a la prochaine fois~また会いましょう~

A la prochaine fois また会いましょう

ローザリア 22歳
トレンスキ 37歳
ウルスカ 50歳
フランネリア 43歳
アンドレ 57歳
シェネンケ 21歳


 ウルスカはスメタナのモルダウを聴いていた。
 豊かで壮麗な曲は、「わが祖国」から紡ぎ出される曲である。
 流れる水と緑の情景を抱かせるその旋律が彼の心を美しくした。
 レコードは滑らかな音を奏でてはその先にいるオーケストラ奏者達の姿を思わせ、何よりもまだ行った事も無いスメタナの生きて来た国を素晴らしいものにさせる。
 窓の横で白馬達の足並みを見ていたウルスカは彼等が白石の通路と緑の庭を進める手並みを見ていた。
 あちらから、一人の女がやってきた。ビロードの乗馬ジャケットを着た女で焦げ茶の髪が風をやわらかく含ませ、笑顔であるいている。ブーツの凛とたつ姿が馬の態で、優雅でもあるが性格にはハキハキとしたものが覗えるのではないか。瞳が光っていた。
 彼は椅子から立ち上がり、彼女を目で追った。窓を開ける。彼女の声を聴きたかったからだ。
「ええ。でも明日には連れて行くわ。だって、この子達がずっと臍曲げてたら取り扱い説明まで施さないといけないでしょう?」
 声はうら若く、鞭を持つ手はそれをピンッとさせて張りを持たせた。
「あなた」
 ウルスカは室内奥からきた妻を振り返り、彼の肩に手を置いた彼女は小鳥を真似てモルダウの曲に囀って見せた。
「まあ! フランネリア!」
 あの馬の調教師だろうか? 壮年の男からこちらを見るとグローブの手を掲げた。
「彼女はトレンスキさんの奥方で、マドモワゼルローザリアよ」
「二ヶ月前に航海に出たあの変わり者の」
「今頃エジプトかしらね。着いて行かずに馬達をまかされたのよ」
 妻フランネリアは上目で微笑み、庭へと目を向けた。
「ローザリア・トレンスキよ。まだフレンチは上手ではなくて」
 ウルスカもフランスへ婿に来るまではトレンスキと同じウクライナにいたので微笑んだ。
「僕も君の旦那さんと同じ言語でも大丈夫。君の祖国はどこで?」
「プラハよ」
「チェコ……」
「その曲はヴルタヴァね」
「ああ」
 颯爽とここまで来ると明るく微笑んだ。
「旦那のウルスカよ」
「フランネリアにはとてもお世話になっているわ。これから一週間、ここで馬達を見るの。あなた方も本日到着したの?」
「ええ」
 ウルスカは歩いていき、掃き出し窓を開放しに行った。ボルドー絨毯に窓枠の陰と光をおとし、そして白く眩しい半円のテラスに目を細めた。温かな風が体を撫でるとともに、窓辺から四角い光が差しウルスカの影が長く昼下がりの陽により伸びた。
「………」
 その影に、ローザリアの影が先端から掠めた。
視線をあげ、やって来る彼女を見る。
「あたしね、昼下がりの食事にデザートを用意させたのよ。クランベリーとピスタチオのね」
 振り返ると妻はカウチに足を伸ばし腰かけ、紅茶をかたむけた。
「まだ荷解きは済んでいないんじゃなくて?」
「ええ。さっそくあの子達に触れ合いたくてね。今は大人しくしているけれど、目を離した隙にはしゃぐんじゃないかしら」
 妻は笑いながら頷き、その通りと言った。
「午後はあの子達を草原で思い切り駈けさせましょう」
「ええ。のんびりとしたもので、二週間に伸ばしてもいいとおっしゃるのよ」
 五頭の馬達のオーナーはこの南仏の小さな古城の持ち主であり、ウルスカ、トレンスキ共有の友人でもあった。
 だから尚更驚いたのだ。一年会わない内にトレンスキがローザリアと言う女性を招き、ここの持ち主であるフランス人、アンドレ自体がこの場所をシャトーにする話を持ち駆けて来てトレンスキにもウルスカにも心ばかりの施しを頼んできたと思えば、トレンスキはエジプトに逃げたのだから。今頃ローザリアに似合う香水でも調合してもらってはエジプトワインを浴び飲んでいるのではないだろうか。香水とワインでも間違えてビンに詰めてもらいローザリアが怒り出さなければいのだが。それがウルスカには目に見えた。
 友人は一つどころに停まりたがらないから、これほど颯爽とした女性が合うのだろう。彼女自身も二週間も同じ場所にいられずセスナで飛び回りかける顔をしている。
「シャトーになった後に客を迎える馬車に?」
「森を散策する時にお客様達を騎乗させるらしいのよ。ほら、美しいでしょう? ここは見渡す限り!」
「ああ」
 彼も微笑むと見渡す。向うまで緑の丘が広がり、所々葡萄畑も広がる。森は遥か向うに帯を引く様に横たわり、そしてこの古城の背景には泉のある明るい林が広がっていた。
 雄大な夕陽の時間は素晴らしいものだ。一面が薔薇色に染まり、葡萄の時期を思わせる。
 ローザリアはグローブを外しながら奥へ歩いていき言った。
「あたし今からようやく荷解きに行って来るわ」
「ええ」
 妻は微笑んで頷き、彼女は奥の扉へ消えて行った。
「あなた」
 ウルスカは顔を向けた。馬達の蹄が響く。
「あの子とは浮気は駄目よ」
「まさか。考えては」
「どうかしらね」
 意地悪に妻は口端を上げ、窓の向うをのんびり見つめた。

 ラズベリーとピスタチオの二層になったムース。そのラズベリーの実が飾られていた。
 紅茶の味を楽しみながら頂いている。
 何度かウルスカの視線はローザリアに飛んで来た。フランネリアがカップを傾けていたり、ムースをフォークですくっている時などだ。
 ローザリアは気付かない振りをしていても一度だけ見つめてしまった。彼が向うのスプーンに手を運んだ時に。
「………」
 ローザリアはクロスに視線を落とした。トレンスキに出会った時の事を思い抱いて心の中で首をふる。
 夫は十二年前路地裏で彼女を発見してくれた人だった。のんべえで女好きで放浪好きのトレンスキは変わり者で、そして腕っ節さえ立った。十歳で靴屋の配達の仕事をしていたロザリアはよく店主にどやされ怒られていた。それでその日も叩かれて路地で小さくなって泣いていた。だがすぐ戻らなければまた怒られてその日はただ働きにされてしまう。だからすぐに戻らなければならなかった。店も大変だったのだ。
 若いお兄さんが昼からやっている酒屋から酔っ払って出て来て、影の中のロザリアを見つけた。そのお兄さんは笑いながら手を引っ張って来て大きな声で店主を呼ぼうとしたので驚いて彼女は手を振り払い逃げて行った。だが男は驚き追いかけてきて何で泣いているのか聴いて来た。配達場所を間違えたり、他の靴を贈ってしまったり、番地が分からなくて迷子になってそのまま帰って来たりと、それがよくあったからだ。
「私はトレンスキ。二十五歳だ。買い付け行をしていて世界中からいろいろな物を買い集めているんだ。僕の知り合いで馬の世話役を探している人がいてね。それを手伝ったらどうかな」
 彼は仕事を勧めてくれるのだ。十歳のロザリアは他の九歳のお手伝いの少年に比べて地理も苦手で地図も読めなかった。その子はどんどん届けてくるし新聞配達もする子なのに自分は情けなくてよく泣いていた。
「動物は好きかな。そっちも大変な仕事かもしれないが、横で野菜畑や穀物畑もやっていてご飯には困らないし、色々学べるよ」
 トレンスキは靴屋店主に掛け合って靴屋の主人は厄介な迷子者を連れて行ってくれるというので二つ返事で承諾したのだった。その時、彼女に少し恋心を持っていた九歳の少年は配達に出かけていて最後のお別れは出来なかった。
 それでローザリア十七の時にその馬主に言われて離れた街の馬の調教場へ出て修行させてもらい始め、去年晴れて馬の調教師になった。そしてトレンスキが迎えにきた。結婚したのは今年だった。
 それなのにまさか自分が他の人に恋など許されるわけも無い。
「ローザリア」
「ええ」
 ハッと驚いてローザリアはフランネリアを見た。
 彼女は馬の世話していた時代に馬を買いにきていた所の娘さんだった。顔なじみで、よく藁に塗れて齷齪働くローザンナを呼び寄せて甘いお菓子をくれたお姉さんだった。
 先ほど二人で庭園へ向かいながらテーブルセットに座る彼をしばらく見ていた。彼は本当に素敵で、フランネリアも他の友人達から褒められる事だった。どこか知的な面があって、自国の誇りを持った人でもあった。
 ウルスカの性格は静かな人だが音楽好きはフランネリアともローザリアともよく合った。特に祖国や何処かの国、風土を描いた曲が気に入りなのは旅好きのトレンスキとも大いに通じる仲間だった。
「今から乗馬をしましょう」
「ええ。準備ね。ああ、乗馬後の夕食が楽しみだわ!」
「食いしん坊ねえ。この子大飯食らいなのよウルスカ」
「馬並に食べるわ!」
「ハハ」
 ウルスカも彼女の性格なら見かけによらず食べ始めたら凄いだろうとは思っていた。現に花丸型のホールムースを彼女は5分の3も口に運んだのだ。
「この紅茶葉は旦那が南国に旅に出た時に買って来たものよ。とてもフルーティーで香り高いでしょう? だから余計にムースが溶けるのが止められないのよね」
 それでバクバク食べられたのではそれはウルスカも見つめてしまうわけだが。フランネリアに言わせればどちらも口実だと見抜いていた。何があってもローザリアはケーキをワンホール食べる女の子だし、ケーキとの色合いの抜群さが無くてもウルスカはローザリアを見ただろう。
 厩に来た。
 羊毛のマットを馬の背に乗せジェルマットを置き、持ち上げた鞍を乗せると腹帯を巻いた。ベルトで程よく締める。顔に馬具の頭絡を取り付ける。革紐を口を通してハミをかませ、耳に掛けてベルトをそれぞれ締めていく。喉下に拳が一つ入るぐらいゆるく締めてから首をばんばん叩いてあげた。
 手綱を引いて厩から出る。ローザリアは前を馬を引くフランネリアの背を見つめた。絶対に彼女を悲しませる事などしたく無い。向うに草原が広がるメタセコイア並木の広い路を行き、顔を背後からやって来た馬に向けた。ウルスカが横に並んで、彼女に一度静かに微笑んでから馬を引いていった。
「………」
 柵の向うにきて、鞍にベルトでくくり付けてあった、脚を掛ける鐙を下ろしてから、手綱を持って足をかけて馬に乗る。鐙の高さをベルトで調節してから頷いた。馬の上に乗ると風が気持ちいい。
 彼等はそれぞれ馬の準備が整うと手綱を構え、ぴんと伸びた背筋で馬の横腹をトントンかかとで押して馬を進めさせた。
 始めはとことこと常歩で楽しく会話をしながら進めさせていた。
「シチリアーノね」
 フランネリアがそれを口ずさんでいて彼女は綺麗に微笑んだ。白い頬に陽が差し込み美しい顔立ちはいつでもローザリアを虜にする。二人で柵に座り甘いお菓子を食べたり、花を数えたりするのは楽しい思い出だった。
「優雅であたしもフォーレが大好きだわ。イタリアはフランスに来る途中に一度北部を通ったの。南イタリアにもいつか行ってみたい」
 ウルスカはフランスには全ての戦地は避けポーランドからバルト海に出てデンマークで寄航してからフランスで船を降りた。着いたら着いたであのトレンスキがすぐにベルギーとオランダに行こうと言い出して充分連れまわされ楽しんだ。
「トレンスキはシチリアに知り合いの方がいるわ。一ヶ月ぐらい泊めて貰いなさい。夏にね。海は素晴らしいわよ」
 草原も進むとローザリアがはしゃいで声を高らかに馬を走らせて行った。

 ローザリアはフランネルの肩にこめかみを当て、二人微笑み野の歌を歌っていた。これはフランス人の彼女が教えてくれた歌で、彼女からフランス語を牧場で教えて貰って来た。彼女は唄に乗せて分かり易く教えてくれたのだ。
 ウルスカはドアを開けると、一瞬驚いたが姉妹に見えて歩いて来た。
「連絡が来て、ここの主人が来るらしい」
「夫が逃げてる事、なんて説明しなおせばいいかしら」
「ハハ。だから君が来たのかもな」
「目の保養になるわよ。いつも厳しい顔で色々な人間を指導しているんだからあなたの笑顔を救いにすればいいわ」
「シャトーには何年後になるかはきいてないの。すぐかしら」
「また聞けばいいさ」
 ウルスカがソファーに座るとローザリアが言った。
「明日はあたし、朝から馬達を連れて出ることになっているの。これから馬を管理してくれる人に顔合わせさせるのよ」
 確か午前中も庭で連れて行くという話を古城の者達に言っていた。
 フランネリアは立ち上がりレコードを選びに行く。ウルスカは真っ直ぐとローザリアを見つめた。彼女は口を閉ざし、また脈打ったのですぐにフランネリアの狭い背を見た。彼女は一通り揃っているシチリアーノを見ている。フォーレを選ぶかは分からない。横目で見ると、彼は視線を落としていた。
「夫婦で語らってゆっくりどうぞ。あたしはそろそろ眠るわ」
 流れ始めた曲を背に、急いで彼女は室内を後にした。
 屋上に来ると夕陽を見渡す。当然眠る気にもなれずに夕食の内容も収まらない内に体を冷やすつもりではなかった。巨大な情熱の夕陽は情熱のスペインを今は太陽と言う名前で照らしているのだろう。明るく。だから身を任せて踊り始めた。濃い影が落ちて舞う。雄大な葡萄畑はどこかの陰に潜んでいるみたいだ。何が? よくはわからない、様々な感情だろう。
 開けられた窓から微かに響く。フランネリアがあの曲を口ずさんでいるのだ。ローザリアは彼女があの曲に歌詞をつけて歌うので、幸せで茜色に染まりながらくるくる回った。そして広がるウルスカの静かな声の記憶と微笑みに、途端に足先を止めて胸部に腕を引き寄せた。
「!」
 背後を振り返り、抱き寄せられてウルスカを見上げた。
 だが、向うにはカラスが羽ばたく空。遠くの方には地平線と山陰、そして林に渦巻きながら戻っていっては飛んで行くカラスたちの群はカアカアと言いながら夕空を舞い始めている。葡萄畑は絨毯に似ていた。深い色合いのところや、影のところ、見事なグラデーションは時に葉を光らせている。
「フランネリアが泣くわ」
「………」
 ウルスカがスカーフをジャケットの首元からシュッと外し、彼女の手に持たせた。
「この香水の香りを忘れないで」
 ウルスカはそれだけを言い、彼女を見てから歩いていった。先ほどまで寄り添っていた影は離れて行き、その背を追い抱きつきたい感情がうずまいて、必死に耐えた。
 彼は見えなくなり、ローザリアは躊躇いがちに男物の香水の香りのするスカーフに鼻を近づけ、そして目を閉じた。ギクギクと脈打つ。駄目だと言うのに。
 ウルスカは夕陽のなかの彼女を肩越しに見て、戻って行った。
 フランネリアは紅茶を飲み温まっている。室内の照明が消え、夕陽を見ることを好む妻はゆったりと見つめていた。肩から腕を回し美しい顔立ちを覗き見た。瞳に夕色を映す。頬にキスを寄せ、首に唇を寄せて薄い衣の肩を引き寄せてから深いキスを交わした。フランネリアは瞳を閉ざしていった。
 ローザリアが戻って来ると、口をつぐんですぐに走って行った。部屋に戻るかと思ったが、厩へ向かった。馬達の世話を始める。無心だった。頬を涙が伝い、肩で拭って記憶を消し去る。馬達がいなないてローザリアを見た。
「なんでも無いのよ」
彼女は微笑んで一頭一頭見て行く。調子はみな大丈夫。問題無く、皆若かった。癖の無い馬達達が比較的集められていて、だが皆が穏やかと言うわけじゃなく三頭がすでに皆がいないのでうろうろして落ち着かない。これは躾をしなければはしゃいでしまうだろう。目がらんらんとしていて、まだこの時間を遊びたがっていた。庭では大人しく優雅な感じでいたのだが。草原に出したのもこの三頭で、よく走って駆け抜けた。
 彼女はこれからまた七頭増えると聞いていた。厩は十五頭分。三つは非常用に開けておくと聞いていた。馬車用の厩はまた違う場所だが今は彼等が乗って来た馬車の馬がそちらにいた。なので彼女はそちらにも様子を見に行った。きっとその厩の管理者がいることだろう。何かは無しでもして気を紛らわせる事にした。


 3.シェネンケ

 ウルスカは夜、ローザリアが一人の青年をつれて来たので誰だろうと思った。どこかボヘミアンな風が全体からある。
「彼は同郷の子よ! 驚いたわ。馬を連れて行った管理者様の所で使用人をしていたの。チェコでは靴屋さんだったのよね」
「ええ。僕はシェネンケです。ロザリアが迷惑を掛けてます」
「いやね! もうシェネンケったら!」
 シェネンケも笑って少女の時は泣いてばかりいた方向音痴の彼女だったので今は安心していた。
「こんなに彼女も立派になって!」
「シェネンケはもう!」
 二人は仲がよく、ローザリアが彼を部屋へ案内しに連れて行った。
「若い生き血でも吸うとするか。楽しく過ごしているらしいな」
「ムッシュ!」
 ここの主人が颯爽とやって来て彼等は挨拶して若い二人も振り返った。
「おや。君の旦那は今頃どの国をほっつき歩いてる」
「きっとミイラと寝てみて写真をとってもらってるかも。笑顔でね」
「それじゃあ砕いて膝の薬に持って来てくれるかな」
「捕まるわムッシュ! それが狙いね!」
「ハハハ。今回の事は何も無理は言わないさ」
 主人は青年を見た。
「彼は同郷の友人、シェネンケよ。見知っているかもしれないけれど」
「直接的な面会はまだ」
「ああ、君か。馬達がこれから君のオーナーに世話になるね。いつも寡黙な子だから声は初めて聞いた」
「使用人は無駄口は話せないんです」
「これはまたお喋り好きだな」
「要領はいいのよ。仕事は真面目だし覚えがいいの彼。シャトー従業員の指導をしているムッシュもきっと目をかけていたかもしれないわ」
「ああ。確かにね。さあ。四人ともお食事と行こう」
 彼等は奥へ歩いていった。
「うちの子達はどうだい? 見込みはあるかな? ローザリア」
 彼が腰に手を回し促し歩きながら聞いた。
「ええ。元気な子達ね。一日に一度は思いきり走らせたらいいわ。機嫌もよく大人しくなる」
「ハハ。親もなかなかの奴等でね」
「でしょうね」
 お茶目に彼女は笑った。
 ウルスカは一度自分に語りかけながら横を歩くシェネンケを見た。意気揚々と話していて旧友に会えたうれしさにうもれていた。もしかして恋でも互いにしていたのだろうか。ウルスカは腕を組み歩くフランネルに腕をつねられて驚き彼女を見た。すぐに顔を前に戻す。
「ね。これからシャトーになれば忙しくなるわね。今が静かに古城を過ごせる時期かも」
「ああ。充分楽しんでおくれよ。今のうちに」
「どこか手を加えるのかしら」
 フランネルが言い、彼は首を振った。
「大丈夫。このままさ。専門家に入らせた。何しろ古い城だから幽霊はいるけどね」
「あたしは幽霊というものを信じないのよ。変な人って言われたわ」
「確かにね」
 シェネンケに言わせれば、幽霊より恐い店主がいたのだから恐がっちゃいられなかったことだろう。くすくすと彼が笑っているのでローザリアがまた拳を振り上げた。若い二人が追い掛けあい走って行く。

 「ええ。今はまたフランスを離れてるのよ。やっぱり使用人として使われてるから凄く言葉が流暢なのね」
「ああ。指導されたからな。ビシバシと」
 シェネンケは恋心を持っていたロザリアが結婚をしていたことが衝撃だった。しかも相手はよくオーナーのところに来ていた男で、何年も前にいきなり彼女を靴屋から連れて行ったのもその男だと言う。配達から帰って来るとまた彼女がいなかったので、物陰で泣いているのかと探し回ったら店主は「若い男が来て馬の仕事につかせるとか言ってたな」と聞いて、驚いたのだ。確かにロザリアは地形に詳しくは無いがだからって見ず知らずに男に引き渡したなんて驚いた。
 シェネンケがローザリアを見ると驚いて仰け反った。彼女がシェネンケをまじまじと見ていたのだ。また彼女は頬を染めて顔を戻した。
「成長したのね」
 シェネンケはニッと笑って肩に腕を回した。
「背も俺の方が大きくなったもんな。トレンスキさんが帰って来て仲良くしてたら今度はロザリアを旅行漬けにするだろうな。オーナーのところやアンドレさんの所に以前はすごく言って来ていたんだ。ヨーロッパ中に連れまわして目を回させる魂胆らしい」
「まあ! それはいつ? 半年後かしら。調教の仕事が手一杯だって知ってるのに」
 シェネンケは手を広げてからぽっと小さい小花を出した。
「あ。久し振りに見たわ!」
 器用なシェネンケは手品が好きで見せてくれていた。朝は新聞配達。日中は靴屋。夜は手品を見せて働いていたシェネンケは何でもできる子だとロザリアはずっと思っていた。
「どこにいつもは住んでいるんだ? 調教する協会があるのか?」
「まだ収まっていないわね。フランスにいるのだって短い期間よ。だいたいは彼によると旅行に一定無い時はウクライナ。この国にはあたし、今預けられているのよ。調教を条件にね」
「ウクライナは遠いよ」
「ええ」
「………」
 シェネンケは金髪をどけて何かの香りをかいだ。
「これ……」
「え?」
 それは夫人用では無い香水の香りだった。ウルスカの香水だ。
 肩を抱き寄せて焦げ茶の髪に顔を埋めた。ローザリアは背を見て金髪を見た。頬を寄せ、静かになるレコードを聴きつづけた。
「思い出すね。昔もこうやって抱き締めてくれた」
「ああ」
「こんなに逞しい腕になって」
「もっと褒めてくれよ。ロザリアが頭良くなる様にビシバシしごけなかった俺のガキ時代が情け無い。じゃなければ連れて行かれなかったんだ」
「でも、馬って可愛いのよ!」
 笑顔でローザリアが言い、よろこんでいるのでシェネンケは微笑んだ。
「元気でよかった」
 ローザリアはシェネンケの言葉にふふとお茶目に笑った。
「どこかの馬達の藁の中にうもれてると思ったのね?」
「ああ。藁に混じって食べられてると思った」
「もう!」
バシバシ叩いていつも鞭を扱う手首なので痛くてシェネンケは腕でかばい笑った。
 だがなぜウルスカの香水が香るのだろう。シェネンケは音楽好きらしいアンドレさんが出していたクラシックにはちんぷんかんぷんで、ローザリアや他の二人まで詳しかったので適当に聞いていた。今のかかっているレコードも誰か知らない。
「ウルスカさんが好きな曲なのか?」
 ローザリアがぎくりとしてシェネンケを見た。
「これね、ターレガよ。スペイン舞曲。普通ギターで演奏されるんだけれど、ジョナサン・サネリストラっていうフルート奏者が吹いているの。昨日の夕陽を見ていたら素晴らしくて、思い出したわ。だから」
「ウルスカって男の人が好きなんだな」
 今思い返すとあの紳士はローザリアを見ていた。
「怒ってるの? あたし、トレンスキがいるのよ」
「妻の前で許せないんだよ。お前の事こうやってやきもきさせるなんて。俺だって我慢してるのに堂々と」
「分かってるわ。大丈夫。あたしだって同じ気持ちなの。婦人いたでしょ? あたし彼女が大好きなの。傷つけたく無いって思ってるわ」
「俺の心もまた保留だなあ」
「え?」
 ローザリアはシェネンケを見た。スペイン舞曲が終って無音になる。
「なんでも無い」
 ローザリアは日銭視線を落し、小さく言った。
「ありがとう。いつも」
 シェネンケは微笑んでから頬にキスを寄せた。驚いて顔を向け、シェネンケは立ち上がり颯爽と歩いて室内を出て行った。
 窓から聴こえる。馬達が庭をかけている蹄の音が。立ち上がってレコードを持ち、しばらく盤面を見つめた。
「ローザリア」
「まあ! フランネリア!」
「久し振りに一緒に眠りましょう?」
「ふふ。ええ。いいわね。藁の中で眠る?」
 フランネリアは昔を思い出しくすくす笑って頷いた。

 4.フランネリア

 干し草小屋。藁が積み上げられていて、入り口横には熊手が掛けられている。麦藁帽子や厚手の長手袋などがぶらさがっていた。
 二人はとりとめも無い話をしていた。フランネリアは彼女の髪を撫でながら可笑しくて笑い、その声が小屋に響いている。小窓からは天体がきらめき、いましがた流れ星が通った。
「じゃあウルスカを馬に蹴り出させないといけないわね。あの人ったら、真面目だから絶対あなたに手出しなど出来ないはずよ」
「わかるわ。目の奥が情熱的なのに。あなたを口説いたのは彼?」
「ふふ。あたしよ。十五歳の若い少女だったわ。彼、ああ見えて音痴なのよ。お隣りの大学で下手な歌がいつも聴こえていてね。声楽部だったあたしが塀から覗いていたら庭園であーでもないこーでも無いって太鼓を叩きながら素敵な大学のお兄さんが練習していたわ。忍び込んで、指導してやったの」
「それでから?」
「段々とね。まあ、今でも指導の甲斐無く音痴よ」
「ふ。フランネリアったら」
ガララ
 小屋が振動して音が響き、扉が横に開いて眼鏡を押し上げて二人を見た管理者が言った。
「これはこれは五十年間で始めて藁の妖精さんたちを見つけたわい」
「いやだわ! おじいさんたら」
 くすくすとローザリアが可笑しくて笑った周りに細かく柔らかい干し草が舞ったので、フランネリアも笑い髪についたものを摘み取ってあげた。
「今は旦那たちを心配させる為に二人で愛の逃避行中よ」
「どうりで殿方達があわくってたわけかね」
「秘密よおじいさん。藁からのお願い」
「ようしきた。ほらほら明日の餌の準備をするから大人しく可愛い馬達に食べられにバケットに入った入った」
「熊手が折れるわ! あたしは強靭だから」
可笑しく笑いながら長靴の脚で二人で手を引き合いながら降りて来て熊手やホウキを持って手伝い始めた。
「若い子はこの可愛い姫を探していたの?」
「ああ、あの使用人の子か。ローザリア夫人の元恋人かい?」
「同じ靴屋出身者よ。でも十歳や九歳の時にね。今ではどちらも馬の関係の所で働いているけれど、偶然再会して」
「なにやら掴み掛かってたもんだからね。いや、若いってのは血が多くていいねえ」
「え?」
 フランネリアはサッと白くなった。腕っ節などトレンスキとは比べ物にならないほど無く、加えて酒も弱い旦那があの血の盛んな若者に手を上げられたらどうなることか。
「御主人様がひょいと取り押さえて大人しくさせたよ。ご婦人方は今は行かない方がいい」
「ご親切に心配させてくれるわね」
「ついつい口が滑っちまった」
 藁をよりわけてから、綺麗にホウキで塵を掃き寄せて行くとローザリアが言った。
「どうする? もう戻ってあげる?」
「まだ放っておけば良いわよ。あの美しい蝶達があなたやあたしの花に移ろい停まるのはサガかしらね」
「もう! やきもきさせるのよ。明日、シェネンケに謝らなきゃ」
「トレンスキには知られないでね。あなたの旦那は怒ると恐いわ。普段は温厚な人だから、知らないだけよ」
「即決人間なのよ。あたしを一瞬で連れ出して、迎えにきたら即刻結婚式場へ。殴る時も怒る前にぶっ飛ばしてるんでしょうね」
「ハハ! あなたったら!」
「さあ。寝ましょう」
 フランネリア達はまた干草に登っていった。
「妖精さんたち。どうするね。何か温かい飲み物でも持ってこようか」
「まあ! ありがとう精霊王さん!」
「え? ははは!」
 管理者はやれやれ笑いながら歩いて行った。
 二人になるとローザリアが心配になってようやく胸部に手を当てた。
「大丈夫かしら……」
「男よ。相手もどっちも。やらせておけばいいわ。殴り合って分かる事もある。まあ……一瞬あたしも心配だったけれど。彼ももう五十だから」
 言っている内に開けられた扉の向う、並木が見えて厩がある先の原を馬が走って行った。暗くて分からないが誰かが乗っていた。並木で見えなくなり、あの勢いはウルスカやアンドレは無理だと分かっていたのでシェネンケだと分かった。高い声が響き、彼が苛立ってはしらせていったらしい。
 彼女達は顔を見合わせ、肩を竦めあった。
「やっぱり、行ってみる? ローザリア」
「心を落ち着かせてからでいいかしら」
「また管理者さんにここまでわざわざこさせるのも悪いわ」
「確かに。行きましょう」
 二人は小屋を出て歩いていった。長靴を入り口で履き替えて色気も何も在った格好では無いままだが部屋で着替えるよりまず小走りしていた。
「おやどうした」
「やっぱり耐え切れずに」
「ほらお飲みよ」
「どうもありがとう」
 温かい牛乳を頂いて聞いた。
「シェネンケが馬を借りていったみたい」
「頭でも冷やしに行ったかな。普段冷静な子だってあの子のご主人も言ってるからね。さあ。こっちだよ。今頃みんな、者共は不貞腐れて別室同士かな」

 5.アンドレ

 アンドレは驚いて暗闇の室内で誰かが背後からそっと抱きついてきたので肩越しに振り返った。
「心配したわ。大丈夫?」
 彼はフランネリアに向き直り、肩に手を置いた。
「私は残念ながら君の旦那じゃないよ」
 残念ながらの所で即刻離れて行ったフランネリアの暗がりの顔はやはり見え無い。アンドレは小さく微笑んでから美しいご夫人の肩を一度撫でてやり、明りをつけに颯爽と歩いていく。
「彼は今頃自室のはずだ。それでは」
 スイッチを入れた背のまま振り返らずに言い、扉から出て行った。なにしろあの若造にとばっちりを受け頬を殴られてしまい腫れていた。フランネリアが見れば心配する。第一、あの彼女に心配されたら下手を考えてしまう自分など容易に想像出来る事だった。友人の夫人フランネリアはあまりにも魅力的過ぎた。
 アンドレはうろうろしている少女を見た。なにやら今まで野良仕事をしていた格好で、どうも寝室で眠ってだれかを待っていた風にも思えない。厩で馬達をみてくれていたのだろうか。若者はウルスカに、あんたの所にロザリアがいるんじゃないのか、隠しているんじゃないのかと怒鳴り込んで来たが、フランネリアといたのかもしれない。
 だが殴られ損と言うわけでも無いだろう。ウルスカの目は夕食時、明らかにローザリアに好意を寄せていた。あのトレンスキの妻と知っての狼藉だろうか。と心中やれやれと首を振ったものだが。
「やあ。ローザリア。困った子だね」
「まあ! アンドレ様の頬はとばっちりね!」
「え?」
 うっかり忘れていたアンドレは肩を竦めおどけた。
「シェネンケは今頃泉に頭を突っ込みに行ってるかもしれないわ!」
「頭が冷える前に風邪を引くよ。林かな。今頃」
 ローザリアがハンカチを出して口はしに手を伸ばしそっと当てた。
「血よ」
「………」
 アンドレが彼女の肩から目を見て、ローザリアが視線を揺らしてその目を見た。手首を引き寄せ血の味が広がり咽せて咳をしながら腕を回していた。だがローザリアが離れて行きアンドレも床に落ちたハンカチを見てしばらく互いに動かすにいた。
「一週間後はあなたが悪いけれど厩周辺を離れてくれなきゃ困るわ」
「分かっている」
 アンドレは颯爽と踵を返し歩いていった。
「言い過ぎね。あなたの古城だわ」
 彼女の声に一度止まり肩越しにはにかんだ。
「いいや。悪いのはこちらだ」
 角を曲がって自室に戻るとまた友人からもらった手紙を開いた。若い妻をしばらくたのむことと、手出しをしたら林の中心の泉に沈めることと、罰でお土産は無い! という様な事が丁寧で上品な文面で書かれていたからまたアンドレは笑って、それを便箋に戻した。また壷のワインをたらふく持ち帰ってくる事歯目に見えている。
 窓の外に目を転じると、あの使用人が林の小道をとぼとぼと馬で歩かせていた。木陰から見える。あれはあれで反省しているらしい。今に戻ってくるだろう。
 とにかく明日まで腫れていても困るため頬の冷やしに掛かった。

 6.トレンスキ

 ホルトラドク・トレンスキはその頃、盛大な音楽の中にいた。取り込まれて共に踊り笑ってうかれている。大合唱を共に歌い女達はスカートの裾を翻し背を仰け反らせまわり、男たちは酒に頬を染めて愉快に回っていた。
 エジプトまでの船が途中で出港できなくなり途中の港町で立ち寄り二週間目。甲板の上は祭だった。嵐が襲ってあちらでは荒れているのでそれまでをここで過ごしている。中には陸から行く者も急ぎの用でどれ程かいたが、トレンスキは急ぎでも無いし航海先のエジプトを目的にしているので踊りを楽しんでいた。なので気を変えればすぐにでもフランスに飛んで戻るかもしれない。
 失った分の船の乗客を集める為に船の乗組員達は港町で「エジプトに行かないか」「途中にいくつか港は立ち寄るから途中まででもいいんだぞ」「だれか遠くの友人に会いに行ったらどうだ?」それで一人二人は呼び寄せたり、トランクを持ってやりもう一人加わったりだ。
 遥々ヨーロッパからエジプトまで帰るアラブ人の一団は荷物の確認に余念が無く、母国では手に入らないものが揃っていた。馬を連れた者は想定している航海の遅れ分の藁を見回っていた。国によって馬の餌代が違うのでもう少し今の量で持つ。
 トレンスキは葡萄酒を飲み下すと財布を胴にくくりつけ港町へまた降りていった。三つの三角形サイコロを手に投げ飛ばし受け止めながら行くと、丁度ローザリアのあの小さな足に似合いそうなビロードで出来た靴をみつけた。花の刺繍がビーズと共に施され、編み上げられるレースのリボンもついている。帰りの船でも寄る確立は少ないが、覚えていればまた来て他の物に目を奪われなければ買って帰ろうと思った。という横で既にロマの踊りに目が行って音楽を奏で踊る彼等の差し出す瓶にこういう時用に手にしているコインを投げ入れた。ロマの男達がロバを連れその上にニワトリが乗っていてその雌鳥もまるで踊るみたいに羽根を広げている。若い中にローザリアぐらいの女の子もいて魅力的な瞳の色で踊っていた。
あちらの船の上でも違った音楽で誰もがはしゃぎ踊っている。トレンスキを一瞬寂しくさせた。
「ああ、早くローザリアに会いたい!」
「出港するぞ! 出港するぞ! 船に乗れ! 出港が許される報せが着たぞ! さあ乗り込め!」
 誰もが船の乗客達は女を侍らせていたものも、土産を物色していたものも、酒場でゲームをしていた者も集まっていった。
 トレンスキは大きな船を見上げ、エジプトでの民族物の買い付けを選ぶか、それとも三ヵ月後ではなく今すぐ五日後の彼女に会いに足を探しに行くか、ロマたちの回転する音楽に取り巻かれながら周りを彼等が取り囲み踊りどちらかを迷った。遠くの乗客を呼び寄せる汽笛が鳴り響いた。あの土産物の靴を見る。高揚する港町はアラブの絨毯売りや香水売り、それにヨーロッパ諸国の民族品を売るものや花売りの少女、せめぎあっていた。花は可憐だった。
「ローザリアを選ぼう!」
 そしてまた彼女とエジプトに来ればいい。ヨーロッパ一周旅行も計画しているんだ。アラブ諸国にも足を伸ばして旅行だ。
 船の遠く霞にラクダに乗る二人の幻影が揺れては笑顔でトレンスキは走って行った。
「はいよ来たな旦那」
 だが彼はトランクを持ちに行った。
「こらこらなんだよ」
「また新しい客は手に入れてくれ、ほら船代は倍で置いていくよ」
 トレンスキは船員に札を握らせてから階段を降りていき、楽器隊の頬にキスを浴びせ掛けてから港町へ飲み込まれていった。汽笛が鳴り響く。船員達が船に縄を引き上げていき掛け声を上げている。甲板からは船出の花を見送りの者達に舞い降らせ、下の彼等はスカーフや帯を振っている。
 会いたさに靴の土産まで忘れていこうとしたが、引き返してトランクを手にあのビロードの靴を買った。笑顔で受け取るとそれを詰め込んで颯爽と歩いていく。
 宿を探したら荷物を置いて土産の靴に崩れない為に布を押し込んで、酒屋で夕食も兼ねる事にする。そろそろ本出港の頃だろう。彼も酒の前に港に戻って出港していく船を笑顔で帽子を振り見送った。
「Yardumunuz icin tesekkur ederim!」お世話になったね!
「Rica ederim!」いいってことよ!
 トレンスキは港町に戻るとこの港に来ると立ち寄る酒屋に入って行った。
「あれまこれでエジプト行き中止は三回目かい旦那!」
 店主の女がヨーロッパや南アメリカ、アラブの民族物買い付けのトレンスキをみると彼は前の港町で買った可愛い造花を彼女に差し出した。
「これは二年前のつけかい?」
「見た事無い花だろう。これ、造花の蕾にこの花の種も入ってるんだってよ。どうだ。これ育ててみたら」
「この気候で育つかねえ? なんて花だい?」
「さあ。忘れちまったが、肥料と水さえやれば咲くさ」
「また適当。でも可愛いねえ」
「じつは結婚したんだ。この白い花みたいな笑顔の若い子さ」
「あれ。どこにいるんだよ」
「おばちゃんが嫉妬すると思って今日はご機嫌伺いの花だけさ」
「調子いいこと言って! まあお食べよ。花のお礼」
「おおありがとう」
「また絨毯やワインはおあづけ? 半年前にエジプト人の胡椒売りのアハラトって青年が来て、あんたの話出したら言ってたよ」
「どのアハラトかなあ」
「エジプトに来るたびに兄の宿に泊まるって言ってた」
「あのアハラトか!」
「うちに年に三回売りに来るんだ。お嫁もらったんなら幸せのおすそ分けで今度胡椒の値段倍に払っておやりよ」
「また行く時に妻を忘れて行かなければ!」
「どんな子さ?」
「可愛いさ?」
 ロケットを出して写真を見せた。
「豪い別嬪!」
「腰抜かしたな。俺の十五若いんだ」
「大事にしなよ? あんた一人で旅してる場合かねえ」
「会いたくなった!」

 7.


 薔薇の香り…… シガーの香り
 あなた
 嫌悪と甘い誘惑の内に
 魅惑

 あなた囁き…… 低い囁き
 あなた
 乱れる辛い視線の先に
 取り巻く

 高い香り ゆるやか声に
 寒い肩 引き寄せ眠る

 フランネリアが歌い、ローザリアは胸部に頬を乗せていた。
 体は疲れて今は動くよりも共に唄を歌っていたいだけ歌い、まどろんでいた。触れ合う素肌はどこか愛情を置き忘れただけではなく、絶望の先のものがあった。
 シェネンケが泉で冷たくなっていた。命に別状は無かったが血の気の無くなった顔はローザリアを慄かせた。二時間前に病院に運ばれていた。
 ウルスカが林へ向かった事はフランネリアは分かっていた。何故なら深夜窓から林の見渡せるアンドレの室内にいた。窓から見ていたら、夫はランタンをかざし歩いていったのだ。アンドレは気付かずフランネリアを引き寄せカーテンの先に林の情景は見えなくなった。
 巨大な後悔と疑念が渦巻き、いられなかった。
 アンドレは病院に付き添いウルスカはまだこの早朝を眠っていた。夜出掛けたのは幻だったのか、外出の気配さえ朝の室内には覗えなかった。
 シェネンケのことは馬を探しに林に入ったローザリアが朝霧の中に発見したのだった。彼は半身を水に浸して馬が横にいて背をなめていた。ローザンナは叫んで駈けより肩を揺らし、水で衣服が重くなるシェネンケをずるずる引き上げて馬に飛び乗り、すでに早朝は起きてシェフに朝食の手配をさせて忙しいアンドレを見つけて病院へ運ばせたのだ。
 ローザリアはフランネリアに任せられ、馬の鞍を外したりは馬車小屋の管理者が干し草をあげていたのをやってきて請け負った。
「薔薇の香りが誰なのか、嫌悪の煙りは何なのか」
「怖がらないで。息はあったじゃない」
「でも何故本気で頭冷やしてたのかしら。馬鹿はやらない子よ」
 フランネリアはまたキスを優しく寄せてから髪に指を絡めた。
 ウルスカは朝、ローザリアの寝室に来て驚いた。フランネリアがいる。ローザリアの泣き声がした。泣いているのだ。まさか、シェネンケを見つけたのだろうか。
「二人とも」
「ウルスカ。シェネンケが運ばれたのよ。林で見つかって、アンドレが付き添っているわ。朝、厩に馬が帰っていなかったから探しに出たらいて」
「それで泣いて」
 フランネリアはウルスカを上目でじっとみていた。朝からローザリアに会いに来たのは昨夜フランネリアの行いを危惧させた。フランネリアはギクギクと心臓を鳴らして不倫が知られる事を恐れた。だがウルスカはローザリアを見ていた。またあの目だ。フランネリアは睨んでウルスカをみた。彼は気付き、はっとして視線を戻した。ローザリアの心音が早くなった事がフランネリアには分かり、彼女は立ち上がり踵を返して出て行ってしまった。
「フランネリア!」
「待て」
「離して」
 腕を払い叩きローザリアは出て行った。ウルスカは立ち尽くし、ドアを見た。
 フランネリアは顔を抑えていた。
「ごめんなさい、フランネリア」
「違うのよ。自分に怒って泣いているのよ」
「え?」
「昨夜、アンドレと」
「!」
 ローザリアは目を見開きフランネリアをみた。信じられなくて、だがそれもローザリアとウルスカの視線のせいだと彼女は肩を抱き締めた。
「やっぱりあたしが馬鹿だったのよ。あなたを泣かせてしまった」
「ローザリア」
「あたし彼を見ないって気をつけるわ。トレンスキが早く来てくれれば良いのに」
「今頃ツタンカーメンとタヒーナ・ババガヌーグだとかシャクシャーカでも食べてるわ」
「彼が平安ならいいのよ」
「ウルスカをみたら彼、王の持っている牧童の杖でぶったたいてくるわねガツガツと」
「ここまでエジプトの王をお連れするつもりね!」
「そのヘカであたしこそは罰せられて叩かれるに違いないわ……」
「落ち込まないで」
「もう二度とあんな過ち犯さない」
「フランネリア」
「あなただけは駄目よ」
「分かっているわ。何度も揺らいだけれど」
「先ほどはあたしを選んできてくれたのね。ありがとう」
「あなたが大好きなんだもの」
「ローザリア」
 彼女は微笑んでから立ち上がった。
「午後に一度お見舞いのために彼の衣服を持って行きましょう。必要な者もそろえないと」
「ええ」
 二人は準備に取り掛かった。
「でも、あなた期日までに馬を調教しなければ。行ってらっしゃい。あたしは夫と二人でやっているわ。彼、ここではいつも何もしないでのんびり過ぎしているんだもの」
 第一、聞かなければならない事があった。林へシェネンケを探しに行ったのかを。ローザリアは言葉に甘えて微笑み馬達のところへ行った。

薔薇の香り シガーの香り
 あなた
 嫌悪と甘い誘惑の内に
 魅惑

 あなた囁き 低い囁き
 狂う
 乱れる辛い視線の先に
 取り巻く

 高い香り ゆるやか 声に
 寒い肩 引き寄せて 眠る

 薔薇の香り 甘い香りの記憶だけ

Parfum de l'odeur de cigare de roses
vous
De la douce tentation de la haine et
leurre

À voix basse vous chuchotez
devenir fou
Au-delà du regard douloureux perturbé
entourer

Fragrance douce voix haute
Tirez dormir épaule froide

Mais le souvenir de doux parfum parfum de la rose


バラの葉巻の香りの香り
あなた
憎しみの甘い誘惑と
ルアー

あなたがささやくささやくする
夢中になる
痛みを伴う混乱を越えて見る
サラウンド

声を出して甘い香り
冷遇をスリーププル

しかし、の甘い香水の香りの記憶はバラ

薔薇の香り。シガーの香り。
あなた。
嫌悪と甘い誘惑の内側。
魅惑。

あなた囁き。低い囁き。
狂う。
乱れる辛い視線の先。
取り巻く。

高い香り。ゆるやかな声に。
寒い肩を引き寄せて眠る

薔薇の香り。甘い香りの記憶だけ。

Parfum des roses. L'odeur des cigares.
Vous.
L'aversion et l'intérieur de la tentation sucrée.
Fascinant.

Vous chuchoter. À voix basse.
Crazy.
Regarder au-delà de l'perturbé douloureux.
Environnante.

Arôme élevé. Une voix douce.
Sommeil attirer l'épaule froide

Parfum des roses. Mais le souvenir d'un parfum sucré.

バラの香り。葉巻の香り。
あなた。
嫌悪感と甘い誘惑内部。
魅力的。

あなたがささやく。低い声で。
クレイジー。
邪魔痛いを越えて見る。
周辺。

高い香り。柔らかい声。
冷たい肩を引き寄せる寝る

バラの香り。しかし、甘い香りの記憶。

Vůně růží. Vůně doutníků.
Ty.
Odpor a uvnitř sladké pokušení.
Fascinující.

Šeptáš. Šeptem.
Crazy .
Podívat se za hranice bolestivé narušený.
Okolní.

Nejvyšší aroma. Něžný hlas.
Sleep přilákat chlad

Vůně růží. Vůně doutníků.
Ty.
Odpor a uvnitř sladké pokušení.
Vůně růží. Ale vzpomínka na sladkou vůní.


 8.静かな心

 Parfum des roses. L'odeur des cigares.
 Vous.
 L'aversion et l'intérieur de la tentation sucrée.
 Fascinant.

 Vous chuchoter. À voix basse.
 Crazy.
 Regarder au-delà de l'perturbé douloureux.
 Environnante.

 Arôme élevé. Une voix douce.
 Sommeil attirer l'épaule froide

 Parfum des roses. Mais le souvenir d'un parfum sucré.

 フランネリアは林の中、枯葉を踏みしめ視線を落し歩いていた。後ろ手には枝や大きな落ち葉、木の種とかを持っていた。
 ラララ謡ながら寂れた声だがそれはフランネリアの年齢ならではの美しさが漂う。この時期の寒さは日によって本当に気候が変わった。昨日は太陽が出ていて温かかったというのに、今は曇りで明るさは抑えられている分、秋特有の冬目前にした配色がそのまま目に飛び込んで気持ちを落ち着かせる。
 一人で出歩きたくて、古城を離れて歩いていた。シェネンケが発見された泉は向うにあるが、今は木々の先に見える。連絡に寄れば彼は目を覚まして温まっているという。それを言った電話口のアンドレはどこか、フランネリアに対してやはり熱の含まれた声で静かに言った。彼女が受話器を持つ手は震え、横にいるウルスカには変わらずに短く受け答えると静かに受話器を戻したのだった。
 昼食を食べたあと、ローザリアと二人で一度シェネンケが運ばれた病院へ行く。それまでは頭をひやしにここまで来ていた。
 ここからあの古城は見え無い。アンドレとの記憶を弄ぶつもりはなかった。だからと言え夫ウルスカのいる所にはいれない。
 手にする枯葉をくるくる手で回しながら歩いていると、冬に向かって行く木々の上をリスが走っていったり、野ウサギが向うを駆けていったり、狐が繁みから顔をのぞかせる。小鳥の声が囀りしばらくフランネリアを枝に停まり見つめていた。
「 Parfum des roses. L'odeur des cigares.
  Vous.
  Regarder au-delà de l'perturbé douloureux.
  Parfum des roses.
  Mais le souvenir d'un parfum sucré. Lalala...」
 アンドレとの関りはウルスカよりも長かった。父の友人であったアンドレの叔父がこの古城を以前は管理をしていて、フランネリアは両親に連れられ古城の友人を訪ねてきていた。その叔父がアンドレに古城を任せたのは二十年前で、その叔父は今はフランネリアの父と共に国を離れて隠居生活で静かに畑を耕し暮らしている。ウルスカと結婚をしてからアンドレのいる古城に再び来始めて音楽と踊りと散策を彼等は楽しんできた。ワインの時期には一気に忙しくなる古城は人が行き交い、お手伝いに来た皆が葡萄を籠の中に摘んで行き、葡萄娘達が樽の中の葡萄の上で歌いながら踊り、男達に運ばれる巨大な樽の葡萄は巨大な勺でかき回され、その香りは心躍るものだった。
 アンドレはすぐに静かなウルスカを気に入り彼に細かなフランス語をよく教えては深い趣味を共に楽しむ仲にもなっていた。友達同士の関係は一番若いトレンスキが拍車をかけてセスナで空中回転してウルスカを気絶させたり、熟成させたワイン樽に酔った勢いでアンドレを閉じ込めたりとさんざんな目に合わされながらも楽しく過ごしていた。その仲にこれから懐いてくれていたローザリアも加わる事をトレンスキもフランネリア自身もよろこんでいた。まさかそのローザリアの事をウルスカが目にかけるなんて思いも寄らなかったのだ。
 寒くなり始める今の時期に、他の人を求めてしまった後になっては自分の過ちが歯がゆい。今までこの林や古城、葡萄畑で小さな頃から笑い合って来た全てが愛の片辺を持って視線が交わされるかもしれないほんのりと温かな感覚は、ウルスカに知られるかもしれない恐怖を持つだろう。
 木肌に頬を寄せ、目を開いた。ひんやりとするごつごつの幹はフランネリアの心をそれでも穏やかにしてくれる。しばらく目を閉じ、過ごしていた。
「……フランネリア」
 アンドレの声にフランネリアは目を開き、林を見つめた。彼女の素肌に彼の手が触れ、手に持っていた枯葉や木の種が落ちていく。かかとの横に。ドングリやマツボックリは転がって行った。
 ウルスカのことが信じがたくなった今、シェネンケに何かをしたのかという真意も分からないままでは心は揺らいだ。ウルスカは陽気な性格のトレンスキとは性格が違って、たまに考えが読めない。だから、アンドレの気心の知れた風が……。
 そっと温かな体に抱き寄せられ、アンドレはフランネリアの肩に手を置き髪に頬をそっと当てた。
「ウルスカがいるわ」
「分かっている」
「あなたの分かっているは……いつも不確かなんだから」
 アンドレは目を閉じたまま頷き、寒い気候に微かに冷えた彼女の耳に項垂れ頬を当てた。首を傾げキスを寄せ、離して肩越しの間近の瞳を見つめた。
「ローザリアに相談したの」
「あの子に」
「ウルスカが彼女に向ける好意はあたしを混乱させるわ」
「ここから離れれば、また二人の生活に戻るじゃないか。トレンスキもローザリアを連れまわす。また会う日まで……その約束の日まで会う事もない。心留まって、忘れて、愛も埋もれていくのさ。僕らも同様に」
「嫌よ」
 アンドレの手を持ち体を向けていた。咄嗟の心がまさかの気持ちでフランネリアは首を横に振って否定した。アンドレの心も自分の言葉もどちらも。
「無心になりたいのよ。今は……また会いましょう。古城で」
「夜に?」
 フランネリアは手をもたれたまま身を引き首を振った。強張る頬は染まり途端にアンドレは引き寄せ腕を巻いた。
「………」
 彼女は彼の肩の先に見える空をみて、熱い涙に目を閉じた。
「僕は君を大切にするよ。あいつが君を愛している気持ちが変わらないままローザリアを求めるのは男のサガかもしれない。勝手なことだ」
 そっと離し、アンドレは彼女の手を引き戻って行った。
 無言で歩いていった。林の中は動物達の声がする。二人を見ては、巣穴に戻ったり獲物を捕まえたり木の実をとりに走って行った。


 9.駈ける心

 ローザリアは馬で駈け走っていた。
「ヤア! ヤアヤア!」
 心地良い風が吹き荒れる草原を葉と黒い土を舞わせながらドドドドドと図太い音を立て走らせる馬は、土を踏みしめ全てを疾風に変えた。短い鞭で鞭払いピシッと耳にその音が掠める。腹に力を吸えて前傾になり、鐙に掛ける足をバランス良く保って時々調節させ手綱を握った。足で抑える馬の胴は躍動し、生命をほとばしらせて悠然と駈ける。今に天を駈けると思われるほど心地良く、いつでも汗を飛ばしながらも勇んだ。爽快にして心臓がドキドキするほどの勢いは気を緩めば振り落とされるほどである程度の力を要した。
 腹筋の無いウルスカは青年時代に馬に単に並足の状態でも振り落とされるかと思ってそれからはある程度体をしっかりさせたらしい。今でこそ原を走らせる事が出来るが、馬の調教も必要なら人の体調すらしっかり据えさせないと危ない。馬が稀に嫌いな人物に噛み付いたり柱を噛む癖があったりする。人間にだっていろいろな癖があるものだ。時に珍妙な癖さえ持つ人もいるから、馬の方がさっぱりしていて繊細でローザリアは好きだった。
 シャトーにこれから置かれる馬達は可愛く、初対面の時よりも小難しい一頭もローザリアを認めてくれた。その小難しい馬は大人しくて厩の中ではずっと静かに立ち尽くすことが多い。他の馬は尻尾を振ったりいなないて首を振ったり足並みを踏んだり窓から顔を出したりとしているのだが。その馬はアンドレの話では静かに歩かせたいお客様向けにすると言っているが、気難しいのはこの場所に安心させてあげなければ。よく林道やシャトーの周りを歩かせて慣れさせる。
 今走らせているのは一番若い馬だった。もうはしゃいではしゃいで楽しんでいた。
「ローザリア! あの子が帰って来たわよ!」
 風を切り頬に髪を受けながら肩越しに見て頷き彼女に微笑んだ。もう一走りしてから大きく迂回させて馬をフランネリアのいる場所まで走らせて行く。
「あの子って、旅人のこと? それとも機関坊のこと?」
「泉に突っ込んでた方よ」
「シェネンケね」
 頬を熱さで上気させる彼女は馬から降り立ち、手綱を引いていった。
「彼は大丈夫なの? 昨日は真っ青だったから。元気無い彼は初めてで途惑ったわ」
「見るからに今はクワを振り上げてたわね。アンドレが無農薬野菜を畑で育てて料理で出すと言うから男手は仲良く耕してるの。良く分からないわね。あんなに三人でギスギスしてたのに」
「ふふ。後腐れしないんじゃない? 女も同じじゃない。ちょっとした共通点さえ見つかると一気に今までのこと可笑しくて仲良くなっちゃう。以前より」
「ええ。あたし達はまだ取り分け仲違いは無かったけれど」
「これからだって無いわ……」
 ローザリアは立ち止まり、フランネリアの背中の衣服を掴んだ。彼女はそっと振り返ってやり、肩にこめかみを乗せ甘えて来るローザリアのこげ茶色の髪を撫でてあげた。彼女がおちゃめな上目でにっこり見てきてフランネリアも微笑み共に馬を引き歩いていく。
「トレンスキがこうやって離れてるのって何だか変に寂しいものね。何年間も一度も会ってなかったのに、自分のものになった瞬間寂しいなんて変なのよ。あたし。自分の物というよりトレンスキのものになったからだわね。今まで農場主さんとか馬主さんや店主とは師従関係だったから、今は均等に扱われるのよ。変な気分ね」
「今に慣れるわよ。彼は子供にも対等なの」
「シルクのプードルとも対等だったわ! 一緒に気違ってバウバウ鳴き始めて恥ずかしかったの! あたしと、それにピエロまで赤面したわ。モンドレ伯の飼っている魚とも対等だった。餌の虫なんか食べていて、その日のキスは勘弁したわ」
「これからの旅ではきっと彼があなたの当たり前になるのよ」
「乾燥した虫は無理よ。口喧嘩したら土を掘り返して野宿でもするわあたし」
「ブルルルルン」
 馬のシャユーが首をぶるぶる振って意見に賛成したのかトレンスキが乗り移ってるのか分からなかった。首を叩いてあげて古城を見上げる。
 今日はよく走らせたからたくさん水を飲ませたあとに厩の向かいにある洗馬場にきて馬を洗う。
「馬の管理人さんも畑を手伝ってるのね。いつもこのあたりにいるのに」
「ええ。彼はお手の物だから。あたし達も後から加勢しましょう」
「畑は好きよ」

 男勢が歌いながらクワを振り回していた。開け放たれた窓からは今日はシャンソン。「愛の賛歌」だった。それを聴きながら二人も古城を貫くアーチを通り壁に彼等の声が反響していた。アンドレが一体どんな顔でウルスカといるのか、ローザリアはいきなり不安になって先を歩くフランネリアを見た。
 石壁の先にアーチ型の青い空が雲を乗せている。今にトレンスキを乗せたセスナでも現れ旋回してパラソルで落ちてくるだろうと思われるほどのあっけらかんとした空だ。林の緑線が美しくくっきりし早くおいでよと誘ってくる。アーチ上の尖った鉄柵はというと二人の心を無理矢理鋸引くみたいだ。
「アンドレと話したの?」
「え? ええ」
 彼女達が古城のバックヤードまで来ると、男たちがクワを振り回していて叫び掛けた。歌は止んでいる。
「な、何やってるの?」
「ああ、虫だよ驚いたことに……」
 バチバチと音を立てて飛び交う虫達は人間達を欺く風に飛び回っていた。ローザリアは農作物の特に柔らかい草を好んで食い荒らす羽根虫だったのでそれがなにかは分かった。稀に大量発生する虫の年もあるのだ。死骸がまた餌になって今度はどの生物が大量に発生するか、来年は鳥か鼠あたりかもしれない。土に大多数が返るかも知れない。鼠だとペストが心配になってこの辺りでシャトーが開けなくなるので慎重だった。
 まるでシャンソンが悲鳴に聞こえてきてローザリアが窓を締めに行った。
 休憩に入ると彼等は飲み物を飲み、ウルスカは一言も喋らない妻フランネリアを見た。彼女はシェネンケと話すローザリアの横にいてアンドレは席を立ち彼等に甘い物をコックに用意させに厨房に行っていた。窓の外は虫を誘き寄せる餌になる葉物を入れた大振の籠をいくつか置いていて、それは虫が出にくくなっていた。向うにも畑が広がる所があるのでそちらから来たのか、それとも今からそちらにも行く予定かは不明だが今は土ばかりで何も無い所に現れてどこへ行くつもりだったやら。鳥が虫を求めて林からやってきたら糞の掃除が大変になる。
 フランネリアの心はあの虫達が騒ぐ風にバチバチとしていた。あの見た目なら黄緑の虫たちは綺麗で、薄い内羽根はフランネリアの心を弄び同じ薄い瞼を弾かせて笑ってくるみたいだ。
 ローザリアはと言うと、またウルスカがフランネリアを気にかけ始めているので安心していた。それでもあの香り、夜に微かに鼻腔に満たさせた。スカーフを渡したウルスカのあの時の手のぬくもりが躊躇いがちで、今にも引き裂いてしまえばいいと叫びたくなる程の視線を向けていた。ローザリアは気を取り直してレコードを変えに行く。
「ピアフの声をまた聴きに行きたいわ。初めて彼女の歌声を聞いた時は心臓が打ち震えてドキドキしたの。トレンスキがエジプトから帰って来たら、みなでパリに行かない?」
「いいわね。今度は羽音は耳には届かないでしょうから」
 彼等は窓の外を見て、虫たちを見た。その先に広がる空と緑は濃い。

 10.巡る心

 「緑の丘 暖かい風が
 娘の頬を撫で髪を乱して
 オリーブの実 芳しい恵
 その太陽の心のときめくのさ
 海の青が空の蒼に勝るとも珠の色味を広げはばたいてく!

 彼等の手が 微笑み頬触れ
 黒い実を摘んで君の心さえ
 ここに連れて抱き合えば
 この丘で愛の息吹に包まれては微笑み溶け込んでく!

 暮れなずんだ 夕焼けに染まる
 一日の幸福 胸に収めて
 夢を見れば 君に会えるとき
 また昼の太陽浴びる明日までの喜び星に掛け

 オリーブの実 首飾り君に
 贈ったあの丘へ共に行こうよ
 白い猫も 黒い猫も
 僕らみたいにはしゃぐこのうれしい青い心!

 約束をしよう ずっとこの丘で
 二人で黒い実を摘んで愛を分ち合うと……

 ララララララ ララララララ ララ……」
 ララララララ ララ ララ ララ ララ ララ……」

 ≪オリーブの首飾り≫を歌うローザリアは城壁の壁に目を綴じもたれかかっていた。
 薄い日陰に入るその場所は彼女のブーツの片足を日に照らさせ、原を見つめる焦げ茶の瞳は陰のなかでも麗しく光っていた。
 ウルスカは足を止め、胸が高鳴り柔らかなウェーブ掛かる髪に囲まれた彼女の顔を見ては歩いていった。石壁を指先でなぞりながら歩いていき、あちらのローザリアは目を綴じ静かにルルルと口ずさむ。
「………」
 近くまで来て、石の段に座り身を放り出す彼女の無造作の手に黒いシルクを見つけ、口を閉ざした。それはあのいつもの彼の香水を香らせたスカーフだった。彼は妻フランネリアが何か言い知れない不安を抱えている雰囲気を感じ心配しているのも、自分がローザリアに惹かれていることが原因だと分かっていた。美しいフランネリアを彼は愛していた。愛していても、ここにいてはならないと思う内にもローザリアに惹かれていく自分がもどかしい。
 では彼女の何に? ウルスカはフランネリアのさっぱりした口調も好きだし、時に柔らかい物腰も好きだし、知恵が豊富な所も尊敬するし、女性としての美貌や、他にも様々が大切で愛しい。共にいても物静かな自分にはあまりにももったいなく思う位の感覚を時に感じる。ローザリアは快活なほがらかさと、若い瞳の輝きと、そしてたまに意外にドジなちゃめっけと稀に覗かせる陰に心が惹かれる。やはり、フランネリアに初めて会った時と同じ、あの輝く様態に一目惚れしたのだ。
「約束をしよう ずっとこの丘で
 二人で黒い実を摘んで愛を分かち合うと

 オリーブの実 首飾り君に
 贈ったあの丘に共に行こうよ……」
 ウルスカは肩に手を置きかけ、その手が止まった。
「トレンスキ……」
「………」
 彼は手を戻し、視線を落としてから≪オリーブの首飾り≫がトレンスキのプロポーズ時の言葉だったのかもしれないと容易に想像について踵を返した。
 頭が悶々と乱れながらもくもくと地面を見て颯爽と戻って行った。先ほど共に包まれていた影から出て自分の影だけ自分に露にされ止まり、拳を握った。自分だけだったのだ。こうやって一人彼女に惹かれ惑っていたのは。
 ローザリアは足音に目を開き見回し、瞬きした。
「あら、ウルスカじゃない!」
 ローザリアは立ち上がり黒いスカーフを旧来の友人にすることと同じく笑顔で振り、無垢な顔で歩いて来た。フランネリアにしたことと同じ声と顔で。その初対面の時でもある薔薇色の頬の美しい顔立ちに、ウルスカは拳を強く握ったまま見ただけだった。まるで林から元気に飛び出て来た妖精みたいに思える。
「一人で野外にいるなんて珍しいのね。いつも室内にいるのに」
「ああ。ちょっとね……」
「ふふ。実はこの香りが何なのか分かったの。馬を扱っているでしょ? だから普段は香水はつけなくて詳しくは無いんだけれど、トレンスキはあたしに香水を贈る事が好きなの。これはJOYね?」
「よくわかったね」
 ウルスカの心は窮屈になってきて、彼女は何も知らずに話しつづけてくる。いられずに彼はあちらを見て、彼女の手からスカーフを取った。
「………」
 ローザリアは笑顔が止み、多少乱暴になった風でスカーフを引き抜いていった彼を見上げ、悲しくて俯いた。
「ごめんなさい……あたし」
 彼女は一人で勝手にウルスカといられることがうれしくてはしゃいでいたのが悲しくなって顔を抑え走って行った。ウルスカはハッとしてその髪が揺れ走って行く狭い背を見て、自分のぶっきらぼうさにスカーフを引きちぎりたくなって追いかけた。
 だが駿馬の様に足の早いローザリアは既に姿が見えなかった。どこにも。
 ウルスカの心にロシア民謡が悲しく踊った。≪黒い瞳≫。
 悪戯に心を惑わして自分が引き裂いてしまったのだ。

 ローザリアは逃げて来た先で「きゃっ!」と叫んで転びかけたのを支えられた。
「お嬢さん。君は相変わらず落ち着かないね」
「………」
 ローザリアは髪を掻き上げ、夫トレンスキを見た。
「トレンスキ」
「おやおや。ミイラでも見て気絶寸前の顔をして一体どうし……」
フラ、
 本気で気が抜けてローザリアが気を失ってしまい、慌ててトレンスキは肩を支えて抱き上げた。
「困ったな。ファラオのお化けには取り憑かれてないはずなんだが日頃の行いかなあ」
 軽々とローザリアを運んでいきアンドレか誰でもいいので探し回った。可愛い妻をおいてけぼりで船旅を途中にとんぼ返りしたので寄航場所土産だった。一応歩き回って見当たらないのでこの古城に来た時に毎回泊まる部屋に来るとローザリアの私物が置かれていた。稀は満足してうんうん頷き、彼女を横たえてから髪を撫でて微笑み部屋を出た。
「おい幽霊くん達。出てきなさいよ。トレンスキのおでましだよ」
 フランネリアさえ見当たらずに、外だろうかと出て行った。
「?」
 ウルスカが一人で藁に突っ込んでいた。
「何やっているんだあの人は……」
 年上の友人のウルスカは上半身を藁の山にふさっと突っ込んで、圧されているのかなんなのかよく分からなかった。
「ウルスカさん」
 背を叩き気を取り戻させるが相手は頑固な性格が何割かあるで意地でも出て来ないつもりなのか、気絶しているのか、絶しているのかよく分からなかった。引き抜いてやるとウルスカがトレンスキの眩しい笑顔を見てすぐに目をしっかり開いた。
「何か動物でも追いかけていたのか? 放っておきなさいよ。彼等も今秋で必死に脂肪を貯めたいんだ」
「トレンスキ。なぜエジプトにいないんだ?」
 彼等の母国語で話してトレンスキが爽快に両手を広げた。
「予感さ!」
 ウルスカは口を閉ざした。
「今帰れば愛しのローザリアが可愛いとね!」
「ああ。はあ……」
 ウルスカは相槌をうちながら藁を払って共に歩いて行った。
「ここの主人はいないみたいだね。君の素晴らしい奥方は君を藁に突っ込んでどこに隠れてるんだい。いつまでも悪戯な少女だね」
「はは。蹴り込まれたわけじゃないよ。君のローザリアに私が惚れていて多少ヘソを曲げて……。………」
「………」
「………」
 トレンスキがウルスカを振り返り、ウルスカがトレンスキのいつも颯爽とあるくふくらはぎを見ながら歩いていたのを止まり、顔をあげた。
「君もか! 分かるよ彼女は本当に魅力的で可愛いからね! だが用心してくれないと困るよ? ウルスカさんには大切な奥方がいるじゃないか」
 最後の方は声が恐くなってウルスカは頷いた。
「分かっているよ。行こう」
「ああ」
 トレンスキも続いた。
「今アンドレはワイナリーにいる。フランネリアは用で馬車で出掛けて行っているんだ。あと一人若い子もいるが馬の新しい管理者の所の子さ」
「へえ。誰だろう」
「シェネンケというチェコ人で君の奥方と同郷の。靴屋で働いていたと言うんだ」
「へえ偶然だね! ローザリアも元々は靴屋で配達人をして生活していたんだ。この話は初めてだったな」
「その靴屋さ」
 トレンスキはウルスカを見て、しばらくして「なる程な」と言った。
「もう一人雇ってる子がいたから靴屋の店主は彼女を僕にくれたんだね」
「忠告するよ。その子はローザリアを恋い慕っていたらしい」
「見知らぬ男に連れ去られて誘拐された片想いの相手をどんな男が浚って行ったのかきっとくまなく見て来るだろうなあ」
「と思うよ」
「そのシェネンケとやらはどこに埋もれているんだ?」
「まあ、五日前は泉に埋もれてたんだが……」
「はは。変な奴だ」
 トレンスキが笑いながら前庭に来ると、顔は見知った使用人の青年がいたので手を掲げた。
「やあ君! 久し振りだね!」
 シェネンケは振り返り、ピラミッドに埋もれてこなかったらしいトレンスキを見て顔だけ笑顔にした。
「こんにちは。おひさしぶりですね」
「ああ。なるほど悪い事をしてしまったね。君がシェネンケだろう?」
「はい。私のことはウルスカさんからお話を伺って?」
「うん。先ほどは驚いたよ」
「僕ほどじゃないでしょう」
「確かにね。ローザリアは今僕に会えた驚愕で昏睡状態さ」
「え? はは。言い過ぎ」
 シェネンケはやれやれ歩いて言った。ウルスカは苦笑してトレンスキの横に並ぶ。

11.返る思い


 ウルスカはトレンスキの横で歌を共に歌うローザリアを見た。
 明日、トレンスキはローザリアを連れてこの古城を離れるという。既に洗濯をされて香りの落ちたあの黒いスカーフは、今整理された旅行鞄の中にしまわれていた。
 JOY。心を惑わすあの香りはウルスカの心を浮き足立たせただけでは澄まされず、ローザリアの望郷の思いさえも既に抱かせる存在になるのかもしれない。壮麗に流れたあのクラシック。モルダウ。チェコの音楽。彼の中にはあの曲を思い浮かべると今や目の前でしあわせに歌うローザリアの姿や薔薇の花が舞う可憐さが重なった。それは淡い薔薇の色であり、その中のローザリアは情熱的な愛らしい笑顔をして踊っているのだ。花の香りはJOYであって、そして全てを想起させた。
 ウルスカは光の中に有る自分の手を見つめた。明日で別れだ。感情を操って冷静にしている今はいい。彼女がいなくなる日常はここで過ごした彼女のいる二週間よりいい物に作り加えて行かなければ。妻フランネリアと共に。それは確かにできる。フランネリアの魅力的な性格は美しさだけでは収まらないことは百も承知で、だからこそ今こうやってローザリアを心置きなく目で愛でているのかもしれない。彼女に安心感を置いているのは自分の甘えだとも分かっているのに、止められない。
 トレンスキはじっとウルスカの俯く横顔を見た。年上の友人はどうやら若いローザリアを本気で気に入っているらしい。それは見ていて分かるが、こちらの気は憤慨寸前だった。帰って来て良かった。まさかそのまま航路を進めていてエジプトの遥かなる時代を紡いできた香りに包まれ香炉に酔いしれ美女達の踊りに惑っていたら確実にローザリアはこの地でウルスカの静かな確固とした魅力に取り付かれていた筈だ。それを感情豊かなトレンスキは分かっていた。時にウルスカは自分に対して自信喪失するなどと言っているがそれは勘違いで、彼には彼にしか無い何がしかの深い情緒があるのだ。トレンスキはその部分が好きでは無いのだが、その理由も一定の女はその部分に自然と引き寄せられていくからだ。横で彼を見てきたトレンスキは曖昧なウルスカの心が何人もの女を最終的に泣かせて来たことを知っていた。彼に悪気は無くても女を寂しがらせて結局かなわなかった恋に打ちひしがれて泣く。だからフランネリアの飄々とした肝の据え方がウルスカには良くてフランネリア自身も多くの女達にウルスカの気持ちがいっている事は無いと分かっていた。ただ生活しているだけだからだ。だが今回はどうだ。ウルスカときたら完全にローザリアを惚の字で見ている。
 ウルスカは呼び止められ、カーブを描く階段を振り返りトレンスキを見た。今からここの主、アンドレの所に向かう所だった。
「トレンスキ」
 トレンスキがウルスカの手首を掴み、ウルスカは目を揺らして背の高いトレンスキを見た。無表情のトレンスキは立っているだけで恐い。いつもは笑顔で動き回っているが街角で喧嘩が始まると手が出せない。
 ぐんぐんと引っ張って行かれて壁に叩きつけられ咳込んだ。もう少し年齢を考えて労わってもらいたいのだが。ウルスカは様々な国で遭う人的な妨害にも強いのでその意気はウルスカの野に咲く花の性格では一目散に土の中にまた潜り冬眠したくさせる。
「ローザリアは嘘をつけない子なんだが、もう少しここにいたいとさっき駄々をこねてきた。共にエジプトに行ける事を出してもそれはまた行けるから一週間引き延ばしてここで乗馬やセスナを楽しもうとね。君がいるからだろう。手を出したのか」
「抱き締めただけだ」
「それだけ?」
「本当に」
 トレンスキは半目でウルスカを見た。ウルスカも正直者なので嘘は無いと分かるが普段女性を引っ張れないウルスカが抱き締めたなんて相当だ。だがそこまで惹かれあっていてここで二人を引き離すのは不憫な気がする。濃いとは素晴らしい事だがそれは何の負目もない気持ちだからこそだ。ここで甘やかして放置したら離婚を言って来る可能性がある。ローザリアが絶対に不義理な性格では無いと分かっているし誠実でトレンスキを心で慕ってくれていると分かっているのだが、自分自身も馬主の使用人青年から彼女を連れ去ったに変わりは無い。
「明日、俺達はここを離れる。俺達は友人だからまま会う機会はあるだろう。だから俺はローザリアの希望を聞く気は無いがローザリアにこれからの生活をしょげられても嫌だからね、決着をつける」
「冗談! 何が君に適うもんか!」
「誰? 大きな声を出して」
 角からフランネリアが現れ大男トレンスキが人の旦那の胸倉を掴み上げているのでやれやれ歩いて来た。
「全く坊やは血の気が盛んね。今に地面に埋めて息の根を止める計画ね?」
 ウルスカは下ろされてネクタイを正すとフランネリアがジャケットを引っ張り正した。
「いや。壁を崩れるほどぶっ飛ばす所だったよ」
「藁に突っ込んで頭を冷やしてきなさいこの子は」
 トレンスキは子供みたいにいじけてからフランネリアには敵わないので気を沈めた。
「ほら。もう最後の夕食の仕度は出来ているのよ。あたし達が腕に撚りを掛けたんだからそんな顔して食べたら雲の先までぶっ飛ばすわよ。いらっしゃいなお二方」
「ハハ」
 トレンスキは笑い着いて行って、ウルスカはまたトレンスキが自分をセスナに蹴りいれて地面に突っ込む寸前の危険な空の旅をしてこなくて胸を撫で下ろした。あんな逆快適な飛行はご免だ。それでウルスカの極度の飛行移動恐はまあまあ治ったのだが。しかも相手は大柄に笑って遂行する。この分ではローザリアも同じ気質だろう。大いにはしゃいで荒馬を乗りこなしている彼女の姿が目に浮んだ。自分は縄で引きづられてがっくり引っ張られているのではないだろうか。最終的にトレンスキまで引きずられて二人して女王に逆さに干されて吊るされた姿が浮んでやれやれ笑って彼も続いた。

 「ローザリア」
「うん?」
 トレンスキは窓辺のベンチに座り、緩い朝の光を浴びていた。ローザリアはトランクを整えていたところを顔をあげ彼を見た。
「俺のこと、好きか……?」
「………」
 ローザリアは俯く彼の横顔を見て、心が締め付けられて走っていた。
「トレンスキ。あなた何故そんなことを? あたし、あなたを信じているのに」
 膝をつき手に手を当てローザリアはトレンスキの顔を見上げた。
「あなたが大好きよ? なぜ?」
 トレンスキが不安がる顔など初めて見たから驚いてしまっている。いつでも何を考えて行動しているかさっぱり理解できないトレンスキだが心は深い人だ。
「どうしたのよ。フランネリアが見たらきっとお腹を抱えて笑ってあなたの口にパンを突っ込んでくるわ」
「真面目な話だ!」
「………」
 トレンスキが怒って、ローザリアは口を結んで立ち上がり顔を背けた。
「あなた、勝手よ。そんな所嫌いだわ」
 ローザリアを見上げて目を見開き、彼女は走って行ってしまった。
「……ローザリア」
 トレンスキは自分の言った馬鹿なことに悔しくて壁をこぶしで叩いたつもりが真横の窓がガシャンと割れて咄嗟にそちらを見た。ローザリアは音に驚き顔を向けたが、ふんっと顔を背けて廊下を走って行ってしまった。トレンスキは手は殴ったぐらいで傷つかずに強いがガラスの掠めた腕から血が流れ瞼を伏せて暴れたくなった。まるで子供みたいに。
 ローザリアは古城の人間を見つけて歩いて行った。
「旦那が、トレンスキがきっと部屋のものを壊したわ。だから」
「え? またですか~」
「よくあるのね……」
 ローザリアはガクッと項垂れて、なんだか自分も確かに悪かったのでやはり戻って行った。本当はこのままウルスカを見つけて愛の逃避行でもしようとしていたのだが。それだとあまりにも若い小娘考えすぎてフランネリアにも流石に呆れられる。そして二度と会ってくれなくなるかも知れない。もうトレンスキのものになったのだから彼をフォローしなければならないのに一時離れれば自分は他の人を好きになって。恋は不可抗力だからといえ、やきもきしていられない。トレンスキの世話で頭一杯になれば幸せなのに、とローザリアは思いながらドアを潜った。
「あなた!」
 トレンスキはまさかのローザリアが戻ってきたので少年みたいに暴れた情け無い姿を見られたくなくて背を向けた。城の者が救急箱を持ってきた。トレンスキが背を向けたのでローザリアはドアから出て廊下の壁に背を付けた。自分が原因で彼を心配させている。彼女は目を閉じた。
「慌しいね」
 ローザリアは顔をあげ、ローザリアに会いに来たウルスカを見て俯いた。一瞬駆け出したくなったが足を動かさなかった。トレンスキが早くいつもの彼に戻ってくれる事だけを考えた。
「なんでも無いの。気にしないで。馬車の用意が出来たんでしょう?」
「………」
「二週間どうも有り難う。とても充実できたわ。またフランネリアともどこかでお茶を楽しむ時を心待ちにしてるのよ」
「ああ」
 ウルスカは彼女を呼んだ。
「離れるわけには行かないわ」
 射ぬく視線がウルスカを見た。光がいつも射して光るこげ茶色の彼女の瞳は、彼の背にする中庭から射す明りで眩しかった。柱の先から見える中庭は冬の気配を含ませ、今だけは香りが欲しいと彼女は思った。
「いつか……」
 ローザリアの目は今は色味の少ない季節の中庭を見つめ、そしてウルスカを見上げた。一時の感情を燃えさせた心の内のままに。
「また会いましょう」
 彼女は優しく微笑んだ。
「ローザリア」
 ローザリアの肩を引き抱き締めていた。微かに、本当に微かに香水が香る。ウルスカから。ローザリアは目を綴じ肩に頬を乗せた。
「また会おう。いつか、どこかで」
 ウルスカは力いっぱい抱き締め、ローザリアは強い抱擁に頷いた。
ガチャ
「………」
「………」
 トレンスキが横を見て、目を伏せて咳払いした。
「おっと」
 ウルスカが咳払いして即刻彼のローザリアを開放して彼に返した。
「まったくお前達は」
 トレンスキは薔薇とジャスミンの香るローザリアを横に来させてウルスカを見た。彼はトレンスキのポケットに突っ込まれた手を見て包帯が微かに見えたのでこれは流石にこれ以上何かあったらトレンスキが魔王になると思って顔をあげた。怪我のことは聴かない方がいいだろうから言った。
「共にアンドレに挨拶に行こう」
「ああ」
 ローザリアの肩を引き寄せトレンスキは歩き出し、ウルスカも歩いて行った。

 二つの馬車が走って行く。
「………」
 アンドレは去って行く友人達を見送っていた。フランネリアは異国の友と旦那を秤に掛けられないとアンドレに言った。いつまでもここにいれば不実な愛に染まり避けられない不釣合いを生むだけだと。
 彼等の共通語はこのフランスの地の言葉であり、大自然に吹いていく風の如く美しい心を清らかにさせる愛と恋が紡がれた時間は、土の香りと心落ち着く冷たい風と。苦しみを伴った愛の成就が行き着くことなく溶けて行くから良かったのかもしれない。
 友情を壊すか、愛を選ぶか、やはり友情をとって時間を過ごして最終的にはまたいつか時間をともにすれば始まるのだろう愛の歯車を、そのときに歯止めを利かせるのか潤滑剤をさすが如く回転させるかを問えばいい。その回転する円盤の上で転びながら踊って拙い言葉で囁き合う言葉は偽りでは無い確かな恋と、友情からは様相を変えた心情、鎖の様に連なって導かれる手と手がお互いの伴侶とも繋がれば、横を行く歯車の異性の手をとることもあるかもしれない。
 今は彼等は去っていき、いつかまた、この場所がシャトーになればやってくるのだろう。その時にはあの恋の心を忘れているはずだ。互いの日常に埋もれていく。自分には到底暇など無くなるだろうこれからを考えれば、それが良い。いつまでも引きずれないのだから。
 古城の窓から馬車の既に去っていった景色を見た。寂しさはいつもの事だ。友人達が去って行く瞬間はまだ高揚は残っていても、一人になればふと寂しさがやってくる。彼等と聴いた音楽に包まれれば一時思い出す顔。そして今や、その記憶にフランネリアが占領して葡萄畑を優しく包んだ。
 ウルスカの心にも同じく新しく仲間に加わったローザリアがいるのかもしれない……。


end

a la prochaine fois~また会いましょう~

a la prochaine fois~また会いましょう~

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-26

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