幸福偏差値
プロローグ
あなたは幸せですか?
自信を持ってそう言えますか?
自分の周りを見てごらんなさい。
あなたより、幸せそうではありませんか?
人生は一度きり。
人は幸せに満たされ一生を終えるべきです。
より高い幸福を。
より良い人生を。
あなたの幸福を我々が評価します。
更なる幸福を目指して下さい。
幸福偏差値制度を実施致します。
第一章 幸福の量り
(1)
目の前に広がっている空白に数値を打ち込む。
初めの頃は、こんな簡単な事でお金ももらえるなんてラッキーだと思っていた。
でもそれが、苦痛の始まりだった。
単調な作業はじわりじわりと脳を蝕み、世界を眺める為の視力を刻々と奪っていった。
わずか数か月で裸眼から眼鏡が必須となる生活へと変わった。
単調作業とは、退屈との戦いでもある。
体力を使わなくていいとも思っていたが、とんだ間違いだ。
肩はこり、長時間座っている事で背骨は歪み、足腰は弱っていく。
これは人生という長い時間をかけた拷問かとすら思えた。
3年間も続けていればさすがに慣れてきたが、それでも毎年体力は失われていく一方だ。
それだけではない。
「柊君!これ間違っているよ!ちゃんとしてよねー。」
頭部から乱雑に髪を毟られたような禿げ頭が今日も電灯の下でぬらりと光を反射している。
いじわるそうな口元からは想像通りの罵声が飛ばされる。
部長の田上だ。
「すみません。」
人間誰しもミスは起こす。
当然私だって最初の頃は反省し、いい仕事が出来るようにと精進してきたつもりだ。
しかし今になっても些細なミス一つでこの有様だ。
確かに私の誤りではあるが、正直そこまで声を荒げる程のものではない。
くくっと向かいの席から、嘲笑が聞こえる。
目を向けずとも分かっていた。どうせあのろくでもない女が自分のミスで腹を満たしているのだろう。
あえて、そちらを見てやろうと思い、ぐっと眉間に力を入れ睨みつけてやる。
それを察知したかのように菊池彩夏は顔をさっと下げた。
(くそ女が・・。)
彩夏は3年上の先輩にあたる人物だが入社してから何かと偏差値の低い私を蔑み、笑いものにしようとしてくる。
あんな馬鹿みたいな制度に振り回されて、他人を見下ろしている愚かな女。
最近金を持った男を捕まえたらしく、最近はいつにもまして調子づいているようだ。
苦痛なのは仕事内容だけではない。ここにいる人間達のほとんどが私からすれば愚かでどうしようもない生き物に見えて仕方がない。
きっとこの社内の中で時間を過ごすうちに、各々大事な何かを失っていったのだろう。
「お疲れ様です。」
定時になりパソコンの電源を切り、自分のロッカーで着替えを行う。
その間、私は誰とも会話をしない。
最初の頃は環境になじもうと自分から率先して話そうともしていたが
それも結局は不利益な事しかなかった。
よっぽど外界を遮断した方が身のためだと思い、今はこのスタイルを貫いている。
必要のないものは徹底的に省かないと。
会社を出て、さて今日は何を食べようかと思案する。
「美咲先輩、お疲れ様です。晩御飯どうされるんですか?」
二年後輩の伊藤真紀だ。
くりっとした目が特徴的で、私よりも頭一つ分小さくいかにも男性が好みそうなタイプの子だ。
「適当に食べて帰るわ。」
「そうですか。この近くにおいしいパスタ屋さん見つけたんですけど、美咲先輩パスタとかお嫌いですか?」
「んー、嫌いじゃないけど今日はそんな気分じゃないや。ごめんね。」
「そっかー・・。分かりました。では今日もお疲れ様でした。」
ぺこりとお辞儀をして美咲とは違う方角へと帰っていく。
こんな害毒が空気中に平然と漂っているな職場で真紀だけはまだそれに感染していないようだった。
私の冷めた感じがクールでカッコいいなんて拡大解釈をし懐いてくれていたが、常々思う。
ここはあんたみたいな子がいる場所じゃない。
「早くやめちまいな。幸せになれないわよ。」
決して届かないその声は、空気にもまれ消えていった。
(2)
その一見エイプリルフールネタではないかと思えるユニークな制度が実施されたのは、美咲がちょうど今の会社に入社した頃の事だった。
幸せを数値化する事によって幸福度を量る。
“幸福偏差値制度”。
もっと各々が自分の人生の満足度を高めていって欲しい。
その為には多少周りとの競争も必要になる。
周りの人間を見て自分以上の幸せを掴んだものを目にし、自らも幸せを追及する。
そんな民衆の意思を高める事を目的として発足されたのがこの幸福偏差値制度だ。
初め誰もが馬鹿げていると思った。そんなもので何が変わるのかと。
加えて、この制度を実施する為の幸福度を量る方法に関しても当初は猛烈な批判があった。
それは体内に高性能のナノマナシンを投入し、そこから得られるデータを基に国が独自の採点方式で点数をつける。
平たく言えばこれは、国民の生活が24時間監視体制に置かれるという事を意味していた。
結果として、国民はこれを受け入れる事になる。
ナノマシンを投入する為のカプセルを一度飲み込み、それ以降は普段通りの生活を行うだけ。
監視されているのかという不快感はあったものの、しばらく経てば人とは恐ろしいもので、慣れてしまうのである。
また監視という点で、犯罪の大きな抑止力になる点もこの制度が受け入れられた大きな要因だった。
実際に制度が適用されてから僅か数ヶ月で犯罪発生率は僅か5%にまで抑えられたのだ。
そしてやがて、制度の本来の効果が表れ始めた。
「最近、彼氏が出来たんだ。今月一気に60点よ。」
「今付き合っている人にプロポーズされちゃった。先月から一気に40点プラスよ!」
「今度子供が生まれるのよ。とうとう80点台にまできたわ!」
明確にこうすれば何点といった判断基準は分からないが、こういった出来事を体験する度に自分の幸福度が点数化され、一ヶ月単位で個人の脳に直接そのデータが送信されてくる。
コンゲツノアナタノコウフクド、~点デス。
アナタニヨリヨイ、幸福ヲ。
学力と同じだ。テストでいい点数を取れば褒められる。
そして高い学力を保持すればそれだけ未来の活路が開ける。
幸福度の高い人間は人間的にも満たされているものとして扱われ、周りからは羨望の眼差しを浴びる。
世の中が幸福を競い始めたのだ。
より高い幸せを得るために。
しかし、世の人間全てがそういうわけではない。
周りの人間がテストでいい点を取ろうと、勉強なんて出来たってなんになるのかと、ひねくれている人間がいるのものまたこの世の中だ。
美咲もその内の一人だった。
美咲は決して顔立ちが悪いわけではなかったが、あまり見た目にこだわらない性格故、他人からは地味な印象を持たれがちだった。
性格も暗いわけではなかったが、決して底抜けに明るいわけでもない。
平均値。可もなく不可もない。それが美咲への評価だった。
それでも、美咲に好意を持って近づいてくれる男性もいた。
そこから付き合う関係に発展した事もある。
しかし、いつもどこかで冷めている自分自身がいた。
「好きだよ。」「うん、私も。」
「ずっと一緒にいようね。」「うん、ずっとだよ。」
そんな言葉を言っている自分に対して、嫌悪感を感じずにはいられなかった。
思ってないもないくせに、調子の良い言葉を、と。
そして気付けば関係は冷え切り、皆美咲の元から離れていった。
こんな調子だったもので恋愛が上手くいったことはなかった。
本当に心の底から好きだと思えた事など、一度もなかった。
そして今や、擦れきってしまい、この有様だ。
幸せなど、興味もない。
結婚なんて、人生の墓場みたいなもの。
自分を犠牲にしてまで、人と一緒にいたいだなんて思えない。
余計な制度が出来たものだと、呆れるばかりだった。
(3)
平穏な週末、特に何かするというわけではないが、日頃の人間関係等気にすることなく過ごせる貴重な時間だ。
今頃彩夏達は自分の取り巻きと共に、女子会という名の自慢大会を開き、話に花を咲かせているようだが、自分がそんなおぞましい集まりに巻き込まれなくて本当に良かったと安心していた。
だらだらと過ごしている間に昼過ぎ程になった頃、美咲の携帯がメールを着信した。
誰かと思えば真紀からだった。
“お休みの日にまですみません。よかったら今日の夜この前言ってたパスタ行きませんか?”
真紀ならもっと誘うべき友人がいそうなものなのだが、どうして私なのだろう。
“わかった。私も暇だし、いいわよ。”
会社の人間とわざわざ休みの日まで時間を共有したくないというのが本心だが、真紀ならその煩わしさはない。
なんだかんだと言って、慕われている事に悪い気がしていないのだ。
「あら、なかなかおいしいわね。」
「でしょ!ここのパスタどれもおいしいんですよー。後、ピザも結構いけるんですよ。今度来るときはぜひそっちも試してみてください。」
真紀に連れられたのは、以前彼女がお勧めしてくれたパスタ屋だった。
外装、内装それなりに雰囲気のある洒落たお店だったが、悪く言えばよくあるなという印象だった。
美咲が頼んだのはジュノベーゼスパゲッティだ。バジルがベースとなった自然を感じさせる色合いと、香ばしい香りが食欲をそそる。
一口食べた瞬間、気持ちがそのまま外に漏れ出てしまった。おいしいじゃない。
生パスタのもっちりと腰のある食感もよいが、それに絡みつくジュノベーゼに含まれるニンニクの風味がたまらなく香ばしい。これはいける。
値段を見た瞬間はお手頃な価格ではあるが、リーズナブルとまで思えるものなのか危惧したが、これであればチップを付けても惜しくない良品だ。
真紀が頼んでいるのはほうれん草と若鶏のクリームソースパスタ。真紀の表情を見る限り、こちらもなかなかの一品のようだ。
「そういえばさ。」
「はい?」
「今日菊池さん達女子会してんでしょ?あんたそういうの顔出しとかないで大丈夫なの?」
余計なお世話だとは思うが、こういったコミュニティに属しているかいないかは円滑な人間関係を築く上では重要な点である。
こんな所で私に油を売っていて、真紀の身が滅ぼされるのは少々申し訳なさを感じたからだ。
「心配しなくても大丈夫ですよ。そういう所、案外私器用ですから。」
確かに職場で真紀は上手く自分の身を置いているようだった。
男共にはあどけないルックスと愛嬌の良さで気に入られているし、私のような社内ではのけ者扱いの者とも関わる一方で、彩夏達のような一流グループとも馴染んでいる。
影で何か言われている訳でもなさそうだった。
「確かに、あんたって器用よね。私とは大違いだわ。」
見た目も味も申し分ないが、ニンニクの香りを気にせず食べているあたりからして、真紀とは生き方が違うなと感じる。
「正直面倒だなって思う事もありますけど、私は先輩みたいに強くないですからこういうやり方でやってくしかないんですよ。」
「強くなんてないわ。めんどくさがりなだけよ。」
あの肥溜めのような職場において、真紀は唯一まともに会話をが出来る、したいと思える人間だった。そして、どこかその器用さに憧れを持っているのも事実だ。
ただ、実際に真紀のようになろうとは思わなかったが。
程よく空腹が満たされた所で真紀が、ちょっとお酒でもどうですかと言うものだからそれに従う事にした。
真紀とはたまにこうやって週末を過ごすが、たいてい今日のように真紀のペースで進んでいく。
連れてこられたのはこじんまりとしたバーだった。
派手さはないものの、その分落ち着いた空間を演出する事に尽力している点には好感を持てる店だった。
注文はおまかせでカクテル系統のものをお願いした。
美咲には鮮やかな空色、真紀には桜色のカクテルがそれぞれ出された。
「乾杯。」
口当たりのいい程よい甘さのカクテルだ。
食事といいこういったバーといい、真紀の食関連の守備範囲は本当にたいしたものだと改めて感じた。
「ところで、先輩。点数は相変わらずですか?」
この質問がもし彩夏からのものだったら般若の如く睨んでいる所だが、他意のない真紀からの問いなのでそういった感情は湧き起こらない。
「赤点ギリギリね。まぁこんなので点数稼ぎしてもなんにもならないし。そういうあんたはどうなのよ?」
「私はザ・平均点って感じですよ。彼氏でも出来れば上が見えてくるんですけどね。菊池先輩には遠く及びませんよ。」
彩夏のあの誇らしい顔が脳裏をよぎり、思わず嘲笑してしまう。
「金持ち男を捕まえる事がそんなに偉いのかしら。昔の政略結婚の方がよっぽどまだ大義があるわよ。あれで高得点なんてね。幸せってそんなもんですかって感じだわ。」
思わず彩夏に対する愚痴が溢れ出す。
あんなものが幸せであっていいとは美咲には到底思えなかった。
「まぁ、本人が幸せならいいんじゃないですか?」
「あんなふうに似非幸福をまき散らさないならね。」
「確かに、あれはちょっと迷惑ですよね。」
「美咲先輩は、最近いいなって思う人とかいないんですか?」
「いるわけないじゃない。職場はもちろん、休日だって特に外に出るわけでもなし。出会う事もないし、出会おうとも思ってないわ。」
「そうなんですか。先輩カッコイイしイイ女って感じで魅力あるのになあ。もったいないですよ。」
「人を好きになるなんて、私には向いてないのよ。」
誰かの好意に素直に応えられるような純情な感情なんて微塵も残ってないのだから。
「あんたこそ、男にとっちゃほっておけないような女の代表格だと思うけど、どうなのよ?」
「そりゃ、いい人がいればなーとは思ってますよ。でも恋に恋しちゃってるみたいな感じにはなりたくないですし、いい人ってのをちゃんと見定めて動かないと。お金うんぬんじゃなくて。」
こういう所が真紀のいい所だ。
一見ほわっとしているが、どこか自分の芯が通っている所。
ふと、真紀に彼氏が出来てこうやって食事にも行く機会が減るのかと想像して寂しさを感じる自分がいた。
「あんたの言う通りだよ。どっかの先輩にも聞かせてやりたいわ。」
「先輩、毛嫌いしすぎです。」
「とかいいつつ、笑ってるじゃない。」
「これは失礼。」
お互いおかしくてふふっと笑い合う。上手くやっていながらも真紀にも思う所はあるようだ。
ほどほどにお酒を嗜み、一段落ついた所で店を後にした。
少し肌寒さを感じる。秋の近づきを感じさせる気温だ。
「今日はありがとうございました。またいいお店見つけたら誘いますから。」
「何もグルメって訳じゃないんだから、別にいいわよ。でもありがとう。今日のお店もおいしかったわ。」
「はい、それじゃまた。」
「うん、じゃあね。」
真紀の背を見送る。
1人になった途端、寒さもあいまってかふいに寂しさが心をよぎった。
「・・いい人、か。」
今の私には、無縁かな。
第二章 幸福の兆候
(1)
つまらない日常に差し込む、僅かな光なのかもしれないと美咲は思った。
開いたメールに記載されていた内容。
差出人:向井 弘子
若生(わこう)小学校6年同窓会の開催について。
向井弘子。懐かしい響きだ。最後に会ったのはいつだろう。
快活で負けん気が強く、常にリーダーとして場を引っ張ろうという責任感の強い女の子だった。同窓会を開こうという発案もおそらく弘子がきっかけだろう。
頭の中に、幼き頃の懐かしい面々や場面がぶわっと広がりだした。
あの頃は充実感に満ち溢れていたな。
美咲は迷うことなく参加の意を示した。
長らく顔を合わせてはいない者も多いが、それでも美咲にとって若生小の皆はかけがえのない仲間達だと心底思っていたからだ。
それに・・。
「あ、やば。」
時計の針が気付けば遅刻のデッドラインまで迫ってきていた。
想い出に現世の時間が歪められていたようだ。
だが扉を開く際のいつもの重い気分が今日は幾分か軽い気がした。
夜、コンビニ弁当をもさもさと頬張っていると、メールの軽快な着信音が鳴りだした。
差出人を見て、思わずが顔が綻ぶ。
“久しぶりー!みさ、もちろん同窓会行くよね?会うの楽しみにしてるぞー。”
“もちろん参加するわ。また当日にね、みどり”
花山翠。自分にとって親友は誰かと聞かれれば真っ先に思い浮かぶのが翠だ。
今までの障害を通して、本当の意味で信頼を寄せている人物と言える。
翠とは必ず一年に一回は会うようにしている。正確には会っておかないと気が収まらないという表現の方が正しい。
たいてい年末に会うのがお約束なのだが、一年の締めとして全ての自分の中にある毒素を抜き去りリセットしまた一年のスタートをきる。翠と年一度語らうというのはお互いにとって重要なイベントなのだ。
(若生か、懐かしいなー。)
学生数は他校に比べれば少なく、一クラス男女合わせて20人程度の集団の中で過ごしてきた。それ故か結束力は強かったように思える。個々の個性も強かったが、それが集団を乱すようなことはなかった。
過去に戻るとしたらいつに戻るか。美咲にとって戻れるなら間違いなくこの小学校時代だ。
無茶もいっぱいした、そして本当に純粋に恋をしたのも思い返せばこの頃が最初で最後だった。
早く、皆に会いたいな。
(2)
景色の懐かしさと共に、だんだんと高まっていく高揚を美咲は抑えられずにいた。
不安も多少あった。何せ翠を始めとした何人かはそれなりに顔を合わす機会はあったものの、全員が集合するなんて果たして何年ぶりか。
昔の時のように、話せるんだろうか。今のすれた自分がどう映るんだろうか。
期待と不安、いずれにしてもここまで感情が保てていないのも久々の事だ。
集合場所は、小学校の正門前。
最寄駅につき、思い出の地に足を下ろした。ノスタルジックという表現がすんなりと心に入ってくる感覚が心地よい。
少々集合時間よりは早いが、もう来ているメンバーもいるだろう。時間に対して厳しい豊島君あたりならもうすでに到着しているかもと級友の顔が浮かび、緩む頬を制する事が出来なかった。
次第に校舎が見え始める。校舎の側面が近づいていくとやはり時の流れか、少し老朽化が進んでいるようだったが変わらず立派に佇んでいる
そしていよいよ正門側に体を向ける。人影が数人確認できる。美咲同様、高揚感から早くに到着してしまったのだろうか。
やがてその姿がはっきりと映し出される。まだ距離は少しあったが、笑顔でこちらに手を振ってくれている。
「あ、ひょっとしてみさきか!おーい!」
「ほんとだ、みさだ!はやくはやくー!」
嬉しくて、そしてあまりの皆の変わってなさ具合がおかしくて、笑顔が止まらなかった。
「みんなー、久しぶりー!」
普段出すことのない慣れない大声に喉が多少驚いている様子だったが、美咲の声はしっかりと級友達に届き皆の笑顔が更に輝きを増していた。
小走りで近づき、改めて近くで皆の顔を確認する。本当に、全然変わっていない。
「みさき、なんだかカッコ良くなっちゃってー。」
「本当だよ。ちょっとクールが過ぎるんじゃないか。」
「そんな事ないでしょ。っていうか皆変わってなさすぎで逆にびっくりしたわ。」
みっちょん、おぎっく、あずさ、ごうた。
昔の面影そのままに皆成長を遂げている。さっきまでの不安が嘘のように吹き飛び、今あるのはそこはかとない安心感だった。
「ちょっとまだ早いからな。まぁ言ってるうちに揃うだろう。」
おぎっく事、小木久智也の言葉通り、次第にぞろぞろとメンバーが揃いだしていった。
皆の元気な姿が見れて、それだけでも今日ここに来て良かったと思った。
「さて、皆揃ったみたいだな。」
おぎっくがそう声を駆け出す所を見ると、今回の同窓会は弘子同様主催者側の立ち位置なのだろう。
温和な性格で当時から物事に対して柔軟に対応する姿から自然に皆と頼られ、気付けばリーダー的な立ち位置に収まっている具合だったので、数年ぶりに今回も弘子からこの会の助力として頼られたのだろう。
「みんな、今日はありがとうね。本当に何年ぶりだろうって感じね。でも皆お元気そうで何よりだわ。男性陣の頭皮も見る限り大丈夫そうね。」
弘子の言葉にどっと笑いが巻き起こる。堂々とした立居振舞と遠慮のないキレのある口ぶりは今も衰えていないようだ。
「よし、この後は近くの飲み屋を予約してあるんだが、その前に!皆で記念撮影だ!」
おー、いいねー、撮ろう撮ろう、賛同の声が瞬く間に広がっていく。
「準備すっから、正門の前に皆並んでおいてくれ!」
そう言って、おぎっくは自分のリュックからカメラと三脚を取り出しセッティングを始める。
「美咲、ほら動いて動いて。」
と翠がぐいぐいと体を押し寄せてくる。
「ちょっとそんなに押さなくてもいいでしょーに。」
翠で押されたことで左肩にどんと誰かの体がぶつかり、翠の押し出しが落ち着く。
「あ、ごめん!翠が押すもんだから・・。」
「大丈夫だよ。」
美咲の語尾は霧のように徐々に霞んでいった。その人物に思わず見入ってしまう。
「お、美咲か。久しぶりだな。」
「う、うん。久しぶり。」
「よーし撮るぞー!」
おぎっくが急いで皆の列に加わる。
「5,4,3、2,1!」
私は、果たして上手く笑えていたかな。
らしくないな、こんなの。
九条裕。
美咲にとって、今までの生涯で唯一恋をした人物だった。
(3)
飲み会は大いに盛り上がっていた。店は貸切なようで座敷席からテーブル席まで若生のメンツで占領していた。
それぞれの近況、それぞれの昔話。場が高く温度を保つのに十分すぎる程の材料が皆の中に潜み、それが所々で爆発するかのように笑は絶えなかった。
美咲もいつにもまして饒舌だった。自分の話で人を笑いに巻き込むなんて、最近はめっきりなくなっていたので爽快感溢れるものだった。
そしてこういう場では鉄板ネタとも言える、恋愛話が始まりだしたときそこには少なからずサプライズが待っていた。
今回の同窓会の主催者であるおぎっくと弘子が婚約するとの事だった。まだ正式に籍は入れていないが、近々式も開く予定との事でその時はまた皆招待するからなとおぎっくが上機嫌で話していた。
この話を知っている者はいなかったようで、周りからは驚嘆と祝福の言葉が飛び交った。
更に驚いたのはその付き合いは高校の頃にまで遡るとの事。知らない所で二人はお互いの時間を長く共有していたのだ。当時からそんな様子もなかったのでこれには心底驚いた。
美咲は祝福の気持ちでいっぱいだった。真紀であれば別だが彩夏が同じ知らせを持ってきたときに絶対にこんな感情にはならないだろう。まるで自分の幸せのようだった。
ふいにちょんちょんと脇腹をつつかれる。右隣に座っている翠だ。
「何よ。」
「裕君、以前にもましていい男になってるじゃないの。」
思わずどきっとする。親友である翠にはもちろん裕に恋をしている事は話していた。
暗に”じっとしていていいのか?”とせっつかれているようで途端に体が強張りはじめる。
「そうね。」
ちらっと裕を確認する。当時よくつるんでいたメンバーと談笑している。
柔らかい笑顔はやはり魅力的で見ているだけで安心感に包まれる。小学生だった頃の美咲はこの笑顔に完全にやられてしまった。
そんな記憶も蘇り、顔が火照ってくる。
「あーだめ、らしくない!」
「なに勝手に照れてんのよあんた。」
途端に頭が上手く回らなくなる。新鮮であり、近頃は毛嫌いしている感覚。
(もーやだやだ。何がクールでカッコイイよ。)
こんな姿を真紀がみたらきっと幻滅するだろう。
結局飲み会の席で裕と話せるチャンスは掴めなかった。
自分の不器用さに辟易とするが、悔やんでも時間は戻らない。気が付けば自分の目的が級友ではなく裕に絞られている事に自分でも驚く。
同窓会の連絡が来たとき、どこかで期待している自分がいた。
私もここで何かのきっかけを掴めるかもしれない。
今思えば、弘子から連絡が来た瞬間に頭に浮かんだのは裕だったかもしれない。
「皆今日は忙しい中、予定を合わしてくれてありがとう。とりあえずここで一旦解散とします。二次会とかには関しては各自に任せるんでよろしく!それじゃ、一旦お開き!」
おぎっくの威勢のいいかけ声で一旦場がしまり、店を後にする。
この後どうしようかという流れの中で、美咲は裕の姿を追っていた。
やがてぞろぞろと皆がそれぞれ移動を始める中で、裕を見つけた。裕は皆の流れには目を向けず、ぼんやりとどこかれとなく視線を投げ捨てているようだった。
(よし。)
ここに光があるかもと思ったのだ。惰性のようないつもとは違う。今日だけは後悔を残してはいけない。
つかつかと裕に歩み寄る。勇気を出せ、美咲。
「裕君」
思ったより大きな声が出てしまい、急激に緊張と恥ずかしさが美咲に纏わりつく。
その声に我に返ったように、美咲に顔を向ける。
やせ気味だが端正な顔立ちに改めて美咲の心臓がきゅっと締め付けらるようだった。
「美咲か。美咲は皆と行かないのか?」
気付けば他の皆はもうほとんどその場に残っていなかった。
「うん、あの感じだと多分オールになっちゃいそうだし。おばさんにはちょっと辛いわ。」
ふっと裕が微笑む。
「何がおばさんだよ。皆同い年じゃないか。」
「心はもうおばさんなの。そういう裕君こそ、今日はもう帰るの?」
「うん。休みだけど、ちょっとやっておきたい仕事もあるし。」
「忙しいのね。何のお仕事してるの?」
「建築デザイナー。大変だけどおもしろみはあるよ。」
裕の顔は生き生きしていた。仕事を心から楽しんでいる姿に美咲は羨ましさを感じた。
「そっか、いいね。人生の生き甲斐があるって感じ。」
「そうだね。恵まれていると思うよ。美咲は?」
「私は事務処理。裕君みたいな素敵な仕事ではないわ。」
「そうかな?気の持ちようもあると思うけど。」
「いやいや、それがなかなか、ね。」
「そうか、美咲も頑張ってるんだな。」
実際の現場を見てもそんな言葉を掛けてくれるかな、なんていらぬ事を考えてしまう。
「さて、そろそろ行こうかな。美咲どうする?」
「え、あ、そうね。うん。」
意識して普通に会話するように気を付けていたが、アルコールもあいまってか心臓の鼓動は早まる一方だ。
「じゃあ、行こうか。」
2人並んで登下校の道を歩む。当時こうやって歩いたのは一度きりだった。
あの時は、美咲の一大決心で裕に約束をとりつけ帰路を共にした。
裕との会話にはまだ幾分緊張があったものの、美咲の話したい方向に合わせて上手く合わせてくれるのか、心地よさもあった。人が何を考えているのか、何を言いたいのか、そのあたりを汲み取るのに長けているのだろう。
ふと裕が足を止める。美咲もそれに従う。最初疑問に思ったがすぐに理由に思い付いた。
その瞬間顔が火が出そうになるほど肌が熱くなるのを感じた。
「美咲、ここで告白してくれたよな。」
よく分からない兎の石造が置かれた文具店の前だった。何故この場所で言ったのかは美咲にも正直よく分からない。どこかで誰かに見守っていて欲しいという思いをこの兎に託したのかもしれない。
「そんな恥ずかしい事思い出さなくてもいいわよ!でも、よく覚えてるね。」
「覚えてるさ。あんな風にちゃんと告白してくれたの美咲くらいだったからね。」
「どういう事?」
「自分でも言うのもなんだけど、これまで何度か告白を受けたことはあるんだ。でもどれもメールとか手紙とか。自分の口で伝えようとしてくれた人はいなかったよ。気持ちはありがたかったけど、全部お断りしたよ。」
「とか言って、私の事も振ったくせに。」
思わずちくりとした言い方をしてしまう。これには裕もまいったらしく苦笑しながら
「ごめん。あの頃は付き合うとかそういうの実感湧かなくってさ。」
と答えた。
確かにそんな答えだった記憶がある。
「美咲は、今彼氏とかいるのか?」
「え・・。」
そんな質問が急に来るとは思っていなかったのでびくっとしてしまう。
「いないわ。長らく男っ気のない生活を送ってるわ。」
「そうか、俺と一緒だな。」
予想外の答えに驚きを感じると共に、心の中でガッツポーズを思わず決めている自分がなんだか滑稽だった。
「幸せって何だろうな。最近よく分からないよ。自分が人と付き合えるのかって自信もなくなってきちゃってね。」
「なんだか裕君には似合わないセリフだね。」
「そうかな。まあでも仕事があるからね。それが支えかもしれないな。」
少しだけ、自分と裕が重なっている感覚を覚えた。
「幸せか。なんだろうね幸せって。」
裕の駅の方が美咲よりも先だった為、裕とはそこで別れた。
来てよかった。改めてそう思う。
確信はない。でもやはり自分が見た微かな光に間違いはなかった。
そして、その光はもっと輝きを広げるかもしれない。
電話帳に新しく刻まれた、九条裕の文字に美咲は人生の希望があるように思えた。
第三章 幸福の具現
*
大量の装置、PC、アスファルトで構成された無機質な部屋にあらゆる技術力が結集したその空間で彼女は静かに佇んでいた。
自分が追及してきたもの。それに対して明確な答えは出ていない。
ただ、今行っている事は明らかにルールを逸脱しており、そして彼女の頭脳を持ってしてもそこから導かれる結果どうなるのか、想定が出来なかった。
いや、ある程度の予想はしている。いくつもの結果が頭に浮かんではいる。しかしその中でどれが神の手によって選ばれるか。その手が掴み取る運命の矛先がどこに向くか、それが問題なのだ。
「主任。大丈夫ですかね。」
気弱そうな丸眼鏡の青年が不安げに彼女を見上げる。大き目の白衣に着られている姿がより気弱さを引き立たせている。
一年目の彼にとってはその不安もより一層大きいだろう。そして個人的な感情でルールを歪めた自分の姿を彼に見せてしまっているのが心苦しかった。
「今のところはね。油断は出来ないけど。」
そう、油断は出来ない。常にその場に応じた対応策が必要となる。
「こんな事がばれたら、おめぇ上から大目玉だな。」
上司にあたる冴木は当初から呆れ顔だったが、反対も止めもしなかった。気持ちを汲んで今回の件について関わってくれていることに感謝が絶えない。
「もしもの時は私が責任を負います。」
「当然だ。ちゃんと見とけよ。」
いつもとはケースが違う。
しかし自分のしている事は正しいのか。
いくら考えても答えは出なかった。
(1)
仕事は相変わらずだったが、一つだけ大きな変化があった。
「柊君、何か良い事でもあったの?」
「いえ、別に。」
仕事に面白みもなければ、特別気持ちを入れて取り組んでいる訳でもない。
しかし、その夜真紀と食事の際に
「美咲先輩、なんかいい顔してますね。彼氏でも出来ましたか?」
真紀にまでこう言われてしまっては、明らかに裕が自分に何らかの影響をもたらしている事を認めざるを得なかった。
同窓会以降、美咲は裕と連絡を取り合うようになっていた。
自分がまた恋愛なんてという想いは徐々に薄れだしていた。
正直驚いている。ここまで一日一日を過ごす心境が変わるものかと。
基本的にはメールでのやり取りであったが、受信BOXに裕からメールが来ていると分かるだけで、浮かれている自分がいた。
「彼氏じゃないわよ。」
そう否定しながらもその関係に至る事を既に夢見始めていた。
真紀に裕とのいきさつを話して聞かせた。「先輩にも乙女チックな所あるんですね。」と失礼極まりない発言を受けたが、確かに少し前までの自分なら自分自身に向かって同じような言葉を投げかけていたかもしれない。
数日後、
“アナタノ今月ノ幸福度結果ヲ送信致シマス。”
脳内に機械的な声がこだまする。月に一度贈られる結果通知の日だ。
“アナタノ今月ノ幸福度ハ、55点デス。”
それまで30~40点台を常にキープしていた美咲にとって初めての50点台だ。
馬鹿げた制度だとは思いながらも初めての高得点に悪い気がしないのも本心だった。
美咲は自分自身がだんだんと変わっている事を感じていた。
裕は仕事人間な所があるので1ヶ月のうちに1,2回会う程度の頻度だったが、その時は裕も仕事の事は横に置き、美咲との会話を大事にしてくれた。
食事をしたり、映画を見たり。何か特別で奇抜な事をしたりは決してないが、お互いのペースを尊重して同じ時間を共有しているという感覚が美咲を安心させた。
美咲が勝手にそう思っているだけなのかもしれない。
勝手に理想を思い描いて、最後にはそのせいで大きな傷になって跳ね返ってきてしまうのかもしれない。
でも昔めいいっぱい腕を伸ばしても届かなった距離が、長い時を経て、縮まっている。
そんな風に感じて、なんだかこそばゆかった。
(2)
「自分の仕事に誇りは持ってるし、自信もあるけど、美咲にとってそれって楽しいかな?」
「見てみたいの。だめ?」
「まあ美咲がいいなら。」
そう頼み込んで美咲と裕はとある高級住宅街に来ていた。建築デザイナーである裕は様々な建物をデザインしている。その彼の作品を一度目にしてみたいなと美咲は思ったのだ。
渋々ながらという感じだったが、裕は了承してくれた。
「もうすぐかな。あ、これだよ。」
そう言って裕が指をさす。
「うわあ、綺麗。」
純白を基調としたその建物は一見家屋というよりも、カフェテリアのように思えた。
テラスと看板さえこしらえれば間違ってふらっとランチでもとお客が吸い寄せられそうな姿だ。
「中入ってみる?」
「え、いいの?」
「デザイナーの権限で自由に立ち入りは可能なんだ。特例だよ特例。」
「へーじゃあ、ちょっとお邪魔してみようかしら。」
ドアを開け、中へと入る。2階へと登る階段が目の前にあり手前に扉が左右に2つ備えられている。とりあえず左側の扉を開けてみる事にした。
「あら?」
中はインテリア類は一切なく、だたっぴろい空間が広がっていた。コテージのように小階段が設けられており、そこからロフトへと繋がっている。いい家だ。しかしやはり家財具ないので寂しさはいなめない。
「僕があくまで手をつけるのは空間造りまでだ。それ以上については実際にこの家に住まう家族が造り上げていくものだからね。」
なるほど。なかなかに良い事を言うなと感心した。
「他の部屋も見てみる?」
「うん、ぜひ。」
それから美咲は裕が手掛けた作品を見て回った。この空間が裕の手によって生み出されたのかと思うと、素直にすごいなと思った。誇りを持ちこの仕事を大切にしているからこそできるんだなとなんとなく感じた。
美咲の後ろで裕は静かだった。自分の作品なのだから、目の触れる所に「ここはこうでね。」なんて言い出しても良さそうなものの、ただ静かに美咲が作品に触れる様子を暖かく見守っている。そんな感じだった。そして口には出さないが、素直に感心している美咲の姿を見て喜んでいるようにも思えた。
「そろそろ、出ようか。」
裕の一声で二人は再び外へと戻った。
「ありがとうね。裕君のまた新しい一面を見れたみたいで嬉しかったよ。」
「そうか、なら良かったよ。」
その後少しお腹が空いたなという事で真紀と行ったパスタ屋に入る事にした。
裕はパスタを頼んだが、真紀の言葉を思い出し美咲はピザを頼んだ。
彼女の言う通り、こちらもなかなかの逸品だった。しばらくこの店に通いつめても飽きは来なそうだ。裕も満足気な様子を見て満腹感と共に幸福感も味わえた。
外に出るとすっかり日が落ちていた。いいお店だったねと裕もこの店を気に入ったようでまた来るときが楽しみだなと心で嬉しさがじんわりと広がる思いだった。
「じゃあ、ここで。」
「うん、また。」
別れの挨拶を交わす。今日もいい一日だった。そう思い帰路に向かおうと思ったが、いつもと違う空気が流れていた事で美咲の足は止まった。
裕がその場に立ちすくんでいるのだ。
「裕君、どうしたの?」
そう呼びかけても返答が返ってこない。
途端に得体の知れない不安がじわじわと全身に広がり始めた。
何かまずい事をしてしまっていたのだろうか。すぐに記憶を掻き集めるが心当たりが浮かばない。
「ねぇ、どうして黙ってるの?」
それでも裕の口は開かない。強い視線だけが美咲をとらえて離さない事で美咲の不安は加速する一方だった。長い沈黙。その場にいるのが苦しくて逃げ出したくなるような気持ちに駆られた。
「美咲。」
ようやく裕がその沈黙を破った。しかしその声はいつにも増して柔らかく温かいものだった。
「俺、ちゃんと返事出来てなかったよな。」
「え?・・何のこと?」
裕が何を言い出しているのか見当がつかず、今度は困惑に襲われる。なんだか振り回されているようで少し嫌だった。
「俺、本当に嬉しかったんだよ。嬉しかった。でもそれに応えられるだけの頭と心があの頃は備わってなかったんだよな。」
「何言ってるの裕君?よく分からないよ。」
「でも何年ぶりかに会って、こうやって過ごしてきて。今なら、ちゃんと美咲に伝えられる。」
「え・・。」
それって、まさか・・。
時の流れが一瞬、ほんの一瞬緩やかになった気がした。
「美咲、遅くなってごめん。俺もお前の事が好きだった。今更もう、手遅れかな?」
人生どこで何が起こるか分からない。
でも、手繰り寄せるべき運命はいつだってこちらをきっと伺っているのだ。そのきっかけを自分の手の中に引き寄せられるかどうか。
そこが別れ道なのだ。
美咲にとっての光は、間違いなく今目の前にある。
「ずっと、待ってたよ。」
私だって幸せになれるんだ。
第四章 幸福の枯渇
*
1秒1秒が凄まじく重く背中にのしかかる。早くこの苦悩の瞬間から解放されたい。
そして、どうか何事もなく終わってくれと、私はひたすらそう祈っていた。
「大丈夫か?」
冴木が私の肩にぽんと手を乗せた。笑顔を遠い昔に置き忘れたようにいつもはぶっきらぼうで、仕事に関しては冷酷なまでに厳しい男のその手は、大きく分厚く、悔しくなるぐらい今の私にとって頼もしいものだった。
「・・はい。私が見届けなきゃ。」
そうだ、私が決めたことなのだ。どうなったとしても、私は最後まで関わる義務がある。
「その通りだ。気ぃ抜くなよ。まずくなったらいつでも呼べ。」
そう言い残し、冴木は奥の扉へと去って行った。コーヒーでも飲みに行ったのだろう。
祈りだけではどうにもならない。
大きく深呼吸をする。少し、落ち着いた気がする。
何があっても、私がどうにかするから。
(1)
晴れて付き合う事になった2人の生活は順調そのものだった。
付き合ってしばらくしてまず同棲を始めることにした。
新しく部屋を借りようかという話にもなったが、裕の部屋がそれなりに広かった所と、美咲の部屋にはもともと物が少なく、最低限必要なものだけ持ち込めばそこまで部屋を圧迫する事もないという点で、裕の部屋に美咲が住み込むという形に落ち着いた。
唯一寝床に関してだけ問題があったので、二人が寝るのに十分なベッドだけは新調した。
毎日が幸せだった。一人で希望もなく、心が痩せ細っていくように人生を過ごす事になるのかと思っていた時間を、今裕と共有している。分からないものだなと美咲は思った。
2人の生活は大きな喧嘩が起きる事もなく、互いが互いを必要とし、互いが互いを尊重したものだった。波長が合うという感覚はこういうものなのだろうか。
美咲にとって長い冬がようやく終わったような、そんな心境だった。
そしてある日、何の気なしに美咲が
「結婚ってどういうタイミングでするんだろうね。」
と軽い調子で言った言葉に、
「んー。じゃあ、今しようか。」
と裕が普段と同じ調子で言うものだから、
「唐突だねー。」
なんて美咲も同じよう呑気に返事した。
その後、裕がちょっと出かけてくるねと言って家を出てしばらくした後、
「はい、これ。」
と何食わぬ顔で帰宅し、美咲の目の間に婚姻届を開けた。
これにはさすがに美咲も驚き狼狽したが、裕の顔は至って真剣だった。
そして一言こう言った。
「これからもよろしく、美咲。」
柊姓から九条の冠を裕と一緒にかぶる事を正式に決めた瞬間だった。
結婚式。
純白のウエディングなんで着こなせるわけもないし、あんなもの着たくもないと思っていた。しかしそんな衣装を自分は今紛れもなく身にまとっているのだ。
「うん、すごく綺麗だ。似合ってるよ。」
「裕こそ。ばっちり決まってるわよ。」
とてもいい式だった。若生小の面々、そして真紀。真紀に関しては一人ではさすがに気まずいかと思ったが、それでも行きますと言ってくれた事には本当に感謝が絶えない。
ちゃんと馴染めているだろうかと思ったが、すっかり溶け込んでる様子だったのでいらぬ心配だったかと安心した。
一つ悔いがあるとすれば、両親にこの姿が見せられなかった事だ。裕も同様だった。
お互い両親とはすでに死別していた為、こんなに幸せなんだという姿を出来れば見せたかった。
二次会では大いにはじけた。
皆からの祝福と冷やかしの嵐に最初はたじたじだった美咲と裕だったがアルコールが入ってからはに嬉しさと気持ちよさと幸せさでもう訳が分からない状態になっていた。
頭がぐるぐるし思考が鈍っていく中で、こんなにも自分の事を祝福してくれる仲間達がいてくれている事に感謝してもしきれなかった。
翌日の絶望的な二日酔いだけは心底後悔したが。
九条美咲としての人生を踏み出したものの、生活スタイルが大きく変わるわけではなく相変わらずの平和な共同生活だった為、生活自体に何か真新しさがあるわけではなかった。
しかし裕の妻になったんだという意識と事実がこれまで以上に目の前の景色を輝かせてくれている要因となっている事をじんわりと感じていた。
この頃になると幸福度の点数は70点を超えるようになっていた。
信じられない数値だったが、それがまた着実に幸福の階段を登っているという実感を湧き立たせるものとなっていた。
寿退社する事で、あの劣悪な会社を去った事も大きかったかもしれない。真紀と離れる悲しさはあったが、彩夏の悔しそうな顔を見れたのは自分でも思いのほか満足だった。
なんでもあの金持ち青年に本性がばれてしまい別れを告げられた事ともあり彩夏にとってはダブルパンチものだったようだ。
新しい人生が始まった。
今までの自分はもうここにはいないのだ。
(2)
まさにとんとん拍子といった所だろうか。
結婚生活が始まって3年が経過していた。小さな小競り合いはごくたまにあるものの概ね問題なく時間は過ぎていった。
一つ変化があったのは美咲の意識だった。結婚して3年、今の生活にもちろん満足している。裕はますます頑張って腕を上げ、その腕が認められて依頼も増えてきている。忙しさも比例して増してはいるものの、本人が生き生きとしている姿を見ると美咲も自分の事のように嬉しかった。
収入もあがってきているし、そろそろ子供の事を考えてもいいかもしれない。
漠然と浮かんだその意識は日に日に強くなっていった。
とある日の夜、一緒にテレビを見ながら美咲はその思いを裕に伝えることにした。
「ねぇ裕。」
「うん?どうした?」
「最近ね、子供が欲しいなーって思うようになってきてるんだ。」
そういうと裕の目は少し大きく開き、美咲の目をまじまじと見つめた。
「子供?」
「うん、裕はどう思っている?子供、欲しい?」
しばらくじっと見つめた後、裕の頬がふっと緩んだ。
「そうか、子供かー。これは賑やかになるな。」
「もうー。欲しいかどうかを答えてよ。」
すると裕はばっと立ち上がり、美咲の腕を掴んだ。
「え、なに!?」
「そうと決まったら、行動だ。」
普段は穏やかなのに結婚の時といい、時に裕は大胆さを見せる。
自分も欲しいって素直に言ってくれればいいのに、ひょっとしたらこれもタイミングを窺っていたのかもしれない。
そして、九条家に新たな家族が加わった。
生まれたのは元気な女の子だった。生れ出た皺くちゃのお猿のような顔は美咲と裕には天使そのものだった。愛おしくてずっと離したくない、大事な大事な娘。
「もっともっと俺も頑張らないとな。」
「頑張ってね、お父さん。」
「君もな、お母さん。」
雅はすくすくと育ち、活発に遊びまわり誰とでも笑顔で触れ合う天真爛漫な子に育っていった。雅という上品で奥ゆかしさを持った子に育てばいいなという想いは神のイタズラのように無視されてしまったようだが、これだけ元気でいてくれればただそれだけで満足だった。
コウフクドハ、75点デス。
80点の大台も見えてきた。幸福度に関しても美咲はすっかり優等生だ。
人生が幸せで溢れている。
怖くなるぐらい順調な人生だ。
でも不遇な時間が長かったのだ。これだけの幸せに囲まれるのは必然なのかもしれない。
美咲は気づいていなかった。
美咲の心が既に、数値化された幸福に浸蝕され始めている事に。
(3)
コウフクドハ、70点です。
「え?」
おかしい。これだけ幸せで何不自由ない生活が出来ているのに点数が下がっている?
裕は頑張ってくれているし、雅だって学校生活を満喫しているようだ。
となると、美咲自身が何か足りていないという事か?
・・私自身の価値が下がっている?
自分の最近の生活を思い返す。働く夫や娘のために家事に従事し、家計をやりくりし、無駄が出ないように一人暮らしの時にしていたような無駄遣いや贅沢の類は極力省いている。
自分で言うのもなんだが、これは理想的な妻ではないのか?ここまで献身的に尽くしているというのに、このままでは幸福と認められない。
それから、美咲は周りの親しいママ友達等にしれっと幸福度を確認してみる事にした。
その結果は美咲を打ちのめすだった。
周りにいる者は皆、80,90点を超える幸福におけるプロフェッショナル達だったのだ。
(どうして?)
やっと手に入れた幸せだと思っていたのに、これでは逆戻りだ。
(私になくて、あの人達にあるのもの・・。)
幸福を、手放したくない。
「美咲、こんなカバン持ってったっけ?」
「ううん、今日買ってきたの。素敵でしょ?」
「うん、まぁ・・。でもこれって結構するんじゃないのか?」
「そんな事ないわよ。ちょうど買わなくちゃいけないと思ってたからいいの見つけたって思って。」
「そうか・・。」
裕の顔は優れないものだった。確かに裕の言う通り、この鞄はそれなりに値段が張るものだった。最初は確かに迷った。こんなものを買って本当に変わるのか。
でもいくら考えてもこの結論しか導き出せなかった。自分の周りにいる高得点者達の共通点は身に着けているアイテムが一般家庭よりも1ステージも2ステージも上質な物を身に着けているという点だった。
これを買えばあの人たちに近付ける。でもこんな高価なものを・・。
葛藤はあったが、結果美咲はそれを購入した。家に戻るまではそわそわしてたまらなかった。買ってしまった。家計はやりくしてきた事もある(というか収入を考えればそこまで気を張らなくても正直なんとでもなる額はあるのだが。)のでそこまでダメージはないとはいえ、ここまでの贅沢は人生で初めてだ。
帰宅し、丁寧に物を取り出す。そして鏡の前に立ち肩から引っ掛けてみる。
途端に、美咲の中でとてつもない勢いで感情が潮流する。
なんだこの何とも言えない感情は。充実?満悦?
とにかくにも、不安によって突き破られた穴を、それは凄まじいスピードで穴を塞ぎ、瞬く間に修繕してしまったのだ。
これだ、これだ、これだ。
そして、これを期に美咲の幸福は歪な形へと変容していった。
おもにそれは物欲という形で美咲を満たした。
衣類、アクセサリー類、身に着けるものはもちろん食器類、家具に至ってもより高級なものへと様変わりしていき、みるみる内に室内は高級品で溢れ出した。
裕からは、こんなものを買う必要があるものかと小言を言われたが、これは私達にとって重要で必要な不可欠なものだと強硬な姿勢で訴えればすぐに引き下がった。彼も分かってくれているようだ。
雅もきれいだね、これと気に入ってくれているようだ。
そう、これでいいのだ。もっともっと幸せにならなくちゃ。
私にはその権利があるのだから。
(4)
「美咲、話がある。」
「何、裕?」
雅もすっかり寝静まった夜、裕は珍しく深刻な顔をして美咲に話しかけた。
向かいの席に座る裕の顔は険しく、しばらく無言のまま美咲の顔を見つめる。
「何?」
「お前、最近おかしいぞ。」
「何がよ。」
「何が?分からないか。この家の中を見回してみても何も思わないのか?」
「だから、何がよ。」
「お前が綺麗に着飾るのもいい。食器や家具が高質なものになっているのも気にはなってたが、お前が必要だというからそれも黙認してきた。だがな、この絵画は本当に必要なものか。俺にだってわかる。これはレプリカにしても相当したはずだぞ。」
「それだって必要なものよ。この家がもっとよくなればと思って。」
「お前、いつからそんな見てくれを気にするようになったんだ。こんな事を言いたくはないけど、これって俺の収入から買ってるものだよな。買うのはまだいい。けど、俺に相談もなく、勝手にこんな高価な買い物をばんばんしてるのは、やっぱりおかしいぞ。」
裕は怒っているようだが、美咲には彼が怒っている意味が分からない。もっとよくしようと思ってるだけなのに、なぜわかってくれない。
「他の家だってみんなしてる事よ。現に私の周りはこうする事で幸福度をあげてるわよ。」
「幸福度?幸福偏差値の事か。美咲、そんなものには興味もないし数値で幸せを量るなんて馬鹿げてるって言ってたじゃないか。」
「昔はそうだった。でも幸せになる度に点数はあがっていく。この数値はとても正確に人の幸福度を量ってくれているのよ。幸せになりたいと思って何が悪いのよ!?」
だんだんと頭に血が上っていく。私は間違っていない。正しい事をしているのに。
「私はこうやってこの家を良くしていこうと思っているのよ!そんなに物の値段でどうこう言うなら、もっと稼ぎなさいよ!そんな事気にならないぐらいの収入があれば、こんなのどうって事ないでしょ!」
その瞬間、裕の顔からすっと感情が消えていった。その顔は蝋人形のように精気はなく、不気味さすら感じるものだった。
「・・そう。そうか。それがお前の幸せか。」
か細く耳を澄まさなければ聞き取れない程、脆弱な声だった。
「裕。ねぇ・・。」
「もういい、喋るな。エネルギーの無駄だ。」
最後は吐き捨てるようにそう言い残し、部屋を出て行った。勢いよく閉められた扉の音に美咲の体がびくっと震えた。
「・・なんでよ。」
幸せになりたいだけじゃない。
そんなに駄目な事なの。
幸せって何よ。
第五章 幸福の崩壊
*
そろそろ準備を始めた方が良いかもしれない。事態は予断を許さない状況になってきている。
冴木の顔も強張ったものになっている。
「ぼちぼち、手を打った方がいいんじゃねえか。」
「ええ。でも今の状態では通常の解放では駄目です。ましてや強制終了なんてしようものなら。」
どうする、外部からの下手な干渉はそれこそ最悪の事態を招く可能性が高く、取り返しのつかない事態に陥った時に対処が間に合わなくってしまう。
こんな事になる前に手を打つべきだったが、あまりにも急すぎる事態に珍しく脳がパニックを起こしている。
「落ち着け。方法はあるはずだ。といっても、どうしたものかな・・。」
冴木に眉間にきつく皺が寄っている。この男も悩むという瞬間があるのかと呑気な思考が頭をよぎったが、その事が事態の深刻さを物語っている事に更なる不安が背中に大きく圧し掛かってきた。
「・・やってみるか。」
「え?」
気付けば冴木はすでにさっぱりとした顔色に戻っている。しかし、どこかまだ不安要素が残っている事が感じられた。
「目ぇ離すな。何か起きたら報告しろ。」
そう言いながら、冴木は凄まじい速度でキーボードを叩き始めた。何かのデータを処理しだしているようだ
「主任、僕は何か出来るでしょうか・・?」
丸眼鏡君はおずおずしながらも私に話しかけてくる。
(こんな新人君に心配されてるようじゃ、私もまだまだだめね。)
「私の代わりにしっかり見守ってて!」
「は、はい!」
そして私は冴木のもとに近付く。
「手伝います。私に出来る事は?」
「準備は俺がする。お前はこの資料に目ぇ通しておけ。」
そう言ってポケットからくしゃくしゃになった紙の束を手渡した。
広げていくとホッチキスで止められたその資料の表紙部分の文字がようやく確認できた。
しかし、そこに書かれた文字に思わず私は見入った。
「冴木さん、これって・・。」
「この状況になっちまった以上、それしか方法が浮かばねぇ。最悪で最低でなるべくやりたくはねぇが、救えるとしたらこの手段ぐらいだ。もっとも、道連れの可能性もあるかな。まさに、一か八かの手段だ。」
急激に喉が渇きを覚える。相応の覚悟を決める必要があるようだ。
「ダイブ、ですね。」
(1)
あれだけ温かかった家庭の温度は、嘘のように急激に凍っていった。
会話は愚か、顔を合わせる事すらしなくなった。裕の仕事は自宅でも可能なものだが、
今となっては仕事に必要な道具を持ち出し雅が小学校に出るのと同じタイミングで一緒に外出するようになり帰ってくるのは夜遅くで美咲の用意した夜食は一切口にしなかった。どこで作業しているかはもちろん楓には教えてくれなかった。
雅の態度もあからさまに冷たいものとなった。おそらく裕から何かを聞いたのだろうと思っていたが、どうやら裕と言い争ったあの日、普段は聞き慣れない言い争いの声に目が覚めてしまい、会話の内容を聞いていたようだ。
雅との会話もない。出された食事には手をつけるが、それも仕方なくといった様子でなるべくなら食べたくないといった気持ちがあからさまに出ていた。
雅ももう小学5年生だ。多感になり、いわゆる反抗期と呼ばれる一般的な時期という最悪のタイミングで美咲は娘からの信頼を失ってしまったのだ。
積み上げてきた幸せは、ほんの一瞬で目の前から消滅してしまった。
幸せ、幸せ、しあわせ、シアワセ。
コウフクドハ、20点デス。
ふざけるな。20点?
よくなるように、幸福を求めた結果がこの有様だなんてひどすぎる。
ありえない、ありえない。
私だけのせい?
違う。
・・そうか、わかった。だから点数があがらなかったんだ。
私は完璧だったんだ。
私じゃなくて裕に問題があったのだ。
私達は夫婦だ。そうなった瞬間に私だけの幸福ではなく、私達という単位で幸せを共有している。だから私だけじゃなく裕の幸福度も追求する必要がある。
しかし、裕の幸福度が足りていない。それはすなわちどういう事か。
裕はワタシとのシアワセを望んでいない。ワタシが相手ではシアワセになれない。
裕が私の幸せの足をひっぱてるんだ。
そうかそうか、道理で点数が伸びないはずだ。
というか雅もまた・・。
いや、それはあまりにもか。とにかく今は裕だ。
やると決めたら行動。そうよね、裕。
次の日、いつも通り裕は雅と共に家を出た。
さて、行動開始だ。
少し間をおいて、美咲も家を出て裕の足取りを追う。
雅と二人でなにやら談笑しながら歩いている。
なんて男だ。自分のしている事を棚に上げて、自分の娘に立派なお父さんアピールか。
やがて雅を見送ったところで裕は別方向へと歩き始める。
一体どこに向かうつもりなのか。歩く事約10分、裕の足は最寄の駅に着いていた。
電車?わざわざ毎日そんな遠出をしていたのか。
改札を通り中に入っていくのを確認し、同じく改札を抜ける。
電車が到着し、慣れた足取りで電車に乗り込んだ。出来れば念のため別車両に乗りたかったが、見逃してしまうリスクの方が怖かった為そちらは切り捨てる事にし、同じ車両の端から姿を確認する。
予想に反して裕は一駅移動しただけで車両を降りた。美咲が降りたことはない場所。裕と一緒に来た事もない土地故、不安がよぎる。
駅を降りてまたしばらく裕はもくもくと歩き続けた。そしてやがて一つの建物にすっと入っていった。
図書館?なんとも真面目で騒がしいのが好きではない裕にはぴったりの場所だ。
入館するとすでに裕は席につき、仕事道具を机の上に並べもくもくと作業を進めていた。
とすると、本当に自分の家では居心地が悪いから、落ち着いた環境で仕事をこなしていただけという事か。いや、仕事をしなくては生活費が稼げない。でも家で作業はしたくない。
まだ気は抜けない。
その後も裕の監視を続けたが、昼食に近くのファミレスに一人で食事を済ませた事を除けば図書館でただひたすら仕事をこなしているだけだった。
作業が終わり図書館を後にしたのは夕方5時頃だった。
そしてまた駅への道を歩いている時、裕に動きがあった。
携帯を取り出し何者かと連絡をとりだしたのだ。
誰だ?この距離では確認できない。しかし下手に近付けば気付かれてしまう。
電車に乗り込む裕。しかし今度はまた別の方向車両だ。
背中のあたりがぞわぞわと、なんともいえない気持ちの悪さが染み渡っていくような感覚が襲う。
近付いてくる景色。見慣れた喧噪。
裕がまた電車を降りた。何故ここで降りるのか。そしてなんとなくその方向が見えている自分自身が怖い。
裕の足は容赦なく前に進む。その向かう先。
そこはいつかのパスタ屋だった。
そうだろうとは思っていた。だが、美咲の目には信じられない光景が映っていた。
なんで?なんでよ?
なんであなたがそこにいるのよ?
ねぇ、真紀。
(2)
「美咲?なんでここにいるんだよ。」
「先輩・・。」
2人が私の存在に気付く。真紀の目は驚きで見開いているが、当の裕はさほど驚いていない様子だった事が癪に障った。
「裕、何してるの?」
「何だと思うんだよ。っていうか家にいとけよ。もう夜だぞ。雅の晩飯は用意してあるのか?」
「うるさい!質問に答えて!」
「お前とは喋ってると疲れる。もう帰れ。」
横でどぎまぎしている真紀とは対照的にどこまで冷静な対応だ。いや冷静というより冷徹か。その表情は呆れ果てたものだった。
裕に話しても無駄か。美咲は矛先を変えた。
「真紀。説明してよ。」
「あ、あの・・いや・・。」
ちらちらと視線で裕に助けを求めるが、裕は相手にするなといった様子だった。
あーイライラする。
「あんたに話してんのよ真紀!あんたの口から説明しなさいよ!」
「違うんです!先輩、これは先輩の思ってるような事ではないんです!」
ようやく真紀が口を開いたが、そこから飛び出した言葉は何の説得力もない苦し紛れのものにしか取れないものだった。
「何が違うっていうのよ。隠れてこそこそ。いつからよ。なんであんたと裕がこんな関係になってんのよ!」
「お前のせいだよ。」
空気を切り裂くように裕は冷たくそう言い放った。
「わたしの?何よ、人のせいにするつもり!?ふざけないでよ。」
「ふざけてるのはどっちだ。冷静に考えれば分かるだろ。自分がとった行動をよく考えろよ。どう考えたっておかしいだろ。全部お前のせいなんだよ。美咲。」
お前のせいだ。その言葉を聞いた瞬間、頭の奥がずきっと痛むのを感じた。
お前のせいだ、お前のせいだ。私のせいだ。私のせいだ。
私が悪い。私が悪い。私が悪いんだ。私が悪いんだ?
違う、違う、違う!!
「違うわ・・。」
「何?」
「私のせいじゃないわ・・。」
「先輩・・。」
「私のせいじゃない!!私は悪くない!!悪くないわ!!」
美咲は裕に向かって突進した。美咲の急な行動に裕は一瞬戸惑いから体が思うように動かなかった。そのまま美咲の両腕が裕の体を後ろへと押した。
勢いにたまらず裕の体は押し出される。裕の体が道路内に侵入する。
クラクションが鳴り響く。飛び出た裕の体に、真っ直ぐと車体が近づいていく。
ブレーキ音が周囲に散らばる。
「いやー!!」
真紀の悲鳴。しかしその悲鳴は目の前で起こる混沌にすっぽりと飲み込まれ、空気を伝っていくことなくかき消された。
私のせい。私のせい。私のせい。
悪いのは全部私。
私の人生、終わっちゃったかな。
「美咲は、悪くないんだよ。」
その時、そんな声が聞こえた気がした。
どこか聞き覚えのある声。とても大切な人の声に思えた。
救急車とパトカーのサイレンが重なり、周囲のざわめきが広がっていく。
茫然と立ち尽くす美咲の腕を制服警官が掴み、車内へと押し込まれた。
さようなら、私の人生。
(3)
車両を降り連れてこられた空間に美咲は違和感を感じていた。
てっきり牢屋に入れられると思っていたが、ついた場所は警察所ではなく、どことも分からない高層ビルだった。
車から降ろされ警官は無言で着いて来いと言った動作で美咲を促す。
真っ直ぐとエレベーターに進み、上階へのボタンを押す。
乗り込むと警官は手慣れたように30Fのボタンを押した。
ほどなくして到着し扉が開く。その先に一枚の無機質なドアが見える。
警官は降りる様子はない。一人でいけという事のようだ。
おそるおそるドアの前に立つ。廊下は薄暗く、どうやら見た所ドアはこの階に一つしかないようだ。ドアの内側からは特に何も聞こえてこない。
ドアノブをゆっくりと回し、前に押し出す。
まばゆい光が廊下に差し込む。
光の中に美咲は体を入れた。
部屋の中はただ真っ白で、何も存在していなかった。
物というものが一切ない、排除された空間。
その中に一つだけ存在しているものが確認できた。
部屋の真ん中に佇む女性。白衣のようなものを着ている。
髪は短く、神経質そうな銀縁フレームの眼鏡を着用している。
この空間において際立つ存在。そしてそれはどこか見たことのある面影があった。
「美咲。ごめんね。」
女性が語りかけてくる。
「どうして、名前を?」
そう言うと女性は寂しげに微笑んだ。
「私だよ。翠だよ。」
「あっ。」
誰かに似ているとは思った。そうだ、雰囲気はまるで違うが顔立ちは翠そのものだった。
「翠、何してるのこんな所で。」
「説明はちゃんとするわ。でも今ここでは出来ない。時間もないの。」
「どういう事?」
「こんな事になったのも全部私のせいなの。だから私があなたを助けに来たの。意味が分からないと思うけど。」
「分からないよ。全然分からないよ。私のせいってどういう事よ?」
「それも説明する。その前にお願いがあるの。」
「何?」
「このカプセルを飲んでもらってもいいかな。」
「それは何?」
「いきなりいろんな事が起きて混乱してると思う。一種の鎮静剤だと思ってくれたらいいわ。落ち着いてからじゃないとそれからの説明は複雑になるから余計に混乱されてしまうと大変だから。」
「なんだか分からないけど・・。」
翠の手からカプセルを取り、口の中に放り込む。
「噛まずにそのまま飲んで。」
んぐっと喉にカプセルを落としこんでいく。
「飲んだわよ。」
「ありがとう、しばらくしたら気分も落ち着いてくるわ。」
「それで?一体どういう事なの?」
「うん・・そうね。どう説明していこうかな。」
翠は腕組みをしながら足をとんとんと刻んでいる。話そうとしている事が上手くまとまらないといった様子だった。
「あー、そういえばおぎっく、子供生まれたらしいね。」
思わず前につんのめりそうになる。
「何よいきなり。それは聞いてなかったけど。」
「そっか。なかなかでかい男の子らしいわよ。そういえば美咲ん所は娘さんだっけ?」
雅・・今頃どうなっているんだろうか。
「うん。もう小5。あの子、大丈夫かな・・今頃・・。」
「美咲、心配しないで。それも私が助けるから。」
「え?」
「美咲は、自分を責める必要はないよ。大丈夫だから。」
「どうして?だって私は裕を。」
とん。翠の足が刻みを止めた。
「そろそろ、かな。」
突然、美咲の視界がぐらりと傾いた。まるで目が回ったかのように平衡感覚が一気に奪われ、立っている事も出来なくなりその場に崩れ落ちた。
「翠・・・あんた、何を飲ましたの・・!?」
「ごめんね、美咲。もうこうするしかなかったの。」
「あんたまで私を不幸にする気!?」
翠はまた寂しげな顔をして、私を見つめていた。
「ごめんね、本当に。」
視界はブラックアウトし、意識も徐々に沼にゆっくり引きずり込まれるようにだんだんと薄らいでいった。
私の人生、一体なんだったの。こんなわけのわからない形で親友に殺されるなんて。
こん、な事、に・・なる・・な・・・・て。
第六章 幸福の容器
*
「冴木さん!」
翠はカプセルから勢いよく飛び起きた。強行手段だったがなんとか間に合ったはずだ。
「よくやった。バイタルを確認してるが、見た所問題ない。彼女も無事だ。」
モニターを見ながら抑揚のない声だったが、どこかほっとしているようにも思えた。
「ありがとうございます!本当にありがとうございます!」
ふと横に丸眼鏡君が立っている事に気付いた。彼の目からは今にも涙がこぼれそうだった。よほど心配だったのだろう。
「男がそんなひ弱な顔してちゃだめよ。それに、まだ全てが終わったわけじゃないんだから。」
「え?」
そう言いながら、翠は先程まで自分が寝そべっていたカプセルの隣に目を移す。
微動だにしていないのでひょっとしたら死んでいるのではないかと思うほど彼女は静かにそこにいた。
開閉ボタンを押しカプセルのカバーが横に開かれる。
そして、そっと彼女の肩に触れた。
「美咲。もう大丈夫だよ。」
(1)
「ん・・・。」
瞼を開くとまばゆい光が視界を覆った。
私は、生きているのか?
「美咲、もう大丈夫だよ。」
翠の声がする。徐々に光の中から輪郭がはっきりしていく。
目の前に翠の顔があった。その顔はとても心配そうなものだった。
「翠、私。」
「大丈夫だよ。ほらゆっくり体を起こして。」
言われるがままに、緩やかに上体を起こしていく。起きながら自分が置かれている環境に目を凝らす。
様々な装置。白衣の男。そして、美咲自身が何かの装置の上に載っている事。
「私、あなたに迷惑かけちゃったのね。ごめんね、翠。」
「いいの、気にしないで。私の責任でもあるわ。とにかく無事でよかった。」
美咲はうなだれた。私は自分のわがままで、親友を巻き込んでしまったのだ。
この装置を使えば、また裕に会えると思って。
(2)
現実に裕と過ごしていたのはもう5年も前の話だ。
同窓会で再開し、付き合う事になり、結婚を約束した。
幸せの絶頂だった。昔から恋焦がれていた存在と人生を共に出来る。
美咲にとって、第二の人生が始まる。
しかし、それは叶わなかった。
結婚式の一週間前、裕はちょっと出かけてくるといって外出した。
仕事に必要な参考資料を得るために図書館に行くのが目的だった。
だが、裕が一生戻ってくる事はなかった。
代わりにあったのはあなたのご主人が事故にあったという警察からの連絡だった。
裕は猛スピードで走ってきた車が信号無視をして突っ込んできた事によってはねられたとの事だった。
打ち所が悪く、ほぼ即死だった。
車に乗っていたのは、偶然にも美咲が元々勤めていた会社の先輩だった。
日頃から何かと美咲を見下していた人物だった事もあり、美咲は考えつく限りの罵詈雑言を浴びせ続けた。理由は男に振られ、自棄酒をした挙句のスピード違反だった。
救いようのない自分勝手な理由で最愛の人を奪われた。激しい憎悪がおさまる事はなかった。彼女に実刑が下ってからも、手紙で彼女に対して呪詛の言葉を伝え続けた。自分の名前ではなく偽名を使ってはいたが、中身を見れば誰からのものなかのは彼女には一目瞭然だっただろう。
やがて彼女は精神を病み、完全に壊れてしまい、専用の施設に移動させられた事を人伝に聞いた。
憎悪が消えたわけではないが、これで彼女の人生が復帰出来ないまでに完全に破壊してやった事で復讐は終える事にした。
しかし、復讐を終えた時、美咲の心に残ったのは裕のいない無意味な人生だった。
もう彼はこの世にいない。こんな不幸に何故私が見舞われないといけないのか。
そして、もしあの時一緒に外に出ていればこんな事にはならなかったのかもしれない。
矛先のなくなった復讐の刃は美咲自身に向き始めた。
しばらくは無気力で悔恨に苛まれる生活が続いた。。
ある時、たまたま点けていたテレビのニュースから奇妙な情報が耳に入ってきた。
なんでもどこかの学者が人間の幸福についてより多くの情報を得る為に、人間が幸福を追求する様を被験者自身が設定された仮想空間で送る装置を開発したというものだった。
初めはなんて馬鹿げたものをつくる人がいるんだろうと鼻で笑っていたが、画面に映った学者の姿を見たときに美咲の目は釘付けになった。
そこに映っていたのは、小学時代の親友、花山翠だった。
以前に比べ見た目はかなり聡明な印象に変わっていたが昔の面影を確かに残していた。
興味を惹かれ、翠の行っている研究について調べた。
翠は主に人間の感情についての研究を対象として行っているようだった。
難解な文章や、理解できない単語ばかりで美咲の頭はくらくらしたがその中で例の装置に関しての記述を見つけた。
幸福偏差値シミュレート。
あえて幸福を数値し、それを意識した上で生活を送る事で現実以上に幸せに対しての刺激を与えた世界で人間がどういった事をとるのかをリアルにシミュレートする。すでに何人か実際にこの装置を使用してもらい、安全性、機能性共に問題なく装置は稼働しているとの事だった。
何より目を惹いたのが被験者の意見だった。
“想像以上にリアルな世界で、起きたとき現実との区別が一瞬つかなかった。”
“幸福をより意識する生活の中で、本当の幸せが何かを意識するようになった。”
“仮想空間の中でずっと憧れだった先輩と久々に会えた時は恥ずかしながら嬉しかったですね。結果は残念なものでしたが。”
その装置が描き出す想像以上のリアル。そして、その空間の中でなら憧れの存在にだって会える。
裕に、ここでならまた会える。
もちろん現実にではない。それでももう一度裕に会いたい。
その思いに瞬く間に支配され、美咲はかつての級友に連絡をとった。
(3)
翠はずいぶんと雰囲気が変わっていた。昔は元気の塊でボーイッシュな女の子だったが、すっかり色気と聡明さも加わり美咲から見てもカッコイイ女性の理想像とも言える姿となっていた。
施設に案内され、一通り装置の事について説明を受けた。
簡単に言えば、脳の中にあるデータを基にその人間が経験した過去をプログラミングを通して忠実に再現されたシステマチックな世界。そして被疑者が行動を起こすごとに仮想空間が被疑者の情報からより起こり得る近い現実を引き起こす。つまり仮想だからといって被疑者にとって都合のいい事ばかりが起きるわけではないという事だ。
データは多ければ多い程ありがたいと翠は喜んでいた。しかし、私が装置を使用したい理由を説明すると、途端に翠の顔色は曇った。
そして、そういった理由ならば装置を使わせるわけにはいかないときっぱりと断られた。
どうしてもとお願いしたが、翠も引かなかった。
美咲の命にも関わる。これまでにもそういった用途でこの装置を使用したいという志願者はいた。しかしそういった人については精神面でのぐらつきがあり不安定な状態にあるため、仮想空間に取り込まれ、最終的に人格が破壊される深刻な精神異常が起きる可能性があるためだとの事だ。そういった点で言えば、特に美咲については過去を考えると危険が起きることは想像に難くない。親友の命に何かあるような行動は出来ない。
だが、美咲も諦めなかった。美咲にとっては最後の希望のように思えた。
来る日も来る日も、翠に頼み込んだ。
そして、遂に翠が折れた。
ひょっとすれば、美咲の抱えている大きな心の傷に良い影響が与えられるかもしれないと考えようだ。仮想空間の中でのいわゆるショック療法的な効果を期待してのものだ。
ただしあまりにもリスクが高い。何かあればすぐにシミュレートを止める。裕に会えなくてもその場合は諦めてほしい。その条件に従い美咲はカプセルの中に身体を委ねた。
仮想空間の中はリアルそのものだった。実際に美咲はこの世界の中で自分が現実を過ごしていると微塵も疑わなかった。
そして、裕と再会した。
実現出来なかった裕との結婚生活を過ごす事も出来た。
だが、待っていた結果は凄惨たるものだった。
原因はやはり美咲の精神状態だった。どん底だった心が仮想空間の中で幸福を追求するという既存のシステム内容から幸福の高揚、枯渇、渇望、そういった感情が短期間で急激に作用した事で歯止めが効かない状態に陥ったのだ。
あまりの事態に対応が間に合わず翠は手を出せない状態に追い込まれていた。もはや外部からの干渉では美咲の精神を元に戻すほどの効果を出す手段がなく、かといってこの不安定な状態で装置を強制的に止めてしまえば、人体に深刻な危害を及ぼす事になる。
仮想空間とはいえ、人命を奪いかねない行動にまで出てしまった事でこのままこの空間に居続けても精神は悪化の一途を辿る。そこで出された策が冴木という翠の上司にあたる男の思い付いた、”ダイブ”だ。
要は美咲の仮想空間の中に翠自身が飛び込み、外部からではなく内部から直接的に美咲の精神に呼びかけるというものだった。方法としてはかなり荒々しいものだが、選択の余地はなかった。そこで直接的に精神を平穏状態に戻すカプセルを投与し、仮想空間での精神体を急速に安定状態に戻す。
もちろん失敗のリスクも高い。混乱した精神に即席のプログラミングカプセルが効くかも分からなかったし、最悪の場合同居した翠の精神が美咲の世界に取り込まれてしまう可能性もあったのだ。そうなれば被害は美咲だけに留まらないものになってしまう。
それでも翠はそれを決行した。それが翠の責任だった。
翠が装置の使用を承諾した理由。結局は親友を助けたかった。それだけだった。
美咲が絶望の淵にいる事も知っていた。その時に何もしてあげれなかった自分があまりにもちっぽけだった。
美咲が装置を使いたいと話してきたとき、翠は正直嬉しかった。形はどうあれ私の事をまだ親友として頼ってきてくれたことに。
これで美咲が救われるなら、いくらでも協力する。そう言いたかった。
しかし、本来の使用用途とあまりにも異なる点、美咲の精神状態。
これ以上美咲を追い込むことになってしまったら。
翠は悩んだ。このまま何もしないのか、リスクを承知で行動するのか。
翠は可能性に賭けた。しかし、待っていたのは皮肉な結果だった。
今はたた、美咲が無事でいてくれた事だけが唯一の救いだった。
「大丈夫、美咲?」
「うん・・ちょっと頭がくらくらするけど。」
「ごめんなさい。こういった結果になる事は十分予想は出来てたはずなのに。なのに・・美咲が苦しんでる時に、結局何もできなくて・・どう詫びればいいか・・。」
「いいの。私のわがままを聞いてくれただけでも翠には感謝してる。ありがとう。それに、裕にまた会えた。これでもう十分だよ。」
「美咲。」
「ありがとう。私、行くね。」
まだぐらつく頭を抑えながら、美咲は施設の外へと足を急いだ。
「行くって、どこに?」
翠の呼びかけに、美咲は一度だけ足を止めた。
「ずっと、どうするべきか分からないまま彷徨ってた。復讐を終えて、裕の亡霊を求めて、果てもなく。でも、やっと分かった。何故こうしなったのか今では不思議だわ。結局、怖かっただけなのかもね。」
振り返る事もなくぽつぽつと話す言葉は翠に語っているようにも美咲自身に向かって説いているようにも思えた。
「じゃあね、翠。」
言い終わるや否や、美咲は勢いよく走り出した。
まずい、そう思った時にはあまりにも美咲と距離は大きく離れていた。事態を察知した冴木も慌てて彼女の後を追う。
冴木と美咲の背中を追って、疾走する。美咲は速度を落とすことなく施設を飛び出した。
翠の視界から美咲が消える。
外は激しい雨にさらされていた。一瞬で体が水浸しになる。しかしそんな事にはかまっていられない。
施設の門を冴木が左方向に出て行った。慌ててそちらの後を追う。その時、
プーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
甲高いクラクション音が鳴り響く、視線の先に美咲が佇んでいる。道路の真ん中で向かっている車を待ち構えるように。
「美咲!!」
人体と機械が激しく接触する。一瞬で全てが破壊される音。
冴木は力なく両腕をぶらんとさせ、目の前で起きた悲劇に成す術もなく見届けるしかないという様子だった。
「美咲・・美咲!!」
私の無二の親友。もう十分に不幸は味わったじゃないか。彼女のこの先にあるものが何故幸せではなく、こんな末路なのか。
人の幸福を研究する者が、親友の人生を不幸に導くなんて皮肉にも程があるだろう。
自分の頬を伝っているのが涙なのか雨なのか、翠の壊れた心はもはやそれを識別出来なかった。
エピローグ
「冴木さん、どうですか?」
丸眼鏡はいつもと変わらず不安顔で冴木を顔色を窺う。
こいつはいつも何に不安を感じて生きているのだろうか。
平穏安定とした瞬間が1日の中で何分何秒あるのか、こいつの生活を研究してみるのも面白いなと思った。
「まぁ、こいつにとっちゃ不謹慎な表現だろうが、データは申し分ない。」
カプセルに寝そべる自分の元部下でもあった花山翠の姿を見て、少々冴木の心は痛んだ。
「辛い過去を持った親友を助けられず、加えて目の前で命を失う。心的外傷後ストレス障害を引き起こす要因として十分すぎる材料だ。ひとまずそれを解放してやるショック療法の為とはいえ、トラウマの追体験って所じゃ本人にとって今は地獄だろうがな。」
深いトラウマを抱えた翠は医者の手でも矯正できなかった。そしてその結果、研究はおろか日常生活にも支障をきたすレベルにまで陥ってしまった。
誰も助けられない。ならば俺が科学力という視点からこいつを助ける。
口に出して伝えた事はないが、翠は自分にとってもそしてこの丸眼鏡にとっても大事な仲間だ。人を幸せにする事に我が人生を捧げた翠の働きは目を見張るものだった。こんな所で失くすにはあまりにも惜しい人材だ。
今は辛いだろう。だが、必ず助ける。必ず助ける道筋を見出してやる。
トラウマを拭い去って、お前には研究を続けてもらわないといけないんだ。
大事な部下として、仲間として。
「翠、待ってろよ。」
物言わぬかつての部下に、冴木は優しく語りかけた。
幸福偏差値