practice(31)


三十一




 
 西陽がその様子を落ち着かせる前に帰って来た,わが家の犬に疲れた様子は見えない。コロコロと楽しそうな丸い黒目で見上げてきて,舌を出して待っている,期待に応えて頭を撫でれば,タタッと走って開けっ放しの二階の窓枠に前足を器用に乗せて,今度は街のことを遠くまで見渡している。追えば,障害物が無くて低い明るさがここぞとばかりに同色を仕込んで及ぼす,石造りの街がそこかしこで重く見えて,覆う空がかえっていい塩梅にほの暗くて気持ち良く浮かんでいた。あちらの様子とここの時間,片付け損ねたサーカス団がとても迷子になってテントまで忘れてしまったみたいな寂寥感と,だからこそ気付けた不思議な内幕の安定感がそこに在った。わが家の犬は,確かにこういうのが好きかもしれない。親交を深めているインテリアショップの主人のために『外をよく見上げている』のもここに由来する,角度を変えたものであったりするかもしれない。包むような広がりの,仕掛けと組み立ての無さに関しての。
 キイッと鳴らして,窓の開き具合を調整してから見返す室内はかげのかたちが大人しい,正方形の間取りにきちんと収まろうと蠢いていた。もたらす場所を変えるように,最後まで陽が沈むまで,と聞いているから十分に寛いでも構いやしないのだけれども,まあ真面目な性格をしているのだろう,首を振っては真っ直ぐ立ったり,円筒形のものに沿って帽子のように,長く長く床に伸びているものもいる。踏んでしまっても問題は起こらない,足の形に沿ってまたそのかたちを変えるだけだろうけれど,一応避けて真ん中へと歩みを進めた。気温は下がって,ストーブは意味をなさないから消しておく。寒くはないのと,ストーブを取り囲んでいるかげのかたちが元気にいうから笑ってしまった。寒くはないよと,答える代わりに消していた縦長のスタンドライトを部屋の隅からコンセントの届く限りで持ち出して,紐を引けばオレンジ色の,豆球の灯りまで辿り着く,かげのかたちはより分かりやすいものになって,喋りやすそうに喜ぶ。引き締まる空気は,それで暖かさを失くさない。
 空気が澄んで高らかすぎて,どこかの象が鳴いていても勤勉なピエロが笑わない,白と雲が時間にじっくりと取り組んでいるのが伝わる,またそれが納得出来る気配。そのピエロは化粧を落として着替えてから,乗っていた大きな玉を押していって帰る姿も窺えそうだ,声をかけたら振り向いて,三日月とした笑顔を見せるんだろう。ライオンのような縫いぐるみと,天井よりも上に住んでカタカタといいそうな鼠の玩具はきっとミスマッチだから,帰る途中だとここからでも分かるホースを持った大人に,ついて歩く子供のシルエットに人としての影しか残っていない,それを纏めて箱に仕舞う,綺麗好きなブランコ乗りがまた配りに行くときには夜を迎える。団長は脱いだ服を着て,靴を履き,置いていた帽子を改めて被る。
 円筒形のようなそれ,かげもかたちもついて来る。
 飛んだり跳ねたりするように,音楽が好きなわが家の犬がドアの側で文字通りに鎮座する革張りの一脚に置いていたヴァイオリンには柔らかい布で磨きをかけた,そのままそこに寝かせて置く。僕にとっても大事なものだ,見上げる群青だけが似合う野外の楽器を,かげのかたちは興味を示して,重なり合っては「これは何?」と聴きたがっていた。それならばと,かげのかたちをのっぽにして,あるならと,ヴァイオリンを手のかたちに乗せる。それから顎にあてて乗せるような仕草を見せれば,のっぽにしたかげのかたちが弦を指で弾いた。見えない一音が音で跳び,床で跳ねる。間を開けて,背後から取り出したようにあるはずの弓を持ったまま動く。見様見真似で,のっぽにしたかげのかたちも動けば曲はそのまま始まって,だから終わりまで弾かれることになるはずだ。器用に前足を窓辺に乗せる犬は鳴かない形で参加して,かげのかたちも付き添う。低く西陽が差し込まない,豆球ばかりの光の中で。





 輪っかに束ねたホースを肩に通して話しかける父親に,じょうろを抱えて後ろから答える女の子はお話を聞きたがる。父親は考えて,それから話を始めた。小さい頃に飼っていた,わが家の犬を珍しく迎えに行った時にインテリアショップで購入した母へ送る木の実で出来たブローチと,仕事場に向かう樵のイラストを収めた写真立てに挟まれて,持たないヴァイオリンの奏でる姿勢を崩さない音楽家の置物があったそうだ。背丈は成年で,その顔は男女の区別が判然としない,けれど線の作りがはっきりとしていて見惚れるものがあった。チョッキにタートルネックを身に付けて,基調となっている青に黒の革靴が目立つ。父親は,これもまた先の話としてこれをインテリアとして購入しても良いと考えていた。しかし値段がない。けれどそれ以外のものはれっきとした商品だ,非売品とも思えない。父親はお店の主人に聞いた,それは代金を支払えば済むという話ではなかった。それはやっぱりヴァイオリンを巡る話,影と形が付いてくるものだ。窓辺に近くて,気持ちがある。
 しかしこの続きはまた後にしよう。眠る前の灯りの下でと,父親は言った。







 

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  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-20

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