メディカルバッテリー
検査入院していた柏原は扉の外から聞こえてきた”寿命”という言葉に反応した。やはりどこか悪いのか。明日知らされる結果が恐ろしかった。
その個室は常に人の出入りがあり、病院ではなくさながら個人事務所のようだった。相部屋ではないので同室の人に迷惑が掛かるような事はなかったが、看護主任や主治医が何度注意してもまるで耳を貸そうとしない。
患者はそんな困り者のとある中小企業の社長で、その精力的に動く姿はどう見ても病人とは思えなかった。忙しないやり取りが聞こえるのはいつもの事で、時には怒鳴り声が漏れてくる事すらある。
その度に南が静かにするように言いに行かなくてはならない。南が担当にさせられたのは、柏原が一応は返事を寄越すから、という理由だけだった。
しかしさすがに夕方になると訪れる社員や取引先の人間も減り、早目の夕食が済んだ病室ではベッドの背凭れを起こし、柏原がひとりで何やら書類に目を通ていた。
サイドテーブルには書類入れがあり、済みと未処理の箱が並んでいる。判を付いた柏原がひと息付こうかとお茶に手を伸ばした時、何やら廊下の方から声が聞こえて来た。
「どうしましょう、先生」
「うーん。やっぱりもう厳しいかもしれないね」
扉の外に主治医の石井と看護士の南がいるようだった。回診時間でもないのに珍しいな、と柏原はひと口お茶を啜る。
「お話ししておいた方がいいんじゃありませんか?」
「そうだね。大丈夫そうに見えても、寿命には逆らえないからね……」
寿命? いつもは面会時間ギリギリに見舞いに来た子供達が走り回ったりして騒がしい時間帯だが、今日は妙に静かで、彼らの会話が自然と耳に付いた。何やら気になった柏原は足音を忍ばせてドアの傍まで行くと、そっと聞き耳を立てた。
「今日は奥さん、見えているんだっけ?」
どうやら南が首を横に振った様子。
「そう、じゃあ明日にでも伝える事にするよ」
「かなり悪いって伝えてくださいね。急がないと間に合わなくなるかもって」
話しが終わり、石井が引き上げようと促した時、突然すぐ脇の扉が開いた。驚いた二人が揃って顔を向けると、柏原がぽつんと佇んでいた。
「ああ、柏原さん。珍しくおひとりですか?」
まずは石井がチクリと嫌味を言う。
しかし扉に手を添えたまま、いつもと違って妙に大人しい柏原の姿に二人は顔を見合わせた。そして彼の視線が傍にあった機械に向けられたいるのに気付いた石井は、ひとり納得した様子で頷いた。
「これね。これから柏原さんに使おうと思っていた検査機器なんですけど、調子が悪くて……。南さんとどうしようか話してた所なんです。内蔵のバッテリーが寿命みたいで……。うるさかったですか?」
それには答えず、「奥さんっていうのは?」と聞き耳を立てていた事を隠しもせずに柏原が訊いた。
「この機械メーカーの営業の人ですよ。奥っていう名前なんです。仕方がないから修理に出そうと思って……」いぶかし気に石井は答えた。
「何か気になる事でも?」
「いや、なんでもない」素っ気なく返事をした柏原は、訊きたい事だけは訊いたという風にさっさと扉を閉めて退散していった。
「危なかった。もう少しで感付かれる所だったよ……」
「本当に。気を付けないといけませんね」
意味あり気な呟きを残し、機械を転がしながら二人は足音を響かせて去って行った。
去り際のあの言葉はどういう意味だろうか? 二人の会話は自分の病状に纏わる話しかと思ったが、ただの機械の不調だという。そして扉を閉めた途端、まるでそれを翻すかのような二人のやり取り。
追い掛けて問い質したかったが、今さらそんな事は出来なかった。
柏原はここの所どうも身体が重く、食欲も落ちていた所へ、社内の健康診断で”大至急検査”の項目が出て、そのまま半ば強制的に検査入院させられてしまった。どうやら心配した妻が裏から手を回したらしい。小さい会社の悲しい所だ。
その詳しい検査結果は明日分かると教えられていた物の、柏原は何か落ち着かなかった。過労で一度だけ点滴を打った記憶があるが、これまでおよそ病院という所とは縁がなかった。
この三日間の入院中、妻は甲斐甲斐しく柏原の世話をしてくれていたが、今日の午後になって「急用が出来た」と言って家に戻ってしまった事も、なんとなく不吉な予感を抱かせた。
仕事に没頭して気を紛らわそうとした物の、自分で入れたぬるいお茶を持つ手が小刻みに震えていたのには、さすがに自分も苦笑してしまった。
ただでさえひとりになると要らぬ想像が浮かび上がってくるというのに、そこへ追い打ちを掛けるようなあの言葉だ。
床に目をやると、慌てて扉に足を向けたせいで書類が散乱していた。
柏原は、歯を喰いしばると、両手で頬を叩いてカツを入れた。
なんにしても、今自分がいなくなってしまったら会社は立ち行かない。まだまだ部下には任せられない事も多いし、始めたばかりのプロジェクトもあった。そう自負していたし、新しいアイデアも試してみたいと思っていた。
しかしそう思った傍から、頭の中で繰り返される二人の会話が柏原の不安を煽った。危なかった? 気を付けないといけない?
やはり重い病気なのでは……。そんな事を考えながら、落ちていた紙を拾い、未処理の箱へ戻した。
ベッドに腰を下ろし、すっかり意気消沈した柏原はもはや仕事など手に付かなかった。
頭を掻きむしると毛が大量に抜けた。ああ、やっぱり……。何がやっぱりなのか分からぬまま彼は頭を抱え、明日知らされるであろう結果に怯えた。
***
「先生、私こういうの、なんだか患者さんを弄んでいるようでイヤです」
人気のないナースステーションの片隅で、南は石井に柏原のカルテを渡していた。
「君は柏原さんに割といい印象持たれてるみたいだったから……。済まなかったね」
謝っているのに、その目は笑っている。
石井はカルテを開くと視線を走らせた。検査の結果、柏原の身体はなんの問題なく、健康その物である事が分かった。
健康診断では肝臓に関わる数値が極端に悪かったらしいが、何かのミスだったのではないか。こちらでいくら検査しても悪い所などどこにも見当たらなかった。
こんな状態でいつまで居座られたら迷惑千万。すでに明日の退院に向け、看護主任に準備を依頼してあった。
しかし、だ。このまますんなりと帰られてしまうのも癪に触る。
いつもは堂々と社員らと接し、怒鳴り散らす事もある柏原だったが、そういう人間に限って案外病気に対しては臆病な物だ。案の定さっきの南とのやり取りを聞いた彼は、見た目よりずっと小心で、今回の件に相当怯えている事が分かった。
今日の午後、石井は柏原の奥さんを呼び出していた。彼が病室をまるで会社の一部かのように使っている事に対して、きつく文句を言う為だった。申し訳ない、と彼女は何度も頭を下げて謝り、恥ずかしかったのか、突然急用が出来た彼女はそのまま家に戻ってしまった。
気が付くと南がまだ石井の横に佇んでいた。
「もういいよ」そう言って彼女を仕事に戻らせる。
彼女は真面目すぎるのが玉にキズだ。後ろ姿を見送りながら、石井は近くにあった椅子を引いて座り込んだ。カルテを机に放り、大きな欠伸をしながら石井はひとり思い出し笑いをする。
こちらも迷惑を被ったのだから、少しくらいお灸を据えてもバチは当たるまい。どうせ明日には結果を知る事になるのだ。今夜くらいは悶々と過ごしてもらう事にしよう。
石井は、明日柏原がどんな顔をするのか想像して、意地の悪い笑みを浮かべた。
メディカルバッテリー