矜持

彼女は後背位が嫌いであった。


 彼女は後背位が嫌いであった。以前その理由を尋ねてみたところ、彼女は切ない顔をして、「顔が見えないのが嫌だ」と答えた。
しかし今となってはもう、こんな私の顔など見たくもないのであろう。
 では、私にも一つ言わせていただこう。
「こちらこそ、お前の顔なぞ見たくもないわ」
これは断じて強がりなどではない。断じて、強がりなどではない。

 ことの始まりは、ほんの些細な巡り会わせであった。
午前九時、もう幾ばくも無いモラトリアムを惜しみながら、私は大学へと向かっていた。吹き荒れる木枯らしに、とぐろを巻くマフラーに顔を埋めつつ、真っ赤な私鉄に乗り込んだ。そこで出会ってしまった、旧友の安倍川と。
満席の車内、閉まったドアに寄りかかる私に、安倍川はつかつかと歩み寄り、「久し振りだな」と言う。
 私はマフラーから口を出し、「三年振りだろうか」と答え、またマフラーに口を埋める。安倍川は私の横にもたれかかり、「だなぁ」と語尾を伸ばす。ちらりと隣の安倍川に目をやると、何を見つめるでも無く、窓の外の流れる住宅街をぼんやりと見ていた。私は、最近買ったばかりのベージュのブーツのつま先についた、黒いシミを見つめていた。
 しばしの間、二人の間を流れる沈黙。気になぞしていない素振りを見せつつ、私はマフラーに顔を埋め続けていた。がたんがたんと電車がレールの上を走る音も、車内の喧騒も、二人の間には入り込めないでいた。
「ほんと、久し振りだよ」
繰り返された安倍川のその言葉に、私はマフラーにふった香水の匂いを嗅ぎながら「あぁ」と返した。
「連絡先を変えたのならちゃんと連絡しろ」
 携帯に入れる連絡先の件数が、一気にすっきりしたのは三年前のことである。
「すまない」
「いろいろあったのはわかるよ。でも、そういう時だからこそ相談に乗ったりして助け合うのが友達だろ」
「すまない」
「すまないしか言えないのかよ」
「すまない」
 私はブーツのシミを見つめたままそう答える。安倍川はなにか言いかけたのをぐっと堪えた。車内アナウンスが、もうじき私の降りる駅に着くと告げている。
「来週の土曜、うちで同窓会をやるんだ」
 私は思い出す。安倍川の家は、居酒屋「大花火」を営んでいる。昔は安倍川や永井と一緒に、未成年の癖をして店の焼酎や麦酒を盗み飲みし、安倍川の父親にどやされたりしていた。ヤクザのキープしたボトルを空けてしまい、冷や汗をかいたこともあった。
「次はいつになるのかも、何人来れるのかもわからない」
 三月、約一ヵ月後に私はこの町を離れる。なんの未練もない、あるのは消してしまいたい過去ばかり、だから進んでこの町を離れることを選んだ。その選択に後悔はない。
「だから来いよ、最後くらい」
 電車は速度を落としていく。身支度をする乗客もちらほら見受けられる。私も床に置いたかばんの持ち手に手を伸ばす。
「詳しいことは永井も知ってるから」
私には内通者がいる、今名の出た永井という男、彼こそがそれである。高校を卒業し、高校時代の友人たちの連絡先を消した後も、彼とだけは連絡を取り続けていた。これまでに何度か同窓会なるものが催されていたことも、彼から聞いていた。彼を介して誘われてもいたのだが、私はやむ終えぬ事情で見送ってきた。
アナウンスが駅名を告げる。親切に開くドアも教えてくれる。私はドアから背を離し、振り返った。ぷしゅぅっと音がして、眼前にホームが広がる。灰色のコンクリートに踏み出した私の背中を、安倍川の声が追いかける。
「りっちゃんも来るから」
 久方振りに聞く名であった。とても懐かしくて、切なくて、胸のつまる名前。
 先程と同じ音がして、ドアが閉まる。私は振り返ることなく改札へと向かった。
 昨年の春先に、定期券からICカードへと全面移行した。すっかり慣れた手つきで、ICカードの入れられた財布を改札の頭に押しつける。ピッという音とともに改札が開き、私はそこを抜ける。
併設されたコンビニエンスで熱い缶コーヒーを買い、店先で煙草に火をつける。大きく煙を吐き出した後、プルタブを起こし、熱されたスチールに口をつけた。煙草とコーヒーの苦味が交じり合う。律子と別れてしばらくは、ものを食べる気力すら湧かず、煙草とコーヒーだけで腹を満たしていたなぁなどと思い出しつつ、私は吐く息を白く染めた。
 二本目の煙草に火をつけた私は、ポケットから携帯電話を取り出した。流れるような手つきで電話をかけ、冷たい携帯電話を耳に当てる。コール音が終わり、私は口を開く。
「俺だよ。さっきさ、安倍川に会ったんだ」
 電話越しに永井は、「おぉ」と驚いた素振りを見せる。
「それで同窓会に誘われたよ」
 永井はまた「おぉ」と答える。
「律子も来るんだってさ」
 永井はしばらく黙った後、「矢神は行くの」と私に尋ねた。
「わからん。わからんよ、俺はどうしたらいいのだろう」
「俺に聞かれても困るよ。矢神がどうしたいのかだろ」
 私は煙草の火を消し、歩き出す。
「うむ」
「別れてから一度も会ってないんだろ」
「うむ」
「りっちゃんの中で、惨めなままの矢神で終わっていいの」
 ロータリーの赤信号で、歩みを止める。私はしばし考え込み、「うむぅ」と空気の抜けるような声を漏らした。
「お前はどうだった。別れた後、奥村さんと再会してみて、よかったと思えているか」
 電話の向こうで、考え込む永井の姿が浮かぶ。黙り込んだ後、永井は小さくも力強く、「うん」と答えた。
「会わないでする後悔より、会ってする後悔のほうがましだよ」
 その言葉に、私は「安っぽいなぁ」と返すと、永井はへへへと笑った。
「俺もついて行ってあげるからさ、行こうよ」
「心強いな。でも、すこし考える時間をくれないか」
 私は沈黙を聞く。よく黙り込む男である。
「わかった。一応詳細は、後で文書で送っておくよ」
「何から何まで、すまないな」
「気にするなよ、同じ傷を舐めあった仲だろ」
 永井はそう言ってまたへへへと笑う。
「そうだな」
「じゃあまたね」
「あぁ、また」
 私はそう言って電話を切った。

 私が今日ここに来た理由か。未練だなんて、そんな生暖かいものではない。そんなものはもうとっくの昔に捨てた。では後悔故か、それも違う。それはいつの間にか薄れて消えてしまっていたよ。
 三年振りに私は、居酒屋「大花火」の前に立っていた。思い出の中よりどこかくすんで見える、すりガラスと木でできた引き戸には、「本日貸切」の張り紙がなされている。日暮れは早く、まだ十八時を回っていないのに街は濃紺に飲まれ、すりガラスから放射状に伸びる光の、丁度届かないところに私は立つ。
 永井からの文書には、十七時開始と書かれていたが、時刻はすでに十七時半を回っている。寒風と、引き戸の向こうから聞こえる賑やかな音から自らを守るように、私はマフラーに顔を埋め、先日ふった香水の残り香を嗅いでいた。
 煙草に火をつけ、白い息をさらに濃くする。私はなにか、きっかけを欲していた。突然引き戸が開き、中から懐かしい顔と声で、「久し振りだな矢神、まぁ入れよ」や、突然後ろから懐かしい声がして、「矢神も今来たとこか、中入ろうぜ」などの、ごくごく自然で、なんの気負いもない入場を、私は求めていた。だが世の中そう上手くいくことなど滅多になくて、煙草を一本吸い終える頃には寒さに耐え切れなくなり、私は一人引き戸に手をかけた。
永井に電話をしようかとも思ったのだが、今更それをするのが何故か格好悪いことのような気がして、思いとどまった。それならば事前に永井と連絡を取り、二人でこればよかったじゃないかとお思いかもしれないが、それこそ一番格好がつかない。私は断じて、一人で来るのに怖気づくような男ではないのだ。
 がらがらと、たいそうな音を立てながら、引き戸は開く。暖かい空気と、柔らかなオレンジの光、賑やかな喧騒が私の体を包みこむ。
「矢神か」
 私は声のした方に目をやる。座敷の手前に座った男が、こちらを見ている。一瞬誰だかよくわからなかったのだが、思い出のデータベースに検索をかけてみると、見事に一人の男がヒットした。
「馬場園か」
「そうだよ、いやぁ懐かしいな」
「卒業式以来だ、懐かしい。坊主頭じゃないから一瞬わからなかったよ」
 そう言いながら私は、近づいてきた馬場園の頭に手をやる。不自然な硬さであった。
「お前、整髪料付けてるのか。色気づきやがって」
 馬場園は髪を整えながら、「うるせいやい」と呟く。その隙に私は上手に黒目だけを動かし、店内を見渡す。
「武藤さんならまだ来てないぞ」
 私はきぃっと馬場園を睨みつけ、整えなおしたばかりの髪をくしゃくしゃとする。馬場園は必死に抵抗をする。
別れて三年経ってもなお、私の思い通りには動いてくれない女だななどと思いながら、引き戸前での葛藤、しいてはここに来るまでの葛藤の無意味さを嘆き、私は小鼻を膨らました。
 三和土での騒ぎに気づいた安倍川が、こちらに向かってくるのを、私は馬場園の肩越しに見た。
「矢神」
 安倍川は私の名を呼びながら、スリッパも履かずに三和土へ降りてくる。
「来てくれたのか」
 そう言って安倍川は私を抱きしめる。開始から三十分も経っていないはずなのに、酒臭かった。私は率直に抱きしめられた感想を告げる。
「酒臭いな」
 安倍川は私の酷評など意にも介さず、抱きしめ続ける。しばらく好きに抱きしめさせてやると、気が済んだのか、私の背中で組んだ腕を解く。そしてその両の手のひらが、私のへその辺りの高さまで上げられる。
「会費二千円」
 私は小さく鼻をならす。
「腐っても商売人の息子だな。お前が酒に酔った今なら、上手いことタダ酒が飲めると思ったのに」
 そう言いながら、私は財布の中にあらかじめ用意してあった千円札二枚をその両の手のひらの上に乗せてやる。
「お前が俺の酒の強さを知らないわけないだろ。三年経っても、残念ながら健在だ」
 安倍川は千円札二枚を、一度ひらっとさせた後、ジーンズの後ろポケットにしまった。
「まぁ、今日貰い損ねても、次の機会に払ってもらえばいいだけなんだけどね」
「次などない。こんな催し物に参加するのはこれが最初で最後だ」
「相変わらず冷たいなぁ、矢神は」
「それでお前と対極の、酒に滅法弱いあいつは」
 安倍川はしょぼくれた顔で、座敷の奥を指差す。その先には、真っ赤な顔でうなだれている永井の姿があった。
「まだ三十分しか経ってないはずだろ」
「あぁ、まぁいつものことだ。開始三十分で潰れて、そこからは延々と明日美の名前を呼び続ける。そして明日美の名前を呼び疲れたら安らかに眠る。お前と飲んでもああなのか」
「あぁ、まるで芸がないな。じゃぁまぁいつも通り、俺は隣で奥村さんの名前を聞き疲れるまで聞いてやるかな」
「よし、任せた」
 私はブーツを脱ぎ、座敷へ上がる。馬場園はやっと髪を整え直したようだ。懐かしい顔を横目に見ながら、座敷を奥へ向かって歩いていく。坊主だった奴はみんな、野球部という名の枷から解き放たれ、髪を伸ばしている。おかげで誰が誰だかよくわからない。高校時代から髪の長かった奴は、パーマをかけ、残り少ないモラトリアムを謳歌している。中にはまだ就職活動中なのか、黒髪をきれいに切りそろえている奴もいる。女は化粧のせいで誰が誰だか皆目見当がつかない。
目的地に辿り付いた私は、コートを脱ぎ、マフラーを取り、肉厚の座布団から空気をぼふんと吐き出させた。テーブルを挟んだ永井の向こうには、すでに先客がいて、永井のつまらない奥村話を、熱心にうんうんと聞いてあげていた。
「矢神じゃん、超久し振り、元気してた」
 声でやっとわかった。童顔、低身長、その割りに胸が大きいで名を馳せていた、ロリータ巨乳野村であった。
「おかげさまでな」
 私は着席早々、煙草に火をつける。
「なにそれ嫌味。あんたと律子の間で何があったかなんて、私には関係ありませんから」
 テーブルに突っ伏していた永井が突然、顔と声をあげる。
「明日美は」
「ごめんね永井くん、明日美今日は来れないって。あとこのやり取りこれで六回目だから、そろそろ勘弁してね」
「なんか悪いな」
「なんで矢神が謝るの。もしかして二人付き合ってるの、ゲイなの」
「違う、俺は女が好きだ。今でもまだ、明日美のことが好きなんだ」
 とろんとした目で威勢よくはじめた永井であったが、残念ながら最後までその威勢が続かない。言い終えるか終えないかのところで、またテーブルに突っ伏してしまう。
「俺も女が好きだ、だがもう律子のことはなんとも思っていない」
「はいはいそうですか、強がっちゃって」
「強がってなどいない」
「律子まだ来てないよ」
「知っている」
「でも多分後で来るよ」
「心底どうでもいい」
「仕事なんだって」
「興味ない」
「またまたぁ」
「うるさい女だなぁ」
 野村はにやにやとした笑みを浮かべる。
 私が煙草を吸い終えた頃、野村はドリンクメニューを眺めていた。
「矢神どうする、とりあえず生中でいい」
「麦酒かぁ」
私はぼそりと呟く。最後に麦酒を飲んだのは、かれこれ三年前であった。律子に振られ傷心の私は、永井に誘われ二人で酒を飲みに行った。飲んだ麦酒がすべて涙となって流れてしまっているような気がしてなかなか酔えず、私は浴びるように麦酒を飲んだ。結果、私一人で生中八杯を飲み干し、酔いに酔い潰れ自分に酔い、律子の名を呼びながらわんわんと泣いた。そしてマーライオンもかくやと思われるほどに吐いた。それ以来、麦酒だけは飲んでこなかった。なんだかそのとき、しいては律子のことを思い出してしまいそうで、飲むに飲めなかった。
遠い昔に思いを馳せている私に痺れを切らしたのか、野村は勝手に安倍川を呼びつける。
「生中三つ」
「いやいや、俺とお前ともう一杯は誰が飲むのだ」
「永井くんが飲むのよ」
間髪入れずに告げられたその答えに、私は小さく「鬼だな」とこぼした。しかし私の心配をよそに、突っ伏した永井の右の親指が、力強く持ち上がった。
「矢神が飲むなら、俺も付き合うよ。せっかく来てくれたんだし、俺もがんばる」
「永井。気持ちは嬉しいが無理だけはするなよ。お前にはもうマーライオンなどになってほしくはないのだ」
今度は突っ伏したままの永井の、左の親指も上がった。
「永井」
「やっぱりあんた達ゲイでしょ。振られたショックで二人してそういう感じになっちゃたんでしょ」
 ガバッと、永井の顔が上がる。
「違う、俺は女が好きだ。今でもまだ、明日美のことが好きなんだ」
「俺も女が好きだ、だがもう律子のことはなんとも思っていない」
「わかったわかった、私が悪かったって。もう言わない」
 しばらくしてテーブルに生中が三つ運ばれてくる。
「こちら生中が三つになります」
 ネームプレートに「ミキコ」と書かれたかわいらしい女の店員は、にっこりと笑って去っていった。テーブルに残された麦酒が三つ。私は黄金色に輝くそれを、まじまじと見つめる。
「矢神乾杯まだでしょ。はい早くグラス持って。ほら永井くんも」
 野村はそう言いながら、永井の頭をつつく。まさに鬼の所業である。永井はのそりと起き上がりグラスを手にした。ここで突然、「俺は麦酒は飲みたくない」などと言い出すのはあまりにも無粋なので、私は仕方なく野村の言葉に従った。
「なにに乾杯するんだよ」
「んー、まぁ再会ってことで、かんぱーい」
 三つのグラスがかち合う、小気味良い音が鳴る。勢い良く飲み干す野村に負けじと、私もグラスに口をつけた。久し振りの麦酒に対する感想は苦いの一言であった。錆の味がする。昔はなぜこんな錆水を美味い美味いとありがたがっていたのだろうかと思いつつも、何とか一気に飲み干す。さすがに女に負けるわけにはいかない。
「やるね矢神。ほら、永井くんも早く」
 永井はなんとか三分の一を飲むも、そこでグラスをテーブルに置く。
「男の癖にだらしないなぁ。まだ二杯しか飲んでないでしょ」
 つまらない話を延々と聞かされたことを根に持っているのだろうか。根に持つほど嫌だったのならば、違う席に移ればよい話なのだが、なぜ彼女はここに居座っているのだろうか。
野村と奥村さんと律子は、親友であった。私が言うのもなんだが、永井は奥村さんにこっぴどい振られ方をした。私であったら、三河湾に身投げしているであろう。それなのに、永井はまだ奥村さんのことを諦めきれないでいる。ドのつくくらいの阿呆で、素直で、損をするくらい優しくて、どうしようもないほどに純粋で。まぁ、それ故に、私は今でも永井とだけは連絡を取り続けているのであるが。野村も、永井のそんな人間性を知ってか知らずか、はたまた奥村さんの親友としての責任か、放っておくことができなかったのであろう。
永井は突っ伏したまま、寝息を立て始めた。
「あれ、大丈夫かな」
「一杯で顔が真っ赤、二杯で明日美連呼、三杯で就寝、四杯飲んだらマーライオン。これがいつものパターンだ」
「じゃあ大丈夫だね。矢神はまだまだいけるでしょ」
「見くびるな」
 野村が店中に響き渡る声で、「生中二つ」と叫ぶと、どこか遠くの方から「あいよー」と、安倍川の声が返ってくる。そしてしばらくすると、ミキコさんがグラスを運んでくる。
 
遠い昔に、ある居酒屋の倅が言っていた。
「麦酒というものは、味を楽しむものじゃない、のど越しを楽しむものだ」
 その言葉を思い出した私は、どんどん麦酒を流し込んでいく。暖房とほろ酔いとで火照った体に、麦酒がすいすいと染み込んでいく。
「野村は今でも、奥村さんや武藤とは会うのか」
「なに、気になるの」
「いや、別に俺は」
 私はちらりと横で寝息を立てる永井を見やる。
「律子とはちょいちょい会ってるよ。でも最近仕事が忙しいらしくてなかなか」
 専門学校に二年通って、歯科衛生士の資格を取り、市内の細井歯科で働いている。私が律子のことで知っているのはここまでだ。
「最近の律子のこと、もっと知りたい」
「やめろ、酒がまずくなるわ」
「そうやって強がるのやめたらどうなの」
 むっと声を漏らしそうになったが、気合で次の話題に繋げる。
「奥村さんとは」
「明日美とは全然会ってない。明日美が去年大学辞めてからは、メールのやり取りだけで、直接は一度も」
「そうか。あの男とはまだ付き合っているのか」
「そうみたい。学校辞めたのもそれが原因みたいよ」
「なぜあんな男がいいのだ。絶対に永井のほうが奥村さんを幸せにしてあげられるはずなのに。なぁ永井」
 永井の寝息が返ってくる。
「なんか最近、明日美の悪いうわさをよく聞くんだけど、聞きたい」
「聞かない」
 私はきっぱりと断る。
「だよね。ほんと、明日美どうしちゃったんだろう」
「その奥村さんの近況というのは、永井には話したのか」
「言ってないけど」
「これからも言わないでおいてくれ」
「言うわけないよ。だって、誰も得しないもの」
「恩に着る」
「でも永井くん、知ってるっぽいんだよね」
 二人の視線が永井に集まる。永井は変わらず寝息を立てる。そんなときに現れる見知った顔、安藤であった。
「矢神、久し振りではないか」
 そう言って野村の横に腰掛ける。
「グラスが空ではないか、しょうがない、俺のをやろう」
 断るのも面倒だったので、一気に飲み干した。
「おぉ、なかなか。安倍川、生中二つ追加だ。野村さんも飲むか」
 野村は頷く。
「安倍川、生中三つだ、さっきのと合わせて、生中五つだ」
 遠くから安倍川の「あいよー」という声が聞こえる。
「なんで合わせてしまうんだよ」
「飲み比べだ、飲み比べ」
「お前高校の時からそんな風であったか」
「人は変わる生き物だ」
安藤とは高校時代、喧嘩に近い多くの議論を繰り広げてきた。そのほとんどは、お互いの女性観に対する考え方の差異から生じたものである。安藤は女性の貞操観念に対してものすごく厳格な考えを持っており、私がそれに対して、確かに一理あるが、それが全てではないと突っかかるところから始まる。こんな言い方は若干癪に障るのだが、喧嘩友達といったところであろうか。それ故に、昔のことを思い出し、飲み比べ対決はヒートアップしていった。
お互い、飲み比べ対決が五杯目に差し掛かった辺りであろうか、マイペースに飲んでいた野村が口を開く。
「安藤、彼女いるんだよ」
 私は驚きで、口に含んでいた麦酒を、正面の安藤に吹きかけてしまった。
「やったな矢神」
そう言って、安藤も同じように私に向かって麦酒を吹きかける。私の粗相が原因なわけであるし、私も三年経って大人になったので、やり返したりはしなかった。それより野村の言ったことが引っかかってそれどころではなかった。
「おい安藤、野村の言ったことは真実か」
「あぁ、真実だ」
「馬鹿な。阿呆みたいに処女処女言っていたお前に彼女など」
安藤はポケットから携帯電話を取り出し、一枚の画像を開き私の目の前に突き出した。
「名を、本条夏子という」
 安藤はそう自慢げに言って、麦酒を飲み干した。
「安倍川、次だー」
「馬鹿な、可愛いだと。そんな女が処女だったのか」
「矢神、先ほども申したがな、人は変わる生き物なのだよ。俺はもう、くだらない主義なんぞに囚われない、自分の気持ちに正直に生きることにしたのだ。そしてその先に見つけたのだ、真実の愛を」
安藤は受け取ったグラスをまた飲み干す。
「もうすぐ付き合って一年になる。それでささやかではあるが、祝いの席を設けようと思っている。場所はもちろん、ここ大花火で。矢神、貴様も来るか。安倍川次を持って来い」
「誰が行くか、そんな催し物」
 私も麦酒を飲み干す。
「安倍川、次だ」
いつの間にかギャラリーができていて、私たち二人の周りに円を描く。
「強がるのはよしたほうがいいぞ矢神」
「俺は、強がってなどいない」
 そう申したが、私の体はエマージェンシーであった。
「ところで貴様はどうなのだ。武藤さんと別れた後、ずっと独り身を続けているのか」
私はついカチンときてしまった。
「お前が一人彼女ができたと喜んでいるところ悪いがな、俺はあれから三人の女を抱いたぞ。一人一人名前を言っていっても構わんぞ。りさ、なつみ、えみ、律子を入れて四人だ」
安藤は、「数じゃないっ」と叫びながら、麦酒を飲み干す。飲み比べでまで負けてたまるかと、私はグラスに口をつけ、顎をぐいっとあげる。上がった視線の通り道、私は懐かしい姿を見た。
懐かしく、愛らしく、愛おしいシルエット。さっきの嘘を聞かれてしまったであろうか、いや彼女は私のことを知り尽くしている。すぐに嘘だと見破ってくれるであろう。すまない、少し見栄を張ってしまったのだ。りっちゃんと別れてから、私は誰とも付き合ってなどいない。りっちゃん、私は今でもお前のことが好きだ。
そして私は意識を失った。再会は短く、淡く、そして儚く終わった。

目が覚めた時には、日付が変わっていた。もうほとんどが家路に着き、隣では永井がテーブルに突っ伏して寝ていた。私はそばに置かれたウコン飲料を飲み干し、また眠りについた。

翌朝、安倍川の声で目が覚める。外はまだ暗い。
「もうすぐ始発だぞ」
永井はもう起きていた。
「矢神、昨日はなかなか羽目をはずしてくれたな」
 じんじんがんがん痛む頭をさすりながら、私は起き上がる。
「すまない」
「せっかくりっちゃん来たのに、本当にどうしようもねぇ奴だなぁ」
「そうか、やはり今際の際俺が見たのは律子であったか」
私は必死に昨日の出来事を思い出す。頭が痛み、それを邪魔する。
ぼんやりとする頭で、コートを羽織、マフラーを巻く。先日ふった香水の匂いは、もうどこかへ行ってしまっていて、酒と煙草のにおいが染み付いていた。
永井と二人、大花火を後にする。全てが地面に落ちてしまったかのように、静かな街。発した声を、街全体が耳を澄ませて聞いてくれる。
「俺、なんで来ようと思ったのか、思い出したよ」
「うん」
永井は静かに相槌を打つ。
「俺、律子のことが好きなんだ。でもそれは決して、もう一度やり直したいとかそんな無粋でわがままで、ほかほかの気持ちとかではないんだ。もう昔みたいな関係に戻ることができないのは重々承知しているよ。でも、今のような関係は嫌だったんだ。普通に他の奴らとしたみたいに、笑って、久し振りって、三年振りだなとか、そんなことを言える仲になりたかったんだ」
以前どこかで聞いた、人間は忘れることが出来るから生きていけるのだと。そして私は思う、本当に忘れなければ生きていけないようなことは、本当に忘れてしまっているのだと。私は律子との全てをしっかりと覚えている。初めて手を繋いだときのことも、初めて唇を重ねたときのことも、初めて体を合わせたときのことも、後背位が嫌いだと、暗闇の中切ない顔をしたあのときのことも、私の元を去っていったあの日のことも。私はそれらを乗り越えていけるからこそ、今しっかりと思い出すことが出来るのだろう。でも、今日はそれらがあまりにも鮮明に輝いて、私は堪えきれず泣いた。
永井は何も言わずただただ黙って頷いていた。東の空からじんわりと白んでいく。昨日のように朝が来る。
「またこのような機会があったら、もう一度行ってもいいかな」
 永井はその問いに、力強く頷いた。
 
                  

矜持

矜持

彼女は後背位が嫌いであった。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-12-03

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted