[危険な声]Una voz peligrosa

[危険な声]Una voz peligrosa

アルゼンチンでバレエを習う愛らしい少女。彼女に近づく「声」とは……。

[危険な声]Una voz peligrosa 20110525


 踊りの広間は極めて軽やかな光は乱舞していた。
 楽しげに踊っていて壁窓から射す灰色の影と枠で格子に区切られる白い光りの中を。
誰かが手を打ち、声を響かせた。
「ここはタンゴの部屋よ。今からバンドネオンの人間達が音合わせをするから、バレエ(バレ)を踊りたいなら隣りへどうぞ」
「だって、ここは広くて開放的なんだもの」
そう微笑んでお茶目に演奏の男達に可愛く瞬きした。
「また夕方に見てやるから、今はタンゴの先生の言う事聴いてなお嬢さん」
「はーい楽しみにしててね」
アルゼンチンタンゴの大人達が進んできては、その中の姉が恋人から見て来た。
「見学でもしてなさいよ」
「踊りだしたくなっちゃうわ! でもそうよね。観る」
限りなく静かでいて色気ある中に、情熱を注ぎ込んで、足並み軽やかに。その背は重厚ささえ感じる彼等はフェドーラから覗かせる色香の微笑も、全てを心酔させる。バンドネオンの色っぽい音色が奏でられ鋭く踊り、愛情を表現する。薔薇のようで、熱い太陽の。夜の闇のようで、消えない蝋燭のようなその心情の曲を舞う。
完璧に、それでも心を込めて。
交差し交し合う眼差しは、どうしたって気質の異なる自分にはまだまだ及ばない。限りなく大人の世界であるアルゼンチンタンゴの魅惑の世界に虜になる。
五組の男女が一斉に場内で立ち回ると本当に圧巻させられた。
「そうだ! もっと情熱的に見詰め合って、蛇と豹のようにだ。回って! そして突き放し引き寄せる。いいなその微笑み。もっと足並み軽やかに! しっかり神経を行き届かせるんだ! そう!」
男の先生が声を張り上げ、そして流れるように移動し踊り進んでいき彼は口許に指を当て上目で見た。
「もっと哀しみを。深く。そして情熱へ!」
彼等は其々が舞い、曲が佳境に入った。
低く構え、最後の姿へ入る。

 「バレエはどう? あんた、バンドに無理言って彼等あわせてたけど」
姉が揚げたジャガイモを食べながら言い、頷いておいた。
モダンバレエ(Ballet moderno)を教わる十一歳の彼女は、林檎を食べながら言った。
「大人の部がボレロの演目踊る前にあたし達はモルフォ蝶の舞をやるんだ」
「へえ。綺麗じゃない。衣裳楽しみね」
「またマドレに頼まなきゃ」
姉はおおよそ衣装屋に注文してから手直しは自分で行なっていた。
「エスパーニャのアルメラっていたじゃない?」
「美人さんで香水好きの?」
「そう。パドレに今度南国みたいな香水つくってもらって、舞台とか客席に香らせるっていってるのよ。だからあんなに鼻がぐーんって高いのよ」
「ペルーにお連れしたら。高級なお嬢様には少し肝をお冷やし願わないと」
「あたしももらうの! その蝶々みたいな香水」
「それも楽しみね」
「姉さんにも使わせてあげる」
「ありがとう」
手鏡を見てから愛らしい目元を確認して、美しい姉を見た。奔放で冷静で魅力的な姉を。恋人はここから一区間離れた場所に住んでいて、姉とはとても仲が良い男前だ。
彼女にも小学校に好きな子がいた。フトボル好きで、毎日遅くまで球を蹴ってる。彼女は遅くまで楽しく踊っているのだが。
「今度、サンを連れてどこか行こうと思うの。その時には香水だってもらってるわ」
「用意周到ね」
「でも行き場所は決めてもらうわ。ティエンダ デ アンティクエダデ(ス)だって良いし、広場でもいいし」
「それに甘い甘いお菓子」
「そうよ!」
嬉しそうに口ずさんでから、椅子から立ち上がった。
今からその時の服とか髪飾り、用意しなきゃ!」
「興奮しすぎて階段で転ばないようにね」
「はーい」
駈けていき、階段で転がって恥かしくて真赤になり駆けあがっていった。
隣りには繊細な顔つきをしている幽霊の様なパラグアイ女性が住んでいて、彼女の部屋の壁からいつも曲が聴こえる。よく街中では店先の椅子に座って路上のアルゼンチンタンゴを見ている女の人だ。見かけとはかけ離れて、グアラニー訛りのエルパニョルを話す。余計正体不明だった。農家出の人は話すようで、そうとは思えない崇高さがある。
早速曲が掛かっている。彼女は鼻歌を唄いながら進んで、箪笥を開けた。
コンコン
「………」
振り返り、白と桃色の縦縞に黒花が描かれた壁紙を見た。
「もしもし」
彼女は曲の間から漏れる上品な声に、ゆっくり歩いていき金の首飾りを置いた。連なるパルラに桃色の薔薇をつけた壁飾りと、金枠のヴィクトリア調の掛け鏡の間に耳を当てる。緩くペロオンデュラド掛かる黒髪をピア(ス)のはまる小さな耳に掛けて。
「踊り練習なさったの」
「今からお出かけの支度よ」
「そう……」
彼女は、女性が残念そうだから言った。
「今度是非来て。モルフォ蝶の舞を踊るの。姉さん達の舞台はよく観に行くじゃない」
「ええ。覗わせてもらうわ」
声が小さくなって行き、曲が消えて行った。扉の音がしたから、部屋を移ったみたいだった。
三年前から越して来た人で、その時はエスパニョルも大して話せなかった。お金持ちの未亡人で心の静養にアルゼンチンの地に来た、という印象だ。名前も不明だった。
彼女は気を取り直して支度を始めた。姿鏡の中の自分を見て服をあれこれ替えてみる。どれも可愛いんだけれど。楽しくて彼女はラララと支度を続けた。

 木曜日の午後、バレエから帰ると姉に連絡を入れた。
「今から帰りに買い物するの。一緒にお出かけの靴見てほしいの」
「ロ アレ アシ姫君」
しばらくすると広場に姉が来た。
「さっきバレエの教室でお洋服を着替えたわ」
「可愛い肌色ね」
「黒と金を合わせてパリの子みたいにするのよ」
「珍しいじゃない。あんたにしては大人だわ。南国みたいな香水は?」
「大人を気取りたいの」
それはお隣りの女性が最近話し掛けて来るからかもしれない。やはり壁越しにであって、短い会話で終る。そのことは別に家族には話していない。挨拶程度の感じだから。今度、パリパリで薄いお菓子を焼いてくれると言っていた。
黒い光沢ある靴に決めてから、カフェテリアに入った。
「マドレには連絡しておいたわ。夕食は彼も加えてどこかで食べましょう。呼んでいい?」
「姉さんがそんなに彼といたくていたくてたまらないならどうぞ!」
「んもう、この子ったら」
二人は笑い、姉は恋人に連絡した。しばらくでなかったが、シャワー音と共に出て、彼の声が聴こえた。
「ブエナ(ス) ノーチェス? 今からもしかして出かけるの?」
「ああ。酒場の会場に行くんだが」
「妹がいるの。どこ? この子も入れる?」
「問題無い。角のところだからな」
「バレエ。向かうわ。踊るの?」
「お前が来てくれると助かる。いきなりの注文で断りきれなかったからな」
「行くわ。愛する人」
「ア(fu)(ス)タ ルエゴ」
互いに切り、姉は言った。
「美味しい美味しい子豚の丸焼きがあるお店に行きましょう」
「子豚の丸焼き!」
両手を上げ喜び、姉は苦笑した。

 その酒屋に来ると、年嵩の上の客達がいて、よく目の肥えた、という意味でもあるのだが、その彼等でほぼ埋め尽されていた。踊り手達の中にも名手が何人かいて、姉まで緊張して綺麗な眉をあげた。
子豚がどうの言っていられる雰囲気でもない事は子供には分からない朗らかさが今はあるが、実際始まればこのおちびさんが丸焼きにさせられるほど緊迫しそうだ。
「あら。お隣りの可愛い子さん」
美しい鮮明な声に姉妹は隣人のパラグアイ女性を見た。
「ブエナ(ス) ノーチェス。あなたも好きね」
「ええ。とても。共に観ましょう」
優しい声に彼女は一度姉を見上げてから笑って女性の横に座った。
姉は店の人間に今日は注文出来るかを聞いた。可能だったために子豚の丸焼きと鶏肉のソーパ、ス(fu)ーモ デ ナランハを頼んだ。ソーパとス(fu)ーモは二つずつ。自分の分は全て少なめにしてもらった。
格式ある会場での見世物ではないのに、この面子はなんだろう、と恋人の場所へ向かう。割と若い者達は神経がぴりついていて、早速自分からオーブン(Un horno)に入りに行くべく釜を開けに行こうかと思った程だった。
「早かったな」
キス(Un beso)をしあうと頷いた。
「お腹を空かせた姫と女王の勢いはこんなものよ」
恋人は漸く笑い、甘いが鋭い目元で会場を見た。姉も見ると、妹は隣人と今も笑顔で話しながらお肉を食べていた。
「今から始まるのは、あの彼女の知り合いを一気に集めた会らしい」
姉妹宅の隣人を示してそう言い、恋人はあちらへ引いていき足並みの練習を始めた。口ずさみながら。
一度横目で正体不明の隣人を見てから、彼女も向かった。

 部屋で眠っていた。九時に帰って来ると、すぐに寝台に入り眠っていた彼女は、十一時に目を覚ました。
コンコン
目をこすり、暗い中を見た。全てが影色に迫る中に彼女はいて、寝台から抜け出して駆けて行った。
「もしもし」
そう答えて耳を寄せた。
音楽は掛かっていない。掛かっていても聴こえない音量に絞っているのだろう。
「こちらに、来る?」
そういう声が聴こえて、頷いていた。
静かに玄関ら出て、まだ今は夜は起きている街は大人達がうかれて、昼では見ない顔をしていた。走って行き、隣りの部屋来る。建物は同じだけど、入り口は違う。階段を上がると、大人の男の人と女の人がけしかけあっていて、すぐ上を見ると隣人の女性がすぐに迎えに来てくれた。肩越しに二人を見ながら扉に入った。
骨董の様な室内は蝋燭が空間を完全な暖色に染め上げていた。やはり音楽は小さな音量で掛かっていて、それは蓄音機の拡声器が黄金に光を受けている。なまめかしく。
「お掛けになってね」
黒く、薄手で裾がゆったりして腰をシルクの捻った紐で絞られている。波打つ髪は長く、背の中心までふわりと広がっていた。繊細な顔立ちは蝋燭の下では優しげだ。壁から聴こえる声のままに柔らかで。女性はソファに座ると彼女を見た。出された温かいレチェを頂きながら、綺麗で薄手のカップを両手にして飲んだ。
「実はね、あなたにお願いがあるの」
エスパニョルが驚くほど上手になっていて驚いた。訛りもなく、癖もなく、どちらかというとエスパーニャ系のエスパニョルだ。
「本日はお姉さまと恋人の殿方にご参加いただいて、ありがとうね。とても大盛況だったわ。実はね、彼等、社交の方々だったの。緊迫感も伝わって、とても良かったわ」
とはいえ、女性の踊り手一人が気絶してしまったのだが。
「姉さんも驚いてたわ。いつも気軽なお店だったから、別世界みたいになってて」
「そういうことも好きなのよ。可笑しいでしょう? 高級な場や正式な場所よりもあの場で観たがるの」
女性は彼女が緊張していたために、たまに視線を流し反らしてあげていた。
「お姉さんは高貴な方なの?」
「ふふ」
女性はくすりと微笑み、綺麗な指をピンタラビオスの唇に当てた。
「お願いって?」
女性からは、薔薇化粧水の香りがする。彼女は顔を近づけていた。
「お嬢さんに、あたくしの養女になっていただきたいの」
「………」
「あなたのお姉さまも共にいらしてももちろんよろしいし、あの殿方との挙式もこちらがしてさしあげることも」
彼女は自分が何を言われているのか、そして女性が何を言っているのかが分からなくて、小さな首を傾げた。
「えっと……」
女性は微笑み、その腕を伸ばし彼女の黒髪を撫でた。
「お姉さまたちのタンゴもよろしかったし、あなたも可愛らしくて、バレエもお好きでしょう? 古典に転向してもいいのよ」
彼女は首をふるふる振って、女性を見た。
「嫌よ。あたし、好きな子いるし、この街が好きだし、パドレもマドレもお友達もいるもの」
「タンゴはお姉さま達を観れるじゃない」
「演技だったのね! パラグアイから来たことも、言葉も、それに」
「そうよ。あなた達を気に入って見ていたの」
彼女は立ち上がって、そこで倒れた。
「狙っていたのよ。ずっとね。もっと、女の子らしくしてもあげられる」
睡眠薬でも入っていたのか、学校後バレエの練習があり、その後のタンゴ鑑賞も、毎日話し掛けてきたことも、夜間に壁をノックし続けて起して来たのも、眠気を誘う暖色も全ては計算? 眠りに落ちて行った。強制的にぐっすりと。

 目覚めると、マドレがいたから挨拶をした。
「良かったわ。お隣りの人に朝は抱き上げられて帰って来たから」
「え? どうして?」
「わからないわ」
覚えが無い。昨日は帰ってすぐに眠ったから。夢は見た。バレエの演目で、みんなで舞台でモルフォ蝶の舞を練習している夢は楽しかった。風船もたくさんで、仮面をつけた孔雀の羽根を持つお姉さん達も舞っていた。
「夢は見たわ。みんなで踊ってたの!」
「楽しかったでしょうね。遅刻しているから、早くしたくしなきゃならないわ。もう三時間目の時間だけど、今日は休んだ方がいいかしら。頬も真っ赤だし。電話してくるわね」
「元気よ」
「でも、覚えてないんでしょう? 心配だわ」
「はい」
「寝ててね」
マドレは部屋から出て行った。
頬を触ると本当に熱い。彼女は枕に頬をつけた。
コンコン
壁を見て起き上がり、駆けて行った。
「オラ!」
「ブエナス タルデス」
癖のある口調が返ってきた。いつものように優しげに。曲は聴こえない。
「昨日は楽しかったわ。姉さんもきっと満足していると思うの」
タンゴの会の事を言い、逆に隣人の女性が嬉しそうに答えたために彼女は驚いた。
「まあ可愛らしい子! そうなのね!」
「とても緊張していたけれど、上手に踊れていたんだって思うの。あたしもバレエを踊る夢を見たくらいだわ」
一度相手の女性は黙り、しばらくは静かだった。曲が流れて来て、声が聴こえた。
「それは良かった。喜んでいただけて」
「ええ。とっても!」
「お嬢ちゃんの舞台も是非、観に行くわね」
「ありがとう! 頑張るわ」
「あなたはあたくしの子だもの……」
囁く様に聴こえ、彼女は聞き返した。
「え?」
「入るわね。お粥をもって来たわ」
彼女は咄嗟に戻って寝台に入った。
「あら。どうしたの? 早速踊り?」
「ええ。そうなの!」
彼女はお粥を食べ始め、マドレに聞いた。
「衣裳は可愛く出来てきている?」
「ええ。綺麗な青の生地ね。青い蝶の羽根も着けるし、白い花の髪飾りも着くわ。桃色の花も手首につけてね。メディアスとサパトスは黒色ですって」
「すごく素敵!」
「完成を楽しみに待っていてね。あたしの可愛い蝶々さん」
マドレは黒髪にキスをしてから微笑んだ。
「今日は一日だけでも静かにしていてね」
食べ終わったお粥を持ち出て行った。


 午後になると学校も同じバレエ教室の友達が来てくれた。
「ほら。香水よ」
「きゃあ! 素敵!」
「そうでしょ? パドレも満足しているの。たから早く元気になってね」
「ありがとう。すっごく嬉しいわ!」
微笑み合ってから友達が部屋を笑顔のまま見回した。
「なんだか大人っぽくなったのね。桃色の乙女っぽカーテン(Una cortina)だったのに。黒のセダにしたんだ」
「うん。お部屋の香りもカラメロからヤスミン(Jazmin)にしたのよ」
「南国っぽい!」
「そう思う!」
二人は笑って開いた扉を見た。
「飲み物を持って来たわ」
マドレが二人分の飲み物とお菓子を持って来てくれた。
「お隣りの人が焼き菓子をくれたのよ。パリパリに薄いお菓子よ」
「美味しそう!」
「チョコレートも掛かっているわ! 苺もよ!」
喜んでいただき、食べた。
「しばらくすると友人は帰って行き、入れ替わるように姉の声が聴こえて来た。
「彼ったら!」
「どうしたの? 静かにしてあげて」
恋人の事だろうか。姉は声が怒っていた。でも聴こえなくなった。彼女はまた横になり、枕に頬を預けた。まさか喧嘩だろうか。昔もあった。今の恋人は新しい恋人だった。きっと今は泣いているんだわ。姉は鋼に見えて感極まると涙もろいから。
彼女はお隣りの部屋から壁越しに聴こえる曲を聴いていた。目を閉じて。静かに。

 姉は家を出て恋人と同棲する事になった。
喧嘩の理由は隣人の女性が催したタンゴの宴で、その中で満足行くものが出来ずに恋人が神経質になっていたようだった。二人はぎくしゃくしていたけど、今はまた戻っていた。
彼女は引越しの準備を手伝いながら、モルフォ蝶の舞の曲を口ずさみつづけていた。
「学校帰りとか、一緒に夕食食べたくなったら遊びに行く」
「ええ。そういう日は泊まって行きなさいよ。練習が混んだ時とか大会間近はかまってやれないけどね可愛い子ちゃん」
そう美しく顔を微笑ませ低い鼻を抓んだ。彼女も笑った。
「近付いたら姉さんに食べられちゃうよ」
「そうよ。危険だから」
二人は笑って用意を続けた。
「今日のお昼にサンとお出かけよ」
「色仕掛けの道具はもう一通り用意できたかしら?」
「ふふ! たくさん出来てるわ。姉さんみたいな瞬きだってあたしにはあるし」
「可愛さのあまりサンを野生化させないようにね」
「頬は貸すかも。あ。手の甲かしら」
「ませたことを言って」
くすくす笑い、運び出す事になった。
姉の恋人が外で誰かと連絡してて、振り向いてから姉にキスをして荷物を運び込んで行った。
「誰?」
横顔を鋭く姉が言ったから彼女は上目になった。
「会の主催者からだ」
「へえ……」
姉はその窓を見上げると、多少無理に気を取り直して向き直った。
「じゃあ、マドレの手伝いもよくして、パドレの徳のあるお言葉もよく聞いて清くよいこにいるのよ。サンとのお出かけ、楽しい時間をね」
「うん! ありがとう。姉さん達も仲良くね!」
彼女は手を振り二人を見送った。
飛び跳ねるように駆けていき、今から自分の支度に取り掛かるために部屋に戻る。階段を駆け上がっていった。
コンコン
「………」
コン
立ち止まる。歩き出した。階段の壁に手を沿わせながら。
コンコンコンコン
見つめる進んで行く壁が音を発し彼女は嬉しくなって部屋に走って行き扉を開けた。
盛大な音楽が掛かっている。優雅な流れに乗るような。彼女は肩を抱き目を閉じ微笑んで壁に走った。
コンコン
彼女は懐いている隣人の女性を呼んだ。
「お嬢ちゃん」
「お姉さん」
そして、声が聴こえる。
「お話、しましょう……?」

 サンから家に電話があった。
マドレは首を傾げて部屋に行くと、部屋は彼女がお気に入りの南国の香水の香りに充たされていた。それは、充分すぎるほどに……。
「サルマ……サルマ!」
窓は開け放たれ、黒絹のカーテン(Una cortina)が舞って、娘は消えていた。最近白枠を黒に塗り替えていた窓枠に手を当てる。
青い香水の瓶が、転がっている。この部屋の雰囲気には徐々に合わなくなり始めた色合いが。

 彼女は飛ぶように起き上がった。
見回すと、灰白と黒、肌色の配色のリムジン(Una limousine)の中で上品だった。
「お目覚め。わたくしの大切な子」
「えっと……」
あの肌色の服と、光沢ある黒の靴。それに黒い髪飾りと金の装飾品の彼女は、マドレが作ってくれた黒の小さな斜め掛けボルソも掛けた姿だ。微笑する隣人女性を見た。車内はアルゼンチンタンゴの曲が掛かっていて、充たされていた。
「あなたのお姉さまと恋人の殿方は、またすぐにいらしますからね」
そう言い、豊かに妖しく微笑み進む方向に顔を戻した。誘拐、なのだとは彼女には結びつかずに、頭はぼんやりしていた。鼻腔はあのアルメラの香水の香りが残っていて、目の前にあの青い香水の瓶が浮かんだ。マドレが作ってくれている衣裳は昨日、出来上がった羽根を背につけてみて、パドレも姉も可愛いと言ってくれていた。仕事で二人は姉の見送りが出来ないから、その引っ越し祝いの食事時だった。
青が脳裏に浮かび、彼女は突如この空間から逃げたがった。
友達は早く元気になってねと言ってくれていた。香水を手渡して微笑んでくれた。ちょっとお嬢様お嬢様してるとことかあるし、何からしくなることばっかり言ってたけど、優しかったし一緒にいつも笑ってくれている。マドレが作ってくれる衣裳も、バレエを期待してくれている。大好きなマドレは絶対に泣きながら警察に通報する。姉と同じで感情豊かだから。
「帰るわ!」
「駄目よ。あたはなずっとこれから、わたくしと旦那様のエスパーニャにあるお屋敷で囲われて生きていくのですからね」
「何でエスパニョルが……?」
彼女はマドレの縫った小さなボルソを持ちながら睨み付けた。
開けようとしても鍵が開かずに、徐々にタンゴ曲は、彼女が踊りをアルゼンチンタンゴ教室の横で練習しているバレエ、モルフォ蝶の舞の曲へ変って行った。それは、まるで狂ったかのように。頭を占領しては回転し混乱を来させて……。
「キャー!!」
耳を塞ぎ金切り声をあげていた。

 「起きて」
「起きるんだ」
姉とその恋人の声がこだまして聴こえた。彼女は目を開けて二人を見た。
真っ白い空間に驚いて目を閉じると、その柱の立ち並ぶ先は緑豊かな鮮やかさで、青の空が抜けるかのようだった。
白い石は太陽の光りでキラキラ光り、そして二人はその中で彼女を見ていた。
「お隣りのお姉さんは?」
「今は出ているわ。まるで西洋の魔女よ。あの人、あたし達を好きに出来るって喜んでる。少女みたいにね」
「タンゴと踊りが好きなのよ。マドレとパドレに会いたい」
「彼が交渉してくれるわ。警察と連絡取れる電話があればいいのに。あんたの発表会だって、あたし達の大会だってあると言うのに彼女は」
「強引が通るわけが無い。俺達の食事時には絶対に来る筈さ」
「あたし、それまで踊ってよう! 素敵な場所!」
「確かにね。お泊りで来る位なら何度だって来て差し上げ様じゃない。今の条件じゃあ到底無理よ。あの地以外でタンゴを極めろですって? 馬鹿な話。彼女は何も分かってなどいないのよ。タンゴをね!」
彼女は既に怒れる姉を音楽にルルルと踊っていた。蝶々のように。華麗に。
「姉さんたちも踊ってましょう? とっても気持ちがいいわ!」
「ああ、このままこの陽気に呑まれそうになったら頬を連打してちょうだい。バンドネオンのいない世界でなどいられないと叫びながらね」
恋人は苦笑してから、風吹く中を踊り始める姉妹を見た。
恐ろしい財産を有する強引な女は、ある旦那様の奥方だと言う社交界での話だった。それ以上は会場では聞き出せなかった。随分前に連絡先を渡されてはいたが、まさか誘拐のために狙われていたなど思いもよらなかったわけだ。彼は渋い顔をしていて、腰を叩かれ恋人の妹を見た。
「あたしと踊りましょう!」
子供は朗らかに笑い、誘ってきた。
「あたしの彼を誘惑しないようにねおしゃまさん」
「大丈夫よ。あたし、サンがいるもの。帰ってくるまであたしのこと待っててくれればいいのに」
そう言いながらくるりと回り出した。

 夫人は昼食の時間に帰って来た。
金粒子掛かる白肌色のなめらかな衣裳は肉体を優しく包み、胸部中央に大きな石が嵌っている。上品な手腕に金属で小振りのボルソを持ち、髪をふわつかせ美しい顔立ちを出している。気品のあるオーラが妖しげなものと共にあり、きらきら光る化粧は落ち着き払っていた。
「下に成っている野菜でサラダを作りましたからね。それもお食べになって」
綺麗なヒール(Zapatos de tacones altos)で美しく歩きながらの開口一番の言葉がそれだったので、拍子抜けして恋人同士は息をついた。やはり彼女はどこか脱力させるようなものがあった。性格だろうか、計算だろうか、あの声音だろうか。元から訛りありで話す時からそうだった。油断させてきてしまいには誘拐事件だ。
「そんなに魔物を見る顔でご覧にならないていただけないかしら?」
「あたし、マドレとパドレに会いたいわ」
「可愛いこと。わたくしがマドレでしょう?」
そうしゃがみ悲しそうに彼女の細い腕を持ち言い、彼女は首を横に静かに振り、夫人の瞳を見つめた。
「マドレはあたしのために看病してくれるわ。教室に通えるように働いてもくれている。あたしはマドレが大好きだし、マドレもあたし達を愛してくれている。それがあたしには強く分かるもの」
「………」
「あなたはお隣りさんよ。綺麗で、正体不明だったお隣りさん」
徐々に腕が痛くなって来ていても真っ直ぐ見ながら言い切り、恋人は彼女が、顔を歪め細い指を震わせる夫人に投げ飛ばされるか小さなケツを天井まで激烈に蹴り飛ばされシャンデリア(Un candelabro)にぶらぶら引っ掛けられると思い、かばい腕を伸ばそうとしたが、夫人は顔つきを戻しそっと身を返し離れて行っただけで、寂しげな背を振り向かせた時にはにっこり微笑んでいた。
姉は妹の前にたちはだかり鍛えられた腹部に重い金属のボルソが当った。
「この女!」
恋人が怒鳴り色っぽい目を鋭く夫人を睨み、夫人は冷淡な眼差しで彼を見た。
「あなた、そろそろわたくしのお抱えになってもよろしいんじゃなくて。甘い蜜は吸わせてあげたでしょう?」
「え?」
姉は恋人を見て、彼は顔を反らした。きっと、連絡や舞台鑑賞があった内に丸め込まれるために関りはあったのではないかと思うと、今は彼を攻める気持ちよりも冷静になる事を選んだ。
背後の妹は震えていて、姉は彼女の手をずっと握ってあげていた。
夫人は三人に微笑み言った。
「さあ。素敵な昼食後は踊りの宴といきましょう。手軽にしてもらって構わないわ。奔放にね……」
妖しげに上目で肩越しに微笑み、歩いて行った。
「大丈夫? 姉さん!」
「酷いことして」
「へっちゃらよ」
ただ、この攻撃が本気で妹の顔面に当っていたら、あのわがまま女の明日はなかったことだろうと、姉は息をついた。
「あの女主人の言う様に踊るの?」
「へたっぴに踊ったら帰してくれるかも」
「既に実力三分査定は済んでますという感じでしょうね。あれが最終審査だったのよ。彼等にとったら」
「踊らされる物じゃ無い。満足行く踊りを追及する事が今の俺達のタンゴ魂だ」
「そうね」
「かっこいー!」
あちらで手がパンパン叩かれ、促された。まずはお食事をご馳走になる事にする。
目も覚める様な料理はあまりにも美味しくて、涙が出そうになった。肌に合わないような高級な風情は、逆に彼女はマドレの料理を思い出し、食べながらポロポロ静かに泣き出していた。愛らしい顔は食器で反射する光で黄金に照らされている。
「………」
夫人は彼女を見て食器を置き、視線を落とした。
彼女の部屋から聞こえる嬉しそうな声の毎日。親子の楽しげな忍び笑い。好きな子の名前を兎の跳ねるように言う声。街中を嬉しそうに姉妹で歩く姿。バレエ発表会の公演を待ち望む会話。会話の中の「ありがとう」の言葉。全て壁の先の輝く世界だった……。
夫人は目を閉ざした。虚勢のような黄金の明りに、彼女なら本物の笑顔をもたらしてくれそうだった。
でも……。
「また、わたくし、隣人のお姉さんになってもよろしい……?」
彼等は顔を夫人の顔に向けた。夫人は涙で頬が濡れていた。光り輝いて見えた。麗しく哀しげに充ちていた。
「隣人ですって? もっと身近な友人って言葉がこの世にはあるのよ。お馬鹿な人……」
姉も感極まって泣いていた。
「ごめんなさい。わたくし、人々の笑顔を奪うところだった……」
夫人は光の跳ねる繊細な顔立ちに細い両手を当て、泣きくれた。彼女は走って、夫人のところに来た。
「サルマがたくさん友達になってあげるわ。いいでしょ?」
夫人は顔をあげ、彼女はにっこり温かい手を夫人の柔らかな腕に当て微笑んだ。
「だから笑って。お姉さん。大好きよ」

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[危険な声]Una voz peligrosa

アルゼンチンでバレエを習う愛らしい少女。彼女には美しく奔放なアルゼンチンタンゴダンサーの姉がいて、日々を楽しく過ごしていた。そこへ少女に忍び寄る声が……。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-13

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著作権法内での利用のみを許可します。

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