ラスト エデン -覚醒の刻-
処女作ですが、皆様に楽しんで読んで頂ければ幸いです。
残酷な描写があるかと思いますので、苦手な方は、この事をご了承の上でお願い致します。
外の世界に興味を持ち出したのは、一体いつからなのだろう……。
海が見たい、と彼女は言う。
緩やかな風に身を任すように、軽く両腕を広げて空を見上げる。
彼女の長い髪がなびいている後姿を見ると、それはまるで、一枚の絵のように見えた。
太陽の光を全身で受け止めいるその姿は、翼を広げた鳥がこの無限に広がる大空へと羽ばたこうとしているようだ。
燦々と降り注ぐ光を浴びる彼女の後姿を、俺は数歩後から見つめていた。
「海だって?」
この質問に、彼女はどう答えるだろう。
「この星の約七割の面積が水で出来ている……それが海。ただのおとぎ話を本気で信じているのかい?」
少し馬鹿にしたような言い方に、案の定、まるで歌を奏でているような口調と共に、理屈の言葉を並べた返答が返ってくる。
「雨が降る現象って分かる? 太陽の熱で暖められた大量の水が蒸発する事により水蒸気が出来きて雲が発生するの。その水蒸気が空気で冷やされる事により水に変わる。あれだけ広範囲の大地を雨の水で浸すのよ? それを可能にするには、やっぱり海の存在が必要って事じゃない」
「君の妄想には付いていけないよ」
やれやれ、と首を振る。視界を彼女の姿より横へ移動させて、遥か奥にそびえ立つ、全長五〇〇メートルの壁を見据えた。
そもそも、閉鎖されたこの国に入口も出口もないのに、あの巨大な鋼鉄の壁をどうやって抜けるというのか。
と、内心でそう思っていると彼女が俺の方に振り向いてきた。
見ているだけで癒されそうな彼女の顔が、今では少しだけ頬を膨らませて不機嫌になっている。
どうやら、ちょっとだけ怒らせてしまったようだ。
「せっかく教えてあげたのに。そんな態度をする人にはもう何も教えてあげないから」
ぷいっ、と俺に背を向ける。こうなると彼女は一向に俺の話を聞かなくなるのだ。
今日はこの後で大事な仕事がある。彼女の不機嫌が直らないとなると、個人的にとても困る。
「よし、分かった」
「何が分かったのよ?」
俺の言葉の意味が理解出来ない彼女は、先程よりも不機嫌そうに顔をしかめている。
「君がさっき言った事さ。海が見たいんだろ?」
予想にもしていなかったのだろう。膨れた彼女の頬が、一瞬にして元の状態に戻った。きょとんとした目を俺に向けている。
「俺が連れて行ってあげるよ」
予想にもしていなかっただろう台詞に、心底驚きを隠せない彼女は、両目を何度も見開いている。しかし、それも数秒が限界のようで、半分開いていた口元が吊り上がる。
「……ふ、ふふっ」
「って、何がおかしいんだよ」
「ごめんごめん。あまりにも唐突な事を言うから」
「なっ、冗談なんかじゃないってっ」
「うんうん分かってる。絶対海に連れて行ってくれるんだよね?」
「絶対信用してない顔だ」
「信用してるしてる。じゃあ、指きりしましょうよ」
そう言って差し出される小指に、後頭部を掻いて恥ずかしさを紛らわしていた俺は、指同士を絡める行為に高揚してしまう。空が茜色に染まる夕焼けだった今だからこそ、誤魔化せられたが。
渋々指を絡ませると、彼女は心の底から喜びを浮かべている。この優しい笑顔を何度も見たいから、この人を悲しませたくないから、俺はここにいる。彼女を護る事が、彼女を脅かす脅威を全て排除していく事で、もう一度、その微笑みを向けてくれるのならば、俺という存在意義が確かに在ると認識出来る。
「約束ね?」
「ああ、約束だ」
そして、俺と彼女は約束を守る為、指きりをした。
小指から伝わる彼女の温もりと、その微笑ましい表情は、まるで小さな太陽のように思えた。
そう――彼女の存在は太陽なのだ。
全ての人に愛される存在。人が生きていくに必要不可欠な空気と同じように、この国の人々には彼女は必要な存在なのだ。この人を護りたい。その意地っ張りな性格も、一人だと不安になる弱さも、全て護れる強い男になりたいと。
絶えぬ戦に疲弊を覚え、一層……背負わされた重荷全てを投げ捨てたいと考えた事もあった。
何を信じ――何を想い戦ってきたのか。ある者は愛する者の為に。ある者は富豪と権力を手に入れる為に、その身と命を削り戦い抜いてきた事だろう。全ての人間が理想を胸に抱いて戦場を駆ける訳ではない。
戦いに身を投じ、他者の血に汚れた己の手が、かつて思い懐いていた正義や志が色褪せていく現実に、誰もが葛藤と矛盾に苛まれてしまう。
それでも――絶望という名の海から這い上がれなくても、己の人生(うんめい)に抗う術が見つからなくても、最期の一瞬だけは、全てを投げ捨ててでも安堵と幸福を胸に眠る事を、赦してくれると信じている。
悠久の時を、いつまでも健やかに、この人の隣で限りある時間を噛み締めながら過ごせれば、絶望と混沌に塗れた、こんな腐り切った世界でも、安らかな時を過ごせられると。
微笑みを浮かべていた彼女が、何か思いついたような顔を見せる。
「どうやら、貴方を探してる人がいるみたいよ」
俺より先に『感知』したようで、繋いでいた小指をそっと離した。伝わっていた温もりが、すぐに消えていく。
「気を付けてね」
ひだまりのような笑みに隠された不安の表情。彼女がこのような表情をするのは初めてではないが、今のはいつもと何かが違うような気がした。
俺は敢えて気にしない素振りを見せ、笑って返す。
「ただ討伐隊として行くだけだよ。別に本格的な戦闘になる訳じゃない。簡単な任務だ」
「命の奪い合いを『簡単』なんて言葉で言い包めたらダメ。もし流れ弾が貴方に当たったらどうするの?」
俺が身に纏っている甲冑は銃弾すら弾く程の硬度だが、頭に当たったらどうするのか、と心配してくれているのだろう。
「そんな馬鹿な死に方したら、俺達の存在価値そのものに意味がなくなってしまうだろう。『物理的な攻撃で俺達が死ぬ筈がない』んだからさ」
だが、俺の言葉が気に食わなかったのか、それとも単に呆れただけなのか、俺に向けられる彼女の視線がとても冷たい。
「そういう言葉を言う人ほど、すぐに死んじゃうんだよねぇ」
「遠くを見つめながら呟くの止めてもらえないか? さり気なく怖い」
毎度毎度の事だが、彼女には振り回されっぱなしの自分も、懲りない性格なのだなと思ってしまう。そして今も、俺が反応に困っている姿を見て、耐えきれなくなって吹き出す始末だ。
「ふふっ、これも冗談」
「うぉい……」
「あっ、それよりもいいの?」
「何が?」
「このままここにいて大丈夫? あの人、ずっと探し回ってるよ」
言われた途端、背筋が凍る。すぐにあいつがどこにいるのか探し出す――いた。
ヤバい。物凄く怒ってる……。平然とあいつの前にのこのこと現れたら殺されそうな勢いだ。
「悪い。もう行く」
そう言って、俺は彼女に背を向け、一歩駆け出す。
「待って!」
呼ばれた反動で思わず振り返ってしまう。
「さっき言った事、絶対だからね」
「……ああ、任しとけ」
「絶対だよ」
手を振る彼女を目に焼き付けながら、俺は急いで駆けて行った。
一人になった彼女は、空を仰いで呟く。
「雨が、降りそう――」
―――。
もはや肉眼では捕えられない程の遥か上空。音速を超えて飛翔するその姿は、まさに空の王者と呼ぶに相応しい雄大を持つ。
分厚い雲が視界を遮っているため、パイロットの視界に映る外の世界は暗闇でしかなく、レーダーも無線もその機能を失われている状況は、あまりにも危険区域でもあった。
けれど、パイロットは至って冷静にこの状況を見守っていた。通信機器のアクシデントは偶発で起こったものではないのだ。
分厚い雲を抜けると、上空を飛ぶ計六機の戦闘機――F-15は、夜月によりその姿を現せた。
ようやく回復を見せた通信機能を使用し、パイロット達は早速言葉を交わし始める。
「ブラボー1より各機。もうすぐ目標地点の上空に到着する。こちらの機影が捉えられる事はないと思うが、万が一という事もある。その時は分かってるな?」
返事はブラボー3から返ってきた。
『まあ、見つかっても奴等にはどうする事も出来ないと思いますけどね』
「万が一って言ってるだろ……と、そう言ってる間に見えてきたぞ」
ブラボー1のその言葉に、パイロット達は一斉に外の下に目を向ける。彼等の両目が、恐らく人生で最も大きく見開かれた事だろう。ある者はその光景に一瞬、操縦桿を握り締める事も頭から忘れてしまい、ある者は自分の任務が何なのかを消え去ってしまう程のものだった。
それは、果たして何と表現すればいいのだろうか。否、言葉のみで、これを表現出来る人間が存在するだろうか。
『凄い……』
ブラボー2から漏れる声に、彼等はこの時だけ互いの意思を共有しているような心境を覚えた。だが、ただ一言、凄いで済ます事は、この光景に対して、そしてこの光景を生み出した者達への冒涜だ。
遥か五〇〇前――。世界から、世界地図からその存在を消された国―――通称・ロストヘブン。その中心地こそロストヘブンの首都・巨大都市エデンの直上を彼等は飛翔している。
夜闇を照らす都市の光一つ一つが、七色に光るキャンドルだった。『百万ドルの夜景』とはまた違う。この壮大を言葉に表すとなれば、彼等が見ているそれは『世界』だ。地球にもう一つの惑星が、そこに存在していると断言出来よう。
『こんな、こんな都市、見た事ねえよ……。奴等、この五〇〇年でとんでもねえモノを造りやがった……!』
この五〇〇年間、この大都市を見た者はおろか、上空から見下ろす者などいない。それを彼等は、五〇〇年の暗黙の規則を破ってまで来なければならなかった理由――。
見惚れる為に来た訳ではない。時刻は残り二分で深夜〇時。この時刻に、作戦は実行へ移るのだ。
「ブラボー1より各機――作戦を開始する」
先程まで感激に浸っていたパイロット達が、彼の命令に瞬時な対応を見せた。
六機のF-15の後方。同じく分厚い雲の中を潜ってやってきた戦闘機よりも巨大で闇色に染め上げられた機体。
機体全てが『翼』のような異常にも見える形状は『B-2』と呼ばれる爆撃機が、左右に展開したF-15の中心位置で並行して飛行する。
パイロット達の無線の向こうから、B-2に搭乗する若い女の声が聞こえてきた。
『こちらアウター機。閉鎖国ロストヘブンまでの護衛に感謝致します』
「こちらブラボー1。礼には及ばない。逆に俺達のチームを護衛役に選んでくれて感謝したいくらいだ。こんな凄い都市を見れたんだからな」
だが、その美しい都市を見れるのも、これが『最後』だと思うと、無性に胸を締め付ける痛みが走る。
『では、作戦を開始します』
無線が切られた。途端、B-2の下部から何かが投下された。彼等の任務内容――国際会議により決定された極秘作戦。
それは、人類の脅威と判断された、大都市エデンの壊滅だった。
誰もが呼吸を停止させた。
B-2から投下された兵器が、吸い込まれて行くように大都市エデンの中心地へ落下していき……その一秒後、美しかった光景が瞬く間に一変する。
まるで都市の中心に、小さな太陽が誕生したようにも見えた、が、灯された光は、静かに破壊と轟音を拡大させていく。
突如と降りかかる暴威に、エデンに住まう人々は成す術もない。
先程までの歓喜な声はどこへ行ったのやら。手を下していないとはいえ、パイロット達はこの一件に関わっているという実感に、改めて恐怖していた。
また、無線から女の声が、僅かにキーボードを叩く音も聞こえた。
『ミッション開始時刻、午前〇時。大都市エデン内の研究施設及び軍事施設の破壊を確認。並びにロストヘブンの権力者数名排除終了。民間人死傷者及び負傷者数不明』
キーボードの叩く音が消えた。
『ミッション――コンプリート』
―――。
針で刺されるような鋭い痛みが全身に走る。
身体の感覚が無いと錯覚してしまう程、身体が冷え切っているのだと気付くのにどれだけの時間を費やしたのだろう……。
ゆっくりと瞼を開ける。
目に映る光景は闇。漆黒の空から降る雨はとても汚れているように見えた。
口を開けても呻き声すら出ない。手を動かそうにも、指すら動かせない状態に陥っているのは……何故か、思い出せない。
何があったのか……。ここはどこなのか……。何故自分は死に瀕しているのか……。
思い出そうとしても『自分が目覚めた時』からの記憶しかない。
思い出せない……。
自分が一体何者なのか――。
名は? 家族は? 家は? 友人は?
何も思い出せない……。
空いた穴はとても大きい。
大切な何かを奪われた喪失感。己の身体の臓器全てが取り除かれたように、今まさに生きているのかさえ分からない。
本当は死んでいて、霊となった自分が、ただ空を見上げているだけなのかもしれない。
何も、ない。
全てを諦め、もう一度目を閉じようとした、その時だ。
名が無い――その女性は言った。
雨の音とは別に、地面を擦る音が耳に入った。僅かに呻き声も聞こえていた。
ゆっくりと、首を横に曲げる。
「君には、名前がある。だけど、私には名前がない」
そこには、女性がいた。女性の手と自分の手との距離は拳一つ分しかない。
だが、その拳一つ分の距離でさえ、縮める事は、もう限界だった。
「私は君の名を知っている。知りたいのなら、お願いがある」
僕は黙している。女性の言葉を遮らないように。いや、正直に言うと、言葉を交わすのも出来ない状況だった。
「私に、名を付けてほしい」
そう、女性は言った。必死に喉から絞り出す最後の言葉のように……。
女性の目を見つめた。女性も同じく瀕死の状態。ボロボロになった身体でも、その瞳には揺るぎない決意のようなものがあった。
僕は見据えた。言葉が出せない代わりに、女性の問いに答えるように。
一瞬――女性が微笑んだように見えた。その笑みを、僕はどこかで見たような気がした。
「ユウヤ」
ユウヤ……。
それが僕の名前――。
ようやく人間らしさを持てる、僕自身を証明する名だった。
なら、次は僕の番だ。目の前にいる女性に名前を付けなければならない。
血のように紅い髪を持つ女性を見つめる。身体中に傷を負い、泥まみれになった姿でも、僕は純粋に美しいと感じた。
唇を懸命に動かす。無論、言葉は出ない。それでも、必死に伝えようとしていた。
すると、女性は優しい微笑みを浮かべた。
「エレン……か。良い名だな」
―――。
閉鎖された国。世界から消された国を、人はこう呼ぶ。
失われた楽園――ロストヘブン――。
各国から監視され続けている、自由のない国。
もし戦争を起こそうというのであれば、ロストヘブンを囲む隣国から軍隊が押し寄せてくるのだ。
戦争に参加しない国は、前線で戦う兵士の為に物資を送る仕組みになっている。
そうなれば、ロストヘブンは一瞬にして灰の海と化すだろう。
いや、そもそもこの国から戦争を仕掛ける事など不可能だ。
何故なら――。
国境にそびえ立つ巨大な壁。
全長五〇〇メートル、厚さ一五メートルもある鋼鉄の壁は、ロストヘブンそのものを幽閉する為だけに造られた代物だ。
破壊は不可能。故に、この閉鎖国から脱出する事は不可能という訳だ。
各国はロストヘブンには一切関与しない。ロストヘブンも各国に一切関わらず、例え何年
何十何百年経とうが、壁の向こう側には興味を持たないという教育を施すようになった。
何故、興味を持ってはいけない? 何故、閉鎖されているのか?
その疑問は、思っても決して口に出してはならぬ決まり。
そういった数々の掟を縛り、既に五〇〇年の月日が流れていた――。
第一章 外の世界
「呆れるくらいの賑やかさだな」
全長二メートル程の銅像は、かつてこの大都市エデンの創設者と言われている――シャーロット・ヴァン・スタードの銅像だ。
ロストヘブン――その首都である大都市エデン――そして五〇〇年前、世界から一切の関わりを禁じたのも、全ては彼から始まったとされ
ている。
その銅像に背を預ける一人の赤い長髪の女。一言で言えばロングドレスを身に纏っているとも思えるが、実際は様々な服やアクセサリー
を自分なりのアレンジを取り入れて作った私服だ。
日差しを遮る為、麦わら帽子を被っている……のもあるが、実際は顔を見られたくないからである。
ここは、とある都市の昼下がりの繁華街。
建造物の入口や窓に多様の色彩旗が飾られ、様々な店が並ぶ大通りの街。雲一つとない満開の空を見上げれば、誰かの手から放れてしま
ったのだろう色鮮やかな風船が天高く昇って消える。大勢の人間の歓喜の声、雑踏や様々な物の音が音楽となり、今日は祭りの開催日か
と勘違いする程、女がいるその場所には多くの人間が集まっていた。
呆れるくらいの賑やかさ、と皮肉を口にするだけあって、遠くの方から男の怒鳴り声や子供の駄々を捏ねる泣き声が、女の鼓膜を人一倍
刺激する度に、彼女の口から何度も舌打ちが零れていた。
店の商品が盗まれた。財布を取られた。子供が行方不明になった。
など、一時間に一〇〇件以上の事件が毎日起きているこの状況では、警備の人間も手が回らなくなる。
最悪、政府に所属する兵士達も駆り出される始末であるのだが、本来、彼等の役目は国の最高権力者達を命懸けで守護する為の剣なの
だ。敵を討ち、あらゆる障害を徹底的に排除するスペシャリスト達なのである。それが、警備の手伝いという、盗人を捕まえたり悪戯し
た子供を叱ったり、と下下(しもじも)の相手をしなければならないというのは、彼等の威厳や平民に対しての示しが付かなくなるのは
当然の事だった。
自分の事で精一杯。他の事に目を向けていられなくなる。
つまりこの状況、大都市エデンに住んでいない外の人間が『侵入』するには、とっておきの時間帯なのだ。
「平和でいいじゃないか。争いのない平凡な日常がここにはある」
同じように銅像に背を預ける男。
女性と背を合わせるように、顔を合わせないように。自分達が知り合いだと感づかれないように。
男の言葉に納得いかない様子で沈黙を保っていると、ふと、女の視界に幼い少年が映った。少年はただじっと、穢れを知らない純粋な瞳
で女を見上げている。
視線を逸らしたのは女の方だった。あどけない表情を見せる少年を見続ける事が出来なかった。
遠くの方から女性の声が聞こえた。この少年の母親が、彼の名を呼んでいる。
やがて少年は女の前から走り去って行った。安堵の溜め息を吐いた時「お姉ちゃんバイバイ」という言葉が耳に聞こえた。
顔を上げて見ると、遠くの方で母親の隣にいる少年が、笑みを浮かべながら手を振っていた。
「嫌な過去は忘れて、こうして幸福の日々を送っているんだな。この街の人間は」
「嫌な出来事は無意識の内に忘れるものだ。人間の脳はそういう作りになっている。どうした? 不満そうじゃないか」
女は黙を通す事を決め、次に脳内から先程の少年の記憶を消した。穢れを知らない人間が嫌いだった。闇に埋もれ、血と憎悪で穢れてい
る自分には相に合わない。
「向こうでの暮らしはどうだ? 相変わらずか?」
男は話のスタイルを変える。用件や本題を無視したやり方に不信感を抱かせたが、必要以上の反応は返って身を削る行為に等しい。女は
男に合わせる事にした。
「変わらないよ。ここのように賑やかではないが、それでも和やかな暮らしは送っているつもりだ」
「つもり、か。お前の身の周りで『発作』を起こした者は?」
話の内容を急速に転換させている……だが、合わせるしかない。
「今のところいないな。いたとしたら、そんな所にいないですぐに別の場所に移動してる」
発作という単語に、女は更に目を伏せた。
三年前。大都市エデンは悲劇に苛まれた。
被害区域はほぼエデン全域。死傷者は二〇〇万人を超え、一瞬にして全ての人間に恐怖と絶望を植え付けた地獄絵図。
その三ヶ月後に報道された内容は、大都市エデンが各都市へ供給する設備の一部に故障が発生したという。すぐにその設備を収納してい
る施設内の従業員に避難命令と、その設備を緊急停止させる手段を迅速に取ったが、制御を失った設備を停止する事は出来ず、最悪の事
態を招いた。
設備の爆発と共に、各都市へ送る膨大なエネルギーが火薬剤となり、更に供給されているエネルギー自体が人間に被害を及ぼす『有害ガ
ス』が含まれていたという。想像を超える巨大な爆発と共に、その有害ガスが各都市にも拡散してしまった事実は、大都市エデンのみな
らず、ロストヘブン全民を恐怖と絶望を植え付ける羽目となったのだ。
有害ガスに汚染された人間は体内に毒を持ちながら、周囲にガスを撒き散らす細菌兵器と同じだ。
いずれ大都市そのものが死の都市と化してしまうと恐れた政府の権力者達は、この状況を重く考えた結果、汚染された人間を都市から追
放する事を決断したのだ。
汚染された人間に手の施しようがなかった。追放された人々に待っているのは死だ。
死は突然とやってくる。まず、原因不明の発作が起きるのだ。その後は、死を迎えるまで苦しみ続けるしかない。
いつ発作するか分からない症状に怯えながら暮らしている外の人間達。
勿論、何もしない、何の責任も取らない権力者達に怒りを見せていた。
追放された人間の中には身内もいただろう。家族や恋人もいた筈だ。そんな人々が追放されるという時、恋人は、家族は、誰も止めなか
ったという悲しい事実のみが残されてしまったのだった。
「あの事件でエデン国民の二割が死んだ。そして汚染された人間を見捨て、追放された人間を忘れて楽しそうに暮らしている」
「仕方ないさ」男が言う。
「人は弱い。心も。他人の命よりも、自分の命が大事さ。誰でもな」
「貴様に言われたんじゃ、この国も終わりだな」
「俺一人の言葉で国を動かせれるのなら、とうに動かしてるわい」
男は胸ポケットから煙草を取り出した。雑踏で騒がしい中、ライターの着火音だけが異様に響いて聞こえた。
話が一段落ついたと僅かに緊張していた事もあり、肩の力を抜くように深呼吸したその時だ。一人の兵士が、女の肩にぶつかった。その
衝撃で、被っていた麦わら帽子が落ちてしまった。
兵士は慌てて謝罪した。女は急いで帽子を取ろうとしたが、先に兵士に取られてしまう。
地面に落ちたのを気に掛けているようで、汚れを落とすように帽子を軽く叩く。
兵士と、目が合った――。
一瞬、兵士の身体が固まった。目を大きく見開き、じっと女を見つめている。
――気付かれたか。女の正体に。
女は悟られないよう、視線を逸らした。
もし気付かれたのなら、この兵士を一瞬で黙らせる必要がある。拳に力を込める。緊迫した空気は男にも伝わっていた。
……予想外な展開だった。
兵士がまた、すみませんと謝った。こんな美しい女性を見たのは初めてで、とお世辞まで言う。
帽子を渡した後、一礼して去って行った。自分が侵入者だという事にも気付かずに。
「あいつはどうだ?」
肺に溜まった熱い空気を焦りと共に吐き棄てると、何も無かったかのように男がその言葉を口にした。ここで必要以上に気に掛けていた
ら、逆に怪しまれると考えたのだろう。
女も一呼吸置いて、一度気持ちを落ち着かせた後、ゆっくりと口を開いた。
「相変わらずさ。呑気なままだ」
「最近遠くの街で暮らしていると言ったが、仲良くやれているのか?」
「あいつはあの性格だし、すぐに街の人間と打ち解けていたよ」
「お前は?」
男は分かって聞いている。
「私の性格から、仲良くしようとする人間がいるか?」
「たまにお前と話していると、斬り殺されそうな錯覚に陥るからな」
「それはお前が私に失礼な事を言うからだろう」
女は恨みが籠った口調で言うと、男はふっふっふっ、と笑うだけだった。呆れ半分、女は少し遠くの方に目をやった。
「養育施設に入れてから、あいつは少し変わったかな」
「養育施設? ここで言う学校のようなところか?」
「いいや。親のいない幼児達を引き取って世話をする施設だ。あいつは私とずっと共にしてきたからな。少しは他人と接した方が良いだ
ろう。噂ではこの数日、町や村を襲う賊がうろついているとよく聞く。一人でいさせるより誰か一緒にいた方がまだマシだろう」
それに、と女は付け加えた。
「……最近は、近所に住む女と仲が良さそうな感じだし」
言ってから、女は我に返った。口が裂けても言ってはならない事だったと後悔を覚えるも、もう遅い。
「ほう……」
やはり、と自分に悪態を付けた。女の脳裏に、男がにやけている表情が目に浮かぶ。
「嫉妬か?」
言われて、女はより深く顔を俯かせた。血液が沸騰しているのか、身体の体温が急激に上昇している。通り過ぎる子供の目が女の顔に止
まる。赤面している顔を誰かに見られるのは屈辱的だった。
「何をそんなに恥ずかしがる事がある? お前もその男勝りな口調を無くせば、ただの女だ。男に恋心を抱くのは何も不思議な事ではな
い。まあ、同じ感情を同姓に抱くのは世間的にどうかと思うがな。それも俺はアリだと思うぞ」
「変態が。それ以上私を侮辱してみろ。この銅像の首を斬り落とし、代わりに貴様の首を置いてやる」
「創設者ですら容赦しないのか、お前は」
男は一先ず会話を止めた。冗談でも笑えない女の台詞に、長い付き合いであっても肝が冷えたのだろう。
「いい加減話を戻せ。貴様と話していると疲れて仕方ない」
苛立った口調は、もはや不機嫌を通り越して怒りそのものを具現化させていた。殺意の刃が肌を突き刺さる感触に、男は煙草の火を消し
て、一度遠くの方を一点に見つめた。
どう言おうかと考えたが、それも一瞬の事。全て隠さず明かそうと決めた。
「お前のIDでも無理だった」
「馬鹿な」女は少し興奮気味に言った。先程の怒りは驚愕に掻き消された様子だった。
「『六人の覚醒者』のIDだぞ? 何度も確かめたのか?」
「無論だ。だが、三年前のあの事件以来、セキュリティがより厳重になったのも事実。それにお前は『既に死んでいる身』だ。IDもパス
ワードも『お前が存在していた全て』を書き換えられているのは当然だろう」
実際、そのIDは女の所有物ではない。だが、命懸けで手に入れたIDが無価値へと変わってしまった事に女は下唇を噛み締め、悔しさの
あまり、握り締めた拳がわなわなと震える。
「『三年前の惨劇。あれは事故ではない。ロストヘブンには何か裏がある』……お前が言った言葉だ。いくら歳を取ろうとも、今でも一
語一句覚えている」
込めていた力を抜いていく。少し冷静になれ、と女は自身に言い聞かせた。
「まだボケていないという事だけでも感謝するよ。あの事件の真相に辿り着ければ、同時にこの国が企てている計画も見えてくる」
「だが、あれから三年。未だ何一つ手掛かりは掴めていない」
男の言葉から、沈黙が続いた。沈黙を破ったのは、女からだった。
「何が言いたい?」
「もう、止めないか?」
予想はしていただけに、男の言葉は女の胸に、どんなに強力な剣よりも鋭く突き刺さる。
「お前も、俺も、今まで危ない道を歩き続けてきたが、もうお前を庇いきれない所まで来ている。既に俺も政府から目を付けられている
状況だ。お前に加担していると知られればどうなる事か。お前も、共に暮らしている奴も、命を狙われる事になるぞ」
「何を言うかと思えば……私もあいつも、着々と準備を進めているんだぞ。この三年の月日を思えば、今更白紙に戻せれられるか」
「奴等が何を企んでいようが、俺達にはどうする力も持ってはいない事は、誰よりもお前自身が理解しているんじゃないのか?」
女は何も答えない。次第に足音が聞こえた。
「平凡な日々を送っているのだろう? なら、その今を大事にすればいい。忌々しい過去は忘れてな。お前も、あいつの事を本当に好い
ているのなら、今の生活を守るべきじゃないのか?」
遠ざかっていく。
「定期的に会うのは続ける。情報の交換も必要だからな。が、危ない橋を渡るのは、もう終わりだ」
やがて、男の足音が他の雑踏の中へと消えていく。ただ一人残された女はしばらくの間、同じ姿勢のままでいた。
「止められないさ」
呟く。己の決意を思い出すかのように。
「あいつには、幸せになってもらわなくては……困るんだ」
その言葉を、胸の中で抱く決意を噛み締めるようにして、女は足を踏み出し始めた。
無事、大都市エデンから抜けた女の脳裏に、男の言葉が波紋するように蘇る。
守りたい人がいるのなら守ればいい。大事にすればいい。
その人の大切な居場所があるのなら護ればいい。大切にすればいい。
自分には、守れるだけの力があるのだから。
大切な人の笑顔を、暮らしを……だが、守るだけで、本当にいいのか……?
「いいや、それだけじゃ、駄目だ……」
己に言い聞かせる。守るだけでは駄目なのだと。
恐れや恐怖に立ち向かう事もまた、必要なのだと。
……でも、今はまだ、この生活を続けていたい。
それが女の本音でもあった。誰にも打ち明ける事のない、心の底から想う本心だ。
そう考えている内に、ようやく女が住む街に辿り着く。都会とは呼べない、緑と自然と共存する、見慣れた景色は心を落ち着かせた。
いや、そうではない。
反対に、胸が高鳴っている。その証拠に、足取りは先程より速く、軽い。
自分の帰る場所に彼がいる。自分の身近に常に彼がいる。朝一番に会うのは彼で、夜は最後に「お休み」を言い合う。
彼が傍にいる。一緒にいる。恋人同士という訳ではない。互いに好意を抱いている訳でもない。
まして、彼には自分よりも、ずっと素敵な相手がいる……。
「片想い」という言葉は、残酷な言葉なのだと、そう女は思っている。
それでも、彼と共に過ごせられるのなら、これ以上の贅沢はいらない。
今までが、贅沢過ぎるくらいなのだから。
彼が待つ家に足を進めていた、時だ。
――胸が痛い。張り裂けそうに痛い――だが、その痛さを感じる資格は己にはない。
前の方から、腕を絡めて二人仲良く歩いてくる男女。
女の方を見る。男に身も心も捧げているとしか思えない仕草と態度。この男の為ならば何でもする妖艶な雰囲気を漂わせている。
楽しそうに、まさに恋人同士が会話するように喋っている。話の内容は聞こえない。
微笑み合う二人は、まさに恋人同士にしか見えなかった。
ラスト エデン -覚醒の刻-
かなりの長編になる予定です。
完結するまで気を緩めず、頑張って執筆したいと思います。