鑑賞記録-映画「袋小路」より
1966年、ロマン・ポランスキー監督。
またまた幸運なことに、思わず小首を傾げてしまう不可思議な映画に出会った。「これは一体なんなのだ」と誰彼に問われればその返答に困窮するような、よくよく思案してみるが、これといった主義主張も際立った強烈なイメージもない、簡潔に申すならば「外界と遮断された古城に住み、理想の暮らしを満喫していた中年男とその若妻のもとへ、逃走中の二人組のギャングがやって来る。やがてはギャングの死と夫婦の別離という結末をむかえるんだなあ」と、まあ、ごくありふれた、平凡風なあらすじを訥々と語るしかない。そんな映画なのである。
ミヒャエル・ハネケ監督「ファニーゲーム」という快作がある。この作品も、二人組の男の到来によりどこにでもいる小市民の日常的生活が崩壊してゆく様を坦々と描いており、本作とも幾ばくかの共通項を有する。が、しかしながらそこには、少なからず“善意に覆われた狂気と悪意”があった。では「袋小路」には何がある?観客我々を明確に位置づける何某があったと言えるだろうか。
人間は、無意識にも未知なるものを解明し、つねにカテゴライズしたい欲求にかられている。理解の及ばぬ状態を嫌う傾向がある。けれども原点に立ち戻っていうなれば、人間の存在、からの生活、そして人生の終焉にいたるまで、そもそもが説明を許さない不条理に満ちたものであろう。「ギャングたちは」「この孤島は」「一貫性は」と論理を追求すればするほど、それこそ映画の袋小路にはまっていくことは想像に容易い。“不条理劇”と称することも憚られる、絶海の孤島にポンと人間を置いてみた、置いてみたら各々が背負う意思の交錯によってドラマという名の世界が生まれた。早足で申すならば、そんな映画なのである。
鑑賞記録-映画「袋小路」より