雨の降る日に、猫は鳴く vol,3 「山、洗う」

雨の降る日に、猫は鳴く vol,3 「山、洗う」

 冬哉(とうや)はその日、すでに暗くなった山道を、ハナチルチに向かって黙々と歩いていた。(かたわ)らを歩いている()匠の青は、黒い服を着ているために周囲の色と溶け込んでしまい、ほとんど見えない。口に加えている煙草の先端の、赤い小さな光だけが、彼の(かしら)の位置を示していた。
 もうすぐ、中腹の茶屋に到着するというあたりで、冬哉はふと、下界がある方角を振り返った。ずっと遠くに、わずかに見える町の明かり。その街は土鳥市ではないけれど、冬哉の胸に懐かしさをもたらすのには、充分だった。

 「香枝子さん、元気かな。」

 何か言ったか…と、青が歩みを止めて降り帰る。
 何でもないよ、と言い返すと、青はまた黙って歩き始めた。
 冬哉がこの間初めて仕事をこなしたのは、晩春のこと。その後、青と共に2~3件の仕事をこなしたために、季節はもはや初夏の入り口へと移り変わっていた。

 その時、ふと頬に冷たいものを感じて、指でこする。濡れている。

 「雨だな。」

 青はそれだけ言うと、トランクを足もとに置いてしゃがみ込み、中から布状のものを引っ張り出した。

 「おい、ちょっと来い。」

 傍らに駆け寄った冬哉の体に、頭からその布をすっぽりとかぶせた。それは頭から膝まで、全部入ってしまうくらいの大きさのポンチョだった。
 手でフードを触ると、耳状の飾りも付いている。

 「わあ。これ、僕の?」

 青はしゃがみ込んだまま、ああ、と応えた。長い体を、小さい冬哉に合わせて折り曲げているので、ちょっと大変そうだ。
 「レインコートだ。新品じゃないが、物はいい。大事に使えば何年でも持つそうだ。」
 「ありがとう(・・)。どこで買って来たの。いつ買ったの。」
 冬哉は嬉しくなって、聞いた。もちろん、まともな答えが返ってこないのはわかっている。

 「ふん、そいつは教えてやれねえな。」
 そう言いながら、師匠はぶわっと煙を吐き出した。

 ほらね、やっぱり。
 でも、別にかまわなかった。涼しげで着心地がとても良い。

 すると、青は思い出したように小さな紙の袋を取り出した。その中に入っていたらしい、光る石が付いた小さなブローチで、ポンチョの首元を器用に止める。
 「失くすんじゃないぞ。」
 うん、と冬哉が返事をした辺りで、雨脚が激しくなった。青は、開けっぱなしだったトランクを締める間際、中から細長い竹製のものを取り出した。それは、端を引っ張るとするすると伸びる。やがて、紙を貼った傘がぱっと開いた。それが、「携帯用の番傘」だと教わったのは、ついこの間のことだ。雨粒をはじくバラバラという音を周囲に響かせながら、青は再び歩きだす。その後ろを、冬哉はぴったりとくっついて進んだ。すでに何度も通り、歩きなれた道だが、真っ暗だと、やっぱり不安だった。

 冬哉が初めてこの道を通ったのは、今から4年前の秋のこと。

 初めてハナチルチに入った時のことは、正直あんまり良く覚えてはいない。ただ、寂しかったこと、無性に哀しかったこと、怖かったこと、そしてがむしゃらに楽しい気分になったことだけは、覚えている。

 その大冒険のような二日間の一部始終は、後になってから周囲の兄弟弟子たちや大人たちから聞かされた。

 それらを順序良くつなぎ合わせると、大体、次のようなものだったらしい。



 「干し肉。」
 
 男は、茶屋の奥に向かって、唐突にそう言った。

 呟くように話す割には、よく通る声。おかげで、何やら作業をしていたらしい女主人も、すぐにその存在に気付いた。しかし彼女は、表に顔を顔出すなり、ぎょっとした表情でその客を見つめ返した。彼女は、男と、男の一族について、色々とわきまえている(・・・・・・・・・・)数少ない人間のうちの一人である。つまり、男の仕事内容も少しは知っているはずだが、そんな彼女でも驚くくらい、その男の見た目はひどいものだった。

 「干し肉だってば。」

 彼はもう一度言った。ひどく、空腹であったらしい。それも当たり前のことだ。昨夜遅くに家を出て、明け方に「仕事場」に着き、散々暴れたのちに山にとんぼ返りし、現在はすでに昼過ぎである。その間ほとんど何も口にしていないとなれば、家に戻る前に…つまり、山を登る前に…何かを胃に入れておきたくなる。そして、彼はこの店の干し肉をそこそこ、気に入っている。

 女主人はそれ以上余計なことはしなかった。はいはいとだけ返事をして、やや大ぶりの、香辛料がかかった干し肉を一枚、油紙に包んで差し出した。男は黙ったままそれを受け取り、ポケットから硬貨を取り出してカウンターに置く。しかしすぐ肉に口をつけることはしない。

 実はもう一つ、大切な用件が残っている。

 彼はその大きなどんぐり眼で、じろり、と周囲を観察した。好き放題に生えている山の木々はすっかり暖色系に染まり、山の頂上にだけ、僅かに緑が残るばかり。このあたりの高度までは、その美しい景色を見るために、あるいは栗やキノコを探すために、日々観光客が訪れているが、今のところは誰もいないようだ。

 それをいいことに、彼は声のトーンを落とすことなく、ぼつっと言った。

 「あと、例のやつ。預かって貰ってるはずだけど」

 そう言われると、主人はどこからか、小さなバスケットを取り出した。揺らさないように、そっとカウンターに置く。ちょうど、食パン一枚くらいの大きさの正方形で、高さはそれを5枚重ねたくらい。
 男は干し肉を持っていない方の手で、バスケットの蓋を開けた。そこには、ぐっすりと眠りこんだ小さな仔猫が一匹。体の大きさからして、走り回るのが楽しくてしょうがない、一番やんちゃな年齢だろう。両耳の先がペンで塗ったように黒い。それから、両目の(まぶた)の上に、眉毛に似た丸い模様が入っている。

 彼はとくに躊躇する様子もなく、その首根っこを掴んで持ち上げ、自分の鼻を近づけてみた。ぷんと、薬の匂いが鼻につく。次いで、ぶらぶらと左右に揺らしてみたり、おい、と声をかけてみたりもしたが、目を覚ます様子はない。

 まあ、いいか…。

 彼はその仔猫を上着のポケットにぐいっと押し込み、主人に向かって、どうも…と呟いた。そして、ゆるゆると続く長い山道を、再びのらりくらりと、上に向かって歩き始める。気まぐれなその足音は、誰もいない山中において、たった一つの人工的な音だ。彼はそれを聞きながら、天上をぼんやりと見上げた。(かしら)上を覆う木々の間に、爽やかな午後の秋空がある。その眩しさに、思わずくしゃみが出る。ぐすっと鼻を鳴らしたとき、仲秋の冷えた風が頬に当たった。いまだに血が滲んでいる頬の傷が、じりじり()い。
 視線を元に戻し、今度は先ほど買った干し肉をポケットからひっぱり出した。包みを開き、歯と指の力で、細く引き裂く。びりっという音とと(・・)もに、獣肉の匂いと香辛料、塩辛さが口の中に充満する。黙々とそれを咀嚼していていると、別なポケットの中身が、突然もこもこと動き始めた。ぴゃ…というか細い鳴き声が聞こえる。

 男は足を止めるでもなく、起きたか、と呟いた。

 「…ここどこ?…」

 ポケットからのぞいた白い顔が、ぼんやりした様子でそう言った。目は開いていない。

 「山。」

 男は呟いた。もう少し、いい説明の仕方があるはずだが、これが彼の性分である。長いセンテンスで話すことが苦手だった。

 「おじさんは、誰?」

 起きているのか、寝言なのか分からない様子で、仔猫は尋ねる。

 男は、その質問の一部にいささか気に入らない点があったらしく、少しの間黙りこんだ。若いようにも老けているようにも見えるけれども、彼はまだ、その時点で二十二歳であった。しかし、その仔が再び眠ってしまう前に答える必要があるような気がして、口を開く。

 「寛治。」
 「んー…?」

 仔猫は、またうわごとのように聞き返した。

 「篠澤、寛治。お前の名字も今日から篠澤だからな。」
 「どうして…?」
 「どうもこうもない。一緒に暮らすんだ。」

 分かったのか分かってないのか、フーン…と答えが帰ってくる。

 「僕は眠いなァ…。」

 「じゃあ、寝てればいいだろ。」

 すると、再びうんともすんとも言わなくなった。

 この子供がこんな状態になっているのは、ある特別な薬を飲まされているせいだ。
 篠澤家の人間が、事前にこの子供の家族あてに送っておいたもので、それを飲むとしばらくの間は人間に戻れなくなる。おまけに、ひどい眠気にも襲われる。
 
 これは、大部分が大人の事情によるものだ。

 つまり、家族と引き離して山奥の屋敷に連れてくる時、泣いて暴れたりしないための方法。薬で眠らせて、先ほどのバスケットのようなものに入れて、茶屋に預けておく。すると、一族の誰かが、そのまま屋敷に連れ帰る。子供の家族は篠澤家の人間とは顔を合わせないまま、そっと人目を忍んで姿()を消す…。

 といっても、王家の血を引くやんごとなき人々は、自分で山登りなどしないだろう。使用人か誰かが遣わされて来るだけだ。

 ここで、寛治は疑問に思う。

 猫として生まれた子供を手放すことに、涙する親はいるのだろうか?仮に、いたとして…はたして、その涙は安心の涙なのか?それとも悲しみの涙なのか?

 まあいいか。

 結局のところ寛治には関係がないし、どうでもよかった。


 緩やかな山道を歩き終わり、ハナチルチへの入り口を通ったあたりで、少しずつ周囲の状況が変わり始めた。まず、先ほどまでの秋の冷たさがいつの間にか薄らぎ、温暖湿潤の過ごしやすい温かさに包まれる。この土地は、外の空間がいかに深い雪に閉ざされようとも、一年を通してこの気候を保っている。

 赤く色づいたモミジの根元に、チューリップが。
 その隣にある岩の(かたわ)には、スズランが…。

 寛治は仲間の薬売りたちとは違って、薬草や花に関わることが少ない。その上、興味もない。よって、植物に関してはまったく詳しくない。しかし、その2種類の花が同じ時期に咲いていることが、いかに奇妙なことであるかぐらいは理解できる。

 さらに歩みを進めるうちに、木々の色も、暖色系から初夏の瑞々しい新緑へと変わり始める。その中に狂い咲く、溢れるような四季折々の草花たち。細い山道はその異様な生命力の圧倒され、まるで植物で出来たトンネルのようだ。蝶やミツバチたちが、そのトンネルの中を音を立てて飛びまわる。寛治はそれらを手で追い払いつつ、奥へと進み続ける…。

 すると、突然目の前が開けた。

 左手には、大きく広がる薬草畑。

 真ん中は一直線に石畳が通り、右手側には丁寧に草を刈られた砂地がある。

 そこには大きな筵が何枚も引きつめられ、数多くのザルや丸い()が並べられていた。そのどれにも、畑で採集された薬草や、食用にする山野草などが入れてある。ここは日当たりが良いため、天気が良い日はこうして乾燥させる。

 その景色の向こうには、生薬(しょうやく)作りのために設けられた、小さな白壁造の作業所があった。煙突から煙が出ているところをみると、女たちが何か煮炊きをしているらしい。そして、その後ろに建っている大きな屋敷こそ、篠澤家の居住地だった。畑を突っ切っている石畳の終着地点であり、作業場と同じ白壁造りの3階建て。まるで、聳えたつがごとく、静かに(たたず)んでいる。ちょうど寛治の立つ場所から、2階の一部屋が障子を開け放っているのが見えた。その中から、艶やかな三味線の音が風に乗って流れてくる…。

 この情景こそ、彼らが日々繰り返している日常である。寛治を含めたそれぞれが、この風景を目にして初めて、ああ自分は無事に「仕事」から帰って来たのだと思うのだった。

 寛治は屋敷に入る前に、まず離れの作業所に顔を出すことにした。そこには昼間、必ずと言っていいほど(ねえ)弟子の万菜(まな)がいるし、武器をしまっておくための長櫃(ながびつ)もある。そう思って、のらくらと石畳を踏んでいると、広げられた筵の中央に、少女…咲の姿()が目に入った。寛治はしばらく立ち止まってじっと観察する。咲はその場にしゃがみ込んだままじっと何かを考えているらしく、その視線に気付く様子はない。

 「全部持ち上げたら、重いかな。」

 ぽつん、と咲はひとり言をこぼした。目の前に並んだ3つの大きな箕を、一度で作業場まで運びたい。(かしら)の中はそのことでいっぱいだ。箕の中には、どれもカラカラになった、真っ黒なぬばたまの花びら…。それらは、作業所に運び込まれたのち、3分の一は粉にして、砂糖と混ぜて飴にする。煙が苦手な女性や子供は、それをクロモノとして服用している。煙草を好む者は、残りの3分の2を使って、自分で好きな太さの煙草を作る決まりだ。
 咲はもちろん飴にしたものを舐めていたが、それは寛治も同じだった。彼は、こう見えて甘党である。年上の兄たちが好むような、苦かったり辛かったりする料理はあまり好まない。本人は認めたがらないが、味覚が子供なのである。それに、煙草や酒は、いざという時に体の動きを鈍らせる。それは、寛治にとって命取りだ。

 「まあ、いいや。」

 咲がそう呟いたところで、寛治はスニーカーを脱いだ。筵の上を(かご)や箕を踏まないように、つま先でそっと進んでいく。

 「これをこうして。」

 咲はおもむろに目の前のものを三つ重ね、細い腕でよいこらしょ、と頭の上に乗せた。確かに、そうやって運べば両手で抱えるよりバランスよく持ち運べる。しかし、咲はまだ10歳だ。乗せたはいいが、立ち上がれない。頭がぐらぐらして、肝心の花びらがパラパラと足もとに落ちる。

 わ、と叫んで尻餅をついたところで、ようやくたどり着いた寛治が、とっさに箕を持ち上げた。おかげで、大事な花びらを周囲に…つまり、違う薬草が入っている別の箕の中に…まき散らさずに済んだ。咲は何が起こったのか分からずに、尻餅をついたまま、後ろを振り返る。

 「3つは多いだろ。」

 それだけ言って、寛治はさっさと作業場に向かって歩きだす。腕には、重ねられた三つの箕が、軽々と抱えられていた。咲は座り込んだまま、ぼんやりとその後ろ姿を見つめている。

 彼女はこの時、寛治の上着の背中がいつも以上に破れていること、ちらっと見えた顔の傷が深くて()そうだということ、箕を抱えている腕にもかすり傷が多くあることに気が付いていた。

 寛治はといえば、そんな咲の目線など全く気付いていない。スニーカーを履きながら、早く来い、と言うだけだ。

 「あ、待って」

 慌てて腰をあげて、後を追う。と言っても、ここで周囲の箕を足で蹴飛ばしてはいけないから、慎重に歩く。揃えてあった草履に履き替え、気ままな足取りで前を行く寛治に向かって、ねえ、と声をかけた。

 「その頬っぺた、痛くないの?」
 「痛い。」
 「薬塗らなくていいの。」
 「いらない。舐めれば治る。」
 
 粗野な答えに、咲はちょっとだけ俯いて唇を尖らせた。
 
 ふん、どうせ美也子ちゃんみたいに薬塗るの上手じゃないもん…。

 「あれ?ねえ、寛治くん。その白くて長いものは何?」

 俯いた拍子に、上着のポケットに目が行ったサキは、そう尋ねた。好奇心が強いことと(・・)、長くいじけないことが、この少女の特徴である。

 寛治は歩みを止め、面倒くさそうに咲を振り返った。

 「ほら、ポケットから出てる…。」

 そう言われてようやく、あぁと呟いた。

 「忘れてた。おい。手、出せ。両手だ。」

 咲は言われるがまま、両方の手の平を合わせ、水をすくうような形を作って差し出した。寛治は片腕で上手く箕を支えながら、残った方の手をポケットに突っ込み、中身を引きずり出した。咲の手の上に、白くて小さくて丸くて、とても温かいものがそっと乗せられる。

 「新入り。お前の弟。」

 咲は思わず、ふわああ、という声を上げた。小さい、可愛い。先ほどまでポケットからはみ出していたのは、どうやらこの仔猫の尻尾だったらしい。

 寛治は再び、抱え直した箕を持って歩きはじめる。
 咲はその後ろを、「新入り」を落とさないように、ゆっくりと着いて行った。

 
 からから…ぱっちん。
 からから…ぱっちん。

 美也子は今、作業場の板床に座り込み、ある作業に没(かしら)している。真鍮(しんちゅう)製の糸巻きを膝近くに置いて、その糸の先端をくいっと手首で引っ張ると、糸巻きは床の上でリズムよくからからっと音を立てる。糸の先端は、左腕のひじの内側にあてがって、そのまま人差し指の先端までの長さを計り、ハサミでぱちん、と切る。切った糸は、揃えて床に置く。これは、乾燥し終えた薬草のうち、比較的長さのあるものを、数本ずつ束ねておくために使う。

 からから…ぱっちん。
 からから…ぱっちん。

 この作業場は、離れとして設けられた割には、結構な広さがある。まず、天井高くまである大きな百味箪笥(ひゃくみたんす)が置かれ、正方形の引き出し一つ一つに、生薬(しょうやく)の名前が書かれている。明かり取りから入り込んだ午後の日差しが、古くなって擦れつつあるその文字を、ぼんやりと照らし出す。薬売りたちは、それぞれ自分の道具箱の中身を確認して、足りないモノがあれば、出かける前にこの箪笥の中から探し出して、補充していく。

 からから…ぱっちん。
 からから…ぱち…。 

 かたん。

 充分糸の本数が溜まったところで、ハサミを置いた。自分が出していた硬質な音が止んだことで、ようやくその耳に柔らかな音が入りこんでくる。

 美也子がいる位置から少し離れたところにひかれた、薄い毛布。その上に、一匹の大きな虎猫が寝そべっている。お腹の部分には、半月前に生まれたばかりの仔猫が2匹、ちゅ、ちゅ、ちゅ…と吸いついていた。男の子と女の子の双子。普通の猫なら、半月もすれば立って走り回るのだろうが、篠澤家の者として生まれた場合は違う。人間の成長に合わせて、ゆっくりゆっくり、大きくなる。だから、いまだに這いつくばって移動する程度しか出来ない。

 それより、遅いんだけど。

 そのほほえましい光景を片目で見ながら、心の中でぼやく。妹弟子の咲に、干し終わったぬばたまの花を持ってくるように言ったけれど、なかなか帰ってこない。

 「咲…何してるんだろ…。」

 量が多くて困っているのだろうか。一度で運べないなら往復すればいいのに…。

 虎猫はぐわっと欠伸をしながら、大丈夫よう、と返事をした。虎猫の名前は万菜(まな)といって、美也子と咲のお()匠だ。
 「ちょっと乾燥場に行っただけでしょ。もう来るんじゃない。」
 だったらいいんだけど。
 咲は変わったものや珍しいものを見つけると、決まってやるべきことをほったらかして、夢中になる。以前、「見て見て!」叫びながら、両手に何かを乗せてきたことがあった。全身泥だらけだった。めんどくさいと思いながらも手の中を覗きこんでみたら、太いミミズが一匹のたくっていた。

 「掘ってたら見つけたの。凄いでしょ。ねえ、美也子ちゃん、ミミズの頭ってどっち?」

 当時、その手の生き物が大嫌いだった美也子は、全身の毛穴を開きながら叫んだ。

 「お前がミミズの頭だこのタコっ!!」
 
 咲はしれっとした顔で答えた。

 「タコなの?ミミズなの?どっち?」
 
 美也子が散らばった糸屑をかき集めていた時、がらりと引き戸が開いた。同時に、静止していた作業場の中の空気に、外の匂いや音が流れ込んでくる。屋敷で、一心不乱にかきならされる三味線のリズムが、鼓膜を打つ。()を持って入ってきたのは、咲じゃなかった。

 「あ、お帰りなさい。」

 寛治は美也子の言葉に、おぅ、とだけ返事をしながら、持っていた箕を無造作に置く。頬に盛大な傷をこしらえていたけれど、美也子は何も言わない。あれぐらいなら舐めてれば治る。
 寛治は、土間に置いてあった長櫃(ながびつ)を開けると、うなじのところから背中に手を入れ、ずるっと長い棒を抜き出し、その中に放り込んだ。彼はいつもああやって、ジーンズの腰のところに武器を差し込んで持ち歩いている。何故、自分の腰や背中やらを傷つけないのか、背中を曲げるときに邪魔にならないのか、不思議でしょうがない。

 ちなみに、今抜き出したものは、一見ただの棒のようでいて、実は槍である。一振りすると、収納式の釣り竿のように、長くなるのだ。そして、先端には短い刃物が付いている。

 長櫃のふたを閉め終えた寛治は、竈の上で湯気を上げている鍋の中を覗き込んだ。そこには、昨日取ってきた山ぶどうを煮詰めて作った、濃い紫色のジャムがたっぷりと入っている。

 「弟よ、刮目(かつもく)せよ!」

 寝そべったままの万菜が、高らかにそう宣言する。鍋から目を離した寛治は、土間に立ったまま、面倒臭そうに腕を組む。目は、一応虎猫を見下ろしている。
 「良いですか、女性の授乳シーンと言うのは、けっして恥ずかしいものではないのです。哺乳類の中で最も女子力の高い情景です。賞賛すべきものに値します。弟よ、雄であるお前がどんなに努力しようとも体験できないことだからといって、お(ねえ)ちゃんに嫉妬してはいけません。」
 「あのさ。」
 寛治はぼそっと呟いた。呟いている割には、よく聞こえる。地声が大きいのだ。
 「弟がぼろぼろで帰ってきたのに、他に言うことないわけ。」
 「はいはい、お帰りなさい。」
 万菜が投げやりに言ったのと同じタイミングで、二匹の仔猫が食事を終えた。腹から顔を離し、げぷ、と小さな音を立て、(たたず)んでいる寛治を見上げている。
 美也子もまた立ち上がって、使い終わったハサミと、まだ糸が半分くらい残っている糸巻きを、部屋の隅に置いてある机の引出しにしまった。引き出しの中にある未使用の糸巻きはあと一つだけ。誰かに買って来て貰わなきゃ。
 寛治は、履いていたスニーカーを脱ぐと、裸足で板の間に上がり込み、じっと自分を見上げている仔猫の近くにしゃがみ込んだ。先ほどまでの面倒臭そうな表情が、少しだけ緩んでいる。
 「ちぃ。」
 女の子のほう…寿々(すず)という…が寛治に向かって鳴いた。続けて、男の子のことら(・・・)も、ぴぃ、と声を上げた。
 寛治はやっぱり、おう、とだけ返事をする。
 「これ、ばっちいものに近づいちゃいけません。免疫未完成の新生児たち。」
 寛治はぎろり、とその丸い眼を万菜に向ける。
 「ばっちいものって…。」
 万菜はその問いには答えず、柱に取り付けられた時計を見た。現在、二時半。
 「あ、お昼寝の時間だっ。」

 お昼寝。

 確かに、一日体を動かしているせいで疲れている。それも当たり前だ。美也子たち女性陣の朝はとても早い。何故なら、夜にしか咲かない「ぬばたまの花」を最もよい状態で採集できるのは、朝の3時から6時までである。つまり、そのころに布団から這い出して一仕事終え、それから朝食を取る。

 「弟よ、何をぐずぐずしているのです。私たちは寝るのだから、早くお風呂に入りに行くなり何なりなさい。乙女の寝顔を見ていいのは紳士だけと決まっているのです。」

 それだけ言うと、毛布の近くに置いてあった人間用の、少し大きめの揺りかごに子猫をさっさと運び込んだ。美也子はしかたなく、言われたとおり薄手の掛け布団を3枚持ってきて適当に広げた。

 お昼寝…。

 寛治は、やれやれと言わんばかりの表情で、作業場の一角に設けられた扉を開け、出て行った。その扉は先ほど入ってきた出入り口とはまた違う扉だ。その向こうには渡り廊下があり、母屋の屋敷とつながっている。
 万菜はぴゃあぴゃあと鳴き声を上げる仔猫に向かって、いけません、お昼寝の時間です…と言い聞かせ、美也子は寝返りを打った時に蹴飛ばさないよう、薬草が入ったままの丸い箕を端に寄せた。

 このお昼寝の制度って、どうなんだろう。

 確かに、今ここでちょこっと休めば、夕食までさくさく作業が進むし、明日の朝も起きやすいのだけど、そもそもその考え方が甘い気がする。寝不足を押して仕事をして、初めて成果が出るのが農作業であり肉体労働なんじゃない?赤ん坊を見ながら仕事してるお師匠さまはともかくさ…。

 その時ようやく、咲が作業場へと入ってきた。
 両手に何かを入れて、そろそろと歩いてくる。

 「あ、咲。遅い」

 美也子にそう言われても、咲は頬っぺたを赤くしたまま、キラキラとした目で手の中を覗き込んでいる。

 「見て見て!美也子ちゃん!」
 「……。」

 なんだろう、このデジャヴ。

 それでもおそるおそる妹に近寄ると、その手の中にはミミズなんかじゃなくて、ぐっすりと眠り込む白い仔猫がいた。

 「うわわ、ぐっすり。」
 「新しい子だって!新入りだって!」

 ああ、なるほど、と美也子は理解した。咲は今まで、一番末っ子だった。良くも悪くも、常に子供扱いされてきた(実際子供なのだけど)。そこにようやく、弟弟子がやってきたのだから、嬉しくてたまらないのだろう。

 まだ薬が効いていると思うの…と、揺りかごからひょっこり顔を出している万菜が叫んだ。

 「だからもう少し寝かせてあげましょ。ほら、一緒に揺りかごに入れていいから。」


 仔猫が目を覚ましたのは、3人が眠りに着いてから、しばらくたってからのこと。
 甘ったるい、どこか懐かしいような匂いをかいで、うっすらと目を開けた。そこにあった、見たこともないような巨大な人間の赤ん坊の顔を目の当たりにして、仔猫は声にならない悲鳴を上げ、ゴムまりのように跳ねあがって、入っていた揺りかごから転げ落ちた。

 そこはそれ、猫なので怪我こそなかったけれど、心臓が爆発するかと思うほど、高鳴っていた。ゆりかごのすぐ近くには、見覚えのない3人の女性が、安らかに寝息を立てている。

 そろそろとその場に立ち上がり、何やらたくさん引き出しがある…仔猫はまだ百味箪笥(ひゃくみたんす)を見たことがなかった…壁のようなものにピタリと身を寄せると、再び、その場に座り込んだ。

 「………。」

 少しして落ち着いてくると、今度は大きな心細さと恐ろしさに襲われた。その3人が誰なのかも、何故自分が赤ん坊と寝かされていたのかも、見当がつかなかった。声を出して泣きたかったけれど、どう頑張っても、人間の姿()には戻れない。人間にならなければ、涙も出ないのだ。それに、ぐっすり眠っているのを起こして、叱られたらどうしよう…という考えが(かしら)をよぎった。結局、同じように箪笥の根元で震えているしかなかった。気持ちのやり場が見つからなくて、板の床に細い爪を立てた。きちきちきち、と哀しい音が出る。

 仔猫は依然、家に出入りする親戚の誰か…偉い人物らしい…に、「お前はある年齢になったら違う場所で暮らす」と言われたことがあったのを、思い出した。「人の役に立つ仕事をするのだ」、とも言い聞かされた。その時は、それがいつのことなのか、どんな仕事なのかもさっぱり分からなかった。
 そして、今朝のこと。
 朝ごはんを食べるとき、いつも『お行儀の先生』が怖い顔で自分を見下ろしているはずの場所に、何故か母親がいた。仔猫の家庭では教育が厳しく、特にたち振る舞いや食事の行儀にはうるさい。そのせいか否か、家族と共に食事を取ることは少ない。いつも決まって、その行儀の先生と二人だった。食べる順番がどうの、食器の扱いがどうの。テーブルに並ぶものは一般家庭よりも豪勢だが、上手いと思ったことは一度もない気がする。

 母親は、じっと静かに自分を見つめていた。笑っているような、泣きたいような表情だった。二人きりで食事をしたのは、初めてだった。

 それらのことを勝手に頭の中で組み合わせてみて、自分がその「ある年齢」に達したことや、「違う場所」に追いやられてしまったのだということが、おぼろげながら理解出来た。では、これから、自分は「人の役に立つおしごと」をしなくてはならないのだろうか?

 仔猫は、小さく鳴いた。ミィ。だれも起きない。

 何だか無性に空しい。何でかな。

 自分が、家族からずっと遠いところに厄介払いされたことを思っても、別に悲しくなかった。家を思い出しても、厳格な父やほとんど遊ぶことのなかった妹の顔が浮かぶだけ。切ない思いも、懐かしい思いも、出てこない。つまり、帰りたいと思う場所が見つからない。

 お腹が空いた…。

 猫のままだと、人間と同じものが食べられないから、お行儀の先生が怒ることもないかな?いいや、もしかしたら、ここには、そんな先生いないのかも知れないぞ。

 その時ふと、どこかでいい香りがしたような気がして、ふんふんと鼻を鳴らしてみる。空腹をくすぐるような、甘く、深く、くらくらするような匂い…。それを辿るように、少しずつ、前に進んだ。起こさないように、3人の枕元を、抜き足差し足…。
 すると、百味箪笥の一番下の段に並ぶ引き出しの一つが、ほんの少しだけ開いていることに気が付いた。いい匂いはその中から流れてくる。大体、1センチあるかないか…その程度の隙間だったけれど、猫の敏感な鼻が反応するには、充分。好奇心が抑えきれなくなって、前足をその引き出しに差し入れる。1センチが、3センチになった。するとさっきよりも強い、その濃厚な香りが、体にまとわりつく。仔猫はとうとう(    )我慢できなくなって、頭ごとその中へ突っ込んだ。
 
 その引き出しには、かすれた字で、「またたび」と書かれてあった。



 「へへっ…」
 
 仔猫が、お腹が一杯になったなァと感じた頃には、時すでに遅し。すっかり、べろんべろんの酩酊状態に陥っていた。

 その食べ物は、この子供の短い人生の中で、珍しく美味しいと思う代物だった。甘いような苦いような、食べたことのない味。しかし、食べれば食べるほど哀しさが薄れ、なんだかどうでもいいような、妙に心地の良い気分になってしまう。おもむろに立ち上がると、おぼつかない千鳥足で、えっちらおっちら辺りを踊るように歩き回った。

 「僕はァ、何にれも、なれるんらろ。えへへ、自由な~野良猫にらって~、ほい、なってやるんらから~、ういっく、見てろよクソジジィ…」
 クソジジイ、なんてどこで覚えたのか、誰のことを指すのかは仔猫にしか分からない。本人ですら、分からないかもしれない。
「 こぉんな、山奥が、ううぅ、何らってンだ。僕は虎なんらぞ。虎は、山で暮らすもんなんらから、いいのらこれで。おい、そこのザリガニめ、文句あるなら言ってみろ。」
 ザリガニ、とは床に置かれたハサミのことだった。美也子が使っていたのとは違う、剪定用のもの。相手が物を言わないのをいいことに、やい、怖気づいたのかっ…などとケンカを売っている。

 実は、このまたたびの引き出し、開けたのは美也子であった.三人で毛布にくるまって横になったのはいいものの、何となく寝遅れてしまったため、頭近くにあった引き出しを開けて、2,3粒失敬したのである。本当は、大好物であるこの実を、もっとぐわっと食べたかった。しかし仕事に使うものだし、14歳の乙女が、白昼堂々酔っ払っていびきをかくわけにはいかない。よって、眠気を誘う分だけ、つまみ食いしたのである。その点に関しては成功し、今や美弥子は快眠状態にあるのだが、ほんのちょっとした気の緩みが…つまり、閉め忘れが…この事態を招いてしまったようである。

「はん、は、は、はんっ。あーぁ、いいきもち。」

 仔猫がハサミに喧嘩を売ることに飽きた時、かちゃりという音がして、渡り廊下へ通じるドアが開いた。

 「おや、誰もいないのに、開いたぞ。」
 
 確かに人の姿はなかったが、その代わり、ドアの足元から真っ白な猫が入ってきた。頬に大きな傷がある。むすっとしたような口もと。じろっとした大きな垂れ目。

 「おやおや…あれは、先ほどの、汚いおいさん。」

 その「汚ないおいさん」は、えいやとばかりにドアノブに飛びかかって扉を閉めると、仔猫の存在など全く気付かないまま、竈へと直行した。



 仔猫は、その真っ白な後ろ姿()ををふらふらと追いかけ、やがて竈の前に立った。洞窟のようなぽっかりとしたその空間は、残った炭の中で揺れている赤い光以外、真っ暗だった。

 「ちょっと…おいさんおいさん!お、響くなァ…」

 仔猫のカン高い声は竈の中にわんわんと反響している。しかし中からの返事はない。仔猫は、どうしてこの時、その白猫が寛治だとわかったのだろう。顔形が持つ雰囲気か、それとも身のこなしだろうか。

 ちなみに、寛治は竈の中に残り火があるのを知って、湯を浴びた後にこの作業所まで舞い戻ってきた。彼はこう見えて極端な寒がりであり、温暖な気候であるこの土地でさえ、安眠することが出来ない。だからこうして、隙を見ては火の(くすぶ)っている温かい暖炉へと潜り込む。いつしか覚えたこの癖はなかなか抜けず、どんなに毛並みが真っ白でも、すぐに灰と(すす)にまみれてしまうのだった。おかげで、美也子なぞはついこの間まで、寛治を灰色の毛並みだと思い込んでいたぐらいだ。今は、竈の内側にある小さな段差に体を乗せて、すでに寝息を立てている。

 「返事がないなァ、駄目だなァ、お行儀の先生が、ひっく、呼ばれたら返事をしなさいって、うぃ、言いやがった、ちくしょうあのイジワルめ…今に見てろ…」

 そう悪態をつきながら、仔猫は千鳥足で竈の中へと入って行った。火傷しないように、炭と内側の壁との間をそろそろと進む。そこには、わずかな段差の上で体を上下させている、巨大なモチのような姿があった。
 「これはこれは…どうも、御苦労さまでっす。眠ってるねおいさん…ひひ。」
 そう言いながら、ひょいとそのモチの上に飛び乗ると、おおう、気持ちがいいなあと声を挙げた。
 「玉のようにまんまるで、ふかふかだァ。おっ、灰がたくさん付いてら。これぞまさしく、ハイボール!なァんちゃって。ひゃひゃひゃ」
 すると、そのハイボールがむくりと、(かしら)を上げた。
 「うるせえな…。」
 「おろろ、起きましたね。あのですね、僕はとーってもいい気分なんです!つーきのーぅ、さばーくをーぉ、はーるばぁーるとーぉ、あ、ほい!」
 「またたび臭ぇな。盗み食いしたろ。」
 「ひっく、人聞きが悪いなァ。お腹が空いて何が悪いってんだこのやろう。」

 ハイボール…ではなくて寛治は、大きく深呼吸するようにため息をついた。

 「降りろ、眠いんだから。女たちのところに行けばいいだろ。」
 「お(ねえ)さま方は、眠ってるんだい。うぃ、起きやしない。いいんだいいんだ、どうせ。誰も僕の気持ちなんか分かんないや。こんちくしょい、こんな遠い山の中に、おいて行かれてさ。あ、連れてこられたのかな?まあいいや。別にあんな家帰りたくもないけどさ。」

 寛治は、同じだよ、と呟いた。

 「何が同じなんですおいさん。」

 寛治は、すでにおじさんと呼ばれることを諦めているらしく、何の反応も示さない。ただ、訂正するのが面倒なだけかもしれない。

 「ここの連中は、みんなガキの頃に家を出されたんだ。俺やお前と同じで人になったり猫になったりするからな。」
 「へっへ、じゃあ仲間かあ。おりょ、待てよ。そしたら、おいさんも、僕と同じように小さい頃ここに来たんだねェ。」

 寛治はうつらうつらしながら、違うよ俺は、と答えた。

 「外に…赤ん坊がいたろ…あいつらと同じ…俺の両親は…ここの人間で…死んじまったけど…」
 にゃごろろ、と仔猫は感心したように喉を鳴らした。
 「ほんなら、おいさん、山育ちだねえ。」
 しかし、もう返事はなかった。寛治はとうとう(    )力尽きて、再び眠り込んでしまったのだ。
 「なぁんだ、つまんないの。いいやあ、僕歌っちゃおうっと。おいさんと僕が、出会った記念に、一曲歌いまァす。何にしようかなァ」

 仔猫が、頭の中に入っているあまり多くない選曲リストをめくっているとき、作業所の扉がスッと開いて、一人の薬売りが入ってきた。
 その人物は竈の中のことなど全く気付かす、寝ている女たちを遠くから一瞥(いちべつ)して、やがて靴を脱いで板の間へあがりこんだ。持っていたトランクを床に置き、その隣に腰かけると、中を開いて革の袋を取り出す。そして、自分の煙草を作るのに必要な分だけ、そこにあったぬばたまの花びらを詰める。充分な量が袋に入ると、口を締めて再びトランクに放り込んだ。この一連の動作には無駄がなく、なめらかだった。そして、眠っている者たちを起こさぬための配慮も混じっていた。

 調子っぱずれの、陽気な歌声が聞こえて来たのは、その時だ。
 「ねこの、おひげに、りぼんをつけて、はぁ、どっこいしょー。ねこふんじゃった、ねこふんじゃった、ねこふんじゃったーら、ねーちゃった。それ、よーいよい。へっへ。」

 不審に思ったその人物は、板の間から立ち上がって、再び土間へと降りると、竈の前へしゃがみ込む。

 「なつも、ちーかづく、はーちじゅう、はちや、ちょいちょい。野にも…」

 次の瞬間、ドスの利いた男の声が響いた。

 「おい、こらっ」

 これには、さすがの仔猫も飛び上がる。

 「誰かいるのか。いるなら出てこい。」

 男は、再び怒鳴る。ここへきて、寛治もまた、もぞもぞと動いた。
 「何だよ、もう。寝かせてくれよ。」
 「歌ったのはお前か、寛治!おい、何度言ったらわかる。竈じゃなくて部屋で寝ろ。」
 「うるせえな、寒いんだよう…。」
 そう言いながら、垂れた耳を両手でぴったりと塞ぐ。しかし今度は仔猫が容赦なく、おいさんおいさん、と喚いた。

 「この男の人怒ってるねえ。」
 「違うよ、いつもこうなんだよ。」
 「へええ、いつも怒ってるのか、大変だなァ、いや、どうも、御苦労さまです。」
 「だから、違うってば。」

 なんだ?と竈の外から、またどすの利いた声。
 「他に誰かいるのか。」
 すると、寛治はおもむろに起き上がって、ずりおちた仔猫の首元を咥えると、竈の入り口から放り出した。
 「この小さいやつ、何とかしてくれ。うるさくて眠れない。」
 それだけ言うと、寛治は再び竈の中に引っ込んだ。男は仔猫の首根っこをつまみあげ、自分の目線まで持ち上げてみた。黒のスーツ、ネクタイ、帽子。サングラスの奥では、鋭いオッド・アイの三白眼が、じっとその小さな体を睨みつける。

 「ひゃっほう、高い高い高い。僕はもう空も飛べるぞう」
 「ふん。」
 男はその小さな体に、ふっと息を吹きかけた。周囲にもわもわと灰が舞う。思い切りそれを吸いこんだ仔猫は、ぶしゅっと大きなくしゃみをした。
 「ああ、いい風だなァ…。」
 男…青は、その子供を自分の内ポケットにぐいっと押し込み、トランクを持つと、作業所を出た。いつのまにか、三味線の音が止んでいる。その代わりに、先ほどから降り始めたらしい猫鳴キ雨にのって、がらがら、ぐあおう、ごろごろ…という、猫とも虎ともつかぬ鳴き声が、母屋の方からこだましていた。

やがて、作業所の中は、再び静寂に包まれた。
聞こえるのは、すでに止みかけている雨音と、寝息だけ。寛治が眠っている竈の火も、すでに消えてしまった。

先ほど、青が作業所の外で聞いたがらがらという鳴き声は、すでに止んでいる。かわりに、母屋の方から渡り廊下を裸足で歩く、ひたひたという音が近づいてきた。
 やがて、そっと扉が開き、青とは別の男性が入ってくる。
 彼は、湯に向かうという末の弟から、新入りを作業場の女たちに預けたという話を聞いてやって来た。その顔色は、一仕事終えたばかりで少々青ざめており、また、三味線を弾き続けたために、指先が赤い。
 彼は後ろ手でドアを閉めると、まずは中の様子を見回した。

 甘草(かんぞう)芍薬(しゃくやく)、生姜、丁子(ちょうじ)、ムクゲの樹皮、ヨモギ、そして黒い花びら。必要なものが、必要な分だけ、手抜かりのない手仕事が施されている。そのことに感心したように、喉の奥でごろごろと音を鳴らした。
 そして、寝入っている二人の少女の顔をちらりと覗く。どちらもまだ、あどけない。その気持ちのよさそうな寝顔に満足すると、今度はゆりかごの中を覗き込み、破顔する。6か月になり、ようやく寝返りが打てるようになった我が子が二人、人間の赤ん坊姿()でよく眠っている…。と思いきや、その片方が目を覚まして、ぐずりかけていた。ことら(・・・)のほうだ。
 男は、ゆりかごに寄り添うように眠る母親…妹弟子の万菜(まな)の顔を覗き込む。彼女もまた、よく眠っている。肩の上で切りそろえた黒髪と、丸い顔。ほんのり赤い目尻や口、ぽってりとした頬…。どこか幼さが残る顔立ちだが、これでも少女たちとは一回り以上も年上である。しかしその寝顔からは、ハッキリとした疲れの表情が見てとれた。
 男は万菜を起こさないよう、ゆりかごの中からそっとことらを抱き上げた。その抱き方も、揺らしてあやす動作も、手慣れている。それも当然だった。彼の弟…充は、神経質な上に腺病質だったし、その下の青は気難しくて、まったく大人には懐かなかった。どちらも、大人に変わって面倒を見たのは、この男だった。

 今はもうこの家にいない、彼らの()匠たちは、あまり弟子に構うことがなかった。揃って体が強くなかったから、仕方がないと言えば仕方がない。また、体に見合うように精神(なかみ)も形成されていたらしく、それぞれに細やかで、繊細だった。
 ことらをあやし、土間へと向かいながら、男はちょっとだけ眉を寄せた。繊細。その言葉は聞こえがよいけれど、心弱いと言い換えれば、それまでだ。

 その後、男が十代の後半になって生まれた寛治も幼いうちに親を亡くしているし、二十歳の時に受け取った弟子の昂太郎(こうたろう)は、まだ赤ん坊だった。そんな調子で、あとから入ってくる者たちのことも、男は世話を焼き続けた。そんな中、薬売りの仕事も、他の者同様にこなしてきたのだから、この家の人間たちは、そろって彼には(かしら)が上がらない。

 板の間から土間へと降りる場所で、男はふと立ち止まった。もう一度、背後を振り返って見回してみる。

 うっかりしていた。
 肝心の、新入りがいないではないか。
 どこにいったのだろう、まだ、薬でよく眠っていると聞いてきたから、てっきり女たちと一緒に眠っていると思っていたのに。

 すると、足もとに置かれたぬばたまの花が、僅かに減っているような気がした。誰かがそっと持ち去ったかのような痕跡だった。よもや、仕事から帰った誰かが、仔猫もまた連れて行ったのかもしれない。

 裸足のまま土間に降り、そのまま建物を出る。猫泣キ雨は止み、ほんの僅かに霧が立ち込めていた。男はことらを揺らしながら、気まぐれな足取りで、のらりくらりと敷地の外を目指した。

 薬草畑を横切り、雑木林へ。

 咲き乱れる花々に、新緑の木々に、水の粒が光っている。
 雨でぬかるんだ土や、湿り気を帯びた草むらが、じかに足に伝わってくる。
 それらの感触や湿った匂いを、男は一度も嫌だと思ったことはない。なぜならこれが、長年慣れ親しんだ、彼の世界そのものなのだから。

 

 竿の先が、しゅっと音を立てて空気を切った。放られたつり針が、向こう岸近くの暗がりへ、ちゃぽんと落ちる。人工的な音は、たったそれだけ。他は、川のせせらぎや、遠くで鳴く山鳩の声、風が葉を散らす音くらいしか聞こえない。子猫は、うつらうつらしながら、自分が寝そべっている岩の上から、水面を見下ろしていた。
 両岸に生えた木々はすっかり紅く染まり、水面に色とりどりの枯れ葉を落としている。それらはくるくると回転しながら、他の枯れ葉とくっつき合い、流されて行く。その中に時折、自分の顔が水面に映った。やっぱり、猫のままだ。
 「へい、おいさん…」
 すぐ隣に座る青に向かって、子猫は言った。青はすでにスーツを脱ぎ、サングラスも帽子もネクタイも外している。丈の長い黒ジーンズにワイシャツだけの姿()で、(かたわ)らに釣り竿を置き、左手には文庫本を持っている。右手で仔猫の首根っこをつまんでいるのは、うつらうつらしているうちに川に落ちないためだ。しかし、目線はもっぱら文庫本の中に注がれている。器用なものである。

 「へいったら!おいさん。」

 二度目に呼ばれて、青はようやく顔を上げた。ゴールドとグリーンのオッド・アイが、子猫を睨むように見下ろした。サングラスを外したおかげで、かえって目つきの悪さが強調されている。
 「おいさん、お魚捕るのへただね。」
 青は、再び文庫本に目を戻した。
 「だって、全然釣れないもん。おっ、アレはカニかなァ。」
 実際、食いつかれないままふやけてしまった餌を何度交換したことか。それでも、小魚1匹かからない。流れて行くモミジの下では、フナが何匹も戯れているというのに。

 「俺が下手なんじゃねえよ。魚の肝っ玉が小さいんだ。食って生きるか、釣られて死ぬか。前者に運をかけてみようっつう奴が少ないんだ」

 仔猫は、へへっと笑った。だんだん、モノが二重に見えて来たのは気のせいか。
 「なぁるほど。うん、よっし、わかった。腕が悪いのをお魚のせいにしたいんだね。」
 「……。」
 「大丈夫だよ、誰かに聞かれたら、そういうことにしておくから。おいさんの名誉は僕が守るから。うああ、かっこいいなあ。僕」

 青はその件に関して何も答えなかった。感じるものは色々とあったようだが、その時はとにかく、違う話題を口にした。

 「おい、子供っ」
 「はい、何でしょうか。ぐすっ、僕が好きな食べ物は、マグロのお刺身と卵焼き。お砂糖は多めがいいなァ。」
 「名前を言え。」
 言いながら、文庫を閉じる。
 「はいっ、おいさんの名前は、ええと…ええと…。」

 そうじゃない…と一回りドスを聞かせた声で、青は答えた。

 「俺の名前を言ってどうする。お前の名前を言えってんだ。」

 「あ、僕。僕は、『冬哉(とうや)』。冬に生まれたから。でも、冬は嫌だなァ。風邪をひくんだ」

 青はそこで、またもや釣り竿を引き上げた。やっぱり餌は付いたままだ。
 「そうか。」
 お互い苦労する。そう呟きながら、再び釣り針を水中に戻した。
 「俺も真冬の生まれでな。」
 「おいさんも、冬は嫌い?」
 「寒いだろうが。うちの連中はみんな寒がりだ。」
 みんな、猫だからデショ…と、だんだんぐるぐるしてきた(かしら)を振りながら、冬哉は聞いた。
 「おいさんも?おいさんも、僕と同じ、猫だったり人だったりするんでしょ。それで、どこかから、子供の時に、この山に来たんだよね。ふふーん、僕知ってるんだい。それからずっと、ここにいるんだよね。みーんな、そうなんでしょ。」
 「ふん、よく知ってるな。」
 その答えに、冬哉は少し、黙りこんだ。くらくらして、頭の中を整理するのが大変だった。
 青は、ここへ来たばかりの子供が、どうしてそこまで知っているのか疑問だったが、尋ねなかった。おおかた、寛治や女たちに聞いたのだろう。

 「あーあ。じゃあ僕も、ずっとここにいなきゃいけないんだ。むっふふ。そんなこと誰が決めたの。」
 ここにいなきゃ生きられん…と竿を上げたり下げたりしながら、青は答える。
 「そんな風に生まれついた。お前も、俺も。だが、実際にここへ来るか来ないかを決めるのは、周りの大人だ。」
 「へへん、そんなのおかしいや!うぃっく、誰も僕に何も言わないなんて!大人が勝手に決めるなんて!僕のことなのに。」
 「そうだな。」
 青は横目で冬哉の姿を見たあと、そのまま目線を水面へと移した。ふいにふき渡った風が、そこに細かなさざ波を起こしている。

 「おかしいよな…。」
 
 それは、彼にしては珍しく、小さな呟きだった。

 「ああ、僕はこれからどうなるのだろう。でも、1個だけ良いことがある、けひひ。もう、お行儀のお勉強や、ふっふ、大嫌いなピアノはやらなくていいんだ。」
 その一言で、この子供がどういう環境で生きて来たか、青には大体察しがついた。いいところの、お坊っちゃんだったのだ。自分と同じく。と言っても、物ごころつく前にここへ放り出された彼に、家庭の記憶などないのだが。
 
 「ふん。行儀の先生ならいるぞ。厳しいのがな。」
 「げー。」
 「その前に、まずはお前の()匠を決めるんだ。いわば、親代わりだ。」
 「それは、誰が決めるんだい、おいさん。へっへー、だ。どうせまた大人たちが勝手に話しあって決めるんだろ。」
 青は、答えなかった。しかしその沈黙は、口に出すよりもより強い、肯定だ。

 「ああ、僕おしっこ。手を離してくらさいませ。草むらでしてくるんだからさ。ひゃひゃ、お行儀いいだろ」

 その言葉で、指から解放された冬哉は、岩から降りた。河原の砂利道を、あっちへふらふら、こっちへふらふら、進んでいく。

 「頼むから、川へは入ってくれるな。俺は泳げない。」

 その小さな背中に向かって、青が言う。
 彼はため息を一つついて、再び文庫本を開いた。

 魚は、まだかからない。


 あぁ、(かしら)()い。



 赤ん坊を抱いた男もまた、屋敷を離れて河原へとやってきていた。子供をあやしながら、大きな銀杏(いちょう)の根元に座り込む。辺りには霧が立ち込め、聞こえてくるのは、川のせせらぎだけだ。

 ことら(・・・)よ、ことら…。

 男は、独り言のように赤ん坊に話しかける。

 川を見るのは初めてのはずだが、怖くないのかね。
 昂太郎(こうたろう)を連れて来た時はひどく泣いたものだが。
 ん、そうか、楽しいか…。
 強いんだな、お前は。
 俺ではなく、母親に似たか。
 
 こうして時々、ハナチルチの外に出て来ないと、どうにも季節が分からなくなるもんだ。
 出来ればそいつは、避けた方がいいやね。
 生き物はみんな、季節の移り変わりと共に生きねばならん。

 男は、自分の周囲を取り巻いている霧に向かって、あぁ、と声を出した。頭の芯が痺れたような感覚だった。

 すると、男からやや離れた場所を、千鳥足の仔猫が1匹、歩いて行く。それを目にしたその男は、おっ…と声を上げた。耳の先と目の上に、黒い模様のある猫だった。
 「花がああ、散るううう、タコがあああ、にゅるるるううう~っ」
 きてれつな歌を歌うその姿()は、さきほど顔を見ようとして見られなかった、新入りの姿に違いなかった。

 冬哉(とうや)はと言えば、霧の向こうで、自分の姿がみられていることなど全く気付いていない。草かげで用を済ました後、なんとなく、木々の立ち並ぶのに沿って、歩き始めたのだった。酔っ払っている上に、猫のすることであるから、その行動は、たんなる気まぐれである。実のところ、川の風にでも当たれば、多少なりとも酔いが覚めるだろうという考えから、青はこの子供を連れだしたのだが、効果はあまり得られなかったらしい。

 「ああ、僕は哀しい。」

 高い声でそう言いながら、突然、その場に大の字になって、ごろりと寝ころんだ。火照った頭と体に、濃くなってきた霧が心地よかった。すぐに夢見心地となり、うつらうつらとまどろんでゆく。

 お前さん、そんなところで大の字なってると、トンビにさらわれちまうぞ。

 どこからか、そんな声がした。お腹の真ん中にドンと入ってくるような、強くて大きな声。青が持っている、低くてピリピリするような声とは、また違ったものだった。

 冬哉は、眠い目が明かないまま、誰だろう…とぼんやり思った。もう誰でもいいか。
 「いいんだ、いいんだ、僕なんか。誰にさらわれちゃっても。」
 その言葉に、声の主は思わず、喉の奥でがるるるる…という音を出した。

 やれやれ、辛気臭いね。何がそんなに悲しい。どうして欲しいんだ。

 「ひゃひゃ、僕ももう、わっかんないや。心の中がもやもやして、うぃっく、どろどろして、何も見えない。はっきりしないんだ。」
 そうかい、と声はいう。

 それなら特別に、いいこと教えてやろうじゃないか。

 「何それ…いいことって…」
 眠い、と冬哉は思った。このまま寝たい。でも、話の続きが気になる。声は続ける。

 『猫の夜会』さ。ハナチルチの屋敷に住む、お偉いさんの猫だけが集まる会議があるんだ。

 「えらいねこ?かいぎ?」

 そうとも。いろんなことを話し合って決める場だ。お前さんがそこで、自分がどうして哀しいのか、周囲の大人にどうして欲しいのかをきちんと訴えることが出来たら、何かいいことがあるやもしれん。

 「え、ほんとう(・・)?」

 その代わり、おっかないぞう。お偉いさんを怒らせたら、とって喰われちまう。

 「僕、こわいもんか。ひゃひゃ、行っちゃう行っちゃう。」

 そうかい、なら、今から俺が言うことを、よっく聞け。今日の真夜中、12時。屋敷北側。一番上の階にある、「紅の間」だ。誰にも見つかるな。そぉっと寝床を抜け出すんだ。出来るかね。

 「馬鹿にすんな。へっへ、簡単だよそんなの。」

 ほう、度胸があるね。屋敷は真っ暗なんだぞ。

 「へいき、へいき。」

 はっは、そいつはいいね、気に入った。そんじゃあ、せいぜい、今抱えてるその「もやもやの正体」が何なのか、夜までじっくり考えろ。

 ところで、と声は続ける。

 お前さん、何だってこんな所にいるのかね。まさか一人で来たんじゃあるまい。誰かに連れ出されたろ?

 「あのね、こーんな目をしたおいさんが、僕をここまで連れて来たよ。」
 そう言いながら、冬哉は眠くて開かない自分の目を、これでもかというくらい両手で釣りあげて見せた。実は、この時冬哉はまだ、あの目つきの悪い男の名を知らないままであった。
 はっは、そりゃあ青だな…と声の主は愉快そうな声を上げる。
 「あお?それ名前?」

 両目の色が違う、目つきの悪い男だろ。ふん、なるほどな。

 そのとき、ぽつりぽつりという感触があって、猫のひげのような、柔らかく静かな雨が降り始めた。

 おや、猫鳴キ雨だ。

 声は言った。

 どれどれ、もう一仕事だな。やい、子供。俺は戻る。お前も青のところに帰れ。そんなところで寝ちまうと、本当に何かにさらわれちまうからな。

 それだけいうと、その声はぴったりと聞こえなくなった。しかし冬哉は、その忠告を聞き入れる余力をすでに持っておらず、結局その場に寝込んでしまう。それでも、山に多い蛇やら猛禽類やら野犬やらに襲われずにすんだのは、探しに来た青によって、無事に発見されたためだ。冬哉は眠っているうちに胸のポケットに再び押し込まれ、元いた作業場の、ゆりかごの中へと戻ることができた。

 さて、先ほどの約束、冬哉はきちんと覚えているだろうか…。

 3人の中で一番最初に目を覚ましたのは、万菜(まな)だった。
 彼女はぽってりした(まぶた)を瞬かせて、少しの間天井を見つめた後、ゆっくりと上体を起こした。薄い毛布がはらり、と落ちる。胸の部分にある大きなリボンがあらわになる。これはいわば授乳服であり、そのリボンを解くことで、簡単に子供にお乳があげられるスグレモノである。今日は薄紅色の短いワンピースタイプのものを着ているが、違うデザインのものを、他にも何着か持っている。こういうスグレモノは、大抵、彼女の「(ねえ)」が見つけてくる。色もデザインもいいから、そればかり着回している。万菜がこういう話をすると、周囲にいるうちの誰か一人は、姉、という言葉に疑問の声を上げるので、万菜はその度に一括する。
 黙れ、ばか。
 それで大体の人間は、口を閉じる。だから、この二つの単語には重宝している。授乳服と同じくらい便利だ。

 寝起きのぼんやり感が過ぎ去ったところで、(かたわ)らにあったゆりかごを覗き込んだ。ぐずることなく、二人とも寝入っている。もちろん、先ほど放り込んだ新しい子も一緒。それを見て、万菜はふくふくと微笑む。なんとも、珍しい。彼女が昼の休憩に入ると、必ずといっていいほど、どちらかがぐずり始めるのに。しかし、その疑問はすぐに解けた。ことら(・・・)(かしら)に、黄色い銀杏(いちょう)の葉がついている。手慣れた誰かが、あやしに来てくれたに違いない。

 万菜は、寝る前に脱いだあわい臙脂(えんじ)羽織(はおり)に腕を通しながら、人生ってわからない…と、つくづく思った。
 彼女には昔、ほどほどに顔が整った兄(弟子)が三人いたはずである。しかし、大人になった今はどうだ。一人は旦那になり、一人は姉になり、一人はヤクザみたいになってしまった。あの頃の、三兄弟の妹としての「わくわく感」はどこへやら…。

 羽織の前の紐を結び終えると、万菜の傍らで眠ったままの二人の弟子を見て、まぁだ、起きない…と呟く。

 「さて…ぎょっとする方法で起こしてやりましょう。この、ねぼすけたち。」

 すると、美也子の頭近くの引きだしが、不自然に開いているのが目に入った。

 しまった、やられた。

 その引き出しを、丸ごと引っ張り出して中を覗く。すると、またたびの実が、全体の半分ほどにまで減っているではないか。

 ふぎゃああおう!!
 突然の叫びに、美也子の方は吃驚して飛び起きたが、咲は体をびくっと動かしただけだった。何たる神経。ちなみに、ことらも寿々(すず)も起きなかった。こののんきさは旦那に似たのであって、私じゃありません。
 
 美也子は目をこすりながら、言った。

 「お目覚めですか、お()匠…」
 「お目覚めですか、じゃないんですっ、美也子」
 「へ」
 「へ、でもないっ。また、つまみ食いしたでしょう、これ、またたびっ。」

 美也子は、げっと思った。実は、つまみ食いしたのはこれが最初ではない。前にもばれて、商売道具を食うなと叱られたことがあった。だからばれないように3つにしたのに。しかし、ほんの3粒食べたくらいで、見つかるだろうか。

 「んもう、こんなにたくさん食べちゃって…。」
 そう言われて覗き込むと、確かに半分ぐらいまで減っている。
 「え、いや、そんな…はずは…。」
 「おだまり!」

 すると、どこからかヘッへェ…という変な笑い声が聞こえて来た。万菜が振り返ると、ゆりかごの縁から、眠っていたはずの新入りが顔をのぞかせていた。

 「僕でぇす、ぐふ、おねいさん(・・・・・)がた、いっぱい食べたのは僕なのです。お腹がすいちゃって…うぃ。いや、どうも…」
 そう言いながら縁の上に立ち上がった新入りは、ハジメマシテ…と言いながら、床の上に転げ落ちた。その瞬間に見えた仔猫の腹は、まるまると大きく張っていて、いかにも満腹そうだった。
 万菜と美也子は、突然のことにしばし呆然としていたが、咲だけが、わあ、と声を上げた。仔猫が床に落ちた時の、ぽたりという音で、ようやく目を覚ましたらしい。
 
 「あ、弟が目を覚ましたァ。私、『咲』ね。」
 そう言いながらぱっと毛布を外し、近よっていって、手の平に乗せた。
 「僕はァ、ひひ、冬哉(とうや)です。けちな野郎です。」
 「へんなの、べろんべろん。またたび臭い。」

 その言葉に美也子はハッとして、万菜にむかって訴えた。

 「どうですか、お師匠。私じゃありませんよ。だって私は3つしか……あ……」

 言っちゃった、という表情を見せた美也子を、万菜がきっと睨んだ。

 「僕がァ…。」
 べろべろの冬哉は、歌うように言った。
 「起きた時ィ、そこの引き出しが~、開いていたのです。中からはァ、いい匂いが。お腹が空いたことに耐えきれなくってェ、僕はつい頭を突っ込みまして、今じゃあ、このざま…。」

 ふぐるるるる…。

 万菜の出した音に美也子は、やばい、と思った。急いで耳を塞ぐ。

 ふぎゃあああおおう!!
 万菜はもう一度、さっきより大きな声で鳴いた。

 「美也子!」
 「ゴメンナサイゴメンナサイ」
 「黙れ、やっぱりお前が悪いっ」
 何も感じていないらしい咲だけが、冬哉の腹をくすぐりながら、きゃっきゃと遊んでいる。


 「うるさいっ!」

 その時、万菜よりも更に大きい声がして、勢いよく出入り口の引き戸があいた。

 「何をぎゃあすか騒いでるんだい、まったく…。起きたのかい。」
 突然のことに、さすがの咲も驚いた。赤ん坊がぐずりだし、万菜と美也子もぽかん、と戸口を見た。冬哉だけが、ひゃひゃっと笑った。

 そこには、艶やかな長い銀髪をうなじのあたりで縛った、初老の女性が立っていた。姿()勢の良い、背の高いシルエット。薄いグリーンの作務衣に、前掛けをしている。背中の背負子(しょいこ)には(かご)が結び付けられ、中には採ったばかりの(きのこ)がぎっしり。
 「暇なら、台所でも手伝いなっ!」
 それだけ言うと、再びぴしゃりと戸を締め、さっさと屋敷へ戻って行く。

 そのとき、今の今までぐっすりと寝込んでいた竈の住人が、 ひょい、と顔を出した。万菜の発した、二度目の鳴き声で目を覚ましたものの、思わず面倒な人物が作業場に現れたために、顔を出すタイミングを見計らっていたのだった。
 
 その姿は相変わらず、灰まみれだった。


 屋敷の一階には、作業場と似た作りの居間がある。まず、中央に大きな囲炉裏(いろり)が供えられた、広い板の間。床は綺麗に磨きあげられ、窓から入り込む夕暮れの光で、鈍く光る。壁際には大きな食器棚がおかれ、大小様々な漆塗りの椀や箸、小鉢などが並ぶ。その隣には、屋敷の人数を上回る数の、足付きのお膳が積まれていた。
 土間には、煮炊きが出来る竈が3つと、水道、まな板、数種類の包丁。そして下界から仕入れて来た缶詰や調味料、干し肉、野菜などが入った食糧棚…。

 「アルコール飲んだわけでなし。」

 その食糧庫の足元に並ぶ、水が入った大ぶりの(おけ)。そのうちの一つを流し場へと運びながら、銀髪の女性…蝶子(ちょうこ)は言った。そして、よいこらしょ…と呟きながら、その桶の水を一気に大(ざる)に空ける。すると、水の音に混じって、大粒の栗が大量に転がり出た。水を(ぬぐ)くんだ外皮は黒くつややかで、いかにも秋色だ。

 「腹の中のものがなくなれば、自然と酔いも覚めるさ。」

 だったらいいんですけど…という万菜(まな)の声が、板の間の隅から聞こえてくる。彼女は体を揺らしながら、寿々(すず)を寝かしつけているところだった。
 蝶子は栗で一杯になった笊を脇にどけると、すぐに別な笊を取り出して、置いた。そこへ、再び桶の中身を移す。そして、板の間に座って美也子とと(・・)もに栗の皮むきをしていた咲を呼びつけ、今栗を入れたばかりの笊を運ばせた。万菜がいる位置から囲炉裏を挟んだ反対側。二人が座っている周囲には、すでに6つも7つも、同じものが並んでいる。
 「美也子ちゃん、これでいいの?それからどうするの?」
 「だから、次はこうしてさ…。ここを外して…。」
 美也子は経験者であり、器用なため、こういう作業は早い。しかし、不器用な咲に教えながら進めるので、なかなか周囲の栗は減らなかった。
 「しかし、あの量のまたたびを食べたんじゃあ、しばらくはこのまんまだよ。」
 そう言いながら、蝶子は冬哉(とうや)をみた。桶の栗をようやく全部笊に移し終え、流し場に寄りかかって一息ついたところだ。仔猫は囲炉裏の周りを、歌いながらへろへろと回っている。
 「ま、明日には元に戻るだろうさ。」
 前掛けのポケットからシガーケースを取り出し、一本煙草を抜いて、口の端に加える。勝手口からふらりと外に出て、煙草の先に火をつけた。煙草は口の端に残したまま、壁に寄りかかってじっと(たたず)む。

 蝶子は、先代の()匠陣…つまり、万菜や青の師匠たち…の一人である。いまやたった一人となってしまったが、気が強く、見ての通りかくしゃくとして生きている。先代たちは揃って貧弱だった嘆くもの者もあるが、彼女の場合は別だ。現在、稼業は全て万菜たちに任せているので、蝶子はこうして子供らの面倒を見たり、家事を切り盛りしたりして、一族を支えている。(おとろ)えていない運動神経の良さも手伝って、山から食材を集めては料理をする。この栗の山も、彼女が一人で採ってきたものだった。

 やがて、短くなった煙草を揉み消したところで、家屋の中から、()てっ…という叫びが上がった。咲がナイフで指を切ったらしい。勝手口から中に入りながら、蝶子はやれやれ、と呟いた。
 「まったく、あんたは使い物にならないね。もういいから、消毒しておいで。ちゃんと洗うんだよ」
 咲は言われた通り水道で手を洗って、自分の部屋へと戻って行く。絆創膏でも取りに行ったんだろう。蝶子は咲が放り出したナイフを取り上げると、美也子のとなりに胡坐(あぐら)をかいて座りこんだ。上手く皮を向くには、こうして長時間水にさらして、ナイフを使うのが一番いい。まずはお尻の、固いところを切り落としてから、周囲の外皮に切り込みを入れて、指を使って実から外す。実に着いた渋皮は、ナイフで()きとる。
 少し、採りすぎたかねえ…と蝶子は呟いた。
 しかし、大人数の胃袋を支えるのは、これくらいは必要だ。
「充がいると早いんだけどねえ、あの子はこういうの得意だから…。」
 しかし、充はいまだ出先から戻っていない。できれば、今、使える人間がいれば嬉しい。先ほど取ってきた(きのこ)のゴミ取りもしなければならない。
 
 蝶子が黙々とそんなことを考えながら手を動かしていると、板の間の中を遊びまわっていた冬哉が、つつつ、と万菜の元へ近よって行って、赤ちゃん寝ましたか、と聞いた。
 
 「うん、ぐっすり。」
 「大きいおねいさん(・・・・・)の名前は、万菜さんでしょ。」
 
 「そ、どうぞよろしく。」
 そう言いながら、軽く(かしら)を下げた。

 「僕の名前は、冬哉です。ひく。」
 「あら、いいお名前ですこと。男らしいわ。」
 「ひっひ、そりゃあどうも。ちょっと聞いていい。」
 「なにかしら。」
 「またたびって、食べちゃいけなかったの。」
 「ココだけの話、そうなんです。商品なのです。あれは。」
 万菜は内緒話をするように、声をひそめて言った。
 「あちゃあ、悪いことをした。ダメな僕」
 「大目に見てあげます。今日だけです。」
 「やさしいっ。大きいおねいさんは優しいっ。赤ちゃんは寝ましたか。」
 「寝ました、よい子なのです。ふたりとも。もちろん、あなたも。」
 「ひゃひゃ、僕といっしょにしちゃァ、いけません。ところで大きいおねいさんのお名前を教えて。」
 「ま・な。まなさんって呼んでね」
 「素敵なお名前。ちなみに僕は冬哉です。」
 「あらあ、男らしいお名前ですこと。」
 「ひゃああ、男らしいだって、僕初めて言われちゃった…。」
 てれてれと前足で顔をこすりながら、冬哉はまたふらふらと歩きはじめる。そして、すぐ近くにあった醤油瓶…常に使うので、盆に乗せたまま、囲炉裏近くに置いてある…に、こつんと頭をぶつけた。顔を上げた冬哉は、突然うひゃあ、と声を上げる。

 そして、「これはこれは」とか、「なんてこった」などと騒ぎだし、やがて両方の前足を潔く差し出した。

 「どうぞ僕を逮捕して下さい…僕は悪いことをしましたおまわりさん。」

 その場にいた3人はぽかんとしてその様子を見つめていた。冬哉は何度も深々と頭を下げ、自白を繰り返している。
 「僕は、食べちゃいけないモノを、半分もっ、食べてしまいました。おかげで、こんなにペロペロになってしまいました。とっても楽しいです。あ、うそです、反省しています。僕は悪いことをしました、おまわりさん。」
 この国の警官は、黒い服に赤っぽい帽子をかぶっている。
 そしてこの家の醤油瓶は、注ぎ口のある頭部分が赤くて、胴部分が透明(醤油が入っているから黒)になっている。つまり、どこにでもあるデザイン。
 しかし、いまや醤油瓶と同じ身長で生きている冬哉にとって、この二つは同じものに見えているらしい。
 その光景に、最初にぶっと噴き出したのは万菜だった。蝶子は情けなくなって、はぁっとため息をつく。
 「美也子、あんたもついでに逮捕して貰ったらいいんじゃないかい。同罪だろ。」
 すると、美也子は持っていた生栗をぽいっと口の中に放り込み、がりがりと噛み砕きながら立ち上がった。悠然と囲炉裏の反対側、醤油瓶の前まで歩いて行って、ごろっとう(・・)つ伏せに寝転がる。そして、仔猫同様に両手首を差し出した。

 「私も悪うございましたっ。ぜひとも捕まえてくださいませ、お巡りさんっ。」
 すると、さも哀しそうな声で冬哉がかばう。
 「だめだめ、中くらい(ちゅう   )のおねいさん、たくさん食べちゃったのは僕なんだから。ひっく、この罪は僕がすべて…。」
 「いいのいいの、最初に手を出したのは私なの。あのう、ちょっとしたぁ、出来心だったんですう。」

 いや僕が、いや私が…と謝り続ける二人を見て、蝶子はやれやれ、と二度目のため息をついた。余計なことを言っちまった、また作業が進まない。万菜は万菜で、頬を真っ赤にして笑いをこらえている。

 「うるせえな。」
 蝶子はそのガラの悪い声に、思わず顔を上げた。すっかり旅の服装を解いた青が、いつのまにか部屋の入り口に佇んでいる。青は美也子たちを一瞥(いちべつ)して、言った。
 「なにを騒いでやがる…。」
 「お兄ちゃん、オカエリナサイ。」
 万菜が声のトーンを落とさずに言った。一度寝てしまうと、よっぽどでない限りは起きないのが、この双子のいいところだ。万菜は旦那に似たと言っているが、残念ながら夫婦そろって、一度寝たらテコでも起きない。青は、そんな妹弟子に、おう、とだけ返事をした。

 その時、謝罪を一時中断した美也子もまた、ぱっと顔を上げた。

 「青さん!お帰りなさい。お疲れ様でっす!」
 「美也子、お前醤油瓶に恨みでも買ったのか?ご苦労なこったな…。」
 それだけ言って部屋を出て行こうとする青に向かって、ちょっと待ちな、と蝶子は叫んだ。
 「何だよ、婆さん。」
 眉間にしわを寄せる青に、蝶子は胡坐をかいたまま、負けじと言い返した。
 「何だよじゃないだろ。あんたどこ行ってたんだい。帰ってくるなりふらっと消えちまって。」
 今日、蝶子と青が初めて顔を合わせたのは、3時間ほど前だろうか。万菜たちが昼寝を始めた頃だ。その時はまだいつもの真っ黒い服を脱いでいなかった。そしてそのまま部屋に戻ったきり、この男の姿()は見えなくなったのだ。

 「ああ、ちょっとな。」
 
 「ふん、どうせ、川にでも行ってたんだろ。まったく、餌の無駄だと思わないかい。本なら部屋でも読めるだろ」
 青は腕を組みながら、ますます眉間のしわを深くさせていく。
 「口の減らねえ婆だな…。」
 「お前に言われたくないんだよ。ほら、暇なら殻剥きでもやりな。明日はこれで栗ご飯炊くんだからさ。」
 いや、俺は湯殿に…という言葉を遮って、あんたも食うんだろ、と蝶子はたたみかける。
 「まったく、どいつもこいつも役に立ちゃしない。いくら私が丈夫だからって、あんたたちみたいに若くはないんだよ、ったくもう。」

 すると青は、喉の奥でぐるるるる、と音を出しながらも、(かたわ)らに来て腰を下ろした。ナイフを手に取り、教えなくともさくさくこなしていく。この男は一見無骨だが、指先は器用である。おまけに単純な上に真面目だから、なんだかんだ言いながらも最後まで仕事はこなしていく。

 それにしたって採り過ぎじゃねえか…と呟く青に、蝶子は、余った分は甘いものにするんだよ、甘露煮とか、渋皮煮とか…と言い返した。

 万菜はと言えば、眠った寿々を揺りかごに戻しながら、今度は青の姿に笑いをこらえていた。ガラの悪い大柄の男が背中を丸めて栗の皮むきをするなんて、やっぱりおかしい。邪魔しちゃ悪いから、私は蝶子さんの代わりに茸のほうをやってしまおう。
 土間に下りて、放り出してあった背負子(しょいこ)を運び、中から一つ一つ取り出して、ちりや葉っぱを摘まみ取った。綺麗になったものは、()の中に放り込む。

 「ところでな、婆さん。」
 「蝶子さんて呼びな。」
 その言葉を無視して、青はあの仔猫が、何であんなに酔っ払っているのかを尋ねた。蝶子はざっと説明してやる。
 「ふん…馬鹿馬鹿しい…」
 渦中の仔猫は、前足を投げ出し、額を床につけたまま、再びぐっすりと寝込んでいた。美也子はそれに気づかず、ゴメンナサイゴメンナサイを繰り返している。

 「おい美也子っ、いい加減にしろっ。」
 「いや、まだ罪を償いきれていないので、もう少し…」
 
 そんな受け答えをする少女の耳に、ドスの利いた声がひびく。
 
 「うるさい、黙れ。貴様も手伝え!」

 美也子はその声に、くうぅ、と痺れたような声を出し、万菜はシイタケの土ぼこりに息を吹きかけ、咲は今になって部屋に戻ってきた。

 双子は、今のどら声でさえ、目を覚まさなかった


 冬哉(とうや)は、夢を見ていた。

 いつものように、丸いテーブルに座っている。目の前には、一人前の食事。メインプレートには肉が、たくさん置かれた小皿や小鉢やボウルには、野菜やスープなどのおかずが入っている。そのテーブルの周りを、お行儀の先生と、両親と、知らない人たちがたくさん、囲んでいた。

 何をしているの、早くスープを飲みなさい。

 そう言われて、(スプーン)を手に取った。一口飲む。夢だから味はしない。冬哉がスープを口にしている間、周囲がざわざわと煩い。冬哉がパンとちぎろうとしたら、何してるんだと、父親に叱られた。せっかく、お前がどの順番で食事を食べるか、こうして皆で話し合って、決めてやっているのに。勝手なことをするんじゃない。

 そこで、冬哉ははっと目を覚ました。

 くすくすくす…。

 どこかで、小さな笑い声がする。

 目を開けると、すでに辺りは真っ暗だ。ここはどこだろう。周囲を見回すと、何やら円形の空間の中にいる。床はふかふかで、微かに違う猫の匂いがしたけれど、自分以外に誰もいない。ドームのようになった天井を見上げながら、試しに小さく鳴いてみる。にゃお。誰も来ない。体に力を入れて見るけれど、相変わらず人間には戻れなかった。

 冬哉は、その円形の空間を見たことがなかったし、もちろん入ったこともないわけだが、いわゆる「猫ちぐら(・・・)」と呼ばれるものだった。犬小屋に反して、猫小屋のようなものであり、室内に置いて使う。夕暮れ、醤油瓶を警官と勘違いしたまま寝込んでしまった冬哉を、万菜(まな)がこの「ちぐら」に入れて、この部屋に運びこんだのである。

 僕ここでなにしてるんだっけ。

 さすがに満腹感はもうないけれど、酔いはまだ残っていた。
 
 お巡りさんに見つかって、謝ったんじゃなかったかな。じゃあ、ここは牢屋の中?

 ねえねえ、美也子ちゃん。

 冬哉は、声がする方を見た。自分を取り囲む丸い壁の一か所に、四角い形の、光の切れ込みがあった。声はその向こう側から聞こえてくる。あれはきっと、この空間の出口だろうと冬哉は思った。中は真っ暗だが、きっと外は明るくて、人がいるのだ。そう思って、そっと、その四角い光を前足で触ってみる。すると、カーテンのように柔らかく動いた。(かしら)を突っ込んでみると、簡単に顔を外に出すことが出来た。
 
 そこは畳敷きの、薄暗い部屋だった。お菓子でもなく、果物でもない、不思議な甘い匂い。
 
 そろそろと、そのカーテンから全身を外に出してみる。すると、そこはちょうど二組置かれた布団の、足もとに位置する場所であった。布団はそれぞれこんもりと盛り上がっており、微かに動いている。その枕元に行燈が一つずつ。

 「ねえ、美也子ちゃんてば。」
 左側の布団が言った。右側の布団は、んん?とだけ答える。ぺらり、とページをめくる音が聞こえて来た。
 「何なの。早く寝なさいよ。」
 「美也子ちゃんだって起きてるじゃん。」
 「うるさいな、本読んでるの。」

 ああ、と冬哉は覚めない頭で思い出した。この二人は確か、中くらい(ちゅう   )おねいさん(・・・・・)と、小さいおねいさんだ。

 「ねえ、美也子ちゃんは青さんが好きなの?」
 美也子は、ぶっと噴き出してから答えた。
 「好きっていうか、ファンなの、ファン。だってカッコいいじゃありませんか。 」
 「そうかなあ。怖いでしょ。笑わないし。」
 「そんなことないってば、優しいの。この本だって、頼んだらちゃんと買って来てくれたんだから。」
 「ふーん。でもさ、青さんばっかり好きでさ、昂兄さん起こらないの。」

 すると、ばばっと布団をかぶる音が響いた。

 「どうして、ここで昂太郎(こうたろう)さんの話になるのっ。」

 そうか、と冬哉は思った。この二人は美也子と咲というのか。昂太郎って誰だろう。

 「えー、だってぇ。イイナズケなんでしょ。お()匠様たちみたいに。」
 咲が言った。この11歳の少女は、許嫁の意味を知っているのだろうか。
 「え、いや、だから…あーっと…咲、それは。」
 「もしかして昂兄さんのこと嫌いなの?だから、いつもつんつんしてるんだ、そっか。」
 「いや、あの、別に嫌いじゃないんだけどもっ。ちょっと、これ、子供には早い話題でしょう。さ、ねよう。もうすぐ12時だから。」
 「えー?美也子ちゃんは大人なの?」
 「いいから、寝ろっ。」

 そう言って、美也子は自分の行燈のロウソクをふっと吹き消した。続いて、咲も吹き消す。部屋の中は真っ暗になった。

 12時。

 もうすぐ12時…。
 何か引っかかるような…。
 なんだっけ。

 考えながらうつらうつらして、突然びーんとひらめいた。それこそ、前足の先から尻尾のてっぺんまで、静電気が走ったようだった。

 『12時。屋敷の北側。一番上の階にある、「紅の間」だい。誰にも見つかるな。そぉっと寝床を抜け出すんだ。出来るかね。』

 そうだ、思い出した。12時!12時!紅の間!まだ間に合うぞ。さっき、中くらいのおねいさんはもうすぐ12時だといったじゃないか。

 それから、それから、なんて言われたんだっけ、あの『声』に?

 『何かいいことがあるやもしれん。』

 そうだ、ちゃんと辿りつけたら、いいことがあるんだ!

 これは、よくぞ思い出したと賞賛すべきだろう。この仔猫は、昼間川にいた時、今よりもとっぷりと酔っ払っていた。そのうえ、声の主がどこの誰だか分からない状況で、ほとんど適当に交わした約束を、今このタイミングで思い出すことが出来たのだから…。ただ、その約束の正確な内容については、残念ながら思い出せていない。

 『自分がどうして哀しいのか、周囲の大人にどうし欲しいのかをきちんと訴えることが出来たら、何かいいことがあるやもしれん』…。声はそう言ったのだ。

 そろりそろり、本来鳴らないはずの足音を、更に鳴らないように注意して、二人の娘に気付かないよう部屋の障子まで辿り着いた。ぴったりと閉じられた壁と障子の間の、本当に細い隙間に、前足の爪を押し込む。ほんのちょっと、隙間が大きくなる。続いて、手を押し込み、腕を押し込み、顔を突っ込み、無理矢理一匹分の隙間を開けて、とうとう(    )部屋の外に脱出する。

 廊下は思った以上に真っ暗。しんと静まりかえっている。濃厚な夜の匂いが充満し、その上どこから来るのか、外気までもが漂っている。寒くはなかったけれど、昼間よりは少し、空気が冷えていた。

 ここ、何階だろう。北ってどっち…

 冬哉はおそるおそる廊下を横切り、反対側へと渡った。そして、自分を取り巻いている外気は、その場所から来るのだということを、知った。廊下の反対側…そこには手すりがあって、それを越えると中庭に出る。そこには何かが生えているらしく、花の匂いがした。

 ということは、土があるんだから、1階だ。

 上を見上げると、ずっと高い所に四角く切り取られた夜空があって、星が瞬いている。つまり、吹き抜けになっているのだ。この仔猫には知る由もないことだが、この中庭は、ほぼ正方形である。真上から屋敷を見ると、漢字の「回」に見える構造だ。それぞれの部屋の出入り口が廊下に面しており、その廊下から中庭を見下ろすことができる。この時は折り悪く、月が屋敷の上に位置していなかったが、もし月が真上にあったなら、冬哉は月光を反射して咲くぬばたまの花を見られただろうし、屋敷の中もさほど暗くはなかっただろう。
  
仔猫は、中庭に面したその手すりに沿って、ちょこちょこと移動を始めた。まずは、階段を探さなくては。


 冬哉(とうや)は、手すりに沿うように、少しずつ少しずつ、移動を始めた。どこまで行っても静かで暗く、廊下を挟んだ反対側には、障子ばかりが続いている。明かりがともっている部屋はなく、人の気配もない。

 本来、猫は夜目が効くものである。最初のうちこそ闇に目が慣れていないにしても、すぐにモノがはっきり見えてくる。しかし、いつまでたっても、足もとに目をこらさねば歩けないところをみると、この土地の闇は濃いかもしれない。仔猫は、歩いては立ち止まり、立ち止まっては振り返る。なにかが、ひたひたと自分の後ろをついてくるのではないかと、気が気でない。いまだ(かしら)の中に残っているしつこい酔いも、覚めきってしまうかもしれない。

 ふにゃお。
 あまり静かなので、声を発してみた。暗がりに吸いこまれて、消える。

 「歌でも歌うおうかなっ。」

 手すりの向こう側の闇に向かって言った。いるはずがないけれども、そう思えば思う程、得体のしれないモノが手を伸ばしてくるような気がしてならない。

 「さ、さーくーらーぁ、さーくーらーぁ…あ、しまった。今秋だった。間違っちゃった。ええと、はーるーのー、おーがーわーが…あ、これも春か。じゃあ…」
 そんな不毛な選曲を繰り返していた時、ふと物音を聞いた気がして、口をつぐんだ。

 かたん、からり。

 続いて、引き戸をガラガラと開ける音。顔を上げると、反対側に続いていた障子が、大きく途切れているのが分かった。その空間から、ぼんやりとしたロウソクのような明かりが見える。
 
 誰かいる…。

 冬哉は慌ててその場から離れ、障子の根元に身を小さくした。明るければそんなことをしても、すぐに見つかるだろうが、今の状況なら十分身を隠すことが出来る。

 やがて、ばちん…と引き戸が閉まり、かつりかつり、と靴音が鳴った。ということは、明かりがゆらめいているのは、この建物の玄関か。深夜になって、仕事を終えた誰かが、ようやく帰宅したのだろう。そこへ、この仔猫は運よく出くわしたのである。

 室内に入り込んだその人物は、冬哉がいる方向に向かって、廊下を歩いてくる。右手に小さな提灯をもち、左手で手提げカバンを肩に背負い上げている。その歩き方は、まるで引いた直線の上を丁寧になぞっているかのように、綺麗なものだった。当然、足もとに子供がいるなどつゆほども思っていない。また、手元の明かりが障子の根元を死角にしたために、その存在にはまったく気付くことなく、どんどん廊下を進んでいく。

 冬哉は、自分の(かたわ)をすっかり通り過ぎてしまった後で、ようやく顔を上げた。その人物に声をかけなかったのは『誰にも内緒で、紅の間までくるんだぞ』という言葉を思い出したからであった。

 でも、もしかしたら。

 とっさに考えを変えて、その人物が歩き去った方向に向かって駆けだす。もちろん、見つからないように、気配を消して…。

 もしかしたら、あの人も紅の間へ行くかもしれないぞ。

 走っては止まり…走っては止まる…。一定の距離を置いて、ゆらりゆらりとゆれる提灯を追いかける。その光は廊下の突き当たりでつい、と消えた。そして、とんとんとリズムの良い足音が、上へとあがって行く。しめた、階段だ。

 仔猫は、真っ暗な二階へと続いて行く階段の、大きな一段目の縁に飛び付き、しがみつき、体を乗せた。それを、二段目三段目と繰り返しているうちに、目の前を行くその人はすでに踊り場へと到達している。

 ああ、待って待って待って…。

 必死に追いかけて2階に到達した時には、すでに息が上がってしまった。その上、さっきの人の姿()が見えない…と思いきや、近くの部屋の障子にぼんやりと明かりが入り、なかで ガタガタと音がする。息を整えながら待っていると、やがてその人は平たい、大きな箱のようなものを抱えて、部屋から出て来た。そして再び階段を登り始める。

 冬哉の読みは、どうやら当たったらしい。この人は、3階へ行くのだ。

 ええ、ということは、また階段を上るの?

 「やい、充っ!」

 部屋に入ったとたん、そんな声がした。人間の声じゃない。部屋中にびりびりと振動が走るようなその感じに、冬哉(とうや)は思わず身をすくめる。

 その広間には、大きな丸障子が設けられていた。それはすっかり開け放たれており、外から夜気が入りこんでくる。ただ、大ぶりの雲によって月が隠され、一筋の光も刺していない。そのため、その声の主がどんな存在なのか、分からなかった。
 
 いや、でも…と冬哉は思い直す。自分は「猫の夜会」に紛れこんだのだから、ここにいるのは猫のはずだ。しかし、普通の猫がこんなびりびりした声を出すだろうか。

 「お前、またあの路地裏の町に行ったのか。」

 一瞬間をおいて、少し柔らかい色合いの、やはり人間のものではない声が、それに応える。
 「どうして、わかったんですか…そんな。」
 その甲高い声は冬哉の後方から、大きな声は冬哉の前方から、聞こえて来る。幸い、二匹とも、自分たちの間に小さいものが紛れ混んでいることには、まだ気が付いていない。

 「彼岸(ひがん)の匂いがぷんぷんする。もう、何度もやめろと言ったはずだ。俺の言葉が聞けないかっ」

 その声は、天井に跳ね返り、床をはずんで、冬哉の小さい体を圧倒した。これは猫じゃないぞ…。

 そういえば、昼間川で聞いた声は、こう言ってやしなかったか。『取って食われるかもしれない』って…。それを思い出したとたん、全身の毛がぶわっと、逆立った。明るいところで見たら、きっと使い過ぎた亀の子タワシみたいだっただろう。

 どど、どうしよう。それから、彼岸ってなにかな。何の匂いもしないんだけど。

 「なぁ充よ…俺が忠告するのは、もう、これきりだい。いいか、あの街はな、亡者どもの通過点なんだぞ。本来、生きた人間が気軽にうろうろしていい場所じゃない。あすこ(・・・)に留まるのは、未練を持った迷い魂だけだ。お前の『あの人』はもう…。」
 「わかってるんです…私も。」
 絞り出すように、もう一人の声は言った。
 「先生に…会いに行ってきただけなんですよ。路地裏の街の、近くまで行ったから…」
 「先生ィ?」
 「与市(よいち)さんも知ってるじゃありませんか。ほら、メンタルクリニックの…。」

 ぐるるるる。
 
 その喉を鳴らす声に合わせて、冬哉の細い尾が小刻みに震える。次いで、ばさっと箒で畳を掃くような音。
 「何だい、あの男…。まだあの街に住んでんのかい。まったく、気がしれないね…。」
 底冷えするような話し方を聞いて、自分が一体ここへ何しに来たのだったか、改めて(かしら)の隅で考えた。来れば『いいことがある』と思っていたけれど、こんなコワイ『何か』がいるところにこっそり入り込んだって、いいことなんかあるわけないじゃないか。あの声は、なんて言っていた?何か、大切なことを言われたような気がするんだけど。夜会へ行ったら、何かしろって…。

 この時、仔猫が必死で頭の中身をひっくり返していたために気が付かなかったが、周囲には冬哉をふくめた3匹以外の存在が、音もなく集まり始めていた。そして窓の外では、空に点在していた雲が風に流され、煌々とした満月が顔を出した。そのため、暗かった広間の畳に、丸障子を通した青白い大きな光円が、浮かび上がった。

 やや、しまった。

 気付いた時にはすでに遅し。冬哉が座っていたのは、その光円の、ちょうど中央にあたる部分だった…。



 冬哉は、この屋敷の二階までやって来たあと、再び3階まで這い上がる気力は、もう残っていなかった。

 なんとかして楽に行こう。

 そう思って、四角い箱と提灯を持って部屋から出てきた「その人」の、腰の部分に飛び付いた。これは決死の覚悟だった。見つかって怒られるかもしれないし、落ちて怪我をするかもしれない。頑張って自力で這い上がるほうがいいかもしれないとさえ思った。
 しかし、思いのほか、その作戦は上手く行った。その人が、ブラウスか何かを着ていたことが幸いし、ひらっとした部分に、細い爪がうまく引っかかった。その人は、飛び付いた時の衝撃には気付いたようだったが、結局、体ごとねじって後ろを振り返ってしまったために、自分の腰にひっかかっているものまでは、気付かなかったようだ。

 ところで、この人は女の人かな、それとも男の人かな。全然顔を見てないや。

 ぶらんと垂れさがったままの姿()勢で、子猫は首をかしげる。その体勢でいるのは辛かったが、体重の軽さが功を奏したようで、なんとか三階まで上がり終える。更にそのままの姿勢で、廊下を通り、やがて広い座敷の中へと侵入した。広間に入ってすぐ、冬哉はぽとり、と畳の上に落下。それは、爪がブラウスの裾から外れたというよりは、その人そのものが消えてしまったかのような、そんな感覚だった。

 ところで、ここが紅の間でいいんだろうか。いいんだろうな、きっと。

 その時の疑問は、部屋の中がぼんやり明るくなった今、ようやくハッキリした。その広間に面している庭には、真っ赤に色づいたモミジや銀杏(いちょう)が幾本も植えられ、実に鮮やかだ。窓から庭全部を見渡せば、真っ赤に色着いたドウダンツツジや鬼灯、ヒガンバナ、赤い実をたわわにつけたナナカマドなどが、モミジの根元に並んでいるのを見ることが出来る。ここは、百花繚乱のハナチルチから、紅く色づく植物を選びとって造園された、いわば秋の庭である。

 しかし、冬哉にはそれどころではない。

 「ちょっと!どうしてここに子供がいるのっ」
 凄味を含んだ金切り声がして、ぎょっと後ろを振り向いた。そこには、冬哉の3倍も4倍もあるような大きな三毛猫が、きつい眼を光らせて、じっとこちらを見下ろしていた。

 「あ、あの、あの…」

 「見ない顔ね、どこから入り込んだのかしら。」

 その時、前方から虎にも似たがらがらという鳴き声が響き渡った。
 「お前は下がってろ、充…。」
 見ると、冬哉から少し離れたところに、らんらんと光る大きな目玉が二つ、ぽっかりと闇の中に浮かび上がっている。それはこちらをじっとにらみながら、のそり、という音をたてた。ほんの僅かに、空気が動く。寝そべっていた体を起こしたらしい。
 「それ」は、大きな爪が畳をひっかく時の、ばりっ、ばりっ…という音を響かせながら、悠然とした足取りで、こちらに歩近づいてくる。冬哉はたまらずに立ち上がると、3歩4歩後退し、光円から闇へと身を隠した。冬哉と入れ替わるように、その存在は少しずつ月光の中に姿を現す。

 長い体毛を持った、大きな前足。
 太い鼻づらと、それを舐める大きな舌。
 光を反射して輝いているのは、先ほど暗がりの中で見た、あの目だ。それはまるで金塗りの盆のよう…。

 冬哉はそのことに圧倒され、その瞳の奥深くにきらめく、並々ならぬ好奇と愛情に、気付くことが出来なかった。もし気付いていたら、その後の恐怖心は(ぬぐ)えていたかもしれない。

 やがて、とがった耳と、その先端に生えたぴんとたった黒い毛まで露わになった。印象的なのは、耳から顎の下にかけて生えた、襟のようなフォルムの長い毛…。

 やがて全身を現したそれは、光円の中央に座りこんだ。箒のような大きくて長い尻尾をくねらせている。見慣れた猫とは明らかに違う体躯。全体の毛色は昼間でないので判別しがたいが、おそらくは、銀黒だろう。縞とも斑点ともつかぬ模様をもっている。全体の大きさは、先ほどの三毛猫の二倍以上あり、冬哉の体とは比べようもない。

 冬哉は、この生き物を初めて見たために肝を抜いているが、これぞ「山猫」と呼ばれるものだ。

 山猫が一歩歩くたびに、冬哉は、すこしずつ、少しずつ、後ろに後ずさる。しかし、一歩の大きさが違いすぎるために、すぐに目の前まで追い付かれた。山猫は、その大きな鼻づらを仔猫の前に突き付けると、ぶわっと鼻息を浴びせかけた。犬のような大きな牙が、ギラリと光る。

 近くにいたはずの三毛猫は、自分の出番ではないとばかりに、暗闇の中に身を隠し、目だけを光らせていた。見れば、あっちにもこっちにも、薄闇の中に猫の目が光っている。いつの間に集まったのか、その数合計3匹。やがて山猫は大きく尾を振りながら言った。

 「やい小僧。何だ、お前は。」

 この部屋に入ってすぐ聞いた、あのびりびりする声。

 冬哉は、声が出なかった。尻尾が丸まって、すっかりお尻の下に隠れてしまっている。すると山猫は、早く言えっ、と鋭く叫んだ。そして近づけた鼻づらに皺を寄せて、ぐるるるる、と唸る。

 ダメだ、このままじゃ食べられちゃう。

 「あの、ぼく、ぼくは、冬哉。」

 消え入るような声で答える。

 「あの、あなたが、この屋敷で一番偉いひと…じゃなかった、猫?」

 「いかにも、俺がこの家の頭だぃ。お前さん、何しにここへ来たのかね…子供は出入り禁止だというのに。」
 すぐそばで話をされると、声の大きさで耳がキンキンする。でも、いまは耳をふさぐより考えるのが先だ。
 何しに来たんだっけ。何だっけ。
 山猫が、一歩にじり寄る。冬哉は、2歩下がる。心臓がはちきれそうだ。喉の奥で、ごくり、という音がした。

 「邪魔しにきたんだったら、さっさと帰りやがれ。それとも、何か訴えたいことでもあるのかね…。」

 何か訴えること!!
 そう。そうだ。そうだった。
 
 『自分がどうして哀しいのか、周囲の大人にどうして欲しいのかをきちんと訴えることが出来たら』…川で聞いた「あの声」は、確かにそう言った。だから、僕は、もっとじっくりと、自分の心の中のもやもやを、見つめなきゃいけなかったのに。
 「どうした、答えろ。」
 その声は周囲に、わァんと響く。
 「あ、あの僕は…聞いて欲しいことがあって…あなたに、会いに…」
 「へぇ、そうかい…。」

 冬哉は、必死で自分の心に問いかけた。僕は…誰に、何を、どうして欲しいんだろう?

 暗がりで目を光らせていた猫たちが、そろりそろりと、二匹の周りに近づいてくる。子猫は小さい眼をぎゅっとつむった。
 その時、心の中で、誰かが怒鳴った。

 勝手なことをするんじゃない。せっかく、お前がどの順番で食事を食べるか、こうして皆で話し合って決めてやっているのに。それは、咲と美也子の部屋で寝ていた時、夢の中で聞いた父親の声。

 まずはお前の()匠を決める。お前の親代わりだ。これは、昼間川に連れて行ってくれたおじさんの声。その言葉に、冬哉は言い返した。どうせまた大人たちが勝手に話しあって決めるんだろ…。

 「えい、どうした小僧。早く言ってみろ。」

 その声に、固くつむっていた目を開く。すると、山猫は大きなくちをくわっと開けて、べろり、と仔猫の顔を舐めた。口からひゃう、という悲鳴が上がる。頭の中も外も真っ白になった気がした。耳の黒い模様も、目の上の眉毛模様も、消えてなくなったかもしれないと、本気で思った。耳はぺたりと垂れ、2歩、3歩、4歩…。考えを口にする前に、どんどんその場から後ずさる。

 その時、誰かが…いや、何かが、仔猫の背中をぐいっと押した。下がった位置から元の場所まで、一気に戻る。

 おい、負けるな。

 そう言われた気がした。


 「僕は、哀しいです…。」


 冬哉は絞り出すように言った。

 山猫は、普通の猫が座るのと同じように、頭を高くして後ろ脚を折っている。何かを言わんとしている仔猫の言葉を、悠然と見下ろしながら耳を傾けている。

 「どうして哀しいのかっていうと、皆が、何でもかんでも、勝手に決めちゃうから…。」

 その一言のあとは、次から次へと口から言葉がこぼれ出た。
 「僕は猫になれるけど、ペットや物じゃないもん。どこに住むとか、誰に面倒を見て貰うとか、ウチで欲しいとか、いらないとか、そういうのは大人が自由にしていいことじゃないもん。誰も僕の気持を聞かないで決めちゃうなんて、嫌な気もちだもん…。」
 室内が、しんと水を打ったように静かになった。月の動きに合わせて、畳の上の光円が僅かに移動していく。その円の近くにいた3匹の猫たちの姿が、微かに闇に浮かび上がった。先ほどの三毛猫と、雌の虎猫と、丸い垂れ目の白猫だった。
「この家で暮らすって…それも決まっちゃって…。でも、それはもういい、しょうがない。おうち、楽しくなかったし。帰りたくないや。それに、こっそり抜け出したって、一人じゃ帰れない、きっと。」
 周囲の猫たちが、冬哉の一言一言を聞き入っている。丸障子から、一枚のモミジが、ひらり、と舞いこんだ。

 「だから、せめて、僕のお師匠さんを決める時は…僕も…ちょっとだけ、混ぜて…。」

 その瞬間、山猫が、広間いっぱいに響き渡るような声で鳴いた。ぐわおおおう。

 「よく言った、子供…!」

 仔猫は吃驚して、上を見上げる。山猫は、満足そうにはっは…と笑いながら、再び大きな顔を仔猫の体すれすれまで近づける。
 「お前さんなかなか賢いじゃないか!」
 「え、あの」
 「自分の感情や考えをきちんと人に言えるってぇのは、大人でも難しいこったい。こりゃあ、育てがいがあるね。」

 すると、それまで冬哉の顔ばかり見ていたその目玉が、ぎょろり、と方向を変えた。仔猫のうしろを見上げている。

 「おい、とう(・・)。」
 
 「とう?とうって僕のこと?」
 「とうや(・・・)、は言いにくい。おい、後ろにいる『お人好し』に礼を言え。背中押してもらったんだろ。」

 そう言われて、おそるおそる、冬哉はうしろを仰ぎ見た。

 そこには、暗闇の中にぽっかりと浮かぶ、金と緑のオッド・アイ。それは2、3度瞬きしながら、ふん…と鼻息をもらした。

 「おい、とう(・・)。いい加減機嫌を直したらどうだ。」

 冬哉(とうや)は大きいおねいさん(・・・・・)…ではなくて、万菜(まな)の後ろに隠れたまま、答えた。

 「ふんだ。ひどいや、ぼくを騙して…。」
 
 「人聞きの悪いことを言うない。少しばかりからかっただけじゃないか。ええ?」

 愉快そうに話すその声は、霧の中で聞いた声と同じもの。そして、大きなその瞳は、先ほど冬哉をすっかり恐がらせたあの山猫と、同じもの。その目力は強く、目を合わせた人間の心を見透かすようだった。物おじしない青や寛治でさえ、出来れば睨まれたくないと感じているほどだ。

 「おじさんは誰?」
 「ふふん、俺かい。この中じゃ最年長の、与市(よいち)さんだ。お前も皆と同じく、与市さんと呼ぶんだぞ。」
 山猫、もとい篠澤与市は、この家の当主であり、そこにいる者たちの長男である。顎のとがった大きめの口に、細い鼻筋。豊かな黒髪は長くウエーブし、前髪だけが後ろで括られている。露わになった両耳には耳飾りが揺れていた。貝か、鹿の角を加工したものだろう。片方がつり針で、もう片方が魚をモチーフにしたデザインだった。彼が首を傾けるたびに、かちり、と音を立てて揺れた。裸足に黒のパンツスーツ、白い開襟。どこから引っ張り出したのか、紅葉柄の羽織(はおり)をまとっていた。
 立てた膝の上には、煙管(きせる)をもった左手。寝かせたもう片足には、不機嫌そうな白猫。背後にある柱には、たてかけられた、古い三味線。

 先ほど、暗闇の中でじっと冬哉を見つめていた猫たちは、この白猫を除いた全員が人の姿()に戻っていた。広間の行灯には火が入れられ、丁度よく明るい。中身のたっぷり入った大きな酒甕と、甘酒が入った土鍋、栗が入った(ざる)、大盆に乗った菊の花びら。それを、大人4人がゆるやかに囲んでいる。各人の前には膳が置かれ、それぞれに合った大きさの杯や湯呑み、酒の肴が乗っていた。肴のメニューは秋らしく、『(きのこ)朴葉(ほおば)蒸し』と『秋ナスを焼いたもの』。

 「これ、男らしいお名前の仔猫。出てらっしゃい。甘栗の皮をむいてあげます。お腹すいたでしょ。」
 万菜が首を大きくひねりながら、自分のお尻に向かって言った。その手にはまるまるとした艶のある甘栗。与市のすぐ隣に座っている彼女は、すでに授乳服からブラウスに着替え、背中全体を覆うようなストールを羽織っていた。冬哉は、そのストールのすその部分にすっぽりと身を隠したまま黙っている…つもりだったが、腹の音は黙っていてはくれなかった。空腹に耐えかねて、そろそろと明るい場所に顔を出す。

 「んじゃ、その、ちょっと、失礼して…。」
 そう言いながら万菜の膝に這い上がる。
 「いただきまぁす。」
 がじがじがじ。甘い。そして大きい。冬哉の顔の半分くらいあるだろうか。しかし穀物を食べるのに向いていない猫の歯では、ちょっとずつしか口に入ってこないから、一生懸命齧らないといけない。転がらないように、両手でしっかり抱えこんだ。
 「さて、これはどういうことなんですか。」
 三毛猫の声が、与市にむかって訊いた。冬哉は実をかじりながら、声のする方を見る。ちょうど、酒甕を挟んだ万菜の向かい側に、その人は座っていた。切れ長の目で、ちらりとこちらを睨む。白い瓜実顔に、ベリーショート。細長い首にチョーカーをまいている。その身長や背格好からして、冬哉が紅の間まで追いかけて来た人だ。

 そうか、女の人だったんだ…ふぅん…それにしてはおっぱい(・・・・)がないな…。

 「その子が新入りなの?アタシたちが紅の間に集まることを、どうして知っていたわけ。」
 万菜がそれに対して、変よね、と頷いた。
 「この子、さっき与市さんに『聞いて欲しいことがある』って言ったもの。ということは、わざわざ自分のちぐら(・・・)を出て、ここまで与市さんを訪ねて来たんでしょ。」
 そう言いながら、空になった与市の大杯に酒を注ぐ。彼は天下一品のウワバミであり、まだまだ序の口だった。万菜としては、もう少しゆっくりしたペースで飲んで欲しい。

 「ふん、それじゃあ、このこんがらがった話をほどくとするか。」

 与市は煙管の先をひっくり返し、手近にあった灰皿にカツン、と打ちつけた。吸い終えた刻みタバコが、ほろり、と崩れ落ちる。そして万菜から杯を受け取り、その水面に菊の花びらをぱっと散らした。とたんに、清廉(せいれん)な香りが酒に移る。

 「まず、充よ、お前のいうとおり、この坊主が新入りだい。さて、その新入りを最初に迎えに行ったのはお前だな。」
 そう言いながら、膝の上に乗せていた白猫の(かしら)を、ぐりぐりと撫でつけた。
 「あのさ、与市さん。」
 白猫は、目だけで与市を見上げながら、言った。
 「俺、もう二十歳過ぎたんだけど。」
 与市はそれに対して、わざとらしく答える。
 「へえ、そうかい。そいつは初耳だな。いつの間に大人になっちまったんだい、切ないねぇ。」
 2年前だよ、と寛治は吐き捨てるように言った。
 「だからさ、やめて欲しいんだけど。膝の上で頭を撫でるのとか。」
 すると首根っこを摘まんで目の高さまで持ち上げながら、黙れ末っ子め、と一喝した。この5人を年齢順に並べると、与市を筆頭に、充、青、万菜となり、最後が寛治だ。
 「お前に抵抗権などあるものか。大人しく撫でられろ。与市さんはお前のぶすったれた表情が何ともいえんのだ。」
 それだけ言うと、再び寛治を膝の上に乗せ、満足そうにその垂れた耳を撫でつけている。
 「それで?二十歳を過ぎた弟よ。この屋敷までとうを連れて来て、それからどうした。」
 (ねえ)ちゃんに預けた…と、うんざりした声で寛治は答えた。万菜は、湯呑みをすすりながら言う。

 「寿々(すず)ことら(・・・)と一緒に寝かせました。薬が効いて、ぐっすり眠っていたもの。」
 その答えに、け、と寛治が吐き出した。
 「風呂を終えて作業場に戻ったら、その子供はべろんべろんに酔っ払ってたぞ。」
 それは美也子です、と万菜が頬をふくらます。
 「眠気を呼ぼうとして、またたびの引き出しをあさったの。それでちゃんと閉めなかったものだから、目を覚ましたこの子が顔を突っ込んで食べちゃったのよ。」
 その言葉に、与市はからからと笑った。そうか、それで酩酊状態だったのか。美也子め、明日にでもからかってやろう。
 「あ、でも、許してあげることにしたのです。二人とも醤油瓶に懺悔(ざんげ)したから。」
万菜はそう言いながら、甘酒の鍋に手を伸ばした。授乳中なので、酒は口にしない。与市は首をかしげつつ、澄ました顔で湯呑みに息を吹きかけている妻を見る。この屋敷の醤油瓶はいつのまにそんなに偉くなったかね。

 「それから?寛治、お前そのべろんべろんな子猫をどうしたんだ。」
 「別に。おれが竈に入ったら、一緒に入ってきてさ。歌うし、騒ぐし。」
 お前、また作業所の竈で寝てんのか…と、またもや大杯を空にする。誰かが知らずに火を入れたら、この子生意気な末弟はまる焦げになっちまう。
 「そこに青が帰って来たから、預けた。あとは知らない。」

 すると、はっはっ…と与市は大きく笑った。タダでさえ地声が大きいものだから、その笑い声は広間にわん、と響く。

 「やっぱりお前か、青。」

 すると、黙って杯を傾けていた青が、じろり、と長兄を睨んだ…わけではない。ただ『見た』だけなのだが、目つきの悪さから、そう見える。
 「何の話ですか。」
 青の低い声が、脅すように響いた。
 「何の話ですかじゃない。お前さん、作業所を出た後、とうを川へ連れ出したろ。」
 「どうして知ってるんです…。」
 これには、さすがの青も驚いた。川に行ったことは、特別誰にも話していない。蝶子(ちょうこ)婆さんが栗()きの時にあてずっぽうで騒いだ程度だ。与市はどうもこうも、と言いながら、今度は自分で酒を注ぐ。

 「俺もあのとき、河原にいたのさ。霧が濃かったからなァ。お互い気付かなかったんだろ。」

 万菜は甘栗と格闘している仔猫の、ピンとたった尻尾を指で撫でつけながら、やっぱり、と思った。
 「ね、与市さん、ことらを川に連れ出しましたか。小さな銀杏(いちょう)の葉がついていたけど。」
 ま、そんなところかね…と、与市は杯に口をつける。彼の膝では、いつの間にやら、白猫がうつらうつらし始めている。あれほど膝に置かれるのを嫌がっていたばかりだというのに、眠気には勝てないらしい。
 「木の根っこに座ってぼんやりしてたらなァ、霧の中を、ぺろぺろに酔っ払った子供が歩いてきてな。」
 「それで、話しかけたんですか?」
 細いキノコを器用に箸でつまみ、口へと運びながら充が尋ねる。充はさほど、酒が強いほうではない。もっぱら、注ぐ側である。どちらかといえば、食も細いほうであり、やはり、作る側に回ることが多い。
 「まさか無視は出来んだろう。するとこいつは、『こーんな目をしたおいさん』に連れられてきたというんだ。」
 そう言いながら、与市は自分の目じりを両方とも、指で釣りあげて見せた。

 「そんな奴はお前しかいないだろうが、青。酔い覚ましにつれて行ってやったんだろうが、このお人好し。」

 青は肴を口に運びながら、ため息をついた。
 冬哉め…余計なことを…。
 しかし、そんな青の苦々しい気持ちなぞどこ吹く風で、与市は話を続けていく。

 「それでな、突然ころんと仰向けになってだな、『僕は哀しい』なんて言いやがる。だから俺は、今夜の夜会に上手く忍び込んで、何が悲しいのかちゃんと言えたら、いいことがあるぞと吹き込んだのさ。なあ、とう。」
 冬哉は、食べかけの甘栗を両手に持ったまま、うん、と返事をする。そのポーズは猫というより、リスに近い。
 「与市さん、『この屋敷の偉い猫はおっかないんだぞ』って、たくさん言ったから、僕信じちゃったじゃないか。」

 与市は嬉しそうに、ホントのことだい、と笑った。

 「怖かったろう。山猫の与市さんは。しかしな、お前は立派に約束を守ったじゃないか。大したもんだい。誰にも言わずに、一人でここまで辿り着いたんだろ。」
 ちがうよ、と再び栗を齧るのをやめて、冬哉は答える。

 「あのおっぱいの小さいおばさん(・・・・)の後を追ってきたんだい。階段を上る時は、腰のあたりにぶら下がったんだ。すごいだろ。」

 そう言って、万菜の向かいに座っている充を見た。充は隣に座る青の杯に、ホラ…と酒を注いでいたところであった。  とつぜん会話の矛先が自分に向けられ、鋭い眼で一人と一匹を交互に見比べた。

 「え、アタシにくっついてきた?」 
 いつの間に…そういえば、腰に何か当たった気がして、階段で振り向いたかしら。そう思い返していると、充から杯を受け取った青が、よかったじゃねえか…と耳元でささやく。
 「何がっ?」
 「あの子供な、あんたがおばさんであることを微塵も疑ってないぞ。」
 「フン、馬鹿っ。」
 しれっとした顔でそんなことを言う弟に、充は吐き捨てる。与市は再び酒を飲みながら豪快に笑いだし、万菜は冬哉に向かって、駄目よう、お姉ちゃんに失礼なこと言っちゃ…と言い聞かせている。充は、ただただ、眉間のしわを深くするばかりである。まったく、もう。

 与市はひとしきり笑うと、さてそれじゃあ、と冬哉に向き直った。

 「ここに菊の花がある。」
 火の入っていない煙管で、与市は朱塗りの盆を指し示した。その上には、がくを取ってばらばらになった黄色い、細い花びらが山になっている。
 「重陽(ちょうよう)の節句というのだ。お前さんはまだ子供だから参加できないが…。」
 「菊の花を食べるの?」
 「まァ、少し違うかね。酒に浮かべて、それを飲む。秋の日にこれを行うことで、長寿になれるんだとさ…。」

 ふうん、と口のまわりについた甘栗のかけらを舐めとりながら、冬哉は考える。美味しいのかなァ、菊なんて。

 「しかしだな、今夜集まったのは節句の祝いだけが目的じゃない。本来は、新入りのお()匠を誰にするか、決めるつもりだったのさ…。なあ、とう。お前さんはさっき、ちゃんと俺との約束を守ったろう?ほれ、一人でここへきて、怖くても自分の考えを言えば良いことがあるっていう、アレだ。」
 「え…うん…。」
 「俺にきちんと自分の考えを言ったじゃないか。自分のことを決める時は、自分も混ぜろって。お前さんの意見はもっともだ。至極、正しい。だからな、俺も約束を守ってやる。えぇ、つまりだな、お前に自分の師匠を選ぶ権利をやろう。」

 周囲の者は、その言葉にぎょっとする。

 「ちょっと、与市さんそれは。」
 最初に口を開いたのは、充だった。
 「まだ何も、知らないんですよ、この子は…。その、この屋敷の仕組みとかアタシたちの繋がりとか。」

 それが何だってんだ、と与市はさらりと言い返した。

 「俺は子供との約束をねじ曲げるような、ケチな真似は嫌いなんだ。」

 青が小さくため息をつく。この長男は生来、豪傑な気質を持っている。今の言葉は彼らしいと言えば彼らしいのだが…よもや、そろそろ酔いが回って来たか…?

 「ただし…。」
 与市は周囲の考えなど全く気にせず、冬哉に向かって言った。
 「誰を選んでも、その仕事をやりぬけよ。万菜につくなら、姉やに混じって生薬(しょうやく)の管理。寛治につくなら、毎回毎回、化け物退治だ。」

 うーん、と仔猫は唸る。
 
 私は別にいいですけど…、と万菜。
 「大きくなったら重いもの持って貰えるし。ねえ、でも、与市さん。どうするつもりですか」
 そう尋ねる万菜に、与市は珍しく、キョトンとした表情を浮かべた。
 「どうするって、万菜…。」
 「だからその、もし、この子があなたを選んだとしたら。」

 「えぇ?俺かい?」

 与市はその大きな眼をさらに大きくした。んもう、と万菜はあきれた声だ。

 「考えてなかったんでしょう。」
 そう言いながら、箸でナスを二つに裂く。醤油と鰹節のいい香りが立ち昇った。充に関してはすでに諦めたような表情で同じように料理をつつき、寛治はいつの間にやら、長男の膝の上から脱出し、人に戻って自分の膳の前へ。やれやれ、ようやく料理が食える、といった顔つきだ。服装は、Tシャツにジーンズ。破れもなく、いつもより幾分か、こざっぱりとしていた。久々に兄弟弟子たちが集まる席だからか。

 「僕は…。」

 そんな周囲の様子を見ながら、冬哉は言った。誰がいいのだろう。本当に選んでしまっていいのだろうか。

 「僕は…そうだな…。」

 小さな手のひらの、細い爪を甘栗に突き刺しながら、冬哉は考えた。

 「僕は、青のおじさんがいいな。」

 青はその言葉に、マッチを擦ろうとした手を止めた。口の端には、咥えられたままの煙草が一本。

 「僕、約束したんだ。おじさんの名誉は僕が守るって。守るんだったら、そばにいなきゃ。」

 しゅ。
 じりじり。
 青の顔近くで、にわかにリンの香りが立ち込める。

 充が横目で、こちらを見ているのが分かる。言葉にされなくとも、何が言いたいのか、ひしひしと伝わってくる。

 何よ名誉って。教えなさいよ。

 与市もまた、好奇心いっぱいの目を、ぎょろり、とこちらに目を向けた。
 
 さて、どうやって後から訊き出してやろうかね…。

 苦虫をかみつぶしたような顔で、マッチの火を煙草の先に灯す青。とりあえず一呼吸する。煙が苦い。

 でも、本当は…と、冬哉は一人考える。
 
 もっと別の理由があるかな。川に行っていろいろ話をした時、僕の気持ちを、青のおじさんは分かってくれた気がするんだなァ。さっきもそうだ。背中、押してくれたし…。

 青!と与市が呼んだ。
 「ほれ、どうするんだ。よく分からんが、悪い話じゃなさそうだぞ。」

 青の眉間のしわは、ますます深くなる。少ししてからようやく、真墨(ますみ)がまだ手を離れません、とだけ言った。
 それなら手を離れてからにすればいい、と与市。確かに、その通りだ。冬哉はまだ6歳。いま面倒を見ている青の一番弟子は、今年ですでに14になる。今日、初めての一人仕事をさせようと、患者のもとに置いてきたところだった。つまり、もう2,3年で自分の手から離れる。それでもまだ、冬哉は10歳に満たない。寛治が何もかも見透かしたような寝ぼけ眼で、こちらを見る。

 「適任だろ。」

 


 充は、自分の部屋から後生大事に抱えて来た例の四角い箱をとりだすと、その蓋を開けた。中には、3センチほどの和紙の束。その大きさはA3用紙程度のもので、下へいくほど古いもののようだった。紙束と共に収められている品を次々と取り出して、充は畳の上に並べた。フェルト製の下敷きに、魚形の文鎮、四角い硯、墨、水差し、そして筆…。どれも質の良い、厳選されたものだ。

 「じゃあ、いいのね。書きいれるわよ?」
 充は、念を押したように青と与市を見比べた。
 青は、ふん、と言ったきり何も言わない。尖った横顔は苦々しそうだが、何で俺が…とは言わなかった。しょうがねえな、まったく…といった具合だろうか。それを見た与市は、よし、決まりだ…と快哉の声を上げる。

 「よかったなァ、とう。」
 その子供は、万菜に撫でられながら、うん、と答える。本当にいいのかしら、こんな簡単に決めちゃって。まあ、アタシが面倒みるんじゃないからいいけど。
 充はそんなことを考えながら、懐から細縁の眼鏡を取り出して装着する。水差しを傾けて硯の中を潤わせ、しゅっと墨をする。いい香り。やっぱり、いい品は違うわね。
 
 しゅ、しゅ、しゅるり…繰り返される心地よい音…。

 やがて、とろりとした具合のよい墨汁が出来上がると、先の細い、よく手入れされた筆を取りだした。それは、白くて長い、繊細な充の指に、不思議なほどよく似合っている。多すぎず少なすぎず、丁度よい具合になるまで、筆の先端を墨汁の中で泳がせた後、いよいよその紙と向き合った。
 下敷きにされたフェルトの上に敷かれた一枚の和紙。それは、箱に入っていたあの紙束の、一番上にあったものだ。それはいわば家系図ならぬ、師弟図…のようなものであり、当主が変わるたびに一枚多く書足される。よって、束の一番下にあるものが、今のところ一番古い記録となる。
 今、充が向き合っている紙の一番上には当然、与市の名があり、その兄弟弟子の名として、充たちの名があり、更にその下にひかれた線には、それぞれの弟子の名前が記されていた。また、各人、名前の下には、指紋ならぬ肉球のスタンプが押されている。
 この師弟図の管理者は、その世代の中で、一番字の上手い者が選ばれる。選ばれたものは書記であり、師弟あるいは夫婦・親子関係が生まれるたびに、その紙に書き記すのが決まりだ。青の名前からは、すでに下に1本線が引かれ、その先には真墨の名があった。その弟弟子となるので、真墨の名から下へ1本線を引く。

 「ねえ、ちょっと。その子の名前って漢字で書くと『冬』に『哉』でいいんでしょ。」
 最後にそう確認して、するすると文様を編むように、筆を動かした。いつの間にか、(かたわ)らに来て覗き込んでいた与市が、ほう達筆、と声を上げた。当事者の子猫は寛治のそばに行って、おじさん!汚くないね、などとほざいている。

 「おい、とう。こっちにこい。」
 与市に呼ばれ、ちょろちょろと近よって来た冬哉を、充はひったくるようにして捕まえた。そしてその前足をしっかりと掴む。
 「何するんだよう、おばさん。」
 「おだまり。充さん、と呼んでちょうだい」
 そう一喝して、その手を筆でべったりと塗りたくる。
 「あああ、僕の肉球が真っ黒…」
 充は冬哉の手をつかんだまま、その名前の下にぎゅううっと押しつけた。そして、くっついた和紙をぺろっと引きはがす。そこには小さいけれどもくっきりとした手形が…。

 これで、この子供は篠澤家の一員だ。

 「よしよし、めでたいね。」

 その言葉と共に、広間の空気がびぃん、と跳ねた。
 気付くと、充の傍にいたはずの与市が、いつのまにか三味線を携えている。空気が跳ねたと思ったのは、バチでその中の一本を弾いた音であった。
 続いて、リズムよく、ツン、ツン、カ、カ、カ、ン。シャン、カン、カン、カン…。
 誰に教わったとも知れぬが、この男は並ぶもののない三味線の名手である。右手で弦をはじき、左手で天神(てんじん)と呼ばれる突起を調整しながら、人間の感情、ひいてはこの世の浮き沈みを弾きだしていく。

 「ほうれ、踊れ踊れ。」
 
 え、踊るの?と冬哉。与市は、その小さな新入りが、収まるべきところに収まったのが嬉しいのか、はたまたすっかり酔いが回ってきたのか、とにかく上機嫌だった。

 「お前さんの祝いなんだから、お前さんが踊れ。本来は手ぬぐいをかぶるんだが、子供サイズのものはないね。残念だ」
 そう話しながらも、トン、トン、カカン…とリズムは続く。
 「こう?与市さん、こう?」
 二本足でバランスを取りながら、冬哉は盛んに両手をひょいひょいと動かした。かわいいかわいい、上手…と、見ていた万菜がはやしている。

 充はやれやれ…と書の道具を片づけ、脇に寄せた。寛治は、子供が踊るのを横目で見ながら、甘酒をすすっている。その頬にはザックリとした傷跡…。それは、昨夜、充が担当していた患者の宿主を討った時についたものだ。あの子、ちゃんと消毒したのかしら…。治療の担当である自分が無傷で、弟にばかり傷が出来るのは、何とも忍びない気持ちである。

 皆それぞれが違う感情を抱きながら、宴の夜は更けていく。

 そんな中、青だけが、素知らぬ顔で酒をすすっていた。

 与市(よいち)が、ぺん、と三味線を1曲弾き終わると、子猫はへろへろっと尻餅をついた。
 「疲れちゃった。」
 「はは、なかなか上手いじゃないか、とう(・・)…。」
 三味線を柱に立てかけながら、与市が言った。
 「ところで、いつ人間に戻るんだ?」
 料理よりも甘酒が美味かったらしく、鍋の底に残った(こうじ)を黙って柄杓(ひしゃく)でさらっていた寛治が呟く。
 「そうね、もう薬の効力は切れてると思う。そろそろお顔を拝見したいわ。」
 万菜(まな)冬哉(とうや)に向かって言う。
 
 「え、顔って僕の顔?」
 
 「お前さんしかいないだろうが。それとも、自分を猫だと思いこんじまったかね。」

 冬哉は目をつぶると、ふん、と全身に力を入れてみた。おヒゲの先がプルプル震える。
 「ぷは」
 目を開けてみる。目線は低いままだし、手には肉球が付いたままだった。つまり、何も変わらない。
 「おい、どうした。」
 言われて、青の方を振り返る。
 「あの、もう一回やってみるから。」
 そう答えて、もう一度踏ん張ってみる。今度は尻尾がぴーんと立った。それだけだ。

 その場がしいんとなった。

 「ちょっと、どうしたのよ。」
 充が煙草にライターの火を近づけながら、言った。

 「僕、もとに戻れないかも。」

 元に戻れない…?戸惑うようなその沈黙を、最初に破ったのは、やはり充だ。
 「ま、今日は休みましょ。料理も頂いたし…。」
 それを合図に、万菜がそうね、と膳を持って立ちあがる。それを見た青が、いいから朝にしろ…とたしなめる。
 「廊下が暗い。1階まで行くうちに転ぶんだらどうする。」
 「やーだ、お兄ちゃん。持ってくる時だって暗かったのに。」
 そう答える妹に、昇るのと降るのは違うだろうが…と言いながら、煙草を揉み消した。
 「万菜、言うこと聞いときなさいよ。」
 小さな杯の中に残った一口分の酒を飲み干しながら、充も言う。
 「そうだな、そろそろお開きにするかね。帰って来たばかりで悪かったな、充。」
 そんなことありませんよ…と充は立ち上がり、再び和紙の束が入った例の黒い箱を抱え上げた。
 「いいんじゃありませんか、こういうのも。万菜、片づけはいいから。アタシが起きたらやるから。」
 「お(ねえ)ちゃん明日休みなの。」 
 当たり前でしょ、と充は答える。明日また仕事だったら、こんなことしている場合ではない。そして、二人の子供と、まだ手が離れない弟子二人を持つ万菜の忙しさは、想像しなくともわかる。

 んじゃあ、お願いしよう…と万菜が言ったところで、下の階から、んぎゃあ、という声が微かに響いた。

 「あ…。」

 「ほら、いいタイミング。行ってあげなさいよ。」
 すると、そのばにゆらっと立ちあがった与市が、充と肩を並べた。与市の方がいくばくか背が大きい。
 「ようし…子供等(あいつら)は俺にまかせろ。万菜、お前はもっと楽しめ」
 「だーあーめっ。」
 部屋を出ようとする旦那を押し戻しながら、この酔っ払いめ、と万菜が叫ぶ。彼女はかなりの小柄で、充はともかく、与市や長身の青と並ぶと、子供のようだ。
 
 「床に落としたらどうしてくれますか。大事な我が子を守るのが母の務めですっ。」
 
 じゃあね、与市さんオヤスミナサイ、と手をひらひらさせながら、万菜は急いで部屋を出る。その直前に、ひょいと冬哉を抱き上げた。

 「さ、君もちぐら(・・・)に戻りましょう。大丈夫、ちょっと効き目が強かっただけ。明日になれば元に戻ります。」
 「ほんとう?でも、僕まだ眠くないや。」
 そんな会話をする二人のあとを追うように、寛治もよろよろと立ち上がり、部屋を出て行った。とりあえずは、今夜は竈ではなく自分の部屋に行くらしい。
 
 与市は、しばしお役御免になったことに対して呆けていたが、酒甕の中にまだ液体が残っていることを確認すると、元の位置に戻って座り込んだ。

 「まだ飲むんですか?ほどほどにして下さいよ。じゃあ、アタシも休みますからね。」
 そう言って歩み出した充を追うように、最後に立ち上がったのは、青だ。

 その後ろ姿()に向かって、与市は待て、と言った。

 「青、お前は残れ。話がある。」


 青は丸障子のふちに寄りかかりながら、首をねじって夜空を見上げた。月の位置が真上に来ている。その光は、自分の手に持った小さな杯の、酒の水面にも映り込んでいた。
 何だってンだ、一体。
 (かたわ)らで、柱に寄りかかったまま、バチではなく指で三味線をつま弾いている与市を見て、青は思った。バチで引くのとは違って、音が小さい。
 つ、つん…。
 最後にそれだけ鳴らして、ふとやめる。そして、空になった自分の大杯に酒を注ごうと、柄杓を手に取った。青はそれを制し、代わりに注いだ。
 「あぁ、悪少しでいい…たまには充の言うことも聞こう。」
 青は言われた通り、7分目ほどに控えて、手渡した。

 「悪かったなぁ、青…。」

 杯を受け取りながら、与市は言った。
 「何がですか。」
 「冬哉のことだい…お前に何も相談せずに、決めちまった。」
 構いませんよ…と、青も酒をすする。
 「充に預ける…そんな選択肢もあったんだが…。」
 「まだ無理でしょう。あの人は。」
 お前もそう思うか…と酒をあおる。充が一番弟子を失ってから、まださほどの時間が経っていない。表面上は何でもないように見えても、中身は気傷ついたままだ。もともと、あまり心身が強いほうではない。つんけんしている性格は、その裏返しだ。

 「ああ、久しぶりにいい酒だ。」

 そう言いながら、柱に後(かしら)部をコン…と軽く打ち付けた。畳の上に放るようにして置いた杯が、くわん、と乾いた音を立てる。
 「お前、真墨(ますみ)はどうしたい。」
 「患者のところです。」
 青は残った酒を飲み干しながら答えた。
 「はは、あの問題児め、初仕事じゃないか。」
 「そういう昂太郎(こうたろう)はどうしたんですか。姿が見えない。」
 「あれも仕事だい。ま、役立たずなのは真墨とどっこいどっこい(・・・・・・・・)っつうところかね。お互い不肖(ふしょう)の弟子を持つと苦労する。」
 青は笑う代わりに、喉の奥をふんと鳴らした。そして、煙管(きせる)の道具…盆に乗った刻み葉やら、マッチやら…を引き寄せようとする兄に、黙ってシガーケースを差し出す。ついでにマッチも。与市は、そいじゃ貰うかね…と一本引きぬき、じゅっという音をたてて、火をともした。その口もとから、紫煙がくゆる。

 「あの子供…。なんで、人に戻れなくなっちまったんでしょうね。」

 青もまた、煙草を口の端にくわえながら、言った。マッチで火をつけ、そのままひと呼吸。与市は煙管用の灰皿にとん、と灰を落としながら、その問いに答える。
 「そうさな。珍しいことだが、ありえない話じゃない。人は、家に執着するだろ?帰る場所っていうのが、どうしても必要な生き物だい。しかし猫は必ずしもそうじゃない。」
 
 ま、猫に限ったことじゃないだろうが…と、大きく煙を吐きながら、補足した。

 「『自分はあすこ(・・・)に帰らねば』…とかいう考えを、ハッキリ持っていない生き物なんだろう、猫ってのは。特に、家を失ったばかりの野良はな。あぁ…酔っ払いには難しい説明だい…つまりだな、冬哉は今、帰りたいと思う場所をハッキリと思い描けない状態なんじゃないかね。俺の憶測に過ぎないが…ここを家だと思える時が来たら、元に戻れるだろう。」

 この男も青も、この屋敷以外に帰る場所を知らないため、他から連れてこられた者の気持ちを全て理解してやることは出来ない。だから、与市の考えに筋が通っているようでも、確信は持てない。

 青は、自分の考えを言う代わりに、ところで…と切り出した。

 「話ってえのは、何ですか。」
 話題が脱線しているが、もともとは何か話したいことがあると言われて、この場にいるのである。すると、与市は黙って胸ポケットから、一枚の紙切れを引っ張り出して、青に渡した。

 「恨みごとの一つでも、言ってやれ。」

 そう言われて、二つ折りになったそれを広げてみる。そこには鉱山のふもとの、職人街の一角を示す住所が書かれていた。ガラス工房、『許多(あまた)』…。

 与市は再び、三味線を弾き始める。とてもゆっくりとしたメロディー。花びらが一枚一枚、散って行くようで、もの悲しげだ。青は黙って、そんな兄を睨む。心の中で何かが、ざわめいた。眉間のしわが、深くなる。

 
 「『あの女』の居所だい。」


 それはたぶん、今まで生きて来た時間の中で、最も驚いた瞬間だったろう。滅多に動揺などしない青が、しばらく口もきけなかった。
 「今になって…」
 やっと、それだけ口にした。
 「30年探して見つからなかったものを。」

 お前さんも鈍いね、と与市が笑う。
 いよいよ酔いが回ったのか、舌が上手く回っていない…にもかかわらず、メロディだけは、正確に編んでゆく。

 「これまで探してきた成果が…今になって出たんじゃないか。」

 まさか…と苦々しく思う。いろいろなものが入れ混ざった感情が、心の底でぐるぐると渦を巻いている。それを隠すように、手の平で額を覆った。

 「うたかた…。」
 与市が呟く。

 その名前に、青の舌先がぴくり、と反応した。そうだ、あの女の名は、『うたかた』というのだ。久しく、口にしていない発音だった。与市はそんな青の鼻先に、拾い上げた煙管の先をずい、と突き付ける。

 「誓え、青。」

 与市の大きくて鋭い眼が、ぎろり、と青を見据えた。話し方もしっかりしている。
 では、先ほどの酩酊した雰囲気は…。

 「あの女は感がいい。お前が訪ねて行ったころには、すでに姿を消しているかもしれん。そうなった時は、今度こそ、諦めろ。」

 それだけ言って、畳の上にぽろっと煙管を放り出した。その手は再び三味線に戻り、メロディが紡ぎ出される。その表情は、とたんに恍惚となり、横から見ていても、瞳の力が消えているように思えた。青は、降って沸いた女の話と、突然正気と酩酊と繰り返し始めたこの兄の様子に、混乱せざるを得ない。

 「それからな…もう一つ…もし…出会えたとして…その姿を見ても…驚くなよ。」
 「そりゃ…どういう意味ですか。与市さん、飲み過ぎじゃありませんか」
 その質問に与市は答えない。頭がわずかにぐらぐらし始めているが、それでも弾くことをやめない。
 「あの女をな…探し続けて来たのは…青よ、お前さんのためばかりじゃない。あの人が…俺のお()さんが…言い残したことでもあるんだい…。」

 「先代が?」

 青は眉間を深くして考えた。何故あの女の話に、お師さん…つまり与市の師匠であり、先代の当主…の話が絡んでくるのだろう。

 「青、お前に…こういう言い方は悪いんだがね…。俺たちだって暇じゃない…『普通の人間の女』が一人行方をくらましたところで…何十年も血眼になって…探したりはしないだろ…?」

 どういう意味だ?今夜の与市の話には、青の理解が及ばないところが多い。

 …うたかた…。

 はかない印象の名前を持つその女性は、いわば青の養母のような存在である。人間が嫌いで、まったく誰にも懐こうとしなかった幼い青を引きとり、一時的ではあるが、面倒を見た…青も、うたかたにだけは、よく懐いた…。

 しかし、ある日を境に姿を消したのだ。忽然と。

 それは、青が10歳のときのことだった。7つでうたかたの手を離れ、屋敷に戻ったのはいいものの、彼が一人立ちをするより早く、青の師匠は亡くなった。
 再び頼るものを失い、殻に閉じこもってしまった子供を見るに見かねて、再びうたかたの元へ連れだしたのは、誰でもない、この与市である。

 しかし、そこは…うたかたと過ごした家は…もぬけの殻だった。

 この兄はその時に言ったのだ。「そんな顔するない、青…俺が見つけてやるから」。

 だから青は、ただその約束のために、この兄はあちこちに触手を伸ばし…女の後を追っていたのだとばかり…。

 青はそこで、ふと考えるのをやめた。
 煙草はとっくに短くなり、吸う部分はなくなっている。
 ひと呼吸して、懐に入っていた灰皿入れに、その煙草を揉み消した。

 結局のところ、俺はいまだ、「うたかた」のことを何も知らないのだろう…と、青は自分自身に結論を出した。知っているのは、長い一本のおさげ髪。それから、少し哀しげな表情。自分を呼ぶ、低めの声。泣いて困らせた時の、苦笑い。

 青はそこではっと顔を上げた。記憶の中をさ迷っているうち、与市の指の動きがより激しくなっている。演奏することに没頭し、すでに、何かについて話そうとする様子もなかった。瞳だけが、相変わらずとろりとしている。

 そういえば、長くこの男と共にあるが、一度だって誰かに三味線を習っているのを見たこともない。自分たちの師匠だって、だれも楽器を弾くものはなかった。それなのにこの兄は、いつだったか突然、倉庫からこの三味線を引っ張り出し、勝手にいじっているうちに、高らかにひき鳴らすようになった。楽器というものにとんと縁のない青にはうかがい知れないが、一人でいじっているうちにここまで出来るようになるものだろうか。

 「聞いてもいいですか。」
 与市は虚空を見つめたまま、返事をしない。やはり、様子がおかしい。
 「与市さんは、いつ、だれに…三味線を教わったんですか。」

 その質問に、突然ぴたりと、指の動きを止めた。
 与市は首をねじって、ゆっくりとこちらを見る。長い髪がゆらりと動き、ピアスが月の光を鈍く反射した。あんなに力強いはずの瞳からは輝きが失せ、焦点があっていない。どこかぽうっとしたような、あらぬ世界をみるような表情だ。その雰囲気はもはや、見知った兄のものではない。青は、体を動かせなかった。

 一体、何が…。

 そう思った時、与市は口を開いた。

 「ねね(・・)様に習ったの。」

 そして、艶めかしくにやりと笑った。
 青の背筋に、ぞっと冷たいものが走る。これは、兄じゃない。声色も違う。

 「お薬畑(やくばた)の手入れの合間に、毎日毎日、すこしずつ。だって、ウチのお屋敷で、ねねさまが一番お上手なんだもの。」

 それだけ言うと、ねじっていた首を元に戻して(まぶた)を閉じた。やがてゆっくりと畳の上に倒れ込み、子供のように体を丸めて、寝息を立て始める。
 奏者を失った三味線が、がらんと大きな音を立てて畳の上に倒れた。

 「兄さん…」

 思わず、昔の呼び方が口をついた。

 しかし、それに対する返事は、帰ってこなかった。

 雲行きが怪しい。

 万菜(まな)は、部屋の格子窓をそっと閉めた。
 そこに、自分の姿()が微かに映った。化粧っけの薄い、どことなく子供っぽい顔つき。せめてもう少し瓜実顔だったらよかったのに。いや、背が高いほうがいいかな。でも背が高いだけだとセクシーじゃないから、もっとこう、出るところは出て…。

 そんな無い物ねだりをしているうちに、窓の向こう側では、大気が湿り気を帯び始めていた。空は暗く、ヒマワリやアジサイ、池に浮かぶ水連が天に向かって花を咲かせている。まるで、恵みの雨をせかすかのように…。この、『夏の庭』に面した部屋は、深緑がすがすがしいだけでなく、離れの作業所に向かうための渡り廊下が近いため、万菜にとって都合がよい。もともとは一人で使っていたけれど、今は子供たちも一緒にいる。
 
 「へーぇ、上手いもんだい。」
 万菜は、その声に思わず後ろを振り返った。
 すると、隣で寝転がっていることら(・・・)のおもちゃを取ろうとして、寿々(すず)がころんと寝がえりを打ったところだった。声の主は、二人が寝そべっている薄い毛布のそばで、もう小一時間も座りこんでいた。目の前にいる小さい生き物の観察が、楽しくてしょうがないようだ。
 「誰に教わったわけでもないのになァ。」
 万菜は、そんな風に感心している与市(よいち)の隣に座りながら、言った。
 「どんな生き物にも、持って生まれた本能があるんでしょ。」
 「そんなもんかね。ウミガメが穴から出て、海に向かうのと同じようなもんかな?」
 万菜は笑いながら、さあ、と答えた。同じタイミングで、おもちゃを取られたことらがわっと泣き出した。それを見たと与市が、またからからと笑いだした。
 「強いなァ、女の子は。」
 万菜は、別な場所に転がっていた、まったく同じデザインのおもちゃをことらに持たせてやる。ついでに、涙とよだれを拭き(ふ )とった。
 「どんな大人になるかね…。」
 その言葉の端に、少しだけ…本当に、ほんの少しだけ、悲哀の色を感じた気がした。
 そういえば、いつもなら泣くとすぐに抱き上げるのに、今日はどうして触れようとしないのだろう。慈愛に満ちた目で子供らを見下ろしている横顔に、疲れの色が見てとれた。
 「いいんじゃありませんか…優しくて元気なら…。」
 そう言いながら、膝の上に置かれていた与市の手を取った。
 まるで、冬の日のように冷たい。
 そうか、だから子供らに触らなかったんだ。
 万菜は、その手をそっと自分の頬に当てた。すると、顔がその中にすっぽり収まる。この人の手が大きいのだろうか。それとも私の顔が小さい?ふふ、後者にしておこう。目を瞑ると、与市の親指が、万菜の目じりを少しだけ押した。他の指もまた、形を確かめるように、小さく動く。その動作が、たまらなく愛おしい。

 与市は普段、ほとんど不安を表に出さない。そのかわりに、なにか気になることがあると、こうして体温が下がってしまう。このことはきっと、この屋敷に住んでいる者の中で、たぶん、そう、たぶん…万菜だけが知っている。誰よりも、こうしてこの人の肌に触れているだろう、万菜だけが。

 「なあ、お前…」

 ぽつんと発せられたその言葉に、はっと目を開けた。与市の目線は、子供らに注がれている。

 「一番怖いものって、何かあるか。」
 「え、そりゃあ…。」
 万菜にだって怖いものはたくさんある。数えきれないくらい。でも、今はやっぱり、この子らや与市を失うことだろう。想像すらできない。それに比べたら、毒蛇だって幽霊だって、山火事でさえ足元にも及ばない。いいや、この子らだけじゃない。美也子も咲も、同じだ。ずっと育てて来たのだから、何があっても万菜が守らねばならない。
 
 「俺は、あまり物事を怖いと思うことはなくてな。ああ、勘違いするない。もちろん…こいつらもお前も、失いたくはないね。そんなことになってなるもんか。他の連中だってそうだ。」
 ここで、万菜はちょっとだけ笑った。考えていることは同じだ。ただ、与市の方が、万菜よりももっとずっと、背負っているものが大きい。
 「でもな、人の死って、どんなにつらくても、いつか乗り越えられるだろ…。」
 万菜は何も言わない。今はとにかく、ただじっと、聞くだけだ。与市は万菜の頬から離そうとする手を引きとめた。だめ、まだ冷たいじゃないの。
 「じゃあ、人にとって何が一番怖いか…それはきっとな、『自分が自分でなくなること』だと思う。」
 与市は万菜から離した手で顔を覆った。
 「与市さん…?」
 
 「俺は、たまに…俺の中にある膨大な他人の記憶に溺れて、そのまま…浮かび上ってこられなくなる気がする。その代わりに、まったく違う人間の人格と記憶が俺を支配して…それで…」
 
 「そんな、まさか。」
 万菜は慌てて、背中をさすった。長くて黒いカーディガンは、この人のお気に入りだ。その上から出も、冷たい体温が感じられた。
 「俺はある日突然、お前のことも、寿々やことらのことも、昂太郎(こうたろう)のことも青のことも、知らない人間を見るような目で、見るんじゃないかね…」
 「そんな、無責任なこと言わないで…そんなことさせるもんですか。首に縄つけたって水底から引きずり上げてやるんだから。あ、その前にブイをつけておく。沈まないように」

 そうか、と与市は笑った。

 「一番怖いのはお前かもしれないな…。」

 そう言いながら、前かがみになっていた背筋を伸ばし、疲れた表情で窓の外を見た。いつの間にか、静かな雨が降っている。遥か遠くの街から、緊迫した内容の言霊が流れてくるのが分かった。背中に置かれていた万菜の手をどけると、与市は仕事だと言って、ふらりと立ち上がった。

 部屋に残された万菜は、自分用の飴が入った丸い缶を開けた。中には小麦粉と一緒に、クロモノが入っている。いつの間にやらのこり3つ。新しいの作らなきゃ…。
 そのとき、寿々が突然ぐずり始める。こちらから取り上げたおもちゃをぽいっと放りなげる。伝染するように、ことらも泣き始めた。二人いっぺんに抱っこかァ。うーん、先に泣いた方が勝ち。そう判断して、寿々の方を抱き上げた。甘酸っぱい子供の匂い。柔らかくて温かくて、いつの間にか、重くなる。
 背中をたたきながら、万菜は今朝のことを思い出していた。水場で顔を洗った後、廊下ですれ違った兄弟子の青。おはよう。そう声をかけるかかけないかのうちに、怖い顔で質問された。

 「万菜、与市さんだけどな。最近何か、変わった様子はないか…?」

 内心ぎょっとしたけれど、特にない、とだけ答えた。兄は、それ以上何も聞いて来なかったから、万菜も何も言わなかったし、聞き返すこともしなかった。だが、その質問といい、先ほどの与市の様子といい、夕べ、二人の間で何が起きたのか、万菜には容易に想像がついた。

 首に縄つけたって水底から引きずり上げてやるんだから。
 与市が珍しく滅入っていたので、励ますようにそんな強がりを言ったけれど、本当は万菜だって恐ろしい。
 いつかあの人は自分の体だけ残して、遠いところへ行ってしまうのではないか。

 いや、いいや…。

 万菜は一人で首を振りながら、必死でそんな不安を打ち消した。だめ、そんなの。絶対そんな日が来てはならない。私がそんなことさせない。
 
 与市が持っている人好きな性格は、もはや天賦の才能だ。あの人にとっては若い弟子たちも兄弟弟子も、寿々もことらと同じくらい、可愛くて大切なのだ。それは同時に、与市の器の大きさでもある。みんな、その器の中にすっぽり入ってしまうものだから、安心して過ごしていられる。

 でも万菜は…万菜だけはそうであってはならない。自分だけは、あの人にとって特別でなければならない。それに、どんなに大きくて頑丈な器だって、ことんと転がることもあるし、ヒビも入るではないか。それをよっこらせ、と直すのが自分の役割であるはずなんだ。そうでなきゃ、嫌だ。

 つらつらとそんなことを思ううちに、とうとう(    )ことらまで泣きだした。万菜は仕方なく、器用に片手と胴体を使って、よっこらせともう一人を抱き上げた。我ながら凄いもんだと思った。母は強し。



 しゅるるるるる。
 広い板間に、雨が降るような音が鳴り響く。香ばしい油のにおいと、あまい砂糖の香り、それから食欲を誘うバニラ…。

 小さな火のはいった暖かい囲炉裏(いろり)の近くでは、ボウルに入れられた黄色っぽいものを、胡坐(あぐら)をかいた美也子が一心不乱にかき混ぜていた。ちょうど、昨日蝶子(ちょうこ)が栗の皮向きをしていたところと同じ場所だ。
 「ねえ、それなあに。」
 (かたわ)らでちょろちょろと動き回っていた冬哉(とうや)は、ボウルの中を覗き込もうとして、膝に乗る。
 「生地。これから揚げるの。」
 「揚げるってなに?」
 思いもよらない質問に、美也子はどう説明しようかちょっと悩む。
 「え?ええと…、熱い油に入れてお菓子にするの。今充さんがやってるでしょ。」
 なるほど、このしゅるしゅるという音は「揚げる」音なのだ。フリルのついた白いエプロンをつけた充が、火の入った竈の前に立ち、鍋に箸を突っ込んでいる。時折その鍋の中から何かをつまみ出しては、傍らに置いた紙の上に積んでいた。その隣に立つ咲は、揚げたてのそれに砂糖を振りかけては、皿に移している。
 
 「ねえ、充さんはカステラ作れる?」
 「作れるけど。」
 「今度教えてよ、半熟のトロトロのやつ。」
 「なんなのよ、急に…。」

 その会話を聞きながら、冬哉は、お菓子って家でも作れるんだ…と呟いた。
 「そりゃあ作れるよ。何でもってわけじゃないけどさ…。」
 ふーん、と返事をしながら、自分が持っている「おやつ」の記憶を呼び戻した。ホイップのケーキ、果物のジャムを添えた焼き菓子、お花の砂糖漬け。時間になると、誰かが部屋まで運んできたけれど、どこからどうやって運ばれて来るのかなんて、考えたこともない。

 すると、美也子がおもむろにボウルを持って立ち上がった。土間に降りて、練り終わった生地を竈まで運んで行く。入れ替わりに、焼き菓子を山と積んだ皿を、よろよろしながら咲が板間まで運んできた。落とさないように、そっと囲炉裏の隣に置く。
 「ちょっと待ってね。」
 咲はどこからか小皿を引っ張り出して来て、それに焼き菓子を一つのせ、冬哉の前に置いた。ついでに、濡れ布巾で二つの肉球も(ぬぐ)いてくれる。
 「はいどうぞ、焼き立てを召し上がれ。」

 冬屋はしばしの間じっとそれを見つめた後、なに、これ…と聞いた。
 咲が、ええっと声を上げる。

 「ドーナッツ知らないの?」
 「どおなっつ、っていうの?穴があいているよ。食べていいの?」
 熱いからね、と充が振り返って言う。
 「じゃあふうふうしてあげようか。」
 そう言って、咲は持ち上げた小皿に向かって、息を吹きかけ始めた。乗っていた砂糖がぱらぱらと舞う。
 そのころ、美也子は充からお玉を受け取ったところだった。これはドーナツ専用のもので、中央に穴があいている。これなら綺麗に輪が出来る。隣で腕を組んで覗き込んでいる充が、生地を流し込む前にお玉だけ油につけろ…という。これが咲だったら何で?どうして?の連発なのだが、美也子は素直に従った。

 やがて、お玉が適度に油になじんだころで、大ぶりの(スプーン)を使って、そこに生地を流し込む。

 「表面に気泡が出てきたら、竹串でひっくり返しなさい。そうするとドーナツがきれいにお玉からはがれるから。」

 少しして、いわれた通り気泡が出来始めたので、竹串の先でくるりと裏がえした。イメージ通りのドーナツが、油の中に出来上がる。やがて、先ほどと同じ、しゅるしゅるという音が響き始める…。

 「充さん、今回はどこまで行って来たんですか?」
 両側が均等なきつね色になるよう、箸でくるくるとひっくり返しながら、美也子は聞いた。
 「海辺の町よ。」
 「え、海?海に行ったんですか?」
 言いながら、昔、写真で見た光景を思い出した。美也子は海を見たことがない。咲もそうだ。万菜は、昔行ったことがあると言っていたけれど…。向こう岸のない、大きな湖のようで、嵐でもないのに勝手に波が起こるのだという…。
 「海岸には、行きました?」
 充は苦笑いしながら、大丈夫よ、と答える。
 「シーグラスが欲しかったんでしょ。ちゃんと拾って来たから。」

 シーグラス?
 
 聞き耳を立てていた冬哉の目の前に、はい冷めたよ、と咲が再び目の前に小皿を置く。
 「どうやって食べるの。」
 「どうやって?そのまま手で押さえてかじったら。」
 冬哉は、ふうんと声を出した。
 「お匙( さじ)でちょっとずつ切って食べるんじゃないの」
 「そんな面倒なことしないよ。普通に食べなよ。」
 
 夕べのような栗の実ならいざ知らず、王室の人間たちは、固形物を食べる際、大抵そうする。手でもって口でちぎるなんてことはしないものだ。冬哉はかなり躊躇ってから、両手でドーナツを抑え、細い歯で小さくちぎって食べた。

 じゅわり。

 「んんっ。」

 冬屋の声に、どう?と、お玉をもったままの美也子が聞く。
 
 「美味しいっ。」

 出来たての、熱いお菓子というのを食べたのは、このときが初めてであった。砂糖の甘さと、小麦粉の優しい口当たり。揚げたばかりの油の香ばしさは、先ほど嗅いだ匂いのままだ。家にいる時に食べていたような、手が込んでいるけれども、すっかり覚めてしまったものより、ずっといいなあ、と思った。
 私も食べちゃおう、と大皿から一つ、つまみ取る。冬哉が夢中になってかじりついているうちに、美也子が残りの生地も焼き終え、やがてもう一つの大皿が運ばれてきた。同じようにドーナツが山になっている。
 「たくさん作ったね。」
と冬哉。
 「大人数だからね、これくらい必要だよ。」
 皿の隣に座りながら、美也子が言った。自分も一つ取り上げて、口に運ぶ。充は土間にある板間の縁に腰かけながら、エプロンのポケットを探り、やがて巾着袋を一つだして、こちらに放った。冬哉の隣に落ちたそれの中で、かちゃり、という音が鳴る。
 「ケンカしないで分けなさいよ。」

 充はそれだけ言うと、足を組んで煙草を吸い始める。
 竈の残り火がちりちりと音を立てていた。

 一足先にドーナツを食べ終えた咲が、その巾着をそっと逆さまにする。ちゃらちゃらと音を立てて、中身が床の上に散らばった。大人の両手の平に、ひと山盛れるくらいはあるだろうか。どれも小指の先ほどの大きさで、色は青だったり、白だったり、赤かったり…。半透明で、形は何となく楕円に見えるもの、三角形に見えるものなど、いろいろ。表面がさらさらで、どこも尖ったところがなかった。
 「うわ。本当にあるんだシーグラスって。あ、小さな貝もある!カワイイ」
 美也子が先に声を上げた。続けて、綺麗、すごい、と咲も声を上げる。
 「シーグラスって、何?」
 冬哉(とうや)が、ふんふんと匂いを嗅ぎながら聞く。
 ガラスの破片よ、と充が答えた。
 「海に打ち捨てられた瓶なんかが、砕けてバラバラになって、更にそれが波に洗われて、磨かれて、角がなくなって、海岸に打ち寄せられるの。」
 「ねえ、美也子ちゃん。どうして水の力だけで、こんなにつるつるになるの?水って柔らかいのに…」
 指先でグラスの角をさすりながら、咲が言った。
 「何年も何年も波に揉まれたら、どんなに硬いものでもこうなるんだってさ。あ、これ黄色だよ。赤いのもきれい!」
 充はそんな美也子を見ながら、ぷかり、と煙を吐いた。
 「それだけ、海の水は常に激しく動いているってことよ。」
 ふうん…と咲は首をかしげる。シーグラスは綺麗だけれど、あんまりピンとこない。海の波ってどんなだろう。湖水の表面を風が走った時に出来るさざ波や、川が流れる時に出来る水紋とは違うのかな。
 「ねえ、貝がらじゃないモノも混じってる。」
 冬哉が前足でちゃりちゃりとそのシーグラスの山をかき分けると、中から黒くてつるつるの、梅の実のような形をしたものが出て来た。外国の植物のタネだ。美也子が手の平の上で転がしながら、決意する。
 「これ、お()匠がいいって言ったら、育ててみる…!」

 珍しいものに見入っている3人をよそに、充は短くなった煙草の火を、琺瑯(ほうろう)の皿で揉み消した。口の中に残っていた煙を吐き出しながら、天井を見上げる。古い古い、木目。頑丈に建てられていることと(・・)、日々手入れされていることから、どこにも壊れる様子もないけれど、建てられてから一体どれくらいの年月が経っているのだろう。
 その天井のさらに上、3階にある与市(よいち)の仕事部屋から、微かに三味線の旋律が降ってくる。なんだか、不安になるような感じだ。何かに追われているような…。
 その時ふと、気配を感じて後ろを見る。何やら黒い影のようなものが、するりと入り口から入り込んできた。それは、少女たちの(かたわ)らを音もなく進み、やがて充の隣に座りこむ。雨でかすんだ日光が、その毛並みをぼんやりと照らした。黒いと思っていたものが、青みがかったものとして浮かび上がる。

 「何よ。」

 充は小さめの声で言った。この家の中で、あまり聞かれたくない、あるいは見られたくない事柄がある時、猫の姿()を使うことがある。青のように目立つ風貌を持つ者にとっては、なかなか便利かもしれない。

 「ちくわだったら、かまどの横にある戸棚の中でしょ。」

 その言葉を聞いて、青は黙って土間に降りる。器用に戸棚を開けて、白くて長いものを口に加え、再び充の隣に腰かけた。そういえば、そろそろ昼時だ。自分たちがドーナツに満足していたせいで、すっかり忘れていた。

 「ふん、いい前掛けじゃねえか。」
 「エプロンって言ってくれる。」
 青は好物のちくわを歯で引きちぎり、飲み込むと、悪いが…と呟いた。
 「頼みがある。」
 暗殺の依頼でもするかのような声色だ。ちくわをもった暗殺者?そんなの、まぬけったらないわ。
 「何よ、アタシに頼みなんて珍しい…」
 雨でも降るんじゃないの、と言いかけてやめた。雨ならもう降っている。しかも、午前中に降っていた猫鳴キ雨から、どしゃ降りへと変わりつつある。

 「夕べのな…家系図…師弟図か?…あれをもう一度見せて欲しい。」
 
 「何ですって?」

 充は、眉間にしわを寄せて聞き返した。

 「そんなものを見て、どうするっていうの。」
 あれは、そんなに多く使われる類の資料ではない。ただ、自分はこの家の一員であることを確認するとか、どれくらい長くこの家の歴史があるのかとか…。そんなことのためだけに、あるようなものだ。
 青は夢中になってちくわを噛みながら、いいから見せろ、とだけ言った。
 
 まったく憎たらしいったら…。

 充は心の中で悪態をつきながら立ち上がり、エプロンを外した。

 何だか知らないけれど、この弟には年上の人間を敬うっていう気持ちはないのかしら。


 冬哉は、シーグラスを分け合う二人のねえやたちを見ながら、いつから始まっていたものか、かすかに耳に流れ込んでくる、与市の三味線のメロディに聞き入っていた。夕べは楽しげな曲を弾いてくれたけれど、今日のはなんだか、緊迫している。聞いている人の心がハラハラするような感じ。

 「ねえ、あのさ。与市さんってさ、音楽家なの?だからいつも三味線を弾いているの?」
 
 グラスを眺めるのに夢中で、えー?という曖昧な返事が返ってくる。音楽家な訳ないじゃん…と美也子。そうそう、うちは薬を作る家だもん…と答えたのは咲だ。
 「え、そうなの。お薬を作るのが仕事なの」
 冬哉は聞き返した。昨日はここへ来るなりべろんべろんだったし、夕べは夕べで違うことに一生懸命だったので、ここが一体どういう場所であるのかなんて、考えもしなかった。
 「じゃあ、どうしてずっと三味線を弾いてるのさ」

 何でだろ…美也子ちゃん知ってる?さーぁ?お師匠に聞いたけど、ハッキリ教えてくれないから…ねえ、これ、珊瑚も混じってる。本当?こっちのは動物の骨かな?

 ふん、だ。冬哉は心の中でぷうっと頬を膨らませた。いいもん、誰かほかの人に聞くから。

 するとタイミングよく、煙草を吸い終えたらしい充が、いつもの足取りで部屋を出て行くところだった。その足もとに、例の黒い影が…。

 「青のおじさんだっ。僕おじさんに聞いてみよう。」

 え、何か言った?という、咲の上の空な声をよそに、冬哉は充たちの後を追って、部屋を出た。



 鏡台、文机、細かな細工の付いた箪笥に、ワインやグラスが並んだ、小さな戸棚。そして、カーテンが開いた丸窓から下を覗くと、冬の庭が広がっている。そんな充の部屋は、畳ではなく板間だ。歩くたびに微かにきしむのが、気に入っている。その床の一角に、青と充は座り込んでいた。傍らには、例の家系図が入った、黒漆の箱。

 「ねね(・・)…ええと…ねね…。」
 
 眼鏡をかけた充が、そう呟きながら、細い指さきで家系図を一枚一枚めくっていく。紙は下の層に行くほど、古くてもろい。破らないように、気を使わなければ。
 「ちょっと、青。ねねってどんな字を書くの?」
 しかし、壁に寄りかかって窓の外をじっと睨んでいるだけの青は、何も答えない。
 「まったくもう…」

 このガラの悪い弟は、この部屋に入るなり、過去に当主をしていた者の中で、そんな名前の女がいるはずだから、家系図を使って探し出せ…と言ってきかない。そりゃあ、長い歴史の中、女性が(かしら)に立つことだって少なくはない。第一、この家の当主としてあてはまるべき唯一の条件は、『山猫であること』なのであって、性別は関係ないのだし。
 「だいたい、そんな名前の人が過去にいたことを、どうしてアンタが知ってるわけ…」

 そんなふうにぶつぶつと文句を言う充の手が、目線が、突然ピタリと止まる…。
 
 「うそ。」
 
 青がちらりとこちらに目線を向ける。

 「やだ、あった。」
 
 そこには確かに、確かに、「祢ゝ(ねね)」と書かれていた。しかも、十二代も前。

 「ふん、やっぱりいたか。」
 ようやく窓から目を離し、紙を覗き込みながら、青が言った。
 「弟子の名前はなんて書いてある。」
 充は名前から伸びた線をたどり、声に出して読む。『(あかね)』。
 
 「茜ってことは、弟子も女か。」

 青は、他に誰もいないというのに、低い声をより低くして言った。

 「おい、このことは誰にも言うな。特に、万菜(まな)と与市さん本人にはな。」

 与市自身がどれくらい自分のことを理解しているのか青には分からない。万菜も同じだ。いくら長く一緒にいるとは言えど、あいつはどこまで与市のことを受け止められているだろう。
 「口止めする前に、いい加減何があったのか説明しなさいよ。何のよ一体!」
 そこで、青はようやくその重い口を開く。夕べ見たこと…与市が自分の師匠をねねと言い張ったこと…三味線はその者から習ったと、女の言葉で話したこと…目つきがいつもの与市ではなかったこと…。

 「そう…。」
 青の話を聞き終わった充は、ぽつりと呟いた。そしてため息をつきながら、額に手をやる…。ついでに、流れ続ける三味線の音色に耳を澄ました。与市の部屋は、こことは違って夏の庭に面しているが、1階の居間から2階へと移動した分、よりはっきりと聞き取れるようになった。その曲調は相変わらずだが、先ほどよりテンポが速くなっている。張り詰めた凧の糸がきりきりと音を立て、今にもぷっつりと切れてしまいそうな、そんな情景をほうふつとさせた。
  ここで唐突に、充の脳裏に、子供時代の記憶がよみがえる。あれは、いくつだったろう…5つか、それとも6つだったか…。
 先代の当主が突然、自分たちが知らないはずの、古い時代の話をし始めたことがあった。周囲の大人たちが、それをみてどうしたのかはよく覚えていない。その時の目つきは、恍惚としていて、ここにはない場所を見つめているようだった。話し方も、全然違う人だったように記憶している。あの光景を間近で見たのは、充と、与市と…青はいなかったように思う。そのとき、与市は充の手をひきながら、周囲の大人たちには聞こえないような口調で、確かに言ったのだ。

 『俺、あんな風になりたくない』。

 あれから、どのくらい年月が過ぎただろう。

 「この家系図は全部で何枚ある。」
 青が家系図を箱に戻しながら言った。そして、再び窓の外を…いや、天井を見た。もっと正確に言うと、見えないはずのない、上の階の様子を、見ようとしている。
 充はそんな青を見ながら、数えたことないわ…と答えた。
 「百枚はあるんじゃねえか…。」
 「ばか、そんなには無いでしょ。」

 一枚につき一人、当主の名前が一名。
 逆に言うと、枚数イコール、ここで生きた当主の数。

 充はその束の厚さを見つつ、聞くともなしに言う。

 「これだけの人数分の記憶が、頭の中にあるってどんな感じなのかしらね。」

 「……。」

 青は、やっぱり何も答えない。この男は、ハッキリした自分の答えを持たない場合、頑として何も言わない。

 充はかけていた眼鏡をはずし、ケースにおさめて、その蓋を閉じた。パチン、と軽い音がする。

 「行くの?」

 青の三白眼が、ぎろり、とこちらを睨んだ。
 「何の話だ、突然。」
 「フン、わかってるくせに。『うたかたさんのところ』よ。行くんだったら、ぐずぐずしてちゃだめよ。」
 青は眉間のしわをますます深くさせた。本人は驚いているつもりでも、何だか脅迫されているように感じるご面相だ。
 「何で、アンタがその話を知ってるんだ…っ」
 喉の奥から、ぐるるるる…という音を出しながら、青はすごむ。
 さあ、何でかしらね…と言い返しつつ、充も天井を見る。三味線のテンポが、先ほどにも増して、どんどん速くなっている。『仕事』に没頭すると、夢中になって書きならすのが与市の癖だが、何だかいつもと違う。しかし、青の頭の中は、一時的に三味線のことは消し飛んでいた。

 「まさか、あの住所を…うたかたの居どころを、与市さんに渡したのは…。」

 
 それは、充が今まさにその質問の答えを口にしようとした、一瞬前の出来事であった。

 屋敷中に、何かを思い切り鞭で叩いたような、あるいは風船が割れたかのような、ぱぁんという乾いた音が響き渡った。

 その時、万菜(まな)はさっぱり泣きやまない双子に手を焼き、居間に入った蝶子(ちょうこ)はちくわが盗まれたと文句を言い、咲はふたたびドーナツを食べはじめ、美也子は読み書きの練習でもしようかなァ…と呟き、寛治は家具らしきものがほとんど存在しない自室の片隅で遅すぎる朝を迎え、部屋を出てすぐに青たちを見失った冬哉(とうや)は、散々屋敷の中を迷った挙句、3階にある与市(よいち)の部屋をそうっと覗き込んだところだった。

 それぞれがそれぞれの場所で驚きの表情を浮かべるなか、いの一番に部屋を飛び出したのは、万菜だった。両手に抱えた双子を、台所から顔を出した蝶子に、有無を言わせず押し付ける。

 「なんだい、そんなに慌ててお前らしくない…ああ、よしよし…それよりねえ、さっきの大きな音は…。」
 切れたのよ、と廊下を急いで歩きながら、万菜は振り返って応える。
 「三味線の弦が切れたの!」

 そして、逃げたネズミを追うがごとく、手近にあった階段を駆け上がった。


 「今の音はなに?」
 充は、その場に立ち上がりながら言う。先ほどの破裂音と共に、与市の三味線の音がピタリとやんだ…。おそらく、弦が耐えきれずに切れたのだろう。青も立ち上がり、障子をあけた。一気に水と土の匂いが部屋に入ってくる。雨が屋敷の壁や屋根をバタバタと激しく叩きつける音が、よく聞こえた。山の天気は変わりやすく、日々雨は降っているが、このように荒れるのは珍しい。

 「おいっ…」

 青が短く叫んで、部屋を出て行く。近くの階段を、万菜が駆けあがっていくのが充にも見えた。青はその背中を追って、階段を大股で上がっていく。
 「ちょっと…」
 青を呼びとめようと廊下に出たところで、誰かが、後ろから腕を掴んだ。振り向くと、そこには美也子の姿()があった。咲はその後ろで青ざめている。 
 「どうしたの、二人とも。」
 「冬哉がいないんです…。」
 美也子が言った。その後ろで、咲が不安そうな表情を浮かべたまま、黙っている。
 「さっきの、ぱんって音がした時は、もういなかったんです。あちこち探したんだけど…。」
 「どこかで遊んでるんじゃないの。あんなに小さいんだから、物かげに隠れたらわかんないわよ。」

 冷静な口調で言ったものの、充は内心、当惑していた。何か、不吉なことが起きている気がする…。

 「部屋もみんな探したんです。もし、この雨なのに外に出たりしたら…」
 美也子がそう言い終わらないうちに、灰色の空に青いひび割れが生じ、たちまちゴゴン、という雷鳴が響く。咲は美也子の腕をつかんだまま、身をすくめた。

 そのころ、3階にある与市の部屋の前では、青がようやく万菜の背中に追いついたところだった。
 「なんだ、血相変えて…。」
 万菜は答えなかった。僅かに息を切らしながら、半開きになっていたその障子を、大きく開いた。勢いづいて、たん、という高い音が響く。

 「………。」

 そこにはもはや、誰もいなかった。
 
 大きく開け放たれた障子から、風が吹き込んでいる。古い文机に乗った大量の紙切れが、部屋中に舞っていた。それらの用紙には、判読の出来ない書付や、文様のようなものが殴り書きされている…。

 呆然としている万菜の横をすり抜け、青は黙って部屋の中へ入った。散らばった紙きれの中から、落ちていた三味線を拾い上げる。3本あるうちの1本が真ん中からぷっつりと切れ、蔓植物のようにくるくるとカールしている。青はその三味線を、隅々までくまなく点検し、やがて小さな古い刻印を見つけ出した。

 『(あかね)』。

 家系図の中で、祢ゝ(ねね)の弟子として残されていた名前だ。

 「…与市さんはどこ?」

 万菜が、探さなきゃ…と駆け出して行こうとしたところで、同じく二階に上がってきた充が、その手を掴んだ。
 「待って…むやみに探しまわっても、だめよ。」
 そして、切れ長の目で青を睨む。そう言う表情をすると、この二人は良く似ている。
 
 「冬哉がいなくなったの。」
 
 青はその言葉に、黙って三味線を置いた。窓の外は大荒れである。
 「いま、美也子と咲がもう一度屋敷の中を探しているけど、うんともすんとも、返事がないわ。」
 「外に出たっていうのか。」
 あの小さな猫が嵐の中に飛び出したら、どうなるだろう。考えただけでぞっとする。ハナチルチの中ならまだしも、もしこの土地の外…奥深い山中に出てしまったら、危険だ。川だって増水しているかもしれない。

 「あの子黙って出て行ったの?この雨の中を?何のために?」 
 混乱する万菜に向かって充は、知らないわよそんなの、と答える。
 そこへ、屋敷内の捜索を終えた少女二人が、まだ完全に覚醒しきっていない寛治を部屋から引きずり出して、連れて来た。『とりあえず役に立ちそうだから、起こして連れて行くべきだ』…という、美也子の機転である。

 「おい、お前ら。与市さん見なかったか。」

 青の問いに、咲も美也子もきょとんとして首を振る。今しがた、二人は手分けして屋敷中を見回って来たばかりだ。建物内に与市がいたら、嫌でも気付くだろう。

 「一緒だろ…。」
 盛大な欠伸をしながら、寛治が言った。
 「一緒って…」
 万菜が、聞き返した。

 「だからさ、与市さんがあの子供を連れて、どっかに出て行っちまったんだろ。」


 寛治の答えは、単なる推論に過ぎない。しかし、その場にいる者にとって、もっとも受け入れやすいものだった。三味線の弦が切れたことと(・・)、二人が消えてしまったことにどう関連性があるのかは、想像がつかなかったが…。

 ああ、くそ… 何だってンだ一体。
 青は心の中で悪態をついた。そして、口火を切る。
 「とにかく、探しに出るぞ。」
 ここで(かしら)をつき合わせても、何も解決はしない。
 「美也子と咲はもう一度、冬哉を探してこい。入れ物に入って寝こけているかもしれん。何でもいいから、手当たり次第にひっくり返せ。与市さんは俺と寛治と…。」
 青は答えに詰まって、喉の奥を鳴らした。自分と与市の弟子がそれぞれ、この場にいないことがもどかしい。充はこういう場合どのくらい役に立つのだろう。

 私も…と、窓と障子を閉めながら、万菜が口を挟む。

 「私も、探しに出る。」

 馬鹿っ…と青は一喝した。

 「双子はどうしたんですか、お()匠。」
 弟子の問いかけに、万菜は蝶子さんのところ、と答えた。
 「だったら、蝶子さんと一緒にいなさい。怪我でもしたらどうするの。」
 すると、それまで黙ってその様子を見ていた寛治が、充に向かって無駄だよ…と言った。

 「わかってるだろ、充さん。その人は一度言い出したら、聞かないよ。」

 
 寛治は、(かしら)を覆っているフードがずり落ちそうになるのを押さえた。北の地方の、氷の上で生きるという獣の皮を、防水マントに仕立てたもので、はっ水性が良く保温性もあるが、重い。
 やっぱり、ダメか。
 先ほどから、汗なのか雨なのかわからぬ雫を(ぬぐ)いつつ、屋敷近くの雑木林の中の道を、人影…あるいは山猫の姿()を探して、猛然と歩きまわっている。しかし、人の気配は愚か、生き物の気配すら感じられない。歩みを止めて耳を澄ますと、豪雨が激しく木々を打つ音に混じって、どうどうという水の流れる音が聞こえて来る。寛治は思い立って、林の中を歩き回るのをやめ、川に向かって歩き始めた。すぐに視界が開け、茶色く濁った川の水が、普段よりも勢いを増して流れているのが見える。が、溢れるほどの増水…という訳でもない。川岸に近づかなければ、危険はなさそうだ。河原の中ほどまで行ってみて、周囲を見回してみる。やはり、誰もいない。寛治が出した、与市(よいち)さん、という声も、濁流と雨の音でかき消されてしまう。仕方なく、今度は上流の方角へ歩きだす。すると、だんだんと河原には傾斜が付き、急な坂道となり、大きな岩が多くなった。寛治はひとつの岩の上にスニーカーをはき捨てると、ずり落ちないよう爪を立てながら、一番高い位置にある岩の上へと登る。立ち上がろうとしたが、濡れた岩は滑りやすく、一歩間違えれば急流に飲み込まれることを想像して、やめた。そうなったら、さすがの寛治も助からない。
 その場所は、屋敷を囲む地形のなかでも、最も眺めが良い。ずっと遠くにある下界ではすでに雨雲が切れ、陽がさしている。じきにここも晴れるだろう。寛治は、その刺し込んでいる光の帯を見ながら、辺り一帯に向かって、鳴き声をあげた。それは、長く、うねるように辺りに拡散していく。

二人とも、返事をしろ、どこにいる…。


 ふぁあああおおう。
 青は風に乗って流れて来た寛治の鳴き声を聞きながら、ああ、その手があったな…とぼんやり思った。
 目の前には、火を入れた竈の前にうずくまる万菜(まな)がいる。壁にかけた防水性の獣皮マントから、ポタポタと雫が落ちる。それをみながら、くしゃみを一つした。このマントは屋敷に何着か常備されているが、あいにく、青に合うサイズのものはなく、結局いつもの黒いレインコートを着るしかなかった。防水性が高くないので、あっという間にずぶ濡れとなり、今は万菜のコートの横に並べてある。

 万菜は、ゆっくりと顔をあげた。
 同時に、ぱちり、と薪が爆ぜる。火が強くなってきたのか、先ほどより暖かい。

 「お前、屋敷に戻れ。風邪引くぞ。」
 青は作業場の土間の縁に座ったまま、言った。万菜は、竈の火を見つめたまま、平気…とだけ答えた。
 大人3人がかりで、まる2時間。ずぶ濡れになったかいもなく、屋敷の庭にも、広い畑にも、花々が咲き乱れる雑木林にも、与市たちの姿は見つからなかった。寛治には、ハナチルチを出て、雑木林と河原を探させている。青もまた、土砂崩れなどを苦慮しつつ、中腹の茶屋まで歩いたが、やはり人の気配はない。正直これほど探して見つからないとは、思わなかった。

 「なあ、万菜。与市さんはたぶん、猫の姿で、あの3階の窓から、外に飛び出たんじゃないか?そうでもしねえとな、あんなに短時間のうちに、誰にも会わずに姿を消すのは難しいだろうが。」
 「うん、たぶん、そうだと思う、私も。」
 「お前…与市さんのいどころについて、心当たりはなんだろうな。」
 あるわけないでしょ、と手の平を竈にかざしながら、万菜は呆れたようにこぼした。
 「心当たりがあるのなら、こんなふうに苦労してないじゃないの。」

 青は何か言い返そうとしたが、結局そのまま黙りこんだ。返す言葉はない。

 「おい、聞いてもいいか。」

 しばらく考え込んだのちの、言葉だった。

 「うん、何?」
 「あの人がいなくなったのと、三味線の弦が切れちまったのと、どう関係があるのか、お前には想像がついてんじゃねえのか。」
 火にかざしていた万菜の指先が、ぴくり、と動いた。

 「与市さんがどうやって処方箋を作ってるのか…それは俺だって知ってるつもりだ。しってるつもりだがな…」
 
 この篠澤家では、たった一つだけ、どうしても逃れられない決まりごとがある。それは、当主になる者は、山猫でなければならない、ということだ。それに従うように、十数年に一度、かならず山猫の子が生まれてくる。その子は当主の弟子としてこの家で育ち、次代を担うことと(・・)なる。その証拠に、与市の弟子である昂太郎(こうたろう)もまた、山猫だ。
 では、何故、山猫でなければ駄目なのか…。
 「抗セジン薬の処方箋を作るのは大変だ。毎回毎回、宿主が何であるかによって、使う薬材も、患者への処方の仕方も変わる。もたもたしている時間もない。そうなれば、どうしても過去の記録を引っ張り出して来て、それを参考にする必要が出てくるよな。」
 「そうね…。」
 「でも、この家には書庫ってもんがない。」
 万菜は黙って作業場に上がり込むと、どこかの戸棚から干し肉を取り出して、串に通す。それを3人分、竈の前に刺し立てた。
 「あるの。書庫なら、ある。」
 わずかな沈黙の間に、ちりちりと油の焦げる匂いが漂ってくる。
 「小さいけど、とても深い書庫。篠澤家が代々作り続けてきた、膨大な記録。それがどこにあるのか、お兄ちゃんだって知ってるくせに。」
 「ふん… 」

 与市さんの 『頭ン中』だろ…と青は答えた。

 山猫には、生まれながらにして『歴代の当主の記憶を、全て受け継いでいる』。

 その力は薬売りを経て、やがて当主となった時に初めて、発揮されることとなる。自分の頭の中にある膨大な他人の記憶から、処方箋を作るために参考となる場面(シーン)を探しだし、薬材に詳しい万菜たちの手を借りつつ、適切なレシピを練り上げていくのだ。
 
 自分の頭の中から、他人の記憶を探す…?

 青は、これまで何度も何度もその様子を想像してみたが、一体どういう感覚であるのか、まったく想像がつかない。幾つも疑問符が浮かんでは消えていく。例えば、今までの当主の記憶が全部受け継がれるということは、今生きている『与市自身の記憶』は、昂太郎の中に受け継がれるのだろうか。自分が生まれる前に死んだ者の記憶が、今生きている者の中に存在する…というなら、まだ想像がつかないでもない気がするが…。

 まあ、それはともかく…。
 青は、眉間にしわを寄せながら、きりきりしてきたコメカミを、人差し指で揉んだ。

 「でもなァ、その…処方箋を作るのに、どうして三味線を弾きならしてるのか…俺はそこのところが理解できん。弦が切れたことと、姿を消したことと、関係はあるんだろうがどう関係しているのかが、分からない。」
 ここまで探して見つからないのだから、これ以上やみくもに動き回っても意味がない。一体何があったのかを考え直し、手がかりをつかむしか、道はない。
 いい具合に焼き目が付いた干し肉を抜き取って、万菜は青の隣に座りこんだ。 
 「これは本人でなければ、分からないことではあるんだけど…。」
 そう言いながら、一本をこちらに手渡した。しかし、万菜自身は齧る雰囲気ではなない。青だけが、熱いうちに歯で引きちぎる。

 「前に与市さんから聞いた話では、記憶を探す時って、まずは目を瞑るんですって。」
 「目を瞑る?」
 「私たちも、ずっと昔の記憶を探る時、同じようにするじゃない?」

 青は答えなかった。昔の記憶を探す?苦々しい。そんなことをしたら、左右に揺れるおさげ髪だけが、脳裏に浮かぶだけだ。
 それでね、と万菜は続ける。

 「自分の中に少しずつ、少しずつ、沈んでいく。すると、自分ではない人たちの記憶の断片が、たくさん辺りを舞うんですって。その中から欲しい情報に関連したものを見つけて、意識を向ける。すると、擬似体験っていうのかな…その記憶が、まるで自分が体験したことがあるかのように、感じられるんですって。その疑似体験ていうのはとてもリアルで…何度も繰り返していくうちに、どれが自分の記憶でどれが他人の記憶だったか分からなくなることがあるって言ってた…。」

 万菜はそこでようやく、干し肉を噛む。ほんのちょっぴり口に入れて、前歯で弄んでいる。

 「ね、『命綱』ってあるじゃない。水の深いところに潜る時とか、深い森に入って行くときなんかに、体に結ぶヒモ。どっちの方角に行けば、元いた場所に帰れるのか、分かるようにするための…。与市さんにとって、三味線っていうのは、そんな感じのものなんですって。どんな奥底まで潜ってしまっても、他人の記憶に翻弄されても、部屋で一人で三味線を弾いているのが本来の自分だって、認識していられるって…。」

 青は痺れて来た足を組み直すと、懐から煙草を取り出した。幸い湿ってはいなかったが、マッチの方がダメになっている。竈までいって貰い火をし、ついでに焦げ始めている干し肉を抜き取った。寛治はまだ戻ってこない。立ち上がって、煙を吐く…。

 今の万菜の話が、本当にそっくりそのままだとしたら…?
 青の背筋に、嫌な汗が伝っていく。
 「仕事中」に三味線の弦が切れた与市は、精神(なかみ)の、いや、記憶の奥底から、帰ってこられないのでは…?そうなったら、一体どうなるのだろう…。

 「お兄ちゃん、夕べ…私たちが寝たあと、何かあったんでしょう。」

 こちらの嫌な悪寒に気付いていないのか、万菜は淡々とそんなことを質問する。
 「『何か』…?」
 「与市さんの様子、いつもと違ったんじゃないの?」
 そう言われて、青は再び頭を抱えることとなった。与市は自分を(あかね)だと言い張り、自分の()匠は女だったとも語っていた。あれは、他人の記憶や人格を、自分のものだと思い込んでしまった結果なのか。しかし、夕べはあくまでも、与市は青と酒を飲んでいただけで、「仕事中」の出来事ではないではないか…?

 ああ、くそ…。
 青は咥えた煙草を噛みしめた。
 どこから考えたらいいのか、見当がつかない。

 「今朝会った時、与市さんの顔色が悪かったから。あのね、あの人時々…本当に時々なんだけど…仕事をしていない間でも、変なことを言うの。会話が、まったく関係のない方向に進んだり、大昔のことを今見たことのように言い始めたり。」
 「他人の記憶が、日常の中で突然顔を出すっていうことか・・・!?」
 まさか、と青は呟いた。
 「命綱」を失った与市が記憶の淵かで溺れ…帰り道が分からなくなっている間、まったく別の人格が、いいや記憶が、体を支配してしまっていたら…?

 そのとき、万菜がはっと頭をあげた。
 周囲をみなわしながら、ねえ、と声を挙げる。

 「いま、何か聞こえなかった?」

 冬哉(とうや)が目を覚ました時、その小さな体は、与市(よいち)の片手に握られていた。その指の間から見えたのは、靴を履いていないために泥まみれになった足が、一心に草をかき分けて歩く様であった。

 寒い。ここどこ?

 冬哉は、一生懸命、ぼうっとする(かしら)のなかで、記憶を探る。
 まず、()匠の青を追って、部屋を出たことを思い出した。迷った挙句に、いつの間にやら3階の、与市の部屋まで行った。そして聞こえた、大きな音。一瞬身をすくめた後に中を覗き込むと、そこには、呆然と窓の外を見つめる、与市の後ろ姿()があった。その体は、小さく、左右に揺れていた。一定のリズムで、くら、くら、くら…。力を失った両手から、ずるり、と弦の切れた三味線が落ちた。
 それは、夕べ見た雰囲気とは明らかに違っていた。夕べはもっと楽しげで、強そうだったのに…今の与市はまるで幽霊のようだった。左右への揺れは目に見えて大きくなり、雰囲気がぴりぴりしていて、怖い。思わず後ずさりしようとして、爪が床を引っ掻いた。かり。その小さな音で、与市の動きが止まった。

 「…誰だ…」

 それは、静かな口調だった。

 「…与市か?…」

 何を言ってるんだろう。それは自分の名前じゃないか。冬哉が声を出せずにいると、「与市」はゆっくり、ゆっくり、こちらを振り返った。半開きになった(まぶた)から、あの金色の瞳がのぞいていた。それは、しっかりと、冬哉の姿を捕らえた。

 「どうして、またここにいる。」

 「え、あの」

 「処分したはずなのに…死んでいなかったのか。」

 次の瞬間、山猫の大きな体が、空中に弧を描いて舞いあがった。そしてあっという間に冬哉の首に食らいつき、後々寛治が予想した通り、窓の外へと飛び出した。普通の猫より数倍も頑丈で、しなやかな筋肉を持つその手足は、三階から地上の草の上へ着地しても、()むことはなかった。しかし冬哉は落下のショックに耐えきれずに、悲鳴を上げる間もなく気を失ったのだ。


 微かに、水の匂いがする。手の中でゆられながら、冬哉は鼻をひくつかせた。雨よりももっと濃厚な水の匂いが立ち込めている。水の流れる音もしないから、どうやら河原でもないらしい。では、自分は一体どこに運ばれてきたのか。
 「…っ」
 声が出ない。その手は思いのほか、ぎっちりと仔猫の体を押さえつけていた。やがて、与市はピタリと歩みをとめた。目の前には、雨によって、魚のうろこにも似た細かなさざ波を立てる、広い湖があった。その光景は、手の中にいる冬哉の目にも飛びこんできた。

 与市はしばらく、その場から動かなかった。そのまま、どのくらい時間が経っただろう…おもむろに冬哉を両手で持つと、地面に両膝をついた。

 そして冬哉の小さな体を泥の上に押し当て、両腕にゆっくりと力をこめる。

 ぎりぎりぎりっ…。

 「よ…」

 ようやくそれだけ、声が出た。やめて、という言葉は、出せなかった。手に込められた力が、より一層強くなったからだ。
 冬哉はそこでようやく、自分が恐ろしい状況にあることを知った。下から見え下ている与市の目は、やはり夕べのようではない。相変わらず半開きになった瞼の下で、ぎろぎろとせわしなく、瞳が動いている。眉間には深いしわがより、唇をかみしめていた。

 殺される。

 体を掴んでいる手の間から、かろうじて右前足だけが出ていた。動かせるだけ動かして、与市の手を引っ掻いた。細い爪が皮膚をやぶいて血が出たけれど、力は緩まない。全身の骨がみしみしと小さな音を立て始める。痛くて、苦しい。怖い。全身がしびれる。オデコがぼうっとする。怖い、悲しい、ひどい。もはや、単語でしか物を考えることが出来なかった。どうして、自分はこんな目にあっているのだろう。自分は一体どんな悪いことをした?ゆうべは、たくさん遊んでくれたじゃないか。

 しかし本当のところは、手に込められたその力は、仔猫を一気に絞め殺せるほど強いものでもなかった。それはおそらく、与市の意識を支配していた何者かが持っていた、小さいものを殺すことへの、躊躇いであっただろう。しかし、冬哉からしてみれば、半死半生。その中途半端な状態が、かえって冬哉を苦しめる。

 どうしよう、どうしよう…。
 そんな時、雨に混じって、温かい水滴が、仔猫の体の上に一粒、二粒、降りかかった。

 ん。
 しょっぱい?

 その時風に乗って、どこからか猫の長鳴きが聞こえてきた。聞き覚えのある声。
 
 返事をしろ。どこにいる。

 すると、それに反応したかのように、ほんの一瞬手に込められた力が緩んだ。冬哉は残っていた力で、ぴゃうっと鋭く鳴き声を上げると、再び気を失ってしまった。

 万菜(まな)が作業場で聞いたのは、この時の声である。

 さして大きいものでもなく、寛治の発した声のように、風に乗って拡散したわけでもないというのに、なぜ彼女にだけ届いたのか。それは後にも先にも、解明できない謎として、残ることと(・・)なる。唯一考えられる理由としては、母猫はどんなに遠く離れていても、仔猫の泣き声を知ることが出来るらしい…ということだけだ。


 「聞こえたって、何がだ…。」
 くしゃみを一つしながら、青は万菜に向かって言った。耳を澄ましても、外からは相変わらず雨粒が木々や屋根を打つ音しか聞こえてこない。先ほどに比べれば、いくらか雨が弱くなってきた気もするが。
 「助けてって言ったの。仔猫が…。」
 「双子の声じゃないのか。」
 うん、違う…と言いながら、万菜は壁に掛けてあった防水コートを再び着込む。万菜の胸には、言い知れぬ不安感がこみあげていた。背中に嫌な汗が流れおちる。またその脳裏には、あるイメージが瞬いていた。広くて水があるところ。遠いところ。早く、早くしないと…。

 そこにようやく帰ってきた寛治が、ドアを開けた。いたか、と青が問う。
 「いない、川にも上流にも行ったけど。」
 「寛治っ」
 万菜が声をあげた。
 「水のあるところ…水のあるところにいると思う…」
 唐突な万菜の言葉に、寛治は珍しく戸惑ったような表情を見せた。
 「何だよ(ねえ)ちゃん…川にはいないってば。」
 「川じゃなくて!ええと…湖か沼か…!」
 ああ、と青は唸りながら、考える。湖ならあった気がする。
 地図地図、と万菜は作業場にあった小さな机の引き出しから、古ぼけた地形図を持ってきた。

 「湖って、これか。」
 
 青がいち早く指示したその場所は、ハナチルチを出て、その周囲に広がる大きな雑木林を抜けたところ。まさに、道なき道を進む…といった感じだ。

 「突然どうしたんだよ。」
 めんどくさそうに、寛治が言った。
 「湖なんかにいるわけないだろ。それもこんな遠い…。」
 「いるの。絶対にいるの。声がしたもの。」 

 万菜はそう断言すると、その地図の内容を頭に叩き込み、一目散に部屋から飛び出した。


 与市(よいち)は、湖の縁に、一人呆然と立ちすくんでいた。

 「お()さん…。」
 
 雨は止み、あちこちに出来た雲の切れ間から光がさしていた。その光は、もはや鏡のように静まり返った水面や、周囲の山並みに降り注いでいる。一陣の風が吹いて、彼の柔らかい髪の毛を揺らしている。
 胸の前で合わせた両手の中には、ぐったりしたままの仔猫がいる。体温が感じられないのを知って、とたんに握り締めた時の感覚が蘇る。動機が速くなり、足もとが真っ暗になったような感覚がした。

 「とう(・・)…。」

 与市はゆっくりと、その体を揉み始めた。
 
 「起きろよう、とう…。」

 背中をさすり、手足をなでる。その指先が震えている。足に力が入らなくて、立っているのがやっとだ。いよいよ、最も恐れていたことが、本当に起きてしまった。他人の記憶に駆られて、大事なものを…。

 与市は、いくら経っても動こうとしないその体を自分の額に当てた。すると、僅かに開いた口から、ぴう、という細い声が漏れた気がした。はっと手の中のものを見る。口元が微かに動き、やがてその体には温もりが蘇ってくる。

 「とう。おい、大丈夫か、とう。」

 冬哉(とうや)はけっ、けっ、と二、三回鋭い咳をすると、大きく息を吸い込んだ。そして、ようやく、(まぶた)を開ける。
 「うああ…。」
 もし、人の姿()であったら、涙を流して泣いただろう。そんな声だった。
 「俺が…。」
 与市はその濡れたような大きな眼に向かって言った。
 
 「すまない…。」


 今朝早く、万菜(まな)の部屋で聞いた言霊は、真墨(ますみ)からのものであった。
 『宿主は猫でした。治療法を探して下さい。』
 だから、与市は猫に関する記憶を見つけようと、三味線をひいた…。 やがて目の前に繰り広げられたのは、他でもない、自分の師匠の記憶であった。

 他人の記憶を見る、というのは、自分が『その記憶の持ち主』の体に入り込み、その人物になりきっている…と感じることが多い。それは非常にリアルな体験であり、その反面、夢を見ているような感覚である。その夢のような空間の中で、与市は師匠の姿で、師匠の服を着て、今は亡き懐かしい顔ぶれと会話をした。

 そして、ある問題に直面する。

 当時、宿主の退治を担当していた女が、3匹の子猫を持ち帰った。その日処分した宿主は子をはらんだ雌猫で、急いで腹を裂いてみると、4匹中3匹は息があったのだという。
 
 しかし、問題はその中の1匹。
 目の上に、眉毛にも似た、真っ蒼な斑点が浮かんでいたのである。
 明らかに、セジンの影響を受けている。

 師匠は、処分することを女に言い付けた。それは、当たり前の選択だったが、女はその命令に大きく異を唱えた。どうしても、殺せない。人里離れた山奥にでも捨てれば、人的被害はないではないか。その訴えは、分からないではないことだった。篠澤家の面々にとって、猫を殺すのは、人を殺めるのと同じくらい、辛いことである。そして、結果的には、師匠は女の訴えを、受け入れてしまったようだ。ただし、自分が、深山まで捨てに行くことを条件に…。

 この事件のことは、与市もよく覚えている。そう表現するとややこしくなるが、つまり、この事件は与市が子供だったころに起きたことなのだ。それを、今一度、師匠の目線から見つめ直した格好となったのである。

 子猫は殺さない、山奥に捨てるのみとする。

 師匠が出したこの判断を、与市は幼いながらも、甘い…と感じていた。例え人間が住んでいない山奥でも、宿主となった猫が、熊や鳥に噛みつき、セジンが感染したらどうするのか。そしてそれが、人里に下りてきたら、どうなるのか。危険な可能性など色々考えられるではないか。
 
 しかし、師匠はその言葉通り、子猫を抱えて屋敷から出て行った。そして数時間ののち、一人で帰宅した。そして、女に向かって、嘘をついた。 「深山幽谷の、人が足を踏み入れられぬ土地まで行って、捨てて来た」。

 しかし事実は、三十数年後の今日、与市が師匠の記憶を手繰ることで、明らかとなった。

 仔猫を抱えた師匠…与市ともいうべき…は、仔猫を口に咥えてハナチルチを出た。雑木林を抜け、けもの道を通り、この湖へたどり着いた。そして躊躇いながらも、必死の思いで仔猫を絞め、万が一を思って湖に沈める…。
 
 本来であれば、与市はそこからゆっくりと師匠の記憶から分離する。他人と一体となっていても、その指先には、現実世界にある自分の部屋で三味線を弾いている感覚が、持続している。だから、それを頼りに、大きく深呼吸をして、固く閉じていた目を開けば元の自分に戻ることが出来る…はずだった。三味線の弦が切れなければ…。
 師匠の記憶と分離できないまま、突然自分の部屋に引き戻された与市の(かしら)は、振り返った先にぽつんと座っていた冬哉を、いましがた処分したはずの仔猫だと、すっかり思い込んだ。だから、もう一度しっかりと息の根を止めるべく、「冬哉」をさらって、この湖へ来てしまったのだ。

 「()いよう。ここどこ?」

 か細い声で、冬哉が言った。

 「どこが痛い。」
 「全部が痺れてピリピリするよう。うわあ。」
 どこか骨が折れたのかもしれない、内臓を傷つけたかもしれない。恐ろしさに駆られながら、そっと地面に下ろして歩かせてみる。よろよろしているが、幸運にも痺れているだけのようだった。冬哉を苦しめた、あの中途半端な力の入れ方が、結果的に幸運を招いたようである。
 ふるふるっと全身をふるわせて、毛についた雫を飛ばしながら、冬哉が鳴き声を出した。

 「ひどいや…僕何にもしてないのに、与市さん変だよう…。」

 与市は、そんな冬哉の様子から目を離し、湖の向こうに顔をむけた。切れ切れになった雨雲がゆっくりと空を渡っていく。

 「ああ…雨上がりってのは…いいもんだな…。」

 そして、怯えた目でじっと自分を見上げている冬哉に向かって、本当はなァ、誰にも知られたくなかったんだが…と呟いた。
 
 「お前さんの言うとおり、俺は時々、頭ん中がおかしくなるんだい…」
 
 冬哉は、それってさ…と呟いた。

 「したくてしたんじゃないって言いたいの?」
 与市は答えなかった。突き詰めれば、その言葉通り、やりたくてやったことではない。誰にも罪はない。しかし、冬哉にとっては、与市に殺されかけたことは、事実でしかないのだ。三十年前の小さな事件のことを教えても、自分には持って生まれたやっかいな能力があり、それが招いた不祥事だと教えても、結局言い訳にしかならない。

 「ねえ、そうなの?それとも、僕が嫌いになったから?」

 ちがう、と与市はかぶりを振った。髪の先から垂れた雫が、あたりにぱらぱらと舞った。そのうちの一つが湖の水面に落ちて、小さな波紋を作った。

 「それだけは、ちがう。」

 「……。」

 それからしばらく、二人は何も話さなかった。

 やがて、冬哉はくしゅん!と一つ、くしゃみをした。寒い。囲炉裏(いろり)の火にあたりたい。温かい光と、二人のねえやたちと、揚げたてのドーナッツが恋しい。それらの情景は午前中のことなのに、もう何日も前のことのように思われた。(かたわ)らに立つ与市は、何度見上げてみても、疲れた横顔で湖の先を見つめながら、瞬きを繰り返すばかりである。

 「綺麗だね。」

 冬哉は、なんだかどうしようもなくなって、周りの景色を見ながら言った。赤や黄色に色づいた周りの木々がキラキラと光って、一層鮮やかだ。

 「とう、強い雨ってのはな…。」

 与市がようやく、口を開いた。

 「空気中のゴミや、ほこりや、木の葉についた汚れなんかをな、きれいさっぱり洗い流してくれる。すると、こんなふうに美しい景色になる。このことを、『山、洗う』と表現する。」

 「そうなんだ…。」

 「これは俺達しか知らないことだがね、チリやほこりの他にも、雨は汚いもんを洗い流してくれてるんだぞ。」
 「他の汚いものって?」
 「あいつが憎い、どうして俺ばかりこんな目に、あの人が好きで好きでしょうがない、試合に負けて悔しい、金が欲しい子供が欲しい豊作になりますように病気がなおりますように…そんな、どうしようもないような感情の残りかすが、空気中に舞っている。その残りかすは、やがて毒になって、人を人でないものに変えちまう。」

 冬哉はまだ、セジンの存在を知らない。そのため、話に出てきた毒を、いつか自分が取り扱うようになるとは、この時、夢にも思っていなかった。それよりも、話している与市の横顔がたまらなくさびしそうで、そちらの方が嫌だった。

 「ねえ与市さん…僕、もう怒ってないよ。」
 
 金色の目が、ぎょろり、と冬哉を見つめ下ろした。

 「嘘じゃないやい、ほんとだもん。」
 「でも、怖かったろ。殺されるところだったじゃないか、俺に。」
 「ううん、ううん、怖くなかった。ほんと、怖くなかったよ。だから仲直りしようよ。」

 与市はその言葉に目を細めると、そうか、と頷いた。

 「……いいのかね、許して貰っても。酷いことをしたんだぞ。」

 「いいよいいよ。仲直りして、一緒に帰ろう。」

 そう言って、よろよろとバランスを取りながら、冬哉は短い両腕を精いっぱい、上に向かって伸ばした。ピンクの肉球がひらひらしている。与市もまた、僅かに膝を曲げて、冬哉に向かって両手を差し出した。

 その上に、小さくてつややかな、少年の指が、そっと触れる。

 

 けもの道は、本当に、けもの道だった。歩き始めてすぐ、人の姿のままでは、いつまでたっても辿り着かないと諦めた。人間の持つ二本足が、こんなに自然の中で役立たずだとは…。

 そんなことを考えながら、一匹の虎猫が湖へとたどり着いた時、すでに空は晴れ渡っていた。周囲は木から雫が落ちる音で、ざわめいている。万菜の後ろを、黒猫と、白猫がちょろちょろと続く。

 「こんな…。」

 人に戻った万菜は、湖の縁に二人の姿を見つけると、安堵と、怒りと、不安がまざった緊張感でいっぱいになった。それでも一歩一歩、二人近づいて行く。とっくに泥だらけになった草履が、ずぶずぶと地面に埋まる。

 「こんなところで…何してるのよう。」

 手をつないだ二人は、何をかをささやき合いながら、遠くを見つめている。少年が、湖の向こうを指差し、与市がそれに応えている。少年の背丈は小さく、腕をいっぱいに伸ばしても、やっと与市の手先を掴むことしか出来ない。
 
 最初に、万菜の存在に気付いて振り返ったのは、その少年の方だった。クシャクシャした黒髪の、大きな目。

 「あ、万菜さんだ。」
 その言葉に、はっと与市も振り返る。
 「冬哉なの?君が?」
 しかし万菜は、冬哉が元の姿に戻れたことを、のんびり喜ぶような余裕は持たなかった。
 「二人とも、皆で…心配して…」
 「万菜…。」
 与市の表情は夕日の逆光になって、よく見えない。
 「探したの…ずっと…一体何が…っ」
 すまない、という彼の言葉を遮ぎるように、冬哉が迷いなく言い放つ。

 「何にもないよ。二人で虹を見に来ただけ。」

 与市は、驚いたように口を開けて、冬哉を見下ろした。
 その小さな少年は、与市が漏らした『誰にも知られたくなかった』という言葉を、しっかりと聞きとっていたのである。
 
 与市のその表情には、どんな感情があっただろう。

 子供にかばわれてしまったことへの、情けなさか。あるいは、子供の口から飛び出した、大人びた気づかいに驚いたのか…。どちらにしろ、戸惑ったような、泣きだしそうなその顔は、万菜の脳裏に深く残ることと(・・)なった。何故なら、彼がそのような表情を見せたのは、後にも先にも、この時だけだったから…。

 いつの間にか後ろに立っていた青が、ほう、と声を出した。
 「見事だな。」
 確かに、冬哉が言った通り、湖の水面には、大きな虹があった。しかし青は、目線をすぐに少年へと移した。その間、与市は万菜に手をひかれるようにして、屋敷への帰り道へと、歩きだしていた。

 青は、残された冬哉にむかって、おい坊主、と呼びかけた。

 冬哉は首を90度近く傾けて、こちらを見上げている。その身長差に、青は仕方なく、その長い体を曲げられるだけ曲げて屈みこんだ。 そして、ようやく目線を合わせてから、小せえな、とだけ言った。
 「本当に6つか?4つか5つじゃねえのか?」
 冬哉は、ほんとに6つだよ、と言いながら、ぷっと頬を膨らませた。
 「そうか。」
 「…。」
 「悪かったな。」
 すると、突然、その大きな眼から、ぼろぼろっと涙がこぼれ落ちた。
 「どうした。どこか痛いのか。」
 冬哉は黙って首を振る。
 「怖かったのか?」
 しかし、その質問にも、首を振った。
 「…くうぅ…ぅぅ…」
 涙だけが、あとからあとから、流れ落ちる。泣き声を上げるのを、こらえているらしい。みれば、僅かに膝が震えている。やはり、何か怖い思いをしたのかもしれない。そして、その怖かったという感情を、どうやら与市には知られたくないらしい、と青は感づいた。

 しかたなく、青は黙ってその小さな体を抱えあげ、万菜たちを追って、歩きだした。冬哉は青の首に腕を回したまま、しばらく声を出さずに泣いていたが、いつしか、静かな寝息を立て始めた。

 その夜、冬哉(とうや)は熱を出した。
 ようやく屋敷に帰りついてすぐのことで、夕食すら取らなかった。
 
 最初は風邪かと思われたが、喉や鼻の症状はない。大人たちは最終的に、『慣れない環境で二日間、いろいろと大変な目にあったせい』…と結論を出した。万菜(まな)は、あれやこれやと薬草を持ってきて切り刻んで煎じると、ぐずる冬哉に無理やり飲ませ、囲炉裏(いろり)(かたわ)に布団を敷いた。冬哉の部屋をどこにするか決まっていない…ということもあったが、結局はそこが一番温かい。看病をしながらの火番は、責任を感じた与市(よいち)が、おのずから買って出た。

 ちなみに言えば、今回の騒動の被害者は全部で3人。その2人目は、青だ。彼は捜索する際にずぶ濡れとなり、そのせいですっかり風邪をひいてしまった。おまけに、あの歩きにくいけもの道を、冬哉を背負ったまま人の姿()で歩き通したものだから、すっかりまいってしまったらしい。冬哉と同じく、夕食もそこそこに自室へと引き上げようとする背中に向かって、与市は『お前も看てやるから囲炉裏に寝ろ』と提案したが、がんとして聞き入れなかった。
 「やれやれ…。」
 吐き出した煙管(きせる)の煙が、くゆりながら天井へ登っていくのを見ながら、与市は呟いた。
 「なんとも…情けねえないねェ…。」
 もちろん、自分のことである。今日のことは与市自身どうしようもなかったわけだが、屋敷にいる者たち全員をまきこんだことには変わりない。それに、与市には夕べの夜会のことも、いくばくか反省せねばなるまい。結果的に楽しんだとはいえども、冬哉をずいぶん疲れさせてしまったのだから。
 「あーぁ…どうしたもんかね…」
 ぐずぐずした思いが、薄闇に吸い込まれていくのを見ながら、与市は口から煙管を離した。(かしら)をひっくり返して、膝もとにあった灰皿にかつん、と打ちつけると、燃え尽きた揉みタバコが転がり出る。その拍子に、寒さしのぎに来ていた羽織(はおり)が微かな風を起こし、行燈の灯がゆらめいた。それに合わせて、傍で寝ている二人と、囲炉裏の端ですっかり丸くなっている白猫の陰影が、形を変えた。
 与市は、あどけない顔でぐっすりと寝込んでいる冬哉の枕元まで行き、額に手を当ててみた。汗ばんではいるが、熱は下がっている。ほっと胸をなでおろすと、その気配に気づいたのか、冬哉のとなりで寝ていたはずの人物が、むくっと頭を持ち上げた。いてて…と顔をしかめながら、体勢を変えている。
 「起こしましたかね、蝶子(ちょうこ)さん。」
 その問いに、いいや…という返答が帰ってくる。
 「早い時間に寝付いたもんだから、目が覚めただけだよ。」
 彼女こそ、今回の騒動の、最後の被害者である。青たちが捜索に出ることになった時、どうしても一緒に行くと言って聞かなかった万菜の代わりに、蝶子は双子の子守りをすることと(・・)なった。この囲炉裏部屋の床に寝かせたままあやしていた間はまだ良かったのだが、調子に乗って、万菜と同じように二人を同時に抱っこして立ち上がろうとした瞬間、腰のあたりで嫌な音がした。

 「ちょっとちょっと、大丈夫ですかっ!んもう、無理するからでしょ!だから万菜に行くなって言ったのにィ…。」

 慌ててやってきた充に助けられ、なんとかその場に寝かされたものの、それ以来寝返りを打つのがやっとのあり様である。しかし、長年体力とずば抜けた運動神経を自慢として生きて来た彼女としては、その()みうんぬんよりも、腰を痛めたこと自体がショックだったらしい。
 「ああ、酷い…若いとはいえ、万菜はたいしたもんだよ。見た目は小さくて弱そうなのに、二人抱えて平気で走るんだから…。それともあれかね…私は子供持ったことないけど、母親ってのはそういうもんなんだろうか。」
 与市は微笑みながら、曖昧に首を傾ける。
 「さぁて、ね…。俺も出産だけは未経験なもんで…。」
 その答えに、蝶子は声を殺して笑った。
 「あんたと充はその気になりゃあ、産めるような気がするよ…。」
 「とんでもない。俺ァ、そんな根性ありませんねェ。」
 今度は与市が笑って答える。もちろん、根性もへったくれもないわけだが。
 「でもまァ、充ならいけるんじゃありませんか…。」
 夕暮れの薄明かりの中、ドロドロになって帰宅した面々は、囲炉裏の傍で布団をかぶって唸っている蝶子の傍らで、双子を抱き上げたり膝に乗せたり会話してみたりと、楽しそうに赤ん坊をあやしている充を発見することとなった。そして、いつの間にか部屋を覗き込んでいた兄弟たちと目があった瞬間、真っ赤になってまくしたてた。

 「しょ、しょうがないでしょ!他に面倒見る人いないんだから!好きでこんなことしてるわけじゃないのよ、別に!そりゃあ、その、可愛くないわけじゃないけど!?蝶子さん腰痛めちゃったし、ほら、ああ、咲と美也子はまだ家の中探してるしね!それより与市さんどこに行ってたんですか、みんなしてドロドロで…っ!ああ、もう、ええっと。」
 そんなことを叫びながら慌ててタオルやら手ぬぐいやらを大量に出して来て一人一人に投げつけると…投げつけたわけではないだろうが実際そんな感じだった…さっさと自分の部屋に引きあげてしまった。
 「恥ずかしかったんでしょう。充め、普段は澄ました顔してるくせに…。」
 ひとしきり楽しげな表情を浮かべた後、与市はところで…と話題を変えた。
 「昔…先代がまだ生きていたころ、子猫を殺すか殺さないか…っていう事件があった時のこと、覚えていますか。ほら、あなたが、宿主の腹から助け出して来た、あの…」
 すると、蝶子は懐かしそうに、あーぁ、と声を出した。与市が記憶の中でみた、あの「退治担当の若い女」とは他でもない、現役時代の蝶子のことだ。
 「あったねえそんなこと。良く覚えてたもんだね。あんた何歳だったっけ。」
 「十になるか、ならないか…。」
 「ああ、もうそんな昔の話かい。私が歳をとるのも当たり前だよねえ。で、その話がどうしたってんだい、急に…。」
 「ちょっとばかり、思い出しましてね…」
 与市は、そう言葉を濁した。全部話してしまえば、冬哉を殺しかけたことも、ばらさずを得ない。もちろん、皆に全てを話してしまう覚悟は持っていたが、冬哉が必死で自分をかばおうとしてくれた気持ちもまた、捨てたくはない。
 「蝶子さん、あの日連れて帰ってきた3匹のうち、セジンの影響を受けていたのは、1匹だったと思いますが。あとの2匹はどうしたんです…。」
 「あげたよ…仕事先で知り合った奴が、仔猫が欲しいって言ってのを思い出してさ。」
与市は、そうでしたか…と火を見つめながら呟いた。本当に聞きたいのは、ここからだ。
 「お()さんが…先代が、セジンの仔猫を処分するよう言った時、何だってあんなに反対したんですか。ただ単に、可哀そうだったから、ですか。」
 蝶子はさらりとした口調で、そうだよ、と答えた。
 「あの頃は、他の連中にどんどん弟子が…つまりあんたたちが…つき始めた時分だった。なのに、どういうわけだか私にだけ、なかなかその弟子が来なくてねえ。羨ましいやら寂しいやら…。そんな時に起こった事件だったから、ああ、この子がもし自分の弟子だったら…なんて想像しちゃって。そしたら、どうしても殺せなくなってね。考えが青かったんだよきっと。」
 そう話しながら、仰向けになって天井を見つめる瞳は、ここでない、どこか遠くを見ているようだ。
 「それなのにさァ、やっと弟子が出来たと思ったら、無愛想だし役立たずだし、まったく…。」
 そして、分かってんのかね、あんたのことだよ…と、丸くなっていた寛治の背中に向かって、悪態をつく。しかし、彼の耳はとう(・・)の昔に、師匠の小言など聞き流すように進化してしまったらしい。面倒臭そうに薄眼を開けた後、大きな欠伸を一つして、再び眠りこんでしまった。
 「そう言えばあの猫、(すい)さんは結局どうしたんだろう。」
 彗、とは先代の本名である。
 「深くは聞かなかったけど、私が頼んだ通り、山奥に行って捨てて来たって言ってたけど…。」
 「実は、それなんですがね。お師さん、どうも蝶子さんには嘘をついちまったようで…本当は、自分で処分したようなんですよ。」
 与市が、ほろりと真実を漏らした。蝶子は、特別驚きもしなかった。相変わらず天井を見たまま髪をかきあげると、やっぱりねえ、と呟いた。
 「そんな気はしてたんだよね…彗さんはそういう人だったから。大人しくて、優しくて弱いくせに、強がりで。」
 与市はもう一度刻みタバコを煙管に詰め、マッチを擦って火をつけた。微かなリンの香りが辺りに漂う。
 「懐かしい…もう一回みんなに会いたいねえ。なんで私一人だけになっちゃったんだろ。」
 「寂しいですか?」
 寂しくなんかないよ、と蝶子は笑って答える。
 「寂しいなんて思ってられないくらい忙しいんだよ、こう見えても!あんたたちは幾つになっても頼りないし、若い連中はまだまだ手がかかるし、赤ん坊は生まれるし、こうやって新しい弟子が増えるしさ、老骨に鞭うって生きてるんだよ、感謝しなっ」
 「そりゃあもう…感謝し尽くして心には何も残ってないやい。」
 どうだか…と、横目で冬哉の顔を見ながら、再び蝶子は笑った。そしてしばしの沈黙のうち、冬哉や感じと同じく、静かな寝息を立て始める…。再び、秋の夜が静かに深くなっていくのを、与市1人が、じっと味わうこととなった。

 こうして冬哉の、長くて忙しい、宴のような篠澤家での初日が、終わりを告げた。



 青と冬哉(とうや)がハナチルチに入ったとき、すでに雨はあがっていた。見上げると、真っ黒な触手のような木々の間に、星が瞬いている。冬哉は猫耳フードを指でつまんで(かしら)から外したが、木の葉から滴り落ちてくる水滴の量が多いので、結局またかぶりなおした。

 「与市(よいち)さんがな。」
 かぶっていた番傘をたたみながら、青が言った。
 「初仕事の記念に、お前の好きな食いもんを用意してるらしい」
 「え、本当?」

 冬哉は思わず浮足立ったが、泥に足を取られそうになったので、やめた。

 「なんだろ、目玉焼きかな。」
 「そりゃ、ないだろ…。」
 青は唸るように言った。確かに冬哉は卵が好きだが、もう少しましなものが出てきてもいいだろう。
  「じゃあ、まぐろ!」
 青は口の端に煙草を咥えながら、まぐろか、と小さく言う。
 「あの人なら、市場に行って丸ごと1匹買ってくるぞ…。」
  しゅっと軽い音がして、一瞬だけ辺りが明るくなる。青は、使い終わったマッチの残り火を手首で降り消した。
 
 「お前…」

 冬哉はその言葉に、4年たってもなかなか背が追いつきそうもない()匠の頭を見上げた。色の違う三白眼が、じっとこちらを見下ろしている。
 「与市さんのこと好きか。」
 青が口を動かすと、暗闇にポツッと灯った赤い点もまた、微かに揺れる。冬哉は、うん、と答えた。そのことに、嘘はない。

 「そうか…ならいい。」

 与市は実際に、本当に自分を可愛がってくれている。山のこと、旅のこと、してはいけないこと、青が小さかった時のこと…たくさん話してくれる。もちろん、四年前の事件ののちも時折、不思議なことを話すことがあった。行ったことがあるはずのない土地のこと、知っているはずがない知識、ずっと昔この土地に生きていた人のこと。万菜(まな)は心配こそしているけれど、以前ほどは驚かなくなった。冬哉も、そんな時は、じっとその話しを聞くことにしている。すると、なんだか、物語を語って貰っているような気分になれるからだ。

 「あ、もちろんお師匠さまも好きー。」
 「いいんだ俺のことは。」
 吐き捨てるように、そんな答えが返ってくる。照れてるんだきっと。冬哉はこんな時、笑いたいのをじっと堪える。

 やがて二人がハナチルチへ入ると、屋敷の中から、オレンジ色の温かい光が漏れているのが目に入った。玄関をくぐると、待ち構えたようにぱらぱらという小さな足音が二つ、駆け寄ってくる。

 「あお!あお!おかえり!」
 
 「兄や(にい )も!おかえり…」

 口々に高い声でそう話すのは、寿々(すず)ことら(・・・)だ。冬哉が初めてここに来た時は、まだほんの赤ん坊だったが、もうすぐ4つになる。寿々はオレンジの着物、ことらは紫の甚平。二卵性なので顔は同じだが、おっとりとした口調や顔つきは万菜さんに、ふわふわの髪の毛と怖いものなしで好奇心が強いところは、与市さんによく似ている。二人はこの屋敷の中で、「朝、みんなを起こす係」と「行ってらっしゃいとお帰りなさいを言う係」をつとめている。係の命名をしたのは、もちろん万菜だ。
 「あーお、高い高い…」
 寿々が先に、靴を脱いだばかりの青の右足に抱きつく。負けじとことらも左足に抱きついた。
 「だあめ、ことらが先…。」
 青は持っていたトランクを黙って冬哉にあずけると、片手に一人ずつ、肩の高さまでひょいと抱えあげた。きゃあきゃあと笑い声が響く。二人とも、なんだかんだで相手をしてくれるこの強面の人物に、すっかり懐いている。
 「あお、高い―。」
 「高いねえー。」
 冬哉は囲炉裏(いろり)部屋に向かって廊下を進む青の後ろを、重いトランクを抱えてついて行く。

 「兄やちっちゃーい。」

 双子が青の肩からこちらを見下ろして、言った。
 「うるさいな、もう。」
 自分たちだって小さいくせに。僕だってもうすぐ身長伸びるんだから、きっと。

 「兄やー、あのねえ。ご飯にねえ、ままろ(・・・)あるよう。」
 「とと(・・)がねェ、買ったんだよう。」
 「すっごくねぇ、おっちいんだよう。」
 「かぁか(・・・)にね、怒られたんだよう。」

 そして二人は顔を見合わせると、声をそろえて『ねー』と言った。
 とと、とはもちろん与市のことで、かぁかは万菜で、ままろはまぐろだ。つまり、青と冬哉の予想は、大当たりだったようである。やがて、囲炉裏部屋の中から、こんなでかいのどうやって捌くんだい私にゃ無理だよ…と困り果てた蝶子(ちょうこ)の怒声が聞こえて来た。

 冬哉は青を追いこし、トランクを部屋の入口に置くと、走って中へ駆け込んだ。そこには、俺に任せろと言わんばかりに大きな刺身包丁を背負った与市の後ろ姿()がある。

 冬哉はその背中に向かって、ただいま、と大きく叫んだ。

雨の降る日に、猫は鳴く vol,3 「山、洗う」

雨の降る日に、猫は鳴く vol,3 「山、洗う」

  • 小説
  • 長編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-16

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