さまよう羊のように1.0~4.0
これのジャンルがわからない・・・・・・。
1.0
その国がどこにあるかとか、どういう名前だとかは関係ない。知っておくべきは彼はぬるま湯のように平和な国から旅行に来た男で、その国の実状など知ろうと思ったこともない、ということである。その国は古くからの伝統を、風習を、プライドを捨て、国際社会で生き残るために経済大国の論理を、価値を、傲慢を受け入れていた。その途上を、すなわち捨てたものは多く、されど得たものは少ないという時期を正にその国は通過しつつあった。
「もしもし。ナッツか。着いたぜ」
空港の出口近くで、シャツにジーパン、サングラス姿の男がスーツケースを左手で引きつつ、右手の携帯電話に話しかけている。
「了解。悪いな、迎えに行けなくて」
電話から声がする。彼の友人の声だ。この友人は本人は認めないが勤めている会社から五年前に左遷されて以来この国に住んでいる。初めはジェスチャーとつたない英語でしかコミュニケーションがとれなかったそうだが、今では現地の言葉もほとんど問題なく扱えるようになったらしい。
ちなみにナッツというのはピーナッツが好きだった彼の学生時代のあだ名だ。それがあって男は今でも彼のことをナッツと呼んでいる。そして男はナタデココ大好きココである。
「いやいや、空港からまだまだ電車に乗らなきゃダメだろ。そんな所までさすがに呼べないぜ」
ナッツと呼ばれた男の家は空港のある町からはかなり遠いところにある。田舎という訳ではないが空港が要るほど開発が進んでいる訳でもない。
「まあな。実際洒落にならない位遠いぞ。気を抜くなよ。向こうと違って治安が良いってことは無いんだからな」
ナッツがふと声を低くする。本気の忠告なのだろう。
「わかったよ。気を付けていく。奥さんによろしくな」
ナッツは三年前に現地の女性と結婚した。そして、娘も一人生んでいる。ナッツ一家とは半年前に会ったことがある。ナッツが家族を連れて帰郷してきたのだ。正直ちょっと嫉妬する位よくできた奥さんとかわいい子だった。ちなみにココは独身で、彼女もいない。
「ああ。お前も早くカミさんもらえよ」
若干のうらやましさをめざとく感じ取ったのかナッツが言う。ココの目にナッツのにやにや笑いが目に浮かんだ。
「うるさい。じゃあな、また明日な」
今はまだ昼下がりだが今からでは真夜中になってしまう。そもそも電車も途中でなくなる。今日はこの町で一泊して、明日の電車でナッツの家まで向かうことになっていた。
「じゃあな。気を付けて来いよ」
それで電話は切れた。ナッツは二度も押してきたのだ。これだけ言うということは自分も何かひどい目に遭ったのだろうか。
ココはショルダーバッグを持ってこなかったことを心から後悔した。荷物はほとんどスーツケースの中なのだ。これでは地図とかをすぐ見ることができない。そのくせパスポートはズボンのポケットの中だ。旅行慣れしていないと言えばそれまでの話ではある。しかしココは元来落ち込みやすい性格であった。
「昔っから俺はどこか抜けてるんだよな。もっと深く考えて行動しないと」
仕方ないので空港近くの店で一番まともそうな携帯用の鞄を購入した。柄は正直彼の好みではなかった。路上で荷物整理する訳にもいかないので近くの喫茶店に入り、窓際のテーブルに座った。幸運にも席が個別に分かれているタイプの喫茶店だった。とりあえずコーヒーを指さして注文した。コーヒーの到着を待つ間に、スーツケースを開きセカンドバッグに荷物を移した。
荷物整理しているとコーヒーが来た。一口飲んでみたがもう一口、はやめておいた。
ようやく荷物を整理し終わってココはソファにどっかりと座り直した。飛行機の中でもたっぷりと休んだはずだがあれはノーカウントだったらしい。窓から外の景色を眺めてココはあらためて外国に来たんだと実感した。いや、した気分になっていただけかもしれない。
彼にとって今回の旅行はただの気晴らしだった。忙しい時期が過ぎて仕事がふっと楽になったのだ。このままだとまとまった休暇をぼんやりと消化してしまう、それはなんかいやだ、そうだ今は外国にいる親友の所で少々刺激のある休暇でも取ろう。これが彼の考えであった。
そうして、スーツケース片手に来たわけだがすでにホームシックになりかけていた。元がインドア派なので急激な環境の変化についていけなかった。
「異国の地で休暇を、なんてやめた方がよかったのかなあ・・・・・・」
と呟きつつうっかりコーヒーをすすり、ココは少し後悔する。なんか俺はこのハンパな味のコーヒーみたいだ、と男は思った。ちゃんと苦みがあるわけではなく、ただまずい。そこまで考えたところでため息を吐いて、席を立った。コーヒーは、残したままだった。
そのまま数十分間バスで待ち、ようやく来たバスに乗り、予約した宿と電車のある町へ向かった。
バスを降りて、見たこともないような形で、見たこともないようなでかい木が何本も地面から突き刺さっている道路の左側の歩道を歩いた。その木々さえどこかココを脅かしているようだった。
広い通りだがどこか閑散としており、所々道路が壊れていた。車も人もほとんど通っておらず、当然店もあまり開いていなかった。まるで廃墟だが地図によれば、宿はこちらにあるようだった。
宿屋に向かって通りをぶらついていたそのとき、脇道から飛び出してきた女の子が歩道を走っていた自転車にぶつかった。勢いに負けて転がる女の子に何か(おそらくは気を付けろとかそんなん)言い捨てて自転車は走り去っていった。近くで起こった当て身事故に思わず近寄って女の子のそばにしゃがみこんでココは
「大丈夫か?」
と英語ですらない彼の母語で聞いた。理解できるはずがない、と気付いた彼が英語で言い直すより早く、
「タスケテクダサイ」
と女の子は言った。現地語である。ココは少々後悔した。しまった、言葉もわからないのに関わるんじゃなかった、と。
「悪いな。言葉わかんないや」
あわてて言い捨てて自分も自転車の男と同じく行ってしまおうとした。情けないとは思うがどうすることもできない。幸いけがもなさそうだ、と勝手に判断してそそくさと立ち去ろうとした。
しかし、女の子はココのシャツの袖にすがるようにつかみ、
「タスケテクダサイ、タスケテクダサイ」
と言った。必死に何かを繰り返し言っていることはココにも分かったが、だからといってどうすることもできない、そう言い訳するようにココは頭の中で呟いた。しかし、すがる手をふりはらうこともできなかった。
そうしてココが立ち尽くしていると、女の子の様子が変わった。何かを見つけたように目を見開き、顔は青ざめ、がたがた震えだした。
思わずその視線の先に目をやったココは、女の子が飛び出してきた通りを見るからにスーツ姿の男が四人、こちらに近付いて来るのを見た。走ってはおらず、ゆっくりと歩いてこちらへ近づいてきていた。
そのときの娘の怯え方は尋常では無かったが、当て身の際に足を痛めたらしく、立ち上がることもできず呻き声とも叫び声ともとれる悲痛な声を出すことしかできていなかった。
男達が現れてからの出来事は実際には全てが二秒ほどの間の出来事であり、その二秒とはココが次の行動を決定するのに要した時間であった。
ココは女の子を抱きかかえ、いままで歩いてきた通りを走って戻った。視界の端で男達も走り出したのが見えた。
走りながら左右を見て隠れられそうな建物を必死に探す。男達はまだこの通りに出てはいないはずだがあまり遅いと隠れるところを見つかってしまうだろう。
その時たまたま通りの反対側、斜め向こうにこの通りに直行する別の通りが見えた。車がないことを音でだけ確認し、女の子を抱えてココは通りを全力疾走で横断した。通りに入り、足をゆるめず次の道を探し、進み、次々と角を曲がっていった。考えなしではあるが方向感覚はあるようだった。元の道に戻るなどというへまはしなかった。
ココは昔は鬼ごっこが得意だった。
おそらくはかなり引き離したと思われる辺りでココはホームレスと思しき人々がたむろしているのを見つけた。何かに火をつけて暖をとっていた。後ろには何かの材料で作ったテントとおぼしきものが見えた。そのテントの中に入れば隠れられる、とココは思った。
助けてもらおうと近付いて行って、言葉の壁を思い出した。助けてもらいたいが、言葉は通じないという事実に声が詰まった瞬間、
「タスケテクダサイ、オワレテルンデス」
と腕の中の少女が言った。相変わらず何を言っているのかはココにはわからなかったがその言葉を聞いてホームレス達がかくまってくれようとしていることは分かった。
女の子を下ろすと、ホームレスに手招きされて、寝床に案内された。彼らの寝床のスペースへ入れられて、彼らへの感謝とそこの臭いへの嫌悪感でココは複雑な気分になった。
男達は巻いたはずなのでここまで来ることはないだろう。そう思ってココは少し安堵感を覚え、そしてとんでもないことに気付いた。
鞄が無い。
あの鞄の中にはパスポートこそ入っていないが現金も入っていたし、着替えも当然入っていた。なにより、宿代と電車のチケットが入っていた。
いま現在の異常な状況を忘れ、しばし呆然としていたココであったが、袖を引かれる感触に女の子に顔を向ける。彼女は、
「アリガトウ」
と言った。何を言っているのか理解できなかったが、それが感謝の言葉であることはわかった。
なぜなら彼女が顔中涙でぐちゃぐちゃにしながらそう言ったからだ。
その後も少女は泣きながらえんえんとその言葉を言い続けた。
泣き続ける女の子の頭をなでてやりながらココは、えらく刺激的な休暇になったもんだ、と思った。
2.0
少女はずっと泣き続けていたがようやく泣き止み、さてどうしようか、とココは考えた。
おそらくさっきの男達はマフィアかなにかだろう。その位の迫力はあった。迷子の保護でさえ俺の身には余ることなのにあんな連中が絡んでいるとなるといよいよどうしようもない。
「警察に行くか」
当然の判断だったと言えよう。。このままずっと少女を連れ回すわけにもいかない。しかし、あの男達に見つからないように細心の注意を払わなければならなかった。地図で場所を確認して言った方が賢明だろう、とココは考えた。
「よし、行くか。ついておいで」
と少女に言いつつ、ココは立ち上がった。少女は何事かという目でこちらを見たが、ココがおいでおいでと手招きすると、意図が伝わったらしく、立ち上がってココの顔を見上げた。次の指示を待つ忠犬のようなかわいらしい仕草であった。
よし、とうなずき、ココたちは匿われていたテントもどきから出た。ホームレス達が近付いてきたのでとりあえずジェスチャーで感謝の意を示す。案の定伝わらなかったらしかったが、少女が補った。ホームレス達は各々の独自のジェスチャーで返事をした。多分、がんばれよ、とか、元気で、とかそんな感じだったのだろう。それに応え、ココ達はこの広場を後にした。
幸い交番はそう遠くなかった。ホームレスの広場からせいぜい歩いて五分位の所にあった。
地図を見つつ、おそるおそる道を歩き、曲がり角では先の男達の影に気を付け進んでいった。
ココはケンカは強くもなく弱くもなくといったところだった。とても本職のケンカ屋と正面からやり合うことはできないだろう。
それにしてもどういう訳でこんな十歳位の女の子が強面の男達に追われるはめにあったのだろうか。正直、どこにでもいる普通の女の子にしか見えないが。
そんな栓のないことをココが考えていると、彼らは交番に着いた。気を張りながら歩いてきたのでココには非常に長く感じた。とりあえず物陰に隠れて誰もいないかを確認する。傍目からすればまるで泥棒のようにしか見えなかっただろう。
交番に着いた時、警官にどういう風にして「この娘は迷子なんです」と伝えるか、ココはまだ考えてなかった。言葉の壁はこの娘がなんとかしてくれるだろう、と楽観的に考えていた。
その時、声を掛けられた。ココが振り向くとおそらく目の前の交番の警官であろう男が立っていた。見廻りでもしていたのだろうか。その腰に下げている拳銃はココの国の警官の持つ小さな銃などよりよほど大きかった。そういう物が必要な国だということなのだろうか。
「この子は迷子なんです。保護してもらえますか?」
ココはダメもとで聞いてみた。もちろん英語ではない。迷子の報告などココの英会話能力を越えていた。警官がけげんそうな顔をする。当然だった。
「マフィアカラニゲテルンデス」
女の子が言った。ココには意味は分からなかった。。
すると警官は女の子と目線を合わせるため少し腰をかがめて話を聞き始めた。少女はその警官に何か言う度徐々に安心していくようだった。さっきまで蒼い顔をしていたが顔色がだんだんと戻っていくのが見てとれた。
やっぱり警察は頼りになる、来て良かった、とココが思っていると男が一人歩いてきた。スーツ姿でいかにも紳士という感じの老人だ。彼は警官に用があるらしかった。道でも聞きに来たのだろうか、とココは思った。
紳士は懐から写真らしき紙を取り出して警官に見せた。
「オ、コイツダナ」
警官が写真を見たまま何か言った。それを聞いて少女は鼻の頭に蠅でもとまったみたいな顔になった。
「アア、コイツダ。ウンガヨカッタナ。オモッタヨリ、ハヤクミツカッタヨ」
紳士が少女を見ながら言う。その目には何の感情もない。
少女は切れかけの綱に身を預けるような表情で警官を見た。
警官が少女とココを見た。その目には悪意さえ感じられた。
「マッタク、ニゲタトキイタトキハドウナルカトオモッタゼ。シナモノノカンリハチャントシロヨナ」
警官そう言ったときばねが弾けたように女の子が走りだそうとした。が、紳士に力ずくで抑えつけられる。
同時にココは拳銃を引き抜こうとした警官に襲いかかった。反射的なものだった。警官が握った銃をココが抑えて奪い合いをする形になった。
警官の拳がココの腹を何度かえぐるように当たり、ココの肘が警官の胸を打つ、といった攻防が約三十秒続いた。
おそらく神様はココの方がマシな人間だと判断したのだろう、警官がいつの間にか安全装置を外し、指をかけていたトリガーが奪い合いの最中で引かれた時、銃口は警官の足を向いていた。
警官が激痛に崩れる。ココは警官の手から拳銃を奪い取り、女の子を引きずりながら電話をかけようとしているさっきの紳士に駆け寄り、映画でよく見るように、銃の台尻で殴った。
紳士は痛みで頭を押さえ、体をイモムシのように丸め、警官は膝を抱え、痛みに呻いていた。二人に蹴りの一発をお見舞いしたい衝動がココをとらえたが、さっさと逃げるべきだという理性が勝った。紳士の電話先が気になった。つながっていたのならここに留まるべきではないだろう。
一旦、先ほどのホームレスの所に戻ろう、とココは判断した。他に安全な場所は知らなかった。あそこを偶然見つけられて本当に幸運だったと言えるだろう。戻る場所があることでほんのわずかながらココに安心感を与えた。まあ、ホームレスの寝床というところが難だが、それでも無いよりもずっとましだったのは言うまでもないだろう。
***
ココ達は何とかホームレス広場まで戻ることができた。来た道を戻っただけなのだが、スーツ達の姿は全く見なかった。今のところかなりの強運だろう。不運であることには変わりがないが。
先ほどのホームレス達に再びテントの中に匿ってもらった。本当にありがたいことだとココは思った。見ず知らずの他人を助けるなんてなかなかできることじゃない、とココは完全に自分も危険な状況にいることを忘れて考えていた。一種の逃避といえるかもしれない。体の緊張がすこしずつ解れていくのを感じつつココは漠然と、この少女に詳しい話を聞くしかない、と感じていた。
そこでココはごそごそとポケットをいじり携帯電話を取り出した。そして一瞬ためらうような素振りを見せたがすぐに電話をかけた。
「もしもし。俺だ」
「金なら無いぞ」受話器からナッツの声がした。
「詐欺じゃねーよ」
ココは少し深呼吸をした。
「いきなりで悪いが、ちょっとお前に通訳してほしいんだよ」
「・・・・・・どういうことだ?誰の?」
「女の子だ。詳しくは俺もよくわからん。とにかく聞いてやってくれ」
「・・・・・・わかった」
ナッツがかなり嫌そうな声で言った。それでもやってくれるあたりがやはりいいヤツなのだ。
ココは電話を少女に差し出した。少女は少し驚いたようだったが、受け取った。
***
やれやれ通訳か、面倒だ、とナッツは思った。
「もしもし?」
「もしもし、君の名前は?」
「フォン」
「フォンか。どうしたんだい?」
「マフィアから逃げてきたんです」
「え・・・・・・?」
さすがにナッツの言葉が途切れる。
「本当に?」
「はい」
「そうか・・・・・・。どうして捕まっていたんだい?」
「何日か前に両親に売られました。それでマフィアの所に連れていかれて・・・・・・、そこで、売春させられるか臓器を売られるって聞いて」
やはりか、とナッツは思った。こんな子とマフィアがらみで考えられることと言ったらそれくらいだ。
「・・・・・・・・・・・・・・それで逃げ出したの?」
「・・・・・・そうです」
「わかった。さっきのヤツに代わってくれるかい?」
「はい。・・・・・・あの」
「うん?」
「お名前を聞いても・・・・・・?」
「俺はナッツでそいつはココって呼べばいいよ。あだ名だ」
「ありがとうございます。代わりますね」
***
「もしもし?」
「・・・・・・かなり重いぞ。覚悟しとけ」
ナッツの珍しく真面目な声色にココは身構えた。。
「ああ。まあ、そうだろうとは思ってたから大丈夫だ」
「そうか・・・・・・とにかくその子はマフィアの所から逃げ出してきたんだ」
「やっぱり」
それはココの予想通りだった。
「追われてたのか?」
「現在進行形だ」
「ふむ。マフィアの目的は売春か臓器売買だ」
「・・・・・・本当に?」
「本当だ」
「・・・・・・・・・・・・・」
ココは言葉に詰まった。言うべき言葉が見つからず、腹に変な感触が広がった。湧いてくる言葉がせき止められて腹の中でぐちゃぐちゃにかき混ぜられているみたいな気分だった。
「今どうしてるんだ?無事なのか?」ナッツが静かに問う。
「ああ。ホームレスに匿ってもらってる」
「ホームレスか・・・・・・。早く移動した方がいいな」
「そうか?」
「ああ。多分そういうところは目を付けられやすい」
「わかった。なんとかしてみよう」
かと言ってココにはどうするあてもなかったのだが。
「・・・・・・なあ」
ナッツが言いにくそうに言う。
「何だ?」
「・・・・・・・・・・・言いにくいことなんだが」
図星だった。
「なんだよ、早く言えよ」
「友人として忠告するけどな、今すぐその子を捨てろ」
ナッツはそう言った。文字通りココは自分の耳を疑った。ナッツがそう言ったと信じるより、自分の耳が一瞬悪くなったと考える方がまだ信じられた。
「何て言ったんだ・・・・・・?」
それでも頭のどこかでは紛れもなくナッツの言葉だと理解してもいた。
「命ってのはお前が思っているほど軽くない。親だからわかる。親だからこそ俺はその重みに耐えられるんだ」
ナッツは一旦言い出すと堰を切ったように話し出した。しかし、ココの思考は全く追いついていない。
「何言ってるんだっつってんだろ!」
ついにここは電話口に怒鳴りつけていた。そばで少女が怯えた顔をしたのが視界の端で見えた。
しかし、ナッツは続ける。
「お前はその子の親じゃない。ましてやさっき拾った小娘だろ?お前にとってその子は何の縁もない子だ。お前はその子を拾ったことを・・・・・・」
「黙れ!」
ココは続きの言葉を聞きたくないとでも言うようにナッツの言葉を遮った。次の言葉は確実にココの心にとどめを刺すとわかっていたからだ。
しかし、ナッツは残りの言葉を言った。
「・・・・・・いつか必ず後悔する」
ココはのどに何かが詰まった気がした。そして、その言葉に未来が暗示されたかのように目の前が真っ暗になった。
「俺は・・・・・・」
「その子を助ければ十中八九お前も何らかの傷を負う。おそらくはお前のこれからの人生を狂わせるだろう。そして、それをいつかお前は悔やむ」
「・・・・・・やめてくれ」
「・・・・・・お前にその覚悟はあるか?」
ココは思わず傍らに不安そうに座る少女を見た。目が合った。少女は怯えたような素振りを見せた。
ココは自分の顔がきわめて頼りなく、惨めな表情になっていることに気づいた。
ココはそれに気が付いて少女から目をそらした。
そうだ、そうなのだ。この子は自分を頼っていたのだ。この子にとって頼れるのは自分くらいのものだ。
それなのに。
それなのに、自分はあまりにも非力で頼りない。それが分かっていても俺を頼るしかないのだ。なら、俺はどうするべきだ?情けない俺でもできることは何だ?
眉間をもみほぐす。もう一度少女を見た。今度は見返してきた。ココは少女の目を見ながら、ナッツの問いに答えた。
「無いね」
「そうか」
「でも」ココは低い声で続ける。
「この子を捨てたらもっと後悔する」
と言った。この瞬間、ココは様々なものを切り捨てる感触を味わった。
「・・・・・・・・・・・・いいのか」
「いい」
言ったそばからココは後悔しそうだった。
しかし、ココは思う。そう言ったことは悔やまない。この先何年経ってもきっと大丈夫だ。
俺が少女のためにできること。それは覚悟だ。
この足下で小さく震えるばかりの鳥の雛みたいなこいつを何に代えても護ってやると腹をくくることしかできない。
「・・・・・・わかった。お前がバカだってことは知っていたさ。とりあえず、その子はうちに連れて来い」
これぞため息混じりという口調でナッツは言った。
「いいのか?お前も無事では済まないぜ?」
「ふん、下らねえこと聞くな。お前はここを目指して来い」
「・・・・・・ありがとう。恩に着る」
「くどいぜ?」
「そうだな」
「ああ、そうだ。その子な」
「ん?」
「名前はフォンだ」
女の子、フォンに目を向ける。
「よろしく、フォン」
と電話片手に手を差し出す。フォンは
「ヨロシク、ココ」
と握手を返した。ココにも「ココ」は聞き取ることができた。
3.0
「「貫通線」に乗れ」
「カンツウセン?」
ココには耳覚えが無かった。
「この国を南北に貫く列車だ。お前が乗るはずだった列車だよ」
「あー、ああ、あれか」
耳覚えはあったようだ。ナッツが確か前に言っていた気がした。確か。
「あれに乗れ」
「でも予約切符は失くしちまったし、買う金も残ってないぜ」
「ああ?なんで無いんだ?」
「でかい鞄に入れてたんだが、フォンを助けるときに置いてきちまった」
「・・・・・・金もないのか」
「ああ。無い」
ココの現在の所持金は食事三回分といったところだった。
「・・・・・・やはり俺がそっちへ行こう」出し抜けにナッツが言う。
「何?」
「電話じゃ正直アドバイスに限界がある。俺も合流するとしよう」
普段ならば。
他人の助けを借りることはココの意地が許さなかった。ココは何よりも他人に迷惑を掛けることを極端に嫌っていた。
いや、「借り」を作るのが嫌だっただけなのかもしれない。
ともかく、それは親友に対しても同じであり、家族に対しても同じだった。大げさに言えば、他人の手を借りるくらいなら死んだ方がましだと思っていた。
実際、今回の件でもココ一人だけの問題だったならばココはナッツへ助けを求めることはあったかもしれないが、少なくとも「助けてやろう」と言ってきた相手に助けてもらうなんてありえなかった。
例え、自分が死ぬことになってもだ。彼の境遇に特別なものがあるわけではない。彼が育つにつれて自然とできあがった性格だ。
他人に頼らない。これがココの信条だった。
ところが、今回はココだけの問題ではなかった。フォンもいたのである。おまけに命がかかっている。
このことがココの決断をより合理的なものへと変えていた。
ホームレスに助けを求めたのもそうだし、警察を頼ったのもそう。
だから、
「頼む」
ココはナッツにほとんど初めてこの言葉を口にした。
「わかった」ナッツもそれに気づいたがあえてこの単純な返事をした。
こういう一瞬のやりとりの中にも友としてのあり方が見えるものだ。
「お前はいつ来れるんだ?」
「そうだな・・・・・・。三日後、いや明後日にはそちらに行けるだろう」
「それまでかくれんぼか・・・・・・」
「いや、俺の友人がその町にいたはずだ。事情を話して協力させよう」
「それは・・・・・・」
言い終わらないうちに唐突に電話が切れた。
一度他人に頼るとどんどん頼ってしまうな。ココは思いながら切れた電話を眺める。
他人を頼るのもありかな。
***
電池残量を確認してもうあまり残っていないことに気づく。バッテリーを後で買わなければ。
ふとフォンを見るとこちらを見つめていた。どうしてかと思ったが、言葉が分からないのだ、当然だろう。言葉でコミュニケーションができないから相手の表情から相手の考えを読みとるしかないのだ。
見ると不安な気持ちを押し殺そうとしているようだが、小刻みに震えている。よく考えれば今までよく耐えていたと思う。マフィアに追われるなんて子供にはかなり神経をすり減らすことだろう。そもそも大人であるココでさえ自分が正気かというとちょっと、いやかなり自信がない。
そこまで考えてそんなことはどうでもいいのだとココは思う。
とりあえずこの子を落ち着かせてあげることが先だろう。
ココはフォンの頭を撫でてやった。
***
電話がかかってきた。ナッツからだった。
「もしもし、ナッツだ。無事か?」
「ああ。どうだった?」
「匿ってくれるそうだ。地図はあるか?」
「ああ、あるぞ」
ショルダーバッグから地図を取り出す。フォンも手伝って、苦労の末にナッツは協力してくれる友人の家をココに教えることに成功した。
「よし、これで行ける」とココ。
ココ達が今いるところから徒歩で一時間ほど。町の広さを考えると奇跡的な近さだった。
「一つ言っておくことがある」
ナッツが低い声で言う。
「フォンがマフィアに捕まっていたのは・・・・・・その子の両親がその子を売ったからだ」
ココは絶句した。
「・・・・・・その子にはもうお前しかいないんだ。さっきの覚悟忘れんなよ」
ココが返事をする前にナッツは電話を切った。
ナッツが声を低くするとろくな話じゃないな、とココは皮肉っぽく呟いた。その呟きをみたのはフォンだけだった。
***
協力してくれる友人の家は徒歩で一時間。なんだか外を出歩くのが今までの感覚と違う、と感じた。子供の頃に近所に何かの野生の動物が出没したときの感じに似ていた。ただ緊張感の重みが圧倒的に違った。
***
ナッツの友人なる人はぱっと見て良い人だとわかるタイプだった。こう、何というかどんなことでも笑い飛ばしてしまいそうという顔だ。どんな顔だ。
この人はイプと言うそうだ。ココはさっきナッツに教えてもらっていた。
「ワタシガナッツヲユウジンナココ」
ナッツに教えてもらった言葉をメモした紙を見ながらたどたどしくココは自己紹介した。いや本人は何を言ったのか分からないのだが。
イプはにこりと人の良さそうな顔で頷き、向き直り英語を話せるかを英語で聞いてきた。はずだ。
「uh....,a little (あー・・・・・・、少し)」
ココはやっとそう返す。散歩とは違って、これはこれで緊張した。
隣でフォンがくすくす笑う。この野郎、いや、野郎じゃないのか、とココは苦々しい顔で思う。
ココがフォンに、いー、という顔をしてやると更に面白かったようでフォンは吹き出した。
ココはまだ少し悔しい、みたいなふりをしながら、フォンが初めて笑ったことをとても嬉しく思った。
やっと笑った、と。
イプはココとフォンを部屋の中へと招いた。
***
ココは現地語は話せない。英語も少しだけだ。
フォンは現地語しか話せない。
イプは現地語と英語の両方を話せる。
そうなると自然イプが通訳代わりになり、ココとフォンの意志疎通を手伝った。フォンが伝えた内容は既にナッツがココに教えたことだったり、既にココが推測していたことがほとんどだった。ココからフォンへは特に何も無かった。というよりも話せなかった。頑張れ、とか、そういった類の言葉しか知らなかった。辞書はあるにはあるがココの母語に対応してあるわけではないので実質使いようがなかった。
そうしてやがてもう伝える事柄がなくなるとイプとフォンが話し込むようになりココは部屋の隅でぼうっとするしかなかった。時々イプの持つ英語の本を読んだが理解できる部分の方が少なかった。イプとフォンの笑い声が異様に大きく聞こえた。
ココは正直なところ疎外感だの嫉妬だの子供じみた感情を抱いていたがイプが目の前にトランプを持ってきたときに全てを忘れてしまった。
結局彼らが寝付いたのは夜がかなり深くなってからのことだった。
***
イプとフォンが眠ってしまってもココは眠れなかった。昔から眠るのは苦手だった。考えすぎてしまうのだ。
その夜にココが思ったことを整理して述べることは難しい。それでも不完全ながらも記述することには意義があるだろう。
ココはイプに対して言い表せないほどの感謝と罪悪感を感じていた。
先程述べたようにココは他人に頼ることを是としない人間だった。このことは彼が今まで人に頼らずに生きてこられたと思っていることを意味する。つまり、彼には能力があり、能力以上のことに出くわしたことのない、人の恩を忘れる無神経な子供だった。
初めて意識的に人に助けを求めたことでようやくココはそのことを自覚した。それは今まで自分を貫いてきた美徳をただの誤りと認める行為だった。
もしもココが一人だったならば新しい考えが頭をもたげて独りよがりな考えを助け起こしたかもしれない。
しかし、何度も言ってきたことだが、ココは独りではなかった。ココにはフォンがいた。ココが助けたフォンはココだけではなく、ナッツやイプの力を必要としていた。本人がどう思っているかに関わらず。
そうしてココは今まで自分を支えてきてくれたであろう人々を想った。両親、友人、イプ、ナッツ、その他様々な人々の顔が浮かんできた。
俺はこの人々に感謝の言葉を伝えることができるだろうか?
***
翌日ココが目を覚ますとイプもフォンも既に起きていて朝食を食べていた。夜更かしをし過ぎたようだ。寝起きの顔を見てフォンはけたけたと笑っていた。人の顔を見てよく笑う奴だ、とココは思った。
ナッツから電話がかかってくる。これでイプとココはほぼ完全な意志を伝えあうことができた。
ココとフォンが外に出るのは危険なので代わりにイプが買い物に行ってくれることになった。今日は平日だがイプの仕事はどうなっているのだろう?結局彼は言わなかったがおそらくは「病欠」だったのだろう。本当に頭が上がらない。
イプが買い物に行っている間、ココとフォンは昨日のカードゲームをやっていた。テレビも点いていたが、言葉がわからないのでココには何の意味もなかった。それでも気は払っていた。もしかしたら今の状況が報道されているかもしれない。しかし、そのような報道はイプが帰ってくるまでに流れることはなかった。
イプはココの携帯のバッテリーを買ってきてくれていた。あとはココとフォンの着替え、帽子・サングラス、等である。中にはフォンのためと思われる催涙スプレーも含まれていた。
昼食をすませる。メニューは炒めた飯だった。味はなかなか。
その後は昼寝とテレビゲームをして過ごした。
日が傾いてきて、夕方になった。
その頃に電話がかかってきた。ナッツだった。
どうやら明日の朝に到着するらしい。荷物をまとめておけ、ということだった。
***
その日の夜は早めに眠った。トランプも無しだ。フォンは残念がったが、翌日のことを考えると夜更かしは出来なかった。
しかしココは起きていた。前日同様眠れなかった。
フォンが隣で眠っている。三人は左からイプ、ココ、フォンの順に川の字になって眠っていた。フォンは完全な無防備に見えたが、よく見ると不安そうな顔をしていた。ココは袖に妙な感触があることに気づいた。確かめるとフォンが袖を握ったまま眠っていた。まるで逃がすものかとでも言わんばかりだった。
それもそうか、とココは思う。
両親に売られて、マフィアに捕まって、商売道具にされかけて、逃げて、追われて、挙げ句警察さえ助けてくれないのだ。
これではこの子にはココ達以外に味方など一人としていない、ということになる。フォンとしては世の中の人間が全員敵になったようにかんじているかもしれない。
フォンの寝顔を見つめながら、ココの心に雑多な感情が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。その胸の内の想いとは裏腹に恐ろしいほどに冷たい目をしていた。
もしも、フォンを裏切った、あるいは追いかける者が今ココの目の前に現れればココは正気を保ってはいられなかっただろう。
ココはわざわざ明日のために新しく覚悟を決める必要はなかった。
***
今のうちにココとナッツの昔話でもしよう。
二人は小さい頃からずっと親友だった。
ココは小さい頃からぼんやりふわふわしたヤツで、ナッツは逆にしっかりしていた。小さい頃からすでに漢気もあった。
ナッツと友達になりたがるヤツは多かったし、ナッツもそこそこの対応はしていたが親友と呼べるのはココだけだった。小さいとはいえココもずっと不思議に思っていた。ただ、それを聞くとナッツがいなくなってしまうような気がして理由を聞こうとは思わなかった。
何年かしてようやくココがそのことについて聞くと、
「ちゃんと対等の人間として俺を見ているのはお前だけだった。・・・・・・他のヤツは少し・・・・・・違ってたよ」
と言った。ナッツがココをどう思っているかを口にしたのはこれが最初で最後だった。
ちなみにあだ名は自分たちで作ったものではない。ナッツはピーナッツ、ココはナタデココ好きと知った別の友人が二人をコンビ「ココナッツ」と呼んだことに起因する。
彼らがやってきたことをいちいち挙げるようなことはしないが、説明のために彼らの悪行の中でも最も派手なものの一つを取り上げるとしよう。
***
「知ってるか?爆弾って簡単に作れるんだぜ」
そう言ったのはナッツだった。
ココとナッツが共に八歳の時だった。
ナッツがインターネットで爆弾の作り方とやらを調べたらしかった。こういったいかにも子供らしいというか考え無しな行為は普段はココの担当だったが今回は違った。そもそもココはインターネットは使わない。
両親が使わせなかった。
ナッツもいつもはすました顔でココの思いついたいたずらをあきれ顔で眺めているのだが、今度は少しレベルの違うものということもあってかなり楽しそうだった。
サイトの作り方を参考に、材料をそろえ、機材を集め、入れ物を作り、本体を調合し、完成させた。
爆弾を人のいない田舎の、人のいない山奥の、人のいない更地まで運んだ。途中で電車にも乗った。運んでいる最中に過って・・・・・・などということは性質上あり得ない。爆弾は途中までしかつくっていなかった。運ぶときの安全のためだ。
そいつを更地の真ん中に置く。
最後に仕上げの手を加えて、起爆する。
爆弾は意図したとおりの役目を果たした。
ココ、ナッツともにその瞬間に二人で手を叩き合った記憶がある。
爆弾なんてもの作るのは悪いことだ。多分、法律にも反している。犯罪だ。そんなことはわかっていた。だからこそそれが楽しかった。
できれば、学校のクラスメートや先生、両親にも見せてやりたかった。
これは俺たちがやったことなんだぞ。
そう言ってやりたかった。
***
どうしてこんな話をしたかというとこの夢をココが見たからだった。
三日目の朝にココが起きると鮮明に夢の記憶が残っていた。この夢をココは懐かしいと感じた。次に罪悪感。今では幼い頃自分が軽蔑していた人たちのことが、大人が理解できた。
***
いきなりだがタームという男について語ろう。彼は実直という言葉の実によく似合う男だ。無口で、酒は飲まず、煙草も吸わなかった。一人暮らしをし、鶏が鳴く位の朝早くに起き、ある種の勤務先というやつに誰よりも早く着いて、黙々と様々な作業をしていた。彼は目上の者にも目下の者にも適切に対応した。
その組織の中では無くてはならない存在であった。それは地位的にも、実質的にも、である。何か問題が発生すればその問題の半分以上が彼の目を通ることとなった。重要な案件のほとんどに彼は関わった。
彼はマフィアである。
彼は正にこの物語のきっかけを作った組の一員だった。つまり、フォンを売り物にしようとし、その途中で逃げられてしまったのが彼らだった。組織に生じた重要な問題の大半はタームの目を通る。今回の件も例外ではない。
「兄貴、すみません。へまをやらかしました」こう言ったのは弟分の中で下っ端の面倒を見ている奴だった。
「どうした。何があった」タームは机に座って目を上げずに聞く。
「「商品」の一人が逃げ出しました」弟分が申し訳なさそうに言う。
「三日以内に捕まえろ。それ以内に見つからなければ打ち切れ。それと逃がした奴の名前を後でライに伝えておけ」
やはり書類から目を離さずに言った。
「それが・・・・・・」
「なんだ」
「その娘は旅行者らしき男と逃げているんです」
「何?」ここで初めてタームは顔を上げた。
「逃げた娘の逃亡を助けた男がいるのです。そいつは旅行鞄を置いていきました」
「その男と娘との関係は?」
「偶然会っただけのようです」
タームは手を顎に当てて少し考え込み、
「その男を最優先で捕まえろ。娘は逃がしてもいい」と言い、書類に目を戻した。
「・・・・・・娘はいいので?」弟分はおそるおそる尋ねる。
「優先順位の話だ。当然娘も捕まえろ」と顔を上げずに言い、手で出ていけ、と合図した。
弟分は一礼して出ていった。
タームはこめかみに手を当てて考えていた。
逃げたのが小娘一人であれば話は簡単だ。ただ捕まえさえすればいい。もし捕まえられなくともただの小娘だ。何をしようとも後で握りつぶせばいい。
だが旅行者つまり国外の人間ともなれば話は別だ。もしもその男が国外でこの話をしたなら厄介なことになる。
「ライは居るか?」タームは部屋の外の男に呼びかけた。
「はい」ライが部屋に入る。
「地元の警察に根回ししとけ。後、逃がした連中に適当な処分を与えておいてくれ」
「わかりました」
***
一日経っても「商品」と旅行者が捕まらないのでタームは新しい指示を出した。
最後に「商品」が目撃されたのは交番の近くでだった。「友人」の警官が足を撃たれ、部下は頭を殴られた。それ以来何の情報もなかった。
この知らせを聞いたとき、正直タームは驚いた。ただの一般人の二人連れ程度に考えていたが、考えを改めた方がいいと思い始めていた。
しかし同時に旅行者がこれで警察に訴えようとすることは無くなった、とも思った。あちら側からすればもう一度捕まるリスクを犯したくないはずだ。
さて、一日経ってあいつらは今どこにいるのか?
まだこの町にいるのか?
いないとすればどこへ?どうやって?
最終的にタームが出した結論は主要な交通機関に部下を配置させることだった。
つまりローラー作戦である。
部下の数は多かった。彼が部下に張らせた場所の中には当然、ココ達が行く予定の貫通線の駅も含まれていた。大きな駅、列車なので部下達の数が最も多い場所の一つだった。
ではココ達がとった作戦は失敗だったのか?イプの家にあと何日かいれば危機は去ったのだろうか。
答えは否、だ。タームは「旅行者」が「商品」を連れていると知った時点で捜索の期間を一ヶ月に延長していた。その間は部下が虱潰しに探し回るのでフォンが逃げた場所からほど近いイプの家ではすぐに見つかってしまっただろう。
他のどの手段を用いてもココ達が逃げきるためには少なくとも一度は追っ手の目の前を通り抜ける必要があったのだ。
***
三日目。ナッツがやってくる朝が来た。ナッツは早朝に着く予定だった。およそ鶏が鳴き出す時間と行ったところか。駅からバスでイプの家、つまりココとフォンの所へ来て、昼の人が多い時間になったらナッツの家へとんぼ返りする予定であった。
ココとフォンはナッツが来る少し前に起き出して身支度を整えていた。といっても二人とも元々の荷物よりイプが買って来てくれた物のほうが多かったのだが。
チャイムが鳴る。全員ナッツが来たのだと思ったが一応ココとフォンは逃げる準備と隠れる用意をした。前者は相手がマフィアだったとき、後者は関係ない人だったときのためだ。見られないよう用心するに越したことは無いだろう。
案の定チャイムを鳴らしたのはナッツだった。ナッツはまずイプとハグし、ココとハイタッチし、帽子を脱いでフォンと握手した。
「遅れて悪かったな」とココに、次に現地語でイプとフォンに同じことを言った。
そしてナッツの後にドアから入ってきたのは赤ん坊を抱えたナッツの妻、シャーミラだった。
***
なぜシャーミラがいるのか?
その話は一日目の夜にさかのぼる。
「三日ほど留守にするぞ」会社から帰って妻と夕食を食べ始めたときにナッツは妻にそう告げた。
「あら、どうして?明日にはあなたのご友人が来られるのでしょう?」シャーミラが不思議そうな顔で聞く。
「あいつが向こうでトラブルをこしらえてな。迎えに行くようなもんだ」とナッツは妻の作ったスープを見つめながら言う。
「イプさんには頼めないの?」
「もう頼んである。それでも俺が行かないとダメなんだ」
ナッツは上の空だった。今もココをどうやって逃がすかを考え続けていた。そしてナイフを握ったまま肉料理を眺めていたのだ。これがまずかった。ナッツの妻シャーミラは夫の異変に気づいた。
「何があったの?」先ほどまでとは違って少し声が険しかった。
「何でもないことだよ」
ナッツはココの逃走計画は練っていたが、妻への言い訳はそんなに考えていなかった。
シャーミラは夫の夕食をさっと取り上げた。
「何をするんだ」けげんな顔でナッツが聞く。妻に対しては優しかったのでこんな調子だが、もしも犯人がココだったら拳骨が飛んでいる。元々短気なのだ。
「あなたがしゃべるまでおあずけよ」シャーミラは夫の夕食を持ったまま言う。しゃべれば返す、ということだ。
当然、しゃべらずともその気になれば夕食を取り返すことができるのだが、ナッツはむっとした顔で
「わかった。今日は夕食は無しだ」
と言って席を立っただけだった。
その時点でできていた逃走計画に必要な物を準備してナッツは風呂に入った。二番風呂だった。一番風呂はシャーミラと娘のテトが先に入っていた。
風呂から上がると娘と妻はもう眠ってしまっていた。ナッツはしばらく妻と娘の寝顔を見つめていたが、シャーミラが起きかけたので慌てて彼女たちを起こさないように静かにベッドに入り、眠りについた。
翌日ナッツは灰のフロックコートに縁のある黒帽子を被ってかなり早めに家を出た。重要なことがある時は彼はいつもそうする癖があった。朝の一番早い便の貫通線の一時間以上早くに到着していた。まあ、切符を買うのに時間がかかるので油断はできないのだが。ちなみにこの時に往復の切符をナッツ、ココ、フォンの分と万一の場合にイプの分も買っておいた。額はバカにならないが緊急時だ、仕方ない。
列車が来るまでベンチに腰掛けて売店で買った新聞を読んで時間をつぶす。相変わらずな記事ばかりだった。どこどこの工場で事故があった、とか、どこどこの国でだれだれが賞をもらった、とか、誘拐とか、殺人とか、どこぞの家の犬がどうした、とか。そんなことばかりだった。
新聞を畳んで脇に置き、ベンチに全体重をあずけるようにぐでっと座って深々とため息を吐き出した。ナッツは普段こんな座り方はしない。妻に注意されるからだ。
「とんでもねー厄介事に関わっちまったなー」
そう力なく他人事のようにぼやいてタバコとライターを取り出す。
ライターの火を起こす手が震えていた。それを冷たい目で眺めながら火をつけた。息を深く吸い、ふーっと長い息を吐いた。煙の味が口の中に広がる。
タバコも辞めてからずいぶん経つ。結婚してから禁煙し始め、娘が生まれてからは一切吸っていない。
そしてぼんやりと色々なことを考え始めた。
ココはもう自分のことを故郷に連絡しただろうか?あいつのことだ、どうせ誰にも連絡を入れていないに違いない。目の前の状況にしか目がいかなくなるからな。
イプには今度お礼をしないといけないな。何がいいだろう。やっぱり食い物かな。今度良い店でおごってやろう。
フォンという子はどんな子だろうか?どんな言葉をかけてあげるべきだろうか?
ココとフォンを助けられるだろうか?
無傷では難しいかもしれないな。誰かが何らかの「傷」を負うことになるだろう。問題はそれをいかにしてフォンへと向かないようにするかだろう。
ココは別にいいだろう。
・・・・・・無事に家族の元へと帰ることができるだろうか?自分が死んだらシャーミラとテトはどうなる?シャーミラも働いてはいるが稼ぎは少ない。とても母と子だけでやっていくことはできないだろう・・・・・・。
死にたくはないな・・・・・・。
ここでナッツは何かに気づき顔を動かし、タバコの灰をコートに落としてしまった。慌てて灰を払いながらナッツは思う。
そうか、俺は死にたくないのか。当たり前のことだが、妻と娘のために死にたくない、じゃなくて単純に死にたくないんだな。
ここまで考えてナッツはくくくと低く笑った。不気味な笑いだった。
この俺が死ぬことにビビるなんてな。今までそんなこと思いもしなかった。家族がいるから死にたくない、とは常々思っていたが、死への恐怖そのものをここまではっきりと感じたのは初めてだな。
今までの人生の中で死を考えてこなかったわけでもないし、死を実感したことがなかった訳でもない。
しかし、現にこれまでに味わったことのない死への恐怖を感じているということは、やはり、頭の中で漠と考えていただけに過ぎなかった、というわけだ。
ココと同じだな。ちょっと楽天的というか考えが甘いあたりが。あいつのそういうところも嫌いではないがな。あの性格だから道で出くわした他人を命がけで助けるなんてバカなマネができるのだろう。
そのバカな親友を助ける奴も相当なバカだが。
ナッツはもう一度深く息をを吸った。久しぶりの一本を存分に楽しむように。
・・・・・・ココも同じように悩んでいるだろうか?悩んでいても、悩んでいなくても一発ぶん殴ってやろう。何かそういう気分だ。
さて、下らないことを考えるのは後にして作戦を立てるか。
***
電車が来た。その列車はナッツには一体何に見えたのだろうか?
客車に乗り込み、座席に座る。座席は進行方向に対して垂直に何列も並んでいる。座って横を向けば楽に景色が見える。
ナッツが座席に座ってしばらくすると、列車の扉が閉まった。それとほとんど同時に隣の席に誰かが座った。
「あたしも付いていくわ」
その声を聞いてナッツはばっと振り向いた。声の主は麦藁帽をかぶり赤ん坊を抱えたシャーミラだった。
***
三日目である今日にナッツの家へ向かうにあたってココ、ナッツ、イプ、フォン、シャーミラの五人はナッツが立てていた作戦を確認しあった。
ナッツの家へ向かうのはココ、ナッツ、フォン、シャーミラの四人。当然と言えば当然だがイプは残る。最初から彼は部外者で巻き込まれた人だ。むしろここまでよく助けてくれた。
ココ、ナッツ、フォン、シャーミラの四人は人が最も多くなる十一時の列車に乗る。駅までは徒歩で行くことになった。バスには必ず一人はマフィアが乗っていることをナッツとシャーミラが道中確認していた。
マフィアはココ達は「旅行者の男」と「少女」の二人連れを追っている。だから、「親子三人」になって逃げることになった。「親子三人」はココ、シャーミラ、フォンの三人だ。それぞれアロハシャツ、ワンピース、帽子にシャツとジーパンを着て行く。地方に旅行か観光に出かける風を装い、フォンは男子に化ける。マフィアもフォンが男の子に化けるくらいは想定しているだろうが親子連れになれば大丈夫、とはナッツの言葉だ。今日は休日なのだ。ココはこの日に合わせて飛行機をとったのだから当然だが。
今日は休日。つまりは子連れが最も多いときなのだ。
ナッツは「会社員」として別行動をとり、非常時に対応することになった。
フォンは「男の子」になるために髪を切った。「男の子」になると聞いた時に本人から言い出したことであり、洗面所でシャーミラがフォンの髪を切った。
ココが前に警官から奪った銃は練習した経験のあるナッツが持つことになった。
その時点で決行まで残り三時間あった。
***
まずナッツがグレーのスーツの「会社員」で家を出、さらにその何分後かにココ、フォン、シャーミラは夫婦と男の子の「親子三人」が出発した。
ナッツは回り道をしてすぐに「親子」と合流した。といっても一緒に歩くわけではなく、当然十分に距離を取って前を歩き、マフィアがいないかどうかを斥候として確認する役目を果たしていた。
四人は次第に駅に近づいていき、やがて道は広く、人は多くなっていき、じきに最早身動きするのも難しいほどの混雑の中を進んでいくようになった。
そうなれば例えナッツがマフィアを認識したとしても「親子」が回避することは難しくなっていった。
それでも見つからなかったのはシャーミラがいたからだろう。彼女がいなければ「女の子連れの男」の図式を崩せなかった。その認識を突いたこの組み合わせはおそらくは満点だったろう。
マフィアたちの目の前を通り過ぎることはさすがに無かったが数メートルの距離を歩き、駅へと行進を続けた。
4.0
駅に着いた。切符はナッツがすでに買っていたものを使うことになっており、全員が切符を持っていた。人が最も多くなる時間だけあって、先ほどの道以上の混み具合だった。おしあいへしあい、ようやく進める、と言った程度だ。切符を買うだけで一体何分かかるのか分からない。そもそも切符を買う行列の最後尾が分からない。
しかも今日は券売機の所にスーツの男たちが立っているのだった。切符を買う乗客達は皆等しくスーツの鋭い視線にさらされることになった。行列が伸びる原因の一端は確実に彼らにもあった。
スーツの男はマフィアである。他にもよく見渡せる駅の二階から乗客を見下ろす者などが駅の至る所にいた。
元来カンの鋭いナッツはこの駅がマークされていることは予測していた。それでもこの列車を使わなければこの包囲網から逃れることはできないこともわかっていた。
駅の入り口から乗車地点まで数十メートル。人はやはりかなり多く、迷子になる子供はさぞ多いだろうと思わされる。こんな人混みの中で一定の距離を保って付いていくのは非常に困難である。
結果、ナッツは「三人」から少し遅れだしていた。そして徐々に非常事態に対処するのが難しいほどに距離が開き始めていた。
そのためナッツは平静を装いつつ「三人」を必死の思いで追いかけていたのだが、「三人」が改札にたどり着いた時にナッツはとんでもないものを見てしまった。
「三人」とナッツは駅の入り口から改札まで真っ直ぐに、なるべく普通に歩いて向かっていたのだが、その時にナッツは左右のマフィアと思しき人物に目星をつけて警戒することもした
あまり見つめては逆にナッツが怪しまれてしまうのでちらちらと。周りの人間がそうしているように。
そうしてナッツは最大限に気を張って警戒していた。
ふと彼が上を見上げるともう一人マフィアがいた。二階から一階を見下ろしている奴だ。
この駅は一階がおそろしく混雑するので二階も増設したことがある。その時にできた、宙に浮かぶ廊下、みたいな所の一つに男が一人いた。
封鎖でもしているのか廊下には他の人はいない。
とにかくその廊下から見下ろしている男もマフィアである訳だが、ナッツはそれほど警戒していなかった。
今回の作戦の失敗条件は「マフィアに「親子連れ」の変装を見抜かれる」ことだが、これはココ、あるいはフォンの顔を見てマフィアが気づく、ということである。
これに関してナッツ達は「親子連れ」にしてそもそもマークされないようにする、という作戦を立てた。
これが破られるとすれば「ココとフォンが近くから見られてばれる」とナッツは思っていたので(それでも破られるとは思っていなかった)、ナッツは二階にいる人間は全くと言っていいほど注意を払っていなかった。
そのためナッツが上を見上げたのは完全に偶然で、直後に彼にどうして上を見たのか、と問えば「わからない」という答えが返ってくるに違いのないものであった。
とにかく彼が上を見上げたとき、二階にいたマフィアが「親子連れ」を見た、ようにナッツには見えた。続いて、その男の目が大きく見開かれるのも見た。
一瞬で彼の脳裏におそらくは無意識によぎった思考は以下のようなものだった。
あいつはどこを見ている?ココ達か?違うのか?ココ達を見ているのなら今すぐに対処しなければならない。でも違ったら?対処してしまったら余計な注目を浴びてココ達が逆に捕まってしまうかもしれない。だがしかし、偶然にココ達の周りに目をやるだろうか?
およそここまで考えたときに例の男はすう、と息を吸い込んだ。次の瞬間には何かを叫ぶだろう。
ナッツの思考が停止する。
ナッツはポケットに手を突っ込み、中にあった物をつかんで手を高々と挙げた。
周りの人間はまず、この狭苦しい空間で突如挙手をした男に眉をひそめ、次にその手に握られた物を視界におさめて、凍り付いた。幸運なことに二階の男も叫ぶ前に一瞬凍り付いた。
ナッツが手にしていたのは拳銃。数日前にココが警官と取っ組み合いをして奪ったものだ。
ナッツがそれを上へ挙げたときにはもう引き金に指をかけていた。撃鉄も下ろしてある。
銃を挙げながらナッツは前を歩くココとフォン、妻のシャーミラ、彼女が抱いている娘テトを見た。正確には人が多すぎて見えなかったので、心に思い描いた、という方が正しい。
彼は目をつぶり、再び開き、銃を見上げた。
そして彼はその引き金を三回引いた。駅に銃声が低く、大きく、これ以上無いほど惨めに響きわたった。
***
何が起こったのか全く理解できなかった。突然背後で銃声がした。そうでなくともいつマフィアの連中にばれるんじゃないかとひやひやしていた所にいきなり三発の銃声。俺でなくとも肝がつぶれるだろう。
振り向けばマフィアが銃をこちらに向けているのかもしれない、という考えがちらついて怖かったが振り向いた。残念ながら子供みたいなことばかり言ってはいられないのだ。
後ろを振り向くと銃を天に向けたナッツが立っていた。それを呆然と見つめていたシャーミラの顔はよく覚えている。覚えているのだが、角度的にどうやって見たのかは思い出せない。すぐ隣にいたはずなので横顔さえ見えないはずだった。ひょっとすると後付けの記憶かもしれない。
ともかく、周りが銃を発砲した危険人物からわずかでも離れようと押し合っているのに、俺たちは三人とも残らずナッツから目が離せなくなった。
それでも体は押し寄せる人に連れて行かれる。何を考えていたのか今では思い出せないが、おそらくはナッツの元へ行こうとしたんだと思う。
俺が中途半端に錯乱していた時、一番最初に我に返ったというか声の出せる状態になったのはシャーミラだった。それが良いのか、というとわからない。彼女は叫びながら全力で人混みの列をかき分け始めたからだ。
しかし、それで俺の目が覚めた。俺にしがみついていたらしいフォンをかばいつつ人をかき分けて少し離れてしまったシャーミラの所へたどり着く。
俺は彼女の正面から、何事か叫びまくっている彼女に、これまた叫んで説得しようとした。冷静に考えれば何やってるのかわからないし、下手をすれば笑える光景だ。
しかし、状況が状況だった。周囲では人が押し合い、走り、転び、踏まれ、子供が泣き、大人が叫んでいた。俺はまだかなり混乱してたいたし、シャーミラはほとんど正気を失っていた。シャーミラの腕の中のテトはこのぐちゃぐちゃの中で大声で泣いていた。
多分この場で冷静だったのはフォンだけだっただろうと思う。
彼女はこの阿鼻叫喚の中叫びもせずただじっと俺の体にしがみついていた。最も冷静に、しかし最も恐怖を正確に感じ取っていたのだろう。
俺がシャーミラに怒鳴っていたとき、フォンは俺によじ登って、シャーミラの横っ面をはたいた。
シャーミラは止まった。時間が少し止まって俺も動けなかった。
シャーミラが目を閉じ、開ける。開いた瞳はしっかりと俺とフォンをとらえていた。その瞳の光の力は正直怖いほどだった。
さっきの目を閉じて開けるのはナッツがよくやっていた仕草だ。似たもの夫婦なんだな、と思った。
シャーミラは今度は踵を返し、ナッツとは反対側、人混みの流れる方向へと進んだ。離れないように二人を俺が後ろから追いかけ、押されないようにした。
もはや、意味の無くなった改札を越え、ホームへ出る。
人混みの大部分はなんとホームから線路へとなだれ込み、そこから外へ逃げ出していた。それを見て、今日列車には乗れないと悟った。
駅員らしき人物が誘導している。が、だれも目にも留めない、目に入らない。誘導を無視して線路へ降りていく。
人混みに乗って、線路へ降りることにした。シャーミラとフォンにも合図する。列車が来ないかは正直かなり心配だったと思うが、駅員が連絡を入れて止めているはずだ、と判断して降りた。
今思えばかなり判断力が鈍っていたようだ。
線路に下りて人混みの流れのまま、数メートルのレンガ造りのトンネルを抜けて外へ出た。
光が視界にあふれる。だが、心には闇が広がっていった。
駅の入り口にスーツ姿の男を乗せた車が何台も押し掛けるのを視界の端でとらえながら、俺たちは周りの人間に従って走って逃げた。
***
さまよう羊のように1.0~4.0