Ｓ＆Ｍ
S&M
私は脱いでいない。卑猥な台詞を吐かされたわけでもない。
監督はただ「膝まずいて泣け」と言った。苛立ちを全身に含ませ、アスファルトの道路の片隅を指さした。ぶつかった目線を決して忘れない。やらないなら殺す――彼は本気で、そう伝えていた。怒り狂い、スマホ片手に怒鳴り散らすマネージャーが視界に入った。無理もない。あらかじめ提示した契約とも死守してきたパブリックイメージとも、その演出は大きくズレていたから。何より私は、リッチな結婚によって女優としての商品価値を上乗せする、ほんの直前だったのだ。
でも私はそれを決行した。
彼の鋭く細い瞳に、瞬時にノックアウトされた。
薄闇の中で正座する。柔らかい膝小僧に小石が食い込み皮膚を破る。にわかに胸が苦しくなった、がむしゃらにすがりついて愛していると叫びたかった、でも叶わないから全身全霊で演じた。喉が炎で焼かれ枯れ果てるまで馬鹿みたいに泣いた。これまで大切にしてきた何かが、全身の毛穴から駄々漏れしていくようだった。
役柄を『生きた』のは、それが生まれて初めてのことだったろう。
「カット！」
我に返り、監督を振り向いたがすでにいない。彼は椅子を蹴り、足早に立ち去ってしまっている。
＊＊＊
「最優秀主演女優賞、おめでとうございます！ それから……ご結婚も」
有難うございますと答え、私は照れた風に口角を上げた。
カメラのフラッシュが光った。表情がほぐれた瞬間をとらえたいのだろう。この取材――三十代以降の女性をターゲットとしたファッション誌の巻頭特集――では、親しみやすい雰囲気が求められているのだ。私は軽く首をかしげ柔らかく笑う。立て続けにシャッターが切られる。顎に左手を添わせてみる。婚約指輪がおそらく派手に輝いて、また連続シャッター。
「お相手はイギリスの方とのことですが、どういった経緯で？」
幸福な言葉たちを、私はもはや自動的に零す。
「もともと父があちらの駐在員なんですね。オフの時期に遊びにいって、ホームパーティでたまたま出会いました。父と彼は、実は同じ会社で働いていて……なので家族ぐるみという感じです、ふふふ。付き合いも長いですし、彼が日本支社に赴任したタイミングで入籍を」
マネージャーが腕時計を見、次いで取材クルーをゆっくりと、順々に見つめた。
タイムアップだ。察したライターは「なるほど。では、次が最後の質問になりますが」と前置きし、ペンを構えなおす。
「結婚後も、お仕事は変わらず続けられる予定ですか」
私は頷こうとして、何故かうまくいかず漫然と微笑んだ。
もちろんと答えなければならない。そういう契約が、事務所とすでに決まっている。夫となる人も納得済みの事実だ。なぜ頷けないのだろう？ いつもここが上手くいかなかった、ただ笑ってしまうのだ。マネージャーがすっくと立ち上がり「これでよろしければフォトセッションに移ってください」と強引に〆た。
ライターがわずかに眉を寄せたが、質疑応答は受け入れられない。
沈黙が辺りを包む。インタビューはふっつり断ち切られ、私は薄い笑みを浮かべたまま、流されるようにヘアメイク室へ歩いていく。
もう会うことはないだろう監督の、様々なディテイルを思い浮かべた。
いつも黒ずくめで、だから私は、すぐに彼を見つけることができた。痛々しいほど痩せた肩とひょろ長いシルエット、思いのほか繊細な手つき。触れそうで触れない指先……そういえば私たちは手をつないだことさえない。怒りに満ちた目で睨めつけられる度、全身が不思議な興奮に満ちていくのを感じた。決して荒げない、けれど怒気をはらんだ声で「全然違う」と否定する監督が、恋しくてたまらなかった。好き、むしゃぶりつきたい程好き、お願いすべてを受け入れて――彼は二度と私を使わないだろう――激情は募った。
夫の隣で眠りながら監督に抱かれる夢を見、絶頂に達して飛び起きた夜もある。
汚れてしまった。それこそが幸福だった。真の拒絶がこんなにも快いとは、まるで考えたこともなかった。
＊＊＊
裾の長い、鮮やかな真紅のロングドレスを身に纏った。
リノリウムの床をヒールが規則正しく叩く。白い壁に囲まれた空間はシルクに似た素材の布地で覆われ、さらに白々と光った。スタッフが行き交うスタジオ内を、気だるさを抱えながら私は進む。
「入られまーす、スタンバイお願いします」
生まれつき淡白な性質だった。
なにかを飢えるように欲したり、誰かに憧れてたまらなかったり――そういった思いを私は抱いたことがなかった。必要なものは大抵手に入ったし、求められたことは大方すぐに出来た。要領がよいせいもある（周囲より大分よかった）。何より、上手くやれないほどレベルの高い環境は避ける『才覚』があったと思う。だから、あの監督作品に出られたのは僥倖という外ない。ああなることが分かっていれば、決して参加しなかったはずだから。かつての、私なら。
「テスト何枚か撮りますね」
インタビュー時と同じカメラマンが言った。
「自由に動いてもらえますか」
私は訓練された笑みを投げる。
髪を跳ね上げ、背中ごしにレンズを見つめ、長い睫毛が影をつくるよう目線を落とす。甲高い器械音がひっきりなしに響いた。嫌というくらい熟練したポージング、身投げしたいほど簡単なそれ。ドレスを思い切りたくしあげ、傷の残る皮膚を爪で突く。あの日、アスファルトが刻んだ膝のしるし――人口の光が露わな太ももを焼いた。スポンサーらしいスーツの壮年男性が二人、モニターを覗き込んではニヤニヤ笑った。
生々しい傷跡は、いつしか治癒してしまうだろう。
鮮血も二度と見ることはないだろう。えぐられた甘美な傷なしに、私はこれから生きていけるだろうか？ 皆ホウと口をすぼめ、無言で賞賛するのだ――私の顔立ちを、優れた体型を、クリーンな経歴と洗練された物腰を――なんと下らない生き物たち！ グラビアなど欲望の捌け口にすぎない、男であれ女であれ同じこと。マネージャーはつい先程、「今後しばらく演技の仕事は入れません」と断言した。できるだけ早く子どもをつくり、セレブママとしての地位を確立してから華々しく銀幕復帰することが肝要だと主張した。どうでも良かった。エロスが暴力を呼ぶのなら、いくらでも、永遠にだって差し出すつもりなのに。
「挑戦的な表情お願いします」
視線にあらん限りの力を込めた。人工の風にドレスはひるがえった。
退屈まぎれに夢想する。指をしならせエンゲージリングを誇示しながら思い描く。複雑な機器を介し、私を不躾に切り取るこの男が蹂躙するなら一体、どんな風であろうと。
「……Ｍですか？」
眼前からカメラを除け、男は唇をゆがめて笑う。
私は目を細めて彼を見る。まだ若いカメラマンだ。蓮っ葉な英単語が書きなぐられたＴシャツにごく細身なジーンズ、コステロらしい黒縁眼鏡。痩せていて、さほど背は高くないが綺麗な肌をしていて、眼光が――監督に似て―恐ろしく尖っていた。燃え盛る情熱と冷酷な非情が、全身からふんだんに匂い立った。
彼は不意に近寄る。私は思わず身をすくめる。
「怖がりなんですね」
彼は気にせず、私の顎を人差し指でつるりと撫でた。
振り払うべきなのに躰が動かない。反射的にマネージャーを探したが、周囲はいつしか人払いされている。冷たい感触に背筋が震え、頬に血が集まった。耳たぶをなぞってから彼はマジックよろしく指を鳴らし、さらに唇をゆがめた。
「いいっすね。俺、好きですよ、そういうの」
シナモンのように、煙草が香った。
恐怖は瞬時に霧散する。熱いマグマが体内で弾け、喉元からあふれ出そうになる。どうして今まで気づかなかったのだろう？ 何も感じることなく、のうのうと生きてこられたなんて？
私はいとも簡単に、すべてのたがを外してしまう。
脱がなかった、卑猥な台詞も吐かなかった、今回は泣いてもいない。
ねえ滅茶苦茶にして、とひたすら欲望する。彼はそれを馬鹿にして嘲笑う。膨大な恍惚が訪れる。無垢な悦びに押し流される。誤魔化せない真実がそこかしこに満ち、非情にもシャッターは切られ続ける。
もったいぶらないで、もっと露わにして、深く見せて――
それはひどく、本当にひどく性的な私自身なのだ。
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