孤独なバス

ある家族のバス乗車の記録

孤独なバス
                      作  北 仙丈

 修一はコンビニ前のバス停に到着すると、時刻表に顔を近づけた。間もなく「桑原」行きのバスの姿が見えるあろうことが確認できたが、少し酔っていたのと、近頃老眼がかかりだして細かい文字が見にくくなっている為、眼鏡を外して再度乱数表のように並んだ時刻表の数字を眉間にしわを寄せながら睨んだ。空気は冷たかったがアルコールが入っているのと少し長い距離をベビーカーを押しながら移動してきたので、体も暖まり多少汗ばんでいたほどであった。
「もうすぐバスが来るから早くたたまないと。ベビーカー」
 妻の茉莉奈に云いながら足許のロックを右足の爪先で解除しようと何度か試みたが、なかなか思うようになってくれなかったので少し諦め気味になって、できないならできないでそのままベビーカーごと二歳の雄二をバスに乗せればいいかと覚悟を決めた。五歳の信彦は晩御飯を外で食べられて、いつもは保育園やら買物やら自家用車で移動するばかりなので、路線バスに乗れることに喜びを感じているようで、機嫌よく妻に手を握られていた。修一も朝の通勤は茉莉奈の運転で駅まで送ってもらうが帰りはバスを利用することが多く、僅か十五分ほどではあるが座れるにせよ、そうでないにせよ、落ち着いた気分でいられるので嫌な気分ではなかった。
 しかし修一はその時は苛ついていた。胸なのか、頭なのかはわからなかったが、何か不満の溶岩が深部で熱せられて全身が震動を起こすような感覚が全身を覆っていた。上半身の血液が徐々に煙突を這い登っていく煙のように頭のてっぺんに集まっていくようでもあった。両耳の奥で電車の通過音のようなものが断続的に流れていた。
 しかし誰かを怒鳴りつけて三人を置き去りにするほどに苛ついていたわけではなかった。
 茉莉子も不満気な様子であった。外食が済んでてっきり近くでタクシーを拾って帰れると思っていたのであるが、修一がバス停に向かってベビーカーを押して行きだしたのと、食事に一万円札を使わせて小銭しか釣りとして戻ってこなかったという支払いの現場を見てしまったことで、今夜は流石に致し方ないと諦めたものの、やはりベビーカーをバスに乗せて終着の一つ前まで行き、そこから五分ほど坂道を上り、二十段ほどの階段も上らねばならぬことの疲労感を思うと随分気が重くなってもいた。そうした茉莉奈の心の曇りが修一には店を出て来た時から全身に感じられて苛ついているのであった。
 
 私鉄の通勤特急が停車するほどの駅である。その駅から徒歩で僅かの距離に新装開店した「豚しゃぶ」のお店があった。家族四人で夕食を外でとることは久しぶりのことであった。修一はその日出勤で、仕事を終えると駅前で茉莉奈と信彦、雄二とおち合ってその店に向かった。三人は駅前まで子どもの通う保育園で仲の良かった母親の車に同乗させてもらっていた。
 数日前に茉莉奈は
「修ちゃん。今日は十一月の何日ですか。もう何のためにこの日にしたのかしら」
「わかってるよ。あれやろ」
「あれじゃないでしょ。どうするの今日。」
「今日はだめでしょ、明日出勤早いし、まあ明後日の金曜日なら。場所は任せるから」
「どうして突然連れて行くとか、招待するとか、プレゼントするとかないの」
「ごめんやけど、もう余裕ないから。金銭的にも、精神的にも」
 結婚記念日であった。その祝いの食事会であったので修一は何とかその日だけは外食の恐怖を我慢しようと心を落ち着けて臨むことにした。二歳と五歳の幼児同伴の外食はハーフマラソン波に疲れることがどうして妻には分からないのか、修一は不思議であった。やはり十五歳の年の差から来る肉体的、精神的隔たりに今更ながらに唖然とせざるを得ないのであった。
「ほんとに、あなたにはお付き合いを始めてから一回もいいお店で食事をさせて貰ったことはないですから。決まって大衆酒場なんですから。それと立ち飲み」とよく何か気に食わないことがあるとそういった類の文句を頭の引き出しから探し出して、子供が風呂場で顔面目掛けて放ってくる水鉄砲の水のように修一にぶつけてくるのである。
「そうでもないやろ。河豚も行ったし、それと、」
「それだけでしょ」
 修一はその遣り取りには乗らないことにして全く別の話題を持ち出すか、腰痛をアピールしながら会話継続不能状態に持ち込むか、まったくその話題が最初から無かったかのように無言の世界へ旅立つかの選択肢の中から瞬時に一つを選び出さなねばならなかった。
 同居する以前になら誕生日、クリスマスには洋服や靴や鞄、貴金属製品などのプレゼントを買ってやっていた。それも多少高額のものが多かった。仕事の方が徐々に悪くなり、収入が毎年減っていくにしたがって高額商品ではなく現金で二万円程度を渡して好きなものを買わせるようになった。しかしこの二三年はその余裕もなくなり食事をすることで済ますようになっていた。経済状態から云っても当然納得してもらわねば困ることではあったが、妻の不満はマグマが火山の地下深くで次の噴火を用意するかのようにじわじわと鬱積し続けていた。何時それが爆発するのかは不明であったが、日常の会話のすれ違いや、意見の衝突による小噴火、ガス抜きで当座の家族関係は維持されているようであった。
 結婚の記念日は十一月十一日であった。婚姻届を出す二年ほど前から新居を購入して同居を始めていたので届けはいつ役所に提出してもよかったのだけれど、どうせなら記憶に残りそうな日を選ぶことにしてその日とした。更に余興として夜の十一時十一分に役所の方に提出することにして、車は市役所の玄関前に停め、守衛室への薄暗い照明の階段を二人で降りて行った。
「すいません夜分遅く。この婚姻届をお願いしたいんですが、大丈夫ですか」
「はあ。婚姻届ですか。大丈夫ですよ。預かりますが。正式の受理は明日になりますよ」守衛は二人いたがそのうちの一名が応対してくれた。茉莉奈は修一の後ろに影のように無言で寄り添っていた。
「此処の受付名簿に氏名、住所など必要事項を記入してもらえますか」とボールペンを手渡してくれた。
 受付時刻を記入するところがあったので、受付簿のすぐ横に置かれた時計は十三分を示していたが、十一時十一分と置いてみた。
 守衛が時間が若干違うのを不思議に思ったのか少し首を傾げたように見えたので、
「記念に、全部一にしたかったので」と修一が恥ずかしそうな笑顔で答えるとなるほどと感心したのか視線を宙に泳がせながら口元をゆるめた。実のところつまらないと呆れていたのかもしれない。
もう一人呆れていたのは背中の茉莉奈であった。
「どうせ一を連ねるなら記念日となる日に一が六つぐらい並ぶぐらいのプレゼントをもらえたらどんなに嬉しいでしょう」
男はロマンチスト、女はリアリストであった。経済力のない男はロマンチストにならざるを得ないのである。

四人がお店に入ると、レジの前で雀のように客が待合の椅子に肩を並べていた。茉莉奈は小走りで動き回っていた店員を呼びとめて、予約客であることを告げると、
「座席の確認をしてまいります」といって奥に入っていったが、直に戻ってきて狭い通路を案内してくれた。そこは他の席とは隔絶された自分達だけの空間になっていたので、修一は周りの客への気遣いは少なくて済むと云う安堵感でほっとした。
まず二歳の雄二の座席を個室の入り口から一番奥とした。大きな国道を見下ろせる大きな出窓風のガラス窓とその手前には小さな長机ほどの空間があるのでゆったりとした気分で落ち着いて二時間が過ごせると感じた。店内を歩きまわられては困るから押し込んだともいえる。その横を修一が陣取ってガードした。次は五歳の信彦を修一の前と決め、茉莉奈を奥の雄二の前に座らせた。修一はやたらに注文を繰り返す妻を押し込むことにも成功した。
二人の子は入り口付近におかれていた子供向けの本を一冊ずつ持って来ていて、卓上にのせてページを繰っていた。茉莉奈はこの時のためにノートと色鉛筆、折紙を「百均」で購入していてテーブルの下に隠している。本に飽きた時にテーブルの上に登場することになる。それとバッグの中にはゲームやユーチューブのためのタブレット式のネクサスとアイフォンも用意して愚図った時の抑えで控えさせていた。さらには大人より早く食事は済ますはずなのでお八つまで忍ばせるという万全の態勢をとって臨んでいた。
店員がお絞りと水を持って来て注文を聞くと、茉莉奈は「豚しゃぶの食べ放題」と答えた。次に二種類の味の出汁の選択となる。それを修一に
「昆布出汁に味噌、トマト風味、すき焼き風なんかがあるめど、どうする」
「いいよ、任せるから。んん。瓶ビールお願いします。どれでもいいけど似ていないものした方がいいね」
「そういうなら、修ちゃんが決めてよ」と云うので、
「それなら昆布とすき焼きにしようか」
「えー、だめだめ。すき焼きは太りそうやから。昆布とトマトにして」
「それなら最初から自分で決めたらいいのに。いいよ。それでお願いします」
店員は怒ることなく聞いていたが、会話が長引いて待たせるのが悪い気がしていたが、ようやくその場から去らせることができたて一先ず肩の荷を下ろした。
信彦は両親の綱渡りのような危険な遣り取りにも慣れていて全く関せず、水を飲んでは絵本を睨んで覚えたてのひらがなを声に出して読んでいた。読み終えるとノートを貰って窓の外を時折眺めながら自動車の絵を描いていた。
「のぶ水こぼした。ぱぱ水ふいて。なあ」
「ゆうちゃんアイスほしい。アイスう」
「アイスはご飯終わってからね。のぶちゃんは自分で水ふけるでしょ。お絞りあるからそれでお願い。しゅうちゃん拭いたってよ。それと水のお代わり頼んであげて」
まだ注文したばかりなのに呼び出しのチャイムのボタンを押してしまっていた。
「来た時にいえばいいのに。忙しないな、もう」
豚しゃぶ食べ放題にお酒の飲み放題もつけて一人四千円程、子供料金は五百円と実にリーズナブルで、おまけに鍋のみならず一品料理や寿司やデザートのケーキやアイスクリームまで付いているという驚異的なコースである。勿論二時間以内という時間制限はあるが、車で店の前をよく通るのであるが大概は満席の状態である。しかし茉莉奈と来るとどう云う訳かいつも一時間とそこそこで全過程が終了してしまうのである。
ようやくエス字に区切られた真鍮製の鍋に薬味やら豚肉、細く刻まれた野菜の盛り合わせ、ポン酢に胡麻だれなど用意が整った女性店員は先ほどから修一の顔を笑顔で覗いている。修一はその笑顔に気づかないように、子どもの前に小皿やら鍋用の器を並べていた。修一はその笑顔は店長の方針なのだと確信している。不自然さはない。大学生のアルバイトなのだろうから、接客の経験は浅く楽しく仕事をしようとしているのかもしれない。教育の結果だと思っている。他の競争相手に負けぬよう、客に好印象を持ってもらうために自然に会計負担者の心を掴みたいとの思いからの笑顔であると思っている。
一人不機嫌そうな学生とは見受けられない年齢の店員がいた。茉莉奈が
「あのひと愛想悪いね」と修一に告げた。その次にテーブルに何かの用事で近づいた時にはまるで他の大学生のような話しぶりに変身していた。聞こえたのかも知れなかった。
「お肉追加で五皿お願いします」
「まだ始まってないって」
「どうせ頼むんだから好いでしょう。のぶちゃん靴で座席上ったら駄目。ゆうちゃんはかしこいなあ。お絵かきしてるの。ブーブーなんやね。でも早く食べないとだめよ」
「ブーブー、やねん」
「それと唐揚げにポテトフライ、冷ややっこに明太子も。ざるそば一人前お願いします」
「わかりました。すぐお持ちしますので少々お待ち下さい」と掌サイズの注文マシンにチェックを入れていた。
修一はこの間電車の中で読んだ森鴎外の
『牛鍋』を思い浮かべていた。まるで自分が箸を持ったまま男の前に座って煮えている肉を食い損ねた少女になったような錯覚に襲われていた。
店内はやはり全席満席で暖房がなくても汗ばむほどであった。二種類の出汁は沸点が異なるため店員が吹きこぼれに注意するようにと慣れた芝居の科白の様に誰にともなく伝えた。出汁が注がれて気泡が浮き上がりだすと修一は豚肉を箸で一枚皿から剥がして、鍋の中でハチの字に冷たいバケツで手ぬぐいを洗うかのように動かしていると、茉莉奈が残りの肉を一つかみにしてボトンと出汁の中に沈ませた。
「色気ないなあ。情緒がないね」
「食べ放題なんだから。お肉は子ども達が食べるのでどんどん食べて次注文しないと。ラストオーダーは九十分後なんですから。野菜も全部入れて。すいませーん。野菜お代わり。それと握り寿司一人前に玉子とサケとイクラ、二つずつお願いします」
「テーブルに乗るかな」
「ゆうちゃんは玉子好きやしね。のぶちゃんもイクラ食べられるようになったしね」
「ぱぱ、マグロも大丈夫になったけど。肉もらうわお肉入れて」
「豚肉もう五皿お願いします」
 信彦はざるそばを付け汁のお椀を覗き込むようにしてすすっていたが、そばが無くなるとポテトフライを何本も口に詰め込んだ。
 「そんなに一遍に入れたらあかんやろ」
 雄二は未だエンジンがかからず、タブレットでパズルを楽しんでいた。玉子が到着するとようやくテーブルに身を乗り出して一つ目を口いっぱいに頬張ってそのあとはフィーバーのかかったパチンコ台のようにテーブル上の食い物に掴みかかっていた。
 修一はやはり自分の食べる分だけは一枚一枚剥がして、しゃぶしゃぶしながら肉を舌に乗せた。ビールを飲んでは肉を舌に乗せ、ビールのお代わりも頼み、日本酒も追加して、一緒に流し込んだ。
「なんか臭い。ゆうちゃんや。B や。ゆうちゃんBしてる」
「ええっ。こんな所で替えられへんな。トイレにベッド無かったしなあ、ここは」
「立たせて替えるしかないね」
「しゅうちゃん、ごめん。オシメ忘れてる」
「最悪や」
「もう放っとこ。放っとこ。帰ってから替えるしかないな。何とかあと三十分もたせよ」
 この家族の申し合わせ事項、外出時の大便をBということ。Bは隠語である。特に飲食店では絶対的な約束事であった。
 雄二は口に入れた様々なものを噛み砕きながら、列車のホーム下を駅員が探し物でもしているかのように、テーブルの下に潜り込んで折紙を何枚も取り出してはくちゃくちゃにしていた。
 信彦は相変わらず肉やら寿司やら唐揚げやらをテーブルから消し去ろうとするかのように、箸を動かしていた。トトントン。トトントン。トトントン。先程から列車の車輪がレールを走行する時のような音がしていたが、それが信彦の両足の踵が足元の椅子の板面にぶつけている音であることに気づいて、
「のぶ。うるさい。後ろの人に迷惑やからやめろ」後ろをさり気無く振り返るが、余り気にされていない様子で安心した。しかしそれでもやめないので右手で左足の脛を叩いたら半泣きになり、
「のぶちゃん、もうやめてんのに。なんでたたくのんよう。ぱぱ嫌いや」
「そや。デザート頼んだろか。そろそろ。ゆうちゃんも何にする」デザートのメニューを広げて見せて
「二つ言っていいよ。パパの分もあげるからな。のぶちゃんはバニラアイス二つに、ゆうちゃんは抹茶ゼリーに抹茶のケーキか」
「ゆうちゃんは抹茶ばかりで、なかなか渋いですね。二歳やのに」
 修一は話をデザートに移してうまく信彦の大きな泣き声の回避に成功した。修一も茉莉奈も雄二のお尻の状態はずっと気にはなっているのだが、オシメから漏れ出したのではないのならこのまま一気に会計まで持ち込みたかった。
 それと帰りのタクシーはこの時点であきらめることにした。狭い空間でのBの臭いには運転手に対してだけでなく、運転手に気を遣う自分自身の気持ちの置き処に息苦しくなってしまう事が恐ろしかった。
 修一の父親は四十年間ほどタクシーの運転手をしていた。よくその日乗せた客の事を夜の晩酌の時間に聞かされたものだった。小さな子連れの母親が乗り込んできたという。子どもはなかなか親の云う事を聞かずに靴のまま後ろの座席に立ち上がる。
「お客さん。靴で上がるのはやめといて下さい」
「すいません。これ、ちゃんと座っておいてね。汚れるでしょ。もう、駄目だって」何度目かの注意ののち、
「もうお金はいいのでここで降りて、他のタクシーに乗って下さい」
 どんな客がどんな事をすれば運転手を怒らせることになるのか、修一は熟知していた。
「今日はバスだな」

 会計を済ませて店を出ると、修一は雄二を片手で抱きあげ、もう片方の手でベビーカーを持って、長い階段をひょこひょこと降りていった。急に腰に痛みが走った。歩けないというほどの痛みではなかったが、酒を飲んでいなかったらもっと痛みを感じていたであろう。雄二を一度地面に下ろしてベビーカーを広げるともう一度抱き上げて座らせた。しかしベルトは嫌がるので腰の留め金は外したままにしておいた。外の気温は今までの熱気からすれば、急に冷蔵庫に入れられたように感じられたので雄二には小さな毛布を首の下から膝下までかけてやった。
 国道と府道が交わる交差点ではヘッドライトを点灯させた様々な車種の車がそれぞれの目的に向かって、たった今の危険を回避しようと鍔迫り合いをしていた。空では街灯や店の照明や車のライトに覆われて、辛うじて冷たい半月が胡坐をかいていた。
 バス停までの凡そ二百メートル。修一はベビーカーを押しながら信彦を連れた背後の茉莉奈が何時タクシーと云い出すのか気にしながら前屈みになりながら歩いた。次第に寒さを感じるようになり、自然と歩調が速くなり、速くなればなるほど、もしかすると自分が何か気に食わない事があるのではないか思われないようにするため、時折歩幅を小さく、遅くしたりしていた。
 もう一つ次の交差点の横断歩道を渡ると左手に医学系の大学の校舎が黒くて高い樹影の奥に腰をおろして座っていた。街灯もほとんどなく、それまではベビーカーに追い抜かれていたとろとろの車たちの足も、亀岡からの保津川下りのように堰を切って早くなり、四人の背中にフラッシュライトを浴びせかけていた。
「バス停まだあ」
「あそこのコンビニの前やからもう少し頑張ってや、のぶちゃん」と振り向いて修一が答えた。
「のぶちゃん、寒くないですか。ちゃんと上着の前留めといてや。ねえしゅうちゃん。毛布引きずってるよ。汚れるから上にあげといてよ」
「そうか。寒いけど鍋食ってこんだけ歩いたから汗かいてしもた」
「くってって云わんといて。たべてと云って。下品なんやから」
「ゆうちゃん、もう着くからな。バスに乗れるで、バスに。バス好きか。そうかあ。お尻大丈夫か。もうちょっとの辛抱やからな。バスのろな」気になるのはBの硬さである。ころこのBなら全く問題がなく、饅頭型もさほ懸念の必要はなく、水便に近い状態で無いことを祈るのみであった。
「はい。着いた、着いた。ううん、ベビーカーどうしよう」
「市バスも依然は絶対たたまないといけなかったけれど、今はそのまま乗せてもいいんじゃない。たたまなくて」
 「でもバスの種類によるな。通路の狭い型はたたまないと。でもどの型が来るかなんてわからんし、一応はたたんどこか」

 ベビーカーはその種類にってロック解除の仕組みが異なっている。修一は何種類かのベビーカーを経験していてどのパターンでたたむのか、咄嗟には分からなくなることがあった。だからなるべくならたたんだりはしたくなかった。それにたたんだとしてもバスの中ではその扱いに困ることが多い。もし満席ならば子どもを一人で立たせることになるし、危険なので結局は抱いてやらねばならない
その労力はその儘ベビーカーに座らせて通路御隅に置くことの数倍はかかることとなる。
 そもそもたたんだベビーカーの処置に困る。
一人で立って居てくれるはずもなく、専用の設置場所もなければ、どこかに引っかける事もしずらい。最近は自立式のものも中にはあるらしいがバスの揺れがある以上、気にしないわけにはいかない。結局人の手で持ているしか仕様がない。車椅子なら固定できるスペースや器具も用意されていて、乗務員も気を遣ってわざわざ運転席を離れて手伝いに来てくれる事もある。
 ベビーカーも車椅子である。修一は堂々と乗り込んでいきたいものだと常日頃から考えていた。そのためにも近頃のバスの乗り口は低くなり、階段ステップも無くなってきているはずである。
 しかし運転手にも乗客の大半にもそんな意識は皆無である。幸いにもバスはさほど混雑はしていなかった。通路にベビーカーを置いておくスペースも残されていた。
 修一は茉莉奈と信彦を先に乗せると後ろからベビーカーの持ち手の部分と子どもの足元のバーを掴んで一気にバスの通路まで持ち上げた。そして少しタイヤを転がして通路隅に固定させ、再度足元のロックレバーを爪先で踏んで動かないようにした。
「信彦。一番前の席が空いているから一人で座りなさい」茉莉奈が抱き上げて座らせてやっていた。茉莉奈は信彦の横で吊皮を握ってバスの揺れに身を任せていた。
 ベビーカー上の雄二はお尻が気になるのかベルトもしていない状態だったので勝手に降りようと試みる。修一は制止して何度かすわりなおさせようとして、そんなことが何度か繰り返されていた。
 バスが幾つ目かのバス停で停車すると、ベビーカーを固定していた側とは反対側に座っていた乗客が小銭の音を響かせて降りていったので、席が一つ空いた。修一はそれに気付いてまたしてもわざとベビーカーからずり落ちようとしていた雄二の両脇を掴んで持ち上げ、少し高い位置のその座席に移動させて、座らせようとした。
 同時にバスが急ブレーキを踏んだ。雄二が移動したため空になったベビーカーが通路の前方に転がり始めた。
 「あっ。ロックしてたのに」と声を発する間もなく雄二を抱えたまま右足でその走行を阻止しようとした。
 同時に発せられた声があった。
「たたんどけ。ベビーカー」
 バス中に響き渡る声であった。
 修一は小さく「すいません」と動き出したベビーカーの管理責任者としての謝罪の声を、誰にというのではなく発していた。
 雄二は泣き出していてあらためて席に座らせようとしても立ちあがって何度も修一にしがみついてきた。その格闘の横で茉莉奈が
「えらい怒り方してる」と感情露わに修一に訴えるので
「いわしとけ」と少なくとも乗客全員に聞き取れる声で応答したが、その時にはまた次のバス停を発車した後で、既に先程の大声の主はバスの窓の下の進行方向とは逆方向に歩いていて、車中からは姿を消していた。
 年齢は六十歳前後、頭髪は薄くはなく色は少し濃くて気難しそうで顔に深く皺が刻まれていた。ネクタイはしていなかったが背広姿であった。バスの中が薄暗かったので白のワイシャツが印象的ではあった。会社の役員のように感じられた。
 男は帰宅途中の静かな車中で一日の疲れをかみしめてまどろみの世界に身を横たえていたのかも知れなかった。また夜の九時も過ぎているというのに幼児を二人も連れまわしている親の不謹慎な行動に、決して二人は若いというのではないが、それだからより一層「今は親がこんなだから子どもも」いう風な批判精神を発揮して「バスではベビーカーはたたむもの」といった固定観念を机の抽斗の奥に再発見し、先程の「声」に結集してしまったのかも知れなかった。
 自分にもこれと同じような不謹慎な息子あるいは娘夫婦がいてその夫婦と折り合いが悪く、孫の教育についても兎角意見が異なり、遂にはある日突然同居生活が破たんして、昔のように家には妻と二人暮らし。怒鳴りつけ叱るにも仕様ない日々がいたたまれず眼前の四人家族に我が息子夫婦を投影させた結果としての「たたんどけ」であったかもしれなかた。
 男の居なくなったバスには修一達四人とその他十名ほどの乗客が、その多くは両肩と顔だけを前の座席の背もたれの背後からのぞかせていた。
 修一はその時に酔いはすっかりさめてはいたが、あらゆるものの蓄積した疲労感からその顔一つ一つを識別する能力を完全に失っていた。若しかすると乗客の中には近所に住む顔なじみの人がいたかもしれなかった。
 例えそうだとしても、今この状態に陥った情けなさ、格好の悪さをその場しのぎの澄ました態度や、取り繕うような卑屈な笑顔に逃げ込むこともできないでいた。
 開き直りの気持ちは、修一の精神を小さく硬く収縮させると同時に、肉体を大きく軟らかく膨張させていった。
 バスの運転手が「お降りの方はございませんか。急停車することがありますので、停車するまで座席でお待ち願います」と鼻の奥から出てくる声をマイクにぶつけていた。
 「次は光台、光台でございます」今度は放送が流れた。
 修一達の降車するバス停まではあと二つであった。
 「信彦がボタン押す」
 「待ってよ。まだやからね。次の次やから」
 修一は雄二を泣き止ませようと何度も抱いたまま上下にふってあやしていたが、それでも泣き止まず次第に声も大きくなるので、例の尻を三発大きな音をたてて掌で叩いたのち
通路の前方に向かって二三歩移動した。
 「動かないで。危ないから。お客さん」
 「雄二動くな。じっとしとけ。もうすぐやから」
 「のぶちゃん。次やからね。降りるよ」茉莉奈は財布から小銭を出し終えていた。
 修一はベビーカーを足で押さえつけ、雄二を片手で抱いたままズボンのポケットからバスの乗車カードを出そうとして、握っていた運転席の後ろのポールから手を離した。
 バスは停車のためにブレーキをかけるので全体が前のめりになった。
 「危ないから。手を離さないように。動かないで。危ないでしょ」
 その声は明らかに修一にとっては男の「たたんどけ、ベビーカー」の声と同じ匂いのする少なくともその時の四人にとっては悪意に満ちた全く手を握りえない声に聞こえた。
 綱渡りしている四人の親子を下から見上げて危ない落ちる、気をつけろ、と叫んでいる 。叫んでいる者も含めて、観客は事の成り行きをそれぞれの防空壕から冷ややかに眺めている。両手をもぎ取られて行き場を失っている者への救いの手は差し伸べられず、言葉もなく、自業自得だよと常日頃は災害ボランティアにも参加するようなヒューマニストの子羊も眼前の小さな不幸の前では小さな過失を法廷証言台に持ち出しては、冷徹な裁判官に早変わりしていた。
 世界中で繰り返されているに違いない。たたまないベビーカーの存在を許さない者による、時にどうしてもたたむことのできない者への制裁が。
 修一の足許は存外しっかりしていた。バス停に到着するとまず茉莉奈が小銭を精算機に投げ入れた。信彦を座席から下ろし手をとってステップを踏んだ。そのあとを修一は雄二を抱えて、カードを機械に押し付けたその手でベビーカーを持ちあげてステップを降りて行った。車外に出るとベビーカーをどっと置いて、雄二を座らせ、毛布でくるんだ。
 四人の後ろを他の乗客が等間隔で通り過ぎて行ったが、その時見知った顔が無かったのでそのこと自身は安堵した。しかし修一も茉莉奈もどう表現していいかわからない不満の気持と、どこにぶつけていいのかわからない怒りの気持ちを抱いていた。
 「何なんよねえ。運転手まであんないい方をして」
 「そうやな。信彦、寒いから前留めときって言うてるやろ」
 「うん。わかった。早く帰ってテレビ見たい」
 雄二は外気の冷たさに顔が引きつっているのか泣くことも忘れて、毛布の中で首を縮めていた。
 修一はガードレールの下方を流れる凍ったような川の流れを睨みつけながら緩やかな坂道をベビーカーを押し続けた。
 いつもはバスから降りると必ず川音に耳を傾け、畑の畝の様子をうかがい、夜空を見上げては星座を探すことを楽しみにしていた修一も、今夜ばかりは二度とバスには乗らないでおこうと強く決意するしか今の気持ちを慰める事ができずにいた。

            〈完〉

孤独なバス

孤独なバス

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-05

Copyrighted
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