ゼロナナサンマル

私は敬虔な処女至上主義者である。

 私は敬虔な処女至上主義者である。そして勿論、清廉潔白な童貞である。童貞でないものに、処女を求める権利などない。
外食するときは必ずマイ箸を持参し、便を足すときは必ず和式を用いる。やむを得ず洋式便器で用を足さざるを得ないときは、便座から三センチほど腰を浮かせ用を足す。知らぬ輩の臀部が触れた便座に座るくらいなら、私は潔く下着に脱糞する覚悟だ。古本屋で本を買ったことはないし、古着など考えただけで虫唾が走る。
そんな私は、中部の地方都市にある大学に通っている。そこで同志を集め、行く行くは日本男児六千万を傘下に治めるであろう日本処女保存会を結成した。会員数は今のところ私を含めて二名、もちろん大学非公認である。
活動内容は、観察すべき対象の確保、及び観察、貞操に関する熱い談義を展開する、会報生娘の発行、貞操を食い散らす不届きな輩の粛清などなど、多岐にわたる。

じめじめとした空気に顔をしかめながら過ごす、六月の暮れ。平日ヒトハチサンマルの大花火は、やっと賑わいの予感を感じさせ始めていた。
私とキバヤシはこの大花火で、今日も侃々諤諤の論争を繰り広げていた。部室を持たない我々にとって、この居酒屋大花火こそが部室であるといっても過言ではない。
「キバヤシ、俺たちは間違っているのか」
「いいや、俺たちは正しい」
「ならば何故俺たちは未だに」
「みなまで言うな、分かっている。一時の好奇心や、溢れる情動に流され、むやみに童貞を捨て去ってしまうのは阿呆のすることだ。俺たちは阿呆か」
「否」
「そう、俺たちはそこいらにいる阿呆ではない。貞操の神はきっと見ておられる。貞操の神はきっと嘆いてらっしゃる、街角で配られるポケットティッシュが如く使い捨てられる現代の貞操に。それに待ったをかけるのが俺たちの役目ではないのか。そして行く行くは正して見せよう」
 そう言ってキバヤシは麦酒を飲み干した。
黄ばんだエアーコンディショナーから発せられる、除湿されきれていない生温い空気が私の髪を躍らせる。染み出た汗はなかなか大気に飛び出せず、私の首筋で戸惑っていた。キンキンに冷えた麦酒を流し込むことで、私は何とか平静を保っていられた。
「あんたたちまたやってるの、よく飽きないわね」
「うるさい。中古の言葉など俺たちの心には響かない」
 ミキコは、「阿呆らし」の捨て台詞と焼き鳥盛り合わせをテーブルに残し、厨房の奥へと消えて行った。「阿呆は貴様らだ」とキバヤシが声を張り上げると、ミキコは厨房からヒョコリと顔を出し、「黙れやらはた」と言い残しまた姿を消した。ちなみに「やらはた」とは、やらずのハタチの意であり、貞操を無為に捨ててしまった者が、未だ守り通している者に対して使う尊敬と嫉妬をはらんだ悲しき言葉、及び蔑称である。キバヤシは鼻をフンっと鳴らし煙草に火をつけた。

キバヤシについての紹介が遅れた。何を隠そうこのキバヤシという男、彼こそが我々日本処女保存会の会長である。ちなみに私は会計である。
私がキバヤシと出会ったのは、遡ること約二年、一回生の時だった。昼下がりの空き時間に、私は学内唯一の喫煙所で六月の生温い風に紫煙を泳がせていた。入学以前はキャンパス内の至る所に喫煙所があったらしいのだが、時代の流れというのかそんなものに押しやられ、数を減らし、私が入学した時には校内の最果て、雑木林の傍らに一つポツンと残るだけになっていた。しかも、その雑木林のどこかにアシナガバチが住み着いているらしく、暴力的な羽音に身を小さくしながら煙を吐かされているのが現状であった。
 そんな人気もまばらな場所に、わらわらと突然十数名の男たちがやってきた。なにやら野太い声で言い合いをしている。野次馬魂に火がついた私は、煙草の始末も疎かに、人だかりのほうへと歩を進めた。人の輪の中心には、肩にかかる長い髪を、茶色く染めた脳みその軽そうな男と、それとは対照的に黒々としたショートカット、凛々しい眉を持つ男の二人が立っていた。状況もつかめぬまま、爪先立ちで知らぬ男の肩から顔を出し眺めていると、黒髪の方が一歩二歩三歩四歩と、私のほうに向かって後退してきた。背中が大きくなっていく。白いTシャツが模るシルエットは、その眉に負けぬほど凛々しかった。黒髪は私たちギャラリーの一メートル程手前で足を止めた。人だかりがざわめいた。
「貴様は」
 黒髪が突然そう怒鳴ると、ざわつきはぴたりとやんだ。
「一体」
 黒髪は言葉を続け、茶色髪に向かって力強く駆け出した。またギャラリーがざわつきを取り戻しだす。
「処女を何だと思っている」
 黒髪はそう叫ぶと、地面を蹴り宙に浮いた。空中でピンと伸び、地面と水平な棒と化す。揃えた両の靴底が、茶色髪の胸の辺りをさながら煩悩を打ち砕く撞木の如く打つ。茶色髪の口から、「うっ」と言葉にならないうめき声が漏れた。ギャラリーまで吹き飛ぶ茶色髪、地面に腹から落下する黒髪。茶色髪はギャラリーに受け止められる。人だかりの輪が黒髪を中心に狭まり、十数人が地面に落ちた黒髪を罵声とともに踏んづけだした。しばらくすると気が済んだのか、ギャラリーは去っていった。私は地面に横たわったままの黒髪に近付き、手を差し出した。
「なんと無鉄砲な奴だ、だが実に見事だった。あんなにダイナミックなドロップキックを俺は見たことが無い。お前名前は何という」
「キバヤシ。木に林でキバヤシだ」
 そう答え、キバヤシは頬の砂を払い、私の手を掴み立ち上がった。
「お前は」
「俺は安藤だ」
 これが私とキバヤシのファーストコンタクトである。
事の顛末を聞いてみると、キバヤシの思い人であったミキコの処女膜を、公衆便所に転がるトイレットペーパーが如く破り捨てたあの男を許せなかったらしい。私はまた感動した。私と同じ、いやそれ以上の情熱を貞操にかける男の存在に。日本処女保存会を発足するのに、そう時間はかからなかった。

そして場面を大花火に戻す。
ミキコによって空のジョッキがさげられ、新しいジョッキがテーブルに置かれる。
「あんな男に処女膜を破られる女に、俺はもう興味はないよ」
 ミキコの後姿を眺める私に対し、キバヤシは焼き鳥の串で、歯の間に挟まった肉片をほじくりながら呟いた。そんなことを言いながらも、結成当時、大花火を部室兼飲み所にしようと言い出したのは、何を隠そうキバヤシである。そのことをほじくりかえしてやろうと思ったのだが、先に口を開いたのはキバヤシであった。
「ところで安藤、本条さんのほうはどうなっている」
 本条さんとは、我々と同じ大学に通う一回生だ。
「貴様、惚れているのだろ」
「何を言う、本条さんはあくまでも観察対象だ。そういった気持ちは微塵も無い」
 私は麦酒を半分まで飲み干した。
あれは、新緑薫る四月の候だった。学内で初めて本条さんを見かけた私は、処女だけが漂わせられるであろう見事な気品、滑らかに揺れる、背の中ほどまで伸びた黒い髪に目を奪われた。
彼女が文学部に在籍しているということをなんとか調べ上げ、寝る間も惜しんで様々な講義に忍び込んだ。そして日本近代文学史の講義で、彼女の姿を見つけた日から、私は単位にもならず、興味も無いのに、日本近代文学史の受講生となった。毎週本条さんの近くの席に陣取り、二十年間鍛え上げた地獄耳を思う存分発揮して、本条さんとご学友の会話に聞き耳を乱立させた。
そこで私は本条さんの様々な情報を手に入れた。穏やかで柔らかい鹿児島弁を話すこと、実家ではクリーム色のゴールデンレトリーバーを二頭飼っていること、オムライスが得意料理だということ、武者小路実篤が好きな、心の優しい女性であるということ、そして今まで男性とお付き合いしたことが無いということ。
本条さんは正式に私の観察の対象となった。
「我々日本処女保存会の数ある目的の中には、童貞と処女による、真の初体験の完成も含まれている。完成させてみたくはないか、真の初体験を」
「そんなもの、お前が勝手に決めたのだろう。俺の理想とは違う」
 私の理想とは一体何なのだろうかと思いながらも、私はそれを麦酒の残りとともに飲み干した。
「まあ良い。ところで次の議題なのだが、向井の行動がまた活性化しつつあるらしい」
 向井とは、一回生の時にキバヤシがドロップキックをお見舞いした相手である。破った処女膜の数がステータスだと思っている、男の風上にも置けない奴なのだ。
「うむ、また厄介なことになったな」
「あぁ、学内の処女たちに危機が近付いている」
「またお前がドロップキックをお見舞いしてやれば良いだろう」
「まだ何もしていない状態でいきなりドロップキックは、さすがの俺でも憚られる」
「だが、事が起こってからでは遅いのだ」
 キバヤシは難しい顔をして腕を組み、「うむ」と漏らした。
「ならお前がやれば良い。今回向井のリストには、本条さんの名前も入っているそうだ」
 私は眉間にしわを寄せた。荒いサンドペーパーで心臓の内側を撫でられるような感覚に襲われた。自慢ではないがこの日本処女保存会、なかなかの穏健派である。暴力を用いて粛清に打って出たのはキバヤシと向井の一件だけである。しかもその一件も発足以前の出来事なので、正確に言うなれば、日本処女保存会が粛清した悪党の数はゼロである。毎度毎度誰々の処女膜が危ないと喚くが、結局何も出来ず、どこぞやの馬の骨に破られるのを、指をくわえて見ているだけなのである。仕舞いにはあんな男に処女膜を破られる女はこちらから願い下げだなどと言い出し、次の観察対象を探し出すのである。
「分かった、観察レベルを最大のレベルファイブに引き上げることにする」
 私は煙草に火をつけながらそう答えた。
「それが賢明だろう」
 キバヤシも煙草に火をつけた。
「ところでお前、次の観察対象は見つけたのか」
「いいや、まだだ」
 そう答え、キバヤシは目を細め煙草を一口吸った。
「早く見つけろ、そして保存会としての任務をしっかりと全うしろ」
「なんかな、情けないが怖くなってしまったのだ」
大きく煙を吹き、キバヤシはそう言った。そこにミキコが注文を聞きにやってきた。私は「生中二つ」と答え、ミキコをそそくさと厨房に帰した。
「なに馬鹿なことを言っているのだ。早くそのジョッキを空にしろ、次が来るぞ」
「あぁ、すまない」
 キバヤシはそう言い終えると、ジョッキを空にした。

 七月に入り、梅雨の終わりがやっと見え出してきた。依然本条さんに変わりは無かった。
 日本近代文学史の講義も残すところ後二回となってしまった。私は残りわずかな講義の、その一回一回を大切にしようと心に決め、教室のドアを開けた。足を踏み入れ、教室内を見渡しすぐさま、私は異変に気付いた。無遅刻無欠席、いつも講義開始の五分前には必ず席に着き、ご学友たちと談笑している優良生徒である本条さんの姿が見当たらないのだ。妙な胸騒ぎを覚えつつも、珍しいこともあるものだと私はなんとかそれを楽観的に捉え、教室の後方に陣取った。
 席は次第に埋まっていく。マルキュウマルマル、教室前方のドアから、白髪の混じった初老の男性が入室し、講義は粛々と始まった。しかし本条さんはなおも姿を現さなかった。観察対象もいないし、単位にもならない、私は帰ろうか迷ったが、もう少し待ってみることにした。しかしあまりにも手持ち無沙汰なので、四方手を尽くして調達した、秋学期の文学部の時間割表を引きずり出し、本条さんが受けそうな講義の目星を付けていた。
 講義開始から四十分程たった頃であろうか。私は時間割にも見飽きてしまい、机に突っ伏し言い知れぬ不安にじりじりと胸を焦がしていた。突然、教室後方のドアから物音がした。数人の学生が開いたドアに目をやる、私もその一人であった。現れたのは、申し訳なさそうに小さくなり入室する本条さんであった。私はすぐさま視線を戻す。そして彼女はあろうことか、ドアから最短距離である私の隣に腰掛けた。良い匂いがした。
 隠し切れぬ動揺に胸が高鳴る。首を動かすことも出来ず、なにやら達筆な白い文字の書かれた黒板を見つめ続けた。どれくらいたったのであろうか、なんとか平静を取り戻しつつある私は、今がまたとない好機であることに気付いた。
 私は勇気を振り絞り、鞄の中から買ったばかりの小説を取り出した。武者小路実篤の「愛と死」であった。本を読む体を装いつつ、視界の端で本条さんの姿を捕らえる。気が付くと十分ばかしがたっていた。本条さんは一度もこちらを振り向かず、ページは一つも進んでいない。変な気を起こした自分を戒め、真剣に本を読んでみることにした。
読書不精である私でさえも、武者小路氏の柔らかく温かな文体は、私を活字の世界へと引き込んでいった。中盤に差し掛かる辺りでは、私は村岡となっており、夏子に心底惹かれていた。
気が付くと講義は終わっていた。室内は喧騒を取り戻し、学生たちはぞろぞろと教室を後にする。私は本を閉じ、教室を出る準備をした。その時である、私は不意に話しかけられたのだ。
「武者小路実篤、お好きなんですか」
 必死に標準語を話そうとしているのだが、イントネーションが不確かで、どこか鹿児島訛りを隠しきれない穏やかで柔らかな話し方。
「えっ、いや、あぁ」
「私も好きなんです」
 そういって微笑む本条さんを見て、私は言葉を失ってしまった。
「ちょっと恥ずかしいんですけど、私、下の名前夏子っていうんです。お父さんとお母さんも武者小路が好きで」
 私は何も言えず、ただただ頷いていた。
「私夏生まれだし、小説の中の夏子さんとても可愛らしい人で憧れるんですけど、最後死んじゃうからどうかなって思ったりもするんです」
 私は驚いた。題名から誰かが死んでしまうのではないかと予想はしていたのだが、やはり驚いた。そんな私の表情を見て、本条さんは続けた。
「あっ、ごめんなさい、まだ最後まで読んでなかったですか」
「いや、大丈夫だ。大方予想は付いていた。君のおかげで覚悟が出来た。礼を言うよ」
私は許した。許さぬわけが無い。このひどく可愛らしい、申し訳なさそうな顔を前に、許さぬ奴はきっと餓鬼畜生の類だ。
私の言葉に本条さんの笑顔がパッと咲いた。
「私本条です、本条夏子です。よろしかったらお名前聞いても大丈夫ですか」
 「知っている」と言いそうになったが、何とか堪えた。「村岡です。奇遇ですね、きっとこれは運命ではないだろうか」と言いそうになったが、何とか堪えた。
「安藤だ」
「安藤さんですね、ちゃんと覚えました」
 本条さんに名前を覚えられてしまった私は、舞い上がって、その後いろいろな話をした。ほとんどすでに知っていることなのだが、やはり本人の口から直接聞けるとなると、妙に感慨深かった。
 去り際、私が正直に武者小路は最近読み始めたばかりだと言うと、来週おすすめを持ってきてくれると彼女は言った。
 だが、その夢のような来週は、残念ながら来ることはなかった。
 本条さんのいない最後の日本近代文学史を受け、とぼとぼと家路についていた私の携帯が鳴った。キバヤシだった。「ヒトキュウマルマル、大花火」それだけ言い残すと、電話は切れた。約束の時間までまだしばらくあったので、私は書店に寄った。今度本条さんと会ったときのために、武者小路氏の著書を買って予習をしようと思ったのだが、結局何も買わず書店を後にした。

 まだまだ明るい、七月のヒトキュウマルマル。大花火の引き戸をがらがらと開けると、キバヤシはすでにそこにいた。難しい顔で腕を組み胡坐をかいている。隣にはミキコがしゃがんでなにやら話をしていたが、私が近付くと厨房へと消えていった。
「きたか安藤、まあ座れ」
 私は薄っぺらな座布団に腰を下ろす。ミキコがお絞りを運んでくる。キバヤシは私に「生中でいいか」と尋ね、私は頷いた。まだ人もまばらな店内で、二人して黙って煙草を吸った。
 こつんと二つの音がして、ミキコの手によってジョッキがテーブルに置かれた。「まあ飲め」とキバヤシに勧められ、私はグビリと一口飲んだ。美味くもない、冷たさも感じない、苦さすら感じなかった。二人して黙ったまま、ちびちびと麦酒を舐めた。
「安藤、言いにくいことだが、お前には言っておかなくてはならない」
「なんだよ」
 私は消えゆく麦酒の泡を、ぼーっと見つめていた。
「向井がまたやったらしい」
「誰を」
 私は強がってしまった。
「まだ未確定だが、今ある情報から言うと、本条さんだ」
一瞬の沈黙の後、私は「そうか」と答えた。
若干の異変は感じていた。だが見てみぬ振りをしていた。今回は違う、そんな根拠のない淡い期待を抱き、楽観的になりすぎていた。これまで歩んできた二十余年の人生を振り返ってみれば、自分がそういった星の元に生まれてしまったということは目を背けることの出来ない事実であったのに。
そうわかっていたのに、そうわかっていたのなら、近付こうだなんて思わなければよかった。こんな思いをするのなら、今までと同じでただの観察者に留めておけばよかった。
抑えきれない幼い恋心を抱いてしまった自分を恨んでみたが、ただただ自分を傷つけるだけであった。胸の痛みは強くなるだけであったし、癒えるものなど何もなかった。涙を溢したところで、どうにもならない気がした。
諦めにも似た感情を抱きながらも、あいも変わらず胸はきりきりと痛んだ。
「安藤、そう気を落とすな。まだ未確定な情報なのだぞ」
 妙な気を使わせてしまい、キバヤシには申し訳の無いことをしているのも分かっていた。でもどうしても気丈には振舞えなかった。
 そんな私を励ますため、キバヤシは声を荒げた。
「安藤、飲めっ。お前の気持ちはこの身がちぎれるほどによくわかる。かつて俺もそうだった。だから分かる。だから今どうすれば良いのかも良く分かる。今は飲め。細かいことは後から考えれば良い。今だけは忘れろ。飲んで全部忘れろ。飲んで涸れるまで泣け。俺が許す」
 私は、キバヤシの前ならば、キバヤシの前だけならば、泣いても良いような気がした。
 そしてその後、我々は二人でジョッキ十四杯、日本酒三合を空にした。

 学生たちの心は、まるでそれが自然の摂理であるかのように、目前に控えた夏休みという名の桃源郷に向かって吸い込まれていく。学期末試験という名の濁流に荒れる困難など、西瓜にかける塩であるかのように、喜んで受け入れているようでもあった。
 私は無心で試験を消化していく。余計なことの付け入る隙を与えぬよう、脳内を答案でぎちぎちにし、下宿とキャンパスを往復する日々。
 しかし、残りの試験が少なくなるにつれ、空いてしまった脳内の空白に、雑念は容赦なく襲い掛かった。あの日アルコールとともに醒ましたはずの感情が、いやらしく胸を締め付ける。手からぶら下げる、「愛と死」を入れたままの鞄が、日に日に重くなっていくように感じた。
 試験も折り返しを迎えた日のことだった。イチマルサンマル、前後に揺らす手の甲に落ちた雫に、私は空を仰いだ。鈍色の空が、私の右の頬を濡らした。正面を向くと、頬に落ちた雫がつーっと垂れていく。私はすぐさま手で拭い、指紋を埋める雨粒を、シャツの裾に染み込ませた。台風八号が近付いていると、朝のニュースで見たのを思い出した。
 ふと視線を戻したその先に、私は見つけたくなかった後姿を発見してしまった。ちらりと見えた横顔は、やはり本条さんであった。
姿かたちはあいも変わらず美しく、私の知っている本条さんのままであった。しかし彼女にもう処女膜はない。その事実を、眉間にしわを寄せ受け入れる。もう終わったのだと自分に言い聞かせるのだが、彼女の可憐な後姿から目を離すことは出来なかった。
 彼女との縁はもう切れたのだ。私は日本の処女を見守る会の一員として、処女である本条さんを見守ってきた。私と彼女の関係は、ただそれだけのものなのだ。彼女の処女膜が失われたのならばそれまで、今までの元観察対象者たちと同じように、売女と罵り次の対象に移れば良いだけなのだ。だが、なぜかそれが出来なかった。
 雨は音を立て始め、アスファルトに無数の小さな濃い紺色の染みを付けていく。周りを行き交っていた学生たちは、駆け足で校舎の中へと消えていく。私は立ち止まったまま、本条さんと私との間にぽっかりと口をあける虚空を見つめていた。
 本条さんは振り返り、空を見上げる。私は咄嗟に俯き顔を隠した。顔を上げたときには、もう本条さんの姿は見当たらなかった。私もまた歩を進め始める。雨はますます強くなっていく。
 必死にかき消そうとしても、消えることはなかった。彼女が私に向けてくれた笑顔、話しかけてくれた優しい声、笑うたびにふうわりと揺れる黒い髪。それらは、処女膜がなくなってもなお、消えることはなかった。いや、それらは前にも増して、心の内から強く叩いた。「出してくれ」、そんな風に叫んでいるようにも思えた。
嵌ることのないように細心の注意を払っていた泥濘に、足を取られずぶずぶと沈んでいくのを実感していた。だが心のどこかで、それが心地良いと感じている自分がいた。

 学期末試験最終日、微睡みと覚醒の波に揺られていた私に、キバヤシからの着信が入った。
「ゼロロクマルマル、駅前」
 薄らみ始めたゼロゴーサンマル、起床。私は顔を洗い、出かける準備をした。
 アスファルトは、昨日まで猛威を振るっていた八号に濃く染められていたが、駅前に向け歩いていくうちに、久し振りに顔を出した太陽に、その色を少しずつ薄められていった。
ロータリーを縁取る、消えた街灯の下で、キバヤシは煙草をふかしていた。
「覚悟は出来たのか」
「ああ、お前のおかげだ」
 キバヤシは少し黙り、煙草の火を消した。私は大きく深呼吸をした。キバヤシの吸った煙草の残り香がした。
「安藤」
「なんだ」
「本条さんにはもう、処女膜は無い」
「そうか」
「気にするな、これが初めてじゃないだろ」
「うむ」
 世知辛い世の中になったものだ。私は煙草に火をつけ、朝の澄んだ空気を汚す。
「安藤、もう一つ話がある」
「なんだ、もう俺は何を言われても驚きはしないぞ」
「俺はもう、童貞じゃない」
 そう言ってキバヤシは笑った。
「お前どういう」
「最後まで聞け」
 私はキバヤシの話を最後まで聞くことにした。キバヤシが無為に童貞を捨てるはずなどあるわけがないのだから。
「俺は昨日、ミキコと寝た。あんなことを言ってはいたが、本当はミキコのことがずっと好きだったんだ」
 真っ赤な乗用車が一台、通り過ぎていった。
「それで事が済んだあと、改めて接吻をしたんだ。笑ってしまう話なのだが、この唇で他の男ともこういうことをしたのだななどと考えたら、何故だか目から汁が溢れたよ」
 キバヤシはまた笑った。
「そしたらあいつ、どうしたと思う」
 私は答えられなかった。
「あいつまで泣き出してさ、謝られたよ」
 キバヤシはそう言って空を仰いだ。私もつられて仰いだ。空はどうしようもないほど高く、青かった。そのままキバヤシは続けた。
「でも、俺はミキコのことが変わらず好きだ。泣かされても泣かしてしまっても、悲しいがあいも変わらず好きなのだ。膜の一枚や二枚、そんなものが無いからといって、愛せないなんてことは決してないんだ」
 私もキバヤシも、空の高さと青さに救われていた。なんとかいつも通りの声を絞り出して、「晴れて良かったな」と言うと、キバヤシも私と同じように声を絞り出し、「うむ、どんよりは全て八号が連れて行ってくれたようだな」と答え、二人してしばらく夏の空模様を見つめていた。
「安藤、もう止めよう。このままではお前も俺も傷ついていくばかりだ。主義なんてもう流行らないんだよ。くだらない主義なんて捨ててしまおう。俺も捨ててやるから、一緒に捨ててしまおう。意固地になっても馬鹿を見るだけだ」
 キバヤシは私の顔も見ずにそう語る。私も空を仰いだままそれを聞いた。
初めて会ったときから、キバヤシは私にとってのヒーローだった。凛々しくて、男前で、真っ直ぐで。そんなキバヤシが、私の為にマスクをとった。
 しばらく二人して黙ったあと、私は「そうだな」と呟いた。そして私は続けた。
「日本処女保存会、解散だな」
 キバヤシは、「おう」と答え微笑んだ。
「だが、俺には解散する前にどうしてもやっておかなくてはならないことがある。俺なりの、いや、消え行く日本処女保存会最後のけじめだ。お前だってだからこそ今日、俺をここに呼んだのであろう」
「当たり前だ。このまま引き下がっていたら絶交してやろうかと思っていたよ。だが、杞憂だったようだな」
 そして俺たちは他愛も無い話をして、一時間ほど時間を潰した。日本処女保存会会長と、日本処女保存会会計としてではなく、ただの二人の男として、久し振りに、いや、初めてキバヤシと話をしたような気がした。
 そして待ちに待ったゼロナナサンマル。彼奴の行動はこの一週間ですでにリサーチ済みである。私は改札から頭が悪そうに出てくる茶色髪を視認した。そして私は走り出す。
「待っていたぞ」
 溢れる通勤、通学ラッシュの人波を気にもとめず私は叫び、そしてさらに駆ける。
「向井、貴様」
 私はそう吼え、地面を力強く蹴った。

ゼロナナサンマル

ゼロナナサンマル

敬虔な処女至上主義者である大学生の安藤は、同じ思想を持ったキバヤシとともに 大学非公式団体「日本処女保存会」を発足した。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-12-03

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