紅の中核~Gaze at Crimson~

紅の中核~Gaze at Crimson~

[紅の中核]12/10/2012



 目を覚ますと、世は紅かった。
彼女は黒い着物の袂を引き寄せゆっくりと腕を立たせた。
頼りない白の手腕が覗いては指先は真っ赤な何か、ひんやりと冷たい感覚についている。
はて。ここはどこだろう?
静かに見回すと真っ赤な幾重もの柱の先に見えるのは闇である。どこかそれは懐かしさを跳ね返すものであるが、共に今に身を置きつづけたくなるだろう色味だった。
彼女は周りを取り囲む柱より細い白赤の支柱に手をかけ、そっと立ち上がった。足袋を踏みしめしっかり立つと、そこで辺りをぐるりと見回す。
周りは太い赤の柱と、もっと近くは白味掛かる赤い支柱に取り囲まれていた。ここは赤の格子の檻だろうか? 罪人でもあるまいし、何か罰をおう沙汰を受けた人生も持ち合わせてなどいない。
ただ罪な程に色気のある彼女は芸者として江戸で舞を見せていた。男たちは酒に肴に酔い暮れて女の舞を愛でては色目をくれた。妻を娶った男に手などだしもせず酒に付き合い徳利片手に行灯に照らされ、それでも心は清く保ってきた。
赤の檻はそれは冷たく寒々しいが、なぜか艶がある。
手に握っていた江戸紫の風呂敷を掴み、紅の口許へ持って行くと口から何かが出て来て驚き吐き出した。
「?」
真っ白い指につまみ、鼈甲カンザシの小首を傾げる。これはなんだろう?
鈍色の小さな石の様で、それが口から出て来て今は黒い瞳に見つめられている。
別に、縄で拘束されてもいない彼女は再び檻の中からその先に広がる闇を見る。細い格子と、赤い柱に囲まれた建物の中なのだろうか。それはまるで京の都の寺院にいる様であって、その崇高な場所と柱先のがらんどうの闇が同じなのかは不明だが、その中心に座った。
「きゃあ!」
何かの影に気付いて彼女は顔を上げ恐れに戦き瞬きをした。そのことで手の中の先程の珠が落ちていき咄嗟に床を見た。
「………」
はるか下まで闇は広がっていたのだ。何か、床は床とは言えずに不安定で、良く見れば座れるものでもない。下が見える床の下は太い支柱が一本、この檻の建物を支えていた。
また見る。
それは黒と黄色の巨大な蜘蛛で、赤い模様が腹部に入っていた。体毛が微かに覆って、鋭い顔の黒い目で女をじいっと見ている。長い足がまるで白赤い格子に混じる様に違った格子をつくるみたいで、彼女は震えて蜘蛛の牙を見た。
女郎蜘蛛だ。まさか、貪り尽くすつもりだろうか。格子の先はどこにも看守の気配などせずに、男達は見当たらない。
蜘蛛が細い足で動き、移動していくので見上げた。天井など見なかったが、無かった。蜘蛛がそれになって歩いて行くと、底はかとないこれまた闇が広がっている天だった。
だからといえ、自分が登れるわけもない。
「ねえ蜘蛛さん」
彼女は不安げに呼びかけてみた。
「なんだい」
驚く事に蜘蛛は女の声で応え、こちらも見ずに格子の向うに移動し続けている。
「ここはどこ?」
「蝶々がここは何処、か。おかしなものだね」
首を傾げた蜘蛛が見てきて、彼女は自分の姿を見回した。いつもの着物だ。裾が長く、黒い上等の着物は白と赤の襦袢を丁寧に覗かせている。白粉の塗られた手はしなやかだった。
「はて。なんの事やら……」
「生まれたばかりでまだ、記憶が無いのかね」
首を振りながら向き直り蜘蛛は柱の向こうにも出て、そこで休憩をしはじめたらしかった。
「月の夜に孵ってまだ飛べないのだろうさ」
不可解な事を言い、蜘蛛はいきなり跳んで行った。
「あ、待って!」
その蜘蛛がはるか下へ見えなくなっていったと思ったら、今まで気付かなかった月光で何かが光った。
それは銀色に光った蜘蛛の糸で、それがシュウンと飛んでいき闇の向うの何かに掛かった。
そしてあの巨大な蜘蛛が上がって来て、素早い動作で蜘蛛の巣を形成し始めたのだ。
彼女は茫然と格子に片方の手をかけ立ち尽くし見つづけていた。
蜘蛛はああやって自由に出来ているけれど、自分はこのまま動けないのだろうか。お座敷も入るというのに、夜、獅子脅しの水辺に秋の丸い月が揺れる風情を庭園で見つめていた彼女はシダに指を寄せ緑の苔を草履の下に、ただただ鈴虫の声を聴いて過ごしていた。
それで、気が付けばここにいたのだ。
蜘蛛は徐々に銀色の城を作っていく。立体的で、蜂の巣みたいに完璧だ。
「凄いものね。綺麗じゃないの」
「まあね」
蜘蛛はどんどん巣を創り上げながら繊細さはどこからか吹いた風にふんわりと揺られている。
美しかった。
「ねえ。あたしね、人なのよ」
「ひと? って、なんだい?」
蜘蛛が顔だけをこちらに向けて、女を見た。
「ほら、こうやって、舞うの」
彼女は日本舞踊を踊って見せ、蜘蛛がじっと見ていた。
「あんたも綺麗なもんだね。でも、寒くってその黒い羽もまだ重いだろう。無理しなさんな」
蜘蛛には自分が黒揚羽蝶に見えているのだろうか? 彼女は困って、月を見上げた。
「まあるいお月さま まあるい目 妖怪の目にも似てみえら」
蜘蛛が歌い、巣の確認をしながら行き来している。
満足すると中心へ来て、こちらを見た。
「こっちの布団にくるかい? ここは居心地がいいよ……」
「………」
彼女はしばらく笑った様に思えた蜘蛛を見て、首をゆるやかに振った。
「遠慮しておくわ。だって、食べられてしまう」
「ははは」
蜘蛛は笑ってから目を綴じ、じっとしはじめた。
確かに自分も手足が細ければ、巣の粘りも無い支柱を伝ってあの心地良いだろう透明の寝床で安眠できただろうけれど、やはりそれは不可能だ。朝目覚めれば、今度は蜘蛛の繭に閉ざされているだろう。
そして息絶えたところを食べられるのだ。
彼女は丸くなり、床がたどたどしい中を眠りについた。

 小鳥の鳴き声に、感覚が緩く目覚めた。
彼女は白いまぶたを開き、寒さに体を強張らせる。
見渡すと驚いて辺りを見た。夜は明けていて、格子や柱が細やかに赤粒の如く光っているのだ。とても綺麗だったのだが、くしゃみをした。
しっとりと格子や柱は露で濡れていて冷たくて、風邪を引いてしまう。
霧が濃く流れている事が分かった。この紅の砦を包んでいる。
「………?」
蜘蛛を確認しようとしたら、既に動いていた。せっせと城の貯蔵庫に溜め込む風で繭をいくつかこしらえている。巣は雫を乗せていて、それも蜘蛛は細い手足につかんでいくつか落としていた。その瞬間陽に光をまとって綺麗に落ちて行った。
格子に手をかけ見ていた彼女は、自分は朝餉をどうしたらいいか考えているのだが、実に芳しい感覚が辺りを包んでいるのだ。
それは美しい感覚で、喉が鳴るほどの甘美なものだった。辺りを見回しても分からずにいて、また蜘蛛を見る。一仕事終えるとまた巣の中心へ戻って行った。
「働き者の蜘蛛さん」
「なんだい。おきてたの」
「ええ。今さっき」
体が重くてそこまで動けない。着物が朝露に濡れているのだから。
「ここは何処なの?」
「名前なんかある場所もあるのかい」
「さあ……」
朝陽が強烈に登り始め、彼女は目を閉ざした。
「ああ、眩しい」
蜘蛛が言い、彼女も目を綴じた。繊細な蜘蛛の影が揺らめく霧に射し、美しい中、いよいよ香ってくる。なんの香りか、神聖な気がして彼女は食欲を感じた。
動けないままにいると、徐々に霧が流れていく。霧は香りを含み流れて行っても、彼女を中核で包んだ。
首を傾げ、格子を見回す。
「あら……?」
見上げたり、見回していた間に向うに赤い物が見え始めた。霧霞の先、赤くまあるい雪洞がたくさんあるのだ。
辺りをそれは囲っていた。
その霧が晴れていき、視界が透明になった。
なので驚いた。
「饅頭釈迦……?」
それは見事な赤い饅頭釈迦の世界だったのだから。
「………」
「どうせ温かい昼まで飛べないだろうに、朝ご飯でも飲んだらどうだい」
蜘蛛がキラキラ露を細かい毛に纏いながら言い、それを細い足で払い始めている。
格子を見回した。
違う。格子などではなく、それは饅頭釈迦のおしべだったのだ。そして自分がその中核で座っていた場所が雌しべだったのである。
赤い柱は柱では無く赤い花の部分かがくの部分か、女は花の詳しいところは分からないが、昔お座敷に来た若い男が片肘をつき横這いに徳利を持って言ったものだ。彼女の膝に頭を預けて彼女の紅を見た。
椿の花に似て内面はずっしりしてるのに儚い女なのだろうな、と。舞う姿は桔梗の様で、その声は彼岸花がいきなりしゃべった様な驚きだ。と言って来た。ただただ何ももの言わない彼岸花に例えてきて、彼女は笑った。
まさかその紅の饅頭釈迦の中央に自分が目覚めたなんて、思いもよらずに蜘蛛に聴いた。
「あなた、あたしが孵ったのを見てたのね」
「さあ……男でも探してた昼さがりは明るくて蛹だったが、あたいが気付いたら夜もふけて孵ってた後だったからね」
「ふうん……」
徐々に朝が流れていき、森の木々や草花の香りが辺りを包む。
美しい感覚は饅頭釈迦の蜜だったのだ。
だが自分は人だから、管も無くて蜜の吸い方など分からない。まさか、黒い蝶の羽根があるのだろうか? 目覚めは夜で暗かったから背中は見えなかったのだろうか。
彼女は振り返ってみるが、首があまり回らない。蝶だからかしら? 背中は確認できないまま。
ツツジの蜜は甘い事を知っていた。幼い頃、ツツジの初夏は真っ白だったり鮮やかな色のツツジの花をつっと取り、蜜を吸ったものだ。
そこには必ず黒い揚羽蝶がいて、美しく細い管を伸ばして蜜を吸っていた。
徐々に温度が上がって来ると、彼女は見渡した。
真っ赤な世界の様な饅頭釈迦に取り囲まれた中で、同じ様に蝶がいたからだ。
全てを包む様な凛と立つ饅頭釈迦の花の外側に斜めに停まっていて、羽根を動かさず静かにしている。
ああやって重い羽根を乾かしているのだと今分かった。まだこの気温では重くて飛べないことが自分でも分かる。
他の昆虫が動き始めていた。羽根があるものは飛んでいる。それ毎に低い音が空気を震わせていた。
「あれ先客」
驚いて真っ黒い昆虫を振り返った。それは蟻で、女を一瞥するとお構い無しに蜜を吸い始めた。こんなに大きな蟻を見たのは初めてで、黒い甲冑を纏った武士かと思った。微かに体に赤の花粉もつけている。殺気こそは無いが鋭い顔をしていて、黒い身が真赤な花に映えていた。
二匹目が現れて蜜を頂いている。せわしなくまた赤い花柱をくるくる回って縦横無尽に伝っていき、帰って行った。
周りの饅頭釈迦達を見ても、さまざまな昆虫がわりと蜜をすっている。自分の様に誰も座っていないと、まだ中心やおしべの周りに水滴がたまっていて、透明な先にまあるく昆虫の姿が二重に見えていて鏡みたいだ。
ひんやりしていた夜の空気も完全に塗り替えられて、全てがきらきらと輝く世界だった。

 昼も近付くと、蝶がひらめきながらこちらにやって来た。
「お嬢さん。綺麗だね。一緒に飛ぼうよ」
「え。でも」
男の声の蝶が誘ってきていて、ここで共に蜜を飲もうよと言ってくる。黒い蝶は羽根が巨大で顔が小さく、充分温まった布団みたいだった。
「とても綺麗な羽根ね」
「ああ。見え無いけどね、自慢にしてるんだ。君の羽根も綺麗だよ」
蝶は大きな羽根をゆっくり開いたり綴じたりしてみせて、規則正しい管はすっと伸びると蜜を吸い始めた。
彼女はどうすれば自分に管が出てくるのか、一向に着物姿のままの自分に悩んだ。
お腹がすいた。一層着物を脱いでしまいたかった。
彼女が真っ白の体をさらすと、いきなり自分の体が軽くなってふわっと微かに浮いた。
慌てて饅頭釈迦の花の先に手を掴み、それが細い手に変わっていたから驚いた。
そして視野には渦を巻いた管が伸び、空腹と本能の赴くままに蜜のある赤い花の中核に管をさして昼食を始めた。それはとても甘くて美味しく、香りを人の頃には感じなかったのに不思議な甘さは衝撃的だった。
ふわりと体が浮いて他の饅頭釈迦の中核へ行く。
彼も来て彼女が蜜を吸う周りをふらふらと青い晴天背後に飛んでいた。うつろうように綺麗な態で。
先ほどから彼女は魅せられていて、蜜を吸いながらも赤く細い花の連なる先の彼を目で追っていた。
ああ、彼と愛の乱舞をするのだろう……。
彼女は思った時、体が浮いて羽根を動かし翔んでいった。すぐにそちらに行きたい彼の方へは上手にいけない。体が重くても羽根でどうにか浮かべているという不安定な状態であって、風が少しは吹いてくれれば体が軽くなるのにと思う。
赤い錦が広がる様な綺麗なこの場は饅頭釈迦の世界で、彼女は幸せだった。
緑の草が彩りを与え、林が隣りにある。静かな林は鳥の声がしたり、鹿が走って行ったり野兎が跳ねていた。
彼がこちらにやってきて彼女の周りを舞う。
それまで日本舞踊を舞ってきた彼女は共に男の蝶と飛ぶ事がすばらしく至福だった。共に蝶の舞を続けて乱舞し、充たされていた。
光にまでも充たされていた。



 舟宵はゆるやかに月光を浴び川面を進んでいた。
その屋形船の中では妖しげにまどろんだ彼等が酒を飲み交わし日本舞踊が踊られている。
闇が迫る中をぼうっと川岸に赤い群生、饅頭釈迦がまた違った川を作っていた。
夜、饅頭釈迦の下方で黒揚羽蝶の彼女は停まっている。
「あらほら。ご覧あぞばせよ。まるで魂の河の曼珠沙華。もうそんな季節だねえ」
「おお。これは美しい女たちの魂かな」
舟の中から障子の先に彼等がいい、その中は蝋燭で黄金に揺れている。
影が障子や空間にも広がっては懐かしい態で舞う芸者達。
蝶の彼女は目だけは舟を見ていた。流れていき、川面にも堤燈行灯や漏れる灯りが鮮明にうつっていた。
月光は満月から少し形をかえていて、僅かなうすい雲がたなびいている。
「この河に身を投げた悲しい女達の魂かねえ。それは、私等も三味線で緒を繋ぎ引き上げなけりゃ、私等共よりあの赤の花に殿方の心が持っていかれちまう」
「誤って首に掛けなさるなよ」
「女の嫉妬は怖いのよ」
色っぽい目を艶やかにくれ、女は煙管を吸い付く男の肩に手と頬を寄せた。
憂愁の名月は杯の中にうつり、その中に揺れ描かれる秋に舞う蝶の絵付けを飾っている。
風で吊るされた行灯がゆらゆらと、静かな影と光を広げていた。
男は肩越しに障子の先の闇に浮く赤い河を見て、表情も無く見つめていた。
「どうしたの?」
女が見ては、他の芸者達が舞う姿に目を移す男に微笑んだ。
「ああ、忘れられないのね。四日前に姿を消した紅辰のことが」
女の目にはあちらの蝋燭が揺れ、目蓋に閉ざされた。
こぽこぽと音を立て、屋形船は進んで行く。船頭は薄い雲間から覗く天の川を見上げ舟の先頭で水面に映る星達に包まれながらも進ませていた。
歌が歌われ三味線が響き、女達の舞う気配がする。ときどき話し声や笑い声が囁くみたいに聞こえた。
星の灯りで飾られる饅頭釈迦の群は、この舟を冥府まで導く色に思わせる。
船頭は黙々と、舟をこいだ。あちらで漕ぐ倅はまるでぼうっと赤い河を見ている様でしっかりさせた。
「こら。前をみやがれ」
「とっちゃんだって」
黒い水は白い波を立てつづけ、すいーっと波紋を広げては、あの岸辺へとつき消えて行く。
「紅辰はどこ行ったんだろう」
倅は彼女を好いていたので、心に残っているのだろう。あの花の様に彼女は美しかった。まるで一年中見る幻の紅で、舞う姿は定評があった。
「もしかしたら、あの花の中で紛れこんで白い狐にでもなってやしないか。思うよとっちゃん」
親子はその饅頭釈迦達をみて、闇に白い狐がとんとんと跳び赤を彩る風で、顔を見合わせた。

 彼女は少しだけ赤い花弁を伝い歩くと、眠りを懐かしい三味線と歌で目覚めさせられたためにしばらくは夜の蜜を吸い始めた。
舟は既に行き過ぎて、ときどき場所を変える蜘蛛も三味線に合わせて歌っていた。
蜘蛛は巣を張る時は時間が掛かるが、場所を移動するとまるで暖簾を下げるとき同様に脚で透明な糸を手繰り寄せて食べて仕舞う。それでまた体に返して他の餌食も食べて糸の成分に変えて罠の巣を張るのだとか。
今日はたくさん獲物が掛かっていて蜘蛛も満足していた。
遠く聴こえなくなった歌はまた彼女に心を蝶に戻させる。
白狐はとんとんと跳び、するすると柔らかな体を饅頭釈迦の間でとおり抜けさせ進んだ。
たまに闇に白い姿が浮び、あの女の魂をさがしている。どこへ行ったのやら、見当たらない。
昼は社から出られない為に狐は闇を探した。
「ほう、ほう」
梟が鳴いている。見つかったら餌と間違われる前に赤い波に紛れて進んだ。林の中の彼岸花を抜けると、河が見えて来る。
狐は綺麗な顔を赤い花から覗かせ、林を出ると白い着物の男になった。
遠くに屋形船が波紋を広げており、ぼうっとした灯りが。
彼は赤い中を進んでいった。
四日前、お座敷のある庭園の社前、真赤に行き倒れていた女がいた。障子の先に稀に見え隠れした美しい女で、白狐はその紅辰に魅せられていた。
その彼女が一人の女に夜闇をいきなり襲われ、そして自分のいる社までよろめいて来てはお稲荷の石像に手をかけて、絶えたのだった。
その魂が抜けて揺らめき飛んで行くのが彼には分かった。
鬼の様な女は短刀を手に下げたまま目を鋭く立ち尽くしており、その蝶の様にふらふらと飛んでいった魂の灯りには気付かなかった。灯篭の灯りと混じっていたのかもしれない。髪は乱れ紅の唇につき、女こそが幽霊や悪鬼の如く、そのまま歩いていった。白い石砂利を踏みしめて縁側へ上がり花の飾られた蝋燭も照らさない暗い廊下へと消えて行った。
彼女の亡骸は静かで、そしてとても美しかった。白狐は悲しくて見つめ、女が去ったので姿を現し昨夜は探しまわった。
庭園の中は整えられて素晴らしく、だがどこにも魂はいなかった。
今は河の流れる岸辺の赤い中。
彼は珍しい黒い蝶を見つけた。
こんな寒い夜に目覚めて蜜を吸っているのだ。羽根を静かに綴じ、その態はあの紅辰を思いおこさせた。
黒蝶は目を向け、闇の赤い饅頭釈迦に浮く白い着物の男を見た。
飛んでいこうにも今の寒い気温では飛べない。歩いて移動していき、花の下に隠れて停まりじっとした。
「紅辰」
「……?」
蝶は自分が呼ばれ、赤い格子や柱みたいな花の先の男を見た。赤に彩られた男は僅かに手腕を伸ばした。
「こいつめ!」
いきなり声が聴こえ、それはあの女郎蜘蛛だった。
男が驚き下方を見渡し、巣を崩された蜘蛛が赤い花の中核にのっかって恨めしそうに男を睨み見上げた。
「これは悪いことをした。申しわけ無いお嬢さん」
蜘蛛は牙を開け閉めし、巨大な白い生物が喋ったので驚いた。
「これは白狐じゃないか」
蜘蛛が渋々赤い花の中で身を護っていたのを呆れ返った。
「お稲荷様? ですか?」
黒蝶は男を見上げ、お座敷の庭園にもあった社のこともあり男を見上げた。
「お狐さまはてっきりおんなの神様なのだと」
声からして、紅辰は自分の身に起きたことを覚えていない風だった。ここで言うことも無いのだろうと彼は留めた。
自分に助けを求めてきた彼女の黒い瞳が忘れられない。この死国の闇さえも負ける程にまだ光を映していた眼だ。それがゆっくり崩れ、飛び石の上に体を横たえ動かなくなった。
舞う芸者の姿が浮かんで、散った花の様に儚く倒れた彼女を見たとき、この世の憐れを思った。
白狐は庭園の中さがしていたら、夜は予約を入れていた若い男が社の前に倒れる彼女に気付かず縁側を歩いていき、ほどなくしていない彼女の事を言っては帰って行ったのだ。
女が現れ、紅辰を引きづりながら庭園を去っていった。
今は静寂が包むこの場所は、現と黄泉を繋げていた。
「こちらへおいで」
細長い指をそっと赤の花へ近づけると、黒い蝶がよたよたと綴じた羽根を背に伝ってきた。
ぐんっと風を伴い手腕が動いて蝶はしっかり掴んだまま、近付いた男の涼やかな顔を見た。
大丈夫かしらと、管を伸ばして指を確認している。触れるから、彼は幽霊ではないらしい。
「夫がどこかで眠っておりますから……」
まだ契は交わしていないが、夫の黒蝶はどの赤の花の下に眠っているのか分からない。
「戻れまいよ。芸者にはね」
「分かっております……」
先ほど、屋形船が彼女に気付かず過ぎていった。こうやって忘れられていくのかもしれない。
まさか蝶になっていたとは思わなかった白狐はふっと姿を狐に戻し、一瞬を黒蝶が足場をなくして羽根を広げて舞い白い狐を彩り赤の花に停まってまっすぐと繊細な赤に囲まれる白狐を見た。
「あなたは、もしかしてお座敷の?」
「ああ」
「何故あたしは蛹から黒揚羽蝶に生まれ変わったのだろう。蜘蛛さんもそれを知らないの」
白狐は闇を背に、静かに何もいう事がなくてそれは彼女に自己の人としての魂の終ったことを思わせた。
蝶は自分の停まる赤の花の中核を見つめ、生まれ変わった場所に歩き進んで包まれた。


 女、陣辰は夢に魘されもがいていた。
闇を白い影が押し迫り追って来るのだ。何かそれは音も無く揺らめいて、行灯が灯る狭い路地を一人走る女を照らしても白い影の周りは暗くて姿が分からない。
壁に背を付け汗が美しいうりざね顔を伝う。しばらく見ていると、白い影はぼうっと立ち尽くし、女を見失ってあちらへ進んでいった。
彼女は手に何か持っていて、とっさにそれを放っていた。紅辰の口に放った毒薬の入った容れ物だった。それは鉛で固められて死体がもしも挙っても服毒と思わせるため。
小さな鈍い色の珠が数個、容れ物から落ちて殺した事実の影を落し転がっていく。
蛤に和紙を貼り絵柄をつけて紐で結んだその容れ物に落ちた毒薬を一粒一粒入れていき、栓をしてから立ち上がった。
夢とはまだ気付かずに蝋燭に照らされる彼女は壁から路地を見て、胸を撫で下ろした。
そこで彼女は目を覚まし、暗がりを見た。
「夢、か……」
ゆっくり起きると障子から射した月光を見る。
「なんだい……あたしを攻め立てる様に光って」
つぶやき、布団から出ては冷たい顔に手を当てた。
ぼうっと白いものが布もかけていなかった鏡に映った様で、はっとして見る。だが、それは自分だった。
白粉も落とされた顔はそれでもやはり白い。
「………」
膝を進め、袂をそろえると身をしならせ紅容れを手にした。貝殻の中に赤い紅を細い筆で取り、そして何もドウランを塗ってはいない唇にさした。
「………」
「陣辰」
「きゃあ」
「なんだい、驚くじゃないか」
屋形船で今宵共に舞った芸者の紫が歩いてきて、障子から月光が乱れた寝床にさした。
「なんだい。そんな早く眠ってたなんて、あんたの事だから男に逢いにいってると思った。これから出るのかい?」
柱にしなだれるように彼女は微笑み座り、紅の口紅を見た。
紅辰を贔屓にしていた男、詠ノ信は二日前から二番目にお座敷で評の高かった陣辰を相手にしはじめていた。それでもまだ彼の心は紅辰にあると今日分かったのだ。
「違うよ。今日はもう彼も眠ったろうさ」
「さあ。紅辰を探しているかもね。夢の中」
「え?」
ギクッとして彼女は紫をみた。あの気味悪い追われる夢はまさかさ迷い歩く詠ノ信だっただろうか?
彼女はにわかに沸き立ち笑顔になって美しい顔がぱっと明るくなった。
「変な人だねえ。好敵を求めてるかもしれないというんだよ」
「ふうん。あの人はどこへいったやらね」
陣辰は言っておき、早く夢の中で彼に逢いたくなった。
「それで、なあに?」
「紅辰のこと、お役所にかけあって捜してもらうことにしたんだ。だって、流石に四日も言伝も無いなんてあの彼女には考えられない」
今更無駄さ。頷いただけで彼女は貝の容れ物を鏡台に置いた。
紫は「それじゃあ」と立ち上がり、ふと足袋の足許を見た。開けられたままの障子から射す明りで照らされていた。
「これはなあに?」
彼女は小さな灰色の珠をつまみ、なにやら浮き足立つ陣辰を見た。
「なにか?」
彼女が顔をあげ、表情が途端に途切れた。それは毒薬で、もう棄てたはずだった。
月明かりを背後に紫はいて、あの庭園は二階からは見え無い。その彼女の背後から何か影がさした気がした。
「あんたがやったんだろう?」
それは、大きな尾っぽだったのだ。ぐるんと紫の背後を回り、そして影になって目が鋭く赤に光った。
「………」
陣辰は震え見上げ、途端に気を失った。
白狐は足許に倒れた女を見おろし、ふうっと指先を息で吹きかけると珠は細かな葉になって消えて行った。

 陣辰は夢を走って行き、先ほどの恐ろしい顔の紫がいなくなったので息をついた。
「……?」
そしたらまた、あの白い影がぼんやりと見えるじゃないか。彼女は紅を射した唇のままよろよろ歩いていき、微笑みながら白い影に近付いていった。
「詠ノ信さま」
背に手を当てたときだった。
「!」
振り返った男は別人だった。鋭い目が吊りあがり能面の様に引き締まって、目を震わせた陣辰の手首を掴んだ。
「みつけた……」
行灯に照らされる中、男の頬が暖色に染まり白い着物は雲の模様を浮き立たせ、顔が近づいた。
「この顔は違う。そうでは無いだろう。お前が殺しをした時の顔は……」
凍えるほど冷たい息が吐き出され、途端に彼女の紅の唇が固まった。
微かに開いたままに。
目だけが震え見て、彼女の口に何かが入れられる。それは、あの毒薬だった。
男の顔を見た瞬間、あたりの町屋は姿を消した。
闇が広がり、赤い地獄花の咲き乱れる中に二人、いた。
月など無い。あんなに攻め立てた月が。
陣辰の口端から血が流れ、恐怖が浮んだ。
「この顔だよ」
男は微笑み、彼女は悟った。あの社の狐。似ていた。いつも朝と昼、紅辰が綺麗にしていた。いつも「お狐さまは優しいお顔ね」と微笑み見ていた。信心深いところの無かった陣辰はそれを何思う事もなく見て来た。
力を失い陣辰は倒れ、赤い花を見た。
意識は薄れていき、息絶える。

 黒揚羽蝶となった紅辰は翌日、赤の花畑を悠々と楽しみ舞っていた。そこには夫である蝶もいて、愛の舞を見せている。
お天道の眩さが差し込んで饅頭釈迦は本当、一つ一つに黄金に輝く小さなお釈迦さまが立っているみたいに崇高に思える。
今日は林の方まで行くことにして、木々の下を赤い錦がうめつくしていた。
「………」
懐かしい顔を見つけ、紅辰蝶はそちらへ舞っていった。
あれは、陣辰。
あの子はまるで可愛い子で、紅辰は彼女が大好きだった。赤い花を布団に眠り、どうしたのだろうか。
木々の上から光柱が注いで、彼女の寝る周りをタヌキがいて見ていた。タヌキは鼻でくんくん匂いを嗅いでいて、首を傾げてから探っている。
彼女と夫はそちらへ行くと、着物に停まった。
「ううん……」
陣辰が綺麗な眉をひそめて、そして目を開けた。
とても嫌な夢を見て、何故か自分が林の中にいたから見回す。
「あら。いやだ。何故ここに」
タヌキが逃げていき、赤の花の先に走って行った。揺れ動く花の方向からまた辺りを見る。
首を傾げると、黒い大きな蝶が二匹舞っていた。美しくてしばらく光柱の中を舞う蝶を見上げていると、河のせせらぎでそちらを見る。
屋形船が昨夜滑っていった河が見えた。
そちらへ歩いて行く。
ぼうっとしていた。夢は彼女から眠った感覚を奪い、足を一度もつれさせると林から出て眩しい河を見る。
何匹か他の黒い蝶が舞っては蜜を吸ったりしていた。
赤に黒が映え、そして陣辰は何かを見つけた。おぼろげに進み、草むらに落ちるものをそっと手にとった。
鈍い色の珠で、それを半分閉じた眼は不思議に見つめた。
それを自然に口に運び、河の先を見ていた。
「………」
それが舌を転がり喉を通り、途端に彼女は向うの山を見つめたまま目を見開き、喉に震える手を当てた。
唇から血が一筋伝い、そしてその場に膝をついた。赤い饅頭釈迦の中、そのまま背後に倒れていった。
黒い蝶が二匹舞ってきて、紅辰は舞いながら彼女を見た。
「………」
今日は本当にいい日和で、ただただ紅辰は静かに悲しい中を陣辰を見た。
「何故?」
ふらふらと夫が視野にうつり、舞っている。
「どうしたんだい?」
夫にまさか自分のことを言おうが理解はされないので、紅辰は陣辰を哀れみながらも言った。
「いいえ。何でもないの……」
黒い蝶は死体を彩り舞って、明るい中を陽はまどろんだ。

 「まさか、心中かねえ」
お役所の岡引は川辺から小舟を寄せ、二体の芸者の遺体を見た。
赤い死人花に囲まれたそれらはいずれも美しく、二匹の黒揚羽蝶が彩っている。
小舟に死体は乗せられ、編んだい草をかぶせた。
「紅辰! 紅辰!」
林の向うから男の声が響き渡り、岡引は顔をあげた。
詠ノ信が息せき切ってやってきては、岡引は歩いてくる若い男に訪ねた。
「それはどっちの事だい」
「まさか……」
「彼岸花があったから獣に食われなかったらしいが、数日経ってるよ」
舟に手をかけた詠ノ信がい草を払い、目を見開いて口が震えた。
「何故……」
「二人とも芸者だろう。愛情の縺れじゃないかい」
黒い何かに咄嗟に詠ノ信は横を見て、一匹の黒揚羽蝶が彼の肩に停まった。
「……お前達は、お前達は何かを見たのか」
「蝶に訪ねても何もわかるまい」
昨夜は河を屋形船で下った。陣辰は妖しく微笑み闇に咲く赤い花の群を見たものだ。
女の嫉妬は怖いと言っていた。
まさか二人は恋仲であって自分が紅辰を自分の物にしていたからだろうか。
二人は血色も無く再びい草を掛けられ、小舟が進んで行く。波紋を眩しく広げ、詠ノ信は茫然自失と見ていた。
自分の死体がようやく運ばれていった姿を紅辰は夫と共に見送り、詠ノ信の周りを舞う。
彼はいつまでも饅頭釈迦の中にたたずみ、河を下っていく小舟を見つづけていた。
蝶になった紅辰の存在にも気付かずに……。
彼はふらふらと歩いていき、林の木に手をかけ額に手を当てた。刀など武士でもないので持ち合わせてなどいない。だが今ここにあれば、自分のこの不甲斐ない腹を刺してしまっていただろう。
「申しわけ無い……紅、陣」
目蓋を震え閉じ、彼はよろよろ歩いていった。
お座敷に来ると、昼の舘は騒ぎの中にあった。二人がまさか心中した風情で死体で見つかり、女将は詠ノ信を見るとやってきた。
「悪い噂だけは後世だから流さないでおくれ」
「分かっている。案ずることは無い」
「本当に悪い事をしたね。良くしてもらっていたというのに、こんな事になって」
あるものはあちらの庭園で深深と社のお稲荷さまに拝んでいた。詠ノ信は歩いていき、狐の石造を見た。
いつだったか、紅辰が言っていた。
自分がもしもあのお狐さまの様に心うつくしかったのなら、どんなに良いだろうと。
「なんまいだぶ、なんまいだぶ、お社を大切にしてた紅辰が浮ばれます様に、お狐さま、魂をお釈迦さまの下までおくってやってくださいまし」
女は必死に拝み、祈っている。
狐火になってもしかしたら夜のこの庭園に紅辰は現れるのだろうか?
微かな期待が詠ノ信を包んだ。


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 詠ノ信(えいのしん)は今宵、水を打った様に静かなお座敷にいた。
白い煙が細く上がっていき、ただただ座敷から庭園を見ている。
もう彼の頭を支える膝は無く、肘を立てては表情も途切れていた。いくら待てど暮らせど現れない狐火は、やはりもう既に冥土へ行ってしまったのだろうかと思わせる。
酒などうまく感じずに、天上を見て腕を枕にした。
二人は文字を読み書きできるが、遺書など見つからずに真相などわからない。
「もし」
芸者の紫(ゆかり)が進むと、庭園を一度見てから言った。
「昨夜ね」
「なんだ」
彼は上体を起こし、紫の似合う彼女を見た。白い襟から覗く首元は今日、お座敷が一切無いので肌色だ。
「誰にも怖くて言えなどしなかったけど幽霊見てね」
「幽霊だって?」
「あの人の部屋に行ったのさ。紅辰(芸者・べにたつ)のこと伝えにね。そしたらあの人、憑かれたみたいに目を爛々とさせて、嬉しそうにしてた。狐に憑かれてやしないかって」
「それは無いだろう。社のお稲荷はそんな存在じゃないさ」
「でも思ったんだよ。夜は庭園を何か歩いてて、何かと思って見てたらふらふらと陣辰(芸者・じんたつ)ったら歩いていって呼びかけたら答えないのさ。で、めかしこんでいたから放っといたらこれ」
「うーん」
彼は腕を組んで庭園へ出て、見回した。
どこも怪しいものなど見当たらない。それは、今日は灯りが灯らないから暗さは否めないがいい庭なものだ。
やはり月も星も明るく狐火など現れる感じも無いが、ただ、あの彼女のどこか不可思議にそっと男を引き寄せ手くる静けさは優しく庭を包んでいた。
社に向かうと、向かい合った狐の像がいる。
「ほら。穏やかな顔をしているじゃないか」
確かに、狐は滑らかな月光を頬に受け包まれていた。一匹は牙を剥き、一匹は口を閉ざしている。牙を剥いている方もなんだか愛嬌のある顔をしていた。
この辺りを守ってくれている神様で、今、詠ノ信には口を閉ざした方が不思議とオスに見える。
紫が静かに片膝をつき拝んでいて、彼も袂から手を解き拝んだ。
「………」
目を開き、足音に背後を見た。
紫は既に振り返っていて、一人の見慣れない青年を見る。年のころは詠ノ信と同じ程だろうか? 白い着流しを来た珍しい男で、長い黒髪を上で縛って垂らし、金のカンザシを差している。足袋も履いてはいない素足に下駄を履いていて、音がしなかった。目は涼しげな口許と共に引き締まっている。
「私の社に何か用事か」
「え?」
詠ノ信は瞬きをし、今まで黒揚羽蝶になった紅辰の腹に来期の青虫として生まれる陣辰の魂を宿らせることを見届けて帰って来た男は二人を見た。
「お稲荷か」
「これは夢ね」
紫がふらりと言い、倒れてしまったのでそっと男は支えた。社を背にする詠ノ信の後ろで、男の兄弟狐がくすくす笑って見て来ている。それは詠ノ信は気付いていなかった。
「紅辰に逢わせてください。この庭にいる気がして」
「それは出来ない。彼女は既に魂になり、お前の前で舞ったのだと聞いたよ」
「彼女は五日前、座敷を離れてから踊ってはいない。見てきていたなら分かっているだろう」
静かに男は詠ノ信を見つめ、体を反らし歩いていった。ひょうっと白い狐になり、行灯の上に乗ると池を示した。
詠ノ信が池を見ると、明るい昼の光が映し出された。饅頭釈迦の赤に、男が佇んでいる。その背後からゆらゆら揺れる視野は自分の項へ近付いていき、そして肩に停まった。
「紅辰の記憶だ」
「まさか。信じない」
「お前が信じずにどうするやら。闇雲に捜しつづけるか、それとも毎年彼岸の日にこの花を手向けるか」
夢か現か、それでも蝶となった彼女の視界はもう一匹の黒い蝶を映し、共に飛んで行く。
「………」
詠ノ信は社に明日、彼岸花をたくさん手向ける事に決めた。それで、花に潜んだ彼女の記憶が紛れ込んで庭園に漂うのではないか。
紫を抱え揚げた詠ノ信は歩いていき、座敷に横たえさせた。肩越しに見ると、白い狐は社の像と重なり、再び動かなくなった。
もしも冥土に行ってでも、明日の夜会いにいきたい。
彼女を本当に失ったのだと知った今、何が残されているだろう?

 朝方、たくさん摘んできた饅頭釈迦を社の左右の花挿しに手向けた。赤い花の先、二匹のお狐さまが静かに彼を見ている。
朝の林は寒くて霧が立ち込め、どこかからか狼の声が珍しく朝だというのに聞こえ遠吠えが響いていた。姿こそは見えなかったが、赤の花を手に下げ歩く詠ノ信の寂しい心を察する様な不思議な声に思えたものだ。
赤い花の群生は白い霧で柔らかな印象になり、まだまだ黒蝶達の姿はさぐれなかった。
庭園は背後の舘で女達が稽古を既に始めていた。三味線やお歌が聴こえる。
彼は立ち上がり、社を見つめた。
逢えないのならば逢いにいく。戻ってこれなくても。
だが、黒い蝶が紅辰には寄り添う風にいた。このまま紅辰達の世界を謳歌させるべきだろうか。
幽玄の饅頭釈迦は朝陽で美しく花開き、それほどに寂しさを彼の心に増した。
彼は挨拶をするとお座敷から離れて行き、町屋を離れていった。
歩きつづけ、河に掛かる橋に来る。
静かに見詰め続けていたが、背後から声が響いた。彼の体が橋から傾いだからだ。
水の音が響き、意識を失った。
これで、水に包まれ赤い岸辺へたどり着く……通常ではいけはしない、あの岸へ。
幻想を舞う黒い蝶。黒い蝶は、紅辰に似て……。彼の魂も、漂流を始める。



紅の中核~Gaze at Crimson~

紅の中核~Gaze at Crimson~

江戸の芸者、紅辰(べにたつ)はふと目を覚ますと、そこは闇と紅の世だった。はて、ここは一体どこなのだろうか……。幻想に迷い込んだのか、これが現なのだろうか。紅辰はあたりを見回した。

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更新日
登録日
2013-12-14

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