まるほどにドンヘの肌色も増えていった。ドンヘはウニョクの上に覆いかぶさりながら、とんだ出世祝いだ、と思う。
 ウニョクの手のひらの中で二人の熱情が息をしている。それをドンへも上から包んだ。二人の手の中で血潮がざわめく。二人は顔を見合わせて笑った。笑う余裕なんて全然ないのに、おかしかった。
「すっごい。すっごいや」
 ドンヘが恍惚とした表情で言うと、
「それあほっぽいからやめろ」
 とウニョクが言った。


 ウニョクは慣れていた。行為自体にも、男という対象にも。それが切なかったけれど、あまり気にしないようにした。きっと自分はウニョクが経験してきた男女の中でも飛びぬけて「下手」な方だと思う。
 それでもウニョクはドンヘが「気持ちいい?」と訊くと「うん」と返してくれる。自分では絶対にウニョクを満足なんてさせられていないはずなのに、ウニョクは微笑んで「うん」と言う。それが嬉しかった。
 ウニョクは本当に優しい人だ。優しくて、あたたかい人。俺の求めている人は、そういう人だ。ドンヘはウニョクを強く抱きしめた。ウニョクもドンへの肩にしっかりとしがみついた。
「愛してる、ヒョク」
 ドンヘの声が熱く掠れる。愛してる。愛してる。いつまでも離れないでほしい。相手がいると分かっていても、愛してるばかりが溢れてくる。
 本当は他の人を見ていると知っていても、愛してるばかりが、どうしようもなく。
「好き」
 ウニョクが言った。ドンヘはウニョクの頬を掴んでその瞳の中に潜んでいるであろう真意を探した。けれどそこにはなにもなかった。
「好きだよ、ドンヘ」
 甘く哀しい告白は、ドンヘの耳に確かに届いた。
 ドンヘは唇が裂けるほどウニョクを強く吸い上げた。彼のすべてを呑み込めるように。彼のすべてを自分に染み込ませるように。
「ヒョク。ヒョク。ヒョク。愛してる。ヒョク」
 とめどなく溢れてきた。暗い部屋で見つめるウニョクはステージのウニョクよりもずっと綺麗で柔らかかった。もう他の誰にも見せたくない、という気持ちが湧いた。それが嫉妬だと知った。それが独占欲だと知った。ドンヘは自分を恥じた。
「他の人のとこ・・・」
 気が弱まり、思わず泣き言がこぼれそうになる。自分なりに分からないところで止めたはずだったのに、ウニョクはなんでも分かってしまうのだろうか、そっと頬にキスをしてくれた。
「ヒョク、ヒョク。好きだ」
「うん」
「ヒョク」
 涙が滲んだ。こんなにも愛してる。こんなにも胸が苦しい。自分だけのものにしたい。警戒していた期待どころか汚い欲望までもが溢れてくる。際限なくどこまでも。格好悪くていやらしい感情ばかりが溢れてくる。
 せめて涙がこぼれないようにしかめっ面でウニョクの名前をひたすら呼んだ。ウニョクは呆れたような諦めたような、もう降参と言うような表情で笑った。
「ヒョク、ヒョクって、そんなに呼ばんでも」
「だって、」
「どこにも行かねえよ」
 静かな湖畔は遠い奥まで澄んでいて。ドンヘはその湖畔に迷い込む仔羊のようだった。湖の水はつめたくておいしい。
「どこにも、行かない?」
「俺はどこにも行かない。ただいるだけだ」
 ウニョクは飄然と言った。ドンヘはウニョクの中に沈みながら、一抹の不安を覚えた。
「求められたら感じるようになった自分に腹が立つ。一ミリも動かないって言ったくせに、全然だめじゃん。もう俺は一生誰にも何も感じずに生きていくんだと思ってた。ただ毎日歯磨きや挨拶と同じようにシウォンを見つめて二人で世の中から隠れるように死んでいくんだと思ってた」
 ウニョクは過去を反芻するように言った。
「それなのに、おかしんだ。絶対に無理だと思ってるくせに夢を掴もうなんて言っちゃうし、それで本当にオーディション受けちゃうし。店に来るとお前に会えるのをどこかで期待してる自分とか、嫌いだったモンローのステージを特に練習するようになったとか。モデルしてるお前見て嫉妬してる俺とかな。お前のお気楽菌がうつったのかな」
 ウニョクはうっすらと笑った。ドンヘの耳にウニョクの繊細な声が届く。
 ドンヘはもう一度「愛してる」と言った。脈絡がない、と笑われたけれど、ドンヘは構わずもう一度言った。
「愛してる」
「うん」
「こわがらなくていい」
 ウニョクの頬を撫でた。慄然とした表情でウニョクが見上げてくる。安心させるように額に優しくキスをした。
「求めてもいいんだ。欲しがっていいんだ、ヒョク。好きなように誰かを愛していいんだ」
 ウニョクは子供みたいにじっとドンヘの言葉を聞いていた。
「こわがらなくていい。俺がいるから」
 涙が溢れてきた。やっぱりだめだった。
 泣きながらドンヘは言った。ウニョクに教えたかったこと。伝えたかったこと。たとえその「誰か」が自分でなくてもいい。シウォンでもいい。きれいな女性でもいい。
 ただ、ウニョクに分かって欲しかった。知ってほしかった。誰かを愛し、求めることのよろこびを。俺はウニョクから教わったんだ。
「だから・・・」
「ドンヘ、」
 ぎゅっと手首を掴まれた。ウニョクのこめかみにきらきらと宝石が舞った。
「ドンヘじゃなきゃだめだ。俺、もうずっと前からお前しか見えてなかった」
 ウニョクの涙を初めて見た。強くてしなやかでたった唯一の生き物イ・ヒョクチェ。その彼が今自分の目の前で涙を流している。
 二人は微笑んで抱き合った。ウニョクの肩はかたかたと震えていた。それを抑え込むでもなく躾けるでもなく、ただ包み込むように―――ただ愛を囁くように、そっと抱きしめた。
 こわがらなくていい。ドンヘは心の中で叫ぶ。
 ヒョク、そばにいて。お願い。君のために、生きてみたいんだ。
 混ざり合った荒い息が湿度の高い部屋に響いていた。部屋干しとウニョクの匂い。
 この匂いを俺は一生忘れないだろう、とドンヘは思った。


「いつまで寝てんだよ」
 鈍い衝撃で目が覚めた。ぼんやりと目を上げると、天井ではなくそこにはウニョクの顔面があった。ぷん、と香ばしいにおいがする。
「ヒョク、おはよ」
「ん」
 ウニョクはすぐに台所に戻っていった。追いかけるようにドンへも身体を起こす。
「って!」
 あまりに久しぶりのセックスで身体の節々が悲鳴を上げていた。腰をさするドンヘをウニョクはぶすっとした表情で眺める。
「いて、じゃねえ!俺なんて立ってるのでさえ痛い」
「ご、ごめん・・・」
「踊れなくなったらどうすんだ。お前が代わりに踊るか?」
 ウニョクは言いながらフライパンを動かし始める。ドンヘはいそいそと台所に向かい、エプロン姿のウニョクを後ろから撫でるように抱きしめた。
「ごめん」
 耳元で囁きつつ顎を肩に埋める。香水も何もつけていないウニョクは赤ちゃんのようなにおいがした。肌のにおいだ。ドンヘはにやけるのを必死で堪える。
「なに作ってんの?」
「チャーハン」
「ふーん」
 こうしていると恋人みたいだな、と思う。思いながら、俺たちの関係はなんなんだろう、と思う。聞いてみるとと、
「友達じゃねえな」
 とウニョクは言った。ドンヘは少し期待で胸が躍った。
「友達じゃない?じゃあなに?」
「セフレ、でもねえよな。お前下手だし」
 ウニョクはしたり顔で頷く。ドンヘは赤面した。
「だったらなんだよ」
「うーん・・・いんじゃね、なんでも」
「恋人?」
「うーん」
「愛人?」
「あー、それいいな」
 ウニョクがひらめいたように言う。ドンヘは顔を真っ赤にして「ひでえ!」と叫んだ。耳元で大声で叫ばれてウニョクは耳を塞いだ。ドンヘはその手に軽くキスをする。ウニョクはくすぐったそうに身を捩った。「うそうそ」
「ほんとジョーダンやめて」
 ドンヘが不機嫌そうにつぶやくと、その半開きの口に目玉焼きを突っ込まれた。もごもごと言葉と目玉焼きとが混ざる。
「いーんじゃないすか、それで」
「へ?ほへっへはひ?」
「え?」
 ウニョクが笑う。それってなに?目玉焼きをひととおり咀嚼してからもう一度聞いた。
 湯気が食卓に立ち込める。朝日を浴びておぼろげに光っている。「だから、恋人ってことで」
「まじで!!!」
 ドンヘが叫ぶと「うるせーな」と言ってウニョクは一層大きく笑った。
 この笑顔が好きだな、と思う。
 真っ白な歯。ピンク色の歯茎。消えてなくなる目。皺くちゃになる皮膚。ドンヘはこの笑顔に何回も救われてきた。同時に同じくらい苦しめられたけれど。
「ほら、食べよ」
 ウニョクが箸を渡してくる。ドンヘは受け取って頷いた。二人並んで食卓に座る。
「いただきます」
 こんな朝が訪れるなんて想像もしていなかった。
 誰かと二人でこんな風に朝ごはんをちゃんと食べるのは久しぶりだ。しかもその相手はウニョクだ。これは夢で、もしかしたら昨日のセックスまでもは全部夢なんじゃないか、と疑うほどに幸せだった。
「うまい」
 ウニョクの作ったチャーハンと目玉焼きは正直味が薄かったけれど、もともと食には無頓着なドンヘということもあって、何も言わなかった。それよりもウニョクが自分を含んだ二人分の食事を朝早くから作ってくれていたことに対する感動と幸せでおかしくなりそうだった。胃袋がブラックホールになって、いくらでも食べ続けられるような気がしてくる。
「今日はなにすんの?」
「さっそく例のNプロ行って契約とか説明とかいろいろしてもらってくる。そのままレッスン体験して、夜はいつものかんじ」
 ドンヘはチャーハンを頬張りながら答える。「ヒョクは?」
「俺は午前舞台観に行って、そのあとは開店まで家でひましてる」
 ウニョクの口に次々と米粒が運ばれていく。伏せた目から伸びるまつ毛の影が頬に落ちている。ドンヘはユリの言葉を思い出した。
『二人は一緒に住んでるみたいね』
 途端に味覚が失われていくのを感じて咳き込んだ。ウニョクが「大丈夫か」と言って背中を叩いてくれる。
「ごめん」
「おいおいゆっくり食えよ」
「うん」
 ウニョクの手のポンポンという音が心臓に振動して泣きそうになる。
 帰らないで、と言いたかった。俺が帰ってくるまでここにいて、と。
 でも言えない。それはわがままだ。
「いいな、俺もまた一緒に観に行きたい」
 ドンヘは涙をむせたせいにしてぐっとチャーハンを呑み込んだ。やっぱり味が薄い。
「今度な。今日は運命の日になるかもしんないんだろ。頑張れ」
 ウニョクは親指の腹をドンヘに突き出し、にこっと笑った。不思議だよ、ヒョク。ヒョクに頑張れって言われたら、なんか頑張れそうな気がしてくるよ。
 ドンヘはしっかりと頷き、ウニョクの頬にこびりついていた米粒を取ってやった。
 ウニョクは赤面して「わざとだから」と言った。


 それから三ヵ月の月日が流れた。梅雨は明けて、夏も本腰に入るという時期に差し掛かった。ウニョクの言ったとおり、あの日はドンヘにとって運命を大きく変える一日となった。
 ドンヘはその後俳優としての頭角をめきめきとあらわにし、ひょんな縁が理由で夏の連続ドラマのサブキャストに抜擢された。俳優として売れたいと志してから、わずか三ヵ月の出来事だった。

 ドンヘはあの夜の匂いを今でもときどき思い出す。そして胸の奥から締め付けられるようなあたたかさに襲われる。
 ヒョク、会いたい。そう思っても、いくら叫んでも、もう会えない。
 ドンヘはあの夜の匂いを今でもときどき思い出す。夢中で愛を探し見つけた、もう一生くりかえされないあのかけがえのない瞬間を、胸いっぱいに描く。

とある二代目のとある一日

 チェ・シウォンは相当な早起きである。
 平均睡眠時間は毎日約四時間。朝三時に帰ってきて四時就寝、八時に起床ですぐに近所をランニングする。もちろん朝ごはんは抜いたりしない。しっかり三食食べ、もちろんすべて自炊だ。
「お前はこの仕事に向いてねえな」
 雑穀米や漬物の並ぶ食卓を見て、ヒョクチェは笑う。
 自分でもそう思う。たしかに俺は夜の仕事に向いていないのかもしれない。


 いまどき踏襲なんて馬鹿げている。父親の事業を継ぐ、ということは、想像よりはるかに多大な重荷と責任をシウォンに押し付ける出来事だった。

 シウォンは生まれつき勉強が好きで、幸い貧乏な家でもなかったたため、母親はシウォンを私立の小学校に入学させた。
 環境が人を作る、と言うように、周りがすべて舗装された温室のような学校で育ったシウォンは、なに不自由のない生活を送っていた。
 そんなシウォンは父親が昔から苦手だった。毎日夜も朝も仕事に出かけ、自分が学校に行っているあいだの昼にしか家にいない父親だったのだ。そんな生活リズムの違う父親に突然顔を合わせたって、何を話していいかわからない。シウォンはいつも父親の前では黙りこくってしまう癖があった。
 しかし母親のことは特別大好きだった。いつも家にいない父親の代わりになろうと、休日にはシウォンのキャッチボールの相手を真剣にしてくれたりした。
 父がいなくても母がいる。
 シウォンは寂しくなんかなかった。むしろ幼いながらに幸せを感じていた。母の子供に生まれて本当に良かったと、神様に感謝していた。

 ある日とつぜん、母親が行方不明になった。
 その日はシウォンの十六歳の誕生日だった。
 シウォンが学校から帰ってくると、家にはいつものようにシウォンの大好物のバナナのパウンドケーキがテーブルの上に置いてあった。「紅茶をいれて食べてね。お誕生日おめでとう」という置手紙と一緒に。
 湯を沸かしているあいだ、テレビを見ていた。つまらないトークショーだった。早く母と話がしたい。今日学校であったこと、明日の宿題で分からないところ。シウォンは母とたわいもない話をしている時間が大好きだったのだ。
 しかし、湯が沸いても、紅茶を飲み終えても、シウォンの誕生日が過ぎても、母が帰ってくることはなかった。

 シウォンは幼いながらに理解していた。自分の母親が行方不明だという現実を。
 それと同時に信じてもいた。きっと帰ってくる。母は自分を一人にしたりはしない。いつだって一緒にいてくれたから。

 数カ月経って、シウォンは信じることをやめた。そして学校へも行かなくなった。父親に「学校をやめたい」と話すと、「そうか」と言って目を伏せるばかりだった。
 母がいなくなってからも、父は変わらなかった。相変わらず夜も朝も仕事場に出向き、シウォンはほとんど一人暮らしの状態だった。そう考えれば昔から自分に父親なんていなかったのかもしれないな、とシウォンは思い出したように思った。
 父のせいなんじゃないか。父が、母を存分に愛でず、ないがしろにするような態度を取ったからなんじゃないか。
 シウォンは疑念を持ち始めた。そして当たり前のように父を恨み始めた。誰にこの不安と寂しさと怒りをぶつけていいのかわからず手当たり次第に目の前の父を恨んだのだ。


 ある日いつものようにリビングのソファで布団にくるまって寝ていると、父が帰ってきた。相当酔っぱらっているらしかった。酔っている父を見たことがなかったから、彼は相当酒に強いんだろうと思っていたが、その夜は違った。呂律の回っていない口調で誰かと喋っていた。電話かな、と思っていると、父の足音のほかに違う足音が聞こえてきた。布団の隙間からそうっと覗く。
 とても美しい可憐な女が父と熱いキスを交わしていた。シウォンはそれをじっと見ていた。
「お願い。私、あの子を守りたい」
「俺の知ったこっちゃない。金を渡すから消えろ」
「あなたの子よ」
 シウォンは心臓が跳ねるのを感じた。
 父の愛人、その子供の存在。
 女は刃物のように鋭い視線を父に向けて泣いていた。父は狼狽の色を必死に隠しながらも、その声は震えていた。
「うそだ、どうして今さらになって言う」
「鑑定でも何でもすればいいわ。あなたは息子を育てる義務と責任がある」
「旦那がいるだろ」
「蒸発したの。私とヒョクチェを残して。あなたとの関係がバレたからよ。ねえ、お願い、助けて。お金は私が作るわ、だから、ヒョクチェだけは・・・」
 女は父に縋りついた。ものすごい形相だった。
 シウォンは母のことを思い出した。もしも母がこんなふうに父に向かって「愛してほしい」と懇願したならば、今もこの家で母は眠っていたのかもしれない。シウォンは途端に心が空っぽになっていくような感じがした。
 母は逃げたのだ、と思った。
 シウォンは寝たふりをした。女のしゃくりあげる声が布団越しに聞こえてくる。父は古い金属が軋むように頷いた。

 その次の日、シウォンは『店』に連れて行かれた。今まで一度も足を踏み入れたことのなかった、父の職場だった。そこはネオンやミラーボールの光が行き交い、鈍器で殴っているような音のするBGMとほとんど裸の女性たちが溢れる店だった。呆気にとられて口を閉じることもできない。シウォンはまだ16歳だった。父は言った。
「お前はすぐにこの店のオーナーになる」
「え?」
 シウォンは相変わらず父と何を話していいかわからず、ただ黙っていた。すると家宝を引き出しから取り出すようにある一人の少年をシウォンの目の前につきだした。「・・・父さん、誰?」
「今日からお前が面倒を見ろ」
 そう言い放つと、父は人ごみの喧騒の中に消えてしまった。すぐに波に呑まれて姿が消える。
「父さん!」
 大人がごった返す暗闇に、少年が二人で置き去りにされてしまった。
 シウォンはうろたえて隣にいる少年のことを見る。少年もシウォンを見ていた。
「・・・とりあえず、うちに一緒に来る?」
 少年は頷いた。
 手首から腰、何から何まで痩せていて、色素の薄いその容姿は今にも消えそうに見えた。彼に潤んだ瞳を向けられ、たまらない気持ちになった。父性本能か?と思いながら、シウォンは彼の手を握って家に帰った。彼も少しだけ握り返してきた。


 名前を訊くと、「イ・ヒョクチェ」と蠅のような声で彼は言った。あの女の話が本当なら、この子は俺の兄弟ということになる。察しのいいシウォンはすぐに気がついていた。
「歳はいくつ?」
「じゅーろく」
 意外にも歳は同じで、訊いてみれば誕生日も近かった。
 シウォンは毎日紅茶をいれながら、彼の口からぽつぽつと言葉がこぼれるのを待った。その量は日に日に増していき、一ヶ月も経つころにはシウォンはヒョクチェとの生活に慣れてきていた。ヒョクチェも徐々にシウォンを「味方」として受け入れてくれているようだった。
 シウォンはいつからか一人でいる寂しさを感じることが無くなっていた。

 そんなある日の晩、いつものようにヒョクチェが風呂から上がるのを待ちながらリビングで勉強をしていると、突然背後から水しぶきが飛んできた。身動きが取れないほど、ヒョクチェが後ろから強く抱きしめている。ヒョクチェの髪からシウォンの首へ、雫が滴り落ちる。
「俺、母ちゃんいなくなったんだ。知ってると思うけど」
 どうして突然こんなことを話すんだろう。
 シウォンは戸惑った。ヒョクチェの中である程度気持ちを整理する準備ができた、ということか。ふと思い立って言いたくなったから言ってみた、といったところだろう。彼にはそういう自由を恐れないところがある。
「うん、知ってる。俺もだ」
「お前も?」
「うん。お前と一緒」
 
 改めて母親の話をするのはこの日が初めてだったと思う。今まで鍵を何重にもかけて封じ込めてきた母との思い出や、誕生日の日の悲劇。数々の物語をシウォンはいつの間にか口にしていた。
 二人は泣きながら笑いながら話した。お互いの母親自慢をした。ヒョクチェの母は本当に美人で、歌が上手だったそうだ。
「毎日子守唄がゴスペルや賛美歌だった」
 とヒョクチェはどこか寂しそうに、しかし嬉しそうに語った。
 とても楽しくて幸せな時間だった。二人は抱き合った。そしてキスをした。まるでそれが毎日の習慣であるかのように。
「ヒョクチェ、君を店に行かせたくない。今はできないけど、俺がオーナーになったら、すぐくびにする」
「いいんだ」
 ヒョクチェはシウォンの手を取って微笑む。
「俺はこの仕事が好きだよ。なによりシウォンの父ちゃんには借りがあるもん。できるだけ恩返ししたい」
「あいつはお前の母親を・・・!」
 シウォンの言葉を遮り、ヒョクチェは小さく首を振る。そして諦めたような目で言うのだ。
「シウォンがいれば、それでいい」
 その目が言う。
 シウォンがいれば、それでいい。だから離さないで。一人にしないで。一緒にいて。
 そのときから、シウォンは神に誓った。俺はヒョクチェと生きていく。ヒョクチェのために、生きていこう、と。
「ヒョクチェ・・・」
 名前を呼んで、いっそう濃密に唇を交わした。ヒョクチェのうっとりした声が漏れる。
 幼い二人は「愛する」ことを短絡的にセックスにつなげて納得していた。楽しかったし、気持ち良かったから満足だった。それになにより、相手を欲すれば答えてくれる。今までことごとく否定され続けてきたその単純な構図を、叶えてくれた。ヒョクチェだけが、そして彼にとってはシウォンだけが、そのたった唯一の存在だったのだ。

 あのころから、俺たちは奇妙な絆で結ばれた。思えば友達であった期間も恋人であった期間も存在しなかったのだ。
 あの日、店で父親がヒョクチェを差し出した瞬間から、俺たちの運命は決まっていたのかもしれない。ヒョクチェという罪の象徴を父親に体よく譲渡されたのかもしれない。
 その苦しみは強大だった。けれど耐えられた。シウォンがいれば、それでいい。そのヒョクチェの言葉を裏切りたくなかったからだ。俺が守らなければいけけない、そう思った。いや、その見栄や傲慢ですら、もはや罪と化していたのかもしれない。人に『なければいけない』なんてこと、絶対に存在しないと身をもって知っていたのに、シウォンは信じた。信じることを、信じたのだ。
 俺は、父の罪を償うために生きる。
 十六の俺は、そう誓った。そして十年経った今でも、変わらずにいる。いや、変わるつもりはない。変わってはいけないと思っているからだ。


「・・・オーナー!!」
 遠い追従の世界からドンヘの声で引き戻された。ドンヘの困ったような顔に画面がフェードインする。「あ、ごめんごめん。何の話だっけ」
「ちょっとちゃんと聞いてくださいよ!明日から一週間くらい休みたいって話です」
「ああ、それか・・・うん、いいよ」
 カレンダーを見渡してシフトを確認する。どうせ明日から三日間は一人余計に入っていたし、他もどうにかなるだろう。シウォンはすぐに承諾した。しかし、申し出を受け入れられた張本人であるドンヘはなんだか寂しそうだ。
「どうした?」
「いや、明日から、長期撮影なんです」
「モデルの?」
「いえ、俳優の方の」
 しゅんとなってドンヘは頷いた。ドンヘは三ヵ月ほど前からうちで働いているバーテンダー兼ウェイターのバイトだ。彼の本業はモデルで、今は新たに俳優の仕事もしているらしい。
「いいことじゃないか、本業がはかどるのは」
「はい、めちゃくちゃ嬉しいし楽しいっすよ。でも・・・」
 ドンヘはそう言って赤いドアの楽屋の方をちらりと見た。ウニョクの楽屋である。そしてシウォンは察知する。そう言えばドンヘはウニョクを追いかけてバイトを始めた、と言ったっけ。シウォンは笑った。
「うちは大丈夫だから。めいっぱい好きなことをやりなよ」
 シウォンの微笑みに、的外れな返答をされたのであろうドンヘは「は、はあ」と頭を掻いた。


 その日も、ヒョクチェは家に帰らなかった。これで今月に入って五度目のことだった。
 一日でも帰らないと不安になる。あのときの母親のように、何も言わずに行方をくらましてしまうんじゃないかとシウォンは気が気でなくなる。そのことをヒョクチェは誰よりも知っているはずなのに、最近家に帰らないことが頻繁に増えた。シウォンは苛々した。
 しかし口には出さない。言葉や力でなくてもヒョクチェは分かってくれると、十年経った今でもなお信じることを諦めない自分がいた。

「ただいまー・・・」
 そうっと開かれた扉の向こうにヒョクチェが立っている。時計を見ると朝の六時だ。
「シウォン、もう起きてたの?」
「ああ」
 うそだ。本当は眠れなかった。いつもは睡眠薬を飲んで眠っていたのだか、今日は薬が切れていたのだ。ヒョクチェは、よっこらしょとシウォンの隣の空いてるスペースに座る。シウォンはすぐにヒョクチェを抱きしめた。
「うおっ、どしたの」
「いや・・・」
 自分でもこの寂寞をどう説明していいかわからなかった。ただ、だんだんと増えていく一人で過ごす夜を、シウォンは不安に感じずにはいられなかった。
 「どこに行ってた」と訊くことも出来ず、手持無沙汰になる前に今日ドンヘに明日のシフトを無くしてほしいと頼まれたことを話した。
「俳優の仕事の方がうまくいっているみたいだな。明日から一週間、地方ロケだそうだ」
「ふうん」
 ヒョクチェはあまり興味のないふうに曖昧な相槌を打つだけだった。シウォンは少し安心した。
 もしかしたら、と思う自分がいたのだ。
 二人の謹慎処分が解けた日のポールダンスのステージ。それ以前にあの暴行事件の発端。全てにドンヘがかかわっていた。最初は毛嫌いしていたヒョクチェも、だんだんドンヘに気を許すようになっているようだ。それは本当に喜ばしいことなのに、どこか寂しいような嫉妬のようなものがシウォンのことを苦しめていた。
 たかがバーテンダー。あいつにヒョクチェを奪うことなんてできない。
 そういった自信が、ヒョクチェのいない夜が増えるたびに刻々と削ぎ取られているような気がしていた。
「ヒョクチェは?今日はなにするんだ」
「うーん・・・まあ、いろいろ」
 ヒョクチェは中に視線を彷徨わせた後、気まずそうに俯いた。最近隠し事をするようになったのは分かっている。でもそれも仕方のないことなのかもしれない、と半分諦めている自分もいる。
 もう俺たちは子供じゃない。
「いろいろ、か・・・」
「なあ、シウォン」
「うん?」
 ヒョクチェの真っ直ぐな視線がこちらに向かう。シウォンは抱きしめたくなるのを堪え、その瞳をじっと見つめ返した。「なんだ?」
「俺、一人暮らししようかなって思う」
「どうして」
「好きな人ができた」
 シウォンは言葉にならない感情を覚えた。ああ、きたか、と思った。
「まあ、正式には、恋人・・・っていうか」
 ヒョクチェの頬が赤く染まる。
「ドンヘか?」
 無意識に訊いていた。
「え、あ、うん・・・・・・うわっ!!」
 ヒョクチェの声を聞いた時にはもう、その頬をシウォンは思い切り叩いたあとだった。皮膚との摩擦で右手が熱い。
「ふざけるな・・・ヒョクチェ!俺を・・・俺を一人にするつもりか」
「シウォナ・・ちがう!」
「なにがちがうんだ!俺たちは一生誰かを愛することなんて・・・」
 できない?させない?どっちだ?
 シウォンの喉に焼けるような感覚がぼんやりと宿った。ヒョクチェの瞳から涙がぼろぼろと零れている。
「いやだっ・・・!やめろ!!」
 その痛みを紛らわせるために、ヒョクチェの服を剥がした。ヒョクチェは泣きながら「待って、いやだ」と言った。シウォンは無視した。寝不足で頭が余計に冴えわたっていた。

 ヒョクチェは初めてシウォンを拒んだ。いつもキスを仕掛けてくるのもすべてヒョクチェだったからだ。そして気づく。ヒョクチェが求めなくても、俺が求めていたんだ、と。
「いやだ・・・いやだよ、シウォン」
「なにがいや?ここはこんなに悦んでる」
「ねえ、俺の話を・・・あっ」
 ヒョクチェの身体は正直で、それをすべて掌握しているようにシウォンはヒョクチェを操作した。
 自分でも狂っている、と思った。悲しい目で見上げてくるヒョクチェを強引に犯すなんて。
 こんなの違う。ヒョクチェが嫌がることは絶対にしない。ヒョクチェを苦しみから救ってあげると誓ったのは自分なのに。
「シウォン・・・ッ!」
 そう呻くヒョクチェに落とす口づけをやめることはめっぽうできない。シウォンはヒョクチェの身体のことごとく痛めつけながら、まるで幽体離脱のように離れたところから自分を見ていた。この十年間の自分を。
 あのドンヘを強引にステージに引っ張り出してパフォーマンスをした復帰ステージ。あれは今まで見たウニョクのステージで最高のものだった。あんなウニョクの顔、正直見たことがなかった。目の奥がぎらぎらと光り、皮膚の裏で燃え上がる青い炎が見えた。シウォンは何も言わずに突っ立って見ていた。
 しまった、と思った。
 もう“時”が来ているのかもしれないな、とかえって静寂な心境で見ていたのだ。

 ヒョクチェが求めなくても俺が求めていた。
 それと同じだったのか、とシウォンはそのとき悟った。
 依存していたのヒョクチェではない。ヒョクチェが俺を必要としてくれるから傍にいる。そんなのキレイゴトでしかなかったのだ。本当は自分が一番誰かを必要としていた。そして罪という都合のいい理由でヒョクチェを縛りつけていたのだ。
 あの誕生日の悲劇がもう二度と起こらないように。ヒョクチェへの罪を利用して、自分を満たしていたんだ。

「ごめん」
 シウォンは唐突に言った。ヒョクチェは静止したシウォンを真っ赤に染めた目で見上げる。泣きながら、
「俺も、ごめん」
 と言った。『時』が迎えにきた瞬間だった。
 シウォンはヒョクチェを動かしていた手を止めた。ヒョクチェは鼻を啜る。そして涙を拭くことなく服を着ると、足音も立てずにベッドから立ち上がった。
「シウォン、俺はこんなにひどいことをされてもお前を憎むことなんてできない。お前を恨んだことなんて、一度もない」
 ヒョクチェはようやく涙を拭いた。
「本当は、ずっと思ってた。シウォンと兄弟だったらいいのになって。一代目が本物の父ちゃんだったらいいのになって」
 ヒョクチェはそう言うと静かに振り向き、寝室を出て行った。しばらくして玄関の鈴が鳴る音がした。

 俺もだ、ヒョクチェ。
 シウォンは心の中でつぶやいた。
 本当はずっと思っていたのだ。いっそ兄弟だったらいい。そうすればヒョクチェを一生自分の檻の中に閉じ込めて二人きりの世界で生きていけるのに、と。
 でも、俺たちは兄弟じゃない。もし本当に血の繋がりがあったとしても、だ。
 俺たちはその因縁を否定し続けなければいけない。気持ちと反っても、糾弾し続けなければいけない。それが俺たちに課された宿命だ。罪であり、処罰だ。認められない。どんなに願っても。認めちゃいけない。どんなにつらくても。
「・・・くそっ」
 シウォンはヒョクチェを痛めつけた右手で自分の頬を殴った。鈍く強烈な痛みだった。シウォンは容赦のない自分を嗤った。
 それに、あんなに醜い性分の父から、あんなに美しく純粋な少年が生まれるわけがないのだ。生まれるのは俺のような薄汚い心の持ち主だけだ。まあ、それも似た者親子なんだと思えばいい。
 シウォンはベッドのそばの引き出しから煙草を取り出した。ヒョクチェのいないところで煙草はいつも吸っていた。ストックが半分ほど無くなっている。いつの間にか無意識にすぱすぱ吸っていたのだろうか。
「落ちぶれたもんだな」
 シウォンはうっすらと笑った。
「終わりなんてこんなもんか」
 背中に積もる朝日がシウォンの輪郭をなぞる。漏れる光が悲しいくらいに美しい。
 おもむろに携帯を取り出し、ある人物の通話ボタンを押す。相手はワンコールで電話に出た。
「もしもし」
「父さん?」
 久しぶりに聞く電話越しの父の声は老人みたいだった。涙がこぼれた。
「どうした。朝早いな」
「はい。僕は早起きなんですよ」
「そうか」
 父のしゃがれた声に思わず笑ってしまった。電話の向こうで「なんだ」と言う声がする。
「いえ。なんでもありません。それより父さん、例の見合いの件、受けます」
「おお、決めてくれたのか」
「はい」
 もう何年も催促されていた見合いの話だ。一生誰かと契約を交わすなんてことないと思っていたが、それはそれでいいかもしれない、とシウォンは思い始めていた。けじめをつけないと、俺はいつまでも孤独だ。シウォンは思う。
 ヒョクチェは見つけたのだ。罪や罪悪の意識を越えた、シウォンの知らない愛のかたちを。いつのまにかヒョクチェのほうが自分より先に大人になってしまったんだな、とシウォンは内心で苦笑した。
「シウォン」
「はい」
「朝飯は食ったか」
「いえまだです」
「一緒に食うか」
 やけに真剣な父の声がおかしかった。いつも豪胆に構えている父が照れくさそうに頭を掻く様子はなかなか想像つかなかったが、きっとそうしているんだろうな、と思った。シウォンはヒョクチェの姿を思い浮かべた。恥ずかしいときに頭を掻くのは彼の癖だった。
「はい。三十分で行きます」
 シウォンは微笑んだ。そして「父さん」とつぶやく。電話の向こうで「おお?」という間抜けな声がする。
 赦すことができるだろうか、と思う。俺は父を、そして自分を赦すことができるだろうか。
 償うだけが愛じゃない。赦すこともまた、愛なのだ。
 俺は誰かを愛したい。シウォンは強く思った。
 誰かを愛するために自分を赦したい。ヒョクチェ、もう呪文は解けた。愛された分だけ、愛してやるんだ。好きなだけ。
 もう君は自由だ。


 チェ・シウォンは相当な早起きである。
 平均睡眠時間は約四時間。朝三時に帰ってきて四時就寝、八時に起床ですぐに近所をランニングする。もちろん朝ごはんは抜いたりしない。しっかり三食食べ、もちろんすべて自炊だ。自分でも夜の仕事に向いていないのかもしれないと思う。
 しかしシウォンは今日も出勤する。皆が待つあのクラブに。俺の人生を狂わせたあのクラブに。運命を変える人と出会ったあのクラブに。

 今日ばかりは不摂生な父に合わせた朝食を食べよう。
 シウォンは風を切ってシャツを羽織った。

離れ小島

 イェソンは思っていたよりも貪欲な性質だった。ドンヘがレッスンを受けて帰るころには必ず新しい仕事を一つくれた。
「ドンヘ、ほれ」
イェソンは何の気なしに台本を手渡す。「・・・トークショー?」
「ああ、収録は明後日」
目玉が飛び出るかと思った。まだ養成所に通い始めてから一週間も経っていないというのに。いくら国内最大手の芸能事務所だとしても、初めての仕事からテレビ出演だなんて。
「だーじょぶだって。意欲的に声出す。意欲的に名前出す。とにかく売り込むんだ。あ、スタッフへの愛嬌は忘れないこと」
ドンヘは愕然とした。イェソンの強引さにもそうだが、あまりに早すぎる自分の俳優人生の展開に驚いていたのだ。

「・・・はあ・・・」
 今までも出る以外の仕事をやったことのないドンへ(それも大したも仕事じゃない)にいきなりテレビ出演はさすがにきつかった。自分が想像していたよりも喋ったはずなのに、オンエアを見ると全く使われていなかったのだ。まるで存在感がなかった。ドンヘがひどく落ち込んでいると、
「なにこれしきのことで落ちてんだよ。ほら、次だ、次」
と言ってイェソンにまた新しい台本を渡された。今度は朝の番組の二分ほどのコーナーに自分が特集される、というものだった。台本には『Nプロ秘蔵のニュースター、イ・ドンへ』と書かれてあった。
こんなに格好いい肩書きを書いておいて期待に反したらどうしよう、とか思わないんだろうか。
ドンヘは少しプレッシャーを感じつつも、やりたかった『魅せる』という仕事だ。このチャンスを絶対に逃すわけにはいかない。
ドンヘは瞬く間に加速する仕事の波に流されそうになりながら、必死で食らいついていた。

 雨粒が窓を叩く。すっかり生活感のなくなったドンヘの部屋で、ウニョクは一人ラーメンを啜っていた。泊まり込みの仕事が多くなってあまり家に帰っていないのだろう、と思った。ずずずーという音と雨の音とが混ざり合い、実にうるさい。
 ウニョクは携帯のロック画面を開く。着信もメールも相変わらずなかった。
 こんなことなら自分の家で待っていれば良かった、と思う。けれどそれではドンヘには会えない。ウニョクが一人暮らしを始めてもう一ヶ月が経とうとしているというのに、ドンヘは一度もウニョクの新居に足を踏み入れたことがないのだ。だから方向音痴で土地勘ゼロのドンヘには到底行き着くことができないだろう。ウニョクは小さく悪態をつく。
「ざけんな、まじで・・・」
 会いたい、と言って電話してきたのはドンヘのほうだった。それなのに二時間たってもドンへは現れない。それどころか連絡もない。
 こうやって煩わしいのが嫌だからウニョクは極力自分からドンヘには会う約束を取り付けないようにしているのだ。ドンヘはまったくもってその逆で毎日のように「会いたい」というメールを送りつけてくるのだが。
しかし、それも今では週に二、三度に減ってしまった。ドンヘもきっと仕事が忙しくて恋人にかまっている余裕なんてないのだろう。ウニョクは十分に納得していた。理解もしていた。だからこそ、今日は来てほしかった。なにせ今日はドンへが地方ロケに行ってから一週間ぶりに会うことになるのだ。それに今日は・・・オーディションの結果発表の日だ。今の時刻は午後三時。合格ならばあと一時間で電話が来るはずだ。
ウニョクはけなげに待つ自分がだんだん馬鹿らしく思えてくる。
「なにしてんだ、俺」
 ウニョクはラーメンをつまんでいた箸を止め、雨の音を聞いた。これではドンヘがやってきても足音が分からない。ウニョクは苛々した。けれど待つのは簡単なことだった。ドンヘの笑顔を思い浮かべたら、不思議なほど待つことが苦ではなくなっている自分がいた。

「あ、」
 がちゃり、と鍵がほどける気配がする。ウニョクはとっさに前髪を整えた。
 溜まっていたイライラは即座に消え、次に緊張が襲ってきた。いくら裸を見られている相手とはいえ、やはり好きな人にはいい姿を見せたいものだ。それが男心だ、とウニョクは言い訳する。
「ドンヘ?」
 呼びかけても返事はなかった。
 なんだ、空耳か。
 少しがっかりしてウニョクは再びラーメンを啜ろうとすると、マグマが血の底から這い上がってくるような、恐竜が蘇って後ろから追いかけてくるような、そんな轟音がアパートに響いた。
「な、なんの音・・・・・・ぎゃあっ!!!」
 それは、ドンヘがものすごいスピードで廊下を走っていた音のようだった。そのことを確認して一秒も経たないうちに、ドンヘの「ヒョク!」という声と一緒にドンヘそのものがまるでワイヤーアクションのようにウニョクの身体に飛んできた。ウニョクはドンヘの体重と勢いに負け、抱え込むようにして後ろに尻もちをつく。
「ってえ!!」
「ぎゃははは」
 ドンヘはウニョクにまたがり腹を押さえて笑った。ウニョクは本当に尻が痛かったが、ドンヘの間抜けな笑い顔を見て気が抜けたように笑ってしまった。「ふざけんなよ、お前」
「ぎゃはは、ごめんごめん。どうしても会いたくってさ」
 ドンヘは笑い過ぎて滲んだ涙を拭いながら言った。ウニョクは何も言えなくなった。
 だったらなんで遅れたんだよ。もう二時間も待ってたんだからな。
 そう言えればいいのだけれど、ウニョクにはそんなこと言うつもりはさらさら無い。ドンヘを困らせたくない。ウニョクが怒ると、ドンヘは必ず泣く。
「なに、今日も仕事?」
「うん。こっち帰ってきたのは午前中だったんだけど、そのあと二本雑誌の取材入ってて。そこで撮影押してこんな時間になっちゃった」
 ドンヘは乱れたウニョクが着ていたシャツの襟ぐりをの直しながら言った。ウニョクは掬うようにその唇にキスをする。
「待ってた」
 こんなぬるい言葉しか出てこない。それでもいいんだ、と言わんばかりにドンヘは頬を桃色に染めて微笑む。二人はしばらく無言で見つめ合うと、どちらともなく唇を重ねた。
 何十回のドタキャンも、たった一回のキスですべてが帳消しになる。
 恋というのは不思議なもので、今まで自分がことごとく否定してきたような非論理的現象も否応なく迫ってくるし、それを受け入れてしまう自分がいる。こんなふうに間も待たされたって、許してしまう。一度の笑顔で。一度のキスで。
 なんて簡単なんだ、とウニョクは心苦しく思う。人の心なんて本当はこんなにも単純で優しい。
 ドンヘに出会ってから、ウニョクは変わった。過去との葛藤、そしてシウォンとの因縁で雁字搦めになっていた漆でできた心臓は、ドンヘのその残酷な真っ直ぐさにえぐられるようにして、開かれていった。研ぎ澄まされるようにではなく、それはそれは強い力で。思いきり、容赦なく。
「ヒョク、聞いて」
 ドンヘが言った。
「俺、バイト辞めた」
 唇と唇にはびこっていた空気が薄れていく。ウニョクは「そう」と言うと同時に息を吸い込んだ。
「さっき店に行って正式に。なんか結果的にすごく迷惑かける形になっちゃって申し訳なかったな・・・」
 ドンヘはもう実質二ヶ月ほどバイトには出ていなかった。しかしなかなか仕事が忙しくてゆっくりとシウォンと話すこともできず、そのままぐだぐだと幽霊社員と化していたのだ。
「じゃあ今度来るときは客だな」
「なんかもう他人、みたいな言い方する・・・」
「他人じゃん。他人だから優しくすんだろ」
「そういう屁理屈はいいよ・・・しかも全然ヒョクは俺に優しくないし」
 ドンヘは唇をとがらせて言う。ウニョクはウニョクなりに十分ドンヘに優しく接しているつもりだ。ただ単純に、優しくしたい、と思う。そんな気持ちが少しでもウニョクの中にあることを、きっとドンへは知らないだろう。
 ドンヘの荒れた肌をウニョクの手のひらが覆う。ドンヘは気持ちよさそうに目を綴じた。犬か、と思う。肌荒れは日に日にひどくなっていっているようだ。
「忙しい?」
 答えは分かっている。だからあえて聞いた。労わるように。慰めるように。頑張れ、と伝わるように。
「楽しい」
 ドンヘは笑った。ウニョクは気が付いていた。もうとっくにオーディションの発表が終わっていることを。午後四時を過ぎても連絡は来なかった。
 俺は一次審査に落ちた。
 ドンヘには何も言わなかった。ただ心の中で、落ちたんだな、という事実だけがよどめいていた。
『オーディションの発表、いつだっけ』
『んーと、一週間後』
『大丈夫、ヒョク。ヒョクなら絶対大丈夫だよ。発表のときは俺が一緒にいてあげるからね』
 ロケに行く前に二人でした会話だ。あんなに自ら念押しして言っていたのにもかかわらず、ドンヘはもう忘れている。
 夢中でウニョクの身体を貪るドンへを上からぼうっと見つめる。
「ん?なに、俺の顔になんかついてる?」
 ドンへが不思議そうに聞いてくる。
「いや、なんでもないよ」
 ウニョクは笑った。
 ドンヘは忘れてしまっているのだろう。一寸の休みもないスケジュールにいるんだ。仕方のないことだ。
 どんどん忘れていく。
 いらないことや、くだらないこと。必要のないことはドンヘの頭からだんだんと齧られるように、しかし着実に削られていく。
 オーディションのことはきっとその程度の話題だったのかもしれないな、とウニョクは思った。けれど特に腹は立たなかった。いつもみたいに苛々もしなかった。今だからこうしてドンヘのアパートで逢瀬を実現できているけれど、これがあと一ヶ月、二ヶ月も続けられるかといったら、それは不可能に近いだろう。ドンヘの仕事が軌道に乗れば、もうこのセックスが最後かもしれない、という可能性も出てくる。
 ドンヘは忘れていく。ウニョクのオーディションの発表を忘れたように、自分のことも、きっと忘れていってしまうのだろうか、とウニョクは思う。
「ヒョク、愛してるよ」
 ドンヘはウニョクの素肌に手を滑らせ、撫でるような声で囁いた。ウニョクはゆっくりと頷く。ドンヘは満足そうに頬を胸にすり寄せてきた。
 愛しいな、と思う。この残酷なまでに真っ直ぐな男の破壊力は計り知れない、と思う。ドンヘに触れて俺は変わった。だけれど離れていくにはあまりに早すぎる。
 置いて行かないで。ウニョクは思い、そしてすぐにその言葉を取り消す。もう誰かに頼って生きたくなんかない。けれどどこか未練が残るのは、ドンヘのあの言葉が果てしなくウニョクを追いかけるからだ。
「こわがらなくていい」
 ドンヘは言った。
「求めてもいいんだ。欲しがっていいんだ、ヒョク。好きなように誰かを愛していいんだ」
 求めるよ。欲しがるよ。好きなように、お前を愛すよ。
 だけれど今の状況では、手を伸ばしても届かない。俺は何かタイミングを間違えたのだろうか。それとも神様がわざわざ引き離すようにしたのだろうか。初めて誰かを心から求めたいという気持ちが生まれたのに、どうしてもすれ違う。誰かを本気で思ったことがないから分からない。
 こんなときは、どうすればいい?
「愛してる、ヒョク」
「うん」
「好きだよ」
 ドンヘは絶えず囁いてくれる。まるでウニョクの不安を見透かしているように。
 けれどドンヘには見えていない。ウニョクには分かる。ドンヘは今仕事のことで頭と身体がいっぱいだ。その証拠にドンヘはウニョクの身体にキスを落とすだけで決定的な行為に走ろうとはしなかった。きっとドンヘは疲れているんだ。そう自分に言い聞かせてみても、まるでそれが本当に冷え切った心を象徴しているかのように思えてきてしまう。

 少しずつ喘ぎを漏らし始めたとき、ドンヘの携帯が鳴った。ドンヘはすぐにウニョクから身体を剥がし、携帯を取った。さきほどの眠そうな目はすっかり消えていた。
「もしもし」
 電話の向こうで男の人の声が途切れ途切れに聞こえてくる。ウニョクは滑らかなドンヘの裸を後ろからじっと見つめる。そして背中の中央にある二つのほくろをそっとなぞる。
「はい・・・はい、わかりました。はい・・・すみません。はい。すぐ行きます」
 ドンヘはうやうやしい態度で電話を切ると、しばらく何か携帯を弄ったあと、何も言わずに服に着替えはじめた。
「仕事?」
「うん、ごめん。急きょ明日の分の収録も済ませたいんだって。雨の日のシーンなんだ」
 ドンヘは思いだしたようにウニョクの方に立膝で寄ってきた。抱きしめられて、目を綴じる。ぎゅうっという音がした。ドンヘのぬくもりはウニョクの身体を甘い力で締めつけた。
「ほんと、ごめん。ヒョクとせっかく一週間ぶりに会えたのに。本当は一緒にいたいんだよ」
 ドンヘが泣きそうな顔をするので、ウニョクはうんうんと頷いた。
「わかってる。早く行って来い」
 ウニョクが言うと、ドンヘは名残惜しそうに「ごめん」と言った。ウニョクはできるだけ明るく「またすぐ会える」と微笑む。ドンヘも切なそうに微笑んだから、もしかして自分も切なそうな顔をしていたんじゃないかと思って、焦って「早く行けよ」と付け加えた。


「じゃあ気を付けて」
「うん。着いたら電話する」
「うん」
 送ろうか、と言ったら大丈夫と返されたので玄関先まで見送った。これで何度目になるかわからない玄関先での別れ。靴紐を結びなおすドンヘをウニョクは壁にもたれて見下ろす。
「お前本当コンバース好きなのな。テレビ出るようなやつがそんなんでいいわけ」
「えー、じゃあヒョクのと交換してくれる?」
「いいよ」
 ぱっとドンヘが上を向く。「冗談なのに」と言うドンヘの言葉を無視してウニョクもドンへの隣にしゃがんだ。
「悲しいことに、サイズは一緒なんですよね~」
 ウニョクは今日履いてきた靴を靴箱から取り出した。ドンヘの履いているコンバースの色違いで、紺色をしたクラシックなフォームのものだ。ドンヘのものに比べて明らかに新品同様なのは、まさに新品そのものだからだ。
 この靴は、本当はドンへのために買った。まだ一度も履いていない。付き合って三ヵ月。ウニョクはいまだにプレゼントというものをあげたことが無かった。店でこの靴を見た瞬間、ドンヘにあげよう、と思ったのだ。けれどやっぱりいざ渡そうと思うと恥ずかしさから渡せなかった。絶好の機会だ、とウニョクは思い、まるでお菓子でも手渡すようにひょいと渡した。
「いいの?これ、まだ新しいんじゃない?」
「いーから履け履け。そんなボロボロのコンバースじゃみっともねえだろ」
 ウニョクが疎ましそうに言うと、ドンヘは嬉しそうに「ありがとう」と言った。ドンヘの足にその深海の色をした靴は驚くほどぴったりだった。
「うん。いーじゃん」
「ほんと?嬉しい。ヒョクの匂いいつでも嗅げるね。足は臭いけど好きだよ」
「変態」
 ドンヘの頭を靴ベラで叩く。きゃきゃと笑うドンヘに「もう行けよ」と促した。はい、と頷くとドンヘは立ち上がりドアノブを握った。
 もうお互いに分かっている。これ以上触れると引き止めたくなることも、離れたくなくなることも。
「じゃーな」
「いってきます」
 ふいに涙が出そうになってドンヘがいなくなる前にドアを閉めようとすると、傘の先でそれをはばかられた。食いしばって強張った唇をドンへのやわらかい唇がそっと包みこむ。解すように、あたためるようにドンへはウニョクの唇を優しくはむと、「愛してる」と言った。
「愛してる。ヒョク」
 ウニョクは頷いた。
 信じてる。ドンヘだけを、俺は信じてるから。
 そんな意思表示をしかと受け取ったのか、ドンヘは甘い微笑みを残して階段を下っていった。後姿を見ると堪えていた涙が溢れてきそうで、すぐにドアを閉めた。けれど結局後ろ手にドアを突き、声を押し殺して泣いた。


「・・・なーんだ。愛してるも感動的な別れもなしか」
 ドンヘは風のごとくすぐに閉まったドアを坂の隙間から見上げる。
もうすこし寂しいと言ってくれてもいいのに、と思いつつ、しぶしぶ雨の中を歩き始めた。ドンヘの胸元でバイブが鳴る。イェソンからメールだった。
「迎えに行く。どこにいる?」
『家の前。』
 そう打ってから消した。
『前の家の前。』
 打ち直した文章を見て、分かりにくい説明だな、と少し笑う。家の前、と打ったら事務所前に借りたマンションの前にイェソンだったら迷うことなくやってくるだろう。すれ違いになると面倒くさいので、多少変な文章でも諦めて送った。そこは養成所に入って数週間でイェソン名義で借りたマンションだ。1LDKの白を基調とした高級マンションで、ドンヘにとっては城のように感じるほど豪華な、けれど清潔な家だった。すぐに返信が帰ってきたので、イェソンが来るまでアパートの中で待とうかと思ったが、なんとなくやめた。
 きっと、今ウニョクの顔を見たら止まらなくなる。そうドンヘは自分の理性をよく分かっていた。

 ウニョクはあれからすぐにシウォンに正直に話したそうだ。
 シウォンを恨んでなんかいないこと。もちろん一代目のことも。そして自分の母親のことも。相手がドンヘであることも打ち明けた。
 ごめん、とシウォンは言ったそうだ。家から出たあと、ウニョクは前と後ろが分からなくなるくらい泣いたらしい。
「苦しくなんかなかった」
 とウニョクは言った。
「本当にシウォンのことが好きだったから」
 ドンヘはその言葉を聞いて、やっぱりこの人じゃなきゃだめだ、と強く思ったものだ。
 二人は兄弟かもしれない。もしかしたら、違うかもしれない。それは天国のウニョクの母親しかわからない。けれど、二人が心から愛し合っていたのはたしかなのだ。
 それだけは消せない記憶。消せない軌跡。
「もうシウォンを愛することはできないけど、シウォンが本気で誰かを求めたいって思ったとき、俺が言ってあげなきゃいけない。求めてもいい。感じてもいい。こわがらなくていい、って。俺にはそれを言う義務がある」
 ウニョクは凛として言った。
 動かすことができたんだ、とドンヘは思った。
 俺はウニョクを一心に求めて、そして動かすことができた。それが誇らしくてありがたい。ドンヘはますますウニョクを好きになった。

 好きという気持ちが溢れるほどに、仕事やら距離やらがそれを阻もうとする。
 でも負けない、とドンヘは思う。
 ヒョクチェを愛している。理由にするにはあまりに曖昧で不安定な言葉かもしれない。けれどドンヘはそれだけを心に今まで乗りきってきた。仕事がうまくいっているのも、満足いく暮らしをさせてもらっているのも、すべてヒョクチェのおかげだ。ヒョクチェのダンスをあのとき目にしなければ、今の俺はない。ドンヘはそう断言できた。
「ドンヘ、」
 傘の向こう側から聞き慣れた声がした。イェソンだった。
「ごめん、ヒョン。ちょっと忘れ物してて」
「あいつか?」
 すっと顔を上げる。イェソンの顔は傘の影に翳っていてよく見えなかった。
「空いた時間にお前が何しても構わないし、それがお前の原動力となるならなおさらだ。推奨さえする。けどな、わきまえろ」
 イェソンの言葉が重くドンへの腹の底に落ちた。ぼちゃん、という音を立てて沈んた。
「何かを手に入れたいなら、必ず何かを犠牲にしなきゃいけない。世の中ってのはそういうふうにできてんだよ」
 いつしかヒチョルにも同じことを言われた気がする。ドンヘが何も言えずに黙っていると「悪い。少しいじめすぎたな」と言ってイェソンは車に乗り込んだ。ドンヘも後部座席に続いた。

「台詞のないシーンだけどちゃんと台本目ぇ通しとけ。相手の方はもう到着してる」
 車内では一昔前の歌謡曲が流れていた。この曲はウニョクとカラオケでよく歌った曲だ。「あれ流して」とドンヘはイェソンに言う。イェソン会面倒くさそうな顔をしつつ、指定のCDをラックに入れた。
「お前これ好きだなー。お前のせいで俺もう覚えちゃったよ」
 車内にCracks of my broken heartが流れる。ドンヘは外に降り注ぐ雨の粒をぼうっと追った。
「それにしても悲しい曲だな」
 イェソンの言葉が雨音と曲の中に溶ける。ドンヘはあいまいに頷いた。
「裂け目に陥ることを恐れて心を壊すこともできないやつが、誰かを愛することなんて本当にできるんかね。甘っちょろいキレイゴトにしか聞こえん」
 ふと、ウニョクの肌を思い出す。手のひらをぎゅっと握る。もうすっかり冷たくなった手のひら。ウニョクは今頃なにをしているのだろう。
「ヒョン」
「おう」
「俺はふたつを手に入れる。両方、捨てたくない」
 断固としたドンヘの言葉に、イェソンは何も言わなかった。
「裂け目に陥ってもいいから、俺はどっちも守り抜きたいよ」

 現場に着くころには、雨は本降りになっていた。ドンヘが身支度をしているあいだにイェソンが先に降り、黒い革靴を並べてくれた。
「ん?なんだお前、その靴」
 現場や仕事の前には決まって履く靴が五、六足本当はあった。コンバースで通勤していると「芸能人なんだから、みっともない靴履かないで」と、衣装さんが見立ててくれた一足何万円もする靴たちだ。もちろん何足かはドンヘが払ったのだけれど。
「うん、俺の」
 ドンヘはウニョクからもらった紺のコンバースのかかとをコンコンと床に叩きつけ、イェソンが出してくれた靴を車の中にしまう。一点の曇りもなく磨かれていた靴が真っ暗な車内で昏く光った。
「なんでこんな安いの履くんだよ。ここにいっぱい磨いてあんのあるだろ」
 ドンヘはその『安いの』がいいんだ、と思う。それに。ウニョクからもらった大事な靴を、安いなんて言うな。殴ってやりたかったが事情を知らないのだから仕方がない。
いや、事情を知らないのはウニョクの方だった。言えるわけない。本当は新品の靴は何足もあること。「これが欲しい」と言えばそれをその場でくれること。ウニョクに会いに行くのにその光った靴で行くのはなんだか申し訳なく感じてしまったこと。
イェソンの苦言を無視して「早く行こう」と催促した。イェソンもしぶしぶ歩き出した。

 深夜、日付が変わるころにやっと撮影が終わった。
 おつかれさまでした、と声を出した途端、現場についたら電話すると言っていたのにウニョクにメールを入れていなかったことに気が付いた。帰りの車に入ると急いで携帯を取り出し、「連絡できなくてごめん。今撮影終わった。愛してるよ」と打った。


 どっちも守り抜く。
 そんなの簡単なことだと思っていた。愛さえあれば、なんだって大丈夫なんだと高をくくっていたのかもしれない。
 もうすでに些細なことからすれ違うが生じていることは分かっていた。けれどうやむやにした。痛感するのが怖くて目を綴じた。
 会いたい、と思う。
 ヒョク、会いたい。愛してると言ってあげたい。安心させたい。
 そう思っているうちに、眠っていた。ゆるやかな揺れがドンヘを夢の世界へ誘う。

 おやすみ。
 心の中でウニョクに向かって呟いた。
 バイブが鳴ってたのにも気づかぬほどに、すぐにドンヘは深い眠りについた。ドンヘの携帯の着信音が三回響いたあと、何もなかったかのようにまた車内は静寂に包まれた。

ラスト・ダンス

「おはようございます!」
 ドンヘの声にそこにいたスタッフ全員が振り返った。次々に彼らが駆け寄ってくる。
「おはようございます」
「今日も早いですね~本当熱心だなあ」
「今日の撮影も頑張ってください」
 みな口々に声をかけてくれた。ドンヘはその言ひとつひとつに丁寧に応じる。そのちょっとした騒動をかき分けて、ひときわ低く鋭い声が飛んできた。「なにしてるドンへ。早く行くぞ」
マネージャーのイェソンだ。
「うん、待って、ヒョン!」
 すみません、と人だかりを割ってイェソンの背中に続いた。主役がいなくなったのでスタッフは再び各々の作業に戻っていく。ドンヘはかけていた伊達眼鏡を外して目を擦った。
「ヒョン、明日も撮影だよね」
「ああ。明日も、あさっても、その次もだ」
 イェソンはものすごく早足だ。ドンヘはついて行くのに毎回やっとである。


 イェソンにスカウトされてから三ヵ月が過ぎようとしていたときのある日のことだった。
 事務所の扉を急いで出たら、予想外の人物と再会した。
「あ、」
「ヒョン!!」
 ヒチョルだった。
「いつ帰ってきてたの!?」
「んー先月」
「え、そんな早く?なんで連絡してくれなかったんだよ」
「だってお前恋人できたしどうせ俺とかまってくれないだろうと思ってさ」
 ヒチョルは確信犯的な笑みでドンヘを見た。ドンヘは慌ててヒチョルの言葉を訂正する。
「そういう問題じゃなくてさ・・・もう、ヒョン。さみしかったんだからな」
 ドンヘがごもるように言うと、ヒチョルは嬉しそうにドンへの頭を強引に掻いた。

「へー、お前あそこのプログラム受けてんだ」
 ヒチョルはグラスの半分以上が氷のココアをまるで水のように喉に流し込んだ。ドンヘは呆気にとられつつ、俳優を目指すことになったいきさつをヒチョルに詳しく話した。
「すげーじゃんスカウトなんて。売れてんだろ?」
 ヒチョルの言葉にドンヘはすぐに首を横に振った。
「またまたー。一回社長に電話したとき『あいつは今や売れっ子だからなあ』って言われたんだぞ。だから腹立って連絡しなかった」
「売れっ子だなんてそんな」
「そろそろ主演の話来るんじゃねえの」
「来るわけないよ」
 ドンヘはストローでアイスティーを啜る。たしかにヒチョルの言っていることを一概に否定できるほど暇ではなかったのはたしかだ。コネと人脈を最大限に駆使してイェソンは毎日大量の仕事をもぎ取ってきた。ドンヘは言われるままに仕事をこなした。そして気が付いたらテレビにも出させてもらえるようになって、それで・・・
「連ドラ!?しかもゴールデン!?しかもサブキャスト!?」
 そう。夜九時からの連続ドラマにサブキャストとして出演させてもらえることになったのだ。それをさっき事務所で聞かされて本当に驚いた。この自分がテレビドラマに出る。たとえ数分の出演時間でも、自分もあのテレビという箱の中の住人になれる。
 自分でもあまりにうまく出来過ぎた話の中で生きているような気がして、毎日が夢じゃないかと思うほどだ。それくらいドンヘの俳優業は光の速さで躍進を遂げていた。
「お前さー、最初から俳優やればよかったんだよな、モデルなんて今じゃ黒歴史だろ」
 ヒチョルが笑う。ドンヘはここは譲れない、と思い、真面目な顔で「そんなことない」と言った。
「あの日の撮影を今のマネージャーが見たからこうして俳優やらせてもらってるわけだし、今となっては無くてはならない日々だと思ってるよ」
「ほーほー、さすが、売れっ子さんは言うことが違うわあ」
「ヒョン!!」
 ヒチョルと話すのは久しぶりで、興奮して思わず声が大きくなりすぎてしまったらしい。背後に座っていた女子高生らしき三人組が「あれイ・ドンへとヒチョルじゃない?」とひそひそ話をしている。
「前はお前といても『ヒチョルと、あれ誰?マネージャー?』っていうオチがテッパンだったのになあ」
 ヒチョルは懐かしむように言った。顔はどこか誇らしげだ。ドンヘは「もういいって」と言って残りのアイスティーを啜った。
「さ、そろそろ行くか」
 ドンヘとヒチョルは立ち上がり、店を出た。自動ドアを通り過ぎると同時に二人して帽子とヒチョルはサングラス、ドンヘは眼鏡をかける。そうでもしないと大騒ぎになるのだ(何度か経験した)。


「で?うまくいってんの、あのモンローちゃんとは」
「ああっ!!!」
 ヒチョルの言葉で思い出した。ドラマに出演することが決まったと知らされ、真っ先にウニョクに伝えたくて急いで事務所を出たのだ。
 ドンヘは苦いものを噛み潰したような顔で「俺行かなきゃ」と言った。
「は?俺様置いてどこ行くつもりだよ」
「愛しのモンローに会いに」
 ドンヘがにやりと笑う。目をぱちくりさせたヒチョルは拍子抜けした顔で「お前、変わったなあ」と言った。
「変わった?そう?」
「うん。俺が撮影行く前は負のオーラっていうか自殺志望者みたいな雰囲気漂わせてたのに、今じゃなんだ。きらきらしてる」
 ヒチョルがしみじみと言った。ウニョクのおかげだ、と思う。
「夢を掴みかけてるからかな」
「そうかもな」
 ヒチョルは子供の成長を見るような顔でとても嬉しそうだ。「いいから行け。早く報告したかったんだろ?」
「うん!」
 ドンヘはヒチョルに頭を下げ、手を振る。
 次に会えるのはいつだろう。
 ヒチョルはまた海外に撮影に行ってしまうらしいから、今度会ったときはヒチョルと並べるくらいの俳優になれていたらいい、とドンヘは思った。
 ウニョクと出会って夢に触れたおかげで、ドンヘの思考は一変した。希望と光を失わないようになった。もう絶対に後ろ向きなことは考えないようになった。
 大きな成長だ。ドンヘは自分とその恋人が本当に誇らしかった。


「こんばんは~・・・」
 そっと裏口を開ける。まだ開店前の店内はとても静かだった。なるべく足音を立てないように廊下を進んだ。二週間弱見ていなかった風景なのに、まるでつい先ほどまでいたような感覚だ。やっぱりここは俺の居場所だ、と確認する。
「ドンヘちゃん?」
 名前を呼ばれて振り向くと、ユリがいた。すっぴんだったから一瞬誰だかわからなかった。「ユリさん」
「あらぁ、もうすっかり有名人になっちゃってェ。今じゃテレビにひっぱりだこね」
「いえ、まだまだ全然です」
 謙遜しちゃってェ、とユリは笑ってドンヘの肩を思い切り叩いた。脱臼するかと思った。
「あ、あの、ヒョクは?」
 青ざめるドンへの様子は全く気にしないでユリは「んー、多分屋上ゥ」と言った。
「さっき階段ですれ違ったのォ」
「屋上?そんなところあるんですか」
「うん。ま、基本的にタバコ吸う人しか出入りしないんだけどォ」
 知らなかった。半年以上店に勤めていたのに、まだ知らない場所があったとは。
 ドンヘはユリに屋上の場所を聞いて、小走りで向かった。はやる気持ちが抑えられない。早く会って抱きしめたい。もう二週間も顔を見ていないのだ。早く会って、抱きしめて、キスをしたい。
「わっ・・・」
 屋上と内部を隔てる扉を開けると、突き刺すような日差しがドンヘを襲った。目が眩んで前がよく見えない。驚きと眩しさでその場に立ち止っていると、コンコンと足音が近づいてきた。「ドンヘ?」
「ヒョ、ヒョク・・・?」
 おぼろげな視界をかき分けるように手を伸ばすといつもの猫っ毛が手のひらに触れた。ウニョクの髪の毛だ。嬉しくて思わず引っ張ってしまった。
「いててっ」
「ヒョク!ヒョク!ヒョク!」
「なんなんだよお前、ボケたおうむみたいに」
 ウニョクが頭を掻いて笑った。二週間ぶりの笑顔に胸がいっぱいになる。ドンヘはウニョクを抱きしめて、息を大きく吸った。
「ヒョク、会いたかった」
「うん」
 そっと触れるだけのキスをする。
 バーテンダー兼ウェイターのバイトをやめてから早一ヵ月が過ぎようとしていた。俳優を志してからすぐに仕事が入ったドンヘは、忙しくてとてもバイトと並行することができなくなったのだ。それでも時間が空けば店にはなるべく顔を出すようにしている。ウニョクの顔を見ないとドンヘはやっていけない。

「仕事はどう。楽しいか?」
 ウニョクは少しだけドンへの方を振り仰いで聞いた。
 屋上の隅っこで、二人は重なるようにして座っていた。ドンヘはウニョクの背中をぎゅうっと抱きしめる。
「うん。ヒョクに会えなくなるのが寂しいけど、やりがいを感じる。それもまた焦らしプレイってことで・・・」
「あほか」
 ウニョクは声をあげて笑った。「お前は相変わらずドMの変態野郎だな」
「えへへ」
「気持ちわりぃ」
 ウニョクはそう言ってドンヘの膝に手を置いた。その上にドンヘも手をかぶせる。
「あのね、連ドラの出演が決まったんだ」
「え!まじ!?まじで!?」
「うん」
 ウニョクはドンヘの身体から飛びあがり、杖を失くした老人みたいに屈んだ格好で叫ぶ。
「すっげえ!なにそれ、チョーすげえじゃん!」
「あはは、ヒョクが喜んでくれてうれしい」
「え、なに、いつから」
「来月から放送。撮影は来週から」
 へーすげー、とウニョクは言いながら再びドンヘの前に座った。マッサージしてもらうのを待つ犬みたいだ。その犬に飼い馴らされているのは他でもないドンヘなのだが。
「だから来週からまたあんまり会えなくなる」
 ドンヘが言うと、ウニョクはあっさり「うん」と頷いた。
 愛の反対は無関心、というマザー・テレサの言葉を思い出してドンヘは急に不安になる。ウニョクの肩を掴み、ゆさゆさと揺らした。
「嘘でもさみしいとか言ってよ」
「嘘ついてどうすんだよ。しかも仕事だし、仕方ないだろ」
 ウニョクはいつもこんな調子だ。ドンヘは会えない日々、毎晩枕を濡らして過ごしているというのに、ウニョクはてんで変わらない様子に見える。最後に会った日と次に会ったときの顔の表情はピクリとも変わらなかった。
「ねえ、ちょっと痩せた?」
 ドンヘはウニョクの耳元で訊く。「変わんない」とウニョクは言う。たしかに抱きしめた感じが前より少し薄く感じるのにどうしてかな、とドンヘは思った。

「シウォンがさ、」
 あたりはすっかり暗くなってきた。夏が始まる匂いがした。
「ん?」
「シウォンが、結婚するって」
 ウニョクの声は変わらなかった。もちろん、表情も。
「そっか」
 ドンヘはなるべく動揺しないように答えた。うん、とウニョクは頷く。その横顔を見て、もうたくさん考えたあとなんだと悟った。
 そしてどうして一緒に悩んであげられなかったんだろう、と激しく後悔した。
「式はいつ?」
「まだまだ先。夏が終わるころだって言ってた」
 夏が終わるころにはドラマの撮影も終わっているだろう。そうしたらウニョクに出会って二度目の秋がやってくる。
 夏が終わるころ。そう遠くない話なのに、なんだか来世のことのように聞こえた。
「ヒョク、なにが怖いってさ、あれから俺、オーナーに会ってない」
 屋上に吹き抜ける風に当たりながら、嫌な記憶を思い出したようにドンへは白状した。「え、辞めてから?」
「うん」
 顔を合わせたら娘を嫁に出した父親みたいな形相で迫られそうで、なかなか会いに行けずにいる。そう言うとウニョクは大笑いしてドンヘの唇に小さくキスをした。
「挨拶に行って。ウニョクさんをください!ってさ」
「もう、笑い事じゃない・・・」
 ドンヘがげっそりして言ってもウニョクは以前楽しそうにげらげらと笑っている。笑い皺が前よりも深くなった気がする。やっぱり痩せたんじゃないか?とドンヘは心配になった。けれどなんとなく言えなかった。二週間に一度や二度しか会えないような状況で、わずかな機微を見極められる自信がなかったのも本音だった。
「なあ、ちょっと来て」
 ウニョクはすっくと立ち上がり、ドンヘの手を取った。連れられるままに屋上を出る。階段を下ると、もう店は開店していた。陽が短くなったことに気が付かず、まだまだ開店までには時間があると思っていた。
「ヒョク、いいの?開店してるよ」
「今日はオフ」
 うそだ。さっきユリが今日はヒョクと一緒にバーレスクをやると言っていた。
 けれどわずかにのぞく横顔が赤くなっていたので、ドンヘは何も言わなかった。


 二人で静かに酒を飲んだ。一緒に飲み交わすのは本当に久しぶりだった。
 会えたとしても数十分の逢瀬で、なかなかゆっくり話す時間がなかったのだ。バーカウンターにはもう違うウェイターが並んでいる。
「やっぱり楽しい。ヒョクといると安心する」
 ドンヘが微笑むと、ウニョクはまんざらでもない顔をして「当たり前だろ」と言った。
「今日は踊らないんだ」
「うん」
 店はいつになく落ち着いていた。たまたまが重なって客が中高年ばかりだったからだ。
 こんな店の雰囲気も良いな、とドンヘが雰囲気に酔いしれていると、その恍惚を加速させるようなムーディーな音楽が流れ始めた。自然と二人ともステージの方を見る。
「なにこれ、今日ショーないのかな」
「さあ」
 ドンヘが音響室の方にちらりと目をやると、ユリが立っていた。目が合って、ユリの弾けた笑顔がこちらに飛んでくる。何か言っている。
「もうすぐ閉店ってこと?まだ九時だぞ」
「・・・ああ、そういうことか」
「え?」
 ユリはにかっと白い歯を見せて、親指をドンへの方に向けた。そして跳ねるように音響室を去った。
 ありがとう。
 ドンヘは心の中でユリに感謝の言葉を述べる。
「行こう」
 ドンヘはウニョクの手を掴んだ。
「は!?」
 ゆるやかな人ごみを縫うようにして、ステージ前の大きな広場に行きついた。そこではいくつかのカップルが音楽に酔いしれて肩を寄せ合っていた。音楽の音色が懐かしいものにフェードインしていく。
「あ、この曲・・・」
 ウニョクの声にドンヘは頷く。ウニョクの頬がゆっくりと綻ぶのが分かった。

 Maybe we need just a little more time
 多分僕たちにはもう少し時間が必要で、
 Time that can heal what's been on your mind
 君の心の中にあるものを癒すことができる時間が必要で。
 You can find what we lost before it all slips away
 全てが消え去ってしまう前に、君は失ったものを見つけることができる
 We need time to mend from the mistakes I've made
 僕たちには犯した過ちを償うための時間が必要なんだ

「踊ろう」
 ドンヘはウニョクの指の隙間に自分の指を絡ませた。
 ウニョクを思って寂しくなったらいつもこの曲を聞いていた。そうするとウニョクもこの曲を聞いて母親を探したんだと思って、少しだけ泣いてしまうのだ。
 『The cracks of my broken heart』ウニョクの大好きな曲。俺が初めて聞いた、ウニョクの歌声。

 二人はステージに上がった。すると他のカップルも何組か一緒にステージに上がってくれた。それを見た客たちはつられて身体をなめらかに揺らし始める。店内が切ないムードに包まれる。
 二人はその真ん中で、じっと見つめ合っていた。
「お前、踊れんの」
「踊れない。でもすごく気持ちいい」
 ドンヘが微笑むと、ウニョクは眉を下げて呆れた顔をした。そしてドンへの腰を抱き、絡ませていた指を解いてドンへの手を掬った。指先にウニョクのキスが落ちる。ドンヘもそのままウニョクの指にキスをする。二人は微笑みを重ねると、言葉も言わずに身体を揺らした。

 God only knows what a heart can survive
 心が生き残る方法は、神のみぞ知るんだ
 So many tears from all the pain in our lives
 僕たちはこの人生であらゆる苦しみからたくさんの涙を流したね
 And where else could we go after all we've been through
 僕たちの関係が終わってしまったら、僕たちはどこへ行けばいいのだろう?
 I still believe my life is right here with you
 僕はまだ信じているんだ。僕の人生は、君とともにあると。

 There's a light that can burn
 いつでも燈っている光がある
 It exists in the heart
 それは心の中にあって、
 You can feel it when you know love is true
 愛が本物だと分かったとき、君はその光を感じられるんだ
 If you could try to be strong
 もしも君が強くなろうとして
 And keep the light burning long
 その光を燈し続けるのならば
 It took a lifetime but i found it in you
 人生を賭けて、僕は君の心の中にそれを探すよ

 Hold on
 耐えればいい
 And it'll wont take long
 長くかかることはないだろうから
 I hope that you can love me When the pain is gone
 苦悩が消えれば、きみは僕を愛することができると思うんだ
 I don't want us to fall through the cracks of a broken heart
 僕は、僕たちを壊れた心の裂け目に陥らせたくはないんだ
 Don't want us to fall through the cracks of your broken heart
 僕たちを、きみの壊れた心の裂け目に陥らせたくはないんだ


 ただ、目を綴じて踊った。
 ダンスなんてうまくないのに、身体に任せて揺れていた。
 とても心地よくて、涙が出そうなほど切なくて、オレンジ色の照明に照らされた二人はまるで童話の中に出てくる王子と姫のようだった。

 永遠に続いていきそうな気がした。永遠に続けばいいのに、と願っていたからだろう。

「ドンヘ」
 ウニョクが曲の途中で小さく囁いた。そっと目を開けると、ウニョクの頬にはまつ毛の影が落ちていた。いつか見た朝の光景を思い出した。
「俺が、どこにも行くなって言ったら笑う?らしくないって、笑うか?」
 ウニョクの声は問いかけとは限りなく遠いものだった。
「笑わない。俺は、どこにも行かない」
「うん」
 ウニョクは知っていたかのような笑みを浮かべ、頷いた。一歩踏み出して、ウニョクとの距離を縮めた。ほとんど覆いかぶさるようにして、二人は踊っていた。
「俺はどこにも行かないよ。他に行くあてなんかないだろ、俺もヒョクも」
 届きますように。ドンヘは願った。
 このわずかに震える唇から発する声が彼にいつか届く日が来るのだろうか。そう思ったあのときのように。
「お前にはある。もうどこに行ってもお前の居場所はあるよ」
 ウニョクはこのとき初めて寂しそうな声色を見せた。ドンヘはすぐそのわずかな震えに気づいたけれど、もう何も返さなかった。ドンヘはそっとウニョクの身体にもたれる。
 泣きたくなるほど美しいメロディーだった。悲しくなるほどに美しい時間だった。


 そしてその一週間後、ウニョクは自殺未遂を起こした。
 ウニョクが店をやめたと聞いてから、わずか一日後の出来事だった。

 次の日の朝、シウォンからの電話でドンヘは知った。ドンヘは初めて人の本当に激しい声、と言うものを聞いた気がした。
 首を吊ろうとしていたところをたまたま店に早く来ていたユリが発見した。今さっき病院に運ばれた。
 シウォンが一体何を言っているのか、ドンヘには分からなかった。ドンヘの鼓膜はステンレスのようにシウォンの言葉をことごとく弾き返した。


 あのとき、もっと強く訊き返してさえいれば。
 あのとき、ウニョクの声を最後まで聞いてさえいれば。
 きっと、今もウニョクはここにいた。どうしてもっと早く気がついてやれなかったのだろう。いや、気が付いていて目を逸らし続けていたのだろう。もっとちゃんと聞いてやればよかった。もっとちゃんと話し合えばよかった。

 崩壊はもうすぐそばまで、来ていたのに。

 それは音もなく、ウニョクをどこかに葬ったのだ。



 

テイク0


「ドンへ!!!」
 遠くからでもはっきりと聞こえるような声で名前を呼ばれ、ドンヘは振り向いた。
 喉が熱い。身体中から汗が噴き出していた。ドンヘはふらつく足をどうにか抑え、その声の方に走った。

 病室の前にはシウォンが一人で立っていた。
「ヒョク・・・ヒョクは!?」
「なんとか大事には至らなかった。一度気を失ったけど今は回復して意識もはっきりしてる」
 シウォンの言葉にいったんドンヘも胸を撫で下ろす。ほっと溜息をついていると、そんなたゆみも許さずシウォンに思いきり肩を掴まれた。ドン、という音を立てて壁に押し付けられる。
「いった・・・」
「あいつがどれだけ痛い思いをしたていたか知ってるか」
 低く唸るような声でシウォンはドンヘに迫った。
「ましてや、自分でさらに深く痛めつけるようなこと・・・。どうして、どうして何も気づいてやらなかった!君はヒョクチェの恋人だろ!」
 ドンヘは何も言えずにただ俯いた。唇を強く噛みしめたら、乾いた口の中に鉄の味が広がった。
「信じられない・・・ヒョクチェが、自殺未遂だなんて・・・」
 シウォンは病室の前の椅子にふらふらと座り込んだ。シウォンに掴まれていた肩にはまだ力が宿っていた。頭を抱えて椅子に座っているシウォンをドンへは無気力に見下げる。
 あんたが結婚するなんて言い出すからだ。
 ドンヘは確信を持っていた。ヒョクチェが突然店をやめると言い出したのもシウォンに気を遣うためで、しかしやはり耐え切れずにこんなことを・・・。
 そうドンヘが腹の中でシウォンをきつく睨みつけていると、それを見透かしたかのようにシウォンは顔を上げた。
「今日はもう帰ってくれないか。ヒョクチェは面会拒否を求めている」
「や、ちょ、でもっ」
「君にだ、ドンヘ」
「え?」
 シウォンは立ち上がって、病室の銀のドアノブを握った。
「ヒョクチェは君にだけ会いたくないと言っている」
 そう言うとシウォンは中に入っていった。


 一人残された廊下の真ん中で、ドンヘはへなへなとしゃがみこんでしまった。
 どうして。どうして。
 ドンヘは混乱と困惑で何も考えられなかった。いつもされるふざけた拒否とはわけが違う。心配で心配で、頭がおかしくなりそうだ。
 顔が見たい。元気だと言ってほしい。ヒョクチェの口から聞かなければだめだ。
 ドンヘは泣きそうになったが、泣けないほど途方に暮れていた。
 バイブ音が廊下に響いた。近くにいた看護師に怒られる。
「すみません」
 棒読みで謝っても場所を動く気にはなれなかった。その場にしゃがんだまま携帯を取り出した。イェソンから着信が十四件も入っていた。無断で撮影を抜けてきたのだ。
「今すぐ帰ってこい。でないと解雇」
 そんな旨のメールが何十通も入っていた。ドンヘはひととおり目を通して携帯の電源を切った。ヒョクチェがこんなに大変なときに撮影や解雇云々言っていられない。ドンヘは病室前の黄緑色のソファに移動した。
 一度は気絶したものの今は意識があること。それしかシウォンは教えてくれなかった。なにか揺るぎのない裏付けの説明が欲しい。具体的なことを訊いたところで医療に詳しくないドンヘが意味を理解できるわけでもないが、膨れ上がるこの胸の不安は薄れるだろうに。
 いくらウニョクにとって保護者のような存在のシウォンでさえ、こんなのってあるか。あんまりだ。ドンヘは思った。
 そしてそのままソファの上で夜を明かした。その晩、病室から出てくるものは誰もいなかった。


 パーティーで豪遊している。
 隣には美女が溢れるほど座っていて、目の前のグラスには高級そうなシャンパンが並々と注がれていた。安っぽいダンスにチップを何万か払った。
『ありがとうございます』と目を輝かせて受け取ったのは一人の男のバーテンダー。その顔には見覚えがあった。『さっき踊ってた人?』と問うと、照れくさそうに『はい』と言った。彼は髪をライオンと同じような金に染め、細く華奢な体格をしていた。
『君まだ下っ端でしょ。もらっときなよ、ちょっとだけど』
 ドンヘは彼に重ねて一万円を与えた。彼は目を伏せて深く礼を言うとそっと胸ポケットの中にしまった。
 ネームプレートには≪ウニョク≫とあった。素敵な名前だね、と小声でウニョクの耳元に囁き、ドンヘは満足げに店を出た。
 そのままクラブから連れ帰ったスリムで胸の大きな女性とセックスをする。そして朝が明ける前に手切れ金を置いてホテルを出る。家に帰り、家に帰りシャワーで汗を流したのち明日の撮影に備えて髭を剃る。
 挙止動作に一切の迷いも持たず、ただ無心で習慣を過ごす。ドンヘは心も身体も十分に満たされている。仕事もうまくいっているし、スキャンダルだって十分売名行為になると言ってマネージャーは屈しない。
 ドンヘは満たされていた。
 温かい羽毛布団に全裸の身体を包み、目を綴じる。声は出さずにおやすみなさいと言う。誰に向かってでもなく、自分に言うのだ。
 瞼を閉じるとウニョクを思い出していた。彼は痩せていてつぶらな瞳の持ち主だったな。考えていると口元が緩んだ。セックスしてみたいな、と思った。ウニョクとのセックスを思い浮かべながら、ドンヘは深い眠りについた。


「ドンヘ」
 名前を呼ばれてうっすらと目を開く。
「・・・へ?・・・ヒチョルヒョン!?」
 目の前には陰で暗くなったヒチョルの顔があった。
 どうやら“あれ”は最低の悪夢に留まってくれたようだ。近年まれにみる最悪な夢だった、とドンヘは額を伝う汗を拭う。
「大丈夫か?うなされてたぞ」
「ほんと?・・・苦しい夢ではなかったんだけどさ」
 けれど、最低だった。そんな夢を見た自分に吐き気がした。ドンヘは自らに潜む罪のない自我をひどく罵倒した。
「ヒョン、どうしてここに?」
「いや、ユリに聞いて来たんだけどさ、当の本人いねえんだもん。お前はこんなとこで寝てんし」
「いない?」
「うん。あいついねえよ?」
 きょとんとしたヒチョルの眼は一層大きくなった
「ん?」
 ドンヘは急いで起き上がった。
「ちょ、ドンヘ!」
 面会を拒否されているという現実を躊躇なく取っ払い、ドアを開けた。
 ウニョクはいなかった。
 中にはシウォンの抜け殻のような寝顔だけがベッドに乗っかっていた。
「ヒョク・・・ヒョク」
 せまい病室だ。この中にウニョクがいないと分かっていても、それでもドンヘはその名前を呼ぶことをやめられなかった。シウォンがもぞもぞと身を起こす。
「なんだ・・・?」
「なあ、ヒョクは?どこ行った?」
 ひどく狼狽するドンヘに駆り立てられるようにシウォンは目を醒まし、周りを見渡した。そしてみるみるうちにその端整な顔は洋ナシのように青ざめていった。
「ヒョクチェ・・・ヒョクチェがいない」
 シウォンが徐々に震えだした足で立ち上がろうとする。完全に立つのを待つ前にドンヘは病室を飛び出していた。
 どこにいる。ヒョクチェ、ヒョクチェ。君はどこに行ってしまったんだ。ヒョクチェ。
 ドンヘは全速力で院内を走り回りながら、何十、何百回もヒョクチェの名前を心の中で叫んだ。
 自殺未遂なんて、どうして。
 ドンヘは涙が出そうになった。
 俺がいると言ったのに、どうしてそんなことしたんだ。それに生きがいであるダンスをやめるなんて、どうして。なにがあったの?どうして言ってくれなかったの?どうして死のうとしたの?
 ―――ドンヘの中に渦巻く疑問と不安はとどまるところを知らなかった。いつでも号泣する用意は完了していた。その泣くか泣かないかのところで緊張して、結局泣けなかった。泣いてしまったらもう一生ウニョクはこの腕の中に帰ってこないような気がした。身体全体ががくがくと震えている。血の気が引いて行くのが分かる。
 死なないでくれ、お願いだから・・・。
 ドンヘは祈る気持ちでついに病院から出た。

 タクシーを呼んでウニョクの家に向かおうとした、そのときだった。見覚えのある金色の光がドンへの視界を掠めた。
「ヒョク!!!」
 ドンヘは反射的に叫んだ。声の限り大きく。間違えるはずがない。繊細に空気に溶けているあの猫っ毛は間違いなくヒョクチェのだ。
「あ、・・・ドンヘ」
 ―――やっぱりそうだった。息を切らして現れたドンヘを、ウニョクは怪訝そうな目で見つめていた。
「ヒョクッ・・・なんで勝手に外出たりするんだよ・・・みんな・・・みんな心配するだろ」
 息と声が絶え絶えになりながらも、精いっぱい口を動かした。ドンヘは言い終えると、全身の力を込めてウニョクを抱きしめる。
「会いたかった」
 一週間ぶりに抱きしめた身体は、前感じたよりもさらにいっそう薄くなっていた。腕に当たっているウニョクの肩の骨が、刺さるくらいに浮き出ている。すり寄せた頬の肉がげっそりと削げていた。背中に回した腕で背骨をなぞる。ごつごつと気味悪いほどの彫が立ったウニョクの背骨が水色の病院服越しにも十分に伝わってきた。
「ヒョク、どうしたの・・・こんなに痩せ」
「離せ」
 突然低い声に言葉を遮られた。ドンヘは聞こえなかったふりをしてもう一度言い直す。
「こんなに痩せちゃって、ちゃんと食べてるの?」
 ドンヘの問いかけに、ウニョクは何も答えなかった。そのかわり、嘲るような声で昏く嗤った。押し殺していた笑みを隠せなくなったみたいに。
「そうやって、お前はいつも逃げるよな」
 身体を思い切り突き飛ばされ、ドンヘは病院の入り口にあった掲示板に叩きつけられた。タクシーの運転手が好奇の目でこちらを見ている。
「でも、逃げたほうが楽だし得だよな。馬鹿みたいに堂々と立ち向かってたら、抹消されるだけだもん」
「ヒョク、なに言ってんの・・・?」
 ウニョクの言葉が全く理解できなかった。逃げた?俺がいつ?
ドンヘが怒りにも似た屈辱を覚えていると、後ろからシウォンが走ってやってきた。
「ヒョクチェ!」
「あーあー、出た出た。腫れ物に触るみたいにさ。そんな目で見んなよ、成功者さんたち」
 うっすらと嗤ったウニョクの瞳は人形のように真っ黒だった。あの、誰もが目が合ったと感じる目。しかし本当は誰のことも見つめてはいない。
 ドンヘは声が出なかった。悲しさと悔しさが一気に込み上げてきた。
「と、とりあえず中に入ろう、ウニョク」
 シウォンができるだけウニョクを刺激しないように言うと、ウニョクは錐のような尖った視線で思い切りシウォンを睨みつけた。
「もう俺はウニョクじゃない!今後一切その名前を呼ぶな!!」
 目の前にいる人間が誰なのかを一瞬忘れた。
 ドンヘもシウォンも唖然としてなにも言えなかった。泣き叫ぶウニョクを無視して、シウォンは彼を抱き上げる。そして病室に早足で運んでいく。ドンヘはそのあとをしばらくしてからついて行った。
 怖かった。正直とてつもなく、ウニョクが怖かった。彼が、極悪極まりない人の肉を食い散らす猛獣のように見えた。もしくは得体の知れない物の怪のようにも見えた。ドンヘはもうその男が自分の恋人であったという事実でさえ、疑い始めていた。


「ヒョクチェ、もう絶対に無断で外に出るなよ」
 シウォンは優しい声で諌めるように言った。ウニョクは無反応だ。よしよし、とシウォンはウニョクの頭を撫でる。
「触んな!」
 ウニョクは怒鳴った。シウォンはそれに動じることなく「ごめんな」と言うだけだった。ドンヘは恐怖から泣きそうになっているというのに、シウォンの対応は対照的に冷静で大人らしかった。
「あー、切れた」
 ウニョクはしばらくすると、そう言って思い出したかのように自分の鞄を漁りはじめた。
「どうした、ヒョクチェ」
 シウォンの言葉を無視して夢中で鞄の中から何かを探している。「あった」と嬉しそうに顔が閃いたあと、出てきたのは意外なものだった。
「こ、これ・・・」
 何ダースもの煙草の束だった。そのうち半分ほどはもうすでに中身は空で使われている形跡が見える。ウニョクはその中から一本煙草を取り出し、待ってましたと言わんばかりの顔ですぱすぱ吸った。ドンヘはその様子をじっと見ていた。
「ヒョクチェ、これどこから盗んだ」
「盗んでねえよ。シウォンのものは俺のもの、だろ?」
 ウニョクは確信犯的笑みを浮かべ、二本目の煙草に手を伸ばす。一本目もまだ半分以上残っているというのに、すでに灰皿に流してしまった。
 シウォンの中ではあの引き出しの中身の煙草の減り具合、そしてドンへの中では二人で最後に会った日に最初にウニョクがいた場所。二人ともそれぞれの事項のつじつまが合ったことに気が付いた。ウニョクはいつからか煙草を吸うようになったいたのだ。キスをしたけれどまったく気が付かなかった。
「いつからだ?」
「んー、忘れた」
 シウォンの問いかけにもなおざりな返事を繰り返す。ウニョクは慣れた手つきで煙草の火を消すと、ごろんとベッドに横になった。
「ヒョク」
 ドンヘは意を決してウニョクに近づいた。ぎろりと睨まれ一瞬怯みそうになったが、ぐっとこらえて何とか動かなかった。ドンヘは膝を床に付き、ウニョクと同じ目線になる。
「会いたかった。ヒョク、大丈夫だよ、俺がいるからね」
 ドンヘは微笑んでそっとウニョクの手を握った。そしてそのままその手にキスを落とした。後ろにシウォンがいると分かっていてほとんどわざとしたキスだった。お前のせいでウニョクがこんなに壊れたんだ、と知らしめるために。骨が浮き出るほど痩せたウニョクの指を包んで、たまらない気持ちになった。
「なにが?」
 ウニョクは言った。強い口調だった。
「なにが大丈夫なんだよ。わけわかんねえ」
 ウニョクがベッドを立とうとする。シウォンが一歩踏み出そうとしたのを背後に感じ、動かれる前にドンヘがウニョクを制した。
「ヒョク、なんだよそれ。さっきっからなにが言いたいのかよく分かんないよ」
 正直に言ってみると、本当に簡単な文章だった。ウニョクは苦しそうな表情になる。その歪んだ口から言葉が発せられるのをドンへは待った。
「落ちた」
「え・・・?」
「ミュージカルのオーディション、落ちたんだよ」
 ウニョクはドンヘを一瞥した。ドンヘが「あ・・・」と声を漏らしたのを見て、呆れたように肩を竦めた。
「一次で『見込みある』って言われたのに、なぜか落ちた。他にも受けたやつ全部落ちた。門前払い喰らって一人になって・・・どうしていいかわかんなくって、でも、俺にはストリップがあるし。どっかでそれを担保にしてたとこがあったから。あんなに客がいたんだ。街のクラブのストリッパーで俺の右に出る者はいないって、当然思うだろ?でも、ストリッパーとしての俺は帰ったときにはもう死んでた。俺がオーディション受けてるあいだに、俺がよそ見してるあいだに。そのころから一人じゃ踊らせてもらえなくなった。考えらんないだろ、あんなに稼いでたのに。どうしてもソロで出たいって演出家に言ったら『売れないお前を使うだけ時間と脳みその無駄だ』って言われて腹立って売上表盗み見てやったよ。そしたら今月に入って急に俺のショーの動員数が激減してた。次の日にはもうほとんど俺のショーを見たがる人はいなくなった。何でか分かんねえけど、飽きられたんだって誰かに言われた」
  完全に過ぎ去った過去を淡々と説明するようなウニョクの言葉を、ドンヘはじっと聞いていた。声にならない熱の塊がドンへの身体を強く締めつける。
「夢なんて、持っても無駄だってわかったよ。願えば願うほど遠ざかるし、希望や期待はことごとく捨てられる。捨てられた俺はまるでごみ以下みたいにな。唯一絶対的に思ってたストリップのショーまで取り上げられた。多分、俺は神様に嫌われた」
 ウニョクは嗤った。諦念と静かな絶望に満ちたその表情は、もういっそ美しかった。ドンヘは己の心臓が容赦なく毛羽立っていくのを感じた。
「どちらかひとつを極めたい、って考えてみればいいだろ」
 声が震えてどうしようもない。
 でも、どうにかしてウニョクの心を安らかにさせてあげたい。
「そうしたらきっと道は辛くても、夢は近づいて・・・」
「説教なんていらねえんだよ」
 ウニョクの言葉とともに、勢いよくドンヘの口にガムテープが張られたようにドンへは声を出せなくなった。
「夢も仕事も、どこにも行かないって約束してくれない。そんなん知ってる。でも、だから?なんで俺ばっかりこんな目に遭わなきゃいけなんねえの?お前はあんなに成功して楽しい楽しいって能天気に笑ってられるのにさ・・・!みんながみんな、お前みたいに成功できるわけじゃない。到達した人間の説教なんてうぜえだけなんだよ」
 ウニョクの瞳からボロボロと涙がこぼれた。ドンヘはウニョクの手をきつく握りしめる。
「ヒョク、俺・・・」
「触んな!!」
 手を思い切り振り払われ、ベッドの隣に置いてあったカルテで指を切った。
「った・・・」
 人差し指の腹に薄い赤の線と毛玉のような赤の粒が浮き上がる。
「お前はうそつきだ」
 ウニョクは言った。
「求めて動けって言ったのはお前だ、ドンヘ。俺はそれを信じた。こわがらずに、赦すことを覚えた。だからシウォンに笑って結婚おめでとうって言えたんだよ。でも、お前は・・・お前は俺を裏切った。信じてまんまと動かされた俺が・・・馬鹿だった」
「俺は裏切ってなんか」
「邪魔なんだよ!」
 空気が震える。ウニョクの頬に宝石が伝う。
 世界を照らす光、“ウニョク”が伝ってゆく。
「もう、顔も見たくない・・・」
 ウニョクは膝を抱え込んで頭をあいだに埋めた。
 「外にいたほうがいい」というシウォンの声が耳元に落ちた。ドンヘはシウォンに促されるままに立ち上がって病室を出た。


「ヒョン」
 出るとそこにはイェソンが立っていた。
 腕組みをしたイェソンは怒っているようにも心配しているようにも見えなかった。
「なにしてた。撮影は中断。無駄にしたスタジオの使用料はうちが持つことになったんだからな」
 やっとイェソンは不機嫌そうになった。ドンヘは足の力を失くし、その場にしゃがみ込んでしまった。「大丈夫か」と言ってイェソンもしゃがみこむ。
「ごめんなさい」
 ごめんなさい。ごめんなさい。何度も繰り返した。
「そんなに謝らんでいい。また撮り直せばいんだから」
 撮り直しなんてきかない。出来てしまった俺たちの溝にもう取り返しなんてつかない。
 俺たちははまってしまった。壊れた心の裂け口に、すっぽりと。
「ヒョン」
 ドンヘはイェソンの腕の中で大声をあげた。涙も嗚咽も止まらなかった。ただ悲しくて、ドンヘは泣いた。

 俺が君の心を壊してしまったというのなら。
 いったいなにを恨めばいいのだろう。
 過去も思い出も出会いも涙も愛し合った時間も、思い返しても輝きしか見えない。歓びと希望しか見出せない自分は愚か者なのだろうか。
「どうすればいいんだよ・・・」
 赦しあえたと思っていた。伝えられたと思っていた。言葉だけじゃ足りない欠陥も、確かに埋まっていく感触がしたんだ。

 愛してる。
 その波動が、ドンヘの影をうしろから鋭く照らした。恐ろしいほど強く、照らした。

Cracks of a broken heart


「ヒョク」
 その日ドンヘが次に病室に足を踏み入れたのは、空の夕が鉛色に変わり始めた時刻だった。
 ウニョクは窓の外からその淡いグラデーションを超然とした様子で見ていた。
「なに、まだいたの」
 足音でドンヘがと分かったのだろう。ウニョクの声はたいそう苛立っていた。
「うん。帰らないよ」
「帰れば」
「帰らないってば」
 小さな問答の末に、ドンヘはウニョクのベッドの脇の丸椅子に腰を掛けた。ウニョクは絶対にドンヘの方を向こうとはしなかった。
 痩せた背中。懐かしいうなじ。最後にあの筋に噛みついたのは、もう一ヵ月も前の話だ。
「ヒョク、こっち向いて」
 呼びかけてみてもウニョクは無反応のままだ。これではいつまで経ってもらちがあかないので強行手段に出ることにした。いや、もう理由なんてどうでもよかったのかもしれない。遅かれ早かれ、そうしていたことだろう。
 ドンヘの腹の底には一種の決意のようなものが流れていた。涙を流して枯れて拭いて立ち上がってみれば、その風潮はいとも簡単にドンヘの中を旋回した。
 片手を伸ばして勢いよく仕切りのカーテンを引く。病室にはウニョクひとり分のベッドしかなかったが、念のためにカーテンを閉めた。
「なに、してんだよ」
「んー?カーテン閉めたんだけど。あ、ついでにさっき鍵も締めた」
 とらわれたネズミのような慌てた表情でウニョクは周りを見渡した。そして一面クリーム色のカーテンばかり広がっていることにようやく危険を察知したのか、ベッドから飛び出そうとする。それをドンへは手で優しく押しつけて阻む。
「どこにも行かせないから。ごめんね、ヒョク」
 微笑みながら沈みこんでくるドンへの言葉に、ウニョクの表情は途端に子供のようになった。
 かわいそうなヒョク。でも。
 ドンヘは心臓を縛ったひもが緩みかけているのを感じて、目を綴じ、さらにそのひもをきつくした。ウニョクの浮き出た細い鎖骨にそっと手を添える。
「なにして・・・」
 声を荒げようとするその唇に、勢いよく吸いついた。乾いていた唇に瞬時に湿度が宿る。ウニョクの苦しそうな顔を見たくなくて、ドンヘは目を綴じたままでいた。
 そして激しいキスを施したあと、着ていたジャンパーとセーターをいっしょくたにして脱いだ。曝した上半身に冷たい空気がひやりと触れる。
「こ、こんなことしていいと思ってんのかよ」
 ウニョクの震える声に耳を塞いで、ドンヘはウニョクの肩を抱いた。やせ細り、削げた肉。久しぶりに抱くその愛しい人の身体は、マッチ棒のように固く角ばっていた。
「あ・・・」
 服を脱がせ楽にしてやってもウニョクは抵抗をやめなかった。声を漏らしながらも、ドンヘの手の中からすり抜けようとする。ドンヘは強い力でウニョクを押さえつけた。そうでもしないとこの心に秘めた決意が爆発し、大きな音をあげて壊れてしまうと思った。
 ドンヘは自分を忘れることにに努めた。良心や愛情の呵責を覚えても、ひたすらに目を綴じ耳を塞いだ。これしか方法がない。ただ、ウニョクの身体を抱いて、確かめて、愛を、この溢れる気持ちをぶつけたい。
 目を醒ましてほしい。こんなに愛しているのだから、と。
「痛い・・・」
 とうとうウニョクは抗うことをやめた。身体を翻され、ドンヘの体重でウニョクの身体は安いシーツのベッドに沈んでいく。その四角い箱が軋む音と二人の息遣いが追いかけるように共鳴していた。
 背中にもキスをまんべんなく降り注ぎ、愛撫を絶やさず、ひたすらにウニョクを愛でた。自分の成し得る最大限の愛のかたちを、ウニョクにぶつける覚悟でいたのだ。そのためには少し乱暴な手段だって決していとわない。分かってほしい。その一心を、ドンヘは言葉にするすきもなく、身体で伝える選択をしたのだ。
「裏切ってなんかない。俺は、ヒョクがいればそれでいい。本当だよ。ヒョクが俺のすべてなんだ。ヒョクもそうだよね?」
 ウニョクは呻いた。誰が聞いても痛みに苦しんでいるようにしか聞こえないであろうその音を、ドンヘは頷きと取った。
「俺も、って言って。うん、って言って」
「ドンヘ、ドンヘ・・・」
「仕事なんてどうでもいい。俺はヒョクさえいればそれでいいの」
 本心だった。決して頭が狂ったわけじゃない。
 ウニョクに伝えたかった。愛していることも、ウニョクを心から心配していることも。
 どうすれば伝わるのか、ドンヘには分からなかった。強行手段に出るまえにすべきことがあったと言われればそれまでだけれど、一縷の望みにかけたのだ。不器用や無知さえも、中庸を越せば愚か者になるということを、ドンヘはよく知っていた。しかしそれでもウニョクを失う痛手に比べれば、なんてことないように思えたのだ。
「ドンヘ」
 ウニョクが自分の名前を何度も呼ぶ。呼ばれていると、嬉しくなる。ドンヘは強くウニョクを抱きしめた。その時、背中にぬくもりが宿ったのが分かった。
 ウニョクが抱きしめ返してくれた。
「ヒョク・・・」
 感動とも驚きともつかぬ間抜けな声を出してしまう。ウニョクは諦めたように少し笑った。痛みと快感に怯えた表情の中に、わずかに滲んだ笑顔。乾いていて、でも確かにウニョクの笑顔だった。
「・・・まじで腹立つ。お前なんて嫌いだ」
 そう言ったウニョクの身体は温かかった。そのことに今この瞬間初めて気が付いた。
 刹那、今すぐにウニョクの目の前に手をついて謝りたくなった。痛めつけてごめんね、と。
 その代りに「愛してる」と言った。
「うん」
 絞るようなウニョクの声は、かすかに甘く、そして切ない。
「分かる?俺、ヒョクのこと愛してんだよ」
「うん」
「ずっとずっと、愛してんだよ」
 薄い汗に濡れたウニョクの額をそっと撫でる。ウニョクはくすぐったそうに身を捩ると、赤くなった目でドンヘをじっと見つめた。
「さっきはごめんな」
 うん、と頷いてキスをする。ウニョクの到達とともにその腰が揺れて、ドンヘのものも一緒に弾けた。その瞬間一気に眠気が襲ってくる。ウニョクより先に眠りに落ちるのは不本意だったが、ドンヘはそのまま頭を垂れた。
「オーディションのこと、忘れててごめんね」
「もーいーって」
「よくないよ」
「いーの」
 ついにウニョクは目を合わせてくれなかった。
「ヒョク、もうたばこはやめてね?からだに悪いんだから」
「わーったから。もう寝ろよ」
 ぐしゃぐしゃと頭をかき混ぜられた。頭皮に走るウニョクの指の感覚が気持ち良くて、すぐにドンヘは眠ってしまった。

 朝の一件が嘘のように跡形もなくなっていることにドンヘは決して違和感を覚えたりはしなかった。覚えないようにした、と言った方が正しかったかもしれない。
 逃げることだってときには正攻法に違いないと信じた。人は信じたいものを信じたいように信じることのできる実に便利な生き物なのだ。
 どうしてそんなにすぐ赦してくれるの?とか、どうして愛してるって言ってくれないの?とか。そんなの愚問だと思った。聞いちゃいけない気がした。それを聞くにはウニョクはドンヘにとって大切すぎたのかもしれない。抱きしめ返してくれたという、ただそれだけのぬくもりを頼りに、ドンヘは目を綴じたのだ。
 やせ細ったウニョクの腕に絡みついて、なにも気づいていないふりをして、それでいてなにかを探るように。


「起きたな」
 朝、目を醒ましてもウニョクがいたことにドンヘは心底安心した。けれど、なんだかウニョクの様子が少し変だ。
「どしたの。目、赤い」
「うん。考えてたんだけどさ、俺」
 とりあえず服着てくんねえかな、と言われ、ドンヘはベッドから出て服装を整えた。それを待っている間も、ウニョクは静かだった。いつものケンカ腰が微塵もない。
「んだよー。なになに。なにを考えたんすか、ヒョクチェさんは」
 わざと茶化すような声を出してみたが、どうだっただろうか。その声がウニョクに聞こえているのかさえ定かではなかった。
「俺、考えてたんだけど」
「うん」
「別れたい」
 ウニョクは言った。
「へ?」
「別れよ。もう、おしまい」
 ウニョクの言葉の意味が分からず、ドンヘはただその場に立ち尽くしていた。魔法にかけられたように。血の流れが凍結したように。足がアスファルトに突っ込んだまま固まってしまったように。いっさい動くことができなかった。
「やっぱ俺、お前のこと好きになれそうにねえわ」
 思いもよらない言葉だった。いくら夢であってほしいと思っても、わずかに開いた窓から流れてくる風は確かにドンへの足先をまとっていた。脳みそが機能をやめて、心臓が立ち止って、声が点線となって消えて、息も出来ないほど時間を忘れた。きっと、何分も経っていたと思う。ウニョクはそのあいだ、ずっと窓の外を見ていた。
「な、なんで・・・。俺、別れたくない」
「うん。ごめんな」
「え、ちょっと待ってよ、意味わかんないから!なにそれ、知らない・・・謝ってほしくなんかない!」
「ごめん」
「ヒョク!!」
 ドンヘは涙を弾き飛ばすように首を振った。いやだ、と全身で表現しているつもりなのに、ウニョクにはただ犬が濡れた身体を乾かしているようにしか見えていないのか、彼の目は静かだった。ただいっこうに、静かなのだった。
「抱きしめかえして、くれたじゃん。あいしてるって、言ったじゃん」
「俺は一度も言ってない」
「うそだよ!」
「言ってないってば」
「言ったもん!俺にはきこえてたもん!心の中のヒョクの声が、きこえてたんだもん・・・」
 言っていることが支離滅裂なのは分かっていても、ドンヘはその涙声を抑止することはできなかった。
「別れたくない」
 そう言ってドンヘはしゃがみこんだ。ウニョクはまだ窓の外を見ているのだろうか。
「いやだいやだいやだ・・・俺、ヒョクがいないと生きていけないのに」
「うん。だからごめんってば」
「本気で言ってんだ・・・!!!」
 ドンヘは強く足を踏んで立ち上がり、よそ見をするウニョクの頬を両手で掴んで自分の方に向けさせた。ウニョクの顔は砂のように乾いていた。
「ヒョクのために・・・ヒョクのために生きてみたいって、思った」
 頬をぬるい涙が伝う。
 ウニョクはいっこうに静かなのに、ウニョクはなにも返してこないのに、ウニョクは俺を愛してなんかないのに、俺は想像することができないんだ。ドンヘは思う。
 ためしに一度、ウニョクのいない世界を想像してみた。地獄のようだった。それからあとはもう、想像することさえできない。想像という行為さえも存在しない。ヒョクのいない世界なんて無意味だ。
 俺にとってヒョクは、生命の訴えそのものなんだ。
「ねえヒョク、どうしてそうやって自分ひとりでなんでもずかずか進んじゃうわけ?なんで俺に相談も、話もなしに、ひとりで決めるの?好きだって言ってくれたじゃんか。ねえ、俺はヒョクのなんだったの?俺のこと、もういらなくなっちゃったの・・・?」
 ねえヒョク。
 縋るようにウニョクの肩に手を置くと、あまりの肉の削げようにずるりと手が肩から滑り落ちた。滑り落ちた手を、ウニョクはじっと見た。そして言った。きっぱりと、揺るぎない声で。
「愛してやろうって頑張ったけど、やっぱ無理っす。もうカンベン」
 なんと真っ直ぐな声だろう。迷いも、惑いも、ためらいも、すべて無くて、それはもう、綺麗で真っ直ぐで。ああもう、終わっちゃったんだ。そう、認めざるを得なかった。
 ドンヘは震える足をどうにかして立ち上がった。いや、終わってなんかない。だってウニョクにとっては始まってさえいなかったのだから。
 俺は今どんな顔をしているだろう。モニターチェックして、あまりに絶望的な表情だからテイク2、なんてこと、無いのかな。
 ドンヘの脳裏にはそんなくだらないことばかり浮かぶ。脳が麻痺したように力を失っていた。
「できれば出るとき窓閉めてってくんねえかな」
 ウニョクの言葉にドンヘは頷いた。ぺたぺたと、スリッパで床を叩くように歩き、窓の淵に手をかける。
 涙が溢れてきた。
 大好き。愛してる。離れたくない。離したくない。
 言葉はいくらでも湧き上がるのに、ドンヘは何一つ動けなかった。本当は昨日の時点でもうわかっていた。
 俺たちの関係に修復する余地が残されていないこと。ウニョクの心に深く掘られた底のない穴の存在。その中にいくらドンヘが大量の綿を詰めても落ちていく。
 詰まらない。響かない。どこまでも、響かない。
「ヒョク」
「んー」
 窓に手を添え、ウニョクに背中を向けたまま名前を呼んだ。振り向いたら抱きしめてしまいそうでできなかった。ただでさえ涙で洪水を起こしている瞳では窓に反射したウニョクの姿は朝陽でぼやけてよく見えなかった。
「しっかり、生きてね」
「おう」
「死のうなんて、もう絶対に思わないで」
「ああ、もう思わない」
「よかった」
 ドンヘが言うと、ウニョクはベッドの中にもぐりこんでしまった。泣いてくれていたらいい。ちょっとでも、別れを惜しんでくれたらいい。そんなことありえないと分かっていても、願わずにはいられないのだ。
 心のどこかで扉が開く音がした。その向こうにウニョクはいない。そこから差し込むまばゆい光はあの金色の髪の毛を照らすスポットライトではなくて、自分に向けたスポットライトだった。流れてくるのはマリリン・モンローの『あなたに愛されたい』ではなくて、インタビュアーと自分の対談デモテープだった。扉の向こうの世界にウニョクは存在しないのだ。俺はこれから、そんな地獄に俺は自ら進まなきゃいけない。
 ウニョクのいない世界を、俺はこれから生きていく。
「じゃーな」
 たったひとりで。何百人のスタッフとイェソンヒョンと芸能人とカメラとテレビと批評好評、ファン、自分。
 俺はついにひとりになった。
「ばいばい」
 そう言ったつもりだったのに、声にはならなかったと思う。逃げるようにドンへは病室を出たからだ。
 ウニョクと過ごしたこの八ヵ月の時間は、嘘だったわけじゃない。本当に楽しかったし、満たされていた。でも、答えのない返事を待つほど愚かなことはない。そう思うと、俺はいつまでもファンを卒業できなかったと言うわけだ。
 いや、ファン以下だ。ファンは、答えなど求めない。ただ自分の満足と相手の成功を願って純粋な気持ちで応援をするものだ。だとしたら俺は何と卑屈で強欲なファンだっただろう。ウニョクの中で俺の存在は、ストーカーから始まり、ファンになり、世話係になり、友達になり、そして恋人となり。そんな変遷を遂げていたと思っていた。
 でも、俺はファンで止まったままだったのかもしれない。それも厄介なストーカーまがいのファンで。
 あの夜ウニョクを連れ去ったときも、初めてのデートも、初めてのキスも、初めて愛し合った夜も。ウニョクにとってはただの恋愛遍歴の一行にかたられる男でしかなかったのかもしれない。そう思うと、自分が脇目も振らずウニョクを思い続けていた時間が、なんだかばかばかしく思えてきた。
 見限ったらおしまいだ、と分かっているのに。自分の、彼に対する気持ちを見捨てたらそこですべてが終わってしまう、と分かっているのに。ドンヘは思わずにはいられなかった。
 ヒョク、どうして、と。

「もしもし」
 携帯の電源を入れたらすぐに着信が入った。出てみると、イェソンだった。電話の向こうでものすごい罵声を浴びせてくる。それもそのはずだ。ここ二日まるまる仕事を無断で休んでいる。
「ごめんね、ヒョン」
「ごめん、じゃねえ!!」
 イェソンの往年ドラマのような怒声がおかしくて、笑ってしまった。ものすごく怒られた。この人に恩を返したいと思った。
「頑張る。俺、頑張るから、見てて」
「はあ?」
「絶対ビッグな俳優になります」
 お、おう、とイェソンは少し間抜けな声を出した。ぷぷ、と笑ってしまうと、またすぐに罵声が飛んでくる。
「はい・・・はい、すんません、この足で行きます。・・・あ、でも風呂入ってないんで家寄りたい・・・いやっ、なんでもないっすすぐ行きます・・・」
 携帯を握りしめながら歩く。ぺたぺたと廊下に響くスリッパの音。この音はできれば一生聞きたくない、と思う。
 「ああ、これが決定的な打撃か」
 やっとヒチョルの言っている意味が分かったような気がする。

 歩いて行かなければ。俺は、最初からひとりだったんだから。

 ドンヘの足取りは徐々に軽やかになった。後ろを振り向くなんて、野暮なことしない。もう俺は前しか見ない。


 ばいばい、ヒョク。

ある夏の事件簿

 残暑厳しいある夏の午後。エンジンを消した砂漠のような車の中でチョ・ギュヒョンは、一人上司の帰りを待っていた。
 帰り、と言ってもコンビニの帰りだ。会社の三年先輩にあたるイ・ソンミンが気を利かせて保冷剤と氷の買い足しに行ってくれたのは今からもう一時間も前のことで、予想できる緊急事態といえばコンビニに行く途中とんでもないスクープに出くわしたか、もしくは荷物に潰れそうな老人にお人好し性分を発揮しているか、どちらかだろう、と思った。
 途中でこの暑さ、そしてキュヒョンから逃げられるほどソンミンは度胸のある男ではないし、この暑さのなか車もなしにどうやって家路にたどり着けるというのか。気配を消すためにエンジンさえ消してはいるが、冷房を入れればこの車だってある意味天国なのだ。
 それくらい、今日は暑い。

 大手出版社に勤めて二年目の今年の春、キュヒョンは希望していた政治部から芸能部へと異動になった。
 最初異動の話を受けたときは唖然として声も出なかったが、人事異動にケチをつけられるほどキュヒョンは社内での実績があるわけでもなく、不承不承承知するに至った。
 そこで出会ったのが今のバディでもある上司の意・ソンミンだ。
 彼は正直言って苦手な人種だ。お人好しで上っ面で笑って何を考えているのかよく分からない。本当に面倒くさい、そう思いながらキュヒョンは毎日彼の相手をしている。


 ついに意識が朦朧としはじめたころ、車窓をどんどんと叩く音がした。見るとソンミンが額に汗をぼたぼたと垂らして笑っていた。
 (あけて)と、声のないメッセージがキュヒョンの霞んだ脳内に届く。
「ひーっ、あちいあちい!って、この中も暑いのか」
 屈託のない笑顔を向けられてもこの暑さをしのぐ欠片にもならないのだからやめてほしい。むしろ余計に苛立つだけだ。キュヒョンはソンミンの腕の中から氷を一袋奪い取った。
「遅かったすね」
「うーん、途中でおばあちゃんが倒れてるの見かけて近くの病院まで連れてってあげてた。待たせちゃったな、ごめんごめん」
 ドラマか、と突っ込みたい気持ちを抑え、キュヒョンは後部座席に再び沈んだ。謝られるとまるで自分が子ども扱いされているようで腹が立つ。ハンド扇風機の強さはすでにもう最大なのに、キュヒョンはぐりぐりとボタンの「強」を押した。
「動きはあった?」
「ないっすけど」
「けど?」
「ないっす」
 訂正したキュヒョンに満足そうにソンミンは笑う。腹を立てるのも面倒くさくなって、キュヒョンは手元にあった紙コップに手を伸ばした。中にあったはずの氷は溶けてぬるい水になっていた。「氷ください」
「はいはい」
 そういう二回繰り返すのもやめてくんねえかなあ。キュヒョンはごりごりと氷を噛みながら思う。
 っつうか、なんだよ。俺こんなとこで熱さに命を蝕まれていいような男じゃねえんだけど。
 っつうかクーラー。せめてクーラーつけろ。キュヒョンは心の中で毒吐きながら、その雑念を打ち消すように氷を噛む。
「んー、まだかなぁ。そろそろ会食終わるころだと思うんだけど・・・」
「会食ねえー」
「ん?」
「芸能人がお偉いさんと飯食ってるだけでしょ。その芸能人だって所詮ただの人間だし。イ・ドンへ、だっけ?あいつ、顔がいいだけで演技はビミョーっすよね」
 とうとう苛立ちのバロメーターが熱さの後押しもあり振り切ってしまった。急激に冷えたキュヒョンの口内で、感覚は一時的に消え去っていた。
「先輩もなんでこんな生産性のない仕事してるんすか?人間のプライバシー侵害して、持てはやしてディスって。こんなん世の中に何の利益も与えないっしょ。先輩H大卒でしたっけ?そんなエリートがこんな低俗部署で記者なんて、あんたどんだけお人好しなんですか」
 言い終えた後、じわじわと唇から歯茎に感覚が戻ってきた。戻ってきて、言い過ぎた、と思った。
 しかし訂正するのも癪だ・・・とキュヒョンが口をつぐんでいると、それが返事を待っているように思ったらしい。ソンミンは「ちょっと待って」と言って考え込んでしまった。
 アホだ。
 キュヒョンは笑いそうになるのを必死で堪える。本当にこの人は馬鹿なのかもしれない。H大つってもろくなもんじゃねー。キュヒョンがにやついていると、ソンミンから突然大きな声が飛び出た。
「あっ、着た!」
「へ?」
 高級料亭の裏口から、イ・ドンへと国民的人気の高い大御所俳優が出て来たところだった。ソンミンは慌ててカメラを取り出しその姿を抑えた。キュヒョンも手持ちのカメラで二人の姿を撮影する。
 しかし二人の顔には終始純粋な笑顔のみが宿り、なにかやましいことなどは一切なさそうだった。
 今日も収穫なしか・・・。
 そう、キュヒョンが落胆していると、いきなり激しい衝撃が身体を伝った。
「わあっ!」
「追うぞ!」
 ソンミンはハンドルを握り、イ・ドンへの乗った車を追跡し始めたのだ。
 いくらスキャンダル欲しさからと言って、躍起になりすぎじゃ?と宥めようかと思ったが、放っておいた。無理をして責任を取らなくてはいけなくなるのは自分ではなくソンミン本人だからだ。キュヒョンは黙っていた。
「あいつ、このままだとクラブ街に出るぞ。やっぱりいつもの道だ。なにしてるんだろう、いっつもいっつもこの道なんだ」
 ソンミンは落ち着いていた。それもそうだ。この道でイ・ドンへを追うのは今日が初めてではない。
 イ・ドンへは周に二度ほど、わざわざ人通りの少ないこの路地裏を通って、市内でも有名なクラブ街へ向かう。しかし、そこで終わりだ。向う、だけ。大通りに出て、角のパーキングに車を駐車し、中からは一歩も出ない。そして三十分もしないうちにパーキングを出る。そのあとは撮影やら事務所やらに向かうのだ。
「ったく、クラブ通いが押さえられれば一儲けなのにな・・・」
 信号待ちのあいだ、キュヒョンはイ・ドンへの乗った車のバックライトを見つめながら、こんなことを考えていた。
 もしかしたら、バレてる?
 いや、パパラッチの一人や二人くらい、当たり前のこととして考えているのは違いない。けれど、あまりにも変だ。最初は御用達のクラブでもあるのかと後を追ったが、パーキングに止めてそこで三十分弱一人で何をするっていうのだ?パパラッチを遊んでいるか、もしくは・・・。
「カーセックス」
「それだーーー!!!!」
 自らの叫び声にびくりとした。フロントミラー越しに目が合い、二人して赤面してしまった。
「す、すんません・・・」
「いや・・・」
 って、ちがう。赤面している場合ではない。もし本当にそうだとしたら、大スクープだ。最近急に売れ出してドラマにもポンポン出演しているイケメン俳優イ・ドンへの鼻を明かせる時が来た・・・!
「キュヒョナ、」
「は、はい?」
「なんだかお前今ものすごく楽しそうだよ」
 ソンミンの言葉にハッとし、キュヒョンは再び後部座席に背中をピタリとつけた。
 あぶないあぶない。思わず自ら名付けた低俗部署に染まりかけるところだった。
 それにしてもどうしてこいつは俺の推測過程が読めたんだ?キュヒョンはフロントミラーをうかがう。ソンミンは黒目がちな目を光らせて必死にイ・ドンへの乗る車を追跡している。ま、そんなことどうでもいい。とにかく今は、イ・ドンへの裏側を探ることが第一だ。
「もしガチネタなら、俺たちは社のヒーロっすよ」
「もしガセネタなら・・・」
「相手にばれて損害賠償請求確実です」
 ごくり、とお互いの顔を見合わせ息を呑むと、二人は意を決して車から降りた。


「出て、こないね・・・」
「はい。最中ならあと五分くらいしたら盛り上がるころです。そこ狙っていきましょう」
 キュヒョンの平然とした口調に、「ばっ、ばか!」とソンミンは顔を赤らめ、キュヒョンの肩を軽くぶつ。
「え、先輩ドーテー?」
「んなわけないだろ!お前にだけは言われたくない!」
 車のかげに隠れ、しゃがんだ状態なので立ち上がるのはやめた。小声で反抗するのが精いっぱいだ。
「どう意味ですか。俺が童貞っていうんですか」
「は?ちょ、お前なにムキになってんだよ・・・冗談だって」
「冗談きついっすよ」
 しょげるキュヒョンを見てソンミンは小さく笑った。
「なに笑ってんだよ!」
「しっ、声が大きい」
 ソンミンはキュヒョンの身体を地面に押さえつけた。キュヒョンもしぶしぶ黙る。そろそろ行くか、という合図にソンミンから目配せがあった。キュヒョンは頷き、忍び足の準備をした。
「先輩、カメラは?」
「持った」
 小声で交わされるやり取りの中に混じるのは、鬱陶しいほど繁殖したセミの鳴き声だけで、夜の街の昼の景色という場面設定が二人をさらに不安にさせた。
 あまりに静かで気味が悪い。人が出ていない、ということかもしれないが、これではさすがに他の誰かにばれたら厄介だ。
「行くぞ」
 ソンミンの声を聞いてキュヒョンはイ・ドンへの乗る黒い自動車にぐい、と近づいた。黒く塗りつぶされた窓の奥に人影が見える。イ・ドンへだ。
「なにか見えるか?」
 消えかけるソンミンの声。キュヒョンは首を振る。
(まってください)
 そう口パクで伝えると、ソンミンは黙って反対側に回り込んだ。マネージャーは乗り合わせておらず、一人で運転していたようだ。キュヒョンは唾を呑み込み、思い切って車内を覗いた。
 しかしそこに映ったのは予想していたよりもずっと好奇なものだった。
「オナニーか・・・って、え、あのイ・ドンへでもオナニーすんだな・・・するよな、男だもんな・・・」
「誰?」
「あ?・・・・・・あ。」
 しまった。
「やべえっ!先輩、車!!!」
 キュヒョンは一目散にドンヘの車から逃げ去り、駐車場の二階からを駆け下りた。
 後ろから「待って!」と言う声がする。よくテレビで訊く、あの声。
 ソンミンは大丈夫だろうか、と脳裏で思ったが、そんな余裕もなく、猛暑のなか思いのかぎり走った。はたして顔は見られただろうか。ああ、もう、やばい。特定されて訴えられでもしたら、異動どころか首だ、首。
「キュヒョン!」
 後ろから名前を呼ばれて振り向く間もなく背中に衝撃が走った。ソンミンが車で追いつき、キュヒョンを背中から轢き飛ばしたのだ。
「ってーーーーー!!!!」
 大声で叫ぶと、バタバタという足音と一緒にソンミンが泣きそうな顔で寄ってきた。「ごめん!ほんっとごめん!びっくりしすぎて」
「痛いっす、死にます、俺・・・」
「ごめん、まじでごめん!!!」
「もういいっすよ・・・」


 打ち所が悪くなく、幸い怪我は軽傷で済んだ。
「ってー。これ、どうしてくれんですか。慰謝料、もちろん払ってくれるんですよね?」
「は、払います・・・」
 まさに『トホホ』という表現がぴったりの顔でソンミンは涙声を漏らした。病室はわがままを言って個室にしてもらった。その方が入院費はぐんと高くなる。それもすべてソンミンに払ってもらおうという魂胆だ。
「結局イ・ドンへはカーセックスじゃなくてカーオナニーでした。芸能人ってそんなに時間と場所がないんすかね」
「さあ・・・やっぱりマネージャーとかファンとかに支配されてる分、息が詰まるんじゃないかな」
 ソンミンは携帯を弄りながら言う。腹が立ったので「没収」と言って携帯を取り上げた。
「あっ、ちょっと返して」
「だーめです。誰のせいで俺がこんな目に遭ってると?」
「お、おれだけどさ・・・ぎゃっ!!」
 ソンミンの悲鳴の先に携帯は廊下に軽々と飛んで行った。キュヒョンのニヒルな笑顔がそれを弾いたように。
「お前―!なんでそんなにやることが幼稚なんだよ!?このお子ちゃま!」
「前を歩いてる人間も見えないようなやつに言われたくないですね!このお人好し!」
 キュヒョンの罵倒を背にソンミンは廊下に駆けていく。その様子をキュヒョンが満足げに見ていると、ソンミンの携帯電話が誰かによってひょいと持ち上げられた。
「はい、どうぞ」
 その手は細く、白樺のような乳白色をしていた。
「ありがとうございます。すみません」
「いえ。あ、割れてますよ」
 え?と言ってソンミンは携帯を裏返して苦い顔をした。そしてキュヒョンの方を見て真っ黒なオーラを放って睨んでくる。キュヒョンは肩を竦めた。
「俺のせいじゃないでしょ」
「お前のせいで画面が割れた!これ、先月買い換えたばっかなのに・・・!」
「あの、よければ見せてもらえますか?俺、プロとかそういうんじゃないんですけど機械系強いんで、ヒビは直せなくても応急処置として画面映すくらいはできるかも・・・」
 その白い男が言う。キュヒョンは少し悪い気がしてきて首を伸ばした。ソンミンの携帯は真っ黒になっていた。
「す、すみません。お願いします」
「はい」
 白い男は快諾した。肌と同じような真っ白な歯で、健康的な歯茎がのぞくその笑顔はとても爽やかなもので好印象を抱いた。
 ソンミンのようなお人好し、この世の中には二人といないと思っていたが、ここにもいた。キュヒョンはなんだか少数派になったような気分で、落ち着かなかった。

「へー。記者をやってるんですね」
 名前を聞くタイミングを逃したのは、携帯修理の彼が三人分のコーヒーを買いに行くと言って聞かなかったからだった。結局うやむやのまま談笑する流れになった。
「はい。この人とは春から組んでるんですけどなかなか馬が合わなくて」
「キュヒョン、怪我はもういいの?喋りすぎはよくないんじゃない?」
「あーあー、誰かさんのせいで腰が痛いなー」
 彼は二人のやり取りにぷぷっと笑いを漏らした。二人がいっせいに彼の方を向くと、「すみません」と言って表情を整えた。
「入院なさってるんですか?」
「いや、俺はここに通院してるだけです。定期的に、月一回検診があって」
 名前もあえて名乗ろうとしなかったのだ。どんな原因があって通院しているのかなど、問答無用なのかもしれない。キュヒョンとソンミンは暗黙の了解のようにことを理解した。
 なんだかいわくつきの人間らしい。
「あ、映った」
 少し雰囲気が沈黙に包まれたのち、彼が声を上げた。それと同時にソンミンの携帯電話の画面に光が宿った。
「わー!ありがとうございます!」
「ちょっと中の部品がずれてたみたいです。修理会社に行けばもっと正しく位置を直してもらえると思うから、行ってみてください。ついでにヒビも直してもらってくださいね」
「はい」
 ほかほかの弁当をもらったみたいにソンミンは丁寧に携帯電話を受け取った。光が宿った携帯画面に次に映し出されたのは予想外の人物だった。
 イ・ドンへ。さっきカーオナニーしていた男のドアップ写真だった。
「ぎゃーーー!!!」
 誰よりも真っ先に声を上げたのは他でもないソンミンだった。
「ちっ、ちがうんです!そういう趣味があるわけじゃ・・・」
「先輩・・・?」
「きゅ、きゅひょな・・・」
「先輩!?」
 キュヒョンは逃げようとするソンミンの首根っこを掴んだ。
「まじですか!先輩、イ・ドンへのファンだったんすか!?」
「ファンとかぁ、そういうんじゃないよぉ・・・ただ、その、同じ男として格好いいよなって思うくらいでさぁ・・・」
 必死に取り繕うとするソンミンの首を絞めながら、ちらりと隣に目をやった。そこにもうあの白い彼の姿はなかった。
「あれ?さっきの人は?」
「あ、俺のイ・ドンへの画像見たらなんか静かんなって出てっちゃった・・・」
「俺のイ・ドンへってなんだ!俺のって!」
「うわーーん!」
 泣きつくソンミンを無視して、キュヒョンはベッドから降りた。廊下に顔を出し、周りを見渡す。トイレの前に、彼が立っていた。
 すみません、お騒がせして。そう声をかけようとしてやめたのは、彼の方が微かに震えていることに気が付いたからだった。
「キュヒョン?」
「いや、なんでもないっす」
 キュヒョンはベッドに再び入った。彼も、イ・ドンへのファンなのだろうか。
「違うんだよう。キュヒョナ、聞いて?」
「なんで俺があんたに言い訳されなきゃなんないんですか!別に先輩が誰が好きでも知ったこっちゃないですよ。っていうか、やっぱり芸能部にいるのってイ・ドンへが目的だったんですね。近くで見ていたからっていう、下衆なファン心」
 キュヒョンが嘲ると、突然真剣な声色がソンミンの口からこぼれた。初めて聞くような色だったので、正直驚いた。
「さっき、お前、言ったろ。世の中に何の利益も与えないって。俺はそんな難しいことに答えられるほど頭がよくないから、何も言えない・・・でも、お人好しで、ましてやファン心でこの仕事をやってるんじゃない。俺は俺なりにこの仕事に誇りを持ってますよ。俺なりに、ね」
 ソンミンは小さく笑った。
「ファンだったら汚い部分をどうして追いたいなんて思うんだ。俺はいくつも華やかな人たちの裏を見てきたから、そりゃ世の中に幻滅しっぱなしっていうか、裏切られた気満々だよ」
「じゃあなんで他部署に志願出さないんですか?」
「裏切られて、世の中の真実とか知って、だからこそ俺は戦いたいと思っちゃう。そんな裏はないよな?そんな嘘はないよな?って、確かめたくてこの仕事してるんだけど、そんな俺って根性腐ってるかな?」
 ソンミンの笑顔に返す言葉は出てこなかった。口喧嘩で初めて負けた、とキュヒョンは思った。
 ソンミンに言うと、「喧嘩かよ!」と言ってまた大仰に笑った。

 夕立ちを呼びそうなほど真っ赤な窓の外を眺める。
 ここから見る景色はとても病室からのものだとは思えないほど美しかった。街を一望できて、まるで地平線の彼方まで同じ景色が続いているようだった。
 耳の奥にソンミンの言葉がこだまする。
 イ・ドンへに裏はなかった。いや、言い切ることはできないけれど、少なくとも今日のイ・ドンへには。俺はその事実に安心した。認めよう。俺は安心したのだ。
 この広い世界の片隅にいるいちファンの肩をも震わせられる存在、イ・ドンへ。俺たちのような世の中を常に疑いの目で見なければならない職種に属す人間たちにわずかな希望を与えてくれた俳優、イ・ドンへ。
 この人はどんな人間なんだろう。
 キュヒョンは少しの興味が湧いた。
「先輩、電話」
 ソンミンのヒビ割れた携帯電話が震えていた。表示された相手は「編集長」だった。
「はい・・・・・・えっ・・・あ、はい。わかりました」
 しばらくの末、ソンミンは黙った。そして小さな声でぽつりと言った。
「キュヒョナ、聞いて」
「はい」
 呼びかけたソンミンの声は震えていた。大げさに語らった後で恥ずかしくなっているのかな、と思ったが、どうもそうではないらしい。
「イ・ドンへにスキャンダルが出た」
「へ?」
 声は震えていても、顔は真っ白になっていたのだ。
「スキャンダルって・・・」
「暴行事件だ」


 追う、追われる、という一方的な接点しか持っていないあなたに、俺は失望した。あなたを追いながら、感謝していたからだ。
 疑うことを諦めさせてくれてありがとうございます。俺を、先輩を、嘘の世界から少しでも飽和させてくれて、ありがとうございます。そう、感謝していたからだ。
 だからこそ、俺はショックだったのだ。
 このニュースが入ったとき、俺は真実に裏切られた気分を味わうことになった。

スクープ

 出版社あてに届いた一通の手紙。それがすべての始まりだったらしい。
 差出人は不明。表に明記された言葉は「イ・ドンへの秘密」、その一行だった。

「暴行事件て、どういうことっすか・・・」
 キュヒョンもソンミンも息を切らしていた。キュヒョンは身体が悲鳴を上げるのも無視して、自らハンドルを握り出版社まで戻った。
「うん・・・それが、まだ俺にもよく分からん。もしこれが事実ならば、大とまではいかないがある程度のスクープだな。暴力団もかかわっているならもちろん大スクープだが」
「暴力団・・・」
「ほれ、見てみろ」
 編集長に渡された紙切れをキュヒョンとソンミンはそろって覗きこんだ。そこには筆跡かわからないよう、新聞紙を切り取り張りつけた様式で文字が成されていた。

 N社のみなさま
 イ・ドンへの秘密、あります。泥棒をはたらかれたのち、暴行を加えられた張本人からの証言、あります。

「なんだこれ、きもちわるい・・・」
「裏が本題だ」
 ぺろり、とめくると髪一面に黒い文字が羅列してあった。今度はタイピングで打たれている。
「なんだって?・・・クラブでバイト・・・暴行事件・・・マリ、マリリン・・・?こいつ、頭おかしいんじゃないの」
 突然横文字が出てきてキュヒョンは気が抜けた。ただのイ・ドンへに対して恨みを持っているものの悪戯にしか見えない。
「これは悪質ないたずらですよ、警察に通報しましょう」
「いや―――」
 キュヒョンを止めたのはほかならぬソンミンだった。
「待ってください。もし本当なら、少し心当たりが」
「あるのか?」
「はい」
 ソンミンは神妙な顔つきで頷いた。
「心当たり?そんなの俺にはないです」
「編集長、この件、内密にしてもらっていいですか。まだこれが真実と決まったわけではないですし、この脅迫文は信憑性に欠けます。心当たりはありますが、まだ不確かです。人気うなぎ登りの俳優にデマの記事を流せば世間からの風当たりは強いですし、裁判沙汰にもなりかねません。お願いします。俺たちに任せてください、しばらくは」
 ソンミンは珍しく語調を強くして言った。キュヒョンが口を挟む間もなかった。
「いいが・・・もしことが大きくなるようならこっちも直ちに記事にする。うちは慈善活動をしているわけじゃない。人間の裏の顔を暴いて金を稼いでるんだ、分かってるな?」
「はい」
「あんまりお前が変に動くようなら、この脅迫文のことだって記事にしてもいいんだ」
「はい、わかりました」
 ソンミンはぺこりと頭を下げると早歩きで会議室から出て行ってしまった。
「先輩!」
キュヒョンも慌てて後を追った。

「ちょっと、先輩!」
 会社を出ると外はもうすっかり暗くなっていた。やっと追いついたと思ったソンミンの額には汗が滲んでいた。
「先輩?」
「・・・き、き、きんちょーしたぁぁぁ!」
「は?」
 ソンミンは膝に手をついて屈みこんだ。さっき威勢を切っていた男と同一人物とは思えないほど背中が小さく見える。
「ああ、どうしよう・・・あんなこと言ってふつーにホンモノの脅迫文だったら俺たちがこのでっかい怪物と戦わなきゃいけないんだよ・・・」
 途端に気弱になったソンミンに呆れてものも言えなかった。この男は、まったく・・・。
「とりあえず、どうするか作戦会議しましょう」
 キュヒョンはそう言ってソンミンの手を引き、会社に連れ戻した。そしてクーラーががんがんに効く、芸能部で一番小さな会議室で入念に作戦会議をすることにした。
「まずは、事件の内容把握ですね」
「うん。じゃあ俺がいったん読み上げる」
「はい」
 ―――内容を聞いている途中三回もむせた。あまりのドラマチック展開やら恥ずかしい表現やらで息がどうもうまく続かなくなるのだ。
「なんじゃ、これ・・・」
「まさに昼ドラの世界っすね」
「というより二時間ドラマだよ・・・」

 脅迫文を出してきた男にはかつて恋人がいたらしい。その名前はマリリン・モンロー(多分、いや絶対に偽名もしくは妄想上のあだ名だ)。
 マリリンと男は心底愛し合っていた。セックスもとても気持ちがよかったと(本当に要らない情報だ)。
 しかしある日、男はマリリンに捨てられた。貢いだ五百万円の未練なんかよりもマリリンに対する未練がひどかったらしい(アホだ)。男はマリリンの働くクラブに彼女を説得しに向かった。
 するとそこには相変わらず艶やかなショーを披露するマリリンの姿があった。相変わらず世界一セクシーで美しいマリリン(だって本文にそう書いてある!)。男はステージに上がった。ああ、マリリン!俺のマリリン!そう叫びながら。
 そしてあと少しで愛しの彼女に触れられる、と思った瞬間、違う男に思いきり頬を殴られたそうなのだ。
 その男というのがイ・ドンへだった。
 イ・ドンへは男を殴りつけるとマリリンの手を握った。すきを見て男の連れがイ・ドンヘに一度殴りかかったらしい。角に飛ばされたイ・ドンへだったが、そのままマリリンの手を取って逃げてしまった。男たちはその場で店員や客に身柄を確保され、しかしオーナーはじめとする店側の計らい(金などが動いているのだろうか?)により裁判沙汰にするのはやめたそうだ。
 先に手を出してきたのはドンヘだった。それは確かなのだ。なぜなら証拠映像が残っている。男の同僚がそのシーンを一部始終録画していたらしいのだ(マリリンと男の結婚式に流す用のビデオを撮ってもらっていたらしい。とことんアホだ)。
 男たちが要求しているのはイ・ドンへのスキャンダルを世間に流すこと。
 金はいらないからイ・ドンへの人生をめちゃくちゃにしてやってほしい、とのことだった。
 そしてマリリンにふさわしい相手は自分だということを証明したい、と言う。

「こいつら、本当にわかってるんですかね?映像流したら自分たちの素性もばれるってこと」
「そんなのイ・ドンへに比べたらどうってことないって思ってるんじゃないかな」
「なるほど。そういう変なところで格差とか身分はわきまえてるんですね」
 ネタとなる材料はまずこの暴行事件のこと。そして、イ・ドンへが過去にクラブでバイトをしていた過去がある、ということ。このような記事が出たらすぐにマスコミは飛びつく。これらはその俳優のステータスや評判ががた落ちするに値するネタだ。
 キュヒョンは疑問点を明らかにした。
「それにしても、なんで今?暴行事件は去年の冬ってありますけど」
「ばか。売れてきたからに決まってるだろ。テレビで活躍するイ・ドンへを見て、なんであいつなんかが、って思ったんだよ。それにしても、このマリリンって子。この子の証言が取れれば一発なんだけどな・・・」
 クラブでショーをして働くマリリンという女性とイ・ドンへはどんな仲だったのだろう。もちろん恋人同士であることは間違いないが、今もあっている可能性は低い。ここに書かれているような熱い略奪愛の末に結ばれた二人だとしたら、そう簡単に離れることもなさそうなのだが・・・。
「あーーー!」
「なっ、なに、キュヒョナ」
「やっぱり、あれはオナニーのためだけじゃなかったんすよ!」
 きたー、俺!さすがの俺にも分かったぞ!キュヒョンは全身で閃きをアピールする。
「あれは、愛しのマリリンに会いに行くためだったんですよ!だから、あのクラブ街に!」
「・・・うん。そうだよね」
「え?」
「分かってたよ、そんなこと。もうとっくに」
 しれっと返してきたソンミンにキュヒョンはもちろん噛みついた。
「じゃ、じゃあなんで車から出ないんだかわかりますか!!」
「うん。多分、彼女とはもう別れてる。それでも彼女の姿を探してあの街に出てるんだろ。で、思い出すたび身体が昂ぶって・・・みたいな?」
 こ、このひと、こわい。キュヒョンは初めてソンミンを怖いと思った。ソンミンの微笑みは悪徳記者そのものだ。
「なにお前、コワイの?それともサカってんの?」
「は・・・」
「やっぱ童貞なんじゃん」
 キュヒョンの悲鳴とソンミンの不敵な笑みが会社に轟いた。そのせいで編集長にお呼び出しを喰らい、作戦会議はそれにてお開きとなった。


 次の日。普通に昼は相変わらずの猛暑の中取材をいくつかこなした。そして夜は・・・。
「えーっ?聞こえないけどーーー?」
「だから、アテはあるんですかー!?」
「えーー?」
 爆音のする夜の街の実態を調査中だ。マリリンの姿を捕えること。そしてもしかしたらイ・ドンへが出現するかもしれない。
 今日は調査一日目、手掛かりはまだない。
「本当に大丈夫なんですかね・・・あれが本当に暴力団関係者だったら、早く対処しないとうちもどうなるか・・・」
「だったらなおさらだよ。本当ならば、イ・ドンへに伝える」
「え?」
 ソンミンの顔は暗闇の中でもしっかりと前を見据えていた。
「あれが嘘なら、イ・ドンへには言わずに無視する。でも本当なら、俺たちは記者としてではなく、人間として、彼を守るべきだと思うんだ。彼の過去を売るようなこと、俺にはできない。イ・ドンへに真実を話す」
「それって、ファンだから・・・」
「ちがう。なあ、キュヒョン?今ならお前も・・・そうするはずだよ」
 ソンミンは笑っていた。まるで、キュヒョンの心を見透かしたような目で。キュヒョンは何も言えなかった。ただじっと暗闇に目を凝らし、ソンミンの言葉を咀嚼することしかこのときのキュヒョンにはできなかった。

「マリリン?知らなーい(若いゲイの男)」
「マリリンって、あのマリリン・モンロー?ばっかじゃーーん(中年のホステス)」
「あらっ、あたしのことかしら~(六十を超えたじいちゃん)」
 実に様々な証言が取れた。しかし使い物になるものは何一つ上がってこない。
「やばいっすね・・・これじゃ朝になります」
「うん、今日はひとまず・・・」
 二人して駐車場の方に身体を向けると、そこにはけばけばのド派手メイクを施したホステスがドカーンと立ちはだかっていた。その隣には、長身で華奢な男が一人。
「わあっ!」
「いらっしゃァ~い、うちの新入り会員さァん?」
 ホステスはソンミンの頭を舐めるように手のひらで撫で回し、キュヒョンの頬をそっと触った。彼女の隣に立つ男はサングラスとマスクをしている。どこかで見たことのある風貌の男だ。
「いや・・・あ、あの、マリリンさんっていうダンサーの方ご存知ですか?」
「マリリン?知らなァい」
「あ、そうですか・・・」
 ひどくキャラの濃い女に絡まれたのに、収穫はゼロか・・・。二人してがっかりしていると、隣に立長身の男がホステスに耳打ちをした。
「ああ、あの子ねェ。たしかに・・・。ねえ、それ源氏名じゃなくてあだ名かしらァ。うちの店に『マリリン』ってあだ名でよく呼ばれてた子が昔いたけど、そうなのかなァって、彼が」
 二人がじっと凝視すると『彼』はさっと顔を横に向けてもとでマスクの上からさらに顔を隠した。咳払いをして甲高い声で言う。
「ユ、ユリ。俺、先行ってるわ」
 そのイントネーションには聞き覚えがあった。
 誰だっけ、こいつ。
 キュヒョンがさらにじっと見てくることに気が付いたのか、男は早足で店の地下に向かってしまった。
「やーん、待ってよォ、ヒチョルー!」
 『ユリ』はその姿を追いかけて地下に沈む直前に「また来てね」と言ってウインクをして行ってしまった。
「・・・・・・ヒチョル!!??」
 二人は顔を見合わせて叫んだ。ここにきて大物俳優のスクープを逃してしまった・・・。二人は落胆に暮れながら、わずかな証言だけを握りしめて車の中へととぼとぼ帰った。

「収穫は、ゼロ・・・っすね」
「キム・ヒチョルのクラブ通いが発覚したのと、いくつかキスを奪われた」
「はい・・・」
 首元についたキスマークを拭いながら、キュヒョンは水を喉に流し込んだ。
 結局得られたのは先ほどのホステスの言う『マリリンと言うあだ名を持つダンサーがいる』という言葉だけだった。もしそれが唯一のダンサーの話をしているのだとしたら、かなり高い確率で彼女が例の手紙の『マリリン』であることに違いない。
「それにしても、もう一つ疑問点があるんですよ」
「なに?キュヒョナ」
「どうして男は二人が別れたのを知っていてもなおイ・ドンへを陥れようとするのかっていうことです」
 もし、自分の好きな人が他の誰かに略奪されたとしても、その恋が終わっていたのならば自分だったらまず真っ先にその彼女に話をつけに行く、とキュヒョンは思った。
 略奪してきた男に復讐するのは二の次だ。もしかしたらマリリンはもうすでにこのことで脅迫を受けているのかもしれない。
「俺も同じことを考えてたよ」
「マリリンも被害者じゃないかって?」
「うん」
 ソンミン曰く、マリリンはもうすでにこの脅迫文のことを知っている。そして、別れてもなおイ・ドンへのことを愛している。だから男に再び愛の告白を受けても返事をしなかった、もしくはまた男を振った。それにまた腹を立てた男が、この時期になってイ・ドンへの成長が目につくようになったのでは、と言うことだった。
「単にイ・ドンへが売れてきたから、ってだけじゃないってことですね」
「うん・・・あくまで推測だけど。マリリンに話を聞くまでは分からない」
「マリリンに話を聞くのよりも、もっと簡単で手っ取り早い方法がありますよ」
「え?」
「イ・ドンへに直接聞きに行くんです」
 キュヒョンの眼はしっかりとソンミンを捕えていた。
「不特定多数の人に聞いて回るよりも、面が割れてる、いや、国民全員が知っているイ・ドンへに話を聞いた方が早いに決まってる」
 それに、初めに俺の心を導いたのはあんただ。キュヒョンは確信していた。
 本当なら、俺たちは記者としてではなく、人間として、彼を守るべきだと思うんだ。彼の過去を売るようなこと、俺にはできない。イ・ドンへに真実を話す。
 そう言ったのは、他でもないソンミンだ。
「いいですか?俺たちはあくまでも記者です。真実を伝えたい。もしそれが、汚い素顔でも、嘘の真相でも、もちろん、売れっ子の過去でも。彼はこのことを知って、揉み消すような男には見えません。この数か月密着してきて、そう思った。あなたなんてもっとよく知ってるはずだ。ねえ、ソンミンさん。俺はあんたを信じます。さあ、イ・ドンへに話しましょう」


 二人はクラブ街を抜け、閑静な住宅地にひっそりと身をひそめるイ・ドンへの所属する事務所に赴いた。事務所前の駐車場には見慣れた車が停まっている。
 彼は今ここにいる。話すなら今しかない。マリリンが本当に脅されているとしたら、時間がないのだ。
 二人はお互いの肩を叩いて激励した。
「大丈夫っす。先輩、キマってます」
「ほ、ほんと?」
「はい」
 イ・ドンへの緊張がほぐれるように、と言い訳をして、ソンミンの鎖骨についた持ち主の知れないキスマークの所在は教えないでおいた。
 

溶ける、消えゆく

 相変わらず、昼の町は静かで閑散としていた。
 蝉の鳴き声もものともせず、通りを過ぎる人影はちらほら、さえ見えない。ドンヘは『店』が目に入る駐車場の二階に車を停め、目を綴じていた。そして夢想の世界に入る。さきほどまでいた職場の喧騒はいったん置いて。
 どうせ与えられた時間は限られているのだから、早く切り替えたもの勝ちだ。

 ライトは消す。なるべく見たくないから。
 エンジンは消さない。なるべく聞きたくないから。
 薄暗い車の中で自分を慰めている時間だけは、そう、一人でいる時間だけは君のことを考える、と決めた。けれど思っていたよりも、一人になる時間は限られていて、案外寂しい思いをせずに済んでいるのが現実だ。
 寂しい思いを期待していた自分もいれば、心底安心している自分もいて、いまだに俺は君への気持ちに未練を押し付けているのだと自覚する。そのたびに、俺は君を思ってオナニーする。君とのセックスを思い出して、オナニーしては汚れた両手を見て涙が出るんだ。
 いつかヒチョルが言っていた。「オナニーするならAVかネット。じゃなきゃ悲しくなるだけだ」と。その意味がようやく分かった気がする。
 どう足掻いても手に入らない人を思ってする自慰行為ほど悲しく虚しいことはない。それでも俺がこの習慣を抜け出せない、いや、抜け出さないのはどうしてだろう。満たされない性欲と愛欲が君を求めることをやめないのはどうしてだろう。
 そうだ、俺は決めつけているのだ。
 この欲情のほとぼりが冷めたらおしまいだ、とどこかで決めつけているからなのだ。
 終わるのが、怖い。俺は君のいない世界では生きていくことができない。

 ドンヘの呻き声が徐々に大きくなり、昂りが頂点に達しようとしたその時、携帯電話のバイブがドンへの腰を伝った。その振動でさえ快感に思えてしばらくは放っておいたが、あまりにもしつこく響くので手を停めて携帯電話を取った。
「はい」
「今すぐ事務所へ来い。早く。早く!」
「はいはい聞こえてますよ!」
 電話の相手はマネージャーのイェソンだった。急用だから今すぐに事務所に来い、と言う。
 仕事をしろと言ったり健康管理をしっかりしろと言ったり、イェソンの小言にはドンへもさすがに辟易していた。けれどおくびにも出さずにドンへはひたすら従順でいた。イェソンに返すべき恩はこんな小言ですり減るような量ではない。きっと一生をかけて働いても完全返済することはできないだろう。
 ドンヘは電話を切り、精液で汚れた手を拭こうとティッシュに手を伸ばしたそのとき、奇妙な者影が隣に映って見えた。不思議に思い、車窓を下ろす。人がいた。
「誰?」
「あ?・・・・・・あ。」
 ドンヘと目が合うと、男は瞬時に顔色を失くし、
「やべえっ!先輩、車!!!」
 と言って猛ダッシュで逃げてしまった。
「なんだったんだろ、今の・・・」
 オナニーを見られたことよりも、顔が見られていないか心配だった。ドンヘは今最も旬で売れている俳優の身分だ。変な噂を立てられたらお先真っ暗だ。
 芸歴や経験はものすごく浅いので後ろ盾も対抗できる道もない。一度悪いイメージが植えつけられてしまえば、払拭する術をもっていないドンヘは一発でこの世界から消え去ることになる。
「・・・気ぃつけよ」
 けれど、サングラスをかけていたことを言い訳にあまり深く考えないことにした。
 あの彼は記者やマスコミのような風貌ではなかったし、おそらく一般人だろう。ツイッターで発信されても証言者がいないのだから相手にされることもないはずだ。それにこれを気に病んでいるとイェソンにばれる。ドンヘは顔に出やすいタイプなのだ。
 ドンヘは服装と表情を正し、ハンドルを握った。光が飛ぶ。ウニョクを思い出す瞬間がある。こういう日常の中に彼の姿を探してしまう。ハンドルを握るウニョクの姿が焼き付いている。そうしているとウニョクの指を思い出して、あの細い指が織りなす蜘蛛のような指の動きを思い出して、華麗なステップ、妖艶な表情、絢爛なステージを思い出す。
 そうやって連鎖していく思い出たちが、彼と別れて一ヵ月以上が経った今でもドンヘをことごとく苦しめるのだ。事務所へ向かっている途中、ウニョクのことを考えていたので終始勃起したままの運転となった。


 稽古場がダブルブッキングしてしまったので事務所で稽古をすることになった。これは秋から始まる舞台の個人稽古だ。ドラマの撮影と重なっているため、共演のキャストたちとの合わせ稽古は期待していたほどの数を取れなかった。
 ドンヘは一人きりの稽古にもう慣れてきていた。仕事があるのはありがたいことだ。それは、仕事を望んでもごみのように蹴散らされた経験のあるドンヘだから、なおさら肝に銘じていた。
 仕事があるのはありがたいこと。だから全力で取り組む。
 俺はウニョクと約束した。いや、お互いの意思確認の末交わす契約を約束と呼ぶのならそれは約束ではなく一方的な宣言に過ぎないのかもしれないが、確かに俺はあの日誓ったのだ。ヒョクに恥じない仕事をしよう、と。
 それが今、自分にできる最大限の贖罪だから。
「精が出るね~。いいことあったか?」
 稽古も終わりに近づいてきたころ、事務所の喫煙室からイェソンが出てきた。
「この後のスケジュールは?」
「うん。とりあえず今日は終わりだ。G誌の取材は来週に延期になった」
「あ、そうなんすか」
 汗をぬぐいながらイェソンを見上げる。地面から見上げていると、彼の鋭利な顎のラインがよく目立つ。
 ドンヘはいつもイェソンを見て思う。どちらかと言えばイェソンは管理する側ではなくされる側の人間にふさわしい容姿、野望の持ち主だと。
「ヒョンって、きれーな顔してますよね」
 にやにやして言うと、
「おめーに言われたかねえよ」
 と頭を思い切り叩かれた。
「ってこんなとこでお前と談笑してる場合じゃねえんだ。俺社長に呼ばれてんの」
「社長?めずらしいっすね」
「うーん、めんどくせえことじゃないといいけど」
 そう言うとイェソンは頭をポリポリと掻きながら社長室の方へ向かって言った。社長はイェソンのことを気に入っている。あの野心に満ちた目が光る限りお前は安泰だな、と誇らしげに言われた。その目がときに俺を暴力的なまでに傷つけるんすよ・・・とはさすがにドンヘも言えなかった。
 携帯を見る。今日も着信はない。女々しくてごめん、と思う。
 ウニョクのことが、まだ好きだ。だからいつまでも連絡を待っている。けれどあれから一度も顔を合わせていないし、声も聞いていない。クラブ街に出て、彼の息づく場所で自慰行為に励むくらいしか、今のドンヘにできることはない。しかしそれでいて最大の満悦だった。
 もしかしたら一生、とドンヘは思う。
 もしかしたら一生、この思いを抱えて生きていかなくてはならないのだろうか。これから先俳優業がうまく行っても行かなくても、結婚しても子供ができても、いつまでもウニョクのあの妖艶な笑みと爽快な笑顔にとらわれたまま、一生を終えていくのだろうか。
 そうだとしたら、とんでもない悪魔につかまったんだな、とドンヘは苦笑する。会いたい、と思う。抱きしめたい、と思う。シウォンが結婚すれば、ウニョクは正真正銘の一人だ。誰よりもそばで支えてあげたかったのに、その願いがかなうことはなかった。
「ドンヘ、ちょっと来い」
「へ?」
 ドンヘが夢想の世界に浸っていると、後ろからイェソンの声がした。目は鋭く光っている。いやな予感がする。
「社長と話は?」
「だから今それの最中なんだよ、ボケ」

 首根っこを掴まれて社長室にほとんど投げ入れられた。大きな社長室の真ん中で、社長の重い顔と見知らぬ二人の男が対峙している。
「社長、遅れてすみません」
「いいから座れ」
 イェソンに促されるままに社長側の席に着いた。すると、見知らぬ男たちの中の一人にはっきりと見覚えのある顔がある。ドンヘは叫んだ。
「あーーー!昼の!」
「・・・その節はどうも」
 男は思っていたよりも長身でスタイルがよく、顔も整っていた。あのときはお互い驚きと混乱でよく顔が見えなかったことが確認された。
「ん?どこかで会ったのか」
 社長の言葉にドンヘは慌てて首を振り、話題と状況の説明を求めた。
「で、話ってなんですか?このお二人は?」
「ああ、この方たちは、N社の記者さん」
「記者?」
 ドンヘは身の毛もよだつ思いがした。オナニーを見られた相手が記者だったのだ。奥歯が小刻みに震えだす。その心情を汲んだのか、例の男が「大丈夫です。昼のことは記事にはしませんよ」と言った。男を見ると、笑っていた。ドンヘの心臓が小さく悲鳴を上げた。
「そ、その記者さんがうちに何の用ですか?」
 イェソンが代わりに聞く。後輩らしき色の白い黒髪の男がおずおずと話を切り出した。
「あの、ですね。いや、俺たちは芸能記者・・・いや、でもそういういかがわしい者じゃなくて、ですね、あの・・・」
 気の弱そうな顔と発言が見事に一致している。同じくして物腰の男の首にキスマークを見つけて笑いそうになったが、もう一人の記者の「先輩、代わります」の一言で彼の方が先輩だったということが分かりさらに笑いをこらえるのに必死になった。
「あの、うちにイ・ドンへさん絡みの脅迫文が送られてきました」
「脅迫文?」
「はい。いや、脅迫文と言うかなんというか、もっと・・・そうですね、お願い、のようなものです」
 彼の言葉と同時に「あっ、忘れてました」と言って先輩記者から二人の名刺が手渡された。
 『N出版 芸能部 イ・ソンミン』『N出版 芸能部 チョ・ギュヒョン』とあった。
 イェソンが舌打ちをする。「こいつ絡みで出版社にお願いって、んだそれ」
「イ・ドンへさん。僕らはこの内容を知っています。そのことを承知の上で、お読みください」
 そう言って手渡されたのは、まるで黒で塗りつぶされたように見えるほど大量の文字が群がる一枚の手紙だった。それをドンへは目を凝らして一字一句逃さず読んだ。読んでいるうちに、息が止まっているのに気が付いた。それなのに心臓は通常運転の速度で音を刻んでいく。
 ―――ヒョクチェ。
 ドンヘは胸が衝かれたように、それ以外の言葉が出なくなった。
「私たちも最初はどうすべきか悩みました。で、悩んだ結果、ここに来ました。この手紙の内容は世間に晒すようなものではありません。これはあくまで個人的で、デリケートなもののように思えました」
 ドンヘが読み終えると、社長とイェソンものぞきこんだ。イェソンの口から手紙が全文読み上げられた。要所要所耳に入ってくるその言葉さえも、魔法にかけられたように固まってしまったドンヘにとってはなんの飽和剤にもならなかった。
「なんだ、これ・・・おい、ドンヘ、本当のことか」
 問われても、言葉に詰まった。ただ一人の人間の影が、ドンヘを強い光でもって占拠していた。
「これが本当なら、お前・・・」
 俳優の道は閉ざされる。
 ドンヘは目を綴じた。
 ヒョクチェ。名前を呼んでも、振り向いてはくれない後ろ姿。その肩を叩いても、消える。
 ヒョクチェ、俺は君を守った。君を守るために誰かを傷つけたんだ。その事実がドンへの胸に刺さって、抜けない。あのときは彼ばかり見て気が付かなかった穴を見て、ドンヘの心は揺れた。
「本当です」
「ドンヘ・・・」
「俺は人を殴りました。この、手で」
 ドンヘは拳を握りしめた。イェソンの舌打ちが聞こえる。社長は両手で頭を抱えた。
「そうですか・・・。今はとりあえずそのマリリンっていう方に話を聞いて彼女の安全を確かめるのが最優先かと。彼女もおそらくこれと同様の脅迫をされているはずです」
「え・・・?」
「彼女に脅迫した末、それでも彼女が要求に応じず、イ・ドンへさんに怒りの矛先が向いたものと思われます。あくまで推測にすぎませんが」
 キュヒョンは言った。隣のソンミンもぎこちなくうなずく。
「彼女の本名と連絡先を教えてください。そうしましたらこちらがどうにかして・・・って、え、ドンヘさん!?」
 その瞬間、何かの糸がぷつりと切れた気がした。小さな小さな音を立てて。ドンヘの足が走り出すのに時間はほとんどかからなかった。
 どうして。
 その思いだけが、ひたすらに脳裏を駆け巡っていた。
「俺、もしかしたらすっごい勘違いしてたかもしれない」
「え!?」
 一同がドンへの方を見ていた。ドンヘは走った。思いの限り。
 俺は、もしかしたらとんでもない勘違いをしていたのかもしれない。
 一生、忘れられずに生きていくんだろうと思っていた。一生、恋焦がれたまま生きていくんだろうと思っていた。
 だって、好きだから。どうしようもなく、ヒョクのことが忘れられないから。
 でも、どうして疑わなかったんだろう。その好き、という気持ちを。好きと思うその気持ちに、どうしてもっと強くへばりつかなかったのだろう。
 あの夏と呼ぶには早すぎた日の夜、大好きなBGMに揺られながらヒョクチェは俺に言った。
『俺が、どこにも行くなって言ったら笑う?らしくないって、笑うか?』
 俺は、笑わなかった。どこに行っても自分の居場所はヒョクのいる場所。そう、確信していたからだ。
 俺はいつからその確信を、諦めにすり替えて安心してしまっていたのだろう。別れを告げられた悲しみを、離れなくてはならない寂寞を、何度でもこの胸に己の刀で刺すべきだったんだ。ヒョクチェに恥じない生き方を、ヒョクチェに捧げる。そんなきれいごとを並べるより先に、もっとヒョクチェのことを見てあげればよかったんだ。
「ヒョクチェ・・・」
 ドンヘは息を切らして走った。俺の居場所はヒョクのいる場所。その思案を頼りに足は動いた。着いたのは、以前住んでいたボロボロのアパートだった。
 ドンヘは震える手で鍵を刺す。飽きた扉の先に広がった景色に、ドンヘはただその場にしゃがみ込み慟哭するしかなかった。
「ヒョク・・・ヒョク・・・!」
 部屋は綺麗で、片付いていた。埃は一つもなかった。靴は綺麗にそろえられていた。
 まるで、数時間前に誰かが掃除をしたかのように。
「ヒョク・・・!」
 玄関に飾ってある二人の写真が、突っ伏してあった。ドンヘは涙が落ちる手のひらでその写真立てを起こした。二人がこちらを見て笑っている。
 恥ずかしいからやめろと言ってヒョクはいつもこれを伏せたじゃないか。それを俺がいやだと言ってしつこく起き上がらせるのがお決まりだったじゃないか。
 ヒョクは来ていた。
 その事実だけが鈍い音を立ててドンヘの身体全身に降り注ぐ。
 ヒョクはこの家に、頻繁に来ていた。いや、来ている、かもしれない。
「電話・・・電話しなきゃ・・・」
 おもむろに携帯電話を取り出し、アドレス帳から『ヒョク』の文字を探す。通話ボタンを押す手が震えた。電話はつながらなかった。
「出て・・・お願い、出てよ、ヒョク。いやだ、いやだよ・・・会いたいよ」
 涙声が廊下に響いた。実に二ヵ月ぶりくらいに踏み入れるこの家は、相変わらずボロボロだった。
「ヒョク、すきなんだ・・・」
 この言葉を、あと百回、あと十回、あと一回でも言えていたならば。ヒョクチェの抱えていた闇も、ヒョクチェが一人で戦ったのだろういざこざも、俺に任せると言ってくれていたのだろうか。俺と一緒に生きる生き方を、少しでも考えてくれたのだろうか。
 ヒョクチェは一人で生きることを選んだのだ。ともに戦うことではなく、俺を、守ろうとして。
「ばかだよ、ヒョク。ヒョクは俺よりもずっとずっと大ばかだよ」
 君を勝手に守ったのは俺なのに。君を勝手に愛したのは俺なのに。全部全部、俺が勝手にやったことなのに。
 君と紡いだ時間と思い出が、俺の心をきつく縛る。

 君を守りたかった。君と戦いたかった。
 どうしてそうやって一人でなにもかも決めてしまうの?置いてけぼりは俺のほうじゃないか。
 そう言って君を抱きしめたい。そう言って君にキスをしたい。

 会いたい。今君はどこにいる?どこで、なにを考えている?

 遠い夜が残暑に溶ける。どこかの空で雷が鳴る音がした。

世界の瞼が閉じるとき

「ドンヘ!」
 実に二ヵ月ぶりの再会だった。彼は結婚の準備で多忙な日々が続いたのか、以前より痩せてしまったように見えた。
「オーナー」
 シウォンはまず真っ先にドンヘを抱きしめた。ドンヘも涙を滲ませながら抱きしめ返す。
 感動の再会にならないのが本当に悔しい。次に会うときは笑顔の挙式で、と思っていたのに。
「本当に久しぶり。元気でしたか」
「ああ。君は・・・言うまでもないね。いつもテレビで観てるよ」
 身体が痩せても重厚でしっとりとした声質は全く変わっていない。ドンヘは安堵した。そしてすぐに用件を思い出し、ハッとした。
「『君に謝らなければいけないことがある』ってこのメール、どういう意味ですか?」
 この旨のメールが今朝届いていた。
 ボロボロのアパートで泣きじゃくったあと放心状態で携帯電話を弄っていると、まだ未開封だったことに気が付いたのだ。今日に限ってシウォンからこんなメールが届くなんて何かの因果があるに違いない。そう思い、すぐに連絡をした。案の定、シウォンはワンコールで電話に出た。
「君が仕事を辞めてもう、四ヶ月、になるかな。店は相変わらず回ってる。けれど、ヒョクチェは違う。ヒョクチェがいなくなって店の売り上げは減った」
 ウニョクはミュージカル俳優になりたかった。そのためのオーディションで数回ショーを休むうち、理不尽で、しかし抗えない客の関心という壁にぶち当たり、ストリッパーとしての出端をくじかれたのだ。
「それからすぐに彼を呼び戻そうという動きがこっちでも、客側でも強まってね。でも、彼はついに舞台に立つことはなかった。今は厨房で手伝いをして繋いでる。けど、オーディションの方も何もしていないみたいだ。すっかり夢が冷めてしまったみたいに」
「昼は何を?」
「病院に通ったり、店の仕込みしたり、かな。きっともっと時間が経てば自分に必要なものが見えてくると思うんだ。けど、なにかな。今のヒョクチェはわざと自分の気持ちを押し殺して安穏と暮らしているようにしか、俺には見えない。もうこれ以上、もう自分が傷つかないようにね」
 ドンヘは胸が衝かれる思いがした。
 ウニョクが自分との間に抱いた強い劣等感と嫉妬心。それが彼をここまで変えてしまった。ドンヘの知っている、向上心が高く自信家なウニョクはシウォンの口からは一切語られなかった。
「先月店で、こんなものを見つけた」
 そう言ってバーのカウンターに白い紙が置かれた。シウォンは苦いものを噛んだような表情で手元にあったマティーニを啜った。
「これがすべての元凶だったんだ、と今さらになって知ったんだ」
 その紙を開いて見ると、見覚えのあるものに違いなかった。脅迫文だった。
「これ・・・」
「うん。これを見てヒョクチェに問いただしたよ。そしたら何も言わずに俺の胸ぐらを掴んで『ドンヘには絶対言うな』って言った。ものすごい形相で。俺はあんなヒョクチェ、初めて見た」
 マドラーとグラスがぶつかる音だけが客のいない店内に響く。
 薄暗い照明の中でドンヘは一人慄然としてシウォンの言葉を聞いた。
「俺には分からない。君たちの間に何があったのかを。でも、ヒョクチェが君のことを本当に大切に思っていたことを、俺は知ってる」
 シウォンの声は絹のごとき優しさでドンヘの心臓を包んだ。
 ドンヘは今にも泣き出してしまいそうだった。実際に、少しだけ泣いた。シウォンが親指でそっと拭ってくれる。
「君がテレビで活躍するのを、ヒョクチェは嬉しそうに見ていたよ。ビデオ機能がないからってわざわざうちに来て録画するんだ。でも、君が出る番組すべて録画するから、ビデオ容量がパンパンで困る」
「ヒョクチェが?」
「うん。君の夢を心から応援してるみたいだ」
 ああ――――。
 俺は、本当にとんでもない勘違いをしていたんだ、と気が付いた。
 ウニョクの言葉を疑っていた自分を責める気持ちよりも、ウニョクが自分を見限らずにいてくれていたことに対する喜びの方が断然強く、ドンヘは嬉しくてさらに涙が出た。彼に恥じない生き方を、とテレビに舞台に一生懸命だったのに、その本人が誇りに思ってくれていたなんて、とんだ大誤算だ。とてもうれしい、大誤算。そして、そんなふうに彼を自分から遠ざける原因となったこの脅迫文が心底恨めしかった。この手紙さえなかったら、今でも俺はヒョクのそばで守ってあげることができたのに。
 そして同時に、分からなくもあった。どうしてヒョクはそんなことしたんだろう。怒りと疑問が脳裏にへばりつく。
「あ、あの・・・オーナーが最後にヒョクに会ったのって・・・」
 そう、おずおずと言葉を切り出そうとしたその時だった。
「オーナー!なんか、オーナー出せって、電話が・・・」
 一人のバーテンダーが店の電話の子機をもってこちらに走ってきた。シウォンは瞬時に真剣な表情になり電話を受け取った。
「はい」
「あ、あの、なんか、名前聞いても答えてくれなくて、それで、早くオーナー出さないと殺すって・・・それでっ」
 電話を耳に当てた後も、バーテンダーは恐怖からか話を続ける。「しっ」とシウォンが人差し指を口に当てると、「すみませんっ!」と頭を下げて楽屋の方に走って行ってしまった。
 その挙動不審な彼の様子とシウォンのやり取りをドンへはじっと見ていた。
 誰なんだろう。
 もしかして、という疑念が浮上し、そしてすぐにそれが正解だったことを知る。
「ヒョクチェ?ヒョクチェなのか?」
 シウォンの声が終わる前に、ドンヘは反射的に電話を取り上げていた。
「ヒョク!?俺だよ、ドンヘだよ。聞こえる?ねえ、ヒョクなの!?」
「あ・・・」
 ドンヘの声に、わずかに彼は反応した。
「ドンヘ・・・」
 それは、幻のようだった。微かに震えたウニョクの声は、今にも消えそうなほど小さかった。
「ヒョク、会いたい。今どこにいるの?」
「だめ、だめだ、来ちゃ・・・」
「ヒョク!?大丈夫!?」
 ドンヘが呼びかけると、小さな悲鳴がした。
 ウニョクの声だ。冷や汗が全身に染みる。
「おい、俺だ」
「だ、だれ・・・」
「今すぐ湾岸の地下倉庫に来い。でないと俺とマリリンは心中する」
 その瞬間、過去あの夜聞いた怒鳴り声と電話口からの声が一致した。あの、ドンヘが殴った男だ。ドンヘの頭の中は真っ白になった。
「どういうことだよ・・・!?ヒョクは、ヒョクはそこにいるのか!?」
「お前、イ・ドンへだなあ?えれー売れてるそうじゃねえかあ。金くらい持って来いよ?」
「お前・・・っ!!」
「いーからとっとと来い。すぐにだ」
 そう言葉を吐くようにして、電話は切れた。つーつーと無声の電話をぶら下げながら、ドンヘはその場で呆然と立ち尽くす。なにが、どうなっているんだ。
「おい、ドンヘ?大丈夫か?」
 シウォンの言葉もあまりよく聞き取れなかった。口が震えてどうにもならない。
「わ、わんがん・・・地下、倉庫・・・」
「え?」
「湾岸の地下倉庫。行かなきゃ」
 ドンヘは走りだした。取り乱しながらシウォンもそのあとをついてくる。ドンヘは無我夢中で車に乗り込んだ。助手席にシウォンを乗せて。
 湾岸の地下倉庫。そう言われれば、テレビ局近くの旧跡の倉庫しかない。ドンヘは正確な場所も分からないままただ無心でハンドルを握った。
 ヒョクチェ。ヒョクチェ。心の中で絞られるように叫んだ。
「ヒョク、ヒョクって、そんなに呼ばんでも」
「だって、」
「どこにも行かねえよ」
 いつかのウニョクの言葉を思い出していた。
 俺は、怖かったんだ。愛してると囁き続けなければ、ヒョクがひょろりと姿を消してしまいそうで。だから俺は、囁き続けた。何度も、何度も、飽きるほど。
 この世界のどこにも居場所がなかった俺に。
 この世界のなににも生きがいや執着を感じられなかった俺に。
 この世界の誰にも愛されず、愛すこともできなかった俺に。
 世界を教えてくれたのは、ヒョクだった。

「ひとつ、言い忘れていたことがあるんだ」
 突然、シウォンの口から小さな声が漏れた。ドンヘは前を向いたまま、その言葉を聞いていた。
「君たちが別れた日、朝が明けて間もない時刻に、俺のところにヒョクチェが来たんだ。誰かとの通話の途中だったみたいでね、小さな声で、聞いたんだ。『俺も誰かを守れるかな』って。俺は、寝起きだったから声が出なくてただ頷いてやったんだ」
 あの朝、まだ俺が寝ていた時間だ。ドンヘはシウォンの言葉を聞きながら、真暗い夜道を進む。
「俺はそのとき電話の相手が君だと思ってたんだけど・・・今思えば、あれは・・・」
 あの男だった。言おうとして、シウォンもドンへも消して口には出さなかった。
 ドンヘの腕時計の時刻はもう日付を越えていた。開けた窓から熱帯夜ののっぺりとした空気が流れ込んでくる。
 ヒョク。今すぐ助けに行くから――――。
 キラキラと宝石のように光るビル街を抜けて、二人は大切な人の待つ場所へ急いだ。


 ようやく降り立った地下倉庫には、余すことなく蒸し暑い停滞した空気塊が蔓延(はびこ)っていた。真っ暗な景観のなかにいくつか蛍光灯の光が機械的に灯り、その道の行く先を静かに照らしている。遠くで汽笛の音がするこの港は、人影だか物の怪の影だかわからないほど奇妙でおぞましい空間だった。
「ヒョク、どこ?」
 水が布に染み込むように、ドンヘの声がしっとりと響いた。二人の足音が何重にもなって四方にこだまする。二人はなるべく近くを歩いた。いつ何が起こるかわからない状況だということは、この雰囲気と場所の様子から計り知れずにはいられなかった。
「ドンヘ」
 突然、懐かしい声がドンへの耳に飛び込んできた。
 ドンヘはすぐに声の源を探してあたりを見回した。シウォンも同様に目を光らせる。
「ドンヘ、こっち」
 その声のする方に、まるで陰極が陽極に引き寄せられるかのごとくふらふらと吸い寄せられていった。すると、少し明るい場所に出た。蛍光灯の真下だ。
 そこに、ヒョクチェが立っていた。
「ヒョクッ・・・・・!!」
 その姿を捕えた瞬間、まさに電極が流れたようにドンヘは走り出した。身体中の血が沸騰したように湧き上がるのを感じた。
「ヒョク」
 強く、抱きしめた。涙が溢れるよりも、言葉が溢れるよりも先に、身体が動いていた。
 ウニョクの身体は相変わらず痩せていた。
「会いたかった。ほんと、会いたかった」
 さみしくてさみしくて、胸がちぎれるかと思った。もう諦めてヒョクのもとに走ろうかと何度も何度も思った。この顔が見たくて、この声が聞きたくて、目の前の仕事を投げ出したくなった日もあった。けれど、できなかった。
「ドンヘ・・・」
 この世界のたったひとり、愛した人だったから。
 ヒョクを失望させたくない。そう、強くなろうと思えたから。
「ごめん、ごめんな。ごめん、ドンヘ」
「いいよ。もういいから。ごめんはまたあとで。今は、このままでいさせて?」
 ウニョクの身体もドンへの身体も同じくらい震えていた。
 互いの体温がこんなにも近くで感じることのできる喜びと、会えなかった時間を悔やむ気持ち。そして、二人を分かちたいくつもの障害に対する恐怖が二人を離さなかった。しばらくして聞こえてきたシウォンの咳払いで二人はすぐに身体を離したのだけれど。
「シウォンも、ごめんな。俺、心配かけて・・・」
「もういい、話はあとで聞こう。今はとりあえずこの場所から出るんだ。ヒョク、逃げてきたのか?」
「うん。あいつら酒飲み始めたからつぶれてる間に逃げてきた」
 にやっと笑ったウニョクの歯がのぞく。この悪戯っぽい顔を見るのも久しぶりで、ドンヘは胸が切なくなった。
「よし、じゃあ行くか」
 そう、シウォンがウニョクの手を引いた瞬間だった。
 数発の銃声が夜の港に大きく響いた。
 苦しくなっていた胸が、爆発したのかと、思った。轟々とした銃声とともに、ウニョクの影が地面と一緒になった。
「ヒョク!!!」
 世界がスローモーションになる魔法にかかってしまったみたいに、蜃気楼のように歪んでいく。
 目の前に映る光景すべてが夢の中の出来事のようだった。
 声とか、光とか、すべてのものが遮断され、胸に走る音の衝撃と、頬に迸った愛しい人のまだ生ぬるい血の感触が、ドンヘの息を縛り上げた。
「逃げるからだ、クソガキ。マリリンなんてキレーなもんじゃねえ。お前はただの詐欺野郎だろ」
 背後で声がした。ドンヘはもうその相手を殴ってやることなんてできなかった。そんなこと、どうでもいいのだ。もう、どうでもいい。
 ヒョク。ヒョクの血が、流れてる。
 目の前の映像を信じることができなくて、動揺で何もできなかった。ドンヘはその場に崩れ落ち、地面に倒れたウニョクの身体を抱きかかえた。
「ヒョク・・・ヒョク、いやだよ、目、綴じちゃいやだ・・・ねえ、ヒョク」
 ドンヘの声は抗いようもなく震えた。手にかかるずっしりとしたウニョクの重みが、悲しいほどに現実を突き付けてくる。アスファルトに、一縷の濁りもないウニョクの血が流れていく。
「あちぃ・・・はあっ・・・」
 うわずるウニョクの声がだんだんと小さくなっていくのが分かって、ドンヘの頭は壊れたように思考が遮断されてしまった。ドンヘはただウニョクの身体を抱いて泣くことしかできなかった。
 腕の中で失われていく最愛の人の赤い結晶。反比例するように急上昇する鼓動たち。
 すっかり顔色を失くしたウニョクの唇が微かに開いた。
「ドンヘ」
「なに?なに、ヒョク」
 ドンヘは泣き叫ぶ。ウニョクの頬がわずかに痙攣したように見えた。
 笑ったのだ。
「守ってみたかった、だけ、なんだ」
「ヒョク・・・」
「好きじゃない、なんて、うそ。ごめんな?」
 ドンヘはウニョクを抱える手が自然と強くなるのを感じた。ウニョクの身体は燃えるように熱い。
「お前のために、生きてみたいと思ったんだ」
 今度は、確かにウニョクが笑っているのが分かった。ドンヘの心臓がはち切れんばかりに叫んだ。
 苦しい。悲しい。ヒョク、愛してる、と。
「ヒョク!!!」
 ウニョクの黒い瞳に映る景色が閉ざされた。遠くで汽笛の音がする。どこかで誰から旅に出るのだろうか。

 ヒョク、どこに行っちゃうの。ヒョク、まだ一緒にいてよ。一緒にいたいよ。
 どこにも行かないって、言ったじゃない。ね?約束でしょ?

 瞳を綴じたウニョクの身体にドンヘの涙が降り注ぐ。
 パトカーの音が近づいてくるのを鼓膜の隅で感じながら、ドンヘは頭を垂れて、懇願した。

 助けて。ヒョクを、俺たちを、助けてください。

 狼のようなドンヘの慟哭が、星の瞬く空に昇った。

この輝きが照らす先は

「―――これで、終わりです。俺が話せることは、すべて話しました」
 聴収が終わった。彼らの出会いから昨日の事件までの経緯、すべてをドンへは話した。
 初めて聞くばかりのエピソードに、キュヒョンも頭を整理するのに必死だった。
 あれからすぐに、警察とともに湾岸の地下倉庫に到着した。二人が働いていたオーナーからの通報だった。彼はマリリンが銃で撃たれたのを見た後すぐに警察に連絡し、事前に警察に脅迫文について相談をしていたキュヒョンたちにもその情報が繋がり、一緒に倉庫へ向かったのだ。
 パトカーを降りると、そこは血の海だった。マリリンを抱きかかえたドンへの眼は覇気を失くし、半分死にかけていた。ドンヘの腕の中に倒れるマリリンの顔には見覚えがあった。あの病院の彼だったのだ。
 キュヒョンは言葉を失った。
 彼の震えた肩が、今は深紅に染まっている。
 すぐにマリリンは救急車に運ばれ、ドンヘは事情聴収として警察に連行された。銃撃事件と脅迫文についてだ。
「本当にこれが全部だな?よし、今犯人も取り調べを受けてる。口を割るまでここに居てもらう。今日中には帰れないと思うが・・・」
 警察官の言葉にドンヘはあいまいに頷いた。
 マリリン―――彼は脅迫文を送りつけた人物の手下(動画を取っていた男だ)に銃撃されて意識不明の重体であること。犯人は逮捕されたこと。彼らは国でも有名な暴力団の一派だったこと。
 事件後の様々な事実を聞かされても、ドンヘはただあいまいに頷くだけだった。聴取に同席していたキュヒョンにも探せないところに、彼の魂は飛んで行ってしまったみたいに見えた。
「ドンヘさん」
 ドンヘは顔を上げた。相変わらず目は死んだ魚のようだ。
「今、先輩が各マスコミに訂正した事実を伝えに行ってます。どっから嗅ぎつけたのか、K社が事情聴収のことを嗅ぎ付けまして。なんか大げさにスクープとして明日の朝刊で出すみたいだったので、俺も慌てましたよ。大丈夫です、安心してください。そっち方面は俺らがなんとかします」
 本当は自信なんてなかったが、あえて強い口調で言った。生きる理由だった人が意識不明、という絶望的な状況にいる彼の前で、弱音など吐けるはずがない。
「ドンヘさん、大丈夫ですか?」
 キュヒョンの言葉にドンヘはいまいな頷きさえ残さなかった。
「・・・ヒョクの、容態は?」
 ドンヘの頬がくしゃりと歪んだ。
「マリリンさ・・・や、イ・ヒョクチェさんはまだ病院です。ドンヘさん、聞きましたか?彼、一番最初に脅迫文を送りつけられたのは春だったって。それから毎週毎週。エスカレートして店にまで来るようになったから、クラブもやめたんだって話」
 春、ちょうどイ・ドンへが事務所移籍をして俳優養成所に通い始めた時期だ。彼をその頃から追っていたキュヒョンは当時のドンヘをよく知っている。
 脅迫文の内容は、はじめはやわらかなものだったと言う。
 「君が好きだから、ドンヘと別れてくれ」
 けれどヒョクチェは無視をした。無視をしてドンへと会い続けた。すると、文面はこんなものに変わった。
 「ドンヘと別れるか、店を辞めるかだ」
 しかしそれでもヒョクチェは無視をした。最終的には、
 「ドンへの暴行事件を暴露されたくなければ、ドンヘと別れろ」
 というものに変わった。
 そしてその脅迫文が店にも相次ぐようになったので店に迷惑をかけると思ったヒョクチェはその両方を手放すことに決めたのだそうだ。これは、他の店員の証言や犯人の供述からの推測だが。
 彼の戦いは、静かに水面下で繰り広げられていたのだ。ドンヘの知らないギリギリのところで。
「記者さん」
「はい」
「俺は、馬鹿です」
 ドンヘは言った。歪んだ頬に、一筋の涙が伝うのが見えた。が、キュヒョンは見なかったことにした。
 時計の針が静かに、そして確かに時を刻んでいく。
「いまだに、どこまでが本当で嘘なのか、分からない。ヒョクは、俺を、好きになれないって、言ったんです。でも、さっき、好きだよ、って言った。俺は信じたいほうを信じるけど、でも、彼が自ら命を絶とうとしたのも、泣いて叫んで『顔も見たくない』って発狂したのも、俺を守るため?ちがう。それは、本当なんでしょ?」
 ドンヘはキュヒョンの肩を掴んだ。縋りつくように。子供が世の中の理不尽を全身で訴えるように。キュヒョンは絞るような声くらいしか出すことができなかった。
「これ、ヒョクチェさんの日記です・・・」
 キュヒョンは鞄から一冊の辞書ほどの分厚いリングノートを取り出した。それを受け取ったドンへは、まだ開いてもいないのに声を上げて泣いた。キュヒョンはドンヘをそっと抱きしめる。大丈夫です、と言ってあげたかったのに、何が大丈夫なのかわからなくて、ついに言うことはできなかった。



 ヒョクチェの日記には、こんなことが書いてあった。
 彼は十年以上日記を書き続けていて、たまたまこの冊子の初めのページは、俺と出会う一週間前の日の日記だった。

《十月二十八日》 アギレラの曲に初めて挑戦。疲れた。
《十月三十一日》 仕事がオフだった。シウォンとミュージカルを観た。つまんなかった。
《十一月四日》

「あ・・・この日だ」

《十一月四日》 今日も疲れた。なのに仕事終わりにストーカーに遭遇。店の裏口にいた。きもい。

「ぷっ。ひどい言いよう」
「本当、このころ『気持ち悪ぃ』ばっか言われてたもん、俺」

《十二月三十一日》 一年が終わる。シウォンと過ごす。ストーカーがしつこくて腹が立つ。もうこれ以上エスカレートしないように天に祈る。
《一月二十九日》 ストーカーとしゃべった。好きとか言ってきてうざい。ああいう人種は嫌いだ。
《二月二日》 ストーカーがうちで働くことになった。最悪。死にたい。
《二月十四日》 ドンヘがバレンタインとか言ってチョコをくれた。捨てるのももったいないから食べてやる。うまかった。
《二月二十日》 ショーが楽しい。アシスタントのドンへの仕事は遅い。
《三月一日》 ドンヘの仕事が早くなってきた。むかつく。
《三月三日》 昨日日記が書けなかったのはあの馬鹿のせい。思い出して今日二日分書く。昨日は昔遊んだ男に絡まれてケンカになった。肩を切った。痛い。せっかくのマリリンのショーだったのに、台無しになった。でも久しぶりに笑った。ドンヘが助けてくれた。

「これ・・・」
「そうっす、この日。あいつのこと殴ったの」
「これで、マリリン」
「そうだよ。このときのヒョクは本当にきれいだった。だからなおさら、守ってあげたかったの」

《三月四日》 謹慎処分だって。ドンヘのせいだ。あの馬鹿、責任とってもらおうっと。
《三月十日》 ドンヘとミュージカルを観に行く。緊張してあんまり内容を覚えていない。ドンヘの撮影を見た。いっちょまえにモデル気取ってて腹立った。でもめちゃくちゃ格好良かった。

「格好良かったって、ドンヘさん」
「はは、これ、今思い出しても恥ずかしい。ヒョク、こんなふうに思ってたんだ・・・」
「嬉しいですね」
 キュヒョンの言葉にドンヘは頬を染めてはにかんだ。

《三月十七日》 謹慎が溶けた。ドンヘと舞台に立った。実験とか言ったけど、本当はドンヘにあんな形で舞台に立たせたことに対するせめてものつぐないの気持ち。伝わってなかったみたいだけど。ドンヘが何か大手の事務所からスカウトされたらしい。嬉しい。

 その晩、俺たちは愛し合ったのだ。あのボロボロのアパートの、薄い布団の上で。十八日の日記は、抜け落ちていた。それがドンヘにはまた、嬉しかった。

《三月十九日》 朝ごはんをドンへと。柄にもなく、幸せってこういうことか?と思った。多分俺は、あいつのことが好きなんだと思う。

 走馬灯のように駆け巡ってくるあの日の夜のこと。
 二人愛し合ったあと、朝ご飯を食べながら、俺は初めて幸せというものを肌で感じた。台所から香る香ばしい匂いと、湯気。手を伸ばせば触れられる距離にヒョクがいること。天気予報。晴れ。ヒョクの声がした、朝。
 俺は、あのときたしかに幸せだった。ヒョクも同じ気持ちでいてくれたんだ。

《四月二十日》 ドンヘと六日ぶりに会った。なんか格好良くなった気がする。
《四月二十五日》 ドンヘがバラエティに出るらしい。すげえ。
《四月二十六日》 なんか脅迫文が届いた。あのステージに乗り込んできた男かららしい。アホくさ。

「あ、これは」
「うん。このころからだったんだね」
 ドンヘは胸が痛んだ。こんなに前からヒョクは脅迫文という影に蝕まれ始めていたんだ。何も知らずにのうのうと暮らしていた自分を心から恥じた。

《五月一日》 ドンヘが地方ロケに行くというので空港まで送りに行った。早く帰ってこい。
《五月二日》 メールが来ない。脅迫文が届く。早く帰ってこい。
《五月七日》 ドンヘが帰ってきた。遅い。

「このあたりから、日付が飛び飛びですね」
「うん・・・俺が忙しくなったころだ」

《五月二十日》 シウォンと喧嘩した。家を出たいってことと、ドンヘのことを言ったから。すごい泣いてた。ごめん。

「えっ・・・」
「うん。ヒョクとオーナーは恋人同士だったんだよ」
「略奪?」
「なっ、人聞きの悪い・・・」

《五月二十一日》 シウォンと別れたことをドンヘに言ったら、間抜けな返事をされる。腹立つ。早く帰ってこい。
《五月二十七日》 ミュージカルのオーディションに落ちる。ドンヘが何も言わなかった。忘れてしまったのだろうか。馬鹿め。脅迫文のことを打ち明けようと思ったが、やめた。
《六月三日》 ドンヘが長期ロケに行って一週間帰ってこないらしい。うるせーのがいなくなって、せいせいする。相変わらず脅しが絶えない。
《六月六日》 ミュージカルを観に行く。
《六月七日》 ミュージカルを観に行く。
《六月八日》 さみしい。脅迫文が届く。シウォンが結婚するらしい。心細くてさみしい。ドンヘみたいなことを言ってる自分がいやだ。

 ドンヘの胸の底が縮んだ。視界が涙で滲む。
 次の行に書かれていた日付は、あの、夢のようなダンスの日だ。ドンヘは鼻を啜って読み進めた。

《六月九日》 ドンヘが一日早く帰ってきてくれた。嬉しい。本当は、もうどこにも行かないでほしい。一緒にいるのに、さみしい。

 ドンヘも同じ気持ちだった。
 一緒にいても、抱きしめていても、寂しかった。離れ離れになる時間が迫っていることを、直視できずにいたからだ。

《七月二日》 気が付いたら病院にいた。何も覚えてない。

「これ、ヒョクが自殺未遂した次の日・・・」
「え?」
「俺はよく、覚えてる」
 ドンヘは震える手でページをめくる。何が書いてあるのかと思うと、めくるのが怖かった。

《七月三日》 ドンヘとシウォンと言い合いになってしまった。自分でもどうしてこんなことをしたのかわからない。でも、むなしい。ドンヘを好きだった気持ちは覚えているのに。
《七月四日》 脅迫が絶えない。ドンヘと別れた。これでいいんだと思う。ああ、ドンヘに会いたい。

「ヒョク・・・」
 握りしめた拳が震えた。何も知らなかった自分と、知っていてどうしたと聞かれたら何も答えられない自分が情けなく、申し訳なかった。こんなにもヒョクは苦しんでいたのに。俺はいったい何をしてあげられただろうか。
「俺だって、会いたかった。ヒョクに好きじゃないって言われても、会いたかったし、好きだった。なんで、なんでヒョクばっかり・・・」
 言葉が落ちては消えていく。意味がない。ヒョクがいないと意味がない。
 俺は君のために、生きたい。
「これ、見てください」
 そう言ってキュヒョンは次のページをめくった。
「なに、これ」
「ドンヘさんが出てる雑誌の切り抜き。親かっての」
 そう言ってキュヒョンは笑った。
 日記一面にドンヘの写真があった。
 ドンヘはその瞬間思わず泣き出してしまった。その場にしゃがみ込んで、せき込むように泣いた。キュヒョンが背中を擦ってくれる。
「ヒョクチェは、ドンヘさんの写真を見て、たまらない顔をして部屋を出て行ったことがあったんです。その震えた背中は涙をこらえているように見えた。彼は、誰よりもあなたのファンでした」
 昔俺は、ヒョクのファンだった。いや、今でもヒョクのパフォーマンスが世界で一番好きだ。でも今はそんな俺の、ファンだなんて。そんなことを言われたのは心外で、けれどどうしようもなく嬉しかった。

 音もなく、しかしたしかに崩れていったヒョクの精神。重なるオーディションの不合格に、途絶えることのない脅迫文。自分のファン兼アシスタントだった自分の恋人が、目の前で飛ぶように出世していく。
 ヒョクチェの日記には、その苦しみと葛藤、そして絶望が淡々と書かれていた。ドンヘは何度もその日記を読んだ。そのたびに嗚咽が止まらなかった。
 しばらくして、聴収室の扉が開いた。警察官が慌てた表情で入ってくる。どうしたんですか?というキュヒョンの言葉を無視して、警察官はドンヘの肩を掴んだ。
「早く!早く病院へ!!」
 途端に動機が早くなるのが分かった。ドンヘは迷いなく立ち上がり、部屋を出た。片手には分厚い日記―――彼の、ヒョクの思いがすべて詰まった日記を握りしめて。
  ヒョク、行かないで。伝えたいことが沢山あるんだ。
 日記を勝手に読んでごめん。たまに連絡を忘れてごめん。たまに約束を破ってごめん。たまにセックスの途中で疲れて寝ちゃってごめん。脅迫に気づいてあげられなくてごめん。でも、あのときあいつを殴ったことに後悔はしていないんだ。ヒョクを守れた自分が誇らしかったのを、今でも覚えてる。あのとき初めてヒョクが俺の名前を呼んでくれたのも。
 ヒョクの本当の気持ちを疑わなくてごめん。信じてくれたのに、裏切るようなことしてごめん。本当はまだ信じてくれていたのに、一人で悲劇気取っちゃってごめん。こんな小さなプライドを捨てきれなくて、ヒョクのもとに走っていけなくてごめん。
 本当はずっと、会いたかったんだ。
「ヒョク!!」
 病室を勢いよく開けると、そこにはウニョクが人形のように横たわっていた。隣にはシウォンが座っている。シウォンはドンヘを見ると、気を利かせたつもりなのか、何も言わずに病室の外に出て行ってしまった。
「ヒョク、死んじゃやだ・・・」
 ウニョクは無反応だった。そんなこと、わかっていた。
「俺と一緒に、生きるんでしょ?生きてくれるんでしょ?ねえ、ヒョク!」
 抱きしめた身体は重く、冷たかった。息が止まるほど、胸が苦しい。
 ヒョクに恋をしたときは、もっと苦しかったんだ。鐘が鳴ったんだよ、君を見た瞬間。ドンヘは思った。
 君に恋しているあいだ、その鐘が鳴っているあいだ、俺は本当に幸せだった。だから今も幸せだ。
 俺は、君が好きだ。

「俺の居場所は、ここだ・・・」

 ドンヘはウニョクの胸に手を当て、耳元に囁いた。
 ドンヘの声が立ち昇って、病室に響く機械音とともに混ざる。夜空に星が瞬いている。その一番星が、この夏一番の輝きを見せた。


 

エピローグ

「ったくふざけんなよ!?おめー逃げるつもりか!」
「タンマタンマ!ちょ、明日にする!」
 あたり一面のネオンの光が秋になりかけの空に溶けている。
 轟々と地下から漏れあがってくるミュージックと形にならない無数の声たちがまるで鬱蒼と茂る森のように、夜の街を包み込んでいた。そんなクラブ街という森で、ヒチョルとドンヘは相変わらず重装備の変装姿で言い合いになっていた。
「俺もともとそういうのが苦手だって言ったでしょ!ヒョンはあれでしょ?ユリさんがいなくなったから好き放題できると思ってるんだ」
「ばーか!誰が嫁の元職場で浮気するんだよ!俺は二児の父だぞ!?」
「はいはい。パパになって落ち着きましたよね、セ・ン・パ・イ」
「てめーーー!」
 騒々しい街の中でもさすがに大の大人の大声の争いは目だったらしい。周りからの痛いほどの視線を感じ、ドンヘもさすがに折れた。
「分かったよヒョン・・・でも、やるかどうかはわかんないからね?」
「あーあー、どうせ俺は除けもんだよ。結婚したとたんこうだからうざってえ・・・」
 ヒチョルは面倒くさそうに頭を掻く。
 あのヒチョルがあのユリと結婚、しかもおめでた婚、しかも双子のパパになる。そう聞いて驚いたのはドンヘだけでなく世間ももちろんのことだった。ヒチョルはおかげで今は育児俳優としてバラエティにCMに引っ張りだこだ。いくつになっても新しい姿を開拓していく。この人には敵わない、とドンヘは思う。
 そのドンヘはというと、正月に公開した映画が大ヒットした。
 そのシリーズのテレビドラマと、他に三本の映画ドラマを今現在撮影中だ。スキャンダルも出たが、世間というのは恐ろしく移り変わりやすいもので、半年も経てばすぐに忘れた。むしろそれで中年層にも名前が知れたくらいだ。ドンヘは人気若手俳優として、日々精進の毎日を送っている。
「いらっしゃいませ」
「オーナー!!」
 出迎えてくれたのは二代目オーナーのシウォンだった。前で礼儀よく組まれた左手の薬指が銀色に煌めいていた。シウォンは予定より半年ほど遅れて先月結婚したばかりで、今はなかなか店に来ていないと聞いていたので驚いた。
「あれ、奥さんは?いいの?」
 ヒチョルの言葉に、
「はい。今日くらいは行ってきていいと許してもらいました」
 と困ったように答えた。シウォンの奥さんは恐妻なのだ。
「そうだよなー。だって今日はなんてったって・・・」
「あ!!」
 ヒチョルの言葉を最後まで聞かずに、ドンヘが大声を上げた。
「んだよ、うるせーなー」
「キュヒョンさん、ソンミンさん。お久しぶりです」
 入ってすぐのバーカウンターに、二人が揃って座っていた。クラブで見る二人は、記者と言うよりも売れないホストのようだ。
「ドンヘさん、久しぶり。その後仕事は順調?」
「はい。ソンミンさんは?この後輩、飼い慣らせました?」
 ドンヘがにやにやして聞くと、ソンミンは頬を赤らめた。代わりにキュヒョンが口を挟む。
「飼い慣らされてるのはこいつ」
 キュヒョンはソンミンを指差し、ワインをごくりと呑み込んだ。ソンミンが慌てて「馬鹿!」とキュヒョンの肩を叩く。キュヒョンは相変わらず生意気な表情でソンミンを見下ろしている。
「あれ?なんか足りないような・・・」
「俺を忘れるな」
 ドンヘのつぶやきに即座に返答が帰ってきた。イェソンが恨めしそうな顔でこちらを睨みつけていた。「イェソンヒョン!」
「俺はずっとここに居たぞー。今日はわざわざオフにしてやったんだから、しっかりやることやれ。仕事は何事もあまねく、が基本だ」
 イェソンはもうすでに酔っ払っているようだ。ソンミンの隣でちびちびとウイスキーを啜っている。
 ドンへはイェソンに向かって苦笑し、「帰り、この人送って行ってくれますか」とソンミンに耳打ちをした。キュヒョンがそのとき小さく舌打ちをしたのが聞こえ、ドンへは笑いを抑えるのに必死になった。
「あれ、そろそろ始まるかな」
 シウォンの声がして、ドンヘはステージを見た。シウォンがドンへの肩を押す。一歩前に押し出され、振り向くと、みんながこちらを見て笑っていた。
 親しい人たちがまわりにいるこの空間。何にも代えがたい奇跡のような時間だ。
「ドンヘ、やるならちゃんとやれよ?中途半端はこのマネージャーであるイェソンが許さない」
 イェソンはふてぶてしく言う。ドンヘは思わず笑ってしまった。
「行って来いよ、ドンヘ。今だけはお前の幸せを願ってやる」
 ヒチョルの親指の腹がこちらを向いている。
「そうですよドンヘさん。まだ勇気出せないんですか?子供だなあ」
 キュヒョンのニヒルな笑い声が鼓膜を逆撫でて。
「ドンヘさん、頑張って!俺たちも応援してます」
 ソンミンの優しい純朴なエールが逆立った鼓膜を撫でてくれる。

 今日だ。
 ドンヘは一歩踏み出した。
「行け、ドンヘ。もう絶対に逃すな」
 シウォンの声が、もう一歩。そして彼のもとへ、運んでくれた。


 スポットライトがステージ中央を照らす。
 そこに浮かび上がる一つの影。細い足首。ふわりとした金髪の髪。赤いリップに、口元にほくろ。

 あなたに愛されたいの。
 他でもないあなただけに。

 マリリンモンローの半年ぶりの帰還に、店が揺れた。
 地響きとともに姿を現したのは、一層輝きを増して帰ってきた、店一番の売れっ子ストリッパー、ウニョクだ。
「ウニョクーーー!」
「綺麗だぞー!マリリーン!」

 あなたに愛されたいの。
 他でもないあなただけに。
 あなたにキスされたいの。

 ウニョクは網タイツでくるまれた華奢な足をポールに絡め、花弁のように舞った。
 半年間のブランクが嘘のような華麗な動きに、見ていたものは皆息を呑んだ。妖艶な笑みと激しいほどの美しさは健在だ。ドンヘは特等席に呆然と立ち尽くしてしまった。そして目が合う。ウニョクがこっちを見ている。

 ああ俺はまた、恋に落ちた。

 ドンヘは確信した。
「ヒョク」
 ドンヘは前へ進んだ。人ごみを押し分けて、ステージ前の最前列まで歩く。ウニョクは踊り続ける。客は酔いしれたように揺れる。
「ヒョク」
 ドンヘは少しだけ大きな声で呼んだ。そして分け目も振らずステージによじ登った。客がざわめきだすのと同時に、ウニョクの表情が固まってしまった。
「おめ、なにして・・・」
 その赤い唇を、キスで塞いだ。
 キャーという悲鳴のような歓喜のような声が店内に響く。リップが付いたって構わない。
「ドンヘ!!!」
「好きだ」
 ひざまずき、手を差し伸べる。見上げたウニョクの表情が、子供のようで可愛い。「復帰ステージなのに・・・」と言いながらも、わなわなとドンヘの手の上に自分の手のひらを置いてくれた。
「ヒョク」
「な、なに」
「あなたの人生を、俺にください」
 ドンヘは言った。握ったウニョクの手が熱くなっていくのが分かる。何百人も証言がいる前でずるいかな、とシウォンに聞いたら「むしろ大歓迎」と認可が下りたのだ。そうでなくてもいずれ言いたかった言葉だ。ドンヘはじっとウニョクを見た。
「なにその目・・・ずるい」
「へ?」
 口を開けた途端、中が生ぬるいもので満ちた。ウニョクの味と口紅の味が混ざって、それはお世辞にもおいしいとは言えなくて。
「俺だって、欲しい。お前の人生、俺にくれ」
 ヒョクの言葉で世界は変わる。ヒョクのキスで世界は変わる。
 ヒョクは俺の世界そのものだ。
「全部あげる。俺はヒョクのものだよ」
「そりゃどーも。すっげえありがたいんだけどさ、とりあえずここ、降りよ?」
 ウニョクの視線の先を振り返ると、店内の客数百人全員が二人を見ていた。
 そりゃそーだ。ドンヘはおかしくて笑ってしまった。
「じゃ、連れ去りますか」
「連れ去ってくれます?」
 ドンヘはウニョクの手をそのまま握ると、挑戦的にウィンクを客席に寄越し、
「連れ去りますとも。どこまでも」
 思い切り駆け出した。後ろから客の拍手と歓声が押し寄せてくる。
「あっはは!俺たち全然成長してねえな」
「本当だ!ってか俺、もう疲れてきたーっ」
 冬の夜はまだまだ長い。二人で愛し合おう。ゆっくりと、時間をかけて。
 俺は君を離さない。もう、君を逃さない。
「愛してるよ、ヒョク」
 その照れた横顔も、すぐ汗ばみ始める手のひらも。
「俺も・・・って、言ってたまるか!」
「えー!言ってよー!」
「やだよ、ばーか」

 俺の世界は、ヒョク、君だ。

 君のために生きてみたいと、思ったんだ。

 そんな世界で生きている自分を、誇らしく思う。心強く思う。
 二人の笑い声が星空に紛れていく。この輝きが照らす先は、きっとものすごく明るい。

ミラーボールシティ

ミラーボールシティ

君のために、生きてみたい―――。 社会からは見放され、孤独と寂寞が輪をかけて深まっていくばかりだった。そんなとき出会った、ひとつの宝石。すでに光と希望に満ちていたその宝石を、無謀にも「知りたい」と思った。君の手を握りたい。抱きしめたい。守ってあげたい。 果たして彼はその宝石を手に入れることができるのか?そして彼はこの広い世界に居場所を見つけ出すことができるのか? 過去が犯した罪と罰。今に潜む贖罪と悔恨。未来に託された容赦、そしてたった一つの約束。さまざまな色で彷徨っていた光が今、重なり合い、ひとつになる。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-28

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

Derivative work
  1. プロローグ
  2. ひとつめの打撃
  3. 最高のショー、最悪の出会い
  4. 豪雨前線
  5. 押せないシャッター
  6. 愛しのマリリン
  7. 世界を照らす宝石になれ
  8. 恋は偉大で忙しい?
  9. 俺から目を離すな
  10. うすあじのチャーハン
  11. とある二代目のとある一日
  12. 離れ小島
  13. ラスト・ダンス
  14. テイク0
  15. Cracks of a broken heart
  16. ある夏の事件簿
  17. スクープ
  18. 溶ける、消えゆく
  19. 世界の瞼が閉じるとき
  20. この輝きが照らす先は
  21. エピローグ