『武当風雲録』第一章、一、末日鴛鴦
どうもはじめまして、かかしです。はじめての投稿にいきなり長編で恐縮です。中国の「武侠小説」というジャンルですが、カンフー映画の世界をイメージしていただければ結構です。結構長いですが、どうぞしばらくお付き合いください。
第一章
常ならぬ山影映る川の面に
秋の木の葉は浮きつ沈みつ
一、末日鴛鴦
たそがれ時、西の空が茜色に染められ、巣へ戻っていく鳥たちが呼び合いながら一日の終わりを告げている。
一方、嵩山の麓、李府の屋敷では異様な空気に包まれている。
男は武士から門番まで武器を手にして立ち並び、女は下女から炊飯係までたすきで身を縛り、せわしく出入りしている。真ん中で指揮を執っているのは五十格好の男で、この屋敷の管家である。
空がだんだん暗くなりかけているが、邸宅はあちこちに火が灯っていて明るい。準備が整えたと見えて管家は奥へ回り、一室に入った。
そこには、四十代前後の書生風の男と年の若い婦人が二人寄り添って坐っている。男は一枚の紙を手に持って沈んだ表情で婦人の肩を抱いている。紙の上に数行しか書かれておらず、すでに何度も読まれている。
李広親展、
主命により、明日戌時、御首をいただきに参る。
逆らうことあらば、一家全員命なし。
手紙には差出人の名前が書かれていない。しかしどちらからのものかは分かっている。男の名は李広と言い、唐李氏血族の一人である。時は唐の天下が取られ山河は四分五裂になった時代である。李氏一族、およびこれに関連する重要な者らはあちこちで殺害されているのが耳に入っている。
「旦那さん、準備は整いました。これでしばらくは防げるだろう。今のうちにどうか奥方さまとお逃れくださいまし。」
管家が懇願するように言った。しかし、その言葉が耳に入らないかのように、李広は手紙から目を離さず動く気配を見せない。
「旦那さま――」
管家はもう一度呼んだ。李広はやがてあきらめたように立ち上がり、寝台のところまで歩き、帳をあけて中を覗いた。
大きな寝台の上に小さいゆりかごが置かれて、中には生れたばかりの赤ちゃんがすやすやと眠っている。
世が移り変わり、天下が動乱する時期である。李広はいずれ自分の番になると分かっているが、こんなに早く来るとは思わなかった。彼は自分の運命を嘆かずには居られなかった。
三十になって結婚し、最初の妻は体が弱く出産時に子供とともに亡くなった。昨年になって二番目の妻が嫁いできた。才色兼備で自分にはもったいないくらいの良い女だった。そして今年の春にようやく初めての子供を授かり、いよいよ自分の人生も花が咲き始めたかと思われるところに、天地が翻ったような大難に遭うとは、何と言う因縁だろう。
婦人は傍に歩み寄って李広の腕を絡んだ。李広は久々に会うように、婦人の顔をしげしげと眺めて、そっとその頬を撫でた。
この婦人は周嬌嬌と言い、李広が武当派で武功を習うときに出会った女性である。出身は普通だが、裕福な家であった。二人は年が少々離れているが、趣味が合っていて、練武のほかに、詩歌を吟じ合い、意気投合だった。互いに引き合い、恋に落ちているのも気づかずに二人は親密になっていた。やがてどちらからともなく、一緒になろうということになった。
皇室の人が平民を娶るのはともかく阻害されることが多かったが、李は朝廷から遠く離れているので、出身を除いてみれば多少財産を持つ地主とはほとんど変わらない。年も年だし、早く後嗣がほしいという親族の願いもあり、特に反対は受けなかった。
周嬌嬌は不安な表情で李広を見上げている。李広はその美しい瞳をいまさらのように愛しく思い、やがてこの女と永遠に離れるのかと思うと、胸が裂けるように感じた。
「戌時」、と手紙に書かれているが、当然あてにならない。早く逃げることに越したことはない。実際この手紙が李府に届いたときから、菅家が再三に逃げるように薦めたが、李広は躊躇していた。
「旦那さま、いかがなされましたか。もう時間がない。早くご出立なされまし。」
その言葉に促されて、李広は決心したように、眠っている赤ちゃんを籠より取り出して女に渡した。
「嬌嬌、そなたは子供を持って逃げよう。後ろに道がある。そこなら気づかれまい。」
「あなた、何をおっしゃる。あなたを置いて一人で行くわけがありましょうか。」
周嬌嬌はすがるように言った。管家もいっしょになって、
「旦那さま、どうか奥方さまとご一緒にお逃れください。」
「鄭伯、もう言わないでくれ。僕が行けば、ここの者らには命がない。長らく僕に従ってきたそなたたちを見殺すわけには行かない。それに、すでに天下は他人のものである以上、僕はどこへ逃げるのも無駄だ……良いか、嬌嬌。」
李広は両手を周嬌嬌の肩に置いて言った。
「手紙が来た以上、僕は生きてここから出ることはない。この子は李氏の最後の一人かもしれないんだぞ。君に任せた。どうかこの子と生きていてくれ!」
周嬌嬌は子供を見た。父母の焦燥と無関係に、気持ちよさそうになおも眠っている。
「分かりました。」
周嬌嬌も決心したように言った。
菅家に導かれて二人は後庭へ行った。そこに馬が繋がれた籠と十数人が侍っている。李広はそこに立つの者らにむかって言った。
「みな、愚妻と倅の命はそなたたちに任せた。どうかここから無事に逃れてくれ。」
一同は「はっ!」と応えた。総身に鎧を纏、それぞれ武器を手にして張り切っている。
「いいえ。」
しかし、周嬌嬌は隣で静かに言った。
「人が多ければ、却って目立ちましょう。わたくし一人で参ります。」
李広は驚いた顔で周嬌嬌を見た。女人の身とはいえ、かつて自分とともに武功を習い、腕が強いとは言えなくとも、身を守るには十分であろう。
「そうか。そのほうが良かろう。」
李広は思い直して言った。
周嬌嬌は落ち着いた顔で、子供を李広に渡して、馬を籠から外した。片足をかけると軽々と上に跨った。
「嬌嬌、くれぐれもご無事で。」
李広は子供を馬の上の周嬌嬌に渡して言った。周嬌嬌は子供を受け取ると、何も言わずに、馬を促して後門から走っていった。
その後姿を見送りながら、李広は少しがっかりした。せめて最後に一語(ひとごと)でも何か残してくれるものと思っていたが、去っていく周嬌嬌は一度も後ろを振り向かなかった。
周嬌嬌の姿が松林の中へ消えてなくなるまで見届けてから、李はようやく我に返ったように衆人と一緒に前庭へ戻った。
いや、このほう良いのだ――
彼はそう考えながら歩いた。あんまりくどくど話すと却って別れづらい。このほうがさっぱりする。彼はそう自分に言い聞かせた。
前庭へ戻ってみると、そこには数十人が立ち並んでいる。空がすっかり暗くなり、煌々たる灯りの下に、誰一人言葉を発する者はない。みな一斉に李広を見上げて、運命をともにすると決めた。そんな人々のまなざしを眺めて、李広も勇気が湧き上がった。
「皆のども、李氏の天下は外戚に取られた。みなを巻き添えにして真に申し訳ない。ここに敵からの伝書が来ている。私は今宵を最後に、我が李氏一族とともに散ると覚悟しておる。すでに身内の者が数十人殺されたと伝えておる。もはや世は他家のものとなり、逆らうことは出来まい。やつらがほしがるのはこの私の首一つのみ。みな、長い間世話になった。どうかここから離れてくれ。李広はここでお願い申す。」
李広がいったん言葉を切ると、あたりが再び静かになった。応える者もなく、動く者もない。一同がさっきと同じように李広を見上げている。およそ一服するほどの時が経ったが、火に燃える松明のぱちぱちと鳴る音だけが聞こえる。
鄭管家が進み出て李広に言った。
「旦那さま、どうかそのようなお言葉はおっしゃらないでください。われわれは昔から李家に仕え、今になって李家を見捨てるわけには参りませぬ。これから生きていて他人の臣下になるより、李氏一族とともに死にとう存じます。」
李広は胸が熱くなった。伝書を受けたのは朝方だったが、まる一日経ち、この家から出て行く者は一人も居なかった。聞かなくとも家中の者の覚悟が十分伝わっている。
「鄭伯、みな、真にかたじけない……」
その時、後ろから急いで一人の下男が走ってきた。
「旦那さま、奥方さまが……」
言い終わらぬうちに、周嬌嬌は後ろに現れた。よほど急いで走ったのか、少々息が切れているようだ。李広が驚いて向かっていった。
「嬌嬌、どうしたんだ。なぜ戻ってきたのだ。」
「あなた……」
周嬌嬌は少し息を整えてから言った。
「子供は確かなところに置いてきた。案ずることはございません。」
「君は?何故戻ってきたのだ。」
「だって、あなた……」
周嬌嬌は目を潤しながら李広を見上げた。二人はしばらく見つめ合ったまま、「ばか。」と李広は彼女を力いっぱいに抱き寄せて、低く叱った。
「霧立ちぬ、朝契りにける蜻蛉――」
「蓮の花、共に眺むる夕日。」
二人は抱き合ったまま、かつて契り合った言葉を交わした。
もともと知らない二人であっても一旦結ばれれば運命も決められたようなものである。思うに夫婦というのも、一つの因縁であろう。
「師兄、子供をどっかに置いてきたって言うぜ。」
突然、耳元に知らない男の声が聞こえた。二人は驚いてあたりを見渡したが、数十本の松明の下にみんなが侍っており、さっきと何一つ変わってない。
「うむ。面倒なことをしやがる。」
と、今度は別な一人の声である。声の主は見えないが、前のものと同じく、近くで話しかけているようなだ。距離から言えば自分らと鄭管家との間であろうが、鄭管家のほうを見ると、これもやはりわけの分からぬ様子であたりを探している。
一同はそう訝っているうちに、正門から一人が走りこんで叫んだ。
「こちらへ向かって来ております!」
正門の見張り番である。
とうとうやってきたなと、李広は思った。
「どれくらい来てるんだ。」
「二人と見受けられます。」
「……」
李広は衆人を従えて正門を出た。闇の中に目を凝らしてじっと見詰めた。門番の言うとおり、暗い道の向こうにたった二人だけの姿が歩いてきている。その様子から見れば、特に急いでいるわけでもなく、どちらかといえば山を散策でもするかのような余裕な歩き方である。
二人はだんだん近づいてくる。李広の胸は恐怖と疑問でだんだん縛られていく。この二人は自分の首を取りにくる者なのだろうか。
近くなってみると、一人は背が高く、二十代前後で、青い頭巾で髪を縛り、書生風な格好をしている。もう一人はやや背が低く、四十代くらいで、満面に髭を生やしており、何かを考えている風にうつむき加減に歩いてきている。
二人は李一同の前へ歩いてくると、足を止めた。
「恐れ入ります。朝廷からの者でございますが、李広がここに居られますでしょうか。」
背の高い書生は先に言葉をかけた。丁寧な話し方だが、目つき顔つきにはどこか生意気で、軽蔑するような色がある。
「某が李広でございます。御主らはどちらから。」
「河北開封におわしまする、石大人の者です。まもなく乱世を鎮め、天下の帝となられよう。」
「ふん。謀反する者など、誰が認めようぞ。」
「ここに居られるのは、御宅全員かな。」
書生は李広の言葉を無視して言った。
「石家がほしいのは私一人の首だ。ここに居る者には関わりがない。さぁ、受け取るが良い。」
「子供はどこに居る。」
背の低い髭男がはじめて口を開いた。
「子供には何の用ぞ。私一人で十分だ。」
「ふん、そうは行かん……後ろを探せ。」
髭男は合図すると、書生は身を翻り、正門を飛び越え、造作もなく中へ入った。まるで鳥のような軽々しいわざである。李広は急いで前庭に戻って見ると、もうその姿が見えない。
さきほど見張り番から、「二人だけ」だと報らされて胸が躍った。北方の地を支配する叛賊とならば、きっと大群を率いてやってくるのではないかと思っていたが、二人だけなら、もしや助かるかもしれないと希望が沸いてきた。しかし、いざ対面してみると、彼の心は再び冷えてきた。
「千里伝音」という技を、かつて武当派で師匠から聞いたことがある。普通の者は、自分の声を遠くへ届けようとすれば、大声を出さなくてはならないが、内功で気を送り出せば、低い声でも遠くまで届けることが出来る。そして、内功が深ければ深いほどその声はまるで近くで話しかけているかのように聞こえる。
先ほど李一同が庭で聞いた不思議な声は、紛れもなくこの二人のものであった。李広は完全に望みを捨てた。このような強い相手とならば、二人とは言わず、一人だけでも十分だ。
「李広、悪いことは言わねえ。おとなしく御主と子供の首を渡せば、残りの者には手を出さない。」
髭男は衆人の後ろに続いて庭に入ってきた。
「これはこれは、江湖に聞こえたる崑崙五老ではありませんか。これにて御目にかかりまして光栄の至りでございます。」
周嬌嬌は髭男に向かって言った。
「崑崙五老」の名を聞いて李広もはっと気づいた。外が暗くてよく見えなかったが、灯りに照らされて見ると、口の周りに髭を生やし、右頬に大きな黒子が目立って見える。名前は前から聞いているが、初対面なので果たしてそうなのかと驚いた。
「嬌嬌、知っているのか。」
「ええ、かつて一度父親に使われたことがあります。何かの書画を京へ送るために、その護衛を頼みました。そのとき妾(わたくし)はまだ幼かったのですが、こちらはたしか、『万力金剛』と呼ばれている、慶先輩だと覚えておりますが――」
「ふん、さすが周府の令嬢、よく覚えておる。左様、俺は慶真だ。あのとき、お嬢さんはまだこんなに小さかったと思うが、今では李夫人となられ、めぐりにめぐって今日ここでまた会えるとは、縁と言うか、業と言うか。」
慶真は顔色ひとつ変えずに言った。声が低く、それだけ一層冷酷な響きを帯びている。
「すると、今は石家の金をもらっているというわけでございますね。」
周嬌嬌は怖じずに言った。
「そのとおりだ。良馬は良い主人を選ぶ。古くからのしきたりだ。恨むならこの世の無常を恨むが良い。」
そのとき、さきほど奥へ入った書生風の男が戻ってきた。慶真と目を合わせると、顔を左右に振って見せた。
李府の屋敷は京のものほどではないにせよ、平方数百丈ほどもあり、大小の部屋が数多く仕切られている。そんな短い間ですべてのところを探してきたというのかと、李広は内心、この男の軽功に驚いた。
「崑崙五老」と呼ばれるには、当然五人が居るわけで、今日来ているのはそのうちの二人である。五人はそれぞれ出身も年も違っているが、あるきっかけで知り合い、崑崙山に籠もって六年間、それぞれの武功の長短をあわせて独自に絶世な武術を案出したと江湖に伝えられている。
崑崙は大陸の西北にあり、古くから風土も気候も中原と異なっている。そこからやってくる者も、自然に異邦人とみなされている。言葉遣いから習慣まで違っていて、その武功の形や運気法もまた違っている。この五人は崑崙山から降りると、京から江南一帯を旅し、その武功が認められ、わずか一年で名が江湖に知れ渡った。そのうち、誰からともなく世間ではこの五人を「崑崙五老」と呼ぶようになった。
李広は改めてこの二人を眺めた。見た目ではどうという特徴もなく、普通の人と変わらないが、李府にやって来た時から、まるで我が家にいるかのように振舞い、ここにいる数十人をまったく眼中に入れていない。よほど自分の腕に自信を持っていると見える。
李広はそう思案しているところ、裾に風が通ったかと思うと、慶真が不意に飛んできてあっと思う間もなく隣にいる周嬌嬌を浚っていった。
気が付いた時には、慶真はすでにもとの場所に戻っている。周嬌嬌の喉は慶真の大きな手に握られて叫ぼうにも声が出来ない。李広は胸が抉られるように周嬌嬌を眺めたまま、成すすべもない。
「奥方さまを離せ。」
鄭管家は横から叫んだ。手に持った青龍刀を振り上げ、切りかかっていった。
慶真は片手に周嬌嬌を捕らえ、切ってくる刀の刀真を掴み取り、鄭管家を足で蹴り飛ばした。鄭管家は声も上がらず数丈先に飛ばされ、うつ伏せになったまま動かなくなった。
慶真は青龍刀を李広の前へ投げ捨てた。
「李広、悪あがきはやめたほうがいい。早く子供を出せば李夫人とここに居る者どもの命だけは助けてやる。でなければ……この刀が硬いかそれとも夫人の体が硬いか、よく考えるが良い。」
李広は地面に捨てられた青龍刀を見てどぎりとした。厚さ半寸ほどもある刀面の上に、数本の指の跡が深く食い込んでいる。
「万力金剛」と呼ばれるからには、当然その理由がある。慶真は古くから西域に伝わっている気功法で体を鍛え、生身を以て厚い岩石、硬い鋼鉄を穿つほどの力を発する技を身に付けた。周嬌嬌は彼の手に握られた以上、小鳥が狼の口に入ったも同然、万に一つも助けられまい。
李広は暗澹たる気持ちになった。定めがここまで運んでくれば、残される道はたった一つ。彼は帯剣を抜き、慶真に差し向けたままゆっくり寄って行った。
「聞き分けの悪いやつだな。それでもやるというのか。」
慶真は余裕な表情で李広の剣を待った。
二三歩近づくと、李広はいったん剣を引き左腕を前へ伸ばした。「飛鷹展翼」の構えである。それから、右足を踏み出すとさぁっと剣を送り出していった。
慶真はむろん人質で周嬌嬌を捕らえているから、殺してしまえばその価値は失う。衆人の前で鄭管家を倒して見せたが、ここでもう少し懲らしてやらないとおとなしく言うことを聞いてくれないと思った。鄭管家の青龍刀同様に、今度もやはり素手で剣に向かった。
だが、李広の剣は目の前へ来ると急に脇へ逸れていった。
「あれ」
と、慶真は思わず手を離して後ろへ下がった。
見ると、李広の剣は柄まですっぽり周嬌嬌の胸に差し込んでいる。
それは李広の最初からの狙いであった。子供を出せない以上、もはや自分も周嬌嬌も助からないと覚悟した。敵の手に落ちたら何をされるか分からない。慶真を攻めると見せかけ、その実は周嬌嬌を自分の手で葬ろうとした。
しかし、それでも慶真を相手ではなかなか難しい技で、失敗は許されなかった。うまくごまかしてこの一剣で決めなければ、あとは警戒されて二度と周嬌嬌の体に触れられない。
周嬌嬌は剣を抱いたまま李広のほうへ倒れた。口を動かして何か言おうとするようで言葉が出ない。しかし李広を見つめるまなざしには疑いや恨みの光がみじんもない。
李広は周嬌嬌の体を自分の膝へ乗せて口から流れる血を拭きとり、乱れた髪を直してやった。
「よく手を下したな。手間が省けたってわけだ。」
慶真は二人を見下ろして言った。だが、内心では「しまった」と思った。上から李広血縁の者を一人残らず始末せよと命じられたので、子供が見つからなければこのままでは戻れない。周嬌嬌に死なれれば李広から聞き出すしかない。
「さぁ、言え。子供はどこだ。この屋敷にある者全員が、周夫人のようになってほしくなければ。」
慶真は脅かしながら近づいた。しかし李広は女の死体を抱いたまま動かない。肩に手をかけると、李広の体はゆっくりと仰向けに倒れてきた。
その胸の上に一本の短剣が立っている。いつの間にか自害したのだ。
「者ども!旦那さまの仇じゃ!」
一人が叫ぶと、庭に居る数十人の下男下女は慶真二人を囲んで切りかかってきた。
「師兄、どうされますか。」
書生風の男が平然した表情でたずねた。
「みな殺せ。良いか、子供のことは、上に伏せておけ。」
慶真は李広夫婦の死体を見下ろしたまま言った。
雲に見え隠れる十六夜の月の下に、李府の前庭では殺戮が行われた。
まことに、
行雲流水 運か不運か 時の定め
朝の比翼連理も 宵ぞ散りにける
『武当風雲録』第一章、一、末日鴛鴦