東山の空に
序章
いつものように女房が仕事に出たのを、二階の窓の隙間より見送った後、彼は箪笥の引き出しを開け、いくつかの衣類をとりだし身に着け始めた。木綿の黒ズボンに白い長袖のTシャツ、そしてその上に薄手で焦げ茶色の、フードが付いた半袖の上着を重ねると、階段を静かに降り、戸口で下駄箱の奥から黒いサンダルを取り出して履いた。玄関を出て、左脇の納屋の天井に吊り下げてある埃だらけの網代笠を外すと、ポンポンとたたきながら小脇に抱え、近所に人がいないのを確かめて足早に路地を離れると、近くの駅に息を切らせて駆け込み、入ってきた電車に飛び乗った。乗り合わせた乗客たちの多くは、この男の風体に何らかの不審を抱いたに違いなかった。一見して網代笠の修行僧に見えなくもないが、よく見ると着ているものといえば洋服で、安物のスーパーの特売品のように、見慣れぬアルファベットのロゴ・マークがあちこちに見え隠れしている。しかも頭は坊主ではなく白髪 混じりの長髪で黒縁のメガネをかけており、どうみても五十は越している。手首から下げているのは数珠らしきもので、一つ一つの珠に南無阿弥陀仏とあり、さらに胸に下げている大きな黒い頭陀袋らしきものに、これも白いペンキかなにかでこう書かれていた。浄心山、風鈴寺、空慧と。
清水坂
今年も、もう十一月半ばだというのに、ここ京の街中でも十五度を超えようかというぽかぽか陽気であっけ物を済ましての帰り道、午後の陽に映える紅葉真っ盛りの東山を遠くに眺めながら、賀茂川沿いを歩いていた玉枝は、ふと、七條橋のたもとで足を止め、河原で一人都鳥の群れを見つめながら握り飯をほおばる人影に見入った。そしてまあるい大きな瞳を輝かせながら走り寄って、その人物に呼びかけた。「空慧は~ん!空慧は~ん!いつ戻ってきはったん?そんなとこで何しておいやすの~!」
「ほな、おかあはん、ちょっと行ってきます。」「ああ気いつけて。」からからから・・とん、軽やかに格子戸を閉めて玉枝は網代笠の腕に寄り掛かった。「はよ、行こうな、雪菜姉さんがきのう行ってきはったらしいけど、清水さんの紅葉ここしばらくの冷え込みで、えろう綺麗に色付いているんやて!」祇園の花見小路の観光客の目には前を通過ぎる、網代笠の僧らしき風体の五十男にくっ付いて、嬉しそうに話しながら歩く十七、八の淡い桃色地の着物姿の娘に奇異な視線を投げかける者もいたが、当の本人たちは全く気にする様子もなく、やがて二人の姿は人ごみに紛れて見えなくなった。
「うち、ほんまにあの時、空慧はんに会わへんかったら、今頃どうなっていたんかわからんかった・・・。」清水坂は相変わらず、修学旅行の生徒たちで込み合っていた。ただ例年とは違い、両側に軒を連ねる土産物屋の中には不景気の影響か、呼び込みをする店もあちこちに見受けられる。石段を登り切った本堂の近くでは、団体や人々が思い思いの場所で記念写真を撮っている。最近は中国や韓国などのアジアの近隣諸国からの来訪者も多く、様々な外国語が飛び交っている。カンボジアから来たという少女達が、母国の貧民を救うべく募金を呼びかける姿もみられた。二人は込み合う順番待ちの舞台を避け、本堂の裏側を回って東の小舞台の上より、人々であふれる清水の舞台と、その向こうに広がる京の街並みをしばらく眺め、時々上がる歓声の中、西日に映えオレンジ色に輝く紅葉の下を山肌を下る人々に囲まれながら歩いた。舞台の真下にたどり着くと、目の前を行く舞子姿の二人連れが目に入った。だがよく見ると髪の結い方や、化粧の仕方、着物の着付けや、歩く様子が何かおかしい。京の伝統的な暮らしや、日本舞踊を修練することによって自然と身に付く気品や、艶やかさといったものもまるで感じられない。玉枝が袖を弾きながら、小声で囁いた。「近頃は観光に来はったお人らに、うちらみたいな恰好させて、お金を取る商売がはやってるそうな。」そういえば、境内のあちこちに立つ和服姿の若い女性の話し声ほとんどが、他国の言葉で交わされており、それを聞くたびに一抹のわびしさや、やるせなさを感じるのは、果たして自分だけなのだろうか、玉枝はそう思った。
三条大橋
「久しぶりじゃあなあ。」大伽藍の一角にある離れの一部屋で、老骨の顔に、長く伸びた白い眉の下、底知れぬ静けさと、洞察力を兼ね備えた瞳が振り向いて、前にひれ伏す弟子のこころを見据えた。全国に数千人はいようかという宗門の総帥を長年務めてきたこの老師も、さすが寄る年には抗しきれないのか少しやつれたように見える。「どうじゃあ。ここ数年の間、何か得るものがあったかの?」「いえいえ、己の未熟さ、至らなさを感じるのみで・・。」「何も焦ることはない。ゆっくりやればいいのよ。己の力なさを知るのも一つの進歩だと思えば気も楽になろう。」「はい。」
寒修行の托鉢に出た雲水の集団が、列の乱れ一つなく粛々として、雪の降りしきる三条大橋を過ぎようとした時、最後尾の一人が、橋の中ほどに立つ黒い人影の前に足を止めた。雪の降り積もった網代笠のその人物は、修行僧に似た格好をしているが、手に持った鉢や着ている装束は、明らかに俄か仕立てであり、首から下げている頭陀袋らしきものにも、聞いたこともない寺名と僧名らしきものが、白いペンキのような大きな文字で書かれている。普通これらの文字は袋の裏など見えない部分に書かれ、人に見せるものではない。怪しんだ彼は、「ここにかかれている寺は、何処のもので、あなたの師はどなたかな?」と問うた。するとその人物は目を伏せたままで、右手の金剛鈴をゆっくりと振り鳴らしながら、「すずやかな、音色何処や風鈴寺、訪ねる人の心にこそあれ。私に師はおりません。」そう答えたのである。驚いた彼は僧列の先達に走り寄り、今目にしたばかりの一部始終を伝えた。そして再びその男の前に立つと「老師があなたと話がしたいので、もしよければ暇なときに寺に遊びに来てほしいと。では。」そう言い残して立ち去った。
数日後、雲水まがいのその男は年老いた竜泉禅師の前にひれ伏し、思い詰めた様子でいきなりこうきりだしたのである。「誠にあつかましきことながら、老師の慈悲にぜひおすがりしたいことがございまして。」「まあまあお茶でも飲みなされや・・。」そう言って、弟子が置いていった茶と菓子を勧めると、老師はゆらゆらっと立ち上がり、廊下を仕切る襖を閉めると、「さて、このおいぼれ坊主の相手をしてくれる者も少のうなって、いささか寂しい思いをしていたところじゃあ、庭の景色でも眺めながら、ゆるりと娑婆の話でも聴こうかの。はあっはあっはあっはあっ・・・。」
玄関先の娘
花見小路でも、奥まったこの辺りになると、さすがに通りの観光客の声もまばらにしか聞こえない。「なあ、おかあはん、その十八、九の娘はん、本気でうちで預かるつもり?」おしろいを塗る手を止めて雪菜は、炬燵で老眼鏡を掛け縫物をする養い親に話しかけた。「あの竜泉さんが、じかに持ってこられた話や、お引き受けするしかおへんやないか。あのお人にはずいぶんとお世話になっている。現にこの家かて、あの方の口利きがあったよってに安う手に入れる ことができたんや。その恩忘れたらばちがあたる。」片手で肩をもみほぐす夏絵の頭の上で、コチコチ音を立てていた年代物の柱時計がぼ~ん、ぼ~んと鳴りだした。「雪ちゃん、もう六時やで、お座敷まにあうんか?」「まだ五時半や、そのゼンマイ式の柱時計もういいかげんい換えたら、この前も慌てて入ったら誰れもおらへん。おかしいなあ、お座敷まちごたんかいなあ思てたら、その時計一時間も早うて、紅葉屋のおかみさんに、雪ちゃんこんなに早うに何しに来たん?いうて笑われてしもうたんやから・・・。ほな、行ってきます。」「ああ、気いつけて・・・。」
その娘は一週間もしないうちに」やって来た。「こんにちわ・・こんにちわ・・。」二度ほど玄関先で声がした。「は~い、はい、ちょっと待っておくれやす、いま開けますさかい・・・。」そう言いながら戸口に降りて下駄を履き、格子戸をからりと開けると、そこには網代笠を手にした五十過ぎ位の白髪交じりの男と、制服姿の十七、八の短い髪をした娘が立っていた。その娘の顔を見た瞬間、夏絵は我が目を疑い言葉も忘れてその場に茫然と立ちつくしてしまった。何という運命のいたずらだろう?いや、それとも、神仏のお導きなのであろうか、ー 靖枝・・・あんた、よう似てる・・・靖枝に、靖枝にそっくりや・・・ ー 止めどなく流れ落ちる涙を、夏絵はどうすることも出来なかった。ただならぬ気配を察した雪菜が、二階から慌てて降りてきて夏絵に駆け寄り、「なあ、おかあはん、どないしたん?何で泣いてんの?なあ、おかあはん!」そう言われて、我にかえった夏絵は慌てて涙をぬぐい居住まいをただすと、娘の肩にそっと手を置いて、「びっくりしたやろ?あんなに取り乱してしもて、ほんまにかんにんな。さあ中にお入り。」夏絵は炬燵のある奥の部屋へと案内した。「ささ、お座布団敷いてくつろいでおくれやすな。」その顔は先ほどと打って変わって嬉しさにあふれているように見えた。ー「お夏
さん、ほんまに身一つやさかいに、よろしゅうな。」 ー 竜泉禅師の言葉通り、娘が身の回りに荷物ひとつ持ち合わせていないのに気付くと夏絵は、「寒かったやろ~、今熱いおぶいれますさかい。」そういって席をたち、しばらくして手に淡い桃色地の着物を持って現れた。「あんた、その恰好では寒いし、ここで暮らすには和服にも慣れてもらわんと、雪ちゃん、二階でこの子にこれ着せてあげて。」「いこ、さあ遠慮せんと、きょうか、ここがあんたの家になるんよ。」そう雪菜に誘われて、娘は階段を上がって行った。夏絵は、さっきから珍しそうに部屋の佇まいに見とれている、一風変わった人物に、「あんたはんが、空慧はん?」と声をかけた。」「はい。老師は僕のこと何かいってませんでしたか?」「いえ、別に・・ただ詳しいいきさつは、あんたはんが、よう知っておいやすので、聞いてくれと・・。」
部屋の光景
「なあ、おかあはん?あの娘もう家に来てから二か月半ちこうなるいうのに、なんで一言もしゃべらんのやろ。何言うてもただ黙ってうちの顔みるだけやし、ひょっとしてほんまに口が効けんのんと違うやろか。」「空慧はんの話やと、心に受けた深い傷が治るまで、じいっと待つしか方法がないんやそうな。」「あの娘、空慧はんが助けたん?」「なんでも、あのお人が托鉢の帰り、いつもののように賀茂川沿いの道を歩いていると、雨が降っててるうえに、もう暗くなりかけているいうのに、傘も着んとずぶ濡れになりながらたった一人で河原に立っている制服姿のあの娘が目に入ったんやそうな。通り過ぎようとおもったんやけど、なんとなしに気になって、もう一度その娘を見ると、右手に光るものを持っているのに気付き、慌てて河原に飛び降りて、後ろからそうっと近
いてそれを取り上げたんやて、なんとあの娘、カッターナイフで手首を切ってしぬつもりやったんやて。」「それからどうしたん?」「死なせて!死なせて!いうて泣き叫ぶのを何とかなだめた空慧はんは、きっとこの娘の両親も心配してさがしているに違いないと思い、とりあえず警察に連れて行って、捜索願いが出ているかどうかを確かめてもらおうとしたんやけど、 出てへんかった。仕方なくパトカーでその娘に付添って家まで行ったところ、本人がどうしても車から降りるのをいやがるんで、警官が代わりにブザーを押したところ反応がない。もう夜の八時を回っているのに外灯も部屋の明かりもついていない。玄関の鍵が空いていたので中に入った警官がしばらくすると顔色を替えながら飛び出して来て、パトカーに走り寄り無線でこう本部に通報したんやて、今から言う住所に至急鑑識係を派遣されたし。家の内部で三名が死亡している模様!あの娘はそれを後ろの座席で黙って聞きながら、ただ体をぶるぶる震わせていたそうな。警察の調べたところ家の中で亡くなってはったんは、あの娘の両親と弟で、会社の経営に行き詰った父親が家族を道連れに無理心中をはかったらしい。あの娘だけ、その日はたまたま、いつもより遅うに家に帰ったんで、殺されずに済んだんや。そやけどなんにも知らんと、いつもどうりに、ただいまいうて・・家にに帰って来たあの娘に・・、家族の・・そんな光景を、まだ世の中のことなんにもわからへん十七、八そこそこの・・お嬢さん育ちのあんな娘に見せるやなんて、あんまりにもむごいやおへんか・・。自分のお父はんや、お母はんの変わり果てた姿見て、あの娘がどんな思いをしたかと想うと、うち可哀想で、可哀想で・・その話聞かされた時は、思わずもらい泣きしてしもたわ。」そう言って夏絵は目頭を拭いた。「ふうん、あの娘そんなめにおうたんや・・・。」
わらび餅
「こんにちわ・・。」「いらっしゃい!まあまあ、これは雪菜ねえさん、真昼間からお越しとはねえ、そんなにわしに会いたいんなら、電話くれたら向かいにいったのに。」「残念でした。ほら、そんなとこ立ってんと、こっちにお入り。」いかにも老舗の歴史を感じさせる大暖簾に影を映して、淡い桃色地の着物に、初々しい結いたての日本髪をした十七、八の娘が入って来た。「こりゃあ驚いた。姉さんにこんな可愛い娘さんがいらしたとは。」「あほなこといわんといておくれやす。これは私の妹や。大将、いつものん。この娘にもおんなじのん。」「あいよ。」「な。ここの大将かて可愛い言うてくれたやろ。あんたほんまに日本髪がよう似合うわ。ちょっと頭が窮屈に思うかもしれんけど。すぐになれるよってに。」「はい!どうぞ。きな粉多めにかけといたよ。わしまだ仕込みがあるさかい。ほなごゆっくり。」そう 言って店主は奥に引っ込んだだ。「ここのわらび餅、抹茶が入ってて美味しいんよ。こうやって、きな粉をまぶして食べてごらん。」うつむいたまま腰かけている玉枝の口元に一刺し近づけて「ほら、あ~んして、うん?」玉枝は、目の前に差し出されたわらび餅と雪菜の顔を見比べながら、おもむろに口を開けた。雪菜はその口にわらび餅をそうっと入れると、玉枝は口を閉じゆっくりと動かし始めた。それを見つめながら雪菜は心の中でこうつぶやいた。ー 微笑むんや、微笑んで、早う、でないとあんた一生幸せにはならへん、お願いやから、ちょっとだけでええねん、微笑んでみてえな。ー 玉枝の口のうごきが止まった。雪菜はじっと息を殺してその時を待った。冷たくこおばっていた玉枝の頬がゆっくり緩み始め、すぼめられていた唇がそうっと横に伸びるに連れて、白い美しい歯がこぼれて、澄んだ瞳の奥に失われていた光がかすかにさしたかと思うと、やがて天使のような微笑がまあるい顔全体に広がっていった。「ほ~ら、おいしいやろ~。」玉枝は微笑みながらちいさく頷いた。- やった!やった!この娘が、この娘が笑うてる。初めて笑うてる。ー 「よかった・・よかったなあ・・・。」そう言っていつしか雪菜は玉枝を抱きしめていた。- もう大丈夫、あんたも救われたんや。昔のうちがそうやったように、あんたも救われたんやで・・。ー 雪菜は玉枝を抱きしめながら自分自身をもしっかりと抱きしめていた。
祇園の名妓
「もう空慧はん、帰りはったんか?」玉枝は黙って頷いた。「そんなとこ立ってたら寒いやろ、こっちに来て炬燵に入いんなはれ。まあ冷たい手して・・ほら、こうやっておぶの湯呑み持ったら、指あったまるやろ?」湯呑みを掴んだ玉枝の両手をさらに自分の両手でやさしく包むと「あんた雪ちゃんと、わらび餅食べにいったんやてなあ・・美味しかったやろ?あそこのわらび餅。」玉枝は軽く微笑みながら小さく頷いた。「あの娘、ああ見えて、ええとこあるやろ?ちょっとつっけんどんやけどな。」玉枝はやはり頷いただけだった。―「夏絵さん、今あの娘に一番必要なのは、温かい家族の思いやりです。それがあの娘の心を徐々に癒して、いつかきっと人が本来持っている生きようとする強い力を呼び覚ますに違いないと、私は信じているのです。」―夏絵はそんな空慧の言葉を思い出しながら、もう一方で焦りのような、じれったさも感じていた。この娘が花街で生きていくには、芸を身に付けねばならない。背丈がもう少しあればと思うが、それも顔の大きさにはちょうどつりあっていなくもない。玉枝には艶っぽさはないが、可愛さ、愛くるしさが備わっている。それにも増して口元や目鼻立ちに、なにかしら庶民離れした、公家娘のような気品が感じられる。長年に亘り、数え切れぬほど多くの舞妓や芸妓を見続けてきたばかりか、自らもかつては祇園一の舞の名手と持て囃され、名家の旦那衆との間にいくつもの 浮名を流し、京の名妓の名をほしいままにしてきた夏絵である。初めて見たときから、玉枝がただならぬ才能の 持ち主であることを一目で見抜いていた。そして一緒に暮らしてみて、その確信はさらに高まった。そのなんでもない立ち居振る舞いの中に、その後ろ姿に、振り返ったその表情に・・・いける。この娘はいける。ほんまもんや、うちが探していた、ほんまもんの芸子や。
湯豆腐
「いやあ、京都一の舞の名手や言われた、あんたがいうのやさかい間違いないと思うけど、あの雪菜はんよりも上をいくて?そんな娘やったら、うちもみて見たい。いっぺん連れて来てえな。」「へえ、おおきに。」京舞の家元とは、供に先代の下で舞の稽古に励んだ時から、なんでも打ち明けて話せる仲の良い友達であった。時には色恋のライバルになったこともあるが、ふたりの絆は固くその付き合いは今も続いている。「あんた、きょう忙しい?ちょうどお昼やし、久しぶりに湯豆腐でもたべに行こうな、着替えてくるよってちょっと待ってて。」そう言って家元は奥に消えた。― この稽古場はちっとも変わってへんなあ、うちは歳とってしもたけど・・・。―このごろ夏絵は日増しに身体の衰えを実感するようになっていた。
「それは、うちもそうや。この店に来るのかて、もうタクシー呼ばんと来ららへんようになってしもた。昔はお稽古が終わってお腹すいたとき、よう二人で歩いてここまで食べに来たのになあ。」「好子はん、あ、ごめん家元を呼び捨てにしてしもて・・。」「うう、うん、かまへん、うちも好きなこと言うて話できるのん、あんたしかおらへんのやさかい、好子って呼んで。」「うち、誰にも話さんとこうと思うてたんやけど、うちなあ、玄関先に立っているあの娘初めて見たとき・・。びっくりして気い失いそうになったわ。自分ではどうしょうもなく取り乱してしもて・・あの娘なあ、あの娘、死んだ靖枝にそっくりやったんや。」「ええ!なんやて!・・。」「それも生半可な似方やない、目鼻立ちから身体つきにいたるまで、まるで瓜二つやねん。うちその時、なんで、やっと忘れかけたのに、なんで今頃また、うちの前に出てきたんや思うて・・うち・・うち、胸が張り裂けそうになった・・。」そう言って夏絵はこらえ切れずに声を出して泣きじゃくった。好子は夏絵の肩をそっと抱きしめながら「気の済むまで泣いたらええ、うちが抱いといてあげるさかい、好きなだけ泣いたらええ・・・。」そう言う好子の目にも、いつの間にか涙が溢れだしていた。
舞い扇
「お師匠はん・・・。」「あら、雪ちゃん、あんたまだ帰らへんかったん。どないしたん?そんな心配そうな顔して。」あの・・お師匠はんに、ちょっと聞きたいことがおすんやけど。」「ここではなんやし、まあこっちに入んなはれ。」通された部屋の中庭には、ちょうど見ごろを迎えた紅葉が秋風に揺れていた。「ゆみちゃん。雪ちゃんにお茶お願い。」「そんな、お師匠はん気い使わんといておくれやす。」「まあええやないか、それでうちに訊きたいことて?」「うちのおかあはんとお師匠はんとは、子供の頃からのお知り合いやとか、うちのおかあはん芸のことやったらなんでも教えてくれはるけど、自分の昔の事となると急に口噤んでなんにも教えてくれしまへん。このあいだもある事情で・・娘はん一人預かることになったんどすけど、その子に玄関で会うたとたんに、おかあはん、えらい取り乱してしもて泣きだし・・うちが心配して、どないしたん言うて聞いても何にも言わんのどす。それに長年暮らしているうちも見たことのない着物を箪笥の奥から出して縫うてみたり、夕べも、うちがお座敷から帰ると慌てて炬燵のむこうに何かを隠しはったんで、二階に上がったふりして、そおうっと覗くと、炬燵布団下から取り出した金地に鳳凰の絵の立派な舞扇を開いて、じいっと見つめてはんのどす。うち、そんなおかあはんのことが心配で・・なあお師匠はんもし何かご存じどしたら、どんなことでもよろしおすさかい、教えておくれやすな。この通りどす。」そういって雪菜は手を合わせた。家元はしばらくの間考え込んでいたが、心を決めたのか、「雪ちゃん、おかあはんには、内緒に
しといとくんなはれや・・・。」
「これは先代の家元、つまりうちの母親に聞いた話なんやけど、夏絵はんの父親は西陣の染め職人で、仕事はまじめで腕も良かったせいか、そこそこの暮らししてたんやけど酒好きで、飲むと人が変わったように 毎晩のように暴れ、それに嫌気がさしたんか母親が若い職人仲間と駆け落ちしてしもた。それがきっかけで父親は、益々酒におぼれるようになり、仕事もせんよって飲み代の借金もかさむ一方で、残された幼い女の子にまで殴るけるの手をだす始末、見かねた西陣の旦那衆の一人がその子を引き取って自分の養女にしょうとしたんやけど、奥さんが嫌うて面倒見いへんので困り切っていたところ、祇園に子供を欲しがっている馴染みの芸妓がいたんで、その子を預けたんやて。その時、その子つまり夏絵はんは五つか六つくらいやったそうな。その芸妓はその子を可愛がったんやけど、この子のためやと厳しく芸を仕込んだ。そんなある日のこと、稽古場に付いてきたその子を、うちの家元が一目見るなり気に入り、この子は普通の子にはないものを持っている、あんたもこの不景気のおり、暮らし向きもなにかと思うようにいかんやろ、どうや、この子の将来のためにも思い切ってうちに預ける気はないか、と訊かれ、家元の頼みやし断り切れんかったのか、よろしゅうお願いしますと承知したらしい。うちが初めて稽古場で夏絵はんに会うた時は、寒い日でなあ、稽古場の板の間に立つと足袋はいてても冷たさで指の感覚がなくなるのに、あの子いうたら粗末な着物に不似合いな帯締めて、足元も裸足のままやった。けどその眼だけはしっかりと、うちの眼を見据えて怖いほどやったのを、今でもはっきり覚えてるわ。それから二人は、暑い夏も、寒い冬も、一年中先代の厳しい稽古が続いて、大勢のお弟子さんがみんな帰りはった後から始めるのやけど、気い付いたら夜が明けてたことも何度かあった。うちが十九で夏絵はんが二十歳になった年の暮れに、例年どうりお弟子さんらがようけ来はって、みんな一足早い新年の挨拶して新しい舞扇もろて帰るんやけど、うちら二人には、その年に限ってくれへんかった。歳が明けて元旦の朝、稽古場に座って待っていると、奥から朱塗りの蒔絵が施された木箱を持った先代が出て来て、うちらの前に座ると木箱を開けて二本の舞扇を取り出し、「二人とも今年もおきばりやす。」言う一本づつ手渡すとさっさと奥に入ってしもた。いままで見たこともない拵えの扇に二人とも心をときめかせて、そうっと開いてみると、夏絵はんには金地の、うちには銀地の輝くばかりの豪華な紙に、五色の鳳凰が大きく羽を広げた図柄が現れ、そのあまりの美しさに、うちらしばらくぼおっと見とれていたけど、お互いに目を合わすと、嬉しさがこみ上げて来て、2人で何度も何度も板の間を蹴って大喜びしたんや・・・。雪ちゃんがゆうべ見たのは、その
舞扇や。うちも今でも大事にしてて、特別なとき以外は使わんようにしてる。」
別 離
うちら、年頃になって好きな男はんが出来たときも、包み隠さず打ち明け会うた。最初は面白半分で、心底惚れるような人はなかなか居らんかったけど、二人ともそこそこ浮名を流したもんや。うちは気が弱うて、好きな男はんがおっても相手が気付いてくれるまで何にも出来へんかったんやけど、夏絵はんは、うちと違うて、これはという男はんにはとことん打ち込むタイプやった。ちょうどそんなときに花見小路の夏絵と上七軒の国千代というが芸妓が、ある男はんを巡って争ってるらしい、という噂がたった。ことの発端は、芸の上でもライバル同士であったふたりを、面白がって肩を持つ旦那衆どうしが流した根も葉もない噂にすぎへんかったのが、二人の負けず嫌いの性分が災いしてか、引くに引けない意地の張り合いになり、夏絵はんがその男はんと一緒になることで、おさまったかに見えたんやけど、ことはそれでおさまらへんかった。後でわかったんやけどその男はんにはなんと、国元に奥さんがいはったんや。時すでに遅しでそのときもう夏絵さんのお腹にはややこができてた。夏絵はんはその男はんと別れた後、周りの反対を押し切って子供を産み、その女の子に靖枝と名づけたんや。小さい時から利発な子で芸筋もようて周りから、この子は将来あんた以上の舞の名人になる、言われたんやいうて夏絵はん嬉しそうによう自慢してたわ。今から考えると、あの頃の夏絵はんが一番幸せそうな顔してた気がする。ところが靖枝ちゃんが確か十八になった時に、突然、裁判所から呼び出し状が来て、別れた男はんが靖枝ちゃんの養育権とやらがこっちにある、いうて訴えを起こしていることが分かった。相手は国元では有名な資産家でどうせ裁判で争っても勝ち目はないし、芸妓の娘より資産家の娘の方がきっと良縁に恵まれるに違いないと自分い言い聞かせた夏絵はんは、心を鬼にして嫌がる靖枝ちゃんを、相手の家の前で無理やりタクシーから降ろし、置いてけぼりにして、逃げて帰って来たんや。スピード上げるタクシーの後ろから、おかあはん、いやや、何でうちを置いていくん、何でうちを置いていくん、連れってってえな、連れってってえな、言うて、靖枝が泣きながら追っかけてきたんやいうて、夏絵はん一晩中うちの傍で泣いてはった。きっと辛かったんやろなあ。けど、夏絵はん、このとき、靖枝ちゃん身にもっと辛うて悲しいことが起きてることなど、知る由もなかったんや。終わりのない辛い悲しいことが・・・・。
絶望の果てに
あくる日の朝早うに、うちの玄関の戸をどんどん叩く音に、眼さめて、戸口に出て見ると、夏絵はんが、髪の毛振り乱し、幽霊みたいな恰好してぼんやり立ってたんでびっくりして、「あんた・・そんな恰好で、いったいどないしたんや!」と聞くと、うつろな眼えして、いきなりうちの肩掴んで揺すぶりながら、「なあ、好子はんうち、どないしたらええの、うち・・どないしたらええの、なあ、なあ、教えてえなあ、うち、うちどないしたら、、ええのんや・・。」そう言いながら足元に泣き崩れたんで、「夏絵はん、あんたらしゅうもない。しっかりしなはれ!うちにちゃんとわかるように、言うてみて。」「あの子が・・靖枝が、川に身を投げて・・ ・・死んでしもた・・・。」「ええ!!、なんやてえ!」
「ほら、剥いてあげよ、貸してみ?」みかんを食べながら夏絵は、玉枝が茶箪笥の上に置いてある千代紙に気付いたのを見て、「あんた、鶴よう折るん?」玉枝は笑みを浮かべて頷いた。「持っといで、二人で折ろか。」五色の千代紙を広げながら、折り始めたが、「そうやない、違う違う、教えてあげるわちょっと待って・・。」そう言って夏絵は立ち上がり、玉枝の背後から肩越しに両手を回して、折っている玉枝の指に触れた瞬間、急に玉枝の身体がこわばり、がたがたと震え始めた。「あんた・・どないしたん?大丈夫か?」思わず力を入れて抱きしめても、震えは益々強くなるばかりだ。「ちょっと・・玉ちゃん?玉ちゃん!あんたどないしたん!どないしたんや!」玉枝は振り向くと顔をしかめながら、一生懸命口を動かして何かを言おうとしている。そして、「い・・い・・」「なんや・・なにか言いたいことがあるんか?」「いい・・・いい・・や・・いや・・いや・・いやや。」「え?」「いやや~!いやや~!おかあはん!なんで・・なんでうちだけ置いて・・なんでうちだけ置いて、行ってしもたん?なあ・・おかあはんはなんでうちだけ置いて行ってしもたんよ~!あああああん・・・ああああああん・・・。」「かんにんな・・・かんにんしてや・・・かんにんして・・・おかあはんが悪かった、おかあはんが悪かった、かんにんして・・かんにんして・・・かんにんして・・。」夏絵は泣きじゃくる玉枝をしっかりと抱きしめて、涙ながらにいつまでもいつまでも、そう言い続けていた。雪菜はそうっと玄関の格子戸を閉めると、そっと呟いた。「やっぱり、あの娘、靖枝ちゃんの生まれ変わりかも知れへんなあ・・。」
稽古始め
「この子か、玉枝ちゃん、いうのは。」「ほら、きょうから、あんたのお師匠はんやで、ちゃあんと挨拶せんかいな。」夏絵に促されて居住まいをただした玉枝は、扇を前に置くと、両手を添えて、「初めまして、玉枝ともうします。どうぞよろしゅうお願いいたします。」と頭を下げた。「こちらこそ、あんたのおかあはんと、うちとは、子供の頃から一緒に稽古した仲で、今でもええお友達でなあ。夏絵はんは祇園一と言われた舞の名人なんや。いまからその証拠見せてあげますよってに、よう見ときなはれや 。」「夏絵はん。」「え!」「はよう、こっちへおいなはれ。」そう言うと、戸惑う夏絵の手を取り、舞台へ連れて行った。「ゆみちゃん。お願い。」流れる曲に合わせて、二人は静かに舞い始めた。好子は、十数年の間表舞台から遠ざかっていたにも関わらずひとたび扇を手にすれば忽ちのうちに、昔と変わらぬ見事な舞を見せる夏絵を眼のまえにして、先代の言い残した言葉の意味が、今ようやく分かったような気がしていた。― ええか。
あの夏絵の舞には、誰あれも真似のできん天性の輝きが備わっている。そやから、あの子には金の扇を与えたんや。銀には、銀の美しさがあるが、常に磨かんと消えてしまう。あんたも常に芸を磨いて、その輝きを失わんようにしなはれ。―
嵯峨の秋
「よう、お参り。」振り返るとそこには、竹箒を片手に、一人の年老いた尼僧が微笑んでいた。「お久しぶりどす。」「このごろとんと、お見えになれへんかったんで、身体でもこわしはったんやないかと思うて、気になっておりましたんやけど。」貴恵の墓は、地元の人でさえもあまり通ることのない嵯峨野の山道の奥に、ひっそりと佇む小さな尼寺にあった。夏絵は、養い親の貴恵が呼ばれた座敷で舞を舞っている最中に倒れ、三十六歳という若さで他界して以来月に一度は欠かさず線香をたむけに来ていたが、靖枝のことがあって後は滞っていた。「そんなことが、おしたんか・・・。」白壁のこじんまりした本堂の縁側に腰を掛け、掃き清められた庭の真ん中に、こんもりと集められた枯葉を焼く炎に眼をやりながら、尼僧はそうつぶやいた。寺のあちこちに植えられた紅葉は鮮やかに色付き、常緑樹の緑に映えて
錦絵のように境内を包んでいる、時々鳴くひよどりの声が辺りに寂しく響き、立ち昇る煙は山肌を這い、やがて青く澄んだ晩秋の空へと消えていった。「貴恵はんが生きてはったら、こんな時、あんたはんの心の支えになったんやろうけど、世を捨てたうちにはただの話し相手にしかなれん。」この尼僧も、かつては名のある芸妓で、貴恵と同じ若狭の出であった。妻子ある馴染みの旦那衆の一人と恋仲になり駆け落ちしたが、しばらくして相手の男が結核に罹りこの世を去ってしまった。その菩提を弔うべく髪をおろしたのである。
観音像
帰り際に、尼僧は、「うちもそうやったけど、長い時が経てば、心の痛みが少しづつ薄らいでくるもんや。どうしても辛うて仕方ない時は、これを見なはれ。うちにはもう、必要なくなったさかい。」そう言って、広げた紫の布の中には、黒塗りで高さが一尺余りの仏壇があり、向かい合う二匹の龍が象嵌された開き戸を開けると、眩いばかりに輝く黄金の観音像が現れた。「このお像は、先のこの寺のご住職から貰い受けたもので、なんでも京都の名のある仏師の方がお作りになったとか。入れ物は、私が、知り合いの若狭の職人さんに頼んでつくって貰うたものです。」「こんな立派なもん、うちには勿体のうて・・。」「まあまあ、そういわんと・・。貴恵はんには生前、自分の妹の様に可愛がってもろうて、えらいお世話になった。せめてもの御恩がえしや、と思ううちの気持ちも汲んでもろうて、どうぞ収めておくれやす。うちにはこんなことぐらいしか、出来へんさかいなあ。」「おおきに、そう言はんのやったら、遠慮なしに預からしてもらいます。」そう言って、夏絵は寺を後にした。
「夏絵ねえはん、あんた、えらいもん手に入れはりましたなあ。」三条大橋近くで仏具を扱う老舗の主人は、しばらくの間食い入るようにその像を見つめていたが、老眼鏡を外すと大きく一深呼吸しながら、そう言った。「へえ、そんなに値打ちのあるもんどしたんか。」「値打ちがあるもなにも、これは観音さんの中でも十一の顔持つ観音さんやが、奈良の長谷寺にある身の丈、十メートルもあるお像と同じように一枚岩に立ち、右手に地蔵さんの持つ錫杖をお持ちになっておられる珍しいお姿や。しかもあんた、これは塗りもんやない。中までほんまもんの金で拵えたある。よう調べて見んと確かなことは言えんけど、平安末期から鎌倉時代の初めころの作やないかと思う。今もし、これと、同なじもん、うちで作れ言われても、材料費だけでも安く見積もって三百万以上掛かる。それに製作費が百万以上、それよりも第一に今の世の中にこれを拵えるほどの腕を持つ職人が居るかどうか。」「えらいもん、貰うてしもたなあ・・。」三百万以上もするような高価な品やと聞かされたせいか、夏絵の膝は先ほどからがくがくして、思うように歩けなくなっていた。秋の日は短く、すでに京の町は夕闇の中にあった。
運動靴の女の子
花見小路にも灯りがともり、衣装を整え、お座敷へと急ぐ舞妓や芸妓の姿があちらこちらに見られる。夏絵がある茶屋の裏手を通り過ぎようとしたとき怒号と供に通用口から一人の板前が、「かんにんして!かんにんして!」と泣き叫ぶ小さな女の子の首筋を掴んで、飛び出してきた。「政吉さんやないかいな。」「あっ、これは、姉さん・・。」「大きな声だして、どないしはったん?」「このがきが!いや、この子が、見習いが閉め忘れた裏から入ってきて、わしの料理に手えつけたんやがな。」よく見ると、灯りに照らされたその子の口の周りには、確かに食べかすがこびりついている。夏絵を見る目には恐れとともに、助けを求める気持ちがありありと感じられた。「親方、この子には、二度とこんなことせんように、よう言うて聞かすよって、うちに面じて、かにしてあげておくれやすな。このとおりどす。」と、頭を下げ、「ほら、何しての、あんたもよう、親方にあやまらんと。」「すんまへん、かにしておくれやす。」と頭を下げた。「姉さんが、そこまで言ういはんのやったら・・・・。」そう言って、板前は引き下がった。
小料理屋のカウンターに座り、夏絵は、必死になって鯛茶漬けを小さな口にかき込む五、六歳に見えるその女の子を、のどに詰めないように気を配りながら見つめていた。「可哀想に、よっぽどお腹がすいてたんやなあ・・・。」その子は、ようやく食べるのをやめ、傍に置かれた大きな湯呑みを、小さな手で重そうに持ちながら、ごくん、ごくんとお茶を飲んだ。その子の服装は、白いTシャツに赤い半ズボンで、足には白い運動靴を履いている。痩せたあちこちの身体には乾いた土らしきものが付いており、この子の活発な性格が見て取れる。「おばちゃん、ありがとう・・。」そう言って、頭を下げた。「あんた、お名前は?」「も・り・う・ち・ゆ・き・な「」「お歳はいくつ?」「五歳。もうすぐお誕生日ですねって、保育園の杉野先生言うてくれた。」「おとうはんと、おかあはんは?」「うちおかあはんと、暮らしてた。おとうはん死んでおらへん。」「お家はどこ?」「もう、お家ないねん。」「なんで?」「あのな、おばちゃん、おかあはんが働いてた工場つぶれて、そんで、アパートから出ないかんようになって、・・、あっ、そうや、これ!」そう言って、雪菜は、ポケットに手を入れると、取り出した紙切れを、夏絵に見せた。「なあ、おばちゃん?このお手紙になんて書いてんの?おかあはん、いつ迎えにきてくれるん?」雪菜の話によると、三条のバス停で降りた母親は、そこに待っていた知らない男の車に乗ると、必ず迎えに来るから待ってて、と言い残し行ってしまった。その際に母親がこの手紙をポケット突っ込んだらしい。「おかあはん、迷子になったときは、このお手紙見せんのやで、いうてた。」夏絵はその手紙を呼んで聞かせることが、どうしてもできなかった。
― どなたさんかは、存じませんが、この手紙を読んでくれはったお方にお願いもうします。事情があって、住むとこも失い、
食べることさえ、できんようになってしまいました。この子にだけは、道端で物乞いするような、惨めな思いはさせとうはないのです。後生ですよってに、この子のことどうぞよろしゅうにお願いします。―
癒しの知恵
「それから、何年待っても、うちの母親は迎えに来えへんかった・・・。それ以来ここのおかあはんが、うちの母親がわりん・・・。」「雪菜ねえはんにもいろいろなことが、おしたんやなあ・・・。」「ここのおかあはんな、ある時、うちが泣いてたら、― ええか、雪ちゃん。あんたはもともとは、うちが産むはずやった子なんやけど、何かの間違いで、あんたのおかあはんが産んでしもた。そやから、あんたのおかあはんを怨んだらあかん。うちのかわりにあんたを産んで、今まで育ててくれた大事なお方やさかい、うちもあんたも、おおきに言うて、感謝せなあかんのやで。 ― そう言うて、よう慰めてくれたわ。」雪菜の話を聞きながら、玉枝はあの時、カッターナイフを川に投げ捨てた後、怒りと悲しみが入り混じったような表状で、自分の両肩を掴み揺すぶりながら、空慧の怒鳴った言葉を思い出していた。
― 「 人だけに限らず生きとし生けるものすべてに、なんらかの苦しみや悲しみがある。生きることそのものが苦しみを伴うからだ。なかにはそれに耐え切れず、それから逃れようと、自ら命を絶とうとするものもいる。しかしそれは、人間に限られたことで、あの都鳥たちも、この川の魚たちも、こんな小さな蟻たちでさえも、どんなに苦しくても、毎日、毎日をただひたすら、一生懸命に生きているではないか!だから 死んではならない!たとえどんなことがあろうと、自ら命を絶とうなどと、決して思ってはならない!」 ―
きょうも、河原から眺める三条大橋には、たくさんのの人や車の往来が続いていた。「なあ、空慧はん、うちのお父はんや、お母はんは弟と一緒に天国で幸せに暮らしてんのやろか?」 空慧は食べ残しのあんパンを足元の鳩たちに与えながら、「人は生身の肉体を持って生まれてくる、そして心も備わっている。しかし、いつかこの身体は朽ち果てて無くなる。ではその時、この心は、どうなるのだろう?昔の知恵ある人は、こう考えた。人は、この私たちを取り巻く大自然と同じように、常に変化している。身体も、そして心さえも、。私と玉枝さんが出会ったのは全くの偶然かもしれないけれども、そのことによって二人の心には以前とは違う変化がおきている。つまりある経験が次の心の変化を生み、その変化がまた次の心の変化を生む。そしてこの心の変容は留まることがない。しかもこの心の変容は、昨日、おととい、一週間前、一か月前、一年前、十年前・・・・と過去に戻って辿ることもできる。このように心が連続するものであるならば、突然始まることはできない。なぜならば前の心がなければ今の心が生まれないからだ。そこでその賢者はこう結論づけた。ひとの身体は朽ちても心は死なない。なぜならば、心は連続する始まりも終わりもないものだからだ。ならば、人が死を迎えその肉体が朽ちたときその心は何
処へ行くのか?それは新しく生まれた生命を求め、それに宿るに違いない。そして人に限らず、生きとし生けるものすべてが、この輪廻転生を繰り返しているに違いないと確信するに至った。この輪廻転生が事実であるならば、亡くなって四十九日後には、あなたの亡くなった家族ひとり、ひとりは新しい両親の下で赤ちゃんとして、この世に生まれ変わり、新たな人生を歩み始めていることになる。前世のことはすべて忘れてね。そう考えたら、少しは、気が楽になりはしないかな。」「空慧はんは、その輪廻転生を信じる?」「私にも解らない、だって一度死んで確かめるわけには、いかないもの。」「はははははは・・。確かにそうね。」「それが、真実かどうかってことより、そう考えることによって、愛するものを失った悲しみが少しでも癒えるってことのほうが大事じゃあないかな。」「うん、私もそう思う」そう言いながら玉枝は、コンビニの袋からもう一つあんパンを取り出し、「はい。」と手渡すと、ペットボトルのお茶を、ごくごく飲んで、ふうっと息を吐いた。
― < この物語はあなたの、明日へと、そしてすべての人々の人生へと続く>
*この物語は完全なるフィクションであり、実際に存在する人名や地名など、その他一切の事物と、全く関係がありません。
(筆者敬白)
東山の空に