深夜に鳴り響くオフィスの電話

1

 深夜のオフィスにベルが鳴った。
 電話が鳴るという昼間は当たり前の光景も、さすがに今の時間、違和感を感じずにはいられなかった。
 ちょうどその時、私は一人で仕事をしているところだった。
 とは言っても、サッカー中継をワンセグテレビで見ながらの、遅々としてはかどらない仕事である。
 すぐ目の前の電話が鳴っていた。辺りの静寂を切り裂くほどの音は、事務所内の電話機の存在を知らしめるのに十分であった。私は一瞬躊躇したものの、やはり昼間と変らぬやり方で受話器を持ち上げた。
「もしもし?」
 昼間だったらこんな電話の応対はない。深夜という状況が、私に少々の無礼を許していた。
 相手は無言だった。
 受話器の向こうからは、激しい雨音がしきりに聞こえてくる。
 いや、そうではないとすぐに気がついた。これは大勢の人々が生み出す騒音である。都会の駅か、あるいはコンサート会場か、とにかく人の集まる場所を連想した。
「もしもし?」
 もう一度、声を掛けてみた。
 しかし相手は黙ったままである。これはどうやら、いたずら電話確定である。電話の向こう側で、ほくそ笑んでいる輩が目に浮かぶ。
 私はこんな電話に関わったことをひどく後悔した。
 サッカーの経過が気になった。国際試合がまもなく終了しようという大事な場面である。こんな電話に付き合っている暇はない。
「切りますよ」
 念のため、そんなことを言った。会社に掛かってきたからには、相手が顧客という可能性も否定できない。それは万が一のための防御策でもあった。
 相手からの返答がないことを確認すると、私は受話器を元に戻そうとした。
 しかし次の瞬間、雑音を押しのけるかのように、意志ある声が発せられたようだった。
 私は慌てて手を止めた。もう一瞬遅かったら、電話を切っていたところである。
 私は受話器を耳に押し当てた。
 こんな深夜に、まともな電話とは到底思われなかった。しかし、もしもということもある。相手に積極的な意志があるのなら、誠意ある応対をすべきである。こんな時にもビジネスマン精神が顔を出した。
「もしもし?」
 私は相手を探るように言った。
 相変わらず電話の向こうは、騒音だけが充満している。
 しかしおかしなことに、その音が二重に聞こえるのである。ほんのわずかな遅延があるものの、まったく同じ波長が耳に届いていた。
 そうか、今やっと分かった。
 この音声はサッカー中継そのものである。試合を見守る観客の声援がまるで洪水のように押し寄せていたのだ。
 すなわち電話の相手も、同じテレビ放送を観ているらしい。
「もしもし?」
 やっと相手の声が応じてくれた。
 それは女性の声だった。
「あの、どちら様でしょうか?」
 その声の主は、不安を隠せない様子である。しかしそちらから掛けておいて、どちら様もあったものではない。
 だが、これをいたずら電話と片付けるには、どこか妙な案配である。何と言うか、相手に誠実さが感じられるのだ。
 私は言葉を選んだ。
「この電話はあなたがお掛けになったものですが」
「えっ?」
 女性はこの状況がまるで把握できていないようだった。
 慌てて電話機を耳から引き剥がし、何かを確認している様子である。
「ああ、ごめんなさい。これ携帯電話なんですが、知らぬ間にボタンに触れて、偶然あなたに掛かってしまったみたいです。本当にごめんなさい」
 女性の声はひどく恐縮していた。
「別にいいですよ」
 いたずら電話ではなかった。私には自然と寛容な気持ちが生まれていた。
 突然、テレビから割れんばかりの歓声が沸いた。
 電話からも少し遅れて同じ音が聞こえてくる。奇妙な立体音響が私を包み込んだ。
「あっ、日本勝ちましたよ」
 彼女の嬉しそうな声がかろうじて聞こえた。
「どうやらそのようですね」 
「あなたもご覧になってたのですか?」
「はい。ずっと観てました。今日は苦しい展開でしたね」
 実は仕事そっちのけで、試合の行方ばかりを気にしていたのである。特に後半は目の離せない状況が続いていた。この電話のせいで、最後の最後が見届けられなかったのだが。
「私、サッカーのことは詳しく分かりませんけど、何だかとっても嬉しいです。選手はよく頑張ったと思います」
 私は不思議な気分に包まれた。
 見知らぬ女性と、深夜にこうしてサッカー談義に花を咲かせている。これは一体どういう状況なのだろう。そもそもこれは間違い電話なのである。考えてみれば、そんな二人が意気投合するというのもおかしな話ではないか。
 同じ国に住む者同士が、自国の勝利を喜ぶ。そんな状況が、今の二人に特別の時間を共有させているのだ。
 彼女はテレビを消したようだった。受話器の中は突然静まりかえった。
「どうもすみませんでした、お休みのところ」
「いえいえ、こちらは会社ですので、全然問題なしです」
「あら、こんな時間までお仕事されていたのですか?」
 彼女は驚いたようだった。
「ええ、今日は事務所に泊まりです」
「へえ」
 彼女は感心するような声を上げた。
 そしてくすっと笑うと、
「実は私も今、仕事場にいるんですよ」
と言った。
「本当ですか?」
「はい」
 彼女は嬉しそうに言う。
 深夜に会社で仕事をしているという共通点が、一気に二人の垣根を取り払った。ちょうど良い話し相手と巡り会えた気分である。
 どうやら彼女も同じ気持ちのようである。その証拠に、この間違い電話を切ろうとはしていない。
 私はもうしばらく彼女との時間を楽しもうという気になった。
 窓から差し込む月明かりが、遠くの机まで青白く染めていた。
 こちらもテレビを切って、きちんと椅子に座り直した。がらんとした事務所に、スチール椅子のきしむ音だけが響いた。
「今、話し込んでも大丈夫ですか?」
 私は念のために訊いた。
 こちらはともかく、彼女が忙しいのなら、仕事の邪魔をしてはならない。私もビジネスマンの端くれである。その程度の気遣いは当然だった。
「仕事の方は大丈夫です。どうせ、集中力もすっかりなくなっていますから」
 彼女の声は弾んでいた。
 どうやら向こうも事務所に一人きりのようだった。こんな深夜にてきぱきと仕事が片付くはずもない。それはお互い様である。
 私は彼女に興味が湧いていた。
「お仕事は何されているんですか?」
 無遠慮にもそんなことを訊いた。ついさっき出会ったばかりの女性に、こんなに気軽に話せるのは何故だろうか。
 互いの境遇があまりにも似ていて、一種の連帯感が生まれているのかも知れない。彼女は自分の知り合いのような気がしてくる。
「積算です」
「セキサン?」
 聞き慣れない言葉に、思わずオウム返しになった。
「ビル建材の見積もりをしています」
「ほう」
 私にはそんな言葉しか発せられなかった。
 それはまるで知らない世界であった。何だか聞いただけでも難しそうな仕事である。それを夜遅くまで、一人取り組む彼女は、とても輝いているように思えた。
「見積もりというのは、こんな深夜までかかるものですか?」
 素朴な疑問だった。
 電話の向こうで、彼女の笑う声が聞こえる。
「私の要領が悪いだけなんですよ」
 それはおそらく謙遜だろう。私は直感した。
「パソコンで打ち出す訳にはいかないのですか?」
「確かにそうやって、大まかには出せますが、細かい所はどうしても図面を見て拾わなくてはならないんです」
「へえ、そういうものですか?」
「はい。ビル物件は、特にお店関係だと、奇抜なデザインが多くて、全てを機械任せって訳にはいかないのです」
「なるほど」
 これでは、職場見学にやって来た小学生である。あまりに無知な自分が恥ずかしくなる。異業種についてまるで知識がないことを実感した。
「上司はとっくに帰っちゃったんでしょ?」
「はい」
「あなたはそれだけ信頼されているということですね」
 私はそんなふうに言ってみた。それはお世辞ではなく、素直に感じたことだった。
「全然そんなことないですよ。一応、所属は積算課ですが、田舎の営業所ですから事務と兼任なんです。だから雑用の合間に見積もりをするのですが、昼間忙しいと、こんなふうに深夜までかかってしまうのです」
 このご時世、どこの会社でも社員は楽させてもらえないようだ。やはり私と彼女は同じ境遇なのだと再認識した。
「はい、次はあなたの番」
「えっ?」
「あなたの仕事のことも教えてくださいよ」
 深夜だというのに、電話の中で彼女ははしゃいでいた。まるで休み時間に話の尽きない女子高生といった感じである。今夜知り合ったばかりの私に、どうしてそれほど積極的になれるのか、ちょっと不思議な気もする。
「あなたのお仕事は何ですか?」
 彼女は重ねて訊いてきた。
 深夜の事務所で取る電話は、相手の息遣いまで聞こえてくる。
 昼間では想像もつかない、音のない空間。
 まるで真空を思わせるこの場所では、彼女の声が間近に聞こえる。まるですぐ目の前から話し掛けているようだ。
 私は一度受話器をしっかりと握り直した。
「家電メーカーの販売会社で営業をやっています」
 自分を飾ることなく、正直にそう言った。営業という職業は、自分を優位にするためならば、平気で嘘をつく準備ができている。しかし彼女の前では正直でいようと最初から決めていた。
「そうなんですか」
 彼女は興味深げに言った。
「聞こえはいいかもしれませんが、実際は大型量販店の小間使いみたいなものですよ」
「いつもこんな深夜まで、お仕事されているんですか?」
「いえ、いつもではないです。明日は早朝からヘルパーの仕事がありますので、このまま家に帰らず、事務所で寝泊まりなんです」
「大変なんですね」
 彼女の言葉には心がこめられていた。
 そして、やや間を置いてから、
「あの、ヘルパーって何ですか?」
と訊いた。
「ほら、家電量販店では、土日によくセールをやるじゃないですか。そんな時は人手が足りないので、僕らが借り出されるのです」
「なるほど。ではお給料はそのお店から貰うのですね?」
「いえ、違います。商品を納入してもらう代わりに、僕らの労働力を無償で提供してるんです」
「あら、そうなんですか」
 彼女は驚きの声を上げた。
「でも、店に来たお客さんには、自社製品をどんどん売ればいいんでしょ?」
 私は思わず笑ってしまった。
 彼女はまるで業界のことを分かっていない。一般人の知識とはそんなものかもしれないが。
「いえいえ、そういう訳にはいきません。量販店の方からは、一店員として雇われているだけなので、勝手に自社製品を売り込むのはダメなのです」
「えっ、まさか」
 彼女はさらに驚いたようだった。
「でも、それってストレス溜まりませんか? 他社製品を買っていくお客の相手をするだなんて」
「まあ、確かにそうかも知れません。僕も最初はそんな気がしてました。でも、もう慣れてしまって、今では割り切っていますよ」
「そうですか。明日もお仕事なんですか」
 彼女の声は同情的だった。
「あなたは、明日は?」
「私は別に出社する必要はないですけど、この見積もりの納期が月曜の朝なんです。だからそれまでに仕上げておかないと」
「それも大変ですね、心が落ち着かないでしょ?」
「そうなんです。お風呂に入っていても、ご飯を食べていても、見積もりのことが頭から離れないんです。夜も眠れないことだってあるんですよ」
 彼女は一気にまくし立てた。まるで仲の良い友人に愚痴るような勢いだった。よほど胸の内に溜めた想いがあるらしかった。
「そうだわ、あなたに訊きたいことがあるのですけれど、いいかしら?」
 一息つくと、彼女はそう切り出した。

2

 誰もいない深夜の事務所に、時間だけは確実に流れていた。
 窓の外では、徐々に闇の色が薄まってきたのが分かる。サッカーの試合が終わってから、もうどれぐらい経ったのだろうか。
 私は受話器を持つ手に少し疲れを感じて、耳と肩で受話器を挟み込むようにした。これは昼間、電話中でも両手を自由に動かせるスタイルである。
「どうぞ、私に答えられることでしたら何でも」
「私、アパートに一人暮らしで、今、部屋に置けるテレビを探しているんです。でもどうして小さいテレビって、割高なんでしょうか?」
 彼女の声からは、日頃の不満が伝わってくる。
 なるほど、その手の話か。
 私は家電を扱う仕事をしているので、聞いた途端に答えの準備ができていた。
 彼女の苦情は続く。
「それに小型のテレビって、あまりお店に置いてないから、選択の幅も少ないんです」
「確かにそうかも知れませんね」
 そうは言ってみたものの、これではまるでお客からの電話相談だな、と思った。昼間やるべき仕事を、こんな真夜中にしている自分が可笑しかった。
 もっと互いのことを話題にしたいものだが、彼女が訊きたいと言うのだから仕方がない。
 自分はその筋のプロである。ちょっと真面目に答えてやろう、という気になった。
「メーカーというのはどうしても売れ筋商品に力を入れますから、自然と大型テレビばかりが充実するのです」
「そうなんですか」
 彼女はまだ納得がいかない様子である。
「テレビの買い換えは、リビングに置く大型テレビが主流ですので、その流通量も圧倒的に多くなります。そこでは当然、価格競争が起きますから、小型テレビに比べて割安に感じられるという訳です」
「なるほど、分かりました。さすが専門家ですね」
 彼女はすっかり感心したようだった。
 私は少し照れくさくなった。
「質問って、それだけ?」
「はい、でも今後は小型テレビも安くなりますよね?」
 彼女はまだ価格のことを気にしているようだ。
「予測は難しいのですが、数年はこのままのような気がします」
「そうですか」
 彼女の残念そうな声が漏れた。
「テレビ、壊れたんですか?」
 私は訊いてみた。
「ええ、スイッチを入れても、ブーンって音がするだけで、画面に何も映らないんです」
「それはブラウン管の寿命かもしれません」
「やっぱりそうですか?」
「昔のは叩いたりして直したそうですが、今のはそんなふうには直りませんからね」
「恥ずかしくて会社の人にも訊けないから、一人で困っていたのです。やはり壊れていたのですね」
「どうやらそのようです」
 そんな話をしている間にも、遠くの空が明るくなってきた。
 彼女もそれに気づいたらしく、
「もう夜が明けてきたみたい」
と感慨深げに言った。
 名前も顔も知らない女性。そんな女性とこうして他愛のない話をしている。
 これは私にとって、一夜の不思議な体験と言う他なかった。果たして彼女の方はどう思っているのだろうか。
「あっ」
 突然、彼女が小さな声を漏らした。
「ちょっと待ってくださいね」
 それだけ言うと、黙り込んでしまった。
 ただ携帯電話は手に持っているらしく、コツコツという彼女の靴音だけが聞こえてくる。
 私は痛いほど、ぎゅっと受話器を耳に押し当てた。
 ドアが開かれる音。
「おはようございます」
 彼女は誰かに向けて優しい声で挨拶した。
 そしてまた靴音。
「すみませんでした。今、新聞屋さんが来たので」
 電話口に彼女の声が戻ってきた。
「えっ、もうそんな時間ですか?」
 私は慌てて時計を見た。
 まもなく五時を指そうとしている。随分と話し込んだものである。
「今、とても恥ずかしかったですよ」
「何が?」
「だって、ウチの事務所は硝子窓から中が丸見えなんです。こんな時間に一カ所だけ蛍光灯が点いていて、そこに制服姿の私が座っているんですよ。新聞配達の人は、おそらくびっくりしたんじゃないかしら」
 私はそんな様子が目に浮かんで、思わず笑ってしまった。
「笑いごとじゃないですよ」
 彼女は軽く抗議した。
「会社の制服を着て仕事していたんですか?」
「そうですよ。だって夕方からずっと見積もりに没頭していて、着替える暇もありませんでしたから」
「どうせなら、パジャマに着替えていればよかったのに」
「それじゃ、いい見世物ですよ。あそこにヘンな女がいるぞ、って」
 二人は笑い合った。
「では、そろそろお別れにしましょうか?」
 私はそう提案した。
「そうですね」
 彼女もすんなり応じる。
 私はもう一度考えてみた。彼女にとって、今夜の私は迷惑ではなかっただろうか。
 彼女の様子からすると、その心配はないように思われた。
 事務所で一人孤独に見積もりをしていた彼女。私のことを砂漠で偶然見つけたオアシスのように思ったかも知れない。
「お仕事の邪魔をして、すみませんでしたね」
 私は一応そんな言葉を掛けてみた。
「全然、そんなことありません。むしろとっても楽しかったです。しかし目の前には、未完成の見積書がそのままになっているのが、ちょっと気になりますが」
 彼女は面白い女性である。私は知らず彼女に好感を抱いていた。彼女の方は私にどんな印象を持っただろうか。
「また間違い電話しても構いませんか?」
 彼女はそんなことを言った。
「どうぞ、どうぞ。うちの会社は間違い電話、大歓迎ですから」
「よかった。それでは、また深夜に掛けちゃいますよ」
「はい、こちらも残業していたら、すぐに電話に出ますので」
 彼女は電話の向こうで笑った。
「あっ、そうだ」
 私はあることを思いついた。
「一応、仮の名前を教えてくれませんか?」
「仮の?」
 彼女は聞き返した。
「間違い電話なんですから、本名は要りません」
「ああ、そうですね」
 彼女も私の提案に乗ってくる。
 少し考えてから、
「では私は、見積もりのミツコということで」
 私は思わず吹き出してしまった。
「じゃあ、僕は卸しの仕事をしてますから、オロシ」
「えっ? いくら何でもオロシは変じゃないですか? せめてヒロシでお願いします」
 彼女は笑いながら言った。
「分かりました、ヒロシでいいです」
「それじゃ、おやすみなさい、ヒロシさん」
「おやすみ、ミツコさん」

 受話器を戻した時には、外はすっかり明るくなっていた。
 私は席を立つと、吸い寄せられるように窓際へ向かった。それから窓枠に両手をついた。
 陽はまだ昇っていない。窓から見る景色には、人の営みをまるで感じられなかった。
 歩道には人影はなく、大通りも嘘のように車がない。信号機だけが意味もなく、黙々とその色を変え続けている。
 私はそんな風景をぼんやりと眺めて、ミツコとの会話の余韻を楽しんでいた。
 不思議な夜だった、と思う。
 きっかけは、一本の間違い電話だった。
 どこか知らない街から一人の女性がやってきた。そして突然、私の前に舞い降りた。
 彼女は孤独に働く女性であった。話せば、私たちは境遇のよく似た者同士だった。
 ビジネスの世界では、嘘や駆け引きの人間関係はさほど珍しいものではない。そこでは、自分の感情を抑え込み、物事が円滑に流れることだけを期待している。
 現に私の目の前に置かれた電話機は、昼間はそんなやり取りの道具に成り下がっている。
 しかし深夜のミツコとの電話はまるで違っていた。偶然結ばれた二人は、素直な気持ちで本音を語り合った。
 私はミツコの前で嘘を言ったり、自分を飾ろうなどとは少しも考えなかった。お互いにありのままを認め合えれば、それでよかったのだ。
 どこかから鳥のさえずりが聞こえている。
 徹夜明けだというのに、私の身体はまるで疲れを感じていなかった。今日一日働くための活力が、たった今充電されたような気がした。
 ミツコがどこか私の知らない場所で、一人仕事に精を出している。彼女の傍に助けてくれる人はいない。もちろん私の手だって届かない。
 しかし私が精力的に働くことで、ミツコとはもっと深く関われるような気がする。間接的ではあるが、それが彼女を手助けできる唯一の方法であるように思われた。

 私はそれから二時間程、応接室に置かれたソファで仮眠を取り、その後量販店に出向いた。
 現地では顔見知りの店長から指示を受けて、他社のヘルパーらとともに倉庫の荷出しを手伝った。
 そして店が開くと、ハッピを着こんで、受け持ちのエアコン売り場に立っていた。
 ミツコとはあんな偶然の出会いを果たしたのだから、彼女がこの店にぶらりと現れてもおかしくない。そんな妄想が芽生えた。私にとって、それほどミツコは存在感があったのだ。
 自分の持ち場から少し離れた場所に、大型テレビがずらりと並んでいる。開店と同時に早速客が集まってきた。やはり今の時期、テレビを買い換える客は多い。
 若い女性がそこで足を止める度、ひょっとしてミツコがやって来たのではないか、と考えた。
「小型のテレビ、か」
 私は知らずそんな言葉を口にしていた。
 アパートで一人暮らしというのなら、確かに流行りの大型テレビは必要ない。
 夜遅くまで働いて、疲れた身体を引きずって家に帰ってくる。テレビのスイッチを入れてみても、画面には何も映らない。テレビを買い換えようにも割高ときている。
 何ともひどい仕打ちではないか。
 ミツコがあれだけ不満を漏らすのも無理はない。私にはかすかな笑みがこぼれた。

 夕方、無事に仕事を終えて、私は帰途についた。
 今日は一日中、ずっとミツコを探していた。
 もちろん彼女は店に現れなかった。それもその筈である。彼女が偶然にもこの街に住んでいるとは考えにくいし、それに徹夜したとなれば、家に帰って寝ていたに違いない。
 彼女は深夜の電話にしか出てこない幻なのである。
 しかし、どうしてミツコのことがそれほど気にかかるのだろうか。彼女は私の心の中で、家族や友人ほど大きな存在に膨れ上がっていた。
 今日の一日の出来事を彼女に報告したくなる。そして彼女の話も、もっと聞いてみたいと思うのだ。
 私は家に帰ってきて、風呂の準備をしてから、無意識にテレビの電源を入れた。
 当たり前のように画面には映像が浮かび上がった。
「こちらは、今帰ってきたばかりだけど、そちらは見積もり終わったかい?」
「今日は店に出て、顔も知らない君の姿を探していたんだよ」
 自然とそんな言葉が湧いてくる。無性にミツコと話したくなった。
 彼女はそんな私のことを思い出してくれているだろうか。

3

 月曜日を迎えていた。
 働く者にとって、この日の朝ほど無慈悲なものはない。休息から労働へと精神の切り替えを余儀なくさせられる。
 しかも私は休日出勤のせいで、切り替えどころの騒ぎではない。単なる労働の連続になってしまった。
 それでも疲労をワイシャツで覆い隠すと、何事もなかったかのように家を出た。
 会社に向かう車の中、自然とミツコのことが頭に浮かんだ。
 彼女はもう出社しただろうか。今朝は見積もりの提出期限である。果たして彼女は間に合わせることができただろうか。本気で心配している自分が可笑しくなった。
 しかし、ミツコのことだ。図面の隅々まで緻密な計算を入れて、首尾よく完成したに違いない。上司からねぎらいの言葉の一つも貰って、悠然と今日の仕事を始めているのではないだろうか。
 朝の大渋滞を抜けて、ようやく会社に到着した。自分の席につくなり、電話機を見つめた。
 今夜はミツコから連絡があるだろうか。
 いや、その可能性は低い。私はあっさりと自分の考えを否定した。
 徹夜明けの初日から、再び夜遅くまで仕事をするとは考えにくい。今日のミツコは定時に上がるのではないだろうか。
 となると、今度彼女と話せるのは金曜か土曜の深夜になりそうだ。それまでは彼女に負けないよう、しっかり仕事に精を出すことにしよう。
 私はミツコを思い出すことで、疲れた身体に鞭を入れているのかもしれなかった。

 水曜日の夜だった。
 得意先の棚卸しに付き合わされて、帰社したのは夜十時を回っていた。すでに他の社員は皆帰ってしまっていた。
 営業マンは月末になると、このような予期せぬ残業を強いられることがある。
 私は営業車から降りると、真っ黒な社屋を見上げた。裏口の鍵を開け、事務所に入ると明かりを点けた。
 誰もいない事務所に私の足音だけが響く。
 やっと自分の机まで戻って来た。書類が乱雑に積まれている。外出中に何件か電話があったようだ。それを知らせるメモがテープで貼り付けてある。
 こんな雑然とした場所でも、心が落ち着くのだから不思議なものである。
 私はネクタイを外して、机の上に放り投げた。
 酷い一日だった。
 得意先の社員の一人が風邪で寝込んでしまったのである。その欠員を補うべく、突如私が借り出されたという訳である。
 営業マンは時に便利屋みたいなものだと思う。
 私は同僚の椅子に足を投げ出すと、身を沈めるように、背もたれに頭をつけた。
 理不尽な疲れが身体に残留している。肉体よりも先に精神が破壊されそうだ。
 今日は自分の予定していた仕事がまるでできなかった。
 しばらくだらしない姿勢のまま、時の流れに身を委ねていた。
 かろうじて残された気力で真っ先に思い出したのは、やはりミツコのことだった。
 彼女は今頃どうしているだろうか。
 私はこのまま会社を去る気にはなれず、時間が経つのをじっと待った。
 もしかしたらミツコから電話が掛ってくるかも知れない。そんな予感がするのだ。
 私たちの相性は案外良さそうである。だからどちらかが会いたいと念じれば、恐らく簡単に再会できるような気がする。
 嵐のように過ぎ去った今日一日の出来事をミツコに聞いてもらいたい気分だった。
 私は目を閉じて、彼女からの電話を待つことに決めた。

 どのくらい眠っていたのだろう。
 突然、身体に電気が流れたような衝撃を覚えた。知らず身を守ろうと、両足がびくんと反応した。思わず椅子から転げ落ちそうになった。しかし何とか踏みとどまった。
 首が痛い。長いこと不自然な格好でいたせいである。
 時計を確認する。
 まもなく午前一時になるところだった。
 どうやらミツコからの電話はないようだ。今夜、彼女は残業してないらしい。
 私はミツコが電話を掛けてくると信じて疑わなかった。根拠はまるでないのだが、自分が事務所にいるからには、彼女もいるにちがいない、そう思い込んでいた。
 しかし実際、二人の心はそこまで強く結ばれてはいなかったのだ。
 (今日のところは帰るとするか)
 しばらく机の電話機を見つめてから、潔く立ち上がった。

 金曜日、私はめずらしく定時に仕事を終わらせることができた。
 今夜はミツコから電話があるだろうか。
 どうも自信がなくなってきた。もしかすると、ミツコと私は互い違いに残業をして、結局連絡がつかない状態に陥っているのではないか。
 いやそれよりも、彼女の方は私のことなどすっかり忘れて、そもそも電話を掛けていない可能性だってある。
 さて、今晩はどうだろうか。
 しかし今この時間から深夜まではかなりの時間がある。まさかそれまでここで待っている訳にもいかない。
 それに、たとえ彼女が電話を掛けてきても、こちらが待ってましたとばかりに応じるのもどこか癪である。
 ミツコには、私と同じ気持ちを味わわせたいと思う。つまり話そうにも肝心な相手が現れないというもどかしさ、まさに今の私の心境である。
 ミツコが私をどう思っているのか分からないが、そろそろ私と話したい気分でいるのではないだろうか。そんな彼女の気持ちを多少焦らしてみるのも、面白い試みのような気がする。
 そんなことをあれこれ考えながら、私は帰途についた。

 家に帰ってから、風呂に入り、テレビを観ていたが、どこか落ち着かない。
 どうしてだろうか。
 やはりミツコのことが気に掛かるのだ。
 彼女の会社は週休二日だとは思うのだが、前回の電話は確か土曜の夜だった。もしかすると隔週で土曜日は出勤日なのだろうか。
 もしそうならば、先週の土曜は出勤で、明日の土曜日は休みになる。となると、休日前の夜は仕事を抱えて、残業する可能性が高くないだろうか。
 やはり今夜は彼女から電話があるような気がする。
 これを逃せば、来週末まで彼女と話すことができなくなってしまう。
 私はいつの間にか服を着替えて、仕事もない会社へ向けて出発していた。

 照明のすっかり落ちた会社の駐車場に車を停めた。
 今日は二度も出勤したことになる。社長が見たら、私のことを実に仕事熱心な社員と思うに違いない。
 私は鍵を開けて、事務所に身体を滑り込ませた。
 もし同僚と出くわしたら何と言い訳すればいいだろうか、そんなことをふと考えた。
 自分の椅子に座ると、机にワンセグテレビを置いた。そしてスイッチを入れた。
 そうだった、確かあの日もこうしてテレビを観ていたのだ。今夜はサッカー中継こそないが、これで条件は整ったような気がする。
 十中八九、ミツコから電話がくる、そんな自信がどこからともなく湧いた。
 私はテレビを観ながら、時に受話器に目をやった。
 時刻は今、十二時を回った。
 彼女は絶対に今夜、電話を掛けてくる筈だ。
 時が静かに流れていく。
 いつしか私の目には、テレビの映像は映っていなかった。ミツコは今夜、私に会いに来てくれるだろうか、そんな想いだけが心の中を占拠していた。

 突然、事務所の電話が一斉に鳴り出した。
 空気を震わせるその音は、別段私を驚かせなかった。やはり来るべきものが来た、という感じだった。
 やっぱりミツコと私は相性がいいのだ、そう確信した。
「もしもし」
 深夜の室内に、私の声が力強く響き渡った。
「もしもし?」
 受話器からは控え目な声がした。その声がミツコと分かるまでに、まるで時間を要しなかった。
「ヒロシさんですか?」
 すっかり忘れていた。私の名前はヒロシだった。
「こんばんは、ミツコさん」
「ああ、よかった。居てくれたのですね」
 彼女の声は、ぱっと花が咲いたように明るくなった。彼女は私との会話を心待ちにしていたのだ。それは私も同じである。この瞬間をどれほど待ったことか。この嬉しさは言葉では表せないほどである。
「ミツコさんは、今日も残業ですか?」
「はい、そうなんですよ」
 彼女は以前と同じ調子である。一週間という空白を一気に飛び越えた。まるであの日に戻ったようだった。一旦休憩を挟んだ後、今続きが始まったような感覚だった。
「また、一人で見積もりを?」
「はい、その通りです」
 そう答えながらも、ミツコは今にも笑い出しそうである。
 自分の理解者がいてくれる。そのことに彼女は喜びを感じているのだろう。
 私も心が軽くなる。
 今晩のスタートラインは、先週よりも遥かに前進していた。お互いの立場を理解しているところから始められる。
 ミツコと話したいことが山ほどあった。何から話せばいいだろうか。
「そう言えば、前回の見積もりはどうなりました?」
 まずはそんな疑問から投げかけてみた。
「確か月曜提出でしたよね。あれはどうでしたか?」
「はい、何とか間に合わせました」
「それはよかった。実は電話を切った後も、もしや仕事の邪魔をしたのではないかとずっと気掛かりだったのです」
「それは全然問題ないのですけれど、その後が良くないんです」
 ミツコの不満が受話器を通して、ひしひしと伝わってくる。
「どうかしたの?」
 私はすかさず訊き返した。
「朝、見積もりを受け取るなり、上司は何て言ったと思います?」
 私には見当もつかなかった。計算が間違っていたのだろうか。
 口も利けずにいると、ミツコは言葉を続けた。
「その物件は他社に決まったから、見積もりは必要なくなった、ですって」
「えっ、そうだったんですか?」
 私は心底驚いた。何という仕打ちだろうか。それでは彼女があまりにも可哀想だ。
「ホント、失礼しちゃいますよね。こっちは深夜までかかって仕上げたというのに」
 確かに彼女の言う通りである。これでは労働意欲もそがれてしまう。
「私の上司は、逆ホウレン草なんです」
「えっ、何ですって?」
 私は聞き慣れない言葉にそう反応した。
「ほら、ビジネスのホウレン草っていうのがあるじゃないですか」
 ああ、そのホウレン草か。
 二人は声を合わせて、
「ホウこく、レンらく、ソウだん」
 と言った。
「そう、それなんです。上司はいつも社員にホウレン草を説いてるくせに、自分こそ、私に報告せず、連絡せず、相談もしないんですから、逆ホウレン草という訳です」
「逆ホウレン草か、そいつはいい」
 私は不覚にも声を立てて笑ってしまった。
「私、別のお野菜で上司を表現できますよ。月曜日の昼間にずっと考えていたんです」
「別の野菜?」
「カボチャです、いいですか」
 ミツコは少し間を置いて、
「カんがえることなく、ボさっとしているだけ、チャんと仕事しなさいよ」
そう一気に畳みかけた。
 私は、涙が出るほど笑った。
 上司への復讐としては、ささやかだが上出来である。そんな語呂合わせを、昼間に一生懸命考えていたと思うと、なお可笑しかった。しかし、そんなひどい目に遭わされたというのに、結局彼女は次の見積もりを引き受けているではないか。
 私は彼女に親近感が湧いた。
「でも、本当は私、上司を恨んでなんかいませんよ」
 ミツコはそんなふうに言い出した。
「だって、あの日徹夜したおかげで、ヒロシさんと知り合えたのだから」
 確かにそうである。もし上司が彼女に見積もりを頼まなかったら、二人が出会うことはなかっただろう。その意味では、カボチャ上司に感謝するべきなのか。
「あの晩、サッカーの選手たちと、ヒロシさんに元気の素を貰ったと思うんです。私も頑張ろうという気になりました」
「いや、僕の方こそ、君のことを思い出して、一週間仕事を続けられました」
 それは本当の話だった。今の自分にとって、ミツコは大きな存在だった。
「ヒロシさんは、あの後、お仕事大変だったでしょう?」
 ミツコが訊いた。
 私は日曜日ヘルパーとして仕事に出た時の話をした。
 ミツコは興味深そうに聞いていた。
「そう言えば、テレビはどうなりましたか?」
 私は突然思い出して訊いた。
「あのままです」
「ずっと壊れたままなんですか?」
「はい、仕方がないので図書館で本を借りてきて、夜はそれを読んでます」
「へえ、それはまた随分と生活が変わってしまいましたね」
「そうでもないんですよ、これでも私、学生時代は文学少女でしたから」
 それは意外だった。自分の中で、積算課の女性と文芸とがどうにも重ならなかった。
「どうやら僕の持っているイメージとは違うみたいですね」
「えっ、それはどういう意味ですか?」
 ミツコはこの点は譲れないとばかりに、勢い込んで訊いてきた。
「頭の回転が速くて、鋭い感じ。すらりと背が高くて、黒縁のメガネを掛けている」
 ミツコは思い切り笑い出した。
「それは全然違いますよ。数学は大の苦手。背は高くないし、メガネも掛けてません」
「それじゃ、もし君が目の前を通り過ぎても、気づかなかったかもね」
「何の話ですか?」
「店に出ていた時、テレビ売り場に女性がやって来る度に、ミツコさんが来たんじゃないかと思っていたんです」
「それで、私は見つかりましたか?」
「いえ、見つかりませんでした。今思えば、まったく違うタイプの女性を探していたことになります」
 ミツコは笑ってから、
「残念ながら私、お店には行けませんでした」
と言った。
 そうだ、ミツコはこの電話をどこから掛けているのだろうか。
「ミツコさんは日本のどの辺に住んでいるのですか?」
 思わず私は訊いていた。
 彼女は何かを言い掛けたようだったが、途中で止めてしまった。
「それは内緒。だってその方がロマンチックじゃないですか」
 そう言い出した。
「でも私の方は、ヒロシさんの住所を知ってますから、ちょっと不公平ですよね」
「えっ?」
 自分の住所をミツコに教えた覚えはないのだが。
 ミツコは含み笑いをして、
「だってこの携帯電話に、ヒロシさんの会社の番号が表示されてますので、市外局番を調べれば、大体分かります」
「ああ、そうか。ここはそちらから遠いですか?」
「そうですね、ちょっと遠いと思います」
 私は感慨が湧いた。
 そんな離れた場所から、ミツコは自分に電話をくれている。
 そんな遠くから、私を元気にしてくれているのだ。
 私は受話器を強く握りしめた。

 誰もいない深夜の事務所に、二人の会話だけが淀みなく流れていた。
 ミツコは私の住んでいる場所の見当をつけていた。しかし私の方は、彼女の住所をまったく知らない。
 彼女の言う通り、それは確かに「不公平」である。
「ミツコさんは、どんな街に住んでいるんですか?」
 私は訊き方を変えてみた。
「平凡な街だと思いますよ。大都市でもなければ、極端な田舎でもない。ありふれた街でしょうね」
 彼女はそう答えたが、私はミツコの住む街にひたすら興味が湧いた。
「海とか山とか、特徴的なものはありますか?」
「海なら、割と近くにありますよ」
「ミツコさんは、そこで泳いだりするのですか?」
「いいえ、全然。学生時代プールで泳いだきりですね」
 彼女のかすかな笑い声が受話器から伝わってくる。彼女は私との会話を楽しんでいる。そんな彼女の様子が、私の気分を明るくする。
「近くに観光地はありますか?」
「むむ、それはいいところを突いてますよ。結構、有名な観光地があります」
 しかし彼女はそれ以上詳しく教えてくれなかった。確かに観光地の名前を言った途端、どこか分かってしまうだろう。
 彼女の住む街は、海があって観光地もある。
 それはヒントのようで、ヒントとは言えない。日本のどの街もそんな感じである。これでは彼女に迫っているとはとても言えない。
「やっぱりヒロシさんも気になりますか?」
 ミツコは、ぼそりと言った。
「えっ、何が?」
 私はそのわずかな言葉を聞き逃さなかった。自然と訊き返した。
「相手がどこの人だろうって。無性に知りたくなりますよね」
 彼女は実に楽しそうに話す。自分は彼女とは昔からの親友のような気になっていた。
「実は私、電話を切った後、すぐに市外局番を調べてみたのです。ほら、電話帳の後ろに載っているでしょ?」
 ミツコも私のことが気になっていたのだ。嬉しくなった。
「でも、距離なんてカンケイないですよ」
 ミツコは続ける。
「近くにいても疎遠な人だっている。逆に、あなたのように離れていても、とても親密に思える人もいるんですから」
 その言葉に心が動いた。まったく同感だった。
「ミツコさん、会社に同世代の女性社員はいないのですか?」
 私はそんなことを訊いてみた。
「小さな営業所ですからね。私の他にもう一人女性がいますけど、その方は私よりもずっと年上です」
「同じ積算課の方ですか?」
「いいえ、その人は完全な事務員さんで、積算課は私一人です」
 ミツコは、昼間はその人の指示で事務仕事をやらされている訳か。その合間に一人で見積りをしている。
 私は孤独に働く女性の姿を想像した。電話口の明るいミツコとはどうにも重ならない。
「でも変ですよね。私一人しかいないのに、積算課だなんて」
「確かに大げさに聞こえますね」
 大会社ほど、名目や所属だけはやたらと主張するものだ。しかし地方の営業所では、その区分けは実に曖昧で、他の仕事も兼務しなくてはならない。現に彼女も本来の仕事以外のことで忙殺されている。
「でも、手当は付くんでしょ?」
「私に、ですか?」
 彼女は確認するように訊き返した。
「だって積算課で、特別な仕事をしているのだから」
「いえいえ、そんなのはありません。ウチの会社は、営業は全員本社採用ですが、事務員は現地採用なんです。ですから給料体系も全然違うんです」
「へえ、そうなの?」
「社員にもランクがあって、私は地元採用ですから営業さんより下なんです」
 大企業には、社員にそんな区分けがあるのか。それは知らなかった。
「だからお給料もまるで違いますし、住宅手当も私にはありません。一人アパート住まいするのも、結構大変なんですよ」
 いつしか彼女の悩みを聞いてやっている自分がいた。
 不思議なことに、彼女の話は飽きることなく、いつまでも付き合ってやれそうな気がした。
「あら、もうこんな時間なんですね」
 ミツコが突然そんな声を上げた。
 私は反射的に時計を見た。午前一時半を回っていた。
「すみませんが、ヒロシさん、今日はこの辺で」
「分かりました」
 私は素直に応じた。
「実は明日、結婚式なんです」
「えっ」
 私は驚いた。
「結婚されるんですか?」
「いえいえ、私じゃありません。友人です」
 なんだ、そうだったか。
 冷静に考えれば分かることである。結婚式を明日に控えた新婦が、こんな遅くに会社に残って見積もりをしている訳がない。
 結婚するのが彼女ではないと分かって、妙な安心感が生まれた。この気持ちは何なのだろうか。
「それではヒロシさん、さようなら」
「さようなら、ミツコさん」
 私は受話器を置いた。
 今晩はあっさりと終わってしまった。彼女に明日の予定があるのだから仕方がない。しかし私の身体は途端に寂しい気持ちに包まれていた。
 彼女が突然会話を終わらせてしまった。そのため、こちらはどうすることもできなかったが、実は次いつ話せるか、彼女と相談しておこうと思っていたのだ。
 電話の日時さえ決めておけば、お互いすれ違いをしなくて済む。実を言うと、今晩ミツコは携帯の番号を教えてくれるのではないかと期待していた。しかし次の電話の取り決めすらしなかった。
 彼女にとっては、この深夜の電話は、それほど積極的なものではないらしい。所詮彼女は、仕事で溜まったストレスのはけ口として、この電話を利用しているに過ぎない。
 でも、それもいいのかもしれない。
 ミツコが話したくなったら、電話をくれればよい。
 その時をじっと待つことにしよう。
 私は、椅子から立ち上がった。

4

 あの晩を最後に、ミツコからの連絡は途絶えてしまった。
 昼間の慌ただしい事務所の中で、私は一人で戦っていた。営業という仕事は、実に孤独なものである。手を差しのべてくれる同僚などいない。
 仕事に一区切りつくと、決まって思い出すのはミツコの声であった。
 机の卓上カレンダーを見つめる。
 もうかれこれ二週間が経過していた。
 毎週金曜日の夜になると、大した仕事もないのに、私は一人事務所に残って電話を待っていた。
 しかし先週も、先々週もミツコからの連絡はなかった。
 彼女は一体どうしてしまったのだろうか。
 そんなことを考え始めると、息つく暇もなく、目の前の電話が鳴り出す。
 昼間の事務所は、私を休ませてはくれない。
 私は、誰よりも素早く受話器を取る。
 (もしやミツコからではないか?)
 しかしそんな筈がないのであった。顧客からの電話である。
 私は軽い落胆を覚えながらも、的確に処理していく。
 やはり彼女は深夜にしか現れない。誰にも見られないように、密かにここまでやって来る。こんな明るい時間に現れる筈がない。
 それにしても、彼女は私との「ホウレン草」を守ってないではないか。そんな不満が頭をもたげて、つい笑ってしまった。
 私たちはビジネスで繋がった間柄ではない。したがって報告、連絡、相談をする必要はない。
 しかし、しかしである。
 ミツコは確かに私のことをどこか頼りにしているようだった。私もそんな彼女の心をしっかりと受け止めていた。
 彼女にとって、私はもう必要ではなくなったとでも言うのだろうか。
 それは考えられないことではない。彼女の身の周りに、相談できる人物が現れたのかもしれない。例えば、頼りがいのある男性が身近にいるのなら、もはや私は用無しである。
 彼女が最後に言った言葉が思い出された。
「明日は結婚式」か。
 実は結婚するのは友達などではなく、ミツコ本人だったのではないか。今にして思えば、彼女はとっさに口からでまかせを言ったのではないだろうか。
 それならもう彼女は私に電話してくることはないだろう。
 私はそんなことを考えながら、ぼんやりと電話機を眺めた。

 その日は、運悪く本社の視察と棚卸しが重なってしまった。そのため業務が終わったのは午前一時近くになった。
 社員たちはみな、疲れた身体を引きずるようにして帰り支度を始めた。
 もう何時間か後には、次の日の業務が始まっている。誰もが無口になるのも無理はない。最小限の挨拶を交わして、各自が事務所を後にした。
 知らぬ間に、事務所に残されているのは、私と上司だけになった。
 彼は私に何か話があるようだった。明らかに他の社員がいなくなるのを待っていた。
「君は最近、頑張っているようだね」
 彼はわざわざ私の机までやって来て、そんなことを言い出した。
「どうも」
 私はそんなふうに応えたが、違和感を抱かずにはいられなかった。
 このように、上司が人を褒めることは決してない。これには何か裏があるに違いない。それは何なのか、私はあれこれ思いを巡らせた。
「それで、折り入って話があるんだが」
 そこまで言った途端、二人の間に置かれた電話が鳴り出した。
 上司は驚いて、一瞬のけ反るような格好をした。
 まさか!?
 私が受話器に手を伸ばそうとした次の瞬間、それは先に上司の手の中に収まっていた。
「もしもし?」
 彼はそんな短い言葉の中に、相手に精一杯の不快感を表していた。
「こんな時間に、一体どなたかね?」
 さらに彼は語気を強めた。相手を端から信じていない乱暴な言葉遣いだった。
 私には、その電話の主が誰だか分かっていた。実にタイミングの悪い電話をしてくるものだ、と思った。
「君の名前って、ヒロシだったかい?」
 上司は電話を保留にせず、私に問いかけた。
「それは私のあだ名です」
「そうか。相手はミツコと名乗っているが」
 思った通りである。やっと来たか、と心の中は嬉しくなる。
 しかしそれを上司に悟られないように、無表情のまま、
「彼女は高校の同級生です。今度同窓会をやるので、その打ち合わせの電話です」
と口から出まかせを言った。
「そうか」
 彼は、受話器を私に突き出した。もう疑ってはいないようだった。と言うよりこの電話には興味がなくなった様子だった。
「もしもし?」
「こんばんは、ミツコですけど」
 久しぶりに聞く声だった。心に安堵が広がる一方で、上司を先に出してしまったことが悔やまれた。
「ヒロシです、お久しぶり」
 私は上司の顔を伺いながら、平静を装って言った。
「ごめんなさい、まだ事務所に他の人が残っていたんですね」
 電話の向こうで、ミツコが恐縮しているのが分かる。
「いえいえ、別にいいんですよ」
 上司はしばらくそんな私たちのやり取りを聞いていたが、
「それじゃ、私は先に帰るよ。後は頼む」
と手を挙げて出て行った。
 私は軽く会釈をしてから、椅子に腰掛けた。
 上司の姿がなくなると、事務所は途端に静かになった。重圧から解放されたような気分になった。
「ヒロシさん、ごめんさない。また掛け直します」
 ミツコが言う。
「いやいや、大丈夫です。もう私一人ですから」
「そうなんですか?」
「今のは、ウチの上司です。失礼な言葉遣いですみませんでした」
「それは構いませんが、ヒロシさん、怒られたりしませんでしたか?」
 ミツコは心配そうに訊いた。
「大丈夫ですよ」
 私はわざと笑ってみせた。
「それならいいのですが。でも、ちょっとビックリしちゃいました。まさかヒロシさん以外の人が出るとは思ってもみなかったので」
 確かにミツコはこの会社の名前も、私の本名も知らないのだ。さっきはさぞ困ったことだろう。
 そんなことよりも、私はミツコの声が聞けて嬉しかった。
 彼女は以前と変わっていなかった。私の心を覆っていた暗雲はすっかり消えていた。
「それにしても、お久しぶりですね」
 私はまた同じような台詞を口にした。嬉しさが隠せなかった。
 ミツコは私のことを忘れてはいなかったのだ。
「ヒロシさん、今日は何かいい事でもあったのですか?」
 彼女には、電話の向こうから私の表情が見えているようだった。
「いえ、別に」
「でも、何だかとっても嬉しそう」
 ミツコの羨ましそうな声が、受話器から伝わる。
 彼女は、私の気持ちとは裏腹に、どこか重苦しい雰囲気を引きずっているように思われた。
「遅くまで、お仕事ご苦労さん」
 私はミツコにそんな言葉を掛けた。
 不思議と自分の疲れが消えていくような感覚があった。朝からずっと働き詰めで、身体はぼろぼろの筈なのに、こうしてミツコと向き合っているとそれも癒される。
 私は少し躊躇したが、やはりこれだけは言わずにはいられなかった。
「正直、淋しかったですよ、私のことをすっかり忘れてしまったのではないか、と思ってました」
 ミツコは一瞬言葉に詰まったようだった。どう返事をすればよいか、迷っているようだった。
 彼女の反応に私は焦った。何かマズいことを言ったのだろうか。自分の言葉を頭の中で繰り返した。ミツコは何か勘違いして、不快な気持ちになっていないか心配になった。
 私に他意はなかった。自分の正直な気持ちを伝えたかっただけである。私はすぐに言葉を変えて、会話を立て直した。
「最近、お仕事の方は暇だったのですか?」
「えっ、どうしてですか?」
 ミツコは今度はすぐに反応した。
「だって電話がなかったということは、残業もなかったということでしょう?」
「いえ、違うんです。週末は連続して、見積もりの研修会で出張してました」
「へえ、そうなんですか」
 私は驚いた。
「しかも泊まりで」
 そう言うと、ミツコは小さくため息を漏らした。どうやら嫌なことを思い出させてしまったらしい。
「でも事務所を離れて、いい気分転換になるんじゃないですか?」
 私はカボチャ上司のことを思い出していた。出張の間は、彼の顔を見なくて済むではないか。
「それが全然なんです。出張先では、ユウウツな気分になりました」
「と言うと?」
「各営業所から積算課の女子社員が、研修センターに集められるんです。そこで朝から晩まで缶詰です」
「見積もりの練習ですか?」
「まあ、そんなところですね。新しい建材が次々に出てきますので、それに合わせて積算方法も変わるのです。そのための勉強会です」
「結構、大変なんですね」
 私は心の底からそう言った。
 私たちはもう学生ではない。実際に仕事に就いている社会人である。そんな人間が、日頃の業務を抱えながら、新しい勉強に時間を割くのは大変なことである。
 やはり大企業は、それだけ社員教育に力を入れているということか。
「いえいえ、その勉強会はそんなに辛いものではないんです」
 ミツコは、私が勝手に勘違いしていると思ったのか、そんなことを言った。
「私たちは、今回地方から集められたのですが、元々、都市部で働いている女子社員も居るんです」
「はい」
 一体何の話が始まったのか、私はただ黙って聞くしかなかった。
「そんな彼女たちは、私と年齢がほとんど変わらない筈なのに、とても輝いて見えるんです。それがちょっと悔しくて」
 私にはその意味がよく分からなかった。都会の女性は綺麗ということか。
 ミツコはそんな私に構わず、話を続けている。
「都会の営業所では、地方とは違って部署がきちんと別れていて、積算に没頭できるのです。余計なことがない分だけ、スマートに仕事をこなせます。だから当然、仕事も速い。もちろん仕事のできる子を配置しているからでしょうけど」
 なるほど、読めてきた。どうやらミツコは都会の女子社員の環境が羨ましい、と言いたいらしい。
 敢えて私は口を挟まず、聞き役に徹した。
「彼女たちとセンターで一緒に勉強するんですけれど、何と言うか、彼女たちは自信たっぷりに見えるんです。私なんか、田舎から慣れない場所にやって来て、それだけで気後れしているというのに。
 彼女たちは、おしゃれに制服を着こなして、休み時間に、別の部署の男性社員と仲良く話しているんです。まるで私に見せつけているようでした。私、平静を装っていましたけど、自分がとてもちっぽけに思えてきて」
 ミツコは一気に話すと、最後に付け足した。
「ヒロシさんには、この気持ち、分かりますか?」
 今度は、私が言葉に詰まる番だった。

 深夜の事務所は、実は無音ではないことに今気がついた。
 廊下に設置されたジュースの自動販売機が、低いモーター音を立てている。
 ミツコの方は私の返答を待っていた。それまでは言葉を発しないつもりらしい。
「ミツコさんは、ちっぽけな女性じゃないですよ」
 私には気の利いた言葉は浮かばなかった。ただそうやって、思ったままを口にした。
「ヒロシさんは、優しい人ですね」
 ミツコは短く言った。それは感情の一かけらも入っていない言い方だった。
「でも、気休めはおっしゃらないで下さい」
 そう、ぴしゃりと言った。
 今夜のミツコはいつもと違っていた。まるで私に挑戦してくるかのようだった。それなら私も本音でぶつかろうという気になる。
「別にそんなつもりで言ったわけじゃない」
「でも、ヒロシさんは、私がどんな女か知らない筈ですよ。私たちは顔も合わせたことがないのですから」
 なるほど、それは確かに彼女の言う通りである。
 私たちは、深夜に電話で話すだけの間柄である。顔も本名も知らなければ、ましてや性格など理解している筈もない。それは事実だ。
 しかしなぜかミツコのことは昔からよく知っているような気がするのだ。
 まるで家族のように、肩肘張らずに自然体でいられる。仕事で汚れた心が、彼女と話すうちに、浄化されていく。
「うまく言えないけれど、ミツコさんはもっと自信を持っていいと思う。正直、夜の見積もりに疲れたミツコさんしか知らないけれど、おそらく昼間は、みんなから頼りにされている存在なのだと思う」
 ミツコは黙って聞いている。
「前に聞いた年上の事務の女性も、カボチャ上司も、君を信頼しているからこそ、仕事を頼んでいるんじゃないのかな。それをてきぱきこなしている君は、きっと輝いて見える筈だよ」
「そうでしょうか?」
「ボクはそう思うよ。それに…」
「それに?」
 ミツコは思わずつられて、そんな声を出した。
「ボクも、君のことを頼りにしているんだ」
「えっ?」
「君と話していると、心が軽くなるんだ。どれだけ仕事に疲れていても、明日の活力が湧いてくる。また、君に負けないように頑張ろう、ってね」
 ミツコは電話の向こうで、涙をすするような音を立てた。
「だから他人と比べてあれこれ悩むよりも、もっと自分を中心に考えて、自信を持てばいい、と思うんだ」
 私から見ても君は輝いている、と付け足そうと思ったが、それは言わなかった。
「分かりました、ありがとうございます」
 最後はミツコは素直だった。私の意見をしっかりと受け止めているようだった。
 私は営業という仕事を通して、これまで多くの人と接してきた。だから話をするだけでも、相手がどんな人物か、ある程度の見当はつく。
 ミツコに言ったことは、決して嘘ではない。私にとってミツコは素敵な女性である。それは今までの会話から十分に感じ取っていた。
「もっと早く、ヒロシさんに電話すればよかったかも」
「えっ?」
「実は私、研修センターの宿舎で、一人ベッドに横になって、最初に思い浮かんだのは、あなたのことだったの」
 その言葉は、私の心を大きく揺さぶった。
 いつしか背中に羽根が生えたようだった。身体が軽く感じる。今にも空に浮かび上がってしまいそうな感覚だった。
「そこで電話してくれればよかったのに」
 私は残念そうに言った。
 もしその晩、電話を取っていれば、彼女の心の迷いを、すっかり取り去ってやることができたかもしれない。
「でも、出張疲れで早々と寝ましたから、深夜ではなかったのです」
「別にいつだって構いません。話したい時はいつでもどうぞ」
「ありがとうございます。でも、こちらが残業していない分、何だか気が引けますね。ヒロシさんの方は、お仕事中なのだから」
 そんな細かいことにミツコは拘っていた。いや、根が真面目なのだろう。
「いえいえ、全然平気ですよ。ボクは日頃、ミツコさんから勇気づけられているから、そのお返しに、いつでもお役に立てればいいと思ってます」
「分かりました。では今度何かあったら、真っ先に電話します」
 ミツコは嬉しそうに言った。
 私もそんな彼女の弾んだ声が、とても嬉しかった。

5

 あれから数週間が経っていた。
 朝、テレビをつけると、西日本の梅雨明けを知らせるニュースが映し出された。
 ミツコの住む街は、どうなのだろうか。
 今度電話で聞いてみることにしよう。案外そんな話題から、彼女の住所が判明するかもしれない。
 ミツコは二週に渡って、金曜日の深夜、電話を寄こしていた。
 彼女は話好きな女性である。毎回、実に多くのことを語ってくれる。
 それは生活の中のささやかな喜びであったり、また時には仕事の愚痴だったりもする。
 そんな時、私はいつも聞き役に徹するのだった。話の内容が、たとえ他愛のないものだとしても、彼女の声が私に元気を与えていることに違いはない。
 もうミツコのいない生活は考えられなくなっていた。

「今晩、空いているかい?」
 終業時刻になると同時に、いつの間にか上司が傍に来ていた。
 そんな彼の言葉に戸惑いを覚えながらも、
「はい、大丈夫です」
と私は答えた。
「ちょっと付き合ってほしいんだ」
 彼は指と指を合わせて、それを口に運ぶ仕草をする。どうやら一杯やろうというお誘いらしい。
 周りの社員は、そんな私たちの横をすり抜けて、挨拶だけ残して次々と事務所から去っていく。
 思えば、上司が私一人を誘うのは、これまで一度もないことだった。
 二人はタクシーで、夜の繁華街に繰り出した。
 私はあまり酒の強い方ではない。酒の席では、いつも時間を持て余してしまう。周りがどれだけ盛り上がっていても、酔えない自分はいつも冷静でいるのだ。そんな時、決まって早く帰ることだけを願っている。
 今夜もできるだけ早く解放してもらいたい、そんなことばかりを車内で考えていた。
 駅前の大きな居酒屋に入った。
 平日の夜だけに客の姿はまばらだった。店員の威勢の良い掛け声が、むなしく響き渡った。
 私たちはひっそりとした奥のテーブルを陣取った。
 まずはビールで乾杯する。
「お疲れさん」
 上司からそんな言葉が出た。彼の雰囲気はどこかいつもと違っていた。部下に対する優しさを感じるのだ。どういう風の吹き回しだろうか。
 彼が一気にグラスを空けたので、私はすかさず酌した。
「君は気が利くね」
 彼はそんなふうに私を褒めた。まるで私に負い目でもあるような調子だった。
 私は私生活について色々と尋ねられた。
 話し終わらないうちに、
「若い人も大変だね」
などと彼には不似合いな言葉を挟んだ。
 随分と時間が経っていた。しかしどれだけ話し込んでも、仕事のことは不思議と話題に上らなかった。
 上司は随分と酔ってきたようだった。その証拠に目の縁が赤く染まっている。
 私の方は、ゆっくりとしたペースで、しかも口を湿らせる程度なので、意識ははっきりとしていた。これなら店に入る前とほとんど変わっていないだろう。
 上司は急に黙り込んだ。
 テーブルの料理はほとんど平らげてしまって、二人は互いを見つめ合う格好となった。
「実はね、今日は君に言わなければならないことがあってね」
 彼はそんなふうに切り出した。
「はい」
 私はひどく悪い予感に襲われた。
 会社の中では、私が一番の若手である。もし社員に何か不都合を強いるとなれば、私が最先鋒となることは間違いなかった。
「実は、少し前から決まっていたんだが」
 彼は私と視線を合わせなかった。私の顔を真っ直ぐ見られないようだった。
「すまないが、会社を辞めてもらうことになったんだ」
 語尾がよく聞き取れなかった。彼の声は震えていた。
 私は凝り固まって、声も出せなかった。
「もっと早く君に言うつもりだったんだ。ほら、先月の棚卸しの日だよ。夜中に君に電話が掛かってきただろう?」
 すっかり思い出した。上司がいるところにミツコから電話があった。
 そう言えばあの時、彼は私に何かを言おうとしていたようだった。そこへミツコが割り込んできたのだ。
 なるほど、そうだったか。
 あの夜、私は落ち込んでいたミツコを励ましてやったのだが、呑気にそんなことをしている場合ではなかったのだ。あの時すでに私の人生は大きく方向を変えようとしていたのである。
 客のほとんどいない、がらんとした居酒屋で、時間だけが静かに過ぎていった。
 不思議と怒りや悲しみは湧いてこなかった。
 頭の中は真っ白で、延々と続く上司の話は耳に入っていなかった。
 これが世間で騒がれているリストラなのか。今までマスコミが大げさに騒ぎ立てる作り話かと思っていた。いや、少なくともどこか遠い世界の話だと思っていた。それが自分の身に降りかかってくるとは、これっぽっちも考えていなかった。
 解雇の通達が、これほど日常の延長線で、しかも極めて自然に行われることに感心させられた。当事者にとっては人生を大きく左右する問題であっても、会社にとっては別段大したことではないらしい。
「すまない」
と言う上司の言葉がやっと耳に届いた。
「来月一杯なんだ」
 私の頭は何も受け付けようとはしなかった。その言葉の意味を一生懸命に考えた。
 突然、ミツコの声が浮かんだ。この瞬間、彼女に負けた気がした。いや、元々彼女に勝てないことは分かっていたのだ。
 いつだったか、ミツコは輝いてる、そう彼女に言った。今にして思えば、笑止千万である。自分は輝くどころか、彼女と同じ土俵にすら立っていない。
 私は会社を去ることになった。もうあの事務所でミツコを待つことはできない。深夜、彼女の話に付き合ってやることはできなくなった。
 彼女にどう説明すればよいだろうか。そんな想いが頭を渦巻いていた。

 居酒屋の前で上司と別れ、私は一人タクシーに乗っていた。タクシー代は彼から貰っていた。
 今夜はすっかり酔いたい気分だった。しかし悲しいことに、酔えるほど酒を飲むことができないのだ。
 私は大人しく、後部座席に身を沈めて、流れゆく夜の景色を眺めていた。
 外はネオンの洪水だった。それら店の数だけ働く者がいる。そして店に群がる者もまた、どこか別の場所で働く者たちである。
 これまで労働者としての自分に何の疑いも持たなかった。朝起きれば、自然と会社に足が向いていた。文句を言いながらも日々の仕事を片付けていた。
 働くということに、一体どんな意味があるのだろうか。
 タクシーの運転手が羨ましくなった。彼は悩む暇もなく、生き生きとハンドルをさばいているではないか。
 彼には決して、今の私の心境を理解できないだろう。
 始めからやり直しだ、そう思った。
 私はこれまで築き上げてきた、信頼や自信を一気に失った。
 ミツコと再び対等に話せるようになるには、果てしない時間が必要に思われた。彼女に対して、今は敗北感しか湧いてこなかった。

 タクシーを降りた。
 そこには明かりの消えた会社が、まるで壁のように立ちはだかっていた。
 不思議な気分だった。夕方ここを出た時と今とでは、まるで天と地ほどの隔たりがある。本当に自分は、数時間前と同一人物なのだろうか。
 鍵を開けて事務所に入った。
 明かりもつけず、自分の机まで歩いていった。
 真っ暗に思えた空間も、月明かりがほのかに差し込んでいるのが分かる。目が慣れると、歩くにはこれで十分である。
 腰を下ろす。スチールの椅子が乱暴な音を立てた。
 机の上では、電話機がその存在を主張していた。
 反射的に腕時計を見た。十一時を過ぎたばかりである。
 受話器を見つめていると、ミツコの声が聞こえてきそうだ。今晩、彼女は電話を掛けるつもりだろうか。
 これまでは、ミツコからの電話が待ち遠しくて仕方なかった。
 しかし今は違う。
 正直、ミツコとは話したくない。自分がここを去ることは、いずれ打ち明けなければならないだろう。しかしそれは今晩やるべきことではない。まずは自分の気持を整理することが先決だ。
 しかし電話機は、今すぐにでも鳴り出す予感がする。
 私は怖くなった。
 もし本当に鳴り出したらどうしようか。いや、無理に応答する必要はないのだ。そう心に言い聞かせて、絶対に出ないことに決めた。
 しかしいつかはミツコに真実を伝えなければならない。
 私が会社を辞めるなら、彼女はここへ電話を掛ける意味がない。
 それは即ちミツコとの別れを意味している。
 彼女が真実を知ったら、私を軽蔑するだろうか。それとも同情して、励ましの言葉でも掛けてくれるだろうか。
 いずれにせよ、ミツコとは今まで通りに話ができなくなった。それだけは間違いない。
 私はしばらく放心していた。
 電話が怖いなら、さっさと帰ればよいものを、敢えてそうしなかった。実は心のどこかで、ミツコの電話を待っているのではないか。
 こんな時だからこそ、彼女に傍にいてほしいのだ。情けない自分を笑い飛ばしてほしいのだ。
 どれくらい時間が経ったのだろうか。
 表の蛍光灯に群がる虫の羽音が聞こえていた。
 どうやら今夜はミツコからの電話はないようだ。
 心の中は、安堵の気持ちと寂しい気持ちとが同居していた。
 もし電話のベルが鳴ったなら、私はすぐに受話器を上げて、今の気持ちを包み隠さず話すだろう。
 ミツコはきっと分かってくれる、そんな気がした。

 その晩、アパートに帰ってきて、ベッドに横になったところで一睡もできなかった。
 考えるべきことがいくらでもあった。
 まずは両親には何と説明しようか。初老を迎えた二人を驚かせてはならない。それには慎重に言葉を選んで説明する必要がある。
 また友人にも対策が必要である。必要以上に気を遣われるのが最も辛い。余計な心配を掛けないように軽い話にしなければならない。
 それに興味本位であれこれと詮索されるのも困る。一々それに応じていては、その都度精神が削られるだろう。こちらの身がいくつあっても足りない。
 いずれにせよ、みんなが騒ぎ立てないようなストーリーは用意せねばなるまい。
 そこは営業マンとして、何とか言いくるめる自信はある。
 ではミツコにはどう言えばよいだろうか。彼女に対して嘘はつきたくない。あくまで本音でぶつかりたい。
 目を閉じると、ミツコの声が聞こえてくる。それはいつまでも耳から離れなかった。
 やはり今すぐにでも、ミツコと話をしなければならない、そんな気がする。
 しかし私自身、まだ気持ちの整理がついていないというのに何と言えばよいのか。
 私は自問自答する。
 ミツコには解雇されたことをしばらく伏せておこうと思う反面、やはり正直に打ち明けたいとも思う。安っぽいプライドなどさっさと捨てて、彼女に全てを聞いてもらえたら、どんなに気が楽だろう。
 私はこれまで、ミツコが私を必要としているのだと思い込んでいた。孤独で行き場のない彼女は、深夜になると私を頼ってくるのだ、そう決めつけていた。
 彼女の電話番号を知らなくても何も困ることはなかった。なぜなら電話を必要としているのは、いつも彼女の方なのだ。
 私は堂々と構えていればよかった。ミツコが私を訪ねてきたら、広い心で彼女を包み込めばよい。それが私の役目だった。
 それが今はどうだろう。
 私はいとも簡単にその立場を追われてしまった。
 もはや彼女を助ける側ではない。助けられる側である。次の電話で、彼女はひどく失望することだろう。しかし今の私にはどうすることもできない。
 彼女を支える力は、私にはもう残されていないのだ。
 そう、今回ばかりは彼女に支えてもらいたい。彼女の口から、叱咤激励が聞きたいのだ。

 次の朝、私は複雑な気分で会社に向かった。
 地に足が着かないとは、まさにこのことだった。昨日の晩の出来事を信じることができないのだ。それほどいつもと変らぬ朝なのだった。実は悪い夢でも見ているのではないか、と本気で考えた。
 解雇されるのは、私一人なのだろうか。
 私は自分の席について、事務所の中を見回してみた。
 いつもの忙しい朝である。誰もが何の迷いもなく、仕事を始めている。
 そんな中、私の心の異変に気づく者など誰もいない。まだ箝口令が敷かれているのだろう。
 私はどんな表情を浮かべてよいか分からずに、今日の仕事の予定を確認した。
 しかしこんな不安定な気持ちのまま、残りの一ヶ月をどう過ごせというのだろうか。
 会社を辞めるからといって、手を抜こうとは思わない。少しでもそんな素振りを見せようものなら、だから解雇されたのだと、みんなを納得させてしまうだろう。
 ここは一つ、この解雇が不条理なものだと思わせたい。そのためには、私に残された道はただ一つ。これまで以上の働きを見せて、私を手放すことが誤った判断だったと会社に思わせることだ。
 そう、この会社に後悔させてやる。
 机の電話が鳴った。
 私は誰よりも早く受話器を取り上げた。
 ミツコからの電話も、こんなふうに応じることができるのだろうか。

6

 私の日々の生活は、表面上何も変わることはなかった。仕事場においても、同僚たちは何も知らされていないのか、私に接する態度は今まで通りだった。
 本当に私はこの会社を去ることになるのだろうか。誰か止める者はいないのか。
 誰にも届くことのない魂の叫びだけが、空しく事務所にこだまする。
 正直、今でも信じられない気分だった。

 週末が近づいてきた。
 最近ミツコは、金曜日の深夜に決まって電話を掛けてきていた。
 その時が刻一刻と近づいている。逃げ出したくなる衝動にかられる。身体が飲み込まれてしまいそうな恐怖を感じる。
 いっその事、ここは開き直って、堂々とミツコと向かい合ってはどうだろうか。
 しかし、自分にはそんな勇気はないのである。元来、私は弱い人間なのだ。それに今、ミツコと対峙するための武器を何一つ持っていない。これでは、負けるのは目に見えている。
 ミツコはこれまで私を頼ってきた。その私が、実は見掛け倒しの取るに足らない存在と分かった時、彼女はどう思うだろうか。
 おそらく愛想を尽かすに違いない。もう二度と電話をしてくることはないだろう。
 それは即ちミツコとの別れを意味している。
 しかし、それでもいいのかもしれない、そう私は思い直した。
 私がビジネスマンでなくなれば、もはや彼女と対等の立場ではない。お互いが別々の道を行くのも当然の帰結と思われた。
 ミツコ。本名も顔も知らない女性。
 このまま別れることになっても、何のためらいがあろうか。
 そうである。例え彼女にどう思われようと、私が頭を悩ます必要がどこにあるというのか。ミツコは単なる通りすがりの女性である。偶然、袖が触れ合った仲に過ぎない。

 目の前にお茶が出された。
 事務所での昼下がりだった。女性事務員が一人ひとりの席を回って、一番最後に私の所へやって来た。
「お客様からの頂き物です」
 そう言って、丁寧に包装された和菓子を一つ置いた。
「ありがとうございます」
 私はかしこまって、深く頭を下げた。
 彼女は少し笑って、奥に消えていった。
 この会社に初めてやって来た日のことを思い出した。
 何をするにも、周りの目を気にしていた。常に不安がつきまとっていた。
 端から見れば、それはまさに借りてきた猫のようだっただろう。
 今日もあの日と同じ気分だった。まもなくここは、私の居場所ではなくなるのだ。そんな感傷的な気持ちが湧いた。
 今頃ミツコも昼休みを迎えていることだろう。のんびりお茶でも飲んで、女子社員との話に花を咲かせているだろうか。それとも休む間もなく、次の見積りに取り掛かっているだろうか。
 電話が鳴った。すかさず事務員が応対する。私はそんなやり取りを遠くに聞いていた。
 本当にミツコは通りすがりの女性なのだろうか。
 彼女は不思議な存在だった。つい最近出会ったばかりなのに、昔から知っていたような気がする。ついこの間まで苦楽を共にした友人がどこかへ引っ越して、電話で近況を報告するような感じなのだ。
 そう、私は彼女のことをよく知っている。今はたまたま離れ離れでいるけれど、いつかまた再会できる日を待ち望んでいる。
 果たしてそんな大切な人を簡単に手放していいのだろうか。私にとってミツコは友達も同然なのである。
 やはり彼女に嫌われないように、自分を飾りたい。最後の力を振り絞って、せめて彼女の前では格好良くありたいと思う。
 今はまだ彼女と同じ土俵に上がっていないだけのことだ。幸い彼女は電話の中の存在である。彼女に気づかれないうちに、こちらの体勢を立て直せればそれでいい。
 少し時間が掛かるかもしれないが、きっと自信は取り戻せる。ミツコとは今のままの関係を維持しよう。私は一旦そんな結論を出してみた。

 そして、ついに金曜日の夕方を迎えていた。
 ここへ来て、私は激しく迷っていた。やはりミツコの電話は怖いのだ。今までみたいに彼女と話をする自信が持てない。
 今夜はどうすればよいだろうか。
 私は、意を決して、席を立った。そして逃げ出すように、事務所を後にした。
 この場所に居なければ、電話のベルを聞かなくて済む。ミツコと向き合わなくても済むではないか。
 アパートに帰ってきて、暗い部屋で一人考えた。
 これまで、ミツコの電話が何よりも嬉しかった。彼女と共有できる時間こそが、心に安らぎを与えていた。
 ところが今はどうだろう。見えない不安が日々増幅し、身体を押し潰すまでに膨れ上がっている。
 彼女からの電話が怖い。
 会社を解雇されたという、たった一つの事実が人の心をこれほどねじ曲げてしまうものなのだろうか。

 週明けは、いつもと変わらぬ仕事が待ち受けていた。
 気持ちが安定しないまま、時だけが無情に流れていく。
 私がこの事務所に居られるのも、いよいよ一ヶ月足らずとなった。何をしても心が満たされない。まるで心に穴が開いたような感覚。どんな仕事もまるで偽善のように思われた。会社内に自分の存在意義を探そうにも、それはどこにもありはしない。
 私はそんな思いを、一人抱え込んでいた。

 ある平日の昼、私は自分の机で弁当を広げていた。
 今事務所には、営業社員が数人、食事に戻ってきていた。
 斜め後ろの席で、先輩二人が話し始めた。
「昨日の晩、変な電話が掛かってきたんだ」
 私は雷に打たれたように、身体を硬直させた。全身の血液が凍りついた。
「変な電話?」
 相手がすかさず声を上げた。
「昨夜は会議の資料作りで残業してたんだよ。そしたら十二時半頃だったかな、突然電話が掛かってきてさ」
 私は身体全体が耳になっていた。一言も聞き漏らさないよう、神経を集中させた。
「そんな時間に誰から?」
「若い女の声で、間違えました、って」
「それのどこが変なんだ? ただの間違い電話だったんだろ?」
「いや、それが違うんだ。夜遅い電話だったから、会社名も名乗らずに、もしもし、って言っただけなんだ」
 相手は黙って聞いている。
「それなのにその女はいきなり、間違えましたって言うんだぜ。おかしいだろう?」
 相手はしばらく何も言わなかった。
 そして、
「そうかなあ」
とのんびりした声で言った。
 ミツコに間違いなかった。彼女は電話に出たのが私ではないと、一瞬で判別したのだ。
 彼女と私にとって普通の電話も、他人からすれば、それは奇妙なものだと言わざるを得ない。これは会社の事務所で深夜に行われている、いわば密会である。お互いにそんな背徳感がすっかり薄れていた。
 確かに名前も名乗らないのに、間違いもあったものではない。先輩が不思議がるのも無理はない。
 二人の話はまだ続いていた。
「だって考えてもみろよ、『もしもし』だけで、どうして間違いだと判断できるんだ?」
 相手はじっと黙り込んで、この謎を解明しようと考えを巡らせているようだった。
 そして次のように言った。
「いや、それほど変ではないかもしれんよ。例えば女に電話を掛けたつもりで、お前みたいなのが出てきたら、すぐに間違いだと気づくだろう」
「なるほど、確かにそうかもな。だが、この電話はそれだけで終わらないんだよ」
「えっ?」
 相手は知らずそんな声を上げた。
 私も身構える。
「三十分ほど経ったら、また掛かってきたんだ」
「同じ女からか?」
「そうなんだ。今度もまた、間違えたって言うんだぜ」
「そりゃ、変だ。何かの嫌がらせじゃないのか?」
「いや、別に悪意は感じられないんだが、何だか怖くなってさ」
「電話はそれで終わりか?」
「俺はそこで仕事を切り上げて帰っちまったから、その後のことは知らない。だが、ちょっと気になってこれを仕掛けておいたんだ」
 私は思わず声の方を振り返った。
 彼の手には、銀色に輝くマッチ箱のような物が握られていた。
「何だい、それ?」
「ボイスレコーダーだよ。音が鳴ると、自動的に録音が開始される」
「へえ、それでまた電話は掛かってきたのか?」
「さっき確かめたら、入ってたよ。あの後、午前二時、三時、三時半、四時、五時半、六時と六回掛かってきた」
「まさか、嘘だろ」
「いや、本当だ。証拠ならここにある。もちろん電話を取る者は誰もいないから、ベルが数回鳴っては切れる、の繰り返しだけど」
「おそらく同じ女からだろうな」
 相手は自信あり気にそう言った。
「もしかすると、この会社に恨みを持った変質者かもしれんぞ」
 私は思わず立ち上がった。
「すみません、その電話は私の知り合いです」
 突然割って入った私に、二人とも目が点になっていた。
「お前の知り合い?」
「はい、実は昨日電話を掛けてくる約束があったのですが、私がすっかり忘れてしまって。それは、同窓会の打ち合わせだったのです」
 私はいつか上司に言ったのと同じことを言った。
 ミツコが変人扱いされることが、どうにも我慢ならなかった。
 彼女は立派な女性である。私を含めて、この会社の誰と比べても、決して引けを取らない。
 先輩二人は、ぽかんと口を開けたままだった。
 しばらくして、
「そうか、お前の知り合いか。それなら、いいんだけど」
 私の下手な嘘に、どうやら納得してくれたようだった。
 私は椅子に座り直して考えた。
 ミツコがそれだけ連続で電話を掛けてきたことに違和感を覚える。
 私が出なかったとは言え、少々異常ではないか。
 まさか私が金曜日に、彼女の相手をしてやらなかった腹いせという訳でもあるまい。
 そもそも昨日は平日なのである。
 朝まで電話を掛け続けたということは、完全に徹夜をしたことになる。平日に徹夜などして、今日は大丈夫なのだろうか。
 私は彼女のことが心配になってきた。
 それとも昨夜は大がかりな見積もりでも任されていたというのだろうか。
 しかし、それもまた変なのである。
 大事な見積もりがあるのなら、そんなに頻繁に電話を掛けてくる余裕などない筈だ。
 やはりこれは、仕事の延長などではない。
 彼女に何か緊急事態が発生したのではないだろうか。
 午前三時に誰も出なければ、四時や五時に掛けても結果は同じだろう。それが分からぬほど彼女は馬鹿ではない。
 とするならば、彼女は余程理性を失っていたことになる。
 ミツコは、とにかく私と話がしたかった。それが無理だと分かっていながら、何度も何度も私に呼びかけていたのである。
 やはり彼女の身に何かが起こったのだ。
 私は居ても立ってもいられなくなった。
 今のところ、彼女が頼れる人間は私しかいない。それに私は応えてやることができなかった。
 (ミツコに一体何があったんだ?)
 それから私は仕事に一切手がつかなくなってしまった。

7

 気がつけば、終業時刻を迎えていた。
 私は思い出したように、机の書類を片付け始めた。
 女子社員らは、いつの間にか私服姿に戻って、
「お先に失礼します」
と、揃って事務所を出て行った。
 私には、残ってするような仕事は見当たらなかった。上司も気を遣っているのか、あの日以来、私に対して大きな仕事を任せなくなっていた。
 今夜はこの事務所で、ミツコの電話を受けようと思う。それは私の義務だった。今の私には、それがまさしく残業と言ってもよかった。
 ミツコが私を頼ってきているのだ。それにしっかり応えてやらなければならない。
 私は一旦、何食わぬ顔で退社して、アパートに戻ってきた。食事と風呂を済ませてから、しばらく自室で時間を潰した。

 夜十一時頃、再び会社に舞い戻った。
 事務所に誰か社員が残っていたらどうしようか、と考えていたが、駐車場から見る事務所は真っ暗だった。
 これでこちらの条件は整った。あとはミツコの電話を待つだけである。
 事務所の鍵を開けて中に入る。敢えて電気は点けなかった。
 こんな薄暗さでも、すぐに目が慣れてくる。私は迷うことなく室内を歩いていった。
 廊下では、ジュースの自動販売機が眩しいばかりの光を放っていた。その明かりに誘引されるように、私は缶コーヒーを一本買った。
 取出し口から爆発音ほどの大きな音がした。
 誰かが飛んでこやしないかと、左右を見回した。昼間の先輩社員の話で、この密会に多少の後ろめたさを感じているのかもしれない。
 しかし誰もいない事務所は、何事もなかったかのように、静寂さを取り戻していた。
 私は次第に不思議な気分になっていた。
 この会社に勤めてまだ三年足らずだが、これほど何度も、深夜まで会社に残ることはなかった。
 辞める間際になってから、会社に長く居るようになった自分が滑稽に思われた。
 それこそ最大の皮肉である。ミツコにそんなことを話したら、彼女はどう応えるだろうか。笑ってくれるだろうか。
 窓から差し込む月明かりが、事務所内のあらゆる物を同じやり方で浮かび上がらせている。
 私は缶コーヒーを片手に、椅子に腰掛けた。
 時計を見ると、今十一時半になったばかりであった。
 少々早く来すぎたようだ。
 これまでミツコは十二時前に電話を掛けてきたことはなかった。日付が変われば、安心して電話ができる時間帯だと考えているのかもしれない。
 果たして今夜、ミツコは私の元に現れるだろうか。
 昨夜、何度もこの事務所の電話を鳴らしたことを考えると、余程大事な話があったと容易に想像がつく。そういうことなら、今夜も確実に掛けてくる筈である。
 しかし一方で、違うことも考えられる。
 人は本来の目的を達成する前に、その過程の中に充足感を見出してしまうことがある。つまり途中の段階で、全てのエネルギーを使い果たしてしまうという訳である。
 もしミツコが、執拗に何度も電話をすることで、とりあえずの満足を得た状態にあるのなら、睡眠不足と相まって、今夜は電話してこないだろう。
 さて、そのどちらになるのだろうか。
 深夜に何度も叫び続けていたミツコ。彼女は一体何を伝えたかったのだろう。
 私は机の上の電話機を見つめた。
 それは今のところ眠ってはいるが、数十分後には激しい音とともに、目を覚ますような予感がした。
 そう言えば、結局のところ、ミツコに会社をクビになったことをどう伝えるか、まるで決めていないのだった。
 家族や友人には、余計な心配を掛けさせないように、適当な嘘でもつこうという気になるのだが、ミツコに対しては、どうにも小細工をする気になれない。
 彼女には、全てを知ってもらいたい。例えそれが原因で、彼女に嫌われても、そして別れることになってもいいと思う。それが運命ならば、素直に受け入れよう。
 そうだ、どうして今までこんなことに悩んでいたのだろうか。
 今の私が、本当の私なのだ。それ以上でもそれ以下でもない。
 どうしてミツコから逃げる必要があろうか。
 何も恐れることはないのだ。ミツコの前では、自然体で居ればよい。
 今までもそうだった。お互い素直な気持ちで語り合った。それで十分だ。
 もし彼女に軽蔑されても、電話を切られることがあっても、全てを受け入れよう。ほんの少しの間だったが、彼女の声が私を勇気づけてくれたことは事実である。
 ミツコという女性に出会えたことを感謝しよう。
 そして会社に、それから上司にも感謝しよう。
 私があとひと月早く解雇されていたら、彼女とは知り合えなかった。そもそもこの会社に居なければ、ミツコから電話をもらうこともなかったのだ。
 私には今の不幸さえも超越できる、大らかな気持ちが生まれていた。
 解雇が何だ。この程度のことで、自分は落ち込んだりはしない。これからもしぶとく生きてやる。
 こんな気持ちになれたのも、ミツコのおかげである。彼女は私にとって大切な人だと思う。
 今夜はミツコを待とう。そして、これが最後になるかもしれないが、彼女の話をとことん聞いてやろう。
 私の気持ちはようやく固まったのだった。

 まもなく十二時を迎えようとしていた。
 ミツコはきっと電話をしてくる、私には自信が湧いていた。
 今、時計の針が全て一つに重なった。
 それを待ち構えていたかのように、電話のベルが鳴り出した。予想していたにも関わらず、その正確さには少々驚かされた。
 やはりミツコは慌てているのだ。少しの余裕も感じられない。
 電話のベルは、そんな彼女の悲鳴のように聞こえた。
 私は弾かれたように、受話器を持ち上げた。
「もしもし」
「もしもし」
 暗く沈んだ声だった。とても若い女性には思えなかった。まるで病床からようやく声を出す老人のようだった。
「ミツコさんですか?」
 私は思わず確認せずにはいられなかった。まるで自信が持てなかった。正直、他の誰かからの間違い電話ではないかと思った。
「ヒロシさんですね、よかった」
 そうは言いながらも、ミツコにはまるで感情の起伏が感じられない。
 やはり昨夜、私ではない誰かが電話口に出たので、今夜もそれを警戒していたのだろう。しかしそれにしても、ミツコの雰囲気はいつもとは違う。
「こんばんは。昨日は電話をくれたそうだね」
 私はそんなふうに言ってみた。
「ごめんなさい、他の社員さんから聞いたのですね?」
「はい、何か緊急の用件だった?」
 私はいつも通りに明るい調子で訊いた。
 このままでは、ミツコの暗い雰囲気に飲み込まれてしまう。自分だって、おそらく彼女以上に辛い立場なのだ。ここで私がぐっと堪えなければ、彼女の支えになることは到底できない。この電話の最後には、お互い笑っていたいものだ。
「別に緊急という訳ではないのですが」
 彼女は口を濁した。
 では、深夜から明け方に至るまで、何度も私に電話をしてきたのは、何か他に理由があるとでもいうのか。
 今日のミツコはいつもとどこか違う。彼女が正直でないことに、少々苛立ちを覚えた。
 彼女は電話の向こうで、小さくため息をついたようだった。
 しばらくの沈黙があった。
「私、やっぱりヘンな女なんでしょうか?」
「えっ?」
 そんな突然の言葉に、私には適切な受け答えができなかった。
 藪から棒に、一体何の話だ。
「私、仕事を辞めようか、って思ってます」
 私は心臓がえぐられる思いだった。
 もちろん彼女は私が解雇されることを知らない。だから他意はないにせよ、そんなことを軽々しく口にしてもらいたくなかった。
「どうしてそんなことを言うの?」
 私は自然と厳しい口調になっていた。
 それは、ちっともミツコらしい台詞ではない。もし私の気を惹こうと、冗談を言っているのならタチが悪い。今の私には、笑えない冗談である。
「だって今、仕事がどうでもよくなって、全然身が入らないんです」
「一体、どうしたの? いつもの君らしくない」
 それは私の本心だった。
 ミツコはしばらく黙り込んでしまった。どんな表現が私に対して最も効果的かを、必死に考えているようだった。
 そしてついに意を決したように、
「実は、私、見事に振られました」
とぽつりと言った。
 私は言葉を失った。
 ミツコには恋人がいたのか。決して孤独な女ではなかった。それは私の勝手な思い込みだった。
 それにしても、意外な事実だった。てっきりミツコは、私がそうであるように、私を電話の中の恋人と見なしているのだと信じて疑わなかった。
 しかし実際には、それは私の妄想に過ぎなかった。彼女には、れっきとした彼氏がいたのだ。
 だが恋人がいたのなら、どうして何度も私に電話を掛けてきたのだ。私なんかではなく、身近な彼氏を頼りにすればよかったではないか。
 私の中には、理不尽な怒りが生まれ、見る見るうちに大きな形になっていった。
 ひょっとすると、そんな彼女の浮気心が、知らず知らず彼氏の心を傷つけていたかもしれないではないか。
「もしもし、ヒロシさん、聞いてます?」
 言葉を失っている私に、ミツコは気がついたようだった。
「ちゃんと聞いてますよ」
 私はぶっきらぼうに言った。
 自分の不快な気持ちを、余すことなく上手に伝えるやり方だった。まるでいつかの上司と一緒だった。こんなことだけは誰よりも絶妙にできるものだと、自分がひどく薄汚く思えてきた。
「別れる時、彼は何て言ったと思います?」
 私に答えはなかった。ミツコもそのまま言葉を続けた。
「お前は、仕事人間で女性らしさのかけらもない。付き合っていてもつまらない、だそうです」
 彼女はまるで他人事のように淡々と語った。
 なるほど、だから仕事を辞めたい、か。
 しかし彼氏と別れるのなら、今の仕事を辞める必要はないのではないか。
 それに、そもそも他人の言葉によって、職業が左右されるというのもどこか変である。人生はそんないい加減なものではない。
 何とも拍子抜けだった。
 これが今まで私を勇気づけてくれた、ミツコの悩みだというのか。
 今の私にとっては、何とも生ぬるい話である。こんなのは悩みのうちに入らない。
「それで、君はどうするつもりなんだ?」
「えっ?」
 まるで尋問のようだった。私の強い口調に、彼女は言葉を詰まらせた。
 私は重ねて攻撃した。
「そんな程度のことで、仕事を辞めちまうのかい? 君の仕事にかける情熱は、その程度のものだったのか?」
 ミツコは黙ってしまった。
 しかしその間に体勢を立て直しているようだった。すごい剣幕で反撃を開始した。
「私のこと知らないくせに、よくもそんなことが言えますね。私は深く傷ついているんです。あなたにはそれが分からないんだわ」
「ああ、全然分からないね。そもそも仕事なんてのは、自分の意志でやってることなんだよ。他人にどう言われようと関係ない」
「それは男性の発想です。恋人に振られてまで、どうして仕事にしがみつく必要があるんですか?」
「だから、そんなことを言うヤツは、こっちから願い下げにすればいいんだよ」
 私は吐き捨てるように言った。
 恋人とか仕事とか、同じ土俵で語ることではない。ミツコは何を言っているのか。
 要するに今の仕事が辛いから、恋人を引き合いに出して、辞めるのを正当化しているだけではないか。
 そんなに辛いのだったら、さっさと辞めてしまえばいい。
 働きたくても、職場を追われる人間だっているのだ。そんな甘ったれたヤツに、仕事を語る資格などない。
「そんなこと言って、あなたには恋人いるんですか?」
 ミツコの怒りはどうにも収まらないようだった。
「いや、いませんね」
「それなら、偉そうに言わないでください。そんな人に、振られた女の気持ちが分かる筈ありません」
「そうですね、ちっとも分かりませんね。分かりたくもない。仕事に誇りが持てないのなら、さっさと辞めてしまえばどうです。それで恋人とよりが戻せるなら、ぜひ辞めるべきだ」
「ええ、あなたに言われなくても、辞めますよ。辞めたからって恋人は戻っては来ませんけどね」
 ミツコの口調はあくまで強かったが、所々声が上ずっていた。どうやら電話の向こうで泣いているようだった。
 ミツコはそれ以上何も言わなかった。すすり泣きをすることが、今や彼女の主張のようだった。
 気まずい時間が流れていく。
 もうお互い話すことはないのに、電話回線はつながったままだった。
 今はミツコの泣き声を届けるためだけに、この電話は存在していた。
 どうしてミツコは、電話を切ろうとしないのか。
 どうして黙ったままでいる?
 私は彼女の言葉の続きをじっと待っていた。
 今電話を切ってしまえば、私と別れることになる、ミツコはそう考えているのではないか。それは私の自惚れだろうか。
 やはり彼女は心のどこかで、私を必要としている。恋人に振られた今、頼りにできる人間は私しかいないのだ。
 お互い受話器を手にしたまま、何も語ろうとはしなかった。
 どちらか先に口を開いた方が、相手に謝ることになる。しかしそれは負けを認めることになるからである。
 ひょっとして私は間違っていなかったか、後から不安が募った。
 失恋した若い女性を捕まえて、言葉に配慮が足りなかったのではないか、私は思いを巡らせた。
 いや、間違ってはいないと思う。
 やや言葉がきつかったもしれないが、彼女に仕事を辞めてもらいたくなかった。こうでも言わなければ、暴れ始めた彼女の心を制止することができなかったのだ。
 もし電話ではなく、目の前でミツコとやり合っていたなら、おそらく頬の一つでも打っていただろう。こんな時、表情が窺えない電話では、もどかしい気分だけが高まる。
 果たして彼女には、私の素直な気持ちが届いたのだろうか。
 しかし責められるは、何もミツコばかりではない。
 実は私も冷静さを失っていた。
 ミツコに彼氏がいたと知った辺りから、どうにもいつもの自分でなくなっていた。
 ミツコを奪っておきながら、いとも簡単に彼女を振った、無神経な彼氏とやらに腹が立った。本来、その男に向けるはずの怒りの矛先が、ミツコに向いてしまったのだ。
 私は鋭く尖った言葉を、被害者であるはずのミツコに突きつけてしまった。
 やはり少々、言い過ぎだったかも知れない。
 後味が悪かった。
 二人の間にできた深い溝を埋めるために、彼女に何と言ったらよいだろうか。
 考えがまとまらなかった。
 無理もない。彼女との戦いは、まだ決着がついていないのだ。
 今は一時休戦中で、お互い距離を保ったまま、睨み合っている状況である。急に相手が起き上がって、次なる攻撃を仕掛けてこないとも限らない。
 私は緊張を解く訳にはいかない。
 しかしこのままではラチがあかないのも事実である。
 私は思い切って、電話の向こうに話し掛けた。
「本当に会社を辞めるつもりか?」
 私には、戦う兵士の気分が宿っていた。ここで攻めの姿勢を崩しては、彼女に負けるような気がした。
 私の声に彼女は無反応だった。
 例えどんな答えが返ってきても、たじろがないことを決め込んでいた。わざと落ち着き払っている自分を見せる気だった。
「あなたには関係ないでしょ」
 突然かすれた声が言った。語尾がよく聞き取れなかった。
 私はその反応に少しほっとした。
 ミツコの声には明らかに先程までの力強さは感じられなかった。言葉に勢いがない。
 彼氏の悪口の一つでも言ってやれば、彼女の気持ちはどれだけ紛れることだろう。
 確かにミツコに落ち度はないのだ。憎むべきは、ミツコの情緒をこれほど不安定にさせた彼氏の言動なのである。
 しかし今それを説明するのは面倒に思われた。敢えて口には出さずにおいた。
「仕事は辞めないでほしいんだ」
 私は穏やかな声で言った。
 決して優しさの片鱗は見せないつもりだった。そんな安易なやり方で、自分の気持ちを後退させたくはなかった。
「あなたに、そんなこと言う権利はないわ」
 ミツコはわざと強い調子で言った。
 (いや、それが立派にあるんだ)
 私は口元に笑みをもらした。
 (ミツコ、君は仕事を突然クビになった人間の気持ちを考えたことがあるかい?)
 私は心の中で語りかける。
 (仕事をする君はいつも輝いていた。一時の感情で自分を見失うな。これからもずっと輝く女性であってほしい)
「何よ、黙り込んじゃって。都合が悪くなるとそうするのね、ずるいわ」
 ミツコは涙混じりに言った。すっかり声が変わっていた。
 私はミツコが可哀想に思えてきた。とっくに勝負はついている。彼女は結局、泣くことしかできない。自分に勝ち目がないことを、彼女は最初から解っていたのだ。
 (ミツコ、泣かなくてもいいんだ。君は決して悪くない。いつもの君でいればいい)
 私はしばらく無言だった。
 すると突然、電話回線が切れてしまった。
 私は思いがけない出来事に気が動転した。
 受話器を強く耳に押し当てた。しかしそこに彼女の声はなかった。あるのは、断続する電子音だけであった。

 私は受話器を握りしめたまま、しばらく放心していた。まったく予想していなかったことが起こってしまった。
 ミツコと私は一本の線だけでつながっていた。しかしそれが今、彼女の意志によって切断されたのだ。
 私にはひたすら敗北感が湧いていた。
 実は心のどこかで、ミツコに頼りにされている、という自信があった。現に彼女は振られた時、真っ先に私に電話を掛けてきているではないか。
 しかしそれは私の思い違いだった。
 このまま別れるのは嫌だ。
 彼女が私の言葉に気分を害したのなら、謝らなければならない。
 だが決して彼女を非難するのが目的ではなかった。それだけは分かってほしいと思う。彼女は失恋後、まるで催眠術にでもかかったように、本来の自分をどこかへ置き忘れてしまったのだった。私はそんな彼女の目を覚まそうとしただけなのである。
 ミツコは私を誤解している。彼女は私にとって大切なパートナーなのである。そんな気持ちを彼女に伝えたいと思う。
 しかし、こちらから連絡を取る方法はないのである。全ては彼女の手に委ねられている。彼女からの電話を待つしかない。私は祈るような気持ちだった。
 腕時計を見た。秒針だけが何事もなかったように、冷静に動いていく。
 ミツコは本気で私をおいて飛び立っていったのだろうか。
 (頼む、一度だけでいい。せめてもう一度だけ話をさせてくれ)
 私はそう念じながら、受話器を元に戻した。
 突然、真夜中の空気を揺さぶるようにして、電話のベルが鳴り出した。
 私は最初の呼び出し音で、すかさず受話器を持ちあげた。
 受話器に温もりを感じる。ずっと握っていたせいで、すっかり温められていたのだった。
 この瞬間を随分と待っていたような気がする。しかし電話が切れてから、ほとんど時間は経っていないのだった。
「ミツコ」
 私はいきなりそう呼んだ。
「はい?」
 彼女は勢い込んだ私の声に圧倒された様子だった。
「ごめん」
 私はそう言いながら、受話器を持ったまま頭を下げた。
「いきなり、どうしたのですか?」
 ミツコは訳が分からないといった調子で言う。
 さっきまで戦いを挑んできた相手が、突然謝罪しているのである。頭が混乱するのも無理はなかった。
「さっきは言い過ぎた」
「もういいですよ」
 ミツコは落ち着いた調子で言った。それはいつもの彼女だった。
 一度離れかけた彼女がこうして戻ってきてくれた。私は神に感謝した。
「本当に怒ってない?」
「大丈夫ですよ」
 ミツコは少し笑って答えた。
 すっかりいつも通りだった。安堵感が私を包み込んだ。
「急に電話が切れたから、ちょっと驚いたよ」
 私は正直な気持ちを語った。
「えっ?」
 ミツコはそんな声を上げてから、
「ああ、ごめんなさい、携帯を落っことしたら切れてしまって」
 と言った。
「そうだったのか」
「はい。涙で濡れた手で触るものだから、滑ったみたい」
 大げさな話だが、それはどうやら本当らしかった。
「そうしたら、ベッドの裏に落ち込んでしまって。取るのにちょっと苦労しました」
 私は何だか可笑しくなった。
 こちらが一生懸命に、電話の切れた訳を考えている一方で、ミツコはベッドの裏に手を伸ばして、必死に携帯を拾おうとしていたのか。
 私は、思わず笑い声を出してしまった。
「いえいえ、そこは笑うところじゃありませんよ」
 ミツコがまじめな声で抗議した。
「でも、今、携帯が凄いことになってます。濡れるわ、埃まみれになるわで」
「今度、携帯を買う時は、防水のを買うといいね」
 私はそう提案した。
「はい、そうします」
 彼女はそう言ってから、吹き出すように笑い出した。
 私もそれにつられるように笑った。こんな時間を大切にしたいと思った。

 私はいつもと変わらぬミツコを前にして、冷静さを取り戻していた。さっきの喧嘩が遠い昔のことのように思える。
 そう言えば、今日のミツコは自宅から電話を掛けているのか、と気がついた。
 これまでは、深夜一人で事務所に残って仕事をしていた筈である。同じ境遇の男女が電話回線を通して、いわば密会をしていたのだ。
 しかし、今日の彼女は違う。彼女は今、会社にいる訳ではない。
 どうやら、彼女は私を仕事の延長として捉えているのではないようだ。もしそうなら、それはどういう意味を持つのだろうか。
「ねえ、ミツコさん」
「はい、何でしょう?」
 彼女は気安く答える。涙はもうすっかり乾いているようだった。
「今、自宅からですよね?」
「そうなんです。こんなことを言うと、ヒロシさんに怒られるかもしれないけど、今は会社に居残りしたくない気分なのです」
 彼女は言葉を探すように、ゆっくりと語った。
「いえいえ、そんなことで怒ったりはしませんよ」
 私は慌てて言った。
「仕事をしていないミツコさんから、電話を貰うのが初めてだな、と思って」
 そうなのだ。今夜の彼女はプライベートな立場で電話をしてきている。
「あっ、言われてみれば、そうかもしれません」
 ミツコは私に指摘されるまで、どうやらその意識はなかったようだ。
 私は彼女の心情に思いを馳せた。
 彼氏と別れて、まず最初に思い浮かべたのは、この私だった。そして、私の声が聞きたくなった。
 いや、彼女の意志はそんな消極的なものではないだろう。
 彼氏の言葉で、ミツコは会社を辞めようと思った。しかし彼女にそんな勇気があるはずもなく、私に引き留めてもらいたかった。
 彼女は、私ならきっと制止してくれる、そう最初から分かっていたのだ。だから喧嘩になりながらも、彼女は電話を切ったりしなかった。泣きながらも、私の言葉を受け止めていたからだ。
 きっとそうだ、今やミツコと私は、ただ電話で話し合うだけの仲ではない。お互いに相手の心を揺り動かすほどの影響力を持っている。
 私が彼女に対して抱いている感情を、おそらく彼女も抱いているのではないだろうか。
 私はミツコの心が知りたくなった。
 自分の中に芽生えて、どんどん成長し続けるこの感情を、これ以上押さえつけることはできなかった。
 どうしても彼女には確認しておきたい。
 会社を辞める今、自分には時間は残されていないのだ。

「ミツコさん、ちょっと立ち入った話をしてもいいですか?」
 私は恐る恐る切り出した。
「別れた彼氏のことですか?」
 ミツコは、すぐにそう応えた。
 明らかに心の準備をしていた素早さだった。いつか私の興味がここへ辿り着くことを知っていたようだった。
「うん。訊かせてもらえるかな?」
「いいですよ、もう吹っ切れてますから」
 ミツコはわざと明るい声で言った。
「彼氏とは長かったの?」
「高校時代の先輩なんです」
「へえ」
 自然とそんな声が出た。
 私と知り合う遙か前に、ミツコは彼氏と出会っていた。
 それなら、どうやっても私の勝てる相手ではない。私は嫉妬する他なかった。
「文芸部の部長なんです。ほら、前にお話しましたよね。私、高校時代は文学少女だった、って」
 忘れる筈がない。それは私にとって、大切な情報の一つであった。
 私はミツコの言葉の断片をつなぎ合わせていくことで、彼女のイメージを作り上げようとしていた。新しい話が出る度に、私が心で描くキャンバス上の彼女の姿は、何度も修正を繰り返している。
「結構長い付き合いでした」
 その言葉は私の心を刺すようだった。
「どんな人だったの?」
「優しい人でしたよ。それに博識っていうのかな、いろんな事を知っている人でした」
 そこまで言うと、ミツコは楽しかった日々を思い出したのか、言葉を詰まらせた。また涙が湧いてきたようだった。
 これ以上聞くのは、さすがに酷である。
「ごめん、もういいよ。ありがとう」
 私は慌ててそう言った。
 別に彼氏のことなど、どうでもよかった。私が知りたかったのは、ミツコがどんな男性に心を奪われていたかということだった。そして私自身がどれほどその資質を持っているかであった。
 彼女は私の意志に関係なく、話を止めようとはしなかった。そのまま涙声で続けた。
「私、本を読むのも好きだけど、人とじっくり話をするのも好きなんです」
 私は言葉を挟まずに、黙って聞いていた。全神経を集中させていた。
「私の知らないことを教えてくれたり、ユーモアで心を和ませてくれたり、辛い時には悩みを聞いてくれて、行き詰まった時には、思いっきり叱ってくれるような人が、私は好きなんです」
 私は何も言えなかった。
 それは彼氏のことを言っているのか、それとも私のことなのだろうか。受話器を耳から少し離して考えてみた。事務所の暗闇が私を飲み込んでしまいそうだった。
 考えれば考えるほど、自分がちっぽけな人物であるという結論にしか至らなかった。
 ミツコには会社を辞めるな、と言っておきながら、自分はまもなくこの会社をクビになるのである。
 まるで説得力のかけらもなかった。彼女を励ます資格など私にはない。
 それでも何も知らないミツコは黙って私の話を聞いていた。私を救世主か何かのように錯覚しているのかもしれない。
 電話の中の付き合いで、彼女は私のイメージをどんどん美化していく。もうブレーキを掛けることはできない。実際、別れた彼氏と比べても、おそらく私は何もかもが劣っているだろう。彼に代わって、ミツコの心を満足させられるとは到底思えない。
 その事実を知ったら、果たして彼女はどう思うだろうか。

 空が白んできた。
 日の出にはまだ時間があるものの、この時期の朝は早い。照明なしでも、机のカレンダーの文字は読めるほどだった。
 今日は平日である。二人とも仕事が待っている。
 もう電話を切らなければならない。
「ミツコさん、仕事は辞めませんよね?」
 私は最後に、そう念を押した。
 おそらく彼女は本気で辞める気はないと思うのだが、やはり気がかりだった。
「まだ心配してくれていたんですか?」
 ミツコは感慨深げに言った。
 その言葉には、苦しみを乗り越えた者だけが得る、静かな強さが感じられた。
 もうミツコには微塵の迷いもないようだった。
 これなら大丈夫だ、という安心感に包まれた。彼女はきっとこの仕事を続けることだろう。
 こうなると、問題は私の方である。 
 私は激しく迷っていた。
 今夜、ミツコに会社をクビになったと伝えるべきだろうか。しかし物事には、タイミングというものがある。今夜の電話は、ミツコが失恋から立ち直るきっかけを作ったことで、その役割を十分に果たしていた。それを私の退職話でぶち壊す訳にはいかない。
「それを聞いて安心したよ」
 私は何事もなかったかのように、そう言った。
「今夜は、本当にありがとうございました」
 ミツコが言う。
 もう私がこの会社に居られるのもあとわずかである。
 こんなふうにミツコの電話を受けるのも、おそらく次が最後になりそうだ。
 私は、ミツコの電話番号を聞いておくべきかどうか、考えた。しかしそれは彼女次第だと思う。彼女が自ら教えたいと判断すれば、彼女の口から聞かされるだろう。それに今の私には、そこまで積極的な気分が湧かなかった。
「それじゃ、ミツコさん、お休み。元気出してね」
「さようなら、ヒロシさん」
 彼女の何のためらいもなく、電話を切った。
 私は静かに受話器を置いた。
 結局、彼女に真実を伝える勇気がなかった。
 元気を出して、か。笑わせる台詞である。元気を出さなければならないのは、私の方だった。励ましてほしいのは、むしろこの私だったのだ。
 外はすっかり明るくなっていた。
 しかし私だけは、暗い事務所の中に一人取り残されていた。
 電話を切った後も、ミツコの声がいつまでも耳に残っていた。
 時には、真面目な話をしたり、冗談を言い合ったり、怒ったり、泣いたりと、彼女は様々な感情を見せてくれた。
 電話の中でしか接することのできない女性と言うのに、まるで身近にいる知り合いのような気がしてならない。
 私はぼんやりと電話機を眺めながら、そんなことを考えた。
 この機械は、昼間は顧客の声を、深夜はこうしてミツコの声を私に届けてくれる。
 しかし、もうしばらくすると、そのどちらも届けてくれなくなるのだ、そんなことが頭をよぎった。
 もし今、もう一度電話のベルが鳴って、ミツコと話す機会を得たなら、私は今度こそ自分の悩みを話すだろう。
 ミツコの話は十分聞いた。今度は私の話を聞いてもらう番だ。
 しかしどんなふうに自分の退職話を伝えるべきか、頭の中は整理ができていなかった。
 いずれにせよ、彼女との別れが迫っているような予感だけがそこにあった。

8

 私の退職は、社員全員の知れるところとなった。
 社員は口々に、信じられないと言った。上司のいない所で、会社の一方的なやり方を批判した。
 しかしそれも最初のうちだけだった。しばらくすると、まるで何事もなかったように社員は日々の仕事に追われていった。口では会社を非難しても、実際に私をかばおうと、立ち上がる者は誰もいなかった。次に肩を叩かれるのは自分ではないかと、戦々恐々としているのだ。
 日増しに社員たちは私に話し掛けてこなくなった。どんな言葉を掛ければよいのか、またどう接すればよいのか分からず、遠巻きに見守るしかないのだろう。しかしあれこれ詮索されるより、はるかに気が楽であった。
 そんな中、いよいよ残すところ十日となった。
 金曜日の夜に私の送別会が開かれた。
 駅近くの居酒屋に、仕事を終えた社員十五名ほどが集まってくれた。
 私は、この会社に入社したばかりのことを思い出していた。確かあの時もこの店で歓迎会が開かれた。
 まもなく三年が経とうとしている。あれから入社した者は、女性事務員が一人だけだった。退社した者は誰もいない。そう考えると、私は歓迎会から送別会までの期間が一番短かったということになる。
 学校を出て、就職したての頃は、仕事は厳しいものだと痛感したが、周りからそれなりの信頼を集めるようになると、ささやかながら充足感を得ることができた。何と言っても、自分が社会を動かす一員なったことが嬉しかった。それは学生時代には経験したことのない感覚だった。
 そんな矢先、会社を辞めることになってしまった。これまで私を支えてきた自信や誇りはすっかり失うことになった。こんなどん底の気分では、新しい職を探す気には到底なれそうもない。
 折角知り合ったミツコとも、これまで通りの関係を続けていくことは難しくなった。
 顧客には、まだ退職のことは告げていなかった。来週中、引き継ぎの挨拶に廻る予定になっていた。
 酒の席では、社員一人ひとりが優しい声を掛けてくれた。心が締め付けられるような感覚が常にどこかにあった。私は密かに涙を浮かべた。
 トイレに立った時、先輩社員と一緒になった。
 私の顔を見るなり、
「お前の客は、まったく人使いが荒いね」
と言った。彼が私の得意先を引き継いでいるのだった。一軒の大口客がすぐに思い浮かんだ。
「何かあったのですか?」
 私はまったく酔ってはいなかった。しっかりとした口調で訊いた。
 彼は赤い顔を向けると、
「早速、来週土、日にヘルパーの要請さ」
「そうなんですか?」
 私にはまったく知らされていない話だった。上司が私に気を遣っているのか、ここ数週間、私の仕事は他者へ振り分けられている。そのため、ヘルパーの話も私の頭を通り越えて、先輩のところへ直接行っていたのである。
「困ったよ、俺、彼女と旅行に行くことになっているんだ」
 先輩は泣きつくように言った。
 彼はすっかり酔っているようだった。要するに最後の仕事として、ヘルパーを私にやってもらえないか、という嘆願らしかった。顔にそう書いてある。
 彼にとって、これは本来の仕事ではなかったのだ。土日まで出勤する義理はないと考えるのも無理はなかった。
「私がやりましょうか?」
 知らぬうちに、口からそんな言葉が出ていた。
 元はと言えば、私の顧客である。ここは私が出るのが筋である。それに最後の最後、こんな終わり方があってもいいと思う。どのみち次の月曜日からは、何もすることがないのだ。
「しかし、それじゃあ、お前に悪いしな」
 先輩はそうは言いながらも、予め考えていた回避策が現実味を帯びてきたことに、安堵の表情を浮かべていた。もうそれしかないと強く心に決めているようだった。
「いや、いいんですよ。どうせ最後だから」
「そうか、すまないな」
 先輩は私の肩をぽんと叩くと、足取りも軽く出ていった。

 一次会が終わった後、私は先輩たちに連れられて、いくつか店をハシゴした。さっき仕事を代わってもらった先輩が気を遣っているのかもしれなかった。
 しかし時間が経つにつれて、私の送別会という色合いは徐々に薄れていった。みんなは飲んで騒ぐ理由がほしいだけなのだ。悲しいことに、それを冷静に判断できてしまうほど、私には酔うことができないのだ。
 最後に駅裏のラーメン屋で、さほどおいしくないラーメンを食べてから、ようやく解放された。
 先輩らは盛り上がったまま、駅前の深夜サウナに泊まると言い残して消えていった。
 時刻は午前三時を回っていた。
 そう言えば、今日は金曜日だった。ミツコから電話があるかもしれない。
 私は浪費した時間を取り戻すべく、慌てて大通りに出ると、タクシーを拾った。
 事務所まで戻ってきた。
 しかし少し遅すぎたようである。この時間では、さすがにミツコも電話を掛けてこないだろう。 
 それでも裏口の鍵を開けて、静かに扉を開いた。電気は点けず、自分の座席に崩れるように倒れ込んだ。
 暗闇の中、ぼうっと浮かび上がった白い電話機を眺めた。しばらく睨みつけてみたが、まるで鳴る気配はない。どうやら沈黙を決め込むつもりらしい。
 ひょっとして数時間前には、誰もいない事務所の中で、この電話は鳴っていたのだろうか。誰も取らない電話を、ミツコは我慢強く待っていたのだろうか。
 今夜は大切な機会を逃した、と思った。
 私がこの事務所に居られるのも、来週の金曜日までである。
 その後で土曜日と日曜日はヘルパーに出るつもりだが、その時にはもう、彼女の呼びかけに応えることはできない。
 来週の金曜日がタイムリミットである。その日までにミツコが一度も電話をくれなければ、もう彼女とは永遠に話せなくなる。
 こんなことなら、やはり彼女から電話番号を聞き出しておくべきだったか。次第に後悔の念が募ってきた。
 思えば、どうして私たちは本名や住所を明かさなかったのだろうか。ぼんやりとそんなことを考えてみた。
 ミツコと私は、間違い電話という不思議な出会いをした。深夜に働く者同士、互いを尊重し、理解し合っていた。いつしか私にとって、彼女はかけがえのない存在となった。
 本名や住所などに、さほど意味はなかったのかもしれない。ミツコが深夜にぶらりと会いに来てくれるだけで十分だったのだ。それで二人はしっかりと結ばれていた。
 しかし今は違う。
 私は彼女に背を向けて、舞台から一人降りようとしている。もはや彼女は手の届かない存在である。この先どれだけ声を振り絞っても、彼女の耳に届けることはできないだろう。
 しかし、これも運命というやつか、私はそんなことを考えた。
 もしミツコがただの通りすがりではなく、自分にとって大切な女性となる運命ならば、きっともう一度、神はチャンスをくれる筈だ。
 今はそれを信じよう。
 そしてどんな結末が待っていても、全てをありのまま受け入れよう。
 私は電話機に軽く触ってから、席を立った。

 いよいよ最後の一週間となった。
 私は先輩と得意先を訪問して、退社の意向を伝える毎日だった。
 身勝手なもので、上司からは退社の理由を一身上の都合としてくれ、と言われていた。
 取引先では驚きや、残念がる声が多く聞かれた。それは私にとって、わずかな救いだった。これまでやってきたことが間違いではなかったと確認できたからである。
 先輩の運転する車の中で、いよいよ会社を辞める実感が湧いていた。これまで現実味のない言葉だけが、一人歩きをしているような節があった。突然上司は、解雇を撤回するのではないかという期待が心のどこかにあった。
 しかしこうして一軒一軒顧客を回り、隣にいる先輩にどんどん仕事が取り上げられていくと、さすがにもう自分の居場所はないのだと思えてきた。
 夕方、外から戻ってきては、そのまま引き継ぎの資料作成や、書類の整理などで、午前零時まで事務所に残る毎日を送った。
 それはもちろん、ミツコの電話を待つためでもある。
 しばし手を止めて、ミツコのことを考えた。
 私は彼女の前では格好良くありたい。仕事のできる、頼れる男を演じていたい。
 こんな姿は、ミツコには見せられないと思う。
 深夜、こうやって彼女の電話を待つ一方で、真実を語らなければならない時が近づいていることが、私を複雑な気持ちにさせていた。
 そんな私の気持ちを知ってか知らずか、木曜日までついにミツコは連絡をくれなかった。
 彼女と最後に電話で話してから、すでに二週間になろうとしている。
 彼女は失恋のショックから立ち直っただろうか。
 いつものように仕事に励んでいるだろうか。

9

 いよいよ最後の金曜日を迎えた。
 私は朝から心の落ち着く暇がなかった。新聞を開いても、テレビを見ても、何も頭に入ってはこなかった。
 果たして今夜、ミツコは電話をくれるだろうか。ただそればかりが頭の中を渦巻いていた。明日からは事務所で電話を取ることができなくなる。もし今晩ミツコから電話がなかったらどうなるのだろうか。
 私の退社後、ミツコという女性から電話があったら、私の電話番号を伝えてくれ、と全社員に頼んでおこうか。そんなことを本気で考えてみた。
 しかしそれは何とも期待できない方法なのである。ミツコはこれまで深夜に電話をくれていた。そんな時間に都合良く応対する社員がいるとは思えないし、ミツコの方で間違えました、と電話を切ってしまえばそれまでだ。
 何よりも会社を辞めた人間の依頼が、きちんと履行されるのかどうか甚だ疑問でもあった。

 最終日に、私には外回りの仕事はなかった。事務所で机や棚の整理をしているだけで、時は流れていった。
 昼は上司から食事に誘われた。
 中華料理屋で、彼は「今までありがとう」と言った。
 今の私は彼に対して、恨みを持っていなかった。
 素直な気持ちで、
「こちらこそ、お世話になりました」
と答えた。
「明日、明後日とヘルパーに行くのは本当なのか?」
「はい」
 彼は箸を止めた。訳が分からないといった様子だった。
「どうして行くんだ?」
「自分でもよく分かりません。最後の思い出として、なのかもしれません」

 夕方、女子社員が一人ひとり挨拶をして帰って行った。
 どの社員も深々と頭を下げて、いつもとはまるで違う雰囲気だった。
「頑張ってくださいね」
 その月並みな言葉に、苦笑させられた。
 今の私に何をどう頑張れ、というのか。明日から最初の一歩をどちらへ踏み出せばよいのか、それすら見当がつかないのだ。まるで一匹の野良犬なのである。人生においてこれほど目的を失った瞬間は今回が初めてだった。

 夜になって、営業マンたちも次々と事務所を去っていった。
 みんなは温かい言葉を、私に投げかけていった。
 そして私は、いつものように静かな事務所に一人取り残された。
 いよいよ最後の夜である。今夜が正念場となった。
 私は明日のヘルパー出勤に備えて、今夜は事務所に寝泊まりするつもりでいた。
 そう、初めてミツコと出会った、あの夜と同じように。
 果たして彼女は私のもとへ飛んできてくれるだろうか。
 明かりのない事務所の中で、私は一人ぽつんとミツコの電話を待った。
 窓から差し込む月の光が、事務所内の空間を青色に染め抜いていた。スチールの机やロッカーたちは昼間の疲れをとるかのように静かに眠っている。
 十二時、一時、二時。
 時間だけが着実に過ぎていく。
 しかし机の電話も、すっかり仕事を忘れて眠りについているようだった。
 私は思い立って、受話器を上げると耳に押し当ててみた。
 発信音が聞こえる。
 このままダイヤルすれば、日本のどこかにある電話を鳴らすことができる。しかし、ミツコの携帯を鳴らすことはできない。
 三時、四時。
 時間だけが無情にも流れていく。
 私にはどうすることもできなかった。時間を止めることはできなかった。
 そうか、これが結末なのか、と今やっと気がついた。
 自分を嘲笑する気分だった。
 ミツコは私が考えているほど、私のことを気に掛けてくれなかった。ただそれだけのことである。私は甘かった。
 全ては私の独り相撲だった。心のどこかで、最後にミツコが自分を助けに来てくれるものだと固く信じていた。
 滑稽である。見事に期待は裏切られたのだ。
 そう言えば、もうどれほどミツコの声を聞いていないだろう。彼女の声がひどく懐かしく思われる。この先、二度と彼女の声を聞くことはできないのだろうか。
 最後の最後でミツコとはすれ違ってしまったが、彼女はよきパートナーだった。会社を辞める数ヶ月の間、確実に彼女は私を支えてくれた。おかげで、いい仕事ができた。彼女には本当に感謝している。
 外が明るくなってきた。
 そう言えば、ミツコと初めて話した日もこんなふうだった。
 あの日と違うのは、まるで心が満たされていないということである。
 時計を確認した。まもなく五時になる。
 私はゆっくりと立ち上がった。
 背中と腰が、すっかり椅子に張り付いてしまった。引き剥がすのに少々苦労した。身体全体が鉛のように重く、目まいがする。
 一つ大きく伸びをした。
 寝不足のまま、身体の中は疲労感だけが充満している。こんな状態で、果たしてヘルパーの仕事を二日も耐えられるだろうか。
 私はもうすっかり諦めた気持ちだった。今日と明日の仕事のことだけを考えていた。
 幸い、仕事までに、まだ数時間ある。
 私は仮眠を取るために、応接室のソファーに向かって歩き出した。
 二、三歩進んだところで、反射的に電話機を見た。
 なぜ今更そんなことをするのか、自分でも分からなかった。一瞬、電話機が自分を呼び止めたような気がしたのだ。
 随分長い間、電話機は私を見つめていた。いや、実際はほんの数秒だったのかもしれない。
 突然、事務所内の電話が一斉に鳴り始めた。
 私は意外にもその音に驚きはしなかった。さっきから小さくベルの音がこちらに向かって来たのに感づいていたのだ。ようやく今、それはここへ到着したのだと思った。
 倒れこむようにして受話器を取り上げた。
 私は身体を事務机に打ちつけた。鈍い音が響いた。同時に胸の辺りに衝撃を感じた。しかし痛みを感じている暇はなかった。
 (この電話はミツコからなのか?)
 私には半信半疑であった。
 もうこの時間なら、得意先からの緊急連絡ということも十分に考えられるからだ。
 私は必死だった。
 勢いよく持ち上げた受話器は、しっかり手の中に収まり切らず、まるで生き物のように飛び跳ねた。
 落とさぬように、しっかりと持ち直す。
「もしもし?」

深夜に鳴り響くオフィスの電話

深夜に鳴り響くオフィスの電話

深夜、突然オフィスの電話が鳴り響いた。名前も顔も知らない電話の相手に、ヒロシの心は揺り動かされていく。不思議な出会いから始まる恋愛物語です。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-14

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