practice(28)




二十八






 その道順はこうです。今こうして立っている,通りに面したアパートメントの玄関から左を向いて,『えき』に通じるその道の一番初めの角を曲がります。朝も早い時間から開いているパン屋さんがそれで右手に見えるから,いつでも店内に入れると思えるところまで進んで,それで左を向く。易しい上り坂は道の両側に低く並ぶ建物とともに続き,そこを安心して上って,もう一度左を向けば平坦な道なり。いつも綺麗なガラス窓の向こうで,小さい子犬の置物が楽器を一つ口に加えて見上げているお店を過ぎれば,簡単な遊び歌を歌っていれば終わり頃に,橙色の屋根で白壁のお家が二階の出窓と一緒に見えます。白い陶器の鉢植には植物の緑の先で,やっぱり白い花が咲いているのが遠目からでも分かります。それからまた,世界を広げる頃にはパパは細かに水を撒いて,光を散らして仕事に取り掛かる準備をしているのが,分かるはずです。
 私が抱えているじょうろは弟の分と合わせて二つあります。パパのところへ,弟に先立って必要な道具は先に持って行こうと考えた私も,まだ子供です。自分のことに夢中になったり,気になることに気を取られて,立てるようになってから家中を一人で歩き回る弟から目を離してしまう時だってあります。ママの大事なお皿をテーブルの上から床下に放ってしまって,割ってしまった弟に怪我はありませんでした。私と一緒にパパのところに行くと約束をしていた弟は驚きに泣いていて,今頃はママに抱っこされてすぐに泣き止むと期待するのは,私の気持ちの中に芽生えたものの形が変わって表れているかもしれません。それを知っているから,理に適う言葉に,いつも沢山の気持ちを添えてくれる賢い『この子』は私の側で眠りながら,機嫌のいい尻尾だけを上着のポケットから出して付いて来ます。
 アパートメントの玄関も,きちんと閉めることが出来ました。
 じょうろを二つ,抱え直してそれから辿り始める道順とは反対の方向から雨は石畳の上をころころと転がり始めています。すぐにでも一つを手に取れば,透明の中で波紋がワクワクに急かされて,落ち着かずに先に行きたがっています。その気持ちを知る私はすぐに雨を石畳の上に置いて,無事にまた転がり始めるのを見届けてから歩き出す。出っ張りや引っ込み具合に影響される雨は跳ねたりする度に,個々それぞれの虹を色違いで見せて,後ろから射す日光には傘を差したりもせずに空のじょうろを胸に抱えて,私はそれを楽しみました。揺れる尻尾とともにドレミファソ,あるいはドシラソファが合いそうな雨を狙うカラスは私と目があって慌てています。こぼれる笑みをそこに残して,耳と目を前に向ければ曲がろうと思っている最初の角からはドタバタとする音が遠くから大きくなって曲がって来るのに気付きました。そうして姿を連れて来た男の子は手に持った帽子を被らずに逆さまにして,転がって来る雨の一つ一つに向けた目をより広く前方に向けて,「あーあ!」と言いたがっている口の形を崩せずにあたふたしています。まるで男の子がこれを零してしまったというような様子,私との距離が縮まれば帽子の中には集めた雨が半分くらい入っていました。そこで男の子とは目が合って,
「大丈夫!」
 と言う唇の動きを,男の子は私に見せました。
「でも頑張って!」
 と大きな声にして返したのは私の顔のすぐ側で,ふさふさと慌てて動く尻尾がきっと思ったと,私が思ったからです。人には無い尻尾にある賢い『この子』の気持ちには答える私でした。その言葉は疾走感を持って,男の子に追いつく。振り返る男の子は表情が立ち止まろうと抵抗したために驚いた顔が前につんのめるような対照を手に持つ帽子と一緒に見せてから,また駆け上がって行く横顔で笑顔の始まりを作って背中でさよならを言いました。確かにもう会うことは無いような気がします。こんな日だからこその邂逅なのでしょう,雲も随分と低いところで漂うことを味わっています。
 角を曲がって,それから人は見当たりません。空のじょうろは『カンッ』と鳴ります。
 通りを行き,右手でやっぱり開いているパン屋さんの前では襟付きの白シャツに黒ベストを着た飼い鼠が玉乗りを練習して,二三回,転びそうになっていました。この前は野菜屋さんの前でその練習をしていたのに,今朝はどうしたことでしょう,そう思い,その理由を尋ねると,「今朝の野菜屋さんは女の子のもの,今日のパン屋さんはボクのところ。」と答えます。「かわりばんこ?」と聞けば,玉の上で器用に首を振る。『今日だけ』と,『トクベツ』は,彼の中で一緒のこととにはならずに,きちんと別々に分けられて発音されました。それで私は頷きます。尻尾は興味が無いようでしたが。
 それで「上手になった?」と私が飼い鼠に聞くのは,いつものことです。
 彼は「転ばないようには。」と言って,小さく履いた革靴にリズムを乗せて素早く動かしてから,紅白の大きな回転が面白おかしさを空気と混ぜて膨らませていきます。
「おっとっと,」
 とも口にして,男の子が拾い損ねてそのまま逃がしたのだと分かる跳ねて道行くそこらの雨も,それにつられて回り出して,横に大きな丸を描けば暖かさも溢れ出て,パン屋の中の美味しいパンが食べたくなって,お腹が高く鳴るのでした。もう一度,「おっとっと。」と言いながら飼い鼠の彼は私に,今頃になる「おはよう!」を言いました。私もまだ子供です。それは先ほどと変わりません。つられて私も「おはよう!」を言いました。にんまりとする気持ちはこうして交わすものです。けれど今朝の私と,二つのじょうろはこのままパン屋に入りませんから,飼い鼠の彼ともここでお別れです。
「気を付けてね。」
 離れる前に,彼にそう声をかけた私には,
「分かってる,けど,分かった!」
 と元気に答えた分,また二三回,転びそうになっておっとっとと,バランスと整えてから恥ずかしそうに短い髭を,彼は摘まんでくるんと遊ばせました。
 それから二三歩戻って,向いた左手にある易しい上り坂を私は安心して登って,登り切ったところで道の両側に低く並ぶ建物とともにもと来た道を振り返っても,そこには何も居ません。飼い鼠の彼も,ここからは見えません。
 平坦な道なりに,重いものをもっていない私は軽いじょうろを抱えて歩きます。少ない街路樹の中でも綺麗な鳴声を響かせている小鳥に,寄り添う親鳥の姿は見えませんでした。ポケットの中で寝返りをうつ賢い『この子』はそこで,その小鳥が幼い子とは限らないということを言います。それならもう親鳥なのか,幼い子はどこに行ったのかと想像と疑問を巡らせば,成長していると褒めてはくれるけど,賢い『この子』はまだ親でもないかもしれないという可能性を示して眠りました。枝葉に紛れても目立つように,私は小鳥を見上げて,どこに行くのとも聞かれていないのに,「私はパパのところに向かうの。そこはパパの仕事場,お水はきっとあるの。」と答えました。小首を傾げる小鳥の仕草は,分からないとは言っていません。綺麗なはずの歌声は翔び立つ勢いに切れて,聞こえなくなりました。いつものように,これも綺麗なガラス窓の向こうで小さくも楽器を一つ口に加えて,私と同じように,私を見上げている子犬の置物とそのお店を私は通り過ぎます。
 簡単な遊び歌を歌っていれば終わり頃に,橙色の屋根で白壁のお家が二階の出窓と一緒に見えました。やはり白い陶器の鉢植には植物の緑の先で,やっぱり白い花が咲いているのが遠目からでも分かります。そこからまた,世界を広げる頃にはパパは濡れても構わない長袖のTシャツと青いジーンズを色濃く濡らしながら,細かに水を撒いて,光を散らす仕事に取り掛かる準備をしていました。
「パパ!」
 と呼び掛ける前に,タタッと駆け寄る私です。
 有り難うを言われてから,抱えて来たじょうろを二つとも道に置いて,パパにはどちらにも目一杯の水を容れて貰いました。覗けば私が写ります。伸びた髪を簡単に束ねて,それを肩口から前に下ろしたままにしています。瞬きをしても,それが私には見えません。
 着いたかなと,ポケットの中から顔を出して確かめる賢い『この子』はじょうろの上に身の乗り出して,尻尾を最後に出して振りました。それが感じられる風になったりするのが理に適う,『この子』にしては珍しい。心地良さを,「心地良いね。」と言って隠したりしない私にそうかい?,と目で聞き返す『この子』に,
「そうだよ。」
 と返したことに芽吹いたものが頷きます。その形はもう,私の中で大きく育っています。
 呼ばれて来て,パパが見つける報せには可愛らしい葉っぱと拙い字で私の名前と思ってしまう形が揃って「待っててね。」と,言っていました。そこでパパは何も聞かない,寧ろなんでも知っているという顔をしています。それを知る私はまだ子供ですが,賢い『この子』の尻尾を触って,気持ちは上手く隠します。それから建物の陰に見つけた乾いた道筋の上で,瓶から剥がれたラベルが頑なそうに絵柄を上に向けています。
 もと来た道には,顔を向けました。
 パパが石畳を踏み締めて,細かく水を撒き,光を散らします。





 水いっぱいのじょうろの取ってを掴んで,今度は少し傾けて,サッと水が流れ出ることを見届けてから白い陶器の,鉢植に重ねます。植物の緑の先で,やっぱり白い花が咲いているのが遠目からだって分かります。
「あげた気になるのかい?」
 賢い『この子』は私に聞きます。
「それでもいいでしょ?」
 私はすぐに聞き返します。賢い『この子』は尻尾を振って,それは勿論と言いながら,理に適って答えます。
 「気持ちの分なら。」
 それでいいと,私も思います。


 

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-12

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