行かないで、京介
自分の子供が、突然、脳死だと言われてしまったら。難しいテーマで、きっと正解はないでしょう。命の事を考えてみませんか。
交通事故
慌ただしい朝、金井千賀子は台所で朝食を作っている。家族の健康を考えて必ず和食を作る。日本人のDNAには、和食が合っているのだから、和食を食べさせた方が良いと思っているからだ。おかげで家族全員健康だ。ご飯と味噌汁は、必ず食卓に並ぶ。玉子焼きや納豆が並ぶことも多い。漬け物もかなりの頻度で食卓に並ぶ。味噌汁は、具がたっぷり入っているので、かなりお腹がいっぱいになるのだ。朝食をしっかりと食べることで、お昼までお腹が空かなくて良い。
「京介、早く起きなさい」
2階に上がり、息子の金井京介を起こす。ベッドからなかなか起きてこないので、毎朝、布団を剥ぐって無理やり起こすのだ。決まって京介は、目を擦って嫌々ながらに体を起こす。
「もうちょっと寝ていたかったのに」
必ず京介は、不機嫌になる。朝はかなり弱いのだ。カーテンも全開になっており、もう眩しくて眠ることも出来ない。だから、仕方なくトイレに行き、顔を洗いに行く。
隣の部屋の弟である啓介を起こしに行く。まだ、ぐっすりと眠っていた。
「啓介、もう起きる時間よ」
カーテンを全開にすると、すでに布団を剥ぐる。すると、啓介の方が素直に起き上がるのだ。
「お母さん、お早う」
「お早う、早く顔を洗ってきなさい」
啓介は、スッと起き上がるとトイレに向かった。その後ろ姿を千賀子は安心した表情で見つめる。
啓介の部屋を出ると、大急ぎで朝食の準備をした。京介は小学校に、啓介は保育園に行っている。京介は小学校2年生、啓介は来年小学生になる。二人供、とても元気で活発だが、兄の京介の方がしっかりしている。弟の啓介はいつも兄の後ろに隠れている。寝起きと性格は必ずしも一致するということではないようだ。
台所へ行くと、旦那である陽介がダイニングで新聞を読んでいた。
「お早う」
千賀子に気が付いた陽介、千賀子も「お早う」と返す。直ぐに、台所へ行くと、4人分の朝食を手際よく準備する。その間に陽介は新聞を読み進め、京介と啓介は急いで洋服を来てダイニングへ向かう。二人供、競うようにダイニングへ行くので、いつも千賀子に焦らないようにと釘を刺される。
みんな揃ったところで、「いただきます」と声を揃えて言うと、一斉にご飯を食べ始める。子供二人は、急いで食べようとしても、あまり早くはない。
朝食が終わると、陽介と啓介が保育園へと出発する。その直後に京介が小学校に登校する。嵐のような時間が過ぎ去る。千賀子は、朝食の後片付けを行った。さっきまで、子供たちの声で賑やかだったのに、しんと静まり返っている。急いで片付けて、洗濯物を干さないといけない。それが終わったら、パートの仕度が待っている。
自宅の電話が鳴った。朝の忙しい時間帯に電話がかかってくることなどほとんどないので、妙な感じがした。一体、誰からだろう。陽介が忘れ物でもしたのだろうか。怪訝な表情を浮かべつつ、エプロンの裾で手を拭くと、電話に出た。
「もしもし」
「あの、金井さんのお宅ですか」
聞き覚えのある声だ。これは、京介の担任の先生にちがいない。京介の担任は、若い男の先生だ。一体、こんな時間に担任の先生が、何の用事だろうか。京介が何かしたのだろうか。
「実は、学校の目の前で、京介君が交通事故に遭いまして」
交通事故?予想していなかった単語が出てきた。京介の身に何が起こり、どうなっているのだろうと頭がフル回転する。
「どういうことですか。京介は、大丈夫なんですか」
「今、病院に運ばれました。○○病院です。すぐに、行ってあげてください」
京介の状態は、全くわからない。ただ、担任の先生の声が少し震えているように感じた。決して、軽い怪我とは言えないのかもしれない。千賀子は、不吉な予感がした。電話を切ると、パート先に電話をして、今日は休むと伝え、○○病院に向かった。
タクシーの中では、嫌なことばかりが頭を過った。外は、こんなに天気が良いのに、一体、何があったのだろう。まだ、朝の8時台だ。仕事へと急ぐサラリーマンとすれ違う事も多い。いつもと変わらない日常をみんなは送っているけれど、自分だけが違うのだと思うと、一層気持ちに余裕がなくなった。
タクシーを降りると、急いで救急入り口から病院に入った。偶然、千賀子の前を通りかかった看護師の腕を掴んだ。
「あの、金井京介はどこですか」
突然、自分の腕を掴まれて、看護師はキョトンとしていた。千賀子の鬼の形相に戸惑ったが、すぐに看護師の顔に戻った。
「金井さんですか。救急で先ほど運ばれた小学生なら、今、手術をしていますよ」
軽く頭を下げて、手術室の前まで走った。まだ、手術中のランプが点灯している。いくつか手術室があるが、どれも手術中のランプが点灯している。じっと手術中のランプを見つめると、自然と手を合わせて拝んでいた。
ーどうか、京介を助けてください
力強く拝むと、近くにある長椅子に座った。
少しの間、顔を覆っていると、心が少し落ち着いてきた。千賀子は立ち上がり、陽介の携帯に電話をかけることにした。病院から出て、携帯を出す。まだ、京介の状態はわかっていない。何と言えば良いのか。迷いながらも指が陽介に電話をかけた。
「もしもし」
陽介は、不思議そうに電話に出た。震える手で千賀子は携帯を握り締める。
「もしもし、あのね。京介が、交通事故に遭って」
「ええ!」
職場にも関わらず、陽介は全く想像していなかった言葉に大声を出していた。周りが陽介をじっと見ていると、陽介は申し訳なさそうに周りに頭を下げる。
まだ、京介の様子がわからないけれど、陽介は会社を早退して病院へと向かった。
千賀子は、一人で手術室の前に戻った。まだ、手術中のランプが点いている。どの手術室もそうだ。中の様子が全くわからず、千賀子の不安はどんどん増していく。もしかしたら、京介はかなり悪い状態なのかもしれない。
自然と拝むような手をしていた。もう拝まずにはいられないのだ。心臓の鼓動が大きい。病院の廊下に轟いてしまうのではないかと思うくらいだ。
しばらくすると、陽介が病院に到着した。廊下に陽介の足音が響くと、それに気付いた千賀子は急いで立ち上がった。
「京介は?」
「まだ、手術中なのよ」
その時、一つの手術室のランプが消えた。京介ではないかと、二人は手を握り締め合いながら、何か苦手な動物でも見るような目でその扉が開くのを待った。
すぐに、扉は開いたが、全然知らない人がストレッチャーに横たわっていた。まだ、京介の手術が行われている。腰が抜けそうになった千賀子を陽介がしっかりと抱き止めて、椅子に座らせた。
「大丈夫か」
陽介が千賀子を心配している。千賀子の髪を優しく撫でた。それに応えるように、千賀子は陽介に寄りかかる。旦那である陽介の顔を見たことで、緊張感が一気に解れたようだ。陽介が、千賀子の肩を抱き締める。
「大丈夫、親が信じなくてどうする」
努めて明るく陽介が振る舞うのを見て、千賀子はハッとさせられた。今は、とにかく信じるしかないのだ。信じていれば、きっとこの思いが京介に伝わる。陽介のぬくもりの中、千賀子は静かに京介の無事を祈った。
医者の言葉
京介の手術が終わると、京介はそのままICUで治療を続けることになった。目を閉じたままの京介に、陽介も千賀子も不安でならない。ベッドの脇で千賀子は、京介の手を優しく包み込んだ。温かい京介の手を握っていると、今すぐにでも起きて、「まだ、眠い」と目を擦って言ってくれるような気がした。
陽介も京介がすぐに目を覚ますのではないかと期待している。人工呼吸器を付けていても、京介が自ら外すのではないかと想像してしまう。
しばらくすると、看護師が二人を呼びに来た。医者から詳しい状態を聞けると言うのだ。看護師の後を黙って付いていった。千賀子は、祈るように手を合わせている。目を合わせることもなく、担当医と対面した。最初こそ、微笑んで千賀子たちの方を見ていたのだが、二人が椅子に座ると、医者はその顔を強張らせた。陽介と千賀子は、同時に唾を飲み込んだ。
「京介君の容態ですが•••」
医者は、手を君で青白い顔をしている。
「大変、深刻な状態です」
声にならない声が千賀子から発せられる。手で口を押さえると、目からは涙が零れた。すかさず、陽介がジャケットのポケットからハンカチを出して千賀子に渡した。
「深刻んとは、どういうことなのでしょうか」
陽介がほんの少し身を乗り出す。
「きちんと調べてみないといけないのですが、脳死状態だと思われます」
医者の言葉に、千賀子の両面から滝のように涙が溢れ落ちた。陽介は、愕然としている。
「そ、そんな•••」
陽介は、それしか言葉が出なかった。
「脳死って、京介がですか?それじゃあ、もう助からないと言うんですか?」
ハンカチで口を押さえながら、千賀子はなんとか声を絞り出した。信じられない。自分の大切な息子が脳死状態だとは、到底信じることなど千賀子には出来ないのだ。今朝、いつもと変わらない挨拶をし、一緒に朝食を食べた。そして、元気に学校へと向かっていったのだ。午後になれば、大きな声で「ただいま」と家に帰ってくるはずなのだ。
千賀子の中には、毎日、京介とどんな風に過ごしていたのかが走馬灯のように駆け巡っている。宝箱に入れておいた大切な記憶を一気に出していた。
「恐らく、厳しいと思われます」
陽介の膝の上に涙の粒が次々と落ちている。
「何とかなりませんか」
陽介が、医者の肩を揺する。医者は、決して陽介と目を合わせることはなかった。
「かなり、厳しい状態です」
千賀子は、嗚咽をあげた。ハンカチで両目を強く押さえる。その手は、震えていた。
千賀子と陽介は、医者の話を聞いた後に、京介に会った。ベッドの上で、目を閉じている。頬には痛々しい傷もある。だが、目を開けるようにも見える。また、いつもの朝のように眠い目を擦って、嫌々トイレに入るもではないかと思ってしまう。人工呼吸器を付けてはいるのだが、京介が脳死状態だとは到底思えないのだ。
「ねぇ、あなた」
濡れた声、千賀子はなんとか立っている。
「本当に、京介は脳死なの?私には、そんな風には見えない」
「そうだよな。京介は、きっと助かるさ」
陽介が、千賀子の肩を強く抱いた。陽介のぬくもりを感じると、千賀子は心強くなった。そうだ。京介は、きっと助かる。自分の中で何となく思い浮かべていた言葉が、真実に一歩近付いたような気がした。
京介のベッドの脇にある椅子に座ると、千賀子は黙って京介の手を握った。その手には、温かさを感じた。こんなに温かい手をしている京介が死ぬわけがないと強く思った。
「懐かしいな。京介が幼稚園の時に、千賀子が良い事を言っていたな」
「良いこと?」
千賀子には、何の事だかさっぱりわからなかった。陽介の顔を見ると、ニッコリとこちらを見ている。
「忘れてるな。京介が幼稚園で女の子に負かされたって泣いてた事があったじゃないか」
ようやく千賀子は思い出した。
それは、京介がまだ幼稚園に通っていた頃の事だ。よく喧嘩をしていた女の子がいたのだが、ある日、大喧嘩をしたのだった。取っ組み合いになったのだが、女の子の方が京介よりも背が高く、京介に馬乗りになって何発か殴られてしまった。幼稚園の先生が何とか止めてその場は済んだ。
しかし、京介は悔しくてたまらなかった。泣いて帰ってくると、千賀子に女の子よりも大きくなって負かしてやりたいと言ったのだ。
千賀子は静かにしゃがみこみ、京介と目線合わせた。
「京介、男の子はね。これからどんどん大きくなって、女の子よりも大きくなるの。そして、力も強くなるわ。だけどね、それは、弱いものいじめをするために与えられるものではない。力の弱い人を助けるために与えられるものなの。だから、強くなったからと言って、暴力を振るったりしたらダメよ、わかった?」
会社から帰った陽介に千賀子は、京介の事を話した。自分でお説教の内容こそ言わなかったのだが、京介の口から聞いて、陽介は千賀子を見直したのだった。
「そんなこともあったわね。あれから、京介は女の子と喧嘩をすることもなくなったし」
千賀子は、京介の手を握り続ける。
そこへ、祖母に手を引かれて啓介が京介に会いに来た。
「どう?京介の様子は」
千賀子と陽介は、祖母の言葉に何も言えなかった。二人して項垂れてしまった。
「お兄ちゃん、寝てるの?」
啓介は、祖母の手を離して、京介の近くに来た。背の低い啓介は、立っていても京介の様子を見ることが出来ない。陽介が啓介を抱き抱えた。目を瞑ったままの京介を啓介は不思議そうに見ている。今、京介に何が起こっているのかを理解しようとしているようだ。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
無邪気な声で話し掛ける。啓介は、直接、京介に何が起こったのかを聞こうとしているのだ。もちろん、京介は何も応えない。その様子を千賀子と陽介、祖母が見ている。
変わった日常
なるべく啓介の前では、平静を装うように気を付けることにした。千賀子も、陽介も、祖母たちもだ。陽介が、祖父母にも京介の事を伝えることにした。祖父母も京介の状況を聞くと、大きく動揺していた。
千賀子は、パートを辞めて京介のいる病院に通う事にしたのだ。啓介の世話は、祖父母にもこれまで以上に手伝ってもらうことになった。幸い、陽介の両親は千賀子たちの家から歩いて数分のところに住んでいる。啓介の事は、二人に頼む事が多くなるだろう。啓介も祖父母によくなついているので問題はないはずだ。啓介の幼稚園の迎えは祖父母が行う事が決まった。
両親と一緒にいる時間の方が圧倒的に多かった啓介だったが、突然、祖父母と一緒にいる時間が増えた。啓介は、京介が入院した次の日にはおかしいと思った。幼稚園から帰った先は、祖父母の家だったからだ。自分の家ではない。しかも、京介とは病院で会ったきりだ。祖父母におやつのどら焼きを出してもらい、頬張ろうと思ったのだが、啓介は今の状況をどう飲み込むべきかがわからないのだ。
「ねぇ、お婆ちゃん。どうしてお兄ちゃんに会えないの?どうしてお婆ちゃん家なの?」
祖母は、啓介の隣に黙って座った。どう話す事が一番良いことなのか。幼い啓介にもわかるように話す方法がわからない。だが、嘘を付くのは良くないと日頃から言っているので、嘘は付きたくなかった。
「お兄ちゃんはね、とても大変な怪我をしているのよ。だから、病院にいなくてはならないの。お母さんがお兄ちゃんの世話をしているから、お婆ちゃんの家に一緒にいようね」
啓介は、よく理解出来なかったが、元気良く大きく頷いた。そして、どら焼きを大きな口で頬張った。甘いあんこに、啓介は自然と笑みが溢れた。
病院の集中治療室にいる京介。千賀子は、ただ、見守る事しか出来ずにいた。
千賀子は、京介が本当にこのまま目を開けることがないのかを疑問に思っていた。京介の寝顔を見ると、決して脳死状態には見えないのだ。人工呼吸器を付けて、チューブまで付けてはいるけれど、生命を感じるのだ。顔に赤みが差している。この顔を見ていると絶対に京介は目を開けてくれる、だから、脳死判定も行う必要はないし、臓器提供だってすることはないのだと強く思うのだ。
京介のベッドの横で、千賀子は一人、座っている。ただ、黙って京介をじっと見つめているのだ。自然と手を組んで神様に祈るような事をしてしまう。何となく、神様はいるのではないかと千賀子は思っているのだが、何かの宗教に入信していると言うわけではない。漠然と神様に祈ってしまう。手を組むのではなく、手を合わせるだけの方が良いのかもしれないが、千賀子の手は自然と組んでいた。
いつまでたっても、京介は目を開けない。しかし、千賀子は決してあきらめない。だから、脳死判定を行い、移植を待っている人へ臓器を提供する事など考えられないのだ。
千賀子は、ずっと病院にいた。夜になり、陽介が病院に来ると、二人で京介の手をぎゅっと握った。京介の手は、ベッドの中にずっと入っていたこともあるせいか、とても温かい。
「ねぇ、信じられる?こんなに温かい手をしている京介が死んでしまうなんて」
涙をこらえ、千賀子は京介の事をずっと見ている。陽介は千賀子の背中に声をかける。
「信じられないよな。京介のぬくもりを感じたら、また、事故に遭う前みたいな生活が出来るって思うよな」
千賀子は、陽介も自分と同じ事を考えていることを知り、安堵していた。
「千賀子、ずっと病院にいたんだろ?疲れているんじゃないか」
「大丈夫よ」
「そろそろ帰ろう。明日もあるんだしさ」
陽介は、自分の方を見ずに京介しか見ていない千賀子が心配だった。いつまでたっても京介は目を開ける気配さえない。段々と、陽介の中に覚悟と言う文字が浮かんできた。千賀子は、全く受け入れようとはしていない事も千賀子を見ていればわかる。陽介は、あまり千賀子に無理をして欲しいとは思っておらず、むしろ、もっと肩の力を抜いて欲しいと思っている。だが、千賀子は決してその力を抜こうとはしないのだ。
ずっと京介の側にいるからではないか。だから、冷静沈着な千賀子になれないのではないか。
陽介は、千賀子の事を冷静に分析していた。京介が交通事故に遭ってから、千賀子の様子がおかしい。いつもなら、冷静に物事を考える事が出来るのだが、京介が事故に遭ってからは京介の事しか考えていないようだ。その気持ちはわかる。だが、自分らしさを失っている千賀子の事が気になるのだ。
「さ、もう帰ろう」
千賀子の肩に手を当てて、何とか強引に千賀子を京介のベッドから引き離すと、千賀子はガクッと肩の力を抜いて歩いた。
すっかり千賀子は変わってしまった。以前は、こんなに力なく歩く事などなかった。自分がお腹を痛めて産んだ子供が、死ぬかもしれないのだから、仕方がない事なのかもしれない。だが、本当にこれで良いのだろうかとも陽介は考える。
陽介だって、京介が助かって欲しいとは思っている。しかし、千賀子とは考え方が違うようだと思い始めている。
自宅に帰る前に、近所にある祖父母の家に寄り、啓介を迎えに行った。啓介は、京介の事をよくわかっていない事もあるせいか、元気いっぱいの笑顔で千賀子と陽介に抱きついてきた。
「待ちくたびれたよぉ」
そうは言っても寂しかったのか、啓介は嬉しそうに千賀子に抱きついている。千賀子は、祖母に頭を下げた。そして、すぐに自宅へと向かった。暗い夜道を啓介を挟んで手を繋いで帰った。意外と歩く人が多く、千賀子たちを大きく避ける人も少くない。サラリーマンや塾へと急ぐ学生が器用に千賀子たちを避けていった。
「ねぇ、お兄ちゃんは?」
啓介が急に千賀子に聞いた。戸惑った千賀子だが、何か言わないといけないと思い頭をフル回転した。
「お兄ちゃんは、病院にいるわ。ちょっと家に帰るのに時間がかかるかもしれないの。お兄ちゃんがいなくても、啓介は大丈夫よね」
「うん。お兄ちゃんがいなくたって平気だもん」
啓介は、強がった。陽介は、そのやりとりを黙って聞いていた。
純粋な啓介の笑顔が二人の心に刺さった。
家に帰ると、千賀子はすぐに啓介に寝るように言った。まだ、八時前と言う事もあり、啓介はあまり眠りたいとは思っていない。
「まだ、眠くないよ。遊ぼうよ」
幼稚園の制服を着たままの啓介が千賀子の手を握って催促している。京介の事が頭から離れていない千賀子は、啓介の甘えに苛立ちを隠せない。
「お兄ちゃんは、病院で頑張っているのよ。それなのに、啓介がわがまま言ってどうするのよーお兄ちゃんが可哀想だとは思わないの!」
何かよほど悪い事でもした時のように千賀子は顔を赤くして啓介を叱った。あまりにも恐ろしい千賀子の顔を見て、いつもならもう少し遅くまで起きているのだが、急いで陽介にお風呂に入れてもらう事になった。
千賀子が啓介の着替えを持ってこようとした時に、陽介が千賀子の腕を握った。
「千賀子、ちょっと言いすぎだぞ。確かに京介は大変な状況だけど、啓介に当たることはないだろ」
陽介は、千賀子の耳元で囁く。啓介に聞こえないようにするためだ。啓介も何となくいつもとは違う雰囲気を察して、自分の部屋に行き、幼稚園の鞄を置いた。
「何を言っているのよ。京介は、一人で今も病院で頑張っているのよ。それなのに、啓介一人がわがままを言う何て、京介が可哀想じゃない」
乱暴に陽介の腕をほどくと、ちょうどそこへやってきた啓介を陽介に預けた。陽介は、心配そうな目で千賀子を見るのだが、千賀子は啓介の着替えに夢中になっている。決して、陽介の方を見ようとはしなかった。
変わる心
絶対に、京介は助かるのだと強く思っていた陽介だが、次第に心が変わっていくのであった。
啓介を寝かせた後に、夫婦だけで報道番組を見ていた時の事である。京介の話をしていると、特集コーナーに切り替わった。チラリと目でテレビを見る程度であったのだが、そのコーナーに変わったとたんに二人の顔が変わったのである。
子供の脳死について取り上げたからだ。そこでは、自分の子供が脳死状態になったことで苦悩する両親が映っているだけではなかったのだ。脳死になった子供からの臓器提供を待っている子供とその親も取り上げていた。
陽介は、静かに表情を変える事もなくそれを見ていたのだが、千賀子は強い憤りを感じていた。まるで、京介の脳死を受け入れて、臓器提供をして、京介の死を受け入れろと言われているような気がしたのだった。
自分と同じ様な境遇の人が映れば、千賀子は大きく頷いて、自分を納得させているようだ。その様子を見ていた陽介は、段々と二人の間に生じている考え方の違いに戸惑っていた。
コーナーでは、二つの境遇について十数分間やっていた。それが終わると、千賀子は大きなため息をついた。
「今頃、京介はどうしているのかしら」
陽介は、千賀子の頭を撫でようとしたのだが、千賀子が軽く避けたのでその手を静かに下ろした。
「病院で、一人で頑張っている京介が死ぬだなんて絶対に考えたくない。それなのに、あの番組、何だか私に諦めろって言っているような気がして」
「気のせいだ。千賀子、看病をずっと頑張っているな。ちょっと疲れているんじゃないのか」
静かに千賀子が陽介を見つめた。無表情な千賀子に、陽介は恐怖感が沸いた。目の前にいるのは、本当に千賀子なのかと。
「大丈夫よ。私なんかより、京介の方がずっと辛い思いをしているのよ。これくらいの事で疲れたなんて言っていられないわ。私は、精一杯の看病をして、そして京介に元気になってもらいたいの」
千賀子の目から涙がこぼれた。陽介は、テーブルの上に置いてあるティッシュを一枚抜き取ると、千賀子の涙を拭った。しかし、千賀子はそのティッシュを手に取って、自分で拭いてしまった。自分が拭いてやろうと思っていた陽介は千賀子の態度にショックを受けていた。だが、決して千賀子にその事を告げようとは思っていない。グッと堪えるしか、自分には出来ないと思っているからだ。
啓介は、幼稚園から帰ると、祖母に連れられて病院へ京介のお見舞いに行った。集中治療室へ行くと、千賀子がやつれた姿で京介を見ていた。
「千賀子さん、疲れているんじゃないの」
千賀子の背中に、祖母が話し掛ける。千賀子はビクッと体を浮かせつつ、急いでくるりと体を反転させた。
「お義母さん。そんな事ないですよ。私なら、大丈夫ですから」
その声には、張りが感じられなかった。
啓介が千賀子に抱きつこうと駆け寄った。しかし、千賀子は手で制した。
「ここは、病院なのよ。静かにしなくちゃだめじゃないの」
京介が入院してから、千賀子は啓介を抱き締めていない。あまり話を聞く事もなくなった。それまでは、啓介が甘えてくるとたまには注意することもあったが、ぎゅっと抱き締める事が多かった。幼稚園での出来事を毎日のように話させると、しっかりとその話を聞いていたのだった。だから、啓介は千賀子に構って欲しくて千賀子に駆け寄ったのだが、拒否されてしまったのだ。
啓介は、ガッカリしてしまい肩を落とした。横にいる祖母が、その肩を抱き寄せた。啓介が欲しいのは、千賀子のぬくもりだ。そのぬくもりが寂しい啓介は祖母のぬくもりだけでは満足できなかった。
千賀子は、啓介の事を見ようともせず、京介の方へ体を向き直ってしまった。啓介は、千賀子の背中を見た。じっと見つめ、千賀子が振り返る事を期待した。だが、一向に千賀子は振り返ろうとしない。それに気が付いた祖母は、その手の力を強めた。
「千賀子さん。私が京介の事を見ているかた、しばらく啓介と散歩でもしたら?」
祖母は、啓介の事もちゃんと見て欲しいと思っていた。
「散歩ですか。それなら、お義母さんが一緒に行ってきてください。私は、京介の側にいますから」
疲れた笑顔を千賀子は見せた。祖母は、千賀子が精神的にも身体的にも疲れているのだと察した。だからこそ、気分転換が必要だと強く感じた。
「千賀子さん。外の空気を吸ってきた方が良いわよ。京介の事なら私が側で見ているから」
「いいえ、私が京介の側にいます。だから、お義母さんが啓介と散歩に行ってきてください」
血相を変えた千賀子。あまりの迫力に、啓介が泣き出した。
「うぅ」
両手を握り締めてグッと全身に力を入れる啓介。泣くのを堪えようとしているのだが、千賀子はそれすら許せない。
「泣くんじゃないの!お兄ちゃんを見なさい。一人で必死で戦っているのよ。邪魔をするなら、もう帰りなさい!」
啓介は、祖母に抱き付いた。声を圧し殺して泣いている。
「千賀子さん。そこまで言わなくても」
「良いんです。京介の事を考えたら、こんな事くらいで泣けないはじです。お義母さんももう良いですから。私が京介を見ているので」
啓介の事もあり、祖母は啓介と一緒に帰る事にした。
陽介が会社帰りに電車に乗っていると、幼い子供が乗り込んできた。年は京介と同じくらいだろうか。長方形のリュックを背負っている。きっと、これから、塾に行くのだろう。まだ、こんなに小さいのにえらいなと、感心していた。
京介は、助かるのだろうか。
ずっとそればかりを考えている。もしも、助かる見込みがないのならば、臓器提供も考えた方が良いのかもしれない。ずっと病室でじっとしているだけならば、もう自由にさせてやりたい。苦しんでいる京介を見ている事しか出来ないのなら、苦しみくらい取ってやりたいと思っていた。
京介に将来がないのならば、助かる見込みのある子供にバトンタッチすればいい。そうすれば、電車に一人で乗る事だって、勉強だって、思いっきり遊ぶ事だって何だって出来るようになるだろう。
待っていても京介が回復しないのならば、それも良い事なのかもしれない。陽介の心もまた、変わりつつあった。
病院で千賀子を拾ってから祖父母の家に行き、啓介を迎えに行った。すると、祖母が陽介に話があると言った。千賀子と啓介を先に帰らせて、陽介は祖母の話を聞く事にした。
子供の時から住んでいた家に入る。いつ来ても実家は変わらない。茶色い古ぼけた靴箱も玄関の目の前にある急な階段も変わっていない。玄関を入ってすぐの場所にある襖は新しく張り替えてあるので綺麗だ。中に入ると古くなってきている畳が見えた。畳と襖、障子は変えているが、桐のタンスやちゃぶ台は昔のままだ。懐かしさに浸りながら、陽介は座布団に座った。
祖母がお茶を急いで持ってきた。冷たいお茶がグラスに注いである。一口陽介が飲んだ。
「で、話ってなんだよ」
「実はね。千賀子さんの事なんだけど」
話づらそうに体を細かく動かしている。珍しく自分の母親がモゾモゾとしていて陽介は、妙な気持ちになった。
「千賀子が、どうかしたの」
陽介自身も千賀子の事を気にしているので、次の言葉が気になって仕方がない。同じ事を考えているのだろうと予想していた。
「最近、千賀子さんの様子がおかしいのよ。今日、啓介と散歩に行ってくればって言ったんだけどね。鬼のような顔で怒られちゃったのよ」
自分が想像していたよりも千賀子は変わってしまっていた。まさか、自分の母親にそんな態度を取っていたとは夢にも思っていなかったのだ。
「そうだったのか。俺も千賀子の事を心配していたんだ。京介に付きっきりだし、やつれてきたし。それに、京介が助かる見込みはほとんどないようだしな。もしかしたら、決断しなくちゃならないのかもしれないな」
「決断って、まさか」
真っ青な顔の祖母に、陽介は静かに一つ頷いた。陽介は、覚悟を決めなくてはいけないのだと思っているのだ。
「そうなの。京介と、お別れしなくてはならないのね」
声を詰まらせると、側にあるティッシュで目を押さえた。
「ただ、問題は千賀子だ。千賀子は、絶対に反対するだろう」
「それでも、京介の死を受け入れるの?」
死と言う単語に陽介はビクッとした。はっきりと言われてしまうととてつもなく恐ろしくなり、寒気がした。
「ああ、仕方がないことだから」
陽介は、そのあと目を合わせなかった。
陽介が家に帰ると啓介が外まで聞こえるくらい大きな声で泣いていた。大急ぎで家に入り、声のするリビングへ駆け込んだ。そこでは、千賀子が啓介を頭ごなしに叱っていた。
「何をそているんだ」
陽介の声を聞くと、啓介は陽介に抱き付いた。陽介の太ももに顔を埋めて泣いている。
「千賀子、一体、何があったんだ」
腕を組み、蔑んだ目で千賀子が啓介を睨み付けている。
「だって、啓介にお風呂に入りなさいって言ったのに、私とじゃ嫌だって言うのよ。お父さんはお婆ちゃんとお話ししていて、何時に帰るかわからないから、先にお風呂に入って早く寝なさいって言っただけよ」
陽介は、ハッとした。千賀子は啓介に対して接し方を変えていたからだ。これまでは、弟と言う事もあってか、多少甘やかしてしまうところがあったのだ。それが、京介が交通事故に遭ってからはすっかり変わってしまった。陽介たちだけではなく、まだ幼い啓介に対してもきつく接してしまうようになってしまったのだ。
「わかった。すぐに、俺がお風呂に入れてくるから」
啓介の頭を撫でると、啓介はようやく陽介の太ももから離れた。優しく啓介に話し掛けると、啓介は泣き止んで、素直にお風呂へと向かった。
ぶつかり合い
陽介は、千賀子に京介の脳死を受け入れて、臓器提供をしようと告げる事にした。昨晩の千賀子の様子を見て、早く言った方が良いと思ったのだ。子供は、京介だけじゃない。啓介がこのままでは可哀想だ。
陽介は、会社を出るといつものように病院へと向かった。いつもと同じ電車。皆、家に帰るのだろう。疲れた顔をしたサラリーマンやOLばかりだ。その中に買い物客が混じっている。大きな紙袋を下げた女性も何人かいる。京介があんな事故に遭っていなかったら、この中に混じっていてもおかしくはなかった。すっかり今では人が変わってしまっている。千賀子は、心身共にかなり疲弊しているに違いない。
今の千賀子に、京介の死を受け入れる事は出来るのだろうか。陽介は、吊革に掴まりながら、考えていた。電車の窓には目に下にクマを作った陽介が写っている。なぜ、電車の窓に写るとこうも自分の顔が老けて見えるのだろうか。そんな事も頭を過った。
病院に着くと、陽介の鼓動は強くなった。
集中治療室に着くと、千賀子が京介の手を握っていた。
「千賀子、京介の状態はどうだ」
「変わらないわね。でも、京介の手ってね。とても温かいのよ」
千賀子は、京介の手を陽介に差し出した。陽介が京介の手を握ると確かに温かかった。この手のぬくもりを知ると、確かに脳死を受け入れられなくなりそうだ。
「もう、帰ろう。啓介も俺たちの事を待ってるからさ」
「私たちが帰ったら、京介は一人になっちゃうじゃない。一人で頑張っているのに、可哀想だとは思わない?」
千賀子は、目に涙を溜めていた。今にも溢れてしまいそうだ。
椅子に座ったまま、千賀子は立ち上がろうとはしない。まだ、京介の側にいようと思っているようだ。
「千賀子、俺たちの子供は京介だけじゃない。啓介だっているんだぞ。それに、京介はお兄ちゃんなんだから、大丈夫だろう、な」
陽介が千賀子の肩に手を置くと、小刻みに震えていた。陽介は、その手に力を入れる。すると、千賀子の震えが止まった。
「京介は、動く事が出来ないのよ。意識だってない。こんなに不自由な思いをしてるんだもの。なるべく側にいてあげたいって思うじゃない」
震える声の千賀子に、陽介はあの事をこれから言っても大丈夫だろうかと不安になった。千賀子は、陽介が病院に来てからも京介から視線を外そうとはしていない。今も千賀子は、京介しか見ていないのだ。
「千賀子、京介だってじろじろと見られ続けたら、疲れちゃうだろう。そろそろ一人にしてやらないとな」
千賀子の両肩に手を置くと、ようやく千賀子の視線が陽介の方へと移ろうとした。陽介が屈むと、千賀子と視線がぶつかった。陽介が頷くと、二人は家路についた。
問題は、これからだった。病院の最寄り駅で電車を待っている間、陽介は千賀子と肩を並べているけれど、頭の中ではどうやって話そうかとばかり考えている。千賀子の言葉にも生返事をしていた。しかし、千賀子も京介の事に夢中だったのでそれには気付いていない。
電車が来たので急いで乗ると、ちょうど席が二つ空いたので二人並んで座った。
「京介だけど、最近は体調が安定しているみたいなのよ」
電車の中で、千賀子は笑顔を見せた。陽介の隣に座っている千賀子が、珍しく笑顔を見せた事に、自分が考えている事を話しにくくなる。
「それでね、看護師さんも安定してるって言ってくれたのよ」
千賀子が興奮して陽介の腕を叩く。少し痛いと感じたが、それよりも胸の方が痛かった。陽介は、言葉を発する事が出来ずにいるのだが、千賀子はお構い無しにどんどん京介の話をしてしまう。
ゆっくりと話をするのは、啓介が寝た後だ、と陽介は考えた。
「啓介は、今の状況をどこまで理解しているんだろうな」
啓介の話を試しにしてみると、千賀子は顔色を変えた。
「お兄ちゃんが大変な状況なのに、啓介は構って欲しそうな感じがするわ。全然、京介の状況をわかろうとしていないみたい」
そして、千賀子はため息をついた。
「啓介だって甘えたい盛りだからな。京介があのくらいの年の時だって俺たちによく甘えていたじゃないか」
千賀子を宥めるように言ったつもりだった。
「啓介くらいの年齢の時には啓介がいたから、京介はあそこまで甘えてはいなかったんじゃない。お兄ちゃんなんだからって言われて怒る事はあったけど」
「子供なんだから、仕方がないじゃないか。幼い子供は、親に甘えたいんだよ」
電車が最寄り駅に到着したので、電車を降りると、真っ直ぐに祖母の家に行った。今日は、啓介の迎えに行くだけで、すぐに家に帰った。
昨日は、ここで千賀子と啓介を二人きりにしてしまったのだ。啓介は、帰り道で何か言われなかっただろうか。千賀子は啓介に当たったりしていなかっただろうかと、嫌な事ばかりが陽介の頭に浮かんでいった。
千賀子は啓介の手を握らない。陽介と啓介が手を握っている。車も少ないのだから、啓介を真ん中にして、両側に陽介と千賀子がいて、三人で手を繋いで歩いても良さそうなものだ。陽介はそれを期待していたのだが、千賀子はそうしようとはしない。
自宅には、すぐに着いてしまった。家に帰ると千賀子が急いで啓介と陽介のお風呂の準備をした。今日も啓介をお風呂に入れるのは、陽介だ。千賀子も啓介をお風呂に入れたがらず、啓介も千賀子と一緒に入りたくはないようだ。
お風呂の準備が出来ると、陽介と啓介はお風呂に入った。
「啓介、お母さんの事、どう思う」
啓介の頭を洗っていた。陽介が丁寧に啓介の頭を洗っていると、啓介はとても気持ちが良くなっていたのだが、陽介の質問で啓介の体が硬直した。
「最近のお母さん、怖いんだ」
蚊の鳴くような細い声だったので、陽介は頭を洗う手を少しだけ止めた。こんなに小さな体なのに、深く心は傷付いているのだ。
「そっかぁ。お父さんもちょっとお母さんの事が怖いと思っていたんだ」
シャワーを出して、啓介の頭に付いている泡をごしごしと洗い流す。啓介は、力いっぱい目を瞑っていた。
お風呂から出ると、啓介はすぐに眠ってしまった。いよいよ千賀子にあの事を話す時が来た。陽介は、ひどく緊急した。千賀子は、どんな風に俺の話を聞くのか。そして、どうなってしまうのか。
台所で水を一気に飲み干すと、一つため息をついた。千賀子は、今、お風呂に入っている。出てきたら、何をどう話すのか。陽介は、混乱する頭を急いで整理していた。
千賀子がお風呂から出ると、すぐに顔の手入れを始めた。これが終わったら、あの話をしなくては。陽介の心臓は、強く鼓動を打っていた。
リビングで一人、ダイニングテーブルに座り、テレビも見ないで千賀子を待っていた。そこへ、千賀子が来たのだが、何も言わずに冷蔵庫を開けて、お茶のペットボトルを取り出した。その場で開けて、一口飲んだのを見ると、陽介は覚悟を決めた。
「千賀子、ちょっと話があるんだ」
無愛想に千賀子は陽介をチラリと見ると、すぐに陽介の正面に座った。座るとすぐに、大きなため息をついた。
「何、話って」
かなり機嫌が悪いらしい。今、話べきか陽介は戸惑ってしまった。いずれ話さなくてはならない問題だ。啓介の事を考えても早く話した方が良いだろう。唾を飲み込むと、陽介は千賀子を力強く見た。
「千賀子、京介の事だけどさ」
京介と言う名前を聞いて、千賀子の表情が少しだけ緩んだ。
「京介、もう目を開ける事がないかもしれないじゃないか」
千賀子が声にならない声をあげていた。両手を口元に当て、何て事を言うのだと言わんばかりに陽介を睨み付ける。
「親が信じなくてどうするのよ。京介は、助かるんだって思わないと、京介に力が出なくなるじゃない」
涙を堪えている事が陽介にもわかった。千賀子は立ち上がり、テーブルをバンっと一つ両手で叩いた。
「落ち着いて聞いて欲しい」
陽介が言っても、千賀子は立ったままだ。
「俺は、京介の命を他の人に繋げようと思う」
「それって、京介の脳死を受け入れて、他の人に京介の臓器を、心臓を提供するって言う事?そんな事をしたら、あの子は死んでしまうのよ。私たちの前からいなくなってしまうのよ!そんな事、耐えられるの?」
陽介は黙って聞いて、最後に黙って頷いた。じっとテーブルを見つめたままでいる陽介を千賀子は肩を振るわせながら見ている。
「何、言ってるのよ。あの子は、私がお腹を痛めて産んだ子なのよ!どんな思いをして産んだのか、わかっているの?あなただって、京介が産まれた時に、あんなに喜んでいたじゃないの!」
自然と流れ落ちる涙を拭かず、千賀子は叫ぶように言った。声が枯れてしまいそうな叫びだった。その叫び声を陽介は、座ったまま黙って聞いていた。
「嫌よ。私は、京介を殺さない、絶対にね」
「千賀子」
「あの子は、京介は大事な息子よ。絶対に殺さないわ」
陽介は、千賀子をしっかりと見つめた。その視線に千賀子は少し仰け反った。
「俺たちの子供は、京介だけじゃないんだ。啓介だっているんだぞ。ちゃんと啓介の事を考えているのか?」
「今、京介が苦しんでいるんだから、そんな事を言っていられないでしょう!」
また、千賀子はテーブルを一度強く叩くとお風呂に入ってしまった。
啓介の存在
啓介だっているんだぞ。
その言葉が千賀子の頭を支配していた。もちろん、それは知っている。京介が大変な状態なのに、どうしてそんな事が言えるのだろうとしか思えなかった。病院で、京介の手を握りながら、そんな事ばかりを考えてしまう。交通事故に遭ってから、一度も京介は目を開けていない。いつか、目を開けてくれると信じて京介の手を握り締める。
「京介のことは、お母さんが守ってあげるからね。どんな事があっても私が守ってあげるから、安心してていいのよ」
その両手に力を入れた。
「千賀子さん」
そこへ、祖母と啓介がやってきた。もう幼稚園の終わる時間を過ぎていたのだが、千賀子はそれに全く気付いていなかった。そう言う日々がずっと続いている。
祖母に手を引かれる啓介は、千賀子の方へ行こうとはしない。祖母の後ろに隠れようとしている。千賀子が啓介の方を見ると、啓介は祖母の手を離して祖母の後ろにすっぽりと隠れてしまった。
「ここに来たくないのなら、来なくて良いのよ」
随分と低い声だった。これまで聞いた事がない千賀子の声に啓介だけではなく、祖母もゾッとしてしまった。
「ち、千賀子さん、そんな言い方しなくても。啓介が脅えているわよ」
無言で千賀子は京介の方を向いた。
「かなり疲れているんじゃない?千賀子さん、休まないと心が疲れ切ってしまうわ」
心配して、千賀子に近寄ろうとしたが、千賀子の体が後ろに下がったのを見て、祖母はそれ以上何も言えなくなった。そして、祖母は啓介の頭を撫でて慰めた。啓介は、ホッとした表情を浮かべた。
千賀子は、それを見つめる事しか出来ずにいる。自分の息子なのに、自分がお腹を痛めて産んだ子供なのに、私よりも祖母を取ったのだと思ったら、無性に寂しくなった。
ずっと京介の事ばかりで、啓介にきつく当たる事があったと、ようやく千賀子は振り返った。
「啓介」
ボソッと出た声のせいか、啓介も祖母にも聞こえてはいなかった。
「じゃあ、今日はこの辺で帰りますね」
祖母は、一瞬だけ千賀子を見たのだが、その視線が千賀子には痛かった。これまで、祖母がこんなにも冷えきった視線を千賀子に送った事などなかった。いつだって温かい目で千賀子たちを見守るようにしていたのだ。その祖母が変わってしまった。いや、千賀子が変えてしまっていたのだ。
祖母と啓介が帰ってしまい、一人、集中治療室で千賀子は突っ立っていた。
京介の顔をずっと見ていると、陽介が病院に来た。何時間も千賀子は京介の顔を見続けていた事に自分でも驚いていた。
「どうだ。京介の様子は」
陽介が、千賀子に挨拶のように訪ねただけだったが、すぐに返答出来なかった。昼間に見た千賀子を怖がる啓介の顔が浮かんでしまう。自分を鬼でも見るかのように必死に目を逸らしていた。以前は、こんな事はなかった。突然、啓介の態度が変わってしまった。そのショックが今も千賀子にのし掛かっている。
「どうした、千賀子」
ようやく千賀子は、我に返った。
「え、あぁ、相変わらずよ。京介は、ピクリとも動いてくれない」
陽介が軽くため息をついた。京介の顔を見たが、確かに京介は動く気配がない。諦めなくてはいけないのか、それとも•••と、陽介は頭の中で自問自答していた。
「疲れたろ。もう帰ろう」
「そうね」
窶れた表情で、千賀子は立ち上がった。すぐに、陽介は気が付いたのだが、千賀子が元気がない事が気になり、あまりとやかく言わない方が良いだろうと判断した。
陽介は、千賀子の背中に手を当てて、千賀子を優しく支えた。
祖母の家に寄り、啓介を連れて帰ろうとしたのだが、千賀子の顔を見るなり、啓介は急いで陽介の陰に隠れた。
「啓介•••」
陽介が啓介を前に出そうとするのだが、啓介は陽介のズボンにしがみついて動こうとしない。
絶対に千賀子と目を合わせようとしないどころか、千賀子に姿を見せようともしない啓介に、子供を二人とも手離してしまったような喪失感があった。
「啓介、帰るぞ」
「うん」
ボリュームを最小限にしたかのような震えた声だった。啓介にとって、今の千賀子は恐怖の対象でしかなくなっていた。
家に帰る事になったのだが、啓介は陽介の後ろに隠れたままだ。陽介は歩きにくいので、ズボンからーp手を離して欲しかったのだが、千賀子に自分の姿を見られたら、また怒鳴られると思って啓介は絶対に陽介に隠れたままじゃないといけないと思っている。その手の力は、さらに強くなった。
それを見た千賀子は、ため息すら出ないほどで、全身から力を吸い取られてしまったような虚脱感に襲われた。
「私、先に帰ってるわね」
陽介の返事を待たずに千賀子は小走りに家に帰った。
玄関ドアを開けると、真っ暗だった。誰もいないのだから当たり前なのに。千賀子は、見慣れているはずの真っ暗な家の中を見て、背筋がぞくぞくとした。
靴を脱いで、廊下やリビングを明るくした。一人しかいないので、部屋はアナログ時計のカチカチと言う同じリズムの音しか聞こえない。少し前までは、ここに京介と啓介の話し声が聞こえる事が普通だった。そして、それがまるで永遠に続くような気がしていた。まさか、こんなにも早く途絶えてしまうなんて。
「ただいま」
陽介の声がしたが、啓介の声はしない。千賀子の事を恐れているのだ。本当なら、玄関へ行って、二人を出迎えたいのだが、啓介が千賀子を見る度に怯えてしまうので、あえて千賀子は玄関へ行くのを止めた。
陽介と啓介がリビングにやってきた。相変わらず啓介は陽介の後ろに隠れている。千賀子は黙って啓介を見つめていた。陽介は、何かを言おうとしたのだが、千賀子と目を合わせるだけだった。
「啓介、お風呂に入るか」
啓介は、大きく頷いた。
千賀子は無言でその場を立ち去った。
陽介の股の間からそれを見ていた啓介は、陽介のズボンを握っていた手を離した。陽介の前に元気良く笑顔で出てきた。千賀子の前では見せなかったキラキラと輝いた笑顔をしている。
「早くお風呂に入ろうよ」
陽介の手を握って催促している。陽介は、啓介の表情の変わり様に戸惑いつつも急いで啓介のお風呂の準備をすることにした。
啓介の部屋へ行くと、すでに啓介のお風呂の準備がしてあった。千賀子が急いで準備をしていたのだった。陽介は、それを手に取り、啓介の部屋を出た。隣の京介の部屋から灯りが漏れていたので、二回ノックをしてドアを開けた。
「千賀子、いるのか?」
千賀子は京介の部屋で、アルバムを見ていた。
「早く啓介をお風呂に入れてあげて。寝るのが遅くなっちゃうから」
「あ、あぁ。わかった」
陽介は、千賀子をちらっと見てから部屋を出た。何か言った方が良かったのだろうか。部屋の前で少し考えてから、啓介をお風呂に入れに行った。
男二人でお風呂に入る。陽介が、啓介の頭を洗っていた。大きな手で洗うのだが、少々力が強くなることもある。
「痛い!力、強いよぉ」
「あ、ごめん」
夢中で洗っていると、つい力が入ってしまうのだ。
「なぁ、啓介。お母さんのこと、どう思ってるんだ」
啓介は、すぐには口を開こうとしない。指先から、啓介の体に力が入っているような気がした。
「すごく怖いよ。お兄ちゃんが動かなくなってから、いつも怒ってるんだもん」
最後は、涙を堪えていたようだ。啓介は、そこで話を止めてしまった。
「お兄ちゃんが、何で動かなくなったのかは、わかるか」
「うん。のうしとか言うんでしょ。もしかしたら、死んじゃうかもしれないんだよね」
啓介は、京介の現状を正確に把握していた。大人が話している事を自分なりに理解していたのだ。脳死、そして、死についてもわかっている啓介に陽介は我が子がいつの間にこんなにも成長していたのかと驚いていた。
シャンプーをしている啓介の頭をシャワーでしっかりとすすいでいく。その間も陽介は驚いており、しゃべらない。
すすぎ終わると、コンディショナーを陽介は手に取った。
「お兄ちゃんは、死んじゃうのかな」
幼い声でありながら、残酷な内容に陽介の心は右往左往していた。心が全く落ち着かない中、啓介にコンディショナーを付ける。
「そ、そうだな。死んでしまうかもしれないんだ。もしも、お兄ちゃん死んだら、啓介、悲しいよな」
「すごく悲しいよ。でもね、一人になっちゃうから、頑張らないとね。もう、お兄ちゃんに頼れないんだもん。お母さんも怖いしね」
啓介の前向きな明るい声に、陽介の心は救われたような気がしていた。一番、京介の死を冷静に受け止められているのは、啓介ではないか。大人である、親である自分たちは悩み、メソメソしたりしている。
「啓介は、強いんだな」
コンディショナーをシャワーで軽くすすいだ。
「そうかな。これから、もっと強くならないと、お兄ちゃんがいなくても平気だって言えるようになるんだ」
啓介の元気に、陽介は涙を堪えるのがやっとだった。
啓介が寝た後、陽介はリビングで千賀子と二人きりになった。水の入ったコップを前に陽介は千賀子の正面に座った。
「啓介は、思っている以上に現状をよくわかっているな」
「どういう事?」
陽介が何を言おうとしているのかが見えず、千賀子は首を傾げた。陽介は、待っていたとばかりに千賀子を力強く見る。
「風呂場で、京介の話をしたら、脳死の事も知っているみたいだし、京介がいなくなったら一人で頑張るんだって言っていたよ。啓介の奴、いつの間にあんなに強くなっていたんだろうな」
一気に言うと、陽介は水をコップ半分くらいまで飲んだ。コップをテーブルに置くと、一つ美味しそうなため息をついた。
「そうだったの。啓介が•••」
何もわかっていないと思っていた啓介が、実は一番冷静に状況を理解していたのではないかと思うと、ずっと啓介に冷たく当たってしまった自分が情けない。
医者の話では、日に日に京介は悪くなっていると言う。千賀子もその時を覚悟しなくてはならないのだが、考えたくなかったので、京介がいない世界の事など来ないものだと自分に言い聞かせていたくらいだ。自然と頭がそう言う思考になっていた。
「啓介、随分と成長したわね。京介の事、ちゃんと受け止めないといけないわね」
「あぁ」
陽介の温かい表情に、千賀子の瞳が潤んだ。
たくさんのありがとう
土曜日と言う事で、朝から千賀子たちは啓介と祖父母を連れて病院へと向かった。駅は休日のせいか人が少ない。啓介と同じくらいの年の男の子がはしゃいでいるのが見える。しかし、啓介ははしゃいだりはしない。陽介の手をぎゅっと握って電車が来るのを待っている。
「啓介、お利口さんね。じっと待っているなんて」
祖母がしゃがんで啓介と目線を合わせた。啓介が、目の前に大好きなショートケーキが出てきた時のような笑顔を見せた。思わず千賀子もニコッと笑っていた。それを見ていた陽介も口元を緩め、千賀子の肩をポンと軽く叩いた。
電車に乗っても啓介は静かにしていた。それは、もしかしたら、自分の兄との別れがわかっているという事なのかもしれない。
空いている座席に全員が並んで座っている。千賀子は一番端に座り、陽介が隣に座って、陽介と祖父母の間に啓介がいた。千賀子は、自分の隣に啓介がいない事が、妙に寂しくて仕方がない。
電車が病院の最寄り駅の到着すると、全員が無言で降りた。黙って啓介は陽介の手を握っている。
とうとう京介とお別れだ。いつかはそう言う日が来るかもしれないと思った事がなかった。絶対に、京介は目を開けると千賀子は信じていたのだ。自分よりも先に逝く何て1ミリも思った事はない。
そんな千賀子も覚悟を決めた。
陽介と手を繋いで何か話をしている啓介の顔は、とても明るかった。千賀子には見せなくなった顔だった。祖父母も千賀子とは距離を置いている。千賀子は、今の自分が周りと距離がある事をはっきりと見せつけられたようで落ち着かない。
病院に着き、集中治療室にいる京介と会った。家族全員が揃って会うのは初めての事だ。そして、最後でもある。
「京介、今日は家族みんなでお見舞いに来たのよ」
千賀子が京介の一番近くへ来ていた。ベッド脇にある椅子に腰掛けてベッドの中から京介の手を両手で握った。もちろん、京介は返事をしない。
「啓介、お兄ちゃんに挨拶しなさい」
京介が交通事故に遭う前の笑顔を千賀子は啓介に見せた。それでも啓介には恐怖心が抜けない。千賀子の側へ行こうとしない啓介の背中を陽介が押した。一緒に京介の近くまで行くと、陽介が啓介を持ち上げた。
「啓介、お兄ちゃんにお別れの挨拶をしなさい」
啓介が京介の顔の近くにいる。まじまじと啓介は京介の顔を見た。
「お兄ちゃん、お別れだね。僕、寂しいよ。でもね、一人でも大丈夫だよ。僕、頑張るからね。だから、お兄ちゃんは安心してよね」
しっかりとした啓介の言葉にその場にいる大人からすすり泣く声が漏れた。特に、千賀子からは大きく聞こえた。鞄からハンカチを急いで取り出して目に当てている。こんなにも啓介が成長していた事、そして、これまでの自分の行動に涙が止まらない。
陽介が啓介を下ろすと、啓介が千賀子の前で止まった。泣いている千賀子を見ると、その膝に啓介は手を置いた。
「お兄ちゃんがいなくなっても、僕がいるから、泣かないで」
「うん、わかった。ありがとう、啓介」
目に涙を浮かべつつも啓介に笑顔を送った。啓介もぎこちないがようやく千賀子に笑顔を見せた。
祖父母も京介に近付く事になり、千賀子は椅子を譲った。祖母が遠慮しながら座った。
「京介、こんなに小さいのに、こんな事になってしまって。京介が一番辛いんでしょうね」
「おじいちゃんは、京介が孫になってくれて、本当に嬉しかったよ。ありがとう」
二人とも、涙を堪えた声だった。心配そうに二人を啓介がじっと見つめていた。祖母が項垂れると、啓介は近寄り、祖母の背中をさすった。すると、祖母はハンカチで目を覆った。
「もっと、言いたい事があれば、どんどん言ってください。お別れですから」
千賀子が催促すると、陽介が京介に近付いた。そして、京介の髪を撫でた。
「良いお兄ちゃんだったな。だから、啓介はあんなにしっかりしたんだと思う」
祖父の何気ない一言が千賀子たちの心に染みた。啓介は陽介に頭を撫でてもらって喜んでいる。
「京介、私たちの子供になってくれて、ありがとう。本当に嬉しかった。毎日、京介と一緒にいることが出来て、お母さんは幸せだったのよ。京介のお陰で、あんなに良い家族になれたんだよね。もう京介はいなくなるけど、大丈夫だから、心配しないでね。•••京介、本当にありがとう」
涙ぐみながら、千賀子は京介の手をぎゅっと握っていた。どうしても言いたかった事は伝える事が出来た。
全員が言いたい事を言う事が出来た。
脳死判定を終えると、京介の臓器は日本中の人に移植された。京介が亡くなったのだ。
京介の葬式が終わると、まるで普通の生活に戻っていた。
「啓介、朝よ。起きなさい」
啓介は、寝起きが良いので、すぐにベッドから起きた。
「お母さん、お早う」
「お早う。顔、洗ってきなさい」
眠たそうな目を擦りながら、啓介がトイレに入った。その背中を見守ると、千賀子はベッドメイキングをしてから啓介の部屋を出た。隣の京介の部屋をチラッと見たが、そのままキッチンに行くと、手際よく朝食を作った。
一時は、啓介が千賀子を避けていたのだが、今では心の距離が縮まっている。京介がいなくなったと言う現実を受け止めたからかもしれない。
リビングでは、陽介が新聞を読んで啓介が来るのを待っている。啓介は、急ごうとは思っていてもどうしてもゆっくり着替えてしまう。しかし、丁寧に着るので、とても綺麗に制服を着こなす。黄色い鞄を右手に持ち、黄色い帽子は左手に持つとリビングに向かった。リビングでは、陽介と千賀子が啓介を笑顔で迎える。
「よし、全員揃ったな」
新聞をたたみながら、陽介が言った。
「いただきます」
親子揃って言うと、朝食を食べ始めた。
一つだけ空席がある。京介の席だ。最初は、京介の分の食事も作っていたのだが、それでは京介が天国へたどり着けなくなると陽介に言われてから、三人分の食事だけを作るようになった。
啓介も今の状況に慣れてきているようだ。朝食が終わると元気よく幼稚園に行った。
行かないで、京介