征四郎疾風剣 〔Ⅱ〕

     


           - 花 流 の 章ー    望 郷 の 黄 昏



           流れる三弦の響きは
           
           妓とともに艶やかなれども

           柳の風に汐の香は無く 
           
           川面に浮かぶは病葉のみか

           器に誘う箸は蒼く

           肴は錦なれども

           芳しく薫る長物淡し

           伏し見る美酒に楼華は散り

           久方の峰に灯 は輝けども

           墨堤珠鍵の賑わいに遠く

           祭礼の囃子は一社なり

           一涙の盃に東空を眺むれば

           遥かに過ぎゆく渡りの群れ          


    
      
                         髭の浪人 



 祇園祭りの喧騒が過ぎた京の町屋の瓦屋根に、久しぶりに雨音が響いた。「いやあ、雨が降って来た・・・。」目を開けて慌てて体を起こしたものの、咲江はおもわず額に手を当てた。「ああ痛・・まだ頭がふらふらするわ。ちょっと、浜ちゃん!」「はあい!」二階から声がして十六、七の若い娘がとんとん音を立てて下りてきた。「いやあ、おかあはん、もう起きてよろしおすんか?」「そんなことより、外に手拭い干してるのんいれといて。」「はあい!久しぶりの雨どすなあ。」 「ほんま久しぶりやわあ・・。」再び身体を横たえながら咲江は、昨日までの眼の回るような忙しさを思い出していた。「今年の祭りも暑かったなあ。これで一息つけるわ。」開け放された戸口から
漂ってくる、雨に打たれた土の匂いを感じながら、咲江はいつしか眠りに落ちていた。小半時が過ぎただろうか、「おかあはん!おかあはん!ちょっとおきておくれやす!」身体を揺り動かされて咲江は再び目を開けた。「なんやねんなあもう・・・疲れてんのや、もうちょっと寝かしといてえなあ・・。」「菊千代姉さんが帰って来はり ました。」「それがどうしたん?もう、菊ちゃんが帰ったからいうて、うちが別に起きないかんことないやろ。」「それが違うんです。まあともかく戸口に来ておくれやす・・。」浜菊に手を引かれていやいや戸口を見た咲江は、思わず目を見開くと同時に、あわてて身繕いをした。やや不安げな面持ちでこちらを見つめる菊千代の差し掛けた絵日傘の下には、濡れ鼠になり髭ぼうぼうの、見知らぬ浪人らしき風体の男が立っていたからである。

 
                        相 合 傘


 「どないしたらええんやろなあ・・。」二階の天井を眺めながら咲江はため息をついた。「なあ、おかあはん、あとは、うちが何とかするよって、一生のお願い、この通り・・。」そう言って手を合わせる菊千代の申し出を、断りきれずに家にれたものの、花街の中の女世帯、世間体もあり、噂が広まれば商売にも差し障り出る。かといって菊千代の話を聞けば追い出すわけにもいかなかった。「うちが稽古の帰りに、昨夜のお座敷で相手した客で脇野という名の侍と、その仲間数人に路地に連れ込まれ、危うく手込めにされそうになった時に、この方に助けられたんどす。江戸から来られたお人で、知り合いにも逢えず、路銀も尽きお困りのご様子どしたんで、とりあえずお連れしたんどす。おかあはん、そんなわけで何かお礼がしたいんどす。家に入ってもろうてもよろしおすやろか。」


 「ねえさん、こんなんで、よろしおすか・・。」「おおきに旦那はん、無理言うてすんまへん。」古着やの主人に手渡された着物と袴の包を手に、菊千代は小さな暖簾をくぐった。「いやあ、菊ちゃん、久しぶりやなあ。こんな遠いとこまで、何の用事、まあ上がって。」姉妹のように仲が良かった二つ年上の芸妓、さよ吉はいまでは髪結いの女房に収まっていた。「ねえさん、おりいってお願いがあるのどす。」

 「ほな、わたしはこれで・・・。」「遠いとこ、ご苦労さんどした。ねえさんによろしゅう言うといておくれやす。」道具を片手に、椿油の匂いを漂わせながら、さよ吉の亭主は帰って行った。菊千代は格子戸を閉め、振り返るとそこには、髭を剃り、髪を結い直し、自らが整えた着物に袴姿の筋骨逞しい侍がすっくと立っていた。そして「菊千代どの、いろいろお世話をおかけ申し、かたじけない。」そう言って頭を下げた。菊千代は初対面の時との余りの違いに驚き、言葉を失いかけた。 ―  いやあ、まさか・・このお人が、あのご浪人はんやなんて、うち、夢見てんのと 違うやろか・・・。  —

「菊千代殿、日傘は私が持ちましょう。」背の高さの違いに、手が疲れたのを察して侍の力強い大きな手が白い手をそっと包んだ。「いやあ、けどこの絵日傘は男はんの持つものとは・・。」「なあに、かまいませんよ。」通りすがりの人々の眼を気にしながら、二人は五条坂を二丁ほど登って左に折れ、細い路地を抜けて小さな寺の門前に出た。「たしかこの辺のはずどすけど。」菊千代は足を止め、左右を見渡した。「あっ、あの家と違いますやろか。」きれいに刈り込まれた生垣の前で、一人の少女が乾ききった玄関先の道に手桶の水を打ってい
た。「そうどす。 ちょっと待ってておくれやす。」少女と入れ替わりに、間もなくして六十前後の小柄な老人が姿をみせた。「これはこれは、遠路はるばる、ようお越しくださいました。手前は、江戸の伊助さんとは同じ庭師の師匠の下で修行した兄弟弟子で、治平と申します。今では稼業は息子に譲って隠居の身、時々孫のお照が様子を見に寄ってくれますが、退屈凌ぎに近くの寺の俳句仲間の寄合に行くのが何よりの楽しみの、ただの年寄でございますよ。 むさ苦しい処でございますが、どうぞお入りください。ささ、姉さんも遠慮なく、丁度、今お照と二人で冷やしておいた西瓜を食べようとしたところでしてね。」

 通された離れの縁側には簾が下がり、緑の木々に囲まれた中庭を吹き抜けてくる風が心地よく、蹲の水音が吊るされた風鈴の音と相まって、さらに涼感を添えていた。「この離れは昔、住み込みの見習い弟子が住んでおりましたが、今は空いたままになっており、どうぞお気兼ねのうお使いくださいませ。大方のことは伊助さんの手紙にて承知をいたしておりますが、何かご不自由なことがございましたら、何なりとお申し付けくださいませ。出来る限りのことはさせてもらいますよって。ああ、そうそう、伊助さんの手紙には大恩あるお侍としか書かれておらず。これからは親しくお付き合いさせて頂くのに、まだお名前をお伺いしておりませなんだ、お聞かせ頂いてよろしおすやろか。」「これは申し遅れました。私は嵯峨征四郎という無骨もの。故あって江戸を離れ、この地に参りましたが。右も左も分からず難渋いたしましたところ、ふとした縁で菊千代殿に巡り合い、そのおかげで治平どのに逢うこともできました。いろいろご迷惑をお掛けしますが、よろしくお願いいたします。」そう言って張り替えられた青い畳に両手を付き、深々と頭を下げた。これに驚いた治平も慌てて頭を下げた。「 いやあ、伊助さんの手紙には、お侍には珍しく話せるお方とありましたが、これほどとは思いませなんだ。あなた様のようなお人となら、末長うお付き合いできそうな。はっはっはっはっ・・。」

「ほな、うちはこれで・・。」そう言って帰ろうとする菊千代に、「家まで送りましょう。」そう言って征四郎は再び絵日傘を手にした。帰り道、二人はほとんど言葉を交わさなかった。— いやあ、もう三条やわあ・・ ―
菊千代は祇園までの道のりが、いつもより短いのを感じていた。— このお人とは、これだけの縁で終わってしまうのやろか、もっとずっと一緒に歩いていたい・・。― 「では・・。」そう言って去って行く侍の、後姿を見つめる自分の胸の中が、熱くせつない思いに締め付けられるのを感じ、思わず涙が溢れそうになったその時、侍は歩みを止め、ふと振り返り、こちらをじいっと見つめていたが、再び背を向け歩き出した。― ちょっと待っておくれやす、お願いちょっと待って! ― 心の中でそう叫んだ瞬間、再び侍は歩みを止め振り向くと、先ほどとは違い迷いのない面持ちでこちらに近づいてきた。菊千代は身震いするような心の高まりを抑えようと、片手で胸元を強く握りしめながら、その侍の言葉を待った。「菊千代殿、実は先ほどから、どうしょうかと迷っていたのですが・・。」「なんどすやろ?」「もし、ご迷惑でなかったら、その・・。」「ええ。」「せっかく京に来たので、名所をあなたに案内していただけたら有り難いのですが、勝手なお願いでしょうか?」「何かと思うたら、そんなことどすか、お安い御用どす。うちでよかったら、いつでもお供させてもらいます。」「ほんとうですか?いやあよかった。じゃあ仕事のめどがつき次第伺います。では御免。」そう言い残して侍は夕暮れの花見小路を意気揚々と帰って行った。「まあ、子供みたいなお人やわあ・・」含み笑いをしながら、菊千代はからりと格子戸を開けた。「おかあはん!只今かえりました!」   


        
                          夏 の 膳


 「菊千代姉さん、この間はご苦労さんどしたなあ。」「いいえ、女将さんこちらこそありがとうさんどした。またよろしゅうおたのもうします。」「こちらこそ・・。」一通りの挨拶の後、傍らの侍に軽く会釈をして女将は引き下がった。窓から入り込むひんやりとした川風に一息ついていると「ごめんやす。お待ちどうさんどした。」襖が開いて様々な趣向を凝らした料理が持ち込まれ、四十前後の女が慣れた手つきで、手際よく広い膳の上に料理を並べ終えると「ごゆっくりどうぞ・・。」と手をついて頭を下げ出て行った。私が奢りますからと伊助から届いた金子を懐に、気を吐いて、一流の京料理の店に案内してはもらったものの、江戸の料亭とは勝手が違い、何から手を付けようかと迷っている征四郎に、菊千代がそれとなく「ここは、鮎などの川魚料理が看板のお店どすけど、今の時期、なんというても京では鱧、難波の海で取れる怖い顔をした長い魚どすけど、細こうに骨を引いた後さっと湯に通し牡丹の花のように開いた白い身を冷たい水で締め、梅肉を付けて食べると、ほんのりとした甘みと梅の酸味がよう会うて、さっぱりとした夏向きの味で、ほんまに美味しおす・・。」と言って、みずみずしい青いもみじ葉の上に乗せられた一品に眼を向けた。それに促されて征四郎の青竹の箸が動き、白い身の一片をつまむと、手前の小鉢の中の赤い梅肉らしきものに恐る恐る漬け、口に運んだ。そして二、三度口を動かして「うん、旨い!これが京の人の好む味ですか。江戸なら、この魚に鰻のように甘辛いたれを絡めて焼き上げるところ、それをこのように梅肉の酸味だけで、魚の甘みを活かして食するとは、いやあ恐れ入りました。菊千代殿、京の料理は素晴らしい!それにこの料理を作りだした京の人々も素晴らしい!いやあ、大いに気に入りました。京の町もそこに住む人々も。」     



                        壬生の狼


 帰り道、菊千代の足がふと止まり、ほろ酔い機嫌の征四郎の袖を引いて、路地の奥に連れ込んだ。何事かと声を出そうとする征四郎に、菊千代は立てた人差し指を口に当て、「静かにしておくれやす。」と小声で囁いた。しばらくすると数人の足音が近づき、提灯を掲げた派手な羽織の、侍の一団が通り過ぎて行った。足音が遠のいたのを確かめると菊千代が言った。「もう大事おへん帰りましょう。」「どうかしたのですか?今の侍たちは何者です、」「あのお方らは新選組どす。」「新選組?」「会津様お抱えのお侍はんらで、難しいことは解らしまへんけど、何でも、お江戸の幕府を倒して新しい世の中を創ろうとしてはる土佐や長州、それに薩摩のお侍はんらが京都においやすので、それを取り締まるために見回ってはんのどす。特に他所から来はったご浪人はんにはきつうて、壬生の屯所に引っ張られて拷問され、えらい目にあうた方がようけいてはるらしい。京のお人は陰で壬生の狼いうて怖がっておりますのんや。さわらぬ神に祟りなしとか。征はんは、うちにとっては大事なお方、誠の字の入った提灯が見えたさかいに、かかわりになったらあかんと思うてとっさに余計なことを、す
んまへん堪忍しておくれやす。」「そうだったんですか、いやあ私こそ、ご心配かけてかたじけない。壬生の狼か、以後気を付けます。」


    
                          頼み事


 「おお・・ほら、見てみなはれ、点いた、点いた・・・。」どよめきの後、川床の桟敷に時が止まったかのような静けさがしばらく続いた。大文字山に送り火が輝いたのである。人々は盃や箸の動きを止め、感慨深げに遠くの炎の揺らめきに見入った。— 今年の夏も、終わりやなあ。― 毎年繰り返されるその光景を見ながら、菊千代は心の中でつぶやいた。暑い夏が終わり、やっと涼しい秋が訪れるという安堵感と同時に、一抹の不安或は、予感のようなものが心の片隅に残っているのを感じていた。長い歴史の中で天皇の住まう都であるがゆえに世の中の動きに翻弄され、順応させられてきた結果培われた京の人々の本能的な予知能力の一端が、動き出してきたのかも知れない。— 今年も何事ものう済んでくれたら、ええんやけど・・ ― 菊千代はそう願わずにはいられなかった。

 「旦那はん、ほな、気いつけておかえりやす。さいなら・・・。」早帰りの馴染み客を送り出し、座敷に戻ろうとする菊千代の袖を引く者がいた。「いやあ、幾松ねえさん、久しぶりどすなあ。」「菊ちゃん、ちょっと・・・。」そう言ってその芸妓は空き部屋の障子を閉めた。「ねえさん、どないしはったん。えらい顔色が悪いけど。」


                          用心棒


 「なるほど、これが、かの太閤殿下お気に入りの長次郎餅ですか、江戸にも向島の長命寺の桜餅や鹿の子餅などの名物がありますが、これもなかなかのものですねえ・・。」そう言ってまたたくまに二つ、三つたいらげ、征四郎は茶をすすりながら菊千代を見た。「菊千代・・いやあやっぱり、菊千代さんで我慢してください。さっきから黙りこくっているけど、また何か気に障ることでも言いましたか?もしそうなら誤りますからどうか、機嫌をなおしてください。」「いや、そうやおへん。ただ・・。」「ただ、どうしたんです。言ってみたら気が晴れますよ。」「ただこんなこと、征はんにお頼みしていいのか迷うとんのどす。」「頼み?たのみとはどんな?」「実はゆうべ、あるお座敷で知り合いの幾松ねえさんに呼び止められて・・・。」  

橋の上を行き交う様々な人々を眺めながら小半時ほど過ぎた頃、莚を片手に一人のみすぼらしい頬かむりの男が声をかけてきた。「旦那、お恵みを。」征四郎はその男の腕を掴み小銭を握らせると、耳元で何かを囁いた。男は河原に掛けられている掘立小屋の一つを指さした。征四郎はその小屋近づき、入口の莚を捲って中に入った。しばらくして小屋を出た征四郎は、三条大橋を西に向かって歩き出した。市中を抜けてもその歩みは止まらず、やがて川のせせらぎが聞こえ、近づく秋の気配が感じられる山肌を後ろに、掛けられた大橋に出た。「これが渡月橋か・・・まだ紅葉狩りには早いが、色付けばさぞ見事であろうなあ。」人影が疎らな岸辺に沿って秋風に吹かれながら、征四郎はなおも歩を進めた。「さすが、天竜寺、たいしたものだ。」門をくぐり、広い境内の一角にある堂の縁に腰かけていると、先ほどから落ち葉をはき集めていた寺男が近づき、通り縋りに挨拶を交わしたかに見えた。それを機に征四郎は立ち上がると寺の裏門を出て、ざわつく竹藪の山道を奥へと分け入った。分かれ道にさしかかると、左手の道より白い衣で頭を覆った一人の尼僧が現れ、征四郎はその後ろに従って竹藪を抜け、とある小さな庵に入った。「これにてしばらくお待ちください。」奥の仏間に通されて間もなく、襖が開きひとりの男が入って来た。「やはり、あなたでしたか。」征四郎が言った。乞食姿のその人物は驚き、「どうして私だと?」「先ほど差し出したあなたの手には明らかに竹刀だこがあり、侍だと分かりました。」「お初にお目掛かる長州藩士、桂小五郎です。」「わけあって、浪人暮らしをしております嵯峨征四郎です。」「あっちこっちとお引き回し、申し訳ござらぬ。見回り組や新選組の探索方がおります故ご迷惑をお掛け申した。」「いやあ、私は京に入って日が浅い故 あちこち見物できておもしろかった。菊千代さんによると大義のために働いているとか、で私に何をせよと?」「私の身辺警備をお願いしたい。」「失礼ですが、私でなくても周りの同志の方々にも、腕に覚えがある方が居られるのでは?」「それが、実はこの夏とある旅籠にて同志と会合しているところを新選組に襲われ、同志のほとんどを失い、私だけが逃げ延びたのを機に、仲間を見殺しにした卑怯者と罵る者多く・・。」「誰も警護を引き受けてくれぬと。」「お恥ずかしながら、知り合いの芸妓の世話を受ける始末に・・。」「その芸妓とは、幾松殿か。」「さよう。」「ふうむ・・。」「この通りでござる。」桂は畳に両手をついて深々と頭を下げて言った。「私は我が藩のため、いやこの日本国のため、今ここで死ぬわけにはいかないのでござる。お聞き届け頂けまいか。この通り、この通りでござる。・・。」「あなたも侍の身、しかもりっぱな長州藩士ではございませぬか。どうかそのような振る舞はおやめください。」「では、お引き受けくださるか。」「いいでしょう。」「征四郎殿、恩に着る、恩に着申す。」「但しお考え違いめさるな。」「はあ?」「私はあなたと違って、藩や大義とは無縁の者、ただあなたを慕い、あなたの身を案じる一人の女性のために引き受けるのです。よろしいか。」「は、はい。」



     
                           夕暮れの刺客



 「先生、ほんなら、うちはこれで帰らしてもらいます。」「うん、気をつけてな、沖田を頼むぞ。」「へえ、おおきに、また来ておくれやす。お待ちしてますさかい、ほな、さいなら・・。」そう言って花簪が揺れる頭を下げた舞妓は、鈴音を後に残しながらもと来た道を帰っていった。秋の日の入りは早い。辺りは瞬く間に暗闇に包まれ始めた。侍は冷気を感じたのか懐に手を入れ歩を速めた。すでに夕飯時らしく道行く人も稀で、町屋のあちこちに灯りがともり始めた通りを抜け、とある神社の境内にさしかかった時である。ばたばたっと足音が辺りに響いたかと思うと、抜刀した七、八人の人影が彼を取り囲んだ。侍は少しも慌てる気配を見せず、ゆっくりとした動作で懐から両手を出すと 羽織の紐を解き足元に脱ぎ捨て、腰を沈めて刀の鯉口を切った。そして右手を柄に掛けすうっと大剣を抜き放つと、そのまま右肩に翳すかのように構え、目の前の一人をじいっと見据えると、じりっ、じりっと威圧するかのように間合いを詰め始めた。その圧倒する気迫を跳ね返すかのように相手は「きええええ!」という気合と同時に八双に構えた刀をたたきつけるように振り下ろし切り掛かってきた。「おおおおおう!」地の底から湧き上がるような気合で応じた侍の大剣が、ぶうんと音を立てて空を切ったかと思うと、ガシャッと打ち合った刀を跳ね飛ばし、そのまま相手の片口深く食い込んだ。「ぎゃあ!」という悲鳴と同時に足元に崩れる相手を蹴飛ばすと、侍は再び仁王立ちになり、「会津公お抱え、新選組局長、近藤勇と知っての狼藉か!」そう言って辺りを見回した。「だまれ!幕府の犬めが!貴様のために命を落とした同志の恨み、今こそ晴らし、三条河原にその首を晒してくれるわ。かかれ!」掛け声と同時「こなくそ!」とばかりに二、三人が切り付けてきた。近藤はそれをかわしながら振り下ろした一撃でひとりの刀を叩き落としし、返す刀で袴を切り裂くと、玉砂利の無い楠の根元に走り込み、履物を片方づつ後ろに振り捨てた。そして大上段に構えると「いやあああ!」と大音声を上げながら、見え隠れする頭目と思しき相手に向かって猛然と襲い掛かった。抜刀してなかった相手は驚き、後ずさりし思わず向けた背中を、近藤の切っ先が容赦なく右肩から腰に掛けて深く切り裂いた。相手は悲鳴とともに血しぶきを上げ、うつ伏せにその場に倒れこんだ。一団にどよめきが起こり、お互いに顔を見合わすと刺客たちは、その場を逃げるように走り去った。「局長!局長!」という声とともに、誠の提灯を掲げた数名の隊士が走り寄って来た。「局長、大事ありませんか!」「ああ、大丈夫だ。」そう言って近藤は何事もなかったかのように、部下が広い集めた履物を履き、羽織を着ると、「行くぞ。」と言って歩き出した。    



                           終い弘法


 —「もし京のの都に赴かれることがあるなら、東寺の骨董市に行かれよ。平安の昔、かの弘法大師が建てられた大寺の境内にて開かれる市で、珍しいものに出会えるやもしれぬ。見て回るだけでも楽しい時が過ごせるによって。」—かつての知り合いの老刀鍛冶の言葉通り、南の高野山と並び称される真言密教の大本山、東寺の境内には、古着、骨董、仏具、書物、家財道具など、ありとあらゆる品々を並べた屋台が処狭しと店を張り、その間を行き来きする人々のたてる土埃で辺りが霞むほどの賑わいであった。「いやあ、すごい人ですねえ。菊千代さん。」「きょうは終い弘法いうて、今年最後の市やよって、よけいどす。」掘り出し物を見つけた客と店主のやりとりに耳を傾けたり、我が子に着せるのか背中に負ぶった泣き叫ぶ子をあやしながら、古着の品定めをする母親の横を擦り抜けたり、熱心に医学書らしき書物を読みふける青年とぶつかりそうになったりしながら歩いている二人に、声を掛ける者があった。「ちょっとそこのお武家はん、きれいなお姉はんをお連れになりながら、なんにも買うてあげはらへんやなんて、それこそお江戸で言うところの、野暮なんとちがいますか?」「ほう、私が江戸から来たと、どうしてわかったのですか?」「そりゃあわかりますわいな、ここで三十年も商いしてましたらその方の立ち居振る舞い、お話になる言葉からすぐわかります。ところで、お侍の大事な道具がお越しのお刀どしたら、女子はんの大事な道具は何かわかりますか?」「はて?」「こ~れ。」店主は並べてある数本の簪の中の一本を手に取って征四郎に手渡した。簪をいつまでも見続けている征四郎に、「ほら~、何してはりますねん。はよ姉さんの髪に挿してあげんと・・。」「あっ。」そう促されて菊千代の方を見ると、菊千代は微笑みながら、挿していた簪を抜くと、そっと頭を傾けた。恐る恐る 見事に結い上げた艶やかな髪に 簪を挿した征四郎に 「ほら!どうどす?わての見立ては。よう似合うとりまっしゃろ?伊達に三十年もこの商いやってまへんでえ。」そういって店主は満足げに菊千代を眺めた。「確かによくお似合いですよ、菊千代さん。」「ほんまどすか。」そう言ってもとの簪に挿し換えようとする菊千代の手を止めて「あっそのままで。ご店主いくらだ。」「征はん、待っておくれやす。うちは何も・・。」「まあ、よいではありませんか。」「へい、ありがとさんで、一両二分と言いたいところですが、江戸のお方の気風のよさに負けて、一両にさしていただきまひょ。」よし!じゃあこれ。」「へい、おおきに!」

 縁台に腰を掛け、甘酒をすすりながら見上げる伽藍の上を、数百羽の小鳥の群れが離合集散を繰り返しながら、南に向かって飛んで行った。「もう、渡りの季節なんだなあ・・・。」「お江戸に、帰りとおすのんか。」夕焼けに染まる征四郎の横顔を見ながら、菊千代が不安げに呟いた。振り向いた征四郎が言った。「今度、江戸に下る時が来たら、その時は・・。」「その時、は。」「あなたも一緒に連れていく。そして、今度は私が江戸の名所を案内しましょう。」「ほんま、ほんまどすか?」「ああ、約束しましょう。」そう言って征四郎は、そっと菊千代の手を取り互いの小指を絡ませると、「指切りげんまん、嘘ついたら針千本の~まそ!これでいいかな?菊千代殿、あいや菊千代さん?」菊千代は溢れそうになる涙を堪えながら、何度も何度も頷いた。


          句会の席


 「ご亭主、この方にもう一本。」「へい、ありがとさんどす。」「いやあ、私はもう十分頂きました。」「まあ、よいではありませんか。久しぶりに江戸の方にお会いしたのでもう少し話が聞きたい。ご迷惑でしょうか?」「いえいえ、講を組んでの伊勢参りの帰り道、せっかく上方に来たので京、逢坂へと足を延ばし、仲間を宿に残して、きままな時を過ごそうと、ふらり京の町に出ましたので別にあてもございません。あなた様にお会いしたのも何かの縁、どうぞ何なりとお聴きくださいませ。」向かいの宿の入口に時々目をやりながら、征四郎は桂の出てくるのを待っていた。

 「・・・大きな声では言えませんが、私どもが商いでいくら財を成そうとも、お上の一声にて没収され借金を棒引きされる。やはりお武家さまには敵いませぬわ。あっ、これは失礼、あなた様もお武家さまでございましたなあ。」「いやあ、私はとうに侍は捨てておりますが、まだ腰のものを捨て去ることができないでいる。侍から身分と刀を取り上げれば、一体何が残るでしょうか。私から見れば、ずっとあなた方のほうが世の中や人々に尽くしているように思える。」「この伊勢屋松吉、日本橋に小間物屋を開いて四十六年になりますが、あなた様のようなお侍にお会いしたのはただの一度もございませなんだ。いやあ楽しかった。楽しゅうございました。江戸に御戻りの際はぜひ私どもの店にお寄りください。また、今夜のように世間話に花を咲かせながら一杯やりましょう・・・。」

  「江戸か・・・。」桂を幾松のもとに送り届けた帰り道、征四郎は橋の欄干に手を付いたままで大きく息を吐いた。低く垂れこめた雲の切れ間から月が顔をだし、静かに流れゆく川面を白く浮かび上がらせた。凍てつくような深夜の寒気に包まれながら、征四郎はしばらくその場を動こうとはしなかった。


 「まあそうおっしゃらずに、一度顔を出されてみては・・。」征四郎は治平の後に続き、寺の門をくぐった。桂が幾松にも無断で消息を絶ってから、はや一か月が過ぎ、その行方は妖として知れなかった。警護の手当ても底をついていたのである。「きょうは師走恒例の句会収めの日。おもしろいお方も仰山来られますよって、ひょっとして、あなたさまを必要とするお方が、おられるかも知れません。」

 通された本堂脇の部屋には、ざっと五十人ばかりの人々が詰めており、和やかな会話が交わされる中、やがて始まるであろう句の披露に備えて真剣な面持ちで筆をとる者もいる。由緒ある寺院なのであろうか。畳飾りや周りを囲む襖の花鳥風月図にも金や銀色が使われおり、かすかに漂う伽羅の香りも相まって、何処となく雅さが感じられる。公家や裕福な町衆のみを予想していた征四郎には、蝋燭の灯りに慣れるに従って、そこに集うものたちが、都に暮らすさま様々な人であるのに驚かされた。治平の話によると主催者はこの寺の住職であり、、豆腐屋や花売りから、公家や皇族、果ては河原の乞食に至るまで、この寺に出入りするあらゆる階層の人々が来ているのだという。そういえば煌びやかな衣装に交じって麻や木綿の簡素な衣類を身に着けている者も見受けられる。座のざわめきが止むと同時に、「いやあ、おそうなってしもうたわい。皆の衆、許されよ。年の瀬も押し詰まり何かと忙しい中、よくぞお集まり下された。今宵はいちねんを締めくくる収めの句会、いざ心置きなく句を楽しみ、新しい年を迎えようではないか。では、早速では、あるが半蔵さん、そなたから上の句を披露されては如何かな?」「では、先輩がたを差し置きせん越ではございますが、ご指名により、披露させていただきます。」白い顎鬚を生やした住職に促され、野良着姿の百姓らしき男の上の句が読み上げられ、しばらく間をおいてそれに続く下の句が、左右に分かれた人々の間から次々と披露された。

 「そろそろ句のひねり方も、お分かりになられたでしょう。一句披露されては?」治平の言葉に衆目が集まる中、征四郎は色紙にすらすらと筆を走らせた。「恥ずかしながら、江戸の長屋にて空腹で歳を越したころを思い出して一句、 年の瀬や、長屋の隅の痩せ鼠。いやあ、ご勘弁を、失礼いたしました。」そう言って、頭を下げた征四郎の態度に座の人々は互いの顔 を見合わせ、やがて深い同情の眼差しでこの新参者を見つめた。そして誰彼ともなく、手を叩きはじめ、やがてそれは満場の拍手となって鳴り響いた。それはあらゆる身分や階層を超えた温かい人間同士の共感に他ならなかった。

「治平殿、その征四郎様という呼び方は止めてください。」「 ではなんとお呼びすれば・・。」「江戸ではみんな私のことを征さん、と呼んでいました。」「おう、それでは・・征さん、今夜はせっかく席にお出になったのに、お仕事の口は見つかりませんでしたなあ、見ている私が気の毒に思うほど、皆さんに何度も頭をお下げになってお頼みされていたのに・・・。」提灯を片手に先を歩く治平がつぶやいた。「いやあ、そうでもなさそうですよ。」声が遠のいたのに気付き、治平が振り返ると、足を止めた征四郎の周りを、四人の黒い影が取り巻いているのが見えた。治平は落としそうになった提灯の柄を両方の震える指で持ち直すと、塀のそばの松の木に身を寄せ、白い息を吐く四人の男たちの動きに目を凝らせた。「何者だ。私を嵯峨征四郎と知っての狼藉か。」手拭でかおを隠した男たちは無言で包囲の輪を縮め、一斉に刀の柄に手を掛けた瞬間、わずかに腰を落とした征四郎が眼にも留まらぬ速さで動いたかと思うと、ドスッ!ドスッ!と鈍い音がして前後の二人が刀を抜く暇もなくその場に崩れ落ちた。柄頭と鞘尻の強烈な突きをまともに受けたからである。すくっと立ち上がった征四郎に抜刀した二人が切りかかろうと刀を振りかざした時、闇の中から声がした。「待て!お前たちの敵うあいてではないわ。」          



   雇い主


 
 寺でらの打ち鳴らす梵鐘の響きが、京の人々に新しい歳の訪れを告げ始め、ここ、都の西北に位置する鞍馬寺の一坊にも、魂の奥底に蠢く煩悩を揺さぶるその響きが届いていた。火鉢に翳した両手を擦りながら、秀澄卿は黄金色の銀杏にまき散らされた赤い鮮血と、その時の恐怖を思い出していた。親王の供をして紅葉狩りの帰り道、不逞の浪人たちに襲われたのである。幸い近くの寺院に逃げ込み難を逃れたが、逃げ遅れた者のうち二人が切り殺され、七人が重軽傷を負った。逃げ回るものたちの悲鳴と断末魔の叫び、血刀を振り回し怒号とともに襲い掛かる暗殺者たちの憎悪に満ちた顔が眼に焼き付き、昨夜も一睡も出来ず、あの時以来市中の屋敷を離れてこの寺に閉じこもり、すでに一か月余りが経過しようとしていた。

 「殿、遅うなりました。」「おお、幸秀待ちかねたぞ、して連れて参ったか。」「はい、嵯峨殿、こちらへ。」秀澄は襖の陰から現れた男をじいっと見つめた。歳は三十、四五であろうか、堂々とした体躯に彫りの深い顔立ち、澄んだ涼やかな眼をしており、その立ち居振る舞いには何処となく気品が感じられる。腰のものを脇に置くと、その男は袴の裾を払い、その場に坐して静かに頭を下げた。「嵯峨征四郎と申す浪人者、恥ずかしながら卿のお情けに縋るべく参上いたしました。」 「征四郎とやら、麿は面倒くさいことは大嫌いでのう。かたぐるしい挨拶は抜きにいたそう。さあ頭をあげられよ。この寒い年の瀬の夜更け、しかも山深きこのようなところに呼び出したは、 訳があってのこと、その訳を話す故、ささ、そこは寒かろう、もそっと火鉢のそばへ来られよ。」

 「それで襲った者たちに、お心当たりは?」「今、公武合体を主張するものは麿を含めてまだ少数、何が何でも幕府を倒し帝の御代を取り戻そうを唱える見が多数を占めておる。また土佐、長州の尊王攘夷を唱える輩もこの都に多数入り込んでおろう、そういう連中にとって我々は目の上の瘤、邪魔な存在なのだ。」「なるほど・・。」「どうじゃ、麿の警護を引き受けてはくれまいか。」「卿に一つお伺いしてもよろしゅうござるか。」「何なりと申されよ。」「卿は帝にお仕えなされる公家衆のお一人でもあるにかかわらず、何故、今まで内裏を軽んじてきた幕府と手を結ぼうとする、公武合体派に身を置かれるのでしょうか?」「征四郎殿。」「はい。」「そなたの母御はいまも元気でおられるのか。」「はあ?あっ、はい。根っからの親不孝者故、ここ何年かは会うてはおりませぬが、なにも便りがないところを見ると健吾に暮らしているはず。」「それは何より、麿はこの年になっても、母の顔をはっきりと覚えてはおらぬ。そればかりか、その母が今どこでどうして暮しているのやら、それさえもわからぬのじゃあ。」「何と・・まさか、そのようなことがおありとは。」「麿は年少の頃、なぜ自分だけに親族や父母までが、冷たい仕打ちをするのかわからなかった。その理由を聞いても口をつぐんでいた祖母が、死ぬ間際に打ち明けてくれた話によると、麿の生みの母は島原の芸妓で、父に見受けされ、北山の臣下の離れで、父との間に儲けた一男一女とともに密かに暮らしていたらしい。その後父は妻を迎えたが何年たっても子宝に恵まれなかった。業を煮やした父は親族の反対を押し切って、北山に隠していた兄妹のうちまだ二歳だった兄の私だけを引き取り家を継がせたのだ。父は跡取り息子の生母が下賎の身である事が発覚するのを恐れ、母と妹にわずかばかりの金銭を握らせ住まいから追い出し、二人はそれ以降行方知れずとなったそうな。つまり麿の体には
他の大宮人にはない民衆の血が流れているのだ。そのせいか公家の暮らしぶりにはどうも馴染めぬ。京の巷の人々に紛れている方がはるかに心が休まるのだ。いっそ家を捨てて民衆の一人となって暮らそうと、本気で考えたことも何度かあったが、育ててもらった恩は恩、いまだその足枷から抜け出せずにいる。黒船の来航以来、幕府の権威失墜は否めぬ。世の中は大きく変わろうとしている。帝に仕える者として再び朝廷に権力を取り戻し、この国を立て直そうとする動きに加わることにはやぶさかではないが、武力によって幕府を打ち倒そうとすれば、民衆を戦乱の渦に巻き込むことになり、国土は荒れ果て、何の罪もない多くの人々、女子供や老人が犠牲になるのは避けられぬ。己の野望を成し遂げるためには手段を選ばぬ連中のこのような企てだけは、絶対に許してはならない。何としても平和裏のうちに事を成し遂げねばならぬ。幕府の中にも今の国状を憂い、我らと手を組み国難を乗り切ろうとする藩主や幕臣も少なくない。公武が手を携えてこの国を立て直すことが、外国の干渉を退け、民衆を戦乱の苦しみから救う唯一の道であると固く信じているのだ。」  



   薩摩の侍



 「お待ちどうさんどした。姉さん、久しぶりどす。きょうも冷とおすなあ・・。」奥座敷の襖を開けて入って来た十六、七の少女はそういって、持ってきた檜造りの四角い小さな湯船を膳の上に置くと、その蓋を開けた。部屋の真ん中に白い湯気が立ち上り、甘い豆腐の香りが漂ってくる。「いい匂いだなあ。小さな湯船に豆腐が浮かんでいる、それで湯豆腐というのか、なるほど・・。」「うちがやります。」そう言って菊千代は少女の手から小さな網杓子を受け取り、見事に真四角に切られた白い一切れをそおっと掬うと、征四郎の枯葉型の小皿に移した。「ほな、姉さんあとよろしゅに・・。」

 「京は四方を山に囲まれた盆地やよって、賀茂川だけやなしに地面の下にも水の流れがあるんやそうどす。由緒あるお豆腐屋さんは、井戸から組み上げたその澄んだおいしい水を使うて、丹精込めてお豆腐をお作りになるんやそうな。それにここのお店は、若狭の老舗の昆布問屋から取り寄せた上等な昆布のだし汁しか使わんそうどす。」「いやあ、たかが豆腐と侮っていたのが間違いだった。こんな美味なものとは・・・。」と、その時廊下を足早に歩く音が近づいてきたかと思うと、襖がいきなりがらっと開いて、顔を強張らせた先ほどの少女が駆け込んできた。「美代ちゃん、あんたそんなに慌てて、いったいどないしたん?」「姉さん、お侍はん、助けておくれやす。女将さんが、女将さんが・・・。」

「おい、女将!おいどんらを田舎者だと思うて、馬鹿にするのか?ああん?」「決して、そのようなこと思うてはしまへん。さっきから何度も申しております通り、うちは湯豆腐屋、他のものは料理でけしまへんのどす。」店の玄関に回った菊千代は思わず顔をしかめ、征四郎の袖裏に隠れた。女将に食って掛かる数人の男たちの手には、首を切られ体中血だらけになった赤犬がぶら下がっていたからである。女将は気丈にも恐怖に体を震わせながらも、懸命にその男たちの要求をこばんでいた。「征はん、あの男はんらは繁盛しているお店を選んで言いがかりをつけ、お金を巻き上げるんどす。きっとあの赤犬を料理せい、言うて女将さんを困らせてんのや。何とかしてあげておくれやす。」「やれやれ、せっかくの豆腐の味が台無しだなあ。」征四郎は刀を腰に差すと草履を履き、男たちの前に立ちはだかると、後ろ手で女将を玄関内に押しやり、引き戸を閉めた。そしてため息をつきながら前の男たちを見据えてこう言い放った。「お主、ら恥ずかしくないのか。」「何だ貴様は。」「この店に雇われた用心棒よ、お主たちと同じ浪人の身だが、まだお前たちほど落ちぶれてはおらぬ。」「何!」「白昼堂々と金銭目当てに、野党や強盗まがいのまねをするとは、情けない奴らめ。お主らも元をただせば、いずれかの藩に属していた立派な侍ではないか、恥を知れ!。」「おのれ、言わせておけば、斬れ!」浪人たちはそれを合図に一斉に抜き放った。「どこまで
根性の腐った奴らだ。せっかくの豆腐の味を台無しにされて、私は少々機嫌が悪い。憂さ晴らしに、そのお主たちに殺された可愛そうな犬に代わり、お主たちを料理してやる。手加減はせぬぞ。腕の一本や二本折るかもしれぬから、そのつもりで掛かってこい。」「いやああ!」その言葉を遮るように一人が切り掛かってきた。征四郎は身を反らして、易々とその刀をかわすと相手の胸元に飛び込み、両腕をつかむと右足で思いっきり腹部を蹴り上げた。相手は血反吐を吐いて刀を離すとそのまま地面にねじ伏せられ、「ぎゃああ・・・。」という叫び声の後にバキッという骨の折れる音がし、気を失った。「次は誰だ。」「きええ!」とい声をあげた相手の一撃を左手を伸ばし刀の鍔で受け止めると同時に、右手で相手の握り手を掴むとその刀の切っ先を地面に着け、そのまま刃に足を掛け踏みしめるとビーンという音を放ち刀はあっけなく二つに折れ、先一尺余りが空中に舞い上がり、落ちて地面に突き刺さった。あっけにとられる相手の顔めがけて容赦なく征四郎の鉄拳が襲う。相手は顎を打ち砕かれ、仰向けに倒れて動かなくなった。「次!」その声にもう一人が切り掛かろうとした時、「もう、よか!」その声に振り返った浪人たちは顔を見合わせ、倒れた二人を肩に、逃げ去った。声の主は二間ほど隔てて仁王立ちに
なり、こちらをじいと見据えていたが、ゆっくりとこちらに近づいて来た。— 出来る、凄まじい剣気だ。— 征四郎の全身に戦慄が走った。征四郎は左足を引き、右半身になると、左手をゆっくりあげ、親指を鍔に掛け呼吸を止めた。相手は両腕を垂らしたまま、直も間合いを詰めてくる。― このままだと、相打ちか、どちらかが死ぬなー一間を隔てて、相手の動きが止まった。「どげんわけがあるのか、知りもうはんが、同郷もんがやられんのを黙って見ているわけには、いきもうはん。まだやるというなら、おいどんが相手しもうす。」一呼吸置いて、双方が同時に刀の柄に手を掛けた瞬間、「待っておくれやす!」ガラッと格子戸が開いて菊千代が出てきた。「このお方は、さっきのご浪人はんらがこの店の女将はんに、無理なことをお言いやして、困ってはるのを助けただけの事、まさかあんたはんも、さっきのお人らとおんなじように、豆腐の代わりに赤犬を料理せいいわはるんどすか?」「女子の口出しすることやなか!」「いえ、そうはいきまへん!あんたはんが、あんたはんが同郷のお人らのために命懸けはんのやったら、うちは、うちはこの人のために命懸けます。この方はうちの命よりも大事なお方や。この人切るんやったら、その前にうちを切っておくれやす!」菊千代は征四郎の身体をかばいながら、呼吸を荒げ、必死の形相で相手を睨みつけた。「うふ、うふ、わっはっはっは・・・わっはっはっはっは・・。これは一本やられもうした。京の女子は見かけよりも芯が強か、わっはっはっは・・・・。」そう言って、その侍は踵を返し、歩き出そうとした。「待たれよ!、貴殿の姓名
を伺いたい。」足を止めた侍は征四郎の声に振り向くことなく「おはんはよか女子に巡り合えて、幸せもんでごわすのう。わっはっはっはっは・・。」そう言い残して去っていった。それを見ていた菊千代は急に体中の力が抜け、思わず征四郎に寄り掛かった。「菊千代さん、大丈夫ですか・・。」「心配おへん。ちょっと気が抜けただけどす・・。あのお人、前にお座敷で見かけたことがあるんどす。確か、中村、中村半次郎、薩摩のお侍はんの間では、人切り半次郎いうて恐れられている怖いお方やとか、そやからうち・・そやからうち・・。」「中村半次郎か。」その名は先ほど感じた凄まじい剣気とともに、征四郎の脳裏に深く刻み込まれた。


 木屋町にある老舗料亭の二階では、京の名だたる旦那衆が集まり、年明けの寄合の宴が開かれようとしていた。「鶴屋の旦那はん、おめでとうございます。今年も御贔屓のほど、よろしくおたのもうします。」「おお、菊千代はん!聞きましたよ~。あんた笹屋さんの前で、薩摩のお侍はんを、打ち負かしたそうやないか?」「いや!恥ずかし~!もう旦那はんらの耳に入っとるんどすか?」「あんたが命張って守ったっちゅう男はんは、いったい何処の、誰なんや。」「ただのお客はんどすがな、うちら芸妓にとっては、呼んでくれはるお客はんは、み~んな大事な方ですよって。」「ほんなら、もしわしがえらいめに負うてたら、命張って守ってくれるか?」「さ~あ、どうですやろ?」「あかん!こりゃあ年明け早々振られてしもたわ。はっはっはっは・・・。」そこへ調子を片手に男が近寄って来た。「鶴屋はん、去年はえらいお世話になり、ありがとさんどした。今年もよろしゅうに、まあ一杯どうぞ。」「ああ、丹波屋はん、おおきに。」「こちらが、あの噂の菊千代姉さん?」「そうどす。そやけどあんなめに負うたのは笹屋はんだけやない。金目当てならまだしも、この前みたいにただ、幕府御用達の商いをしているちゅうだけで殺されて、三条河原に晒しもんにされた仲間もおるんや。大きな声では言えんけど、あんな連中を取り締まることも出来んやなんて、幕府の力も弱うなったもんや。こりゃあ、ひょっとすると、近いうちにえらいことが起こるかも知れん・・・。」



      母からの手紙


 
   雪降りしきる中、蓮華王院裏手の荒れ寺の一角に、数人の浪人たちがじっと寒さに耐えていた。破れ障子が開いて一人の男が、徳利を片手に頭の雪を払いながら入って来た。「おお、佐一郎待ちかねたぞ。今夜は酒がの無うては居られぬわ。」「兄者、前金の金子は、この酒で使い果たした。早う奴を討ち果たして残りの金を貰わねば、我らは飢え死にぞ。」「分かっておる!そう焦るな。やがて機会が巡ってこよう。」「重三郎、そんな悠長なことを言ってる場合か。見回り組や新選組の取り締まりが厳しくなり、ゆすりたかりや、押しこみがやりにくくなった今、食うに困り脱落して国に帰る者や、仲間を幕府の犬に売り渡すものも出る始末、このままでは我らは自滅するしかあるまい。」「さよう。それに我らの今までの行動が、藩の上層部に知られでもしたら、掲げた大義など微塵に砕け、我らは、ただ世間を騒がせただけの極悪非道の輩として厳しく処罰されかねぬ。」「しかし狙った相手が屋敷に引き籠ったままでは、手が出せぬ。」床の間の柱に凭れていた、隻眼の男が口を開いた。「俺に考えがある。」


 二条にある秀澄卿の固く閉ざされた門を、かすかに叩く者がいた。従者が開けてみると、三歳くらいの女の子が立っており、その子は書状を差し出すと何も言わずに走り去った。その書状を見た秀澄は我が眼を疑った。そこには、こう書かれていたからである。
― 秀澄殿、突然の便りにさぞ驚かれたであろう。北山の屋敷でそなたと別れて以来、一日たりとも、そなたのことを思わぬ日はなかった。わたしは今、病の床に臥せっており、あと幾日生きれるか解らぬ命、死ぬ前にもう一度そなたをこの眼で見、この胸に抱きしめたい。愛しい我が子よ、どうか老いたるこの母の願いを聞き届けすぐに会いにきておくれ。蓮華王院裏、神妙寺にて待つ。

  そなたの産みの母より  ―  



       猫実卿


 
 「よしよし、うん?お腹がすいたのか?そうかそうか・・おう、そなたもか、可愛いやつめ。あっ、これ。誰かある。」「はっ、これに。」「珠と百合が腹が空いたそうじゃあ。珠には鯛の子、百合には鯉の肝、わかっていようのう。」「はっ、心得ております。」「うん、この子たちと一緒に食べるによって、麿の膳も用意いたせ。」「かしこまりました。」伊勢実卿の猫好きは尋常ではなかった。邸内に餌場を設け、侍女一人雇い入れて野良猫の世話をさせたり、夫婦の寝所まで愛猫をいれ添い寝をしたため、妻が愛想を尽かして、親元に帰ってしまった。宮中でも猫狂いの猫実が参ったぞ、と嘲笑うものも多かったが、それでも伊勢実は猫を飼うのを止めなかった。従者が下がると、伊勢実は錦の座布団を陽の射す縁側に並べた。「ほら、お前たち、こちらに来てみよ。きょうは雪も止んで、良い日和ぞ。麿とともに庭を眺めながら昼餉を食そうではないか。ささ、こちらえおじゃれ・・。」

「典膳、庭の土は乾いたかの?麿は足が濡れるのが嫌いなのじゃあ。」「朝方は湿っておりましたが、今はもう乾いているかと。」「そうか、ならば久しぶりに麿の相手をするか?」「は!お相手仕りまする。」猫狂いと嘲笑う者達も、決して表だってそれを口にする者は居なかった。身体も華奢でおとなしいそうに見える伊勢実ではあったが、一度び刀を握れば人が変わったようになり、宮中で敵うものは一人もいないほどの剣の達人だったからである。この日も典膳の木刀は、伊勢実の着物をかすりさえしなかった。前後左右の素早い動きに加え、頭上を飛び越え背後を衝く並外れた跳躍力、眼にも止まらぬ飛燕のような太刀捌きに翻弄され、己の打ち込む木刀は悉く空をきり、相手のそれは四方八方から容赦なく典膳の身体を打ち据えた。木刀を跳ね飛ばされびゆっと唸りをあげた伊勢実の木刀が、己の眉間一寸を隔ててぴたりと静止した瞬間、「ま、参った!」大きく息を弾ませながら、典膳はその場に平伏した。見上げると、伊勢実は全く汗をかいてはおらず、呼吸の乱れすらない。「誠に、誠に殿は、都一の、いや天下一の剣士であらせられまする。」



         母の正体


  「これはおそらく、卿を誘い出すための策略だと思われます。」征四郎は手紙を秀澄に戻しながら言った。「しかし、もしそうだとしても麿と母との関わりを如何にして知り得たのであろう?」「その事を知っておる者は限られているはず、ひょっとすると卿に近しい者の中に、卿を狙う輩と通じておる者がいるかもしれない。」「何、麿の近辺にその様な者が潜んでおると申すのか。」「はい。」「ふうむ。」「で、麿は如何すればよいのじゃあ。」「卿を襲ったのは金で雇われた浪人達、それを影で操る何者ものかが邸内に籠る卿の態度に業を煮やし、この様な策に出たのでしょう。我らは策に乗ったと見せかけ、この機を利用して、逆に敵の正体を暴いてやりましょう。」
 
 その日の深夜、僅かな人数を従えた一台の輿が秀澄邸の裏門を出た。向かいの路地の片隅に蹲っていた莚が動き、その隙間から一人の乞食の眼がそれをじっと見ていた。従者の白い吐息を周りに漂わせながら、輿は東洞院通りを南下し、七条通りを左に折れて賀茂川を渡り、幾辻かを過ぎて蓮華王院前に出た。その土塀に沿って月明かりの中、松影を辿るように輿はなおも進み、とある荒れ果てた古寺の門前に着くと簾が巻き上げられ頭巾を被った公家装束の男が降り立った。「ここからは麿一人でよい。」そう言い残すと男は朽ちかけた門の扉を押して中に入って行った。狭い境内の正面にある小さな本堂の回廊を踏みしめ、右手の渡り廊下で繋がった一部屋の破れ障子を開けると、月明かりが差し込む畳の上に布団が敷かれており白い布を被った尼僧らしき人物が背中を向けて臥せっていた。「母上、母上様・・。」男が静かに呼びかけると、その尼僧はゆっくりと寝返りを打ち、声の主のほうを見た。そして聞き取れぬほどの小声で何かを呟いた。その呟きは次第に大きくなり、やがて明らかな声となって訪問者の耳に届いた。「・・・・貴様は臣下の身であり、長年にわたり皇恩を受けながら、主上を裏切り、こともあろうか幕府の手先にまで成り下がった。今こそ天誅が下されるであろう。思い知るがよい。世の見せしめにその首を斯き切って、三条河原に晒してくれようぞ。ふふふふふ、わはっはっはっはっ・・。」不気味な笑い声とともにその尼僧は、いやその男は布団を跳ね除け立ち上がると白い頭巾を払った。それと同時に数人の男達が部屋に雪崩れ込み訪問者を取り囲んだ。片膝を着いていた彼はゆっくりと立ち上がると口を開いた。「ふん!何が天誅だ。」「何!」「やれ尊王だ攘夷だなどと、大義名分を立ててはいるが、何の罪もない人々に危害を加え辱め、金品を脅し取るばかりか、その命まで奪うとは。お主たちのやっていることは強盗や人殺しの類と、何ら変わらないではないか。」「貴様らのような遊び呆けている公家連中に、我らの何が解るというのだ!」それには答えず、彼は被っていた錦の頭巾を脱ぎ捨てた。「貴様何者だ!」「お主達と同じ浪人よ。食うために用心棒にまで成り下がった惨めな侍さ・・。だがな、俺はこう思うんだ。源平の遥か昔から続いて来た我ら侍の時代はもう、終わろうとしているのさ。時の流れと供に一切のものは変化し、決して
元へは戻らない。これからは我々侍に虐げられていた百姓や職人や、商人達に道を開けて自由な暮らしをさせれば彼らが新しい時代を切り開くだろう。俺は、ここ数年、彼らの中で暮らしてみてつくづくそう思った。今からでも遅くはない。お主たちも自分が侍であることを忘れてみろ。そうすれば必ず真っ当な生き方が見つかるし、それで食っていけるだろう。世の中放うっておいても変わっていく。いま変わらなきゃならないのは俺たち自身なのだ。これからは侍を捨て、普通の人々と同じ暮らしをせねば生きて行けぬ世になる。もうお互い仲間同士斬りあうのは止めて、供に生きる道を探ろうではないか。」「きいたふうな口を利くな!人の事より己の心配をしろ。貴公と違って我らはもう後戻りは出来ぬ。」「そんなことはない!人はその気になれば、いつでも生き方を変えることが出来るのだ。」「くどい!可哀想だが我らの事を知られた以上、お主を生きて帰すことはできぬ。斬れ!」周りの者達が一斉に刀の柄に手を掛けたその時、廊下を駆け寄る音と供に一人の男が飛び込んできた。「重三郎!大変だ!新選組に取り囲まれた!」「何だと!」外を見ると、開け放たれた障子の向こうに幾つかの誠字の提灯が輝き、辺りに凛とした声が響き渡った。「我らは、会津公お抱えの新選組である!お前たちは完全に包囲されている。おとなしく刀を捨てて縛につけい!さもなくば容赦なく斬り捨てる!」浪人達の間に動揺が走った。「慌てるな!これがある。」そう言って、重三郎は懐から短銃を取り出した。「俺がこれで血路を開く。お主たちはその間に逃げろ!」そう言って縁側を蹴って地面に飛び降りると、相手に向かって一発打ち放った。バーン!!銃口が青い火を吹き、耳を劈くその音に捕り方の包囲網が乱れ、銃口を向けられた隊列に隙間が生じた。「早く行け!」その声に促され、後ろから浪人たちが寺門に向かって一斉に駆け出し、銃を振りかざした重三郎が後に続いた。そして迫りくる者達に向かってもう一発放ち、門の外へ走り去った。「何をしてる。追え!追え!」
 喧騒が過ぎ去った後、表の輿に戻ろうとする征四郎の前に立ちはだかる者があった。「しかと答えられよ、そこもとも貴奴らの一味か。ならば斬り捨てねばならぬ。」「あなたは?」「新選組局長。近藤勇である。」「近藤・・勇。」「返答や如何に!」「私は嵯峨征四郎と申す、秀澄卿の手の者、あの者達とは無縁の者にて、決して怪しい者ではござらぬ。」「ならば、深夜に何故あの者たちの巣窟に居たのか返答されよ。」「それは・・・主の許しがなければ申し上げられぬ。」「ならば、屯所にご同行願うしかあるまい。」
 近藤は、何の警戒する様子もなく征四郎と肩を並べ、二人は時々、犬の遠吠えが聞こえる夜道を歩いていた。懐手の近藤が口を開いた。「そこもとは言い回しからして関東の出身と思われるが・・・。」「さよう。」「みどもも、父は関東の郷士でござった。」「近藤殿はこのせちがらい世に、如何にして今の地位を得られたのか、我ら一介の浪人者にとっては羨ましい限りでござる。」「いやあ、事の成り行きでこうなっただけのこと、もともとは都に上る将軍家の警護の為に参ったのだが・・。」「きっとその剣の腕をかわれての事と推察仕る。流派をお伺いしてよろしいか。」「天然理心流と申す。まだまだ世に知られてはおらぬが。そこもとは?」「我が師は、北辰一刀流の流れを汲む長谷部源芯斎先生でござった。」「何?今長谷部源芯斎殿とおっしゃられたか?」「はい。近藤殿は我が師をご存じか!」「源芯斎殿と我が父とは、さる道場の兄弟弟子でござってな、みどもも幼少の頃、ほら、あの頬にある大きな黒子を指で触って、よく父に叱られたものよ。」「おお、なんと奇遇な!そうでござったか!」

 あくる朝、二条に戻ると、秀澄は朝餉を食べていた。「おお!大事ないか!壬生に連れていかれたと聞いて、出向うと思うていたところじゃあ。見たところ身体に傷を負うている様子はないようじゃが。」「卿、申し訳ござらぬ。思わぬ事態に陥り、一味を取り逃がしてしまいました。」「なあに、そなたが無事で何より、そうじゃあ、腹が空いていよう。今、朝餉の支度をさせよう。」「馳走になります。」前に置かれた膳は質素なものであった。白粥と蕪の漬物、干し魚、それに柿が一切れ。秀澄は粥に漬物を混ぜなん杯もすすりながら、「小さい頃、朝、妹と母と三人で食べたこの味が忘れられぬ。粥をすする 度にあの頃のことが思われてのう、今頃何処でどうしてら・・・。」眼に涙を浮かべながら、秀澄はなおも粥をすすり続けた。  



姉妹



   「おかあはん、はい!」焼けて膨らんだ鏡餅の一切れを、きな粉が入った小皿にのせて、浜菊は火鉢に寄り掛かってうたた寝をしている咲江に差し出した。「うちはええわ、あんた食べ。」「なあ、おかあはん?」「うん?」うちと菊千代姉はんは、ほんまの姉妹?」「急に何を言い出すねんなこの子は・・あたりまえやないの。あほなこと聞かんといて。あんたら二人ともうちの義理の姉はんの子で、両親とも流行り病で亡くなったよってにうちが引き取って育てたんやないの。何処の誰に何を言われたんか知らんけど、育てたうちが言うんやから間違いない。あんたら二人は顔は似てへんけど、正真正銘ほんまの姉妹や。」浜菊が舞の稽古に出たあと、咲江は炭火の残りを火箸で寄せながら呟いた。「あの日も、きょうみたいに寒かったなあ・・・。」

「姉はん、しっかりしておくれやす・・。」「咲江はん・・、あんたも知っての通り、先に逝ったうちの人も身寄りがないし、うちもそうや・・うちはもう長うない、うちが死んだら、この子ら二人とも行くところがない・・あんたは独り身やし、祇園では名の知れた舞の名人、迷惑を承知のうえで、無理をきいてもらえんやろか・・・。」
 咲江の兄、久吉は山科の百姓であったが、野菜を売り歩いての帰り道、行き倒れになっていた親子を見つけて家に連れて帰り、一緒に暮らし始めた。有紀と名乗る母親の余りの美貌に魅せられた久吉は、女房になってくれと迫ったが、なかなか首を縦に振らない。諦めきれぬ久吉に有紀は、こうきりだした。「あなたに出会う前のことを、一切、聞かないと約束するなら、あなたの女房になりましょう。」久吉は一も二も無く同意し、二人は夫婦になったのである。有紀の連れ子の千代が三才の時、ふたりの間にお浜が誕生、しばらくは平穏な日々が続いたが、流行り病にかかり久吉が死に、その一年後の今年、慣れぬ百姓仕事に身体を壊したのか、有紀は風邪をこじらせ、危篤状態に陥っていた。

「心配せんでも、この子らは、うちが何とかするよってに、姉はんは安心して養生し、早う元気になって・・・。」咲江の言葉に安堵した有紀は手を伸ばし咲江の手を握ると、「あんたと二人で話がしたい、この子らを外へ・・。」子らが出たあと、有紀に言われるがままに仏壇の引き出しを開けると、奥から白い布に包まれた棒のようなものが出てきた。「開けてみて・・。」布を取り去ると、それは錦の袋に入れられた、黒光りがする見事な横笛であった。吹き口の上に、二羽の鳳凰が舞う螺鈿の家紋のようなものが施されている。「姉はん、これは?」「咲枝はん、あんたには世話になったうえに無理なこと頼んで堪忍して・・。その笛はうちの形見やと思て受け取って欲しい。もしも、もしも暮らしに困り果て、にっちもさっちもいかんようになったら、その時はそれをもって・・二条通りにある、その笛に刻まれた紋を家紋にしている屋敷を訪ねたら、きっと力になってくれるはず、それ以上のことは聞かんといて・・それが、あの子らやうちのためやと思うて、この通りお願いやよって・・。」息も絶え絶えに、有紀はそういって両手を合わせた。茅葺屋根にしんしんと雪が降り積もるその日の夕方、有紀は二人の娘と、一本の笛を残し、義理の妹に看取られながら、静かに生涯を閉じた。その過去を誰にも知られること無く、まだ三十五歳という若さで・・・・。         


 鞍馬の天狗


   「何だその様は!お前たちそんな姿でよくも市中を歩けたものだ。赤穂義士ならともかくも、天下の恥さらしではないか!」土方が怒るのも無理はなかった。朝日を浴び、雪を踏みしめて帰って来た隊士十二名は悉く、頭や手足を負傷しており、中には気を失って、戸板に横たわる者もいたのである。「一体どうしたと言うのだ。誰にやられた。誰も答えられんのか!」「そ、それが・・鞍馬の・天狗に・・。」「なんだと?もう一度言ってみろ!」「鞍馬の天狗に・・・やられました。」「貴様、この場に及んで、冗談を言ってる場合か!馬鹿者め!」

 「狐につままれた様な話だが、三条大橋の上で遣られたらしい。十二名を悉く、たった一人で打ち倒すとは、一体何者の仕業であろう。」土方の報告に近藤は呟いた。「このような噂が広まっては、われらの沽券にかかわる。放っては置けぬなあ、歳さん。」「どうする?」「大勢で事を起こせば、余計に噂を広めることになる。わしが一人で、その天狗とやらの正体を確かめてこよう。」

  子の刻をとうに過ぎている深夜、降りしきる雪の中、人通りの絶えた三条大橋を渡ろうとする人影があった。その侍は、橋のたもとで傘の雪を振り払うと、一方の手を懐に入れ、高下駄で雪を踏みしめながら歩を進めた。丁度、橋の中ほどに達しようとした時のことである。一陣の風が傘を揺らしたかと思うと、一間ほど先の欄干に、白いものがふわりと舞い降りた。よく見るとそれは、一枚歯の高下駄を履いており、白装束に伸び放題の白髪を振り乱し、顔を真っ赤な天狗の面で覆っている、人であった。しかも驚いたことに、一枚歯の高下駄を履いているにもかかわらず、欄干に差し込んだ一本の杭のごとく身じろぎひとつしないで立ち、右手に木刀を携え無言でこちらを見据えている。― こやつが、天狗の正体か、なるほど ― 近藤は傘を傍らに置きゆっくり羽織を脱ぎ捨てると、愛刀、虎徹の鍔に手を掛けた。じりっじりっと、間合いを詰め相手に近づくと、抜きざまに足をめがけて斬り払った。相手はふわりと空中に舞い上がり軽々とその一撃をかわすと、一回転して近藤の頭上を越え、反対側の欄干に降り立った。何度詰め寄っても近藤の剣は易々とかわされ、相手の衣をかすりさえもしない。そればかりか相手の動きは次第に速さを増し、眼で追うことも出来なくなり、度々その姿を失った。― このままでは、相手の術中にはまるばかりだ― 近藤は、剣を下げ、動きを止めて、じっと眼を閉じた。そして周りの気配に集中した。  ― 後だ!―「きええい!」 振り向き様に斬り下すとカシッ!と音がして軽い手応え感じて眼を開けると、白い雪の上に二つに切り裂かれた天狗の面が落ちていた。その時、何処からともなく声が聞こえてきた。「都はお前達の来る所ではない。おとなしく国に帰れ。そして二度と戻ってくるな。ははははははは、ははははははは・・・・。」その声が途切れると供に、近藤の周りから相手の気配は嘘のように消えていた。   


      銃撃


  「へえ、なんでどす?」枡に残った豆をほおばる征四郎に、菊千代が不思議そうに訊ねた。「うちらでは普通外に撒くときには、鬼は外!いうのに、お江戸では違うんどすか?」「私の家系は代々、不動明王を守護仏としていたので、怖い鬼のような憤怒の顔をなさっているお不動様は家の中に居てほしかった。だから福は内!と言っても、鬼は外!とは言わない、と子供の頃よく祖母が言っていました。」「なるほどそういえば、お不動はんは鬼のような顔をしておいやしたなあ。」「そろそろ帰らないと、母上が心配なさるのでは?」「はい。」

 「おお寒む・・。」菊千代は白い息を吐きながら相合傘の中、征四郎の腕に寄り掛かった。夕方から降り出した雪のせいか人通りは少なく、雪に煙る川の向う岸を、同じく相合傘で行く人影が見えるのみであった。「征はん、ほら、あっちにも相合傘でいくお方が・・。あれっ、ほらその三軒ほど先の路地にも、お人が、あんなとこに傘も差さんと座って、何しておいやすんやろ・・・。」その人影は急に立ち上がり、懐から何かを取り出した様に見えた瞬間、バーン!バーン!と、二発の銃声が辺りに鳴り響き、対岸の相合傘のうちの一人が崩れるように倒れた。「きゃあああ!」菊千代の叫び声と同時に、矢のように駆け出した征四郎を見たのか、銃撃した人影は慌てて走り去った。近くの橋を渡り、走り寄る征四郎の眼に飛び込んできたのは、白い雪の上に赤い鮮血を流しながらうつ伏せに倒れている侍と、泣きながらそれを必死に抱き起そうとしている舞妓の姿であった。「先生!起きておくれやす!先生!」「どいて!もし!もし!しっかりなされよ!」倒れていた侍を抱き起し、顔を見た征四郎は思わず息をのんだ。「・・・近藤勇。」

「幸い、弾は急所を外れ、貫通したため、御命に別状はございませんが、傷口が閉じるまで、しばらくは動かぬ方がよろしいかと。」「ご苦労であった。」医者が帰った後、土方が征四郎に訊ねた。「局長を打った相手は、ただ一人でござったか?」「さよう。神妙寺の一味の中に、重三郎と名乗る男が南蛮渡来の連発銃を打ち放ち、逃げるのをこの眼で見ました。あるいはその者の仕業かと。」「ふうむ・・いやあ礼を申す。お主が通り会わなかったら、局長は危うく命を落とすところだったかもしれぬ。」「なあに、人として当然の事をしたまでのこと。それではこれで失礼仕る。」壬生寺の門を出ると夜は白み始めいつの間にか雪は止んでいた。「節分か・・この親不孝者め、己の母の歳も忘れるとは。」そう言いながら、大きく息を吐いた征四郎は、身を切るような寒さの中を、光が差し始めた東山の稜線に向かって歩き始めた。



        江戸からの便り


 治平の屋敷に戻ると、朝日の差し込む井戸端で、お照が手を真っ赤にして大根を洗っていた。「お照さん、朝早くからご苦労なことだなあ。」「あっ、おはようさんどす。おじいさんが風邪ひいて寝込んでますよって、朝ご飯の用意に来てますんどす。お侍さんの分も後でお持ちしましょか?」「それでは、お言葉に甘えて。」「はい承知しました。あっ、そうや。昨日お留守のうちに、江戸からお手紙が届いてるんどす。」

 ― 征四郎殿、長い間便りがないのでそなたの身を案じております。きくところによると、京は盆地ゆえ底冷えのする寒さだとか、風邪をひいてはおりませぬか。夜寝る折には、首に布を捲いて寝ると風邪をひかぬ。またひいた折には、生姜を擂って湯に溶かして飲むと体が暖められて早くなおるのです。行商に来た者たちの話では、ちかごろの都には、将軍家に弓を引く不逞の浪人どもが横行し、人々に危害を加える者も居るとか、そなたは人一倍正義感が強い上、困っている者を見れば放っておけぬ性格、無頼の徒に拘わって怪我でもせぬかと気が気でならぬ。君子危うきに近寄らずとか、めったなことをしてはなりませぬぞ。こちらは、先月、又平の母御の伊根殿が身罷られました。二人目の母を失ったようで、一時は悲しみに打ちひしがれはしましたが、氣を取り直し、又平と励ましあいながら、一日一日をおくっております。そなたの望み通りに紗枝殿の両親には、そなたが依然行方知れずゆえ、当家との縁は、無かったことにしてほしいと伝えておきましたが、その後、高橋家から書状が届き、紗枝殿はしばらくは気落ちしておられたものの、その後、ご両親の説得に応じ、さる良家に嫁がれたとの事。わたしにとっても残念なことなれど、これも運命と諦める他なしと自分に言い聞かせております。このうえは、そなたが新しい伴侶を見つけ、身を固め、可愛い孫でも連れてもどってくる日を願うばかり。もう過ぎたことは忘れ、お前なりの新しい生き方を見出して、幸せに暮らしてくれれば、母にとってこれ以上の喜びはない。そなたの父もあの世できっとそう思っているに違いない。長くなりましたが、暇があれば、都での暮らしぶりなどを知らせて母を安心させておくれ。待っております。母より ― 
 手紙にはそうあった。「お待ちどうさんどした。」お照の声に慌てて目頭を拭き、振り返ると、湯気の立ち昇る朝餉が膳の上に並べられていた。「ほんならごゆっくりどうぞ。」「ありがとう。馳走になります。」
「母上・・・紗枝。」箸を手にしたものの、再び涙とともに熱い思いが胸にこみ上げてきて、征四郎は、しばらくの間、粥をすすること
が出来ないでいた。

 土方達の必死の探索にもかかわらず、近藤を銃撃した者の行方は依然不明であった。 「我々の動きを察知して洛外へ逃れたか、或はいずれかの藩邸に匿われているやも知れぬ 。それにしても、一人歩きは以後、慎んでくれ。」 そう言って 土方は、ようやく動けるようになった近藤に釘をさした。「歳さん、あの南蛮渡来の連発銃に対抗するには、我等も鉄砲隊を組織する必要があるな。」 「折をみて会津公に願い出でみては?」「うん。」と頷いてはみたものの、近藤はそれは難しいかも知れぬと思った。 ― 寺田屋の折も、見回り組は我等を捨石の如く扱った。功を上げたとはいえ、依然として 新選組を浪人の寄せ集め軍団としてしか、見ておらぬかも知れぬ。上奏しても体よくあしらわれるのが落ちだろう。― そのことよりも近藤は、自分の傷が 癒えるまでの間、沖田の病状が悪化しておりはしないかと、気がかりでならなかった。「 あれほどの剣の腕を持ちながら、あの若さで病にるとは、世の中とは皮肉なものよ。俺の丈夫さの半分でも持ち合わせておればなあ・・・。」
 その夜も吹き荒ぶ風の中、京の町は心の底まで凍てつく寒さにじっと耐えていた。     


      干し柿



  「道真はんちゅうお方は、ほんに梅の花が好きなお人どしたんやなあ。」七分先の枝を潜りながら菊千代が振り返ると、征四郎の姿がない。「あれ!何処へお行きやしたんやろ?」梅見客の間を縫いながら来た道を戻ると、向うから一人の老婆を背に征四郎が歩いて来た。「征はん、そのお婆さんどないかしなはったんどすか?」「いやあ、道端に屈みこんで居たので訊ねると、お孫さんの学業成就を祈願しにやって来たらしいのですが、途中で草臥れたらしい。気の毒なのでこうして背中に。」後ろの老婆は菊千代の顔を覗き込んで頷いた。本殿脇に降ろして去ろうとすると、袖を引いたまま離さない。「お婆殿、まだ何か御用か。帰り道が心配なら門の傍に居なさい。家まで送ってさしあげよう。」老婆は大きく首を横に振ると、袂に手を入れ何かを差し出した。 小さな紙包みを開けると、中から干し柿が二つ出てきた。「これを私に?」老婆は微笑みながら頷いた。
 帰り道、門の周りに老婆の姿はなかった。「あのお婆はん、一人で帰ったんやろか・・。」懐から微かに匂う干し柿の香りと供に、征四郎はやさしい老婆 の微笑を思い出していた。それはいつのまにか自分の母の顔と重なり会いながら、まだ肌寒い早春の空のかなたに、何度も浮かんでは消えていった。 



     お座りはん



  「行く川の流れはたえずして、しかも元の水にあらず。澱みに浮かぶ泡沫はかつ消え、かつ結びて、久しく留まることなし・・・。」
川面を見つめる征四郎の後でそう呟く者があった。振り返ると穴だらけの網代笠を頭に、ぼろぼろの墨染めの僧衣を纏った人物が立っていた。征四郎はその風体に見覚えがあった。 征四郎は視線をもとの水面に移すと、「祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響き有り。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す・・。いま聞こえるこの鐘の音は遥かなる時を越えて、この様に人々の胸に響いて居るのに 、何故人々は悟らぬのでしょうか?」それには答えず老いた雲水は、綻びた懐から、干からびた握り飯を取り出すと、痩せ細った指で千切り、川面に舞う都鳥に向かって投げ始めた。一羽がそれに気づき翼を翻しそれを嘴で受け止めたのを合図に、四方八方から集まった数十羽の鳥達が、二人の頭上を舞いながら投げられた飯粒を争って食べ始めた。その見事な飛行振りを眺めながら、征四郎は子供の用に純真無垢な笑顔を見せ喜ぶその人物にしばし見入った。彼は振り向くと、懐からもう一つ握り飯を取り出すと征四郎に手渡し指を空に向けた。「しかし、これは御坊の昼餉では?」彼は笑いながら首を横に振り、再び飯粒を投げ始めた。早春の陽光に白い翼を輝かせながら、自由自在に空を舞う美しい鳥たちの姿に、征四郎はいつか時の経つのを忘れ、最後の一粒を捲き終えて笑顔で振り向くと、そこにはもうすでに雲水の姿はなかった。ふとわれに返った征四郎の頭上には、数えきれぬほどの鳥たちが、いつまでも、その旋回を繰り返していた。

 「ああ、いつも三条大橋の近くで座禅しておいやす、風変わりな、年老いたお坊さんのことですやろ?あれはお座りはんどす。」お座りさん?」「へえ、うちら祇園のもんは、みんな、そう呼んでます。雨の日も風の日もまるで石のお地蔵さんみたいに座っておいやすから、誰が呼ぶともなしに、お座りさんと呼ぶようになったとか。わりと可愛げのあるお爺はんで、芸妓や舞妓に人気があって旦那衆からもろた、お捻りや、菓子の折りを置いてゆく者もあるそうな。ところが誰に聞いても、さあ?とくびを捻るばっかりで、あのお方が何処の寺の、何という名のお坊さんなんか知ってるもんは一人もおらんのどす。」


      
     火の都


  高瀬川の岸辺を行き交う荒くれ男たちの頭上で、膨らみ始めたばかりの桜の小枝を、忙しげに目白の群れが揺らしている。しかしこの穏やかな早春の風景も一歩市中に入れば一変し、そこには辺り一面焼け野が原が広がっていた。蛤御門の一帯で尊王攘夷を掲げる長州藩の急進派と、会津藩を中心とする公武合体派が武力衝突を起こし、市街戦を繰り広げた結果、町中が大火にみまわれ、北は二条からみなみは七条、西本願寺辺りまでを焼き尽くしてしまったのである。時々風向きによって、今でも焼け焦げた臭いと煙が漂ってくる中、材木を扱う業者が集中している木屋町界隈は空前の火事場景気にごったがやしていた。「おかあはんのうち燃えてたらどないしょう・・。」ひっきりなしに通り過ぎる、木材や廃材を積んだ大八車を避け乍ら、菊千代は一段と足を速めた。事件をいち早く察知した料亭の女将に帰宅を止められ、そこでやむなく一夜を過ごしたものの、長州勢が都を離れ戦闘が止んだと聞くと、いてもたってもいられず、咲江と浜菊の安否を確かめに来たのである。息を切らせて駆けつけた咲江の家は、焼けずにそこにたっていた。「ああっ!よかった・・・・。」胸を撫でおろして入ろうとすると、引き戸が開かない。「おかあはん!はまちゃん!うちや!菊千代や!はよここ開けて!」どんどんと戸を叩くと、がらっと引き戸が開いて、浜菊の不安に怯えた顔が現れ、「ねえはん、うち怖かった・・うち・・怖かった・・ねえはん、ねえはん。」そういって泣きじゃくりながら抱き着いて来た。「うちが来たからには、もう大丈夫、もう大丈夫やで・・怖かったなあ、可哀想に・・・。」そう言って、しっかりと抱きしめてやり、落ち着いてから訊ねると、咲江は菊千代の事が心配で、戸を固く閉ざし誰が来ても決して開けるな、と言い残し、半時ほど前に探しに出たのだと言う。行き違いを避け戸口に出て半時ほど待っていると、遠くに咲江の姿が見えた。「おかあは~ん!」と呼びかけ手を振ると、咲江は顔をあげ笑顔で手を振ってそれに応えた。二人は駆け寄って再開を喜びあった。「あんたのこと、どんなに心配したか・・・。」「うちも、おかあはんや浜ちゃんに、もしものことがあったら、どないしょう、思うて・・・。」二人は再び戸口を閉ざすと、家の中に消えた。平安の昔から今に至るまで、この都ではこの様な人々の光景が何度繰り返されてきたことであろうか。「なんでうちらがいっつも、こんなめにあわんといかんのどす。なんにもわるいことなんか、してへんのに・・・。」そんな言葉も一緒に心の奥底に深く閉ざしたままで。

 二条の秀澄の館は、隣の社の楠の大木が火を阻み、夜を徹して池の水を掛けつづけたこともあって、表門と従者の家屋は全焼したものの、本殿は屋根の一部を焼いただけでかろうじて類焼を免れた。一夜明け、征四郎は疲れ切った身体を入口の柱に預けて、炊き出しの握り飯をほうばりながら、焼け落ちた門の彼方に広がる灰塵と化した市中をぼんやりと眺めていた。― 何という愚かなことを・・。これでまた何百何千という貴重な建物や書物などが失われてしまった・・・。― 風に舞った灰がからみ着いたのか、それとも、いつの時代にも争いを繰り返す、人の業に嫌気が差したせいか握り飯の味は、いつになく、ほろ苦がかった。その時突然、眼の前の薄墨色の景色を背景に、東山から上る朝日を右半身に受けて錦絵の如く彩やかに人影が浮かび上がった。軽く腰を屈めて持っていた絵日傘を閉じ、僅かに傾けられた艶やかな黒髪には、見覚えのある簪が輝いている。洗練された立ち居振る舞いには一部の無駄もなく、そして何よりも征四郎の眼を魅了したのは、ゆっくりと正面を見据えた気品のある美しい顔立ちから発せられる愛と喜びに満ちた笑顔であった。「征はん・・。」「・・・・菊千代殿!」           


     過ぎゆく人影



  「ここのお店は、近くのお百姓はんが朝暗いうちに竹藪に入り、土の中からまだ顔出す前の筍を、僅かな土の盛り上がりを頼りに見つけ、器用に掘り出したもんだけを使うてるよってに、えぐみが少のうて軟らかく、甘みと何とも言えん歯応えがあって美味しい、言うて贔屓にしている旦那衆が多いそうな。」 「なるほど、それで、こんなに薄味なのに筍の風味が・・。」爽やかな緑風が流れ込む開け放たれた二階から、下の通りを眺めていた征四郎の顔が急に大きく眼を見開いたまま強張り、動かなくなった。「・・大丈夫どすか?えらい顔の色が悪おすけど・・。」「菊千代殿、急に用事を思い出した。すぐ戻る御免!」異変に気付いた菊千代の言葉も耳に入らなかったかのように、刀を鷲掴みにした征四郎は脱兎の如く階段を駆け下り、表の通りに跳び出して行った。「いやあ、びっくりしたあ!あんな取り乱した征はん見たのはじめてやわ。どないしはったんやろ・・・。」

― いや、まさか、そんなことがあり得ようか、いやあるはずがない。あの時確かこの手で・・では、一体これは・・・。― 征四郎は
足を速めながら、何度もそう心の中で叫んでいた。三日続いた雨があがり、眩しい陽光の中、ひんやりと心地よい風に吹かれながら川辺を散策する人々の間を縫って、征四郎は足早に前を行くその人影を追い続けた。

「おまはんとこ、鰹の刺身できよるんか?」木屋町に軒を連ねる一軒の茶屋の片隅に陣取ると、侍は亭主に訊ねた。「お国元では浜にあがったばっかりの活きのいいもんが、手に入りますやろけど、此処に着くまで傷んでしまうんどすわ。若狭から来た、ぐちや鯖の塩したもんやったらあるんどすけど・・・。」「高知でもなかなか食えんのよ!」「また、何でどす?」「鰹は今上りで旬やけんど、なんせ土佐は南国、暑い日に刺身食うと、よう食当たりがでよるけん。藩が、何と鰹は生で食うたらあかん言い出しよった!藁で周りをさっと焼いてごまかして食うてるもんもおるけんど、やっぱり鰹は刺身が一番うまいぜよ。無かったらしゃあない、鯖の酢締めにしょうか。」そこへ入って来たばかりの若い侍が、無言で傍に立った。「おお、おまはん相変わらずじゃのう、逢うたら挨拶ぐらいしたらどうじゃあ・・。まあ、突っ立ってんと、一杯いこ!」男は差し出された盃を一気に飲み干すと、相手の顔をじっと見つめた。「まあ・・そんなに焦らんでもよかろ・・。おまはんらのやっていることは、かえってわし等を崖っぷちに追い込むことになりかねん。ええか、世の中を変えるには、人の心を掴み、立場を超えて、志を同じゆうするもんをまとめんといかんのよ。刀振り回すだけじゃあ変わらんのよ。まあ、ちょっと待ち!ちょっと待ちって!・・。」袴を掴んだ手を振りきって、入って来た男は足早に店を出て行った。     



     七夕の歌会



  恒例の七夕の歌会が開け、冷泉家の門を出た名だたる公家の面々が家路につき始めていた。昨今の事情を恐れて出席を辞退した者もでるなか、秀澄卿は、この歌会だけは一度も欠かしたことはなかった。下賎の者に身をやつし、前夜のうちに屋敷を出て、付近の問責寺院に入ったのちに装束を整わせ女物の輿に乗り、侍女二人を従えて出かけて行ったのである。あくる日の深夜に、問責寺院を密かに出、家路を急ぐその輿が、裏通りにひたひたと足音を響かせ、夏虫の無く草葉の露を払いながら進み、あと僅かで二条通りに達しようとした時の事である。担ぎ手の一人が、前方に莚を被った一人の乞食らしきものが月の光を浴びて寝そべっているのに気付いた。街中ではよく見る光景だが、なんせ狭い道を塞いでいる。声を掛けたが寝入っているのか返事がない。仕方なく輿を下ろして近付き、莚に手を掛けて揺り動かそうとした瞬間。何かがキラッと煌めいたかと思うと、その担ぎ手は「うああ・・!」と断末魔の叫び声をあげて血しぶきを飛ばしながらその場に仰向けに倒れ、動かなくなった。その前には血の滴り落ちる白刃を星天に翳しながら、一人の黒い人影が立ちはだかっていた。「きやあああ!」「ひ、人殺しいいい!」恐怖に慄いた従者たちが逃げ去った後、黒い布で顔を覆った暗殺者の影が、残された輿にむかって一足一足ゆっくりと近付いてくる。一歩手前で止まり、刀の切っ先で簾を跳ね上げたが中は蛻の空だった。一瞬たじろいだかに見えたその者に向かって「お主は何者だ。なぜ秀澄卿の命を狙う。」という声とともに、輿の向うに人影が現れた。「残念だったなあ。卿は今逃げ去った従者の一人に、化けていたのさ。今頃は無事に屋敷に着いてるよ。」刺客はその言葉に身じろぎもせず、月の光に青白く輝く白刃を両手に持ち変えると、満天の星を湛えた銀河に棹さすが如く、真っ直ぐに頭上に構えた。その瞬間、征四郎は相手の呼吸が、ふと消えたのを感じ、思わず柄に手を掛けておのれの呼吸を止めた。― 出来る!・・・それも尋常の腕ではないな。―  征四郎は今は無き剣の師、源芯斎の言葉を思い出していた。―「よいか、征四郎、己の感情を剥き出しにして襲ってくる敵に対処するのは容易い。恐るべきは、構えた瞬間に相手の呼吸が読めなくなる敵に遭遇した時だ。彼は己の心を超越し無の境地に達している。そして彼はお前の太刀筋をすべて読むことが出来、おまえのすべての動きを予測することが出来るのだ。そのような相手に立ち向かう時は、死を覚悟せよ。生への執着を絶たぬ限り、お前は相手の兇刃に、なすすべも無く打ち倒されるであろう。」― 征四郎は微動だに出来なかった。相手との間に張り詰めた気を一瞬たりとも緩めれば、忽ち稲妻の如く振り下ろされる敵の一撃を受けねばならない。敵は既に抜刀しているのに己の剣はまだ鞘の中なのだ。征四郎は握りしめていた大刀の柄からゆっくりと手を外した。そして両手を垂らしたままで屈めていた腰を伸ばしすくっと立ち上がると、相手の眼を見つめたままで、じりっ、じりっとその間合いを詰め始めた。相手はゆっくりと頭上の白刃を横に下げると、懐紙を取り出して、その血を拭い、無言で鞘に納めると、くるりと背を向け足早に立ち去っていった。征四郎の捨て身の行動を見抜いて、相打ちを避け
たのだ。おのれの振り下ろした剣が相手の眉間を割るのが早いか、それとも相手の眼にも留まらぬ速さで抜かれた脇差が、おのれの腹を刺し貫くのが早いかを判断しかねたのである。その後姿を眼で追いながら、征四郎は大きく一呼吸し、そして自分自身に心の中でこう呟いた。「先んずれば人を制す。敵を甘く見て刀を抜くのが遅れ、もう少しで命を落とすところであったぞ征四郎。まだまだ修行が足りぬなあ・・・。」   



    土佐の人


  「わしに会いに来て、飲まずに帰った二十歳前後の髪を括った侍?この店で?十日前に?さあ、覚えとらんのう、まあそんな事より、おまはん関東訛りがあるが、どこからこの京へ来たんか知らんけんど袖すりあうも多少の縁、いっしょに飲も。おおい、亭主、いつもの締め鯖二人前に、酒三本!。」「いや私はただ・・・。」「まあええやないか、同なじ浪人同士、座んなよ。」 帰ろうとする征四郎に「おまはん、こんなもん、見たことあるか?」そう言ってその浪人は懐に」手を入れると、出したものをドンと膳の上に投げ出した。それは見たこともない黒光りのする南蛮渡来の短筒であった。眼を見張る征四郎に「これはなあ、ピストル言うて最新式の飛び道具や、わしも多少剣術の心得があるよってに、おまはんの腕のいいのは想像がつく。けんどおまはんがどんなに強うても、ええか、これがあれば誰でも、たとえ女子供でも簡単におまはんを撃ち殺すことができんのやで。」「女子供でも・・。」「持ってみいや。」唖然と立ちつくす征四郎の手にピストルを握らせると、「どうやらおまはんも、西洋の匂いがするもんに触ったのは、初めてらしいなあ。どうや、たまげたやろ。わしも勝先生の家で地球儀見せられた時は、いまのおまはんみたいに、声も出んかった。」征四郎は、手に持たされた物の形と冷たさと、そのずっしりとした重みに全身の何かが砕け散り、代わりに初めて味わう何とも言いようのない感覚に心が震えるのを、どうすることも出来なかった。

「その土佐のご浪人はん言うのは坂本竜馬はんどす。」「坂本・・竜馬。」「へえ、多分間違いおへん。一度お座敷でお会いしたんどすけど、それは面白いお方で、ご浪人はんやのにたいそう気前がようて、派手にお遊びになるんで、誰ぞ、ええ金のなる木いでも持ってはるんやないかいうて、皆で噂しとったんどす。それにある時は、日本の言葉を流暢にしゃべりはる、エギリスとか言うお国から来はった南蛮人の男のお方を、お連れやしたりして・・。」菊千代の送る団扇の心地よい風を受けながら、征四郎は、ぐでんぐでんに酔ったその竜馬とかいう侍が、別れ際にぐっと自分の肩を引き寄せ言い放った言葉を思い出していた。「ええか、今は言えんが、近いうちに面白いことが起きよる。今度おまはんと会うときは、この髷も、刀も、ピストルも、なあんも無しで、褌一丁で逢うて飲み明かそ。ま、その時まで、わしもおまはんも生きておればのことなんやけんどな。はっはっはっ・・・わっはっはっはっはっは・・・。」そう言い残して、千鳥足の侍は、こんな歌を唄いながら上機嫌で、京の町の闇の中に消えて行った。「・・土佐の・・高知の・・はりまや橋で・・坊さん・・かんざし・・買うをみいた・・よさこい・・よさこい・・・。」 



舞妓見習い


  「あのお人が、そんなに、そのお方に似ておいやすのんどすか?」夕闇が迫る川岸で話し込む若い男女の二人連れを、通りすがりに横目で見ながら菊千代が小声で囁いた。「ええ、私も初めて見たときは驚いた。似ているというより、本人が生き返ったのではないかと思ったほどです。菊千代さんは、あの男の隣にいる娘さんに見覚えは?」「あの髪型は舞妓に違いおへんけど、祇園ではあんまり見かけない顔やわ・・。男衆はんの引き合わせもなかったよってに、どの町のだれの屋形に入ったのやら、どの芸子はんと姉妹の契をかわしたのやらもわからしません。まだ京に連れてこられて間がないんと違いますやろか。この時刻になっても化粧も着替えもしてないとこみると、お座敷にあがれん見習いの身やおもいます。」

「おかあはん、ただいま。えろう遅うなってすんまへんどした。」幸代は、まだぎこちない仕草と京言葉で正座すると、白い華奢な両の手を揃えて恐る恐る頭を下げた。 鶴吉は、まだこの屋形に来て三月も経たぬ世間知らずの 若い娘を見据えながら、自分が初めてこの家の敷居を跨いだ頃のことを思い出さずにはいられなかった。― あれから、四十年、うちもこの娘と同じ十六やった。ほんまに世の中のことは、なんにも知らなんだなあ・・・。―「なあ、小鶴ちゃん。あんたがこの家に来たのも何かの縁、今は辛うても我慢して、立派な芸子になるまで一生懸命に精進せなあかん、それしかこの花街で生きていく道はない。土佐での暮らしと違うて、いろいろ覚えんといかん事多いと思うけど、過ぎた昔の事は昨夜みた夢とおんなじで、どうにも出来ん 、これからは、うちを母親、鶴千代ちゃんをお姉はんと思うて、舞や三味線の稽古に毎日励むのや。幸いあんたは、器量もまあまあやしお国訛りも、そんなにひどうない。立ち居振る舞いも何処とのう品があって、他の子に比べて恵まれてる、舞の宗家がそう言うてたそうな。ただ、あんたがお武家はんの出であることは、口が裂けても言うたらあかん。あくまで土佐の農家の娘で、口減らしのためにここに連れて来られた、いうのや。郭に行かずに済んだのも不幸中の幸い、うちも周りのみんなも、あんたを支えるよって宮川町に小鶴あり、と言われるような立派な芸妓になって。」畳を見つめたままで、話をきいている小鶴の白い指の間に大粒の涙が、ぽとぽとと落ちた。「おかあはん・・うち・・うち・・・。」声を殺して泣きじゃくり始めた小鶴の手を取って抱き寄せると、鶴吉は自分の胸に込み上げてくるものをぐっと堪えると、いつものようにそのそぶりさえ見せずに言った。「ええか、他人の前で涙見せるのは、今日この時限りにするのや。これからはそれを、ぐっと堪えて胸の奥にしまいなはれ。大丈夫あんたにも出来るようになる。女はあんたが思うているほど弱いもんやないんや。そのことも、やがてわかるようになる・・・。」凄まじい雷鳴を轟かせて降り始めた大粒の雨にも身動き一つせず、二人はいつまでも虚空を見つめたままで、その場を動こうとはしなかった。     



      誘い



  木屋町の路地を雷鳴とともに風雨が通り過ぎようとしていた。暖簾越しに外の様子を見乍ら盃をぐっと飲み干すと、その侍は話を続けた。「ええか、千之助。幸のことはさっきから言うとるように、縁がなかったと思うて諦めるしかしょうがないやろ。父親が酒と博打で身もち崩して、借金のかたに売られてしもたんやよって・・、まだ連れて行かれた先が郭で無うてよかった。安芸でも有名な器量良しやったんや、ええ旦那でも見つけて、そこそこ幸せに暮らしていけるやろ。」「そんな話聞きにきたんやない。ともかく幸を取り戻すには金がいるんや!」「おまはんなあ!わしらみたいなその日暮らしのもんに、三十両もの大金、都合出来るわけがないやろ!わし等みたいな浪人ふぜいに、何の担保も無しに誰が貸す?世の中思い通りになったら、誰あれも苦労せんのじゃあ。悪いことは言わん。幸のことはあっさり諦めるこっちゃ!」そう言って、その侍は酒代を膳の上に放り投げると、店を出て行った。頭を抱えている千之助に声を掛ける者があった。「もし、お侍さん。」「何ぞ用か。酒が目当てなら、ほら、この通り銚子は空だ・・。」「いえ、いえ、そうじゃあ、ございません。いや、もしお気に障ったら御免なさい。聴くつもりはなかったんですが、つい隣の席にいて耳に入ってしまったもんですから。お侍さんには今、お金が必要なことがおありだとか・・。」「おまはんには、何の関係もないことや。」「ええ、そりゃあそうなんですが、もし、もしですよ、もし手っ取り早く金が稼げる仕事があるとしたら、やってみる気はございませんでしょうか?」

「お侍さん、こちらでございますよ。」町人らしき風情の男は、千之助を寺町通の路地中にある旅館の一部屋に案内した。「お連れいたしました。」そう言って障子を開けると、そこには一枚の座布団が敷かれており、閉められた襖の奥から「ご苦労だった。」声がすると、「じゃあ、私はこれで・・。」そう言って、その男は障子を閉めて帰っていった。「お互いの顔が知れると、後々めんどうなことになる。襖越しに話がしたい故、もそっとこちらに寄られよ。」千之助が言う通りにすると、間髪を入れずにブスッと音がして白刃の切っ先が襖越しに千之助の胸を襲った。千之助は咄嗟に横へ飛び退き、「何の真似だ!」そう言って反撃にでようとすると、「お見事!いやあ許されよ、今のはそこもとの腕を確かめたまでのこと。なにしろ失敗が許されぬ大事を任さねばならぬ故、常人の腕では無理、その腕なら申し分あるまい。但し止めるのなら今だ。事を打ち明けたらもう元へは戻れぬぞ。裏切ればお主には死あるのみ、それでもよいか。だが大事を成し遂げた暁には、恩賞は望みのままに与えよう。」「二、三日考えさせてくれ。」「一日だけ猶予を与えよう。それ以上は待てぬ。なにしろ金のためなら何でもする連中は、この都に五万と居るのでなあ。」

  濁りが出た川面に涼しい風が吹きわたり、先ほど過ぎていった夕立に追われたのか納涼床に客の姿はなかった。祇園囃子が風のまにまに聞こえ、寝ぐらに返る鳥の声が遠ざかる岸辺を歩きながら、千之助は幸代を連れ去ろうとする男に詰め寄ったとき、その男が言った言葉をありありと思い出していた。―  「へええ、お前の女かえ、じゃあ返してやろうじゃあねえか。ほら、出しな、持ってるんだろう?三十両。何?持ってねえ?、ふん!おめえなあ、金も払えねえで、大きな顔をするんじゃあねえよ。何が俺の女でえ。このど甲斐性無しめが!」 ― その後、幸代が京に連れて行かれたのを知った千之助は居ても立ってもいられず、後を追って京に入り、幸代が宮川町の千寿という置屋に居ることをつきとめ、出てきたところを待ち伏せて再開を果たしたのであった。「うちら・・どうなるんやろ。このままやと千之助さん。うち、どこぞの旦那さんの囲い者になるかも知れん・・。」 心配せんでええ。おれが何とかお前を救いだしちゃる。必ず救いだしちゃるけん!」

「征はん、分かりました。この前の例の娘さんのことやすけど、知り合いに男衆さんの伝手を辿って調べて貰うたところ、ここ二、三か月のうちに宮川町に連れて来られた娘は四人、そのなかで一人だけ千寿という屋形に三月前に入った娘が居って、名前は小鶴、土佐の安芸とかいう処の出やそうです。」「宮川町の千寿?」



   小鶴の舞


  「そんなことやったら、お安い御用どす。宮川町の枝園という茶屋に通い慣れた知り合いがおります。その人なら喜んで、あなたを座敷に招いてくれるでしょう。」「治平殿、いつもご迷惑をかけて申し訳ない。よろしくお願いします。」

「旦那はん。お待ちかねの舞子はんが来てくれました。ただしこの子は三日前に店だししはったばっかり、慣れんもんどすけど、どうかご贔屓にしてやっておくれやす。」女将の後ろから、花簪を揺らしながら入ってきた舞子は、「小鶴どす。本日はお招きに預かり、ありがとうさんどす。」そう言って頭を下げた。「ああ、よう来た、よう来た。ささ、こっちお入り。」「おおきに、ほんならお言葉に甘えさせ
てもらいます。」女将は金屏風の裏から、三味線を取り出すと居住まいをただし、調弦を済ますと、「それでは、小鶴ちゃんに、黒髪を
舞うてもらいます。」拍手が止み、しばしの沈黙の後、名の知れた名手である女将の歯切れの良い三味線の音と、酔いの回った耳に
心地よい唄の流れに乗って、少しまだぎこちなさを秘めた初々しい舞が、座の耳目を一身に集める中披露された。舞い終わり拍手が止むと、「ありがとさんどした、ほんならきょうはこれで・・・。」挨拶の後、だらりと下げられた煌びやかな帯を翻して帰ろうとする舞子耳元で女将が何ごとかを囁くと、舞子は軽く頷き座敷を出た。女将は素早く征四郎の席に駆け寄り「隣の小部屋で、待って貰うとりますさかい。ただあの子は人気が高うて、あちこちのお座敷を掛け持ちでまわらんなんのどす。なるべく手短にしてやっておくれやす。」「わかりました。お手数を掛けて申し訳ない。では・・・。」

 襖を開けると、座っていた小鶴が立ち上がり、不安な面持ちで征四郎を見て頭を下げた。「お忙しいところ、お手間を取らせて申し訳ない。」「いいえ、次のお座敷まで、少し間がおすよって、何かうちに聞きたいことがおありやそうどすけど、何ですやろか?」「申し遅れた、私は嵯峨征四郎という武骨者、あなたに折り入って伺いたいことがあって参りました。実はこの間、あなたが若い侍と一緒にいるところを、見かけたのだが、その侍が私の知り合いと余りによく似ているので、もしかすると親戚縁者の一人ではないかと思い、それを確かめたくて女将に頼んであなたを呼び止めてもらったのだが、あの侍は、何と言う名で、何処の藩の者か教えてはもらえまいか ?」小鶴はそれを聞いた途端に俯いて、黙りこくってしまった。「ああ、私は幕府の役人でも無ければ、素性を知ってあなたの連れ合いをどうこうするつもりは、一切無い。何も心配することはいらぬ。むしろ、もし縁が有るものと分かれば力になりたい、とさえ思っているのだ。私を信じて話しては貰えまいか?」


     月見の趣向



  「太夫、久しぶりに顔を身に来たぞ。」「これは伊勢様、どんな秋風のいたずらか・・。」そう言いながら、喜撰は煌びやかな袖口から白い指を出し、目頭を拭いた。「おお、麿に逢えてそれほど嬉しいのか。」「前から言っているではありませぬか。伊勢様は大の猫好き、喜撰も猫は嫌いではありませぬが、傍によると涙が止まらなくなると・・・。」「さすが、島原でもなの聞こえた喜撰、そう言い訳するか。」盃を勧める喜撰の手を制して、「今日は笹を飲みに来たのではない。実は太夫に頼みたいことがあって、参ったのじゃあよ。」  

「おお・・・。昼は曇っておったが、見事な月じゃのう、喜撰。なれど座敷はよいのか?」「今夜は持病の癪で寝込んでおり、とてもお相手はできぬと。」「そして、その様な粗末な身成りで髪型を変え、抜け出して来たと。」「はい。」「珠も百合も、それ、月とそなたの美貌と、いずれを先に褒め讃えたものかと考えあぐねておるわ。」「まあ、お上手なこと。」

  屋敷の池に面した月見台の上で、しばしの間、喜撰の差し出す盃を傾け、月に魅入っていた伊勢実が口を開いた。「澄み切った秋の夜空に月が煌々と輝き、心地よい風に吹かれながら、虫の鳴き声を聞き、銘酒を味合う。言うことはないが、何かもの足りぬのう。」「心得ております。」喜撰が懐から取り出した鈴を振り鳴らすと、侍女が現れ、手にしていた一面の筝を置いて立ち去った。「そなたの琴も良いが・・・。」伊勢実の呟きを知ってか、知らずかふと微笑んだかに見えた喜撰の指が一弦を響かせると同時に、何処からともなく耳に心地よい笛の音が流れて来た。伊勢実が振り返ると、渡り廊下の陰から、烏帽子を頭に笛を真一文字に構えた人物が現れた。「おお・・・今宵の趣向は、これであったか・・・。」伊勢実には月下に漂う秋の気配と、二人の奏でる響きとが渾然一体となって区別がつかなかった。琴の音が誘えば笛の音がそれに応え、笛が唄おうとすると琴がそれに優しく寄り添い、お互いの音色が速さを増し複雑に絡んだかと思えば、ゆったりとした響きを取り戻し、その掛け合いが小半時ほど続いた後、やがて絶妙の間合いで喜撰が唄いだした。「峰の嵐か、松風か、訪ぬるひとの琴の音か、駒引き留めて聴くほどに、爪音しるき想夫恋・・・・爪音しるき想夫恋・・・・。」名残を惜しむかのように二人の響きが一部の狂いも無く、余韻を残しながら止むと、伊勢実は込み上げてくる感動の涙を拭きもせず、ただ頷いて手をたたいていた。「見事であった。そなたたちの管弦の響きに、天上の月も思わず輝きを忘れ、聞き入ったことであろう。ところで、そなたの琴に引けを取らぬ、これほどの吹き手がいたとは・・・。そなた名は何という。」「この者は、私の弟子で名は菊千代と申しまする。」「菊千代か、苦しゅうない、顔を上げてたも・・・。おお!これはなんと・・・そなた女子であったか!」             



 三条河原の露


  
  ここ、四条通りの路地にある、琴三弦を扱う老舗、掬菱の軒先にも夕暮れが迫っていた。奉公人の一人が暖簾を外そうと手を伸ばした瞬間、背後から口を手で抑えられ、数人の男たちに取り囲まれて身動きが取れぬまま店の中に連れ込まれた。ぴしゃりと入口の戸が閉められた後、何事も無かったかの様に辺りは静けさを取り戻していた。

「こんばんわ、こんばんわ、夜分誠に恐れ入りますが、ちょっと門を開けて頂けないでしょうか?」「どなたじゃあな?」門を叩く音に目を覚ました門番が目をこすりながら訊ねると、「はい、琴三弦を扱っております掬菱の手代で与平と申しますが、お琴の糸の張り替えに伺いました。」「琴の糸の張り替え?あんた、今何時だと思ってるんだ!そんな用で起されたんじゃあとんだ迷惑だ。明日にしてくれ!」「さようでございますか。今朝こちらのご主人様が見えられ、なんでも明日の午前中に、お内裏で大事な管弦の会があるとかで、古い糸が切れてはと、遅くなっても構わぬから、ぜひ今日中にと仰られておられたもんで夜分に出向いてまいりましたが、じゃあまた明日伺いますので、あなた様からご主人様によろしくお伝えくださいませ。じゃあ私はこれで。」「ちょっと待った!それをもっと早く言ってくれれば、さっさと門を開けたものを・・・。ちょっと待ってくださいよ。今開けますから。」

 近藤と土方が朝餉の粥をすすりこんで居るところへ、若い隊士の一人が、顔色を変え息を弾ませて駆け込んで来た。「局長!大変です!」「どうした。こんなに朝早うから、何をそんなに狼狽えているのだ。」「三条・・三条河原に、又、晒しものが!」「何!歳さん!」黒山の人集りを押しのけて河原に出た二人は、思わず顔を見合わせた。「こ、これは一体・・。」、そこには下着を剥ぎ取られたうえに、首に縄を巻き付けられた寝間着姿の男女の遺体が、人の背丈よりも三尺ほど高い生木の杭に吊るされ、無残な姿を晒していた。髪の結い方からして公家の夫婦であろうか。横に掲げられた高札にこう書かれていた。

 = この者達は、帝を支える身でありながら、皇恩を忘れ、幕府の犬に成り下がった裏切り者であるが故に、ここに晒す
ものなり。勤王の心あるものは、唾を吐きかけ、罵るべし =



     蹄の響き



  「遅い!約束の刻限は疾うに過ぎているではないか!」数人の男たちの一人がそう言い放つと、それに呼応してあちこちから様々な不平不満の声が沸き起こった。「場所は、この寺の境内に間違いあるまいの?」「この近くに、菅福寺という名の寺は、此処だけだ。」「では何故約束の金が届かぬのだ。」「ひよっとして、我々は騙されたのではあるまいか。」「まさか、その様なことが・・・。」「待て!静かに!おかしいぞ。」その男の一声で騒めきが一斉に止んだ。「何だ、どうしたのだ。」「しっ!何だか様子が変だ・・。ほら、今まで鳴いていた虫の声が急に聞こえなくなった。」「何だ、初めから虫など鳴いていなかったのではないのか。」「いや、そういえば、お主の言う通り馬鹿に静かすぎる。」その声と同時に四方八方から、ぼうっと小さな明かりが灯りそれが近づいて来た。それを見つめていた一人の眼にその明かりの提灯に書かれた文字が、はっきりと見えた。「誠・・。新選組だああ!」「何!しまった。謀られたか!」そう叫びながら逃げようとした男が、口から血を流しながらもんどりうってその場に

倒れた。背中には一本の矢が深々と突き刺さっていた。それを見た男たちの間に動揺が広がった時、辺りに凛とした声が響き渡った。「我等は、会津公お抱えの新選組である!お前達は包囲され何処にも逃げ道は無い!おとなしく刀を捨てて縛につけい!さもなくば容赦なく切り捨てる!」捕縛者たちの包囲の我が次第に縮まり、追い詰められた者達が決死の反撃に移ろうと身構え、一瞬の沈黙がその場を支配したその時、両者の耳にかすかな地響きが聞こえてきた。その音が次第に大きくなり、それが馬の蹄の音だと気付いた瞬間。黒い大きな影が捕縛者の頭上を飛び越え、輪の中心に躍り込んだと同時に間髪を入れず馬上の影が手を伸ばし、一人の手を掴んで馬上に引き上げると、再び包囲の輪を跳び越え、あっという間に闇の彼方に走り去って行った。

 上賀茂神社の境内で千之助を降ろすと、馬上の宗十郎頭巾で顔を覆った人物は、こう言い残して何処ともなく走り去った。「そなたの思い人が、明日の朝早くに、清水の音羽之滝の下で待っている。逢ったらすぐその足で京を離れ、故郷に帰って健吾で暮らせ。二度と馬鹿な真似をしてはならぬ。わしの名?そうさなあ、鞍馬の天狗、とでも言っておこうか。さらば!」      




身請け金


    清水の舞台には訪れる人も疎らで、ようやく昇り始めた陽の光が、眼下の朝靄に煙る家々を照らし始めていた。「あの二人、今頃どの辺りを歩いているんやろ・・・。小鶴ちゃん、宮野屋の旦那はんに身請けされると聞いて、きっとびっくりしはったんと違うやろか。 そして言われるがままに、ここで待ってると千之助はんに逢うて二度びっくり。そやけどあの千之助はんが、征はんのお知り合いの腹違いの兄弟やなんて。あの時、ほら、渡月橋の清富で筍食べた時、あの方が下を通りすぎへんかったら、分からずじまいどしたなあ。」「千之助殿の母御の名は梅、私の剣術の先生の奥様であったときはそうでしたが、土佐では晴という名だったそうです。妻子ある人と恋仲になり、身ごもると相手の男に裏切られ、千之助さんを産んだ後、行方知れずになったとか。そして最後には江戸に出て人妻となり、今度は自分の夫に不義密通の場を見られ、手打ちにあってその若い生涯を閉じた・・・。余りにも哀れだ。せめて小鶴さんと千之助殿には、幸せな生涯を送ってほしいと願わずにはいられません。それにしても宮野屋さん当人は、あの身請けに使った三十両余りの金子はある方に預かったもので、その方の名は言えぬといったとか。はたしてその様な大金を誰が預けたのでしょうねえ。菊千代さん。」「宮野屋はんは、この京でも指折りの材木問屋の大旦那、この前の蛤御門の騒ぎで広がった大火事の後の材木景気で大儲けをし、有り余ったお金の使い道に困ってはったんと違いますやろか。あの旦那さんのことやから、仰山居る馴染みの芸妓に気い使うて、他人に頼まれたことに・・・。」「しかし、身請けした小鶴さんを、好きな男のもとに返すとは、京都の町衆の中にも、江戸でいう粋な計らいを心得た人もいるんですねえ。」
「宮野屋さんは、この清水さんの熱心な信徒さんの一人やとか。ひょっとしてあのお金を用立てたのは・・・。」「そう。わ・た・し
、ばれましたか・・。」二人が振り返ると、そこには人影はなく、ただ灯された蝋燭の灯が、風に揺らめいているだけだった。



       伽羅の香り



   捕まえた浪人たちは、連日に亘る厳しい詮議や拷問にもかかわらず、首謀者の名を口に出す者は誰一人居なかった。「歳さん、この連中はどうやら雇い主を、本当に知らぬらしいなあ。」「ああ、この者達を陰で操っていた奴は相当に頭の切れる者の様だ。自分の手は汚さず、雇った者達にまんまと目的を遂げさせたうえに金を払わないばかりか、我々に売ったのだからなあ。しかし才人、才に溺れるとか、そんな悪賢い奴も、唯一証拠を残している。」「証拠?というと?」「我々に、この者達の居場所を教えたこの書付さ。匂い嗅いでみな。」近藤が鼻を近付けると、にやりとしながら言った。「伽羅か。こりゃあ歳さん。」「ああ、上等な紙、それにこの字をみてみろよ。このひょろひょろした書きっぷりやあ歌詠みの女文字みたいじゃあねえか。これを書いた奴は間違いなく、公家だな。」「で、こいつらをどうする、歳さん。」「野良犬は一度でも餌をくれた者の匂いは、しっかり覚えているものさ。囲いから放てば、辺りを嗅ぎまわり、いつかはそいつの居場所をつきとめる。また餌にありつこうと思ってなあ。」

 墓参を済ませたのか水桶を片手に、木枯らし吹き荒ぶ化野の丘を下る一人の深編笠の侍の姿があった。寒さのせいか人通りの途絶えた参道に降り立った時、閉まっている茶店の陰から数人の男たちが現れ、彼を取り囲んだ。「貴様よくも俺たちを騙し、新選組に売ってくれたなあ。」「はて、何のことやら。拙者にはさっぱり・・。」「しらばくれよったって無駄だ!こんなこともあろうかと、俺はあの茶屋であんたと襖越しに話した後帰ったふりをして、あんたが裏口から出てくるのを待って、後をつけたのさ。」「・・・。」「さあ、約束通り金を払ってもらおうじゃあねえか。それも倍にしてなあ。それが嫌なら、おおそれながらと訴え出りゃあ、あんたもあんたの主人も困るんじゃあねえのかい、ええ?それともこの場で俺たちに斬られて死にたいか。どうなんだ。返事をしろ!」侍はそれには答えず、被っていた深編笠に手を掛け一、二度動かし、水桶を下に置こうと身を屈めた瞬間、ビユッ!ビュッ!と音を立てた何かが耳元を翳めたかと思うと、周りの男のうち三人が首や頭から鮮血を飛ばしながらその場に

倒れた。その光景に驚く暇も無くのこりの二人の顔や頭にも容赦ない攻撃が加えられ、間もなく息絶えた。侍は何事も無かった

かの様に、又水桶を手にしその場を立ち去った。小半時後には、男たちの死体も夥しい血の後も、嘘のように忽然と消えて

無くなっていた。  


       形見の笛



   「ほら、また・・。」笛を置いた菊千代が征四郎の撥に触れて、「こんなふうに・・三味線の皮がご自分の顔や思うて、団扇で顔を煽ぐように、糸に撥を当てんのどす。」「こうですか。やってみるとなかなか難しいものですねえ。」「ほんならこのへんで、一息ついて・・おぶでもいれますよって。」菊千代が戻ると、征四郎が笛を手にしていた。「その笛は亡くなった実の母の形見で、そうとう古い物らしおす。」「それにもかかわらず外の黒漆の艶、内に塗られた朱色の鮮やかさ、吹き口やおさえ穴の見事な切口、段に撒かれた藤にも少しの緩みもなく、まるで今できたばかりのような輝きを放っている。見事というしかない。これを拵えた人は、きっと世に聞こえた名工にちがいない。しかし、この様な名笛といえども、あなたのような並外れた技量をもつ吹き手によらねば、その本当の響きを奏でることは出来ないでしょう。」「うちはまだまだ修行の身、もっともっと精進せんと笛に負けてしまいます。うちの師匠の喜撰太夫は、笛ばかりか三味線や琴弾かはっても、この京では右にでる者はおらんほどの名人どす。ああ、それで思い出したんやけど、初めての笛のお稽古に太夫のもとに寄せてもろた時、太夫がこの笛みて驚き、あんたこの笛何処で手に入れたんやと聴くよって、実の母の形見どす、いうたら、この笛はむかしこの浮舟楼にいた、月城太夫の持ち物によう似てる、あなたのお母はんは。どのような様なお人やったんかと訊かれ、今の養い親の兄さんの嫁で、うちが小さい頃病気で亡くなったらしい言うたら、うちの顔じっと眺めたあと黙りこんで何かを考え込んでいるようでした。なんでも、その月城という太夫は笛の名手であり、当時、島原一と言われたそれはそれは綺麗なお方で、高貴なお公家はんに身請けされた後しばらくして、行方知れずになったとか。」「亡くなった実の母上のことなら、義理の妹の咲江さんがよくご存じなのでは?」「それが、うちの父親と、知り合う前のことは一生口を閉ざして誰にも打ち開けなかった言うのどす。一緒になるにも、昔の事は一切訊かんという条件で夫婦になったとか。」「きっと人に言えない、深い事情があったのでしょう。」 「ただひとつだけ、ほらその笛の天辺に螺鈿細工で鳳凰の姿が埋め込まれてますやろ、母が今わの際に、もしにっちもさっちもいかんようになったら、この紋所のお屋敷を尋ねたら、
きっと力になってくれるはず、と言い残して息を引き取ったそうな。」「この紋所は・・。」「征はん、ひょっとして、その紋所に
心当たりでもあるんどすか?」「あ、いえ・・この紋所のお屋敷には、いまも菊千代さんと関係の深い親族か、或は菊千代さん
の見知らぬ兄弟姉妹が暮らしているかも知れません。あなたの家族が窮地に陥った時、救いの手を差し伸べてくれる人なら、
全くの赤の他人とは考えにくいからです。それにこの鳳凰のしるしを使えるのは皇族か、それにつながる高貴な身分の家に
限られており、裕福な暮らしをしているに違いない。ふと、そう思ったのです。」

 征四郎は菊千代の話が事実なら、菊千代の母が頼れと言った屋敷とは秀澄の館に違いないと思った。笛にあるのと家紋が一致するからだ。しかしこの事を、菊千代に告げるのに躊躇したのには理由があった。秀澄はどう見ても五十超えているのに、菊千代はまだ三十に達していない。これは一体何を意味するのか、考えあぐねていたからである。

                                  
     夢の戯言


  「・・・ですから、さっきから言うてますように、一見はんは入れんのどす。それがこの京の昔からのしきたりどすねん。それに喜撰太夫はこの楼一の位の高い太夫で、高貴な身分のお方でも逢うのは難しおすのに、一般の人ならなおさらのこと。どうかお引き取りいただきとう存じます。その菊千代はんとかおっしゃる芸妓はんは祇園ではともかく、この島原では・・・。」、再三の頼みにもかかわらず、応対にでた男は征四郎の要求を拒み続けた。「田平はん。」「はい。」、玄関の奥から心地よい抑揚に富んだ女の声が響き、振り返ったその男の先には、豪華で煌びやかな衣装に身を包み、見事に結い上げた艶やかな黒髪に黄金色に輝く挿者をこれぞとばかりに飾り付けた、この世の者とは思えぬほどの気品と美しをさ備えた一人の遊女が、二人の美少女を左右に従え、真っ赤な朱塗りの階段に白い片足を掛けたままでこちらを見ていた。そして征四郎の方に視線を移すと、ゆっくりと会釈をして、「お待ちいたしておりました・・・。この方は、わたしの知り合いで、さるやんごとなきお方の御子息、いまのお姿はお忍びのため故の事。後程おうかがいいたしますので、粗相のないよう、わたしの離れの部屋へ、お連れしておくように。」「あっ、はい!太夫。これはとんだ失礼を、ささ、お客様こちらでございます。どうぞおあがりくださいませ。あっ、これ、誰かお越しの物と御履き物をお預かりして・・・。」

  喜撰は茶筅の動きを止めると、「さ、無粋な手前ではございますが・・・。」そう言って、茶碗を勧めた。「有り難く頂戴いたします。」そう言って征四郎は茶碗を手にすると一気に飲み干した。喜撰はさほど驚きもせず、「菊千代さんのお話だと、甘いものがお好きだとか、今日はあいにくご用意いたしておりませぬが、この次お越しの節は必ず・・・。」「いや、恐れ入ります。」「それにしても、初めて来られたお方で、この喜撰をご指名になられたのは、あなた様が初めてでございます。」そう言って喜撰は含み笑いを堪えた。「先ほどの無調法は何卒お許しください。太夫にお会いしてぜひ伺いたいことがあり、恥を忍んでまかり越しました。」「わたしに聞きたいこと、とは・・・。」「こちらの館には、内裏に出入りされる方々が多く訪れるとか。さぞ太夫も、その人々の噂話を聞かれる機会がおありになるのではと。それで・・。」「征四郎様。この浮世で生きる人々には身分こそ違え、人であるがゆえに様々な思いを抱いて生きているもの。時には仮初めの者同士が出会い、一夜の逢瀬を過ごし、思わず世の憂いを忘れて洩らした言葉に、何の意味がありましょう。それが一夜の夢と消えてしまうからこそ、人は安心して、何のためらいもなく思うがままに心の内をさらけ出し、一夜の契りと知りながらも、それに身も心も委ねしばしの間、浮世の辛さを忘れることが出来るのではないでしょうか。わたしたちのような、この場所で生きることを余儀なくされた女たちにとって、もし守らねばならぬ唯一のことがあるとすれば、それは一夜の出来事を互いの心の奥に留め、決して人には明かさぬ事。それを知りたいというのは、それこそ、お江戸の人がよく口にされるという、野暮、なのではありませぬか。「・・・・・。」「まあ、あなた様は、ほんに菊千代さんが言われる通りのお方らしい。ここは京一の色里、そんなお顔をなさらなくても、たかが遊女の戯言、軽く聞き流せばおよろしいのに・・・。」「すまぬ太夫、どうやら私は、その・・とんだ考え違いを・・。」、征四郎の言葉を遮るかのように、「さ、おひとつどうぞ・・。」そう言って、喜撰は、鶴が舞う朱塗りの盃を征四郎に手渡すと、それに酒を注いだ。そうして人を呼び、紙と硯を用意させると、さらさらと流れるような筆使いで一通の書状をしたためた。「この手紙をお持ちになり、六角堂近くの伊勢実卿のお屋敷をお尋ねくださいませ。あなた様のお役に立つお話が聞けるかも知れませぬ。わたくしには、これぐらいの事しか。」
「太夫。かたじけない。恩に着ます。」     




      後悔



   「おお、なるほど、そなたか・・あの喜撰が手紙まで添えて送り届けるだけあって、なかなかの男振りよのう。」、膝の上の三毛猫の背を撫で乍ら伊勢実はそう言って征四郎を迎えた。「嵯峨征四郎と申す武骨もの、以後よろしくお見知りおきを。」「うん、伊勢じゃあ。世間では猫実と呼ばれるほどの猫好きのため、妻にも愛想を尽かされた哀れな男よ。はははははは。」「太夫のお話では、卿は都一の剣の使い手とか、私は昨年、さる事情によって長年教えを受けた師を亡くしました。まだまだ未熟者ゆえ、ぜひ機会があれば卿の教えを受とうございます。」「おう、それならば、ちょうど退屈しておったところじゃあ。どうじゃあ、昼餉の腹ごなしに、麿と一手遊んでみるか。」

  「征四郎とやら、如何致した。はよう打ち込んで来ぬか!」、紅葉が漂う池のきらめきを薄絹に受けながら、伊勢実が言い放った。しかし征四郎はそれでも動けなかった。相手の呼吸を読めぬのだ。そればかりか、木太刀を左手にぶらんと下げたままで、伊勢実は構えようともしない。幼子が初めて棒を手にした時のように、まるで無防備で、打ち据えてくれと言わんばかりの相手に戸惑っていたのである。「ならば、麿から参るぞ。」そう言うと木太刀を振り上げ、今にも打ち下ろさんとばかりにずかずかと近付いてきた。征四郎はそれを受けんと、正眼の構えから木太刀を引いて打ち合わせたつもりが手に何の衝撃も感じない。空を切ったのである。征四郎の顔から血の気が引いた。耳を翳めたその一撃を顔を背けて何とかかわしたが、そのあとの伊勢実の息つく暇もない凄まじい攻撃を振り切れず、征四郎は木太刀を跳ね飛ばされたあげくに、落ち葉まみれになって庭中を転げまわり、最後に打ち下ろされた一撃を、両手で挟み受け、おのれの眉間すれすれで止めてやっと一息ついたが、あれほどの動きを見せながらも伊勢実は、呼吸の乱れひとつ見せず、息を弾ませた征四郎が「・・・参りました。」と言うと、「うん、そなたも見事であった。麿の木太刀を一度も身に受けずに、素手で止めたのは、そなたが初めてじゃあ。麿は弟子をとらぬと決めておったが、そなたなら、麿の技を受け継ぐやも知れぬ。手取り足取り教えるのは面倒ゆえ、自分で会得せい。」「はい!」「ところで、そなた甘いものは。」「大好きでございます。先生!」「よし。先日持参させた、茶事に使う見本の菓子がある、この散る紅葉を惜しみ ながら、一緒に食そうではないか。」「はい!。喜んでいただきます。」初めて逢ったにもかかわらず、わずか小半時の間に征四郎は自分より、二、三年上に見える伊勢実に、実の兄のような親しみを感じ始めていた。 

  「ほう、そなた秀澄卿の用心棒をしておるのか。あの男の素性はよくわからぬが、なんでもさる旗本の次男に生まれ、養子縁組であの屋敷に来たそうな。」「それでは、秀澄卿の義理の父上にはご嫡子は居なかったのでしょうか?」「いや、下賎の身分の者に生ませた幼子を引き取ったものの流行り病で亡くしたとか。公家仲間では当時、寵愛し身請けして北山の臣下の隠れ里に住まわせていた、元島原の月城とかいう遊び女に生ませた子では、との噂が立ったらしい。なんでもその月城太夫は、あの喜撰も、遠くく及ばぬほどの美形であったとか。男たるもの、そのような女子と一夜を過ごしてみたいものよのう・・・。」― なるほど、実の子は幼少なるがゆえに病に倒れた。成人に達したものなればその心配はあるまい、との想いからか。これで菊千代さんとの歳の差の理由もすっきりしたな。― 征四郎はそう思ったが、伊勢実が言い放った次の言葉に、愕然とした。「秀澄卿が公武合体を?何を馬鹿な!それはそなたの聞き違いであろう。考えても
みよ。そのような事が成就すればどうなるか。自分の実の父や家族がその地位どころか、碌をも奪われる事態に陥るやも知れぬではないか。わが命よりもお家大事を重んじる、生粋の旗本の倅が、そのような企てに組するわけがない。もしそのようなことが起ころうとするならば、己の命を懸けてでも阻止しょうとするだろう。それが幕臣というものだ。」    


 征四郎は、夕暮れ迫る五条大橋の欄干にもたれながら、己の愚かさに滅入っていた。伊勢実の言う通りならば、秀澄が公武合体派に身を置く理由は一つしかない。彼らの内情を探り、事が成就するのを妨げるためだ。ならば今までの自分もそれに加担していたことになる。― ひょっとして千之助たちを蔭で操っていたのは、まさか、いやそれも十分考えられるなあ。―  征四郎は握りしめた拳で、何度も何度も欄干を叩きながら、唇を噛みしめていた。



       密書


  伊勢実の話が事実とすれば、菊千代と秀澄とは血が繋がっておらず、全くの赤の他人である。― なのに、それを隠し、私に
はあたかも、実の兄であるかのように振る舞い、不幸な生い立ちを吹き込んで憐みの情を起させ、巧みに人の心に取入り、それを
思いどうりに操るとは、唯者ではないな。―  征四郎は、あの夜鞍馬で逢って以来今ままで、そのことに全く気が付かなかった
のである。まるで千両役者顔負けの演技力で、見事という他はない。征四郎は、鬼十郎への、そしてその両親へのせめてもの供養と
思い、千之助を救って無事国元へ返した今、菊千代を伴って江戸に下ろうと思っていたが、秀澄の行状をこのままにしては置けぬ
気がしていた。  

 
  「では。」「うむ。」旅支度を整えた佐平治は、裏門の木戸を閉め、辺りを見回した後、菅笠の紐を締め直し、背中の荷物を背負い直すと、夜陰に紛れて一路江戸を目指して歩き始めた。自分を含め数人の連絡係が様々ないでたちで、江戸と京の間を常に往復していた。京の様々な勢力の状況を密書にしたため江戸幕府の中枢に知らせると同時に、その指示を京に持ち帰るのが彼らの主な役目であった。主に江戸城警護を預かる伊賀組の出身者が多く佐平治もその一人であり、将軍が上洛の折にはそれに密かに付き従い、時には寝室の天井や床下に潜み、昼夜を問わず暗殺者の攻撃を阻止する役目に付くこともあった。はや初冬を迎え、枯草の露が凍り付きそうな夜道を、白い息を吐きながら一人歩を速める佐平治の脳裏には、京土産に喜ぶ妻子の笑顔が次々と浮かび、屋敷を出て以来、ずっと自分の後を追う者がいることなどには、全く気付いていなかったのである。 

 頬を打つ冷たい雫に眼を覚ました佐平治は、はっと我に返り辺りを見回すと、街道脇のちいさな地蔵堂の床板の上に寝ている自分に気がついた。手の届くところに、菅笠を乗せた荷物が置いてあり、外は雨が降り続いている。しかし佐平治には、なぜ今自分が此処に居るのかが、一向に思い出せないのである。― 確か夕べ、緩んだ草鞋の紐を締め直そうと足を止め、屈みこんだことまでは覚えているが・・・―   懐の密書にも、自分の体の状態にも別に変ったことはない、ただ寝ているうちに毒虫にでも刺されたのか、右の首筋に、痛みと痒みが入り混じったような感覚と小さな腫れが残っていた。

「ご苦労でごわした。おはんも妻や子がおりもうそう、正月も近い。少ないがこれで何かの足しにでも。」「はっ、頂戴仕る。」茶室を出た新兵衛は、広大な 藩邸の庭を、木々の月影を縫うように走り抜け、白壁の塀を軽々と飛び越えると、近くの神社の祠の裏にかくしておいた肥え桶の蓋を取り、忍び装束を中から取り出した野良着に替え頬被りをすると、天秤棒で肥え桶を肩に担ぎ、何食わぬ顔で明け始めた京の町を後にした。  



     鎮魂の調べ


 「ほんなら、このお墓に入っているうちらを産んだお母はんは、その月城とかいう、元島原の太夫や言いはんのどすか?」「ええ、月城太夫、つまりあなたのお母上は、浮舟楼に居た頃、あなたの父上、吉翔冶優希麿卿の寵愛を受け、身籠った後に身請けされ、その従者が住む北山の里に身を隠し暮らして居られたが、優希麿卿の正室にはいつまでたっても懐妊の兆しがなく、寄る歳のせいもあったのかこれに業を煮やした優希麿卿は周りの反対を押し切って、月城太夫との間に儲けていた一男一女のうち、あなたの兄にあたるその時まだ二歳くらいであった男の子を、四条の自分の館に引き入れて嫡男として家を継がせ、その母が下々の出であることが世間に知れ渡ることを恐れ、月城太夫ともう一人の女の子、つまり当時まだ一歳だったあなた、菊千代さんと供に、僅かな金子持たせ北山の家から追い出したのです。そして路頭に迷い行き倒れになっていたところを、あなたの今の養母の咲江さんの兄、久吉さんに助けられ、有紀と名を換えその妻となり暮らし始めた。後は、あなたが咲江さんに聞いた話の通りです。」「そんなわけがあったよってに、昔の事は一切口にださんと隠していたと。」「あなたや、あなたの兄、それに久吉さんとの間にできた妹、浜菊さんの行く末を案じての親心だったのでしよう。」「そんなこと、今までちっとも知らんと、堪忍してな、お母はん堪忍して・・。そんなに苦労して、うちらを育ててくれてたんやなんて、今の今まで何にも知らんと・・・。」、そう言って菊千代は、愛おしそうに、俗名有紀享年三十五歳と書かれた墓石を、何度も何度も撫でながら涙を流した。周りを掃き清め花と線香を手向けた後、菊千代は懐から形見の笛を取り出し、見ぬ母親の面影を偲んで鎮魂の一曲を奏した。
その澄んだ美しい音色は、化野のあまたの石仏たちの上に掛かる慈雨のように、或は浄土にまします阿弥陀仏の法話のように辺りに響き、たちのぼる線香の煙とともに、小春日和の冬空へと消えていった。先ほど来、二人から二間ほど離れた場所の墓石に、線香を手向けていた深編笠の侍は、水桶を手に立ち上がると、しばらくこちらの様子を窺っているかに見えたが、やがて帰って行った。二人が墓地を離れ参道に降り立ち、二丁ほど先に茶店の旗が見えた時のことである。征四郎の足がふと止まった。 それと同時に、「危ない!」と叫んで菊千代を突き飛ばし、振りかざした征四郎の水桶にカッ!カッ!

カカッ!と何かが突き刺さった。征四郎は横たわる菊千代の傍に身を屈め、次の攻撃をかわそうと身構えた。しかしそれはなく、どこかでヒューという指笛のような音がしただけだった。「菊千代さんもう大丈夫だ。怪我はないか!」菊千代は震える手で征四郎の腕に縋ると、蒼ざめた顔で黙ってゆっくり頷いた。ふたりの足元に転がっている水桶には三か所に、黒光りのする十字形をした刃物が深く突き刺さっていた。 征四郎の脳裏に近くにいた深編笠の侍の姿がよぎった。うかつだった、先ほどの我々の話を聴いた故の所業なら、咲枝さんや浜菊にも危険が及ぶに違いない。そう思った征四郎は、菊千代を三条の家には戻さず、治平の家に留め置き、お照に頼んで、密かに咲江、浜菊も呼び寄せた。そして夜が来るのを待った。 
    



                                                                    
       瞬速の剣

  

  「その者たちは、我等の正体を既に察していると申すのか。」「おそらくは。」「うむ。打ち損じた以上何か次の手立てを考えずばなるまい。」「御意。」「その必要はないさ。」ガラッと障子が開いて、宗十郎頭巾で顔を隠した男が入って来た。「おっと、手下は呼んでも来ねよ。皆、気を失って夢ん中さ。それに幸秀さんよ。いくら深編笠で顔を隠しても、この屋敷に籠ってる伽羅の匂いは消せねえぜ。秀澄卿、あんたの芝居にゃあ舌を巻いたぜ、団十郎の代役をやらせてえくらいの名演技だった。しかしその歳じゃあ、大向こうの眼はごまかされなかったようだな。」「何者だ!」「この声を忘れたのかい?」そう言って征四郎は頭巾を解いた。「貴様!」「そうさ、お前たちの茶番劇を見抜けなかった野暮天浪人よ。おかげで惚れた女をもう少しで死なせるところだった。今夜は、その礼をたっぷりさせて貰うから覚悟しな。」「飛んで火にいる夏の虫とは、貴様のことだ。七夕の夜は見逃してやったが、のこのことやってくるとは愚かな奴め、刀の錆にしてくれるは、庭に出ろ!」「あの時の刺客は、あんただったのか。何も担ぎ手を斬らなくてもよかったものを・・。」「言うな!こい!」 二人は縁を蹴って庭に下り立った。おりしも天には、冬の寒空に煌々と月が輝き、池の水面に照り映えていた。もはや、かつて鳴いていた虫たちはとっくに姿を隠し、時々聞こえていた犬の遠吠えも何時しか止んでいた。一間半ほど隔てて対峙するふたりは、互いに息を殺し身動き一つせず小半時が過ぎた。征四郎は正眼に、相手は七夕の夜同様真っ直ぐに頭上に構えたままである。征四郎はその時、亡き師源芯斎の言葉が再び耳元で聴こえたような気がした。ー 剣は、それ瞬速、心、気、力の一致なり!―  「ええい!」鋭い征四郎の気合と同時に、二人の刃は動きを止めた。相手の切っ先は征四郎の頭上一寸余りのところで、そしておのれの切っ先は相手の咽喉深くに。

幸秀の眼は次第にその輝きを失い、やがて身体はどうとばかりに前に倒れた。人は動きをする前に必ず息を吸い込み止めて

後動く、征四郎は、相手が動けない息を吸い込むわずかな瞬間を見計らって一番動きが小さくて済む鋭い突きを、眼にも留ま

らぬ速さで相手の咽喉元に浴びせたのであった。



      化身の術
                                 

  三条河原は、朝から黒山の人だかりが出来ていた。だが今度ばかりは今までと違って笑い声が時々聴こえていた。近藤と土方も目前に晒されている人物を見て、笑いを堪え切れなかった。彼は六十前後の老人で、猿ぐつわをはめられており、杭に縛られ、頭には破れた菅笠を被せられ、薄汚れたつぎはぎだらけの野良着を着せられたうえに、案山子のように両手を青竹に括られて、顔に墨で、へのへのもへじと書かれていたからである。そしてそばに掲げられた高札には、こうあった。

= この者は、罪なきひとの命を奪い、辱めて、都を騒がした張本人なり。よって我が化身の術を持って案山子に変え、
世の人々の見せしめとするため、此処に晒すものなり。 鞍馬の大天狗 = 



別れ


 「うちは残る。」「お母はん・・。」「うちはこの京の街に生まれて、育ててもろた。そやから、ここ離れんとここで一生暮らして、ここで死にとおすのんや。あんたら二人の気持ちは有り難いけど、この京を離れては生きてゆけんのどす。有紀姉はんの遺言もあり浜菊を大きせなあかんし、あんたら二人で行きなはれ、うちらには何の気兼ねもいらんよって。」、案の定、咲江は江戸に行くのを拒んだ。菊千代は年老いた養い親を残していくに忍びず、再三に亘って説得しようとしたが無駄であった。「浜ちゃん、お母はんのこと、頼むね。」行かんといて、と泣きじゃくる浜菊に教え諭した後、菊千代は懐から朱塗りの櫛を取り出し手渡した。「これをうちやと思うて、姉ちゃん何処に居てもあんたのこと、いつも思うているからね・・。うちの代わりに、お母はん大事にして、一生懸命稽古に励んで、ええ芸妓になってな。」声を詰まらせ、溢れる涙で袖をぬらしながら菊千代は、浜菊を力の限り抱きしめて別れを惜しんだ。「これが、今生の別れでもない。また江戸に永住すると決めたわけでもないのだし、菊千代姉さんを江戸見物に連れて行くだけの事、またすぐに帰って来るのだから、そんなに悲しまないで。」「ほんと?」「ああ、約束するよ。じゃあ、小指を出して、いいかい?指切りげんまん嘘ついたら針千本飲まそ!咲枝さん、菊千代さんをしばらくの間お借りしますよ。」「ああどうぞ!こんな強情っぱりな娘、一生返さんでもよろしおすえ~。」「いやっ、お母はん、言うにことかいて今何とお言いやしたん?」「そやかて、ほんまのことやもん。」「ほんなら常日頃、みんなに、うちの菊千代は、ほんまに優しいええ娘どす、言うてたん、あれみんな口先だけのことやったん?」「うち何にもそんこと、言うてえしまへんで~。」「まっ!お母はんがそんな人やったとは、この歳になるまでちっとも気い付かへんかったわ!うちにむかって、ようそんなこと言いはりますなあ。」 


「あ~あ、征はん、うちお腹が空いた。あんな二人ほっといて何か食べに行かへん?」「どうやら、そうした方がよさそうだな。」 人目も気にせず言い争う二人をその場に残し、嬉しそうに笑う浜菊の手を曳いて、征四郎は賑わう四条通りの雑踏のなかを、北に向かって歩いて行った。
 

                                  〔 完 〕

    *この物語は完全なるフィクションであり、実際に存在する人名や地名、その他、一切の事物とは全く関係がありません。(筆者敬白)

征四郎疾風剣 〔Ⅱ〕

征四郎疾風剣 〔Ⅱ〕

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-27

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted