10代の終活
高校生であれば、自分が死ぬ事を考えることがほとんどないでしょう。まだ、高校生なのに自分の命の期限を悟るとどういう行動をするのか。自分だったらと考えることはむずかしいけれど、少しでも考えてみて、命の大切さを考えるようになれば幸いです。チャプターを付けてみました。少しでも読みやすくなっていればと思います。
高校初めての夏休みの悲劇
高校に入学してから初めての夏休みが始まった。一学期の終わりに、西口まどかは同級生と夏休みに夏祭りに行く約束をしていた。修了式が始まる直前の休み時間に自分の席の後ろに座っている野崎美和と話し合っていた。
「家の近所で、夏祭りやるんだけど、一緒に行こうよ」
美和が、まどかに催促するように、その背中に話しかけてきた。まどかはクルリと身軽に振り向いた。
「良いね。面白そうじゃない」
「でしょう?7月の終わりにやるんだ」
美和は興奮して、いつの間にか身を乗り出していた。この夏祭りは、毎年恒例となっており、美和にとっては恒例行事となっていた。子供のころは両親や兄弟と行っていたが、中学に入ってからは同級生と行くようになっていた。今年は、中学時代の同級生たちと高校の友達を連れて行こうと決めていたのだった。
「いろんな屋台が出るんだよ。私は、焼きそばが一番好きなんだ」
「お腹空いてきたよ。食べ物の話なんてするから」
本当にまどかはお腹が空いてきていた。美和にはわからないように、自分の胃のあたりを押さえてお腹が鳴らないように力を入れていたのだった。これでお腹が鳴らないようになるかどうかはまどかにはわからなかったのだが、何かしないと大きな音が鳴り響いてしまうような気がしていたのだった。幸い、お腹の音がしなかったので、効果があったんじゃないかとまどかは思った。
「夏祭りがあるって、良いね。家の近所じゃやらないから」
まどかの町内には、小さな公園しかなく、夏祭りはやらないのだ。小規模な盆踊りはあるが、あまり人が来ないので、いつの間にか終わっている状態がここ数年続いている。
「そっかぁ。じゃ、楽しみにしなよ。大々的にやるから」
美和がまどかに顔を近付けた。口角を上げて何にかを期待しているかのような笑みを浮かべている。
「何、にやけてるのよ」
「船井君、誘っておくから」
船井君とは、同級生でまどかが片思いをしている男子だ。船井和也は、目立っているというわけではないのだが、誰にでも優しく、女子にはかなり人気がある。まどか以外の女子も船井に想いを寄せている。
「え、船井君を呼ぶの?」
「告白しちゃいなよ。早くしないと、誰かに取られちゃうよ」
からかいながら美和が言った。まどかは、顔をほんのり赤らめて、美和から視線を逸らした。窓際の席にいるまどかは、廊下側の席に座っている船井をチラッとだけ見た。船井は、前の席の岩村と楽しそうにしゃべっていた。
「まどか。夏祭りでは、ちゃんとやるんだよ」
「な、何をちゃんとやるのよ」
まどかは、美和をちゃんと見ることができず、うつむいた。
「告白、しなよ」
美和は、まどかの耳元で囁いた。
夏祭り当日、まどかは美和と一緒に夏休みの初日に近所のスーパーで購入した浴衣を母親に着付けてもらった。これまで、まどかは浴衣を着たことがほとんどない。小学生の時に、近所の公園で行われた盆踊りの時に一度だけ着たことがあるだけだ。ひさしぶりに着る浴衣は、少々きつい。
「浴衣って、きついの?」
「ちょっとくらい我慢しなさい。ゆるくするとはだけちゃうわよ」
姿見の前にまどかは立ち、くるりとその場で一回転してみた。ピンク色が鮮やかな花柄の浴衣は、ちょっとかわいすぎたんじゃないかって思っていた。美和がピンクのこの浴衣が絶対に良いと勧めてきたのだった。かわいすぎると何度も言ってはみたものの、船井が喜ぶだろうと言われて買ってしまったのだった。
自室はさすがに狭いようで、浴衣の袖が少し母親にぶつかった。
「良いじゃないの。かわいくて」
母親は、満足そうにまどかを後ろから眺めていた。姿見に移るまどかをまどかの肩越しに見ている。
「そうかな。ちょっと幼い感じもするけど」
「何言ってるのよ。まだ、若いんだから、ちょうどいいくらいよ」
しかし、まどかは姿見に写る自分の浴衣姿を見ながら首を傾げた。
「似合ってるのかなあ」
「似合ってるわよ」
母親は、ニコニコしながらまどかの後ろすをじっと見つめていた。
自分の部屋に掛かっている時計に目をやると、まどかは慌てて浴衣に合わせたピンク色の小さな巾着を持った。
「もう行かなくちゃ。じゃ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
大慌てでまどかは階段をころびそうになりながら、慣れない浴衣姿で玄関へたどり着いた。すでに母親が用意していた赤い鼻緒の草履を履いた。慣れないせいか、親指の股の部分が痛かった。しかし、我慢してそのまま早歩きで駅へと向かった。
待ち合わせの駅に着くと、すでに他のメンバーはすでに揃っていた。
「まどか、待ってたよ」
美和が笑顔で手を振った。そのすぐ近くには、船井がいる。まどかは驚いて、すぐに美和から目を逸らした。しかし、不自然だと思い、また、すぐに美和を見た。
「ごめん、待った?浴衣を着るのに時間がかかっちゃったよ」
「まどか、浴衣、よく似合ってるよ。やっぱり、ピンクで良かったんだよ」
「女子の浴衣姿って、やっぱ良いよな」
船井が、浴衣姿の女子をじろじろと見ている。
まどかが、胃の辺りをさすり始めた。顔色もあまりよくないことに、美和が気付いた。まどかの額には、かなりの汗が見える。
「まどか、どこか悪いの?」
「なんだか、胃の辺りが痛くなってきちゃって」
かなり気分が悪いまどかは、ずっと下を向いていた。
「帯、きついんじゃないの」
そう言うと、美和はまどかの帯を少し弛めようとした。
「でも、あまり帯を弛めちゃうと、はだけるかもしれないし」
「でも、すごく具合が悪そうだよ。少しだけ弛めたほうがいいんじゃない」
美和は、人気のない場所がないかと辺りを見渡した。駅から少し離れたところにある自動販売機の辺りには全く人がいない。まどかを連れてその自動販売機へと歩き出した。まどかは、ずっと胃の辺りをさすり続けている。
自動販売機の脇に来ると、美和は手際よく帯を少しだけ弛めた。幸い、浴衣ははだけなかった。
「まどか、今日はもう帰った方が良いんじゃないかな。すごくつらそうだし。私、家まで送るからさ」
「でも、せっかくの夏祭りだし」
「無理しない方が良いって。また、今度、遊ぼうよ、ね」
美和に説得されて、まどかは渋々家に帰ることにした。
船井たちが集まっている場所に戻ると、美和が事情を簡単に説明した。まどかを送ったら、急いで美和が戻ることになった。まどかが一人で帰れると言ったのだが、美和が押しきって一緒に帰ることになった。
電車に乗ると、空いていたので、二人並んで座った。まどかは、まだ、胃をさすっている。心配そうな顔で、美和がそれを見ている。冷房の利いた車内だったので、美和はなるべくまどかにぴったりとくっつくようにした。
「大丈夫?顔色悪いよ」
美和は、まどかの腕をさすっていた。決して、まどかの腕が冷たいわけではなかったのだが、何もしないわけにはいかなかった。
「うん、あんまり良くないかも。なんだか、胃が痛くて」
「医者に行った方が良いんじゃないの」
医者という言葉に、まどかは驚いた。目を丸くして、美和の顔をじっと見つめた。
「医者って、ちょっと大袈裟じゃない」
「こんなに苦しんでいるんじゃない。後で医者に行った方が良いよ」
胃の辺りをさするのを止めて、まどかは冷静になろうとした。今日、これから医者に行くべきかどうか。胃の痛みがだんだんと和らいできたので、むしろ、夏祭りにこれから向かっても良いんじゃないかとさえ考えている。
「もう、痛みも良くなってきたし、やっぱり夏祭りに行こうかな」
「ダメよ。医者に行った方が良いって、ね」
美和は、力強く言った。まどかの背中を軽くさすっている。直射日光が美和の手の甲に当たっていて、暑く感じながらも美和はその手を止めなかった。
まどかの胃の痛みは、すでに落ち着いている。
「私、一人で大丈夫だからさ。美和は、もう夏祭りに戻って良いよ」
背筋を伸ばしてまどかは美和に笑顔を見せた。美和も笑顔で返事をした。
「そっか。もう大丈夫なら、夏祭りに戻るね。あ、医者には行った方が良いよ」
電車は、ゆっくりと次の駅に滑り込んだ。美和は完全に停車するちょっと前に立ち上がろうとするが、慣れていない草履によろめいてしまった。それを見ていたまどかが声を出して笑った。
「私が送って行った方が良いかもね」
「笑うな!じゃ、またね。お大事に」
電車が駅に到着し、ドアが開くと美和はたどたどしい歩き方で電車を降りると、窓越しにまどかを見た。ずっと目で美和を追っていたまどかと目が合うと、自然と二人に笑みがこぼれた。
電車のドアが閉まり、ゆっくりと動き出すと、二人同時に手を振った。すぐに姿が見えなくなった。
一人になったまどかは、もう一度、静かに胃の辺りをさわった。特に、痛みは感じなかった。
まどかは家に帰っても医者には行かなかった。母親にどうしたのかを聞かれても、ちょっと気分が悪いからと言い、浴衣を脱いで、ベッドに横たわった。楽しみにしていた夏祭りに行けず、片想いの船井とも近付けなかったことをぐるぐると頭の中で考えてばかりいた。
夏祭りの夜、美和から写メールが送られてきた。美和や船井たちが楽しそうに寄り添い、焼そばを持っていたり、綿菓子を持っている。ベッドに座って見ていたが、すぐに携帯電話を閉じると枕元に置き、頬を伝う涙をティッシュで押さえた。
その夜は、なかなか寝付くことができなかった。しかし、携帯電話を見ることはなかった。布団を頭まで被り、寝ようと必死になっているところに携帯電話が鳴った。美和だった。
「もしもし」
気だるそうな声しかまどかは、出せなかった。
「あ、まどか。どう、具合は」
「なんともない」
寝ていないはずなのに、寝起きのような声だった。
「医者には行ったの?」
まどかは、上体を起こして壁を背にもたれかかった。
「もう体調が良くなったから、行かなかったんだ」
「大丈夫なの?あんなにつらそうな顔してたのに」
美和は、強い口調に自然となっていた。やはり、美和も自分の部屋で電話をしている。机に向かい、まどかと一緒に撮った写真が入ったアルバムを何となく見ている。
「心配しすぎだって。もう平気なんだから。それに、夏祭りに行っても大丈夫だったよ」
「本当なの?でも、すごく体調悪そうだったし、無理しちゃダメだよ」
美和は、アルバムをパラパラとめくっていた。元気そうな美和とまどかがそこにはいた。
突然の宣告
次の日、まどかは母親に8時頃に起こされたのだが、どうも体がだるかった。起きようと思えず、母親が部屋から出ると、また、布団にもぐってしまった。なかなかまどかがリビングに来ないので、8時30分頃にもう一度、まどかを起こしに行った。まどかは布団を頭まですっぽりとかぶっていた。怒った母親は、まどかの掛け布団を思いきってはぐった。
「いい加減に起きなさい。朝食が冷めるでしょう」
母親の声は興奮していた。まどかにもそれがわかったのだが、体がだるくて起きることが辛い。
「だるいよ。もう少し寝かせて」
「だるいの?」
顔色を変えた母親は、布団からちょっとだけ顔を出しているまどかの額に手を当てた。手から伝わる温度に母親は驚いた。
「体温計持ってくるわね」
血相を変えて、母親がリビングにあるテレビの横の棚から体温計を出すと、急いでまどかの体温を測った。ピピピと言う電子音がするとまどかが自分で体温を確かめた。
「え、40度」
その体温計を母親がまどかから強引に取ると数字を確認した。確かに、そこには40度と書いてある。
「あら、大変。氷枕持ってこなくちゃ。後でお医者さんにも行かないとね」
「医者なんて行かなくても大丈夫だよ。今日、一日寝てれば熱なんて下がるから」
高熱でうまく体を動かすことができないながらも、何とかまどかは布団に潜った。枕に頭を乗せると、すぐに、目を瞑った。
「そんなこと言って。40度もあるのよ」
「もうだるくて動きたくないよ。ちょっと眠らせて」
仕方なく母親は、まどかのために氷枕と冷却シートを取りに行った。
かなり体がだるいまどかは、呼吸を乱しながらも眠りに着こうとしていた。しかし、すぐに母親がまどかの部屋に戻ってきた。急いで作った氷枕をまどかの頭の下に敷いて、まどかに冷却シートを渡した。すぐにまどかは額に冷却シートを貼った。
「食欲はあるの?」
「食べたくない」
「でも、食べないと体力付かないから、おかゆでも作るわね」
母親は、すぐに台所へ行き、おかゆを作り始めた。
布団に潜り込み、まどかは静かに目を閉じた。すると、すんなり眠りに落ちた。
しばらくして無理やりおかゆを食べ終えると、母親がお昼からで良いから医者に連れて行くと行った。まどかは全く乗り気ではなかったのだが、反論しようという気持ちにもなれなかったので、しぶしぶではあるが、近所の内科へ行くことにした。
それまで、まどかは眠ることにした。
母親が部屋を出て行き、一人になった。とても静かな部屋の中で聞こえる音は、時計の秒針とたまに外から聞こえる小学生くらいの子供の楽しそうな声だけだった。
すんなり眠れるかと思ったけれど、今度はなかなか寝付けない。さっきまでは全く気にならなかった音が妙に気になるのだ。まどかは目を閉じて眠ろうとした。
机の上に置いておいた携帯電話が鳴った。メールが着たようだ。
だるい、重い体を何とか起こして携帯電話をほとんど無意識に開いた。美和からのメールだった。そこには、体調はどうかと書いてあった。かわいい絵文字も書いてある。おもしろい絵文字もあり、まどかはクスリと笑った。
すぐに、熱があると簡単な文面を打って返信した。
机に携帯電話を開いたまま置いて、すぐにベッドに戻った。いつもなら簡単に布団に潜り込めるだが、今日は違った。体がうまく動かない。それでも何とか足をあげて、体を布団に押し込むようにして横になった。横になると、とても体が楽になった。
すぐに目を閉じたのだが、やはり寝付けない。今度は美和からの返信が気になるのだ。どんなことを返信してくるのかと思うと寝付けないのだった。
返信は、5分もたたずに着た。
重たい体をベッドから起こして、倒れ込むように机にしがみつきながら携帯電話を見た。やはり、美和からの返信だった。とても心配しており、ゆっくりと寝た方が良いと書いてあった。そして、もう返信はしなくていいとまで書いてあった。美和なりの気遣いをまどかは感じた。その言葉に甘えてベッドに何とか潜り込むと、ようやくぐっすりと眠れた。
午後になり、医者が午後の診療を始める3時になると、母親が部屋に入ってきた。
「そろそろ医者に行くから、着替えておきなさい」
「わかった」
まどかはゆっくりと起き上がり、Tシャツとひざくらいの丈のパンツに着替えた。どれにするかを考えることもなく、一番上にあったものを着ただけだった。
着替え終わると部屋から出て、母親のいるリビングに行った。すると、すでに母親はすぐに出掛けられるように身支度を済ませていた。
「じゃ、行くわよ」
まどかは、母親の後をついて行った。熱のせいで何も考えることなく、靴を履き、母親が先に外へ出て、まどかがふらつきながら外へ出ると、母親が鍵を閉めて、医者へ向かった。家から一番近い医者へ行った。
そこは清潔感のある小さな内科だった。中に入ると意外と多くの子供が待合室で待っていた。母親が受付に行っている間に、まどかは空いている席に座った。小さな子供がはしゃぐ声が待合室に響き渡っている。受付を済ませた母親が問診票を持ってきた。まどかは自分でこれまでの体調の変化を考えながら記入した。記入が終わると、母親が受付に渡しに行った。
順番に呼ばれ、しばらくしてようやくまどかの番がきた。まどかは母親に掴まりながら診察室に入った。入り口の右側にあるかごに荷物を置いて、丸い椅子にまどかが座った。母親は、その隣にある椅子に座った。
医者が、まどかが書いた問診票を見ている。少し考えながら、診察をした。すぐに熱がはかれる体温計で熱を計ったり、胸の音を聞いたりした。診察が終わると、医者は紹介状を書くから大きな病院へ行くようにと言った。まどかは母親と目を合わせた。二人とも息を飲んだ。何か大きな病気を患っていると二人とも感じた。
すぐに家に帰ると、まどかは横になった。
翌日は、朝から近所にある大学病院へ行くことになった。まどかは8時半の病院が診察を受け付ける時間に間に合うように夏休みではあるが早めに起きて準備をすることになった。まだ、熱が下がっておらず、だるく重たい体を無理やり動かしていた。パジャマから洋服に着替えるのも楽ではない。汗がへばりついて脱ぎにくいパジャマをベッドの上で腕を上手く動かして脱いで、Tシャツとショートパンツを履いた。顔を洗って、すぐにリビングで朝食を済ませると、そのままリビングにいた。とても体がだるく、病院に行くまで座っていることにしたのだ。
具合の悪そうなまどかを横目で見ては、母親はため息を飲み込んだ。
母親の支度も終わり、そろそろ大学病院へ行く時間となった。まどかは、ふらつきながら立ち上がり、母親の後を頼りなくついていった。幸いにも、まどかの家から大学病院までは歩いて行くことができる。ゆっくりとまどかは母親と並んで歩いた。夏の日射しが体力を奪っていく。
大学病院に着くと、まどかは込み合っている待合室のソファーに座り、母親が受付で紹介状をスタッフに渡した。問診票を渡されると、すぐにまどかのところへ行き、問診票をまどかに渡した。まどかは黙って問診票に記入した。記入が終わると母親が受付へ持っていき、今度は外科へ行くことになった。
「まどか、大丈夫なの。辛いのなら、看護師さんに言ってくるけど」
「大丈夫、座っていれば楽だから」
しばらく、外科の待合室で待つことになった。まどかは、ほとんど眠りながら待った。どれくらい時間が経ったのかはわからないが、かなり待ってから、ようやくまどかの順番が来た。診察室に入ると、中年男性の医者が問診票を見ながら挨拶をした。ふらつくまどかは母親に支えられながら椅子に座った。隣の椅子に座った。問診票のことを聞かれると、まどかはここ最近の体調を振り返りながら説明した。医者は、まどかの話をじっと聞いていた。話が終わると、医者はまどかにいろいろな検査をするように指示をした。
外科を後にすると、病院内を回って複数の検査をした。全ての検査が終わると治療代を支払った。支払い待ちの人が大勢いた。ここまで大学病院には人が集まってくることにまどかは驚いた。大勢の人がソファーに座っており、何とか空いている場所を見つけて座った。また、検査結果を聞きに来るわけだから、また、こうやって支払い待ちをするのだと思うとまどかは気が遠くなった。
支払いを済ませると、自宅近くの薬局へ行き、熱を下げるための薬をもらった。
ようやく家に帰ると、まどかはすぐに自室へ行き、ベッドに横たわった。着替えることもなく、掛け布団をかけることもなく、ベッドに横たわった。何もする気が起きないのだ。まどかはそのまま眠りに落ちようとしていた。
そこへ母親が薬を持ってきた。ベッドに苦しそうに横たわっているまどかを見て、母親は急いで薬と水を机に置き、まどかを着替えさせた。パジャマに着替えさせると、ベッドにちゃんと寝かせた。今度は、肩まで掛け布団をかけている。
「薬、持ってきたわよ。早く飲んでおきなさい」
ベッドに横たわっているまどかを少しだけ上体を起こして、薬を飲ませた。
「薬が聞いたら、少しは楽になると思うから。夕食まで、ゆっくり寝ていなさい」
まどかは返事もできなかった。なんとなく軽く頷いた。母親はそれをまどかの返事と受け止めて、部屋を出た。
熱冷ましのおかげか、大分楽になった。この一週間は、ずっとベッドで寝ていたまどかだった。大学病院へ行き、今日は検査結果を聞くことになっている。朝食を早めに済ませると、母親と一緒に大学病院へ行った。もう熱が下がっていることもあって楽に歩ける。母親に支えてもらうことはなかった。
大学病院へ着くと、やはり混雑していた。予約を取っているので受付には行かずにそのまま外科の受付に行った。予約を取っていても、それからかなり待たされた。混んでいるところを何とか無理やり座った。まどかと母親はひそひそと待合室の混雑ぶりを話した。
「いつもこんなに混んでいるんだね」
「本当に、びっくりするわね」
「さすがに、私くらいの年の人はいないんだね」
まどかは、待合室を見渡した。さすがに10代らしき人はおらず、若くても20代くらいの男性が一人いるくらいで、ほとんどは中高年だった。
「今日は平日だから、仕方がないわよ」
母親に言われると、自分だけ大学病院にいることが妙なことのような気がしてきたのだった。
自分の順番が回って来たので、診察室に母親と二人で入った。
「おはようございます。どうぞ、おかけください」
先日と同じ医者だった。言われた通りに二人並んで椅子に座った。
医者は、あまり顔色を変えることなくまどかの体調について聞いてきた。薬を飲んでからは調子が良いと伝えると、医者はうんと1つ頷いた。
「そうですか。実は、ちょっと入院してもらう必要があるんですよ。今日は、このあと、このまま入院してもらいます」
入院という単語を聞いて、まどかも母親も驚いた。それほどの病気を患っているのだと思うと不安になった。
「どんな病気何ですか」
母親が聞くと、後で別室で詳しく話すと言われた。
診察が終わると、まどかと母親は看護師に案内されて、入院することになった。そのまま病室に行き、大部屋の窓側のベッドがまどかのベッドとなった。
「西口まどかさんです。今日から入院されますので、皆さん、よろしくお願いしますね」
看護師から病室にいる人に挨拶がされた。まどかは、まだ、自分が入院することが信じられない。まどかのベッドの隣のベッドには同じくらいの年齢の女の子が入院していた。まどかは、看護師が自分の紹介を聞き、軽く頭を下げた。
「西口です。よろしくお願いします」
照れくさそうに言うと、ベッドに荷物を置いた。チラッと隣のベッドを見ると、隣の女の子はニコッとしてくれた。
カーテンを閉じて着替えると、すぐにカーテンを開けた。少し眩しく感じた。まどかは、一瞬、面食らった。ベッドに座る横には、母親がいて、椅子に座っている。
母親が帰った後、まどかは、ベッドに横になろうとした。
「私、木内奈津子。よろしくね」
隣のベッドの女の子が、まどかに話しかけてきた。ニコッとまどかの方を見ている。まどかは、ぎこちない笑顔でそちらを見た。
「私は」
「さっき看護師さんから聞いた。西口まどかさんでしょ」
クスッと奈津子は笑った。まどかは、苦笑いを浮かべた。
「入院するのって、初めて?」
「うん、初めて」
「そっか。まあ、何かわからないことがあったら何でも聞いてね」
頼もしい奈津子に、まどかはリードされていた。何でもと言う言葉から、奈津子は入院にある程度慣れているようにまどかは感じた。
「うん。わかった」
まどかは、人見知りをしてしまう正格で、すぐに奈津子と打ち解けるとまでは行かなかった。たどたどしいまどかに、奈津子は少し休んだ方が良いと言った。まどかは、軽く返事をすると横になった。
まどかの母親はまどかの父親と共にカンファレンス室へと向かっていた。まどかの父親は有給休暇を使って病院へやってきた。
「わざわざ俺たちを呼び出すんだから、何か重い病気にでもなっているんだろうか」
人気のない廊下をまどかの両親が歩いている。カンファレンス室までの道は病室がないせいか、とても静かだ。父親も母親も不安げな表情をしている。しかし、最悪な病気ではないことを心のどこかで願っていた。
「まだ、未成年だし、まずは両親と話しをするだけかもしれないわよ」
「それもそうだな」
お互いに、心を落ちつかせることに努めた。
カンファレンス室につき、ノックをすると、ドアが開いた。看護師がドアの側にいて、椅子を勧められた。テーブルの反対側にはまどかを診た医者が座っている。緊張しつつもまどかの両親は座った。すると、すぐに医者の口が開く。
「お忙しいところをすみません。実は、娘さんの病気のことをご両親に伝えたいと思いまして」
医者は、真剣な表情をしている。むしろ青ざめた表情をしているくらいだ。
「まどかは、何か深刻な病気なんでしょうか」
たまらず、母親が医者に問いただした。
「まどかさんの病気は、胃ガンです」
すると、医者はまどかのレントゲンを取り出した。胃のあたりに影がある。
「これがガンです」
医者は影の部分を指差した。両親にも影がはっきりと見える。
「手術すれば、治るんですよね」
まどかの父親が医者を凝視した。その視線に耐えられず、医者は視線をはずす。
「実は、まどかさんの胃ガンはスキルス胃ガンと言って、とても進行の早いガンです。すでに、転移をしており、手術をしてもガンを取り除くことはできません」
「と言うことは、もう助からないと言うことなんですか」
青ざめた父親の横で、母親がハンカチを急いでバッグから取り出し、目に当てた。
「残念ですが」
「そうですか。後、どのくらい生きられるんですか」
声を詰まらせながら、父親は拳を握った。
「後、そうですね。3ヶ月くらいでしょう」
「まどか」
母親は、顔全体をハンカチで覆った。そして、声を出して泣いた。
「そこで、病気のことをまどかさんに伝えますか」
「伝えないでください。まだ、あの子は16歳なんですよ。まだまだ、これからやりたい事だっていっぱいあるのに。なのに、後少しの命だって知ったら、あの子どうなってしまうかわかりません」
父親が母親の背中をさすった。すると、母親の興奮が少しずつやわらいでいく。
「わかりました。病気のことは伝えないでおきましょう。胃潰瘍と言うことにしておきます」
医者からは、病気について詳しい説明を受けたはずだが、まどかの両親の耳にはほとんど入らなかった。
説明を聞き終わると、まどかの両親は、まどかの病室に寄ることなく、そのまま家路に着いた。
知りたくなかった真実
まどかは、昼間だというのに、ぐっすりとベッドで眠っていた。隣のベッドの奈津子がまどかの名札をじっと見ていた。すると、突然、まどかが目を覚ました。まどかのベッドの真横にいる奈津子にすぐに気がついた。
「16才って言うことは、高校二年生?」
「一年生。先月、誕生日が来たから」
「じゃあ、同い年だね。私は、まだ誕生日が来てないけど」
まどかはゆっくりと起き上がった。奈津子は、自分のベッドに座った。そして、ふいに窓の外に目を向ける。
「入院、初めてなんだよね」
「うん、そうだよ。もう、早く退院したいよ」
まどかは、布団に拳を下ろした。むくれた顔をしている。そして、ひとつため息をついた。
「今、夏休みでしょ。いつも、何してたの」
「この間、夏祭りに行くはずだったんだ。だけど、体調を崩しちゃって、予定も何も消化しないうちに入院だもん。せっかくの夏休みなのに、退屈。そう思わない?」
愚痴をこぼして奈津子を見ると、うつむいて今にも泣きそうな顔をしていた。
「やだ、私、何か変なこと言った?」
「ううん、大丈夫。何でもないから」
しかし、奈津子はまどかと目を合わせようとはせず、ベッドに潜り込んでしまった。しかも、まどかに背を向けた。まどかは、その背中に向かって何かを言いかけた。しかし、声を出そうと思っても肝心の声が出なかった。その方が良いのかもしれないと思い、まどかは静かに窓の外を見た。
「あ」
窓の外には、まどかの両親がいた。これから、まどかの見舞いに来るところだった。今日は、土曜日と言うこともあって、まどかの父親も珍しく見舞いに来たのだった。ひさしぶりの父親の姿に、ちょっと妙な感じがしていた。
まどかは、静かに両親が自分のところへ来るのを待つことにした。
しかし、10分以上たつと言うのに、まどかの両親は現れない。じっと、病室の入り口を見ているのだが、足音すら聞こえてはこない。おかしいと思い、まどかは病室を出て、両親を探しに行くことにした。
まどかの母親は、ほとんど毎日、見舞いに来ているのだが、一日だけ来なかった日があった。それは、まどかの病気のことを知った日だった。次の日に母親が来た時に、なぜ、昨日は来なかったのかを聞いたのだが、めまいがして行けなかったと言われていた。だから、今度もまた、母親がめまいを起こしているんじゃないかと、まどかは急に心配になったのだった。
まどかの両親は、まどかの病室のある3階に来ていた。しかし、まどかの病室へ行こうとした時に、急に先日、医者に言われたことを思い出してしまった。
「ねえ、私、耐えられない」
「どうしたんだよ、急に」
母親は、父親の袖を掴んで、その場にしゃがみ込んでしまった。
「だって、あの子が、まどかが私たちよりも早く逝ってしまうなんて、そんなの耐えられない」
涙ぐんでいる母親を抱き抱えて、父親は母親の背中をさすった。ちょうどそこへ一人の看護師が通りかかった。
「どうされましたか」
「いえ、大丈夫です。ご心配なく」
軽く会釈をして看護師が立ち去った。人通りの少ない病室の廊下で、まどかの母親はハンカチを鞄から取り出して目元に当てた。
「落ち着くんだ、な」
母親の背中を優しくさすり、父親は母親が落ち着くのを待った。
「あの子が、胃ガンだなんて。もう手遅れだなんて。そんなの信じたくもない」
涙をこらえながら、廊下の手すりに掴まった。
「もう余命わずかだなんて」
「どういうこと?」
両親が立ち止まっているところに、まどかが現れた。ピンクの花柄のパジャマ姿でハンカチで顔を押さえている母親をじっと見ている。
「まどか!」
ほとんど同時だった。両親は、今の言葉をまどかに聞かれたことをすぐに悟った。
「余命わずかって、一体、どういうことよ。私、死んじゃうの?この間は、胃潰瘍だって言ってたじゃない!」
まどかの顔が真っ赤になっていた。気がつくと、母親の両肩をがっしりと掴んで壁に母親を押し付けていた。その頬には一筋の涙が落ちていた。
「まどか、隠していてごめんなさい。でも、どうしてもそんな事実を受け入れることが出来なかったの」
母親は、顔をくしゃくしゃにしていた。隣にいる父親は、肩を落として母親の肩に軽く手を置いた。
「もうすぐ、私、死ぬんだ」
まどかは呆然とした。ゆっくりと死と言う言葉を咀嚼していた。
「どうして、どうして、私なの。どうしてよ」
濡れた声を漏らしながら、まどかが後退りした。
「まどか?まどか!」
母親の叫び声が廊下に響いた。しかし、まどかは両親から遠ざかっていく。ゆっくりと、両親からまどかが離れていく。
「まどか、まどか」
母親が泣き崩れそうになるのを見るか、見ないかで、まどかは母親に背を向けて走り出した。父親は、母親をなんとか支えていた。
まどかは、急いで自分の病室へと向かっていった。自分のベッドに着くと、ベッドの脇に置いてある花瓶を床に叩きつけた。花瓶に入っているかすみ草が床に叩きつけられ、水浸しになり、破片が飛び散った。
ベッドから見ていた奈津子が驚いてまどかに近寄った。
「何してるのよ」
「あんたには関係ない。私、もうすぐ、死ぬんだから」
「えっ」
まどかが乱暴に奈津子を押し退ける。奈津子は、よろめくが倒れずにまどかを静止しようと両肩を掴んだ。
「落ち着きなさいよ。何があったのかがわからないけど、こんなことをして、一体、何になるの」
「もうすぐ死ぬんだから、放っておいてよ」
まどかが奈津子の手を振りほどこうとした。そこに、まどかの両親が駆け付けた。
「まどか!何、やってるの。止めなさい」
父親が力ずくでまどかを止めた。母親が、急いで看護師を呼びに行く。自分のせいでまどかがこんな風になったと自分を責めながら。
「私だって、もうすぐ死ぬよ」
まどかと父親の横で、静かに奈津子が言った。ベッドに押し付けられたまどかの体から、力が抜けていった。同時に、父親の腕の力も抜けていった。
「君•••」
「どういうこと?」
まどかと父親が奈津子を見る。
「そう言うこと。とにかく、落ち着いて」
呆気に取られたまどかと父親の元に、看護師を連れて母親が戻ってきた。
「大丈夫ですか」
落ち着きを取り戻したまどかを見て、看護師は冷静に話しかけた。
「ええ、大丈夫です」
すでに落ち着いていたので、特に何もせず、看護師は病室を出た。さっきまでのまどかとは違い、すっかり静かになったまどかに母親は安堵した。
「まどか、もう大丈夫なの?」
静かにベッドに母親が近づいていった。まどかは、こくりと一つ頷くと、ベッドに入った。ちらりと隣の奈津子を見ると、ベッドの上で本を読んでいた。父親は、母親に椅子を譲ると、母親は素直に座った。
「まどか、病気のこと、嘘をついてしまって本当にごめんなさい」
「もう、良いの。今は、静かにして欲しいから」
俯くまどかを見て、両親は病室を去ることにした。
両親がいなくなると、まどかは奈津子に話しかけようとしたのだが、奈津子は本に夢中になっているようだったので、ベッドに横になった。
「どうしたのかしら。まどかったら、急に大人しくなっちゃって」
病院を出ると、母親はすぐに口を開いた。
「実は、隣のベッドの子が、まどかがもうすぐ死ぬって喚いていた時に、私ももうすぐ死ぬって言ったんだよ」
「え、それってどういうことなの」
父親は、頭をかいた。
「それが、それ以上のことは言わなかったんだよ」
赤信号で立ち止まり、車の騒音が騒がしかった。自分たちの話し声が聞こえにくい。信号が青になり、ようやく自分たちの話し声がはっきりと聞こえるようになった。
「その子も重い病気なのかもしれないわね」
横断歩道を渡りきり、駅へと向かった。駅に近付くと、騒がしくなってきた。とてもまどかや奈津子の話しをする気にはなれなくなってきた。
「今日の夕飯、どうしようかしら」
「そうだな、スーパーで、適当に惣菜でも買っておくか。料理をするのも大変だろう」
「いいえ、でも、そうね。たまには、スーパーのお惣菜を食べるのも良いわね」
自宅近くの駅前にあるスーパーに帰りに寄って行くことになった。
奈津子の過去
奈津子が本をベッドサイドに置いた。そして、まどかが本当に眠っているのかどうかを自分のベッドから、そっと覗いて見る。しかし、よくわからなかった。すると、まどかの正面のベッドの患者である中年の浅井佳代が奈津子を手招きしていた。何かと思ってそちらを見ると佳代はまどかを指差し、目をパッチリと見開いた。それを見た奈津子は、まどかが起きていると悟った。佳代の位置からは、うっすらとまどかの目が開いているように見えていたのだった。
「まどか、ちょっと良いかな」
奈津子の声に、まどかは飛び起きた。
「え、ああ、うん。良いよ」
奈津子は、まどかを連れて病室を出た。
「もしかして、さっきのこと•••」
「うん、そうだよ。気になっているでしょ」
「まあね。でも、話したくないんだったら、無理して話さなくても大丈夫だよ」
病室を出てちょっと廊下を歩いただけで、病室のない場所にやってきた。人気はほとんどない。リネン室がそばにあるだけだった。
「ここなら、あんまり人が通らないからね。じゃ、本題に入ろうか」
さばさばとした様子の奈津子に、まどかは何から聞こうか戸惑ってしまった。
「急だなぁ」
「ゴメン。さっき、もうすぐ死ぬんだって騒いでたじゃない」
「うん。だって、胃ガンで、もう手が付けられないって聞いたから」
二人して壁に寄りかかった。病院の真っ白い壁は、ひんやりとしていた。
「私は、小さいころから、ほとんど病院で生活していたようなものなんだ」
「それって、どういうこと」
「生まれつき、体が弱かったの。で、産まれてからなかなか家に帰ることができなくってね。何歳くらいだったんだろう。2歳かそこらで、やっと退院できたんだ。でも、手術することも多かったし、学校すらほとんど行けなかったんだ。友達っていうと、この病院で同じように入院している仲間ばっかり。何人も友達が死んでいったんだ。初恋の人もね。もうそろそろ私の番が来るみたいなんだよね」
淡々と話す奈津子のことをまどかはだんだんと見ていられなくなった。ただ、俯いて病院の殺風景な廊下を眺めていた。
「そうだったんだ。もうすぐって言うけど、どれくらいなのか、どんな病気なのかは知っているの」
「後どれくらいかな。もうそんなに長くはないよ。それと、病名のことを聞かれると困るんだよね。いろいろな病気を抱えているからさ」
こんな暗いことを言っているのにも関わらず、奈津子は笑顔を浮かべていた。少し照れくさそうにも見える。
「病気だらけって言うことかなぁ」
「そう言うことみたい」
まどかが暗い表情で奈津子を見ると、奈津子は笑顔でまどかをじっと見ていた。
「元々体が弱くて、こんなに長く生きられるとは思っていなかったしね。自分でもすごいって思うよ。でもね、最近は前とは違って体の調子が悪いと言うか、とにかくいままで感じたことがないような感じなんだ。だから、あんまり長くはないんだろうって思うよ」
奈津子が窓の外を見上げた。青い空に大きな白い雲がゆっくりと流れていく。
「私は、自分の人生を悲観はしてないよ」
「どうして?病院からほとんど出たことがないんでしょ」
窓のさんに腕を乗せて、奈津子は軽く頭を掻いた。
「確かに、普通の人だったら悲観するのかもしれない。でもね、病院にいたからこそ出会えた人は、たくさんいるんだよ。その人たちとの出逢いは、私にとって宝物だよ。もちろん、まどかもね」
突然、自分の名前が出て驚いて奈津子を見た。奈津子もまどかを見ている。そして、微笑みを浮かべている。
「どうして、そんな風に考えられるの」
「どうしてだろう。考えたことないよ」
余裕の表情を見せる奈津子、まどかは複雑な表情を浮かべる。
「そろそろ、病室に戻ろうか。疲れるしさ」
「う、うん。そうだね。それにしても、こんな静かな場所があったなんて知らなかったよ」
病室へ向かおうとした奈津子は、自分の胸に手を当てた。
「任せてよ。この病院の中で育ってきたんだから」
同い年 の友達が出来て嬉しがる奈津子は、まどかと話す時は、いつも喜んでいた。
親友の裏切り
初めての入院生活ではあるが、まどかは奈津子がいるおかげで普段とあまり変わらずに振る舞うことができた。
入院しているとは言え、美和ともメールで連絡をよく取っていた。その美和が、同級生と一緒にまどかの見舞いにやってくる。その中には、船井も入っている。入院してから初めて同級生に会うことになる。
午後1時30分を過ぎた。面会時間が始まった。まどかはベッドの上でそわそわしている。
「どうしたの。今日、何かあるの?」
珍しく貧乏ゆすりをしているまどかに、奈津子はずっと気になっていたのだ。
「ああ、実は、今日、同級生がお見舞いに来てくれるんだ」
「そうだったんだ。もしかして、彼氏も来るとか」
彼氏と言う言葉に、まどかは動揺した。船井のことが頭に過ったのだ。まだ、告白もしていないけれど、この夏休み中に進展するかもしれないと思っていたのだった。
「か、彼氏って。まだ、付き合ってないけど」
奈津子に軽く背を向けた。顔が熱くなっていることをまどかは感じていた。
「まだ?片想いしてる彼が来るんでしょ」
両手で顔押さえてまどかは天を仰いだ。すぐに、手を離して、両手で熱くなった顔を仰いだ。
「変なこと言わないでよね」
顔を真っ赤にしつつ、まどかはベッドサイドに置いてある置時計を見た。もういつ美和たちが来てもおかしくはない。
「まどか!」
病室に大きな甲高い声が響いた。美和だった。その少し後ろに船井がいる。
まどかは美和に大きく手を振った。しかし、おかしなことにすぐに気が付いた。美和と船井の二人しか来ていないのだ。
「まどか、心配してたんだよ。もう、こんなところにいつまでもいないで、早く退院してよね」
何気なく言った美和の言葉が、まどかの胸に重くのしかかった。何も言えなくなってしまったが、美和が怪訝な顔をしたので、すぐに笑顔を作った。
「もう退院してよねって押し付けがましいこと言わないでよね。私が決めることじゃないんだから」
「そうだけど。早く退院して欲しいんだもん。まどかと夏休みはいろんなところに遊びに行くはずだったし」
病室を見回していた船井が、美和の横に立った。
「よ!調子はどうだ」
「病人だもん。良いとは言えないよ」
「そうだよな。早く退院できると良いな」
少しドキドキしていた。夏祭り以来なので、それほど期間を置いていなかったはずだが、まどかには船井と会えない日々がとても長く感じていたのだ。
「美和、座って」
1つだけベッドの脇に置いてある椅子を美和に勧めた。すると、すぐに椅子に座った。外はとても暑かったらしく、美和の首筋には一筋の汗が流れていた。美和は、鞄からハンカチを出して汗を拭いた。よく使っているチューリップ柄のハンカチだった。軽く汗を拭くと今度はハンカチで首の辺りに向かってハンカチで仰いだ。
「外、暑かったんだね」
「うん。すごく暑かったんだよ。もう汗が出ちゃって」
船井は、美和の横で突っ立っていた。手を後ろに組んで、ちょっと居心地が悪そうだ。まどかがチラッと船井を見たが、船井は全く気が付かない。美和も暑そうにしていて気が付いていなかった。
まどかの様子をチラチラと見ている浅井だけが気が付いいていた。
「美和って、暑がりだったんだね」
「え、あ、うん。そうなんだ。すっごい汗かきやすくて」
美和が少し動揺しているように見えた。隣にいる船井が足で少しだけ美和をつついた。すぐに美和は気が付いたのだが、ベッドの下で手で制した。
二人が何かしていることをまどかはすぐに気が付いた。
「何、どうかしたの」
あからさまに美和は体をビクッと動かした。
「え、やだ。何もしてないよ。ね、船井君」
「ああ、考えすぎだよ」
まどかは、怪訝な顔をして首を傾げた。
隣のベッドでノートに書き物をしている奈津子は、その一部始終を見ている。しかし、三人の話の輪に入ることはなく、黙って書き物を続けた。
それから、美和は今度、家族で北海道に旅行するという話をした。もちろん、まどかにも何かおみやげを買ってくるから楽しみにして欲しいとも言った。船井は、気になっている映画があると言っていた。映画館へ行こうと思って調べているという。まどかは、慣れない入院生活の愚痴を言っていた。美和が慰めたり、船井が同情したりした。三人の話しはとても盛り上がり、あっという間に夕方になってしまった。
「じゃ、もうそろそろ帰るね。また、お見舞いに来るからね」
「うん。おみやげ、期待してるよ」
美和と船井が揃って病室を後にした。振り返ることもなく、さっさと行ってしまったことに、まどかは少し寂しさを感じた。まどかは、ベッドから出て、病室の窓辺に行った。ここからは、病院の入り口がよく見える。二人が出て来たら、大声で二人を呼んで「バイバイ」と言おうと思ったのだ。それに気が付いた奈津子がこっそりとまどかに近付いて行った。
数分後、美和と船井が病院の入り口から出て来た。まどかに背を向けて歩いている。大声で二人を呼ぼうとした瞬間、まどかは大変なことに気が付いた。美和と船井が手を繋いでいたのだ。まどかは、唇を噛みしめて二人が病院の敷地内から出て行くのを見て、自分のベッドに戻ろうと振り返ると、そこには奈津子がいた。
「あ•••」
まどかは無言でベッドに潜り込んだ。頭まで布団をかぶってしまった。すぐに、すすり泣く声が聞こえてきた。
奈津子は、何て声をかけていいのかわからず、自分のベッドに戻った。そして、暫くまどかのいるベッドを見ていた。
その日の夕食は、ほとんど食べなかった。まどかは、どうしても美和と船井が手を繋いでいた光景を頭の中から消すことが出来ずにいる。もうすぐ死ぬのだから、無理に美和と仲良くしなくたって良いんじゃないかと思ったり、自分を裏切っていたことを恨んだり、悲しんだりしていた。夕食を目の前にしてもいろんなことを頭の中で駆け巡っていた。涙が出そうになった時には、グッと飲み込んだ。少しは食べておこうと思い、ご飯を少しだけ食べて、味噌汁で押し流した。
奈津子は、横目でまどかを見ながら食事をしていた。ゆっくりとご飯を口に運ぶ。何か声をかけた方が良いのか迷いながらも、夕食を平らげた。
夜になり、まどかはひとり、病室を出た。手には携帯電話を握っている。病院の建物から出て、電源を入れた。そして、美和宛にメールを打ち始めた。
美和、どうしてなの?美和も船井君のことが好きだったんじゃない!全然知らなかった。美和は、私のことを応援してくれているんだって思ってたのに。二人でお見舞いに来て、二人で手をつないで帰るなんて。私、二人が手をつないでいるところを見たんだからね!もう、美和なんて知らない!
メールを打ち終わると、すぐに送信した。しかし、送信した直後に後悔していた。本当にこんな内容で良かったのか。自分は、もうすぐ死ぬんだから、もうどうなったって構わないと言う思いが強くなった。携帯電話の電源を切ると、病室へと戻ることにした。
夜の病院の廊下は暗くて怖い。しかし、今のまどかはそれどころではないのだ。大分、病院にも慣れてきたのだが、それ以上にショックと怒りが強いのだ。美和と船井が手をつないでいる光景を思い出すと、まどかの足取りは早まっていった。
無言で病室に入ると、怒りに満ちた顔のまま、ベッドに入った。
「ねえ、まどか」
恐る恐る奈津子が声をかける。
「ああ、何?」
まどかは、怒りが押さえられない。乱暴な受け答えに、奈津子はうろたえてしまった。
「え、うん。何だか、食欲ないみたいじゃない」
「•••奈津子、見てたんでしょ。あの二人が手をつないでいるところ」
相変わらず、まどかは怒っている。奈津子は、そんなまどかが怖くなってきた。
「え、まあね。・・・あの男の子が片想いの人だったんでしょ?」
コクンッとひとつ頷いた。
「あの女の子とは、かなり仲が良さそうだったじゃない」
また、コクンと頷いた。
「すごく辛いよね。辛いだろうけど」
「もうそれ以上、何も言わないで」
涙を堪えて、まどかは急いで布団にくるまった。まどかのベッドから、すすり泣く声が聞こえてきた。
まどかの母親は、本棚から家族のアルバムを取り出して見ていた。父親がお風呂に入っている。テレビも着けずにダイニングテーブルの上でアルバムを広げていた。シンと静まり返ったリビングで、まどかが赤ちゃんの頃の写真を見ていた。母親に抱っこされて、じっとカメラを見つめているまどか、ぐっすりと眠っているまどか、大あくびをしているまどか。赤ちゃんのまどかを眺めては、思わず笑みがこぼれる。アルバムのページをめくる。もちろん、そこにもまどかがいた。まだ、赤ちゃんのまどかだ。病室の写真から、自宅で撮影した写真に変わる。
父親が、お風呂から出てきた。パジャマを着て、タオルで髪の毛を拭いている。
「珍しいな。アルバムを見ていたのか」
にっこりと笑って母親は、父親に座って一緒にアルバムを見ようと言った。父親は、母親の隣に座る。
「懐かしいな。まだ、産まれたばかりの頃じゃないか」
「ええ。覚えてる?まどかが産まれるまでのことを」
腕を組み、父親は目をつむって思い返した。
「ああ。覚えているよ。なかなか子供に恵まれなかったからな」
まどかは、長年、不妊治療をしていた西口家にようやく産まれた女の子だった。どうしても自分たちの子供が欲しくて、辛い不妊治療を続けた末、ようやく妊娠をした。だが、妊娠してからも大変だったのだ。つわりがひどく、家事のほとんどを父親がやったこともあった。一時は、流産を考えなくてはならないことさえあった。定期検診の時に胎児の心音が聞こえないことがあった時だ。もう厳しいだろうと言われたのだが、どうしても諦めきれず、流産を見送っていると、次の定期検診では問題がなくなっていた。出産も自然分娩では危険だということで、帝王切開にした。そして、まどかはようやく産まれたのだった。
「妊娠がわかった時は、跳び跳ねてしまいたくなるくらい嬉しかったのよ」
「俺だってそうだったよ。やっと出来た子供だったからな。あんなに嬉しかったことはなかったよ」
父親が立ち上がって冷蔵庫からビールを出した。コップについで、台所で一口飲んだ。
「大変だったけど、本当に産んで良かった」
コップを片手に父親が母親の隣に戻ってきた。そして、アルバムの続きを見ることにした。赤ちゃんのまどかの写真がどんどん出てくる。やっと出来た子供だったので、出来る限り写真を撮っていたのだった。
「これ、お前が編んだマフラーじゃないか」
まどかが笑顔でピンクのマフラーの写真を父親が指差した。
「ええ、まどかが産まれる前に編んだんですよ。産まれた赤ちゃんに使って欲しいと思って。このマフラーを初めてまどかに巻いてあげた時、この子すごいく喜んでくれたんだっけ」
嬉しそうに語りながらも、その目には涙がうっすらと見えていた。父親は、一口ビールを飲み込んだ。
「この後も、よく手袋や帽子を編んでいたな」
「ええ、この子が物凄く喜んでくれるから。もっと喜んで欲しくってね」
目尻にたまった涙を指で拭いた。母親は、アルバムをめくった。めくっても、めくっても、アルバムには赤ちゃんのまどかばかりが写っている。母親の胸に抱かれている写真がとても多い。一人で掴まり立ちしている写真も多くなっていた。このアルバムには赤ちゃんのまどかの写真ばかりがあるのだ。
「ついこの間まで赤ちゃんだと思っていたのにな」
父親の声が詰まった。母親に気付かれまいと、すぐにビールを一口飲んだ。母親には、父親の声が詰まったことが知られていた。その事は言わずに、アルバムをめくる。一冊目は最終ページになってしまった。隣に置いてある二冊目を開いた。一ページ目には赤ちゃんのまどかが写っていた。
「二冊目も、まだ、赤ちゃんの写真が入っているのか。たくさん撮ったな」
「ええ。記念日でなくても写真を撮っていたから。•••もうすぐ、まどかの写真も撮れなくなるのね」
アルバムに涙が落ちた。父親は、母親の背中をさすった。
朝食を食べ終えると、まどかは病院の中庭へ行った。中庭に着くと、携帯電話の電源を入れた。すると、すぐにメールの着信があった。美和からだった。まどかは、何回か深呼吸をした。朝のひんやりとした空気が肺に入り、体の芯がひんやりする。
まどかは、恐る恐るメールの画面を開いた。
ゴメンね、まどか。
実は、夏祭りの帰り道に船井君から告白されたんだ。
もちろん、最初は断ったんだよ。
だけどね、何度も船井君に付き合って欲しいって言われて、断り切れなかったんだ。
本当は、お見舞いに行った時にまどかに言おうと思ったの。
でも、言えなかった。
まどかを騙すとかそういうのは全然ないからね。
本当に、ゴメンね。
ひたすらメールの中で、美和は謝っていた。メールの文面を追っているうちに、涙が溢れて、画面を濡らした。文面を読み終えると、すぐに携帯電話の電源を切った。そして、その場にしゃがみ込んだ。声を出して、ひとり、泣いた。
奈津子は、ベッドの上でノートを広げていた。ひとり、考え事をしていた。まどかは、まだ帰ってこない。チラッと隣のベッドを見ては、ノートに目を落とした。
「何、むずかしい顔してるのよ」
佳代が奈津子に声をかけた。手には、新聞を持っており、老眼鏡をかけている。
「ちょっとね。それよりも、まどか、大丈夫かな」
「そうね。余命が短いことでもショックを受けているし、ちょっと心配よね。だけど、あの子は、変なことをするような子じゃないわね。だから、自然と落ち着くのを待った方が良さそうね」
奈津子は、納得しきれなかったが、ひとつ頷いた。佳代は、新聞を読み始めた。
力のないゆっくりとした足音が聞こえてくる。奈津子も佳代もすぐにそれがまどかのものだと気が付いた。すぐに、まどかが病室に戻ってきた。肩を落とし、右手には携帯電話を握りしめている。何も言わず、目を腫らして自分のベッドに潜り込んだ。奈津子と佳代はその様子をうっすらと確認をしていた。しばらくすると、小さな寝息が聞こえてきた。
奈津子は、ちょっと安心してノートに書き込みを始めた。寝ると言うことは、変な気を起こさないと判断したのだった。
シューカツノート
しばらくすると、まどかが起きた。
「おはよう」
すぐに気付いた奈津子が明るく挨拶した。寝ぼけた顔のまどかはボソッと小声で返事をした。何となく奈津子の耳に届いていた。奈津子は、親が差し入れてくれた雑誌を閉じた。
「何、読んでたの」
「ファッション誌だよ。退院できれば着られるけど、どうだかね」
雑誌をしまって、まどかの方へと体を向けた。
まどかは顔だけを奈津子に軽く向けた。手で軽く髪の毛をとかしている。寝ぼけ眼で視点が定まっていない。
「いつも気になっていることがあるんだけど」
髪の毛をとかすのを止めてまどかが聞いた。
「何?」
「いつもノートに何か書いているでしょ。何を書いているの」
一瞬、奈津子は戸惑った。しかし、すぐに枕元の引き出しからそのノートを取り出した。
「これでしょ」
まどかはひとつ大きく頷いた。奈津子が少し笑みを浮かべた。
「終活ノート」
「シューカツ?」
まどかが首を傾げた。もうすぐ死を向かえようとしている人間が行うことだろうかと不思議に思っている。
「もうすぐ死ぬって言ってたのに、どこに雇ってもらうのよ」
すると、奈津子が声をあげて笑い出した。目には少し涙を浮かべている。
「もう、やだ!その就活じゃなくて、死ぬ準備をする方の終活」
まどかは顔を真っ赤にした。耳まで赤くなっている。目をまん丸くしている。
「死ぬまでに、やっておきたいことを考えたり、伝えたいことをまとめておいてるの」
「やっておきたいことって、何?」
奈津子が少し天を見上げて考えた。
「内緒」
笑って答えただけだった。
これまで、まどかはもうすぐ死ぬという現実を受け入れることを考えたり、どうやって今を過ごすかということばかりを考えていた。先のことは考える余裕すらなく、ようやく落ち着いてきたところだった。しかし、奈津子の話を聞き、自分も死ぬまでにやっておきたいことを考えた方が良いのかもしれないと思うようになっていた。
奈津子は終活ノートのことを話そうとはせず、 病院食の話をしたり、今日はおもしろいテレビがないかということしか話をしない。まどかは終活ノートにどんなことを書いたのかが気になって仕方がないので、どうしても奈津子の話がほとんど耳に入ってこない。奈津子は、淡々と明るく話を続けている。
奈津子は、何となくまどかが上の空で自分の話を聞いていることに気が付いていた。さっきからまどかは「うん」くらいしか言っていない。それでも、奈津子は自分の話したいことばかりを話し続ける。
「今日のお昼ごはん、何かな?何か食べたいものってある?」
「うん」
空返事だった。さすがに奈津子も質問の答えがそれでは腹立たしかった。奈津子は体を完全にまどかの方へ向けて、怒りを枕にぶつけた。
「ちょっと、まどか。さっきから何よ。全然、話、聞いてなかったでしょ」
怒りに満ちた奈津子の声に、ようやくまどかは奈津子の話に耳を傾けた。
「あ、え、うん。ゴメン。ただ、私も死ぬ前に考えないといけないことがあるんじゃないかって思ったら、いろいろと考えちゃって」
「そうだったんだ。まどかもちゃんと考えた方が良いよ。悔いをこの世に残さないようにした方が良いから」
ようやくまどかに笑顔が戻った。
奈津子は終活ノートの内容を話すことはない。もちろん、人それぞれ死ぬまでにやっておきたいことは違う。だから、奈津子も何も話そうとはしないのだろう。しかし、あまりにも漠然としていて、まどかはどこから手を付けるべきかさえ定まらない。
「まどか、点滴終わってるよ。看護師さん呼ばないと」
「あ、ありがと」
自分の点滴が終わったこともまどかは目に入らなかった。すぐに、ナースコールで点滴が終わったことを告げると、ものの数分で点滴の交換が終わった。
怒れるまどか
昼食が終わると、まどかは少し横になった。だんだんと自分の力が無くなっていくことをまどかは感じている。それは、奈津子にとっても同じだった。まどかだけではなく、奈津子もベッドに横になった。二人が横になるところを佳代は見ていた。まだ若いのにと気の毒に思っているのだ。やりきれない思いを持ちながら、新聞に目を落とした。
しばらくすると、面会時間になった。するとすぐに、まどかたちのいる病室に美和がやってきた。
「まどか」
ベッドで横になっているまどかが飛び起きた。病室のドアの側には美和がいる。美和をしっかりと確認すると、まどかは美和に背を向けた。
「帰ってよ。顔も見たくない」
美和がまどかに駆け寄ってくる。それでもまどかは美和の方を見ようとはしない。美和がまどかの顔を覗きこもうとしても背を向けた。
「ゴメンね、まどか。私、別にまどかを騙そうと思ってたわけじゃないんだよ。ただ、どうしてもって言われて•••」
まどかが美和の言葉を遮った。
「帰ってって言ったでしょ」
怒りを込めて言ったのだが、その声にはあまり力が入っていなかった。
「まどか?」
力ないまどかの声に美和は心配になった。急にまどかが自分の前からいなくなってしまうんじゃないかと不安になった。
「もう、帰って•••ゲホ」
まどかが咳き込んだ。しかも、どんどん激しくなっていく。
「まどか、どうしたの?ねえ、まどか!」
佳代が急いでナースコールで看護師を呼んだ。
「看護師さん、まどかちゃんが大変なの。早く来て」
奈津子もすぐの異変に気付き、ベッドから起きた。そして、美和をまどかから引き離そうと手を伸ばした。しかし、届くわけもなく、すぐに医者と看護師がまどかの処置を始める。佳代が美和に近付き、病室から廊下へ腕をつかんで連れて出た。
病室では、まどかの処置が続いている。看護師が医者の指示を受けて個室の準備を始めた。奈津子は、ベッドからまどかを見守っている。廊下から美和もまどかの様子を見ている。
「もう、今日は帰った方がいい」
佳代は、美和を帰した方が良いと判断したのだった。病室へ入ろうとする美和の腕を力強く握りしめ、病室から離そうとしている。
「でも、私、まどかのことが心配で•••」
「まどかちゃんと何があったのかは知らないけれど、あなたがいると、まどかちゃんが興奮してしまうから、今日はもう帰りなさい。ね」
後ろ髪を引かれる思いで美和は頷いた。
ストレッチャーに乗せられたまどかが病室から個室へと移動していく。美和は、黙ってそれを見ていた。そして、美和はひとつ佳代に肩を軽く叩かれるとゆっくりと病室を後にした。
美和は、病院から出た後、まっすぐに自分の家に帰った。しかし、帰り道のことは全く覚えていない。まどかが急に苦しそうにした姿ばかりが脳裏を過る。これまで、まどかは自分の病気について全く語ろうとはしなかった。見舞いに行っても病気のことを聞こうとすると、すぐにはぐらかしていた。だから、美和もあまり突っ込んで聞いたりはしなかった。きっと、あまり有名ではない病気なのだろうと考えていた。聞いたところで、よくわからないだろうと思っていたのか、それともまどか自身もよく病気の名前を覚えていないのか。そう言う受けとめかたをしていた。
それが、急にまどかが苦しみだした。しかも、個室へ運ばれていったのだ。これは、決して軽い病気ではない。もしかすると、とてもむずかしい病気なのかもしれないとさえ美和は考えた。
そんなことばかりを考えていると、あっという間に自宅に到着していた。自室へ入ると、ベッドに横たわった。まどかの苦しそうな姿しか頭に浮かんでこない。
ベッドに横たわった時にベッドの脇に置いた鞄の中から携帯電話を取り出した。今、まどかは到底携帯電話を使うことができる状態にはない。だが、美和はメール作成画面を開けていた。そして、まどか宛てのメールを打とうとしていた。しかし、手が止まった。まどかに伝えることばすら浮かんでこないのだ。美和は、まどかから受け取った最後のメールを開いた。このメールを見るのは二度目だった。怖くてなかなか見たいとは思えなかった。だが、まどかの苦しそうな姿を見て、自分も痛みを感じなくてはならないような気がしていたのだった。ベッドの上でまどかのメールを読んでいると、自然に涙がこぼれてきた。横になった状態で読んでいたので、涙が目尻から耳の方へと流れていく。涙を拭くこともせず、美和は涙を流し続けた。
何度も同じメールを読み返すと、美和は静かに目を瞑った。携帯電話を胸に抱いて、しばらくそのままでいた。
個室に移動したまどかは、適切な処置のおかげで容態は安定していた。念のために、一晩は個室で様子を見ることになった。看護師が1時間ごとにまどかの様子を見にくる。幸い、まどかはすっかり落ち着いていた。次の日になると、また大部屋に戻ることになった。
許す気持ち
まどかは、死ぬまでに何をしたいかをずっと考えていた。そうすると、美和のことを忘れることができるからだ。病院から出ることができたら、もう一度、家族で旅行に行ってみたいと思っている。北海道へ行き、大好きなカニやイクラをたくさん食べたいと思っていた。しかし、旅行へ行くことは不可能だろうと思っていた。近くへ行くことができれば良い方だろう。
「まどか、ずっと考え事してるみたいだけど、何、考えているの?」
まどかがベッドに横たわったまま、天井をずっと見上げていると、奈津子が声をかけてきた。ベッドの上に座ってまどかを見ている。
「ああ、何かしたいことがあったかなと思って」
「そっか。もう体調はすっかり良くなったんだね」
まどかは奈津子の方をチラッと見た。奈津子はまどかをじっと見ていた。すると、まどかはゆっくりと起き上がった。少しくらっとはしたが、すぐに落ち着いた。
「うん。昨日のことは思い出したくないから」
「•••ごめん。でも、すぐに良くなって、良かったね」
作った笑顔で奈津子が言った。不自然な笑顔だったので、無理矢理笑っているのだと、まどかは気付いていたが、何も言わなかった。
「ただ•••」
奈津子が言いづらそうに声を絞り出した。
「何、どうしたの」
まどかが首を傾げる。その様子を佳代も新聞を読みながら気にしていた。
「仲直りした方が良いよ」
「そんなこと、言わないでよ!」
そう掃き捨てると、まどかは布団に潜り込んでしまった。
奈津子は、まどかの膨らみがある布団を見つめた。まだ、あの時の光景が脳裏に蘇ることがあるのだろうと察した。親友に裏切られたことがない奈津子には、理解しようと思ってもそれを理解することはできない。
ただ、けんか別れをしたまま友達と死に別れたことがあった。
今から思えば、些細な理由でけんかをしていた。奈津子が小学生の時に、同じ病室に自分よりも小さい子供が入院してきた時のことだ。初めて自分よりも年下の子供が入院してきたので、奈津子は病院のことをいろいろと教えてあげようと楽しみにしていたのだった。しかし、その子供の世話を奈津子の世話をしてくれた年上の子供に取られてしまったのだった。
「私がお世話したいのに!」
堪忍袋の緒が切れた奈津子は、しばらくすると激怒した。しかし、奈津子の方が年下だったので、どうしても何を言っても勝てなかった。そして、口を聞かなくなってしまった。
そのすぐ後に、けんかをしていた年上の子供が急変して他界してしまった。亡骸の前で、奈津子はごめんなさいと何度も謝った。仲直りできなかったことは、今でも後悔している。どうして、あんなに意固地になってしまったのだろうか。結局、その後は奈津子が年下の子供のお世話をし、その子供はすぐに退院してしまった。
今から思えば些細なことだ。今頃、あの世で私のことをどんな顔をして見ているのだろうと思い、空を見上げることも多い。
ふと、奈津子は天井を見た。蛍光灯が眩しくて、すぐに目を瞑ってしてしまった。顔を下に向けて目を両手で押さえる。目を瞑っていても光の残像が残って気味が悪い。年上のあの子供だったら、こんな時、何て声をかけたのだろうと思ったが、何も感じることができなかった。
まどかの布団は、ほとんど動かない。すすり泣く声も聞こえてこない。今は、ただ怒りで誰とも口を聞きたくないのだろう。それは奈津子を安心させた。下手に激怒して、また、個室へ行かなくてはならないほど体調を崩すことはなさそうだ。
奈津子は、引き出しから便箋とボールペンを取り出し、手紙を書き始めた。
布団の中で、まどかは美和との出会いを思い出していた。話し掛けたのは、美和からだった。知っている人が誰もいない中で、まどかはかなり緊張していた。座席が後ろと前で近いこともあり、美和がまどかに話し掛けたのだった。
「おはよう」
それが、最初の一言だった。たった一言ではあったが、それが、まどかの緊張を解きほぐしてくれた。
「おはよう。どこから来たの?」
そんなような会話をしたことを何となくまどかは思い出していた。どこにでもあるような普通の会話だ。高校生活一日目だから、覚えているのかもしれない。それからは、すでに知り合いだったかのように話が弾んでいった。友達になるための時間は、とても短かった。毎日、一緒に帰り、一緒に登校するようにもなった。住んでいる場所が近いわけではなかったが、同じ電車の同じ車両に乗るようにしていた。電車の中で、他愛ない会話を毎日楽しんでいた。おかげで高校生活がとても楽しくなっていった。
もしも、美和と席が離れていたら、こんなに楽しい時間は多くなかったかもしれない。美和だったから、楽しかったんじゃないかって思ってきた。
しかし、美和と船井の手をつないでいる後ろ姿を思い出すと、怒りがこみ上げてくる。いくら船井の方から言い寄られたとは言え、友達の片想いの相手と付き合うだろうか。本当は、美和も船井のことが好きだったんじゃないか。こっそり船井を振り向かせることをしていたのかもしれないと思うと、美和を信じることができなかった。
本当に、仲直りした方が良いのか。どうせ、もうすぐ死ぬのだから、もう美和との関係なんてどうなったって構わないという気持ちもある。考えているうちに、頭が痛くなってきた。考えるのを止めようと思っても、二人の仲の良さそうな姿が頭に浮かんできてしまう。
まどかは、急に布団をはぐって起き上がった。布団の中で考え事をすればするほど、嫌な気持ちになってしまったからだ。
「あ、起きたんだ」
奈津子に話し掛けられてそちらを見ると、手紙を書いていることに気が付いた。奈津子もまどかが便箋を見ていることに気が付いたので、すぐに便箋をしまった。
「手紙書いてたんだ」
「ちょっとね」
自分も残された時間が少ない。手紙を書くことは自分にとっても必要なことかもしれないと思った。明日、母親が見舞いに来たら、家にあるレターセットを持ってきてもらうことにしようと考えた。
「具合、どう?」
奈津子に聞かれると、まどかは少し考えてから「まあまあ」と答えた。悪いわけでもなく、すごく体調が良いとも言い切れなかった。
母親が毎日、着替えを届けに病院へ見舞いにやってくる。着替えを届けた時に、少し世間話をしている。病院食のことが大半だった。母親は、昨日は父親の帰りが遅かったと愚痴を言ったり、何か欲しいものはないかと聞くことが多い。この日は、レターセットを持ってきて欲しいとお願いした。母親は、どうしたのだろうと戸惑ったが、「わかった」とだけ言った。まどかは、一安心した。
すぐに母親が帰ると、その数分後、廊下から慌ただしい音が聞こえてきた。
「今日は、やけに騒がしいね」
奈津子が廊下の方を見ながらため息交じりに言った。まどかもため息交じりになんとなく返事をした。奈津子には、はっきりとは聞き取れなかったが、何となく伝えたいことがわかったので、何も言わなかった。
騒がしい音は、そのまま病室に入ってきた。
まどかは驚いた。そこには、中学時代の友人がいたからだ。友人たちは、まどかとSNSをやっている。まどかは、そこに入院していることを書いていた。見舞いの話が出ていたが、入院している今は、あまり外のことを知りたいと思っていなかったので、全然見ていなかった。それでも友人たちは、まどかの見舞いに行きたいと書き込みを続けていた。全くまどかから返信がなかったので、なかなか病院へ行くこともできなかった。仕方なく、まどかの自宅に電話をすると、母親がまどかの入院先を教えたので、ようやく見舞いに来れたのだった。
まさか、中学時代の友人が見舞いに来るとは思っていなかったので、驚いて最初は声が出なかった。しかし、中学時代を共に過ごした仲間同士ということもあって、すぐに話が弾んだ。
それぞれが、近況について話した。高校の友達と遊びに行っただとか、家族旅行へ行ったと言う話が多かった。また、部活が忙しくて大変だという話もあった。まどかは入院生活のことをちょっとだけ話した。ほとんどが病院食のことだった。意外と食べられると言うと、顔を見合って笑った。
まどかにとって、久し振りに中学時代の友達と話したことは、良い気分転換になった。中学時代に戻ったような気がして、とても充実した時間を過ごすことができた。
これまで、まどかは入院生活や余命のことで、かなりストレスがたまっていたのだった。まどか自身は考えないようにしていたのだが、自然と心に負担がかかっていたようだ。今日は、そんなストレスから一時ではあるが開放されたのだ。
中学時代の友達が帰った後も、まどかの興奮は冷めていなかった。美和のことを思い出すことすらない。中学時代のことをずっと振り替えっていた。とても楽しかった時間だった。
隣にいる奈津子もあえて話しかけたりはしなかった。まどかが楽しそうに話している時は、あまり具合が良くなかったこともあって、ずっと横になっていたのだった。まだ、奈津子はベッドに横になっている。自分なりに、もうそろそろではないかと奈津子は考え始めている。このところ、急激に体力が低下していると感じているからだ。起きているよりみ、横になっている時間の方が長くなっている。あまり起き上がりたいとは思わなくなってきたからだ。もう自分には、あまり体力がない。少しでも、やり残しがないようにすしなくてはと言う思いが日増しに強くなっている。書き残した手紙を早く書かないと、書き終わらなくなってしまうと思っているのだ。
そして、まどかとの別れが近いことも意識している。まだまだ、まどかとはたくさん話したいことがあるけれど、全てを話すことは、到底できそうにない。なるべく、大事だと思っていることから話をしておきたいと考えているのだ。
「奈津子。起きてる?」
まどかが奈津子の後頭部に向かって言う。
「うん、起きてる」
だるそうな声を出し、奈津子がくるりと体をまどかの方に向けた。ベッドに横になったままだった。
「あんまり体調良くないみたいだね」
「うん。ちょっとね。仕方がないよ。あんまり先が長くないんだから」
ひきつった笑顔を奈津子が見せた。まどかのその笑顔に恐怖を感じた。もうすぐ奈津子と別れてしまうんじゃないか。そして、自分もあの世に行くことになると思うと、何も言えなくなった。
「奈津子ちゃん。マイナスなこと言って。体調が悪くても明るいことを言えば、寿命が長くなるよ」
雑誌を読んでいた佳代が言った。確かにそうかもしれないと、声には出さなかったが、まどかも奈津子も同じように思っていた。
もう一人の女子高生
その日の午後、新しい患者が入ってきた。まどかたちと年はさほど変わらない。奈津子は、看護師から紹介されると軽く手を振った。彼女もすぐに手を振り返した。彼女は、症状がとても軽いので、すぐに退院してしまう。
看護師や医者から、その彼女はいろいろと質問されたりしていた。その様子を真ん前で見ていると、まどかは自分が入院してきた時のことを思い返していた。始めての入院生活で不安でいっぱいだった。彼女も不安に思っているんじゃないかと思っていた。
医者も看護師もいなくなると、四人で話を始めた。まどかは、最近、入院したばかりだと言い、佳代が入退院を繰り返していると言った。奈津子は、幼い頃から、ほとんどこの病院で過ごしていると言った。さすがに、奈津子の話に驚いていた。そして、どんな病気で入院しているのかと聞かれたが、佳代しか答えなかった。まどかも奈津子も重い病気を患っており、あまり自分たちと同じような年代の人に話さない方が良いと思っていたのだった。
新しい患者が入ってきたことで、病室の雰囲気がリフレッシュされた。まどかの気持ちも少し晴れやかになってきた。
明るい気持ちになったところで、ふと、美和のことを思い出していた。自分は、もうすぐいなくなる。例え、船井と付き合ったところで、すぐに離ればなれになってしまうではないか。ならば、両想いの二人が付き合った方が良い。ようやく、美和と船井のカップルを受け入れることができるようになっていた。
まどかは、すぐに、携帯電話を持って、ロビーに向かった。あまり長く歩くことがなかったが、自分の体力が落ちてきていることに気付く。ロビーに着ただけで、疲れを感じた。そして、病院の建物の外に出た。入口の脇で携帯電話の電源を入れた。メールの着信が入っていた。きっと、美和からだろうと思い、メールを開けてみると、中学時代の同級生たちが、がんばってと励ましてくれたメールだった。病院を出て、すぐにメールを出していたらしい。みんなでメールを打ってくれたと思うと、まどかの目からうっすらと涙が滲んできた。まだ、メールはあった。美和からだった。本当に悪かったと謝っているだけではなく、まどかの病状をかなり心配しているようだった。美和には、手紙を書こうと思った。
まどかは、手早く返信を打った。中学時代の同級生にはありがとうと感謝の気持ちを返した。美和には、何て書いたら良いのかがわからなかった。仕方なく、今日は美和に返信をするのを止めた。ゆっくりと考えてから送らないと、後悔しそうだと思っていた。
自分の病室へと戻ることは、行きよりも辛く感じられた。エレベーターを使うことができたのだが、待っている時間が辛く感じられた。ただ立っているだけなのだが、すぐに疲れてしまう。治療はしているものの、癌が自分の体を確実に蝕んでいることを実感した。早めに美和と仲直りをしないと、取り返しのつかないことになってしまう。そんな恐怖感さえ出てきた。
病室に戻ると、奈津子が必ず「お帰り」と言う。今日は、奈津子につられて新入りの彼女まで言ってくれた。それだけのことだが、まどかの心を柔らかくしている。二人とも、穏やかな顔で言ってくれるので、スキップを踏みそうになったが、さすがに、おおげさだと思い、我慢して自分のベッドに戻った。
新入りの彼女は、すぐに退院してしまった。症状が軽かったので、数日が過ぎると退院したのだ。病室を出る時に、お礼を言い、見舞いに来るとも言ってくれた。力強く言ってはいたが、まどかと奈津子は楽しみにしていると言いつつも、心の中では二人とも、それまで自分は生きているのだろうかと不安になった。
横で若い女性三人の話を聞いていた佳代が「私も待っているわよ」と言うと、三人が顔を見合せて笑い出した。佳代もつられて笑った。
母親に連れられて、新入りはあっさりと帰ってしまった。
軽いため息をまどかがつくと、奈津子は微笑んだ。
「わかりやすいな。寂しくなったと思ってるんでしょ」
ニヤニヤしながら、奈津子が聞くと、まどかは頬をほんのり赤らめた。それを見逃さなかった佳代はまどかをじっと見た。
「顔に出るわね」
二人に見透かされてしまい、まどかは恥ずかしくなった。
「人をからかうなんて、感じ悪い!」
アカンベでもするような口調だった。まどかは、引き出しからペンと便箋を取り出し手紙を書き始めた。すると、二人はそれ以上、まどかに突っかかったりしなくなった。
一時退院
医者から許可をもらうことが出来たので、まどかは一時退院できることとなった。ようやく病院から出られるとあって、まどかは心が泳いでいる。食事をするときも、自然と鼻歌が出るほどだった。
「まどかちゃん、良かったじゃないの。やっと一時的とは言え、退院出来て」
ご飯を飲み込みつつ、佳代が笑顔で言った。
「そうなんですよ。やっとだから、嬉しくて」
「どれくらいで帰ってくるの」
どことなく哀しみの混じった声だった。奈津子がまどかに視線を送ると、まどかはその視線に重たいものを感じた。
「昼間だけだよ。夜には病院に帰ってくるんだって」
明るく言ったつもりだったが、奈津子は「ふぅん」と素っ気ない返事をして、食事を続けた。
まどかが入院してから、奈津子が一時的にも退院したことはなかった。もうすぐ死ぬと言っていたけれど、奈津子は外に出ることすら出来ていない。だから、自分が一時退院すると聞いて哀しくなってしまったのではないかと、味噌汁をかきこみながら、まどかは考えていた。
病室全体の雰囲気も重くなっている。奈津子の浮かない表情に、佳代も困惑しているのだ。こんな表情の奈津子を佳代は、これまで見たことがなかった。いつも明るく振る舞っていたのに、まどかが一時退院すると知ってから、いつもとは違う元気のない表情を浮かべている。
「ちょっと、良いかな」
奈津子に言うと、奈津子は一つ頷いた。不思議そうな表情を浮かべている奈津子を連れて、まどかは以前、奈津子に教えてもらった静かな場所へ向かった。二人で並んで歩こうと思っていたのだが、奈津子のペースが遅い。まどかは、何とも言えぬ恐怖心を感じた。その恐怖心を拭うように、まどかは奈津子のペースに合わせて、自分が早く歩いていたのだと言い聞かせた。
「あの場所、静かだから、ゆっくり話せるね」
笑顔を浮かべて話すまどかに、奈津子は返事が出来なかった。まどかは、いつもとは違う奈津子にどうして良いのかがわからなくなってきた。
いつも以上に時間をかけて二人だけになれる廊下の奥にある静かな場所に到着した。たまに人が通るが、とても静かなことは変わっていない。二人して壁に並んで凭れかかった。背中がひんやりとする。
「実はね。今度、一時退院したら、高校の友達と仲直りしようと思っているんだ」
穏やかな表情で言うまどかに、奈津子はひどく驚いた。じっと、まどかの横顔を見る。
「そうだったんだ。良かった。死んだら、仲直りしたくても出来ないからね」
ようやく奈津子にも笑みが戻った。
「どうせ、彼と私が付き合ったって、すぐに別れることになっちゃうんだし、このほうが良いんだって思ってね」
クスッと奈津子が笑った。小刻みに肩を震わせている。
「何よ」
予期していなかった奈津子の態度に、まどかは自分がバカにされているような気がした。
「ごめん、ごめん。ようやく、受け入れたんだなって思って 」
まどかは、ハッとした。意識していないことだった。自分が、いつの間にか死を受け入れていたことに、自分で驚いていた。絶対に無理なことだと思っていたが、入院生活を続けているうちに、自分を見舞いに来てくれる人と話をしているうちに、この環境に慣れ、死が訪れることが自然なことのようになってきていた。
「ただ、仲直りって言っても、どうすれば良いのか、よくわからないんだよね」
まどかの不安げな表情を見て、奈津子も不安になってきた。奈津子自身もいろいろな人との別れを経験しているが、こういった類いの悩みはなかったのだ。何でも良いから、まどかの力になりたい。自分にとって、これが最後の人助けになるかもしれないと思うと、後悔しないためも、まどかの背中を押すようなアドバイスをと思ってしまう。
「こう言うのって、なかなか難しいよね。そのまま喧嘩別れして、ずっと離れる人が多いから。でも、まどかはその道を選らばなかったんだから。仲直りしたいって言う強い気持ちがあるんだから。それって、すごく偉いと思うし、大人になったね」
ペロッと舌を出す奈津子を見て、良い言葉を言っているけれど、応援しているのか、していないのかまどかにはよくわからなくなっていた。
「ふざけてる?」
思わず軽蔑するかのような眼差しを奈津子に向けていた。
「いや、そう言うわけじゃないけど。また、自分が子供扱いされていると思った?」
「思った」
「違うよ、まどかが現状を受け入れて、丸くなったから•••それが、良かったなって思って」
自分は、本当に現状を受け入れているのだろうかと、まどかは自分に問いただした。まだ、受け入れているとは言い難い。ただ、自分がもうすぐ死ぬと言うことを忘れようとしているだけではないのかとさえ思っている。奈津子が想像しているほど、まどかは現状を受け入れてはいないような気がした。
「とにかく、仲直りはするよ。そうしないと、後悔しそうだしね」
ニッコリと奈津子が微笑む。
「良い顔してるよ、まどか」
自然と出ている笑顔だった。とても前向きな表情をしており、まどかは充実した気分になっている。
「うまく、いくと良いんだけど•••」
突然、弱気な発言をするまどかに奈津子は優しく肩に手を置いた。
「大丈夫。まどかが素直な気持ちになれば、きっと解決するって」
「うん•••それとね。病気のことを言おうかどうしようか、迷っているんだ」
壁に凭れかかったまま、俯くまどかを励ましたいと思うのだが、奈津子がこれまで出会った人と言えば、自分と同じように生まれつき体が弱い人ばかりで、まどかのような人とは出会ったことがなかった。まだまだ、これから長生きするであろう同い年の人に対して、病気のことを話すべきかどうかは、考えたことさえない。
「まどかだったら、言って欲しい?」
奈津子の言葉は、まどかにとって意外な答えだった。自分に置き換えることをしていなかったのだ。もしも、逆の立場であったら、正直に話して欲しいと、きっと考えているだろう。
「そうさね。私だったら、言って欲しいと思う。その方が、悔いの残らない接し方が出来そうだからね」
「決まりだね」
まどかと奈津子はお互いを見合うと、握手をした。
「実際に、会ってみると、何かと言いづらいこともあるだろうけど、まどかなら、きっと言えるよ。言いたいこと、全部」
腕組みをして、奈津子は遠くを見た。まどかは、チラッと奈津子を見て、その視線の先を追った。そこには、窓があり、外の様子が見える。都会の中にいるのに、窓の外には木々が見える。下の方に電線が見えるが、自分が自然の中にいるような気がした。
「あんまり、自信ないな。言いたいこと、言えるかな」
まどかの肩をぽんっと一つ叩いた。
「友達なんでしょ?遠慮してる場合でもないし。私たちは、もう残された時間が少ないんだから、それを思えば何だって言えるはずでしょ?」
もうすぐ自分は死ぬのだと、改めて思うと何も言えなくなった。頭ではわかっていたものの、どこかにずっと隠していた事だった。奈津子もだんだんと体力が衰えてきており、自分だって他人事ではないと改めて思わされた。
「そうだよね。私たち、もう時間が少ないんだから、やりたいことをやっておかないと、この世に悔いを残しりゃうからね」
顔をあげることが出来なかった。心臓に重石でも乗せているかのように、少し息苦しくなった。
「まどか•••」
奈津子もまどかの重苦しい表情を目の当たりにし、病室へ戻ろうと声をかけると、まどかは軽く頷き、二人でゆっくりと病室へと戻った。
奈津子と一緒に病室へ戻った後に、まどかは一人、中庭へと向かった。携帯電話を握りしめている。
中庭に着くと、すぐに、携帯電話の電源を入れた。何通かメールが来ている。中学時代の同級生のメールや高校の友達のメールもある。みんな、まどかを励ますような言葉をメールに並べていた。そして、その中に美和のメールもあった。謝罪する内容だった。そして、船井との交際を迷っているとも書かれていた。
壁に凭れかかって一つ、ため息をついた。顔を上げると、木々が生い茂っている。その先には、病院の建物が見える。誰かが、窓からこちらを見ているような気がして、病院のまどを一つ一つ確かめたが、誰も見てはいなかった。気のせいだろうと思い、美和へのメールの内容を考える。
今日は、日差しが眩しい。あまり上を見ると、目がおかしくなりそうな気がした。温かい日差しを感じながら、携帯電話のボタンを押した。
今度、一時退院する時に、会えないかということを書いて送った。すぐに、返事が来るかどうか。まどかは携帯電話の電源を切らずにそのまま待つことにした。
空を見上げると、太陽が目に入った。すぐに、まどかは下を向き、目を覆った。夏の日差しはとても鋭い。じんわりと、首筋に汗をかきながら、熱くなった壁になんとなく凭れかかっている。
病院の中庭だが、日差しも強く、気温も高いせいか、散歩をしている人がいない。体力のない患者には散歩が出来るような気温ではないのだ。そう言うまどかも暑くて辛くなってきた。そろそろ病室へ戻ろうと思っているところに着信が来た。やはり、美和だった。美和は、まどかの一時退院の日に会うことを了承した。その文面を見た途端、緊張が走った。本当に会って大丈夫だろうか。うまく伝えられるだろうか。まだ、時間があるというのに、心臓の音が大きくなった。強い日差しのせいで、鼓動が大きくなったと思いたいくらいだった。
まどかは、すぐに携帯電話の電源を切った。しばらく右手に握りしめていた。その腕には汗が光る。肩を小刻みに振るわせ、まどかはその場に立ち続けていた。ほんの少し呼吸が落ち着いてきたところで病院内に戻った。外とは違い、ひんやりとした空気を感じた。
毎日、外では蝉が泣いている。奈津子は、最近、横になっている時間が長くなっている。まどかと話をする時間さえも少なくなっていた。まどかは、横になっている奈津子をたまにチラッと見ることがある。すやすやと眠っている時の奈津子は、穏やかな表情にも見えるが、どこか苦しいのではないかと思うこともある。そして、たまにこのまま奈津子が目を開かないのではないかと不安に思うことすらある。こんなに不安に感じることが毎日のように続いている中、まどかの一時退院の日が明日に迫ってきた。
「お土産って、どんなものが良いのかな」
奈津子がぐっすりと眠っている時に、佳代に聞いてみた。本をテーブルに置き、佳代は老眼鏡を直した。
「奈津子ちゃんから頼まれたんでしょ。良いのよ、何を買ってきたって」
思った以上に佳代が大きな声で話してしまったので、まどかは奈津子が起きたんじゃないかと驚いて見ると、奈津子は眠っていた。
「何でも良いが、一番困るな」
「奈津子ちゃんももう、それなに長くはないだろうからね。奈津子ちゃんの好きそうなものが良いけど、いつも何が好きってあんまり言わないじゃない。だから、このくらいの年の子が好きそうなものなら何でも良いのよ」
奈津子がそう長くはないとなると、自分も長くはないと感じた。まどかの髪の毛は抗がん剤の影響でなくなったことがあるせいで、かなり短い。しかし、奈津子は癌ではないので、髪の毛がしっかりとあるのだ。
まどかは、抗がん剤治療の時に、髪の毛が抜け、吐き気が強くなったりと想像を絶する辛さを感じたことがあった。そんな時、隣にいる奈津子はまどかを一生懸命に励ましてくれたのだった。
個室に移されて、一人きりで抗がん剤と戦っているような気がした時も、奈津子はわざわざ自分の病室まで来て、まどかを励まし続けてくれたのだった。時には手を握りしめたりもした。背中をさすってくれたこともあった。そうすると、不思議とまどかの痛みが和らいでいった。まどかにとって、奈津子は恩人のような存在にまでなっていたのだった。そんな奈津子の頼みだから、どうしても奈津子が喜んでくれるお土産を買ってプレゼントしたいと思っているのだ。
佳代のアドバイスを受けて、まどかは雑誌を手に取った。10代向けのファッション雑誌だった。何かおしゃれな小物でもと思い、ページをめくるが、どうも外で鳴いている蝉の声がうるさくて考えがまとまらない。
横では、奈津子が気持ちよさそうに眠っている。いつまで、奈津子と隣同士でいられるのかをどうしても考えてしまう。
最後の外の空気
まどかの一時退院当日の朝、まどかは普段と変わらない時間に起きた。看護師がカーテンを開けて「おはよう」と微笑んだ。まどかは「おはようございます」と返事をして隣を見ると、空のベッドがあった。
「奈津子•••」
看護師は手際よく病室内のカーテンを開けていた。
「看護師さん、奈津子はどうしたんですか」
鬼気迫る形相のまどかに、看護師は思わずビクッと体を小さく動かした。窓辺のカーテンを開けると、看護師はまどかの方を向いた。
「夜中に容態が急変して、個室に移ったのよ」
優しく幼い子供に話しかけているようだった。
「どこですか?何号室にいるんですか」
落ち着かないまどかに近より、看護師はまどかの肩にそっと手を置いた。
「お見舞したい気持ちはわかるけど、面会謝絶なのよ」
「えぇ!」
肩を落とすまどかの肩を優しく看護師が撫でた。悲しみのあまり、まどかの体は硬直している。
「まどかちゃん、大丈夫よ。まどかちゃんがしっかりしなきゃ、奈津子ちゃんだって心配になるじゃないの」
ベッドから、佳代が励ました。力が入っていたらしく、両手を強く握っていた。
「私、一時退院しない」
看護師が撫でる手が止まった。
「何、言ってるの」
佳代がテーブルを両手で強く叩いた。
「まどかちゃん、奈津子ちゃんと約束したんでしょ」
「だって、奈津子が大変な時に、私一人で退院なんて、そんなこと出来ないよ」
まどかの目からは大粒の涙が溢れ出した。両手で顔を覆い、ベッドに顔を埋めた。
「今日を逃さない方が良いわよ。お医者さんに無理を言って、やっと許可してもらったんだから」
看護師が背中を撫でながら、まどかを優しく説得する。そのまどかの背中は小刻みに震えていた。
「奈津子が大変な時じゃない。もしかしたらって思うと•••」
「大丈夫よ。きっと、乗り越えるわよ!」
力強く佳代がまどかを励ました。
まどかは、小さく頷き、ようやく落ち着いた。その様子を見た看護師は静かに立ち去っていった。
なぜ、こんな時にと、まどかは頭の中で繰り返した。朝食もなかなか進まない。いつも以上に時間をかけてようやく食べ終えた。午後には一時退院できるのだから、なるべく食べていかないとという気持ちだけで食べた。
午後になり、まどかの両親が迎えに来た。すでに、まどかは着替えを済ませていた。荷物の準備もしており、すぐに出掛けられるようにしていた。
「準備が良いな」
父親が、すっかり出掛けられる格好をしたまどかに感心していた。ベッドの真横でまどかの荷物を母親が持とうとすると、父親も自分が持とうと横から手を出している。結局、父親が荷物を持ち、病室を出ることになった。
佳代の前を通る時、そちらを向くと、佳代は笑顔でまどかを見ていた。
「いってらっしゃい。楽しんでくるのよ」
大きくひとつ頷き、病室を出た。
父親が先頭を行き、まどかと母親が並んで病院の廊下を歩く。
「最初に、この間、言った公園に行くからね」
「友達に会うって言ってたあれね。大丈夫よ、ね、お父さん」
突然、母親が父親に話し掛けたので、父親は体をビクッと動かした。
「あ、ああ。最初に公園に行くよ」
まどかと母親は、声を出さないで父親の驚いた様子を笑っていた。前を行く父親は顔を赤らめていた。二人に気付かれないように、振り向くことはなかった。
駐車場に停めてある車に乗った。父親が運転し、母親が助手席、まどかは後部座席に座った。暑い車内に入ると、父親はすぐにエアコンを入れた。勢いよく風を送る音が車内に響いた。そして、ラジオを父親が着けた。どこかで聞いたことのある洋楽が車内に流れる。まどかが外を見ていると、車が動いた。
幸い、今日はまどかの体調が良い。しかし、何が起こるかはわからない。外へ出ると言うのに、点滴をしていることに、まどかは不満だった。点滴が自分に必用だとわかっていても、この日だけは外していたかったのだ。
まっすぐに約束の公園に向かった。どんなことを話そうかと考えていた。そんなまどかに母親が気が付いた。
「まどか、久し振りの外は良いでしょう」
突然、話し掛けられ、まどかは動揺して、素早く母親の方を向いた。
「え、うん。やっぱり、外の方が良いよ。病院にいても退屈だし」
ラジオからは、DJの英語っぽい日本語が聴こえてくる。底抜けに明るい口調だった。車内の雰囲気も心なしか明るくなってきた。
「今日は、友達と会うんでしょ?」
「うん」
「あんまり長い時間かからないようにしないとね」
母親の何気ない言葉だったが、まどかには悲しかった。もう自分には、あまり体力が残されていないのだと念を押されているような気がしたからだ。
公園に着くと、すでに美和がベンチに座って待っていた。車を近くにあるコインパーキングに停め、まどかは一人で公園に向かった。
「待った?」
公園に入ると美和がまどかに気づいたので、咄嗟に言った。美和は大きく首を左右に振った。美和は、ゆっくりとまどかに近付いて行った。まどかが以前会った時よりも痩せていることに気付く。そして、顔色も良くない。
「ねえ、まどか。何だか具合が悪そうだけど。大丈夫なの?」
美和は心配そうにしているのだが、まどかは立ち止まって大笑いした。
「やだな、入院してるんだもん。そりゃ、具合が悪いに決まってるよ」
すると、美和は顔を赤くしながらも、まどかの腕を取り、急いで自分が座っていたベンチにまどかを座らせた。美和は、自分が持ってきた紺色の鞄をまどかとは反対側に置いた。急いで置くところをまどかは見逃さなかった。
「かわいい鞄だね」
まどかに言われて、美和は驚いて体を少し浮かせてしまった。
「そ、そうでしょ」
声からは、焦りが感じられた。まどかは、ピンときた。
「船井君からもらったの?」
美和は、まどかと目を合わせずにひとつ頷いた。
「仲良くやってるんだ」
「でも、私、まどかにすごく悪いって思っているよ。ずっと、まどかのことを応援していたし。本当は、まどかと船井君が付き合った方が良いって思っていたから」
美和の方を向かず、まどかは真っ直ぐに前を見ていた。それでも、美和は必死にまどかの方を見ていた。
「でも、船井君に告白されて付き合ったんだ」
まどかの冷静な言葉に、美和は絶句してしまった。
「安心んして。私、諦めたから。船井君のこと」
「ごめん」
美和は、涙をこらえていた。まどかにも、それが伝わっていたが、そこには触れずに、まどかは続けた。
「誰にも言っていなかったことがあるんだ」
まどかの顔は、穏やかだった。
「私、もう長くないんだ」
「えっ」
美和は、覚悟をしていたが、本当だったことに動揺して、思わず立ち上がってしまった。
「座ってよ」
苦笑し、美和に優しく笑みを送った。美和は、静かに座った。
「どういうこと?長くはないって」
まどかは、美和の目をしっかりと見た。ついさっき、諦めたと言ったけれど、船井の顔が浮かんでしまい、怒りが静かに沸き上がってくる。それを押し殺しながら、美和に言うべきことを言う心の準備をした。
「私、治らない病気になったの。だから、もう長くはないの」
美和の目からボロボロと大粒の涙が次々と落ちていく。
「嘘•••嫌よ。そんなの。まどか•••長くないなんて言わないでよ。早く•••退院して、早く元の生活に戻ってよ。そして•••また、一緒にいろんなところに行こうよ」
まどかの手を強く握り、涙を拭くこともなく、美和はまどかの目をじっと見つめた。
公園の近くの駐車場にいるまどかの両親が心配そうに、公園の方を見ている。二人が真剣な話しをしていると察した。
「まどか、もしかしたら、自分の病気のことを話しているんじゃないかしら」
母親が胸に手を当てている。
「一番、仲の良い友達には、ちゃんとお別れしたかったのかもしれないな」
ハンドルに両肘を置き、父親がため息混じりに言う。
公園では、美和が興奮して、強くまどかの手を握っていた。
「美和、痛いよ」
あまりにも強く手を握られ、まどかも我慢が出来なくなっていた。まどかに言われて、急いで美和は手を離した。
「ごめん」
離した手を美和は見つめていた。その姿をまどかは無言で見ていた。
「私、信じたくないよ。まどかがいなくなっちゃうなんて•••」
涙が美和の手にどんどん落ちていく。
「私も最初は、絶対に嫌だと思ったし、まだまだ生きるって思ったけど、体力も落ちてきているし、辛い治療もしたし。だんだんともう受け入れるしかないって思ったんだ。ま、同い年の子と話しをした時点である程度は受け入れたんだけどね」
美和は、ただ、泣いていた。
公園の外では、買い物袋を重たそうに持っている若い主婦の姿が見える。首筋には、汗が見えた。大きな買い物袋を持ち直す姿をまどかは、じっと見つめていた。
美和は、鞄からハンカチを出して、目に当てた。すすり泣く声が、公園に響く。暑いせいか、夏休みなのに、子供の姿がない。唯一の木陰にあるベンチをまどかたちが座っている。それでも、二人共、汗をじんわりかいている。
「美和、短い間だったけど、仲良くしてくれて、ありがとう」
自然と口を出ていた。この言葉が言えるとは思ってもいなかったのだが、自分でも驚くほどすんなりと出ていた。
美和は、ハンカチで目を押さえながら、強く首を横に振り続ける。
「嫌だよ。そんなの。まどか、信じたくない•••」
顔を上げ、美和はまどかに強く言うが、まどかはさっぱりとした顔で美和の肩を撫でた。
「私だって、現実を受け止めるのは簡単じゃなかったんだもん。美和にだって時間が必要かもね」
もっと、泣くだろう、声が出てこなくなるのではないかとさえも思っていたのだが、いざとなると不思議なくらいリラックスして淡々と話す自分にまどか自身も驚いている。自分よりも動揺している美和を見ているから、妙に落ち着いているのだろうと、落ち着いて考えることさえできている。
二人の首筋には、汗が流れている。しかし、美和は汗よりも涙を拭いている。まどかは、汗が出る量があまり多くはないので、軽く手で拭った。
公園に、子供の声が聞こえてきた。ベンチの横にあるブランコに小学生くらいの女の子がやってきた。二人の女の子は、楽しそうにブランコを漕ぎ始めた。公園に響くブランコを漕ぐ音。
「美和、もうそろそろ、私、行かなくちゃ」
「もう、行っちゃうの?」
立ち上がったまどかを美和は目を真っ赤にして見上げた。手にはハンカチを持っている。
「ごめんね。一時退院できるのは、今回が最後かもしれないから、両親とちょっと出掛けることになっているんだ」
また、下を向き、美和は鼻をすすりながら、ハンカチで目を覆った。
「病院に、また、行っても良いよね」
立ち去ろうとするまどかに向かって言うと、まどかは大きく「うん」と満面の笑みで答えた。そして、まどかはゆっくりとした足取りで公園を出た。美和は、涙を流しながらまどかの背中をじっと見続けた。
駐車場に行き、まどかは車に乗った。長時間駐車したわけでもないのに、車のドアは熱くなっていた。驚きながらも後部座席にまどかは座るとシートベルトを絞めた。父親がバックミラーでそれを確認すると、すぐに発進した。窓からの日差しがとても強い。外を見ながら、まどかは美和が今ごろどうしているのかを考えていた。まだ、公園にいるのだろうか。それとも、もう駅に向かっているのだろうか。まどかは、駅に向かっていて欲しいと願っていた。こんな暑い場所に長時間いるべきではないし、自分の残された時間が短いことを受け止めて欲しいと思った。
相変わらず車内には、洋楽が流れている。まどかは、あまり音楽に詳しくないので、何となく聞いたことがある曲が流れているくらいにしか受け止めていなかった。
「このまま、家に向かって良いんだな」
ハンドルを持つ父親が真っ直ぐ前を向きながら言った。
「うん」
「時間は短いけれど、行きたいところがあったら遠慮しないで言って良いのよ」
母親が急かすように言ったが、まどかの気持ちは変わらなかった。生まれてからずっと住み続けた家に一度は帰りたいと思っていたのだ。がんが見つかると、そのまま入院生活に突入してしまい、家には全然帰れなかったのだ。最後に、自分が生まれ育った家を見ておきたかったのだ。
車は、すぐに家に到着した。まどかの家は、全く変わっていない。入院当日と全く変わっていない家を車から確認してから、足元を気を付けながら車を降りた。母親が、大急ぎでまどかの補助をしようとしていたのだが、何とかまどかは一人で車を降りることができた。
久しぶりに帰った我が家の前に立ち、じっと自分の家を見つめた。一つ深呼吸をすると、自分の家を見上げた。ベランダには、家族の洗濯物も干してある。全然変わっていないことに、まどかは感極まって涙ぐんだ。
「さ、まどか。中に入りましょ」
母親が玄関の鍵を開けて、まどかの背中を押した。
玄関は、とても暑かった。まどかは座ってゆっくりと靴を脱ぎ、先に家に上がった。入院した日と何も変わっていない。まどかは2階の自分の部屋に行った。しばらく中に入っていなかったというのに、ほこりが落ちていない。まどかの入院中も母親がちゃんと掃除をしていたことが、すぐにわかった。
久しぶりのベッドの感触を確かめる。ぽんっと座ると懐かしい感じがした。病院のベッドとは違った感触がした。ここに帰りたい。そう思うと、まどかの瞳から、自然と涙が溢れてきた。ベッドサイドにあるティッシュペーパーで顔を覆った。すすり泣く声がわからないように口まで覆った。
「まどか」
母親が2階に上がってくる。わかっていても、まどかの涙は止まらなかった。
「入るわよ」
母親が声をかけてから、まどかの部屋に入ってきた。ティッシュペーパーで顔を覆っているまどかを見て、母親はひどく驚いた。一瞬、その場に立ちすくむが、すぐに我に帰り、まどかの横に座った。そして、黙ってまどかの肩に手を置いた。母親は、涙を堪えた。部屋には、まどかのすすり泣く声が響いた。
しばらくして、ようやくまどかは落ち着いてきた。
「泣いてる場合じゃないよね。時間があまりないんだし」
ティッシュペーパーで目頭を押さえながら、まどかが言うと、母親は一つ頷いた。
「そうね。まどか、下に下りる?」
「うん、そうする」
1階のリビングに母親と行くと、そこには、カメラを持った父親がいた。立ったまま、突然、まどかにレンズを向けた。
「写真を撮るのも良いわね。ね、まどか」
隣にいる母親に言われて、驚いていたまどかも「うん」と一つ頷いた。
「もっと近くに寄って」
父親が、カメラを覗き込みながら言った。母親に近付こうとすると、母親が父親を制するように手のひらをカメラに向けた。
「こんなところで撮らなくても良いじゃない」
リビングの入り口で立っているだけの写真じゃない方が良いと母親は思っていた。しかし、父親は違っていた。どこでも良いから、まどかとの思い出を一つでも多く残そうと思っていたのだ。母親に言われても、カメラを構えたままでいる。
「良いじゃない。デジカメなんだし、何枚撮っても良いんだから、ここで1枚撮っておこうよ」
ニコニコとした笑顔のまどかを見て、母親もさすがに折れた。
まどかと母親はピッタリと寄り沿い、腕がぶつかった。そして、1枚撮影が終わった。
「ねえ、次は、どこで撮る?」
母親の腕をつかんで、まどかが催促する。まどかよりも少しだけ背の低い母親は、軽くまどかを見上げていた。
「折角だから、たくさん撮りましょう。今度は、台所も良いんじゃない」
リビングのすぐ側にある台所へは、まどかは母親と腕を組んで移動した。母親は、まどかがすぐに息切れすることに気が付いた。もう長くはないと改めて思いつつも、涙はグッと堪えた。台所には到着すると、流しを背に、二人は肩を並べた。
その後も、自宅の受話器を持ち上げている様子を撮影したり、窓辺に凭れたり、自分の部屋で机に向かったりと何枚も撮影した。まどか一人の写真や母親と一緒の写真もある。最後に、リビングで3人の写真を撮影することにした。もちろん、真ん中にはまどか、左には母親、三脚にカメラを設置し、タイマーを設定すると、急いで父親が右側に立った。まどかと母親は笑顔を浮かべたが、父親はほとんど表情を変えていなかった。撮影が終わると、父親がカメラを三脚から外した。
「見せて!」
まどかは、父親に手を広げた。父親は苦笑いを浮かべてまどかにカメラを渡した。すぐにまどかはカメラの画面を見た。操作の仕方は何となくわかっていたので、今日、撮影した写真を見ることにした。最初に出てきた写真は、家族三人で撮った写真だった。
「ハハハ!お父さんったら、全然笑ってない!」
写真を見るなり、まどかはお腹を抱えて笑った。カメラをテーブルの上に置くと、すぐさま母親もその写真を見た。父親は、少々不機嫌になっていた。
「そんなに笑うことはないだろう。写真は、いつも撮っている方だから、撮り慣れていないんだ」
「ふふ、本当ね。緊張しているわ」
母親まで写真を見て笑った。父親は弁解を続けようと思ったが、まどかが久し振りに大きな声で笑っている姿を見て、父親も嬉しくなった。病気になってから、まどかがここまでの笑顔を見せたことがなかったのだ。ようやく見ることができたまどかの満面の笑みに父親の心が和んでいた。
写真撮影も一段落し、少しだけ近所のスーパーへ行くことにした。もしかしたら、これがまどかにとって最後の買い物になるかもしれない。そして、まどかは奈津子にお土産を買おうと思っていたのだ。何が欲しいとは言っていなかったので、自分なりに考えなくてはならない。まだ、何をお土産に買うべきか迷っている。一体、奈津子は何が好きだったか。
ふと、まどかは奈津子の病状が気になった。今ごろ、どうしているだろう。もう、一般病棟に戻っただろうか。きっと、自分が病院に戻った時には、隣のベッドで横になっているはずだと自分に言い聞かせるように心の中で呟いた。
近所のスーパーではあるが、父親の運転する車に乗って行った。五分もかからずにスーパーの駐車場に到着した。まどかは、幼い時からよくこのスーパーに行っていた。幼稚園に通っているころは、母親と手をつないで行っていた。小学生になると、友達とよく行くようになった。しかし、中学校に入学したころから段々とこのスーパーには行かなくなっていった。繁華街へ行くことが多くなったからだ。このスーパーは、住宅街の中心にあり、規模もあまり大きくはない。中学生には物足りない場所になっていたのだった。
小学校を卒業して以来、一度も来ていなかったが、スーパーはほとんど変わっていなかった。母親に支えられながら、まどかはスーパーへ入って行く。父親は、駐車場に車を止めに行った。先に母親と中入ると、すぐに入り口横にあるエスカレーターに乗って二階へ上がった。奈津子へのお土産を探すためだ。二階もほとんど変わっていない。懐かしい風景を目の当たりにすると、まどかは辺りを見回すように歩いていった。日用品や洋服がたくさん並べられている。幼い頃は、このスーパーでよく洋服を買っていた。あまり女子高生が着るようなデザインの洋服は置いていない。中高年向けのデザインが多かった。しかし、まどかは久しぶりにここで洋服を買いたくなった。あまり女子高生向けの洋服がないので、パジャマを購入することにした。あまりかわいいデザインのパジャマはなかった。ここには、あまり学生が来ないので仕方がないとは思いつつも、まどかはその中からかわいい自分が着られるようなパジャマを探した。
「パジャマなら、今度、お母さんがかわいいのを買ってくるわよ」
「自分で選びたいの」
まどかが興奮気味に言うと、母親もまどかの隣で一緒にパジャマを探し始めた。するとそこへ、父親がやってきた。
「パジャマを探しているのか」
父親に構うことなく、まどかと母親がパジャマを探している。居心地が悪い父親だったが、まどかがようやくかわいいデザインのパジャマを見つけて手に取った。そして、母親の方に当てて見せた。
「これなんか、どうかな」
「かわいいじゃない。これにする?」
まどかが頷くと父親はホッした。
次は、奈津子へのお土産を探すために、雑貨売り場へと三人で向かった。父親は、最後尾を静かに歩いている。小さなスーパーなので、あまり品揃えが良いとは言えない。ところどころ、棚が空いている場所もある。その中から、まどかはストラップを見ることにした、あまり種類は多くないのだが、かわいらしいハートのストラップが並んであるのを見つけた。
「これ、良いね」
「隣のベッドの子にあげるんでしょ。良さそうなじゃない」
小さくて真っ赤なハートのストラップを手にすると、まどかはじっと見つめた。これを奈津子は気に入ってくれるだろうか。これなら、かわいいから喜んでくれるはずだと思い、これを買うことにした。
赤いハートのストラップの隣には、色違いのピンクが置いてあった。まどかは、奈津子とお揃いにしようと思い、ピンクのハートのストラップも買うことにした。
もちろん、お会計は母親の役割だ。父親は、先回りして下りのエスカレーターの近くへと移動していた。まどかは、母親にぴったりと寄り添っていた。支払いが終わり、荷物は母親が持ったが、父親がすぐに取り上げて持っていった。
まどかにとって、最後の買い物が終わった。
悲しい知らせ
真っ直ぐに、まどかたちは病院へ戻った。そして、まどかは急いで病室へ行こうとした。だが、体が思うように速く歩くことができず、ゆっくりと病室へ戻ることになった。母親が、まどかの腕を支えている。父親は、その後ろを歩いている。
病室へ一歩、また一歩と近付くにつれて、なぜか怖くなっていた。自分が一時退院をする直前に奈津子の容体が悪化したことが気になって仕方がない。どうか、隣のベッドに戻っていてくれと強く願い、絶対に隣のベッドにいるに決まっていると自分に言い聞かせているのに、心臓の動きはどんどん速くなっていく。自分では、絶対に死んでいるはずがないと頭では思っていることがわかっているだけに、心臓が勝手に速く動くことに苛立ちを感じていた。
何度も奈津子と一緒に歩いた廊下を今は、両親と一緒に歩いている。相手が違っていることに違和感を覚えていた。また、奈津子と一緒にここを歩く日はやってくると信じているはずなのに、病室が近付くにつれて行きたくない気持ちが強くなってくる。奈津子と一緒に歩く時は、いつも病室へ戻ることが待ち遠しいくらいだったのに、それとは全く違うのだ。
「まどか、大丈夫?」
ゆっくり歩くまどかのことが、母親は心配になった。
「うん、平気。それよりも、早く病室に戻りたくて」
疲れた笑顔のまどかに、母親は不安が募っていった。自然とまどかを支えている手に力が入る。
そして、ようやく病室に戻ると空いていたベッドには新しく中年の女性が入院していた。まどかの隣のベッドには、まだ、誰もいなかった。少し呼吸が乱れたまどかは、病室の入り口に突っ立っていた。母親が、背中を押すと自分のベッドへ向かおうとした。その時、佳代がまどかに近付いてきた。
「まどかちゃん、奈津子ちゃんだけど」
力のない佳代の声から、まどかは何かを察した。続きの言葉を聞いてはいけないような気がしたのだ。
「奈津子ちゃん、駄目だったって」
予想していたはすの言葉なのに、まどかにはそれがすぐには理解出来なかった。全く違う言語を聞いたような感じがするくらい、まどかの頭には何も浮かんで来なかった。
すぐに次の瞬間、まどかはその場にしゃがみこんでしまった。全身からすっと力が抜けてしまったのだ。自然とまどかの両目からは、涙が溢れ出ていた。床には、まどかの涙が次々と落ちていく。小さな水溜まりが出来ていた。
「まどか、ベッドに戻りましょう」
母親に言われて、両親に両腕を支えられながら、ようやく自分のベッドに戻った。
ベッドに入ると、まどかは顔を覆った。声出して泣いた。母親は、まどかの背中を優しく擦った。すすり泣く声が、病室に響いている。まどかは、ベッドの脇にあるティッシュペーパーを数毎取って、目に当てた。泣きすぎたせいか、しゃっくりが出たり、咳が出た。呼吸が苦しくなると、まどかは口で思い切り空気を吸い込んだ。
「まどか、大丈夫?」
母親が問いかけても、まどかは何も言わなかった。ただ、泣き続けていた。
ずっと、まどかが入院してからずっと一緒にいたあの奈津子が逝ってしまった。もうすぐ死ぬとは言っていたけれど、心のどこかで否定していたのだ。しかし、奈津子は死んでしまった。まどかが一時退院している間にだ。死に目に会えないと言うことは、全く考えていなかった。まさか、こんなにあっさりと人は死んでしまうのだと思うと恐ろしいとさえも思った。
奈津子と会うことは、二度とない。奈津子とおしゃべりをすることだって出来ない。
奈津子が亡くなった次の日、まどかの元に奈津子の両親が現れた。何事かと驚いたまどかはきょろんとしてベッドの上に座り、二人を見上げた。
「まどかさん。実は、奈津子から頼まれているものがあるの」
まどかも渡すものがあると思い、急いで引き出しの中からお土産を取り出した。
「これ、まどかさんにってあの子が」
まどかは、奈津子の母親が差し出した手紙を受け取った。封筒には、まどかへと書いてあった。いつの間に奈津子はこんな手紙を書いていたのだろうとまどかは不思議に思った。いつも一緒にいたのに、そんな時間があったことに驚いていたが、すぐに我に返り、手に持っていた小さな紙袋を差し出した。
「これ、奈津子さんに渡そうと思ってたんで•••」
奈津子の母親は、その紙袋を受け取った。
「ありがとう。奈津子に渡しておきます」
そう言うと、二人は病室を後にした。
これから、奈津子のお通夜を行うそうだ。昨日、佳代が話していた。本当は、奈津子の亡骸に会いたいと思ったのだが、すでに奈津子の亡骸は病院を出ており、実家に安置されている。亡くなってすぐに、実家に帰っていたのだ。実家の近所の斎場でお通夜が行われる。明日にはお葬式が行われ、荼毘に付されるのだ。奈津子の形さえもうすぐこの世からいなくなってしまうと思うと悲しみよりも恐ろしくなった。自分も亡くなれば、同じようなことになると思うと怖くて堪らない。
佳代は、心配そうにまどかを見つめていた。本を片手に、チラチラとまどかを見ている。老眼鏡がずれれば、そのずれを直すついでにまどかを見るくらいだ。すっかりまどかは無口になってしまった。入院してから、ここまでほとんどしゃべらなかったことはなかった。そんなまどかが心配で堪らない。
佳代には娘がいない。息子はいるが、海外勤務をしており、今は日本にいないのだ。一人息子に会いたくてもなかなか会うことはむずかしい。夫は仕事が忙しいこともあって、休日に見舞いに来ることがやっとの状態だ。
本当は、娘を育ててみたかったのだ。佳代は、あまり体が丈夫ではなく、息子を産むことさえ大変だったのだ。娘を産むことが出来なかったが、入院してまどかと奈津子に出会えたことで、念願の娘を手に入れたような感じがしたのだった。もちろん、本当の娘ではないし、まどかにも奈津子にも両親がいるので、本当の親らしいことは出来ない。それでも、まどかと奈津子をいとおしく見つめてしまうのだった。
奈津子が亡くなったことは、佳代にとっても辛い出来事だったが、まどかのことを思うと悲しんではいられなかった。同じ病室にいるのだから、私が支えてあげなくてはと心の中で思っている。
何か声をかけたいけれど、何を言えば良いのかがわからず、佳代はまどかを見つめることしか出来ないのだ。
まどかが落ち着くまでには、いくらか時間がかかった。両親も佳代も他の同部屋の患者も医者も看護師もあまりまどかを刺激しないようにとかなり気を付けていた。少しでも奈津子を思い出すような事を言ってしまうと、すぐに、まどかは泣いてしまう。しかも、その涙はしばらく止まらなくなるのだ。夏と言うだけでも思い出すので、神経をすり減らしていた。
まどかは、奈津子のことを思い出すたびに、次は自分だと思っていた。いつ、自分が死んでしまうのかを考えてしまうのだ。奈津子が行っていた終活を自分も行おうと言う気持ちになるまでには、時間がかかってしまった。
数週間が経ち、まどかはようやく奈津子がくれた手紙を手に取った。一体、ここに何が書いてあるのだろうと思うと怖くて手が震えた。封筒を開けることさえ出来ずに、引き出しにしまうことを何度か繰り返した。
そして、まどかは覚悟を決めた。
珍しく、夏の暑さが一休みをした日だった。また、暑い日が来ると天気予報では言っていたのだが、それを知らないまどかは、いつの間にか入院してからかなりの日が経っていたのだと思っていた。早く奈津子の気持ちを受け止めた方が良いのではないかと、そんな気持ちに突然なった。
引き出しから奈津子の手紙を取り出すと、ベッドの上で、しばらく見つめた。たまに、深呼吸をする。いざ、開こうと思っても寸前で手が止まるのを何度か繰り返した。
ふと、ベッドのまわりにあるカーテンを見た。まどかは、すぐにカーテンを閉めた。そして、ようやく封筒を開けた。白い封筒に白い便箋。二つに折ってある便箋をゆっくりと開けた。
Dearまどか
まどかがこの手紙を読んでいたら、私の方が先に死んだってことだね。
幼いころから、入院生活ばかりしていたけど、自分と同い年の子が入院するなんて、すごく珍しいから、まどかが入院した時、嬉しかったんだ。こんなことを言ったら、怒られるかな?でも、本当に嬉しかった。まどかも知っているでしょ?同じ病室には、おばちゃんしか入院していないじゃない。だから、肩身がちょっと狭いなって思っていた。佳代さんや他のおばちゃんもそうだけど、みんな優しくしてくれたから、楽しかったけどね。でも、やっぱり、同い年のまどかと一緒にいる時が、一番気が楽になったよ。
まどかには、出来る事なら長生きしてもらいたいって思っているよ。でも、重い病気だし、もう残りがあまりないんだよね。私の分までって言えないけれど、残りの人生は、悔いの残らないように過ごしてね。私は、生きているうちに悔いを残さないように出来たから、まどかにも悔いを残さないで欲しいんだ。死んだら、もう何も出来ないじゃない。今だから出来ることをちゃんとやっておくんだよ。
私は、悔いを残さないように生きている間にやりたいことをやってきた。だから、いつ死んだって悔いは残らないんだ。まどかにも、悔いのない人生を歩んで欲しい。私が生きている時にあまりアドバイスなんて出来なかったけれど、まどか流の終活をしてね。これだけは、どうしても言いたかったんだ。私だって死んだ経験があるわけじゃないよ!でもね、悔いを残さないようにってそれだけは常に考えていたんだ。まどかには、ナイショでね。
まどかと病院の中だけだけど、たくさんお話して、時には大変なこともあったけど、すごく楽しかったよ。もう自分と同年代の子のと友達になれないんじゃないかって思っていたから、余計にそう思えたのかもしれないね。
私が先にあの世に行ってるから、まどかは安心して良いよ!なんてね。一日でも、まどかが長生きできますように。陰ながら、見守ってるからね。また、あの世で会おうね。
奈津子より
自然とまどかの両目から涙が溢れていた。すすり泣く声は、カーテンの外にまで聞こえていた。ティッシュペーパーで時に目を押さえて、まどかはようやく奈津子からの手紙を全部読むことが出来た。私だって、楽しかった。奈津子と一緒にいた日々は、とても充実していたし、奈津子がいなかったらいつまでもまどかは自分の死を受け入れることが出来ずにいただろう。どれだけ奈津子に助けられていたのかと今さらながらに強く感じた。
手紙を膝の上に置き、ティッシュペーパーで涙を拭き続けた。後から後から涙が出てくるので、なかなか涙を拭き終えることが出来ない。
泣きすぎたせいか、呼吸が少し苦しい。ティッシュペーパーで涙を拭きながら、手紙を急いで引き出しにしまった。そして、上を向いた。そうすれば、涙が止まるような気がしたからだ。すぐには止まらなかったのだが、しばらくすると落ち着いてきた。涙が止まると、鏡で自分の顔を確認すると、目が真っ赤に腫れていた。もう少しカーテンを閉じたままにしておこうと思った。そして、横になった。
まどかは、一人でトイレに行った。夜中の病院はとても静かで、本当にこの建物の中に人がいるのだろうかと思ってしまう。手を洗って自分の顔を見ていると、自分が痩せたことに気がついた。入院してすぐの頃とは大分顔が窶れたように感じる。
廊下から足音が聞こえてきた。看護師の見回りだろう。そう思っていると、佳代がトイレに入ってきた。
「あら、まどかちゃんじゃない」
「佳代さん」
夜中にトイレで佳代とばったり会うのは、初めてだった。お互いに驚いて顔を見合った。
「年を取ると、トイレが近くなっちゃってね」
明るく笑顔で言う佳代。
「ねぇ、佳代さん。終活って、どんなことをすれば良いのかな」
ずっと悩んでいたことを口に出していた。何かをしようと思っていても、何をして良いのかがわからない。時間はどんどん過ぎていき、自分の体力も落ちてきていることを強く感じるようになってきた。早く終活しないと、悔いが残ってしまう。そう考えると、また、焦って何も出来なくなっていく。
「やりたいことをやれば良いのよ。何だって良いの。まどかちゃんが、今、やりたいことをやることが、終活なんじゃない」
「やりたいことか。佳代さん、ありがと!」
少し考えてから、まどかは病室へ戻った。
ベッドの上で、まどかはノートを広げた。自分がやりたいことを何でも書いていこうと思ったのだ。使い古したシャープペンシルを手に持って、思い浮かんだことを書いていった。
食べてみたかったものを食べる。ずっと気になっていた世界三大珍味が良い。欲しい洋服を買って、おもいっきりおしゃれがしたい。友達と会ってたくさんおしゃべりしたい。カラオケで大きな声で歌いたい。
一気にこれだけを書いていった。ありきたりな感じはしたが、ノートに書いた自分の文字を見て、また、何がしたいのかを考えた。こんなことでも良いのだろうか。もっと他にやりたいことがあったとしても、病院を飛び出すことは出来ない。だから、やりたいことと言っても限られてしまうのだ。外に出られるのなら、そう思ってみたが、出来ないことを考えると、余計に滅入ってしまうのでやはり考えるのを止めた。
ノートに書いたことだって、きっと叶わないだろう。そう思うと心がズシンと重たく感じてしまう。ノートを静かに閉じた。
大胆な作戦
美和が、見舞いにやってきた。まどかが暇を持て余しているだろうと思って、女子高生が好きなファッション雑誌をまどかのために持ってきた。
「まどか、どう?体調は」
まどかのベッドの脇に置いてある椅子に座りながら美和は聞いた。
「まあまあだね」
本当は、あまり体調が良いとは言えなかった。食欲も低下しており、体力がなくなっていると自覚していたのだ。
「そっか。まどかのために、雑誌持ってきたよ。一緒に見ようよ」
まどかの膝の上に雑誌を置き、美和が覗き込むように雑誌を見ることにした。ページを捲るのはまどかだ。久しぶりにファッション雑誌を見るので、まどかは少しドキドキしている。どんな洋服があるのか楽しみだ。表紙を見ると、まどかのお気に入りのモデルがかわいい洋服を着て笑っている。中を見てみると、かわいい洋服を着たモデルがたくさん写っている。
「良いね。これ、すごくかわいい」
まどかが雑誌を指さした。美和はそれをじっと見つめる。
「うん、かわいいよね」
ニコッと美和が笑った。まどかは、美和も同じ洋服をかわいいと思ったのだと思うと何だかホッとした。自分が、その洋服を着ることができるというわけではない。だが、自分がまるでその洋服をきているかのような気持ちになれたのだった。
横にいる美和もまどかの明るい表情を見て、安堵していた。自分が持ってきた雑誌を気に入ってもらえるかどうか心配していたのだ。
周りでは、おばさん達の話し声が聞こえる。あまり大きな話し声ではないのだが、病室は決して静かではない。しかし、まどかと美和は雑誌に夢中になっており、全く気にならない。1ページめくるごとに、まどかは興奮していった。しばらくファッションとはほとんど遠ざかっていたからだ。奈津子が亡くなってしばらくはファッションどころではなかったのだ。泣いてしまいそうな自分を立て直すことばかりで、他にはほとんど何も考えることが出来なかった。佳代もそんなまどかを心配していたが、笑顔をたまに見せる以外は、特に何もしなかった。それは、まどかはひとりぼっちではないというメッセージが込められていた。まどかも何となくそれを感じ取っていた。
「ねぇ、美和。船井君とはどう」
ふいに聞かれて、美和はドキッとした。思わず体をビクッとさせたところをしっかりとまどかは見ていた。しかし、そのことには触れずに、まどかはニコッと笑って見せた。
まどかの笑顔にホッとした美和は、椅子に座り直し、安堵の笑みを浮かべた。
「どうって、そうだなぁ。一緒に買い物に行ったりはしたけど、あんまりデートはしてないよ」
「そうか。ラブラブで、毎日が楽しいって感じかと思ってたのに」
余裕の表情を見せるまどかに、美和は心を開いた。
「学校が始まったから毎日会ってはいるけどね。あと、メールは帰ってから毎日してるよ」
それは、容易に想像できた。学校では、美和と船井が休み時間になると二人で話すことが多いだろう。教室のロッカーに座って話したり、廊下に出て、二人で窓の景色を見ながら笑顔で話す様子が目に浮かぶ。
まだ、船井のことが好きなまどかにとっては、想像すると辛くなった。美和にはバレないように笑顔を作るのだが、美和はこれ以上、船井のことを話さない方が良いと判断した。
「ねえ、まどか。これなんてかわいくない?」
美和は、開いてあるページのモデルを適当に指さした。まどかは、驚いて一つ頷いた。しかし、それはまどかの好みのファッションではなかったので、話が進まない。黙って雑誌を二人で見ていた。適当にページを捲っていると、まどかの目に留まったモデルが現れた。
「あ、これ、かわいい!」
思わずまどかはそのモデルを指さした。美和も突然のことで身を乗り出してそのモデルを見た。それは、赤いデイジー柄のカーディガンに紺のタイトスカートを履いていた。
「うん、これ、かわいいよね」
美和も大きく頷いた。そして、美和はそのモデルを忘れないように記憶した。
他のページにも気になるファッションはいくつかあったのだが、一番気に入ったファッションはデイジー柄のカーディガンだった。
美和は、病室を出ると足早に帰った。病院を出ると、雑誌を取り出して、まどかが気に入っていたファッションを確認した。よしっと小さな声で一つ気合いを入れた。
鞄から携帯電話を取り出すと、高校の友達にメールを打った。病院の玄関の目の前で打とうと思ったが、看護師が邪魔そうに美和を避けたことを感じて、急いで玄関の脇に移動した。雑誌のまどかが気にしていたファッションを撮影してメールに添付して送った。
携帯電話をすぐに鞄にしまって歩き出した。その足は、とても早かった。遅刻でもするのかと思うくらいの速さだ。少しでも早く、美和には行きたいところがあった。
病院近くの駅前にあるファストフード店に行くと、そこには高校の友達が待っていた。美和と合わせて四人いる。
「聞いてきたよ」
美和は、店内の奥にいる友達のところまでテーブルにぶつかりながら行った。腰を打ってしまい、腰に手を当てている。それを見ていた三人は大笑いしていた。
恥ずかしそうに空いている席に座ると、雑誌を鞄から出して開いた。友達はメールの写真を確認していた。それは、まどかが良いと言ったあのファッションだった。
「これだね」
美和が持ってきた雑誌に全員が目を通した。
「これ、どこに売っているのかな」
「駅前のファッションビルにあるんじゃないかな。あそこのお店の名前が小さいけど書いてあるから」
友達同士で話し合い、早速、駅前にあるファッションビルに行くことにした。美和は、来たばかりなので、本当は何か飲みたい気分だったが、美和以外はもう気持ちがファッションビルに向かっており、何も言わずに席を立った。
駅前のファッションビルまでは、ほんの数分歩くと着いた。決して広いわけではないが、たくさんの若い女性に人気のあるブランドが入っている。エントランスを抜けると、全員でまどかが気にしているブランドがどこの階に入っているかを探した。ファッションビルの中央にあるエスカレーター脇にあるフロアガイドで確認すると、4階へとエスカレーターで行くことにした。右側を開けたために、4人は縦に一列になった。4階に着くと、全員がキョロキョロしながらどこにまどかのお気に入りのブランドがあるかを探した。
「あった!」
一人がブランドがあるほうを指さし、急いで向かった。狭い通路を人と、商品とぶつからないように歩いていく。多少、人とぶつかりながらもたどり着いた。店の目立つ場所にまどかのお気に入りのデイジー柄のカーディガンが置いてある。
「これだよ、まどかが気にしていたのは」
美和がカーディガンを手に取った。サイズは、ちょうどまどかにぴったりだ。ただし、他にも色がある。赤、紺、緑とあり、全員で顔を見合った。
「赤で良いのかな」
悩みながらも、やはり、まどかが雑誌で見た赤を選んだ方が良いだろうと言うことになった。そして、紺のタイトスカートも探した。デイジー柄のカーディガンのすぐそばに置いてある。雑誌も開いた状態で棚に置いてあり、このセットはこの店の目玉のようだ。中に着るのは、丸襟のかわいいピンクのブラウスにした。
学校帰りの女子中高生で賑わう店の中を4人が縮こまりながら店の一番奥にあるレジへと向かった。
支払いは、言い出しっぺである美和だ。後で4人で割り勘することになっている。店員が、手際よく洋服を畳んでビニール袋に入れた。支払いが終わると、そのビニール袋を美和が持った。いとおしい目でそれを眺める。
「美和、早く」
いつの間にか立ち止まっていた美和を友達が呼ぶと、美和は小走りになった。
美和が帰った後、まどかは手紙を書いていた。なるべく多くの人に手紙を出したいと思っている。ベッド脇の引き出しには、手紙がたくさん入っている。まどかの頭の中には、すでに誰に手紙を書いたかがインプットされている。奈津子がやっていたことの真似をして、ノートを活用している、そのノートには、これから誰に手紙を書くのかがリストアップされている。
そして、ノートの最初のページに書いたやりたいことリストは大きく黒いボールペンでばつが書いてある。もう到底どれも出来そうにないと思ったからだ。自分の体のことだ。自分が一番良くわかっている。もう自分は、長くはない。ベッドから離れる頻度も少なくなった。身の回りのことさえ、一人でやるのが辛くなりつつある。薬のことは、よくわからないけれど、副作用が激しくなっていることを考えると、それだけ強い薬を使っているということだろう。強い薬でなければいけない状態なのだと思うと、それを考えただけで涙が込み上げてくる。うっすらと涙が浮かぶ時間も増えた。誰にも気付かれないように、指で拭う。すると、気持ちが切り替わる。すっかり、病気のことを考えないようになるのだ。
手紙を書いている時は、どうしても過去を振り返り、相手のことを思い浮かべてしまう。また、会いたいと思っても、もう会えない相手も多いだろう。自然と涙がこぼれてしまいそうになることが多い。
美和には手紙を書く予定だが、船井にはどうしようかと悩んだことがあった。思い切って告白することも考えた。もしかしたら、自分と付き合ってくれただろうかと考えてしまう。先に告白していればと何度も考えた。しかし、船井には手紙は書かないことにした。いなくなった人から告白されても困るだろう。それに、突然、付き合ってもいない女子から手紙をもらっても困るはずだ。美和のことを考えれば、船井のことは綺麗に忘れることが望ましい。まだ、未練は残っているのだが、付き合ってもうまくいかないだろうから、諦めている。
最近は、時間を見つけては手紙を書くようにしている。レターセットは両親に買ってきてもらったものだ。母親のセンスだろう。花柄のかわいいレターセットばかり買ってくる。どれもかわいらしいので、レターセットは母親に全てを任せている。
引き出しを開けると、レターセットももちろん入っている。花瓶に花を活けなくても充分だと思ってしまう。
まどかが、個室に移ることになった。まどか自身、もう二度と大部屋には戻って来られないだろうと察した。佳代も心配そうに個室へ移動するまどかを見送った。廊下をゆっくりと進んでいる時、まどかはじっと天井を見つめていた。本当なら、真っ白い天井が見えるはずなのに、そこには両親や美和などまどかの身近な人の顔が浮かんでいた。
気が付くと、個室に着いていた。やはり、無機質な感じだった。看護師が点滴をし終わると、ひとりぼっちになった。実家にいる時も一人になることはあったのだが、入院してからは初めてだ。必ず誰かが側にいてくれた。病気でひとりぼっちになることが、これほどまでに怖いことなのか。外からは、医者や看護師らしき足音が聞こえてくる。しかし、ほとんど気にならないくらい静けさにまどかは不安を感じた。
さっきまでいた病室に置いてあったものもちゃんとまどかの側に移動している。まるで、病室が変わっていないかのようにも見える。まどかが横になっている間だけは、天井だけを見ている間だけはそうだ。ふと、病室を見回すと、すぐに自分がひとりぼっちだと感じてしまう。
まだ、手紙を書き終えていない。早く、全部書かないとと思うのだが、今のまどかにはむずかしい。起き上がることもむずかしいからだ。移動したせいか、疲れてしまった。静かに目を瞑るとそのまま眠りに落ちた。
美和は、次の日曜日に高校の友達と一緒にまどかの見舞いに行くことにした。まどかのお気に入りの洋服とデジカメを持って行かなくてはならない。美和の部屋のベッドの脇に置いてある。
高校から家に帰るたびに、不安になる。まどかは、この洋服を見て、喜んでくれるだろうか。
まどかへの見舞いとして、お気に入りの洋服をプレゼントしようと言ったのは、美和だった。さすがに、あまりまどかが長くはないということまでは言わなかったが、長期間入院して、ろくにおしゃれも出来ないなんてかわいそうだと、だから、お気に入りの洋服をまどかに着てもらおうと言うことになったのだ。
白いビニール袋のせいで、中身は丸見えだ。ちょっと雰囲気が出ないけれど、まどかさえ喜んでくれればそれで良い。
美和は、未だに罪悪感がある。まどかが恋い焦がれていた船井を奪ってしまった。しかも、そのまどかは大きな病気を患っているのだ。何て惨いことを自分はしてしまったのだろう。そう思うと胸が掃除機で吸い込まれそうなほど苦しくなる。いっそ、掃除機で自分を丸ごと吸い取って欲しいと思ったこともあった。まどかは、許していると言ったが、美和は自分が許せないのだ。どうにもならない今をもがきながら過ごしている。
今ごろ、まどかはどうしているだろうと、たまに思うことがある。そして、そんな時は空を見る。まどかがそこにいるわけではないのに、自然上を向いてしまう。それが、癖になっている。一人の時に、まどかの事を思い出すと、涙が零れ落ちるからだ。涙を流さないようにと思って自然と上を向いてしまうのだ。
日曜日になり、美和は友達と一緒に病室へと向かった。以前行った大部屋に行くと、まどかがいるはずの場所に、知らないおばさんがベッドの上に座っていた。
おかしい。まどかに何かあれば、高校の先生が何か言うはずだが、何も言っていなかった。なのに、どうしてそこにまどかがいないのか、すぐには理解出来なかった。
すると、入り口近くにいる佳代が、美和たちに気が付いた。
「まどかちゃんなら、個室に移動したわよ」
「え、そうだったんですか。ありがとうございます」
丁寧に礼を言うと、すぐに個室に向かった。廊下を歩いている時、誰も何も言わなかった。言えなかったのだ。
個室に着くと、ノックをしてから中に入った。そこにいたまどかは、すっかり窶れていた。点滴を打ち、力のない目で美和たちを見ている。
「みんな、来てはくれたんだ」
ベッドに横になったままだった。その声には、元気が感じられない。ついこの間まで丈夫な泡だったはずなのに、今ではすぐに崩れて消えてしまいそうな感じだ。
美和たち全員が、まどかの変わり様に驚き、何も発することすら出来なかった。
「そうそう、ねぇ、まどか。今日は、スペシャルなプレゼントがあるんだよ」
ニコッと薄い笑みをまどかが浮かべた。安心して、美和は自分が持ってきたビニール袋からまどかが気に入っていた洋服を取り出した。テーブルにスカートやブラウス、カーディガンを置くと、横目で見ていたまどかの顔がどんどん明るくなっていく。
「それ、この間のだ」
まどかは、すぐに気が付いた。それを見ていた友達は、お互いの顔を見ては、大きな笑顔になった。
「まどかのお気に入りでしょ?これを着て、みんなで記念撮影しようよ」
同級生からの思わぬプレゼントにまどか驚き、そして、喜んだ。かわいい洋服を着ることなど、もうないだろうと諦めてもいた。諦めていたことが、今、行われようとしている。
ゆっくりとではあるが、まどかはベッドに手をつき、鉛でも体に着けているかのように起き上がった。周りにいる友達も管に気を付けながら、まどかの体を起こすのを手伝った。その腕は、細かった。自分の腕はここまで細くはない。しかも、ハリがあるというわけでもなく、とても女子高生の腕には感じられなかった。
まどかの着替えを友達が手伝った。まどかは、恥ずかしそうにパジャマを脱ぎ、気に入っているブラウスに袖を通した。そして、スカートを履き、一番のお気に入りのカーディガンを着た。ベッドの脇に立って見せたが、すぐにベッドに座ってしまう。
「ベッドに座って。後、カメラをどこに置こうか」
美和が、デジカメを持っておろおろしている。
「このテーブルの上に置いたら良いんじゃない?」
まどかが可動式のテーブルを指さした。美和は一つ頷いて、可動式テーブルにデジカメを置くと、電源を入れた。まどかたちがちゃんと画面に写っていることを確認して、シャッターを押す。
カシャッ
音と同時にフラッシュがたかれた。
美和以外の4人はきょとんとしてお互いの顔を見ている。次の瞬間、全員が気が付いた。
「美和!」
「ごめん、間違えたよ。今度は、タイマー使うから」
焦って美和は、もう一度デジカメで全員が写っていることを確認した。テーブルの上に置いたままの状態でタイマーをセットする。とてもやりにくく、体をくねらせて何とかセットした。そして、シャッターを押すと、急いでまどかの横に行った。みんな、おもいっきり笑顔でレンズを見る。数秒後、デジカメのランプが点滅すると、カシャッという音がして、ようやく5人の写真が撮影出来た。真っ先にまどかに見せると、まどかを取り囲むようにデジカメの画面を覗き込んだ。よく写っており、もっと写真を撮ることにした。必ずまどかが写っている。ベッドに座るまどかと代わる代わる撮影する。撮影者も入れ替わった。
まどかは、写真撮影を心の底から楽しんだ。だが、一つ不満なことがある。病室の中だということだ。せっかくおしゃれをしているのに、仲良しの友達と一緒にいるというのに、バックが病室とはあまりにもつまらない。もっと良い場所で撮影したい。このメンバーと一緒に出掛けたいという気持ちが強くなっていった。
「この写真、後でプリントアウトして持ってくるからね」
美和が、デジカメを見ながらニコニコしている。よく撮れた写真がたくさんある。まどかも喜んでいる。この作戦が成功だったことに、美和は充実感を感じている。まどかには、申し訳ない事をしたと思っているだけに、笑顔になって夢中で写真を撮って喜んでいる姿に胸が熱くなった。
まどかは、カーディガンをまじまじと見つめている。
ずっとこのまま病院に居続けるのだろうか。死ぬまで、病院にいなければならないのだろうか。もう、外に出ることなんてないのだろうか。撮影が終わってしばらくすれば、みんな帰ってしまう。自分たちの家にそれぞれ帰るのだ。家に帰れば、「ただいま」と言う。「おかえり」と母親か誰かがきっと言うのだ。そんな当たり前のことが、もう自分にはない。死ぬまで、その光景を目の当たりにすることもないのだ。外の空気を吸うことさえむずかしい。
まどかの心は決まった。
「私、外に出たい」
真っ直ぐな瞳のまどかだが、周りはそうはいかない。叶えてあげられない願いなので、誰も声を発することさえ出来ない。
「ねえ、外に連れてって。せっかく、おしゃれをしたんだもの。外で写真を撮ろうよ」
「駄目だよ、まどか。あれだけ写真撮ったんだし、もう良いじゃない」
美和が、まどかを幼い子供をあやすように優しく接した。
まどかは、拳を握った。
「みんなは良いよ。家に帰れるし、自由に外の世界を歩き回れるじゃない。私なんて、ここから出られないんだよ。本当は、すごく外に出たいのに。病室の写真なんて悲しいじゃない。もっとみんなと一緒にいたいよ、もっとみんなと一緒に遊びたいよ」
涙を流して訴えるまどかを見て、友達の心も決まった。駄目だとはわかっているが、あまりにもまどかが可哀想ではないかと思い、みんなでちょっとだけ病院を抜け出すことにした。点滴をしっかりと持って行かなくてはならず、大変そうだ。
「ちょっとだけだからね」
美和たちが、まどかをしっかりと支える。そして、点滴を一人がしっかりと持っている。すぐに戻ってくれば大丈夫だろう。まどかの顔色も良い。むしろ、今しかない。これを逃したら、もう二度と外には出られない可能性があるのだ。美和たちは、まどかの希望を少しでも叶えたい一心ですぐさま作戦を決行することにした。
医者や看護師が周りにいないことを確認すると、一斉に病室を飛び出した。まどかはあまり早く歩けないのだが、精一杯の早さで歩いた。友達の歩く速度に合わせようとすると、友達の方がまどかに無理をさせない程度の速度に落とした。
しっかりと周りを見る。そして、エレベーターに乗ると、もう外までの道のりは短い。誰もがホッとしていた。だが、一人だけは違っていた。まどかだ。エレベーターの壁に凭れかかって息を整えている。
「まどか、大丈夫?」
軽く頷くことしか出来ない。それに、決して大丈夫な状態ではなかった。エレベーターが1階に到着して、エレベーターから出ると、数歩のところで、まどかが倒れてしまった。
「まどか!まどか!」
廊下に美和たちの声が響いた。
まどかの目が覚めると、病室にいた。パジャマに着替えてある。病室には、両親だけがいた。二人とも、絶望的な顔で俯いている。
美和たちは、どこに行ったのだろう。無理なことをお願いしてしまい、しかも、まどかは倒れてしまった。きっと、医者や看護師に怒られただろう。まどかも怒られるかもしれない。無理なお願いをした張本人だからだ。ベッドの上で、これから自分が怒られることを覚悟した。
「まどか、気が付いたのね」
椅子に座っている母親が、まどかが目を覚ましていることに気が付いた。椅子から立ち上がると、涙を浮かべてまどかに思わず抱きついてしまった。まどかの耳元で、母親のすすり泣く声が聞こえた。父親は、その後ろで涙を堪えている。
「ご免なさい。私が、無理を言ったせいで」
「まどかだって、外に出たいわよね」
母親は、静かに椅子に座り、ようやく落ち着いた。ハンカチで涙を拭った。
怒られると思っていたけれど、両親は全く怒らない。それどころか、まるで自分がすでに死んでしまったかのような顔をしている。こんなにも、自分は迷惑をかけていたのだ。こんなにも、大変な事をしてしまったのだ。
そして、想像以上に、自分の体ががんに蝕まれていることを知った。まだ、外に出る力くらいは残っていると思っていたが、それすら無くなっていたらしい。自分の体に失望した。
「先生に、何とかお願いはしてみるけれど、むずかしいかもしれないわね」
母親は、諦めていなかった。まだ、まどかを病院の外に連れ出そうと思っているのだ。
病気じゃなかったら、余命幾ばくもない状態でなかったら、ただ、怒って終わっていただろう。もう余命が何となくわかっているから、無理な事でも諦めないようだ。
「ありがとう。でもね、もう良いんだ。もうわかったから」
「わかったって?」
「私の体。いつの間にか、自分の体がこんなにも弱っていたんだって、よくわかったの」
まどかの頬に涙が伝った。
みんな、ありがとう
体調が安定した時は、手紙を書くことがまどかの習慣になっていた。幸い、今は個室なので周りを気にしないで手紙に集中出来る。寂しい気持ちもあったが、今となっては自分が集中するために必要な空間なのかもしれないと思っている。
着々と手紙を書き、ついに最後の1通を書き終えた。全て手書きだ。最後の手紙ともなると、体力がないせいか、字がかなり汚くなっている。まどかは、その便箋を手に取り、これでちゃんと読んでもらえるかどうかと考えた。何とか読めるだろう。封筒に入れて、引き出しにしまった。
これで、もう悔いはないーまどかは、手紙を最後まで書き終えたことで、大きな満足感に浸っていた。伝えたいことを伝えたい人にきちんと伝える事は、簡単なようで、実はとてもむずかしい。これまで、友達同士で会った時も言いたいことをあまり伝えられなくて、もどかしい思いをしたことは何度もあった。だから、その後にメールも電話もしたのだが、それでもきっと伝えきれていない。手紙だけで全てを伝えることは出来ないだろう。だが、今のまどかが伝えたいと思う事は、書く事が出来たと満足しているのだ。
自分にとって、一番の終活は、みんなに手紙を書く事だったのかもしれない。全ての手紙を書き終えただけで、これだけ満足出来たのだから。
ノートを広げて、最後の一人にチェックを入れた。
ふと、自分のやりたいことリストに目が留まった。どれも、これまで生きてきた中ですでにやったことがあるものばかりだった。もっと大きな事を書いても良かったのではないかと思う。オーロラを見るだとか、宇宙にいきたいだとか、到底叶いそうもない事を書いても面白かっただろう。そんな大きな事さえ思い浮かばなかったのか、現実的になりすぎていたのか。自分の普通のことばかりを羅列したやりたいことリストに嘲笑った。
今は、もう何がしたいと言うこともない。あるとすれば何があるだろうか。
自分が死んでしまったら、その後に何が残るのかを考えた。両親は、あの家に二人で暮らすだろう。まどかの部屋は、常に掃除をして遺影を置いているのではないだろうか。たまには、アルバムでも見て、まどかの事を思い出すのだ。時には、涙を流すこともあるだろう。まどかが死んでしばらくは、毎日のように泣いているのかもしれない。父親は、酒の量が増える可能性がある。父親宛の手紙には、お酒の飲みすぎに注意して欲しいと書いておいたが、それでも増えるだろう。
まどかは、自分がいなくなった後の両親の事が心配だった。やっとの事で生まれた一人娘なのに、両親よりも先に死ぬとは。
窓の外は、まだ木々が青々としている。そよ風に揺られる羽音も耳を澄ませば聞こえてくる。この音もいつまで聞くことが出来るのだろうか。入院するまで、全く聞こうともしなかった音だ。流行りの曲ばかりを聞いて、カラオケで友達に披露していたころが懐かしい。夏休みには、何度もカラオケに行こうと思っていた。花火大会の後にカラオケに行っていたかもしれない。まどかは、歌う事が大好きだった。もちろん、入院してからは歌っていない。気分が良い時に鼻唄を歌うことはあった。それを真似て奈津子が隣で鼻唄をハミングすることもあった。奈津子がノートに何かを書いていても、まどかの鼻唄に合わせることは多かった。体力が無くなっていったせいか、奈津子が亡くなる直前には鼻唄をハミングすることはなかった。今の自分には、奈津子のその時の状態がわかるような気がした。病魔に蝕まれた体では、なかなかやりたい事が出来ない。頭の片隅に置いてあった想像していた現実が、今、来ている。
まどかは、横になった。枕には、次から次へと流れる涙。同じ場所に涙が落ちるせいで、頬に当たる場所がぐっしょり濡れた。
ずっと個室にひとりぼっちでいるまどかに、その時が近付いている。体中が痛くて何度もナースコールを押したこともあった。看護師を呼んだからといって、その痛みが完全に治ることはなかった。
どうして、私ばかりが痛みに耐えなくてはならないのだろうと、何度も思ったものだ。
ひとりぼっちは寂しいけれど、それ以上に死ぬ事が怖くて堪らない。自然と体が震えることも珍しくはなかった。奈津子が待っているとは言っても、怖いものは怖いのだ。
病室には、急遽呼び出された両親がいる。ほとんどまどかは両親を見ることさえ出来ない。乱れる呼吸。もっと空気が欲しい。まどかの周りには、たっぷりと空気があるはずなのに、うまく呼吸が出来ないのだ。
自分の人生が終わるのだ。
まだ、やりたい事はたくさんあった。一番好きな人と手をつないだりしてデートしたかった。友達ともっと遊びたかった。勉強だってしたかった。病気になる前は、あまり勉強には興味がなかったのに、おかしなものだ。入院していると、普通の高校生活に戻りたくて仕方がなかった。
普通であることが、どれだけ大切な事だったのか。何も考えずに過ごす日々がどれほど尊いものなのか。
奈津子は、生まれつき体が弱く、そんな普通の事をほとんど経験していない。病院の中で人生のほとんどを過ごしたのだ。外の世界を知りたかっただろう。奈津子とどこかへ出掛けてみたかった。あの世に行けば、もしかしたら、天国で思う存分遊べるかもしれない。
奈津子がいると思うと、悲しみが消えていく。死にたいわけではないが、死が怖くなくなるのだ。
「まどか」
母親が涙をハンカチで拭っている。父親は、母親の肩をしっかりと抱き締めて支えている。自分の娘の死が近付いているのだ。まどかが死んでしまったら、母親は一人で立てるだろうか。
父親は、涙を堪えている。肩をポンと叩けば、大量の涙が溢れるかもしれない。
私の終活は、行動ではなく、心だった。これもれっきとした終活だよねーまどかは、奈津子に話しかける。側にいない奈津子から、そうだよと言ってもらえた気がした。
ピーっという音が病室に鳴り響く。すぐに、医者がまどかの瞳孔を確認すると、死亡が確認された。
「嫌よ、まどか!起きて、起きてよ」
医者が退くと、母親がまどかに覆い被さった。人目も憚らずに大きな声を出し、まどかを起こそうとする。
「まどか。死んじゃだめよ。ねぇ、起きて。目を開けて。もう一度、おかあさんって呼んでよ、ねぇ、まどか•••」
父親は、止めなかった。その場に立ち尽くし、すすり泣いている。
「どうして、まどかなの。まだ、こんなに若いのに。どうして•••」
声にならない声で、まどかに母親は話し続ける。
10代の終活