天国からの贈り物

1

 桜木柑菜(さくらぎかんな)は電機メーカーのOLである。入社五年目にして、仕事もすっかり板についてきた。今では上司、後輩からも一目置かれる存在になっていた。
 柑菜の所属するお客様相談室は、その名の通り、顧客から商品についての相談を受けることを仕事とする。パソコンの前に座って、ヘッドセットを着用し、朝から晩までひっきりなしに掛かってくる電話に笑顔で応対する。しかし、そのほとんどは苦情である。
「桜木くーん」
 制服に着替えて、自分の席に着いた途端、係長から声が掛かった。朝っぱらから呼び出しとはツイてない。
「はーい」
 柑菜は駆け足で係長の席まで向かった。
 (昨日の後輩のミスの件かしら?)
 頭の中に、不安がよぎる。
「これ、君宛てなんだけど」
 係長の机の上を、大きな段ボール箱が陣取っていた。どうやら宅配便で届いたものらしい。実はこの部屋に入った瞬間に気づいてはいたが、まさか自分宛ての荷物だとは思わなかった。
「私にですか?」
 まるで身に覚えがないので、自然とそんな言葉が出た。
「ほれ、ここ」
 係長の爪の先には、「お客様相談室 桜井様」とある。
お世辞にも上手とは言えない文字で、しかも「桜」という字が間違っていた。
 差出人の名前には、「牧田さかえ」とあった。柑菜の知らない人物であった。
 通常、修理を要する商品は、サービスセンターの方へ届くので、そういったものではない。
「とにかくどけてくれないか。邪魔でしょうがない」
 係長は露骨に嫌な顔をした。
「でも、これって桜井となってますが?」
 柑菜は宛名を確認してから、やんわり言った。
「この部署に、君の他に桜のつく名前はないだろう」
 係長は、面倒くさそうに切り返した。
 確かにその通りである。電話でやり取りをしていると、サクラギという音は、サクライに聞き間違えられることが多い。お客から「桜井さんをお願いします」と言われれば、部署の誰もが、瞬時に柑菜のことだと了解する。
 係長とこれ以上張り合っても無駄だと分かると、柑菜は荷物に手を掛けた。相当に重かった。もう一度気合いを入れて抱え直す。
 (一体何が入っているのだろうか?)
 女性としてはかなり不格好な姿勢で、何とか自分の席まで戻ってきた。おかげですっかり手が痺れてしまった。
 とりあえず足下に置いた。送り状には、雑貨と書いてあるが、こんな重い雑貨とは一体何だろう。
 部屋に爽やかなチャイムが鳴り響いた。仕事の開始である。
 今日も早速電話が鳴り出した。この部署には七人のオペレーターが待機しているが、目の前のモニターは、すでに五つの電話が塞がっていることを示していた。
 さっきの荷物に視線を落とした。送り主の名前を口に出してみたが、さっぱり覚えのない名前である。住所も書いてあるが、それも自分の記憶に何も訴えてはこない。
 何かの間違いということもある。同僚に心当たりがないか、昼休みに訊いてみることにしよう。
 目の前の電話が突然鳴り始めた。すぐに受話器を取る。
 ひどく怒った客からの苦情だった。
 電気ポットをコンセントに差しておいたのに、お湯が出ずに水が出て、来客者の前で大恥をかいたと一気にまくし立てた。
 こちらはまず商品コードや使用状況を知りたいのだが、相手はどうにも感情的になって、らちが開かない。しかもこういう客に限ってねちっこく、同じ話がループして、なかなか解放してくれないのだ。
 しかし柑菜は手慣れたもので、どれだけひどい言葉を浴びせられても平気でいられた。
 この部署は社内で最もストレスが溜まりやすいと聞いている。そのためこれまで多くの同僚が消えていった。周りを見渡しても、柑菜ほど長く務めている女子社員はいない。誰もが最初は軽い気持ちで入ってくるのだが、すぐにストレスを抱えて交代となる。
 実際半年持てばいい方で、早いと二日で辞めた同僚を知っている。今の後輩たちもいつ辞めてもおかしくはないのだ。
 この仕事は性格にもよるだろうが、人の言葉にくよくよ悩まず、さらりと流せる人が向いている。
 客の言うことを真っ向から受けてはダメである。所詮、怒鳴り声や脅し文句は電話の向こうの話である。こちらは誠意ある振りをして、上辺だけ聞いていれば問題ない。
 決して自分の心をお客に見せてはならない。相手に隙を見せて、それこそ土足で踏み込まれたら、すぐに精神が崩壊してしまうだろう。
 あくまで文句を言われているのは、会社という組織なのである。自分はその繋ぎ役をしているに過ぎない。そう思えば、随分と気持ちは楽になる。不思議と客の言葉に心が左右されなくなる。
「ねえねえ、それ何?」
 昼休み、後輩たちが箱の周りに集まってきた。みんな興味津々といった顔である。差出人の名前を呼び上げてみたが、誰もが一様に知らないと答えた。
 柑菜はとりあえずみんなの前で、箱を開封することになった。机に置かれた段ボール箱は、七人の女性に囲まれた。
「これって、桜木さんへのお礼の品じゃないかしら?」
 誰かがそう言った。しかし柑菜に覚えがないのでは、お礼にもならない。
 箱を開けると、何やら、かびの臭いが立ち昇った。そして中から出てきたのは、新聞紙で何重にもくるまれた三つの大きな物体であった。それ以外には何も見当たらなかった。
 手分けして包み紙を解いてみた。
 すると中からはお人形が顔を出した。
 男の子と女の子、そして亀が紙粘土で表現されていた。いずれも不格好な作品で、顔は歪み、身体は自立できないようで、いかにも素人の手による作品だった。
「これじゃ、お礼というより嫌がらせよね」
 後輩たちは一斉に吹き出した。
 しかし柑菜だけは何故か笑えなかった。
 いかにも習作といったこれらの人形は、人に贈るような代物ではない。おそらく中に針金を入れ、その上に紙粘土を盛って、最後に絵の具で着色したのであろう。形もさることながら、色塗りも雑で、所々に地が出てしまっている。
 モチーフや材料から判断して、どうも若い人が作ったものではなさそうだ。老人の仕事のように思われた。
 しかし手紙一枚入ってないので、これがどんな意味を持つのか、まるで分からなかった。
「どうするんですか? これ」
 誰かの声が上がった。明らかにその発言には、柑菜を窮地に追い込もうとする悪意が感じられた。
「もちろん、家に持って帰るわよ」
 柑菜は気丈に答えた。売り言葉に買い言葉である。
 後輩たちは、みな驚いたようであった。
「そんなゴミみたいなものを、大事に持って帰るんですか?」
「まさか家に飾るとか?」
「会社には置いていかないでくださいね」
などと、好き放題を言った。

2

 あれから月日は流れた。
 柑菜は結婚して、二児の母となり、小さいながらも庭付きの一軒家に暮らしていた。これが自分に見合った幸せなのだろうと一人納得していた。
 しかし結婚七年目にして、最大の危機が訪れた。
 不況の煽りを受けて、夫の会社が倒産したのである。柑菜は途方に暮れた。まだ家のローンはほとんど手つかずで残っている。それに来年、上の子が小学校に入学することになっていた。
 将来のことを根底から考え直す必要に迫られた。
 夫はとても焦っているようだった。毎朝、再就職の面接に出かけては、夕方肩を落として帰ってきた。近くに満足のいく職場は見つからなかった。
 とりあえずはこの家を売って、家賃の安いアパートで再スタートを切るしかない。
 ある日曜の午後、元の会社の同僚たちが駆けつけてくれた。家を売り払うことになった夫のことを不憫に思ったのであろう。みんなで引越しを手伝ってくれるというのだ。
 柑菜は彼らの優しい心に、密かに涙を流した。
 新居は古いアパートである。一軒家から、随分と生活の質が低下したことを実感させられた。アパートを見た元同僚たちは、どう思ったであろうか。
 誰も何も言わなかった。ただ明るく笑顔でトラックから荷を下ろしてくれた。二階の部屋まで荷物を運び入れてくれた。
 みんなが帰った後、柑菜は一つひとつ荷物を紐解いていると、あの段ボール箱に出くわした。
 これは捨てるつもりだった。おそらく夫が必要なものと勘違いして、トラックに載せてしまったのだろう。
 あれからもう十年以上が経ってしまった。会社に届いて、自分が引き取ったこの荷物は、結局何だったのだろう。今もなお分からないままだ。
 一軒家に住んでいる時は、こんな箱一つ邪魔にはならなかった。そのまま押入れに置きっぱなしで、すっかり忘れていた。だが、この狭いアパートではまったく状況は変わってくる。真っ先に処分すべきものであった。
 柑菜は不思議な気持ちになった。まだ夫と知り合う前、OLとして会社勤めをしていた。仕事はきついと感じたこともあったけれど、それなりに楽しかった。仕事を覚えると、自分は何をしても間違わない自信を持った。同僚も偉い人も、みんなが認めてくれた。
 結婚して会社を辞め、子供も生まれた。無理をして新築の庭付き住宅にもしばらく住んだ。
 しかしそんな楽しかった人生も、突然終止符が打たれることになってしまった。
 今は古いアパートの一室に座っている。この箱は、楽しい時もそして辛い時も、どこまでも私についてくるのだな、と思った。
 (捨てる前に、もう一度だけ見ておこう)
 柑菜は、子供らが隣の部屋で寝ているのを確認して、静かにガムテープを剥がした。こんな汚い物に子供らが興味を持ったら大変である。
 箱を開けた。かびの臭いが漂い、新聞紙の中からは、あの不思議な人形三体が姿を現した。
 柑菜は捨てる前の儀式であるかのように、三体を箱から取り出した。畳の上に並べてみる。
 そう言えば、会社でも人形は外に出してやらなかった。今回初めて箱の外に出すのか、と考えた。
「何だい、そりゃ」
 夫が並べられた不格好な三体の人形を見て言った。
「昔、私が勤めていた頃、お客様に貰ったものよ」
「汚い人形だな。何でそんなのここまで持ってきたんだ?」
 酔っているのか、夫は乱暴に男の子の首を掴んだ。
「捨ててもいいんだろ、こんなもの」
「やめてよ」
 柑菜は思わず強い調子で叫んでいた。
 夫は足がもつれて、よろめいた。その時、人形は自分の重さに耐えきれず、首が折れ、胴体が分離した。粘土がばらばらとこぼれ落ち、胴体だけが畳の上に無造作に横たわっていた。
「ちょっと散らかさないでよ」
 柑菜は怒って言った。その声があまりにも大きかったせいか、隣の部屋で下の娘が泣き出した。泣き止ませねばならない。引越し早々近所迷惑になる。柑菜はすぐさま立ち上がった。
 どうして夫は人の持ち物を乱暴に扱うのだろう。酒に酔っているとはいえ、柑菜にはそれが許せなかった。
 子供を寝かしつけて夫の元へ戻った。畳の掃除が待っている。
 夫はさっきと同じ格好のまま立ちすくんでいた。まるで時間が止まっているかのようだった。
「ねえ、どうしたの?」
 夫は放心していた。何かを言おうとするのだが、声も出せない様子だった。
 柑菜は傍まで行って、夫の視線の先を見た。そこには先ほど乱暴に扱われた男の子の首なし胴体が転がっていた。可愛そうに頭部はまだ夫が持ったままだ。
 その時だった。柑菜は雷を受けて、全身に電流が流れたようだった。自分の目を疑った。
 その胴体の首の部分から、明らかに人形の材料としては異質のものが見えていた。
 最初は理性が否定した。いや、しかしそれは確かに一万円紙幣に間違いなかった。何が起きたのか分からなかった。
 突然、夫は床に這いつくばるようにして、胴体を拾い上げた。内部はくり抜かれていて、中には細かく折り曲げられた一万円札が入れられている。夫は外側の殻を壊して、中の紙幣だけを丁寧に取り出していった。
 もしや、と思って夫が握っていた頭の方を見た。やはり開口部からは紙幣が見えている。
 柑菜は慎重に頭から紙幣を取り出した。
 二人がかりで三十分ほどかかって、一体の人形を解体した。その内部からは三百枚の一万円札が見つかった。何度数えても、ぴったり三百枚である。明らかに制作者の意図を感じる。
「おい、もしかして、こっちにも入っているのかな?」
 夫は当然の疑問を口にした。
 同じような形状で重さとなれば、その可能性は十分にある。
 夫は亀を、柑菜は女の子の人形をそれぞれ解体してみた。
 思った通り、両方の人形の中にも、一万円紙幣がぎっしり詰められていた。亀の方には四百万円、女の子の方には、やはり三百万円が入っていた。
 何度数えても、全部合わせて一千万円になる。
 柑菜の身体は震えた。一体これはどういうことだ。今まで知らなかった。この人形がお金でできていたなんて。
 (このお金は、一体誰のものだろう?)
 夫の方は、喜々として、今まで小さく丸められていた紙幣を一つひとつ伸ばしている。
 柑菜は箱に今でも貼られている送り状を確認した。確か当時も確認したが、まるで知らない人物だった筈だ。
「静岡県浜松市××区××町××番地 牧田さかえ」
 柑菜は静岡県に知り合い、親戚の類はない。夫にも関係のない土地である。いや、夫と知り合う前に送られてきたのだから、彼はそもそも無関係か。
「これは、お前のなんだろ?」
 夫が紙幣を伸ばす作業を続けながら言った。
「ええ、まあ一応」
「そうか、よかった。よかった」
 夫は声高らかに言った。
 柑菜は素直には喜べなかった。果たしてこれは自分のお金なのだろうか。冷静になって考えると、宛名も微妙に違っているし、何のお金かも分からないで受け取るのは気持ちが悪い。
「あなた、ちょっと待ってよ」
 柑菜はきっぱりと言った。
「この人形は牧田さんっていう人から貰ったの。私、その人に会ってくるわ」
「えっ」
 夫は驚いて言った。
「会ってどうするんだ?」
「このお金が何なのか、訊いてくるのよ」
 夫は柑菜を睨み付けて、不服そうに声を上げた。
「それで、相手の気が変わって、返してくれ、って言われたらどうするんだ?」
「もちろん、お返しするわ」
「そんな、お前」
 夫はこのお金がまるで自分の物だと決めてかかっていた。その姿はまるで思慮のない子供のようであった。
「だって、訳も分からずに、こんな大金受け取れないわ」
 柑菜の意志は固かった。

3

 次の日曜日、夫に子供の面倒を任せて、柑菜は一人新幹線に乗った。静岡は高校の修学旅行で通過した思い出しかない。しばしの小旅行を楽しんだ。
 浜松で降りて、駅前のタクシーに乗った。送り状にある住所をそのまま読み上げた。
 タクシーが止まったのは、静かな住宅地であった。古い家々が肩を寄せ合ってひっそりと建っている。細かい番地は、付近の住人に尋ねるしかない。
 遠くで犬の散歩をする男性が目に留まった。柑菜は近づいて会釈した。
「すみません、ちょっとお尋ねしますが、この辺りに牧田さかえさんという方は住んでおられませんか?」
 初老の男性は考える間もなく、
「ああ、牧田さんね」
と反応した。
 彼があっさりと答えたので、柑菜は拍子抜けするほどだった。
「どちらのお宅でしょうか?」
「もう、牧田さんはいませんよ」
「どこかへ引越しされたのですか?」
 柑菜に悪い予感が走った。もし遠方へ転居していたら、今日中に会えなくなってしまう。
「いえ、もう亡くなりましたので」
 男性は事も無げに言った。
 柑菜は放心した。
 しまった、もっと早くに来るべきだった。
「牧田さんはいつ亡くなられたのですか?」
 男性は、私は詳しいことは分からないので、牧田さんの友だちを紹介してあげましょうと言ってくれた。
 彼について行くと、古い一軒家の前で立ち止まった。
 呼び鈴を押した。ここに住んでいる寺本さんが一番の知り合いだったと言う。
 ひどく時間を掛けて玄関先に現れたのは、腰の曲がった小さなおばあさんだった。それでも目や耳ははっきりしているらしく、男性の話をしっかり聞いてくれていた。
 寺本さんは最後に一度大きく頷くと、家の中へ招いてくれた。柑菜は男性に頭を下げて感謝の言葉を言った。
 仏間に案内されて、二人は向かい合って座った。
 柑菜は、自分がここへ来たいきさつを簡単に話した。
「わざわざ遠いところから、おいでなさったね」
 寺本さんは目を細めた。
 柑菜はまず送り状を鞄から取り出した。
「これは、さかえさんの字じゃないね」
 彼女はあっさりと否定した。
 やはりそうなのか、柑菜も女性の筆跡ではないと思っていた。それは最初に見た時から感じていたことだった。
「たぶん、息子の字じゃないかな」
「息子さんがいらっしゃるんですか?」
 さかえさんが代筆させたのだろうか。もしお金を返すなら、その息子に渡すことになりそうだ。
「娘さんもいたけど、事故で亡くなったので」
と言った。
 そして次の瞬間、大声を上げた。
「ああ! もしかしてあなたがポットのサクライさんかね」
 柑菜は飛び上がるほど驚いた。
「そうか、そうか」
 寺本さんは一人納得するように何度も頷いた。
 一体何のことだかさっぱり分からなかった。ただぽかんと寺本さんを見つめた。
「よく会いに来てくれたね。そうか、あなたがサクライさんか」
 彼女は感慨深く言った。それから細い腕を伸ばして、柑菜の手を触った。
 柑菜は困惑した。まだ自分の名前も訂正できずにいる。でも今はそんな雰囲気ではなかった。
 寺本さんは柑菜の気持ちに構うことなく、遠くを見るような目で語り始めた。

 牧田さかえは、長い間一人暮らしをしていた。彼女には息子がいたのだが、ほとんど顔を見せることはなかった。たまに来ることはあっても、それはさかえから金をせしめるのが目的であった。さかえはもう息子を本当の息子とは思わなくなっていた。
 ある日、さかえがお茶を飲もうとして電気ポットのボタンを押したら、お湯が出てこないということがあった。唯一の楽しみであるお茶が飲めないのは、さかえにとっては大問題であった。
 途方に暮れた彼女は、ポットに書かれていた製造会社の電話番号をダイヤルした。応対したサクライという女性はとても親切で、身体の心配までしてくれたというのである。
 柑菜は黙って聞いていた。
 それがこの私だと言うのか。いや、それは何かの間違いであろう。あの殺伐とした戦場では、電話という敵から我が身を守るだけで精一杯だ。一体誰が客の身体に気を遣う暇があるというのだ。
 寺本さんの話は続いていた。
「ご親切にもその女性は、後から電話を掛けてきて、いろいろと自分の身の上話を聞いてくれたと言うんだ。しかしね、よく聞くと、彼女も記憶がどんどん薄れていって、同じ話でも随分と内容が変わってしまっていることがあったよ。
 決して嘘を言っているんじゃないよ。一人ぼっちだったから、何でもない些細なことを、無意識に都合のいいように変えてしまっているんだね。
 さかえさんは愛する娘を事故で亡くしていたから、その娘のことを電話のサクライさんと重ねていたんじゃないかね。まるで私に自慢するように、その人のことを話してたよ」
 息子に見放され、孤独な老人だった牧田さかえのことを、柑菜は哀れに思った。
「彼女は、実は息子に秘密にしておいたのだけれど、先に亡くなった夫の遺産があってね。それを息子にではなく、そのサクライという女性にあげるのだと言っていた」
 柑菜は身体が震えた。さかえさんは私との電話のやり取りを、記憶の中でどんどん美化していったのではないか。私のことをまるで娘のように思い込み、優しい女性だと妄想を逞しくしていったのではないか。
「それで死んだら息子に遺産が渡らぬように、人形を作って、その中にお金を隠した、って言ってたよ。その人形はずっと大事にしまってあって、息子には、自分が死んだらその人形をある人へ贈ってくれ、と遺言を残したんだ」
 いつしか柑菜の頬を涙が伝っていた。
 さかえさんは、私を過大評価していると思った。申し訳なさで一杯だった。やはりこのお金は返さなくてはならない。
「さかえさんは私のことを勘違いなさってます。私はそんな人間じゃない。お金はお返しします」
 柑菜は涙声で言った。
「いや、お待ちなさい。それはさかえさんのご遺志なんですよ。貰ってあげなさい。さかえさんはあなたとの出会いを本当に喜んでいた。あなたは忘れてしまっていたかもしれないが、彼女は毎日想っていたんですよ。だからお金は受け取ってやってください。私からもお願いします」
 寺本さんは土下座をして懇願した。柑菜は慌てて彼女を畳から引き剥がした。
 二人はしばらく無言で座っていた。そこには不思議な時間が流れていた。
 柑菜は最後に
「分かりました。ありがとうございます」
と言って、家を後にした。
 東京へ向かう新幹線の中で考えた。
 今私たち家族には、確かにお金が必要だ。しかしあのお金は私が貰うべきものではない。どこかの老人ホームに、牧田さかえ名義で全額寄付しよう、そう思った。
 夫には何と説明しようか。桜井というのは、実は私のことではなく、まったくの別人だったことにしよう。それはあながち嘘ではない。
 牧田さかえは、たった一本の仕事の電話を、自分を気遣う娘からの電話と思い込んだ。事故で亡くした娘のことがいつまでも忘れられなかったのだろう。私を娘に見立てて、孤独を紛らしていたに違いない。
 一方私は、そんなたった一人の客について、これっぽっちも覚えていなかった。ましてや気遣った筈がない。
 これは彼女の独り相撲である。柑菜は申し訳なさで一杯だった。揺れる列車の中で自然と涙が流れた。OL時代の仕事がとても嘘っぱちで、後ろめたいものに思われた。
 例え夫が何と言おうと、あのお金は受け取ることはできない。柑菜は固く決心をした。

4

 今日は、桜木柑菜にとって初仕事の日であった。
 大学を卒業して、約ひと月みっちり新人研修を受けて、このお客様相談室に配属された。果たして自分が社会人として通用するのか、そんな不安は大きいが、心のどこかで、わくわくする自分がいた。
 始業開始のチャイムが鳴った。いよいよ始まりだ。机の電話が大きく鳴り響いた。これが入社して最初に取る電話である。
「はい、お電話ありがとうございます。お客様相談室の桜木と申します」
 この台詞は研修ですっかり叩き込まれている。
「あの、ちょっとお訊きしますが」
 遠慮がちなお年寄りの女性である。失礼がないように心掛けなければならない。柑菜の全身に緊張が走る。
「はい、どうぞ」
「この電気ポットなんですが、突然お湯が出なくなってしまいまして」
「それは大変にご迷惑をおかけしております。お客様、その商品の名前または製造番号はお分かりになりますでしょうか?」
 これも研修通りである。
「はい? 何でって?」
「その製品の名前はお分かりになりますか?」
「名前はポットですよ」
 そうだった、相手はおばあちゃんである。もっと優しい配慮が必要だ。実家の祖母の顔が浮かんだ。
「ええっと、そうしましたら、どこかに記号または番号が書かれておりませんでしょうか?」
「番号ですか、どこかな? 何も書いてないんですけど」
「本体の裏側になるかと思いますが」
「ポットは、ちょっと重たくて持ち上がらないんだけども」
 柑菜は慌てた。相手は今にもポットを持ち上げそうな感じである。もし足にでも落としたら大変だ。
「あ、ちょっとおばあちゃん、お湯が入っていたら危ないから、待ってください!」
 柑菜は電話口で叫んでいた。
「ははは、おばあだけど、大丈夫だよ」
 電話の向こうで笑い声が聞こえた。ホッとする。実際の現場は、研修とは随分違うものだと感じた。
「すみません。お客様に失礼申し上げて」
「いえいえ、いいんですよ」
「あの、お客様。危険ですので、一度コンセントを抜いていただけますか?」
「電気を切るのかね?」
「はい、念のため、そうさせて頂いてよろしいですか?」
「でも、これから友だちとお茶を飲むのが、たった一つの楽しみなので、切ったら飲めなくなってしまうんです」
「そうですね。すみません」
「でも、仕方がないね」
 電話口にため息が漏れた。
「あ、お客様、ちょっとお待ちください。そのポットはいつ頃お買い求めになられましたか?」
「ええっと、そうじゃね、もう二年になるか、いや三年前かな」
「ポットは何リットルの大きさでしょうか?」
「ああ、二リットルって書いてあります」
「あと、ポットの特徴を教えて頂けますか?」
「ええっと、白いポットで、上に押すところが付いてますが」
「その他に何か特徴はございますでしょうか?」
「そうね、上の方に楽ちん、ってシールが貼ってあるけど」
 柑菜は商品カタログのページを前に後ろにめくった。やはり商品コードが分からないと、データーベースでの検索は無理だ。
「やっぱり安いのを買って失敗だったかね?」
「いえ、そんなことはございませんよ。弊社ではどの商品も品質はきちんと管理されておりますので」
「でも困ったねえ」
「それでは、ちょっとお茶を我慢していただくことになりますが、一度ふたを外して、水の吸い込み口を洗って頂けませんか?」
「はい、はい、分かりました」
 相手はもう諦めたような声を出した。こんな終わり方は柑菜の本意でない。
「お客様、お友達はいつお見えになるのですか?」
 柑菜は話を変えてみた。このまま電話を切られては、自分の初仕事に傷がつく。
「十時頃に来るんでね」
「お友達はお一人ですか?」
「ええ、そうです。もう年寄りですから、近所の人としか付き合いがなくて。その人とのんびりお茶を飲むのが唯一の楽しみなんです」
「実は私も田舎におばあちゃんがおりまして、そのお気持ちよく分かります」
「ああ、そうですか。たまには会いにいっておあげなさい」
「そう言えば、もうずっと会っていないんです。なかなか時間がなくて」
「若い人はすぐそんな風に言うけれど、本当は日頃すっかり忘れてしまっているのじゃないかね?」
 柑菜は慌てて、
「そんなことないですよ。私、おばあちゃん好きですから。今もこの電話を頂いて、真っ先に田舎の祖母を思い出したくらいですから」
「ほほう、あんたは良い娘さんだね」
「お褒め頂いてありがとうございます」
 そろそろ話を戻さなければならない。
「あの、お客様、本当にご迷惑をおかけしてすみません。今まだ九時ですから、お友だちがいらっしゃるまで一時間ほどございます。先ほど申し上げたとおり、一度水道水で吸水口の周りを洗ってみてください」
「しかしそんなことをしていて、間に合うかね?」
「ご安心ください。お茶をお二人分でしたら、ポットの水は半分ぐらいあれば十分だと思います。それなら十五分ぐらいで沸騰します」
「ああ、そうか。それなら何とかなるかもね」
「それで直るかどうかお試しください。もし直らなければ、ヤカンでお湯を沸かすことはできますか?」
「ヤカンはあります」
「ガスもありますか?」
「はい」
「では、その場合は十分お気をつけて、お湯を沸かしてくださいね。また後でこちらからお電話をお掛けいたします」
 柑菜はすかさずメモを取り出すと、「要連絡」とペンを走らせた。
「ありがとね、あなたは優しい人だね」
「いえいえ、こちらがご迷惑をおかけしていますので、当然ですよ」
 少し沈黙が生まれた。
「あなた、お名前は何ていったかね?」
「私は、新人の桜木と申します」
「サクライさんだね、ありがとう。また電話くれますか?」
「はい、後ほどおかけいたします。その時にお話聞かせてくださいね」
「はい、それじゃ、すみません。サクライさん、電話楽しみに待ってますよ」
 電話口の声は、弾んでいた。

     完

天国からの贈り物

天国からの贈り物

【短編】 お客様相談室に勤めるOLの元に届いた一つの箱。一体誰が何の目的で送ってきたものなのか?【完結済です】

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-16

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1
  2. 2
  3. 3
  4. 4