星空遊戯~Sugar Stars~

 静かに、静かに胸に灯った淡く仄かな思い。
 ふと気がついたときには、もう無視することなどできないほどに深く濃くなっていた。
 だから、ほんのちょっとだけ勇気を出して口にしてみた――けれど。
 余りにもか細い声だったから、誰にも気付かれることはなかったと思う。
 それでも良かった。その思いが叶うことなどないことは誰よりも一番よく分かっていたし。
 だからこそ、今。
 不思議なほどに心が揺れる、この瞬間を、しっかりと両目に焼き付けたんだ。
 そう、絶対に忘れることなんてできないように。

 ***

 辺りはすでに日が落ち、とっぷりとした闇がその場を支配していた。
 無駄に明るい夏場と違い、あっという間に日が暮れる十一月から二月。
 この四カ月間、生徒は皆、必ず午後七時までに各々の家路に着くことになっている。
 どうして、帰宅時間が厳格に決められているのか?
 一言で言い表すなら、ありきたりだけど『防犯』のため。
 なんせ学校が建っているのは街の中心から少々、いや、かなり外れた丘の上。
 見渡す限り青深い山ばかりで、驚くほどに周りには何もない。
 通学路沿いに規則正しく並んだ街灯の妙に寒々しい明かりだけが、異様に目立っている状況だ。
 お察しの通り、人通りもそれはそれは少ない。
 なにかしら事件が起きてしまったとしても、目撃者など望めそうにないからなかなかの危険地帯だと思う。
 つまり、この規則は「不確定な危害が及ぶ前に、皆で未然に防ごうね!」という学校側の態度の表れともいえた。
 ――まぁ、例外として大会前の部活動(ただし、メジャーなものに限る)は、顧問の先生の指示に従うことになっていたけれど。
 大いに活躍が期待されている彼らのためなら、練習時間の延長など容易く許されるのだから不思議なものだ。
 でも、今は十二月。
 しかも、あと一週間ほどで待ちに待った冬休みがやってくる。
『朝から晩まで練習し放題!』
 そんな最高の条件が目の前に迫っているためか、今日という平日に、無理やり規則を捻じ曲げてまで活動を行う部などなかった。
 加えまして、ただいま午後八時五十分。
 下校時刻はすでに過ぎ去っている。
 すなわち、誰一人として生徒が残っているはずのない校舎――そんな場所に私は居た。
 正確に言うならば、懐中電灯を相棒に階段を昇っている最中だったりする。
 一歩、一歩と進むたびに。
 冷え冷えとした夜の空気に包まれ、年季の入った鉄筋三階建ての建物は徐々にその温度を低下させていた。

 夜の学校(あるいは、廃墟)に忍び込む。
 余りにもありきたりすぎて、思わず笑いが込み上げてくるような『肝試し』のシチュエーション。
 何もそんな季節外れな体験がしたくて、こんな場所に居る訳ではない。
 むしろどんなに「行こうよ!」と誘われても、絶対にお断りだ。
 何を隠そう、私は怖いモノや気味の悪いモノが生理的に受け付けない。
「弱虫ちゃん」やら「ガキんちょッ」などと、どんなに舐められ馬鹿にされても平気なほど硬い意志を持った臆病者なのだ。
 それもこれも幼い頃に父と兄に受けた仕打ちが原因なのだが、今は関係ないので一旦置いておこう。
 では、なぜ極度の怖がり屋が近寄りたくもない『夜の学校』に居るのか?
 しかも、たった一人で。
 忘れ物を取りに来た? とても残念だが、そんな無理をしてまでわざわざ取りに来ようなんて思わない。
 答えは、もっと単純。『部活動に参加するため』、だ。

 ――もしや、規則違反だと思っているのでは?

 一応決められた型にはまる、それが私だ。威張れることではないけれど決められたルールにわざわざ背く、そんな面倒に満ちた真似をする気などない。と言うよりも、せっかく得た信頼を放り出すほどの勇気がない。
 こんな時間に活動することが許されたのは、今日が私の所属する部にとって「特別」だからだ。
 そう、特別な日。
 思えば、待ちに待ち焦がれた一週間だった気がする。規則を盾になかなか許してくれない担任を言いくるめるのに、ずいぶんと骨を折ったものだ。
 騒がしい昼間と違って、物音一つ失った教室に深い闇に包まれた渡り廊下。
 そんな周りを彩る不気味さが全く気にならないのは、奇妙なほどに浮かれたこの心のせいだろう。
(到着ですよ、っと)
 せっせと階段を昇って辿り着いたのは、これから二時間近く過ごすことが許された場所だ。
 と言っても、年に数回しか使用しないことから仲間内でも「幻の部室」と呼ばれていたりする。
 目の前にある、古びて塗装の剥げかけてしまっている扉が、その入り口だ。
 スカートのポケットに少々動きが鈍った手を突っ込み、担任から借りた鍵を取り出す。
 そしてちょっぴり心許ない懐中電灯の光を頼りに、私は勢い良く扉を開け放った。
 と、同時に。
 大きく切り取られた間から、研ぎ澄まされた闇色の空気が内側へと一気に流れ込んできた。
 強めに吹き抜けた風に、前髪が容赦なく乱される。
「くぅ……」
 思わず身体がぎゅっと縮こまる。これは、か、かなり寒い。
 一応ブレザーの上には、兄に(もちろん無断で)借りたジャンパーを羽織っている。
 足元は黒のハイソックスから厚手の黒いタイツに履き替えたし、首はマフラーでぐるぐる巻きだ。
 でも、寒い。
「今夜は冷え込むでしょう」と、にこやかな顔でさらりとそう告げていたお姉さんの言う通りになったようだ。
 最近外れ気味の天気予報だったけれど、名誉挽回か。
 だからと言って、寒さなんかに怯んでいる場合ではない。時間は限られていて、こんな瞬間にも進んでしまっている。
 そう、ここは気合いだ! 冷えてしまった頬を覆うようにマフラーを巻き直して、私は扉を潜った。

 校舎内に居た時に感じていた以上の冷たさが、鋭く身体中を駆け抜ける。
 じわじわと纏わりつく冷気を振り払うように見上げれば、静まり返った夜空の中、溶け込むように散らばった星々が、自分の存在を示し合うように輝いていた。
 いつもよりも空との距離が近いためか、その淡い光に包まれるような錯覚を覚えてしまう。
 東側には、冬空の代名詞ともいえるオリオン座が大きく見えた。
 ――さすが、屋上。本当に最高の観測場所だと思う。
 早速、準備をしないと時間がもったいない。
 無意識に心躍ってしまう光景から一旦視線を逸らし、私は左隅へと向かった。
 転落防止用の金網で囲まれた塀。その角に丁度収まるよう設置された、小さな物置小屋へと辿り着く。
 引き戸の中央に貼り付けられた、白色のプレートに刻まれているのは〈星空研究会〉の五文字――私の所属する部の名前だ。
 活動内容は、主に部室内での雑談(先輩曰く、部員同士の心の触れ合いのため)時々真面目に天体観測と、かなり緩め。
 全盛期のころは二十名近く部員が居たらしいが、私が入部した時はたったの六名だった。
 そして、ついに今年の夏。
 受験を控えた先輩たちが退部してしまい、現在の部員は私に幽霊部員と化している二人と、合わせても三人のみ。
 もう部活というよりは同好会と呼んだ方が正しいのかもしれない。
 実際、今夜の双子座流星群の観察も私一人での活動なのだから。
 中に入っているモノが、他の人達にとってはしょうもないものばかり、いや、学校内に悪い輩はいないと信頼しきっている優しさに溢れた部であるため、小屋に鍵は掛かっていない。
(さて、開けますか)
 一度軽く息を整え、私は小さな取っ手に手を伸ばした。
「ん、しょっ」
 固く軋んだ引き戸を力いっぱい引っ張って、何とか足一本が入るほどの隙間を作った。出来上がったその空間に右足を突っ込んで、今度は力の限り足で押す。
 行儀は悪いが、こうしなければ上手く開けられないのだから仕方がない。
 性格のねじ曲がった頑丈な『敵』と格闘すること数分。小刻みに揺れながらも、ついに扉は全開した。
 なかなかの重労働だ……。そろそろ生徒会役員さまに一度相談した方が良い気がする。
 でも、修理のための予算が人員不足の部に回って来るとは到底思えない。
 気がつけば何度でも漏れ出てしまう溜め息を止められないまま、私は必要な道具を取り出しにかかった。

 ***

 物置小屋から引きずり出した保温マットを、冷え切ったコンクリートの上に敷く。優に大人二人が寝そべることができるほどのスペースが出来上がった。でも、一人分の大きささえあれば十分だから、半分に折り曲げる。
 いつもの癖で持ち出した電気ランプだったが、輝きを増し始めた月が辺りを照らしているため使わないことにした。これ以上の明るさに瞳が慣れてしまわないよう、月には背を向ける。
 防寒用のタオルケットを広げ、くるりと二周半、自分の身に巻き付けた。
 大きすぎてまだまだ生地が有り余っているが充分に暖かいので気にしない。そのままマットに上に腰を下ろす。
 流星観測には根気強さが何よりも不可欠で、楽な姿勢を保つためのクッションが欠かせない。一番のお気に入りである円形のそれを抱えながら、私は空を見上げた。
 準備万端! 完璧だ。これで安心して部活動を始めることができる。
 ピーク時(深夜二時ごろが一番らしい)まではまだまだ時間があるから、見られる流星の数は本当に限られたものになるだろう。
 それでも高鳴る胸を押さえながら、ゆっくりと身体を後ろへと倒す。とたんに頭から足の先まで広がる心地よい高揚感。
 このまま文句なしの楽しい時間が始まる――はずだったのに。
 仰向けまであと一歩のところで、私の動きは急停止することになった。思わず跳ね上がるようにして、起き上がってしまったのは言うまでもない。
 だって、聞こえてしまったのだ。
「少し、明るすぎるかなぁ……」
 自分以外誰もいないはずの屋上で、どこか残念そうに呟く男の人の声。
 周りが静か過ぎたためか、その声は嫌にはっきりと耳に届いた。
 若干高めの声だ。
「……!」
 もしかして、と。
 幽霊部員の片割れである『後輩』君が来たのかと思ったが、すぐにそれが「あり得ないこと」だと思い出す。
 彼は、「作品を仕上げるのに忙しい」とか、「このままじゃ締め切りに間に合わない」だとか何とか言っていた……気がする。
 って、そんなことはどうでもいい! 寒いはずなのに、手のひらが妙に湿っぽいのは何故だろう?
 ひどく混乱する頭を抱えた私は、前を見つめたまま動けなくなってしまった。
 心待ちにしていた煌めく光ではなく、仄暗い夜の色で瞳が満たされる。
 無性に背後が気になるけど、振り向くなんてことしたくもない。
 煩いほどに打ち付け、暴れる心臓の音を間近で感じる。まるで、全身が聴覚になってしまったようだ。
 まずい。このままでは、まずい。
 楽しみにしていたのだ。せっかくの機会を見逃してしまっては、元も子もない。
 先程までとは、別の意味で騒ぎ立てる心を落ち着かせるために、クッションを胸の前で強く抱え込み、大きく深呼吸を繰り返すこと、数回。
 ――幻聴でしょう? 何、怯えてんの?
 良かった! 頭の奥の奥に追いやられ、消えかかっていた冷静な自分が戻って来た。
 苦笑しながら頭を左右に振ると、強張っていた身体から、ゆるりと力が抜けた気がした。
 その通りだ、聞き間違いにきまっている。現に耳を澄ましてみても――
「えっ?」
 確かに、もう声は聞こえなかった。
 しかし。
「代わりだ」とでも言うように。コンクリートを叩くような音がひとつ、静まり返った屋上に響き渡った。
 ゆっくりだけれど、規則正しい――うん、そう。何と言うか、足音みたいだ。
 一歩、また一歩。悲しいことにこちらへと近付いて来る。
 せっかく解れたはずの緊張が一瞬にして舞い戻る。耳が皮膚が敏感になった。ぞわぞわとした気味の悪い感覚が、一気に背筋を駆け上がる。
 小刻みに震え始めた身体は、自分のものなのにもう二度と言うことを聞いてくれそうになかった。
 耐えがたい恐怖と緊張で動けなくなった私を嘲笑うかのように、ふつりと足音は止んだ。
 しかも、真後ろで。
 馬鹿みたいに心臓がびくついた。大量に押しだされた血液、その熱が目頭を覆った。

 あっ、泣く。

 そう認識したとたん、クッションが滲んで見えた。みるみる内にぼやけて、もう良く見えない。
 後を追うように。呼吸が曖昧になった口から短くひっかかるような声が出そうになった。
 嗚咽だ。
 ――待て、さすがにそれは嫌だ。
 こちらは「涙」とは違った。理解したとたんに、急激な恥ずかしさが私を襲った。
「怖い」という、ただそれだけの感情だけで本当に泣いてしまうとは情けない。
 そんな弱々しくも取り戻した自尊心から、今にも零れ落ちようとしていた「恥」を拭い去ろうとした、その時。
 ――左肩が重い?
 私はやっと自身を襲う違和感に気が付いた、気が付いてしまった。
 見えない細紐で締められたように、喉が、胃がきゅっと縮こまる。地味にというか、なかなか痛い。
 どこか他人事のように感じてしまうのは、私の心がついていけていない証拠なのだろうか。
 しかも。嫌だ、嫌だとこんなにも必死になって命令しているのに。
「見たくないものに限って、見てしまう」、なんて不可思議で不条理な人間の行動だろう。 
 私の首は緩やかだけど、確実に異変を感じたそちらへとスライドしていく。
 そして、終いに。
 命令を無視した裏切り者の両目は、臆病者の精神上大変宜しくないものを捕らえることとなったのだ。

 うっすらぼんやり月明かり。その中でゆらゆらと浮かび上がったのは、人さまの手。
 もちろん自分のものなんかじゃない。

「ひっ――ぁ!」

 これまで出したことのないほどの大声で叫んだつもりが、喉に何か張り付いてしまったようで、唇からは酷く掠れて潰れた音が転げ落ちただけだった。
 息をすることさえ忘れ、ひたすらに左側を凝視し続けていると、肩の上にとまっていたはずの手がひらひらと目の前で揺れた。
 いや、もうわけが分からない。私は呆けたまま、ただ無意識に瞬きを繰り返した。
 目尻に溜まっていた生温かい雫が、するり頬を滑り落ちていく。
「だ、大丈夫?」
 ごめん、やり過ぎたみたいだね。
 やけに慌てた声音に視線を上げると。
 眉尻をこれでもかというほど下げ、心底申し訳なさそうな表情を浮かべる、良く見知った人がそこに居た。

 ***

 予想もしなかった予定外の訪問者のために、折り畳まれた保温マットが本来の大きさに戻る。広くなった分、厚みは減った。
 でも、右側からやって来る冷気がほんの少しだけ和らいだ。
「ごめんね? 思った以上に驚かせちゃったみたいで」
「へぇ、思った以上に楽しかったですか? わざわざ声まで変えられてお見事でしたね」
「た、楽しかったなんて、そんなことないよ!」
 困り果てた声で弁明する犯人――もとい、退部したはずの先輩を軽く睨みつけながら、乱れたタオルケットを巻き直す。
「ふーん。でも、顔、にやけてますよ?」
「へっ?」
 場違いなほど気の抜けた声が静まり返った夜の空気を揺らす。
 月明かりに照らされた顔がかなり頼りないのはきっと気のせいなんかじゃない。
「嘘ですよ、う、そ」
「う、嘘? 何でそんな」
「あぁ、でも知りませんでした。まさか先輩に『ご自分より年下の人間を虐めて楽しむ』、そんな趣味があったなんて」
「まいったなぁ」と、罰が悪そうに顔を顰める先輩を、自分でも冷えているなと思う視線で攻撃する。
 素直に謝っている先輩と比べて、私は意地が悪いのだろうか? だからと言って、言い過ぎたとは思わない。元はと言えば、人の弱みに付け込んだ彼の方が悪いのだから。
 ――さっさと私の名前を呼ぶなり貴方自身が名乗りさえすれば、寒空の下、得体の知れない存在に怯えて泣くこともなかったんです。
「あ、れ……?」
 得体の知れない存在に怯えて……、泣く?
 不意に頭の中に浮かんできた言葉に絡まれて、落ち着かなく思考が回り始める。
「あ、ぁ!」
 回って、回って辿り着いた一つの答えに思わず大きめの声が漏れた。
 隣に座る先輩の肩が微かに揺れ、僅かに見開かれたその瞳と目が合う。さも「どうしたの?」といわんばかりだ。けれど、上手く返事ができない。
 そう、だ。私は泣いたんだ。しかもたった一人とはいえ他人の前で。
 数分前の自分の行動を鮮やかに思い出し、恥ずかしさから勢いよく顔を横に背けた。
 先輩の顔が一瞬にして視界から消える。
 身体中の全ての熱が顔面に集まって来てしまったようで、凄く熱い。物凄く熱い。
 この冷え切った夜空の下、顔だけ茹で蛸なんて明らかに異常な状態だ。
 いけない、まずは落ち着こう。そう思ったのに。
「本当に、ごめんね?」
「うわぁあ!」
「あっ、いや、また驚かせちゃった? 俺、その、謝ろうと思って」
 急に覗き込んでくるなんて、ひどく心臓に悪いことをするものだ。思わず声を上げてしまったではないか!
 どうしよう、年頃の乙女らしからぬ叫び声を上げたことで、さらに頬の温度が上昇した気がする。
 いくら夜とはいえ、頭上には有難迷惑なほどの光を地上に振りまいている月がいる。
 視力の良い先輩だったら、こんな薄明りでも自分の微妙な表情の違いに気付いてしまうに違いない。
 そうでなくても、この人、変な所で聡いのだ。絶対、
「なんか、赤いねぇ……どうしたの?」
 なんて言われて、流されるまま根掘り葉掘り聞かれてしまうに決まっている。それから、
「大丈夫。橘が泣いてたとか誰にも言わないから! 安心して?」

 そんな駄目だ。恥ずかしくて死んでしまう!

「と、とにかく全然怒ってませんから。お願いです、何も気にしないでください!」
 慌ててマットの上に寝転がり、先輩との距離をとる。
 少しでも茹でた顔を隠してくれることを期待して、クッションを高めに抱き抱えた。 
「そろそろ流れ始めますよね?」
「う、うん。そーだね、見られるんじゃないかな」
「じゃあ、集中しましょう、先輩。私、見逃したくありません」
 このまま、観測を始めよう。なんだかんだで時間が押してしまっている。
 半ば強引にそう宣言して、流れ落ちる光だけに集中しようとした。
 が、容赦なく襲いかかる無言のプレッシャー。
 どこか物言いたげな彼の視線をひしひしと感じた。困ったことに諦める気がないようだ。
 少々長すぎる根気比べに、居た堪れなくなった私は真上を見つつ、ふと思いついた疑問を投げかけた。
「というか、先輩。こんなところに居てもいいんですか?」
 慣れ親しんだ空気感に危うく忘れかけていたが、彼は受験生だ。
 センター試験という大勝負まで既に一ヶ月を切っているし、明日は確か模試のはず。
 きっと、のんびりしている場合ではない。
 準備とかあるのでは? と心配になって発した私の言葉に、先輩はクスクスと小さく笑いながら仰向けになった。
 ――なんで、そこで笑うのか。
 可愛い後輩の訝しげな視線を綺麗に無視して、彼は空を仰いだまま静かに口を開いた。
「だって、言ってたでしょ?『また、皆で見たい』って」

 ――えっ?
 思いもよらない返答に、私の思考はあっけないほど簡単に停止する。

「やっぱり、叶えられる事は、叶えてあげたいと思ってさ」
 穏やかな微笑みと共にこちらを向いた先輩と見つめ合う。
 ああ、きっと。
 心底間抜けな顔を自分はしているのだろうと、どこか冷静すぎる頭の隅で思った。
「まぁ、その俺一人だけで申し訳ないんだけどね」
 そんなことはない。貴方だけでも十分だ。
「半分も叶えられてないな」と、苦笑いをする先輩に向かって首を左右に振って見せれば、さらに淡い微笑みが彼の口元に浮かんだ。
 
 優しすぎるその表情に、思わず目を見張ってしまう。
 覚えてくれていたというよりも、聞こえていたという事実に驚いた。

 去年の流星観測は、引退前の先輩たちに、今は産休で居ない顧問と一緒だった。
 ただ他愛もない会話をしながら夜空を眺めているだけだったのに、本当に楽しくて仕方がなかった。
 だからこそ次の年のことを考えると、どうしようもない寂しさを覚えて。
「また、皆で見たいなぁ」 
 気が付いたら、そう、柄にもないことを呟いていた。
 到底無理な願い事は、あの喧騒の中誰にも届かず溶け消えたはずだったのに。
「本当に、余計な所で気を使うんだから」
「うん?」
「いいえ、何でもないです。でも、あの、いいんですか? 付き合って頂けるのは嬉しいですけど、遅くなりますよ?」
「大丈夫、大丈夫。模試だからって、今更慌てても仕方がないよ。無駄に詰め込んでも意味ないし」
「特に新しく覚えることもないからね」と、この上なく朗らかに笑う先輩に向かって溜め息をつき、一つ忠告をする。
「その言葉、部長に言ってはダメですよ」
「そーいや、アイツ怒ってたなぁ。『こっちは一点でも多く取るのに必死なんだよ! お前と一緒にすんな!』って」
 なんてことだろう。もう、すでに遅かったらしい。
「これから暇かどうか聞いただけなのに、かなり怖かったよ」
 切々と訴えてくる声とは裏腹に、楽しげに弧を描く唇は明らかに相手の反応を楽しんでいる。
 相も変わらずに、先輩の部長弄りは続いているようだ。
 事あるごとに絡まれ、その一つ一つに反応してしまう心優しい『その人』を思い出し、私の胸はちくりと痛んだ。 
 ここは数少ない後輩代表としてとして、きちんと釘を刺しておかなくては。
 マットから起き上がり、先輩の方へと身体を向ける。どうしたの?とでも言いたげな彼と目が合った。じっと睨んで注意する。
「部長は心が広いから、先輩の悪ふざけに付き合ってくれてるんですよ? 今は大事な時期なんだからそっとしてあげないと!」
「俺だって、大事な時期だよ?」
「ちょっと、先輩! 真面目に聞いて下さ」
「あっ、流れた」
「へっ! やだ、待って!」
 慌てて夜空に視線を戻すが、全ては一瞬の出来事。ほんのりと明るい空の上には何の跡もない。
「そんなぁ……」
 最悪だ。初っ端から見逃してしまった。
 しかし、幸運なことに肩を落とす暇も先輩に八つ当たりする暇もなかった。
 すぐさま鮮烈な光の尾が二つ、一直線に下へと伸びてオリオン座の間を駆け抜けていったのだ。
 光の筋が消えた方をぼんやりと見つめ、余韻に浸る。
 何分、何時間でも浸っていたい。そう思っていたけれど、さすがに首が痛くなってきたので仰向けに戻る。
 マットへと身体が沈み視界いっぱいに夜空を捕らえた、まさにその時、

「やっぱり、流れ星に願い事すると叶うと思う?」

 飛んできた質問に私が戸惑ってしまったのは言うまでもない。少々迷いながらも思い付いたままに返答してみる。
「……どうしたんですか、急にロマンチストですね?」
「……どうしよう。なんかひどく傷つくんだけど」
「あ、すみません。でも、気持ちは分かりますよ?」

「流れるお星様にね、お願いすると叶えてくれるのよ」、初めて親にそう教えてもらった時は、幼心に感動した思い出があるのだ。「お星様はすごいんだよ」と、何度友達に訴えたことだろう。

「今になっても無意識に願い事を考えちゃいますから」
「じゃあ、さっきもお願いした?」
「えっ、そんなこと!」

 わざわざカミングアウトするわけがない。抗議の意味を込め軽く睨みつけようと隣へ視線を移せば、好奇心で瞳を輝かすやけに子供染みた先輩が見えた。
 とたんに、驚くほど簡単に芽生えた悪戯心に私は素直に従った。
「もちろん、お願いしましたよ。『部長と椿さんがベストを尽くせますように』って」
 思ってもいなかった答えだったのだろう。先輩の瞳が丸くなった。切羽詰まったように聞き返してきたから、たまらない。
「ねぇ、何で俺抜きなの? というか長いし! それじゃ三回も唱えられな」
 自信ありげに話す先輩の言葉を遮って、私はさらに畳み掛ける。
「いえ、我が家の教えでは『三回唱える』ってルールはないんで」
「まさかの、オリジナル!? あのね、世間一般では」
「世間様なんて関係ないですよ。信じる心が一番必要だと思ってますから」
「言い切ったね……、なんか説得力があるし、怖いな」
「ふふっ、きっと叶っちゃいますよ」
「だったら、尚更だよ。俺だけ仲間外れは止めて?」
 ――よし、ここだ。
 お願いと、手のひらを合わせ頼んでくる先輩にゆっくりと確実に釘を刺す。
「部長を敬うんだったら、先輩のこともお願いしてあげますよ?」
「俺、アイツに何にもしてないよ? むしろ暴力振るわれてるんだけど」
「もう! 見え透いた嘘吐かないでください」
 そんな他愛もない言い合いの中、また、一つ、光の尾が伸びて落ちた。
 同時に口を閉ざしその跡を静かに見送れば、ゆったりとした静寂が辺りを包みこんでいく。  
 ああ、また忘れられない時間が増えた。去年までのような騒がしさは、大きく欠けてしまったけれど。
 嬉しくも、どこかくすぐったい感情が緩やかに心を満たしていく。
「先輩、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 何に対する感謝なのか、一切聞かずに返事をしてくれた先輩は、やっぱりお節介だ。
 気になって隣を盗み見てしまった自分に後悔しながら空へと視線を戻す。
 彼の口元に張り付いた満足げな微笑みが、無性に憎たらしい。
 だから、絶対に内緒。
 最初の流れ星に、少しでもこの時間がゆっくりと流れてくれることを望んだことは。

星空遊戯~Sugar Stars~

星空遊戯~Sugar Stars~

とある高校、天文学部に所属する後輩の短いお話。――なかなか素直に言葉に表しにくい、この気持ちを何と呼ぼう?

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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