ひいらぎ

寒さが自然と肩を竦ませる季節になると、思い出される一枚の景色がある。
それは恐らく幼少期の記憶。小学校入学前、母親同士のつながりで訪れた、同じ幼稚園に通うF君宅の庭での些細な出来事だった。
F君はとても活発で、新しい遊びを提案してはすぐに飽き捨て、また別の遊びに取り掛かるような子供だった。反して僕は当時から少し変わったところがあって、これと思ったものにじっと集中して、周囲が見えなくなってしまう性格だった。
その対象は様々で、アニメに見入ってしまうだとか、積み木遊びに夢中になる、という幼年期にありがちなものだけでなく、煉瓦壁の線をすべて数えるだとか、殆どなくなってしまうまで鉛筆を削り続けるだとか、やや常軌を逸したものにも及んだ。
とにかく、僕はその時、F君宅の庭にそれを見出した。二十㎡程の広くはない庭。周囲も同じような民家で囲まれていて、あまり日当たりは良くない。下には白っぽくて細かい砂利が敷き詰められていて、隅にはオマケのようにこじんまりとした花壇がある。また、その隣には木箱が置いてあった。その中には恐らく花壇を整えるための工具が入っていたのだろう。
初めは、その小さな庭の小さな花壇に咲いていた小さな花が気になった。それは地味ながら、なにか青白い光を湛えたような印象として残っているが、その当時は勿論その花の名を知る由はないし、今となってはその姿かたちの詳細までは思い出せない。
F君が母親たちと何か話している間だったろう、僕は庭に通ずる縁側に座って、その花を眺めていた。最初はその不思議な色合いが僕を魅了した。
そうして一人でいる時間が経っていった。やがて僕はその花を間近で見てみたいと思い、サンダルもはかず、靴下のまま庭に降りてしまった。
それでも頭の隅では、靴下のまま庭に出たことが母親に知られたら咎められる事を分かっていた僕は、砂利の上を出来るだけ音が立たないよう、静かに歩いていき、遂に花の前にしゃがみこんだ。
小さな身体の僕がしゃがみこむと、ちょうど目の前にその花が位置する構図となった。しかし、現実は残酷なまでに現実的で、間近で見ると所々虫に食われ、朽ちかけていたその花は、全く美しくなく、幼い僕を幻滅させるばかりであった。
無性に悔しいような、悲しいような気持ちになった僕は、幼少期特有の無軌道な残酷さでもって、その花をむしり取りたい衝動に襲われた。
その時の僕に、本当にそれを遂行する覚悟があったかどうかは疑わしい。前述の様に、幼くしてそういった行為が大人の怒りを買う事を理解し、それを避けようとする傾向が僕にはあった。
しかし、とにかく僕の幼い本能は、悪意のある右手をその花を触れさせようとした。
その時、ふいに隣家の犬が大きな鳴き声をひとつだけ上げた。ふいの鳴き声に驚いた僕の右手は標的である花を逸れて、花の傍に植えられていたひいらぎの葉に衝突した。
鋭い棘の様な葉先に、右手の薬指は脆くも傷つき、浅い傷口からはぷっくりと玉の様な血の雫が現れた。
息が白くなるほどの寒さのせいか、痛みは少なかった、いや、痛覚の印象が薄いだけかもしれない。僕はその瞬間から、先程までの花に対する執着や一切の感情を削がれ、それまで全く眼中にもなかったひいらぎに心奪われてしまった。
自らを傷つけたひいらぎに対して、僕は苛立ちどころか何故だか好意的だった。幼い僕にとって、植物が、それもたった一枚の葉っぱが人間を傷つけるという事が新鮮な発見であった。
そしてその時、屋外にも拘らず、その小さな庭は僕にとって完全な密室となり、全ての背景は意識の外へ追いやられた。その密室の中には傷つけられた僕と、ひいらぎという植物、そのただ二つの生命だけが閉じ込められた。心地の良い耳鳴りが、静寂を装った。
その時間は、五分にも満たない、ともすれば本当は三十秒も経っていなかったのかも知れない。母親の呼ぶ声が僕らを時間軸から隔離された密室から引き剥がすと、咄嗟に僕は指の血を舐めとり、母親の怒りを買う前に縁側へと戻った。
下が砂利だった事で、それほど靴下も汚れていなかったようで、母親は僕の足の裏を手で軽く払っただけで、特に叱られる事もなく免罪された。
その後の事は殆ど印象にない。そう、このひと時と比較すると、この十数年と言う年月が、どれも僕にとっては印象に残っていないのだ。

それから、この記憶だけが、冬になる度、鮮やかに僕の感情を揺るがした。あらゆる物事に、病的なまでに不感症な僕を…。

そして、それだけが僕の犯罪の動機だ。これ以上幾ら問われても、本当にそれ以外に思いつかない。
そもそもあれだけ多くの他人を殺すのに、尤もな理由なんてあるのだろうか。少なくとも僕にとっては、これで十分説明に足りると思う。無罪だろうが有罪だろうが、無期懲役だろうが死刑だろうが、本当に興味がない。

最後に。

…ただ、もし死ぬ事が出来たら、またあの空間へ行けるような気がしていて、それだけは少しだけ楽しみに思うよ。

ひいらぎ

今度こそ良いものを書きたいと想い、詰め込もうと考えすぎた所為もあり、「途中まで書いて捨てる」を三度ほどやってしまい、
書くことに飽きかけていたので、責めて無理やり形にしてみようと、一時間と時間を区切って挑戦してみたもの。

ひいらぎ

最後にインタビュー

  • 小説
  • 掌編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-10

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