あの海
あの海を見たいと思った。
そのことはこの一年いつもわたしのこころにあった。
わたしはある大学の付属病院で脳神経外科のナースをしている。
毎日、何回かのオペに参加していると、私たちの命ってなんなんだろうと、ふと考えてしまう。
町工場のような手術室は壊れた命の部品を修理してるに過ぎないのではないのだろうか。
人間って物なのだろうか。
脳腫瘍だって、考えれば単なる錆びだし、それを取ってしまえば元通りなんだから。
ナースになってまだ日は浅かったけれど、出会いは簡単だった。
彼はこの病院の若いドクターだった。
彼は若いながらも手先の器用さでいくつかの手術を見事にやってのける技術を持っていた。
病院からはそれなりに力を認められ、奢ることも知らず、命の修理に汗を流していた。
その日は、オペが予定よりも長引き、もう夜の11時を過ぎてる頃だった。
オペは無事終わって、家に帰ろうとナースセンターから出たわたしに、彼が近寄って言った。
「きょうは、ありがとう・・・」
わたしは、なんの事か咄嗟には理解できなかった。
彼はわたしの不可解さを感じて言った。
「額の汗を拭いてくれたよね・・・」
いろいろなオペシーンを思い出しながら、そのイメージを呼び戻そうとしたが、曖昧な記憶しかなかった。
意識的に行動したわけではないし、オペチームの一員としてやるべき事をしただけだった。
「あの時、僕は迷っていたんだ。
大脳皮質を走る神経系が僕のメスの邪魔をしていてね」
「ふと、このオペは僕に無理かなって・・・」
わたしは、いつも命と向かい合ってる彼のセリフに、僅かな戸惑いを感じた。
「先生も、そんな風に迷うことがあるんですか?」
「君が、僕の額の汗を拭ってくれたとき、なぜか君の言葉を感じたんだ」
「出来るわよ・・・ってね」
彼は、幼い子供のような綺麗な笑みを浮かべていた。
二人で「海の家」へ出かけることになったのは、それから半年経ったある夏の日だった。
わたしは両親に、ナース仲間で海へ行って来ると嘘を言った。
海のそばで民宿をやっているダイバー仲間がいるんだという彼の説明で、なぜか断ることが出来なかった。
その頃わたしは、おそらく身分も違う彼と結婚なんて出来るわけもないし、あまり期待はしていなかったけれど、逢うたびに彼の平安な優しさに惹かれる自分を感じていた。
彼は、わたしを美術館などへよく連れていってくれたけれど、特にスーラ展では「グランドジャッド島」の絵の前で、その点描画の眩しさに目を細めながら見入っていた。
そこには粒子となった真夏の光があった。
海と光の話をするとき彼もまた眩しく輝いていた。
彼は海と光に命の源を見ていたのだろうか。
命と対峙する彼の行為の源にあらゆる命に対する愛おしみがあったような気がしてならない。
そんな優しさを感じてから、わたしは彼のオペに対する姿勢を初めて意識することができた。
朝早い電車に乗るため私達は、午前7時に駅で待ち合わせた。
わたしはハイネックで右肩がボタン留めになっている黒のサマーセータと同じく黒のパンツルック。
大きめの落ち葉色のデイーバッグを左肩から提げ、ひさしの大きめの生成りの帽子を被った。
彼は白のTシャツに白のボタンダウンのシャツを引っかけチノパンというラフでお洒落な服装だった。
わたしは華やいだ気持ちだった。
日常性から開放されて過ごす一秒一秒がとても大切なものに思えた。
一足先に着いたわたしを見つけて、彼は声をかけた。
「やっぱり、君か、待ったの?」
「どこのお嬢様かと思ったよ。遠くから見ると君って素敵だね」
こころでは、その言葉がうれしかった。
そしてあなたこそとっても素敵だと思っていた。
「どういう意味なの?」
「いやいや、言葉足らずでごめん!」
「遠目では、ほら、客観的に見ちゃうでしょ・・・」
「近くで見るとそうじゃないという意味なんですか?」
わたしは、意地悪をしていた。
とても幸せだったからかもしれない。
夏の朝の光が電車の窓から差し込み、遠い昔に同じ光景を見たような錯覚を感じながら、わたしは彼と並んで座っていた。
ウィークデーにもかかわらず車内はほどほどに空いていていつも乗ってる朝の通勤電車とは違っていた。
多分下り電車のせいかもしれなかった。
わたしにとってそんな雰囲気が鳥かごから放たれた小鳥のように自由で心地よかった。
「ねえ、私たちって恋人同士に見える?」
わたしは、およそ一回り程年齢差のある彼に悪戯っぽく囁いた。
彼は先ほど買ったジャスミンティーのペットボトルをわたしに手渡しながら言った。
「多分ね。
でもそんな事どうでもいいじゃないか」
「僕たちは僕たちなんだから・・・」
「ゆみかはどう思うの?」
今日からの数日間、彼と一緒に行動することになることについて、わたしは少し不安を感じていた。
でもそれはわたしにとってわたしがわたしであることの意味を考える事でもあった。
少なくともわたしだけの判断による行動であったし、これから起こるであろうわたしのこころの変化について、どんなことになっても受け入れようと思っていた。
彼はこれからお邪魔する海の家について、いろいろ話しをしてくれた。
とても海が好きなマスターのことや、ダイビングのこと、そして海の中の神秘さについて・・・。
わたしは泳ぎも得意じゃないしダイビングも経験がなかった。
それでも、彼の話に見知らぬ世界の魅力を感じていた。
そして、彼と一緒にいることに何故かとても充たされていた。
これが恋愛なのだろうか?「好き」だとか「愛してる」という言葉は、私たちの間で一度も交わされたことは無かったけれど、何気なく二人になる機会が増えて、それはそれでいい関係だと思っていた。
いままでに、彼と同じ時間を共有してわたしはいろいろなことを教わり、それは仕事上の事もあったし、美術や文学の事もあった。
わたしにとってはとても楽しく充たされた時間ではあったけれど、でも、わたしは一体彼に何をしたのだろうか。
彼は一体わたしに何を求めているのだろうか。
そんなことを考えると少しの不安がときどき蘇ってくることがあった。
太陽が真上に来る頃、私たちはある駅に降り立った。
彼の友人である海の家のマスターが迎えに来ていて、ひとしきり懐かしい再会を喜ぶ会話が飛び交い、わたしはその間日陰で佇んでいた。
「今日お世話になる、ゆみかさんです。職場の同僚なんですよ」
「そうか。じゃあ、夕食のメニューに腕を振るうから、よろしくね。お嬢さん!」
「はい、よろしくお願いします」
「ゆみかさんは、どんな食べ物が好き?」
マスターの車の中で、二人が経験した今なお鮮明な過去の海の記憶について話していた。
男同士の関係って「なんかいいな」と二人の表情を見つめながらぼんやりと考えていた。
岩場の海岸線が見える小高い丘の海の家は、白い洋風の建物でひっそりとした佇まいであった。
案内されたわたしの部屋はシングルであった。
ベッドは木肌を生かした木製のベッドでセミダブルの大きさだった。
暖色系の淡いシャーベットトーンのベッドカバーは無地でおしゃれだと思った。
壁にはビュッフェの小さなピエロの複製画とベッドとおそろいの木肌のライティングデスクと一体化した大き目の姿見があった。
床に丁寧に貼られたわりと毛足の長いカーペットはベージュ色で部屋のイメージに調和していた。
両開きの適度な大きさの窓からはレースのカーテンをとおして蒼い海と白い光が見えた。
わたしは、おそらくツインルームなのかと想像していたので、このような配慮をどう理解すべきか内心迷った。
わたしは用意してきた着替えなどを組み込みの収納に整理し、髪を梳かしなおして約束どおり一階のダイニングルームに向かった。
マスターと彼は「海の幻」について話していた。
もう一度どうしても見たいと・・・。
最近海は汚れてきたこと。
そして、あの幻を見る機会は今年が最後になりそうなこと。
そしてそのチャンスは今日の夕日が沈む一時間前であること。
わたしは、二人の熱い思いを自分のことのように感じながら、人を好きになるってこんな思いなのかなと自問自答していた。
二人は早速ダイビングの準備を始めることになった。
私も海岸までは一緒に行き、午後の少し落ちかけた陽の光を背中に熱く感じながら、二人を見送った。
二人を乗せたモータボートは凪のなかを静かにスタートし回り込んだ海岸線の影に向かい白い楕円を描いて消えて行った。
潮の香りが懐かしかった。
私は小高い草地に腰掛けて彼らの消えた方向の水平線が心なしか丸い事に気が付き、海の水がどうして宇宙に零れないのか不思議に感じていた。
そのまま彼は帰らなかった。
「明日は、君も潜ろうね。
そして来年も君を連れてくるよ。
ここはいいところでしょ?」
それが彼の最後の言葉だった。
あの海