ストーブ

石油ストーブの灯油の匂いが、僕にとても暖かい。

普段からとても静かなこの小さなアパートの建つ路地裏は、環七通りを巨大スーパーの角で曲がったところに、夜行性の小動物がひっそりと身を隠すように存在していて、夜も深くなったら逆に、静けさは柔らかな音となって僕の前に現れる。

母さんが仕事に出ているときは、時折ゆるくすべりこんでくるラーメン屋台のチャルメラの音が、僕の子守唄だ。

もちろんときどき一人ぼっちが寂しくなって、布団の中で眠れなくなってしまうこともある。怖くて泣きたくなってしまうこともある。でもそんなことを考えているあいだに、ストーブの暖かさと、布団の肌触りと、チャルメラの子守唄が僕の中で一緒になって踊り始めて、そんなうちに心がぼんやりといろんな所に散らばって、ときおり夢を見て、目が覚めたら朝になるんだ。

でも、今日みたいに母さんのいる夜は違う。僕は母さんの膝に頭をうめながら、本当の子守唄を聴いている。頭を撫でられるのは、少しはがゆく、くすっぐったくて変な気持ちになるけど、母さんの手が僕の頭の右から左へと行くたびに、僕のぼんやりとした暖かさも右へ左へと歩いてゆくから、悪い気持ちではない。

週に二回、母さんのパート(どういう意味かは分からないけど、母さんはいつもそう言っている)が休みの日は、こんなふうにしていつも母さんのあったかさで眠りにつく。

それが今の僕にとっては、なによりも幸せなことだ。


でも、こんな幸せな日は、今日で最後なんだ。


明日から母さんは、「遠いところ」へ長い間出かけてしまうらしい。母さんは「悪いこと」をしてしまったから、僕とは一緒にいれなくなったんだって。もう一度僕の前に帰ってくるのは、僕が今よりずっと大人になって、母さんより大きくなったときなんだって。

僕には生まれたときから父さんがいない。だから、僕は明日から母さんがいなくなったら、この家を離れてもう一つの学校で暮らさなければいけないらしい。

また母さんに会ったときは、僕はもう母さんより大きいから、今みたいに母さんの暖かさに触ることも出来ない。母さんの中に収まることも出来ない。

大人になったら、冬になっても、今みたいな暖かさを感じることはきっと無くなってしまうだろう。きっと冷たいものは冷たいままで、受け止めなければいけなくなってしまう。

きっと母さんだけじゃなくて、この場所の暖かさも忘れてしまうんだろう。ずいぶん昔に母さんは言ってた。「大人っていうのは、いろいろと忘れていかなければ、なれないものなのよ」って。

僕はいろんな子よりも少しだけ大人になるのが早くなってしまうのかな。

そんなことを考えてる今だって、いつもと変わらずに、母さんの膝の上は暖かいし、ストーブの石油の匂いは僕の鼻を通って頭の中を揺らしているのに。

ただ一つだけいつもと違うのは、冷たい小さな雨が、降り始めのように時おり母さんの膝の上にいる僕の耳あたりをポトリポトリと濡らしていくことだ。

僕はいつも母さんから暖かさを貰っていて、こんなときに僕が母さんを暖かくすることも出来ない。

だって、僕はまだ小さいからだ。

明日母さんがいなくなって、次に僕が母さんに会うときは、精一杯の暖かさを今度は僕から贈ってあげたい。


きっと、冷たいものを正面で受け止められる人が、人に暖かさを伝えられるんだろう。


今はまだ怖い。すごく怖いけど、大きくなったら、僕が母さんを包み込む番だ。


冬の深い夜の冷たさは、次第に僕と母さんを暖かさで染めてゆく。

ストーブ

ストーブ

生まれて初めて書いた小説です。 1/4くらい小さい頃の実体験をモデルにしています。 まだ未熟な作品ですけど率直な感想を頂けたら嬉しいです。

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2010-09-29

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