黒猫は金色を閉じて
左足の親指の外側にマチ針を刺す。今年初めて履いたサンダルのせいで、水ぶくれができた。昨日は右足のかかとにマチ針を刺した。今年初めて裸足でパンプスを履いたからだ。
プチ。なんて音はしない。静かに水が、皮膚を伝う。ただ、刺す瞬間に、なんというか、皮膚の厚み、のようなものを感じることができ、思ったよりも皮膚は重く、これって生きてるってこと? なんていう自問をして、自答が無いままにティッシュで水を拭き取った。
窓を開けると、無風。と、沈黙。初夏という言葉はきれいだと思うけれど、初夏の夜は出来上がりすぎていて、緑の息吹なんかが聴こえてきちゃうんでしょ。という皮肉を、初夏には聞かれたくないと思ってしまう。
ブラの肩紐から伸びる腕。細いと思っていたのに、もしかしたら少し太ったかもしれない。ため息が出そうになるけど、なんだかそんな態度を取る自分が鬱陶しい。
チラチラチラ、と窓の外、黒い茂みの中で、光のようなものが見える。まあるい小さな光。目を凝らしてみると、その光はぱちりと消えた。
「おっす」
乱暴にドアが開いたと同時に声がした。
「ああ、おっす」
「なになに~。外なんか眺めて、何耽っちゃってるの?」
「別に」
真っ赤なパーカーに灰色のジャージを履いた色黒の男。コイツの格好はいつも乱雑。ただ、髪の毛が真っ黒で短いところが好きだ。
「セブンでおにぎり買って来たけど、食う?」
「いらない」
「ふーん。じゃ、俺も今はいいや。シャワー借りるよ」
シャワー借りるよ、と言うのと同時に立ち上がって、わたしが返事をする間もなく彼はバスルームへ入っていった。
茂みの方を彼がシャワーから出てくるまでずっと見つめていたけれど、さっきの光は見当たらない。
「あースッキリした。最近あちぃんだもん。汗でべたべた」
「ちょっと。タオル巻くとかなんかして隠してよ」
「いいじゃん別に。どうせ脱ぐんだからさぁ」
そう言いながらわたしの胸に手を回し、抱くようにして床に寝かされた。コイツは言うこととやることがいつも同時だ。
彼はブラのホックを外し、部屋着のズボンとパンツを脱がせた。
「痩せた?」
「・・・・・・太った」
「・・・・・・・・・」
キスをして、それからお互いを舐めあって、またキスをして、セックスをして、彼の汗がわたしのお腹の上に落ちるのがなんとなく嫌で、早く終わればいいのに、とか、さっきの光はなんだったんだろう、とか、かすれた高い声を喉の先っぽから出しながら、全く別のこと考えていたら、いつの間にか行為は終わっていた。
それから二人でシャワーを浴びて、おにぎりを食べた。ほんの一、二時間。そうして彼は帰っていく。そんじゃ、また。と言うと同時にドアが閉まった。
わたしはバスタオルを巻いたまま、ベッドに転がった。わたしに体が付随していることが、なんだか不思議に思えた。この腕も、足も、胸も、お尻も、わたしとは全く別の何かのような気がして仕方なく、寝ながらバスタオルを剥いでみた。ここにわたしの体があることが信じられない。なんて思う自分が信じられない。人差し指が、わたしの意志で動く。腹筋が動く。わたしは頭の中にしかいないのに。不思議。
カーテンが大きく揺れた。しまった、窓開けっ放しだった、と気付き窓に寄ると、一匹の黒猫がベランダに立っていた。
わたしは、あっ! と直感した。さっきのまあるい小さな光。黒猫の金色の目。猫はこちらをじっと見ながら、ゆっくりと部屋に入り込んだ。そしてカーテンの側で腰を下ろし、足を曲げ、目を閉じてしまった。
追い出そうにも、動物は苦手で触ることができない。明日になれば、きっと出て行くだろう、と思い、窓を閉めて今日はそのままそこに置いておくことにした。
猫の寝息が聞こえてくるわけではない。だけど、息をするものが、体温のあるものが、わたし以外にこの部屋にいるのだと思うと、感受が尖がってしまって全然寝付けない。いつもは全裸で寝ているのに、体中がそわそわするので服を着て寝た。
朝になっても猫は目を閉じたまま、息だけをしていた。わざとカーテンを乱暴に開けたり閉めたりしてみたけれど、ぴくりとも動かない。
野菜ジュースを飲んで、パンをかじって、テレビを付けた。ダメだ。猫がいる。机の上を片付けて、テレビの音量を上げた。やっぱりダメだ。生物がいる。小さくまるまって、物理的には邪魔にはならないけれど、生理的に、ちょっとこれは、邪魔、というか、どうしてわたしがこんなに緊張しなければいけないのか分からないけれど、この部屋が、ぎこちなく思えてくる。テレビも、服も、さっき食べたパンも、なんか、全部作り物? 偽物? 奇妙。ってきっとこういうことを言うんだろうな、と頭の端っこの方で思いながら、どうにか今日中に目を覚まして出て行ってくれ、と願った。
昼が過ぎた頃、ドアのベルが鳴った。開けると、昼休み中の会社員が立っていた。コイツはたまに昼休みにやってくる。今日はダークグレーのスーツにペイズリー柄の青いネクタイ。昨日の彼とは違い、色白で髪が少し長め。スーツの似合う男は何故だかかっこいいと思ってしまう。
「ああ、いらっしゃい」
彼はすぐさまネクタイを緩め、スーツを脱ぎ捨て、わたしを床に押し付けた。
「ここ、玄関なんだけど」
「いいよ」
わたしは何もせずとも、勝手にワイシャツのボタンを外し、勝手にズボンを脱ぎ、そして勝手にわたしの服を脱がせて、勝手に入れて、勝手に腰を動かす。
「なんか、やなことでもあったの?」
「ちょっと。部長ともめて」
「ふうん」
彼の左の薬指にはきちんと指輪がはめてあって、それは彼がどんなに激しく動いたとしても、はずすこともはずれることもない。
「せっかくの昼休みなのに、余計疲れない?」
「疲れないよ。発散して、いい気分になれる」
「そっか」
彼はいつもわたしを強く床に押し付けるので、肘や骨盤の辺りが青あざになってしまう。
「ごめん、今日は時間無いんだ。これで何か食べて」
そう言って、一万円を下駄箱の上に置き、ネクタイを締め直して出て行った。玄関で裸で横たわっている自分の滑稽さ。多分、嫌いじゃない。
猫はどうしただろうか。突然音がしたから起きたかな。そう思って猫に近寄ったけれど、目は閉じたままだった。微かに背中が上下する。
「どうしてあんたの目は金色なの?」
聞いてみたけれど、無言。
「何か、食べる?」
無言。
浅めの皿に水を入れて、猫の前に置いてみた。猫はほんの少しだけ鼻先をぴくっと動かしただけで、飲むことも目を開けることもしない。
その日は一日中、眠っていた。いつでも出て行けるように窓を開けっぱなしにしておいてあげたのに、全く動く気配はない。窓から入る風のせいでカーテンが体に当たっているのに、全く動じない。
日が落ち始めると、オレンジ色の光が猫の黒い毛を光らせる。粉みたいにふわふわと発光して、息を吸うと咳き込んでしまいそう。西日はあらゆるものを遠くへ遠くへ追いやろうとする。
空が半分紺色になった頃、また男が部屋の中に入ってきた。
「お前、鍵開いてるじゃん。危ないよ、戸締りちゃんとしないと」
「あ、ごめん、忘れてた」
痛んだ金髪、耳の軟骨に大きなピアスの穴、なのに細かいやつだ。ああ、これって人を見た目で判断してるっていうのかな。だけどコイツの見た目はヤンキーそのものだ。
「あれ? なにその黒いの」
「ああ、猫だよ。猫」
「猫―? お前いつからそんなの飼ってんの?」
「飼ってるんじゃないよ、昨日勝手に部屋に入ってきたんだよ」
「うわ、やっぱり戸締りしてないからじゃん!」
「まあ、そうなんだけど」
彼は、ほれほれ、と言いながら猫の背中を撫でた。
「よく触れるね」
「お前触れねぇの?」
「無理。動物苦手だし」
彼は笑いながら何度も背中を撫でて、それから耳と耳の間、これって頭っていうのかな、そこも人差し指で小さく撫でた。
猫は全くの無反応だった。あまりに反応がないので彼もすぐに飽きて、今度はわたしの肩を撫で始めた。それからベッドの上で、二回セックスをした。
わたしは週に七人の男と寝ているけれど、ベッドでやるのはコイツだけだ。ある時気になって聞いてみたら、床だと膝が痛くなるから嫌だ、と言われた。
シャワーを別々に浴びて、近くの定食屋でカレーを食べた。彼はトンカツを食べた。
「猫、どうしてるかな。どっか行ったかな。まだうちにいるかな」
「さあ」
彼は定食屋のテレビで野球中継を見ながら答えた。店を出るとそこで分かれて、ひとりで部屋に戻った。猫は、暗い部屋でまるまったままだった。
次の日も、また次の日も、男は代わる代わる家に入ってきて、セックスをして帰っていった。猫は、ずっと眠っている。毎日少しずつ、皿に入れた水が減っている。わたしが見ていない時に飲んでいるのだろう。食べ物もあげたほうがいいのかな、そう思ってかつお節に醤油を混ぜて置いてみたけれど、一口も食べなかった。
猫が家に居座るようになってから一週間が経った。その日は朝から吐き気が治まらなくて、ベッドとトイレと冷蔵庫の行き来ばかりしていたが、ふと気が付いた。この感じ、前にも味わったことがある・・・・・・。ああ、あれも、去年の今頃だった。
吐きそうなのを堪えて、近くのドラッグストアで妊娠検査キッドを買った。
結果は、プラスだった。父親はもちろん誰なのか分からない。誰かに父親になってもらうつもりもない。中絶。こんなこと、たいした問題じゃない。ただの日常だ。ただの流れだ。明日にでも病院に行こう。きっと、またですか? って怒られる。だけど、そんなのただの時間。ただの人生。
ぐったりと、ベッドに沈み込むように横になっていたら、物音がした。重い頭を動かして窓の方を見ると、猫がのそのそと立ち上がった。
それから一度だけ、小さく鳴いた。どこかで途切れてしまいそうな鳴き声だった。
目が合った。やっぱり金色だ。わたしは猫の目を見、また猫もわたしの目を見た。時間だけがぬるぬると、わたしと猫の間の空間を這っていった。時間が濡れていくような気がした。
どれくらい見つめ合っていたのか分からない。五分かもしれないし、一時間かもしれない。すると猫が、前足を一歩出した。それから、後ろ足も一歩出した。何かがこぼれてしまいそう。こぼれちゃうからダメだよ、と言いたいのに、声が出ない。猫はゆっくりと足を出し、その度にはたはたと何かがこぼれ落ちる。ベッドの手前まで来たところで、いきなりしっぽをピンと天井に向かって立てた。
目を見開いた。金色が陰りながらギラギラと光る。口を大きく開いて、空気のような叫び声のような音を発した。猫の全部が尖って、だけどそれは一瞬で、そのまま床に重い音を立てて倒れた。
倒れた格好のまま、動かない。昨日も一昨日も動かなかった。だけど、これはもうずっと、絶対に、完全に、動かない。動かないのだ。
初めて、猫の毛に触れてみた。細やかで、柔らかくて、温かい。温かいのに。もう、これは、体温じゃないんだ。猫という入れ物から、この猫は、どこかへ消えてしまった。
カーテンの奥から見える空は、青すぎて、きれいすぎて、嘘みたいで、こんな空を見ることができる今って、見ている目って、心って、多分、きっと、すごいことなんだ。
三日後、わたしは母子手帳を受け取って、大事に引き出しにしまった。
部屋の鍵は、男が来ても閉めたままにした。
猫は、あの夜光が見えた茂みの中に深く埋めた。それから、ピンク色のカーネーションを一本買って、その場に置いた。
黒猫は金色を閉じて