アシタのソラ

アシタのソラ


 どうしてわたしは息を吸わなければならないのか。また、吐き出さなければならないのか。息なんてしたくない。何も食べたくない。何も見たくない。何も聞きたくない。寝たくない。排泄したくない。動きたくない。生きたくない。だからといって、お腹が空くのは嫌だ。何も見えない真っ暗な闇は嫌だ。何も聞こえない無音の世界は嫌だ。寝たいし、出すものは出したいし、本当は動きたい。死にたくない。
 そう、死にたくない。しかし、生きたくもない。何もしたくないけれど、何もしないのは嫌なのだ。こんなことを考えていること自体、嫌気がさして仕方ない。
 わたしは常に分裂した自我の中で生きている。両極端な二つの思考に、欲求に挟まれ、二進も三進もいかない状態を続けている。

 わたしは毎日朝の五時に起きる。自らの意思で起きているのではない。勝手に脳みそが起きるものだから、仕方なくそれに付き合っている。しかしそう簡単にはベッドから出ない。それはある意味自分の脳みそへの復讐である。こんな時間に起こしてくれた迷惑な脳みそへのささやかな復讐である。しかしこの復讐には問題があった。何もしたくないわたしは、ベッドの中で何もしていない状態すらしたくないのだ。
もう全てが無くなればいいのに。
二十三歳にもなってまともに仕事もせず、全てに嫌気を感じながら、ただただ「生」を垂れ流しにしている自分の存在価値など、ゼロだと思った。いや、むしろマイナスだ。不不必要な人間のために大切な酸素が二酸化炭素に変えられてしまうだけで、もうマイナスだとしか思えない。ああ、やっぱり、わたしは不必要だ。
そんなことをベッドの中でうだうだと考えている間に、時計の針は八時を指していた。わたしは起き上がり、冷蔵庫の扉を開け、果汁100%オレンジジュースを手に取った。そして一リットルのペットボトルに半分くらい入ったオレンジジュースをラッパ飲みして、大きくため息を吐いた。生きたくないくせにこんなビタミンがたくさん入ったものを飲むわたしってどれだけ傲慢なのだ。頭の中のわたしが責め立てる。お前なんか今すぐここで首でも吊って死んでしまえばいいのに。嫌だ、そんなこと言わないで。そうすれば全てが無になり楽になれる。どれだけ傲慢なのだと考えることもないし、必要もない。考えることすら嫌なら、それを放棄すればいいだけのこと。嫌だ、考えるのは嫌だけど、放棄するのも嫌だ。だから、死ぬのも嫌だ。なんて我が儘。生きることが嫌なくせに、死にたくもないなんて、我が儘にもほどがある。そんなことは分かっている。わたしは我が儘でしかも無意味な存在。分かっているなら早く死んでしまえ。嫌だ。死にたくない。だけど、生きたくない。どうすればいいのか、分からない。

飲み干して空になったペットボトルを乱雑にゴミ箱へ捨てた。ゴミ箱の中にはちり紙やレシート、ポストに入っていたピザ屋や寿司屋のメニュー、何日前に食べたのか分からないイチゴのヘタなどがごちゃまぜに入っている。顔を近づけると、少し酸っぱい臭いが鼻の奥を刺した。吐き気がする。ゴミみたいなわたしが、こんなにゴミを出すなんて。こんな臭いを発生させるなんて。わたし自体がゴミなのに、どうしてゴミを出すのだろう。ゴミを出すことを許された人間であるはずがないのに。ゴミを出していいのは、ちゃんと生きている人間だけだ。だからわたしにその資格などない。ない、ない、ない。なのにどうして、この箱の中にゴミがたくさん入ってるんだろう?
箱の中に顔を入れると、もっと酸味のきつい臭いがした。鼻の奥が痛い。その臭いが肺に達すると、体中が拒否反応を示すように、胃から何かがこみ上げてきた。一瞬にしてそれは胃から食道を通り、オレンジ色の液体が口からいっきに溢れ出た。胸がヒリヒリと痛む。息が乱れる。口の中が酸っぱい臭いと味でいっぱいだ。箱から顔を出し、外の空気を一度吸ってから、また箱の中を覗き込んだ。オレンジ色の液体が、トロトロとゴミの間に川を作って流れたり池を作って溜まったりしている。ああもう、あまりの醜さに、目が回る。
ゴミがゴミの中に吐瀉物をまき散らすなんて、どうかしてる。ほらやっぱり、死んだほうがマシだ。こんなゴミを発生させるわたしは、この醜いゴミよりも無意味だ。無意味? それは生きてる意味がないってこと? 生きてる必要がないってこと? 無いに決まってる。見てごらんよ、この箱の中の醜いものを。お前はこれ以下なんだから。こんなに醜いもの以下なんだから。生きてる意味があるわけないだろう。必要があるわけないだろう。
早く、早くこれを処分しなきゃ。こんなものが目の前にあるからいけないんだ。
わたしは急いでゴミ箱の中身をこぼさないようにポリ袋に入れ、きつく入り口を結んだ。それから焦ってゴミ置き場にそれを捨て、部屋に戻った。部屋の中はまだ少し酸っぱい臭いが漂っていたが、わたしはそれを振り払うように首を左右に振り、ベッドにもぐりこんだ。そしてベッドの中で意味もなく何時間も泣き続けた。
あのゴミも、この涙も、全て無駄な産物だ。

朝から晩まで頭の中の自分と会話し疲れ果てたわたしは、つくづく生に対して傲慢だとは思いながらも、果汁100%ジュースと少々の食料を買いに近くのコンビニまで出かけた。ひとしきり泣いた後は、少し気持ちが穏やかになる。
蝉が鳴くにはまだ早い季節ではあるが、とても蒸し暑い夜だった。湿った暗闇が皮膚に纏わりつく。闇は不思議だ。闇はわたしを吸収し、またわたしは闇を吸収する。わたしは闇イコール真っ黒ではないと思っている。闇とは全ての色に存在している生き物のようなものだ。光が目くらましで闇を見えなくさせるが、本当はいつもどんなものの中にも闇は存在している。
そんな闇に少し同情しながら歩いていると、通りがかった公園から突然ギターの音が聴こえてきた。わたしは、何だろう? と思いながら公園を木の陰から覗くと、ひとりの青年が公園のベンチでギターの練習をしていた。物好きなやつがいるものだ。こんな蒸し暑い夜に一人でギターの練習とは、なんと青春を謳歌させたい願望が強いのだろうか。こんなひねくれた考えしかもてない自分とは全く別の、遥か遠い世界に生きる人間のように感じ、わたしはすぐに後ろを向いて歩こうとした。しかし、その瞬間、その青年は自分のギターに乗せて歌を歌い始めた。わたしは驚いた。その声のなんと清々しいことか。まるで晴天だ。この湿った夜に突き抜ける青空が見えた。
気が付くと、わたしはその青年の前に座り込み、コンビニでジュースと食料を買うことをすっかり忘れ、最後まで彼の歌を聴き入ってしまったのだった。
青年がギターを片付け、帰ろうとしているにも関らず、わたしはまだその場所から動く気にはなれなかった。
「最後まで聴いてくれてありがとう」
 屈託のなさそうな、歌声と同じような突き抜けた明るい声で青年はわたしに話しかけた。
「別に。暇だったから」
 何故こんな愛想のない答えしか出来ないのだ、自分。素敵だったとか、青空みたいな声に感激したとか、そんな可愛らしい答えが何故口から発せられない。
「でも嬉しいよ。今日はありがとう。俺、翔太。葛西翔太。木曜と金曜はここに来て歌ってるから、また聴きに来てくれたら嬉しいな」
 その時初めて、今日が木曜か金曜のどちらかなのだと知った。
「ふうん。分かった」
 やっぱり、わたしには愛想が足り無すぎる。
「名前、教えてもらっちゃダメかな?」
「いいよ。雨宮亜紀」
 なんて軽い男なんだ。初対面の女の名前を聞くとは。それに答えるわたしも軽い女か。
「亜紀ちゃんかぁ。可愛い名前だね。今日は本当にありがとうね。それじゃあまた」
 軽々しくちゃん付けで呼ばれるとは思わず、少し腹が立ったけれど、去っていく後ろ姿を見ると何故かとても寂しくなった。後姿はすぐに夜に隠れて見えなくなり、今日が木曜ならいいのにと思った。
 コンビニで買い物を済ませ、わたしはぼんやりと夜道を歩いた。街灯には蛾がチリチリと群がり、回収日前に捨てられたゴミ袋からはガサガサと音が聞こえてくる。ねずみだろうか。それにしても、気持ちが悪い。わたしは何かに追われるように早足で歩いた。本当は歩くのも嫌なのだが、歩かなければ家まで辿り着けない。よしんば家に辿り着いたとしても、買い物袋を持ったまま鍵を開けるのが、わたしは大嫌いだった。何故かその行為にあまりにイライラしてしまう。誰にでもできる当たり前のことなのに、爆発しそうなほどイラついて、家に入った時にはもうぐったりだ。本当にわたしはダメ人間なのだ。

 冷蔵庫にさっき買ったグレープフルーツジュースとサラダを入れると、すぐさまベッドに寝転がった。全く使われていない携帯電話で今日の曜日を確認してみると、なんと木曜だった。わたしは思わず、ふふっ、と笑い、葛西翔太のことを思い出してみた。しかし、夜だったためか、歌に聴き入りすぎていたためか、顔がよく思い出せない。体は細身で、色は特定できないがチェックのシャツにジーンズを履き、髪は確か短髪だった。明日は顔を見てやろうと、少し明日というものに対する希望が湧いた気がした。こんな些細なことで希望だなんて、なんと単純な。しかし全てが嫌で仕方ないよりよっぽど健康だと思い、今日はお風呂に入ることにした。三日に一度くらいしか入らないお風呂。昨日入ったばかりなのにもうすでに入ろうとは、なんて健康なんだ、自分。
 服を脱いで、脱衣所の鏡の前に立ってみた。胸はほとんど無く、アバラが浮き出ていて、どう考えても細すぎる。まるで鶏がらではないか。昔はこの細さを手に入れるために様々な努力をしたものだったが、今となってはその努力など無駄なことだったと分かる。運動しようが、痩せるというオイルを塗ろうが、そんなことでここまで痩せることはできない。果物と少量の野菜たけを摂って、炭水化物も脂質も摂らなければ簡単にこうなるのだ。それを今、嫌と言うほど実感している。しかし炭水化物も脂質も摂り入れる気は全くない。
 わたしがお風呂を嫌う理由は三つ。一つ目は、濡れるのが嫌。要するに、犬や赤ん坊と同じである。二つ目は、髪を洗うのが嫌い。だから美容師を心底尊敬する。濡れた髪の毛がわたしの手や体に付いただけで悲鳴をあげたくなるのだ。三つ目は、体や髪を拭くのが嫌。タオルが濡れてしまうから。
という以上三つのどうしようもなく我が儘な理由によってお風呂を毛嫌いしているのである。しかし今日は少し違う。なんとなく、お風呂を楽しみたい気分だ。こんなことは稀にしかない。この貴重な時間を大切にしなければいけない。

お風呂から上がり、髪を乾かし、テレビを付けた。カチカチとチャンネルを回してみたが、どれもくだらないものばかりで一分ともたずにテレビを消した。いや、くだらなくはないのだろう。くだらないなどと感じる自分の感性がくだらないのだ。というわけで、テレビを見ることに失敗したわたしは就寝までの二時間をどうやって過ごせばいいのかを考えた。今時刻は十一時である。わたしは毎日一時に寝ることにしているので、あと二時間が邪魔なのだ。「生」をダラダラと垂れ流しにしているのと同様に、わたしは「時間」も垂れ流している。葛西翔太のことを思い出そうとしても、さっきの情報くらいしか残っておらず、残念なことにあれだけ感激した歌もあまり覚えていない。なんと薄情な女なんだ、わたしは。
仕方なくわたしはベッドの中に入ることにした。そしてひたすら明日が来ることを待った。いつものわたしなら、明日が来ることが嫌で仕方なかったのに、やっぱり今日のわたしは少し変だ。早く明日の夜にならないかとそわそわしている。
少しずつ眠気がわたしを別の世界へと誘う。黒くて柔らか道が目の裏側から脳へと続く。いつの間にかわたしはその道に入り、別世界から手を引っ張られる。そこがどこなのかは分からない。そして五時になると突然現実にポイっと戻されるのである。その度に腹を立て、自分の脳みそにささやかに復讐をするのだ。

今夜は昨日ほど蒸し暑くない。闇は微妙に緑がかっていて、少し明るさがある。少し風も吹き、心地よい空気だ。今日はめずらしくスカートを履いて、公園に出かけた。また来てくれたら嬉しいな、と言われてひょいひょい姿を現す自分に恥ずかしさを覚えるが、それよりもまた歌を聴きたい気持ちの方が何十倍も大きい。公園に到着すると、また木の陰からこっそりとベンチを覗き見た。葛西翔太はギターをケースから出しチューニングをしている。風に運ばれてくるチューニングの音さえも清々しく聴こえてくる。それは、彼が心の底から清々しい人間だからだろうか。
わたしは歌が始まってもすぐには出て行かない。待っていたなんて思われては嫌だもの。一曲目が終わり、二曲目が始まる頃に、偶然を装うようにふらりと公園に入った。そして一瞬目が合うと、彼はニコッと微笑み声を大きくした。やっぱり彼の声は晴天だった。空へ昇る声に、わたしは身震いをした。夜じゃなくて、晴れた昼間に草原で歌ってほしいと思った。観客はわたしひとりだったが、それでも彼は一生懸命に歌っていた。一本のまっすぐな白い線が、空に向かって伸びるように。
小さなコンサートが終了すると、わたしは小さく拍手をした。彼は照れくさそうに頭を掻き、ありがとう、と言ってギターを終い始めた。
「まさか本当に今日も来てくれるなんて思ってなかったよ。本当にありがとう」
 嬉しそうにそう言って、彼はベンチに腰掛けた。
「でもどうしてこんな辺鄙な公園で歌ってるの?大通りとか行けばもっとたくさんの人に聴いてもらえるでしょ」
「そうなんだけど・・・・・・取締りが厳しくて。注意されちゃうんだ」
「そっか・・・・・・それは残念ね」
「でもいいんだ!ここでもこうやって、亜紀ちゃんみたいに聴きに来てくれる人が増えるかもしれないしさ」
 名前を覚えていてくれたことに驚き、ドキリとした。もしかしたら顔が赤くなっているかもしれない。やっぱり、昼間じゃなくて夜でよかった。
「でも俺、今日はここで野宿なんだよね」
 いきなりの発言に、わたしは一瞬固まってから発言した。
「はあ?なんで?」
「ルームシェアしてるやつがいるんだけどね。あ、もちろん男ね。そいつの彼女が今日泊まりに来るらしくて、俺はちょっと邪魔なわけ。漫画喫茶行くお金ももったいないし、寒い季節でもないし、ここで一晩明かそうかと思って」
 なんというお人好しなんだ。そのために自分は野宿するなんて。そのカップルに腹が立つ。
「だったら・・・・・・・・・」
 わたしは少し戸惑ったが、ナイアガラの滝でバンジージャンプをするくらいの勢いで言ってみた。
「うちに来たら?ここからすぐだし、広いし」
 葛西翔太は目をまん丸にして、マジで? と大声で答えた。
 こんなに目が大きかったとは、昨日は気が付かなかった。明るいところで、もっと彼の顔を見てみたい。
「うん、いいよ」
 彼は、ありがとうございます、と何度も頭を下げた。そしてふたりで夜道を歩き始めた。
 今日も街灯に蛾が何匹も群がっていて気持ちが悪い。下を歩くだけで蛾の鱗粉で汚されそうだ。いつもは早足で通り過ぎる街灯の下だったが、今日はゆっくりと歩くことができた。二人だったからだろうか。
「亜紀ちゃんていくつなの?」
「二十三歳」
「ほんと?俺は二十四!一つ違いだね」
 二十四歳だったのか。てっきり十八、九かと思っていたら、わたしより年上ではないか。
「でも二十三歳には見えないね。小さいし細いし、十八歳くらいかと思った」
 それは今ちょうどわたしも思っていたことだ。
「葛西さんだって二十四歳には見えないよ」
「葛西さんて!翔太でいいよ。下の名前で呼ばれる方が好きなんだ」
 わたしは下の名前で呼ぶのが苦手なんだけれど。
「その・・・・・・翔太も若いよね。顔もそうだし、ギター弾き語りなんてしてるとこも」
 すると彼は少し迷ったように顔を下に傾けた。
「ギター弾き語りは趣味かな。仕事は別にしてるし」
「あ・・・・・・そうなんだ・・・・・・」
仕事は別にしてるし・・・・・・ なんだか少しショックを受けた。わたしと同類な部分があるのかと期待していたからだ。バイトか何かで食いつないで、どこにも属していないのではと、勝手に想像していた。一人の世界で生きているのかと思っていた。それがどうだ。仕事してるし、だって。さっきまでの熱が少し冷めてしまった気がした。家に来る? なんて言ったのは間違いだったかもしれないと、心の中でほんの少しだけ後悔した。
「うん。でも、ほんとに好きでやってるんだよ。歌手になりたかったけど、なかなか難しくて諦めた。諦めたはずだったんだけど・・・・・・ね」
 言葉が出なかった。仕事もしながら、やりたいことがあって、しかもきっちりと挫折も味わっている。この葛西翔太は、尊敬すべき人間様だった。わたしとは正反対の人間様だ。
「亜紀ちゃんは?どんな仕事してるの?」
 そう。「仕事してるの?」ではなくて、「どんな仕事してるの?」と聞かれる。当然であるが、この質問はわたしには少し重い。
「うーん、たまに登録制のイベントコンパニオンとかしてるけど・・・・・・基本は何もしてないかな」
 彼が驚いたような意味深なような表情で何かを言いかけた時、ちょうど家に着いた。わたしは彼の言葉を遮って、開けるね、と言って鍵を開けた。荷物が無いときの鍵の開け閉めはさほど苦痛ではない。
「全くキレイじゃないけど、どうぞ」
 そう言いながら彼を家に上げ、電気を付けた。すると彼は、
「すっごーい!何この広い家!ほんとに仕事してないの?」
 と大声で尋ねた。わたしは愛想笑いを浮かべるだけにし、二人分のお茶を入れた。
 わたしが住んでいる家は都内のど真ん中にあり、しかも3LDKなのだ。しかしわたしが生活するスペースは極端に限られていて、ベッドとテレビのある部屋とキッチン、トイレ、お風呂、これだけだ。あとの二つの部屋とリビングは使うことなく、掃除もほとんどすることなく、荷物や家具すらも何もなく、ずっと放っておかれている。
「あ、ごめん」
 わたしが突然謝ると、彼は、どうしたの? と聞き返した。
「夕飯、サラダしかないや。何か買いに行くならどうぞ」
「ああ、俺歌う前に少し食べたから平気だよ」
 そう言ってギターを埃の被ったリビングに置いた。
「汚いけど、好きなとこで寝ていいから。布団はあるよ。それからこれお茶、どうぞ」
「うん、ありがとう」
 彼は不思議そうに家を見回した。当たり前だ。だけれど、まだよく知らない人に家の様々な事情を説明しようという気にはなれなかった。
彼のためにリビングに布団を敷いてから、わたしは自分の部屋に入った。トイレと冷蔵庫の位置を教え、好きなように使っていいよ、と言ってから、おやすみなさい、をお互いに言い合った。その後に彼は、ありがとう、を付け加えたが、わたしは返事をしなかった。
明るいところで見た翔太の顔は、まん丸い目と薄い唇が印象的な、どこからどう見ても童顔だった。それを思い出しながらベッドに入ると、少しの安堵感が胸に舞い降りた。何故なんだろう。しかしそれと同時くらいに、あんな汚い埃まみれの部屋で果たして彼は眠ることができるのか心配になった。でも、野宿よりはまだマシだろうと楽天的に考えることができた。それは多分、彼のおおらかな雰囲気がそうさせている。
扉一つ隔てた向こう側に人間がいる。しかも男性がいる。ずっとこの広い家で一人で暮らしてきたわたしにとっては、これはものすごいことなのだ。目が冴えて、一時を過ぎても眠れない。徐々に闇が色を変える。黒から紺に、そして深緑に。三時を過ぎ、緑に近くなったところでようやく眠ることができた。

それでも朝五時に目が覚めると、わたしの部屋に何故か翔太がいた。カーペットの上ですやすやと眠っている。襲われたような形跡はない。どういうことだ。なんでここに? 今すぐたたき起こしてこの訳を問いただしたい気持ちになったが、今日もやはりこの脳みそへの復讐のため、まだまだベッドからは起き上がれない。七時過を過ぎた頃、翔太が目を覚ますと、いきなり顔をしかめてこちらを見た。
「なぁに?」
 わたしは不機嫌そうに聞き返した。
「亜紀ちゃんさ、あれって毎日なの?」
 わたしは全く意味が分からなかった。何が毎日? 五時起き? わたしが翔太に問いただしたかったのに、何故かわたしが問いただされている。 
「死にたくないとか、生きたくないとか、わたしなんかいらないとか、よく分かんないことを夜中一時間くらいずっと泣きながら叫んでたんだよ。びっくりして起きて様子見に来ちゃった」
 何それ? わたしはそんなことを泣きながら叫んだ記憶などない。
「わたし、そんなことしてないよ、知らない。夢でも見たんじゃないの?」
「いいや。はっきり覚えてる。それに、少し怖かったし・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
 確かにそれらの言葉はわたしが日々考えていることではあるが、まさか夜中寝ぼけて叫んでいるなんて、夢にも思わない。そんなの知らない。それはわたしじゃない。
「どこか具合でも悪いの?それとも、ほんとは俺を泊めるの嫌だった?」
「ううん、そんなことない」
 具合なんて日々悪い。泊めたのは、確かにちょっと冷めたところもあったけど、別に嫌ではなかった。むしろ少しドキドキしてたし、得体の知れない安堵感まで味わっている。まさか自分がそんなことをしていたなんて、今まで全く気付かなかった。わたしは呆然として、また全てが嫌になる感覚に襲われた。
 お前は生きる価値も無い上、壊れている。もう、お終いじゃないか。嫌、話しかけてこないで。早く死んでしまえ。嫌だ。ならもっとまともに生ききてみろ。それができたらとっくにそうしてる。どうせできないのだろう。だったらお前は何のために生きてるのだ。何のためでもないだろう。そんな命、あってもなくても同じだ。どうしてそんなこと言うの。何もできないお前が生きてるだけで、迷惑なんだよ。この男も迷惑に思ってるに違いない。これ以上迷惑かけないうちにほら、早く死んでしまえ。お前なんかいらないんだから。いらなくない。いらないね。いらなくない。おまえは誰からも何からも必要とされない。いらない人間だ。
 いらない人間。わたしは頭を抱えてぎゅっと目をつむった。
「翔太、ごめんね、よく眠れなかったでしょう、ごめんね」
 そう言いながら、涙が湧き水のように溢れ出てきた。ぐちゃぐちゃだ。頭の中に白い汚い言葉がたくさん浮かんでくる。気持ちが悪い。この白い文字は何だ? よく見ると、その文字達は白い蛾で作られていた。ウジャウジャ飛びながら形作っている。ああ、もう失神しそうだ。何だこの頭は。気持ちが悪い。気持ちが悪い。気持ちが悪い。
「いやあぁー!」
 わたしは突然叫び、頭からベッドにもぐった。翔太は心配してベッドのそばに来てくれたが、何が何だか分からないわたしにどう接していいか分からないようだった。それから数分、沈黙が続いた。電気をまだ付けていない薄暗い朝の部屋で、わたしと翔太は変な空気の中に閉じ込められた気がした。身動きがとれない。その空気から出ようものなら、電気ショックか何かを浴びせられそうだ。

「俺、この家に住んじゃダメかな?」
 突然翔太がしっかりとした声でそう言った。
 住む? 住むってどういうこと? もしかして、聞き間違い? 何を考えているの?
「何言ってんの?こんな変なやつと一緒にいたら、翔太に迷惑かけちゃうよ。それに、ルームシェアしてる友達がいるんでしょ?」
 そうだ。わたしなんかと一緒にいたら、迷惑をかけるに決まってる。
「友達はそろそろ彼女と同棲したいって言ってたから、むしろ喜ぶんじゃないかな。それに、あんなの見たら、なんていうか、心配で、いられないよ」
 どうしてわたしの心配をする必要があるの? あなたは赤の他人でしょう。
「ダメ。ほら、わたしちょっとおかしいから。ほんとに働いてないし、昼間だって家でブツブツ独り言喋ってたりするし、気持ち悪いと思うよ、きっと」
 いくら違う世界の人間様とはいえ、少しでも気になった人に気持ち悪いなんて言われたくない。
「気持ち悪くなんてないよ。さっきは、怖いなんて言ってごめん。何て言っていいか分からなくて。ただ、昨日はすごく嬉しくて・・・俺、実は結構緊張してたし、ウキウキしてたし。そんな気持ちにさせてくれた人が、苦しんでるのを放っておけないよ。
 もちろん、俺がいたからって何がどう変わるわけじゃないかもしれない。だけど、一人でここで叫んでるよりかは、それを聞いてあげられる相手がいた方がいいと思ったんだ。勝手なこと言ってるのは分かってる。ただ、心配で・・・・・・」
 翔太の気持ちの強さみたいなものが空気を振動して伝わってくる。だけど、やっぱり理解できない。どうしてわたしを心配するの? あなたとわたしは他人でしょう? わたしは首を傾げ、翔太の目をじっと見た。ひたすらに見た。彼は、その目を一度も逸らさず、わたしを見続けた。どうして目を逸らさないの? 逸らせばそれはその場限りだと責め立てることができたのに。なのに彼はわたしよりも強く、わたしの目を見続けた。それは歌のように、一本の線が空に伸びるように、まっすぐにわたしを見続けた。
わたしは彼の強さに観念して、この話を承諾した。
「ありがとう。あ、家賃の四分の三は俺が持つよ。いくら?」
「いらない。ここ持ち家だから」
 翔太はあっけにとられた顔をして、また大きな声で、マジで? と聞き返した。


 その一週間後には彼の荷物は全部我が家へ運び込まれ、埃まみれだった一番大きな部屋を彼の部屋にした。そこにはベッドやソファや本棚が置かれ、リビングには机も置かれた。わたしは正直言って不安だった。ずっと一人で暮らしてきたのに、誰かと住むことなんて出来るのだろうかと、何かおかしなことをやらかすのではないかと、あまりの怠けぶりに嫌気をさされるのではないかと、不安だった。だけれど、葛西翔太という男は、わたしに何の口出しもせず、働けとも言わず、何故持ち家なのだという事情も聞かず、自分の生活と、わたしが叫びちらした時の世話を難なくこなすのだった。
 汚かったキッチンも、使われていなかったリビングも、そしてもう一つの一番小さな部屋も、いつの間にか綺麗に片付き、埃は消えた。そしてわたしが生活している部屋がこの家の中で最も汚いところだと定着してしまったのである。

「食器とか買いに行きたいんだけど、一緒にどう?」
 翔太がうちに住み始めて今日で十日目くらいだろうか。初めてのお誘いだった。彼は最近の仕事が忙しいらしく、平日は帰りが遅い。公園に歌も歌いに行けていない状態だった。なので、せっかくの日曜なんだから家でゆっくり休めば? と言うわたしの意見を彼は無視し、わたし達は新宿に買い物に行くことになった。
 日曜の新宿の、なんと人の多いことか。こんなにたくさんの人間が日本に、いや東京に住んでるのだと思うと、吐き気がした。人間はまるで虫の大群のように地面を歩いている。もう虫にしか見えない。声はテレビの砂嵐のように、途切れることなく無駄に耳に入る。目が回る。息が苦しい。他人の吐いた二酸化炭素だけを吸っているような気分だ。
どうしてこんなところに連れて来たのよ。
「気持ち悪いんだけど・・・・・・」
 わたしが青い顔をして彼に言うと、彼はデパートのベンチまでわたしを誘導し、そこに座らせてくれた。
「ちょっと待ってて」
 そう一言だけ言ってせっせとどこかへ走って行ったかと思えば、ペットボトルに入った水を持って戻ってきた。
「水飲みな。落ち着くまで、ちょっとここで休もうか」
 優しい彼はそう言いながら、ペットボトルの蓋を開けてくれた。冷たい水が渇いた喉を通り胃に入ると、少し楽になる気がした。
「わたしここで待ってるから、一人で買い物してきてよ」
 疲れた。もう歩きたくないし、人ごみもうんざり。
「ダメだよ。二人で使う食器なんだから、二人で買わないと。亜紀ちゃんの具合がよくなるまで、ずっと待ってるから」
 なんてありがた迷惑な男だ。
「いや、もう疲れたから、もう歩けないから」
「大丈夫。疲れが抜けるまで待ってるから。たまには歩かないと、そのうち歩けなくなっちゃうよ」
 何が大丈夫なんだ。ちょっと歩かないだけで、歩けなくなるわけないだろうが。優しさが、逆に疲れる。彼のような優しさを、わたしは持っていない。優しさを貰うだけ貰って、何も返せないなんて、そんなの嫌だ。返すものがないんだから、初めからいらない。
 結局、デパートの閉店時間までわたしは動くことができず、いや、動けたのかもしれないが動こうとせず、今日も無駄な時間を垂れ流して終わった。しかも、他人を巻き添えにして。
 わたしに巻き添えをくらったはずの彼は、帰りがけにたまたま見つけた百円ショップで食器を買い、何故だかそれで満足した顔をしている。意味の分からない男だ。わたしに腹が立たないのだろうか。しかも、
「安くて可愛い食器が買えてよかった」
 なんて言う始末だ。
 大皿三枚と小皿四枚、茶碗とお椀を二枚ずつ、計千百円で今日の買い物を済ませ、家へ戻った。靴を脱ぐなりわたしは部屋に閉じこもり、その日はトイレ以外で部屋から出ることはなかった。何故だか無性に腹が立った。あまりにお気楽な翔太に。いや、違う。あまりに心の狭いわたしに。彼に何も返せないわたしに。腹が立ちすぎて、嫌になった。そして、腹を立てることも、嫌になった。でも、腹を立てることを嫌になってる自分が、一番嫌になる。なんと愚か者なのだ、自分。

 それから二日間は一言も翔太と口を聞かず、無視しまくった。自分勝手な女だ、わたしは。しかし三日目に、キッチンにゴキブリが出てしまったため、わたしは翔太を大声で呼ぶ破目になった。ゴキブリは苦手を通り越して嫌悪感を覚える。あの独特にテカッた茶色いボディに長い触角。それに何だ、あの奇妙な素早さは。無理だ。太刀打ちできるわけがない。
 しかし翔太は雑誌を丸めた棒で一発、スコーンとゴキブリを叩き潰し、テキパキとトイレに流した。初めて彼に勇敢さを覚え、わたしは心の底から、ありがとう、と言った。その様子が可笑しかったらしく、彼は笑い、わたしもつられて笑った。彼はわたしが無視していたことなど全く気にもとめていない様子だ。わたしは少し恥ずかしくなり、もう一度、ありがとう、と言ってから部屋に入ってテレビのチャンネルを回した。しかし全く落ち着かず、やはりテレビは一分と持たなかった。

 
 薄くてぬるい水滴が全身にびっちりとこびりついているような感触が気持ち悪くて、いつもより少し早く目が覚めた。
 今日は雨だ。今年の梅雨は雨が少なく、こんな感触も久しぶりだと思いながらベッドの外に目をやると、また翔太がカーペットの上に転がって寝ていた。またやってしまたのか、と自分に落胆しながらも、どうすることもできない。どうすることもできない自分にも落胆する。
 翔太に、ごめんね、とベッドの上から小さく呟くと、微かに相槌を打ったような気がした。その瞬間、わたしの口元が少し緩んだのが分かった。それからぼんやりと翔太を眺めていると、結構汗をかいていることに気が付いた。暑くて起きてしまうのではないかと心配になった。きっとわたしの世話をして寝不足だろう。少しでも気持ちよく眠っていて欲しい。
 エアコンのリモコンはここから遠い。壁に備え付けたままだ。と言っても、ベッドから起き上がって五歩くらいだが。しかしその五歩が、わたしにとっては大きい。朝五時に目覚めて、すぐに起き上がって体を動かすだなんて、脳みその思う壷だ。それを許すまいと、起き上がらずにやり過ごしてきたのだ。でも、何故だ、気になる。目の前にいる男性の汗が気になる。寝苦しくないか気になる。予定より早く起きてしまわないか気になる。その、気になる、を解消するのに一番良い手は、エアコンのスイッチを入れることだ。しかし、それはわたしの意地にかなり引っかかる。ここで今まで積み上げてきたものを崩せば、目の前の男性に安眠を差し上げることができる。でも、それをするだけの心の広さが、キャパが、無い。でも、やっぱり気になるものは気になる。しかし、引っかかるものは引っかかる。
 簡単なことだった。起き上がって、スイッチ一つ入れればいいだけのことだった。結局、翔太は予定より三十分早く目覚め、暑苦しそうに寝巻きのTシャツの裾のところをパタパタとウチワにしながら、のそりのそりと自分の部屋へ戻っていった。
 わたしは、やっぱり後悔した。彼が目覚めたら後悔することなど百も承知だったのに。彼が目覚めたこと、そしてそれを阻止できなかった自分に、果てしなく後悔した。役に立たない自分に、折ることのできない意地に、腹が立った。だけど、彼は起きてしまったのだから、それらはもう無意味だった。それはわたしが無意味だと、後ろから指を差されているのと同じであった。
 その一時間後に、彼が、フルーツ切っておいたから朝食に食べなね、と扉の向こう側から一言告げ、仕事に行ってしまうと、自分の薄情さと無意味さがより重く体に圧し掛かった。どうしてこんな風になってしまうのだ、自分。

 その日は一日中雨で、もう何もする気が起きなかった。じっとりとした空気が、重い心と体をより重くさせる。食欲も無かったが、切っておいてくれた果物だけは何としてでも食べようと思い、キッチンに向かった。ひたひたと、歩くたびに足の裏に纏わり付く湿気が気持ち悪い。所々、冷たかったり、生ぬるかったり、温度が安定しないところがその気持ち悪さをまた増殖させる。
 キッチンまで辿り着き冷蔵庫を開けると、果物の乗ったお皿が見えた。それを取り出し机の上に置き、じっと眺めた。白いお皿の上にオレンジとメロンが丁寧に並べられている。少し気分が悪かったけれど、どんなに時間がかかっても、全部食べようと決意した。
 夕方になって、ようやく果物が全部胃の中に入った。決して量が多すぎた訳ではない。オレンジのつぶつぶを数えたり、メロンの皮の模様に規則性を見つけようとしたり、そんなことをしていたから、こんなに時間がかかったのだ。いつもならそれらの行為に夢中になると、食べることが面倒になり遂には忘れてしまうが、今日はなるべく食べることを優先にできた。
 翔太が帰ってくると、亜紀ちゃん! と大きな声でわたしを呼んだ。
「すごいじゃん!フルーツ全部食べられたんだね!」
 翔太のいるキッチンに行くと、子供のように嬉しそうな顔で、こちらを見ながらそう言った。
「初めてだ、全部食べてくれたの」
「・・・・・・うん」
「よくできました!」
 彼の笑顔はまっすぐで心地よかった。
「ちょっと何それ、子供じゃないんだから」
 わたしは少し嬉しくなった。お皿に乗った一人前の果物を、一人で食べるのは当たり前のことだ。そんな当たり前のことができたと言って喜んでくれる彼の姿が、嬉しかった。いつも当たり前のことが当たり前にできないでいるのだから。こんな小さなことを喜んでくれる人がいるのだと、わたしは何だかとても安心した。
 それからは、彼が作ったものを全部食べる努力をした。それだけで、食べるという当たり前のことだけで、彼はわたしをいっぱい褒めた。毎日褒めてくれた。それに彼は、わたしが果物と野菜しか食べないこともこの二週間程度の生活で、すでに理解してくれている。
 ほんの少しだけ、腕に肉が付いた。それを見ると、少しだけ、ちゃんとした人間になっている気がした。


「ねぇ、ちょっといいかな」
コンコンと扉をノックしてから、翔太はわたしの部屋に入ってきた。
わたしの部屋にベッドとテレビ以外に家具は無く、洋服や小物は全てダンボールに詰め込まれている。すでに綺麗に片付けられた翔太の部屋とは逆に、わたしの部屋はいつも引っ越してきたばかりのようだ。
「今度の日曜だけど、前にルームシェアしてた友達にこの家のこと話したら、是非彼女と一緒に遊びにきたいって言うんだ。亜紀ちゃんが嫌なら断るよ。でももしよければ、みんなでここで夕飯でもどうかと思って。もちろん俺が夕飯作るから、そこは安心して」
 彼はなんと料理も上手い。いやしかし、今の問題はそこではない。
「話したって、わたしのことも話したの?なんでここに住む破目になったのかも話したの?」
 わたしは焦った。自分のことを他人に悟られるのは嫌いだ。
「いや、そこは嘘付いといた。友達の紹介ってことにしてあるから安心して」
「なら、いいけど」
「じゃあ、呼んでもいい?」
「うん、いいよ。わたしが部屋から出ていくかは分かんないけど」
 わたしが少し意地悪にそう言うと、彼は優しく微笑み、気分が向いたらでいいよ、と声をかけて部屋から出て行った。
 他人が家に入るなんて何年ぶりだろう。翔太のように一度でも会話を交わした人間ならともかく、本物の他人だ。大丈夫だろうか。でも、翔太の友達だっていうんだから、きっといい人に違いない。うん。そうだ。きっとそうだ。
 わたしはそう自分に言い聞かせ、彼が用意してくれた野菜スープを温めて飲んだ。

 それから数日が経ち、日曜になった。わたしは緊張のあまり少し吐いてしまい、彼に心配をかけたが、ひとしきり吐いてしまえばその緊張もだいぶ収まった。
 家のチャイムが鳴り、彼は友達とその彼女を迎え入れた。わたしはニコニコしながらリビングの椅子に人形のように座って待つことにした。彼の友達は、わたしが想像していたよりもかなり派手な身なりだった。黒のタンクトップにジーンズ。首や腕にはシルバーのアクセサリーをジャラジャラと着けている。対照的にその彼女はというと、水色のワンピースを着たとても清楚なお嬢さんだった。わたしはびっくりして挨拶をするのを忘れていると、翔太がすかさず紹介してくれた。
「俺の友達の亜紀ちゃん」
 わたしは急いでおじぎをして、よろしく、と一言だけ彼らに告げた。
「俺は田辺裕二。これでも一応、服のデザイナーやってる。そんでこっちが小野詩織、俺が通ってた美大の後輩」
 詩織というしおらしい名前がここまで似合う女性を未だかつて見たことが無いと思いながら、わたしは少し怖気づいた。デザイナーに美大生。ああ、遠い遠い国の人間様だ。
紹介が終わると、二人は一緒におじぎをした。そして、何やら不思議な食事会が始まった。
翔太がサラダと鳥肉のトマトソース荷込みなる料理とフルーツの盛り合わせをならべ、いつの間にか用意してあった赤ワインを開け、みんなでそれらをつつきながら話をした。
 翔太と田辺君は同い年で、詩織ちゃんは彼らの三つ下らしい。ということはわたしの二つ下だ。それなのに、とてもしっかりして見える。
「てか翔太、お前いつの間にこんな可愛い彼女作ったんだよ?」
「いや、彼女って訳じゃないんだけど・・・・・・シェア仲間?っていうのかな」
「本当か?怪しいなぁ。なあ、詩織」
「うん、怪しい。だって一緒に住んでるわけでしょ?」
 この詩織という女、意外とはっきりしている。男は見た目どおりだが。
「だから違うってば!」
 翔太の微妙な笑い具合が余計に怪しいので、わたしはこの話題には無表情で無言を決め込んだ。すると空気を察したのか、客人二人はこの話題に触れなくなり、映画や音楽などの世間話をし始めた。
「亜紀ちゃんはどんな音楽を聴くの?」
 どんな音楽を聴くの? 田辺君の質問をもう一度頭の中で復唱してみたが、自分がどんな音楽を聴くのか、どんなに考えても出てこなかった。なぜなら音楽は好んで聴かないからだ。わたしが答えられずに顔をしかめて考え込んでいると、
「じゃあ、今何のテレビ番組見てる?わたしは月九にはまってるよ」
 今度は詩織ちゃんの質問が飛んできた。しかしわたしにはテレビを面白いと思えるだけの余裕と感性がないので、これも黙りこくってしまった。しばらくの沈黙の後、わたしへの質問は完全に空気に同化して消え、また笑い声と共に彼らは会話を再開した。
 あまりにもわたしが話題に着いていけないものだから、次第に会話は客人二人と翔太とで盛り上がりを見せ始めた。
「ねぇ、亜紀ちゃんも一緒に交ぜて会話しようよ。これじゃあ今までの俺達と同じじゃん」
 黙りこくるわたしに気を遣ったのか、翔太が少し怒り口調で彼らに言った。
「それはそうなんだけど・・・・・・だって」
「・・・・・・ねぇ」
 客人二人は気まずそうに顔を見合った。
「亜紀ちゃんに何聞いても全然喋んないし」
 田辺君がチラチラと詩織ちゃんを見ながら鶏肉のトマトソース煮を口に運ぶ。
「正直言って、つまんないんだもん」
 詩織ちゃんがわたしを上目遣いで見ながらそう言った。
 やはりこの女ははっきりしている。隣にいる男が言いにくいことをさらっと言ってのけた。そうだよ、わたしはつまんない女だよ。
「つまんないって、せっかく新しい家で新しい友達とこうやって話しをするんだから、もっとみんなで楽しくやろうよ。亜紀ちゃんが可哀想だよ。亜紀ちゃんもちょっと緊張してるんだよ。ねぇ?」
翔太は自然体そのものの顔と声でそう言って、わたしの顔を覗き込んだ。
「いいよ。そんな気を遣わなくても」
 わたしは目線を下にやりながら唾を吐くように言った。
「俺は気を遣ってるわけじゃ」
「ほら、亜紀ちゃんも別にいいって言ってるんだから、このままわたし達で楽しくやればいいじゃない。無理に会話に引っ張り込むことないのよ」
 翔太の声を割って詩織ちゃんがツンケンした口調でそう言った。どうしてこの女が翔太にツンケンした態度を取るんだ。
「よくないよ」
 突然、翔太の声が大きくなった。でも、もう止めてほしい。
「だからわたしはいいって言ってるじゃない、みんなの話を聞いてるだけでいいから」
「ほら、いいって言ってるじゃん、もうよそうぜ」
 面倒くさそうに田辺君はまだ鶏肉をつつきながら言い放った。
「よくないって。そんなのよくない」
 翔太の発言で、さらに場の空気が悪くなる。淀んでいくのが分かる。
 どうしてわたしのためにそんなこと言うのよ。三人で仲良くしててくれればいいんだから。どうせわたしは会話にならないんだから。馴染めないんだから。
 苛立った空気がピリリと辺りを漂った。
せっかくの友達なのに、こんなわたしのために関係をこじらせてどうするのよ。
「もういいから・・・わたしはみんなの面白くもない会話になんか加わりたくないから」
 ああ、言ってしまった。その途端、一気に客人二人の顔つきが変わった。
「分かったよ。いいよ、もう帰ろうぜ、詩織」
「そうね、そうするわ」
 二人はつまらなそうに席を立ち、こちらを一瞬睨み、そしてそのまま無言で家を出た。

 翔太は少し怒った顔つきで扉を眺めてため息を付き、次に優しい顔をしてわたしに、ごめんね、と謝った。
 どうしてあなたが謝るの。悪いのはわたしでしょ。友達と喧嘩してまで、どうしてわたしに気をかけるのよ。そんなの理解できない。
「なんであんなこと言ったの。わたしは別にあのままでもよかったのに」
「だって、そんなのダメだよ。亜紀ちゃんが少しでも他の人と話す機会を持って欲しかったんだ」
 なんてお人好し。そんなことのために、この食事会を、友達関係を台無しにして。
「だから、それが迷惑なの。放っておけばいいじゃない、わたしのことなんか」
「迷惑ってなんだよ。俺は、亜紀ちゃんのためを思って・・・・・・」
「だからそれが迷惑だって分からないの?」
 その気持ちは迷惑なんかじゃないよ、翔太。ただ、こんなわたしのためにすることじゃないんだよ。自分を大切にしてよ。わたしじゃなく、自分を。
「分からない。俺は自分のしたことが迷惑だったなんて思ってない」
 だから、わたしに迷惑なんじゃなくて、あなたに迷惑をかけてるのよ。あなたの友達にも。それが堪らなく悔しいの。申し訳なくて、仕方ないの。
わたしはいてもたってもいられず、引き止める翔太を無理矢理振り払って自分の部屋に閉じこもった。他人に迷惑しかかけることのできないダメなやつ。やっぱりお前はいらないね。あの男も友達を無くしてさぞ悲しいだろうよ。分かってるよ。ならどうして今すぐいなくならないのさ? 早くいなくなった方が世のためだ。誰にも相手にされない人間。何もできない人間。何もできないくせに、迷惑だけは一人前にかける。言わないで。人とうまく会話すらできない。今日だって、お前がいない方が楽しかったのは目に見えているだろう。嫌。言わないでよ。いいや、いくらでも言ってやる。早くいなくなれ。お前みたいなクズは生きてるだけ無駄。生きてるだけで迷惑。嫌だ。もう言わないで。
「やだやだやだぁ!」
 わたしは何かを振り払うように大声で叫んだ。頭の中に白い文字を作っていた蛾たちが、ぐるぐると飛び回り始めた。
「何でわたし生きてるの?わたしなんかが生まれてきたの?どうしてよ!」
 その声に驚いたのか、翔太が急いで部屋に入ってきた。今度はノック無しだった。
「わたしなんかいない方が、今日だって楽しかったんでしょ?友達と喧嘩して悲しいでしょ?」
「そんなことないから!わたしなんかなんて言葉、使うなよ」
「わたしなんかだもん。それ以外にないもん」
 お前なんか。お前なんか。ああ、白い蛾たちさえも、そう言っている。そう言いながらぐるぐる飛び回っている。
「もうやだ!わたしを見ないでよ!偽善ばっかりならべないでよ!」
 白い蛾の鱗粉が内臓に降りかかる。気持ちが悪くて、また吐きそう。自分の叫び声が、遠くの方から聞こえる。わたしが叫んでいるのに、わたしは今ここにいない。


 この家は、もともとわたしの父のものだった。しかし、父も母も共に浮気をし、離婚した。それぞれがそれぞれで新しい生活を望み、わたしは邪魔になったのだ。だから、この家をわたしに譲り、毎月の生活費を二人は口座に入れてくれている。わたしは両親にいらない子の烙印を押され、一人で何もせずにここで暮らしている。いや、暮らす破目になっている。それがわたしが十九歳の時だから、もう四年間、こんな生活をしていることになるのだ。こんな生活、そう思うことで自分を甘やかしている部分もあるが、なるべく見てみないふりをする。正面から見てしまうと、本当にわたしはバラバラに砕け散ってしまいそうだからだ。
 そりゃ同世代の子と上手く話しが合わなくても仕方ない。生活に必要なものを買うとき以外で外に出ることなど滅多にないし、どこにも所属していないわたしは誰かと会話することもほとんどない。四年間、この部屋と、分裂した自分と、果物と野菜だけで生きている。
初めの一年間は、誰かが助けにやってきてくれるのではないかと淡い期待を抱いたが、そんなことは一度も無く、まるで真っ暗な穴の中をさまよう様に、今の今までやってきた。今更、心配だの、放っておけないだの言われたところで、何も理解できない。どうしてわたしなんかを心配するの? いらないわたしなんかを心配したところで、何も出てこないんだから。


次の日の夜、翔太はわたしの大好きなスイカとキュウリとセロリを買って帰って来た。そして、それらを切って野菜スティックのように飾り付けて、わたしの部屋へ持ってきた。わたしはそれを無言で食べた。食べ終わって一息つくと、やっぱりシェアはやめない? と話を切り出した。
「どうして?昨日みたいなことはもうしないよ。もう少し、亜紀ちゃんのこと考えればよかったって、反省したよ」
「それもそうだけど、優しくて、友達がいて、ちゃんと働いて、ちゃんと生きてる人を見てると、なんていうか、我慢できなくなりそうなの」
 そう。イライラする。わたしには持ってないものを持ってるから。羨ましくて我慢できない。
「亜紀ちゃんだってちゃんと生きてるじゃん」
「ちゃんと生きてない。生きる必要ないもん、わたしなんか」
 必要ない。わたしがいなくなって困る人間はいない。友達も彼氏も親もいない。むしろお金を振り込まなくて済むから、両親にとってはラッキーじゃないか。わたしが死んだらラッキーか。幸運か。そうかそうか。
「だから、どうしてそんな風に物事を考えちゃうの?」
 そんなの、わたしが一番知りたい。
「分かんないけど、わたしなんかと一緒にいない方がいいの」
「俺には、亜紀ちゃんが寂しそうに見えたから、だから誰か一緒だったら少しは気が紛れるかもしれないと思ったんだ」
 寂しそうって何? 同情のつもり?
「わたし、寂しくなんかないから」
「・・・・・・そう」
 そう一言だけ言って、翔太は部屋から出て行った。パタンと扉の閉まる音が、やけに大きく響いた気がした。下に目を向けると、野菜スティックが入っていたお皿が床に転がっている。それを見ると、急に涙が溢れた。翔太はなにも悪くないのに、こんなに世話を焼いてくれているのに。昨日だって、きっと良かれと思ってしてくれたことなんだ。それをわたしが自分自身で台無しにしておいて、責任を擦り付けて、最後には羨ましいからあなたに我慢できないなんて、あんまりだ。本当にわたしはクズ人間だ。あまりに情けなさすぎて、涙が止まらない。
 滲んだ目で白い天井を見上げると、それは半透明な雲のようだった。まばたきをする度にその雲は表情を変え、今にも落ちてきそうだ。ああ、空が見たいよ。翔太の歌声で、青空が見たいよ。わたしの前で歌ってよ。
「翔太!」
 扉を開け、家の中で何度も彼の名前を呼んだ。だけれど返事は返ってこない。彼の部屋も、リビングも、お風呂もトイレも見て周ったけれど、彼の姿はどこにもなかった。
 わたしはトイレの前に脱力したまま座り込んだ。まるで体中が空洞になるようだった。何も、わたしの中には何も入っていない。全て無の世界に吸収され、何も残っていない。空になった体と心で、呆然とその場に座ったまま、思考すらも停止してしまった。


 スズメの鳴く声が遠くの方から聞こえてくる。朝が来た。トイレの前に座り込んだまま、気付くと朝を迎えていた。時計を見ると、今日も五時。こんな時まで五時に起きている自分がばかばかしすぎて笑えてくる。もう一度家中を探し、名前を呼んだけれど、やっぱり彼の姿はどこにもない。のそのそと歩きながらリビングに入ると、彼のギターも無いことに気が付いた。他の家具類はさすがに置きっぱなしだが、ギターが無い。もしかしたら、またどこかで歌っているのかもしれない。
 もしかして、公園? だけど、あんなことを言ってしまった後にのこのこと姿を現したところで、一体どうなるというんだ。きっと嫌われたんだ。だからここにいないんだ。当たり前だ。わたしが嫌われるのは、当たり前だ。それに、わたしなんかのためにここで無駄な力を使うより、他でのびのびと暮らしたほうが絶対彼にとっていいはずだ。わたしなんかに気を遣っても、無意味だもの。無意味なものに何をしたって、無意味だもの。
 いつもの生活に戻っただけ。今まで通り一人で生きていけばいいんだから。そうすれば、変な買い物に付き合わされなくて済むし、エアコンが付けられないくらいで、罪悪感を覚える必要もないもの。羨ましさに、自分の惨めさに、気付かされることもない。そう、一人でいいの。わたしは初めから一人なんだから。
 そう思い直し、わたしはベッドにもぐった。どんなに息を整えようとしても、整えることができない。苦しい。いや、苦しいわけがない。わたしに苦しいなんて感じる資格などない。だから苦しくない。それなのに、肺が、心臓が、痛い。息がうまくできない。
何をいい子ぶってるんだ。自分が全て悪いくせに、苦しいふりをして。息がうまくできないなんて嘘。演技だ。お前は嫌われて当たり前なんだから、当たり前のことが当たり前に起きただけなんだから、どこにも苦しみなんてないはずだ。お前は初めからいらない人間なんだから、あの男にとってもいらない人間だったに決まってるだろう。分かってるよ、そんなの。分かってるよ・・・・・・

夜になる頃には、部屋の中はぐちゃぐちゃに散らかり、かろうじて足の踏み場があるくらいだった。そして朝になると、部屋はもう足の踏み場などどこにもないほどに散らかり、ベッドから出る気力も無くなった。そして二日間、ベッドから出ずに過ごした。何も食べず、何も飲まず、一度だけどうしてもトイレに立った以外、ひたすらベッドの中で過ごした。いや、過ごす、という言葉はきっと適当ではない。無駄な時間を垂れ流した、が適当だろう。
ぼんやりと目の前に広がる物が散乱した風景を見渡すと、頭の中に尖った風が吹いた。風が吹くごとに、わたしの気持ちや思考を少しずつ削り去っていくようだった。その度に、どんどん空洞が増えていく。脳みそが削られて、穴になる。無になる。
このまま、このままわたしは消えてしまうのだろうか。全部風に削られて、無くなってしまうのだろうか。ああそうだ。無くなってしまえばいい。消えてしまえばいい。消えたところで、誰も悲しみはしない。誰も気付きもしない。全部無くなってしまえばいい。わたしなんか。わたしなんか、このまま死ねばいい。
「わたしなんかなんて言葉、使うなよ」
 わたしは、はっ、として辺りを見回した。声が聞こえる。翔太の声が聞こえる。だけど、誰もいない。わたしの部屋には、誰もいない。ベッドからフラフラと起き上がり、リビングや翔太の部屋を覗いてみた。お風呂場や使われていない部屋も覗いてみた。何度も行ったり来たりを繰り返して覗いてみた。何かに急かされるように、何度も、何度も。だけど、やっぱり誰もいない。わたしの家には、誰もいない。わたしの足音と、呼吸と、唾を飲み込む音しか聞こえない。何の気配もない。
 いつも、誰もいなかったはずだ。それが当たり前のはずだ。わたしから発せられる以外の音など、気配など、無かったはずだ。この家に、他人がいたことなんてあったろうか。初めから無かったのではないか。そうだ、あれはきっと夢だったんだ。わたしは長い夢を見ていたんだ。温かな夢を見ていたんだ。夢を・・・・・・・・・
 ではこのリビングに置かれたテーブルは何だ? 椅子は何だ? 大きな部屋の家具は何だ? 百円ショップで買ったあの食器は何だ? その食器に乗せられたフルーツは何だ? この腕にほんの少しだけ付いた肉は何だ? 
 夢ではない。現実に、彼はここにいて、そしていなくなった。脳みそが削られて穴になったのも、現実だ。この無も、現実だ。
 こんなにもはっきりと、現実というものを直視したことが今までにあったろうか。受け入れがたい現実を、見つめたことがあったろうか。きっと、無い。見つめたことなど、無い。見つめようとしたことすら、無い。わたしはいらない子だから仕方ないとか、生きるも死ぬのも嫌だとか、そう言って、目を背け、何もしないでいることがまるで現実を受け止めようとして受け止めることができなかった努力の後のように振舞っていた。初めから、何の努力もせず、何も見ようとせず、受け入れようともしなかった。
 もしかしたら、今までのわたしでは、それが精一杯だったのかもしれない。それ以上は無理だったのかもしれない。だけど、今はどうだ。今までとは違う。確実に違う。それは、彼と過ごした分だけ、違う。わたしは、今度は自ら動かなければならない。エアコンが付けられなかった時とは違うはずだ。何故なら今、わたしは動かなければならないと思い、今までとは違うと信じているからだ。それは全て、彼の行動が、言動がもたらしたものだ。だからわたしは彼に、翔太に会わなければ。いや、会わなければ、ではない。会いたい。そう。会いたい。
 
 わたしは急いで靴を履き、彼と出会った公園へ走った。思い切り足と手を動かして、ぎこちなく走った。筋力も持久力も無いわたしは少し走っただけで頭がぐらぐらになる。朝の爽やかな道路で何度も吐きながら、急いで公園へ向かった。太陽は半分くらい顔を出し、空は薄い水の膜で覆われたような透き通った色をしていた。今が朝なのだと、走りながら気が付いた。だけど、今はそんなことは関係ない。
 公園の入り口まで来ると、わたしの足はガクガクと震えだした。こんなに走ったのは数年ぶりだったのと、ベンチでギターを抱えながら眠る翔太の姿を見つけたのとが相まって、足の震えが止まらなかった。その足で、ゆらゆらと歩きながら彼の側へ寄った。彼まであと一メートルくらいのところにくると、彼はふっと目を覚まし、おはよう、と何事も無かったかのように言った。やっぱり屈託の無い声だった。
「おはよう」
 わたしもなるべく優しくそう言い、翔太の隣にゆっくりと腰掛けた。
「・・・・・・寂しい思いさせて、ごめん」
 翔太は本当に申し訳なさそうにそう言い、自分の目頭に手をやった。
「前住んでた部屋に泊まってたんだ」
「うん、それなら、よかった」
 公園の木々は微かに揺らめき、太陽の光を葉と葉の間に煌めかせている。少し乾燥した清々しい朝の空気に触れると、少しだけ素直になれる気がした。
「ごめんなさい」
 わたしが小さな声で謝ると、翔太はわたしの頭をくしゃっと撫でた。
「今日何曜日か知ってる?」
 翔太のいきなりの質問に、わたしは、知らない、と答えた。咄嗟にその単語しか出てこなかった。
「今日は木曜だよ。だから、ここで歌わなきゃ」
 彼の言葉と同時に、さらさらと風の音が聴こえた。木曜日。すっかり、頭から抜け落ちていた。今日が木曜だということも、木曜に彼が歌を歌っていたことも。
 わたしは何か答えたいと思ったが、何も答えることが出来なかった。言葉が、喉に詰まって、外に出られない。出られないまま、風に紛れて飛んでいってしまった。上唇と下唇が、アロンアルファでくっ付けられたみたいに離れない。なんて意気地が無いんだろう。
数秒か数分の沈黙の後、翔太はギターをぎゅっと抱えながらゆっくりと口を開いた。
「俺の母さんは病気がちで、ほとんど寝たきりだったんだ・・・父さんは忙しい人であまり家にいなかった。だから、掃除も洗濯も料理も、ほとんど俺がやってたんだよ。母さんはいつも俺に謝ってた。何もできていないお母さんでごめんねって。だけど、それが嫌だった。謝られるのが、嫌だった。俺は母さんが大好きだから、少しでも力になりたかっただけなんだ」
 彼のギターを握る手が、心なしか一瞬震えたように見えた。
「歌手になるっていったって、そんなのなれるか分かんないし、母さんを助けるためには定時で働いてきちんと給料が貰える仕事に就かなきゃって思って・・・・・・それで諦めたんだ。
 元気になって欲しくて・・・・・・だけど、二年前に、天国へ行っちゃった」
 熱い何かが喉と鼻を塞いだ。息が詰まりそうになる。
「だから、こうして歌ってるんだ。空の上の天国にいる母さんに届きますようにって」
 頬が震えて、目の奥が熱くなった。いつもより熱い涙が、両目からぽろぽろこぼれ落ちた。
「初めて亜紀ちゃんを見たとき、何となく寂しそうで、母さんに似てるって思ったんだ。その小さくて痩せたところも。だから、余計放っておけなかったのかもしれない。勝手なことして、ごめんね」
 わたしは首を大きく横に振った。それから、ギターを握る彼の手を、そっと掴んだ。
 ありがとう、という気持ちと単語が何度も心の中で生まれ、喉までやってきては詰まって消える。それを何度も繰り返した。だから、彼の手を、今度は強く握った。すると彼は、またくしゃっと頭を撫でてくれた。
 温かい熱が、頭のてっぺんに伝わる。それは少しずつ少しずつ下へ進み、体全部を包み込み、わたしの中の何かを溶かした。それは喉を詰まらせていたものも、心を詰まらせていたものも、きれいに溶かした。
「あり・・・がとう・・・・・・」
 小さく口を動かしてそう言うと、彼は、うん、と言って優しく頷いた。それからわたしは、あの家のことと、分裂した自分のことをゆっくりと話した。うまく説明できている自信はなかったけれど、わたしなりに感じたことや考えたことを、精一杯正直に話した。彼は、黙って頷いてくれた。そしてまた、頭を撫でてくれた。
「やっぱり亜紀ちゃんは、寂しいんだよ」
「うん・・・・・・そう、かもしれない」
 何故だか今、とても素直になれる。彼が素直に自分の話しをしてくれたからだろうか。
「帰ろうか、あの家へ」
「・・・・・・うん」
 ふわりと優しい風がわたし達の前を通り過ぎた。
「もう、一人じゃないよ。いらない子じゃない。俺が亜紀ちゃんのこと必要とするんだから」
「うん・・・・・・ありがとう」
 翔太は子供のような屈託のない笑顔を振りまくけれど、その中にしっかりとした芯がいつも垣間見えていた。今初めてその芯を確認し、それがまっすぐな彼を作っているのだと知った。そしてそれが、彼の強さなのだと気付いた。
 
 太陽が徐々に大きくなり、白い光が前方からわたし達を照らした。眩しくて前がよく見えない。わたしと翔太はその光の中で手を繋ぎ、ゆっくりと歩きだした。こんなに心が安心できたのは、生まれて初めてだ。まだまだわたしの中には分裂した自分がいる。だけれど、そんな自分に打ちのめされているだけはダメだ。
 そうだ、帰ったら、お風呂に入ろう。それから、部屋を掃除しよう。
「ねぇ、翔太」
「なに?」
まだ人通りのほとんどない道路でわたしはお願いをした。
「金曜の夜、一曲目に歌ってたやつを今ここで歌ってよ」
「ここで?ギター弾けないよ?」
「いいの。歌だけでいいから。お願い」
すると彼は、青空のような突き抜けた声を、朝の光にかざすように歌った。本当は隠れて聴いていたこの曲が一番気に入っていたのだ。
彼の声は空の深いところに溶け込んだ。すると、空の色が一層透き通る青に見えた気がした。

アシタのソラ

アシタのソラ

朝焼けの手前が好きです。 出発点に立つ時、こんな気持ちを持てたらいい。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-18

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