ヒカリ
一
彼が入ってくると、空気が変わった。
自動扉が開くと、外の熱気が冷えた待合室に流れ込む。受付でキーボードに患者のデータを入力していた奈々子は、気配を感じて目を上げた。馴染みの製薬会社の営業さんが、額の汗を拭いながら頭を下げて入って来る。そして、彼が入って来た。
隣にいた珠美も息をのんだ。奈々子は思わず立ち上がり、つられて珠美も立ち上がった。
「おはようございます」汗をかいた林さんが、受付で再度頭を下げた。奈々子も林さんの背後に立つ彼を気にしつつ「おはようございます」と頭を下げた。
「あついですね」林さんは半袖ワイシャツの胸ポケットから白いハンカチを取り出し、にこにこしながら額の汗を拭き取った。
「ええ、本当に。おつかれさまです」奈々子は言った。
「先生、いまちょっとお時間ありますか? 引き継ぎのご挨拶をさせていただきたいんで」林さんは背後の男性に目をやりながら訊ねた。
奈々子は、待合室の子供を連れた二人の母親を確認してから「少しお待ちください」と伝える。
ちらりと珠美の方をみると、背後の彼に釘付けになっているようで、身動き一つせず口を開けている。奈々子は席を立つと、後方のドアから診察室の方へと入っていた。
「先生、よろしいですか?」
「何?」かず子先生が、診察台に寝転ぶ子供のお腹を押しながら、顔を上げた。
「吉田製薬の林さんが、引き継ぎのご挨拶をしたいとおっしゃって、いらっしゃってるんですが」
「待合室には何人?」
「あと二組いらっしゃいます」
「じゃあ、その方達が終わったらお会いするから、お待ちいただいて」
「わかりました」
奈々子は診察室を通り、待合室に抜ける。窓際の茶色いソファに、二人は腰掛けていた。窓からの光の帯に、埃が舞っている。奈々子が近づくと、二人は立ち上がる。奈々子は「あと十五分ほどお待ちいただけますか? 今いらっしゃっている患者さんの診察が終わってからなら、お会いできると申しておりますが」と訊ねた。
「わかりました、お待ちしています」林さんは笑顔でそう答えると、二人で再びソファに腰掛けた。奈々子は受付のスライド扉を開け、定位置に座る。隣を見ると珠美がしゃべりたそうな顔をしている。奈々子は「今はまずいよ」という顔をして、珠美を制した。
待合室を見渡すと、案の定、熱でぐったりしている子供を抱えた母親たちも、驚いたようにその彼を見ていた。林さんは気まずそうに小声で彼に話しかける。彼は顔色一つ変えず、静かに頷いていた。
艶のある黒髪。ととのった眉。くっきりとした二重の目。長いまつげ。
これほどまでに美しい男性を、奈々子は見たことがなかった。
あまりにじろじろ見るのも失礼かと、意識して目を逸らすものの、やはりそちらを見てしまう。珠美も仕事が手につかぬようで、そわそわしていた。
やがて患者さんの診療が一段落し、奈々子は二人を診察室に促した。
「ねえっ」珠美が声をひそめて話しかけてきた。「信じらんないよ、何あの顔?」
奈々子は指を口にあてて「言いたいことはわかるけど、あとで話そうよ。聞こえちゃうって」と返した。珠美は不服そうに頬を膨らめたが、素直にカルテの整理へと戻って行った。
しばらくして、診察室から林さんと彼が出て来た。
「ありがとうございました」林さんは受付で頭をさげた。
珠美が「林さんは担当を変わられるのですか?」と訊ねる。
「はい。かず子先生のところは、こいつに任せようかと思いまして」林さんが彼を紹介するように、前へ促した。「須賀結城です。よろしくお願いします」
一歩前に出た彼は、名刺を差し出した。
なんて、きれいな指。
奈々子は名刺を受け取る自分の指を見て、その落差に自分で驚いた。
珠美も名刺を受け取る。こみ上げる歓びを止められないのか、彼女のふっくらした両手で大事そうに名刺を包み込んだ。
「それでは失礼いたします。また来週に」林さんはそう言うと、彼と二人頭を下げた。
自動扉が開く。熱気が流れ込む。
そして彼は出て行った。
自動扉が閉ると、とたんに現実に引き戻される。年月を重ねて艶の出た板張りの床と、革張りの、これもまた古びた茶色のソファアが三脚。子供達のためのおもちゃや絵本が、窓際に並べられている。大きな扇風機が左端に置かれ、待合室の中の空気をゆっくりと循環させている。
「やばいよ」珠美がつぶやいた。
「びっくりした」奈々子も答えた。
珠美は手元に残る白い名刺を見つめ「週に二度、この人くるんだよね」と言う。
「うん」奈々子はうなずいた。
「ラッキーすぎる。神様ありがとう」珠美は大げさに上を見上げた。
時計を見ると、そろそろ午前の診察時間も終了になる頃だ。このまま誰も来なければ、お昼ご飯に出られる。珠美はビニールの回転椅子に座ると、早くもお昼に出る用意をし始めた。
奈々子がちらりと診察室の方を伺うと、何やら話し声が聞こえる。奈々子は身を乗り出して、診察室をのぞいた。
かず子先生と二人の看護士が、何とも言えない幸せそうな顔をして話している。奈々子は珠美の腕を少し引っ張り、注意を促した。二人で診察室に顔をのぞかせる。
かず子先生が気づいて、笑顔を見せた。「イケメンだったねー」
「もう、心臓がどきどきしちゃって」珠美が大きな声で返した。
八田看護士が大きな胸を揺らしながら「写真とってくださいって言いたくなっちゃったよ」と笑った。もう一人の鈴木看護士も「あの人、前は芸能人かなんかなの?」と興味しんしんで言った。
「でも、芸能人でもあれほどの顔の人、いないと思いません? なんていうか、オーラが違うっていうか……」珠美が答える。
かず子先生がちらりと時計を見て「お昼休みはいろっか」と言った。
「じゃあ、締めてきますね」奈々子は早速玄関に「午後の診察は三時からです」という看板をかけた。
診察室に戻ると、まだみんな先ほどの人物について、興奮ぎみにおしゃべりをしていた。
昔ながらの診療所。かず子先生は六十半ばのおばあちゃん先生で、いつもおおらかでゆったりとしている。肩までのパーマをかけた髪は、白髪まじりだ。奈々子はこの先生がとても好きだった。かず子先生は白衣を脱ぐと椅子にかけ「上でごはん食べてくるから、みんなもごはんいってらっしゃい」と言った。
「はい」残りの四人は一斉に返事をした。かず子先生はその様子にちょっと笑って、診察室脇の扉から外に出て行った。この診療所の二階に自宅があり、先生はかならずそこで食事をした。
「わたしお弁当持って来ちゃったから、ここでごはんかな」鈴木看護士が言った。彼女は一児の母で、三十代半ば。メイクをしなくても、彼女の肌はつやつやで、切れ長の目が印象的だ。長い髪をまとめて、ナース帽をかぶっている。
「みんなでお弁当を買って来て、ここでごはんにしちゃおうか」八田看護士が言った。彼女は大学付属病院でキャリアを積んだ後、この診療所に来た。五十手前のかっぷくのいい女性だ。まんまるの眼鏡をかけていて、いつも笑っている。
「いいですね。そうしましょうよ」珠美がぱちんと手を叩いた。彼女は奈々子をみて「いいよね」と問いかける。
奈々子は「もちろん」と答えた。
医療事務の珠美は、奈々子と同じで二十六歳。二年前にこの診療所に来た。明るくて周りを華やかにする。背は小さく、まんまるな印象。彼女はいつも「ダイエットしなくちゃ」と言っているが、今まで成功したためしはない。
奈々子はこの職場が大好きだ。この職場に出会えて、本当によかったと毎日思っている。すべてかず子先生の人柄のなせる技だ。
早速三人はお弁当を買いに出る。診療所の目の前に和菓子とおにぎりを売っているお店があるので、そこでみんな買い物を済ませた。買い物をしている間も、興奮さめやらぬ、と言った感じだ。
手に手にレジ袋を下げて、急いで診療所に戻る。
診察室の奥に、小さな休憩室があった。六畳ほどの部屋に丸いテーブルが出ている。お弁当を持って来ていた鈴木さんが、すでに部屋に冷房を入れておいてくれていた。ロッカーと小さなテーブル、簡単なキッチンしかない、殺風景な部屋だったが、みんなはここでおしゃべりするのが好きだった。
「あと十歳若ければなあ」鈴木さんがお弁当を広げながら口を尖らせた。
「何言ってるんですか。子供までいて」珠美が笑顔で返す。
八田さんが「がはは」と大きな口をあけて笑い「わたしもあと十歳若ければ」と言う。
「え? 十歳?」珠美が言うと「そうそう、十歳」と八田さんは返した。「だけどこの歳になって、こんなに男のことでわくわくするなんて、新鮮だね」
食事をしながら、話が尽きることはない。
「あの人、本当になんで営業マンしてるんでしょう」奈々子は言った。
「芸能界に入ったけど、向いていなかったとか?」珠美が言う。
「見たことある?」と鈴木さん。
みんなが一斉に首を振る。
「でもあんなに目立つなら、絶対声かかるでしょう?」珠美が言った。「調べてみましょうか」
珠美はスマホを取り出し、ネット検索画面を出す。
「須賀結城だよ」八田さんがポケットから名刺を取り出して、珠美に見せる。
珠美はしばらくスマホをいじり、それから「あー」と声を出した。
「何なに? やっぱり芸能界にいた?」鈴木さんが身を乗り出した。
「いえ、違いますね」珠美は目をこらしてスマホの画面を見ている。「でも目立つから、なんかすっごい検索引っかかってる」
「ええ?」奈々子は珠美の画面をのぞきこんだ。
「ほら、みて。この人とか、もう軽くストーカーじゃない? ブログ立ち上げて、タレントの近況を調べるみたいに、細かく報告してる」
「見せてみせて」鈴木さんが席を立って、珠美の背後に回り込んだ。「ああ、ほんとだ。これはスゴイ」
「なんて書いてある?」八田さんがおにぎりをほおばりながら訊ねた。
「えっとですね。今二十七歳で、彼女なし」
「おお、彼女なし、重要データ!」
「うわあ、どうやってこんなこと調べるんだろう」珠美がつぶやく。「千葉県の地元の小学校、中学校、高校を卒業した後、一浪して早稲田大学に入学」
「早稲田! 頭イイ!」
「大学院に進んで、吉田製薬に入社。あ、大学時代、やっぱりちょっとモデルみたいなことしてますね」
「へえー」
「ほら、ここ、画像がのってる」珠美がスマホを持ち上げて、みんなに見せて回る。
「ほんとだ。すっごいきれいじゃない」八田さんが声をあげた。
「なんでモデルを続けないの?」鈴木さんが首をかしげた。
「えっと……。それは書いてないな。でも営業職についたのは不本意らしくて。本当は研究開発部に行きたかったけど、顔が災いして営業に廻されたらしい、って書いてある」
「顔が災い!」四人で顔を見合わせる。「うける、それー」珠美が叫んだ。
「今は目黒のマンションに、幼なじみの男性と二人で暮らしてるって」
「住所もばれてるの?」
「やばいね、このブログの子」鈴木さんが眉をしかめる。「一般人をここまで調べるって、やっぱりストーカーだよ」
「でも、こんなの、いっぱいいますよ。ほら」珠美がスマホを掲げる。「検索結果がすごいことになってる」
「うわ、目撃情報とか出てる。写真ばんばん撮られてるじゃない」
「画像検索でも出てきますよ。すごいな……。そのうちこの近辺でも撮られるんじゃないですか?」奈々子は言った。
「うちの診療所も有名になっちゃうな。ああ、それでか。林さんが担当はずれたの。うちは女だらけだから、この須賀さんを担当にしたら、そりゃもう会社は安心だもんね」八田さんが言う。
「ですね。私、吉田製薬さんひいきにしたくなっちゃう」珠美が目を輝かせて言った。
「早く須賀さんに来てほしいな。今度は写真とってもらっちゃおう」八田さんは最後の一口を飲み込んでから、そう言った。
二
拓海は目を開けた。
やわらかい風が腕にあたる。いったり、きたり。
あ、扇風機だ。
拓海は身体を横に向けた。
視線の先に姿見がある。白いシーツの中に自分がいた。むき出しの腕が見える。
あれ、ここどこだろう。
拓海は顔を動かして、部屋を見回した。薄い緑のレースカーテン。太陽の光が透けている。その横にシンプルな化粧台。姿見。コートハンガーには、クリーム色のカーディガンがかかっている。
視線を床に移すと、脱ぎ捨てられた自分のブルーのシャツに黒いデニム。
それから、下着。
拓海ははっとして起き上がる。シーツをめくって確認した。
はいてない。
拓海が慌てて振り返ると、女の子が寝ていた。
柔らかなウェーブヘア。壁を向いて、丸くなっている。細い肩が呼吸とともに動いている。
だ、誰?
拓海は彼女を起こさないように、そっと顔を覗き込んだ。
ゆき先生だ!
拓海の気配に気づいたのか、ゆきは目を開けた。拓海と目が合う。
「おはようございます」ゆきが言った。
「あ、おはよう……ございます」拓海はつられてそう答えた。
ゆきが身体を起こした。シーツをひっぱりあげて、胸元を隠す。大きな目で拓海をみる。
「あの……」拓海はうまくしゃべれない。
「なんです?」ゆきが首をかしげる。
「あの……、もしかして、昨日、僕、ゆき先生にひどいことしました?」
ゆきは瞬きをしてから「ひどくないです。気持ちよかった」と言った。
拓海は頭をかかえる。
なんてことだ。同僚とやっちゃっただなんて。
「拓海先生?」今度はゆきが拓海の顔を覗き込む。「大丈夫?」
「……大丈夫です」
「意外でした。拓海先生って、すごく男性的なんですね」
「は?」
「強引だったし、すごくセクシーだった」ゆきが笑う。
拓海は泣きたくなってきた。「とにかく、服着てください」拓海は言う。
ゆきは「じゃあ、先にシャワー使いますね」と言って立ち上がった。一糸まとわぬ姿に拓海は驚く。「隠してくださいよ」
「昨日あれだけ見たのに?」ゆきはくすっと笑って、床におちていた彼女のTシャツを身体にまく。そのままバスルームの扉を開け、入って行った。
逃げたい。今すぐこの場から逃げ出したい。なんでこんなことになったんだろう。
拓海は身体をのばして、自分のデニムのポケットをさぐり、スマホを取り出す。午前十時すぎだ。
拓海は懸命に昨日の記憶を呼び起こそうとした。
昨日はそうだ、三人の同僚と仕事帰りに飲みにいって。それで、ああ、何杯飲んだか記憶にない。とにかく明日は土曜日だしと思って、ずいぶん飲んだんだ。それで……。
拓海は懸命にこうなった経緯を思い出そうとするが、細部はいっこうに出てこない。ただフラッシュバックのように、ゆきの身体がよみがえる。
拓海は頭を振った。
とりあえず下着を拾って着る。ちょっと迷ってから全部の服を着た。ベッドの足下に置かれた扇風機から、涼しい風が送られる。バスルームからは水音が聞こえていた。
六畳ほどのワンルームの部屋。女性らしいけどシンプルなナチュラルテイストの家具。拓海はベッドに腰掛けて、文字通り頭を抱えた。
ゆきとは幼稚園で同じひまわり組を担当している。まだ新米の拓海はクラスでヘルプの仕事をしている。ヘルプとは子供達と遊び、世話をする役だ。ゆきも同じタイミングで就職したので、ヘルプ要員。担任の飯田先生の顔が思い浮かぶ。このことを知ったら呆れて、それから怒るだろう。
水音がとまり、しばらくするとゆきがバスタオルを身体に巻いて出て来た。
「あれ? シャワーは使いませんか?」ゆきが言う。
「いや、予定があるの忘れてたんです。もう帰ります」拓海は立ち上がる。
「何か飲んだほうがいいんじゃないです?」バスタオルのまま、ゆきがキッチン横の小さな冷蔵庫をあける。
「いいです。遅刻しそうだから」拓海はそう言うと玄関に向かう。ゆきはいぶかしげに拓海を見てる。拓海はその視線を感じて、自分があまりにも不誠実なのが恥ずかしくなった。
振り返り「連絡しますね」と笑顔で伝える。
ほっとした様子のゆきは「うん」とうなずいた。
玄関を出ると、さわやかな気候だ。初夏の日差し。優しい風がふいて、緑の香りを運んでくる。ゆきの部屋はアパートの一階だった。そのまま道路に出て、拓海は困り果てる。
ここ、どこだろう。駅はどっち? 聞けばよかった……。
なんとなく歩き出す。途中の自販機でダイエットコーラを買った。一気に半分ほど飲み干す。
静かな住宅地。東京にありがちな狭小住宅が連なる。
花に水をやる女性。犬の散歩をしている男性。
そこでスマホのGPSで自分の位置がわかることに思い至った。スマホを見ると、恐ろしいことに勤めている幼稚園のほんの近くだ。拓海は携帯の地図をたよりに、駅に向かった。
記憶をなくして、誰かとベッドを共にするなんてこと、本当にあるんだな。拓海は考えた。
セックスをしたのは、久しぶりだった。半年くらいしてないと思う。
なんでしちゃったんだろうな。
拓海はそればかり思い悩む。
これからどうやってゆきに接したらいいだろう。正直に「覚えてません」と言ったほうがいいだろうか。「そんなつもりじゃなかった。ごめんなさい」そう言って謝ろうか。
いずれにせよ、仕事に大いに支障がでる。せっかく慣れて来たところだったのに。拓海は深いため息をついた。
幼稚園のある駅から、目黒にある自宅マンションまでは電車で約三十分。電車に揺られるその間、ゆきになんと言おうか、そればかりを考えた。しかし結局答えが出ず、うなだれたままマンションの扉を開いた。
涼しい空気が流れ出てくる。結城は冷房をつけているようだ。リビングの扉を開くと、結城がソファに転がってテレビをみていた。部屋の中なのにフード付きパーカーを頭からかぶっている。
「おかえり」結城は拓海をちらっと見て、そう言った。
「ただいま」拓海は不機嫌そうにそう答える。
「はやいじゃん、あ、遅いの間違いか」結城が嫌みのつもりかそう言った。
「シャワー浴びる」拓海は結城のことを半ば無視して、バスルームに入って行った。洋服を脱いで洗濯機に放り込む。温度設定を高めにして、シャワーをあびた。
だんだんとはっきりしてきた。衝撃から目がさめて、やっとアルコールも抜けてくる。
かかっていたタオルで身体をふいて、鏡で自分の姿を見た。
二十七歳。幼い顔立ちで、十八ぐらいにも見える。濡れた黒髪が頬にはりついている。拓海はタオルで髪をごしごしふいた。身体は結構鍛えていて、筋肉がついてほっそりしている。
「セクシーでした」と言ったゆきを思い出した。自分のことをそんなふうに感じたことは一度もなかった。
「俺、どんなんだったんだろう」拓海は首をかしげた。
バスルームを出ると、結城はさっきと同じ格好でテレビを見続けている。下町を散策する番組だ。
「おもしろい?」拓海はタオルを巻いた格好で、結城の隣にたった。
「別に」結城はおもしろくなさそうにそう言う。
「じゃあ、なんで見てんの?」
「暇だから」
「どっか行けよ」
「つかれる」
「インドアもいい加減にしろよ」拓海は呆れてそう言った。
「お前、今日の予定は?」結城が拓海を見上げた。
「別に、なんもない」
「お前だって暇じゃん」
「俺、これから寝るもん」拓海は自分の部屋にはいりながら、大きな声で答えた。
「寝てないの?」結城が大声で返す。
「たぶん寝てる」拓海は着替えながらそう答えた。
「なんだ、たぶんって」結城が笑っている声が聞こえた。
「うるさいよ。俺、寝るから、起こすなよ」
「夕飯、外で一緒にたべよう」結城が言った。
「わかった」拓海はそう言って、自室の扉を閉めた。八畳ほどのフローリングの部屋。拓海はベランダに面した窓をあける。涼しい風が入って、白いレースのカーテンをなびかせた。
無印で買ったシングルベッドに、枕を抱いて転がった。目を閉じる。しばらく動かずにいたが、「やっぱ、寝られるわけない」と拓海は小さくつぶやいた。
再び、延々とゆきになんと言うか、それを考えはじめた。
三
週が明けて月曜日。幼稚園の出勤時間はとても早い。
拓海はプリントTシャツに腰履きのデニム、ブルーのスニーカーを掃き、大きめの布鞄を斜めにかける。
「いってきます」拓海は結城の声をかけた。
「うん」リビングから返事が聞こえた。結城の職場はこのマンションから近いので、今頃の起床でも充分に間に合う。朝に弱い結城は、これからきっとだらだらと支度をはじめるのだろう。
玄関を開けると、快晴。白い雲がゆっくりと流れるのが見えた。六階の部屋からは、都会の景色が見える。大通りが近いため、車がたくさん走る音も、はっきりと聞こえた。
週末、考えに考えた。ゆきになんと言うのか、そればかりを死ぬほど考えた。そして出した答えは、正直に話して謝ること。もう、それ以外に思いつかない。あの夜のことを全部はっきりと覚えている振りをして、これからゆきと、なんというか、恋人の関係になるというのは、ぴんとこなかった。
ゆきが嫌いな訳じゃない。どちらかというとかわいいと思うし、明るくて幼稚園でも子供達に人気だ。子供の扱いは兄弟が多かったので慣れている、と言っていた。子供と接しているときの彼女の顔は本当に幸せそうで、天職なんだろうなと思う。
でも拓海は誰かと真剣に関係を築くことができない。
あの日から、誰とも深く接してこなかった。表面上の友人関係はうまくいく。投げやりになって自分を消してしまいたいと思う日は、女の子をベッドに誘って狂ったように抱いた。
でもそれだけで。それ以上はありえない。
これからもずっと、ありえない。
幼稚園につくと、すでに鍵は空いていた。朝の七時半。子供のいない幼稚園は静かで、そしてひやりとしている。ひまわり組に入ると、ゆきが出勤してきていた。クラスの窓を開けている。ノースリーブにぴったりとしたデニム。ゆきは拓海に気づくと「おはようございます」と振り向いた。
長い髪はポニーテールのように頭の上に結い上げている。うなじの後れ毛を見て、拓海は動揺した。
「おはようございます」拓海も挨拶をかえす。ゆきはにこっと笑って「今日はわたしバスコースの担当なんです。歩きコースはよろしくお願いします」と言った。
「わかった」拓海はうなずく。ゆきは自分の荷物をもって、職員室へと向かう。これから幼稚園用のスモッグに着替えるのだ。拓海はこの幼稚園で唯一の男性職員だ。なので男性更衣室は用意されていない。拓海は鞄からスモッグを取り出すと、ひまわり組のなかで素早く着替えた。
幼稚園は遠方から通う子供達のために、バスを出している。今日はそのバスにゆきが乗るのだ。子供達が登園してくるまで、あと四十分。拓海はいそいで支度を始めた。
夏は始まったばかり。クラスのベランダから園庭に出る。園庭はそれほど大きくない。小さな砂場と、大きな遊具が一つあるだけだ。拓海は砂場のおもちゃを確認し、砂場の雨よけシートを外してまるめる。遊具についた砂を払い、園庭にブラシをかけて平にならした。道路に面した金網に、子供達が育てている朝顔がずらっと並んでいる。拓海はそのひとつひとつにたっぷりと水をやった。
バスのエンジン音が響く。最初のバスが到着したようだ。バスは合計三回、行ったり来たりする。最初のバスは八時すぎに到着だ。
園庭の入り口にいき、子供達を迎える。小さな子供達は皆、すでに大汗をかいている。
「おはようございまあす」かわいらしい声で挨拶する。
「おはよう」拓海はひまわり組に戻りながら、子供達に挨拶した。
ひまわり組は三歳の子供達をあずかる、年少さんのクラスだ。一人でできないことも多いので、手がかかる。
バスから降りたひまわり組の子供達は、ベランダに座り込んで上履きに履き替えている。拓海はうまく靴の脱げない子を手伝った。
飯田先生はすでに出勤してきている。飯田先生は四十過ぎのベテラン先生だ。髪はショートで細身、身長は小さい。黒縁の眼鏡をかけていて一見厳しそうに見えるけれど、笑うととってもかわいい。接すると暖かい先生だとわかる。唯一の男性職員である拓海にも、公平に接してくれた。拓海は新人だけれど年齢が上の方だ。なのでいざというときに頼ってもくれる。飯田先生は人を使うのがうまいのかもしれない。
「おはよう。お着替えが終わったら、出席のシールを貼ってね」飯田先生が言う。
子供達はやっとのことで半袖のスモッグに着替えて行く。
「拓海先生、これ」りくとがスモッグを拓海に差し出す。見ると裏返ってしまっていた。拓海はそれをくるりとひっくり返すと、りくとの頭にかぶせる。
「ありがとう」りくとはやっと袖を通すと、飯田先生のところへ向かった。
時計をみると、歩きで登園してくる子供達もそろそろやってくる頃だ。支度が終わった子供達が、おもちゃを引っ張りだして遊びだす。大きなブロックがクラスの真ん中に散らばり始めた。
「おはようございまあす」母親と一緒に、子供達が続々と登園してきた。これからが忙しくなる時間だ。
「おはよう」拓海は腰を屈めて、りなに挨拶をする。
「さっきね、カレー食べたの」りなは一生懸命に拓海に話す。
「朝ご飯がカレーだったの?」拓海はりなが靴を履き替えるのを手伝いながら問いかける。
「ちがいますよ」明るくてりなにそっくりの母親が、苦笑しながら言う「昨日の夜カレーだったんですけど」
「ああ、昨日ね」拓海は思わず笑みがこぼれる。
「りなは拓海先生のことが好きみたいで、家でいろいろ話すんですよ」
「わあ、うれしいな」拓海はりなに笑いかける。
「先生、カレーすき?」
「好きだよ。エビが入ってるのがいいな」
「りなね、お肉がはいってるのがすき」
「そっかあ」拓海はりなの帽子をとる。たくさんの汗をかいている。拓海はポケットからハンドタオルを出すと、りなの頭をふいてやった。りなは目を閉じてうれしそうな顔をした。
「よろしくおねがいします」りなの母親がおじぎをする。
「お預かりしますね」拓海も頭を下げた。
「りなちゃん、お着替えできる?」拓海がそう言うと、りなは「うん」とうなずいた。
徐々にひまわり組の中に子供達が増えてくる。
淡いピンク色の壁紙には、子供達の写真が飾られていた。ゆき先生と二人で作った色紙の動物達が、子供達の写真の周りに貼られている。あんぱんまんの壁掛け時計は九時すぎ。
拓海は部屋を見回す。子供達が笑いながら遊んでる。
今もあの力があったのなら、この部屋はきっと虹色に輝いてみえるだろうな。
拓海はそんな風に考える。
拓海は昔から人の色が見えた。それをオーラと呼ぶ人もいるけれど、拓海はその光が何なのか知らない。ただ、子供の色は特別にきれいだった。きらきらと輝いていて、現実世界のものとはまったく違っていた。
けれどあの日以来、拓海はその力を失ってしまった。
そろそろ時間だ。朝の会がはじまる。
飯田先生のピアノは心地よい。「おはようのうた」を全員で歌う。拓海とゆきは、落ち着かない子や、泣き止めない子を膝に乗せ、一緒に歌った。可愛い歌声がクラスに満ちる。拓海はリズムを取りながら、子供達の様子を見る。
ちらっとゆきを見た。ゆきのことが大好きで、いつもついて回っている、ゆうたという男の子を膝に乗せている。ゆきは時々ゆうたの頭をなで、手でリズムをとる。ゆうたの顔を覗き込み、笑いかける。
ゆきはふとこちらを見た。拓海は内心慌てる。ゆきはにこっと笑うと、また視線を飯田先生に戻した。
話さなくちゃ。
拓海は勇気を奮い立たせる。
このままあやふやにして、いいことはないんだから。
月曜日の夜の居酒屋は、とても静かだ。駅前の台湾小料理のお店に入る。チェーン店なので、店内の内装はどこも一緒だ。中華風のタペストリーに、おきもの。スチールの丸テーブルに、屋台で見るような小さな椅子。ゆきと二人、店内の一番奥に案内された。
仕事の話ばかりをして、駅前まで歩いて来た。できれば幼稚園の近くは避けたかったが、そうもいかない。ゆきはこの近辺に住んでるのだから、わざわざ電車に乗ってくれだなんて言えない。まだ月曜日なんだし。
「何飲む?」拓海は紙のメニューを見せる。
「じゃあ、生中で」ゆきは言う。拓海は自分はウーロン茶をオーダーした。
「あれ? 飲まないんですか?」ゆきが訊ねた。
「まだ月曜日だから」拓海は笑顔で返した。
水餃子や青菜炒めなど、小皿料理が並ぶ。二人でハシをもち、食べ始めた。
「これ、おいしいですよ」ゆきが大根餅をすすめた。
「ほんとだ、おいしいね」拓海はうなずいた。ずっと考えている。どのタイミングで言おうか。
「ぜんぜん、連絡くれないんだもん」ゆきがお箸をくわえて、言った。
「えっと、忙しくて。ごめんね」拓海の心臓の音が早くなる。
ゆきが拓海を見てる。ほとんどお化粧をしていない。ほほに薄いそばかす。眉の形が整っていて、目はくっきりの二重。
「もしかして」ゆきはグラスを持ちながら、拓海を覗き込むように見つめる。
「うん?」拓海の動悸は暴走直前だ。
「おぼえてない?」
拓海の箸が止まる。ばれてる。
「ご、ごめん」拓海は箸を置いて頭をさげた。勢い良く頭を下げすぎて、テーブルにおでこがぶつかった。「いて」
「やっぱり」ゆきの声がする。
「お、怒ってるよね」拓海は頭を下げたまま、そう訊ねた。
「うーん、どうかなあ」ゆきが言う。
「どうしたらいいかな」拓海はちらりと目を上げた。
ゆきは笑みをたたえて拓海を見てる。「どうしよっかな」ビールを一口飲む。
拓海は再度頭を下げた。なんでもする覚悟だった。ゆきと付き合うということ以外なら、なんでも。
「じゃあ、ここ、おごってください」ゆきが言う。
「……そんなんで、いいの?」拓海はびっくりして顔を上げた。
「いいですよ」ゆきはにこにこ笑いながら、エビ炒めをほおばる。「一食浮いちゃった。ラッキー」
「怒ってないの?」
「だって、お酒入ってたし。事故みたいなもんでしょ。大人がちょっとはめをはずしちゃった、みたいな」
「そ、そう……」拓海はどっと疲れが出る。ウーロン茶をごくごくと飲み干した。
「おかわりします?」
「ああ、そうだね」拓海は脱力しながら、そう答えた。ゆきがオーダーしてくれる。
「何にも覚えてないんですか?」
「うん。どうしたんだろう」拓海は首をひねった。「結構飲んだなっていうのだけ覚えてるんだけど」
「最初はサワーみたいなのを飲んでたんですけど、途中から日本酒に切り替えたんですよ」
「日本酒?!」拓海は驚いて声をあげた。
「それも結構飲んでて。拓海先生は最初すっごい普通でしたよ。ぜんぜん酔ってないみたい。でもそろそろお開きにしようって頃になって、突然倒れちゃった」
「ええ?」
「何度起こしても起きないし、どこに住んでるのかも聞き出せなくて。わたしのアパートが一番近かったので、タクシーに乗せてうちに連れて行きました。アパートについて、お水を飲んだら……」そこでゆきは意味ありげな目をする。「拓海先生はいつもと全然違いました」
「俺、最低」拓海は頭を抱えた。大声で泣きたいぐらいだ。そんなひどいことをしたなんて。「本当にごめんね」
「だから、いいんですって。わたしもまあいっかって思ったんだし。強制じゃあないですよ」ゆきはビールを飲み終える。「もう一杯いい?」
「もちろん」
ゆきは追加のビールを注文した。
「拓海先生、彼女いる?」ゆきが訊ねた。
「……いない」
「わたしもいないんです。別れたばっかり。誰も泣く人いないんだから、いいじゃないですか」ゆきは笑った。「でも……。拓海先生って、不思議ですよね」
「何が?」
「普段はどっちかっていうと、かわいい感じじゃないですか?」
「そうかな」
「仕草も雰囲気も、とてもアラサーには見えませんよ。なんかよしよしってしてあげたくなっちゃう」
「ええ?」拓海は眉間に皺を寄せてみせた。
「ほら。この感じ。かわいいの」
拓海は顔を隠す。観察され慣れてないので、気恥ずかしい。
「でもこの間はすっごい男の人だった。あれはあれで、いい感じ。もう見られないのかなあ」ゆきは言う。
「俺、そんなこと言われたことないよ。もうそこらへんでやめて」拓海は恥ずかしくてたまらなかった。
「酔わせると、ああなるのかな?」ゆきは意地悪くそう言うと「飲みます?」とビールを差し出す。
「やめてって」拓海は抗議した。
「寝てる拓海先生を見てたら、結構なイケメンでした」
「は? そんなこと言われたことないよ」
「パーツの形は整ってるし、かっこいいですよ。雰囲気がかわいいからみんな気づかないだけ」
「俺の幼なじみは、びっくりするほどのイケメンだよ」拓海は言った。
「そうなんですか?」
「一緒に歩いてると、必ずみんな振り返る。女の子はいっつもそっちばっかり見てた」
「写真持ってます? 見たいなあ」ゆきが言う。
「男の写真なんて、持ってないと思うけど」そう言いながら拓海は自分のスマホを見た。
いくつか写真をスライドさせてから「あ、これ。そうだ、雑誌に掲載されたときに記念にとったんだった」と、ゆきにスマホを見せた。結城がモデルをしていた頃の雑誌の一ページだ。
「うわっ。きれいな顔の人ですねえ」ゆきがびっくりした声を出した。
「でしょ? 俺はいっつも、地味で、目立たず」
「へえ」ゆきが携帯を拓海に返した。
「あれ?」拓海は驚いて声を上げる。
「なんです?」
「反応がそれほどじゃないな、と思って」
「イケメンはもうこりごり」ゆきが首をすくめる。「元カレはかなりいい男でしたけど、軽くストーカーみたいになっちゃって」
「そうなの?」
ゆきは曖昧に笑う。「あ、でも、拓海先生はイケメンだけど、別ですからね」と言う。
ゆきにそう言われると、拓海はちょっとドキッとする。心臓に悪い。
ゆきとはお店の前で別れた。初夏の夜はさわやかだ。車のヘッドライトが通り過ぎる。
「送って行ってあげたいけど、この間のこともあるし、また迷惑をかけちゃまずいから」拓海はそう伝えた。
「今日、飲んでないのに。随分警戒してるんですね」ゆきがいたずらっぽく訊ねる。
「そりゃ、ね」拓海は頭をかいた。けれどそう言ってから、ゆきにあまりにも失礼なんじゃないかと、気になりだした。
そして「ゆき先生、魅力的だから、しらふでも危ないんだ。あのとき酔ってたから信憑性もないと思うけど、誰でもよかった訳じゃないと思うよ」と付け加えた。
ゆきはにこっと笑うと「ありがとうございます」と言う。
それからひょい、と拓海の頬にキスをした。拓海はびっくりして目を見開く。
「もし誰か女の子を抱きたいって時には声かけてください。拓海先生ならセフレもオッケーですから」ゆきはそう言って、手を振った。「おやすみなさい」
「お、おやすみ」拓海は呆気にとられて、やっとそう返す。
ゆきはくるりと向きを変え、自宅アパートの方へと歩いて行った。華奢な背中。細身のデニムが彼女の適度に丸い腰を際立たせている。
拓海はとにかく胸がどきどきして、変な汗が出て来た。彼女の裸身がちらつく。
細いのに、意外と胸はおおきかった。
ふとそんなことを考えて、拓海はあわてて頭を振った。
家に帰ると、まだ結城は帰宅していなかった。リビングの電気をつけ、窓を開ける。涼しい風が室内に入り込む。お酒を飲んだ訳じゃないのに、いやに身体がほてっていた。また明日会うのに。拓海は溜息をつく。
玄関が開く音と鍵の鳴る音がした。振り向くとリビングに結城が入って来ていた。
「おかえり」拓海は窓から離れ、キッチンへと行く。水か何かを飲んで、気を紛らわせたかった。
「ただいま」結城はスーツの上を脱ぐと、ソファへと放り投げる。シルバーのネクタイを指でゆるめ、それもソファに放り投げた。
「片付けろよ」拓海は言った。
「あとで」結城はそう言うと、ワイシャツのボタンを外してから、ソファに倒れ込む。「つかれた」
「仕事?」拓海は冷蔵庫から二リットルのコーラを出した「お前も飲む?」
「うん。ありがとう」結城は姿勢を変えずそう言った。
拓海は二人分のコーラを用意すると、結城の目の前のテーブルに置く。それからラグの上にあぐらをかいて座った。
「俺、気を使ったりするの苦手なんだ」結城が起き上がり、コーラに手を伸ばす。
「わかるよ」
「お前はいつも人に好かれるな」結城がちらりと拓海を見た。
「……そうかな。だって、俺が他の人を嫌わないもん」
「それ重要」結城が笑った。
「なあ、女の子ってさあ、どんな気持ちでセフレでいいから声かけて、なんて言うんだろ」拓海は訊ねた。
結城がびっくりした顔で拓海を見る。「言われたの?」
「いや……ドラマの話しだよ」拓海はそういってごまかした。
「だよな。お前に限って、そんな女の子がいるわけないし」結城は鼻で笑う。
「馬鹿にするなよ。俺もそれなりにあるんだ」
「へえ」結城が疑い深そうに拓海を見る。「俺ならまだしも、おまえが?」というようなその態度に、拓海は毎度のことながら腹が立つ。
「イケメンだって言われたぞ」拓海は口惜しさからそう言う。
「その子コンタクトしてなかったんじゃない?」
「ああ、腹立つ」拓海は勢い良く立ち上がった。
「冗談だよ」
「知ってるけど、腹立つんだ」拓海は口を尖らせた。
結城はじっと拓海を見る。何を考えているのか、拓海は探ろうとしたがわからなかった。
「お前が自分を見ていないことは知ってるけど、繋がってたいからセフレでもいいって言ったんだろう? 女の子が男みたいに純粋に快楽だけでセックスするとは、経験上あんまり考えられないな」
「そうかな……」
「やっぱり」
「何?」
「お前が言われたんだろ?」
「違うって」拓海は首を振った。
「……人と向き合う気になったの?」結城が訊ねた。
結城が拓海を見ている。拓海はなんと返答してよいのかわからない。
人と向き合うなんてこと、自分にできるわけがない。
「違う。俺は変われないよ」拓海が結城に背を向けてキッチンに向かう。「お前もそうだろ?」
結城が黙る。
拓海はシンクにコップを置いて、勢い良く水を出した。透き通った水がコップから溢れ出す。すべてを洗い流して、排水溝へと消えて行く。こんな風に、全部をきれいに流してしまえればいいのに。
拓海は無言で自分の部屋に入ると、着替えもせずにベッドのシーツに包まった。
リビングの結城の気配は、いつまでも消えなかった。
四
異様に暑い。子供の頃の七月はもっと涼しかったように記憶している。吸い込む空気がサウナのようで、拓海はどうしても口を開けてしまう。できればクーラーの効いた部屋でごろごろしたかった。
子供達が帰った午後三時。飯田先生とゆきと拓海は、ひまわり組に集まって夏祭りの計画を立てていた。
「拓海先生、たいこ叩ける?」飯田先生が訊ねる。
「叩いたことはないですけど。毎年はどうしてるんですか?」
「子供のパパ達に頼んだりしてるんだけど、せっかくだから拓海先生も参加したらいいと思って」
「簡単ですか?」
「普通に叩くのはそれほど難しくはないと思うわ。リズム感さえあれば。でも人を魅了する太鼓ってなると、難しいかもね」
「ええ! そんなに要求が高いんですか?」
「そうでもない」飯田先生が笑う。「ちょっと練習してみて」
「はい」拓海は頷いた。
「そろそろ、担任会議の時間だわ。夏祭り当日に配る花火の手配、二人にお願いしてもいい?」
「毎年決まった業者がいるんですか?」ゆきが訊ねる。
「ううん。安くあげたいから、花火問屋へ買いにいくの。予算はこれくらいで……年少さんクラス全員分」飯田先生が手元の資料を指差す。
「わかりました」拓海がうなずく。
「じゃあ、ちょっと席はずします」飯田先生は眼鏡を直しながら立ち上がった。「あとはよろしく」
ゆきが「明日のメダル作りしちゃいましょっか」と拓海に声をかけた。
「うん」拓海は文具棚から折り紙の束を取り出す。
二人はそれから人数分のメダルを折り紙で作り始めた。明日はスイカ割り大会だ。スイカに棒が見事あたった子には、スイカメダルをプレゼントするのだ。
二人は向かい合わせになって、黙々とスイカを折だした。
ゆきとはぎくしゃくすることなく、毎日を過ごせている。拓海から連絡することはもちろんなく、それでもゆきはすねたり、文句を言ったりするわけじゃない。いつも通りに仕事をこなし、笑顔で「おつかれさまです」と挨拶する。
結城が「女の子は快楽だけでセックスする訳じゃない」と言っていたが、ゆきは拓海に気のある素振りを一切見せない。なんだか取り越し苦労だったかなと最近思うようになった。
「できたメダルから、スイカの種書いちゃおっと」ゆきは油性マジックを持って来て、種をくるくる丸く書き始めた。
「ねえ、それ種おおすぎじゃない?」拓海はゆきの手元のすいかを見て、思わずそう言った。
「ええ? そうかな?」ゆきが首をかしげる。
「だって、赤い実がすくなすぎる」
「やりなおし?」ゆきが困った顔をした。
「まあいっか」拓海はそう答えた。ゆきの困った顔は、とてもかわいい。
「いつ、花火屋さんいきます?」ゆきが種を書きながら拓海に訊ねた。
「いつでもいいよ。休日の方がいいのかな?」
「そうですよね。夜に花火問屋さんってやってるのかわからないし」
「今週の土曜日、一緒にいく? 蔵前とかが問屋街だよね」
「そうなんですか? 知らなかった。土曜日オッケーですよ」
「じゃあ、そうしよう。お昼頃でいい?」拓海が訊ねる。
「はい。ランチ一緒にしますか?」
「いいよ」拓海は答えた。
「デートだ」ゆきがペンを唇にあて、にこっと笑う。拓海の心臓はどきっと跳ね上がった。
あの日以来、ゆきが笑うと拓海は心穏やかではなくなってしまう。
どうしたんだろうか。
土曜日は晴れ。けれど雲が多くてしっとりとしている。土曜日も出勤する結城は、すでに部屋にいない。拓海は戸締まりをしてマンションを出た。
営業の担当地域を持つようになってから、結城が土曜日にいることがなくなった。学生時代は二人でお昼までごろごろして、それから買い物に行ったり、テレビを見て過ごしたりした。そこに他の人が加わることはほぼない。二人だけの週末だ。
一人の週末は気が重い。こちらから外出に誘う友人がいるわけでもない。拓海の世界は狭く、小さい。他の人たちはどうやって週末をすごしてるんだろうか。
浅草線蔵前駅の改札で待ち合わせをした。薄暗いけれど、きれいな構内だ。案内板の前で立つ。なんだかそわそわと落ち着かない。
仕事仕事。
拓海は自分にそう言い聞かせた。
時間ちょうどにゆきは現れた。改札から出てくる。いつもと様子が違う。なんだろう。
空の色のような、淡いブルーのロングワンピース。麦わら帽子にかごバック。平たいサンダルをはいている。拓海を見つけると「おはようございます」と会釈した。
「おはよう」拓海は少々どぎまぎしながら挨拶を返した。
「わたし、調べてきました。花火問屋さん」
「ありがとう」
「順に見てまわりましょう」
二人は並んで地上に出た。
日差しの下に出ると、ゆきの装いはよりいっそう目立つ。
ほめたほうがいいのかな。
拓海はそんなことを考える。でもそんな勇気も出ぬまま、二人は並んで歩いた。
結城ならさりげなく手をつないでるだろうな。
拓海はまたそんなことを考えてから、「仕事だし」と邪念を追い払うようにした。
ゆきの身長は、拓海より少し小さいぐらい。もともと大きくはない拓海でも、横に並んでちょうどいい。
「全部で六十袋ですよね。私、お金を預かってきました」
「結構な荷物になるね」
「帰り、幼稚園に置きにいきましょう」
「そうだね」
「じゃ、先にランチしちゃいます? 私これも調べて来たんです」
「何食べるの?」拓海が訊ねる。
「老舗のビストロがあるらしいんです。でも拓海先生が何か他に食べたい物があれば、そちら優先で全然大丈夫ですよ」
「いいよ、そこで」
「やった」ゆきはガッツポーズをして見せる。その仕草が可愛くて、拓海は思わず微笑んだ。
本当に注意して見ていないと、見過ごしてしまう店構え。お店は週末もあってこんでいたが、なんとか待たずに席まで案内された。
メニューリストを見ながら「ワイン飲んじゃう」とゆきがうきうきしながら言った。
「仕事中なのに」拓海は苦笑する。
「ええ? 土曜日ですよ? ここきてお水だけなんて、つまんない」ゆきは頬を膨らました。
「いいよ、飲んで」拓海は笑いながら言う。
プリフィックスのランチコースを頼んだ。一人では絶対にオーダーしないメニュー。もちろん結城とも絶対に食べないものだ。拓海はなんだか落ち着かなかった。これはいつもの週末ではない。
店内はそれほど大きくない。壁の黒板には手書きでメニューがかかれている。カップルか、女の子同士できている人が多い。
そこにメールの着信が響いた。ゆきのバッグの中で震えている。
「見ないの?」携帯を取り出そうとしないゆきを不思議に思い、拓海はそう訊ねた。
「いいんです」ゆきはすました顔でワイングラスに口をつける。
「遠慮しないで見てね」
「はい。大丈夫です」ゆきがにこっと笑う。
しばらくするとまた携帯が震える。でもゆきは一向に携帯を開こうとしない。
誰かを意図的に無視してるんだろうか。
そのうち恐ろしいことに、ほぼ一分おきに着信が鳴りだした。ゆきはさすがに顔をしかめる。
「ごめんなさい。電源切っておきますね」ゆきは鞄から携帯を取り出す。
「どうしたの?」拓海はただならぬ着信攻撃に、不安を覚えた。
「ううん。大丈夫」ゆきは笑顔で携帯の電源を切ろうとした。
「誰から?」
「えっと……」ゆきは困ったような顔をする。
「嫌がらせ?」拓海は心配でそう訊ねた。
「……たぶん」
「誰なの?」そこに料理が運ばれてくる。チキンのロースト。おいしそうな香りがするが、ゆきの顔が晴れないので、料理に集中できない。
「元カレです」ゆきが自分を恥じるように言った。
「つきまとわれてるの? 着拒否すればいいのに」
「番号変えても、メアド変えても、必ずばれちゃうんです。だからもうあきらめちゃって」ゆきが情けなさそうに笑う。
「誰かに相談した? 警察とか」
「警察とかは、まだ。なんか大げさになっちゃうし」
「でも、何があるかわかんないから」拓海はゆきの暢気さに、少しいらだつ。
とりかえしのつかないことは、いつだって起こりうる。
「まだ住所はばれてないと思います。前住んでたところでは、郵便物を開封されたり、待ち伏せされたりしてたので、就職を機に引っ越したんです。っていうか、そんな話し、つまんないですよ。大丈夫ですって」ゆきは明るく笑うと、携帯をバッグにしまった。「食べましょ。おいしそう!」
拓海はうなずいて、フォークを手に取る。けれど頭が切り替えられない。恐ろしいことがおこるのではないかと、足下から不安が這い上がってくる。
「拓海先生?」ゆきが顔を覗き込んだ。
「うん?」
「大丈夫。世の中、そうそう悪いことおこりませんから。ね」ゆきが言った。
改札を出ると、アスファルトがぐっしょりと濡れている。見上げると東の方の空は、どんよりと雨雲がかかっていた。
「いつのまにか雨が降ってたみたいですね」ゆきがそう言いながら、一歩を踏み出した。水たまりをひょいひょいとよけて、ジャンプしながら歩いて行く。拓海はその後ろからついて行った。
両手には花火の束。夏祭りの日まで幼稚園で保管する。子供達に花火を手渡すところを想像すると、自然と笑みがこぼれた。やはり子供の笑顔には癒される。
午後四時前。幼稚園には当然のことながら誰もいなかった。鍵を開け、中に入る。雨が降った後の湿気た匂いがした。ゆきは正面玄関でサンダルを脱ぎ捨て、裸足のままぺたぺたと室内へと入って行った。備品倉庫は二階にある。二人は花火を持って階段をあがった。
ゆきの携帯の電源は切られたままだ。今着信はどんなことになってるだろう。そう思うと拓海は不安な気持ちにかられる。
「お仕事おわり」ゆきが笑顔でそう言った。「まだ早いですね。拓海先生は何か用事ありますか?」
「ないよ」
「じゃあ、うちにでもきます?」
「え!」拓海は大きな声をあげた。
するとゆきがお腹を抱えて笑いだす。「先生、おもしろすぎる」
「からかうのはやめてよ」拓海はぷいっと横を向いた。
「あ、可愛いふりしてる」
「ふりじゃあ、ないよ」拓海はそんな風に言われて、心外だ。
「だって、今のめちゃくちゃ可愛かったですよ」
「それ、ほめられてないよね」
「ほめてます」ゆきは自信満々にそう言った。
「この近くで遊べる場所、ありましたっけ」ゆきがそう言いながらバッグから携帯を取り出す。
「ボーリングとか、カラオケとかあったらいいなあ」ゆきはそう言うと、電源を入れた。
メールの着信音が鳴り響く。ゆきは携帯のロックを解除して、メール画面を開いた。
ゆきの顔が変わった。
拓海は驚いて「どうしたの?」と携帯を覗き込む。
そこには何百通というメールの入る受信簿。すべて送信者は同一だ。メールに添付ファイルがついている。ゆきは恐る恐るそのファイルを開いた。
どこかの部屋の画像。
姿見とコートハンガー。扇風機とベッド。
ゆきの部屋だ。
ゆきが青ざめた顔をあげる。「ど、どうやって……」
拓海はじわじわと忍び寄る不吉な予感を無理矢理押し込め、携帯の添付写真を開いてチェックした。
「みんなおんなじアングルから撮られてる。隠しカメラがあるのかも」拓海は言った。「行こう」
「ど、どこへ?」
「ゆき先生のうちに。カメラがあるなら捨てなくちゃ」拓海はゆきを引っ張ると、ゆきのアパートへと急いだ。
木々が雨にぬれ、しっとりとした緑の香りがする。二人は黙って歩いた。太陽の日差しは傾き始め、オレンジ色に染まりだす。空を見上げると、雲が早いスピードで流れて行った。
ゆきのアパートについた。先日は逃げるように後にしたので、拓海は「こんなアパートだったかな?」という気持ちになる。
ゆきは鞄から鍵を取り出し、一度拓海を見上げた。不安そうな顔。拓海はうなずいてみせた。
扉を開けると拓海が先に中に入る。ゆきは玄関口で立って待っていた。
壁のスイッチを入れると、蛍光灯が瞬いた。青白い光が室内を照らす。
「何か動かされたり、なくなってるものある?」
「わかりません」ゆきは首を振った。
拓海はスニーカーを脱いで部屋にはいる。写真のアングルを想像して、目を向けると、そこには拓海の腰あたりまでの観葉植物が置かれていた。キッチンの横あたり。部屋を見渡せる場所だ。
鉢植えの中に手を入れると、案の定小さなカメラがみつかった。
いつからあったんだろう。いつ侵入されたんだろうか。
「カメラあったよ」拓海は玄関で心細そうにしているゆきにカメラを見せる。
「どうしよう」ゆきは泣きそうな顔になっていた。
「すぐにでも引っ越した方がいいけど」
「そんなお金ありません」ゆきがうつむく。
「ここにはもう、帰りたくないよね。実家には帰れない?」
「実家は八王子で、ちょっと遠いんです。友達が近所に住んでいるんで、ちょっと聞いてみます」
「うん」
ゆきは携帯を取り出し、電話をかける。
拓海はなんとか落ち着こうと、自分に何度も言い聞かせた。
あの日のできごとと、今日は別だ。一緒にする必要はない。
けれど止めようとしても記憶がどんどん流れ出て来て、拓海は呼吸できなくなりそうだった。
パトカーの光。消えて行く体温。身体が血で濡れている感覚。
拓海は勢いよく頭を振った。今、パニックを起こす訳にいかない。ここでは誰も守ってくれない。むしろ拓海がゆきを守らなくてはならないのだ。
「しばらく友達の家に泊まっていいそうです」ゆきが部屋にあがってくる。
「そう、よかった」
「あの……荷造りしている間だけ、一緒にいてくれませんか?」
「もちろん。友達の家までも送るよ」
「本当に近所なんで、大丈夫だと思いますが」
「いや、僕が気になるから」拓海は言いはった。
すっかり暗くなった夜道を歩く。拓海はゆきのボストンバッグを持ち、並んで歩いた。
「すいません。こんなことになって」
「ゆき先生のせいじゃないから」
「楽しいこともしたかったのに」ゆきはそう言って、拓海を見上げ笑った。
ゆきのアパートから徒歩で二十分くらい。電車で行くと一駅らしいが、徒歩の方が直線距離にすると近いようだ。友達のアパートは比較的新しかった。コンクリートうちっぱなしの外壁がおしゃれだ。エントランスでチャイムをならすと「今あけるね」と女の子の声がした。自動扉が開く。
「ありがとうございました。もう大丈夫ですから」ゆきはエントランスでそう拓海に告げた。
本当は玄関の前までついていきたかったけれど、その気持ちをぐっとこらえ「またね」と手をあげた。
帰り道、拓海は早足で歩いた。恐ろしい記憶に追いつかれないように、力一杯歩いた。
拓海は自分の手を見る。
両手は血に濡れていた。
五
「暑い」奈々子は窓から入る日差しに目を細めてから、這うようにしてベッドから抜け出た。ベッドサイドに置かれたリモコンに手を伸ばし、急いで冷房のスイッチを入れる。エアコンの古めかしい音がして、ワンルームの部屋が徐々に冷え始めた。
奈々子は膝までまくれあがったユニクロのルームウェアを引っ張って直しながら、冷蔵庫の麦茶を取り出す。ロフトで買った小さな食器棚から、百円ショップで買ったグラスのコップに麦茶を注ぐ。一気に二杯飲み干して、やっと目が覚めて来た。
「今日はお休みか」奈々子は再びベッドに戻り、転がった。
土曜日。いつもは出勤するけれど、今日は特別なお休み。かず子先生が関西の学会に出席するため、臨時休診なのだ。
「あーあ」奈々子は声に出して溜息をつく。一人暮らしを始めてから、独り言が多かった。家のなかだけならまだしも、最近は外にいてもつい口に出してしまう。言ってから顔を赤らめることもしばしばだ。
「今日は見られないんだ」奈々子は天井をぼんやりと見ながら、再びつぶやいた。
結城は火曜日と土曜日の二回、診療所にやってくる。お休みはうれしいはずなのに、なんだか損した気分になっているのが不思議だ。
翌週から、結城は一人で診療所に来た。薄いブルーの半袖ワイシャツに、濃紺のパンツ。
「ノーネクタイで失礼します」結城は最初にそういって頭を下げた。
彼が診療所にくると、相変わらず空気が一変する。彼はそんな雰囲気にも慣れているのか、何事もないように仕事を進めた。
「納品リストのチェックをお願いします」結城に手渡される書類を受け取るとき、かならずその長くてまっすぐな指を見つめてしまう。彼の存在があまりにも現実離れしていて、奈々子は何度結城に会っても、慣れることができなかった。
それは診療所の皆も同じようで、結城がくると、なんだかんだと理由をつけて、待合室にのぞきにくる。かず子先生でさえそうだ。いつのまにか彼のくる時間の待合室は、女性達で溢れかえるようになった。
ただ美しいというだけじゃない。不思議な魅力を持っている人。
カーテンを開けて、外を見た。東京の下町。小さなアパートや一軒屋がぎっしりと詰め込まれている。
奈々子の出身は群馬だ。専門学校のために東京に出て、そのまま東京に就職した。たまに「帰りたい」と思うときがある。東京に友人はいるし、今の職場を変えるつもりもない。ただ時々、脳裏に真緑の山が広がる。葉っぱのかおりと、川の流れる音。そんなとき、自分の居場所はここではない、と感じるのだ。
「何着てこうかな」奈々子は作り付けのクローゼットを開けて、ドレスを選んだ。
今日は結婚式の二次会だ。専門学校時代の友人で、都心の大学病院で医療事務として働いている。もう二十六歳。そろそろ周りは名字を変え始めている。群馬の友達のなかには、もう子供が三人もいる子もいる。東京にいるとそれほど感じないが、やはり適齢期なんだろうと思う。
「出会わないなあ」奈々子はクローゼットからグレーのドレスを取り出しながらつぶやいた。
テレビ横の姿見を見て、ドレスを合わせてみる。膝までの柔らかなラインのワンピース。シフォンがふわっと広がっていて、上品に見えた。
「これに、この間買ったパープルのサンダルと、アクセサリーはどうしようかな」奈々子は姿見の横に置いてある小さなアクセサリーボックスから、大振りのパープルのネックレスを取り出した。
「いいかも」もちろん本物ではないけれど、豪華に見えておしゃれだ。
再び鏡をみて、自分のヘアスタイルをチェックする。
肩より少し下まで伸びたストレート。髪色を本当に少しだけ明るくしている。パーマはかけていないから、アップにするのは大変だろう。
「念入りにブローすれば、いいかな。前髪だけちょっとアップにしよう。ああ、そうだ。今日、場所どこだっけ」奈々子はワンピースとネックレスを姿見にひっかけて、ベッドサイドに置いてある自分の鞄を引っぱった。仕事で使っている、キャメル色のレザーバッグだ。
「あれ、ないな。なくしちゃうと嫌だから、鞄に入れたつもりだったんだけど」奈々子は鞄のなかをかき回し、それから中身を全部だして、ポケットというポケットを全部調べた。
「まずい。ないや。どこやったんだろう。家かな?」奈々子は部屋を見回した。
ワンルームの、探すところは限られている。
郵便物を一時的に入れておく場所、テレビの後ろ、ベッドの脇、床に落ちているものをすべて持ち上げて調べたが、どこにもなかった。
「どうしよう。やっぱり診療所かな」フローリングにへたり込んだ奈々子は、ベッドサイドのデジタル時計を見た。
「電話して聞こうかな。ああ、でも、渡さなきゃいけないメッセージカードが入ってたんだ。診療所よって、それから……。急がなくても、間に合うな」奈々子はうーんと伸びをして「でも、なかったらどうしよう。そうしたら恥を忍んで電話して、もう一度カード頂戴って言えばいいか」奈々子はそう言うと、立ち上がってシャワーを浴びにバスルームへと入って行った。
診療所裏口の鍵をあけた。直接診察室に通じる扉。かず子先生はいつもここから出入りしていて、外階段を上がるとかず子先生の自宅だ。
室内は空気が淀んでいて、むっとした。待合室に入ると、迷わず冷房のスイッチをオンにする。天井に埋め込まれたエアコンから、冷たい空気が流れ出てきた。奈々子はほっと息をついた。
誰もいない診療所は、少し不気味だ。外は驚くほどの快晴なのに、室内はなんだか陰気くさい。この診療所の古さと、あと、やはり病院だということが、気持ちを落ち込ませるのかもしれない。
他に人がいれば、そんなこと気にもしないのに。奈々子は三年ほど前に行った、絶叫病棟というお化け屋敷を思い出して、ぶるっと身震いした。
受付の蛍光灯をつける。狭いスペースだ。カウンターにモニターとキーボード、背面にはカルテを入れてある、大きな棚。子供の目を楽しませるため、ミッキーマウスやアンパンマンなどの人形も一緒に飾られている。
奈々子はカウンターの上をざっと見渡す。招待状の入った、小さな白い封筒は見当たらない。車のついたグレーの椅子を引っ張りだして、下を覗き込む。カウンターの下には、モニターに接続されたコンピュータ本体と、たくさんのケーブル、それから処方箋を印刷するためのプリンタが置かれていた。
「この奥かな?」奈々子は身を屈めて奥を覗き込むが、光がとどかずよく見えない。奈々子は自分の姿を見下ろして、顔をしかめた。せっかくきれいなドレスを着て来たのに、ここに膝をついて探しまわるのはできれば避けたい気がした。
奈々子はすこし考えてから立ち上がり、まずは筆記用具やメモ帳、診察券をストックしておくスタンドなど、カウンター周りの様々な小物をどかして探すことにした。
結局はカウンター下に入らなくちゃいけないだろう、ということは薄々感じていたが、膝をつかなくて見つかるなら、ラッキーという気持ちだった。
奈々子はここでほぼ全てのことを行う。頻繁に鞄からものを取り出すし、口を開けたまま足で鞄を蹴ってしまったこともある。だからここにないとしたら、あとはもうどこにあるのか見当もつかなかった。
いろいろ物を動かしながら、ふと自動扉の外を見ると、人影が見えた。太陽の光でちょうど顔が影になっているが、大きなクーラーバッグを肩から下げているように見えた。
「あれ?」奈々子は顔を見ようと、待合室の方に身を乗り出した。
その人物は扉に吊るされている「休診」という文字を読んで、肩を落としたように見えた。
「あれはもしかして……」奈々子は慌てて待合室に出て、自動扉を手の平で軽く叩いた。結城がすぐに気がついて、少し恥ずかしげな顔をした。
「今開けます」奈々子は平静を装うと、待ってというように手で合図した。本当は心臓が爆発しそうに動いていて、足がもつれそうになる。
自動扉上部にある電源のスイッチを入れると、ゆっくりと扉が開いた。熱気が室内に流れ込む。結城は照れたような笑顔を浮かべながら、診療所に入って来た。
「お休みでしたね。すっかり忘れて……」結城は手でおでこにかかる黒髪をかきあげた。
「暑い中、ご苦労さまです」奈々子は頭を下げ、それから急いで休憩室に走り、自分のために買い置いてあったスポーツ飲料を取りだした。
待合室に入ると「どうぞ」と結城に差し出す。結城は「……すみません」と言って手にとった。「ありがとうございます」
「もしよければそちらに座って、少し涼んでからお帰りになられたらいかがですか?」奈々子はそう言ってから「変に思われたらどうしよう」ととたんに不安になる。
結城は「じゃあ、お言葉に甘えて」と言って、クーラーバッグを床に下ろし、腰掛けた。
ペットボトルのフタをひねると、プラスチックが割れる音がする。結城は一気に半分ほど飲み干して「生き返った」と笑顔を見せた。
奈々子はなんと返事をしてよいものかわからず、背を向けて受付のなかに入った。仕事もないのに定位置に座る。結城は目を閉じて、冷房の風を顔に感じているようだ。少し微笑んでいる。
「かず子先生は学会でしたね」結城が目を閉じたまま話しかけた。
「はい」奈々子は必要もないのにコンピュータの電源を入れた。ジーっという通電する音がした。
「手帳に書いたのに……営業に向いてませんね」結城はにこっと笑って、再びペットボトルに口を付けた。「戸田さんは、どうしていらしてるんです? 今日はおしゃれだし」
奈々子は恥ずかしくなって、下を向いた。「あの、忘れ物をとりに寄ったんです。でもみつからなくて」
「何を探してるか、伺ってもいいですか?」
「結婚式の二次会の招待状です。それがないとどこでパーティがあるのかわからないんです」
「それは困りますよね。お手伝いしましょうか」結城が腰をあげかける。
「いえいえ」奈々子はあわてて手を振った。これ以上近くに寄られたら、卒倒するんじゃないかというぐらい、血液が身体中を猛スピードで駆け巡っているようだ。
奈々子は結城の視線に耐えきれず、椅子を引いて、カウンターの下をのぞいた。さっきは躊躇して入れなかったが、今なら何の迷いもなくカウンター下に潜り込んで招待状を探せそうだ。
膝をついて、カウンター下に頭をいれる。暗くてわからないが、プリンターの奥の方に手を伸ばしてみた。しばらく探っているうちに、封筒のようなものが指先にあたった。「あ、これ」
すると肩を叩かれた。「そんなにきれいなドレスを着ているのに、汚れてしまいますよ。僕がやりますから」結城はそういうと、奈々子の腕をとってゆっくりと立たせた。結城は少し躊躇してから「失礼します」と言って、奈々子の膝についた埃を手ではらった。
奈々子を後ろに退かせると、結城はカウンター下に潜り込んだ。ワイシャツの背中から、肌の感触が透けてみえるような錯覚に陥る。プリンターを少しどかして、結城が封筒を引っ張りだした。「これですか?」
「……あ、はい、そうです」奈々子はあわてて返事をする。「どうしてこんなところに……」奈々子は何か言葉をつなげなくてはいけない気がしたが、何をどう話したらいいのか混乱してわからなくなっていた。
「ここにもしかして、封筒を立てかけたりしました?」カウンター下から出て立ち上がった結城は、カウンターと壁の隙間に指を走らせる。「ここに溝がありますよ。ここからおちたんじゃないですか?」
「ああ、本当だ。そうですね、きっと」奈々子は固まったまま、そう答えた。
結城の膝にも埃がついてる。払ってあげた方がいいか迷っているうちに、結城は自分の手で埃を払った。
「ありがとうございました」奈々子は後じさりするように、受付から待合室に出た。
「あれ、暗くなりましたね」結城が窓の外を見て、そう言った。
「え?」奈々子が振り向くと、空には真っ黒な雲が広がっていた。
「雷だ」結城が言うやいなや稲妻が走り、ドカーンと大きな音が響いた。
「最近、こういう天気が多いですね」結城は待合室に出てくると、ソファに寄りかかるように窓の外をのぞいた。「すぐ止むと思いますけど」
「そうですね」奈々子は結城から距離を置き、立ち尽くしていた。
「すみません、もうしばらく雨宿りさせてください」結城がいう。
「もちろんどうぞ。早く止むといいですね。次のお仕事に響きますから」奈々子が言った。
「今日はこれで最後なんです」結城はソファに座り、膝に両腕をのせ、前に乗り出した。「あとは会社に戻ってちょっとした書類仕事をするだけです。土曜日ですから」
「そうですか」奈々子は立ち尽くしたまま、そう答えた。
結城が自分を見てる。ああ、どうしよう。
「座りませんか?」結城が自分の隣を手で示した。「自分の職場でもないのに、なんだかずうずうしいですけど」そういって笑う。
奈々子は言われるがままに、結城の隣に座った。もちろん、少し隙間をあけて。
「でもラッキーでした、戸田さんがいてくれて。今日は時間が押していて、ほら、もう二時半ですよね。いつもなら一時ぐらいには伺えるのに、今日はなんだか手間取っちゃって。でもこの時間だから、戸田さんがいてくれた。もし誰もいなかったら、気持ちが随分落ち込んでました」
「わたしも助かりました」奈々子は招待状を手に、そう言った。
すると結城のお腹から、ぐうという音がした。「まずい」結城が照れて笑う。
「お昼ご飯、召し上がってないんですか?」
「急いでたもので」
「ちょっと待っててください」奈々子は立ち上がって、休憩室に行く。
テーブルの上に、みんなで持ち寄ったお菓子がある。奈々子はおせんべいと、クッキーを手にもって、結城に渡した。「こんなものしかないんですけど」
「ありがとうございます」結城が手にとる。早速包みを開けて、口にほおばった。「なつかしいお菓子ですね。子供の頃はよく食べました」
「わたしもこのお菓子、昔から好きなんです。おいしいですよね」奈々子は同意した。
窓の外では、地鳴りのような雨の音がする。奈々子は気になって何度か外を見た。
「雨が降って、少し涼しくなるかもしれませんね」
「ですね」
「大学の教室が……雨が降ると、独特の匂いがするんです。教室に。あの匂いが好きで、雨の日が好きでした」
「早稲田ですよね。今日結婚する友人のご主人も、早稲田だって言ってました」
「あれ? 大学名言いましたっけ?」結城が大きな瞳をこちらに向ける。
しまった。
奈々子はあわてて、顔を伏せる。「えっと、あの……」
すると横で、くすくすと笑う声がした。「見たんでしょう」
「えっと……」
「ブログ。よくあれだけ調べましたよね」結城はなんでもないというように言った。
「あまりにもたくさんの情報がネットに出ていて、びっくりしました」奈々子は恐る恐る言ってみた。
「他にもたくさんあるみたいですよ。成り済ましなのか、なんなのか、わざわざ僕が今何をしてるかをツイートしたりしてるみたいです」
「なんだか、怖いですね」
「写真も撮り放題。誰も禁止しないから」
「やめてほしい、って言わないんですか?」
「きりがないですから」そういうと結城は微笑んだ。
「どうしてこのお仕事にしたんですか? なんというかそんなに目立っているなら、モデルとかそんなような仕事も選べたと思うんですけど」
結城は奈々子を見てから「バイトでちょっとだけしましたけど、僕には向きませんよ。まあ、営業にも向いてないって今日証明しちゃいましたけど」と言った。
「研究職希望だったんですか?」
結城は再びにやっと笑って「そうそう。顔が災いして、営業に廻されました」と言った。
それを聞いて、奈々子は思わず吹き出した。
「いや、正直、まさに災いですから」
「それ、すごく怒る人、いると思いますよ」
「かもしれません。失礼でしたね。ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ、失礼なことを言ってしまいました。でも、その、なんていうか……」
「顔で?」
「そう、顔で得をしていると思いがちですけど、そうとは限らないんですね」
「もちろん」結城はペットボトルを最後までのみきって「この顔で得したことはたくさんあります。山ほど。ただ、周りの期待に答えられるような人物ではないので、それがすごくプレッシャーになることもありますね」
「へえ」
「内面はいたって普通で、すごく地味です。母子家庭だし、育ちも普通。女の子は洗練された扱いを期待するけれど、僕にはそれができないから、冷たくしちゃったり、みんなにいい顔するって怒られたりします。たいてい、最後は振られて、終わり」
「意外です。珠美が……あの受付の隣に座っている子ですが」
「わかりますよ」
「絶対に百戦錬磨だって」奈々子はそう言ってから、あまりにも失言だったと気づいて、顔を赤らめた。「ご、ごめんなさい」
結城は笑って「いいですよ。たいていそう思われますから。実際に百戦錬磨かもしれないし」
「え?」奈々子は思わず顔をあげた。
「冗談。ほら、小降りになってきましたよ」
窓の外を見ると、明るくなり始めている。
「長居させてもらいました。そろそろ失礼します」結城が立ち上がる。
「あ、はい」奈々子も慌てて立ち上がった。「傘、持っていらっしゃいますか?」
「車なんです。そこのパーキングに止めさせてもらってます」結城はそう言ってから、奈々子の姿をみる。「戸田さん傘は?」
「あ、置き傘があります」奈々子は答えた。
結城は窓から外をのぞくように見ると「駅まで、よければお送りしましょうか」と言った。「その、素敵なサンダル。雨だと台無しになってしまうから」
「あ、あの……」奈々子は舞い上がるような気持ちと、倒れるような緊張感とで、頬が紅潮するのがわかった。
「まだ、お仕事ありますか?」
「いえ」
「じゃあ、どうぞ。社用車なんで、後ろにはたくさん荷物が載せてあるし、かっこいい車ではないですけど」結城はそういって笑った。
「ありがとうございます。じゃあ、戸締まりしてきます」奈々子はそういうと、急いで支度をした。
胸が高鳴った。結城にしてみれば、ほんのちょっとの親切だろうが、奈々子にとっては夢のようだ。
最後の電気を消し、鍵を閉めた。雨は小降りになっていたが、ところどころに大きな水たまりがあり、奈々子はそれをはねるようによけて歩いた。
診療所の駐車場で、白いボックスカーにエンジンがかかっていた。結城はハンドルに両手を置き、奈々子の様子を伺っているようだ。奈々子は小走りに車に駆け寄り、助手席へ回る。中に座る結城が身体をのばし、助手席の扉を押し明けた。
車の中には結城の香りが充満しているようだ。奈々子はシートベルトをしめた。
「エアコンつけたんですけど、湿気はどうにもなりませんね」結城は左手でエアコンを調節した。「戸田さん、今日の会場はどこですか?」
「ええっと……ちょっと待ってください」奈々子は光沢のあるハンドバッグを開け、招待状を取り出した。「恵比寿です。なんて読むんだろ、これ」奈々子は首をかしげた。
「見せて」結城が身体をのばして、奈々子の手元を覗き込む。
「あそこかな? 恵比寿より代官山に近いかも。いずれにせよ渋谷経由ですね」結城はそう言うと、車をスタートさせた。
住宅街の細い道を通り抜ける。霧のような雨が未だふっており、ワイパーが規則的に動いた。
「いつまでふるんでしょう」奈々子はいった。
「うーん。もう終わりそうですけどね。ほら、向こうの空は明るいですよ」結城が指差す。
「ああ、本当。よかった。雨じゃあ、大変だなと思ってたんです」
「いい結婚式になるといいですね」結城が大通りに出るために、ウィンカーを出す。
「はい、そうですね」奈々子は結城の方をなるべく見ないように、窓の外に目を向けた。
沈黙が流れた。細かな雨が窓に当たる音と、結城の呼吸音。奈々子は手持ち無沙汰を隠すため、バッグの中を引っ掻き回して、整理してるように見せた。
「戸田さんは、どんな映画が好きですか?」結城が突然訊ねた。
「え、映画? あの、そうですね、泣かない映画が好きです」
「感動したり、悲しいのは好きじゃないってこと?」
「はい。泣きたくないんです。だからハリウッド大作とか、ラブコメディとか、そんな感じのを。でも最近は見に行かなくなりました」
「すぐDVDになったりしますからね」
「テレビでも放送しますし。何より一人でラブコメの映画を見にいくって、ちょっと勇気がいるんですよ」
「お友達を誘えばいいじゃないですか」
「うん、そうですね。そうなんですけど。あまり社交的な方じゃないので」
「そうなんですか?」
「はい、一人の時間も好きですし。マメな方じゃないです」
「ああ、僕とおんなじだ」結城が笑った。
駅が近づいて来た。そろそろこのなんでもない、平凡な会話も終わりに近い。
「僕も映画で泣きたくないです。僕は泣き虫なんで、映画館なんかで見たら、恥ずかしくて。駅前はちょっと車が入れないので、商店街の入り口でいいですか?」
「はい」
車は、昔ながらのお店が連なるアーケード商店街の入り口に止まった。
奈々子はシートベルトを外し、扉を開けた。
「ありがとうございました」奈々子は外にでると頭をさげる。
「いえいえ、こちらこそ。ごちそうさまでした。ほら、行ってください。雨がかかっちゃう」結城はそう言うと、手を振った。
奈々子は扉を閉め、屋根のある方へ走る。
振り向くと車が動きだすところだった。運転席の結城が、笑顔で会釈する。
ただそれだけなのに、なんてあの人は輝いてるんだろう。
奈々子も頭を下げると、車はスピードをあげて走り去った。
雨がアーケードを叩く。近所のおばさんや、子連れの母親達、パチンコ屋から出てくるおじさんが、目に入りだした。
とたんに現実に引き戻される。
「とりあえず珠美に報告しなくちゃ」奈々子はそういうと鞄から携帯を取り出し、駅に向かいながら電話をかけた。
「もしもし」珠美が眠そうな声で出た。
「もしもし、奈々子だけど。須賀さんの車に乗っちゃった」
「ええ??? どういうこと」珠美がとたんに声をあげる。
「あ、それから、珠美が須賀さんのことを百戦錬磨だって言ってたって、口が滑って言っちゃった」
「えええええええ????? 何よ、それ。ばかばかばかばか」電話口で珠美が喚いてる。
奈々子は笑いながら「ほんとごめん」と謝る。「なんか夢みたいな時間だった」奈々子はそう言った。
二次会の会場に入ると、幸せな音楽が流れる。受付には色とりどりの風船がかざられ、ウェルカムボードに友達とそのご主人の写真が飾られていた。
「ななこおー」理沙が小走りで駆け寄り、思わず互いに抱き合った。
「久しぶり」
「ほんと、久しぶりー」奈々子は笑顔でこたえた。
「何年ぶり? えっと、卒業以来だから、五年とか?」
「うん、そうだよ。変わらないねえ、理沙」奈々子はブルーのワンピースにウェーブのかかった髪をアップにした理沙を見て、そう言った。
「そう? やだ、ありがとう。うれしい。奈々子は、きれいになったじゃん」
「お世辞うまいんだから」
「ちがうちがう。ほんと、きれいになった。専門のときは、田舎から出てきましたって感じの女の子だったし。へへ、ごめんね。でも今は、おしゃれになって、本当にきれい。肌もきれいになったじゃん」
「これね。皮膚科にいったんだ」
「ええ? やっぱり、いい?」
「自己流でいろいろ化粧品変えるよりも、よかったよ。でも理沙は肌トラブルないじゃない? 行く必要ないよ」
「それが歳とともにさあ。わかるでしょう?」
「歳のことを言っちゃだめだよ」奈々子は笑ってかえした。
「典子もさあ、とうとう結婚しちゃったね」理沙はいたずらっ子のような笑みを浮かべた。
「うん」
「落ち着いたんだね」
「しぃ。声おおきいよ」奈々子は理沙の口に手をあてた。
「旦那様見た?」
「写真で」
「いい男だよね」理沙が言う。
奈々子は結城の顔が脳裏にちらついたが、「うん」と頷いた。
記帳を終え、ホールに入る。
広いホールだった。飴色の床に、きらびやかなシャンデリア。左サイドに長いテーブルがあり、その上に暖かな料理が並んでいた。
ホールの入り口で、ボーイから赤ワインをもらう。ふわっと甘い香りがした。
突き当たりには、新郎新婦が座るステージ。真っ白な花がたくさん飾られている。その上にはスライドショー用の白いスクリーン。
右サイドは一面ガラス扉で、その外には素敵な庭。夜のライトアップが美しかった。
奈々子は理沙とともに、専門学校時代の友人達が集まる場所へ合流した。
皆、会わなかった時間を話し合う。社会に出ると、あんなにも親しく毎日を過ごしていたのに、めっきり疎遠になる。不思議だ。
「奈々子、まだ同じところに勤めてるの?」佳子が言った。
「うん、そう。居心地いいの」
「でも女ばっかりだったじゃない?」
「そうだよ」
「出会いは?」
「男性との?」
「もちろんよ」
「ないに、きまってるでしょ」奈々子は笑いながら、赤ワインを口にした。
「大学病院はいいよ。男の人、いっぱいいる」佳子が胸をはった。
「付き合ってる人いるの?」
「いない」
「じゃあ、駄目じゃない」佳子は皆からつっこまれた。
「いやいや、でも、選べるってことよ」佳子はおどけて言った。
「次は、誰が結婚する?」誰かが言う。
「結婚っていうと、ハードルが高いな」理沙が顔をしかめた。
「理沙はじゃあ、付き合ってる人いるのね」
「まあ、一応」
「誰よ? 写真見せてよ」みんながよってたかって理沙に詰め寄る。
「見せるほどじゃあ、ないから」理沙が顔を赤らめながら、それでもまんざらでもなさそうに、スマホを取り出した。
「わあ、優しそうな人。どこで知り合ったの?」奈々子が訊ねた。
「職場。レントゲン技師なの」
「おお」皆から、歓声があがる。
そうこうしているうちに、ホールの明かりが暗くなる。
入って来たホールの入り口にスポットライトがあたり、扉が静かに開くと、真っ白なドレスを来た典子と、新郎の男性が腕を組んで入って来た。
「わあ、きれい」奈々子は思わずつぶやいた。
典子は背が高く、顔立ちもきれいだ。目の前を通り過ぎるとき、典子がにっこりと微笑んだ。ベールの下から、美しい背中が見える。
「新郎の高明さん、幸せものだ」理沙が言った。
「うん、そうだね」奈々子も頷いた。
司会の女性が、二次会を進めて行く。
奈々子は典子に挨拶をする機会をうかがっていたが、なかなか新郎新婦の前の人だかりがはけない。奈々子は理沙に「ご飯たべて待ってよう」と言った。
典子の好きな女性シンガーの曲が流れている。それほど親しくしてはいなかったけれど、それでもやはり人の幸せはうれしいものだ。
料理を片手に、ワインも進む。だんだんと楽しい気持ちが増して来た。
佳子が「ねえ、あっちのグループは、新郎の友達?」
「ん? そうじゃない?」理沙がサラダを口に入れながら答えた。
「新郎って、何してる人?」佳子が聞いた。
「医者、医者」誰かが言った。
「じゃあ、あれ、お医者様のグループ?」佳子が目を輝かせて言った。
「かもね」理沙が言う。
奈々子も気になって、目をこらしてそのグループを見る。確かに、まじめそうな人たちだ。
「ねえねえ、話しかけようよ」佳子が奈々子の腕を引っ張る。
「ええ? 恥ずかしいよ」奈々子は一歩下がった。
「誰か、一緒にいかない?」佳子が言った。
「いくいく」何人か手をあげて、固まりになってそのグループに近づいていった。
「奈々子、行かないの?」理沙がグラスを空けながら訊ねた。
「いいよ」
「付き合ってる人、いるの?」
「いない」
「じゃあ、こういうのチャンスじゃないの? それとも結婚願望がないとか?」
「そんなこともないけど、なんか尻込みしちゃうの」
「昔から、奈々子は男性に……なんていうか、極度の恐怖症?」
「恐怖症じゃないと思うけど、緊張しちゃうの」
「まだ、そうなんだ」
「うん」
「じゃあ、誰とも付き合ったことないの?」
「……うん」奈々子はうつむいた。
「やだ、もったいない! 若いうちだけよ、恋愛を楽しめるのは」理沙が言った。
「わかってるけど」
「ほら、行ってきなよ」理沙が奈々子の背中を押した。
「あ、ちょっと……ほら、典子の前、空いたよ!」奈々子は理沙の強引な後押しをはぐらかそうと、典子の方を指差した。
「うん、もう! 消極的なんだから。じゃあ、先にちょっと挨拶言ってこよ」理沙は医者グループと話している友達に「挨拶いくよー」と大きく声をかけてから、みんなで典子の前に集まった。
スポットライトがあたると、典子はますます美しかった。歓びで顔が上気している。典子は立ち上がり「みんなありがとう」と言った。
「おめでとう。素敵な旦那様、見つけたね」みんなが口々に言った。
「こちら、高明さん。これからもよろしくね」典子は完璧な仕草で、新郎を紹介した。
「わああ、かっこいい」誰かが言った。
高明は「ありがとう」とはにかんだ笑顔で返した。高明は確かに整った顔をしていた。どちらかというとスポーツマンタイプのすっきりした輪郭に、鍛えられた身体。適度に日焼けをして、笑うと白い歯が光る。クラスに必ず一人はいるだろう、という男性だ。
奈々子は高明を確かにかっこいいと思ったが、どうしても結城と比べてしまう。あの顔立ち、雰囲気。クラスには絶対いない。学校全体にさえいない。日本中を探しても、おそらくあの人しかいない、そう思わせるような特別な存在。
違うグループが新郎新婦に挨拶をしようと後ろで待機しているため、奈々子たちは早々に元の場所に帰って来た。音楽はクラシックに変わっている。
奈々子はワインを空けて、新しいグラスをもらう。気持ちよく酔っている状態だ。明日は休みだし、一日ごろごろしてればいい。奈々子はそう思うと、新しいグラスから大きく一口飲んだ。
そこで「すみません」と声をかけられた。
「はい?」奈々子は振り向いた。
ボーイが「戸田奈々子様ですか?」と訊ねる。
「はい」奈々子は頷く。
「玄関に、お待ちの方がいらっしゃるのですが」
「え?」奈々子は首を傾げた。
「どうぞこちらへ」ボーイは奈々子を促し、エントランスへ連れて行く。
奈々子は首を傾げながら、グラスを置いてついていった。
理沙も「どうしたの?」というような顔をしている。
奈々子は首を振って「わからない」と伝えた。
エントランスには、結城が立っていた。
白いTシャツに、黒のクロップドパンツ。裸足にグリーンのスニーカー。スエード素材だ。黒髪はエントランスの明かりに照らされて、ほんのりと赤く染まって見える。
「戸田さん。よかった、間違ってなかった」結城はそう言った。
奈々子はびっくりして「どうしたんですか?」と思わず大きな声をだした。
「気づいてなかったみたいですね」結城はそういうと、ポケットから鍵を取り出し、差し出した。「はい、これ」
「あ」奈々子は口に手をあてる。
「車におちてたんです。これ、家の鍵ですよね。今日なかったら、家に入れないから、すごく困るんじゃないかと思って」結城はそういうと微笑んだ。
「す、すみません」奈々子は恥ずかしくて、頭をさげた。
「いいんです。大丈夫ですよ。よかった、ちゃんと届けられて。一瞬だけしかお店の名前を見なかったから、もしここじゃなかったらどうしようと思ってたんです」
「ありがとうございます」奈々子は鍵を受け取り、深く頭を下げた。
「じゃあ、パーティ楽しんでくださいね」結城はそう言うと、背を向けた。ガーデンから門までの石畳を歩く後ろ姿が見える。
そして、その向こう、門のところに、一人の女性が立っているのが目に入った。
艶のあるショートヘア。かわいらしい顔。まっすぐで長い足。
その女性は結城に腕を絡めると、ちらりとこちらを向き、微笑んだ。
そのまま二人は、夜の町へと歩いて行く。
奈々子は手元の鍵を見た。
キーホルダーのキャラクターは、長年使っているために、摩擦で顔がなくなりかけている。
「舞い上がって、急降下」奈々子は小さくつぶやいた。今夜は悪酔いしそうな予感がした。「もう帰りたい」奈々子は惨めな気持ちに唇を噛み締め、ホールの中へとかえっていった。
「おかえり」拓海はソファにごろりと横になったまま、玄関先に声をかけた。狂ったように手を洗ったので、心は落ち着きを取り戻している。
大丈夫だ。
「ただいま」リビングへと続く扉が開くと、結城が入って来た。そのまま拓海の座っている革張りのソファに強引に座ろうとする。
「あっちいけよ」押し出されそうになった拓海は、口を尖らせて文句を言った。
「俺、ソファがいい」結城はそういうと身体をのばした。
拓海はしぶしぶソファから転がりでた。
「ビール飲む?」拓海は転がり出たついでに、キッチンに立ち上がる。
「うん」結城はソファに転がりながら答えた。
拓海はシルバーの冷蔵庫から、冷えた缶ビールを二本出し脇にかかえる。結城の前のガラステーブルに置いた。
「つまみは?」
「そっちの棚にナッツ入ってる」拓海は「お前がとれよ」といわんばかりに、あごで指示した。
結城はソファから身体をのばして、キッチンカウンター下の棚をあけて、缶を取り出した。
缶を開けると、プシュっといい音がする。
拓海は結城を押しやるとソファに並んで座り、結城を待たずにビールを一口飲んだ。苦みと心地よい刺激が、食道をとおりぬける。続いて結城もビールを口にして、ナッツを一つつまんだ。
「どこ行ってたの?」拓海は訊ねた。
「車に鍵を忘れてった子がいたから、それを届けにいってた」結城が答える。
「車?」
「社用車。今日仕事先で乗せたんだ」
「渡せたの?」
「うん」結城がナッツを口に放り込む。
「よかったな」拓海は言った。
「うん」結城はつまらなそうに答えた。
「どうした?」
「ん? 何が?」
「お前、つまんなそうだし」拓海はビールを飲みながらそう言った。
「わざわざ持って行かなくてもよかったかも」
「どうしてさ」
「だって彼女、うれしそうじゃなかった」
「びっくりしたんじゃない?」
「そうかなあ」
「ありがとうって言われただろう」
「うん」
「じゃあ、いいじゃないか」
「振り向いたら彼女の背中が見えたんだけど、やけに落ち込んでる感じだった。うなだれてるっていうの?」
「気のせいじゃない?」
「俺、そういうの、よくわかる」
「お前が傷つけるようなこと言ったんだろう」
「言わないよ。取引先の人だよ。そんなこと言う訳ないじゃん」
結城はそう言うと、口を尖らせる。そんな結城の様子をみて、拓海はなんとなくぴんときた。
「おい、お前一人じゃなかったろ?」
「ああ、友達と」
「結城の友達、女しかいないじゃん」
「うん、紗英と」
拓海は呆れた。「なんで、女の子となんか行ったんだよ」
「だって、メールに暇って入ったから、じゃあ飲む? って返しただけだよ」
「お前、馬鹿だな」拓海は結城を鼻で笑った。
「なんだよ。頭はいい方だぞ」
「そういう頭じゃなくてさ。紗英って、めちゃくちゃ美人じゃないか」
「かな?」
「そうだよ。モデルしてたときに知り合ったんだろ」
「うん」
「その子はきっと、紗英を見て落ち込んだんだよ。その子ってどんなこ?」拓海は聞いた。
「普通の子」結城が言った。
「じゃあ、きっとそうだ」拓海はビールを一口のんで、そう言い放った。
「だって、ただの友達じゃないか。俺は友達と一緒に歩けないの?」
「本当にただの友達?」拓海はちらっと結城の様子をうかがった。
「うん。やってないよ」結城はそう言うと、缶の中からピスタチオだけ選り出した。
「おい、ピスタチオなくなっちゃうだろう」
「俺、これが食べたい」結城は拓海が手を出せないように、缶を引き寄せた。
「キスは?」拓海は腕をのばして缶をとろうとした。
「……それは、ちょっとしたかな?」結城は急いでピスタチオを五個ほどとると、缶を拓海に返して来た。
「ほら!」拓海はそれみろ、という顔をして見せた。
「でもやってない!」口をもぐもぐさせながら、結城が抗議する。「気軽に手を出すのはやめたんだ! セフレはつくらない。これだって言う子にしか、手を出さないって決めた」
「キスはいいのか? 随分思わせぶりじゃないか」
「そりゃ……なんか、今、したほうがいいのかなあっていう雰囲気ってあるじゃないか」結城がビールを飲む。もうほとんど空だ。
「もう一本飲む?」拓海が聞くと、結城は首を振った。
「どうして、こんな男が人気なんだろ」拓海は缶からピスタチオを選り出し始めた。
「やっぱ、顔じゃない?」結城がにやりと笑う。
「こんな、男か女かわかんないような、顔が?」
「セクシーだろ」
「ふざけんな」拓海はビールを飲み干し、缶を握りつぶす。
「ピスタチオ」拓海の握るいくつかのピスタチオに、結城が手を伸ばした。
「駄目」
「なんでだよ」
「腹立つから」拓海はそういうと立ち上がった。
「俺は昔からこの顔なんだから、仕方ないだろ。女みたいって言うなよ。お前なんか子供みたいな顔じゃないか。ちびだし。いつまでたっても、大人の色気が出てこない」
「おい、童顔のこと、いうなよ」拓海はキッチンで、ピスタチオの殻をむく。
「お前だって、女みたいだって言ったじゃないか」結城は缶をかき回し「ピスタチオがもうない!」と言った。
「これで全部。俺が食べる」
「ずるいぞ」
「お前いっぱい食べたじゃないか」
「俺はピスタチオじゃないと食べたくないんだ」
「わがままだよ。結城は全部がわがまま」拓海はピスタチオを口に全部入れてしまうと「おわり!」と声を上げた。
結城は舌打ちすると「拓海は意地が悪い」と言ってソファを立った。「先、シャワー使う」
「どうぞ。おい、殻とビールの缶、捨てろよ」
「はいはい」結城は渋々テーブルを掃除すると、洗面所へと立った。
結城の後ろ姿を見ながら、拓海はリビングの電気を消す。ソファの左手には東京の夜景が広がっていた。ガラスに映る自分の姿を眺める。確かに童顔で、高校のころから時が止まってしまったように見えた。
実際、時は、止まっている。
ゆきの笑顔が脳裏をよぎる。懸命にその映像を頭から追い出した。
彼女は自分とはまったく関係のない、赤の他人だ。いままでも、これからも関わることのない人。
拓海は、窓に向かって右側、ベランダに面した部屋に入る。引き戸を閉めるとき、ちらりと隣の結城の部屋を見た。
一緒に暮らし始めてから、あの扉が開け放されていることはなかった。
六
「帰りたい」奈々子は顔を覆った。
「もうちょっとガンバレ」珠美がそっと耳打ちする。奈々子はしぶしぶ仕事に戻る。こんなにも憂鬱な日はなかった。
火曜日。結城が診療所に来る日だ。時計を見るとそろそろ午前の診療が終わる時間だ。待合室にはまだ二組の患者さんが待っていて、どんなに奈々子が結城に会いたくなくとも、席を離れる訳にはいかなかった。
二次会の帰り道、奈々子は我慢できずに珠美に電話して、結局は珠美のうちで朝まで話をした。珠美はせっかくの休みの夜を、惜しみなく奈々子に使ってくれた。ネットであの女性が誰かまで調べようとした。
「ねえ、それはやめよう」奈々子は好奇心を抑えてそう言った。
「だってめちゃくちゃ美形だったんでしょ? じゃあきっとモデルだよ。調べればわかると思うよ」ローテーブルの前にあぐらをかいた珠美は、右手にノートパソコンのキーボード、左手にビールの缶を持って、そう言った。ノーメークのつやつやした頬は、アルコールで上気していた。
「たぶんね。でも一瞬見ただけだし、もう顔忘れちゃったよ」奈々子はそう言ったがそれは嘘で、あの光景はしっかりとまぶたに焼き付いていた。「それにもう一度彼女の顔を見たら、さらに打ちのめされそう」奈々子はそういうと、テーブルにつっぷした。
「住む世界が違うんだよ」珠美はそう言うと奈々子の頭をなでた。
「知ってる」奈々子は使い古されたキーホルダーを思い出した。「わかってるけど、まざまざと見せつけられて、あがってこれないの」
「あのランクの男子は、身近にいない方がいい。いても近寄らないの。私は完全に一線を引いて騒いでるんだから。わかるでしょう?」
「うん、わかる」奈々子はちらっと珠美を見た。
「見るだけでお腹いっぱいなの。須賀さんのファンサイト立ち上げてる女子だってそうよ。近寄らずに見てるだけ。奈々子も線を引きなよ」
「うん。引いてるつもりだったんだけど。なんていうか……話をしたら割と普通の人だったし、ちょっと気を緩めちゃって。はあ、でも、やっぱり現実の人じゃないな」奈々子は顔を起こし、ビールを一口飲んだ。
ちっともおいしくない。アルコールって、気分によってこんなにも味が変わるんだな。
「ほら、きたよ」珠美の声で奈々子は顔をあげた。いつのまにかぼんやりとしてしまっていた。
自動扉が開いて、結城が入って来た。いつものシルバーの冷蔵バッグを肩からかけている。会計を待っている患者さんがいるため、結城は一歩後ろに下がって受付が空くのを待っている。
こんなときまで、彼の輝きは衰えない。アルコールとは違って、結城は気分でかっこよく見えたりそうでなかったりなんてことないんだな、などと奈々子は自嘲気味に考えた。
受付を終えた患者さんが振り向くと、あっと驚いたように後じさりした。
結城は小さく会釈して、それから受付の前に立った。患者さんは結城から目を離さずに、帰り支度をしている。母親の足にすがりついていた小学校前の女の子も、結城の横顔を見つめていた。
結城の魅力は、どんな女性をも釘付けにするらしい。
奈々子を見ると結城は優しげに会釈をした。「先日は恥ずかしいところをお見せしてしまって」
「いえ、こちらこそ、ありがとうございました」奈々子は内心を悟られまいとして、表情を変えずに会釈を返した。
結城は少し不思議そうな顔をして、それから珠美に「納品リスト、よろしいですか」と手渡した。
珠美は彼女の中では最高と思われる笑顔で「はい」と返事をし、薬品とリストを交互に見てはチェックし始めた。
結城の気配を感じて、鈴木さんが受付に顔を出した。彼女の顔も笑顔になる。
「お世話になります」結城は彼女の顔を見て笑顔で挨拶をする。それだけで鈴木さんはとろけそうな顔になった。
「はい、大丈夫です」珠美はリストにサインをして、結城に手渡す。
「ありがとうございます」結城はリストを再度チェックして、納品書だけ破り取り珠美に手渡した。
「今度、かず子先生とちょっとお話したいんですが」結城がバッグからチラシを一枚取り出す。「抗アレルギー剤なんです。アメリカではもう何年も前から使用されていたんですが、日本でもやっと認可がおりて。当社でも扱うことになったので、そのご説明をさせていただきたいと思いまして」
珠美はちらっと診察室の方をのぞき「今日はちょっと難しいですね」と申し訳なさそうに伝えた。
「土曜日はいかがですか? 午前診療なので、終わり間際の短い時間にお話させていただければ」
「聞いてきますね」奈々子は立ち上がり、診療室のかず子先生を訊ねる。かず子先生と話している間も、奈々子は背後の受付の気配が気になって仕方ない。
「線をひく」思わず口にだして、かず子先生が「何?」と問い返した。奈々子はあわてて「すみません、独り言です」と言った。
「土曜日、お待ちしております」受付に戻ると、奈々子は結城と目を合わせないようにそう伝えた。
「わかりました。よろしくお願いいたします」結城が頭をさげた。
「それじゃあ」結城はバッグを肩にかけ直し、診療所を出て行こうとする。奈々子はその背中を目で追った。
すると、ぱっと結城は振り返り、受付に再び引き返して来た。カウンターに腕をのせ身を乗り出すと奈々子に言った。
「あの人、僕の恋人じゃないです」
奈々子は驚いて結城を凝視する。
「それじゃあ、土曜日に」結城は全部を見通していると言わんばかりの笑みを浮かべて、診療所を後にした。
自動扉が締まり、扇風機の音が響く。待合室で帰れずにいた患者さん親子は、呆然とした表情をしている。
奈々子は顔があつくて、思わず手であおいだ。
「奈々子……やばい」珠美が待ち合い室の親子にも聞こえてしまうほどの声で話しかける。
診察室から受付に顔を出した鈴木さんも「聞いちゃった」と言った。
午前の診療が終わり休憩に入ると、あっという間に奈々子は取り囲まれた。
「やばいね、あれ」珠美はさっきからこれしか言わない。
「いやあ、やばいよ」鈴木さんも同意する。診察室の真ん中、女性達は立ったまま話続けた。
「あのときの、須賀さんの顔見ました? 絶対わかってやってる」珠美が言った。
「何? どんな顔なの?」八田さんが興味津々という顔で訊ねる。
「あの顔みて、ドキッとしない女性はいないんじゃない?」鈴木さんが興奮して言う。
「こんなおばあちゃんでも?」かず子先生は白衣を脱ぎながら訊ねた。
「ええ、そうですよ。年長さんのなっちゃん、ほら、最後から二番目の患者さん。あの子も須賀さんから目を離しませんでしたよ。ねえ」珠美が鈴木さんに同意を求める。
「そうそう」鈴木さんは腕組みをしながらうなずいた。
「恋人じゃないって、どういうこと?」鈴木さんが訊ねる。
珠美は「言ってもいい?」と奈々子に訊ねてから「この間奈々子の忘れ物を須賀さんが届けてくれたらしいんですけど、すっごい美人と一緒にきたって」と言った。
「そうなの?」かず子先生が訊ねので、奈々子は「はい」とうなずいた。
「それで奈々子は、なんていうか、落ち込んでて」
「やだ、落ち込んでないったら」奈々子は思わずとりつくろったが、かず子先生が「そりゃ落ち込むわよねえ」と納得したように言った。
「そしたら今日帰り際に、『あの人、僕の恋人じゃないです』って言ったんですよ。みんなの前で。全部わかってやってるんですよー」
「確信犯だね。やばいよ、奈々子ちゃん」鈴木さんが奈々子の腕をつついた。
「枕営業?」八田さんがとぼけた顔で言う。
「わたしにそんな営業かけてどうするんですか。かず子先生にならともかく」奈々子は動揺しながらも返した。
「いやーん。土曜日、どんな営業かけてくれるのかしらん」かず子先生はおどけた。
「でも……あの人、すごいですよね。自分の魅力を充分にわかって、行動してる。やっぱり相当いろいろ経験してますよね?」珠美が眉間に皺を寄せてそう言った。
「須賀さん、自分の内面は地味で、女の子の期待通りの洗練した扱いができないって言ってましたよ。最後は振られておしまいだって」奈々子は言った。
すると全員から「馬鹿ねー」「それも手よ」「嘘に決まってんじゃない」と次々につっこまれた。
「とにかく奈々子ちゃん、警戒してね」鈴木さんが奈々子の目を見て言う。
奈々子はその真剣な眼差しに押されて、思わず力強く「はい」と答えた。
七
「おつかれさまでした」園長がグラスをかかげた。
金曜日の夜、駅前の焼き肉屋で、一学期のおつかれさま会を行う。
今日終業式が無事終了した。これから長い夏休みが始まる。ただし一週間後には夏祭りを予定しているし、お盆以外は希望者を対象に夏期保育を行う。拓海は引き続き出勤する。
個室は総勢二十人のスタッフを入れるには少々狭かった。長いテーブルに炭火焼用の網が三つ並んでいる。
拓海はすぐに動けるように、個室入口近くの末席に座った。隣にゆきが座る。
誕生日席に座る園長が「乾杯」と声をかけると、皆がグラスをあわせた。ガラス音が響く。拓海も近くの先生たちとグラスをあわせた。
合皮のソファに、合板のテーブル。高級店ではなかったけれど、地元ではおいしいと評判のお店だ。
園長が「今日は遠慮なく食べてください」と声をかける。先生たちからは歓声があがった。炭火に火がつけられる。つぎつぎとお肉の盛り合わせの大皿が運ばれて来た。拓海はトングをとって、順に焼いて行く。こういうとき、男性である拓海は、焼き担当になるのだ。
園長を含めすべて女性。園長はこの幼稚園に雇われていて、オーナーという訳ではない。オーナーは幼稚園の敷地の隣にあるお屋敷の六十代の夫婦で、経営にはほとんど口を出さない。
拓海のいるテーブルには、ゆきと中堅どころの二十代後半の先生二名がいた。考えてみれば中堅どころの先生たちは、拓海とほぼ同年代だ。
「焼いてばっかりじゃない、拓海先生」年中を担任しているさち先生が言う。「食べて、食べて」
さちは拓海のお皿に、焼いたお肉をのせて行く。
「ありがとうございます」拓海は礼を言って、箸をもった。
「拓海先生って、二十七なんでしょ?」さちの隣に座っていた幹子先生が訊ねる。
「はい」
「じゃあ、私と同じ年じゃん」幹子は酔いも回って来たのか、気楽な口調で言う。「今までなにしてたの?」
「えっと、ぷらぷら」拓海は曖昧に笑ってそう言った。
「ニート?」
「そんな感じです」
「へえ、意外」さちがビールを片手にそう言った。
さちは面長で印象的な額を持っている。目は聡明そうだが、ぱっと見愛嬌があるタイプではない。ただ話をすると、とても印象のよい人だ。
「男の先生が入って来てくれて、本当によかった」幹子がいう。「子供達と身体を使って遊ぶのは、やっぱり男の人の方がうまいもの」
「ですよね」ゆきがうなずく。
幹子はがっしりとした体格の女性で、ヘアスタイルは肩ぐらいまでのボブ。いつもおおらかに笑う。子供達からは特に慕われていた。
「拓海先生って、草食男子かと思いきや、意外とたくましいよね」さちが言う。
「顔がこんななんで、密かに鍛えてるんです」拓海は笑う。
「本当に若いよね。十代にも見える。秘訣を教えてほしいわ」幹子が自分の頬をなでた。
「僕はやっぱり歳相応に見られたいですね。それはもう、昔からそう思ってました」
「ないものねだりね」みんながうなずく。
「拓海先生、彼女いるの?」さちが訊ねた。
「いませんよ。なんでです?」
さちは「いや、拓海先生が女の子と付き合ってるところ、まったく想像できないから」と言って笑った。
「あ、ひどい」拓海は口をとがらした。「僕もそれなりにありますよ」
「そりゃ、そうだ。二十代後半でなんもないってことはないよ」幹子が肉を口にいれる。
「なんでさっきから僕の話ばっかり?」
「だって唯一の男性職員だよ。気になるよね」さちが冗談めかして言った。
「そうそう」その場にいるみんなが頷いた。
拓海は妙に照れてしまって「何いってんですか」と言いながら、再び肉を焼きだした。
「これまでどんな人と付き合ったの?」さちが訊ねる。
「言わなくちゃ駄目ですか?」
「新米は言わなくちゃ駄目」
「えっと……年上の人とか」拓海は仕方なく何人かを思い浮かべてそう言った。
「やっぱり」幹子が両手を叩く。「年上から可愛がられてそう」
「かわいい年下って、魅力だよね」さちがうなずく。
「僕はさち先生と同じ年ですよ」
「だから、拓海先生は理想じゃないんだけどさ」さちが笑ってビールを飲んだ。
拓海はお肉をどんどん各自のお皿に載せて行く。
「ゆき先生は? どんな人がタイプなの?」幹子がビール片手に訊ねた。
それまで黙っていたゆきは、少し考えてから「頼りになりそうな人ですかね」と言った。
「はい、拓海先生、アウト」さちは早くも酔ってきたのか、いつもより大きな声でそう言った。
「アウトってなんですか」拓海は憮然とした表情を見せる。
「だって拓海先生は、かわいいもの。頼りになるって感じじゃないよね」さちは同意を得るように、ゆきに笑いかける。
ゆきは笑って「そうですね」と答えた。
「ああ、そうだ!」さちが思い出したように言う「この間、何にもなかった?」
「は?」拓海は首を傾げた。
「ほら、拓海先生泥酔しちゃってさ、ゆき先生に引きずられて帰ったじゃん」
「あ、ああ……」拓海は動揺したが、笑って「まさか」と言って返した。
「拓海先生、本当にべろべろに酔っちゃって」ゆきも笑ってそう付け加える。
「気をつけます」拓海は本心からそう言う。神妙にうつむいた。
「ビール二本追加お願いしまーす」園長の周りに座っていたベテラン職員が声をあげる。
立ち上がろうとしたゆきを制して、拓海が席を立ち、忙しそうに廊下を歩いていたお店の人に注文を告げた。
席に戻ると、今度は幹子の理想のタイプの話に変わっていた。拓海はほっと胸を撫で下ろす。
「だいたい、幹子先生は理想が高すぎるの」さちは偉そうに言う。
「わかってるけど、こればかりはタイプの話しだからね」幹子はビールを一口飲むと、頬を膨らます。「人の遺伝子は、自分に足りない物を補おうとするものなの。私は鏡を見ても満たされない。遺伝子が足りないって言ってる部分を求めてるわけ」
「幹子先生の歴代の彼って、じゃあすごいイケメンなんですか?」
「そう」幹子は頷く。「でもイケメンだから、すぐに他の女にとられちゃうのよね」
「そうなんですか」ゆきは言う。
「ちがうちがう」さちが首を振る「言ってるだけ。見たことあるけど、顔はほどほどだったよ」
「ちょっと! 言うだけはタダなんだから、今言わなくてもいいじゃない」幹子は笑いながら言った。
「そういえば、拓海先生のお友達、すごいイケメンですよ」ゆきが言った。
「そうなの?」幹子は目を輝かせる。
「まあ、そうですね」
「写真もってる?」
拓海は素直にスマホの写真を見せた。
「ちょっと、何コレ」さちが驚いて声を出した。幹子も興奮してスマホを奪うように手に取った。
「モデル?」
「今は違います」
「ねえ、このお友達、夏祭りつれておいでよ」幹子が言った。
「いや、こないと思いますよ。人見知りだし。こいつが来ると、こいつが主人公になっちゃう」
「そっかあ。残念だなあ。一度見てみたい」幹子が溜息をつく。
「だよね」さちも同意した。
「家にこんな人いたら、緊張して生活できないよね」幹子が肉をほおばりながらそう言った。「彼女いるの?」
拓海はしばらく考えてから「いないと思いますよ」と言った。「でも四六時中女の子と遊んでます」
「やっぱりね。とんでもなくかわいい子ばっかりだろうなあ」幹子がふてくされたように言う。「見てるだけなら、罪にならない。やっぱり見てみたいわあ。」
「だよね」さちが笑いながら同意した。
会計をすませ、皆駅に向かう。ゆきは「わたしはこっちなので」と言って、お店の前で別れをつげた。「おつかれさまでした」
拓海は友達の家までの暗い道を思い出した。ゆきが一人で歩くには、時間が遅すぎる。先生たちの一団をそっと離れ、駆け足でゆきに追いついた。
「あれ?」ゆきが振り向いてびっくりした声をあげる。
「送るよ」拓海は並んで歩き出した。
「みんなが不審がりますよ」
「いいよ、そんなの。ごまかせる」拓海はそう言った。
「ありがとうございます」ゆきが笑顔を見せる。その笑顔を見ると、拓海の心に不安が広がる。
日中は暑いけれど、夜は涼しい。
車が通る。
埃が舞い上がる。
大通りを逸れ、一本はいるとそこは静かな住宅街。街灯がぽつぽつと間隔を置いてならんでいる。
どこかで犬が鳴いていた。
「友達のうちだよね」拓海が訊ねる。
「はい」ゆきがうなずく。
「あれから、嫌がらせのメールくる?」
「……はい」ゆきが眉をしかめてそう答えた。「部屋の写真はなくなりましたけど、一日に数十件ほどメールが入ります」
「もう一度携帯変えてみたら?」拓海はそう言ってから、なんの解決にもなってないことに気づく。
「う……ん」ゆきが曖昧にうなずいた。
「やっぱり警察に連絡しようよ。なんとかしてくれるかも」
「大丈夫ですよ。嫌がらせだけですし。危害を加えられた訳じゃないから」ゆきが笑顔を見せる。
どうしてそんなに楽天的でいられるのか。
「友達の家に居続けるのも申し訳ないので、もうアパートに帰ろうとおもうんです」ゆきが言った。
「え?」拓海は驚いてゆきを見た。ゆきの白い肌が、暗闇に浮かんで見える。「だ、駄目だよ」拓海は強い口調でゆきを遮った。
ゆきは拓海の顔を見ると「大家さんと相談して、鍵を付け替えてもらうことにしました」と言った。
「それだけ? 危ないよ」
「自分でもいくつか鍵をつけるつもりです。家賃を払い続けてるし、引っ越しするお金もないんです。友達のうちにこのままずっといるのは無理なので……」
「実家に帰ったら?」
「実家から幼稚園まで軽く二時間はかかります。寝不足で倒れちゃいますよ」ゆきが笑った。
「でも……」拓海はゆきの無謀な行為を止めたかった。
「じゃあ、拓海先生んちに泊めてくださいよ」ゆきが冗談めかしてそう言った。
拓海は言葉につまる。
その様子をみてゆきが笑った。「冗談。でもありがとうございます。心配してくれてるんですよね」
「……泊めてあげたいけど、同居人がいるんだ」
「女の子?」ゆきが少し心配そうにそう訊ねた。
拓海はあわてて首を振る。「違うよ。さっきの幼なじみ」
「そっか」ゆきが言った。
二人はしばらく無言で歩いた。
「さっきはお友達の話しちゃって、すいませんでした」
「別にかまわないよ」
「一緒に暮らしてるなんて、びっくりしました」
「なんで?」
「お友達、なんていうか、一人でいるのが好きそうな感じがして」
「あいつはあんな顔だけど、普通だよ。休日はひげも剃らずにゴロゴロしてるし、シャワーだって浴びない」
「想像つかないな」ゆきがわらった。
再び無言になった。
どうやったらゆきを助けられるだろう。やっぱり警察に行くのが一番のような気がした。なんとしてもあのアパートに一人で住むことだけは避けさせたかった。
ゆきの友達のマンションが近づいてくる。暗い道だ。ここを一人で歩かせたくない。ゆきが心配でしかたなかった。
後ろから車が来る音がする。ヘッドライトが二人を照らした。拓海は無意識にゆきの腕をひっぱり、道路脇に寄らせた。
車が通りすぎる。
また静かな夜が来る。
ゆきが拓海を振り返り、見上げた。
拓海はほとんど反射的に、身をかがめてゆきの唇にキスをしようとする。
ゆきが目を閉じる。
自分の唇がゆきの唇に軽く触れて、それからはっと身をひいた。
ゆきが目を開く。
「あ、ご、ごめん」拓海は動揺して言葉が揺れる。
「キスをしたかったら、してもいいですよ」ゆきが意地悪をするようにそう言った。
拓海は下を向く。
震えてきた。駄目だ。
「ちがうんだ。ごめん。君を僕の暮らしに入れる訳にはいかない」
「どういうことですか?」ゆきがいぶかしげに訊ねる。
「ゆき先生は、僕のことを知らないから……」
「……わかりました」ゆきは唇をきゅっと結び、そう答えた。
それから笑顔を見せる。「また来週」手を小さくふった。
マンションの玄関へ早足で歩いて行く。そしてエントランスのところで再び振り返り「送ってくれてありがとう」と大きく手を振った。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。ゆきを自分のなかから追い出したかった。名前も、顔も、姿も、すべてを消し去ってしまいたかった。
自宅の玄関をあける。リビングの電気は消え、窓からの都会の明かりだけが部屋を照らしていた。結城の部屋の明かりが、扉の下から漏れている。拓海はソファに座り、大きく溜息をついた。顔を両手で覆う。
拓海は動けない。頭を整理しようにも、何からはじめていいかわからない。
結城の部屋の扉が開き、結城が出てきた。「帰ってたのか」
拓海は返事をできない。少しでも動いたら、パニックで叫びだしそうだった。
拓海のなかにある、静かな時間。恐ろしい出来事からすべてを隔絶して、ただ目を閉じていられるところ。
それが今、犯されようとしている。
「大丈夫?」結城が近寄る。
「ん……」拓海はやっと声を出すが、それでも言葉にはならない。
結城が拓海の側にひざまずく。「やばいのか?」
「ん……」拓海の手は震える。
結城は黙って拓海を抱きしめた。
しばらく二人はソファの上で動かなかった。
窓からは車が走る音。
冷凍庫の自動製氷機が、ガランと氷を落とす音。
そして結城の規則正しい心臓の音。
結城の体温が拓海を徐々に引き戻していく。
部屋の様子が視界に入り始め、結城の髪が頬に触っていることに気づく。
「悪かった」拓海は結城の腕をほどき、ふらふらと立ち上がった。
結城は何も言わない。無言で拓海を見上げている。
「悪かった」拓海はもう一度言うと、自分の部屋にはいって扉を閉める。
暗い中、ベッドの上に倒れ込んだ。
ゆきを拓海の心から閉め出したい。
拓海は枕に顔をうずめ、静かに泣いた。
翌日、拓海は無言でパンとコーヒーの朝食を用意した。結城の部屋の扉が開いて、ジャージ姿の結城が出て来た。
「おはよう」拓海はちらっと結城の顔を見てそう言った。
「おはよう」結城は頭をかきながら、ソファに座った。
いつものことだ。二人とも特に何も言わない。こうやって長い間二人で過ごしてきた。
「ブラックでいい?」
「うん」結城がうなずく。
コーヒーの香りがリビングに漂う。パンをトースターから取り出し、バターを塗る。
「おかずは?」結城が訊ねる。
「ないよ」
「ハムとかチーズとかほしい」
「最近、買い物行かないから」拓海はマグとお皿をテーブルに並べた。
「……なあ、結城」コーヒーを一口飲んでから、拓海は口を開いた。
「うん?」
「お金、貸してくれない?」
「……いくら?」
「五十」
「いいよ」結城がコーヒーを飲む。結城は何に使うか聞かない。ありがたかった。
「いつ?」
「すぐにでも」
「週明けで、銀行いく」
「サンキュー」拓海はほっとした。これでゆきは引っ越しできる。
「金借りるなら、やっぱおかずぐらい用意しろよ」結城が口をもぐもぐさせながら、そう言った。
「じゃあ、今夜おごるよ」拓海は言う。
「オッケー。じゃあ、ステーキ。ガーリックバターで食べるあそこのステーキ」
「……わかった」拓海はうなずいた。
「さ、働いてくるかな」結城は最後の一口をコーヒーで流し込むと、大きく伸びをしてから立ち上がり、バスルームへと消えて行った。
八
土曜日。結城はすでに、この診療所のスターになっていた。
奈々子だけでなく、診療所全員がそわそわしている。午前中の患者さんは、かつてないほどの多さで、それも子供が熱を出しているというような病気で来ているのではない。予防接種の予約で埋まっているのだ。
「母親達の連絡網って、すごいね」珠美が声をひそめていう。
「うん」奈々子も驚きを隠せずうなずいた。
そろそろ十二時になるころ。受付に座ったまま、奈々子は壁にかけてあるキャラクター時計をちらちらと確認する。予防接種を終えた子供達が飽きてきて、待合室は騒がしい。帰ればいいのに、案の定母親達は帰らない。結城を一目みるまでは帰れないというのだろう。予防接種を受けた後三十分は帰らないように指導しているが、今日は猶に一時間も待ってる親子もいた。
予約リストには、まだ二人ほど入っている。加えて熱を出して来ている患者さんもいる。まだまだ診療は終わりそうになかった。
そこに自動扉が開き、結城が入って来た。待合室自体が声を出さずとも「わあ」と歓声をあげたように感じた。
結城もその雰囲気を感じてか、立ち止まり待合室を見回した。きれいな二重の目を大きく開いている。
「出直して来た方がいいですよね」受付に近づいた結城は、奈々子にそう言った。
「ええっと、そうかもしれません」奈々子は目をそらしながらそう言った。
すると一人の母親が「いえいえ、もう帰りますから。ここ、どうぞ」と言って、結城にソファを譲った。
「よろしいんですか?」結城が言い終わるか終わらないか、というところで、大胆にもその母親は結城の腕をとってソファに座らせた。
「ありがとうございます」結城は笑顔でその母親に言った。
すると待合室から「おお」とざわめきがおこった。結城は目を丸くして、それから合点したように、今度は待合室にいる母親達全員に向かって、笑みをうかべた。
「おにいちゃん、かっこいいね」ポニーテールにした女の子が、結城の側に近寄って、そう言った。
「ありがとう」結城はバッグを床に置き、子供を抱えて膝に乗せた。母親達が、羨望の眼差しをその小さな女の子に向ける。
「名前は?」結城がその子の目を見ながら訊ねた。
「わか」女の子はまるで、王子様にだっこされているかのような気分になっているようだ。
「わかちゃん、具合が悪いの?」
「ううん、注射」わかは腕のばんそうこを結城にみせる。
「そうか。痛かった?」
「ううん。大丈夫」
「強いね」結城はわかの頭を優しくなでた。
「わかちゃん、行くわよ」母親が気まずくなったのか、わかを促した。
「ええ!」ゆきが不服そうに口を尖らす。
「帰って、ごはんたべなくちゃ」母親が結城に軽く会釈をしてから、わかの腕を引いた。
「またね」わかはそう言うと、結城の唇にキスをした。奈々子は思わず「あ」と声を出す。珠美も横で「わ」と声を出した。
結城は驚いてわかの顔をみつめたが、すぐに笑顔になると、わかの前髪を手の甲で持ち上げ、そのおでこにキスをした。
「またね。お大事に」結城はそういうと、わかを膝の上から下ろした。
母親がしきりに恐縮して「すみません」を連発する。結城は「かわいい子ですね。本当のお姫様だ」と言って、わかに手を振った。
わかは満足したように、大きな笑顔をつくり、母親と一緒に診療所を出て行った。
奈々子は止めていた息を、ほうっとはいた。それは他の人たちも同じようで、一様に肩の力を抜く。結城はその様子をちょっとおもしろがっているようにも見えた。
八田さんが診察室から出て来て、込み合った待合室を見回した。
「注射を終えてから三十分以上いらっしゃる方は、待合室が込み合っておりますので、どうぞお帰りいただいて結構ですよ」八田さん特有の愛嬌のある言い方でそう言われると、母親達は渋々と立ち上がる。
「お大事に」奈々子は出て行く母親と子供達にそう声をかけた。結城も軽い会釈をして送り出す。なんだか不思議な光景だった。
「須賀さん、こちらへどうぞ」鈴木さんが待合室から出て来て、結城に声をかけた。
「はい」結城は立ち上がり、鈴木さんの後をついていく。診察室に入ると、扉が閉められた。鈴木さんと八田さんは、うまく中に入れたようだ。
「毎回驚かされるよ」珠美が白衣を脱ぎながら、奈々子に話しかける。奈々子も思わず「うん」とうなずいた。
「たとえ小さな女の子だったとしても、突然キスされて、あんな風におでこにキスを返したりできる? あの子大満足だったよね」珠美は足下のバッグを取り出して、帰り支度をはじめる。奈々子も白衣を脱ぎながら、帰り支度を始めたが、正直に言えば診察室の様子が気になってしかたなかった。珠美も同様らしく、ちらちらと受付の後ろ側の扉を見ている。
「どんな話ししてんのかな」珠美は化粧を直しながら言う。
「だね」奈々子も化粧を直した。
「それにしても」
「なに?」
「お腹へった」珠美が少し丸みを帯びたお腹をさする。
「ごはん、食べて帰る?」奈々子が訊ねた。
「いいね。ああでも、駅前の肉まんが死ぬほど食べたい、かな」珠美がペロっと舌をだした。
「おいしいよね。買ってこようか」奈々子は言った。
「え? 悪いよ」珠美が手を振って遠慮する。
「いいよ、いいよ。わたしもお腹が減ったし。みんなの分も買ってこよう」
「ほんとう?」
「うん」奈々子はかごバッグを肩にかけた。
「ありがとう」珠美が手を顔の前であわせる。
「うん」奈々子は暑い道に出た。
蝉がないてる。日差しは強く、コンクリートからはものすごい熱気があがってくる。朝は涼しかったが、徐々に気温はあがって来ているようだ。
しかしこんなに暑い日でも、駅前の肉まんはおいしい。昼時になると、すごい勢いで売れて行く。オーナーは中国の方なので、日本のコンビにで食べるような肉まんとは少し違う。もっとジューシーで、食べごたえがあった。
小さな女の子の額にキスをした結城を思い出した。女の子の望むような洗練された対応ができなくて、と言っていたが、とんでもなかった。
「やっぱり、嘘」奈々子は思う。あんなに完璧に女の子を扱えるなんて、やりなれてるとしか思えない。
汗が滝のように吹き出して来て、着ていたチュニックが濡れて来た。かごバッグからハンドタオルをだして、汗を拭く。ひときわ大きな蝉の声で振り向くと、おおきな楠の木に蝉が止まっていた。
「夏なんだなあ」奈々子はまた口に出して言った。
奈々子は誰とも付き合ったことがない。男性が嫌いなわけではないと思う。クラスに好きな男のはいたし、バレンタインデーにチョコレートを作ったこともある。けれど思いが通じることはなかったし、加えて男の人と一緒にいて、楽しいと感じることが少なかった。ただ、激しく緊張して、肩が凝る。向こうもそれに気づいてか、結局二度と誘われなかった。
結城のように、異性との経験をたくさん持っていて、うまく付き合える人もいれば、奈々子のようにずっと一人の人もいる。
「なんだか、むなしいなあ」奈々子は再び声に出して、すれ違うおばさんに振り向かれた。奈々子は恥ずかしくて、足を速めた。
駅前の商店街の中に、そのお店はある。本当に小さなお店で、肉まんを蒸かしている湯気がもわもわとあがっている。お店の奥で、奥さんが肉まんを包んでいる。
カウンターにいるおじさんは、はげた頭にタオルを巻いて、蒸し器に肉まんを入れていた。
「いくつ?」
「五個お願いします」奈々子は手のひらで「五」と見せた。
おじさんは手早く紙の袋に肉まんを入れる。それをレジ袋に入れて、奈々子に手渡した。
奈々子はお金を払い、お店を後にした。レジ袋から暖かな湯気があがっている。奈々子は急いで診療所に帰った。
裏口から診察室に入ると、誰もいなかった。涼しい冷房の風が奈々子の身体を急激に冷やす。
「須賀さんは帰ったみたい」奈々子はちょっとホッとして、そしてちょっとがっかりした。
「おまたせ」と奈々子が休憩室の扉を開けると、テーブルの周りに皆が座っている。
その中心に結城が座っていた。
「あれ?」奈々子は思わず声をあげた。
「おかえり。どうもありがとう」結城の隣に座っている珠美が言った。
「……どうしたの?」奈々子は思わずそう訊ねた。
「須賀さんがお腹減ったっていうから、肉まんきますよって誘ったのよ」八田さんはまだ白衣を着ている。珠美の隣に座って、大きな胸をテーブルの上にのせるように身を乗り出していた。
いつもは雑然として、それでいて殺風景な休憩室が、なんだか華やかに見える。結城の周りに座る女性は、みんな最高の笑顔を見せていた。
「すみません」結城は首をすくめ、奈々子に笑いかけた。
「いえ、大丈夫ですよ」奈々子はそう言ってから、きっちり人数分しか買ってこなかったことを思いだした。奈々子はシンク脇の小さな食器棚からお皿とコップを出し、常備してある麦茶を注いだ。その間もみんな結城とうれしそうにしゃべっている。不思議な光景だった。
「どうぞ」奈々子はみんなの前にお皿を出す。結城の前にも差し出した。
「いただきまーす」みんなが肉まんを手に取り、食べだしてから、奈々子は麦茶のコップを持って席についた。
「あれ? もしかして、個数足りなかった?」珠美が慌てた。
「さっきお菓子つまんじゃったから、お腹減ってないの」奈々子は笑って返した。
「すみません、僕が突然きてしまったから。もしよければ僕のを……」
「いいんです。大丈夫ですから。わたしはいつでも食べられますし、本当にお腹は減ってないんです」奈々子はそう言って麦茶を一口飲んだ。
「ありがとうございます」結城はそう言って微笑んだ。
八田さんが「おいしいでしょう?」と結城に声をかける。
「はい」結城はもぐもぐと口を動かしながらうなずいた。その仕草一つ一つが、びっくりするほど魅力的だ。本当に特別な人。
「どうして一緒にいた人は恋人じゃないって、奈々子ちゃんに言ったの?」鈴木さんが突然訊ねた。みんなはびっくりして鈴木さんを見る。鈴木さんはしれっとしていた。奈々子は顔に血がのぼるのを感じた。
「この間ですか?」結城は顔色一つ変えず訊ねかえした。
「そうそう」
「幼なじみと同居してるんですけど、そいつが、もちろん男ですよ、そいつが、女の子の友達と一緒に鍵を返しに行ったって言ったら、僕がすごく馬鹿だって言うので」
「へえ」鈴木さんが興味深そうにうなずいた。
「失礼があったなら謝りたいなあって思ったんですが、僕は口べたなのでうまく言えませんでした」結城は申し訳なさそうに奈々子を見た。
「ぜんぜん、気にしてませんから」奈々子は動揺を抑えようと、目を伏せながらそう言った。
かず子先生は肉まんを食べ終わり、席を立つ。「奈々子ちゃん、お金、これね」かず子先生が、奈々子にお金を渡す。
「多いです」奈々子はお金を手に、かず子先生を見上げた。
「今日はおごりよ。みんな一生懸命働いてくれたし、須賀さんもいるしね」かず子先生はそういうとウィンクして「ゆっくりしてって。おつかれさまでした」と言って部屋を出て行った。
「やった」珠美がガッツポーズを見せる。
「キュートな方ですね」結城は麦茶を飲みながら、そう言った。
「でしょう?」八田さんが言う。
「須賀さんのファンサイト見ましたよ」珠美が言った。
「ああ」結城が苦笑する。
「あれ、非公式ですよね」
「もちろんですよ」結城は目を丸くして言った。
「おっかけの女の子がいるってことですよね」
「いるらしいんですけど……でも、誰だかわかりません。見かけたこともないし、写真を撮られたっていう記憶もあんまりないんですよね」
「ええ? それちょっと怖くないですか?」
「慣れました」結城が笑う。
「彼女、いないんですか?」珠美が大胆に切り込む。
結城は「いません」と言って、微笑む。
「好きな子は?」鈴木さんがすかさず口を挟む。
「いません」結城は首を振った。
「じゃあ、どんなタイプが好き?」八田さんが訊ねる。
「言葉ではうまく言えないですけど」結城が首を傾げる。
「じゃあ、今まで付き合った子は、どんな感じの子?」
「うーん、どうかな……。ちゃんとおつきあいした子が少ないので」
「いやあ、ガードが固いね」八田さんが腕を組んだ。
「僕の話なんて、そんなにおもしろくもないですよ」結城が笑いながら答えた。
「じゃあ、小さい頃はどんな感じの子でした?」珠美がたずねる。
「愛想のない、つっけんどんな子でした」結城が顔をしかめてみせる。
「へえ」
「自慢とかじゃないんですが、ある時期からやたらと女の子が寄ってくるようになって、それを鬱陶しいって思ってたんですよね。あるじゃないですか、硬派をきどる時期が」
「いつから方向転換?」鈴木さんが意地悪く訊ねてみた。
結城はにやっと笑うと「別に鬱陶しいって思わなくなったってだけです。普通に誰とでもコミュニケーションをとるようになりました。それが大学時代かな」と言った。
「愛想よくしたら、そりゃ楽しかったでしょう?」鈴木さんが言った。
「はい」結城はこともなげにうなずく。周りから、感嘆の溜息がもれた。
女の子達とどんな風に過ごしたのか、それを想像すると、奈々子の心はざわめく。
「線をひく線をひく」奈々子は胸に手を当てて、心の中で唱え続けた。
奈々子がふと目をあげると、結城が奈々子を見ていた。心臓が飛び跳ねる。「何か?」奈々子は冷静な態度で訊ねる。
「いえ、別に」結城は笑みを浮かべながら頭を振った。
なんだろう。何かしたかな? 変な顔になってたか、それとも汗でお化粧がとれてたか。ああ、鏡を見てチェックしたい。奈々子は下を向いてもじもじとした。
「さあ、子供を迎えにいかなくちゃ」鈴木さんが立ち上がった。お皿とコップを小さなシンクの中にいれる。
「僕もそろそろ」結城は立ち上がると、鈴木さんに習ってお皿とコップを手に持った。
「そこに置いておいてください、やりますから」奈々子はそう声をかけた。
「いえ、大丈夫ですよ」結城はシンクにお皿を入れ、鈴木さんの分も一緒に手早く洗った。
「わあ、手際がいい」八田さんが感心したように声をあげた。
「僕は母子家庭だったので、母親のかわりに随分家事をこなしました。今も同居人と家事は分担してるんで、割と得意ですよ」
「じゃあ、お料理なんかもできるの?」八田さんが立ち上がりながら訊ねる。
「凝ったものはできないですけど、一通りは」結城は次々とお皿を洗い上げる。
「ミスターパーフェクトだねえ」八田さんが口をあけて結城をみた。
「そんなこともないです。どちらかというと欠陥だらけで」結城は全員分のお皿を洗い終えると、ポケットからハンカチを取り出して、手を拭いた。
「楽しい時間でした」珠美が笑顔で立ち上がる。
「僕もです」結城は珠美に笑いかける。珠美はそれだけで、もうにやにやが止まらないようだ。
「じゃあみんな、帰りましょうか。せっかくの土曜日ですしね。一日を長く使いましょう」八田さんが帰り支度をしながら言った。
結城は鞄を手にもち「それじゃあ、僕はお先に失礼します。ごちそうさまでした」と頭をさげた。
「付き合ってくれてありがとうね」鈴木さんが手を振る。
「またご一緒しましょう」珠美も会釈をした。
八田さんは「またおいしいもので釣らないと」と言って、大きな口をあけて笑った。
奈々子は何を言っていいのかとっさに思いつかず、無言で頭をさげた。
結城は奈々子を見ると、こちらに歩いて寄って来た。とたんに奈々子は緊張する。
「あの」結城が声をかける。
「はい」
「この暑い中、わざわざ買って来てくれたのに、僕が食べてしまって、本当にごめんなさい」
「いいんです。お気を使わずに」
「今度、僕がごちそうしますね」結城はそう言うとにこっと笑った。
思わず息をのむ。
なんてかわいい笑顔なんだろう。
「じゃあ、失礼します」結城は礼をして、扉から出て行った。
結城の足音が遠ざかり、玄関から出て行くのがわかると、女性たちはまた騒ぎ始めた。
「笑った!」珠美が興奮して言う。
「何、あのかわいさ。とてつもなくきれいで、色気もあるのに、あの子供みたいな笑顔! 信じらんない」鈴木さんはほっぺたを両手で押さえて、目を閉じている。
「鈴木さん、子供のお迎えの時間、せまってますよ」珠美が言うと「わかってますって」と鈴木さんが口をふくらます。「余韻に浸らせてよ」
「あの人に会うと、なんかしら、お土産をおいてくね」八田さんが言う。
「奈々子、気に入られてるじゃん」珠美が奈々子の背中を叩いた。
「そんなことないよ」奈々子は笑って返した。
「気に入られてるって。なんか奈々子のほう、しきりに見てたよ」
「まさか」
「ほんと、ほんと」鈴木さんもうなずく。
「それで、決まってちょっと笑うんだよね」八田さんも言った。
「ええ? わたし、おかしなことしてた?」奈々子はびっくりして訊ねる。
「別に……ねえ?」珠美が首を傾げた。
「うん。いつも通り」みんなはうなずいた。
「やっぱり気に入られてるんだよ」鈴木さんはうなずくと「じゃあ、またね。ああ、おくれちゃう」と言って、鞄を抱えて部屋から出て行った。
「線をひく」と心に決めていたけれど、奈々子は胸のドキドキを押さえることができなかった。
豚肉を甘辛くいためて、大皿に盛る。おいしそうな匂いが湯気となってあがり、換気扇の中に消えて行った。
「持って行って」拓海はソファに転がっている結城にそう言うと、カウンターの上に皿をのせた。
「うん」結城は起き上がり、食卓の支度をしはじめる。
「何飲む?」拓海は冷蔵庫の前で訊ねた。
「麦茶。いや、りんごジュース」結城がカウンター下の棚の引き出しから箸を取り出し、テーブルの上に並べ始める。この部屋にダイニングテーブルはない。テレビの前のローテーブルでいつも食事をする。結城は革張りのソファを背もたれにして、グリーンのラグの上に座り込んだ。
「ごはん、大盛り?」
「うん。あ、取り皿忘れた」結城が立ち上がろうとするのを、拓海は「持ってく」と言って、手で制した。
「男の夕飯だね」拓海は大皿の肉に、ごはんだけという、おおざっぱな料理を見てそう言った。
「これで煮物と、みそ汁がついたら、完璧なのに」結城は箸を加えて、うらめしそうに言う。
「じゃあ、お前が作れよ」拓海も座って、リンゴジュースを結城のグラスについだ。
「めんどくさい」結城が言う。
「なら、文句言うな」拓海はそう言うと、ごはんを一口ほおばった。
結城も「いただきます」と言ってから、箸をつけはじめた。
しばらく二人でもくもくと食事をする。明日は日曜日で、二人とも休みだ。
「幼稚園どう?」結城がちらっと拓海を見て訊ねた。
「うん。普通」拓海は肩をすくめて、そう答えた。
「お前が幼稚園の先生だなんてな。びっくりだ」結城が言う。
「そうかな」
「お前が子供みたいなのに」
「割と人気なんだぞ」拓海はジュースを一口飲んで、再びご飯を食べ始める。結城はおそらく、拓海が幼稚園を職場に選んだ理由を知っている。あえて言わないだけだ。
「お前は?」拓海は話題をそらそうと、結城に訊ねた。「研修が終わって、担当地域をもらったんだろう?」
「うん」
「大変?」
「まあね。でも仕事はなんでも大変だろう?」
「そうだけど。結城は営業になりたかった訳じゃないだろう。だいたい、お前に向いてるのかどうか」
「向いてないね」結城は食べ終わり、再びリンゴジュースをグラスにつぐ。
「俺に遠慮しないで、好きな職業につけばいいのに」拓海はそう言ってから、ちらりと結城を見た。
「別に遠慮じゃないよ。希望部署に行けなかっただけ」
「ふうん」拓海も食べ終わり、一息ついた。
「ああ、でも」結城はそう言うと、くすっと笑った。
「どうした?」
「担当の診療所にさ、おもしろい子がいるんだ。ほら、鍵を届けに行った子」
「どんなふうに?」
「見た目、すごく大人びてるんだ。言うことも、やることも、完璧に大人の女性なんだけど、様子がころころ変わるんだ。ちょっと話しかけただけで、顔がこわばって、耳まで真っ赤になる」
「別におかしくないよ。そんな子いっぱいいるじゃないか」
「そうかな?」
「お前の周りには、そんな子ばっかりだったよ」
「ええ?!」
「見えてないだけ」
「そうかな」
「お前は、基本、自分に話しかけてくる子しか、目に入ってないだろう」
「普通、そうじゃない?」
「いや、もっと周りに気を配るもんなんだよ」
「へえ」
「お前に近づこうって言う子は、よほど自分に自信のある子だけ。考えてみろよ」
「……」結城は首を傾げる。
「普通は距離を置くんだ。お前みたいなのは遠くから見てるだけでいいって思うもんなの」
「……俺のこと、なんだと思ってんだろうな」結城はほおづえをついて、つまらなそうな顔をした。「エイリアンか、ハリウッド俳優か。めちゃくちゃ一般人なのに」
「町にお前がいたら、たいていちょっとびっくりする」
結城はさらに顔をしかめる。「ちぇ。俺は普通に暮らしたいだけなのに」
「基本、お前は見かけ倒しだからな。軽く引きこもりタイプなのに」
「だろ?」結城は拓海を見て「誰も信じないんだ」と言った。
拓海は食器を重ね、キッチンに戻る。台ふきんを結城になげ「ふいて」と声をかけた。
「俺、洗う」結城は手早くテーブルを拭き終わると、立ち上がった。
「サンキュ」拓海と交代で、結城がシンク前に立った。
「そういえば、今日、手際がいいってほめられた。食器を洗ったときに言われたんだ」
「へえ」拓海はソファに座り、テレビのリモコンを隙間から掘り出した。
「ごちそうしなくちゃな」結城が言う。
「誰に?」拓海はチャンネルを変えながら、訊ねた。
「さっき言ってた子。あの子、俺に肉まんを分けてくれたから」
「ふうん」
「やっぱり、肉まんを買って返すのがいいと思う?」結城が訊ねる。
「そりゃ、味気ないな」拓海はちらりと結城の顔を見た。どうも真剣に考えているようだ。
「食事に誘うのは、やっぱりまずいよね」
「ええ? 誘うの?」拓海は驚いて声をあげた。
「だって、買って返すのは味気ないって言ったじゃないか」
「……あんまり、思わせぶりなことをするのは、よくないんじゃないか?」
「思わせぶりかな?」
「取引先だろう? まずいと思うけどな。ちょっかいだすのはどうかと」
「ちょっかいじゃなければ?」
「……そうなの?」拓海は結城のそんな様子をみたことがなかった。
「どうかな……わかんない。その子すっごい緊張してるからさ。普段はどんなかな? っていう興味があるんだ。もし突然キスをしたら、どんな顔するかなあ、とか」
「それをちょっかいって言うんじゃないのか」拓海は半ばあきれて、そう言った。
「そっか」結城は食器を洗い終えて、キッチンの明かりを消す。それから拓海の隣に座った。
「充分に考えてから、行動しろよ。お前、もう大学生じゃないし、問題が起きたら大変なんだから」
「わかってるよ」結城はクッションを抱きしめ、ごろりと横になった。
テレビから音楽が聞こえる。ちょうど高校の頃にはやった音楽だ。
「懐かしいな」結城が目を閉じた。
「うん」胸の奥にわき上がる切なさ。痛み。そして喪失感。拓海も目を閉じた。
そして二人でしばらく、その音楽に耳をかたむけた。
一瞬どこから声をかけられたのかわからなかった。奈々子は歩道の真ん中で立ち止まって見回した。
木曜日の夜七時。診療が終わって、裏口から出て来たところだ。
「戸田さん、こっち」また声がして、奈々子はそちらを振り返った。
吉田製薬の社用車の運転席から、結城が顔をだしていた。「こっち」結城は手で奈々子を招き寄せる。奈々子はどうしてここに結城がいるのか理解できず、首を傾げながら車に近寄った。
「どうしたんですか?」腰を屈めて、結城にたずねる。
「乗りませんか?」結城は助手席を手で示す。
何かまた忘れ物でもしたかな?
奈々子は訳がわからないまま、助手席に乗り込んだ。
「シートベルト」結城が手で示す。奈々子は言われるがままにシートベルトをしめた。シートベルトを締めると、車が静かに動き出した。駅の方向に向かって進む。
「どうしたんですか?」奈々子は再び結城にたずねた。
すると「ちょっと待って」と結城は言い、そのまま駅前のコインパーキングに入った。
「?」
窓を開けてから、エンジンを切る。夜風が車内を流れて、心地よい。結城の黒髪が、風になびいている。白いワイシャツに、スラックス。サラリーマンなら誰でも着るような、普通の服装だけれども、結城が着るとなんだか雰囲気が違う。
「待ち伏せみたいにして、ごめんなさい」結城が謝る。「僕は戸田さんの連絡先を知らないから、職場で待つしか方法がなくて」結城がちらっとこちらを見て「びっくりしたでしょう」と訊ねた。
「はい、びっくりしました。あの、私に何か御用ですか?」
「戸田さんには、いろいろ親切にしてもらったし、お腹が減ると何かくれるし」結城が笑う。「お礼がしたいんですけど、買って返すのじゃ味気ないと思って。それで……」
「そんな、たいしたことはしてないですから、気にしないでください」奈々子は首を振った。
「いや……えっと、うん」結城がなぜかいいよどむ。
「?」
「戸田さんはおつきあいしてる人います?」
「は?」結城の言葉に心臓がどきんと跳ね上がる。「い、いえ」奈々子は下を向いた。
「じゃあ、好きな人は?」
「いません、今は」
「それなら、僕がちょっと誘っても、怒られることはないですよね」
「誘う?」
「今週の日曜日、映画を見に行きませんか? 最近はめったに行かなくなったって言ってたので、行くチャンスですよ」
「はあ」
結城はハンドルに腕を置き、その上に頭をのせ、奈々子を見る。コインパーキングの照明が結城の頬を照らしている。
現実の人間とは思えないほど美しかった。
「……迷惑でした?」結城が困ったような顔を見せる。
「はあ」奈々子は何かを言いたいけれど、あっけにとられてそんな言葉しか出てこない。
「ご迷惑なら……」
「いえ、お誘いはうれしいですけど、本当にたいしたことをした訳じゃないのに、なんて言うか」
「おおげさ?」
「そう、そんな感じです」
結城はシートにもたれ、考え込むような真剣な表情をする。「実はですね……戸田さんのことを誰かに話したくなるんですよね」
「はあ?」
「おもしろいっていうか、いや、それは失礼か。うまく言えないんですけど、気になるというか。しょっちゅう戸田さんのことを思い出すんです。それで、どうしてかなあって思って。こんなこと初めてだし、確かめたいんですよね。でも身構えなくて、全然いいですよ。なんていうか、もうちょっと戸田さんを知りたいなあと思ったってことなんです。ああ、うまく言えないや。僕はやっぱり営業向きじゃないんですよね」そう言うと、結城は笑った。
「はあ」奈々子は更に混乱して、間の抜けた返事をした。
「日曜日、どうしますか?」
「ええっと、そうですね……」
「行きます?」
「ああ、はい、そうですね」奈々子はそう返事をした。
「よかった。じゃあ、僕の連絡先を教えますね」結城は携帯を取り出し、メアドと番号を知らせる。奈々子はぼんやりしながらも、連絡先を携帯に入れた。
「戸田さんはいつも、どのあたりに映画を見に行きますか?」
「近所のショッピングモールに」
「じゃあ、そこで待ち合わせしましょう」
「うちの近所でいいんですか?」
「だって、戸田さんのことが知りたいから」
「はあ」
「待ち合わせしましょう。がっかりさせて申し訳ないんだけど、僕は車を持ってないんです。何せ働きだしたばかりだし」
「はあ」
「連絡先聞いてもいいですか?」
「はあ、ああ、そうですね」奈々子は登録した結城の番号に電話をかける。
「ありがとう」結城は手早く登録して、笑顔になった。
「待ち合わせ場所は、また連絡します。今日はなんだか、戸田さんの意識がどこかへ飛んで行ってるみたいだから」結城が笑った。
奈々子は顔を赤らめて「すみません」とだけ言った。
「パーキングに車を入れたので、駅まで歩いておくります」結城が車のエンジンをかけ、開いていたウィンドウを閉じる。
「いえ! 大丈夫です。本当に、一人でいきますから」奈々子はあわててシートベルトを外し、車の外に出た。結城を見ると笑っている。何がそんなにおかしいのか。
「じゃあ、また」結城はウィンドウを再び開き、奈々子に手を振った。
奈々子は小さくお辞儀をして、その場を逃げるように歩き出した。背中に視線を感じる。いや、気のせいかもしれないけれども。とにかく全身があつくて、ふらふらした。
駅につくと、電車が到着したのか、たくさんの通勤客が降りてくる。その人波を縫って改札にあがると、奈々子はやっと一息ついた。
携帯を取り出し、登録した結城の連絡先を見る。
「どういうこと?」思わず口に出た。「からかわれてる?」
珠美に電話をかけようとして、思いとどまった。「線をひくのよ」と珠美は言った。それがきっと最善だ。でもその線を越えようとしている。
「いいの? 本当にわたしは出かけていいの?」ホームで電車を待つ間、何度も自分に問いかけた。ライトに照らされた結城の顔。自分に笑いかけたあの顔。
奈々子はとても自分が思いとどまれるとは思えなかった。
九
眠れなかった。
五時頃にのぼる夏の太陽を見ながら、奈々子はぼんやりとしていた。
土曜日、何事もないように、結城は診療所に来た。いつも通りに診療所のみんなや母親たちに笑顔を見せ、お辞儀をして帰っていった。手元のメールがなければ、誘われたのは夢を見たとか、気のせいとか、そんな風にも思ったかもしれない。
午前中の待ち合わせだ。あまり時間はない。何を着ていったらいいんだろう。あんまりおしゃれをしていって、気合いが入っていると思われるのは恥ずかしいし、でもみすぼらしい格好で結城の隣に並ぶのは、更に恥ずかしい。
「どうしよう」奈々子はベッドの上でごろごろと転がった。「せめて夜パックでもすればよかった。あ、今からでも間に合うかな」奈々子は起き上がって、冷蔵庫に入れていたパックを取り出した。でも手にとってから、はしゃいでいる自分が恥ずかしくなって、また冷蔵庫に戻した。
「ああ、本当にどうして約束しちゃったんだろう」奈々子は再びベッドに転がった。
結局、仕事に着ていくような、膝までのブルーのワンピースに、レギンスという代わり映えしない格好に落ち着いた。バスでショッピングセンターまで行く。待ち合わせはフードコート前のベンチだ。
「今からこんなにどきどきしてて、今日一日もつかな」奈々子は不安になった。
ショッピングセンターのエントランスを入ると、真っ先に結城が目に入った。ベンチに腰掛けている。ボーダー柄のシャツにジーンズ。真っ白なスニーカー。何でもない格好なのに、なんて目立つんだろう。
結城の前を通りすぎる女性達が、一様に振り返る。結城はその視線を気にするでもなく、スマホで何かを見ている。
「ああ、このまま帰りたい」奈々子は極度の緊張から後じさりした。
すると結城が目をあげて、奈々子をみつけた。手をあげる。奈々子は自分に気合いを入れてから、お辞儀をした。
「おはようございます」結城は近づいてくると奈々子にそう言った。
「おはようございます」奈々子も言った。
「何の映画を見ます?」結城はベンチ前に設置されている映画のポスターに近づいて、そう言った。「ラブコメかハリウッド超大作ですよね」
「あの、須賀さんの好きなもので」奈々子は下を向いた。
「えっと、それじゃあ……これは?」結城はポスターの一つを指差す。それは有名女優がコミカルな演技で評判の作品だった。
「はい。それで」
「上映時間は……あと三十分ですね。行きましょうか」結城は奈々子を促して歩き出した。
ショッピングセンターは週末ともあって、とても混んでいた。大型スーパーも併設されているので、食料品を買いに来た主婦達もたくさんいる。カートいっぱいに野菜を入れたおばさんも、子供の手を引いている若い母親も、結城を見るとびっくりしたように立ち止まる。奈々子はなんだか身の置き所がなくて、ますます一層下を向いた。
「戸田さん」結城が言う。「敬語やめてもいいですか?」
「はい」
「戸田さんは友達から、なんて呼ばれてる?」
「えっと、奈々子」
「いきなり奈々子って呼び捨ては、なんだかしっくり来ないから、じゃあ、奈々子さん」
「はあ」
「僕のことは呼び捨てでもいいよ」
「え?」
「結城って」
「それは……無理です」
「そう? じゃあ、好きに呼んで」
エスカレーターで三階にあがる。結城は楽しそうに周りを見ている。奈々子は結城の後ろをついて歩いた。なんだか横に並ぶのは恥ずかしく、できれば二歩、三歩後ろを歩きたかった。
映画館でチケットを買う。チケット売りのお姉さんは、結城の顔を見ると一瞬動きが止まった。それから後ろにいる奈々子の顔をみると、不思議そうな顔をする。
「どうしてわたしみたいなのを連れてるのかわかんないんだろうな」奈々子は自嘲気味に考えた。
「ポップコーン食べる?」結城が訊ねる。
「えっと、どちらでも」
「映画が終わったらランチだから、食べるのをやめておこうか」
「はい」
「奈々子さんは、敬語やめらんない?」
「……無理です」
結城は奈々子の顔を見ると笑った。
ほんとに何がそんなにおかしいのか。やっぱりからかわれてるのか。
するとカシャッと音がした。振り向くと高校生ぐらいの女の子達が、結城を携帯で撮影していた。
「須賀さん、今写真とられましたよ」
「そう?」
「気づかないんですか?」
「うん」
「あんなに堂々と撮ってたのに」
「気にしてたらきりがないよ」
「慣れてるんですね……」
「うん。しばらくするとツイッターかなんかで流れる。映画館で発見とか言って」結城が笑った。
「しんどいでしょう?」奈々子は思わずそう言った。
結城は驚いたように奈々子を見て、それから「実を言えばね。だから自然と家にこもるようになるんだ。こんな風に映画館に来るのは久しぶりだから、楽しいな」と言った。
奈々子は結城のきれいな横顔を眺める。肌はつやつやで、まつげがながい。口元は静かに微笑んでいて、おかしな話し、女性でもこんな美人はいないだろうと思う。いろいろ苦労があるんだな、と奈々子は思った。
「もう、入れるよ。行こう」結城が促した。
席につくと、とたんに奈々子の緊張が高まる。こんなに近くに座ったことはこれまでなかった。ちらりと結城を見ると、奈々子の方を見ている。慌てて顔を伏せた。
「このままじゃ緊張で倒れる」奈々子は胸に手をあてて、深呼吸した。
場内が暗くなり、映画が始まった。正直、映画の内容がまったく頭に入ってこない。隣が気になって仕方がないのだ。結城は映画に夢中のようで、たまに声に出して笑ったりしている。
「なんでこんなことになったんだろう」奈々子はしきりにそればかり考えている。
気になるってどういうこと? 身構えなくていいって、どういうこと? 友達になりたいってことなんだろうか? それともそれ以上の好意があるとか?
奈々子は首をふる。
そんな訳ない。自分は地味だし、それにあまりにも普通だ。胸は小さいし、身長も低い。頭の出来も平均。ごくごく普通の、二十六歳だ。
気づけば映画も後半にさしかかっている。ラブコメのはずが、何やら深刻そうな雰囲気だ。奈々子は気持ちを切り替えて映画に集中しようとした。どうやら、主人公の飼い犬が車にひかれて、死んでしまったようだ。いつもの奈々子なら号泣ものだが、今はまったく物語に入り込めてないので、涙の一つもでない。でもほっとした。泣いたりなんかしたら、お化粧がとれてしまう。
すると、隣でうめくような声がする。見ると結城が両手を口にあてて、必死に泣くのを堪えていた。いや、堪えているけど堪えきれないようで、ときどき声がでている。
奈々子はびっくりして、結城をじっと見てしまった。結城は見られているのに気づいたのか、両手で顔を隠す。奈々子は鞄からハンカチを取り出し、結城に「どうぞ」と手渡した。
結城はハンカチをもらうと、号泣体勢に入った。
めちゃくちゃ泣いてる……。
奈々子はなんだかおかしくなって、思わず笑ってしまった。そういえば、映画を見てよく泣くって言ってたっけ。
映画が終わり、照明がつく。結城はハンカチで顔を隠したまま動かない。
「大丈夫ですか?」奈々子は声をかけた。
ハンカチからちらりと目を出した。長いまつげは涙に濡れて、目は真っ赤になっている。
「犬が死んじゃうって、どこにも書いてなかった」結城は不平を口にした。
「そうですね」
「犬を死なせる必要あった? ないよね?」
「でも、あの出来事で二人がわかり合えたっていうか」奈々子が言うと、結城は恨めしそうに奈々子を見る。
「恥ずかしいよ」結城は下を向く。
「大丈夫です」奈々子は笑いを堪えながらそう言った。
映画館を出ると、人ごみがすごかった。お昼頃にもなると、ショッピングセンターは相当混雑してくる。
「お腹減った?」結城が訊ねた。
「はい」
「何食べたい?」
「なんでもいいです。須賀さんのお好きなもので」
「そうだな……じゃあ、マック」
「マクドナルド?」
「俺、好きなんだ」
「へえ」
二人はショッピングセンター内の混雑した店内に入る。
奈々子は「デートでマックはないよな」と考える。やっぱり、奈々子と友達になりたいと思っているのかもしれない。
結城は「ここはごちそうする」と言って、ハンバーガー代を払ってくれた。
やっぱりデートじゃないや。マックをごちそうするって言われても、ぴんとこない。そう思うと、奈々子は少し気分が楽になってきた。めちゃくちゃ張り切っておしゃれしなくてよかった。恥ずかしいことになってたかも。奈々子は胸を撫で下ろす。
席に着くと、やはり女性客はちらちらと結城を見ている。結城は平然とポテトを口に運んでいた。奈々子はアイスコーヒーを飲むと、再び下を向いた。周りにいる人々に、ただの友達ですと大声で言いたいくらいだった。
「顔あげて」結城が言った。
「え?」
「顔が見たいから」
奈々子はとたんに顔に血が上る。
「ポテトってどうしてこんなにおいしんだろう。一時期、また食べたくなる薬がかかってるっていう、馬鹿みたいな噂あったよね」
「……」奈々子は返事をできなくて、再びコーヒーを口にした。
「これからどうしようか」結城が言った。
「須賀さんは何がしたいですか?」奈々子はやっと顔をあげて、そう言った。
「そうだなあ。奈々子さんはここでいつも何してる?」
「洋服を買ったり……」
「じゃあ、洋服を買おう」
「須賀さんの好きそうなブランドは入っていないかもしれませんよ」
「ユニクロないの?」
「ユニクロ?」
「俺、ユニクロ好き」
「はあ」
「このジーンズもユニクロ」
「ええ? そんな風には見えないですけど」
「みんな、俺がすごいブランドを着てるように思ってるんだよね」
「須賀さんが着ると、なんでもそう見えちゃうんですよ」
「俺をなんだと思ってるんだろうな。すごい一般人なのに」
「特別な一般人だと思ってるんじゃないですか?」
「なるほど」結城はにやりと笑った。
食事を終え、店を出る。奈々子は結城の二歩後ろを歩いた。ときどき結城が立ち止まり、奈々子が追いつくのを待つ。でもまた歩き出すと、奈々子は後ろをついて歩いた。結城と並んで歩くのは、抵抗がある。彼が歩くと、周りは振り返る。そして連れているのが奈々子だとわかると「どうして?」という顔をするのだ。友達になるのも、随分と大変なことかもしれない。
「歩くの早い?」結城が立ち止まって振り返った。
「いえ」奈々子は首を振った。
結城は無言で奈々子の手を取ると、引っ張るように結城の横に引き寄せた。
「並んで歩かないとつまんないよね」そう言うと、結城は奈々子と手をつないで歩き出した。
ショッピングセンターの中は冷房がきいている。それでも奈々子は暑くて仕方がない。軽いパニックになってるようだった。
友達でも手をつなぐ? いや、あるかもしれない。手をつないで歩いてる女の子同士を見たことあるし。ああ、でも。手のあったかい人だ。結構、ぎゅっと強く握ってくる。心臓がばくばくしているのを、手を通して悟られてしまうかも。
「ユニクロ到着」結城が言った。
奥にあるデニムの売り場まで、結城は奈々子の手をひっぱって連れて行く。店内は混んでいたけれど、結城が歩くとさっと人が別れて道ができる。不思議だ。
「黒のデニムが欲しいんだ」結城はやっと奈々子の手を離し、棚に置かれたデニムを見始めた。
店内は喧噪に包まれている。いつだって混んでいる。けれど結城の周りには、なぜか空間ができていて、彼はひょうひょうと買い物を続ける。彼の顔だけではなく、彼から発せられる雰囲気が、人を寄せ付けないのかもしれない。彼を特別な人にしている。
「これ、どう?」結城が一本のジーンズを見せる。
「着てみないとわかりません」奈々子は答えた。
「じゃあ、試着する」結城は試着コーナーに行く。奈々子もなんとなくそれに続いた。
「試着ですね」とデニムを受け取った女性店員は、結城に見とれているようだ。
「のぞかないでね」
「のぞきませんよ」奈々子は心外だという顔をした。
徐々に試着室の周りに、女性客が集まりだす。みんな結城を一目見ようと、こそこそと話をしながら待っている。奈々子はなんだか結城がかわいそうになってきた。いつでもどこでも注目されて、気が休まらないだろう。
カーテンが開き、結城がでてきた。
「どう?」
「足、長いですね……」
「短くはないね。あんまりズボンを切ったことがない」
デニムをぎゅっと引っ張り上げるとき、背中がちらりと見えた。
細い腰。無駄なものが一切ない身体。
「記念に買おうかな」
「なんの記念ですか?」
「デート記念」
これ、デートなの?
奈々子は結城の一言一言に、翻弄される。
結城は意味ありげに笑って「よし、買おう」と言った。
女性客の視線を一身にあつめて、結城はお店を後にした。
しばらく二人でショッピングセンターをぶらぶらと見て回る。CDショップで今流行っているポップスについてしゃべり、本屋で行きたい旅行先について語った。
奈々子の緊張も徐々にとけていく。手を握られるのも、慣れて来た。自分のテリトリーにいることが、奈々子を安心させているのかもしれない。
ふと窓の外を見ると、夕焼けが見える。気づくとすでに夕方の五時だ。結城は腕時計を見てから「これからの予定は?」と聞いて来た。
「特にないです」奈々子は答えた。実はかなり歩き回ったので、足も疲れていて休憩したかった。
「じゃあ、ごちそうタイム。まだお礼をしてないから」
「さっき、ごちそうしてもらいましたよ」
「そうだっけ? 今度はアルコール入りでごちそう」結城はそう言うと、エスカレータを下って行く。ロータリーにつくとタクシーに乗り込んだ。
「目黒まで」結城はそう言うと、シートに身を沈める。
ユニクロのデニムを着るけど、移動はタクシー。倹約家なのか、浪費癖があるのか、奈々子の常識とは完全にずれていた。
高速に乗って、都心へと入って行く。
空に広がる雲が、オレンジ色に染まって、やがて夜が訪れる。
不思議と沈黙が苦しいとは思わなかった。奈々子は話しが途切れてしまうのが嫌いだ。相手が楽しんでいないんじゃないかと、不安になるのだ。男性と出かけることがあったとしても、いつもそれで必要以上に緊張するし、疲れてしまう。
結城は外の景色をみている。奈々子の左手の指先を握ったままだ。何もしゃべらない。でも奈々子には居心地がよかった。
やがて目黒の駅が近づいてきた。結城は脇道にそれるようドライバーに告げると「ついたよ」と言った。
そこは高級マンションのようだった。インターフォンに向かって「須賀です」と告げると、扉が開いた。エレベーターで八階を押す。奈々子はなんともいえない不安な気持ちになる。自分の世界とは少し違う。ここはどこなんだろう。
エレベーターの扉が開くと、もう一つ重厚な木製の扉。その扉が開かれ、中へと案内された。
吹き抜けの店内。目の前は一面ガラス張りで、都心の明かりがよく見えた。薄暗い店内をボーイに連れられ、個室に通された。個室と言っても小さなスペースでしかなく、入り口はカーテンで仕切られている。窓からはやはりきれいな夜景。
やっぱりちょっとおしゃれしてくればよかったかな。
奈々子は革張りのゆったりとした椅子に腰掛けた。
「ワイン飲める?」
「少しなら」
結城は手際よくオーダーしていく。奈々子はこんなおしゃれなお店にきたことがなかったので、すっかり萎縮してしまっていた。
ワインがテーブルに届き、仕切りのカーテンが締められると、結城はグラスを持ち上げた。
「今日は一日付き合ってくれてありがとう。いつも親切にしてくれるから、ここはお礼」
「……おおげさです。でもありがとうございます」
「奈々子さんがいつもどんな暮らしをしているのか、見ることができてよかった」
「須賀さんは、どんな生活をしてるんですか? なんだかさっぱり想像できませんけど」
「ここから徒歩五分くらいのマンションに住んでるよ。俺は自動車も自転車も乗らないから、基本は徒歩で行けるところばっかりにいるかな」
「随分都心にすんでるんですね」
「親父の遺産。昔、愛人と住んでたんじゃないかと思う」
「あれ? 母子家庭って言ってませんでした?」
「うん、父親は結構有名な経済界の人間で、母親は愛人だった。でも俺が産まれてから別れたって。だから実際に会ったことはないよ。テレビや雑誌で顔を見たことはあるけど。親父が亡くなって遺産分けのときに、母親から教えてもらった。向こうの子供達も割と親切で、このマンションを相続するのを駄目とは言わなかった。もちろん会ったことはないけど、その兄弟たちとも」
「そうですか」
「奈々子さんは兄弟いる?」
「弟が一人」
「東京にいるの?」
「いえ、群馬の実家に両親と住んでいます。地元の材木屋で働いてて、もうすぐ結婚です」
「歳はいくつ?」
「二十四」
「結婚早いね」
「田舎なんで。地元に残る友達も、みんな結婚してます」
「東京じゃそんなに早く結婚しないからね」
「そうですね」
結城は赤ワインを手にとる。グラスを支える手は大きく、指は長い。手首はよく見ると男性的でしっかりとしているけれど、手のひらの大きさで全体が華奢に見えた。
「お酒は何が好き?」結城はグラスに口をつけながら訊ねる。
「ええっと、ワインも好きですけど、飲み過ぎると頭が痛くなります。今日はほどほどを心がけます。日本酒も甘くて好きだし、あ、ビールも好きです」
「結構お酒好きだね」
「味や雰囲気が好きで。基本は楽しいお酒です。須賀さんは?」
「うん、あんまり酔わないんだよね。ちょっとふわふわするぐらいで。だから飲まなくてもいいかな、と思うけどね。あ、俺はどっちかっていうと甘い物の方がすきかな。ケーキとかプリンとか」
「へえ」
「この近くにおいしいチーズケーキのお店があるんだ。同居人がよく買ってくる。こんど食べようよ」
奈々子は今度っていつ? と思いながら「はい、楽しみです」と答えた。
「同居人って、幼なじみですか?」
「うん。同い年の男。女の子じゃないよ」
「知ってますよ。この間言ってた」
「うるさいんだ。奥さんみたいにいろいろ言ってくる」
「一緒に住むなんて、仲がいいんですね」
「……どうかな」結城はそう言って笑う。
「何してる人ですか?」
「幼稚園の先生」
「へえ」
「今度会わせるよ」
結城は窓の外を見て、ワインを飲む。照明がが深い紫色をテーブルに写す。きれいだ。
「奈々子さんは男の人といると、いつもそんなに緊張するの? それとも俺と一緒だから?」
「え?」グラスにのばした手がぴたりと止まる。「……そんな風に見えます?」
「見える」結城は笑って奈々子を見てる。
「たぶん、いつも、こんなです。でも、今日はかなり緊張してるほうで」
「リラックスできない? 背筋はまっすぐだし、俺の動きや言葉にいちいち反応してる」
「はあ……それができれば、もっと楽しめると思うんですけど。昔からなんです。男の人、苦手って訳でもないんですが……緊張しちゃって」
「ずっと警戒体勢にいるのかな? 何かされると思って。嫌がる子には何もしないよ」
「はあ……」奈々子は「何もしないんだ」と思いながら、曖昧にうなずいた。
「歳はいくつ?」
「二十六です」
「じゃ、俺より一個下なだけだ。友達だったら? 女の子の友達みたいにさ、気軽に話したりできない? やってみてよ」
「ええ?」
「俺、幸い、女みたいな顔してるしさ。結城って名前も、女の子みたいでしょ? 『結城、ワインおいしいね』とかなんとか、言えない? ほら」そういって、結城は奈々子を促す。
「ゆ、結城……さん」
「『さん』つけないで」
「結城、あの……」奈々子はなかなか先が出てこない。
見ると結城がくすくす笑ってる。
「からかってます?」
「ちょっとだけ」
奈々子は憮然とした顔をした。
「ま、少しずつね」結城はそう言うと、ピクルスを口に入れた。
「須賀さんは、随分慣れてますよね」
「何が?」
「こうやって、女性と会話すること」
「そうかな?」
「そうですよ」
「俺と話してて、楽しい?」
「そうですね」
「よかった」結城はにこっと笑う。「やっぱり最初はうまくしゃべれなくてね。基本的に誰かと会話することが苦手なんだ」
「そうは見えませんけど」
「がんばってる」
「はあ」
「でもたまに疲れる」
「そうですか」
「女の子と一緒にいると、たいてい女の子が一方的にしゃべる。ああだ、こうだ、こう思った。俺はうんうんとうなずいて、いつキスしたらいいかなあとか、考えてる」
「はあ」
「今も考えてる」
「はあ?」
「ウソ」
「はあ」
「さっきから『はあ』しか言ってない。本当に俺と話してて楽しい?」
「えっと、ちょっと戸惑ってます」奈々子は素直にそう言った。
「いつもだいたい、女の子が話しかけてくる。俺は来るもの拒まずだから、楽しく話して、楽しく食事して、キスして、セックスして」結城がちらっと奈々子を見る。
「大学時代は、とにかくたくさんの女の子と付き合った。付き合ったっていうのは、そうだな、一晩を楽しく過ごしたってこと。女の子はだいたい、俺を隣に連れて歩くと、まるでブランド物のバッグを持ってるみたいに、自慢するんだ。俺の意見はおかまいなしで、いろんなところに連れて行かれる。それもまあいいかなあ、女の子を抱ければ、なんて思ってたけど、そのうち嫌になっちゃった」
「はあ」
「俺から誰かを誘ったのなんて、本当に数えるくらいしかないんだ」
「……そうですか」奈々子は大学時代の結城を想像すると、おかしな汗が出てくる。
俺は遊び人だって、今告白してるわけ?
「刺激が強すぎたかな」結城はそう言って頭をかいた。
なんだか後半は、結城の言葉があまり耳に入らなかった。なにせ奈々子はまだ誰とも付き合ったことがない。正直に言えば、キスだってまだだ。二十六歳なのに、と思うけれど、チャンスがなかったのだ。こればかりはしょうがない。
「ごちそうさまでした」奈々子はマンションエントランスでお辞儀をした。ワインを少し飲み過ぎたようだ。ちょっと足がふらついた。ここは目黒。家までは遠い。
「駅まであるいて、タクシーをひろうよ。その間に少し酔いも冷める」結城はそう言うと、再び奈々子の手を取り歩き出した。
駅に続く大通りには、たくさんの車が走ってる。深夜にも関わらず、多くの人たちが歩道を歩いている。見上げると真っ暗で、星など一つも見えない。実家近くの空とは大違いだ。日中の暑さは遠のき、今は涼しい風が吹いている。排気ガスの匂いと、歩道に植えられた木々のかおり。
東京の夜だ。
「ねえ」結城が奈々子に声をかける。
「はい?」奈々子は結城を見上げた。
「キスしてみようと思うんだけど、いいかな?」
奈々子の心臓がびっくりして、ひっくり返ったようだ。驚いて立ち止まる。
結城は奈々子の腰を引き寄せ「確かめたいし」と言った。
「な、何を?」奈々子は身体を反らして、結城から離れようとした。
「う……ん。なんだろう?」結城が首を傾げる。
「まったく訳がわからないんですが」奈々子は身体をさらにそらす。
「ま、いっか」
「よくないです」
結城は笑みを浮かべ、奈々子の瞳を覗き込む。奈々子は卒倒しそうだ。
「嫌ならしない」
「い、嫌です!」奈々子は大きな声でいった。
結城の腕がゆるみ、奈々子の身体が少し自由になる。「なんで?」
「あ、あの、須賀さんのことを、なんていうか、好きでもないし」奈々子は言ってから後悔するが、どうにもならない。「好きでもない人とは、キスしたりしないもんです。須賀さんとは違います!」
「……わかった」結城はそう言うと「ごめんね」と言って、あっさり引き下がった。奈々子は拍子抜けして、大きな溜息をついた。
そのまま駅まで黙って歩く。ロータリーでタクシーをひろうと、結城は行き先を告げ、料金を事前に支払った。
「今日はどうもありがとう。おやすみ」結城はそう言うと完璧な笑顔で奈々子を見送る。
奈々子は先ほどの衝撃からまだ立ち直っていない。やっと会釈だけすると車は発進した。
しばらく走ってからやっと、奈々子はまともに呼吸できるようになってきた。
今夜も眠れないな。
奈々子は先ほどの出来事を繰り返し頭の中で再生させながら、家路についた。
十
今日は夏祭りだ。夕方涼しい時間から始まる。
職員達は準備に余念がない。園庭の真ん中には大きな櫓が立ち、幼稚園の各クラスには射的やくじ引きなどの余興がそろう。
庭に面したクラスのひまわり組では、焼きそばの屋台が出る。毎年有志で、子供達の父親が屋台を手伝う。三時ごろには、父親達もそろうはずだ。それまでにできる準備はしてしまわなくてはならなかった。
子供達は、この日のために、盆踊りを練習してきた。飯田先生のピアノに合わせて、子供達の小さな手が右へ左へとゆらゆら揺れた。うまくできる子も、そうじゃない子も、一様に真剣だった。今日の本番が楽しみだ。
本番と言えば、拓海は今日のために太鼓の練習を毎日してきた。ただ叩くことはすぐにできたが、強弱をつけてうまく叩くのはなかなか難しい。拓海は少々緊張していた。
ひまわり組の中に折りたたみ式の机を出し、コンロや調理器具を用意する。ゆきも腕まくりをして、重い荷物を運ぶ。実際の調理は父親達が行うのだが、これがその年によって随分味が違う。はずれの年はたくさん売れ残ってしまい、先生たちががんばって食べるようだ。拓海は今年の父親達がうまくやきそばを作れますように、と本気で願った。
拓海はゆきと話をしたかったが、なかなかチャンスがない。仕事帰りに食事に誘えばいいだけの話しだが、先日のことを思い出すと気が引ける。ゆきが他の先生たちと話をしているのを耳にしたが、まだ友達の家にいるようだ。拓海のバッグには結城から借りたお金がずっと入っている。ゆきが自分のアパートに帰る前に、引っ越しをさせたかった。
「休憩しよう」飯田先生が声をかけた。ゆきと拓海は手をとめる。
「何か飲み物買ってきましょうか」拓海が声をかけた。
「そう? ありがとう」飯田先生が眼鏡を直しながら言う。「他のクラスの先生たちにも聞いて、買って来てもらおうかな」
「わかりました」拓海はうなずく。
ゆきが「きっと重くなりますので、私もいきます」と立ち上がった。
各クラスの先生たちに希望の飲み物を聞いて、二人はスーパーまで買い物にでかけた。
暑い。拓海は汗を腕で拭った。
幼稚園の前は遊歩道のように木々が並んでいる。木陰に入ると少しほっとした。頭上で大きな蝉の声が聞こえた。見上げると三匹も幹にくっついている。
「拓海先生、この木、蝉だらけですよ」ゆきが笑って指を指す。
「そうだね」拓海はうなずく。
生温い風が吹いている。コンクリートからはまるで湯気がでているように、もわもわと暑さがあがってくる。
「夕方には少し涼しくなるといいですね」ゆきが言った。「これじゃ子供達が熱中症になっちゃう」
「日がおちれば、過ごしやすくなると思うけど」拓海は言った。
ゆきはすたすたと大股で歩く。結構な早足だ。後ろからゆきの揺れるポニーテールを見ながら、話すなら今だと覚悟を決めた。
「ゆき先生」
「なんですか?」ゆきが振り返る。
「引っ越ししてください」
「……そんなお金ありませんって」
「僕が出します」
「え?」ゆきが立ち止まった。
「ゆき先生、今のアパートはやっぱり危ないですよ。一度部屋に入られてるんですよ。鍵を変えたって、居場所はばれてるんですから」
「でも……」ゆきは困った顔をする。
「とにかく、何かがおこってからでは遅いんです」
「……ありがとうございます。でも、これは私の問題ですし、私でなんとかします。拓海先生にご迷惑をかけるわけにはいきませんよ」ゆきはそういってから「大丈夫ですって」と笑顔をみせた。
拓海は不安に心臓がゆれる。思わず「駄目だ」と言った。
ゆきが驚いて目を開く。
「駄目です。絶対に駄目だ。すぐに引っ越して。心配なんです」
ゆきはしばらく拓海の顔をみつめる。
蝉の声が耳につく。
「先生」ゆきが拓海に歩み寄る。「僕の暮らしには入ってくるなって言うのに、わたしの暮らしには入ってくるんですね」
拓海は黙り込む。
「ご心配には感謝します。親切にしていただいてるのもよくわかってます。でも、やっぱりお金をいただく訳にはいきません」ゆきはそう言うと、くるりと向きを変え再びスーパーの方へと歩き出した。
浴衣や甚平を着た子供達が、続々と園庭へと集まりだした。あっという間に、園庭ににぎやかな子供の声で溢れ出した。
先生たちは皆ゆかたに着替えた。ゆきもピンク色の浴衣に着替え、髪の毛を結い上げている。
ゆきの言葉が拓海の身体の中で響いている。ゆきの言い分はもっともだ。ただの同僚から、大金をもらうなんてこと、する訳がない。
拓海は溜息をついた。
ひまわり組からはおいしそうなソースの焼ける匂い。父親たちが汗をかきながら大量の焼きそばをやいている。
「拓海先生、味見します?」一人の父親が声をかけた。短い髪に眼鏡。がっしりした体格。りくとの父親だ。
「はい」拓海は笑顔でそう答える。割り箸を持って一口食べてみた。
「おいしいですよ」
「本当? よし!」りくとの父親がガッツポーズをつくる。笑顔がりくとにそっくりだ。
「どんどん、売ってください」拓海が笑いながら言うと「まかせとけ」と父親は答えた。
見上げると、茜色の空を飛行機雲が伸びていく。心配していた暑さも和らいできた。肌に感じる風がすずしい。
櫓から園庭を横切るように提灯が飾られている。その提灯の明かりが灯った。
いよいよ夏祭りの開始だ。
拓海は太鼓を叩くため、櫓にのぼる。叩く間だけ、拓海はTシャツにジーンズの装いだ。拓海が櫓に立つと、子供達から歓声があがる。拓海は緊張しながらも、ばちを持った手を上げて応援にこたえた。
音楽がスタートし、拓海は腰を落として太鼓を叩く。ゆきの言葉が頭の中に何度もリプレイされるが、そんな雑念を振り切るように力強く叩いた。
櫓の周りで、子供達が輪になっている。その周りに親達がカメラを構えて輪になっていた。
子供たちは一生懸命に踊る。浴衣姿の先生たちも、子供達に混じり踊る。
ゆきが踊っている姿が見えた。淡いピンク色の浴衣が似合う。手を上げると細い腕が袖から見える。拓海の胸がざわついた。
他人を自分の心に入れてはいけない。
誰かを愛しく思ってもいけない。
そんなことになったら、あの人に出会えなくなってしまう。
再びあの人に出会えると信じてたから、なんとかここまで生きてこれたのに。
ふと視線を感じた。
なんだろう。
拓海はリズムを取りながら、斜め前に目をやる。
父親の一人が、拓海をじっと見つめていた。幼稚園児の父親にしては、少し年配の四十半ば。白髪まじりの髪に、黒斑の眼鏡。オフホワイトの半袖シャツに、紺色のスラックスという出で立ち。
あの人……。
拓海の鼓動が早くなる。
あの人、知ってる。
手が震えそうになるのを必死にとめる。
知ってる。
知ってる。
知ってる。
痛いほどの動悸。
その男性の隣には、りなの母親が立っている。笑顔だ。
りなの父親。
そうか。
そうなんだ。
冷や汗が全身を流れ落ちる。
記憶の中の映像と、現実の映像が交互に現れる。
自分が今どこにいるのか、わからなくなってくる。
幸い、もう少しで、拓海の出番が終わる。
あと少し。倒れる訳にいかない。
拓海は目を閉じて、懸命に現実に自分を戻そうとした。
なんとか最後までやらなくちゃ。
前半の踊りの終了を知らせるアナウンスが流れた。拓海はバチを半ば投げるように置き、よろめきながら櫓から降りる。はしごの最後で踏み外し、肩を打ち付けた。その痛みもわからないほど、拓海は完全にパニックに陥っていた。
目を上げると、ゆきが拓海に駆け寄ってくるのが見えた。
「先生、大丈夫ですか?」ゆきに支えられ、拓海は歩き出した。りなの父親の隣を通り過ぎる。視線を痛いほどに感じる。
憎しみの視線。
拓海はやっとのことで園庭から建物のエントランスへとあがった。
「拓海先生、職員室今誰もいませんから、そこで休みましょう」
「ん……」拓海は返事をすることができない。ゆきに半ば引きずられるように、廊下一番奥の職員室へと入る。ゆきが蛍光灯をつける。
園庭に面したその部屋には、担任を持つ先生の机が、向かい合わせで並べられている。廊下側にベージュ色の布製ソファが置いてあった。拓海はそこに転がる。
心臓が痛い。
「先生、お水もってきましょうか」ゆきが訊ねた。「それとも病院?」
「だ、大丈夫。しばらくすれば……治る……から」拓海は息がうまく吸えない。
飯田先生が職員室に入って来た。「拓海先生? どうしたの?」
「なんだか、具合が悪いみたいで」ゆきが心配そうに答える。
「熱中症?」
拓海は首を振る。今は誰とも話せない。
「とりあえず、ここで休んでて。太鼓は去年やってくれたお父さんがきてるから、ちょっと頼んでみるわ」飯田先生が言った。
「ゆき先生、しばらく拓海先生を見てて。一人にするのは心配だわ」飯田先生はそう言うと「また後で様子をみにくるね」と言って、部屋を出て行った。
扉が閉まる音がした。白い天井を見上げる。蛍光灯の光が目に痛い。
「りなちゃんのパパ、知ってるんですか?」ゆきが突然たずねた。拓海は驚いてゆきに視線を向ける。
「わたし拓海先生のことよく観察してるんですよ」ゆきが微笑む。「りなちゃんのパパのことを見たあと、拓海先生がすごく動揺してたから。間違ってたらごめんなさい」
拓海は答えられない。ただ喘ぐように息をするだけだ。ゆきはそんな拓海の様子を見て「すごい汗。タオルとってきますね」と言って立ち上がった。
ゆきに気づかれた。どうしよう。
扉があき、再びゆきが入って来た。手にお水のペットボトルとタオルを持っている。拓海の側にひざまずくと、やさしく拓海の額をタオルで拭いた。それからペットボトルをおでこにつける。
冷たい。
拓海は目を閉じた。
涙が出て来た。止めようにも止められない。
ゆきは「先生?」と声に出してから、何も言わなくなった。
それからゆきの指が頭をなでる感触がした。彼女の指は暖かく、優しい。母親が幼いころの拓海の頭をなでてくれた、その感触を思い出した。
拓海は目をあける。
「いいですよ。寝て。側にいます」ゆきはそう言うと微笑んだ。
堪えていたものが溢れ出す。拓海は声を出してなきはじめた。
拓海が目を開けると、職員室の明かりは消えていた。身体の上に毛布がかけられている。
身体を起こし園庭の方を見ると、すでに誰もいなかった。壁にかけられたあんぱんまんの時計を見ると十時半すぎ。
拓海は驚いて立ち上がった。そっと廊下にでる。廊下の明かりも消えている。ひまわり組にだけ明かりがついていた。拓海はそちらに向かって歩いた。
部屋の中にはゆきがいた。浴衣から洋服にすでに着替えている。グリーンのカーディガンにデニム。床に座り込んで、おもちゃの整理をしているようだ。
拓海が扉を開けると、ゆきが振り向く。
「先生、大丈夫ですか?」ゆきが訊ねた。
「うん」拓海はうなずき、それから「すいませんでした」と謝った。
「みんな、心配してましたよ」
「迷惑をかけちゃった」
「体調が悪くなるのは、しょうがないですよ」ゆきはそう言うと「何か飲みます?」と訊ねた。
拓海は無言で首をふる。ゆきの前で泣いてしまったことを、後悔していた。
あんな風に自分を出してしまうなんて。
「送ります」ゆきが言う。
「いや、大丈夫。電車で帰るから」
「でも……」
「いいんだ。本当に」拓海がそう言うと、ゆきはそれ以上言うのをやめた。
ゆきはおもちゃの片付けを再び始める。消毒して、ラベルをつけ、しまい直す。別に今日しなくてはならない仕事ではない。拓海を待つ間に始めたのだろう。
「ゆき先生、ごめん」
「ぜんぜん大丈夫ですよ」ゆきが笑顔で返した。
「手伝うよ」
「具合は?」
「平気」
拓海はゆきの向かいに座って、仕事を始めた。しばらく無言で仕事を続ける。そろそろ終わりに近づくというころ、ゆきが「幼稚園、辞めたりしませんよね」と訊ねた。
拓海の手が止まる。ゆきを見ると拓海を心配そうに見つめる瞳と目が合った。
「それは……」拓海は言いよどむ。
ゆきは立ち上がると、子供用ロッカーの上に置いてあった自分の鞄から、一枚の紙を持って来た。
「はい」と言って、その紙を差し出す。
拓海はその紙を受け取ると、開いてみた。携帯の電話番号が書いてある。
「誰の?」拓海はゆきにそう訊ねた。
「りなちゃんのパパのです」
拓海は息をのむ。「どうして……」
「お祭りが終わったあと、りなちゃんのパパがきて、拓海先生の様子を聞いて来たんです。それからこの紙を渡されました。電話をしてくれって。いつでもいいから、と」
紙を持つ手が小刻みに震えだす。
少し治まったと思ったのに、またパニックがはじまってしまう。
「先生……」ゆきが言う「拓海先生が入ってくるなって言うので、わたしからは何も聞きませんけど、もし話したいって思うときがきたら、わたしはいつでも聞きます。これでも相談ごとには強いんです」ゆきが笑顔を見せた。
拓海はその笑顔に、不思議なことに気持ちが楽になる。
思わず口に出してしまった。
「あの人の奥さんを、俺の母親が殺したんだ」
大きな音を立てて扉を閉める。結城は帰っていない。部屋の中は真っ暗だ。
玄関で乱暴にスニーカーを脱ぎ捨てて、そのまままっすぐ自分の部屋に入った。
ベッドに鞄を投げ、暗闇で立ち尽くす。暑苦しい。
ゆきは、拓海の言葉を聞くと黙った。
聞いてはいけないことを聞いてしまったという、そんな顔をしていた。
拓海は「忘れて」と言い、二人は黙々と仕事をし、そして帰った。ゆきを友達のマンションまで送る途中も、一言もしゃべらなかった。
話したことを後悔してるだろうか。
拓海は自分に問いかける。
心臓を削られたような、そんな感覚。それから、安堵。
ゆきは拓海の闇から身をひくだろう。もう拓海の中に入ってこようとはしないだろう。
それは拓海が望んでいたことだ。
バタンと大きな音がして、玄関がしまる音がした。拓海ははっとして顔をあげる。部屋から出てリビングの電気をつけると、結城が部屋にはいってきた。そのままソファに倒れ込む。
「おかえり」拓海は声をかけた。
返事はない。
「どうしたの?」
「どうもしない」クッションに顔をうずめた結城が、ぐももった声で返す。
「なんかあったの?」拓海はリビングに出て、結城の側に立つ。
「……振られた」
「へえ」
「へえって、それだけ?」
「だって、誰にでもあることだろう?」
「俺にはない」
「振られたことないの?」
「ある」
「あるじゃん」
「こんなに早く、振られたことはない」
「誰に?」拓海はソファにもたれかかるように座り、訊ねた。
「あの子」
「肉まん譲ってくれた子?」
「うん」
「結局誘ったの?」
「うん」
「で?」
「映画見て、食事して、キスしようって言ったら、嫌だって」
「初めて誘ったんだろう?」
「うん」
「それでもうキス?」
「うん」
「早すぎるだろ、それ」
「いつもは嫌だって言われない」
「……随分と自信家だな」
「だって本当のことだもん」結城はやっとソファから顔をあげて、うらめしそうな顔をする。
拓海は自分の口調に少し驚く。こんなにも普通に話をできているなんて。結城の顔をちらっと見ると、何も気づいていないようだ。なんだかほっとした。
大丈夫。何も変わってない。
「駆け引きが下手だよね」拓海が言うと「お前に言われたくない」と拓海から顔を背ける。
「その子はたぶん、お前とは一線をひいておきたいんだ。結城は別に女の子に不自由してる訳じゃないし、別にいいじゃないか。大人の対応してればさ」
「簡単に言うなよ。俺にはプライドがあるんだ」
「たいしたプライドじゃないじゃん」
「なんだよ。童貞のお前に言われたくない」
「違うよ!」拓海は顔をしかめて抗議する。
「うそつけ」
「知らないくせに。俺はいちいち報告しないからな」
「じゃあ、なんでそんなに色気がないんだよ。いつまでもお子様顔のくせに」
「八つ当たりするなよ」
「うるせー」結城がクッションを投げつけてくる。
拓海は腹が立ってクッションを投げ返した。「すねるなら、お前の部屋で一人ですねてろ! 俺はもう寝るからな」
結城はソファから立ち上がって、クッションを抱きながら自分の部屋に入っていく。
拓海も自分の部屋に入り、Tシャツを脱ぎ捨て、それからデニムのポケットに手を入れた。指先に紙片が触る。
携帯番号。
電話をかけるべきなのはわかっていた。けれど……。拓海は紙片を取り出すと、鞄の中にしまい込む。そして仰向けにベッドに倒れ込み、目を閉じた。
十一
「ど、ど、どういうこと?」珠美が口をあんぐりと開けて、奈々子の顔に見入る。奈々子は顔を隠して、大きな溜息を一つついた。
月曜日のお昼休み。奈々子は珠美を誘って近くのパスタ屋へと出て来た。診療所の他の人たちには聞かれたくない話だった。
「どうやって顔を合わせたらいいのか……」奈々子は頭をかきむしりたい気持ちだった。
個人経営のイタリアンレストラン。狭い店内に四席ほど。テーブルにはビニールがかかっていて、メニューは手書きだ。ランチのパスタにサラダとコーヒーがついている。頼めばデザートもセットにできる。今日のパスタはボンゴレビアンコ。デザートはすいかのムースだ。
「だけどさあ」珠美はパスタを口に運びながら話す。「手が早いね。さすがだよ」
「どうして誘われたんだろうなあ」
「だねえ。担当の診療所ごとにお気に入りがいて、順番に誘ってるのかな」
「だとしたら、本当に……恥ずかしくて」
「でも、奈々子は偉いよ。よくダメって言えたよね」
「必死で」
「そこまでされたら、私ならふらふらと、ついキスしちゃうと思うけど。遊ばれてるとわかっててもね」
「そう?」
「だって、あの顔でしょ。拒否はできないよ」珠美は夢見るような顔をする。
「わたし……初めてだったんだもん」
「え? 何が?」
「キス」
「……嘘でしょ?」
「本当」
「うわ。じゃあ、身構えるよね」
「でしょう? 初めてはやっぱり、大好きな人と、気持ちが通じ合って、とか考えるじゃない?」
「ティーンネージャーみたいなこと言ってる。でもわかるよ」
「あんな風に、なんていうか、気軽にされたくないの」
「奈々子……彼氏を作ったほうがいいよ。須賀さんじゃない、誰かね。あの人はちょっとハードルが高すぎる。あれはもう、見てるに限る男よ」
「……うん」
「紹介してあげよっか」
「本当?」
「今、彼女募集中の友達、結構いるよ」
「珠美は付き合わないの?」
「実はわたし、彼氏いるの」
奈々子はびっくりして珠美の顔をみつめる「うそ!」
「本当」珠美はぺろっと舌をだした。
「わたしの知ってる人?」
「どうかな」珠美は含みのある言い方をする。
「教えてよ」
「いつかね。紹介するから」
「ほんとよ」奈々子は笑ってコーヒーを飲んだ。
「奈々子、友達と会ってみる? こういう言い方はなんだけど……気楽だよ。身の丈にあった彼」
「だよね」奈々子は現実離れした容姿の結城を思い出し、肩を落とした。
「すぐ連絡してあげる。須賀ショックは、楽しい恋で解消するの」
「須賀ショックって」奈々子は笑った。
「待ってね。今メール入れてみる。向こうも昼休みだと思うから」
身の丈にあった彼。
珠美の言うことはもっともだ。結城は奈々子の常識からかけ離れている。いつも注目を浴びて、いろんな女の子と遊んで、気軽にキスをする。とてもついていけない。
「今夜、会えるって」珠美が顔をあげる。
「え? 今日?」
「うん。奈々子に何も予定がないなら、一緒にご飯しようよ」
「……うん」奈々子はうなずいた。
上野駅で待ち合わせをした。帰宅する人々。混雑の中で珠美と待った。
「今日は夜も暑いね」奈々子は言った。
「だね。熱帯夜」珠美はハンカチで汗を拭いた。
珠美の顔はふっくらとしていて、優しいイメージだ。しゃべると意外とはきはきしていて、そのギャップがかわいい。彼氏ってどんな人だろう。奈々子はいろいろと想像した。
「こんばんわ」そう声をかけられて、奈々子は振り向いた。
「きゃー、久しぶり!」珠美が飛び跳ねる。
「こちら、吉野邦明さん。こちら、戸田奈々子さんね」珠美が紹介する。
「はじめまして」
邦明は小脇に黒鞄を抱え、笑顔でお辞儀をした。身長はそれほど高くない。でも優しい目をしてる。髪はパーマをかけているのか、短いがボリュームがあって、りりしい眉が印象的だ。
「じゃあ、行こうか。お店予約してあるんだ」珠美が先頭を歩き出す。邦明はお先にどうぞ、というように奈々子を促した。
「よさそうな人」奈々子はほっと胸を撫で下ろす。
「急がせちゃったね」珠美は振り返りながら、邦明に声をかける。
「いや、いいよ。こっちこそ、ありがとう」それからちらりと奈々子を見て「きれいな子だね」と言った。
「でしょう? 言った通り!」と珠美が言う。
奈々子は恥ずかしくて、うつむいた。
チェーン展開をしている居酒屋に赴く。個室を売りにしている居酒屋なので、左右対称に個室が連立している。そのうちの一つに通された。
「まずビールでしょ?」珠美がメニューを見ながら言う。
「いいよ」邦明は手を伸ばして、メニューを受け取る。それから奈々子にメニューを見せ「何を飲みます?」と訊ねた。
「じゃあ、ビールで」
邦明がインターフォンで店員を呼び「生中三つ」と注文した。
「何食べる?」珠美がメニューを覗き込む。
「なんでもいいよ」奈々子は珠美にメニューを再び渡す。
「じゃあ、串焼き盛り合わせ」珠美が言う。
「相変わらず、がつっと食べるね」邦明が笑う。
「当たり前でしょう?」珠美は次々とスタミナがつきそうなメニューを選ぶ。「太っちゃうなあ」と言いながら、付きだしに箸をつけた。
「ずっと紹介してよって言ってたんだけど、なかなか連絡こなくてさ」邦明が肘をついて言った。
「その間に新しい彼女ができてなくてよかったよ」珠美が言う。
「だって出会いがないんだもん。男の職場だからさ」
「何されてるんですか?」奈々子が訊ねる。
「建設業。現場にもいくよ」
「肉体労働なんですか?」しっかり背広を着てるのに、と不思議に思って訊ねる。
「いや、本社から派遣されて、現場を管理する。実際の労働はしないよ」
珠美が「合コンで知り合ったんだよね」と言う。
「へえ」
「合コンって言うと、いっつもなんか女の子探してるみたいで、印象が悪いな」邦明が照れくさそうに言った。
「でもね、人の良さはお墨付きだよ」珠美が奈々子に言う。「本当にいい人。恋人にはならなかったけど、友達になれた。おすすめ!」
店員がジョッキを持ってくる。三人は「出会いに」と言って乾杯した。
「戸田さんは好きな人いないの?」邦明が訊ねる。
「いないいない」奈々子が答える前に、珠美が口を出した。「だからお試しで付き合ったらどう?」
邦明は「強引だな」と言って笑う。奈々子は曖昧な笑顔を返した。
「あ、携帯鳴ってるよ」珠美が奈々子に言った。鞄からかすかなバイブの音がする。奈々子は鞄から携帯を取り出した。メールの着信。結城からだ。奈々子はちらっと珠美を見る。珠美は気づいていない。奈々子はメールを開く。
「怒ってる?」
奈々子は口をへの字にした。なんで連絡してくるんだろう。こんな時に。
「どうした?」珠美がいぶかしげな顔で見る。
「ううん。メール。ちょっと返事する」奈々子はそう言って素早く「おこってません」と返した。
するとすぐに「ほんと?」とかえってきた。
「ほんとうです」
「うそ」
「うそじゃないです」
「じゃあ、なんで敬語?」
「それはいつもです」
「ああ、そうだった。今なにしてる?」
「食事中です」
「誰と?」
奈々子は顔を上げて考える。
「珠美とです」送信してから、なんで隠す必要があるのかと、自問自答した。
すぐに「ちょっと取り込み中なので、もう返信しません」と返した。
あまりにも大人げない発言かな? と考えたが、送ってしまったものは仕方ない。奈々子はジョッキを手に取って一口飲んだ。
珠美のリードで、食事の場は盛り上がった。奈々子もある程度リラックスして話せた。
邦明は珠美の言う通り、とてもいい人のようだった。職場での話しや、学生時代の話を、おもしろおかしく話す。会話が上手なのかもしれない。
「会話をがんばる」と言っていた結城を思いだした。会話は二人ともうまいが、まったく雰囲気が違う。同じ男性なのにこれだけ違うのは、とても不思議だと思った。
珠美が時計を見て立ち上がる。
「どうしたの?」奈々子は隣の珠美を見上げて訊ねた。
「約束があるの」
「うそ」
「彼氏と。じゃあ、後は二人で」そういうと、さっさとバッグを持って出て行く。
「ええ?」奈々子は突然不安になった。
「戸田さんはまだ時間、大丈夫ですか?」邦明が訊ねた。
「は、はい」奈々子は緊張してそう答える。
「さっき……珠美がお試しで付き合ってみればって言ってましたよね」
「……そうですね」奈々子は身構える。
邦明は冗談めかして「それもいいかもしれないなって思うんですけど。どうですか」と訊ねた。
結城の顔がうかぶ。彼の仕草。彼の匂い。彼の指先が奈々子の指を握った、その温度。
「おつきあいしてみましょうか」奈々子はそう答えた。
「どうだった?」朝一番で珠美が聞いて来た。
「いい人だね」奈々子は答える。
「付き合う?」
「お試しで」奈々子はそう言うと「ありがとう」とつけ加えた。
「いいの、いいの! そうか、よかった」と珠美は笑顔になった。
今日は結城が診療所に来る日だ。奈々子はどうやって顔を合わせるか考える。
「堂々としてればいいんだよ」珠美が奈々子の考えていることを見透かすように、そう言った。
「うん」奈々子はうなずいた。
お昼前、いつもの時間に結城は現れた。
いつもと変わらない。口惜しいほどに、いつもと変わらず魅力的だった。
待合室にいる女性たちは、ほうっと溜息をつく。結城は笑みを浮かべ、受付に近づいた。
「こんにちわ。納品リストです」結城が紙を差し出す。奈々子は表情を変えずにそれを受け取る。結城がカウンターに薬品を並べて行く。珠美がその数を数えた。
「大丈夫です」奈々子はサインをし、リストを返す。
「本当に暑いですね」結城が汗を腕で拭った。
「そうですね。熱中症気をつけてくださいね」珠美が笑顔でそう返した。
「ここは涼しくて天国みたいです」結城が天井の冷房の送風口に顔を向ける。風が結城の艶のある前髪をなびかせた。
「ああ、そうだ」珠美が声をあげた。
「来週はお盆休みをいただいてるんです。須賀さんもお休みですよね」
「はい。でも一日か二日は、新人なんで出社予定です」
「そうなんですか。実はうちも休日当番医なので、火曜日だけ開けてるんですけど。でも、納品はお盆開けで大丈夫ですから」
「わかりました」結城はそう言って、鞄を肩にかけ直した。
「須賀さん、いらっしゃい」八田さんが診察室から顔を出した。
「こんにちわ」
「今日、寄って行ってって言いたいんだけど、食べるもの何もないのよね」八田さんが言う。
結城は「そうですか。残念」と言って、奈々子を見る。
「あ〜。また奈々子ちゃん見てる」鈴木さんが八田さんの後ろからひょいと顔を出した。
結城はにやっと笑った。「つい、見ちゃうんです」
珠美が「奈々子は免疫がゼロだから、あんまりいじめないであげてくださいね」と言う。
「ちょっと……」奈々子は思わず珠美の膝を叩いた。
「心外だな。いじめてなんかいませんよ。むしろ親切にしてます。あ」結城はそう声をあげると、ポケットからハンカチを取り出した。
「この間お借りしたものです。ありがとうございました」と奈々子に返した。映画館で貸した白いハンカチだ。きれいにアイロンがかけてある。
「いつのまに?」鈴木さんが興味しんしんで受付の中に入って来た。
「はい、ちょっと」結城はそう言って、それから奈々子を見た。
奈々子は波立つ心を見せぬよう、つとめて冷静に結城の顔を見返した。
「奈々子、彼氏いますよ。だからちょっかい出しちゃダメですからね」珠美が言う。
すると結城は驚いた顔をした。「ほんとですか?」
「そうそう。昨日できたばっかり」珠美はなぜか自慢げに答える。
「昨日?」
「そう。ね、奈々子」
「……うん」
「それは……ずいぶんとホットな話題ですね」結城はそう言うと奈々子を見た。奈々子は動揺していたが、そんな奈々子よりもずっと結城は動揺しているように見えた。
そんな馬鹿な。
奈々子は、一瞬頭に浮かんだそんな印象を、吹き飛ばした。
「じゃあ、土曜日に」結城はそう言うとお辞儀をして、診療室から出て行った。
彼の余韻が待合室に漂う。八田さんが気を取り直して「次の方、診察室にお入りください」と声をかけた。
鈴木さんが奈々子の方に顔を寄せる。「奈々子ちゃん、彼氏できたの?」
「……はい」
「須賀さん、結構動揺してたみたい。意外に本気だったりして」そういうと笑って診察室に戻って行った。
珠美が「うそうそ」と首を振る。「あの人は、全部計算してるんだって。奈々子、流されちゃ駄目だよ」
「うん」奈々子はうなずいた。
十二
来週からお盆休みだ。
今週は希望者だけの預かり保育があるだけだ。拓海は園庭に続くデッキの上に立ち、真っ青な空を見上げた。園庭に植えられている木々にはたくさんの蝉がつき、大きな声でないている。子供達は水鉄砲で蝉を撃ち落とそうとしていた。
「かわいそうだから、やめてあげて」白いTシャツにショートパンツのゆきが、子供達に大きな声で話しかけていた。
「じゃあ、ゆき先生に」年長の男の子がそう言うと、子供達は一斉にゆきに水を浴びせかける。あっという間に全身がびっしょりとぬれて、ゆきは園庭を走って逃げ回っていた。
水に太陽の光があたって、一瞬の虹を見せる。水着姿の子供達は、裸足で園庭を駆け回る。
一人の子が蝉の捕獲に成功したようだ。びしょぬれのゆきに、蝉を見せようと近づく。ゆきは小さな手に捕まえられた蝉をみて「よく捕まえられたね」と、その子の頭をなでる。
「知ってる? せみさんって、本当に短い間しか生きられないの。だから離してあげようよ」
最初は渋っていた子供も、ゆきの説得でそっと手から蝉を放す。
大きな音を立てて、蝉が飛び回り、ゆきは子供と一緒に蝉を見て「ほら、木に帰ってった」と指差した。
そういえば鈴音は蝉が嫌いだった。背中についた蝉を「とって」と涙声で訴えた。もう随分昔の話。彼女の顔もはっきり思い出せない。
それなのに。
それなのに、この喪失感が消えることはないのだ。
拓海はポケットから、りなの父親の携帯番号の紙を取り出した。
まだ電話をしていない。電話をして、何を話すのだろう。殴られ、罵られ、幼稚園から出て行けと言われるのだろうか。
顔をあげると、ゆきが拓海を見ていた。拓海は目をそらし、背中を向けてクラスの中に入って行った。
りなはクラスの中で、懸命におりがみを折っている。額に汗をかいている。拓海は自分のスモッグのポケットからハンドタオルを出し、りなの頭をふいてやった。
「何を折ってるの?」
「飛行機」
「遠くに飛ぶかな?」
「うん。拓海先生も作って」りながブルーの折り紙を手渡した。拓海はりなの隣に座り、飛行機を作り出した。
「先生、上手」
「りなちゃんのも、かっこいいよ。おりがみはね、こうやって、角と角をぴったんこってすると、うまく折れるんだよ」
「でも、りなできないよ」
「大丈夫。上手にできてる。練習すればもっと上手にできるから。ほら」拓海は折り上がった飛行機を、部屋の中に飛ばした。
飛行機はふわりと舞い上がり、広いクラスの中を滑るようにとんだ。
「すごい」りなが目を丸くする。「りなも」
りなは自分の飛行機を力一杯投げる。赤い飛行機はくるくると回って、すとんと床に落ちてしまった。
「飛ばないよ」
「飛ばすときに力を抜いてごらん。投げるんじゃなくて、滑らすみたいに」拓海は床に落ちたりなの飛行機を拾い、りなに手渡す。
りなは飛行機をもう一度飛ばした。今度はそっと、空気にのせるみたいに。
「ほら、とんだ」拓海はりなの顔を見る。りなの顔は、歓びで紅潮している。飛行機はさっきよりもずっと高く飛び、静かに床に着地した。
「りなもお空飛びたいな」
「先生も」拓海はりなの頭をなで、そう答えた。
午後一時過ぎ。お昼寝の時間だ。通常保育では、お昼寝の時間を取らない。けれど夏期のお預かり保育では、みんな一斉にお昼寝をさせる。クラスの照明を落として、子供達はタオルケットに包まる。あんなに騒いでいた子供達も、しばらくすると静かになった。
蝉の声だけが聞こえる。子供達と一緒に転がっていた拓海も、皆から寝息が聞こえ始めると身体を起こした。ゆきも同じように身体を起こす。担任を持つ先生たちは、職員室で会議中だ。
「今のうちに、水鉄砲を洗っておきませんか?」ゆきが言った。
ふたりはかご一杯の水鉄砲をもち、園庭の隅にある水道のところまで歩いて行った。ゆきが「よいしょ」とかごを下ろす。そのときシャツがめくれて、ゆきの真っ白な背中がちらりと見えた。
ゆきが水道をひねると、ホースから水が勢い良く出る。大きな桶に水をため、二人は砂だらけの水鉄砲を洗い出した。拓海が砂を洗い流し、ゆきが乾いたタオルで水鉄砲をふき、かごにしまう。
お昼すぎの太陽は熱く、拓海の背中をTシャツの上からもじりじりと焼いた。流れる水の冷たさが心地よい。
「拓海先生」ゆきが言う。
「なに?」
「この間は、すみませんでした」
拓海は顔をあげた。「なにが?」
「わたし……。話を聞くって言ったのに、あまりにもびっくりしすぎて、逃げちゃいました」
拓海は再び下を向く。無言で砂を洗い流す。
「あの、もう聞く覚悟ができました。今度は逃げずに、全部聞けると思います。だから……」
「忘れてって、言ったじゃん」拓海は冷たく言った。
「でも」
「いいんだ。人に聞かせるような話じゃないよ。巻き込まれないほうがいい」拓海はそう言うと、顔をあげた。
ゆきが悲しそうな顔をしている。拓海の心がずきんと痛んだ。
「できれば知らない方がいいってことあるんだよ。ゆき先生は何もしらない。その方が幸せなんだから」拓海はそう言うと安心させるように笑顔を見せる。
「拓海先生は苦しんでる」ゆきが言う。
「苦しんでなんかないよ」
「嘘」
「もう、自分の一部なんだ」拓海はあきらめたように笑う。「消えないし、忘れられない。そんなのは、僕だけでいいよ」拓海はそう言ってから、結城のことを考えた。
僕ひとりじゃない。あいつもだ。
「りなちゃんのパパに連絡しましたか?」
「してない」
「りなちゃんのパパ、本当に拓海先生のこと心配してました」
拓海は手を止め、ゆきの顔をじっと見つめた。
「俺のことを、殺したいほど憎んでる人だ」
「でも、そんな風には見えませんでした」ゆきが言う。
「ゆき先生はいい人だね」拓海は言う。「嫌みじゃなくて、本当にそう思うんだ。人の……負の面を見ない。そんな風に自分も生きられたら、って時々思うよ」
「連絡してみてください」
「……」
「きっと……」ゆきが言いかけるのを、拓海は首を振って遮る。
「ゆき先生は関わらない方がいい」拓海はそう言うと、蛇口をひねって水を止めた。
帰りのお支度が終わった子供達が、拓海の前に並ぶ。拓海は子供たちの帽子のずれを直し、鞄をまっすぐしょわせた。
午後三時。親達がベランダの外に並んで、子供達を引き渡してもらうのを待っている。拓海は「じゃあ、さよならしよっか」と言うと、子供達をたたせた。
「先生、さようなら。みなさん、さようなら。またあした」拓海は声をあげる。子供達も拓海にならってさよならの挨拶をした。
ベランダのガラス戸を開け、一人ずつ親に引き渡す。「またね」そう言って、拓海は子供を最後にだきしめる。
子供達は、親を見るとぱっと顔を輝かせ、靴箱の前で懸命に今日あったことを話す。
子供は純粋で、美しい。子供は、子供だと言うだけで、本当にきれいだ。どうして人は成長し、大人になると、闇に犯されてしまうのか。
りなの番だ。拓海はりなの顔を見て、それから顔をあげる。
迎えに来ていたのは、父親だった。
拓海の動きが固まる。りなは敏感に空気を察したようで、不安そうに拓海の顔を見上げた。
「せんせい?」
「ああ、りなちゃん、またね」拓海はそう言うと、他の子供にするのと同じように、りなを抱きしめようとした。
僕が抱きしめてもいいのか?
躊躇した。
りなの方から拓海にしがみつく。拓海はりなを軽く抱きしめ、父親に引き渡した。
「明日から家族で旅行にいくんです」父親が言う。
「そうですか」
「今日はその準備をしていたので、幼稚園に預けました」
「気をつけて、旅行を楽しんでいらしてください」拓海は目を伏せた。
「拓海先生は、お仕事何時に終わりますか?」父親が訪ねた。まじめそうで、穏やかな顔立ち。そういえば医者だと言っていたっけ。
「……七時ぐらいには」
「駅前のドトールコーヒーで、お待ちしています。少し、話をさせてください」父親はそう言った。アイロンのかかった開襟のシャツに、ブルーのジーンズ。りなが父親の手を握りしめる。
「わかりました」拓海はうなずいた。
ゆきの視線を背中に感じる。
今日でこの仕事も辞めなくてはいけないかもしれない。
拓海は覚悟した。
駅までの道のりは、気が重かった。けれど不思議なことにまだパニックにはなっていない。心臓の鼓動に合わせて、足を出す。
太陽がそろそろ沈む。見上げると網のような雲が、茜色に染まっていた。鳥が飛んで行く。
布鞄を肩からかけ直した。むせるような熱気は薄らいで、やわらかな風がふいている。
月日は経った。長いようで、短い。
母親の姿を思い返す。
こんな日の夕方、母親と手をつないで保育園から帰る。
茜色の空。下から見上げる母の顔。
視線に気づくと母は拓海の顔を見る。
笑いかける。愛しそうに。
拓海は涙が出そうになって、慌てて頭に浮かんだその映像を消した。
ドトールコーヒーは本当に駅の真正面にあった。小さな店構え。いつもサラリーマンや近所の主婦で混んでいた。店に入ると、一番奥の席にりなの父親が座っているのが見えた。
拓海はコーヒーを注文すると、片手にカップをもち、りなの父親の前に座った。
「遅くなりました」
「そんなに待ってないよ。喫煙席しか空いてなかったんだけど、よかったかな」
「はい」拓海は頷いた。
正明はアイスコーヒーを一口飲む。それから静かに拓海を見つめた。
「変わらないね。あの頃のままだ」
「……」
「電話はもらえないと思っていた。僕が君の立場だったら、とても電話なんかできないだろうと思って」
拓海はうつむいた。
「りなが……拓海先生のことをよく家で話すんだ。とても好きなようで。同じ名前だったけれど、まさか同一人物だとは思っていなかった。あの日君を見て、巡り合わせの不思議を実感したよ……りなは、幼稚園ではどうかな」
「お友達とも仲良くしていますし、一人でのお支度も上手にできるようになってきました」
「そうか……」正明はまたアイスコーヒーに口をつけた。
しばらく二人の間に沈黙がながれる。拓海はただひたすらにうつむいて、何も言うことができなかった。
「お母さんが、あの後すぐ亡くなられたと伺った」
「……はい」
「君は一人で、ここまで来たのかい?」
「……幼なじみと一緒に暮らしています」
「幼なじみ、ああ、あのきれいな男の子か」
「はい」
「そうか……」
拓海は正明の顔をうかがう。どうして穏やかに話していられるのだろう。本当は自分を憎んでいるだろうに。
「あの時は申し訳なかった」正明が言った。
拓海は驚いて目を開く。
「君が失ったものと、僕の失ったものは、まったく同じだったのに、僕は君を責めてしまった。死んで償えと、君の母親に怒鳴った」
「……それは、当然のことだと思います」拓海は言った。
「言霊を知ってる? 言葉は発した瞬間、力を持つ。僕は君の母親が亡くなったと聞いて、僕が殺したんだと思った。正直、そのときは当然の報いだと思った。できることなら、もっと苦しんで、死んでほしかったと……さえ思った。申し訳ない」
拓海は首を振る。
「僕はそれから闇にとらわれた。悪意が身体から出て行かないんだ。一度闇に捕まると、なかなか逃げられない。悪意は身体を蝕んで、側にある光に気づかなくなる」正明は恥じるようにうなだれた。
「鈴音が亡くなってから数年間、僕は闇の中を歩いていた。どんなに歩いても真っ暗なんだ。死んだら彼女の側にいけるのかもと、何度か想像もした。鈴音とはすでに別れていたけれど、僕にはまだ一番大切な人で、愛している人だったから」正明は眼鏡を指で少し直し、拓海を見た。
「りなの母親とは、病院で会ったんだ。彼女は看護士で。最初は話しかけてくる彼女を避けたくてね」
拓海はりなの母親を思い浮かべた。明るくてはつらつとしている。りなにそっくりだ。
「彼女はいつのまにか、僕の闇を照らす光になった。彼女は全部知っていて、それでも僕と一緒にいてくれた。僕は随分扱いづらくて、鬱陶しい男だったと思うよ。自分の感情をコントロールできなくて、彼女にあたってしまったり、鈴音を思い出して呆然としたりね。でも彼女はずっと側にいてくれた。そしてりなを授かった」
拓海は正明の顔を見た。穏やかな笑みを浮かべている。
「僕たちは生きている。闇にとらわれていたら、その先には死しかない。その死は幸福な終わりじゃない。永遠の闇に放り込まれるだけだ」正明が言った。
「君の闇を照らす光を、見つけてくれほしいんだ」
拓海は涙が出そうになるのをぐっと堪えた。
「なんだか偉そうなことを言ってしまったけれど、君がまだ……つらそうにしていたから」正明は言った。
「確かに君を見ると複雑な思いがある。りなと話している姿を見ると、過去のことだとは思っても、りなを奪われるんじゃないかと、そんな不安にもとらわれそうになるけれど」正明はそう言うと席を立つ。
「子供には、無条件の愛を与えた方がいいと、そう思うから」そう言った。
「りなをよろしく。今度はもっと、ぎゅっとりなを抱きしめてやって」正明は拓海の肩に一度手を置くと、店を出て行った。
店内にはヒーリング音楽が流れている。タバコの匂いが漂う。
拓海はじっとテーブルを見つめる。コーヒーを一口飲んだ。すっかりぬるくなっていて、苦みだけが舌を刺激した。
悲しかった。
どうしてこんなに悲しい気持ちになるのか、自分では説明がつかない。
悲しくて仕方がなかった。
拓海は鞄を肩にかけ、立ち上がった。店を出る。そして駅とは反対方向に歩き出した。
高架下を歩く。しっとりとした夜気が、拓海の肌を通り抜ける。見上げると星が見えた。
きれいだ。
拓海はふと気になって後ろを振り返った。ゆきが十メートルほど後ろからついて来ている。道路脇の店舗の明かりが、ゆきの姿を浮かび上がらせていた。
心配そうな表情をしている。
「あの……」ゆきは気まずそうに顔を伏せるながら、拓海のもとに歩み寄る。
「大丈夫でしたか?」ゆきがたずねた。
「……うん」
「ごめんなさい、気になっちゃって」
「大丈夫。俺は平気だよ。帰りな」拓海はそう言うと早足でゆきから去る。
ゆきは再び拓海の後を追ってきた。
「何か用?」拓海はいらだつ気持ちを抑えつつ訊ねる。
「あの……拓海先生が泣いてるみたいだったから」
「泣いてないよ」
「でも……」
「おせっかいは嫌いなんだ。ゆき先生には関係ない」拓海がそう言うと、ゆきは悲しそうに目をふせた。
ゆきのその表情を見ていると、大人げなくゆきにあたってしまったことを、拓海は恥ずかしく思った。
「ごめん」拓海は言った。
「わたし、おせっかいです。でも放っておけない」ゆきはそう言うと顔をあげて、拓海を見つめる。あまりにもきっぱりとした言い方に、拓海はびっくりした。
拓海は再び歩き出した。ゆきは横に並んで歩き出す。彼女の肌から、幼稚園で使う洗剤の香りがした。
ゆきの気配が拓海の悲しさを和らげる。
不思議だった。
拓海は目的もなく歩き、なんとなく高架下を横断し、土手へとあがる。両側をコンクリートで固められた人工的な川。川の上をわたる橋の明かりが、真っ黒な川面に反射している。二人は黙って歩いた。
やがて土手沿いに備えられたベンチを見つけると、拓海は力が抜けたように座り込んだ。ゆきも隣に座る。空を見上げると、夜空に雲がゆっくりと動いているのが見えた。
土手沿いの植栽からは、虫の声が聞こえる。人は通らない。静かだった。
「りなちゃんのパパに、何か言われました?」
拓海は首を振る。「りなをよろしくって」
「やっぱり」ゆきが笑顔を見せる。「りなちゃんのパパから悪いオーラは出てないと思ったんです」
「見えるの?」拓海が驚いてたずねる。
ゆきは「まさか」と言って笑った。「なんとなく。雰囲気ってあるじゃないですか」
「……そうか」拓海はほっとした。
対岸側の土手が、ぱっと明るくなるのが見えた。
「あ、花火」ゆきが言った。誰かが花火をしているらしい。遠いけれどぱちぱちという音が聞こえてきそうだ。
「きれい」ゆきが言う。幸せそうに微笑んだ。
拓海は話しだした。
「高校三年のとき、彼女に出会った。俺の母親と同じ年。三十前半。母は十六で俺を産んだから、すごく若かったんだ。彼女は離婚したばかりで、一人だった。彼女に会ったとき、胸が高鳴った。恋とは違う感じ。でも運命的な出会いだと思った。俺は自分の未来を全部、彼女に捧げようと思った。一時も側を離れたくないと、本気で思ったんだ」
「彼女といる時間は本当に幸せだった。穏やかで、ゆったりと流れる。心地がよかった」
「俺は傍目から見ても随分危うかったと思う。母さんは俺を止めた。『本当に彼女が好きなのなら、大人になるまで待ちなさい』……でも、俺は待てなかった。母さんには家を出て彼女と住むと言った」
「ある日、母さんは彼女のところにきて、頼み込んだ『拓海としばらく離れてほしい。拓海が大人になるまで、ほんのちょっとだけ。頼みを聞いてくれないのなら、今ここで死にます』と」
「母さんは自分の首にはさみをつきつけ、彼女にせまった。彼女はそのはさみをとりあげようともみ合って、結局彼女は死んだ」
拓海は目を閉じた。今もあの部屋の光景が鮮明によみがえる。
「い草の香りと、むせ返るような血の匂い。駆け込んだ部屋の真ん中で、彼女は倒れていた。畳も壁も天井も、真っ赤な血が飛び散っていて、母さんは血に濡れたはさみを持って座り込んでいた」
「俺は彼女に駆け寄って……頭を抱き寄せた。人間の身体って、こんなに血が入ってるんだって思った。恐ろしいほどの勢いで流れ出るんだ。熱い、濡れた感触が、俺の手に、腕に、足に……」拓海は自分の手を見た。乾いたその手のひらは、不思議と濡れているように感じる。
「彼女の命が身体から抜け出るとき、彼女が微笑んだ。『ありがとう。大丈夫、また会えるから』って、そう聞こえた」拓海はゆきの顔を見た。
ゆきは拓海の手をそっと握った。血の生暖かい感触が、手の平から消えて行く。そのかわりにゆきの肌の温かさを感じた。
「母さんは自分のしたことに耐えられなくて、拘置所で衰弱死した。人は……生きようと思わない限り、生きて行けない。俺もすぐに死んでしまいそうだった。この世界に生き続ける意味は、もうないと思った。だけど……彼女がまた会えるって……そう言ったから。この世界のどこかで、新しい命をもらって、俺に会いにくる。それだけを待って、待って、待ち続けて、今までやっと生きてきたんだ」
「俺はまだ待ち続けてる。これからもずっと。真っ暗なこの道を照らす光を、見つけることなんてできやしない。できるわけないんだ」拓海は唇をぎゅっと結び、目を閉じる。
ゆきはそんな拓海をそっと抱きしめた
十三
「休みって、なにしていいかわかんないよな」結城がソファに転がって、つまらなそうにつぶやく。テレビでは下町を散策する番組が流れている。
「おもしろい?」拓海は昼ご飯の焼きそばを作りながら訊ねた。
「つまんない」結城はクッションを足で蹴りあげる。「何回リフティングできると思う?」
「くだらないことやってるな」拓海は焼きそばをフライパンにほぐし入れ、少しの水を入れフタをする。麺がふんわりと水分を含む、その香りが部屋に充満した。
「ねえ、何回か、言ってよ」
「やだよ。馬鹿みたいじゃん」拓海は食器棚から二枚のお皿を出す。
「じゃあ、十回できると思う?」
「できるんじゃない? それくらいなら」
「よし」結城はグレーのジャージを履いた長い足で、クッションを宙に蹴りだした。「一、二、三……、あっ」クッションはあっけなくとんでもない方向へ飛んで行った。
「下手だね」フライパンにソースを入れる。
「結構難しいよ。ボールならできるのにな」結城はソファから立ち上がり、飛んで行ったクッションを拾い上げ、胸に抱く。
「負け惜しみだろ」
「違うよ。俺、サッカーうまいもん」
「テレビゲーム?」
「そう」
「話にならないな」お皿に均等に焼きそばを盛る。「できたよ」拓海は結城に声をかけた。
「野菜ジュースある?」
「あるよ」拓海は二つのコップにジュースをそそぐ。結城がそれをもち、テーブルに運んだ。
「テレビ他にないの?」拓海はラグに座りこむと、テーブルに置いてあったリモコンでチャンネルを変える。
「どれもこれも、つまんない」結城が箸を手に持った。
「じゃあ、消すか」拓海はテレビの電源を切って、リモコンをソファに放り投げた。
クーラーが効いていてとても涼しいが、窓から入る日差しは夏を感じさせる。ベランダには二人分の洗濯物が干してある。もう乾いているだろう。
「お盆、予定ある?」結城が訊ねる。
「来週ちょっとだけでかけるかな。でも帰ってくるよ」
「何すんの?」結城が焼きそばをほおばりながら訊ねた。
「仕事」拓海は嘘をついた。
本当は、引っ越し前の、ゆきの部屋の片付けに付き合う。すべてを知ったゆきは、拓海からお金を借りることを了承したのだ。
「お盆も仕事あるの? 大変だね」結城が気づいている様子はない。
「結城は?」
「俺、なんもない。後半仕事に出るけど」
「どっか遊びに行ったら?」
「誰と?」結城がなぜか眉をしかめる。
「女の子に連絡すればいいじゃないか」拓海はジュースを一口飲んだ。
「いないもん」結城がすねるように言う。
「いっぱいいるじゃないか。喜んで付き合ってくれると思うけど」
「女の子の期待に応えるの、めんどくさいし」
「お前の期待に答えてくれるんだろう?」
「何? 抱かせてくれるってこと?」
「うん」拓海はお皿に残っている焼きそばを箸で集める。
「抱いたら抱いたで、いろいろ大変なんだよな。後始末っていうかさ」
「言い方悪いよ」拓海は顔をしかめた。
「一晩限りだって割り切ってくれなくちゃ困るんだ」
「わかるけど」拓海はゆきのことを考える。
「それに初めてこっちから誘ったら、随分嫌われちゃって、なかなか他の女の子と遊ぶ気になれないし」
「嫌われた? ひどいことしたんだろう?」
「してないと思うけどなあ」結城は食べ終わったお皿の上に、空のコップをのせて、だらりとソファにもたれかかった。「キスしたいって、言っちゃだめなの?」
「ああ、この間の子? 別に言ってもいいとは思うけど、拒否する権利はあるよ」
「俺が言わなかったら、永遠にキスできないじゃん」
「だから、お前と永遠にキスしたくないんだよ」
「そうなんだ。俺、女の子は全員俺とキスしたいのかと思ってた」
「うぬぼれも甚だしい」拓海は笑って、食器をシンクに運んだ。
「そろそろ出る?」結城が立ち上がりながら訊ねる。
拓海は「うん」と言ってから食器を洗い出した。
日本はまるで亜熱帯になったようだ。東京は特に埃っぽくて息苦しい。
拓海は白シャツにデニムを履いた。結城も白シャツに黒いデニムを着ている。マンションの扉を開けると、二人とも思わず溜息をついた。
「あついな」結城がマンションの鍵をかけながら言った。
「昔ってこんなに暑かったっけ?」拓海はどんどん吹き出てくる汗を腕で拭う。
二人は電車に乗る。新宿で私鉄に乗り換えた。
毎年この時期は、二人でこの電車にのる。窓の外から高いマンションやビルは徐々に消え、小さな一戸建てが目立ち始める。濃い緑色の木々が、後ろに飛んで行く。
二人はほとんどしゃべらず、電車に揺られた。冷房が効いている。最初は混んでいた車内も徐々に人が減り始める。二人は並んで座って、窓の外を眺め続けた。
目的の駅に到着した。二人は熱気に押されながらも、真夏のホームに降り立った。
それほど大きくはない駅。この時期はでも人が多い。二人は改札を出て、長い階段を下りる。お年寄りの夫婦が、階段をのんびりと降りて行くのを、二人は追い越した。
車の通行量の割には狭い道路を歩く。歩道を示す白線は消えかかっている。
拓海が目を上げるとコンビニが目に入った。
「飲み物買う?」拓海が訊ねた。
「帰りでいい」結城が言った。
拓海は特に異論もなく、ふたたび二人は黙って歩いた。
立派な寺院の門と、階段下の大きな桜の木。見上げると蝉がたくさんついている。すごい鳴き声だ。
きれいに掃き清められた白い階段を上り、門をくぐる。玉砂利を踏みながら進んだ。寺務所の前に手桶と花、線香がセットになって並んでいる。結城は箱にお金を入れて、その一つを手に取った。
拓海は線香を受け取ると、火をつける。ろうそくではなく、最近は電気だ。箱のような物に線香を入れると、ジリジリと音がして煙が上がって来た。拓海は火のついた線香を、手提げの缶に入れて持つ。
二人は再び砂利を踏みながら、墓地の方へと歩き出した。
風は吹くが、熱風にちかい。拓海は汗を腕で拭いながら、墓の前にたどり着いた。
ここに、鈴音が眠っている。
本当にここにいるのか、それともここではないどこかにいるのか、実際のところは分からないけれど。
生えている雑草を抜き、墓石に水をかけた。結城も黙って掃除をしている。
「誰も来てないのかな」結城が言った。「枯れた花もない」
「そうだね」拓海はそう言ってから、墓石に並ぶ名前が増えていることに気づいた。
「母親が亡くなってる」
結城は顔をあげた。日差しに目を細めている。拓海の顔を見て、それから再びうつむいた。
彼女の母親は始終うなだれていた。正明のように激しく責める訳でもなく、むしろ娘のしでかしたことを恥じているように見えた。
「娘が招いたことです」彼女の母親は目をふせ、膝の上で両手を握りしめていた。艶を失った髪に、痩けた頬。疲れ果て、途方に暮れているようだった。
「そうか」結城がつぶやく。
拓海は墓石の名前を見る。彼女の名前と、その横にある新しく彫られた名前。思わず指でその名前をなぞった。
終始目を伏せていた彼女の母親が、一度だけ目を上げた。被告人席に座る、拓海の母親の背中をじっと見つめていた。
あの目。言葉とは裏腹に、憎しみが溢れていた。
墓石の前に線香を置き、結城と二人で手を合わせ、目を閉じた。
「また必ず会えるんだよね」彼女に心で話しかける。
あの言葉を信じられるような、印を、証明を、見せて欲しい。
人の光が見えなくなってしまって、たまらなく不安なんだ。
あなたを見つけられないかもしれない。
知らずに通り過ぎてしまうかもしれない。
会いに来てくれたのに、自分は他の誰かを愛してしまっているかもしれない。
拓海の闇を照らす光は、あなた以外にいないのだと、信じさせて。
蝉が泣いている。
雑草を抜いた後の、土の香りがする。
ゆきの顔が脳裏に浮かんだ。
どうか……。
「お母さんと会えたかな」拓海は目を開け、そう言った。
「誰にもわからない」結城が言う。
「そうだね」拓海は頷くと、手桶を持って墓地から歩き出した。
後ろからついてくる結城が「おばさんのは行かないのか?」と声をかけた。
拓海は立ち止まる。無言で首を振った。母親の墓には納骨の時にしか行っていない。
「そうか」結城はそう言うと、歩いて拓海を追い越した。結城の黒髪。白いシャツに太陽が反射して、まぶしい。結城は毎年拓海のこの儀式に何も言わず付き合う。
拓海は早足で結城の横に並んだ。「帰ろうか」
「うん」結城は頷いた。二人はまた無言で家路についた。
マンションに帰って来てから、二人で簡単な食事をした。
結城はシャワーを浴び終わると、ごろごろとテレビを見続けている。三人がけのソファを完全に独占していた。長い足を背もたれにあげて、時たま組み替える。
拓海は乾いた洗濯物を片付け終わると、自分の部屋で筋トレをする。それから熱いシャワーを浴びた。
「なんか飲む?」そろそろ深夜一時を過ぎる頃。拓海はバスタオル一枚でリビングに出てくると、ベランダの窓を開けながらそう訊ねた。
「じゃあ水。もう歯みがいちゃった」結城がけだるそうに答える。
「寝るの?」
「やることないし……」結城がソファの上で伸びをした。
そこに結城の携帯が鳴った。テーブルの上で振動している。
結城が携帯を見ると、顔つきがかわった。
あれ? どうしたんだろう。
拓海は首をかしげる。
結城がソファの上に座りなおした。「もしもし」電話に出る。
「……もしもし? 奈々子さん?」
窓の外から大通りを走る救急車のサイレンが聞こえた。結城は窓の外に目を向ける。電話は切れたようで、耳から携帯を離した。
結城は立ち上がり、ベランダ越しに道路を見下ろしている。
「どうしたの?」
「う……ん。ちょっと出てくる」結城はポケットに携帯と財布を入れると、リビングから出て行く。玄関の扉がバタンと勢いよく閉まる音がした。
奈々子って誰だろう?
拓海は結城の様子が少し気になった。なんてことはない。電話を受け、出て行っただけ。でも様子がいつもと違った。
真剣だった。
十四
結城からの連絡はぱたっとなくなった。当たり前だとわかっている。でも奈々子は気になって何度も携帯を見てしまう。こちらから連絡する必要もないし、向こうだって連絡する必要はない。
「わかってるんだけどな」奈々子はそう独り言を言った。
結城からの連絡がないかわりに、邦明から毎日のようにメールが入る。
他愛もない話題。今日の天気。仕事での出来事。最近話題のニュース。
金曜日の夜「明日の午後、仕事が終わった後、水族館にいきませんか?」とメールが入った。
邦明からのデートの誘い。奈々子はとたんに緊張してしまう。何を話したらいいだろう。二人きりで食事をして、間をもてあましてしまうことはないだろうか。
「でも付き合ってるんだし」奈々子は思い切って「はい」と返事をした。
土曜日、仕事終わりに、品川で待ち合わせをした。天井の高い駅の改札。人がたくさん流れて行く。
奈々子は自分の姿をチェックする。今日は本当のデートだからと、きれいなクリーム色のワンピースを着て来た。ヒールも高めだ。
時間通りに邦明が来た。今日は私服だ。デニムに赤いチェックのシャツ。
なんだか休日のパパみたい。
そう思ってから、奈々子は申し訳なくなって下を向いた。
「すいません、今日はこんな格好で。僕は今日お休みだったんです」
「そうなんですか。わざわざありがとうございます」奈々子はお辞儀をする。
「そろそろ敬語やめてみません? あ、やめてみない?」邦明が照れた様子で言う。
「はい」奈々子はそう言ってから「うん」と言い直した。
二人は並んで歩き出した。品川は背の高いビルが多い。見上げるとホテルの窓に明かりがぽつぽつとついている。
日中の暑さは和らいで、夜風が心地よい。
坂を少し昇って、水族館へと到着した。
「夜の水族館は素敵だよ」邦明が言う。
「へえ」奈々子は答える。
道はライトアアップされている。ビルの壁面には飛び上がるイルカの姿。恋人達が手をつないでライトを見上げている。邦明がそっと奈々子の手を握った。
奈々子に緊張が走る。振りほどきたい気持ちを我慢して、そのまま手をつないで歩いた。
結城よりもずっとがっしりしてる。でも優しく握るんだな。
ふと横をみると、窓ガラスに二人の姿が写っている。邦明と隣に並ぶ奈々子。
違和感がない。これが現実なんだ。身の丈にあった彼。
水族館は深い海の底。青い光が足下を照らす。魚たちがゆったりと水の中を泳ぎ、自分も水の中に沈んでいるような気持ちになる。
「きれいだね」邦明が言う。
「うん」奈々子は素直にうなずいた。
もし結城とここにいたら、とてもこんなに落ち着いて水の中を見ていられない。あの人の動き、息づかい、視線を気にしてしまう。
想像する。結城の横顔が青く染まる様子を。
奈々子は急いでその映像を打ち消した。今一緒にいるのは、自分が納得して付き合った彼氏だ。結城ではない。
それからイルカのショーを見た。邦明はかかる水しぶきにはしゃいでいる。奈々子もはしゃぎたいのに、とてもそんな気持ちになれない。どうしてだろう。イルカは可愛いし、楽しいはずなのに。
「ここのレストランを予約してるんだ」邦明が水族館入り口近くを指差した。
「トイレに寄ってもいい?」奈々子が言うと「じゃあ、俺も」と言って邦明は男子トイレに入って行った。
奈々子はトイレの個室に入ると、溜息をつく。
「つまんない」思わずそう口に出して、奈々子はあわてて口を押さえた。
待ち合わせをしてから、たったの二時間。それなのに奈々子はもう帰りたくて仕方がない。
まだこれから食事をするのか。帰りたい。
今日は正式のデートだけれど、結城と過ごした時間の方がずっと楽しかった。
あの日、ドキドキしていた。一日中一緒だったけれど、疲れたけれど、でもドキドキしてた。
「邦明さんと付き合ってるのに」奈々子はうつむいた。
レストランはとてもロマンチックな場所だった。たくさんの水槽に囲まれて、料理もおいしかった。邦明はビールを三杯ほど飲んでいる。奈々子のお酒はなかなか進まなかった。
けれど会話は思ったより弾んだ。邦明は話し上手で、それから聞き上手だった。こういう人こそ営業に向いてるんだな、と思わせるような人だ。
どうしても比べてしまう。全部が結城と違う。ビールのグラスを持つ手はがっしりしていて、男っぽい。男性的な首から肩のライン。訳のわからない冗談も言わないし、奈々子の常識と邦明の常識はほとんど一緒だ。
結婚するなら、こんな男性がいい。穏やかで、優しくて、話し上手で、自分といろんな価値観が合う男性。理想的だ。珠美が勧めるのもよくわかる。
でもドキドキしない。奈々子は結城に会いたかった。
「楽しい?」邦明が訊ねる。
「うん」奈々子は作り笑いを浮かべる。
十時半をすぎるころ、レストランを出た。二人で再び駅の方へ歩いて行く。
「奈々子さん、何線つかってる?」
「JR」
「じゃあ、一緒だ」邦明が微笑む。
ロマンチックなライトアップの中を歩きながら、邦明が突然立ち止まった。
「?」奈々子もつられて立ち止まる。
邦明が身をかがめて、唇を重ねた。
あっという間だった。抵抗も、何もできない。一瞬のことだった。
邦明は照れたように笑って、それから再び歩き出す。奈々子もふらふらと歩き出した。
足下がおぼつかない。唇に感触が残ってる。
邦明が何をしゃべっているのか頭に入ってこなかった。ただ曖昧にうなずいて、そして笑い返していただけ。
「じゃあ、ここで」邦明が大崎で降りる。「また連絡するね」そう言うと手を振った。奈々子も手を振りかえす。
電車の扉がしまり、奈々子は座席に腰を下ろした。電車の窓が奈々子の顔を映す。
なんて酷い顔。
奈々子は自分の唇を触った。
キスされた。初めてのキスを。
奈々子は呆然として、席から立つことができない。
いつのまにか電車はぐるりと一周して品川へ帰って来ていた。目黒まであとみっつ。
奈々子は目黒駅のホームへ降りた。
駅のショッピングモールはすでに閉まっている。大半の乗客は私鉄に乗り換えていく。最終電車はもうすぐだ。奈々子は改札を出て歩き出した。
先日使ったタクシーロータリーの横をすぎ、大通りを歩いて行く。たくさんの車が通り過ぎる。ヘッドライトの光が横を通過していく。
奈々子は自動販売機でフレーバー付きのミネラルウォーターを買った。ガタンという音とともに、冷えたペットボトルがおちてくる。奈々子は手に取り、キャップをひねった。
ペットボトルに口を付ける。奈々子は指で唇をこする。感触が忘れられない。
目黒川にかかる橋を渡った。キスをしてもいいか、と訊ねられたのはどのあたりだったか。
あのとき、キスしておけばよかった。結城が最初ならよかった。
見知らぬマンションエントランスの階段に腰掛けた。目をつむり、なんとか冷静になろうとする。
「しっかりして、もうわたしは大人なんだから」ペットボトルを唇につけ、祈るように口にした。
鞄から携帯を取り出す。開いてすぐ、邦明からのメールの着信に気づく。奈々子は中身を見ることなく削除した。
結城の連絡先を開く。彼に連絡してどうするのか? 意味がわからない。
でも奈々子は無意識に結城の番号に電話をかけていた。呼び出し音が三回。結城が出た。
「もしもし?」
奈々子は黙ったままだ。だいたい、何を話せばいい?
「もしもし? 奈々子さん?」
これは取り返しのつかない電話だ。
目の前を救急車がサイレンを鳴らして通り過ぎる。奈々子は我に返った。
「ごめんなさい。失礼します」奈々子は急いで電話を切る。膝を抱えて大きく溜息をついた。
「何やってるんだ、わたし」自己嫌悪しかない。こうやってうじうじしてるのも、結城に電話をかけてしまうところも。本当に馬鹿みたい。
奈々子はやっと立ち上がり、駅の方に戻り始めた。すると後ろから「どうしたの?」と声がかかった。
振り返ると、結城が立っている。グレーのジャージに白いTシャツを着ている。マンションエントランスの光が結城の姿を浮かび上がらせていた。
「あ、あの……」奈々子は二歩ほど後ずさりする。
「電話から救急車の音がして……窓からも同じ音が聞こえたから、もしかしたらと思って。どうしたの?」結城は近寄って来た。
奈々子は「失礼します」とお辞儀をして、早足でその場を離れようとした。
「ちょ、待って。何かあった?」結城は奈々子の腕をとり、引き止める。「この裏のマンションなんだ、住んでるところ。でも今日は同居人がいて、あがってって言えないから。こっちに」と言って、結城は奈々子を引っ張り、川沿いを歩いた。しばらく行くと小さな緑地があり、ベンチが備え付けられていた。
「座って」結城は奈々子に手で促した。
大通りから少し入ると、静かな住宅地。大きな木が何本か立っている。都心であることは変わりないけれど、なぜだか奈々子は実家の緑を思い出した。
並んで座ると、結城は奈々子の顔を覗き込む。奈々子はうつむいた。すると結城は奈々子の頬にかかった髪を耳にかける。彼の指が頬に触り、奈々子は緊張で目を閉じる。
「何があった? 彼氏に嫌なことでもされた?」
「ち、違う。違います。彼はいい人です。本当に。これは私の問題で」
「?」結城が困惑しているのがわかった。
奈々子は指で唇を触る。この感触を消したかった。
「キスされたの?」結城が訊ねた。
奈々子は息をのむ。
「彼はいい人です。私が悪い。納得してたのにいざ……そうなると、気持ち悪くて」奈々子は思わずそう言った。「彼の感触が気持ち悪くて、そんな気持ちになる自分にも嫌気がさします」
「初めて?」奈々子は顔をあげた。結城が奈々子の目を見つめている。
奈々子は素直に「うん」とうなずいた。
結城は奈々子の唇を触った。「本当は、とても気持ちのいいものなんだけど」そいういうと、結城は顔を寄せ、奈々子の頬にキスをした。彼の唇が頬に触れると、あたたかな感触。
「初めてのキスを、なかったことにしたい?」
「うん」
「じゃあ、そうしよう」結城はそう言うと、今度は奈々子の唇の端にキスをする。結城は身体を奈々子に向けた。
大きな瞳で見られるたびに、奈々子の心臓は壊れるくらいにどきどきする。結城は奈々子の首に手をあて、引き寄せる。背中に腕を廻し、身体を支えた。
奈々子は身体がこわばる。結城の身体からはシャワーを浴びたばかりの、清潔な匂いがした。
耳元で「肩の力を抜いて」とささやかれる。奈々子は目を閉じた。
結城は静かに奈々子に唇をあわせた。ミントの香りがする。頭の中は混乱して、何がなんだかわからない。
「力を抜いて。怖いことは何もないよ」結城がそう言うと、奈々子の身体は自然と力が抜けていく。結城が奈々子に深く入ってくる。柔らかくて、暖かい。気持ちがいい。
唇を離すと「息していいんだよ」と結城が笑って言う。
「いつ?」
「いつでも」そう言って再び唇を合わせた。
ドキドキしてる。
ずっと、ドキドキしてる。
キスって、こんな感じなんだ。
「もっと、って思わない?」結城が訊ねる。
「思う」
結城が微笑む。
唇を合わせ、舌をからめる。奈々子は自然と結城の身体に腕を廻す。結城は奈々子の髪に指を絡ませる。
優しく、時に激しく。唇だけじゃなく、身体全部で結城を感じている。
どのくらいの間、唇を合わせていただろうか。ふと奈々子は我に返る。顔を離して、結城を見上げた。
お互いに軽く息があがって、頬が上気している。
「もう終わり?」
「あ、あの……」
「大丈夫、これ以上のことはしないよ」結城が笑う。「お望みなら、いつでもするけど」
奈々子は心を見透かされ、一気に顔に血が上る。下を向くと、結城があごを持ち上げる。
それからまた、長い長いキスをした。
「唇がひりひりする」二人で並んで歩きながら、結城がぼそっとつぶやく。
奈々子はその言葉に赤面する。結城はそんな奈々子の様子をみて、うれしそうにしていた。
電車の動き出す時間だ。あれからずっと、公園のベンチに座って過ごした。たわいもない話をして、キスをして、またくだらない話をして、それからまたキスをして。
唇だけじゃなく、頬に、おでこに、首筋に、結城の唇がさわる。彼の髪が頬に触り、ふわっとシャンプーの香りが漂う。
夢を見ているみたいだった。
結城は奈々子の手をひき、改札への階段を上がる。朝一番目の電車が動き出した。人はまばらだ。歩いている人たちは、夜を寝ないで過ごしたようで、一様につかれている。
「気をつけて」結城が奈々子に言った。
奈々子はうんとうなずいた。結城は最後にもう一度、奈々子にキスをすると、手を振った。
奈々子はそのまま改札を通り過ぎ、ホームへあがるエスカレーターの前で一度振り返った。
顔が小さく、足が長い。
着ている服はジャージで、少しもおしゃれではないのに、立っているだけでどこか絵になった。
結城が笑顔で手をあげる。奈々子は小さく会釈してから、エスカレータを駆け上った。
あの人と、一晩中、キスをしてた。
今更ながら顔が火照り、汗が出てくる。改札でのキスを見ていたのか、嫉妬と困惑を混ぜたような顔で奈々子の顔を見ている女性がいた。
電車にのると冷房がきいている。奈々子は端の椅子に座った。
昨日山手線に乗っていたときとまったく気分が違う。自分への嫌悪感でいっぱいだった夜と、ふわふわとどこか夢見心地の今日。
「邦明さんと終わりにしなくちゃ」奈々子はそう言ってから、はっと思い至った。
一晩中キスしていたけれど、結城は奈々子の恋人ではない。
あの人は誰とでもキスできて、誰とでもセックスできる人だ。自分でそう言ってた。悲惨なファーストキスを経験した奈々子を不憫に思って、新しいキスの記憶をくれただけ。
奈々子は顔を両手で隠して、深いため息をついた。一気に昨日の夜の気分に逆戻りだ。
奈々子は結城の感触、すべてを思い出した。もうあれ以上の経験はできないだろうと、そんな気持ちになった。
十五
珠美にどう言おうかと考える。せっかく紹介してくれたのに、キスされたら気持ち悪くて嫌になったなんて、かなり身勝手な話だ。付き合うと決めたのは奈々子なのに、その後結城のもとに行ってキスしてきただなんて、ひどすぎる。
今週はお盆休みだ。奈々子は実家に帰ろうと思っていた。それほど遠いところではないけれど、帰るとなるとそれなりに支度も大変だ。
奈々子は携帯を見る。邦明からの不在着信が何件か入っている。電話にでるべきなのはわかっていたが、どうしてもできなかった。
お盆休みの間、たっぷり考えればいい。火曜日は休日診療の当番だが、実家が東京にある珠美が診療所には出てくれる。久しぶりに親の元でごろごろして、気持ちと考えを整理しよう。奈々子はボストンバッグに何日か分の着替えをたたんでしまった。
月曜日の夜には、鞄の用意もでき、部屋の掃除も完了した。日持ちしない食べ物は処分し、冷蔵庫はほぼ空っぽだ。奈々子はシャワーを浴びてパジャマに着替える。明日何時に家を出ようかな、と考えていると、携帯がなった。
携帯を手に取ると、珠美からだった。
「まずい」そう思ったが、奈々子は覚悟を決めて電話にでた。
「もしもし?」
「もしもし? 奈々子?」
「うん。どうしたの?」
電話の向こうの珠美は、軽く慌てているように思えた。
「あのさ、明日の出勤、変わってくれない?」
「どうしたの?」
「彼がさ、仕事だっていってたんだけど、突然お休みになったらしいの。だから出かけられないか、って」
「そうなんだ」
「彼、お盆の間は実家に帰るから会えないの。だから、本当に一生のお願い。明日変わって!」
「いいよ。実家近いし。週末だって帰れる場所だから」
「ほんとう? ありがとうありがとうありがとう!」珠美が電話越しに叫んでる。
「珠美にはいろいろ借りがあるから」
「やっぱ、奈々子は頼りになる。本当にありがとう」珠美はそういって電話を切った。邦明のことは一言も出なかった。奈々子はほっと胸を撫で下ろす。
携帯を机に置いて、奈々子はこのお盆をどうすごそうか考えた。
水曜日から実家に帰ろうか。それとも思い切って、違うことをするか。
するとまたメールの着信音がなった。手にとると、結城からのメールが入ってる。
「明日ひま?」
奈々子はその文を見て、頭を抱えた。なんというタイミング。
「仕事です」
「そっか」
そのあとしばらく、何の返事もない。奈々子の胸がもやもやする。
ああ、しんどい、本当に。
すると着信音。「水曜日は?」
「実家に帰ろうかと思ってます」奈々子は迷ってからそう返信した。
するとまた返事がない。
奈々子はもう寝るつもりだったのに、落ち着かない。無駄にテレビをつけて、時間をつぶす。その間も携帯から手を離せない。
クーラーが利いた部屋でぼんやりとする。もう返事はないんだろうか。
すると電話の着信音。見ると結城からだ。
「もしもし?」
「須賀だけど。あのさ、奈々子さんの実家ってどこだっけ」
「……群馬です」
「ごはんおいしい?」結城が訊ねる。
お土産が欲しいってこと?
「特に名物はないんですが、母のごはんはおいしいと思います」
「それはいい」
「はあ」
「じゃあ、一緒に行ってもいい?」
「はあ?」
「行ってみたい」
奈々子は頭が混乱する。どういうこと? 観光したいってこと?
「行ってもいいかどうか、ご両親に聞いてみて」
「聞くだけなら」
「ありがと」そう言って結城は電話を切った。
あまりにも唐突なことに、奈々子は呆然とする。
実家にくる? 何しに? なんではっきり断らなかったんだろう。
奈々子はポカポカと頭を叩いた。奈々子の「断れない」という悪い癖。結城は知ってるんだろうか?
駄目だと言われたと、嘘をつこうか。携帯を手に、目を閉じて考え込む。
しばらく考えて、それから奈々子は覚悟をきめて、実家に電話した。
すぐに母親が電話口に出た。「もしもし」
「母さん? 奈々子」
「明日何時に帰ってくる?」母親が訊ねた。
「明日仕事になっちゃった」
「あら、そうなの? じゃあ、お盆は帰らない?」
「ううん。水曜日に帰るつもり」
「わかった。お父さん、待ってるから」
「あのさ……」奈々子は息を深くすう「友達を一人連れて行ってもいい?」
「だれ?」
「こっちで知り合った人で……」
「まさか、男?」母親が電話の向こうで声をあげる。
「男だけど、ただの友達なの。それ以上じゃないから」
「じゃあ、なんでうちにくるの?」
「知らない」
「知らないって、あんた……」母親が受話器の口を手で覆って、父親と相談している声がする。どうしてこんなことになったんだろう。すでに大問題になっている。
「本当に友達?」
「うん」
「父さんが連れてこいって」
「いいの?」
「確認したいんじゃない?」
「そういうんじゃないんだけど」
「いいから。連れてきなさい」
「わかった」
「気をつけて帰って来なさいね」
「うん」
奈々子は電話を切って、テーブルにつっぷした。テレビからは能天気な笑い声が聞こえる。奈々子はしばらく呼吸を整えてから、再び結城に電話をかける。
「もしもし」
「どう?」
「大丈夫です」
「やった。お盆休み暇してたんだ」結城がいう。
随分お気楽な理由。こっちはかなり精神をすり減らしてるのに。奈々子は頬を膨らます。
「新幹線のる?」
「はい。上野から乗ります」
「水曜日、何時ぐらい?」
「お昼……かな?」
「じゃあ、上野に十二時でいい?」
「はい」
「お土産買おうね」結城はそういうと、電話を切った。
奈々子は溜息をつく。あの人の距離の取り方がわからない。自分の常識とかけ離れている。付き合ってるわけでもないのに、暇だから実家に一緒に行きたいだなんて。
上野駅の改札前、売店のすぐ横あたりに立つ。時計を見るともうすぐ十二時。奈々子はノースリーブのシャツにジーンズという軽装。日よけの麦わら帽子をかぶっていた。
どうにでもなれ。半ば投げやりな気持ちで、結城を待つ。
昨日は一日、診療所でそわそわしてしまった。一緒に出勤していた八田さんがいぶかしげに奈々子を見る。奈々子はばれてしまうんじゃないかとヒヤヒヤした。
「待った?」目をあげると結城が立っていた。襟のついた白いシャツに、ブルーのジャケットを羽織っている。奈々子は、自分のピクニックにでも行くような格好とあまりにも違うので戸惑った。
この暑いのにジャケットを羽織るなんて、ずいぶん改まった格好だ。
「荷物持とうか」結城が奈々子のボストンバッグを手にとる。
「あ、大丈夫です」
「いいから。何時の新幹線?」
「二十分」
「指定席?」
「はい」
「じゃあ、行こう」奈々子はチケットを手渡すと、二人並んで歩き出した。
相変わらず注目を浴びる結城は、すれ違う人々の視線を集める。東京でこんなに目立ってるんじゃ、実家近くではどんなことになるだろう。奈々子は気が重かった。
結城の荷物は少ない。大きめのトートバッグを一つ下げているだけだ。
「ねえ、ご両親は甘いもの好き?」
「はい」
「あげまんじゅう買った」結城はバッグから箱を取り出し見せる。
「あの、お気をつかわずに」
「普通は手土産を持ってくもんだろう?」結城はそう言って笑う。
東京の夏はむしむししている。人も多い。お盆休みの真ん中なので、新幹線の指定席も取れたけれど、始まりの日なら無理だったはずだ。
新幹線が静かにホームに入ってくる。新しい車体だ。二階建ての上の席に、二人並んで座った。
「須賀さん、眼鏡かなんか持ってます?」
「持ってるよ。なんで?」
「地元についたら、眼鏡をかけてもらえますか?」
「どうして?」
「目立つから」
「いつものことだろう?」
「須賀さんは田舎のすごさを知らないんです。須賀さんが駅に降り立った一時間後には、町の人ほぼ全員が須賀さんの存在を知ってますよ」
「おおげさな」
「ほんとの話しです」
「いいよ、かける。でもサングラスだけど」結城は鞄からサングラスを取り出し、かけてみせる。
余計目立つ。
「かけなくていいです」奈々子はあきらめた。
新幹線が動き出す。都会のビル群が静かに後ろに飛び去って行った。
「ねえ」
「はい?」
「まだ敬語?」
「……はい」
「怒ってるの?」
「怒ってませんよ。ただ混乱してます」
「なんで?」
「なんでって……。どうして急に実家に行くだなんて。旅行ならお友達と計画して、どこかにいけばいいのに。わざわざ私の実家だなんて」
「ごはんおいしいんでしょ」
「まあ、おいしいです」
「ほら」
「?」
「行く価値があるじゃん」結城が言った。
あまりにも話しが通じない。わざと話をはぐらかしてるのか、本当に天然でわかってないのか。
結城はスマホを取り出して、いじりはじめた。奈々子はあきらめて窓の外を見る。
すると「みてみて」結城が奈々子の腕をたたいた。
「なんです?」見ると、上野駅で二人で歩いている写真が、ブログにアップされていた。
「いつのまに」奈々子はあぜんとした。
「気づかないんだよね、意外と」結城は言う。
「削除依頼したい」奈々子が眉をひそめる。
「どうやって?」
「わかりませんけど」
「この間の夜のこと、写真にとられなくてよかったね」さりげなく結城はそういうと、奈々子は顔から火が出そうになる。この突然の実家訪問に気をとられて、あの夜から初めて会うのだということに、やっと思い至った。
「あの日は、すみませんでした」
「なんで謝るの?」
「私の事情に、須賀さんを巻き込んじゃいました」
「楽しかったよ」
「はあ」
「ねえ、敬語やめようよ。あんなこともしたしさ」
「あんなことって言うと、なんかいかがわしい気が……」
「じゃあ、キスって言う?」結城が少し大きな声を出す。
「ああ、ちょっと、声が大きい」
結城がにやにやとしている。
「またからかってます?」
「うん」
「須賀さんって、すごくいじわるなんですね」
「優しいよ」
「嘘ばっか」
「寝てみればわかる」
「もう、やめてください」奈々子は顔を真っ赤にして抗議した。
「はい」結城はそう言うと、素早く奈々子の頬にキスをする。
奈々子は頬に手をあてて、非難の目を結城に向ける。
「誰もみてないよ」
「公共の場では控えるんです。っていうか、からかわないで」
「からかってないよ。したかっただけ。したいでしょ?」
「別に」
「ふうん」結城は奈々子に身体を向けると、奈々子のあごを引き寄せる。そのまま唇を重ねた。あの夜のことがよみがえる。奈々子は思わず結城の頬に手を添えた。そのまましばらく電車の揺れに任せて、互いの唇を確かめ合った。
「嘘つき」結城は顔を離すと、そう言って舌をだした。
高崎の駅でお昼ご飯をたべ、一時間に一本しか走っていない私鉄に乗り換えた。結城は興味しんしんという感じで窓の外を見ている。
彼にとってキスは、たいしたことじゃないのだろう。挨拶のかわりだ。確かにとろけるような時間だけれど、奈々子の胸には同時にむなしさもこみ上げてくる。
奈々子は溜息をついた。
一時間ほど電車にのって、やっと奈々子の実家の駅に到着した。かろうじて無人駅ではないが、駅というにはあまりにも簡素な建物。山と山の狭間にある町なので、空気が淀んだように暑苦しい。
「東京より暑いんだね」結城が言った。
駅前の商店街のシャッターはほとんど閉まっている。
「お盆だから?」結城が訊ねたので、奈々子は「ううん」と首を振った。
空は美しいブルー。白い雲がゆっくりと流れて、山の向こう側へと消えて行く。
町中にあっても緑の匂いが濃い。いたるところで蝉が鳴いている。
奈々子は「こっちです」と言って、結城を案内した。
細々と経営しているドラッグストアや洋裁店から、見知らぬ客を見ようと人が出て来た。女性はたとえそれがおばあさんであっても、一瞬呆然とする。目の前にいる人物が現実の人なのか、一目じゃ判断できないようだ。
坂をあがり、実家が近づいて来た。奈々子の緊張もピークに達する。
坂の途中の脇道にそれ、私道にひいてある砂利道をあるく。道の両側には雑草が生い茂り、大小のチョウチョがふわふわと飛んでいた。
奈々子の家は昔ながらの日本家屋だ。結城を見ると、二階を見上げている。二階は奈々子と弟の部屋がある。
引き戸を開けると「ただいま」と声をかけた。台所から「おかえりー」と母親の声がした。エプロンで手を拭きながら、玄関に出てくる。
そして結城を一目見て、固まった。
「こんにちわ。お邪魔します」結城が頭をさげる。
「あ、はい。こんにちわ」母親がなんとか挨拶を返した。
奈々子は玄関をあがりながら「お父さんは?」と訊ねる。
「今、野岡の家まで行ってる。すぐ帰ってくるよ。あの、どうぞ。せまいですが」母親が結城にそう言った。
「失礼します」そう言うと、結城は玄関をあがった。
そのままリビングに通される。リビングと言っても、畳敷きの十畳ほどの部屋だ。大きな液晶テレビと、大きな座卓がおいてある。母親は座布団を差し出すと、結城はそこに正座をした。
「奈々子、ちょっと」母親が奈々子を台所にひっぱっていく。
台所の板張りが足の裏に冷たくて気持ちいい。コンロには煮物がかかっている。家に帰って来たのだと実感する瞬間だ。けれどそれも今回は味わっている余裕がない。
「奈々子、あの人芸能人?」母親が真剣なまなざしで聞いてくる。
「ちがう。製薬会社の営業さん」
「うそでしょ」
「本当」
「なんで、あんたと帰って来たの?」
「知らないよ。暇だから旅行でもしたかったんじゃない」奈々子は投げやりな気持ちでそう言った。
「友達?」
「うん」
「結婚するの?」
「しないわよ!」奈々子はあわてて首を振る。
「しないの? 私の息子にはならないの?」
「ならない」
「ええ!!!??? それは残念だわ」母親があからさまにがっかりした。
すると表の砂利を踏む音が聞こえ、それに続き「ただいま」と弟が帰って来た。
「おかえり」母親が玄関に出て行く。奈々子もそれに続いた。
作業着を着た弟が玄関をあがってくる。短く切った髪が汗びっしょりだ。「ねえちゃん、おかえり」
「ただいま」
「友達って?」聡は早速リビングを覗き込む。それからすぐに慌てたように頭を引っ込めた。
「なにあれ?!」
「ちょっと、失礼でしょ」母親がたしなめる。
「人形?」
「ちがうわよ」奈々子は呆れてそう言った。
「こ、こんにちわ」聡は恐る恐るリビングに足を踏み入れる。
「こんにちわ。お邪魔してます」
聡は結城の向かいにあぐらをかくと「姉貴と結婚するんですか?」といきなりたずねた。
「ちょっ、違うわよ」奈々子はあわてて聡を制止する。
「違うの?」
「違う違う。ただの友達だから」
「へえ。どこで知り合うの、こんなイケメン」
「どこでもいいでしょ。聡、着替えておいでよ」
「親父が見たら、倒れるな」聡は立ち上がりながらそう言った。
奈々子は溜息をつく。結城に「ごめんなさい」と言った。
「なんで謝るの?」結城はなんてこともないように平然としている。
「奈々子、帰って来て早々なんだけど、いつ帰るの?」
「うん……明日、かな?」
「短いのね」
「まあ」当初はもっと長く滞在する予定だったが、結城とともに何日間もだなんて、精神的にもたない。
Tシャツとジーンズに着替えた聡が、階段を下りてくる。
「明日帰るの?」再び座りながら聡がたずねる。
「うん」
「ほっとした。悪いけど、うちの好美にあう前に、帰ってもらわないと。婚約破棄されちゃう」
母親が冷えた麦茶をもって現れた。結城の前に置く。置いたことのない、コースターを下にひいて。
「まだお名前をうかがってなかったわ」
「ああ、ごめん。須賀結城さん」
「はじめまして」
「足、崩してくださいな。家にいるみたいに、くつろいでもらって」母親が言うと「失礼します」と言ってあぐらをかいた。
西日が部屋にはいり始めている。こもった暑さは徐々に和らぐ。風鈴がちりんとなった。
「どうして奈々子とこんな田舎までいらっしゃったの?」
「奈々子さんがご実家とご家族のことをうれしそうに話しているのを聞いていたら、ぜひ伺いたくなったんです。週の後半には出社予定がありますし、旅行の予定も立てられなかったので、一緒に帰ってもいいよと言ってくださったときには、本当にうれしかったです」結城はにこっと笑った。
母親がほうっと溜息をつく。聡は完璧な答えに口をあんぐりあけていた。
「失礼ですけど、芸能界か何かにいらっしゃった?」
「だよね」聡が麦茶を飲みながら、同意した。
「一時期モデルのバイトをしていましたが、今は営業マンです」
「はあ。もったいない」母親がそう言うと、結城は笑みを浮かべた。
そこでガラガラと引き戸の音がして、父親が帰宅した。母親が席を立ち、玄関に向かう。結城は座布団からおりて、正座をした。
「奈々子おかえり」父親はそういって部屋にはいってくると、結城を見て目を見開いた。
「こんにちわ。お邪魔しています」結城はそう言うと頭をさげた。
「……こんにちわ。遠いところへわざわざどうも」父親は座布団の上にあぐらをかき、結城に「楽にしてください」と声をかける。結城は「ありがとうございます」と言って、座布団に再びあぐらをかいた。
言いようのない緊張感が漂う。父親が品定めをするように結城を眺めている。結城はそれに動じることなく座っていた。
「奈々子とはどういう?」父親が訊ねる。
「友達よ」奈々子が口をはさんだ。「ただの友達。本当に誤解しないでほしいんだけど、ただの友達なの」
「そうなんですか?」父親が結城に訊ねると、結城は笑みを浮かべて「そうみたいですね」と答えた。
それから「こちら、どうぞ」と持って来た手土産を父親に渡した。
「ありがとうございます」父親は礼を言って、その箱を手に取った。
本当にどこで聞きつけてくるのか、夜にかけて近所のあらゆる住人が結城を見に訊ねて来た。
「奈々子ちゃん、えらくべっぴんな男の子と帰って来たって?」
「何? 結婚するんじゃないの?」
「モデルさんだって、聞いたけど、本当?」
小学校から高校までの女の子たちは、結城と並んで写真をとった。結城は嫌な顔一つせず、笑顔で写真を撮りつづけた。
食事を終え、台所で洗い物をしていると、母親がきて「あの人、えらいね」と言った。
「なんで?」
「だって疲れたとか、いやだとか、一つも言わないで、見知らぬ女の子達と話して写真とって。気を使って嫌だろうに」
「そうだね」
「本当に、友達なの?」
「うん、そう」
「まあ、恋人だって紹介されたら、今度は本当かどうか疑っちゃうけど」母親はそういって笑った。
エプロンで手を拭きながら「お風呂はいっちゃってください」と結城に声をかける。
「僕は一番最後で」と答えると「遠慮しないで。お父さんもわたしも、温湯のほうが好きだから」と言って席を立たせた。
「うちは狭いんで客間がないんです。聡の部屋に一緒にお布団をしくんでいいかしら?」
「はい、もちろんです。じゃあ、お風呂お先にいただきます」結城はタオルを持って、お風呂場に入って行った。
自然と家族がリビングに集まる。
「ありゃ、駄目だよ、ねえちゃん」
「何が?」
「観賞用か何かだよ」
「失礼ね」
「だって男の俺から見ても、恐ろしいほどの美人だぞ。しゃべってるのが信じらんないよ」
「それは否定しないけれど」
「友達なんだろう?」父親がたずねた。
「うん」
「じゃあ、なんでわざわざこんな田舎になんかきたんだろうな」
「しらない」
「まあ、ちょっとびっくりしたけれど、おもしろいお客さんだった」父親がほっとしたような顔をしている。
「写真をとってた女の子達の顔見た? 俺、ショックだよ。俺にあんな顔みせたことないよ、誰も」
「そりゃ、あんたには見せないでしょうね」
「とげのある言い方だな」聡が憮然として腕を組んだ。
「じゃあ、おやすみなさい」結城が頭をさげた。
「おつかれさま。おやすみなさい」母親も頭をさげた。「部屋が暑かったら、窓をあけてね。この辺りは泥棒なんてのもいないから、開けて寝ても大丈夫よ」そういって笑う。
奈々子は結城を連れて、二階へとあがった。この瞬間にもリビングでは再び結城の話題で盛り上がるのだろう。
急な階段を上がると、目の前に奈々子の部屋、右隣に聡の部屋がある。奈々子は聡の部屋の襖を開け、結城を中に入れた。蛍光灯の紐を引っ張る。扇風機をまわし、窓をあけた。カーテンがふわふわと風に揺れている。心地いい風が入って来た。過ごしやすい夜だ。
「おつかれさまでした」
結城は敷いてある布団の上にあぐらをかいて座った。「楽しかった」
「本当に?」
「うん」
「もう良ければ、電気を消すけど」
「うん」結城は枕を抱いてころがった。聡のシャツにジャージを着ている。なんだか丈があってないようだ。
奈々子は電気を消して「おやすみなさい」と告げた。
「うん」結城はそれだけ言うと、背中を丸める。
襖をしめると、奈々子はやっとほっとした。すっかり疲れている。実家に帰省して、こんなにも疲れるなんて。なんのための帰省なのか。
奈々子は自分が寝る支度も手早くし「先にねるね」と家族に声をかけた。
聡は「俺、あんな美人が隣に寝てたら、緊張して寝れねーよ」と言っている。
「馬鹿じゃないの?」奈々子は笑った。「おやすみ。今日はありがとう」奈々子はそう言うと自分の部屋にあがっていった。
電気を消し、布団に潜り込む。懐かしい実家の匂い。奈々子はすぐに眠りにおちた。
奈々子は目をあけた。暑くて寝苦しい。枕元に置いてあった携帯を引き寄せて時刻をみると、ちょうど三時だった。
奈々子は布団を出て、窓をあける。部屋の中に冷たい空気が入ってくる。
窓を開けたまま寝るのは寒いかな。奈々子はしばらく空気交換することにした。
ぼんやりと真っ暗な山々を眺めた。東京には必ず明かりがあるけれど、このあたりには、本当の夜がくる。
ふと襖の向こうを想像した。結城が寝ている。なんだか実感がわかない。すべてが不似合いで、合点のいかないことばかりだ。
すると襖をノックする音がした。びっくりして振り返る。襖が静かに開いて、結城が顔をのぞかせた。
「すみません。起こしちゃいました?」奈々子はとたんに胸の動悸が激しくなる。必死に冷静を装った。
「入ってもいい?」
「どうぞ」奈々子は一瞬躊躇したがそう言った。
結城が部屋に入って来て、窓際の奈々子の側に座った。月明かりだけが部屋を照らしている。
「冷たい風がそちらの部屋に流れてますか? 今、閉めますね」奈々子がそう言うと「いいよ。気持ちいい」と言って結城は奈々子を止めた。
結城は部屋を見回す。小学校の頃から使っていた学習机。昔読んでいた本が詰まった本棚。壁掛けの時計には、ディズニーのキャラクターがついている。奈々子は全部を見られていることが気恥ずかしく、結城から目をそらした。
「俺の部屋に似てる」結城がつぶやく。
「そうですか?」
「母親と暮らしてた、団地の和室。2DK。学習机を置くスペースはなくて、折りたたみのテーブルを出して勉強してたな」
「お母様は今も団地に住んでらっしゃるんですか?」
「いや、もう、あそこからは引っ越した」結城はそう言うと、窓枠に腕をのせた。
奈々子の身体はだんだんと冷えて来た。自分の腕で身体を包み込む。
「寒い?」結城が訊ねた。
「ちょっと」奈々子が言うと、結城は何も言わず奈々子の身体に背中から腕をまわす。奈々子の首もとに唇をつけ「本当だ、冷たくなってる」と言った。
奈々子は再び複雑でむなしい気持ちに包まれる。こんな風に抱かれると胸が高鳴るが、結城にとってはなんでもないことなのだろう。奈々子が今どんな気持ちになっているのかなど、見当もつかないのではないか。
「須賀さん」
「何?」
「どうして、わたしに触れるんですか?」
「そうしたいから。それじゃ駄目かな」
「どこかで線を引きたいんです。あんな風にしてもらった後で、何を言ってるんだと思われるかもしれないんですが、これじゃあ身体も気持ちももちません。どうやって須賀さんに接したらいいのか、わからないんです。私には一応、まだ付き合ってる人がいて……」
「キスされたくない彼なのに?」
「……」
「キスされたくない彼に、いつか抱かれるの?」
奈々子はうなだれる。
「それは奈々子さんの自由だから、僕にどうにかできることじゃないけど」結城が奈々子のつむじに唇をつける「触れるときはいつも気持ちを込めてる。でも奈々子さんの嫌がることはしないし、望まないならもう触れない」
「わからないです」奈々子はつぶやいた。
「僕がいつだって奈々子さんに触れたいって思ってるのは確かだ」結城は後ろから奈々子の頬にキスをする。奈々子は振り返り結城を見上げた。
身の丈に合わない彼。
わたしは彼のことが好きなのだろうか。
「わからないです」奈々子が再びつぶやくと、結城はその言葉を塞ぐように、唇を重ねた。
十六
拓海は自販機でコーラを買うと、ゆきのアパートの見えるガードレールに腰掛けて、しばらく待った。
今日二人で部屋を整理した。女の子の持ち物は、男性には理解できない。束になった化粧品サンプルは捨ててしまえばいいものを、ゆきは絶対に首を縦に振らなかった。汗だくで片付けをしたので、ゆきはシャワーを浴びたいと言った。だから拓海は外で待つことにしたのだ。
夕焼けの空は美しい。コーラを一口飲んで、空を見上げた。
お盆は、人の魂が帰ってくる時期。あの人の魂も、帰って来てるだろうか。それとも……もう他の誰かになっているのだろうか。
夜は徐々に訪れる。あんなに泣いていた蝉も、ぱたっと泣き止んだ。
ほんの何日間だけれど、ゆきをこのままアパートに帰らせていいのだろうか。やっぱりなんとか説得をして、実家に帰らせるのがいいような気がする。
ふと視線を感じて目をあげた。
男が一人、ゆきのアパートに続く道から、こちらを見ている。長身でスポーツマンタイプ。手に携帯を持って、射るような視線を投げかけていた。
拓海の心に不安がふくらんでくる。
もしかして……。
拓海がガードレールから立ち上がると、その男は背を向けて、早足で遠ざかっていく。
拓海は後を追おうとして思いとどまった。ゆきの部屋にいき、ドアベルを押す。
「はい?」ゆきが濡れた髪のまま、玄関を開けた。
「支度ができたら、すぐにここを出よう」
「どうしたんですか?」
「今、男がいたんだ。俺をじっと見てた」
ゆきの顔が不安で曇る。
「わかりました。急いで支度します。拓海先生、中に入っていただいて、もう大丈夫ですから」ゆきはそう言うと、拓海を部屋に入れた。
二人は駅まで早足で歩いた。いつもは楽天的なゆきも、心配そうにしている。
「ゆき先生、やっぱり実家に帰ったほうがいい」駅前で拓海はそう言った。平日は帰宅するサラリーマンであふれる駅も、今日は割りと静かだ。夜風が優しくふいている。
「でも……」
「理由を話したら、帰ってこいって言うはずだよ」
「理由を知ったら、もう実家から出させてもらえません」ブルーのワンピースを着たゆきがうつむいた。
拓海は携帯を取り出し、時間を見る。夜の九時。
「今日は俺のうちにおいで。同居人はいない。明日、実家に送って行く」
ゆきがうなだれる。
「この話をしなければいい。少しの間だけ親に甘えなよ。甘えられる親がいるんだから、そうした方がいい」
ゆきはためらいながらも、こくんと頷いた。
マンションの扉を開けると、玄関の明かりをつけた。なんの装飾もない、殺風景な玄関。
「どうぞ」拓海はそう言うと、先に玄関をあがる。リビングの扉を開け、電気をつけた。
ゆきは玄関の扉を閉めると、玄関をあがる。はいていたサンダルをきれいに並べた。
結城が脱ぎ捨てて行ったジャージを拾い、テーブルの上のマグを片付けた。開け放されていたカーテンを閉め、冷房のスイッチを入れる。
ぶうんという音がして、部屋が徐々に涼しくなる。
「座って」拓海はソファにゆきを座らせた。
「掃除してなくて、ごめんね。誰も来ないと思ってたから」拓海はキッチンで冷蔵庫を開ける。
「何かのむ? でも、アルコールは買ってないや」
「麦茶ありますか?」
「うん」
「じゃあ、それでお願いします」ゆきは革張りのソファの上にちょこんと座っている。
拓海は二人分の麦茶をつぐと、テーブルの上に置いた。ゆきと同じソファに座るのは気がひけて、拓海はラグの上にあぐらをかく。
「お盆が明けた週から、友達のうちに帰れる?」拓海が訊ねた。
「……はい」ゆきがうなずいた。
「不動産屋さんは夜やってないから、週末一緒に行こう」
「はい……何から何まで、本当にすいません。どうもありがうございます」ゆきは疲れたようにうなだれた。
拓海はゆきのその姿に胸が痛む。いつも明るくて楽天的な彼女からは、想像のつかない姿だ。
ゆきは目を上げ、部屋を見回した。
「一緒に住んでいらっしゃる方は、旅行ですか?」
「たぶんね」
「知らないんですか?」
「だって、あいつ何も言わないもん。突然今朝、旅行の支度をして出て行っただけ」
「……自由ですね。じゃあ、いつ帰ってくるか分からないんですか?」
「金曜日は出勤って言ってたから、明日には帰るんじゃない?」
「男の人二人で、どんな暮らしをしているのか、全く想像がつきません」
「普通だよ。ごはん食べて、寝て、テレビ見たり、ごろごろしたり」
「へえ」ゆきは少し緊張を緩めてそう言った。
二人の間に沈黙が流れた。拓海はリモコンでテレビをつける。ニュース番組がついた。
「ゆき先生はいつもうちに帰ってから何してるの?」拓海は訊ねた。
「音楽を聴いたり、雑誌を見たり。ドラマを見たりもします」
「何のドラマが好きなの?」
「コメディ。お笑いも好き。学生の頃は小劇場に通ったりしてました。楽しかったな」ゆきが微笑んだ。
「嫌いなのは?」
「怖い話大嫌いです。やっぱり、人間は笑ってなくちゃって、思いません?」ゆきが言う。「自分の気分次第で、見える景色も違うから。笑うと元気になります」ゆきが笑顔で言った。
「そうだね」拓海は頷いた。
しばらく二人でニュース番組を見る。最近の異常気象について、天気予報士の人が解説をしていた。
「ゆき先生は、俺のベッドで寝て。俺は同居人のベッドで寝るから」
「ありがとうございます」
「シーツ替えてくる。ゆき先生は、その間にシャワーでも浴びる?」
「来るときに浴びたので……大丈夫です」
「遠慮しなくてもいいよ。来るまでに汗かいたんじゃない?」
「は、はい」
「じゃあ、こっち」拓海は立ち上がり、ゆきをキッチン脇のバスルームに案内した。
電気をつけると、暖色の蛍光灯が光る。洗面所脇の棚からタオルを出し、ゆきに手渡す。
「あ、着替え」拓海は思いついて、自分の部屋に入る。備え付けのクローゼットから、Tシャツと短パンを取り出した。
「ちょっと、大きいかも」拓海はゆきに手渡した。
「ありがとうございます」ゆきが頭をさげる。
「そこにシャンプーとか置いてある。自由に使って」拓海はそう言うと、バスルームを出て扉を閉めた。
心臓がどきどきしている。性的欲求の高まりのせいじゃない。女の子とホテルに行っても、こんな心臓になったことない。
ゆきの存在が、拓海を落ち着かなくさせる。
拓海は目を閉じて、深呼吸した。これでは夜、眠れない。拓海は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一気に飲み干す。できれば頭から冷たい水をかぶりたいくらいだ。ゆきをこの家にいれてしまったのは、失敗だった。
バスルームから水音が聞こえる。拓海は頭を振って、自分のベッドのシーツを替えはじめた。
さらっとした感触の清潔なシーツを手でのばしながら、どうしてゆきに全部話してしまったのか、考えた。
後悔半分と、安堵半分。
楽しい話じゃなかったはずなのに、ゆきは優しく微笑んで、拓海の身体を抱きしめた。
ゆきの身体は拓海より小さい。手も短くて、身体も薄い。それなのに、拓海はゆきに包まれているような、そんな感覚を抱いた。
「拓海先生」部屋の入り口でゆきが声をかけた。
「あ、うん」拓海はあわてて、身体を起こした。顔から何を考えていたか読まれるんじゃないかと、心配になった。
「ありがとうございました。さっぱりしました。シーツもわざわざ替えていただいて」
「いいよ、そんなの。冷蔵庫にペットボトルのミネラルウォーターが入ってるから、勝手に開けて飲んで」
「はい。すいません」
拓海は冷房をつけ、自分の着替えをクローゼットから取り出し、部屋を出る。
ゆきはソファのところで、水を飲んでいた。ウェーブの髪が濡れて光っている。化粧をおとしたゆきの頬は、ほんのりピンクに染まっていた。自分の衣類を身に着けているのを見ると、なんだか落ち着かなかった。
「遠慮しないで、先に寝てて。俺、シャワー浴びてくる。トイレはリビング出たところの扉だから。テレビが見たかったら、そこにリモコン」拓海はそう言うと、テーブルを指差した。
バスルームに入り、鏡で自分の姿を見た。動揺が現れていないか、チェックする。
考えてみれば、ゆきとは一度寝ているのだ。拓海がまったく覚えていないというだけで。
初めて女性と関係したのは、二十歳のとき。結城のいない夜、一人で街をぶらついていた。
結城はそのころ女性と夜を過ごすことが多くなり、帰宅はだいたい午前三時ぐらい。太陽が昇る前には必ず帰っていた。
結城がいないと、拓海は何もすることがない。一人部屋の中にいると、どうしても記憶と現実の狭間で揺れてしまう。生々しい感触に汗をかき、そんなはずもないのに血の匂いを感じたりした。
雑踏の中にいるほうが、気がまぎれてよかった。
深夜まで空いているカフェのテラス席で、一人でコーヒーを飲んでいた。季節は秋。肌寒いけれど、外気に触れるのは気持ちよかった。
そこで声をかけられた。二十代後半の大人の女性。ビジネススーツを着て、爪はきれいに整えられている。少し酔っているようで、おかしいくらいによく笑っていた。
彼女に誘われるまま、初めてそういうホテルに行った。なんでついて行こうと思ったのか、今となっては思い出せない。
興ざめするような、けばけばしい内装。人工的なブルーの照明。ホテルの部屋にはいると、彼女は履いていたヒールを蹴飛ばすように脱ぎ、ジャケットを脱ぎ捨てた。
彼女はブラウスのボタンを片手で外し、白いレースの下着を見せる。「おいで」彼女が手招いた。
拓海は着ていたジップアップのトレーナーを脱ぎ、彼女の側に寄る。
彼女のきれいな手が、拓海の頬にさわる。爪の感触を覚えている。
拓海は彼女に「はじめてなんだ」と言った。彼女はにっこりと微笑み、拓海を引き寄せた。
セックスは思ったほどには悪くなかった。目を閉じれば、部屋の装飾も、彼女の顔も見なくてすんだから。
汗ばむ肌の感触。荒い息づかい。
何も考えなくていいのは、拓巳には必要なことだった。
最高の快楽を味わったあと、身体を離した。
絶頂を超えると、そこには何もない。拓巳にはもともと何もなかったんだと思い知る。
むなしさと、罪悪感と、自己嫌悪。
彼女は連絡先を教えてくれたけれど、二度と連絡はしなかった。
拓海は熱いシャワーを浴びながら考えた。もし十八のとき、鈴音と関係を持っていたら、何か違っただろうか。彼女と男女の関係になることなど、当時は考えもしなかった。彼女は特別な存在で、絶対的な運命の人。魂の巡り合わせで出会った、男女の枠を超えた大切な人。
拓海は頭を振る。
起きなかったことを今更考えてもしかたない。何も変わらない。
拓海がバスルームを出ると、ゆきはカーテンを開け、ソファに座って窓の外を眺めていた。
「寝てなかったんだ」拓海はタオルで頭をふきながら言う。
「わたしの家は一階だから、こんなにきれいな夜景が見えないんです」
「きれいかな?」
「きれいですよ。きれいだなって思ってみると、きれいなんです」ゆきが拓海を振り返り微笑む。
拓海の心臓が飛び上がる。拓海は平常心を装い、ゆきの隣に座った。
「ゆき先生はいつも前向きだね」
「それがわたしのいいところ」ゆきが笑う。
ゆきの首のラインが美しい。自分と同じ石けんの香りがする。拓海は目を閉じ、静かに息を吐いた。
「俺、もう寝るよ」拓海はそうゆきに言うと、立ち上がり結城の部屋に向かう。「おやすみ」
気になって一度振り返った。ゆきは拓海を見つめている。拓海はゆきを抱き寄せたい衝動を必死に押さえた。
「寝ないの?」拓海は訊ねた。
「拓海先生は……もう私を抱いたりはしないんですか?」ゆきが訊ねる。
「……」拓海は息を飲み込んだ。
ゆきは立ち上がり、拓海に近づく。手の平を拓海の胸にあてた。
「わたしは、抱いてもらいたいです」ゆきが言った。
ゆきは拓海の肩に頭をもたれさせる。
彼女の乾ききっていない髪が、暖かい呼吸が、拓海の首にかかる。
拓海は思わずゆきの腰に手を回した。細いけれど女性的なくびれ。
ゆきが顔を少し離し、拓海の顔を見上げた。彼女にキスをしたい。
拓海は目をぎゅっと閉じた。
駄目だ。これ以上は。
拓海は彼女の腰に回していた腕をほどいた。彼女の肩を押し戻す。
「抱かない」拓海はゆきから目をそらして言った。
「君を抱くくらいなら、他の女の子を抱くから」
ゆきがショックを受けている様子が、彼女の顔を見なくてもわかった。
ゆきに背を向けて、拓海の部屋の隣の、結城の部屋に入った。
扉を閉める。
真っ暗な室内に、拓海の心臓の音が響く。
ゆきは今きっと、泣いているだろう。でもこれでいい。彼女を抱いたら。
抱いてしまったら。
きっと今まで経験したことのないような、幸福感を感じてしまうから。
拓海はベッドに倒れ込み、目を閉じた。
「なんのおかまいもしませんで」母親が玄関で頭をさげる。
「いえ、突然押し掛けたにも関わらず、いろいろしていただきましてありがとうございました」
「また近いうちに帰るね」
「うん」母親がうなずいた。父親は黙って母親の後ろに立っている。
「じゃあね」奈々子は家族に見送られ、砂利道を歩き出した。私道を出て駅の方向へ坂道を下る。今日も暑くなりそうな予感だ。
すると鞄から携帯の音がなった。みると聡から。「忘れ物かな?」奈々子が電話に出ると開口一番「うそつき」と言われた。
「は?」奈々子は立ち止まり首をかしげる。結城も振り返り立ち止まった。
「友達じゃないじゃん」
「え?」
「襖って、よく聞こえるんだぜ」
「! ねえ、お父さんとお母さんには黙ってて」
「言わないけど……だまされてるんじゃないか?」
「わかんないの。本当に」
「まあ、いいや。気をつけて帰れよ。須賀さんにもよろしく。あんまり姉貴を泣かすなって、弟が言ってたって言えよ」
「うん」
「じゃあ」
電話を切ると、結城が「どうしたの?」と声をかける。奈々子は「なんでもないです」と首を振ってから、再び歩き出した。
なんて、かわいい人。
奈々子は、お店の前で立っていた男性をみてそう思った。
「もしかして肉まんの子?」拓海は奈々子の顔をみて、結城に確認を促した。
「うん」結城はうなずく。
二人で奈々子のことを話していたのだろうか。なんだか気恥ずかしい気持ちになる。
上野駅についた後、結城は「拓海とごはん食べるけど、一緒に食べる?」と誘った。奈々子は疲れていたけれど「うん」とうなずいた。正直、どんな人と住んでいるのか、気になった。
「個室予約できなかった」拓海が言うと結城は「気になる?」と聞き返した。
「別に、いいよ」拓海はそう言うと、三人は半地下にあるお店に入って行った。
薄暗い店内。カウンターが数席と、奥に個室がいくつか。それからテーブル席が三つほどある。カウンター奥には焼酎の瓶が並べられており、筆で書かれたメニューが各テーブルに置かれている。割と庶民的なお店のようだ。
三人は一番奥のテーブル席につく。結城は奈々子の隣に座った。
「何飲む?」拓海がメニューを見ながら訊ねる。その仕草があまりにも可愛くて、奈々子は驚いた。
ちいさな子供みたい。
「ビール」結城が言う。「奈々子さんは?」
「じゃあ、同じで」奈々子はそう言った。
「俺は、カシスソーダ」拓海の口から「俺」という言葉がでるのを、信じられないような気持ちでながめる。
オーダーをすませると、拓海はまじまじと奈々子をながめる。それから結城を見て「どこ行って来たの? 旅行?」と訊ねる。
「群馬」結城が答えた。
「温泉?」
「いや、奈々子さんの実家」
「は?」拓海は口をあける。
奈々子はその常識的な反応に少しほっとした。
「……結婚するの?」拓海は警戒しつつそう訊ねる。
「いえ、違います」奈々子はあわてて首を振る。
「じゃあ、なんで?」
「ごはんがおいしいっていうから」結城は平然とそう言った。
「迷惑だったら、迷惑だって言っていいんですよ」拓海は奈々子の目を見てそう言う。
奈々子は曖昧に笑い返した。
「家族、みんなそっくりなの」結城が言う。
「へえ」
「いいご家族だったよ。親切にしてくれた。」
「ふうん」
「須賀さんは誰に似てるんですか?」奈々子がたずねる。
「おふくろ」
「きれいだよ、おばさん。華やかで」
「じゃあ、拓海さんは?」
「僕?」
「誰に似てるんですか」奈々子が訊ねた。
すると、ちょっとの間があく。拓海の顔がほんの少し陰る。でもその影は一瞬のうちに消え去った。
「母親かな」
「へえ」奈々子はなんだか微妙な気持ちになりながら、そう答えた。
「うち母子家庭だったから、父親の顔わかんないんだ」
「そうなんですか」奈々子は「もうこれ以上は聞かないでほしい」という雰囲気に口をつぐんだ。
「結城と付き合ってるの?」拓海がたずねる。
「奈々子さん、彼氏いるから」結城が運ばれて来たビールに口をつけて言った。
「じゃあ、ますます一層、迷惑だったでしょう?」拓海は心配そうに言う。
「はあ」奈々子は気まずくなって下を向いた。
「また下向いてる」結城が言う。「顔あげなって。かわいいんだから」
それを聞いて更に奈々子は下を向いた。
拓海はとがめるような目線を結城に向ける。結城はそれに気づかぬ振りをして、ビールを飲んでいた。
店内にはなつかしい洋楽が流れている。時間が早いからか、店内に人は少なかったが、ちらちらと結城の方を見る女性グループがある。奈々子は注目を浴びることが、ほとほとしんどくなってきた。
「やっぱり個室がよかったな。ごめんね、奈々子さん」拓海が言う。
「いえ、ぜんぜん気にしません」奈々子は首を振った。
拓海はさらさらの黒髪。身長は奈々子よりほんの少し高いぐらい。Tシャツにジーンズというラフな格好。そして柔らかい雰囲気を持っていた。
「幼なじみなんですよね」奈々子が訊ねる。
「うん。物心ついた時には、もういた」
「昔から、変わりませんか?」
「う……ん。変わった、かな?」拓海が曖昧に答えた。「結城は俺以外とあんまりしゃべらなかった」
「へえ」
「近寄ってくる女の子達を、威嚇のオーラで寄せ付けないんだ。俺の方が気をつかったな。もっと優しくしてやれよって、いつも言ってた」
「今とはぜんぜん違いますね」
「どうしたんだろうね」拓海が意地悪そうに結城を見る。結城は知らんぷりを決め込んでいる。
そこに「みつけた!」という声が聞こえた。顔をあげると、すらりと背の高い、モデルのような容姿の女性が立っている。
見覚えがある。
奈々子はそう思ってから、はっと気づいた。鍵を届けに来てくれたときに一緒だった女性だ。
「あれ?」結城が声を出した。
「久しぶり。全然声かけてくれないんだもん」女性は拓海の隣に「いい?」と訊ねてから、席についた。
「紗英さん、久しぶり」拓海が言った。
「探してたんだ。よかった、会えて。最近、結城ぜんぜん返事くれないから、なじみの店を回ってたの」
「へえ。どうしたの、そんなに」
「社長から頼まれちゃって。結城、社長の電話もとらないでしょ」
「俺、関係ないもん」
「社長はまだあきらめてないみたいよ」紗英は緩くウェーブしたショートヘアをかきあげる。
拓海が「紗英さん、なんか飲む?」と訊ねる。
「じゃあ、ビール」紗英はその長くて細い腕をあげて、店員を呼びオーダーした。
グリーンのノースリーブに白のショートパンツをはいている。長くてまっすぐな足を組見直す。ピンクの華奢なサンダルをはいていた。
「今日ね、事務所創立記念のパーティがあるのよ。知らなかったでしょ?」
「うん」結城がうなずく。
「社長が絶対に結城にもきて欲しいっていってるの。でも連絡がとれないからって、私、たのまれちゃったんだ」
「ええ、俺やだよ」結城が口をとがらす。
「そんなこと言わないでよ。私頼まれてるんだから」
「連絡つかなかったって、言えばいいじゃん」
「嫌よ。私には私の立場があるの。ね、お願い」紗英は結城の腕に手を伸ばした。
奈々子は居心地が悪かった。「ちょっと失礼します」と言って、トイレに立つ。
できれば帰りたかった。
女子トイレの鏡で、自分の姿を見る。シャツにデニム。あまりにも普通な自分。誰かをうらやんでも仕方のないことだとわかっている。それでもやはり、惨めな気持ちに襲われた。
すると扉から紗英が入って来た。奈々子の隣に並ぶ。ハンドバッグからファンデーションを取り出し、化粧直しを始めた。ちらりと奈々子を見る。にこっと笑った。
なんて魅力的なんだろう。
「ねえ、もしかして、結城とおつきあいしてる?」
奈々子は「そんな馬鹿な」というように首を振った。「友達です」
「じゃあ、今日、結城のことベッドに誘っても、怒ったりしないよね」紗英は手で髪を整える。
「はあ」
「よかった」紗英はかわいい笑顔を見せる。「結城と会うの、すごい久しぶりなの。会うとやっぱり、彼、最高って思っちゃう」
「はあ」
「みんなで食事中だったのに、乱入して本当にごめんね。結城だけちょっと連れていかせて。社長も彼のことあきらめてないみたいなの。本当に見つけられてほっとした。彼、気まぐれだから、返事くれないってなると、とことんくれないんだよね。でも会うとすっごく甘いの。そのギャップもたまらないんだ」紗英は溜息をひとつつく。「夢を見せてくれるのよね」
「はあ」
「じゃ、先いってるね」紗英は口紅を引き直し、席へと戻って行った。女子トイレの扉が閉まる。奈々子は一人取り残された。
「彼女の腰が、私の胸の下あたりだった」奈々子は呆然とする。同じ日本人でこんなにも体型差があるなんて、神様はなんて意地悪なんだ。
奈々子はもやもやする気持ちを抑えて、席に戻る。いつのまにか結城の横には紗英が座っていた。奈々子は拓海の隣に座る。相変わらず結城は紗英と席を立つことを渋っているようだった。
「お願いだって」紗英は結城の腕に手を置いている。そのさりげなさ。奈々子には絶対にまねできないことだ。
結城はビールを飲みながら、無視を決め込むように紗英と視線を合わせない。紗英は困り果てているようで、助けを求めるような目をしてこちらを見た。
「ちょっとだけ、顔をだしてみたらどうです? そうしたら紗英さんだって、社長さんだって、納得されるんだし」奈々子は言う。
結城がちらっと奈々子を見た。その視線にはなんの感情も見て取れない。拓海が横から見ているのも気配でわかった。
「ほら、この人も言ってくれてるし。ちょっとだけ、ね」紗英が手を合わせた。
「わかった」結城はそう言うと、ビールを置いて席を立つ。「拓海、立て替えといて」
「うん」拓海はうなずいた。
「じゃあ、ごめんね。ありがとう、ほんと」紗英は奈々子の顔をみると、感謝の気持ちを表した。
二人が席を立つと、本当に雑誌から抜け出ててきたような感じだ。
彼女は結城の隣を歩くことに、気後れしたことなんてないんだろうな。
結城は奈々子の方を見ずに、そのまま紗英と腕を組んでお店を出て行った。
「まだ時間があれば、もうちょっと飲みます?」拓海が笑顔で訊ねる。
「……そうですね」奈々子は無理矢理笑顔を作り、拓海の横から正面へと席をかえた。
「びっくりしたでしょう? 紗英さん。あの子、いつもかなりマイペースなんだ」
「でも許してあげたくなっちゃうような、そんな可愛い人ですね」
「まあ、そうですね。自分でもよくわかってる」拓海は笑った。「結城の周りには、あんな感じの子ばっかりですよ。ある程度我が強くないと、結城の隣に行こうなんて思わないんでしょうね」
「わかります」奈々子はうなずいた。
「ベッドに誘ってもいい?」と言った紗英を思い出す。なるべく考えないように、目の前の拓海に意識を集中しようとした。
「奈々子さんは、違う」拓海は奈々子の顔をのぞくように言った。「結城に振り回されてる?」
「はあ」
「だよね。奈々子さんから結城に声をかけるようなこと、ない気がしますもんね」
「……ですね」
「どういうつもりなんだろう」拓海はカシスソーダを一口のんで、それから首をかしげた。
「彼がいるんですよね」
「たぶん」
「たぶんって?」拓海が微笑む。本当になんて可愛い仕草の人だろう。可愛いというより、愛くるしいという表現があたってるかも。本当に結城と同じ歳なんだろうか。
「迷惑なら迷惑だ、もう声をかけるなって、強く言ってください。あいつ、自分のペースにわっと巻き込んじゃうタイプだから。別に意図的にしてるわけじゃないと思うんですけどね」
「意図的じゃないんですか?」
「……そんなにあいつ、器用でもないと思うけど」拓海が小エビの唐揚げを口にいれる。それから奈々子の方を見て「奈々子さんって、肌がきれいなんですね」と思いついたように言った。
「そうでもないんですけど……ありがとうございます」奈々子はそう言って微笑む。
「ほら」拓海が言った。
「? 何がです?」
「僕、今奈々子さんのことほめたんですよ。でも奈々子さんは顔色一つかえず、さらっと返した。これが結城だったら?」
結城が奈々子に同じことを言ったら……。そう考えて、奈々子は少しどぎまぎする。
「結城が言ったら、すごく意味ありげでしょ? あいつは普通に話して、普通に動いてるだけなんだけど、なぜか思わせぶりになる。だから意図的に動いてるわけじゃあないって思うんですよ。顔が普通じゃないってだけ」
「うちの弟が、須賀さんは男なのに美人すぎてどきどきするって言ってました」
「男でもね、ちょっとびっくりするぐらいの顔なんですよ。でも慣れる。僕は産まれてからずっと一緒だから、きれいな顔だなあなんて、見入ったりしませんしね」拓海は笑った。
「なんでモデルやめちゃったんでしょうね」奈々子は言った。
「……さあ」拓海はあいまいに笑う。なんだか聞いてはいけないことのような雰囲気だった。
「奈々子さんは、結城に惹かれてる?」拓海にそう聞かれて、奈々子のグラスを持つ手がとまる。
「……わかりません」奈々子は言った。
「もし引き返せるなら、引き返した方がいいと思うよ」拓海は言った。「彼がいるなら、彼のところに帰ったほうがいい」
「どうしてですか?」奈々子は思い切って訊ねた。
「どんなに気があるような素振りを見せても、どんなに優しくしても、それが本気だとは限らないんだ。あんな風に女の子と並んで歩いて、魅力的でいることが、あいつの処世術なんです。無意識にやってる。だから、気をつけて」
奈々子は下を向いた。
「傷つけたくないんだ。あいつのせいで泣く女の子を見たくない。特に奈々子さんみたいなタイプは、ダメージが大きいから。僕にはあいつを止めることができないから、奈々子さんが自分で気をつけてほしいんだ」
「本当は何を考えているんでしょうか」奈々子はつぶやく。
「僕にはわからない。これまでで、あいつの本音を聞いたと思ったのは、たった一度だけだよ」拓海はそう言うとグラスに口をつけた。拓海が自嘲的に笑う。奈々子はなぜ拓海がそんな表情をするのか理解できなかった。
午前二時ごろ、結城が帰って来た。トートバッグをソファに放り投げ、それから冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一本を一気に飲み干した。
拓海はその音に気づいて、自分の部屋の扉を開く。「お帰り。意外と早かったね」
「ああ」結城は空のペットボトルをシンクの中に投げ入れると、ジャケットとシャツを脱ぎ捨てた。
結城は無言でシャワー室に入って行く。機嫌が悪い。
激しい水音がしばらく続いて、タオルを巻いた結城が出て来た。濡れた髪をかきあげる。テレビ前のラグの上に座り、足を投げ出す。背もたれ代わりにしたソファーに頭をのせて、目をつぶった。
「そんな格好じゃ風邪ひくぞ」
「ん」結城は短くそう答えたが、動く気配はない。
拓海も冷蔵庫から水を取り出す。フタをひねって開け、半分ほど飲み干した。
部屋の空気はこもっている。2LDKの部屋は意外とせまい。拓海はベランダの窓を開けて、空気を入れ替えた。
「あの子に手出すの、やめなよ」拓海は入ってくる都会の風を受けながら、そう言った。
「……どうして?」結城は動かずそう答える。
「もうずいぶん参ってるように見えた」
「そう?」
「かわいそうだよ。反応が面白いのかもしれないけど、彼氏がいるならそっとしておいてあげたほうがいい」
「彼女は彼氏のこと、好きじゃないんだよ」
「そうかもしれないけど……お前には関係ないだろう?」
「……」
「今日だって、紗英と腕を組んで出て行ったじゃないか。あんなことがあるたびに、あの子は落ち込むんだ」
「だって、彼女が行けっていった」
「そりゃお前は黙ってるし、紗英って子はしつこい。うんざりだったんじゃないか」
「俺がうんざり」
「なんだよ。どうせ紗英さんとキスだの、セックスだの、してきたんだろう? そういう気軽さがあの子に通じるとでも思ってんの?」
「やってないよ。紗英とはやってないって言ったじゃないか」
「信用できるか。これまでだって、どれだけの子と遊んで来たんだよ」
「もうやめたんだよ、そんなこと」
「俺、あの子に、彼氏のところに帰ったらって言ったよ。お前の考えてることはわからない。信用するなって」
すると結城が「なんでそんなこと言ったんだよ」と睨みつけた。
拓海はびっくりした。いつも軽口をたたいている結城の声色とは、まったく違っていた。
「……お前、本気なの?」
すると結城は立ち上がり、拓海を無視するように背を向けて、自分の部屋にはいって行く。
拓海は思わずその背中を追った。
「ついてくんな」結城が部屋にはいり、クローゼットから着替えを取り出す。
「着替えるんだから、見るなよ」そう言いながら、Tシャツを頭からかぶる。
六畳のフローリングの部屋だ。正面に小さな窓がついている。左手のセミダブルのベッドにはブルーのシーツ。ベッドの向かいには備え付けのクローゼット。それだけのシンプルな部屋。蛍光灯の明かりがまたたいた。
「本気なのか?」拓海は入り口のところにもたれて、再度訊ねる。
「どういう気持ちが本気っていうのか、わからねー」結城はそう言うとベッドに転がる。「電気消して。俺もう寝る。この二日間気を使いすぎて、ぐったりだ」
「なあ」拓海が声をかけたが、結城からもう返事はない。拓海はあきらめて、部屋の電気を切る。そして静かに扉をしめた。
十七
月曜日、仕事がはじまる。落ち着かなくて、不安で、苦しい、お盆休みだった。結城から連絡はない。邦明からの連絡もぴたっと止まった。気づいたのかもしれない。
「ちゃんとしなくちゃ」奈々子は診療所の鍵を開けながらそうつぶやいた。
一番乗りだ。締め切った空気の匂いがする。
今日は曇り。太陽がない分、少し過ごしやすい。もっと風があればいいのに、奈々子はそう思った。
診療所中の電気をつけ、冷房を入れた。白衣を羽織って、受付のコンピュータの電源を入れる。休み明けは患者さんが多い。長期の休みがあけた日なので、きっととても忙しいだろう。
それもいい。何も考えなくてすむから。
考えたくないのに、結城と紗英がベッドに入っている映像が浮かんでくる。奈々子にしたように、キスをして、髪に指を絡ませ、甘い吐息をはいているところを。
「おはよう」珠美がやってきた。
膝丈のフレアスカートに、レギンス。とても可愛いファッションだ。
「おはよう」奈々子は珠美がうらやましい。こんなにかわいくて、大好きな彼氏もいて。素直で、明るくて、まっすぐで。
「この間はありがとうね」珠美が言う。「今日、ランチごちそうするから」
「ええ? いいよ。そんなの。こういうのは助け合いだからさ。私のときもよろしくね」
「オッケー」珠美は白衣を着る。「何してた?」
「お休み? 実家に帰って、あとはごろごろ」奈々子は答える。
「ふうん」珠美が含みを持たせた言い方をする。
「何?」
「わたし、チェックしてんだよね。ブログ」
「?」
「須賀さんとでかけたでしょ」
「!」奈々子はブログにのせられた写真を思い出した。しまった。
「見た感じ、泊まりがけっぽかったけど。まさか、だよね」
奈々子はなんと答えていいのかわからず黙る。そこへ八田さんが入って来た。
「おはよう。久しぶり」ぴちぴちのグリーンのTシャツにジーンズという出で立ち。少し日焼けしたようだ。
「二人とも、お盆休みどっか行った?」
「わたしはどこも。奈々子はどっか、行ったみたいですけど」珠美がちらっと奈々子をみる。
「どこ?」八田さんが訊ねる。
「やだ、実家ですよ。かえったんです」
「そう。ご両親お元気にしてらした?」
「はい。あ、そうだお土産持って来たんで、休憩室に置いておきますね」
「わあ、ありがとう」
「八田さんはどこかに行かれたんですか? 日焼けしてる」珠美が訊ねた。
「どこにも行ってないのよ。でも長男のサッカーの試合があって、それに行ったらすごく焼けちゃった」
「へえ、息子さん、サッカー少年なんだ」
「下手の横好きでね。負けちゃったんだけど」八田さん「ははは」と笑った。
「おはようございます」鈴木さんが入って来た。
「おはようございます」みんなも返す。
「鈴木さん、お休みどうでした?」
「楽しかったよ。一泊二日で白樺湖にも行ったし。お土産あるよ」
「わあい」珠美が手をたたく。
「さあ、今日も一日がんばりましょ」八田さんがそう行って、八田さんと鈴木さんは休憩室に入って行った。
受付のスペースに、珠美と二人取り残される。
「報告、だよ」珠美が横目でにらむ。
「はい」奈々子は身を縮めてうなずいた。
駅前のカレー屋さんに入った。ここは最近できたばかりだ。本日のカレーにナン、それからラッシーがついて七百円。店内は狭く、薄暗い。スパイスの香りが充満していた。
「さて」珠美が腕組みをする。
「はい」奈々子は下を向く。
「邦明とは、どうなってる?」
「えっと……。水族館に行って、それからレストランでディナー」
「ロマンチックじゃない」珠美の眉間は皺がよっている。
「いい人」
「知ってる。だから紹介したの」
「それが土曜日、だったかな。それで、帰りに……」奈々子は言いよどむ。
「何?」
「えっと、キスをされて」
「おっと。意外とことが早い」珠美が目を丸くする。
「わたし、本当に、ショックで」
「はじめてだもんね」
「うん」
「それで、それから連絡とってない」
「向こうからの連絡は?」
「最近はない。私が返信しなかったから」
「ああっ、邦明に奈々子は全部が初めてだって、言っておくべきだった」珠美が頭をかかえる。
「ごめんね、本当に」奈々子は頭をさげた。
「いやこればっかりは、しょうがないし」珠美が溜息をつく。「須賀さんはどこででてくるの?」
「キスされたのがショックで、山手線をぐるぐる回ってたら、須賀さんにこの間キスされそうになったのを思い出して。あの時、しておけばよかったなって」
「……」珠美が憮然とした顔で奈々子を見る。「連絡したの?」
「電話して、それからすぐに思い直して電話を切ったんだけど、探しに出て来てくれた須賀さんと、朝まで……」
「何? エッチしたの?」
「いや、違うよ」奈々子は真っ赤になって手をふった。「キスを」
「朝まで?」珠美が驚いた声を出した。
「うん。キスされたのがショックで嫌だったって言ったら、じゃあ、初めてのキスはなかったことにしようって言って」
「うわ……」珠美が感嘆の声をあげる。「プロ」
「なにそれ?」
「プロとしか言えない。キスへ持ち込む方法がさ。で?」
「で?って?」
「どうだった?」
「……あんな経験、二度とできないと思う」
「マジで?」珠美が溜息をつく。「うらやま」
「彼氏いるのに?」
「それとこれは別でしょ? それで、どうして旅行にでることになったの?」
「実家に行っただけ。ほんとだよ」
「え? 須賀さんと帰ったの?」
「うん?」
「どういうこと?」
「行きたいって」
「はあ?」
「わけわかんないよね。わたしもわけわかんない」
「ご両親、びっくりしてたんだじゃない」
「おお騒ぎ。でも友達だって紹介したから」
そこにカレーが運ばれて来た。熱々のナンにバターがとけて、おいしそうだ。
「しかし……どういうつもりなんだろうね」
「うん。帰って来てから、須賀さんと一緒に暮らしてるお友達と一緒にごはん食べて、でも途中で須賀さんはモデルみたいな女の人と出かけちゃった」
「は?」
「女の人、ほら、鍵を届けてくれた時にいた、すっごい美人」
「ああ」
「近くでみると本当に可愛くて、須賀さんと並ぶとお似合いなんだよ。絵になる。しかも性格も悪くなさそう。それで、その子が『結城を今日ベッドに誘っても怒らないよね』って言って」
「それで、のこのこ、須賀さんはその子についていったわけ?」
「のこのこっていう表現があたってるのかは、わからないけれども……」
「なにそれ!」珠美が怒りだした。ナンを大きくちぎって、口にほおばる。
「須賀さんのお友達の、拓海さんっていうんだけど、彼が、引き返せるなら引き返したほうがいい。泣くことになるからって言ったの」
珠美が黙る。
奈々子も黙った。
しばらく二人でラッシーを飲んだ。
すると珠美が「どうする?」と聞いて来た。
「う……ん」奈々子はカレーをスプーンでつつく。
「悪いことは言わないから、邦明に戻りなよ。ファーストキスががっかりだったのは残念だけどさ。でも何回かしてるうちに、情がわいてくるものよ」
「う……ん」
「わたしがとりなしてあげる。エッチしたらさ、もっと情もわいて、大切になってくるの。女ってそいういう生き物なんだよ」
後ろから抱きしめられて「キスされたくない人に抱かれるの?」と聞いた結城を思い出す。彼と触れている部分はとても暖かく全身が痺れていた。甘くて切ない、そんな時間。
「今週、ダブルデートセッティングしてあげる。私の彼とも会わせてあげるから。忘れちゃお」
「う……ん」
「あの人は手に入らないよ。奈々子と過ごした後、なんの後ろめたさも感じず、他の女の子が抱ける人なんだから」珠美はそう言うと、ナンをもう一口ほおばった。
十八
お盆が明け、再び預かり保育の一週間。少ない人数の保育は比較的楽だ。飯田先生は、新学期の準備で忙しい。拓海とゆきが主に子供達の世話を行う。
実家へと送る電車の中で、ゆきは「もうご迷惑はおかけしません」と言った。
規則的に揺れる車内。風景はどんどんと緑を増して、高い建物の数はぐんと少なくなった。
車内の温度設定は寒いくらいだったが、電車の扉が開くたびに蝉の声と、むっとした熱風が吹き込んだ。
ゆきはうつむき、両手を膝の上で組んでいる。彼女の華奢な腕は電車が揺れると、拓海の腕に触れた。ゆきは座り直し、拓海との距離をあけた。
彼女の顔から明るい表情は消え、沈み込んでいる。それはストーカーにつきまとわれているからではなく、拓海が昨日冷たく彼女を退けたからだ。
「新しい引っ越し先も、わたし一人で探せます」
「……わかった」拓海は頷いた。
ゆきを拓海から遠ざける必要がある。あまりにもゆきは拓海に近づきすぎた。ゆきを気にする自分と、ゆきを避けたい自分との間で、拓海は葛藤していた。
「拓海せんせい」子供の声で、我に返る。
「何?」
「でちゃった」りくとが泣きそうな顔をしている。見るとズボンがずぶぬれだ。トイレに失敗したらしい。
「大丈夫だよ。おいで」拓海はりくとを抱えると、トイレにつれていく。子供用の小さなトイレが並ぶ。濡れたズボンとパンツを脱がせ、汚れた身体を備え付けの小さなシャワーで洗ってやった。幼稚園で保管している予備の衣類に着替えさせる。
恥ずかしそうにしていたりくとも、さっぱりしたのか笑顔になった。
「ねえ、拓海せんせい」
「何?」拓海はズボンをはかせながら、答える。
「ゆきせんせいと、けんかした?」
拓海は驚いて目をあげる。りくとの顔は真剣そのものだ。
「けんかしてないよ」
「ほんと?」
「うん」
「けんかはダメって、おかあさん言ってた」
「ゆき先生とは、仲良しだよ」
「よかった」りくとは手を石けんで洗うと、ポケットから小さなハンカチをだし、ごしごしとふいた。ハンカチを丸めてポケットに突っ込む。
りくとは駆け足でクラスへと戻って行った。
仕事には影響させないよう注意していたつもりだが、たしかにゆきとの間にはちょっとした緊張感が漂っていた。
子供は敏感に察するんだな。気をつけなくちゃ。
拓海はりくとの汚れた衣類をたらいに入れて、じゃぶじゃぶと洗う。ぎゅっとしぼって、ベランダの柵の日差しのあたるところに干した。りくとが帰る頃には乾くだろう。
ゆきは園庭で、水遊びをしている。彼女が飛び跳ねると、ポニーテールが揺れる。太陽のまぶしさに目を細め、顔にかかる水しぶきを腕で拭う。
こんなにも彼女に惹かれている。
そう思ってから、拓海は頭を振った。
これは一時の気の迷いなのだから。
そう心に言い聞かせた。
金曜日の夕方。子供達が帰ると、とたんに静かになる。
拓海はグラウンドに出て、遊具を軽く掃除し、砂場にシートをかぶせた。子供達の朝顔のほとんどは、種が茶色く実っている。来週には来年の子供達のために、種を収穫した方がいいかもしれない。
雲が流れている。暖かな風がふく。
オレンジ色の空。何度見ても美しい、繰り返される自然の景色。
クラスに戻り、帰り支度をし始めた。ゆきもすでに着替えをすませ、カゴのバッグを肩にかけている。
「お先に失礼します」ゆきが頭を下げる。
拓海は「待って」と声をかけた。膝丈のグリーンのワンピースを着たゆきが振り向く。
「これ」拓海は鞄から、封筒を取り出し、手渡した。「お金」
「あ、ありがとうございます」ゆきが頭を下げた。
「本当に……俺が一緒じゃなくて大丈夫?」
「……はい」ゆきがうなずいた。
「家まで送ろうか」
ゆきは首を振る。拓海はそれ以上言わなかった。
ゆきがクラスを出て行く。
彼女とほとんど会話をしなかった一週間だった。こんな毎日が続くのだろうか。拓海はため息をつく。正直しんどかった。
あのとき、ゆきを抱いていたら、どうなっていただろう。
拓海は少し考える。
おそらく後悔し、やはりしんどい一週間だったに違いないのだ。
クラスを最後に点検する。ベランダの窓を締め、鍵をかけた。
拓海はかばんをしょって、廊下に出る。
幼稚園のエントランス前で、帰り際に立ち話をする先生たちに会った。
「おつかれさまです」拓海は頭を下げる。
「おつかれさま」みんなは笑顔で手を振った。
「拓海くん、見た?」幹子が言った。
「何をです?」拓海は立ち止まり、首をかしげた。
「今エントランス来てたのに」さちが言った。「ゆき先生の彼氏」
「え?」拓海は思わず大きな声をあげた。
「ゆき先生ってさ、てっきり拓海先生のことが好きなんだと思ってたけど、彼氏がいたんだね」幹子先生は豊かなバストの下に腕を組み、笑う。
「そうそう」さちがうなずく。「いつも拓海先生のこと見てるからさあ」
「彼氏ってどんな人です?」拓海は不安で揺れ始める。動悸が高まる。
「けっこうなイケメンだよね。スポーツマンっぽくてさ」
「ゆき先生、面食いだね」幹子が言った。「彼氏なにしにきたの?」
「幼稚園に迎えに来てって言われてたから来たって。もう帰りましたって答えたよ」
「ゆき先生って、今友達の家にいるんでしょ?」
「でも今日、自分の家に一度戻るって言ってたよ」さちが言った。「彼氏にもそう言った」
「帰るって?」拓海は声を荒げた。
さちと幹子は、その声にびっくりしたように目を開く。「何よ、拓海先生。びっくりするじゃない」
「元カレです、それ。つきまとわれてるんですよ」拓海は言うやいなや、下駄箱からスニーカーを引っ張りだし、急いで履いた。
「そ、そうなの?」さちの顔が青ざめる。「すごいかっこよかったから、なんの疑いもなく……」
拓海は駆け出した。
走りながらゆきの携帯に電話をかける。
呼び出し音が耳元で鳴っている。
でない。くそ。
拓海は全速力でゆきの家に向かった。
沈む太陽が拓海の背中を照らす。吸い込む空気は埃っぽくて、むせそうになった。喘ぐように息をして、コンクリートを蹴り続ける。
あの日の、あの部屋の光景が、目の前をちらつく。
真っ赤な血と、自分の泣き叫ぶ声。
彼女が命の光を失う、その瞬間の瞳。
あの角を曲がると、ゆきのアパートだ。白いモルタルの外壁のアパートが見えた。
彼女の部屋の扉を勢い良く引いた。鍵がかかってる。けれど窓からは蛍光灯の光が漏れていた。
誰かいるんだ。
拓海はチャイムを押す。中で誰かの気配がしている。
扉が壊れるくらい、何度も叩いた。
気持ちが急く。恐ろしさで気分が悪い。
すると扉がほんの少し開いた。
男が顔をのぞかせる。先日道で見かけた男だ。ポロシャツに短パンという姿。髪は短く、ブラウンに染めている。
「何か?」男は部屋の中をのぞかせないように、身体で立ちふさがる。
「彼女いるんでしょう?」
「お前には関係ないだろう?」顔をしかめ、男は言った。
拓海は足を扉の隙間に入れて、ぐっと扉を引っ張った。小柄で力のなさそうな拓海がそんなことをするとは想像できなかったのだろう。男は「うわ」と声をあげて退いた。
ベッドの上にゆきが座り込んでいるのが見えた。スカートがまくれ、白い太ももが見える。
首が真っ赤になっていた。
「拓海先生!」ゆきが叫んだ。
「何された!?」拓海はゆきに駆け寄った。
「俺たちは話し合ってたんだ。邪魔をするな」男が叫ぶ。
「これは話し合いじゃないだろ? 暴力だ。警察を呼ぶぞ」拓海はゆきをかばうように、男の前に立ちふさがった。
身長は拓海の方が小さい。男は鼻で笑う。
「こいつは、俺の女なんだ。ちょっとした行き違いで、喧嘩しただけなんだよ」
「出て行って!」ゆきが拓海の肩越しに叫ぶ。
「おい!」男は拓海を邪険に脇にどけ、ゆきにつかみかかった。
頭に血が上る。
拓海は男のシャツをつかみ、思い切り顎を殴った。
すごい音がして男はふらつく。そのままよろよろと尻餅をついた。男の唇から血が流れ出る。
拓海は男の腕を引っ張り上げ、もう一度殴った。今度は鼻から血がでる。
男は驚きのあまり目を見開き、反撃することも忘れてしまったようだ。
「もう彼女につきまとうな! 彼女に何かしたら、殴られるだけじゃすまないからな」
「せ……先生」ゆきは拓海の腕にしがみつき、泣き出した。
男はよろよろと立ち上がり、玄関から出て行く。
心臓がすごい勢いで動いている。ゆきの泣く声が部屋に響く。
「ゆき先生、見せて」拓海はゆきの髪を手でかきあげ、首の傷を確認する。恐ろしいことに真っ赤に腫れ上がっていた。
「首、締められたの?」
ゆきは泣きながら、頷いた。「こ、怖かった……」
「大丈夫だ。もう、大丈夫」拓海はゆきを抱きしめる。彼女の確かな感触。拓海は身体の力が抜けていく。ベッドの上に二人は座り込んだ。
「なんで、一人でこの家に帰ろうなんて思ったんだよ! 危ないのは分かってただろ?」
「き、着替えをとりたくて……」
「俺に声かければいいじゃないか」
「だって、拓海先生……」
拓海はゆきを抱きしめる腕に力を込める。
「よかった……生きてる。生きてる」拓海はつぶやいた。
ゆきは拓海の腕のなかで、泣きじゃくっている。小さな肩。
思わずゆきの耳のあたりにキスをした。
どうしよう。彼女を愛しいと感じている。
ゆきが拓海を見上げる。涙に濡れた頬。指で涙を拭う。
それから拓海はゆきに口づけた。
彼女の唇は柔らかく、甘い香りがする。
命の存在を確かめるように、何度も、何度も、何度も舌を差し入れた。
髪の間に指を入れ、頬を触る。
互いが徐々に高まり、息があがる。
「今日は側にいて」ゆきが言う。
拓海は答えるかわりに、強く抱きしめた。
肉体を持つ人間は、こうやって愛を交換するんだ。
拓海はこれまで知らなかった。
熱い吐息。
しなやかな身体。
包まれる暖かさ。
肉体的なものよりもずっと深い、究極の快楽。
こんな幸せを知ってしまったら、忘れられなくなる。
彼女を愛してしまう。
暗闇の中、拓海は身体を起こした。暖かなゆきの肌。眠っている彼女の肩をなで、それから両手で顔を覆った。
起き上がった気配を感じたのか、ゆきは目を覚ます。身体を起こした。暗闇に白い肌が光る。
「拓海先生……後悔してるんですか?」ゆきが問う。
「……抱いても、抱かなくても、後悔するんだ」拓海は顔を覆ったままそう答えた。
「わたしは後悔してません。幸せな時間でした」
拓海は顔をあげ、ゆきを見つめる「幸せだったから、後悔する」
ゆきは黙りこんだ。
「俺は彼女が忘れられない。進めないんだ」
ゆきが拓海の頬に触る。「忘れなくても大丈夫です」ゆきが微笑んだ。
なんて幸せそうに微笑むんだろう。ゆきの顔をみてそう思った。
母の笑顔に似ている。本当に幸せそうに、愛しそうに拓海を見ていた。
拓海は再びゆきを引き寄せ、唇を重ねる。彼女の首に、肩に、手のひらに、唇をつけた。
それからまた、彼女の暖かさに没頭する。明け方近くまで、彼女を離すことができなかった。
十九
「ええ?!」待ち合わせの場所で、奈々子は大きな声を出した。
珠美と腕を組んだのは、吉田製薬の林さんだった。人のよさそうな顔で照れくさそうに笑っている。
「冗談?」
「マジ」珠美も照れたように笑う。そして奈々子の耳にこっそりと「吉田製薬の人、みんな手が早い」と言った。奈々子は苦笑した。
邦明は仕事の関係で遅くなるという。奈々子はまだこの場に邦明がいないことに、ほっとした。どんな顔をして会えばいいのか。連絡を取らなかったことを、どう謝ればいいのか。
三人は並んで歩き出した。夜の恵比寿。吉田製薬はここから徒歩十分程度の場所に本社がある。
「こんなところまで出てもらっちゃって、すいません」林さんが頭をさげる。
「いえいえ、ぜんぜん」奈々子は首を振る。「それより、びっくりしました。いつの間に?」
「いや、おはずかしい」林さんが恐縮すると、珠美が「後でたっぷり話してあげる」と言った。
週半ばの夜。人々は駅に向かい歩いて行く。お盆をすぎると、なぜか秋の気配がしてくる。気温は相変わらず高いし、むしむししているけれども、風の中に季節が変わった匂いがする。
奈々子は夜空を見上げる。雲が出ている。突然の雨にならなければいいけど、と思ってから、奈々子は結城と初めてちゃんと話した日のことを思い出した。
雨と、雷と、あの人の香り。
代官山方面に昇る坂の途中のお店に入った。珠美が「あ、電話」と言って、携帯を鞄から取り出す。
「もしもし。うん、どこ? そうそう。今私たちもついたところ。待ってるね」
「邦明さん?」
「うん。もう駅についたって。すぐ来るよ」
奈々子は緊張で首がこわばる。そんな様子をみて珠美が「大丈夫。奈々子は経験がなくて、びっくりして、こわかったから連絡を返せなかったって言ってある。邦明は優しいから、怒ったりしないよ」
奈々子は感謝の意を込めて、うなずいた。
お店はおしゃれな居酒屋という感じで、四人がけのテーブルがいくつか並んでいた。入り口付近のテーブルに座る。
「まずビールで」と、三人はオーダーした。
並んで座った珠美と林さんは、お互い密着して座っている。
「ねえ、何歳離れてるの?」奈々子は聞いた。
「八歳」珠美が言う。
「結構離れてるね」
「たいしたことないよ」珠美は運ばれて来たビールに口を付けてから答えた。
そこに扉が開き、邦明が入って来た。グレーのスラックスにワイシャツ。笑顔で「遅くなりました」と言った。
奈々子は緊張しながらも会釈する。邦明も気まずそうに会釈をした。奈々子の隣に邦明が座る。彼は急いで来たようで、汗をかいている。隣にいても彼から熱気を感じた。
「ビールでいい?」珠美がオーダーする。
「サンキュー」と言って、邦明がハンカチで額をふいた。それからちらりと奈々子を見て「久しぶり」と言った。
「久しぶり」奈々子も言う。
お刺身や串焼きなどの料理がそろい、場が盛り上がり始めた。話し上手な林さんと邦明、そして珠美がいるおかげで、楽しい気分になる。邦明と会うという緊張感も徐々にほぐれて来た。
「林さん、意外と強引ですね」奈々子は驚きながらそう言った。
「でしょう。あんな風に誘われたら、そりゃ『はい』っていっちゃうもん」珠美が舌をだす。
「いや、必死だったんだって」林さんが笑いながらビールを飲んだ。
「でも無事成功。よかったですね」邦明が言う。
「ありがとう。奈々子さん達もうまくいくといいね」林さんが上機嫌に言った。
邦明と奈々子は目を見合わせ、気まずく黙り込む。珠美がすかさず「これからだから!」と口をはさんだ。
「俺、ちょっとトイレ」林さんが席を立つ。店内には流行のJ-POPが流れている。「おもしろい人だね」奈々子が言った。
「うん、まあね」珠美が言う。それから「邦明、ほら」と促した。
「奈々子さん」邦明が改まって身体を奈々子に向ける。
「はい」奈々子はとたんに緊張する。
「ごめんなさい。嫌な思いをさせて」
「いえ、こちらこそ、なんだか……本当にごめんなさい」
「ゆっくり行きましょう。お試しなんだし。あの、大切にします」邦明はそう言うと微笑んだ。
「はい」奈々子はうなずいた。
これでいいんだ。結城は自分とはやはり住む世界が違いすぎた。
火曜日の午前中、結城が診療所にやってきた。いつもと変わらない、魅力的な笑みを浮かべて、みんなと楽しく話し、そして帰って行った。
奈々子の顔は一度も見なかった。
お休みの間のことは、まるでなかったかのように。奈々子という存在は、もともと結城の中になかったかように。
連絡もない。何もかも。
返事がないときはとことんなくて、会ったときにはすっごく甘い。そのギャップがたまらないんだ。
そう言ってた紗英を思い出す。
邦明の顔をみて「これでいいんだ」と思った。
林さんが電話をしながら、トイレから出て来た。ごめんね、というように手でジェスチャーをしてから、外に出て行く。扉がガラスなので、林さんが電話しているのが見えた。すぐに電話を終えて戻ってくる。
「いや、ごめんね」
「大丈夫?」珠美が聞いた。
「須賀がさ、まだ会社で仕事してるみたいなんだけど、今夜提出の書類に目を通して、サインして欲しいっていうんだ」
「会社に戻る?」
「いや、サインだけだから。須賀が持ってくるって」
「え?」珠美の顔色が変わる。林さんはその様子をみて、不思議そうな顔をした。
「いやいや、あの顔をこの場に同席させるなんて野暮なこと、しないよ」林さんが冗談めかして言った。そして邦明さんに「おっそろしいほどのイケメンなんですよ。あんな顔、他で見たことないです」
「ええ、そりゃ、見てみたいですね」邦明が言った。
珠美が慌てて「やめた方がいいよ。邦明落ち込んじゃうから」と言った。
結城が書類を届けにくる。
奈々子は自分にいいきかせた。「なんてことはない。結城の視線の中には、もう自分はいないのだから」
珠美がそわそわし始める。そんな珠美をみると奈々子も動揺してきた。
ガラス扉があいて、結城がA4サイズの封筒を持って入って来た。薄いブルーのシャツにベージュのスラックス。
結城は店内を見回し、林さんに視線をあわせる。それから奈々子の顔をみて、驚いた顔をした。
「悪いな、須賀」林さんが手をあげた。
「いえ、もう帰られたのに、すみません」結城はテーブルに近づきながらそう言った。
珠美が「ねえ、仕事の話なら、外でしてくれる?」と林さんに小声で話す。
「ああ、ごめんごめん。ちょっと席はずすね」林さんは結城をつれて、店の外に出て行く。ガラス扉越しに、二人が書類をやり取りしているのが見えた。
「いや、びっくりした。きれいな顔だねえ」邦明が能天気にそう言った。
珠美は答えずに、心配そうに店の外をうかがっている。
「どうしたの?」邦明が訊ねた。
「ううん。なんでもない」珠美が首を振る。
奈々子は、気にしないようにしようと思っても、自然と外にいる結城を見てしまう。話しが終わったようで、林さんは書類を結城に返した。
ガラス扉があいて、林さんが入ってくる。結城はそのまま会社へと戻って行く。
そして最後に振り返った。
奈々子と目が合う。
なんだろう、あの表情。あんな傷ついたみたいな顔をして。
奈々子の胸がなぜだか痛んだ。
結城は背を向けて、道路に出て行った。
珠美が緊張をといて溜息をついた。林さんはいぶかしげに珠美の様子をうかがっている。邦明も、おかしな雰囲気に、少し気づいたようだ。心配そうに珠美と奈々子を見ていた。
「どうした?」林さんが言う。
「なんでもない。飲も飲も」珠美が声をあげる。
そこに奈々子の携帯にメールの着信が響いた。珠美が「やばい」という顔をする。奈々子は携帯を取り出した。
「奈々子、携帯は後で」珠美がきつく言った。でも奈々子は気になってしかたない。
「確認するだけだから」そう言うとメールを開いた。
「今、でておいで」
奈々子は息をのむ。顔を上げると、珠美がじっと見てる。「奈々子、駄目だよ」
奈々子は何か言おうと思ったが、言葉にできない。無言で席をたつ。
「どうしたの?」邦明がたずねる。
「ちょっと……あの、少し風にあたってくる」奈々子はそう言うと店を出た。背中に視線を感じる。もう珠美には許してもらえないだろう。
奈々子は外に出て、駅の方向に歩く。手が震えてきた。また振り回されてるのはわかってる。でも誘われると抗しきれない。
坂を下りきったところの電柱脇に、結城が腕を組んで立っていた。すれ違う人たちが結城を見ている。暗がりで表情がよくわからない。奈々子は結城に近づいた。
結城が気配に気づいて顔をあげる。
怒ってる。
「あれが、彼氏?」
「……はい」
「このまま付き合うことにしたんだ」
「……はい」
「付き合うってどういうことか知ってる?」
「たぶん」
「キスだけじゃ終わらないんだよ。その先がある」
「ゆっくり行こうって、約束してくれました」
すると結城は鼻で笑った。「男の考えてることなんて、だいたい一緒。いつやるか、それだけだよ」
「須賀さんは誰とでもキスして、誰とでもできますけど、そんな人ばっかりじゃないです」
「誰ともやってないよ」結城は心外だという顔をした。
「自分でやったって言ったじゃないですか」
「大学の話だろ? 社会人になってからは、そんなこと一度もしてない」
「紗英さんが、誘うって言ってましたよ」
「誘われたよ。だから何? 誘われたからって、抱くとは限らないだろう? あの日は奈々子さんが出ろって言うからパーティにでて、そのまままっすぐ家に帰った。それだけだよ。紗英とはやってない」
奈々子はとても信じられない。二人で並んだところを思い返した。あまりにもお似合いだった。
「何? 携帯見る? 見てもいいよ」
「見ませんよ。必要ありませんから」奈々子は必死にそう言った。「私は邦明さんとおつきあいを続けることにしたんです。あの人といると、落ち着きます。須賀さんといると、いつもドキドキして、不安で、苦しくて、落ち着きません」
「キスはやり直しできるけど、セックスはなかったことにできないよ。なかったことにしたいって俺のところにきたって、そういう訳にいかないんだからな」結城はそう言うと奈々子に背中を向けて、歩き出す。
奈々子は混乱して、涙が出て来た。
どうしろというのだ。
「馬鹿!」奈々子は思わずそう叫んだ。
結城が振り返り、泣いてる奈々子を見て「なんだよ、もう」と声に出した。
「馬鹿って言いたいのはこっちだ、馬鹿」結城が近寄ってきた。「何? どうして欲しい訳?」
「わかりません」
「また、それ……」結城が溜息をつく。
「だって、本当にわかりません。そうでしょう? 付き合ってる訳でもないのに、気軽にキスされて、それでいて、他の男と付き合うなって。それどういうわけです? キスしたいときにはいつでもフリーで待ってろっていうんですか? 自分はいろんなところで、自由にいろんな子とキスするくせに!」
「だから、してないって言ってるじゃないか。それに気軽じゃないよ。なんでわかんないの?」
「……」
「いつも心を込めてるって言ってるだろ?」
「……」
「ああ、もう!」結城はポケットから携帯を取り出して、メールの画面を開く。
「ほら」
「何?」
「見て」
「人の携帯なんて、見たくありません」
「見ろよ!」奈々子の腕をひっぱって、携帯を目の前にのぞかせた。
「最近なんで抱いてくんないの?」
「連絡くれないんだね」
「キスしてもくれないんだもん。ケチ」
奈々子は顔をあげ「なんです、これ。モテ自慢ですか?」とたずねた。
「どこ見てんの? 違うよ。俺の返信見て」
奈々子は視線を画面に戻す。
「昨日、すごく気持ちいいキスをしたから、この感触を消したくない」
日付を見ると、奈々子と朝まで一緒にいた日の翌日。
奈々子は固まる。心臓がおかしなくらいに動いている。ふらふらで立っていられないくらいだ。
「で、でも……」奈々子は言った。「私はあまりにも平凡だし、須賀さんとはやっぱり住む世界が違う気がして」
「なんだよ、それ」結城が声を荒げた。奈々子はびっくりして顔をあげる。
「そっちが勝手に一歩下がってる。こんな顔なら、女の子と好き放題できて、遊び人だって思い込んでるんだ」
「遊び人でしょ?」
「だから、言っただろう! それは大学時代。でもブランドのバッグみたいに、自慢げにつれて歩かれるのは、もう嫌になったって。全部正直に話してるのに、なんでちゃんと聞いてないんだよ」
「私、すごい普通です」
「俺だって普通だよ。朝起きて、ごはん食べて、会社行って働いて、税金だって、年金だってちゃんと払ってる。だいたい住む世界が違うっていうなら、なんで出会ったんだよ! おかしいじゃないか」
「須賀さんは特別すぎます」
「周りが勝手に騒いでるだけ。俺はうまれてからずっとこの顔なの! どうしたらいいわけ? 整形でもする?」結城はそう言うと「ああ、もう!」と言ってしゃがみこんだ。うなだれている。
奈々子もつられてしゃがみ込む。「……須賀さん、どうして私に声をかけたんです? 女の子いっぱいいるでしょ?」
結城はちらっと顔をあげ「やっぱり、まったく聞いてない。奈々子さんのことをよく思い出すんだ。間違えて診療所に行ったあの日、姿も対応も完璧な大人の女性なのに、すごく緊張してて、首や耳まで真っ赤になってる。それがおかしかったし、気になった」そう言った。
奈々子はその話を聞いて、思わず赤面する。
「だから確認したいんだって。これが、どういう感情なのか」
「確認できました?」
「わかんない」結城が再びうなだれる。
「須賀さんだって、わかんないって言ってる」奈々子は口をとがらせた。
「だって、俺、こういうのはじめてだもん。わかんないよ」
奈々子は呆気にとられ、そしてなんだかおかしくなってきた。
「笑うなよ」結城が奈々子をにらむ。
それから一緒に笑った。
結城が奈々子の腕を引っ張り立たせる。それから奈々子を抱きしめた。
暖かい。
結城は奈々子の髪に顔を埋める。「奈々子さんは俺といるとどきどきして、不安だっていうけど、俺はすごく安心する。気持ちいいんだ」そうやって奈々子に廻した腕に力を入れた。
ドキドキしてる。でも心地のよいドキドキだ。
「俺、会社帰らなくちゃ」
「わたしも、待たせてるから」
「じゃあ」結城がそう言って、身体を離す。奈々子も一歩下がった。
結城は何か言いたそうな顔をしたが、そのままくるりと背を向けて本社の方へ歩いて行った。奈々子もお店の方に身体を向ける。
そして腕を組んでいる珠美と目があった。
「あ……」奈々子は立ちつくす。
「ぜんぶ、聞いた」
「た、珠美」
「こりゃ、駄目だ。いくとこまで、行くしかないね」そう言ってから「うらやま」とつぶやいた。
二十
「明日どこかに行く?」結城が訊ねた。
「……そうですね」菜々子はなんとなくうなずいた。
土曜日の夜。
暗い店内。半個室のタイフードのお店だ。タイミュージックが流れ、なんとなく異国にいるような気分になる。「そっちにいくよ」と言われ、奈々子の近所のお店で待ち合わせをした。ただし、奈々子はこのお店は初めてだ。
「聞いてる?」
「聞いてます」
「いつ、です、ますがとれるの?」
「さあ」
奈々子は結城を見て思う。この人、いったいどんなつもりなんだろう。
珠美が「あれは、実質の告白だよね」と言っていた。
そうかな。わからないや。
奈々子は一口、カクテルを飲んだ。
結城はデニム地のシャツに、カーキ色のパンツを合わせている。女性と言っても通るような、きれいな顔立ちに、男性的な骨格。憂いを帯びているような表情で奈々子を見る。落ち着かない。
「俺と一緒に出かけたら、彼氏に怒られる?」
「別れました。知ってるくせに、意地悪ですね」
「別れたんだ。じゃあ、奈々子さんはフリーだ。俺とおんなじ」
「はあ」
「暑いからプールにでも行く?」結城がさらりと言った。
「は? だ、駄目です」
「なんで?」
「それも察しがつくはずなのに、意地悪ですね」
「わかんないよ」結城が笑う。
「心臓に悪いから、本当にやめてください」奈々子は横を向いた。
「ゴメンゴメン。もういじめないから」結城がほおづえをついて、奈々子を見る。奈々子は心臓の音を聞かれてしまうのではないかと心配になった。
「そういえば」結城が携帯を取り出す「今日試合があったんだった」
「なんのですか?」
「サッカー」
「好きなんですか?」
「まあまあ。結果が気になる程度に」結城は携帯でネットを開く。映像付きのニュースにアクセスしたようで、携帯から歓声の声が流れた。
「うわ、くやしいなあ。負けちゃった」
「日本が?」
「うん」
「大事な試合?」
「それほどでもないけど。でも因縁の相手だよ」
「へえ」奈々子は結城の手元を覗き込む。画面では相手チームの選手が、全身で歓びを表現して、フィールド内を走り回っている様子が写されていた。
「うれしそう。よかったですね」奈々子は思わずそう言った。
「負けたんだよ?」結城が不思議そうに言う。
「ああ、そうだった。あんまりにもうれしそうだったから、よかったなあって思っちゃったんです。日本は次、勝てたらいいですよね」そう言った。
「だね」結城が優しく微笑む。奈々子の心臓はドキっと跳ね上がった。
この調子では、奈々子の身が持たない。いつになったら慣れるんだろう。拓海は慣れたと言っていたけれど、奈々子には永遠にそんなことはおこらない気がした。
「今日はうちの近所なので、明日は須賀さんちの近くにしますか? 何をして毎日を過ごしてるのか、不思議だし興味があります」
「そんなのおもしろくないよ」
「そうですか?」
「駄目!」
「なんでです?」
「あまりにも退屈な過ごし方で、がっかりさせちゃう」
「なにしてるんです?」
「満喫行って、漫画を読むとか」
「……本当に?」
「ほら、がっかりした顔した」
「がっかりはしてませんけど……意外性にとんでいて」奈々子は想像して、ちょっと笑った。
「ワンピースがもう少しで読み終わる。読んだことある?」
「ないですけど」
「じゃあ、今度プレゼントしよっか。すっごい面白い」
「はあ」
「またがっかりしてる。言っておくけど、そんなに気取って暮らしてなんかいられないんだよ」
「まあ、そうですよね」奈々子は妙に納得してしまった。
結城が時計を見る「もう、十一時。家まで送るよ」そう言うと席を立つ。幸子も後に続いた。
駅前の繁華街から少し入ると、暗い住宅地が続く。下町ならではの狭い道を通って、奈々子のアパートまで歩いた。
正直、奈々子は緊張している。家までおくってもらうのは、もちろん初めてだ。部屋にあげた方がいいのか。いや、付き合ってないのに、そんなことできる訳がない。
結城は手をつながない。今日は一度も奈々子に触れてきていなかった。
なんだろう。なんだか、不安だ。
ぽつぽつと街灯がついている。一戸建てやマンションからは、部屋の明かりがもれている。静かだ。奈々子は緊張を解くことができない。
本当に、これじゃ、身体がもたないよ。
すると横の方から、ぱっとフラッシュの光があがった。
びっくりしてそちらを向く。女の子が一人、スマホをこちらに向け立っていた。
「あ、また撮られちゃった」結城が苦笑する。そのまま通り過ぎようとすると、女の子が側によってきた。
若い。十代後半ぐらい。ロングの髪を頭の上に結い上げている。顔は小さく、手足が細く、長い。身長は奈々子とおんなじぐらい。その子が、じっと奈々子をにらみつけた。
不穏な空気に、結城が立ち止まる。
「何か御用ですか?」結城が優しく訊ねた。
その子が「わたし、確認したくて」と言った。「最近、その人と出かけることが多いみたいですが、特別な子ですか?」
あまりにもストレートな言い方に、奈々子はびっくりした。
「どうかな? 僕は君のことを知らないのに、その質問に答えなくちゃだめかな?」
「わたし、あなたのこと、ずっと見てきました。雑誌の小さなスペースに最初に写ったその時から、ずっと追っかけてきました。ファンなんです。私のブログには読者が五百人います。あなたの毎日に感心がある子がそれだけいるってことなんです」
「でもそれって、プライバシーの侵害じゃない? 僕は別に許可してないよ」
「知ってます。でも、あなたほど目立つ人が、社会の中にまぎれるなんてこと、無理なんです。芸能人のプライベートが記事になるように、あなたの毎日も記事になる。」
「そういうものかな?」結城が首をかしげる。
「この人、今まで一緒にいた女性とは、全然違います。ブログの読者が、気にしてるんです。だから勇気を出して、聞いてみました」
「自由に書いていいよ」結城が言う「特別だって言ってもいいし、そうじゃないって言ってもいい」
「それじゃ記事になりません。戸田さん」そう名前を読んで、女性はこちらを向いた。「どうなんですか?」
携帯を握りしめる女の子の手は、よく見ると震えている。暗がりでわからなかったが、気をつけると顔も紅潮している。必死に話しかけて来たようだ。
「友達です」奈々子は言った。
「本当ですか?」
「しっくりこないでしょう?」
女の子は結城と奈々子を代わる代わる見る。
「私のせいで不安にさせてしまって、本当にごめんなさい」奈々子は頭をさげた。「この人と出歩くときは、もっと気をつけるべきでした」
「……いえ、そんな……」女の子は恐縮しはじめた。最初の勢いがなくなってくる。
「私と歩いていても、気にしないでください。空気みたいなものですから。写真をとる時には、彼だけを。誰も私の顔を見たいって人はいないと思いますし。いいですよね」と奈々子は結城に言う。
「まあね」
「もう遅いし、駅までの道も分かりづらいので、送ります」
「い、いいです」女の子は首を振った。「すいませんでした」
「またね」結城は女の子に手を振る。女の子は顔を真っ赤にして、その場から駆け足で去って行った。
その後ろ姿を見ながら、奈々子はほっとする。視線を感じて見上げると、結城が顔を見ていた。
「怒らないの?」
「あの子に?」
「うん」
「だって、必死でしたよ。あの子は須賀さんのことが好きで好きでたまらないんです」
「でも謝る必要はないよ。悪いことなんか、一つもしてない。おかしいのはあっちだ」
「人を非難するよりも、自分が悪かったなって思う方が、よっぽどいいです。人を責めるのは、しんどいから。ああ、でも須賀さんは写真に撮ったりするの、辞めさせたかったですか? 私勝手に、写真とってもいいよ、だなんて……ごめんなさい」
「……いいよ。別に。それはもうとっくにあきらめてるんだ。びっくりしたね、行こう」二人は並んで歩き出した。
十分ほど歩き、町工場と一軒屋が隣り合わせの細い路地を抜けると、奈々子のアパートの前にでる。今日の夜気は冷たい。半袖の奈々子は手で腕をさする。結城はそれをちらっと見たが、そのまま何もせずに並んで歩いた。
前ならすぐに肩を抱いて来ただろうに。さっきの子を警戒してるのだろうか。
ブラウンタイルの外壁の、比較的あたらしいアパート。都内には珍しく車を置くスペースが二台分あり、その横には自転車置き場があった。二階建ての二階、向かって右端の部屋だ。
「このあたり、暗いね」結城が言う。
「そうですね……治安はそんなに悪くないと思うんですけど」
階段の下で「送っていただいて、ありがとうございました」と言った。
「おやすみ。明日のことは、明日の朝連絡でいい?」
「はい」奈々子は名残惜しい気持ちを隠して、手を振った「おやすみなさい」
結城は背を向け、来た道を帰っていく。
ほっとしたような、がっかりしたような。奈々子は小さく溜息をついて、階段を上ろうとした。
すると後ろから「俺たちは、どういう関係?」と声がした。
振り向くと結城がポケットに手を入れて、奈々子を見ていた。
「あ、あの……どうでしょう」奈々子はうまく返事をできずそう答えた。
「さっきの子には友達って言ってたけど」結城が言う。
「そうですね」奈々子が言った。
「なんで彼氏と別れたの?」
「それは……うまく説明できません」
「俺が怒ったから?」
「そうかもしれません」
「俺がもし、あのとき何も言わなかったら、別れなかった?」
「もしかしたら」
「はっきりしないな」
「須賀さんも、わからないって言ってたじゃないですか。わたしもわからないんです」
「俺のことは好きじゃないって、言ってたよね。最初に」
「はあ、まあ」
「好きじゃない人とは、キスしないって言ってた」
「……そうですね」
「じゃあ、なんで、あの日、俺のマンションの近くまで来たの?」
奈々子は黙り込む。追いつめるような言い方だ。
「なんで、俺とキスできたの?」結城が近寄る。奈々子は思わず身構えた。「あの子がまだいるかも」
「いないよ。帰った。話をそらすなよ。なんでキスしたの?」
「じゃあ、須賀さんはなんで、私とキスしたんですか?」
「質問に質問で返すのは、ずるい」
「だって……なんだか……」
「気持ちが聞きたいんだ」
「須賀さんの気持ちも、聞いてません」
「俺は言わない」
「ずるくありません?」結城が奈々子の腰に手を回した。
「奈々子さんの気持ちを聞いたら言う」
「うそでしょう?」
「ほんとう。それで?」結城は奈々子の顔を見つめる。
「こ、こういうのは、問いつめられて言うもんじゃないんです」
「だって、ずっと言わないじゃん」
「須賀さんだって言わない」
「なんだよ。強情だな」結城は奈々子にキスをする。奈々子の身体が痺れてくる。奈々子は両腕を結城の首に廻した。
重なる吐息。
奈々子は気を失いそうになる。身体に力が入らない。
「……好き?」結城が唇をあわせながら、訊ねた。
「……うん。好き……」息があがる。
「俺も……好き」結城はそう言うと、さらに強く奈々子を抱きしめ、長いキスをした。
「それで?」受付で珠美が興奮を抑えてたずねる。
平日の午後診療。患者さんはまだ来ていない。静かな待合室に、扇風機の回る音が響く。
「別に……。翌日須賀さん行きつけの満喫に言って、無言で漫画を読んだ」
「冗談?」
「本気」
「落差が激しいな」珠美が呆れた。
「須賀さんはワンピースを読んでて、でも途中でうたた寝したりして。私は別の漫画を読んでた」
「……それは、アリ?」珠美が訊ねる。
「まあ、気楽っていうか。気取らないし、安心はしたかな」
「奈々子にペースをあわせてるのかな?」珠美は考え込む。
「どういうこと?」
「ホテル誘われた?」
「!? さ、誘われないわよ」
「キスだけ?」
「うん」
「ふうん。でもいつかは、するでしょ?」
「ええ?」奈々子は赤面した。とても想像できない。ちょっとでもそのことを考えると、胸が痛いほどに心臓が動く。
「つきあってるんでしょ?」
「さあ」
「まだそんなこと言ってるの?」
「付き合ってって、言われたわけじゃないし」
「もう充分に向こうはアピールしてると思うけどな……須賀さんも苦労するね」
「何よ、それ」奈々子は憮然とした表情を見せた。
「そろそろ覚悟しといた方がいいよ。避妊は絶対してね」
「やだ、珠美……」
「重要なこと言ってるのよ。泣くのは女なんだから」
「う……ん」
「でも、本当にうらやましい。きっと、すっごいうまいよ。かなり遊んでたんでしょ。だったら、相当とろける感じだと思うなあ」珠美が目を閉じ、手を組む。
「うまい、下手ってあるの?」奈々子は訊ねた。
「あたりまえじゃん。どうしようもないってのも、いるよ。ああ、一度でいいから、抱いてもらいたいなあ」
「林さんに言っちゃうぞ」奈々子は笑いながら言う。
「ええ、ちょっと、やめてよ」珠美が笑った。
「今日、暇だねえ」八田さんが診察室から受付に顔をだした。
「患者さんがいないってことは、具合の悪い人がいないってことなんだから、いいことなんだけどね」鈴木さんも続いて顔を出した。
「かず子先生は?」珠美が訊ねる。
「患者さんがいないから、一度上にあがっちゃった」鈴木さんが言った。
「そういえばさ、昨日暇だったから久しぶりに須賀さんのブログみちゃった。」
「へえ」八田さんが言う。
「相変わらずよくもまあ、あれだけついて回れるなあってくらい、写真ばんばん撮られてたけど」そう言って鈴木さんは受付にあるコンピュータでネットを開く。「みてみて」と言ってそのページをひらいた。
「これ、奈々子ちゃんでしょう?」
「あ」奈々子は口を開く。土曜日の日付で、あのときとられた写真がアップされていた。ただし、これまでと違って顔にモザイクがかかっている。
「ああ、ほんとだ。何? 一緒にごはん食べたりしてるの?」八田さんが目を輝かせて言う。
珠美が意味ありげな視線を送っている。
「突撃レポって書いてあるよ。この女性は友達だって書いてある」鈴木さんが言う。「本当に友達?」
「えっと、はい」奈々子が答えた。
「へえ」珠美が言うと、奈々子は「黙ってて」というようににらんだ。
「まあ、付き合ってるって言われても、ぴんとこないけどね」そう言って八田さんが笑う。
そこに自動扉がひらいて、小さな赤ん坊を抱えた母親が入ってくる。それを機に、みなはそれぞれ仕事に戻って行った。
奈々子は少しほっとした。顔にモザイクをかけてくれたんだ、あの子。そう思うと自然と笑みがこぼれた。
二十一
今週末から九月に入る。ゆきは不動産屋で新しい家の鍵をもらった。
ゆきの首の跡が黒ずんで見える。痛々しい。
幼稚園には正直に全部話した。元カレからの連絡はない。警察に連絡することは、ゆきの希望でしていない。このまま何事もなく終わってくれればいいと、拓海は心からそう思った。
まだまだ暑い。空を見上げそう思った。蝉も相変わらずうるさいし、空は真っ青で高い。
デニムにプリントシャツ、平たいサンダルというラフな格好で、ゆきはうれしそうに鍵を見つめる。
駅からは少し遠いけれど、新しくてきれいなアパート。幼稚園のある駅から二つ。
「自転車が欲しいな」ゆきが言う。「自転車で通えちゃう」
アパートの前にはすでに引っ越し業者の小型トラックが止まっていた。
「ありがとうございます」ゆきは弾むようにトラックに走りよった。
アパートの二階。真ん中の部屋。コンクリートの外階段を上る。
鍵を開けると、新しい匂いがした。六畳一間のワンルーム。作り付けのクローゼットがある。以前の部屋よりも太陽が入って明るい。
トイレとバスルームは一緒だし、エアコンはついていなかった。そこが残念だったけれど、これ以上の家賃は出せそうになかった。
若い二人の引っ越し業者が、荷物を運び込んだ。あっという間にワンルームは満杯になる。一人暮らしの荷物はそれほど多くない。作業終了のサインをして、引っ越しは無事終了した。
「荷物が入る前に、お掃除すればよかった」ゆきが腕をくんで、溜息をついた。
「しょうがないよ。とにかく荷物ほどいちゃおう」拓海は言った。
二人は汗をかきながら荷物をとく。これも二人でするとあっという間に終わってしまった。
「思ったより、早く終わりましたね」ゆきが言う「拓海先生が手伝ってくれたから。ありがとうございます」
「うん」拓海は頷いた。
冷蔵庫の電源を入れる。ブウンという音がした。
「アイスとジュース買って来て、中に入れましょうよ」ゆきがうれしそうにいった。
「他のものはいいの? お肉とか野菜とか」
「それは、そのうちに」ゆきがにこっと笑った。
二人で近くのコンビニに買いに出る。スーパーは徒歩で十分ほど。コンビニはその半分の五分だ。
「便利なところですね」ゆきは本当にうれしそうだ。
ゆきとの関係はあいまいなままだ。ゆきは特に何も言わない。拓海はそれに甘えてしまっていた。拓海は自分を逃げ腰で、卑怯者のように思う。ゆきに優しさだけをもらって、自分は彼女に何も返していない。キスをして、セックスをして、でも付き合っているわけじゃない。
ひどい男だ。
もしゆきに新しい恋人ができたら。
彼女を渡したくないという気持ちと、そうなれば安心できるという気持ち。
いずれはちゃんとしなくてはいけない。それはおそらく「別れ」という形になるだろうけど。
そのときを想像して、拓海は胸が痛くなった。
「とんぼ!」ゆきが指をさす。「秋ですねー」
コンクリートの階段を上る。
「ふう」ゆきが大きく息を吐いた。「階段って疲れる」
「ここ、二階だよ? そんなにたくさん昇るわけじゃないのに」
「ですよね。年とったかなあ」ゆきが笑った。
「ゆき先生が年とったなら、俺はおじいちゃんだよ」
「そっか。先生、もう二十七だった。高校生みたいな顔だから、気づかなかった」
玄関を入ると「アイスアイス」とゆきがレジ袋を覗き込んだ。
自分のアイスを手に、ベッドの上に座り込む。ゆきは再び「ふう」と溜息をついた。
「どうしたの?」拓海はゆきの隣に座って、顔を覗き込んだ。
ゆきは首を振る「大丈夫ですよ。なんかちょっと疲れちゃっただけで」
「慌ただしかったからね」
「他人の家って気を使うんですよね。シャワー浴びたあとに裸でゴロンってできないし、好きなテレビも見らんない」ゆきはアイスの袋を破った。
「そうだよね」拓海もアイスの袋を破った。
ゆきはラムネ味のアイスをかじる。「わたし、昔からこのアイスばっかり食べてました」
「俺も。安いし、アタリがよく出るんだ」
「すごい。運がいいんですねー。わたしはいっつもはずれ」
「ほら」拓海は案の定アタリを引いて、得意げにゆきに見せた。
「本当だ! びっくり。わたしのは……はずれ。ああ、もう!」ゆきは頬を膨らました。
窓から風が入ってくる。日差しがあたらなければ、夏ほどの息苦しさは感じない。ゆきは目を閉じて、風を感じている。唇に笑みを浮かべて。
艶のある肌。抱くと白い肌は徐々に上気してピンク色にそまる。
身をそらす彼女を思い返して、拓海はあわててその姿を消した。
「先生、いまエッチなこと考えてたでしょ」ゆきがアイスの棒を口にくわえて、意地悪そうに言った。
「考えてないよ」
「うそ。だって、顔が赤いもん」
「ほんと?」
「ほんと」ゆきは拓海の膝にまたがり、拓海を押し倒し見下ろした。
拓海はその大胆な行動に、また顔が赤くなるのを感じた。
「ほら」ゆきが笑う。ゆきは拓海のおでこにキスをした。
「拓海先生、今日泊まってく?」
拓海はゆきの顔を見上げた。彼女が自分に何も求めないのが、いじらしくて、申し訳なかった。
「どうしたの?」ゆきが首を傾げる。
「ゆき先生が何も言わないから」
「何もって?」
「だって、俺……」
「言ったら、終わっちゃうでしょう?」ゆきが笑う。
拓海は黙り込む。ゆきは全部わかっている。
「こうやって先生と過ごして、楽しくて、幸せだから、今を楽しむんです。余計なことは考えないの。余計なことを考えちゃうと、今がつまらなくなっちゃうし、幸せが逃げちゃう」ゆきが微笑む。
「流れにまかせる。そのときがきたら、そのときに考える」ゆきはもう一度拓海のおでこにキスをした。「それで、今日泊まります?」
「……うん」拓海は頷くと、ゆきの頭を引き寄せキスをする。
それから今度は彼女をベッドに押し倒した。
二十二
土曜日、診療所が終わると目黒にまで出た。診療所から目黒までは四十分程度。三時頃の空気はしっとりと湿気を含んでいる。雲は多いが天気はよかった。
電車の窓から流れる景色を見る。結城と会いだしてから電車にのる機会が多くなった。以前は診療所と家の往復だけで、出かけると言っても近所のショッピングセンターぐらい。友達と会うのもそう頻繁ではなかった。
奈々子は自分の格好をチェックする。ゆったりした膝丈の水色のワンピース。迷ってやっぱりレギンスをはいた。はかないと足下が無防備な気がして、必要もないのに顔が赤らむ。
「大丈夫。嫌だっていったらしないんだから」奈々子は自分に言い聞かせる。
「でも……わたしが、いいって言ったら?」そう考えると、奈々子はドキドキしはじめた。
駅まで結城が迎えにきていた。まだYシャツにグレーのスラックスという格好だ。
「今、帰って来た」
「忙しかったんですか?」
「まあね」結城はそう言うと、並んで歩き出した。
以前ほど周りの視線を気にしなくなったように思う。ただふとした瞬間に周りを見ると、必ず女性の誰かと目があった。やはりずっと誰かに見られているのだ。
「一度マンション寄っていい?」歩きながら結城が言う。
「はい」奈々子は少し緊張してそう答えた。
すると、結城はそんな様子の奈々子を見て「エントランスで待ってて」と付け加えた。
奈々子は安心する。それから自分の感情を全部結城に読まれていることが、恥ずかしくなる。
エントランスのエレベーター前で待つ。マンションの築年数はかなりたつようだ。父親が愛人と暮らしていたという話を思い出す。確かにそのくらいの年数は感じた。
エントランスは広いが、天井が低い。管理人が座る小さな窓が入って右側にあった。今日はもう勤務を終えたようで、カーテンが閉まっている。
エレベーターが動く音がして、結城が降りて来た。黒のプリントTシャツにデニム。皮のサンダルをはいている。急いでシャワーを浴びたのか、黒髪がしっとりと濡れていた。それを見ただけで、奈々子は落ち着かなくなる。重症だ。
「先にごはんたべない?」歩きながら結城が言った。
連れて行かれたのは、近所の定食屋だった。曇りガラスの引き戸を開けるとカウンターとテーブル三席だけの、小さなお店だった。
一番奥、テレビが頭上に設置されているテーブルに腰掛ける。テーブルも椅子も長年の油汚れで少しべたべたした。
「よく来るんですか?」
「うん。拓海と。ごはん作るのめんどくさいときにね」ビニールのかかったメニューをとり、奈々子に見せる。「どれにする?」
「おすすめは?」
「俺はいつも生姜焼き定食。卵がのっかてんの」
「拓海さんは?」
「あいつは……焼き魚とか食べてるかな。なんでもおいしいよ、ここ」
「じゃあ、お魚で」奈々子はそう言うと、結城は厨房にいるおじさんにオーダーした。
「ロマンティックなディナーがよかった?」結城が訊ねる。
「そんなことないです。こういうところも好き。昔家族でよくいきました。今はもう潰れちゃったかな? あったんですよ、駅前に。おいしくて、安くて、地元の人がよくいくお店が」
「へえ。潰れてなかったら、今度行きたいな」
「いいですよ」奈々子はそういって微笑んだ。懐かしい思いにかられる。東京に出て来てもう随分たった。なんだか突然家族に会いたくなった。
お店にはサラリーマンが溢れている。女性客は奈々子以外いない。結城が注目されることは、ほとんどなかった。だから結城はよくここに来るのかもしれない。
料理はおいしかった。母親の味付けとは異なるけど、たくさんのサラリーマンがここに来るのがよくわかる、そんな味だった。
そろそろお店を出ようという頃、引き戸が開けられる音がした。食事をしていたサラリーマン達が息をのむ気配がした。奈々子が何事かと振り向くと、紗英がお店に入ってくるのが見えた。
結城を見ると「またか」という顔をしている。紗英は二人を見つけると、可愛い笑顔を見せ手を振った。
「どうして居場所がわかるんだ?」結城が紗英を見上げ言う。
「世の中には居場所を隠せない人っているの。ネットで探せば今どこにいるか一目でわかる」紗英はそう言うと結城の隣に座った。
「ねえ付き合いだしたんだって?」紗英が足を組み替える。ぴったりとしたパンツをはいた紗英は、一身に男性達の視線を浴びていることを知っているようだ。
「なにしにきたんだ?」結城が言う。
「冷たいじゃない。わかってるでしょ?」紗英がそう言うと結城が溜息を一つついた。
「あれは断ったじゃん」
「でもあきらめてない」
「その話しはまた今度。邪魔するなよ」
「せっかくきたんだもの。えっと、奈々子さんだっけ? 奈々子さんとも話したいことあるの」
「何話すの?」結城が顔をしかめる。
「ちょっと、心配しないでってば。意地悪なんかしないから」
「あたりまえだろ」
「結城、ちょっとどっか行っててよ」
「ええ? なんで?」
「女同士で話したいことがあるの。ね、奈々子さん」そういうと紗英が笑いかける。
奈々子は不安になる。なんだろう。
「結城、ほら、マンション帰って」
「大丈夫?」結城が奈々子にといかける。
奈々子は「大丈夫ですから」と言う。本当は大丈夫なんかじゃぜんぜんなかったけれど、紗英の話を聞かなきゃいけない雰囲気になっていた。
「じゃあ。紗英、ほんとにいじめるなよ」
「わたしを何だとおもってんの?」紗英が口をとがらす。「ほら、帰って」と手で追い払った。
結城は支払いを済ませると、後ろ髪をひかれるように、何度か振り返りながらお店を出て行った。
紗英が改めて奈々子の方を向く。足を組み替える。わざと大きめのシャツを着て、インナーのタンクトップを見せている。細い指には大振りな石のついたリング。本当にファッション雑誌から飛び出て来たようだ。
「この間は、ごめんなさいね」紗英があやまる。
「? なんかありましたっけ」奈々子は首をひねった。
「結城を誘ってもいい? なんて聞いちゃった。結城のことが好きなら、そう言ってくれればいいのに。奈々子さんにひどいことしちゃった」
「あの、それはぜんぜん大丈夫です。あのときは、わたしもよくわかってなかったし……」
「結城がフリーに戻るときまでは、もう絶対に声かけたりしないから、安心して。私も彼氏いるし」
「!? そうなんですか?」
「まあね」紗英がすましてそう言った。
奈々子の常識からはちょっと外れている。やっぱり外見が特別な人は、ちょっと人と違うんだろうか? 奈々子はそんな風に思った。
「それでね。今日は奈々子さんにお願いがあるの」
「なんですか?」
「結城のモデルしてた頃の写真って、見たことある?」
「ちらっと、一度だけ」奈々子はそう言った。
紗英はバッグからスマホを取り出すと、少し操作をしてから奈々子に見せる。そこには結城と紗英が並んでポーズをとっている写真があった。
「これね、初めて雑誌の見開きページに掲載されたときの写真」
「紗英さん、すごくきれいです」奈々子は思わずそう言った。
「ありがとう」紗英はそう言うと、違う写真を次々と見せる。いずれにも結城が写っていた。
「カメラマンに好かれてたんだ。結城はカメラマンが何を望んでいるかよくわかっていて、いつも期待通りの写真がとれるの。彼の雰囲気。表情の作り方。彼が現場にいるみんなを巻き込んで、そこがスタジオだってことを忘れさせる。社長も、スタッフも、彼が一流のモデルになるって、確信してた」
「へえ」
「彼と恋人の設定で写真を撮るとね、本当に錯覚する。夢を見せるのよ。期待したこともあったんだけどね……」紗英はそういって、残念そうな顔をした。「あの人は、手に入らない人だった。まあ、わたしは今彼氏と幸せだから、ぜんぜん気にしてないけどね」紗英はそう言ってきれいな笑顔を見せる。
「結城に戻って来てほしい。社長はそう願ってるんだけど、結城は絶対に首を縦に振らないわけ。自分でもモデルの仕事が適職だってわかってるはずなのにね。なんでだろ」
「そうですね」奈々子も確かに不思議に思った。
「奈々子さんは特別な人よね。あなたの言うことならちょっと耳を傾けるかもって思うんだ。だからさ、それとなく勧めてみてくれない?」
奈々子は曖昧にうなずく。結城の嫌がることはしたくなかったが、紗英が言っていることもよくわかった。
結城の写真。確かに目を引く。ユニクロのデニムを着ていた結城を思い出した。同じ洋服でも、彼が着ると特別なものに見える。
「話しはそれだけ」紗英が言う。「行こっか」紗英が立ち上がった。
お店の前で紗英と別れる。物腰もきれいで、なおかつ性格もいい。そんな人が世の中にはいるんだな。
紗英はとびきりの笑顔で去って行った。
夜の道を結城のマンションまで歩いて帰る。どうして結城はそんなに頑に断るんだろう。研究職につきたいと本気で思っていて、営業職からいずれ移れると思っているのだろうか。
マンションエントランスの前に結城が立っていた。手に小さなバケツを持っている。
「嫌な話されなかった?」結城がたずねた。
「ぜんぜん」奈々子は首を振った。
「花火もってきた。この間の公園いく?」結城が訊ねる。
「うん」二人は連れ立って、川沿いの小さな公園に向かった。
小さなベンチと、何本かの木々。誰もおらず、静かだ。
初めて結城とキスをした日のことを思い出す。自然と奈々子は頬が熱くなる。結城は奈々子の顔をみて、それから笑う。なんでもお見通しのようだ。
ベンチの前で、ろうそくに火をつける。川からの風でゆらゆらと炎がゆれた。水道からバケツに水を入れ、花火をそれぞれ手にとった。
花火に火をつけると、ぱあっとあたりが明るくなる。火花が地面に散る音がする。
結城の顔が炎の色に染まっていた。とにかく、本当に、美しい。
この人が奈々子のことを好きだと言ったことが信じられない。本当にどうして、そんなことになったんだろう。
「紗英さん、きれいですね」
「そう?」結城が新しい花火に火をつけながら言う。
「どうして、紗英さんじゃなかったんです? 紗英さんじゃなくとも、須賀さんの周りにはいっぱいきれいな子がいるのに」
「言ったじゃん」
「……」
「いつまでもそんなこと言ってると、怒るよ」
「ですよね」奈々子は花火を見つめながらつぶやいた。
「話し、なんだったの?」結城が訊ねる。
「わたしから須賀さんにモデルへの復帰をお願いしてほしいって」
「やっぱり。そうだと思った。しつこいよね、何度も断ってるのに」
「写真見ました。須賀さん、素敵だった」
「そう? ありがとう」
「なんでやめちゃったんです?」
「静かに暮らしたいから」結城はそう言うと顔をあげ、奈々子を見て微笑む。「あの仕事を続けてたら、どこに行っても注目されて、買い物も、散歩も、満喫にも行けなくなっちゃう」そう言って笑った。
「それがなければ、モデルの仕事は好きでした?」
「それほどでもないよ。ただ……」
「ただ?」
「奈々子さんは怒るかもしれないけど、僕は自分の顔が嫌いだった。小学校の頃には女顔だっていじめられたし、僕の顔を見ると一様にみんなびっくりして、それから遠巻きに見始める。だから昔から顔を変えたかった。でもモデルの仕事をして初めて、自分の姿形を自分で認められるようになったんだよね。うまく説明できないんだけど」
「わかります」
「今の会社は、悪くない。営業成績はダントツって訳じゃないけど、お客さんからクレームが入ってるわけでもない。満足してるんだ」
「そうですか」
「奈々子さんにも会えたしね」そう言うと、奈々子の頬にキスをした。
風が出て来た。ろうそくの炎が大きく揺れる。結城が心配そうに空を見上げた。
「ざっとくるかな? 最近多いよね、突然の雨。三本まとめて火つけてみる?」結城が笑った。
しばらくすると「パタパタパタ」という音とともに、雨が落ち始めた。大粒の雨の後が、公園の砂地に跡を残す。
「あ、降って来た。間に合わなかったか」結城はそう言うと、花火の後片付けをしはじめる。
「ろうそく持てる?」結城がそう言った。
奈々子はうなずくと、持てるだけのものを持って、公園の木の下に避難する。とたんに大雨が降り出した。
雨で地面が揺れている。稲妻で空が瞬いた。しばらくするとごろごろごろと鳴り響く。
「ここにいちゃ、危ないね。マンションまで走れる?」
「うん」
「じゃあ、いくよ」そう言うと結城は駆け出した。時々奈々子の方を振り返る。三分ほど走って、やっとマンションエントランスが見えてきた。結城が奈々子の方へ手を出す。奈々子は結城の方へ手を伸ばす。手をつないでエントランスへ駆け込んだ。
ものすごい雨音がする。雨のせいで視界が曇っている。
奈々子の服はずぶぬれで、ぴったりと身体に張り付いている。横を見ると結城もずぶぬれだ。
「着替えなきゃ」結城が言う。「拓海の服なら着られるかも……上にあがる?」結城が訊ねる。
このままの格好でいる訳にいかない。でも無意識に緊張してしまう。
「はい」奈々子はうなずいた。
エレベーターが静かに動き出す。狭い空間に二人立つ。意識して結城との距離をあけた。
六階に到着し、扉が開く。相変わらず大きな雨音が聞こえる。通路にまで斜めに雨が降り込んでいる。結城は奈々子に雨がかからないよう自分が外側を歩いた。
突き当たりの部屋。結城がポケットから鍵を取り出す。その指が長く、美しい。奈々子は目をそらした。
扉を開け「どうぞ」と結城が言う。心なしか結城の声も緊張しているように感じる。気のせいだろうか。
玄関の電気をつける。タイル敷きの玄関。二人分の男性物の靴が並べられていた。
「待って、タオル持ってくる」結城はそう言うと、部屋にはいっていく。突き当たり、リビングの電気がつき、しばらくすると白いタオルを持ってきた。
「ふいて」結城は半ば乱暴とも思えるようにタオルを押しつけた。奈々子はタオルに顔をつける。柔軟剤は使っていない。固くて、でも清潔な匂いがした。
「おいで」リビングから声がかかる。奈々子はサンダルを脱いで、部屋にあがった。
入ると目の前にベランダ。左側にカウンターつきのキッチン。ベランダ側に大きな革張りのソファと緑のラグ。大型のテレビがソファの向かいの壁沿いに置かれていた。テレビのすぐ隣に扉がついていて、結城はそちらに入って行った。何やら扉を開ける音がする。それから白いTシャツとカーキ色の短パンを持って来た。
「サイズ合うといいけど」結城は奈々子に手渡し「シャワー使う?」と聞いた。
奈々子は慌てて首を振る。結城は「じゃあ、そっちで着替えて」と言って、キッチン奥の扉を指差す。奈々子は素直にそちらに入って行った。
バスルームの電気をつける。右手の洗面台には男性物の化粧品やひげ剃りが置いてある。奈々子は扉を締め、迷ってから鍵を閉めた。
大きく深呼吸をする。緊張で息ができない。苦しかった。
奈々子は服を脱ぎ、タオルで拭く。自分の姿が洗面所の鏡に映った。
白いそろいの下着をつけている。下着まで濡れてしまっていたが、これを着替えることはできない。
紗英のスタイルを思わず思い出して、あわてて頭を振ってその映像を消した。
着替えてから濡れた衣類を手に持ち出ると、キッチンに結城が立っていた。彼も着替えをすませている。黒いTシャツにカーゴパンツをはいている。「コーヒー飲む?」
「はい。ありがとうございます。あの、今日、拓海さんは?」奈々子がたずねる。
「……今日はでかけてる。帰らないんだ」結城がそう言った。奈々子の緊張はピークに達する。
どうしよう。帰ってこないんだ。ずっと彼と二人。
結城はコーヒーマグを持つと、やっと目を上げて奈々子を見る。それから「濡れた洋服かわかさないと」と言った。「浴室乾燥機がついてるんだ。それにかける」
「あ、やります」そう言って奈々子はバスルームに戻った。結城はマグをキッチンカウンターに置くと、後からついてくる。結城に背中を向けているので、奈々子は死ぬほど緊張していた。
結城が入って正面の洗濯機の上に置いてあったハンガーを無言で指し示す。奈々子は頷いてハンガーに衣類をかける。浴室内の竿に吊るした。
「そこがスイッチ」結城はバスルームの入り口から入ってこようとはしない。
奈々子は言われる通りに、乾燥機のスイッチをいれた。
「髪乾かそうか」結城が言う「そのままじゃ風邪を引く」
「大丈夫です。すぐ乾くから」奈々子はそう言った。早くこの狭いバスルームから出たかった。
「じゃあせめて、もっとタオルでふかないと」結城は洗面台脇の棚から、新しいタオルを取り出す。
奈々子にタオルを渡すとき、結城の指が奈々子の手に触れる。奈々子は思わず手を引いた。タオルが足下に落ちた。
どうしたらいいんだろう。すごく怖いのに。
結城に触れたかった。
結城は奈々子の手をとると、強引に引き寄せた。頭を支えて奈々子の唇を奪う。しばらくお互いの唇をむさぼる。だんだん身体が熱くなる。怖いけど、でも、止められない。
結城は奈々子を壁に押し付け、首筋にキスをする。結城の熱い息が感じられる。奈々子は思わず声をだした。彼の手は思ったよりもずっと強く、大きくて、奈々子の身体はいとも簡単に支配されていく。
結城は奈々子を抱きかかえると、バスルームを出て、リビングの右側にあるもうひとつの部屋へと向かった。奈々子は結城にしがみつく。怖くて、結城の顔を見ることができない。
扉を開けるとこもった空気が流れ出た。そのままベッドの上に奈々子を乱暴に下ろす。奈々子は目をぎゅっとつむった。結城の気配が奈々子の上におおいかぶさる。そのまま結城は再び奈々子の首筋から鎖骨、胸元へと唇をはしらせる。
奈々子の頭はもうろうとして、まともに考えることができない。ただ、身体が熱くて、熱くて、たまらない。
結城は枕元からリモコンをとるとエアコンのスイッチを入れ、床に投げ捨てた。がたんという音が響く。
結城の手がシャツの下に入る。奈々子の身体がびくっと反応した。目を開けると、頭上の窓はカーテンが空いており、激しい雨音が聞こえている。奈々子は結城の顔を見上げた。
見たことのない人だ。
奈々子は訳がわからなくなる。
奈々子はシーツをつかんで身を固くした。
シャツを引っ張るように脱がされた。奈々子の肌がシーツに触れる。
結城が奈々子のショートパンツのボタンに手をかけた。
奈々子は混乱して、側にあったシーツを胸元まで引っ張り上げる。結城は乱暴にそのシーツをはぎ、奈々子の手首を強く押さえつけた。
「いたい」奈々子が思わず声をあげる。
その声で結城の動きが止まった。軽く息があがっている。結城が奈々子の顔をみつめる。お互いの心臓の音が聞こえるようだ。
結城が身体を起こした。奈々子も身体を起こす。結城は両手で顔を押さえ、呼吸を整えた。壁にもたれて、身を丸くする。
「奈々子さん初めてなのに、俺の方が冷静じゃなくなって……ごめん、水でも飲んでくる」結城はそう言うと奈々子を見ずに、ベッドから立ち上がろうとした。
思わず奈々子は「待って」と腕をのばし、Tシャツの裾をつかんだ。「大丈夫……です」奈々子はそういって結城の顔を見上げた。
結城は目を見開いて奈々子を見る。しばらく二人は見つめあい、それから結城は黒のTシャツを脱いで、床に投げ捨てた。
奈々子は引き寄せられ、少し乱暴にキスされる。息が上がる。肌に触れていたもの全てをはぎ取られ、結城の体温を直に感じた。
「抱くよ」かすれた声が耳元で聞こえると、奈々子は激しい痛みに声をあげた。唇を噛んでその痛みに耐える。結城の髪が奈々子の胸元に触れる。
涙が出て来た。痛みをこらえる涙ではない。なんだろう。でも涙が止まらない。
結城が奈々子の身体をきつく抱きしめる。奈々子は結城の肩に顔をうずめた。そのまま最後まで結城は奈々子の身体を離さなかった。
冷房の動く音がする。風が奈々子の汗ばんだ肌を冷やして行った。結城は後ろから奈々子を抱きしめ、耳にキスをする。愛おしそうに何度もキスをした。結城は汗で濡れた奈々子の前髪をその大きな手でかきあげる。生え際にも、それからおでこにも、キスをした。
奈々子は再び涙が出てきた。結城が涙を手で拭う。「泣かないで」
「うん」奈々子はうなずいたが、声が震えてしまう。
「後悔してる?」
「ううん」奈々子は首を振った。シーツを握りしめて、嗚咽を堪える。
「……ごめん」結城が奈々子の肩に唇をつけた。
「ううん。違う」奈々子は再び首をふる。
「こっち向いて」結城が言う。
奈々子が身体を向けると、結城が奈々子を抱き起こして、自分の膝に乗せた。月明かりが結城の身体を照らしている。雨はあがったようだ。結城は奈々子の髪を手ですく。それから頬に手をあてた。
「まだ痛い?」
「……ちょっとだけ」
「初めてだ」結城は小さく溜息をついて、奈々子の胸元に顔を埋めた。結城の息がかかる。奈々子は目を閉じた。
「冷静でいられなかったのは初めて。どうしたんだろう、俺……おかしくなっちゃった」
奈々子は結城の髪に手を触れる。結城は顔を上げ、奈々子の頭を引き寄せ、再びキスをする。
「初めてのことがたくさんありすぎて混乱する。本当はもっと気を使って、時間をかけて、て思ってたのに……。こんな狭くて汚い俺の部屋でなんて」と言った。「ごめんね」
「私が望んだのだから……後悔はないです」それから奈々子はまじまじと結城の顔を見る。
「なに?」
「いえ」奈々子は言いよどむ。
「気になる。言って」
「でも……」
「いいから」
「男の人でも、声って出るんだなって思って」奈々子は言った。
そう言うと結城は目を丸くする。
それから顔を赤らめた。
奈々子を膝から下ろすと、シーツを勢い良くかぶる。
「いじめた」シーツの下で声がする。
「いじめてませんよ」
「うそだ。いじめてるんだ」
「違う。からかってるだけ」奈々子はそう言うと堪えきれず笑い出した。
「この!」結城はシーツの下に奈々子を引っ張り込む。二人は笑いながらキスを交わし、視線を交わし、笑みを交した。
シーツにくるまりながら、結城が奈々子の身体を抱き寄せる。「今度は……男と女がどうしてこの行為に夢中になるのか、じっくり時間をかけて、教えるから」そう言って微笑んだ。
二十三
どんどん新しいものが見えてくる。
夢の中の人が、一人の生身の男性にかわる。
身体を支える腕の強さ。
だんだんと熱くなる皮膚の温度。
額から首筋に流れ落ちる汗。
快感に眉を寄せ、下唇を噛むその表情は、抱かれる前は見えなかったもの。
結城が言った通り、奈々子はこの行為の魅力を徐々に理解しはじめている。
それ自体は本能的で動物的だけれど、この人しかいないと思わせる、絶対的な愛情行為。
押し寄せる波が、奈々子から余計な思考を奪う。
「もう、無理……」心臓が今すぐにでも止まりそうだ。
「無理って言われて、やめると思うの?」結城が耳元でささやく。「まだ離さないよ」
真っ白で清潔なシーツ。やや固めの広いベッド。
ホテルの窓は大きく、都会の明かりと青白い月がくっきりと見える。暗闇の中、結城の身体が青白く光って見えた。
二人のうめきと息づかいだけが響く。こんな風に夜を過ごすのは、もう何度目だろうか。
「何も考えないで。全部解放して。どんなに声をあげたって、誰にも聞こえない。俺以外には」
「でも……」
「我慢しなくていいんだ」結城が奈々子の頬を触る。大きくて、力強い。
奈々子は結城の腕にしがみつき、堪えきれず声をあげた。
「この顔がそそる」結城は奈々子の唇を親指でなぞった。
「全部、俺のもの」
そして、奈々子は経験したことのない感覚に、身をよじり叫び声をあげた。
朝日の暖かさで、奈々子は目を開ける。窓からオレンジ色の光が差し込んで、毛足の長いグレーのカーペットとベッドの上に道をつくっている。奈々子は身体を起こした。
ベッドの周りには、二人の衣類が脱ぎ捨ててある。
ここ何日か、求め合う気持ちに歯止めがかからない。昨日は夕食を食べることもしなかった。そんなことどうでもいい。ただ早く結城に抱かれたかった。
隣を見ると、柔らかな枕に顔を半分埋め、うつぶせに寝ている結城がいる。静かな呼吸音。奈々子は顔を寄せて、結城の顔を見つめる。
女性にも見える美しい顔立ち。朝の穏やかな光に頬が光る。
あ、ここ。
奈々子は結城の耳の後ろにほくろを見つけた。
さらさらの黒髪も、よく見ると耳の辺りが少しカールしてる。
くせ毛なんだ。
顔を見ると、うっすらとあごひげが生えていた。
男の人だ。人間だ、この人。
そこで結城がぱちっと目を開けた。奈々子は驚いて身をひく。
「何みてんの?」
「えっと……」
「みとれてんの?」
「たぶん」
奈々子がそう言うと、結城は笑う。目をこすり、身を起こした。
きれいな身体。細いけれど、筋肉が適度についている。背中から腰にかけてのラインが美しい。
結城は奈々子の髪をいとおしそうになでた。そしてキスをする。
「だんだん声が大きくなってきた」結城がそう言うと、奈々子の頬は熱くなる。
「だって、出していいって」
「いいんだよ」結城は再び奈々子にキスをした。そのまま首筋から鎖骨、肩にかけてキスをする。奈々子は昨夜の感覚を思い出し、思わず身をそらせた。
どれだけの経験をすれば、女性を酔わせられるようになるんだろう。関係を持った女性すべてに、奈々子と同じようなことをしたんだろうか。
奈々子は結城の顔をまじまじと見つめた。
「何?」
「別に」奈々子は横を向く。
「……余計なこと考えてるでしょ。何人の女の子とセックスしたのかな? とか」
驚いて奈々子は目を見開く「超能力者?」
「俺、そういうのよくわかるんだ。知りたい?」
「……知りたい……」奈々子は身構える。聞いたらきっとショックを受ける。でも好奇心の方が勝った。
「正直に言えば、覚えてない。人数も、人も。あれ、この子もしかして前に抱いたっけ? って思うときもあった」
「はあ」納得がいく。一人二人では、こんな風に女性を扱えないだろう。
「最後の一瞬の快感のために、女の子を一生懸命その気にさせるんだ」結城は奈々子を倒し、上から見つめる。
「でも最後の瞬間に至るまで、自分のことじゃなく相手のことだけ考えているのは、これが初めて」結城が奈々子のおでこにキスをする。「こんなにセックスに夢中になったことない。いや、女の子に夢中になったのが初めてかも。奈々子がだんだん大胆になっていくのも、すごく楽しいし」
「ちょっと」奈々子は思わず赤面した。
「今度は奈々子から『抱いて』って言わせたい」
「それは……難しい」
「なんで? じゃ、今から言わせる」
「ま、待って」
「どうして?」
「昨日からずっと、なんていうかここにいるから、お腹も減ったし……」
「減らないよ」
「シャワーも浴びたいし」
「ええ! ダメダメ! まだベッドから出ちゃだめ」結城は奈々子の身体に後ろから腕を廻し、ベッドに引き止める。
「なんか……これじゃ、溺れてるみたいで」
「それって駄目なこと?」奈々子の顔を結城に向かせ、唇を奪う。
深くて、濃厚な口づけ。
「俺は溺れてる」
太陽がゆっくりと昇り始める。部屋はどんどんと明るくなる。お互いの身体に腕を廻して、キスし続ける。光が結城の身体を照らす。オレンジ色に染まっている。
溺れて、息ができない。
彼にキスをされると、思考がとまり、身をゆだねたくなる。
「抱いて」
思わずそう言いそうになった。奈々子は結城の首に手をおき、彼を見上げる。
そこで気づいた。
なんだろう、これ。
結城の首にぐるりと跡がある。
奈々子は指でその跡をなぞった。
結城の動きが止まる。目を開き、奈々子を見下ろした。
「これ……」奈々子は結城の目を見つめた。
「……よく見てるね」結城が言う。
「傷?」
「そう。ほとんど見えないくらいには、消えてると思うけど」
「これって……」
「昔、首を吊ったんだ。そのときの傷」
奈々子は結城の顔を信じられない思いで見上げる。「なんで……」
「若かったから」結城はそう言うと笑い、奈々子の目を覗き込む。「心配してる?」
奈々子はなんと言ったらいいかわからず、黙り込んだ。
「大丈夫。昔のことだから。もう死のうとしたりしないよ」結城はそういうと奈々子の目尻に口づける。
「もう昔のことなんだ」結城は目を閉じた。
家に帰っても、誰もいない。リビングの電気をつけ、ソファに鞄を投げた。
ここ最近、毎晩結城が遅い。ついこの間まで、仕事が終わればまっすぐ帰って来て、一緒に夕飯を食べたりもしていたけれど、それもめっきりなくなった。
誰かと食事をして、おそらく誰かを抱いて帰ってくる。
また女の子と遊び始めたのだろうか。
いや、違う。多分奈々子だ。
奈々子の姿を思い出した。肩までのストレート。優しげで、控えめ。顔立ちはどちらかというと大人びていて、でも笑うと可愛い感じだ。身長は拓海より少し小さいぐらい。結城と並ぶと随分と身長差がある。これまで結城が連れていた女性とは、まったく違っていた。華やかではないし、普通だ。あんな感じの子は、周りを見回せばたくさんいる。
結城はどんなつもりなんだろう。拓海は奈々子が心配だった。
結城が女性と別れるとき、端から見ていても怖いほど、すっぱりと連絡を絶つ。激しい拒絶だ。
結城は電話に向かって「俺が終わりって言ったら、終わり。もうかけてくるな」と冷たくつきはなす。あんなことを言われた女性は、随分と傷つくに違いない。
結城も拓海と一緒で、自分の領域を犯されたくないのだろう。
この暮らしを崩壊させるような付き合いはしない。
ゆきとの関係を考えた。ゆきがこの暮らしを壊すことを望んだら、拓海はゆきをもっと未練なく手放せる。ここは大切なシェルター。失う訳にはいかなかった。拓海がなんとかバランスを保てるのも、ここに入れば安全だと言う気持ちがあるから。
他人が踏み込むことのない、聖域。
ゆきはこの一週間、引っ越しの疲れとストーカー騒ぎの心労で、ぐったりしていた。無理もないと思う。新しい家が決まって安堵したとたん、その影響がでてきたのだろう。
拓海は毎日ゆきを家まで送る。部屋にあがることもあったが、つらそうな彼女を気遣ってそのまま帰宅することが多い。あんまりつらいようだったら、病院にいくようすすめてみようか。
ソファに座ってぼんやりとそんなことを考えていると、玄関の鍵が開く音。結城が帰って来たようだ。
「おかえり」拓海が言う。「今日早いじゃん」
「ただいま」結城はそう言うと、自分の部屋にまっすぐ入る。着替えをすませて、部屋から出て来た。いつものジャージ姿だ。
「腹へった」
「食べてないの?」
「今日は残業だったんだ。なんかある?」
「さあ」拓海は立ち上がり、冷蔵庫をあける。何もない。それから冷蔵庫脇の棚を開いた。
「カップ麺あるよ」拓海が言った。
「それ食べる」結城が立ち上がった。
結城は電子ポットに水をいれ、コンセントを入れた。しばらくすると水が沸騰する音が聞こえて来た。
「今日はデートじゃないんだ」拓海は冷蔵庫からジュースを取り出しながら言った。
「ちがう。俺の仕事がおわんなくて」
「奈々子さんと付き合ってんの?」
「うん」結城はちらっと拓海を見ると、気まずそうに目をそらした。
「彼女のこと、責任持てないだろ?」拓海が訊ねる。
「責任って?」
「彼女は今までの子とは、タイプが全然違う。わかってるだろう?」
「うん」
「彼女、きっと泣く」
「……うん。かもな」結城はカップ麺にお湯を注いだ。
拓海は結城に話しかけながら、自分にも同じことを言っているのだと悟る。
ゆきはきっと泣くことになる。
結城はお湯の入ったカップ麺と箸を持って、テーブルに移動する。拓海もジュースの入ったコップを手にソファに移った。ソファの上に足をあげて、あぐらを組んだ。
「別れろって言ってる?」結城が箸でカップ麺のフタをたたきながら訊ねた。
「……そこまでは言えないけど」拓海は心臓をつかまれる。
結城は箸を投げるように置いてうなだれる。「わかってるんだけど、気になるんだ」
拓海はジュースを一口のんだ。
「笑ってるとうれしいし、落ち込んでると俺なんかしたかな? って気になる。男と一緒だと腹が立っていらいらして、他の奴に触られたりだとかされたくないって思う」
「お前嫉妬深いんだな」拓海は半ば驚きながらそう言った。
「案外ね」結城は笑って、カップ麺のフタをとった。人工的なスープの香りが漂う。カップの中身を箸でかき混ぜながら「いつか別れるかもしれないけど、今は無理」と言った。
「……そうか」拓海は頷いた。
今は無理。
ゆきとも離れられない。でもそれでいいんだろうか。
「ちょっと食べさせて」拓海が手を伸ばすと、結城がカップ麺を手渡した。
「おい、食べ過ぎ!」拓海が食べるのを見て、結城が抗議の声をあげる。「もう麺がないじゃないか」
「お前の体調管理に協力してやったんだ。深夜のカップ麺なんか健康に悪いだろ?」拓海がからかうように言うと、結城が憮然とした表情でスープを飲む。
ここはシェルター。
失うことはできない。
実際別れを切り出すのは、気が重い。ゆきの顔を見ると、用意していた言葉は飲み込まれる。
平日は話をしようと心を決めているが、週末になると気持ちがくじける。
ずるずると関係を続けることが、二人にとって良くないということは分かっていた。けれど言いだせない。まだ彼女を必要としていた。
週末、彼女からの誘いで、映画館で待ち合わせをした。気づけば九月も半ばになろうとしている。陽のあたる場所は汗をかくけれど、日陰はひんやりとしている。
ゆきの体調は良くなったようだ。驚くほどの食欲を見せ、ゆきの顔は少しふっくらしてきている。
「食欲の秋」ゆきはそういって照れたように笑う。
チケットを二枚買って、ロビーで待つ。ゆきが前から見たいと言っていた、ディズニーのアニメーション映画だ。
柱にもたれて彼女を待った。外は快晴。ロビーは冷房の効き過ぎで肌寒い。
ゆきがエントランスから入って来た。ゆったりとしたグレーのワンピースに、よく見るグリーンの薄手のカーディガンをはおっている。足下のオペラシューズは見たことがなかった。
「拓海先生、早いですね」ゆきが笑顔で言う。
「チケット買っといたよ」拓海はゆきに一枚手渡した。
「わたし、ポップコーンが食べたいです」ゆきが言う。「あとコーラも」
「いいよ、買おう」拓海とゆきは売店にならんだ。ゆきはさりげなく拓海の腕を組んだ。
ポップコーンの香りが漂っている。ゆきは上に掲示されているメニューを見て「ダブル」と言う。
「そんなに食べられるの?」
「うん。おなかぺこぺこ。拓海先生も食べるでしょ? コーラはLで」
「朝ご飯食べてこなかったの?」
「食べました」ゆきが当然という顔で答える。
ついこの間までぐったりとして、何も食べられなかったので、彼女が食欲を見せるとうれしい。
トレーを持って、エスカレーターでシアターへとあがる。ゆきを見ると本当に楽しそうにしている。拓海は今週もまた何も話をできないのではないか、という予感がした。
無理だ。とても。
「なんか寒いですね」ゆきが両手で身体をさすりながら言った。
「映画館って冷房がききすぎるよね」拓海は同意する。「ほら、あそこでブランケット借りられるよ」
「借りて来ちゃお」ゆきが壁際に並べられた棚に向かって走りだす。振り返り「先生もいる?」と身振りで訊ねた。拓海は首を振った。
休日ということもあって、混んでいた。子供連れもたくさんいる。ゆきと二人、シアターの後方の席に座った。前方画面がよく見える。
「いただきます」ゆきは座るやいなや、ポップコーンを食べだした。バケツのような大きなカップに、キャラメル味のポップコーンが山ほど入っている。拓海もひとつつまんだ。
「これ甘いね」
「おいしいです」ゆきがにこっと笑う。
照明が暗くなるまで、たわいもない話しをする。兄弟は彼女を含め五人いること。一番下はまだ十五歳だということ。実家は飲食店をやっていること。
拓海は彼女の話を聞きながら、こんな人生もあるんだと、考えた。
これが普通の人生。平凡だけれど、愛されている。
拓海はポップコーンに手を伸ばし、驚いた声を出した。もう半分以上ない。
「まだ上映始まってないのに」拓海はあぜんとしてゆきを見る。
「とまらなくって」ゆきが指を舐めて、恥ずかしそうにうつむいた。
「別にいいけど。俺、ちょっとでいいからさ」
「ありがとうございます」そういって、ゆきは再び食べ始めた。
映画は面白かった。アニメだからといって、子供向けとは限らないようだ。最後には少しじわっと涙が出る。結城ほどではないけれど、拓海も割と泣き上戸だ。そういえば家のテレビで映画を見たとき、結城があまりにも泣くから拓海の涙が引いたってことたあったっけ。
ゆきを見ると、コーラのストローを口にくわえて、見入っている。エンディングロールの最後まで、ゆきは目をそらさず見ていた。
照明がつく。人々が立ち上がる。前の座席に座っていた小さな男の子が、母親に「おもしろかったね」と言うと「そうね」と母親が頷く。ちらりと見えた母親の瞳は、少し潤んでいるように見えた。大人はやっぱりうるっと来る。
「見入っちゃった。泣くのは我慢したけど」ゆきは少し威張ってそう言った。
ポップコーンのカップは案の定空っぽだ。コーラも全部飲み干している。拓海のアイスコーヒーは少し残っている。それを飲み干してから、二人は席を立った。
「トイレいきたいです。Lサイズのんじゃったから、途中からそわそわしちゃった」
「いいよ、待ってる」
ゆきがトイレに行っている間、拓海はゴミを捨てトレーを片付けた。ブランケットをスタッフに手渡す。
トイレの前で待っていると、ゆきが出て来た。気のせいだろうか。顔色が悪い。照明のせいかもしれない。
「お待たせしました」ゆきが言う。
「大丈夫?」拓海は訊ねた。
「大丈夫です。でもやっぱりちょっと食べ過ぎたみたい」ゆきが申し訳なさそうに言った。
「具合悪い?」
「むかむかして……」
「歩ける?」
「はい」
拓海はゆきを気遣いながら、映画館を出た。時刻は一時頃。本来ならランチの時間だけれど。
拓海はゆきを見る。陽の下に出ると、彼女の顔色の悪さがよくわかった。
「帰ろうか」拓海は言った。
「でも……もったいないです」
「いいよ、具合が悪いなら、帰ろう」
「だって、ただの食べ過ぎですよ」ゆきが笑う。
「もっと元気なときに、おいしいもの食べにこよう」拓海が安心させるように言った。言ってから、そんな日があるんだろうか、とちらりと脳裏に浮かぶ。
ゆきは拓海の顔を見る。なぜかすべてを見透かされているような気分になった。
「わかりました」ゆきが言う「ありがとうございます」
二人で電車に並んで座る。ゆきは頭を拓海の肩にのせ、ぐったりとしていた。
地下鉄の黒い窓に二人の姿がうつった。不思議な光景だ。こうやって誰かにもたれかかられるのなんて、想像したこともなかった。
拓海はいつも結城にもたれかかっている。もし結城が奈々子と一緒に生きて行きたいと考えたら。
拓海はそう考えて、突然の不安に胸がしめつけられた。拓海は頭を振る。
あいつに限って、そんなことはないはずだ。あいつは俺を置いていかない。
駅につく頃には、ゆきの体調もよくなってきたようだ。「お腹へってきた」とつぶやく。
「本当に?」拓海はびっくりしてそう訊ねた。
「うん……減った」ゆきは恥ずかしそうに言う。「だってお昼食べてない」
「ポップコーン食べたじゃん」
「あれはおかし。ごはんが食べたいです」
「また気持ち悪くなっちゃうよ」
「食べ過ぎなければいいんですよ。注意します。拓海先生も止めて」
「いいけど……何食べたいの?」
「うん……焼き肉とか?」
「冗談?」
「ほんと。がつんと食べたい」
「駄目だよ。さっきまでむかむかするって言ってたのに。胃が壊れちゃう」
「大丈夫ですって」ゆきはえへへと笑った。
「じゃあ、夜ごはんにしよ。それまでに完璧に治ってたら、焼き肉。お昼は、うどんとか、胃に優しいもの食べよ」
「ええ!」ゆきが不満そうな顔をした。
「そんな顔しても駄目だよ。夜までがまん」
「はあい」ゆきはしぶしぶ頷いた。
焼肉店から出てくると、夜空には星が見えた。涼しい風が吹いている。寒いくらいだ。
ゆきの希望通り、夜は焼き肉を食べることになった。そして拓海が案じていたように、再びゆきは食べ過ぎて「胸がむかむかする」と言いだした。
「どうして止めらんないの?」拓海は呆れてゆきを見る。
「本能のおもむくままに」ゆきは自分でも呆れているのか、冗談めかしてそう言った。
「家に胃薬ある?」
「はい」
「じゃあ、帰って飲もう」
「はい」ゆきは素直に頷いた。
「今日、拓海先生は帰りますか?」
「具合が悪そうだから……そうしようかな」
「あと何回、こんな風に週末をすごせるかな」ゆきが言った。「そろそろって考えてますよね」
拓海は立ち止まる。
「わかるの?」
「うすうす」ゆきが笑う。
「ごめん」拓海は思わずそう言った。
「謝らないで、先生。わかってて、一緒にいたんだから。でも、予想してたよりも早かったな」
「ゆき先生……」
「拓海先生は、思った以上にいい人だった」ゆきが目をこする。泣いているのかもしれない。
「俺は駄目なやつだ。結局、傷つけた」
ゆきは首を振る。
「先生、今夜は一緒に過ごしてください。これで最後だから。側にいてくれるだけでいい」ゆきが拓海の腕に手を触れる。
拓海はゆきを抱きしめ、目を閉じる。
そして懸命に、彼女の香りを、彼女の柔らかさを、記憶にとどめようとした。
その夜は彼女を抱いても切なさだけが溢れ出て、うまく最後までいくことができなかった。彼女もそれを分かってか、ベッドのなかで二人で抱きしめ合うだけでも、何も言わなかった。
ベッドサイドのアナログ時計が、ちくちくちくと時を刻む。拓海は眠れない。彼女にぴったりと身体をつけ、肌の暖かさを感じている。
時は過ぎる。否応無しに。どんなにこの瞬間を永遠にとどめたいと思っても、時間は過ぎて行く。
こんなに苦しい思いをして、彼女と離れなくてはならないのか。
結城が「今は無理」と言ったのが、よくわかる。
胸を引き裂かれる思いに耐え、これから毎日を過ごして行くのだろうか。
もしあのとき鈴音が「また会える」と言わなかったら、拓海はすべてをあきらめて、ゆきと一緒に生きていこうとするだろうか。
もし拓海に人の光を見ることができるという不思議な力がなかったら、ゆきを運命の人だと思うだろうか。
ゆきの髪をなでる。彼女は眠ったのか。多分、寝た振りをしている。
太陽が昇り始め、カーテン越しに部屋が明るくなり始める。
ゆきはおそらく笑顔で「さよなら」と言うだろう。拓海は笑顔で言える自信がない。
拓海はアナログ時計を確認する。午前六時。とうとう夜が明けてしまった。
拓海は静かに身体を起こし、ベッドを離れた。ゆきは壁を向いて、身を丸くしている。拓海は音を立てないようにバスルームに入った。
女性らしい花柄のシャワーカーテンを開けて、熱いシャワーを浴びた。何も言わないで出て行くのはよくないと分かっていたが、顔を見てしまったら「さよなら」と言えなくなる。
バスルームの取っ手にかけてあったタオルで身体をふくと、浴槽を出る。湯気で曇った鏡を手で拭った。
別れを言いだせない、弱気で卑怯な男が一人。
換気扇をつける。湿気で汗が引いていかないが、拓海はバスルーム内で着替えをすませる。濡れた前髪を手でかきあげた。
ゆきの部屋を出たら、もう終わりだ。本当に覚悟はできてるのか?
拓海は自分の顔に問いかける。
再び曇りだした鏡を手で拭うと、鏡前に置かれていた化粧瓶をおとしてしまった。がたんという音をさせて、瓶は洗面台下に置かれていたプラスチックのゴミ箱に落っこちた。
拓海は身をかがめてゴミ箱を手に取る。コットンや紙くずが入ったゴミ箱に手を入れて瓶を拾った。そこで拓海の手が止まる。
これ……。
ゴミ箱のなかから、瓶ではなく違うものを取り出した。
白色のスティック。
真ん中に小窓が二つ空いていて、それぞれの窓に赤いラインが現れている。
拓海はゴミ箱の中を再度のぞく。そして箱を見つけた。
「妊娠検査薬」
拓海は混乱してきた。
どういうこと?
箱の記載を読む。
「判定窓に赤いラインがある場合は陽性」
再び拓海は小窓を見た。
くっきりと赤いラインが表示されている。
拓海は妊娠検査薬を手に持ち、バスルームを出た。一気に汗が引いてゆく。
ゆきはまだベッドから動かない。拓海は自分の鞄を拾うと、玄関でスニーカーをはく。靴ひもを締め直す余裕はない。大きな音をさせて玄関を開け、外に飛び出した。
日曜朝の住宅街の空気。犬の散歩をしている小柄なおばさんが、拓海を見る。拓海は手の検査薬を慌てて鞄に入れると、早足で歩き出した。
駅の方へまっすぐ。空を見上げた。雲一つない。秋晴れだ。
何も考えられない。何がおこったのか、理解できない。
とにかく歩いて、歩いて、歩いて。
駅が近づいて来た。
商店街のシャッターは閉まっている。飲食店の前には使い終わったおしぼりの山。カラスがゴミを狙って地面をぴょんぴょんとはねている。
唯一空いている、チェーン店のカフェに入った。
「ブレンドを一つ。テイクアウトで」拓海は鞄を開く。妊娠検査薬が目に入った。拓海はそれを鞄の奥に押し込めて、財布を取り出し料金を支払った。
暖かい紙コップを手に、再び道路に出る。秋風が拓海の前髪をなびかせる。日差しは暖かい。
駅の改札を通り、ホームに降りる。自販機横のブルーのベンチに腰掛け、コーヒーに口をつけた。
普通列車が来て、通り過ぎる。
また列車が来て、通り過ぎる。
拓海の前を、いくつもの列車が通過した。
「陽性」
ゆきが妊娠したということだ。充分に気をつけていたつもりだ。避妊はしていた。
でも……。
拓海には覚えていない夜がある。あの時、避妊してなかったら。
列車が通過する。
振動で拓海の座るベンチが揺れた。カップが手から落ちる。拓海は手を握りしめた。
選択肢は二つ。
産むか。殺すか。
拓海はそう考えてから、叫びだしたい衝動にかられる。
殺すなんてできっこない。殺すなんて、そんな恐ろしいこと。
じゃあ、ゆきは産むのか? その子供は拓海の子供だ。
拓海は頭を振る。
産めるはずがない。無理だそんなの。
じゃあ、子供を殺すしかないんだ。
すでに血だらけの自分に、新しい血がふりそそぐ。ぬぐっても、ぬぐっても、拭いきれない。全身からむっとするような血の匂いがする。
拓海は立ち上がり、ホームに滑り込んで来た電車に乗り込む。よろめくように端の席に座った。両手を組み合わせて、震えだそうとするのを懸命に止める。
鈴音に会いたかった。彼女が現れてくれたら、すべてが解決するのに。
運命の巡り合わせを、魂の輪廻を、彼女をずっと愛し続けることを、証明できるのに。
とにかくシェルターに帰ろう。拓海は思う。
あの場所は拓海の世界を守ってくれる。
拓海は身を縮めて、この恐ろしい現実をやり過ごそうとした。
「そろそろ拓海が帰ってくるかも」奈々子の膝の上に頭をのせていた結城がそう言った。
奈々子は壁に寄りかかり、結城の髪を触る。髪はつやつやで、指の間から流れていく。結城は仰向けになり、奈々子の顔に裸の腕をのばす。頬を指でさわり、耳をつまんだ。
昨晩の余韻が身体に残っている。抱かれるたびに結城という人物がはっきりと見えてくる。
繊細で、寂しがりや。
軽口をたたくのは、自信のない自分を隠すため。
結城は奈々子のキャミソールを引っ張った。「脱いで」
「拓海さん帰ってくるんでしょう?」
「うん、多分」結城が言った。
日曜日の午前中。九月に入ったが、依然として暑い日が続いていた。冷房の設定温度は二十六度。冷たい風が腕に心地よい。
シンプルな部屋だ。結城の部屋に入るのは、これで二度目。カレンダーもポスターもない。デジタル時計だけがベッドサイドに置かれている。
「じゃあ、帰るね」奈々子はベッドから立とうとした。
「なんで?」
「だって拓海さんが帰って来て私がいたら、リラックスできないもの」
「大丈夫だよ。あいつすぐ寝る」
「それでも他人がいるのは、気を使うものだし。私は帰った方がいいと思う」
「外じゃ、こんな風にできないよ」結城が口を尖らした。
「そうだね。仕方ないよ」
「冷たいな。じゃあ奈々子のうちにいく」
「ええ!? 掃除するから、一時間外で待っててくれる?」
「一時間も? やだやだやだ」結城が言う「やっぱり、ここにいる」
「駄目だってば」奈々子は呆れて笑いだした。本当に子供のようだ。「支度しなくちゃ」奈々子はベッドの足下に置いてあるキャメル色のバッグに手を伸ばす。
すると結城が素早く起き上がり、バッグを先に奪う。「支度させないよ」結城は背中にバッグを隠した。
「返してよ」
「駄目」
奈々子は結城の後ろ側に手を伸ばすが、あっけなく結城に捕まってしまった。
結城は奈々子の腕をつかみ、動けなくする。
「ねえ、拓海さん帰って来ちゃう」
「そうかも」
結城が奈々子の唇にキスをする。思わず奈々子もキスに応える。
「もっとしたいでしょ?」結城が奈々子の目を覗き込み、訊ねる。
「うん……」奈々子はそうつぶやいたが「やっぱり駄目」と顔を背けた。
「このっ」結城が奈々子の脇をくすぐりだした。
「やめて。ダメダメ」奈々子は笑いすぎて苦しくなる。結城の肩を手のひらで叩いた。
「いてて。やめろよ」結城は笑いながらくすぐるのをやめた。「じゃあ、外で一緒にごはん食べよ」結城が頬にキスをして言う。
「うん」奈々子はうなずいた。
二人は支度を終えると、部屋を出た。外の熱気は相変わらずだ。まだ真夏のように暑苦しい。六階の外廊下をエレベーターに向かって二人歩く。結城は当然のことのように奈々子の手をつなぐ。もう手をつないでも緊張することはなくなった。
「何たべる?」結城が訊ねる。
「おいしいもの」奈々子が答えた。
結城がエレベータのボタンを押す。
「何でもいいよ」
「わたしも」
「決まらないじゃん」結城が笑う。
そこにエレベーターが到着した。扉が開く。
中から拓海が出て来た。Tシャツにデニムといういつもの格好。
けれど少し様子が違う。
「あ、おかえり」結城が言うと、拓海はちらっと結城と奈々子を見て、それから無言で部屋へ向かう。
結城の顔が変わった。
奈々子と結城はエレベータに乗り込む。結城は一階のボタンを押した。エレベーターの動く音だけが響く。奈々子は結城の顔を見上げた。心ここにあらずと言った様子。
一階につくと、奈々子はエレベーターを降りた。結城も続いておりようとするのを、奈々子は手で制止する。
「今日は一人で帰る。拓海さんのところに、いってあげて」奈々子は笑顔でそう言った。
「……悪い」結城はほっとした顔をしてそう言うと、エレベータのボタンを押す。奈々子は扉が閉まるまで、結城の姿を見続けた。
寂しくないと言えば、嘘になる。けれどあの様子。きっと何かあったんだ。
管理人室の前を通り過ぎ、日差しの中に降り立つ。路地を抜け、大通りに出た。たくさんの車がひっきりなしに通る。排気ガスで空気が曇っているように見えた。
見るとトンボが飛んでいる。夏のような気温だけれど、もう秋がきてるんだ。
結城の首の傷のことは、あれ以来訊ねたことはない。もう昔のことだと言っていた。それ以上聞くなということだと理解した。
心配ではある。何があったんだろう、と不安にも思うけれど、結城が話すまでは聞くのをやめようと、奈々子は決めていた。
自分のことを思い返す。死にたいと思ったことなど、あっただろうか。些細な喧嘩や、失恋。その度に死にたいと思ったかもしれないが、実行に移すなんてこと考えもしなかった。
穏やかな暮らしを送ってきた。
ふとバッグのチャックが空いていることに気づいた。チャックを閉めようとして、物が足りない気がする。中をさぐると、案の定鍵がない。さっきベッドでじゃれていたときに、外に出てしまったのかもしれない。
車がたくさん通過するなか、奈々子は立ち止まる。携帯を取り出し、結城に電話をかけた。
呼び出し音が鳴り続ける。けれど何度かけても、結城は電話にでない。
今取り込み中なんだろうか。でも鍵がないと、自分の家に入れない。どうしよう。
奈々子はしばらく迷ってから、マンションに引き返した。エレベーターで六階に戻る。結城の部屋の前でもう一度電話をかけたが、応答がない。
奈々子はドアの取っ手を廻し、そっと扉を開けた。
エレベーターの扉があくと、そこに結城と奈々子が立っていた。結城は幸せそうに奈々子を見つめ、奈々子は笑顔だった。
「あ、おかえり」結城が言う。拓海は返事をすることができない。そんな余裕は全くない。あの日以来、細心の注意を払って作り上げてきた拓海の安全な場所が、音をたてて崩壊し始めている。
心臓がばくばくいっている。汗をかいているのに、寒くてたまらない。拓海はよろめきながら部屋に向かった。他の物が目に入らない。自分が今どんな様子をしているのかも気にならない。
ただ部屋にはいりたい。
それから。
それからも、どうしようもない。
どうしようもないんだ。
震える手で鍵を開ける。倒れ込むように玄関に入った。這うようにしてリビングにたどり着く。そこでそのまま床につっぷした。
どうしたら。
どうしたらいい?
玄関の開く音がした。結城の声が聞こえる。「大丈夫か?」
拓海は目を上げ、結城を見た。拓海の側にしゃがみこみ、心配そうに眉を寄せている。「何があったんだ?」
拓海の呼吸が早くなる。「あの人に会いたいんだ……」喘ぎながら言う。
「会いたいんだ。彼女が生まれ変わって来たら、俺には絶対にわかる。きっと知らせてくれる」
「拓海……」
「あの人の最後のひと呼吸、そのとき、あの人は笑ってたんだ。また会えるって、そう言ったんだ。俺にはあの人を捜す力がある。だからきっと……」
「でも、もう、お前は人の光が見えないんだろう?」結城が言う。
「い、今は見えないけど、でも彼女の光なら……」
「彼女を捜すつもりで幼稚園に就職したらしいけど、見つかったのか? たとえ彼女が生まれ変わったとしても、それはもう別の人生だ。それをお前がどうする訳?」結城が言う。
「彼女は死んだんだ」結城が続ける。「二度と会えない」
拓海の胸の喪失感。
ずっとそこにあり、これから永遠にあり続ける。
「お、お前が……」拓海は泣きながら口にだす「お前があんなこと言わなければ、あの人は今も俺の隣にいたんだ!」
「……」
「お前は一番欲しかった『俺』を手に入れたじゃないか! そのかわり俺は全部失ったんだぞ!」理性はどこかに吹き飛んでしまって、言葉に歯止めが利かない。恐怖が拓海を支配していた。
「それなのに! お前は俺を置いて、前に進もうとしてる。なんでだ。なんでだよ」拓海は両手で顔を隠した。
怒鳴っても、泣いても、何をしても、もうこの暮らしは終わりに近づいている。
「俺を置いて行くな……。俺がいなくちゃ生きて行けないって言って、死のうとしたのはどこのどいつだよ!」
玄関の扉が閉まる音がした。
それは本当にかすかな音。
拓海が叫んだ言葉の最後、次の言葉を叫ぶその合間に、聞こえた。
結城が固まる。
拓海も次の言葉を飲み込んだ。
結城が玄関の方を振り向く。立ち上がり、リビングの扉を開け玄関をのぞいた。
結城が振り返る。顔が真っ青だ。
そのまま結城は自分の部屋にはいり、何やら探しているようだ。それから呆然とした表情で、部屋から出て来た。
手には見知らぬキーホルダーがあった。
「ゆ、結城……」
結城はポケットから携帯を取り出して見る。電話をかけようとして、指が止まった。
「ご、ごめ……」さっきまで失っていた理性が戻って来て、拓海は取り返しのつかないことをしたと気づいた。
「……お前のせいじゃない」結城はそう言うと、ソファに座る。力も魂も抜けてしまったようだ。
「でも、俺……」
「お前のせいじゃないって、言ってるだろ!」結城は声を荒げると、うなだれた。
奈々子は扉をそっと閉める。それでも小さな音はさせてしまった。
奈々子は早足でエレベーターに乗り込む。「閉」ボタンを何度も強く押した。早くこの場を去らなくてはいけない。
聞いてはいけない話だった。
奈々子が扉を開けたとき、拓海が叫んでいるのが聞こえた。
「俺がいなくちゃ生きて行けないって言って、死のうとしたのはどこのどいつだよ!」
あの首の傷。そうだったんだ。
奈々子は妙に納得している自分に驚いた。
大通りを駅に向かい必死に歩く。風が髪をなびかせ、汗を乾かして行く。何台もの車がすれ違う。何人もの人とすれ違った。誰かにぶつかりそうになり、慌ててよける。それでも懸命に歩いた。
もし結城が気づいて後を追って来たら、奈々子は何を言うかわからない。
今はこの場から離れ、冷静になって、それで、それで……。
奈々子はふと立ち止まった。
冷静になれば、答えは自ずと見えてくる。
いや、もうわかってる。
だから、拓海は「戻れ」と言ったんだ。
結城の本音を知っているから。
結城が特別に思っているのは、拓海しかいないと、知っていたから。
拓海がいないと生きて行けない。だから死のうとした。
どれほどの……。
奈々子は力なく道路に座り込んだ。追い越して行く人々が奈々子を見下ろす。アーケード付きの商店街。脇にある神社から、特別に涼しい風が流れてくる。トンボが木々の間を飛んでいた。
結城の笑顔が脳裏に現れては消える。
結城が奈々子に「好きだ」と言ったのは、どうしてだろう。
奈々子を好きだなんて、おそらく露ほども思ってないのに。
あの人が私を好きだなんてこと、ある訳ないのに。
奈々子の頬に涙が伝った。
夜の九時。どうやってあれから時間を過ごしたのか、はっきりした記憶はない。なんとなく街を歩き、コーヒーを飲んで、それからまたなんとなく歩いた。
歩いている間も、拓海の声が頭の中に響いている。何度も繰り返し考えた。
もしかしたら聞き間違いだったのかも。
ただの幼なじみ以上の気持ちは、今は持ってないのかも。
その希望が頭に浮かぶたびに、二人の姿が重なって見える。背が高く現実離れした容姿の結城と、小さくて仕草の愛らしい拓海。確かに奈々子には割って入れない、そんな空気が二人の間にはあった。結城に気を取られていたから、その空気感が気にならなかった。
考えてみれば、結城が奈々子のような普通の女の子に声をかけるなんてこと、ある訳がないのだ。
それは対外的なカモフラージュか、本当の気持ちを隠すための手段。どうしてこんな単純なことに気づかなかったんだろう。
ふらふらと自宅アパートの前に辿り着いた。バッグの中をさぐって、鍵を置いて来てしまったことを思いだす。
部屋にはいれない。奈々子は力つきて、外階段に座り込んだ。
真っ暗な道。結城はここで奈々子に好きだと言った。あの高揚感を思い出す。胸のときめき。結城の髪の香りや、暖かな唇の感触。奈々子の腰を引き寄せた、腕の強さ。
奈々子は膝を抱えて、顔をうずめる。大きな溜息をついた。一晩中ここにいるわけにいかない。珠美に連絡しようか、そう考えて頭を振った。珠美には何も言えない。珠美のことだから結城と何かあったとすぐに気づいてしまうだろう。大家に電話しようか。ああでも、電話番号がわからない。電話番号の書いてある契約書は、部屋の中だ。鍵を開ける業者を頼むしか……。
そこでふと気配を感じて顔をあげた。
目の前に結城が立っていた。チェックのシャツにデニム。手に奈々子のキーホルダーを持っていた。
「電話をかけても出ないから。よく鍵を忘れるね」結城が言う。
「電話……気づかなかった。あ、ありがとう……ございます」奈々子は不安に身体が揺れる。
「話があるんだ」結城が言った。黒髪が闇夜に溶けてみえる。視線をそらさず、奈々子を見つめる。「あがってもいい?」
「はい」奈々子はうなずき、結城から鍵を受け取った。
蛍光灯がまたたく階段を上り、二階へあがる。奈々子は部屋の鍵をあけた。
まだ新しい壁紙の匂いがする。奈々子は玄関脇の電気をつけた。蛍光灯が灯る。
「どうぞ」奈々子はそう言って、部屋にあがった。賃貸でよく見かける合板のフローリング。一ルームの部屋は狭く、空気がこもっていた。奈々子はベランダの窓を開け、空気を入れ替える。レースのカーテンが夜風になびいた。
「座るところがなくて……。もしよければベッドの上に座ってください」奈々子はそう言うと、結城を促した。結城は無言でベッドの上に座った。
結城をこの部屋に入れるのは初めてだった。こんな形で結城が部屋にあがるとは思っていなかった。奈々子は惨めな気持ちになるが、極力その気持ちを見せないように気をつけた。
「何か飲みますか?」
「いや、いいよ」結城が首を振る。奈々子は結城の首を見る。くっきりと傷跡が見える。なぜ最初は気づかなかったんだろう。一度見えてしまうと、こんなにもはっきりとそこに存在するのに。
奈々子はベッドの前に置かれている折りたたみテーブルの前に正座した。結城を見上げる。
「また、離れちゃった」結城が悲しそうに笑う。「手に入れたと思ったのに」
奈々子はうつむいた。
「どこまで、聞いた?」結城は訊ねたが「いいや、答えなくて」と首を振った。
結城が腕をベッドについて、うなだれる。「ここに来る間ずっと、どうやったら君を失わずにすむか、そればっかり考えてた」結城はちらりと奈々子を見て、それから「無理かな」とつぶやいた。
「これから全部話すけど、決して楽しい話じゃない。それどころか、知りたくなかったって思うかもしれない。もし聞きたくないなら『出て行け』って言って」
奈々子は何も言わなかった。ただ顔をあげて、結城の目を見た。
とても悲しげだった。
結城は大きくひとつ息を吸うと、話し始めた。
「高校三年の夏、拓海は一人の女性と出会った。その女性は年上で三十前半。偶然にも拓海の母親と同じ年だった。拓海は端から見ても危ういと思うほど、彼女に夢中になった。彼女と男女の関係だった訳じゃない。ただ拓海はこれからの人生をその女性と過ごしたい、一時も離れたくないと言っていた。それまで抱いていた夢も、そのための進路もすべてなげうって、彼女と暮らすと言っていた。俺は……」結城はそこで少し言いよどむ。それから意を決したように再び話だした。
「当時大学受験を控えていた。俺は今よりもずっと内向的で、友人と言えるのは拓海だけだった。付き合っていた彼女はいたけれど、告白されたから付き合っただけで特別な感情は何もなかった。十代は女性の身体に夢中になるころだし、純粋にセックスするためだけに付き合ってたんだ」
「幼い頃からずっと、拓海と一緒だった。社交的じゃない自分の、拓海は社会との唯一の接点だった。拓海に特別な人ができて、俺はむなしさに襲われた。自分が……」結城が唇を噛んだ。
「自分が拓海にとって特別な人でありたいと願っていたことに、そのとき初めて気づいたんだ。拓海のいない人生を想像してみたけれど無理だった。拓海がいなければ何もできないと、何の意味もないとまで思い詰めた。今思い返すと……拓海に執着していただけなんだと分かるけれど、当時は真剣だった。十代の未熟な感情と表現で、説明をつけられることじゃなかった。俺はゲイなんじゃないかとも考えてみたけれど、他の男性に興味があるということはまったくなかった。拓海だけ。本当にあいつだけに、執着してた」
「俺は拓海にこの感情を気づかれる前に、死んでしまおうと思った。それが一番楽で、心地の良いことだと思ったんだ。ある夏の日、俺はカーテンレールに紐を通して、首を吊った。痛みと苦しさと、そして解放……でも、拓海に見つかってしまった。あいつが俺の首の紐を切り、救急車を呼んだ」
「生と死の狭間で、あいつには決して知られてはいけないことを、思わず口に出してしまった。『お前がいなきゃ生きている意味がない』と」
結城は目を閉じる。当時を思い出しているようだ。苦しみに眉をしかめる。
「あのときの拓海の顔。軽蔑や嫌悪じゃなかった。戸惑いと……謝罪が見えた」
「病院を退院すると、拓海は案の定俺と距離を取り出した。もう以前のように笑い合ったり、冗談を言ったりできるような間柄ではなくなっていた。俺は自分自身を罪深くて、汚いもののように思えた。あの拓海の顔に見えた表情が忘れられなくて。自分を責めて、罵って、それから泣いた」
「八方ふさがりだった。どうやっても状況を変えられない。そんな中、拓海の母親が俺を訪ねてきた。拓海は……母子家庭で、母親は拓海を溺愛してた。拓海の進路のために夜の仕事を増やすほど、拓海のために生きていた。もともとそれほど精神的に強い人ではなかったと思う。でも母親だっていう、その一点だけで生きることのできていた、そんな人だった」
「『結城くん、拓海はこれから先の人生すべてを、わたしと同じ年の女性に捧げるなんてことを言っている。本当は優しい子なのに、結城くんがつらいときにお見舞いにも行かない。あの子は今、おかしくなってるんだわ。私があの子を守らなくちゃ』」
結城はそう言うと、大きな両手で顔を覆った。しばらく結城は黙り込む。奈々子は静かに結城が再びしゃべりだすのを待った。
「……俺はおばさんに言った。『拓海は彼女を母親だと信じています。彼女はかつて子供を一人死なせていて、その生まれ変わりが拓海なんだと信じているんです』」結城が顔を上げた。
「俺にはその時わかっていた。おばさんは思い詰めていて、精神的にぎりぎりのところにいることを。加えて、母親であるという存在理由を傷つけられたら、そのラインを超えてしまうだろうということも。分かっていて、わざと口にしたんだ。これで拓海とあの女性が、穏やかに過ごせなくなるだろう、そんな気持ちから。ほんのちょっとの悪意。人の不幸を願う心」
結城は深く溜息をついた。目を閉じて黙る。カーテンが風に揺れる。秋の匂いがする。
「俺はおばさんに彼女の住んでいる場所を教えた。おばさんはうつろな表情で俺の部屋を出て行った。しばらくして、俺は不安な気持ちに我慢できなくなってきた。自分の言った言葉が恐ろしくてたまらない。拓海の部屋の明かりはずっと消えている。誰も帰ってないんだ。俺はいてもたってもいられず、太陽が沈んだ頃、その彼女の家に行った。歩いているときにも、俺は『きっとなんでもない。何もおこっていない』そうやって自分に言い聞かせ続けた」
「でも……彼女の家の前にはパトカーがとまり、慌ただしく人が出入りしていた。拓海は……拓海は地面に座り込んでいた。足を投げ出して、ぼんやりと空を見上げていた。あいつの夏服は真っ赤に染まっていた。手も、顔も、真っ赤で……」
「拓海の母親は、彼女の首をはさみできりつけたんだ。おばさんはパトカーの中で泣いていた。『ごめんなさい、こんなつもりじゃなかった』そう繰り返していた」
「俺が……あんなことを言わなければ、彼女は死なずにすんだし、おばさんも人を殺さなくてすんだ」結城が窓の外に目をやる「ちょうど今ぐらいの時期。こんな風の匂いがした」
奈々子は衝撃で言葉もでない。拓海の顔を思い出した。そんな過去があるように見えなかった。
「人の不幸を願ったり、喜んだりすることの、恐ろしさに震えた。とりかえしのつかない過ちをしたと。拓海の母親は拘置所に入り、そこで衰弱して亡くなった。本当にあっという間だった。拓海はあの日以来、全部を失ったんだ」
「拓海はそれから精神のバランスを崩した。自分の世界に閉じこもり、ちょっとでもその世界が揺れると、我を忘れて泣きわめくようになった。アルコールやドラッグに手を出さないよう、俺はいつもあいつの側にいた。俺はかろうじて高校を卒業したが、拓海はできなかった。俺の母親は何も聞かずに、拓海と一緒に暮らすことを了承した。そしてずっと住んでいた団地を離れ、あのマンションに引っ越したんだ」
「……なんと言ったらいいか……」奈々子は素直にそう言った。
結城は奈々子の顔を見ると、悲しそうに笑う。「いいよ。酷い話だ」
結城は再び話出す。「一年ほど経つと拓海は表面的には元にもどったように見えた。俺は大学に入り、昔通りの関係に戻れたようにも思ったけれど、拓海は相変わらず不安定で、ふさぎ込んだり泣き出したりすると、手が付けられなかった。俺はそんな拓海をみるのがしんどくて、女の子と遊んだりしたけれど、でもやっぱりあいつを見捨てるなんてことはできなかった。全部俺のせいだから」
結城はたいしたことはないというように、穏やかに笑う。でも奈々子の目には、彼が泣いているように見えた。
「愛してるんですね」奈々子は思わずそう言った。
結城が奈々子を見る。悲しそうに「うん」とつぶやく。
「俺が女だったら、迷うことなく最後まであいつと一緒にいるだろうと思う。でも俺は男だから。こんな女みたいな顔だけど、男なんだ。俺は女の子が好きだし、男を好きだと思ったことは一度もない。拓海を抱きたいなんてことも、一度も思ったことないんだ」
「性別関係なく、拓海さんの側にいてあげればいいと思います。何も無理に、他の誰かと付き合う必要もないんじゃ……」
結城は膝の上に肘をつき、祈るように顔の前で手を組む。目を閉じた。
「七月の初め、拓海の心の中に誰か他の人が入り込んだことがわかった。あいつは否定していたけれど、誰かに気を取られ始めているのがわかった。俺たちはもう二十代後半だ。いつまでもこんな風に暮らしてはいけない。いつかは離れなくちゃ。いいタイミングだと思った」
「俺は一度、あいつが離れようとした時に、死を選んでる。あいつが俺から離れるには、俺がもうあいつに執着していないということを、理解させなくちゃいけなかった。俺は自分が他の女性に本気になったと思わせようと考えた」
「今まで付き合って来たような、華やかで目立つ女性ではなく、ごく普通で優しくて、それでいて恋愛経験の少ない子。奈々子さんは理想的だった」
奈々子は心臓をえぐられる。震えそうになるのを、手を握りしめて堪えた。
「自分で話してても、俺すごい悪いやつだな」結城は言う「ごめん」
「でも誰でもよかった訳じゃない。君に話したことは全部本当だ。奈々子さんのことをよく思い出したから、奈々子さんにしようって決めた。初めて本気で女の子をおとそうと思った。君を充分に観察して、どうしたら俺を意識して、恋をしてくれるのか、考えに考えた。自分のことを実在の人間だと思わせるところから始めなくちゃいけない。二歩も三歩も後ろにさがって、俺を見るような子だから。思うようにうまくいかなくて、イライラしたり、嫉妬したりもした。これが恋をするってことなのか、って。初めてそんなことを思った」
結城は奈々子の顔を見つめる。「怒っていいんだよ」
「……なんていうか、納得しました。私みたいな平凡な女と、あなたみたいな人とではやっぱり釣り合いが取れないから……」奈々子は笑う。
結城が奈々子の手を引き、抱き寄せた。彼の香り。奈々子は目を閉じる。
「君はいつも、人を気遣って、遠慮して、誰かを責めたりも、怒ったりもしない。僕の周りにいる子とは、ぜんぜん違ってた。誰かの不幸を願って、それを喜ぶなんていう愚かなことも君はしない。僕には君が本当に美しく見えるんだ」
「身勝手な話だけれど、僕は君を失いたくない。今更信じて欲しいと言っても、無理な話かもしれないけれど」
「もし、もう一度僕を信じてくれて、共にいてくれるというなら、僕はもう一生、他の女性と関係を持ったりしない。そんな必要ない。約束できる」
「考えて」結城は最後にそう言うと、奈々子を離した。立ち上がり、玄関を出て行く。
扉の閉まる音。
しばらくすると窓の外から、結城の去って行く足音がする。
珠美が「あの人は全部計算してる」と言っていた。
拓海は「どんなに優しくても、本気だとはかぎらない」と言っていた。
全部、本当のことだった。気づかなかったのは、恋愛経験の少ない奈々子だから。
紗英は「結城は夢を見せる」と言っていた。
本当に素敵な夢を見せてもらった。
我慢していた奈々子は、顔を覆って泣き出した。
二十四
木製の引き戸を開くと、ゆったりとした音楽が流れる。カウンターの奥にはたくさんのリキュールが並び、すっきりとした面立ちの四十代女性がカクテルを作っていた。
その女性は引き戸が開く音で顔をあげ、拓海の顔を見る。それから「久しぶり」と笑顔を見せた。
二十畳ほどのフロアに、背の高いテーブルが三つほど。壁際にはカーテンで仕切られたソファ席がある。深夜にも関わらず、店内は混んでいた。客層は二十代から四十代までぐらい。店内が暗いせいか、皆顔を寄せ合って話している。
拓海はカウンターに行くと「久しぶり」と言った。
「いつぶり?」バーテンダーはグラスに氷を入れながら訊ねた。
「半年ぐらい来てない」
「どうしたの?」髪をきゅっと結び、つるりとした額が印象的な女性だ。
「就職したから」
「そうなの? 拓海くん何も言わないから知らなかった。何飲む?」
「強いのがいい」拓海がそう言うと、バーテンダーはにこっと笑い「OK」と言って作り出した。
「霞さんが寂しがってたよ。今日も来てる。ほら、あそこ」と、右奥のソファー席を指差した。
「そう?」拓海は出されたグラスに口をつけた。確かにアルコールは強い。でも拓海の好みの味だ。
拓海はグラスを手にすると、ソファ席へと近づく。座席を覗き込むように、身体をかがめた。
「ここ、いい?」
「拓海くんだ。久しぶり」霞は拓海の顔を見ると、笑顔を見せた。
二人がけのソファーが二つコーナーになるように置かれている。もう一つのソファにも女性が一人座っていたが、霞が「いい?」と言うと、ショートヘアのその女性は頷いて席を立った。
拓海は革張りのソファーに腰掛ける。
「もうここには来ないのかと思ってた」霞は足を組み替えながら言う。
「来ないつもりだったけど、気が変わったんだ」拓海はグラスに口を付けてそう答えた。
霞はおそらく拓海より少し年上だ。長い黒髪。きれいな顔立ち。丈の長いクリーム色のサマーニットの下に、黒のタイトスカートを履いている。パンプスは赤。
「拓海くんが来ないから、浮気しちゃった」霞が笑う。
「今の人?」拓海は席を立った女性をちらりと見る。
「そう」
「邪魔しちゃった。ごめん」
「いいのいいの。拓海くんは私の特別なんだから」霞はそう言うと身体をのばして拓海の髪を触る。
拓海は再びアルコールを口に含む。ほんのりと甘い中に、舌をじわりと苦みが刺激する。身体中を駆け巡る血液の音が、耳の中に響き始めた。
現実から乖離していく。
霞は自分の髪をかきあげ、拓海の隣に移動した。太ももが、拓海の手に触れる。
「もう十二時。何しに来たの?」霞がささやく。
「眠れなくて」
「私も。一人で寝るとシーツが冷たい」
「彼女を一人にしていいの?」拓海は訊ねた。
「今夜はね。あの子もきっと誰かを探す。みんな一人じゃ眠れないから」
「行こう」拓海は霞の手を引き、店を出た。
空を見上げた。濃紺の空に、ぽつっと星が出ていた。都会の真ん中、コンクリートに埋め尽くされたこの場所でも、秋の虫が泣いているのが聞こえた。
霞と並ぶと、彼女の方が少し背が高い。二人の手は冷えきっている。ニットの編み目から彼女の腕が透けて見えた。視線に気づいて霞が拓海を見る。笑った。
人はなぜ自分を蔑むとき、救いようのない、くだらなくて、愚かなことをしたがるのか。
拓海がしようとしていることは、何の解決にもならない。ゆきを傷つけ、そして自分を傷つける。
「どうして今夜は、そんな気分になったの?」霞が訊ねる。
彼女のヒールの音が、夜道に響く。住宅街を抜けて、川沿いの遊歩道に出た。目を上げると、ホテルのネオンが見える。
「言わなきゃ駄目?」拓海が言うと、霞は「言う必要ないわ」と答えた。
日曜の夜。ホテルの部屋は空いている。安っぽい壁紙とプラスティックの花が飾られるロビー。拓海は無言で部屋のボタンを押すと、小さな窓から手が出て、鍵を渡された。
三階で降り、薄暗い廊下を歩く。緋色の絨毯は埃っぽい。非常口の電光表示が、拓海のむなしさを煽った。
廊下中央の部屋に入ると、ぱっとフットライトがつく。アルコール消毒された匂いがした。
拓海は鍵を玄関に放り投げると、霞を乱暴に壁に押し付けた。彼女の首に唇を這わせ、ニットの下に手を入れる。
「今日は性急」霞が息を切らせながら言う。
「嫌い?」
「こういうのも好き」
霞のニットを脱がせ、黒のキャミソールをたくし上げる。霞も拓海のパーカーのチャックを下ろし、Tシャツの上から胸に手をあてた。
「キスして」霞がねだる。拓海は言われるがままに霞にキスをした。
二人はそのままキスしながら、ベッドに移動する。そして倒れ込んだ。
わずかな明かりの中で、霞のキャミソールを脱がせ、下着の肩ひもを肩から下ろす。拓海はTシャツを脱ぎ捨て、再びキスしながら彼女の足をなぞり、赤いヒールを脱がせた。
抱く前からもうすでに、虚無感に襲われている。ゆきとの幸せに満ちた時間が頭をよぎった。
指が拓海の身体に触れるたび、電気が流れるみたいに痺れる。
吐息が、声が、拓海の耳から内側へと沁みていく。
中は暖かくて、とけあって、本当に一つになるようで。
そしていつも、彼女は拓海の頬を両手ではさみ、愛しそうに見上げるんだ。
拓海の手が止まった。
霞が拓海を見上げる。彼女の唇からは口紅が落ちていた。
拓海は親指で自分の唇を拭き取ると、霞から離れ、仰向けに倒れた。
「どうしたの?」霞が身体を起こし、拓海の顔を覗き込む。
拓海は目を閉じて「あと三杯ぐらい、飲めばよかった」と答える。「酔いが冷めちゃった」
「そういう時は、どんなに飲んでも酔えないものよ」霞が笑って言った。
「ごめん」
「どうしたの?」
拓海は無言で天井を見上げる。
「拓海くんにも、大切な人ができちゃったのかな」霞は残念そうにつぶやいた。下着の肩ひもを直す。
「ごめん、本当に」
「いいの。拓海くんは私の特別だから。大切な人がいるなら、こんなところにいちゃ駄目じゃない」
「どうしていいかわかんないんだ」
「無条件で側にいてくれるなんてこと、奇跡に近いんだよ」
「……」
「毎晩ベッドが暖かいって、なんて幸せなんだろう」霞はそう言うと手で髪を整えた。
「幸せって、中毒性があるんだ。いつでも、何度でも欲しいって思う」
「だからみんな幸せになりたい」霞はヒールを拾い上げ、足に履く。「拓海くんはここから抜け出そうとしてる。さよならだ」
「霞さん」拓海は身体を起こして、彼女の顔を見た。
「バイバイ」霞は一度も振り向かず、部屋から出て行った。
拓海は広いベッドの上で、一人ぼんやりと天井を見上げる。ベッドサイドのオレンジ色の光が、天井にきれいな輪を作っている。
「俺、何やってるんだろう」拓海はつぶやいた。
明日には否応なしにゆきと会う。何事もなかったように仕事をする。彼女のお腹に子供がいるとしりつつ、知らない振りを装うのか。
「俺って本当にどうしようもない」拓海は目を閉じた。空調と冷蔵庫の音。
手を伸ばしても、そこにゆきはいない。冷たいシーツが手のひらに触るだけだ。
鈴音が「また会える」と言ったのは、自分の思い込みだったら。
そうであれば、ゆきと幸せになることを躊躇なんかしないのに。
誰かはっきりとした答えを教えてほしい。
拓海は深く溜息をつき、それからけだるい身体を起こす。
一人はとても寒かった。
ベッドの中で、だんだんと夜が明けて行くのを眺める。
深夜に帰宅すると、リビングは真っ暗だった。結城の部屋も暗い。帰っているのかどうかわからなかったが、ドアをノックする勇気はなかった。
拓海はそのまま部屋にはいり、朝を迎えた。
五時をすぎた頃、拓海は部屋を出て、シャワーを浴びる。仕事に行かなくてはならない。
ゆきと顔を合わせる。どんな顔をしていいのか。
濡れた身体でリビングに出ると、結城が自分の部屋から出てくるところだった。
結城が顔をあげる。
拓海は「おはよう」と声をかけた。
「おはよう」結城が着ている服は昨日と同じままだ。
「シャワー使う?」
「うん」結城は頷いた。
謝るべきか、それとも何事もなかったように振る舞うべきか。
拓海が躊躇していると、結城が「悪かったな」と言った。
「俺も……悪かった」拓海もつられてそう言った。「奈々子さんと話せた?」
「うん」
「なんて?」
「何にも」
「そうか……」拓海は結城のうつむきがちな顔を見る。一晩の間に頬がこけてしまい、ぐったりしている様子だ。
「なんか食べる?」
「いや、いい」結城はそう言うと、洗面所に入って行った。
一緒に暮らし出してから、何度も気まずい場面はあった。そもそも最初から、二人の間には他人には分からない緊張がある。それは静かに、けれど必ず、二人の間にはあるのだ。壁を上塗りするように、これまで表面上の修復はしてきたが、ちょっとしたことでひび割れる。
今回のひび割れは、第三者が介入してきたからか大きい。表面だけでも修復できるかどうか、拓巳には自信がなかった。
拓海はのろのろと出かける支度をする。お腹に何かを入れた方がいいのはわかったが、昨夜のお酒が残っているからか、それとも自己嫌悪のせいなのか、むかむかしてとても食べる気になれなかった。
六時すぎ。鞄を肩にかけ、自分の部屋を出る。リビングを横切ると、ドアの隙間から自分の部屋でワイシャツに袖を通す結城が見えた。
拓海は目をそらし、声をかけずに家を出た。
朝の空気は都会でも澄んでいるように感じる。濁っているのは自分だけだ。
太陽の光が徐々に空気を暖めて行く。道路を走る車は少ない。
鞄の中にはまだ妊娠検査薬が入っている。捨てるに捨てられない。全てを保留にしている感じだ。
幼稚園につくと、まだゆきはついていなかった。ひまわり組に入り、ガラス戸を開ける。いつも通りスモッグに着替え、子供達を迎える準備をした。
今日の天気は晴れ。雲は多め。
「拓海先生おはよう」飯田先生がひまわり組に入って来た。
「おはようございます」拓海はぞうきんを絞りながらこたえる。
「拓海先生、今日、ゆき先生お休みなの。一人で対応できるかな?」
拓海はびっくりして「どうしたんですか?」と大きな声をあげてしまった。
「具合が悪いらしいわよ。今日病院に行くって言ってた」
「病院に?」拓海の心拍があがる。
「明日は行きますって言ってたけどね。無理はしないでって言っておいた。もし今日大変なようなら、園長先生がサポートに入ってくださるって言ってるけど、どう?」
「大丈夫です」拓海はなんとかそう答えた。
「じゃあ、今日もよろしくお願いします」飯田先生はそう言うと「ちょっと打ち合わせがあるの。ここ任せてもいい?」と言って、ひまわり組を後にする。
拓海は「はい」と頷くと、時計を見る。子供が登園するまであと五分弱。
焦る気持ちを抑えて、鞄から携帯を取り出す。
病院に行くって、まさか今日、子供を堕ろすつもりなんだろうか。
拓海は気がせいて、うまく携帯を操作できない。呼び出し音が耳の中に響く。
早く出て。
「もしもし」ゆきの声が聞こえた。
「ゆき先生? 早まらないで」拓海は言う。
「……」ゆきは答えない。
拓海は思わず声が大きくなる。「行かないで、病院。何か決めるのは、俺と話してから」
「……はい」ゆきは小さな声でそう言った。拓海は胸をなでおろす。
「帰りに家に寄るから」拓海はそう言うと、電話を切った。
小さく息をはいて、気持ちを落ちつける。携帯を持つ手に汗をかいている。スモッグの裾で手を拭い、顔を覆った。
思わず止めてしまったけれど、ゆきと何をどう話したらいいんだろう。
子供を殺してほしくない。でも自分は暮らしを変える勇気がない。
そう言うのか?
なんてひどい言い分なんだ。
拓海は深く溜息をつく。園庭からバスが到着する音が聞こえた。
憂鬱でも、一日が始まる。
あまりの忙しさに、何かを考える余裕などなく、一日を終えることができた。けれどスモッグを脱いで一息つくと、とたんに頭はゆきとお腹の子供のことに支配される。
飯田先生に「おつかれさまでした」と声をかけ、正面玄関を出る。
空を見上げた。日はだんだんと短くなる。夕方の六時半。すでに暗くなり始めていた。
拓海はゆきのアパートの方向へ歩き出す。スニーカーがコンクリートを踏みしめる。夜が近づくにつれ肌寒くなってくる。拓海は薄手のパーカーを鞄から出すと羽織った。
まだ決められない。どうしたらいいかわからない。
逃げ出すこともできる。何もなかったように、ゆきを、子供を無視して生きていく。
でもそんなひどいこと、自分にできるだろうか。
ゆっくりと歩いたにも関わらず、もうゆきのアパートは目の前だ。
街灯がぱっとつく。見上げるとぽつぽつと小さな星が見えた。
外階段を上り、ゆきの部屋の前にたどり着いた。
拓海はずっと握りしめていた手を開き、インターホンを押す。中でチャイムの音がする。
そしてゆきが扉を開けた。
ゆきは七部丈のグレーのルームウェアワンピースを着ている。髪は柔らかく肩にかかり、ノーメークだ。蛍光灯のせいで、ゆきの肌はより一層白く見えた。
「遅くなってごめん」拓海はそう言うと玄関に入った。
「大丈夫です」ゆきはそう言うと微笑む。
部屋にあがると、拓海は立ち尽くした。
「座ってください」ゆきはそういうと、ベッドの前にクッションを置く。拓海は言われるがままに、そこに座った。
「今日はお休みしてしまって、すみませんでした」ゆきは拓海のすぐ隣に座り、頭をさげた。
「それは気にしなくていいんだ」拓海はそう言うと、ゆきに顔をむける。意識的にゆきのお腹をみないようにした。「病院には行かなかったよね」
「はい」ゆきは頷く。
拓海は両手を組んで、うつむいた。ゆきの視線を頬のあたりに感じる。何か言わなくてはいけない。でも何と言っていいか全くわからない。
「拓海先生……」ゆきが何かをいいかけるが、再び黙り込んだ。
「この間は何も言わずに出て行って悪かった」
「いえ……バスルームのゴミ箱が床に倒れていたから、見ちゃったんだなって分かりました」
「いつ分かったの?」
「先週の金曜日です。なんだか体調がおかしかったし、生理もこなかったので、もしかしたらって思って」ゆきは穏やかな笑みを浮かべる。拓海はなぜゆきがそんな表情をしているのか理解できなかった。
「どうしたい?」拓海は訊ねた。
「どうしたいか……」ゆきはそうつぶやくと、そっと手のひらで自分のお腹を触った。
拓海の胸は不安で締め付けられる。恐怖さえ感じている。組んでいた両手に力が入る。
「先生のことを男の人だって思ったこと、正直あんまりありませんでした。だから先生が酔っぱらったときも、あんなことになるなんて少しも想像してなかった。まるで女の子の友達を泊まらせるような、そんな気軽な気持ちでした」拓海の目を見る。
「先生を支えて玄関に入って、ベッドに寝かせました。ベッドに仰向けで倒れている先生は、まるで子供みたいな寝顔で。あんまり可愛いから思わず見入っちゃいました。本当に二十七歳なのかなって、そんな感じで」ゆきは笑う。
「ぼんやり先生の顔を見てたら、先生が目を開けたんです。それから『お水が欲しい』って言いました。わたしは先生にコップを渡して、ベッドの先生の足下のところに腰を下ろしました。先生は身体を起こすとお水を飲んで、それから……それからわたしのちょうど心臓のあたりを見て、言ったんです」ゆきはそう言うと再び優しく微笑んだ。
「『ゆき先生の光は、なんてきれいなんだ』って」
拓海は思わず「え?」と声を出した。
「『先生の光はあったかい色だ。本当にきれいだ』先生はそう言って、わたしの目を見つめて微笑んだんです。その先生の表情が……まるで……愛していると言っているような、そんな目をしていて」
拓海はびっくりして言葉がでない。ゆきは話し続ける。
「その瞬間から、先生はわたしの特別な人になりました」ゆきは静かに拓海をみつめた。
「子供ができたって分かったときうれしかった。子供を堕ろすことなんて、少しも考えなかった。今日だって、子供を堕ろしに病院に行こうと思ったんじゃない。検査薬じゃなくてちゃんとした診断がほしかったんです」
「わかってます。先生の中には他の人がいる」ゆきは目を伏せた。
「でも、わたし……先生のこと大好きだから……」ゆきはそう言うと、指で目をこする。目が赤い。
「先生のことが大好きだから……わたしが産んで、育てます」ゆきは笑顔を見せた。
光が見えたからといって、これが鈴音のメッセージだとは限らない。
それは単なる思い込みだと分かってる。
だけど……。
「実家の両親は子供が好きだし、下から二番目の弟が高校を卒業するので、部屋がひとつ空くんです。わたしも一度そちらに帰って、出直そうと思います。せっかく慣れて来た幼稚園を離れるのは心苦しいし、みなさんには迷惑をかけてしまうけれど。でも、せっかくわたしのところに来てくれた赤ちゃんですから」ゆきは微笑んでいる。
「わたしは大丈夫です。意外と底力があるんですよ。強いんです」ゆきが細い腕に力こぶしをつくってみせた。
拓海はゆきを愛している。運命の人かどうかは分からないけれど、今拓海の心にはゆきへの愛が溢れている。それは暖かな水のようで、ゆりかごに揺られるように、公園のブランコに揺られるように、柔らかく波打ちながら、拓海を満たしている。
鈴音が「これでいいのよ」と言っている気がした。
「心の赴くまま、愛して、生きていくの」
この世に生きる全ての人々は、誰と出会い、誰と別れるのか、そして再び出会うのか、知らないで生きている。運命の人、とよく言うけれど、その人が運命の人かどうかなんて、分かる訳がないんだ。
それでも巡り会う。これが運命だと感じる出会いがある。
そして拓海は今、この目の前の女性と共にいることが、運命だと感じているんだ。
拓海はゆきを引き寄せて、抱きしめた。彼女の髪が頬にさわる。目を閉じて彼女の鼓動を感じる。
「愛してるよ」拓海はゆきにそう伝える。
「先生?」ゆきは戸惑って、拓海の顔を見上げた。
「君を愛してるんだ」
「でも……」ゆきは目を見開き、拓海を見つめた。
「いつか、死んでしまったあの人は、僕に会いにくるかもしれない。でも、それが僕にはわからないし、それでいいんだ。それは、あるとき道ですれ違う人かもしれないし、コーヒーを注文する店員かもしれない。いつか、巡り会うと信じていれさえすれば、それでいい」
「救われるんだ」
「でも、今の僕の命を生きるなら、君と一緒に生きたい。そしていつか再び、お互いに年を取り、死に別れるときがきたら、君と再び巡り会う約束をする」
「それが愛するということだと、わかったんだ」
ゆきの頬に涙がつたう。拓海は手のひらでゆきの頬の涙を拭った。
拓海はゆきを優しく抱きしめる。
目を閉じると、道が明るく照らされているのが見えた。
二十五
新幹線が静かに動き出す。
奈々子はシートにもたれかかり、ぼんやりと窓の外を見ていた。
秋晴れの空。雲は少ない。日差しのあたる窓はほのかに暖かい。奈々子は指で窓を触り、それからため息をついた。
火曜日、結城はいつもの通りに診療所に来た。結城の横顔は少し緊張していた。奈々子は泣きはらした目をみられぬよう、始終うつむいていた。
案の定珠美が「どうしたの?」と訊ねて来たが、奈々子は「なんでもない」と知らぬふりを決めた。
絶対に誰にも話せない内容だから。
土曜日の診療をお休みさせてもらった。珠美は「いいよ。借りがあるし」と快く了承してくれた。かず子先生も、特に何も聞かず「いいわよ」と言ってくれた。こういう時、まるで家族のような職場の人たちを、ありがたいと思う。
新幹線はビルの間を抜けて行く。徐々にスピードを上げる。
ついこの間、結城とこの列車に乗った。シートに隠れて、結城は奈々子にキスをした。
全部夢のようだった。
そして本当に夢だった。
一泊二日で実家に帰る。短い滞在だけれど、自分には必要な気がした。母の手料理が恋しかった。弟の減らず口を聞きたかった。そして父の側で、その暖かさを感じたい、そう思った。
「僕はもう一生、他の女性と関係を持ったりしない。そんな必要ない。約束できる」
愛してもいない女性と一生過ごすという約束をするほど、結城は拓海を愛している。
今奈々子が結城と離れてしまったら、拓海は結城の元を去ることができなくなるから。
奈々子が必要なのだ。
窓の外には住宅街と、緑の木々。郊外に行くほど田畑が増えて行く。
奈々子は鞄から携帯を取り出した。結城から連絡はない。奈々子からの返事を待っているのだろう。
もし奈々子が何も聞かなかったことにすれば、結城は奈々子に夢を見せ続けるに違いない。
それは甘くて、優しくて、幸せだけど。
「本当は誰を愛してるの?」と聞いてはいけない。
そんな夢。
高崎駅で新幹線を降り、私鉄に乗り換える。
気温が明らかに変わった。夏はとにかく暑いけれど、冬が近づいてくると一気に寒くなる。
昔ながらの列車のソファに座りながら、奈々子は鞄からカーディガンを取り出して着た。
学生達が列車に乗り込んでくる。東京の学生とはやはり雰囲気が違う。おしゃれではないし、メークもしていない。
奈々子もあんな感じの学生だったな、と思い出す。校則通りのスタイルで、毎日列車に乗って学校に通っていた。その頃はニキビに悩まされていて、随分とつらい思いをしていた。
クラスに好きな男の子がいた。奈々子の隣に座っていて、成績が優秀な子だった。細縁の眼鏡をかけていて、面長のすっきりした顔立ちの子だった。
奈々子が教科書を忘れてしまったとき、その子が机を近づけて教科書を見せてくれた。たくさん勉強をしている、アンダーラインや書き込みがたくさんしてある教科書。
「ありがとう」奈々子がそう言うと、その子はぶっきらぼうに「うん」とだけ答えた。
その一度だけの親切で、奈々子はその子のことが気になって仕方なくなった。席替えをしても、クラスが変わっても、高校生活の三年間その子のことが好きだった。
高校三年の冬、その子が東京の大学に合格したという話を、友達から伝え聞いた。遠距離恋愛になるから、彼女がついていくかどうか迷ってると、友達が言っていた。そのときはじめて、その子に彼女がいることを知った。
そのときの胸の苦しさを思い出す。夜、布団の中で涙を流した。まともに話したこともない、向こうは自分のことを覚えているかもわからない、その相手のために目を腫らした。
恋とは不思議だ。
あんなに苦しいと思っていたのに、今は懐かしい気持ちに満たされる。
この胸の中にある苦しさも、いつか懐かしいと思えるときが来るのだろうか。
結城はずっと拓海を愛してきた。
罪の意識を感じながら、それでも逃げずに拓海と向き合ってきた。
その年月を想像する。
「愛しているんですね」と聞かれ、頷いた結城の顔。
「苦しいだろうな」奈々子は小さくつぶやいた。
結城のことを分かり始めたと思っていたが、実は何も分かっていなかったのだと思い知らされる。
列車の規則的な揺れ。奈々子は目を閉じる。
愛するとは、どういうことだろう。
結城は拓海のために、自分の人生を奈々子に渡そうとしている。
奈々子は結城を愛しているだろうか。奈々子は自分に問いかける。
しばらく考えて、奈々子は首を振る。
違う。奈々子のために演じていた結城に、恋をしたというだけ。
本当の結城ではなく、作り物の結城だ。夢を見せてくれる人。
列車は静かに終着駅に到着する。奈々子は鞄を持ち、ホームに降り立った。
切符を駅員に渡し、道路を歩き出した。
結城と二人で歩いたときには、お店から人が出て来たが、奈々子一人では誰も気にしない。
結城はなんでこんなところまでついて来たのだろう。実家に一緒に帰省する必要はなかったはずだ。駅前の定食屋を通り過ぎる。「営業中」の札が下がっていた。
「まだやってるんだ」奈々子はつぶやいた。
玄関の引き戸をあけると「ただいま」と声をかけた。
「あれ!?」台所からエプロンで手を拭きながら母親が出て来た。「どうしたの?! あんた」
「別に。暇だから一泊二日で帰って来た」
「そう……。あらやだ、帰るなら言ってよ。夕飯、わたしだけだから軽くしようと思って、何にも買ってないわ」
「お父さんと聡は?」奈々子はリビングに上がり、座卓の脇に鞄を置く。そろそろ西日がリビングに差し込んでくる。畳の上は思いの他冷たかった。
「父さんは出張で東京。奈々子と入れ替わりね。聡は好美ちゃんのうちでごはんたべてくるって」
「そうか……」奈々子は廊下沿いの洗面所で手を洗い、台所に入って行った。
「ねえ、奈々子。夕飯何食べたい?」冷蔵庫をのぞきながら母親が訊ねる。そろそろ寒いのに、母親は半袖一枚だ。
「いいよ。作らなくて。お母さんが食べようと思ってたものを分けてもらう」
「わたしが食べようとしてたものなんて、残り物よ。なんか作るから。お魚食べる? 煮物は今から火にかけても味がしみないわね。明日食べられるようにしとこうか」
「手伝う」奈々子は言ったが「いいから。いつも働いてるんだから、ここではゆっくりしないさい」と言って、リビングに追い返された。
奈々子は座卓に頬をつき、テレビをぼんやり見始めた。
ついこの間はここに結城がいた。本当にそんなことがあっただろうか。なんだかわからなくなってきた。
台所から煮物の甘い匂いが漂ってきた。奈々子は目をつむる。子供の頃に戻ったような気分だった。専業主婦の母親は、家に帰ると必ずいた。台所で夕飯の支度をして、座卓で宿題に付き合う。
母親はひとときも休まない。テレビを見ている時間でさえ、何かしている。洗濯物をたたんだり、保存食を仕分けしたり、家計簿をつけたり。
「奈々子、ごはん」そう声をかけられて、奈々子は目をあけた。
「寝てた? ごめんね、起こしちゃった」母親はリビングの電気をつける。蛍光灯の白い光がまたたいた。奈々子は目をこする。
「寒い」奈々子は腕をさすった。
「タンスに高校の頃の羽織るやつあるわよ。着る?」
「うん」奈々子は頷くと立ち上がった。
階段を上がり、自分の部屋に入る。押し入れを開けた。中のクリアケースを開けると、懐かしい衣類がたくさん入っていた。
「もう着ないのに、洗濯して、しまってある」奈々子の胸にこみ上げるものがある。目が熱くなりそうだったので、あわてて気持ちを切り替えた。
リビングに降りて行くと、座卓に食事の用意ができていた。
「いっぱい作ったね。いいのに、気を使わなくて」奈々子は座りながら言った。
「何いってるの。たまに帰ってくるんだもの。おいしいものを食べさせたいって、親なら誰でも思う物なの。わたしの夕飯も豪華になっちゃった」母親は手を合わせながらそう言った。
「いただきます」奈々子は箸を手にとった。
「おいしいね、コレ」奈々子が言うと、母親はうれしそうに「ありがとう」と言った。
最初はたわいもない話をしていたが、そのうち母親が思い切ったように訊ねた。
「何かあったの?」
「何にもないよ」奈々子は母親から視線をそらして、そう答えた。
「須賀さん元気?」母親はお椀を手にもちながら訊ねる。
「元気だと思うよ」奈々子が答える。
「会ってないの?」
「友達だってだけだから、そうしょっちゅう会わないの」
「ふうん」
「寒くなったね」奈々子は話題を変えた。
「そうね。朝と夜は冷えるわね。今年は冬が厳しいらしいわ」
「なんか、どんな冬だったか忘れちゃった。東京ってあったかいんだ」
「東京って不思議なところね」母親がわらった。
食事が終わり、食器を片付け始める。
「お茶飲む?」
「うん」奈々子はお盆を持って、台所へと入って行く。
「あ、そうだ。梨いただいたんだった。むこうか」
「お腹いっぱい。あとで食べる」奈々子は答えた。
奈々子は桶にお湯を入れて、食器を洗い出した。
「母さんがやるわよ」
「いいの。食べただけで、何にもしてないから。お母さん座ってて」
「じゃあ、食器を拭こうかしら」母親が隣にきた。
シンク正面の小窓から、虫の声が聞こえる。明かりによってきた虫が、網戸にくっついていた。
「もう少し煮物に火をいれようかしらね」母親がコンロに火をつける。換気扇の紐を引っ張ると、ブウンという音がし始めた。
「聡はいつ結婚するって?」
「来年の秋って言ってたわよ」
「まだ一年もあるの?」
「お金を二人でためるんですって。最近の子は計画的ね」
「ここに住む?」
「同居なんてしないわよ」母親はキッチンを片付けながら笑った。
「じゃあ、聡が出て行くの?」
「そうよ。なんか駅の近くにアパート借りるって言ってた」
「寂しくなるね」
「でも近くに住んでるから。ちょうどいい距離」母親が言った。
「わたしがこっちに帰ってくるって言ったら、どうする? うれしい?」奈々子はスポンジでお皿をこすりながら訊ねた。
「帰ってくるの? 就職口なんかないわよ」母親がびっくりした声をだした。
「車で一時間ぐらいの通勤時間なら、なんとかなるし。それともお見合いして、結婚するとか」
「……須賀さんに失恋したの?」母親が訊ねる。
「ちがう」奈々子は首を振った。
「だって突然そんなこと。失恋ぐらいしか考えられないわよ」母親は言った。
「なんで須賀さん?」奈々子は意地を張った。
「だって、母さん、男の人須賀さんしか知らないもん」
「……」奈々子は最後のお皿の水を切って、手を拭いた。
リビングに入って、座卓の前に再び腰を下ろした。母親がポットと湯のみを持って入ってくる。
「奈々子、そっちのお茶葉とって」
「うん」奈々子は自分の脇に置いてあった茶筒を母親に手渡した。
お茶の葉の香りが、ゆっくりと部屋に広がる。考えてみればこうやってお茶を入れて飲むのも久しぶりだ。いつもペットボトルばかりで、味気ない。
目の前に出された湯のみを両手でつつむ。暖かくて、ほっとした。
「ねえ、お母さん、お父さんのこと愛してる?」
「……なによ、突然」母親が目を丸くする。
「愛してるから結婚したんだよね」
「愛というか、タイミングじゃない? 適齢期にお父さんと出会って、結婚しようか、働かなくてもいいよって言ってくれたから、まあ、いっかって結婚したの」
「なにそれ」奈々子は思わず笑ってしまった。「お父さん、かわいそう」
母親が一口お茶を飲む。「かわいそうじゃないわよ。向こうもそんな感じじゃない?」
「じゃあ、愛してないの?」
「う……ん」母親が首を傾げる。「愛って人それぞれだからね。出会って恋をして燃え上がって、この人を愛してるわって結婚したけど、離婚しちゃう人もいっぱいいるし。みんな一概に『愛してる』っていうけど、その感情は人それぞれで、誰かに説明できるものじゃあないと思うのよね」
「なんか深いな」奈々子はまじまじと母親の顔を見つめる。
「子供が産まれたときは、あんたたちを『愛してる』って思ったわよ。それはもうお父さんには感じたことのない感情。この子達のために命を出せって言われたら、躊躇なんかせずすぐに『どうぞ』って出せる。まあ、大人になった今は『自分でなんとかしなさい』って思うけど」母が笑った。
「お父さんのためには死ねないの?」
「死ねない死ねない」母が大げさに声を出す。
「むしろ、お父さんよりも一日でも長く生きたいわ。お父さん、一人じゃ何にもできないでしょう。一人で慣れない買い物をして、炊事して、洗濯して、だなんてなんか忍びないわ。面倒を見させられる好美ちゃんや、あんたもわいそうだし。お父さんはわたしにしか威張れないの。あんたたちに遠慮して生きるのも、なんだかかわいそうでね」母が微笑む。
「それを愛っていうのかな」奈々子はほおづえをつく。
「これを愛という人もいるかもね」母親が言った。
「ふうん」奈々子は再びお茶を飲んだ。
母親とこんな話しをしたことはなかった。奈々子が大人になったということなんだろうか。
「須賀さんのこと、忘れようとしてるの?」母親はなんでもないことのように訊ねる。
「迷ってるかな」
「どういうこと?」
「いろいろ複雑なの」
「いいわね、若いって」母親が背後の茶箪笥からチョコレートの大袋を取り出した。
「須賀さん、いい人だっておもったけどね。あんたのことも好きなんだと思った」
「……」
「言われたでしょう?」
「……うん」
「ほら、やっぱり。そうじゃないかと思ったの。誰が好き好んで、こんな田舎まで来ると思う? チョコ食べる?」母親がナッツのチョコの包みを差し出す。
「いらない」奈々子は首を振った。
「あんたも好きなら、なんの問題もないじゃない」
「……」
「あ、煮物の火つけっぱなしだった」母親は一つチョコを口に入れると、立ち上がり台所へと入って行く。
お母さん、あの人、他に愛してる人がいるんだ。
わたしのことは条件で選んだだけ。
奈々子は心のなかでつぶやいた。
ふと携帯のバイブが小さく鳴っているのに気づく。身体をのばし鞄を引き寄せる。中から携帯を取り出した。
知らない番号。誰だろう。
奈々子は少し躊躇したが、思い切って応答ボタンを押し、電話に出た。
「もしもし」
「もしもし? 奈々子さん?」拓海の声が聞こえた。
奈々子は驚いて息をのむ。
「もしもし?」電話の向こうで拓海が言う「奈々子さんの携帯でいいんだよね」
「……はい」奈々子は答えた。
「よかった。間違ったかと思った」
「すみません」
「いや、謝らないで。あの……この間は気まずい思いをさせてしまって申し訳なかったと思ってるんだ。できれば会って話をしたいんだけど、今夜の予定はどうかな」
「今、実家に帰って来てるんです。今日はお仕事をお休みさせてもらったんで」
「そうか……だからか」
「何がですか?」
「結城が帰って来てからずっと落ち着かない様子なんだ」
「……」
「仕事を辞めたんじゃないよね?」
「違います」
「東京にはいつ帰る?」
「明日には帰ります」
「じゃあ、月曜日のお昼、出られるかな。奈々子さんの病院の近くに行くから」
「あの、お仕事はいいんですか?」
「都民の日だから、幼稚園は休みなんだ」
「都民の日?」
「一般の会社に勤めてる人には関係ない話しだよ。学校や幼稚園は休みになるんだ」
「そうですか」
「で、お昼大丈夫?」
「……大丈夫です。お昼休みは一時半ぐらいからなんです。患者さんの多さによって前後するんですが」
「わかった。この番号が俺の携帯だから、仕事が終わったら電話してくれる?」
「はい」
「突然の電話でごめんね。それじゃあ、また」拓海はそう言うと電話を切った。
「誰? 須賀さん?」母親がエプロンで手を拭きながら台所から戻って来た。
「違うよ」奈々子は携帯を鞄にしまう。
「もうこんな時間。奈々子、お風呂はいっちゃいなさい」母親はもう一度チョコレートを口にいれると、空になった湯のみを片付ける。
奈々子は「うん」と頷くと席を立つ。何を話すんだろう。奈々子には想像がつかなかった。
「奈々子さん、ここ」拓海が奥の席から手をあげる。
奈々子は軽くお辞儀をして、拓海の向かいに座った。
職場の近くのカフェ。二人がけのテーブルが二つだけ。主なお客は、テイクアウトでコーヒーを買って行く。
「遅くなりました」
「大丈夫」拓海がにっこりと笑う。本当に優しい笑顔だ。
店員が来て「おうかがいします」と声をかけた。
「ブレンドを一つお願いします」奈々子はそう言った。拓海はすでにアイスコーヒーをオーダーしている。
狭い店内。コーヒーの香りが漂う。コーヒー豆の量り売りもしていて、ショーケースはブラウンに染まっていた。エントランスは解放されていて、秋の優しい風が店内にも入り込んでくる。
ふと横を見る二人乗りの自転車。母親が小さな子供を、後ろの座席に乗せている。確かに世の中の学校はお休みらしい。
「お待たせしました」店員がコーヒーを奈々子の前に置く。レシートを裏返してテーブルに置いて行った。
奈々子はお砂糖を入れて、一口飲む。それを合図に、拓海はしゃべりだした。
「この間は本当にごめんなさい」拓海が頭を下げる。
「いえ」奈々子は首をふった。
「俺はたまに周りが見えなくなることがあるんだ……結城は何を話したかな」
白いTシャツにグレーのカーディガンを羽織った拓海は、気まずそうにそう訊ねた。
「たぶん、全部」奈々子は答える。
「そうか……」拓海はストローに口をつける「楽しい話じゃないのに、巻き込んでごめんね」
「いえ」奈々子は再び首を振った。
「結城は奈々子さんからの連絡をずっと待ってるみたいだよ。携帯を手放すのはシャワーを浴びるときぐらい。悪いなと思ったけど、あいつがバスルームにいる間に、携帯から奈々子さんの番号を調べたんだ。どうしても話しておかなくちゃと思って」
「……」
「あの日、結局結城は俺に何がおきたのか、最後まで訊ねなかった。俺を気遣うのを忘れてしまうくらい、奈々子さんに知られたことがショックだったみたいで」
「拓海さんは大丈夫なんですか?」
「俺は大丈夫。全部大丈夫になったんだ」拓海が笑顔を見せる。心なしか、以前よりも男性的な雰囲気がある。気のせいだろうか。
「俺は……俺はずっとあいつを利用してきた。結城の抱える罪悪感につけこんで、自分に縛り付けて来たんだ。あいつが奈々子さんと付き合いだしたとき、すごく不安だった。結城が自分を置いて行くんじゃないか、一人になるんじゃないかって」拓海は微笑む。
「奈々子さんに見せる結城の顔。あんな優しくてあったかい顔、俺は今まで見たことない。かつては確かに、あいつにとって俺の存在は絶対的で、特別だったと思うけれど、時は流れ、人は変わって行くから」
「優先順位が変わったんだって、あの日気づいた」拓海がグラスを持ち上げる。一口飲んだ。
「あいつは今まで俺のために生きてきた。いろんなことを犠牲にしてきた。モデルの仕事も本当は続けたかったはずなんだ。結城は割となんでも器用にできるタイプで、熱心に取り組むなんてことはなかったんだけど、モデルの仕事をし始めてから毎日生き生きしてた。楽しそうにしてたんだ。でも徐々に知名度があがり、マンションにまで女の子達が結城を見に来るようになって。あいつは俺の静かな生活が壊されるのを警戒して、すっぱり仕事を辞めてしまった」
拓海は一息つくと、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「そうですか」奈々子はそう言った。
「奈々子さんは今、迷ってる?」拓海が訊ねた。
「……混乱してて、何をどう考えたらいいのか分からない感じです」
「俺たちは、不思議な関係だ。他人にそれを説明するのは難しい。奈々子さんに理解してほしいと言うのは、傲慢だと思ってる。俺はあいつなしでは文字通り生きていけなかったし、あいつも俺を特別だと言っていた」
「もし須賀さんが女性だったら、違う関係になっていたと思いますか?」奈々子は訊ねる。
拓海は驚いた顔をして、それから「たぶんね」と言った。
「おそらく、問題を抱えながら、一生一緒にいるんじゃないかな」拓海が言う。「でも、俺もあいつも男で、同性愛者じゃないから。あいつがゲイだと思ってるなら、それは間違いだよ。あいつ、女の子大好きだ」拓海が笑った。
「俺もあいつも男で、同性愛者じゃない。仕方がないんだ。そういう巡り合わせ」拓海がグラスを空にする。
「結城は軽く見えるけど、本当は情が深い。あいつは奈々子さんに帰って来てほしいと思ってる。きっと奈々子さんを、それこそ死ぬまで大切にするはずだよ」
「……」奈々子はうつむいた。
「もう少し考えてみて。俺はもうすぐ、結城の側を離れるから、あいつが心配なんだ」
奈々子は顔をあげ、拓海の顔を見た。優しい笑み。
「家をでるんですか?」
「うん。彼女に……子供ができたんだ」拓海は照れたように笑った。
「……おめでとうございます」
「ありがとう」拓海はそう言ってから、席を立った。「大切なお昼の時間をありがとう。そろそろ失礼するね。伝えたいことは言えたと思う。あとは奈々子さんが決めて」拓海は手をあげる。
「じゃあ、また」拓海は笑顔で店を出て行った。
奈々子はコーヒーに口をつけ、拓海が座っていた椅子を見つめる。さわやかな風が奈々子の腕をなでる。
拓海は気づいていない。
すべては拓海のためなんだと。
奈々子と出会い恋に落ちたのは仕組まれたもので、そうやって結城が『見せていた』だけだということを。
奈々子が結城のもとを離れなければ、拓海はためらいなく新しい生活を始められる。
愛する人を亡くし、家族を亡くして、つらい思いをしてきた拓海が、新たに誰かと出会い、愛し合って、家族をつくる。
おそらく結城が最も望んでいたことだ。
それが叶う。奈々子が結城のもとを去らなければ。
奈々子は立ち上がり、鞄を肩にかけた。「ごちそうさまでした」と店員に声をかけて、店の外にでる。
歩道の真ん中で立ち尽くす。秋の暖かな日差しを感じる。奈々子はゆっくりと歩き出した。
小学校の脇を通る。校庭に子供の姿はない。
春になると満開の桜が空を埋める木々の下を歩いた。見上げると緑の葉が生い茂る。紅葉にはまだ早い。
奈々子は立ち止まり、鞄から携帯を取り出した。結城の連絡先を出し、しばらく画面を眺める。
それから一息吸い込むと、覚悟を決めて電話をかけた。
二十六
横を向くと、結城の完璧な横顔が見えた。
視線に気づいて、奈々子に顔を向ける。いつも見ていた、魅力的な笑顔を浮かべた。
薄暗いイタリアンのお店。洞窟を模している壁に、木製のテーブルとチェア。チーズが焼ける香ばしい匂いが充満していた。カウンターの奥には釜があり、ひっきりなしにピザを焼いている。
奈々子たちは壁際に置かれているうちの、一番奥のテーブルに座っていた。
テーブルの上にはワイングラスが三つと、ミネラルウォーターが置かれている。中央の籠にはグリッシーニ。ゆきはうれしそうにそのグリッシーニを手にとった。
「いただきます」そういうと、手で割って食べ始めた。「ごめんなさい、最近、食べるのをやめられなくて」ゆきはにっこりと笑った。
「食べ過ぎないでね」拓海が言うと「うん」とゆきが頷いた。
「高カロリーのものばっかり欲しがるんだ」拓海が困ったように言った。
「お腹の赤ちゃんが欲しがってるんですね」奈々子はそう言って笑みを浮かべた。
「太り過ぎは駄目って、お医者さんに言われたんですけど。食べたくて仕方がないんです。食べてないと胸がムカムカするっていうか」ゆきがぽりぽりとグリッシーニをかじる。
「性別はわかるんですか?」奈々子が訊ねる。
「まだまだみたいです。五ヶ月目ぐらいでやっと分かるって」ゆきが言う。
「どっちがいいです?」
「どっちでも。ウェルカムです」ゆきは答えた。
「いつ籍いれんだ?」黙ってワインを飲んでいた結城がそう訊ねた。
「うん。まだ決めてないけど。近いうちに。まだご両親に挨拶もしてないんだ」
「怒られるだろうな」結城が笑った。
「だよね」拓海が申し訳なさそうな顔をした。「俺、スーツ着た方がいいかな。面接のときに着た、一着しかないけど」
「スーツ似合わないのに」結城が言う。
「そんなことないですよ。拓海先生のスーツ楽しみです」ゆきが言った。
拓海は男性の割に小柄で、子供のような雰囲気があるが、ゆきが隣に並ぶと不思議と男性に見える。ゆきは肩より少し下までのふわふわの髪に、ゆったりとしたクリーム色のワンピースを着ている。かわいらしい顔に仕草。拓海と一緒にいると、本当にお似合いだった。
「幼稚園はなんて?」結城が訊ねる。
「うん。ぎりぎりまで働いて、産休とらせてくれるって」拓海が言った。
「夢みたいです。絶対に辞めなくちゃいけないって思ってたから」ゆきが幸せそうに微笑んだ。
「俺働きだしたばっかりだし、給料もよくないから、申し訳ないけどゆきに働いてもらわないと、子供を食べさせられないんだ」
「申し訳ないだなんて、いいんですよ。わたし、お仕事すきだから」
「お待たせしました」黒いエプロンをした店員が、大皿をテーブルに置く。「四種のチーズのピザでございます」
「わあ」ゆきが歓声をあげた。
「カットしてもよろしいでしょうか」店員がピザカッターを手に訊ねたので「お願いします」と奈々子は答えた。
「ごゆっくりどうぞ」店員が下がると、奈々子は取り皿を配った。
ゆきは早速手を伸ばし、自分の皿に一切れとった。拓海もとる。
「須賀さん、食べます?」奈々子は訊ねると、結城は「うん」と頷いた。
奈々子がお皿にピザをとっていると、ゆきが「名字で呼んでいるんですね」と訊ねた。
「そう。なんかこの呼び方が抜けなくて」奈々子が笑う。
「けっこう新鮮」ゆきがもぐもぐしながら、そう言った。「わたしもなかなか拓海って呼べません。どうしても拓海先生って呼んじゃう」
「それも新鮮ですね」奈々子が笑った。
「おつきあいして、どのくらいなんですか?」ゆきがおしぼりで手を拭きながら訊ねる。
「……どのくらいかな」奈々子は首を傾げた。
「二ヶ月ぐらい」結城が隣で言う。
「わたしたちと、そんなに変わらないんですね。なれそめ聞いてもいいですか」ゆきが目をきらきらさせて言った。
「なんとなくです」結城が照れたように下を向いた。
「あいつは、こういう話題、苦手だと思うよ」拓海がすました顔で言う。
「得意な男って、どんなやつだ?」結城はグラスに口をつける。「お前は得意なの?」
「……」拓海は無言でピザをほおばる。
「ほらな」結城は勝ち誇ったような顔で拓海を見た。
「最初、冗談だと思いませんでした? なんていうか、須賀さんってオーラバンバン出てるじゃないですか」ゆきが無邪気に聞いてくる。「住んでる星が違う感じ」
奈々子はその言い方に思わずくすっと笑ってしまった。「からかわれてると思いました。今もちょっとそんな気がします」
「ひどいな、奈々子さん」
「そうですか?」奈々子はワイングラスに口をつける。
拓海を見ると、目があった。奈々子は拓海を安心させるように微笑んだ。
「拓海さんは何も気づいていません」結城を呼び出した奈々子は、自宅近くの公園のベンチに座り結城にそう言った。
仕事終わりの紺色のスーツ。ネクタイはグレー。街灯が結城の黒髪にあたり、オレンジ色に見えた。空は真っ暗で星の一つも見えない。大道路を車が行き交う音が、かすかに聞こえた。
長袖の上にもう一枚羽織りたいような冷たさ。奈々子は手で腕をさすった。
「この間、わざわざ話をしに来てくれたんです。拓海さん、ご結婚されるんですね」
「うん」結城は膝に手を置き、背もたれに身体を預けている。
「須賀さんのこと、心配していました」
「うん」
「わたしがこのままおつきあいを続ければ、拓海さんは安心して新しい生活にうつれますよね」
「……」
「あんな、自分の人生を渡してしまうような、そんな約束をしなくても、大丈夫です」
結城が奈々子の顔を見る。頬が街灯に光っている。
「拓海さんが家を出られるまで、須賀さんの側にいます」
「奈々子さんは……大丈夫なの?」
「わたしは確かに須賀さんに恋をして、本当に夢みたいで楽しかったけれど、須賀さんが拓海さんを愛するように、須賀さんのことを愛してるかっていうと、違うような気がして」奈々子はうつむいて自分の手を見る。指を組み合わせる。
「これまでもたくさん失恋してきたし、時間が経てばいい思い出になります。せっかく拓海さんが幸せになろうとしてるのだから、わたしがお手伝いできるならしたいんです」
「……」
「今まで通り、休日には一緒に出歩いたり、ごはんを食べたりしましょう。拓海さんはそれを見て、きっと安心します」
結城の顔は何かを言いたげだったが、奈々子の顔を見るだけで何も言わなかった。
「話しはそれだけです。ごはん一緒に食べますか?」奈々子はそういって立ち上がった。
結城が奈々子の顔を見上げる。
「須賀さん?」なかなか立ち上がらない結城に声をかけた。
「ありがとう」結城はそう言うと立ち上がった。
「お腹いっぱい。でもデザートも食べたい」ゆきがお店の外で言った。
「食べ過ぎだよ。デザートは禁止」拓海は怒った振りをしながらゆきに言う。
「ケチ」ゆきはそう言うと、笑った。
「拓海は今日帰る?」結城はジャケットに手を入れながら訊ねた。
「いや、このままゆきのうちに行く。いい?」
「聞くなよ。別にかまわない」結城が笑った。
「奈々子さん、今日はどうもありがとう」拓海が奈々子の目を見て言った。
奈々子は笑顔で会釈する。
「奈々子さんちに行く?」拓海が結城に訊ねる。
「どうしようかな」結城が奈々子を見るので、奈々子は笑顔で「どっちでも」と答えた。
「じゃあ、また。ゆきさん、今日はありがとう。気をつけて帰って」結城はそう言うと、奈々子の手をさりげなくつないだ。
結城に手を引かれながら、お店の前から歩き出した。結城の横顔を見上げると、能面のように表情がない。結城の心を思うと、奈々子は切なかった。
しばらく二人は無言で歩いた。結城の歩調はいつもより少し早い。奈々子は大股で彼の後についていった。
再び見上げると、結城が視線に気づいて立ち止まる。奈々子を見て「ごめん」と言った。
大きな家電量販店の前。蛍光灯の白い光に結城と奈々子の長い影が浮き出る。
「振りをするのは、しんどいだろう?」
「いえ、ぜんぜん。意外にわたし、うまいなって自分で思いました」奈々子は笑顔でそう言った。
「奈々子さんがつらいなら、もう辞めてもいいんだ」
「わたしよりも、須賀さんがつらいんじゃないかと」
「別に大丈夫だよ」結城はそう言ってから「……もう奈々子さんに取り繕う必要はないんだったな」とつぶやいた。
「寂しい」結城はそう言って力なく笑った。「ずっと一緒だったから。いつかこんな日が来るだろうと思ってたし、覚悟はしていたけれどね」
「そうですよね」奈々子は頷く。
「ちょっと遊んで帰りましょうか」奈々子は提案した。
「遊ぶ?」結城が首を傾げる。
「この量販店の地下に、ゲームセンターがあるんです。行きましょう」
「そういう遊びか」結城は納得して笑顔を見せる。
エスカレーターで地下に降りると、ゲーム機の騒音が耳につく。メダルが落ちる音がなり、電子音が鳴り響く。薄暗い店内に、所狭しとゲーム機が並ぶ。ティーンネージャーが誰としゃべる訳でもなく、もくもくとゲーム機に向かっていた。
「須賀さん、ゲームできます?」
「うん」結城は頷いた。「夜、一人で来ることがある。家にいても暇なとき」
「小さい頃から好きなんですか?」
「好きだったけど、俺んち貧乏だったから買ってもらえなかった。クラスの子がやってるのを後ろからこっそりのぞいてただけ。だから大人になったら、惜しげなくお金をゲームに注ぎたくなるんだ」
「わたしは弟がやってるのをぼんやり見てました」
「女の子って、ゲームあんまり好きじゃないよね」
「そうですね。うまくできないからじゃないですか?」
「あ、これこれ。夢中になってやった」
「格闘?」
「そう」結城はゲーム機の前に座り込んだ。百円を入れる。
奈々子は隣のゲーム機の前の椅子を引っ張り、結城の隣に座った。
「うまいですね」
「でしょ」結城が得意げに笑った。「よし、勝った」結城がガッツポーズをつくる。「やる?」
「難しそう」
「じゃあ、あれは?」結城がレーシングマシンを指差した。
「あれならできそう」
「よしやろう」結城が奈々子の手を引っ張った。
二人並んでレーシングマシンに座った。
「対戦にする?」結城がお金を入れながら訊ねる。
「どうやるんです」
「ほら、ここで選ぶんだ」結城は身体をのばして、奈々子のハンドルを操作して設定した。
「レディー、ゴー!」画面上の結城の車が勢いよくスタートした。エンジン音が鳴り響く。
奈々子もハンドルを握りしめたが、「あれ?」奈々子の車はとまったままだ。
「アクセル踏まないと」結城が笑って言った。
「あ、そうか」奈々子は足を伸ばしてアクセルを踏んだ。勢い良くスタートする。
結城は猛スピードで一位を独走する。奈々子は曲がろうとすると壁にガツンとぶつかる。曲がるたびにぶつかるので、最後には結城が笑い出した。
「奈々子さん、どうして思いっきりハンドルきるの? 動かすのなんて、ちょっとでいいんだよ」
「難しい」
「免許持ってないでしょ」
「うん」
「とらないほうがいいよ」結城が楽しそうに笑う。
「ですね」奈々子もつられて笑った。
ゲームセンターでしばらく時間を過ごした。結城はなんでも上手にこなせる。
奈々子と言えば、どれもこれもうまくいかず、だんだんと嫌になってきた。
「奈々子さん、反射神経ゼロだね」ゲームセンターの隅にある休憩コーナーでペットボトルの飲み物を買って、プラスチックのベンチに座って休憩した。ゲームセンターは、禁煙にも関わらずなぜか煙っぽく、白く霞んで見えた。コインと電子音も相変わらずうるさい。
「もう須賀さんとは来ない。意地悪ばっかり言うんだもの」
「意地悪じゃあないよ」
「慰めてくれてもいいじゃないですか。からかってばっかりで」
「だって面白いんだもん」結城はボトルを飲み干した。
「ほんと、意地悪」
「もう言わないよ。ごめんごめん」結城が腕時計を見る。「もう十一時すぎた。奈々子さん電車がなくなっちゃう。帰らなくちゃ」
「須賀さんも帰りますか?」
「拓海がいないから、天国。 AV見放題だよ」
「ええ?」奈々子は思わず顔をしかめた。
「世の中の男子は、みんな見る」
「そうかもしれないけど……」奈々子は複雑な気持ちになる。
「女の子だって見るよ」
「見ません」奈々子は真顔で抗議した。
「そうなの?」
「当たり前です」
「ピュアだな、奈々子さん」結城は笑ってペットボトルに口をつけた。
「須賀さんがビデオ屋に借りにいくんですか?」
「最近はネットで借りられるし、ネット上にいくらでもあるから」
「なんかな……」
「なんだよ、がっかりしたみたいな顔で」
「あのブログの子に全部しゃべりたい」
「やめろよ、イメージ崩れるだろう?」
「そんなこと気にしてたんですか? どうでもいいみたいな顔してたのに」
「そりゃ、写りがいいに決まってるだろう? わざとイメージ落としてどうするのさ」
「注目されるの嫌いって言ってたじゃないですか」
「俺の唯一の武器だよ。有効活用するんだ」
「ナルシスト」
「違うよ。鏡の前に一時間もいないもん」結城は心外だという顔をした。
「でも自分をかっこいいと思ってる」
「そりゃ、悪くはないよ。謙遜はしない。でもさ、物心ついたときから、あらゆる人に『きれいですね』とか言われ続ければ、『そうなのかな?』って思わない。思わないやつがいたら、そいつは究極の悲観主義者だ」
「もっともだけど、やっぱりなんだかな……」奈々子は笑って首をかしげた。
「さあ、帰ろうか」結城は立ち上がり、空のペットボトルをゴミ箱に入れた。がたんという音がする。「駅まで一緒に行こう」
「はい」奈々子は立ち上がり、飲み残したペットボトルを鞄に入れた。
エスカレーターに乗り、地上にあがる。夜気が冷たい。空は濃紺。星は見えない。二人で並んで歩き出した。
「明日はどうしますか?」奈々子は結城を見上げ訊ねた。
「……どうしたい?」
「必要なら、どこかに行きましょう」
「うん……明日は拓海もいないし、必要はない、かな」結城が微妙な顔をして言う。
「わかりました」
「一日中、ビデオ見る」結城が笑って言う。
「わかりましたって」奈々子も冗談めかして、言葉を返した。
右側の大通りに、たくさんの車が通り過ぎる。歩道を歩く人は少ない。駅の改札が見えて来た。二人で改札を通り抜けた。たくさんの人がホームへの階段を上がって行く。なんだか埃っぽかった。
「じゃあ、ここで」結城は階段前で立ち止まった。
「はい」奈々子は言った。
「気をつけて」結城はそう言うと、奈々子に背を向け、ホームへの階段を上がって行く。紺色のジャケットを着た背中。ロールアップしたベージュのパンツに、黒革のスリッポン。
本当に一人で大丈夫かな。
部屋に一人でいる結城を思うと、自分のことのように切ない気持ちになった。
愛する人を見送る気持ちって、どんなだろう。
奈々子は胸の中の痺れるような痛みに目を閉じる。それから反対のホームの階段を上り、家路についた。
二十七
「今週も拓海さんいないんですか?」奈々子はビールを飲みながら訊ねた。
「うん、あいつ忙しいんだ」結城はテーブルの上のピスタチオの殻を指ではじきながら、そう答えた。
結城のマンション近くの居酒屋。心地よい音楽が流れる。半個室席に結城と二人で座っている。
拓海の結婚が決まってから、こんな風に何度か一緒に週末を過ごしている。映画を見たり、公園に行ったりした。
以前のように、結城の側にいるだけで、胸がどきどきするということはなくなった。けれど無意識のうちに、注意深く結城の表情を見ている自分がいる。
笑っているけど、本当は泣きたいんじゃないだろうか。
黙っているけど、本当は誰かに気持ちを話したいんじゃないだろうか。
「じゃあ、今夜も一人?」奈々子は聞く。
「うん」結城は口を尖らせて、まるですねているようにそう言った。
「合宿でもしますか?」
「なにそれ?」
「一晩中、おしゃべりするんです」
「発想が女子だね」結城は笑った。
「お菓子とお酒を買って。楽しいですよ」
「どこで?」
「今から須賀さんちに行きます」
「いいの?」
「だって、何にもしないでしょ」
「しないけど……キスもだめ?」
「何言ってるんですか?」奈々子はテーブルに散らばる殻を結城の方へはじき飛ばした。
「冗談」
「知ってる」奈々子は笑ってグラスを飲み干した。
結城は殻を手であつめて、テーブルの上に山を作った。
「ナッツ食べ過ぎですね」
「ピスタチオが大好きなんだ」
「にきびできません?」
「なにそれ?」結城がとぼけた顔で言う。
「聞いた相手を間違えた。肌つるつるですもんね」
「でしょ?」結城は自分の頬をなでてみせる。
「なんだか鼻についてきた」奈々子は眉をしかめて言う。
「最近、奈々子さん冷たいなあ」
「須賀さんも、最初と違う。なんでジャージにマフラー?」
「近所だから」
「ちょっとはおしゃれして出て来てくださいよ」
「ひげは剃ったよ」
「それは最低限の身だしなみでしょ」
「だって、ナルシストって言うんだもん」
「それとこれとは違うと思います」
「女って、訳わかんない」
「須賀さんのほうが不思議ですよ」奈々子はそういってから携帯の時計を見る。「行きます?」
「うん」結城もビールのグラスを空にした。
コンビニでお菓子と飲み物を買う。
「二人じゃ食べきれない量だよ」袋をのぞきながら結城が言った。
「こういうのは、多めがいいんです」奈々子は自信満々にそう答えた。
大通りにはひっきりなしに車が通る。十月も終わりに近づくと、寒さが増す。奈々子は薄手のコートを羽織っていたが、寒さに身を縮めた。
結城は自分のマフラーを奈々子の首にぐるぐると巻く。
「大丈夫ですよ。須賀さんが寒い」
「もうすぐで家だから」結城はそういうと微笑んだ。
エレベーターに乗り、六階で降りる。以前ここに来たときのことを思い出す。まだとても暑くて、それから夢のような恋をしていた。
鍵を開けて中に入る。玄関の電気をつけると、相変わらず靴がいっぱいならんでいた。
「お邪魔します」奈々子はそう言って家に上がる。
結城はキッチンカウンターの電気だけつけると「どうぞ」と奈々子に声をかけた。
薄暗い部屋の中。前と何も変わらない。でも、なんでだろう。前よりもずっと広々としていて、何かが足りない気がした。
「座って」結城はキッチンからグラスを持ってくる。ソファ前のガラステーブルに置いた。
奈々子はレジ袋からお菓子とお酒を取り出し並べた。
「柿ぴー、好き」結城は勢いよ行くソファに飛び乗ると、袋を手に取って開ける。そこからピーナッツを選って自分の膝の上に取り出した。
「一人でピーナッツばっかりとらないの」奈々子は呆れて、子供を叱るように言った。
「残りはあげるよ」渡された袋をのぞくと、ナッツはもう二三粒しかない。
「柿ぴーが好きなんじゃなくて、ピーナッツが好きなんですね」奈々子は笑って、結城の隣に座った。
「うん」結城は口をもぐもぐさせながら、ビールの栓をあける。プシュっと音がした。
奈々子は自分のグラスにビールをつぐと、袋から柿の種を取り出し一口食べはじめた。
「今日、スカパー無料デーだよ」結城はソファに置いてあったリモコンで、テレビをつける。
古いサスペンスドラマがやっている。刑事役の俳優は、もうかなりの歳のはずだ。結城はどんどんチャンネルを変えていく。それから「あ、これ」と言って、音楽チャンネルを見始めた。サザンのライブ映像だ。
懐かしい曲が流れてくる。二人はしばらく並んでその映像に見入った。
「何歌ってるかわからないけど、でもなんだか泣けるんだよね」ビールのグラスを片手に、結城が言った。
「歌でも泣くんだ」奈々子はちらりと横を見ると、結城はテレビに見入っている。
「この曲は特に」結城は足の上に肘をついて、ほおづえをつき、目を閉じた。
「拓海がこの曲を好きで、死ぬほど聞いてた。周りはポータブルのプレーヤーを持ってたけど、俺たちは持ってなかっんだ。だから夜、母親が仕事にでかけた後、拓海と二人で部屋の中で聞いた。それこそ何百回と」結城はそう言って笑った。
「本当にいつも一緒だったんですね」奈々子は結城の横顔を見ながら言った。
「毎日、あいつが今日は笑ってるか、怒ってるか、泣いてるかを見るんだ。ここに引っ越して来てからは特に。あいつは笑っていても、中は空っぽっていう時期が長かったから。だから、俺が異変に気づかず見過ごして、内側からあいつが崩れてしまったらどうしようって、怖くてたまらなかったな」結城はグラスをテーブルに置いた。「それももうおしまいだ」
「……」奈々子は黙って結城が続けるのを待った。
「俺のすべてがあいつに占められていた。俺のすべて」結城は笑う。
「拓海さんが、須賀さんは自分のために生きて来たって言ってました」
「そう……」結城の顔はテレビからの青白い光に染まっている。表情はなかった。
「泣いてもいいですよ」
「うわ、やめてよそんなこと言うの」結城はソファに転がって、クッションを抱いた。「泣く訳ないだろ」
懐かしい曲が流れる。目を閉じると、歌の風景が見えた。
「なんで俺、こんなこと話してるんだろうな」
「いつでも聞きますよ」
「俺も、奈々子さんの話し、聞くよ」
「でもわたしって、あんまりそういうのないんですよね」
「そうだった。俺が最初を全部もらっちゃったんだった」結城は身体を起こして奈々子を見る。
「ですね」奈々子は気まずくなって、曖昧に笑った。
「本当は、俺じゃない方がよかったよね」
「別に後悔してませんから、気にしないでください」
「利用されたのに、なんで俺を責めないの?」結城はソファの肘に腕をのせ、奈々子を見る。
奈々子はグラスをテーブルに置いた。「それはやっぱり最初はショックでしたけど」
「須賀さんは責任を取る覚悟で、わたしに声をかけて来たんですよね。自分の人生をかけて。悩みました。でも、すべて聞かなかったことにして、須賀さんと過ごしても、やっぱり欲がでてきてしまう。わたしは須賀さんを愛している訳じゃないのに、愛してほしいって思っちゃうんです。だから、こうするのが一番なんです」奈々子は笑って見せた。
結城は奈々子の目を見つめる。
大きくてきれいな瞳。まっすぐな鼻筋。少しふっくらとしている唇。
「きっと奈々子さんを幸せにしてくれる人が、どこかにいるんだろうな」結城は右手を伸ばし、奈々子の頬を手の甲で触った。
「須賀さんを幸せにしてくれる人も、きっといます」奈々子は結城の顔を見てそう答える。
テレビからは別れの曲が流れている。
結城の指の温度を、奈々子の頬に感じる。
結城の姿はテレビの光で青白く光っている。目を見ると潤んでいるように見えた。
「サザンやめた」結城は奈々子の頬から手をどけると、リモコンをとってチャンネルをかえる。
ただひたすらにチャンネルをかえ続け、各局を一周した後、アニメチャンネルにあわせた。
「これにする」結城はリモコンを奈々子に放り投げて、背もたれに身体を預ける。
「なんですか、これ」
「見たことない。でも面白そうだろ」
「ギャグマンガ?」
「それがいいんじゃん」結城はにやりとする「笑えるやつがいい」
「そうですね」奈々子は頷いた。
この人は泣き虫だけれど、本当に泣きたいときには泣けないんだろう。
結城の笑い声を聞きながら、奈々子はそう思った。
二十八
最後の段ボールにガムテープで封をする。それからマジックで「寝室」と大きく書いた。
部屋を見回す。ベランダに通じる窓の外には、都心の高層ビルが見える。
冬の近い秋。風の音が聞こえた。
作り付けのクローゼットにも、ベッド下の収納にも、もう何も入っていない。そのかわり部屋を埋めるように段ボールが置かれていた。
ベッドの上の寝具はそのままだ。持っていってもしまう場所がない。
ポケットから携帯を取り出すと時間を確認する。朝八時。もうすぐ引っ越しのトラックが来る。
本当に長い時間をここで過ごした。この場所がなかったら、拓海はきっと死んでいた。
部屋を出ると、結城がキッチンに立っているのが見える。インスタントコーヒーの粉をカップに入れていた。
「飲む?」結城は拓海を見ると、そう訊る。
「うん」拓海は頷いた。
コーヒーの香りが漂う。「ブラック?」
「うん」拓海は再び頷いた。
片付けたのは自分の部屋だけれど、なぜかリビングもキッチンも、やたらに広く感じる。
結城はこの広い部屋で明日からも暮らしていくのだ。
キッチンのカウンター越しにカップを受け取る。暖かい湯気が昇るのが見えた。
二人はそのままリビングのソファに座る。
開け放たれたカーテンの向こうに、青空が見えた。本当に真っ青で、美しい。黒い鳥が一羽、飛んで行くのが見えた。
「晴れてよかったな」結城がカップに口をつけながらそう言った。
「うん」
しばらく無言でコーヒーを飲む。暖かさが身体の真ん中を通って行った。
「引っ越しのトラック何時だっけ?」結城が口をひらく。
「十時」
「ゆきさん来るのか?」
「いや、身重だし、向こうで待ってる」
「そうか……」
「奈々子さんは?」一人になる結城が気になって、拓海はそう訊ねた。
「挨拶しにくるって言ってたよ」
「そっか」
「なんか食べる?」結城が訊ねた。
「いやいいよ」拓海がそう答えると、再び沈黙が二人の間に流れる。
初めてこの部屋に入ったときのことを思い出した。あのころ、自分の周りでどんなことがおきているのか、まったく分かっていなかった。
毎日、呼吸をすることが精一杯で、周りは暗闇と同じ。
「ここがお前の部屋だから」そう言って、結城は拓海を部屋にいれた。
リフォームしたばかりの壁紙の匂いと、遠くで響く大通りの車の音。
「場所を変えたって、どうしようもない」絶望からそう言った。
結城は黙ってそれを聞いていた。
何も言わずに。
ただ、黙って。
隣を見ると、結城はコーヒーのカップを両手にはさんで、ついていないテレビに視線を向けている。
「通勤が大変になるんだ」拓海は言う。
「どんくらい?」
「一時間半」
「げ、何時起き?」
「五時。でも仕方ないよ。俺の給料じゃ都内のアパートは借りられない」
「俺が出て行くって言ったのに。こんな広いところ、俺には必要ないから」
「いや、いいんだ。ここはお前のうちだから。俺が住まわせてもらってた」
再び沈黙が流れる。拓海はカップをテーブルにおいた。カタンとガラスがなった。
「今まで世話になった」拓海は結城の顔を見る。「ありがとう」
「……なんだよ、改まって」結城は拓海の顔を見ようとしない。カップに口をつける。
「この間ゆきと、おふくろの墓参りに行ったんだ。命日だったろ? 今までとても行く気になれなかったんだけど、ゆきがどうしてもって言って」
結城は初めてちらりと拓海をみる。そしてまた、テレビに視線を戻す。
「お前はわかってると思うけど、俺はずっとおふくろに怒ってた。彼女の命を奪ったことだけじゃなくて、なんていうか、勝手に先に逝ってしまったことにも。命で罪を償ったって言えば聞こえはいいけど、逃げたんだってそう思ってた」
「俺はまだちゃんとおふくろと話してなかった。怒鳴って、責めて、泣いて、それからたぶん、母親を許したかった。『大丈夫。怒ってないよ。側にいてくれ』って言いたかった。でもその機会を待たずに、おふくろは死んだ」拓海は両手を膝の上で組む。目を閉じた。
「『あなたは宝物』よくそう言ってた。クラスメートの母親が作ってくれるような、手の混んだおやつなんかは作れなかったけど、野菜炒めとかカレーとか、大好きだった。仕事から帰ってくると『待っててね、すぐ作るから』って。着替えて、化粧を落として、髪をゴムでとめて、それからエプロンをしめる。俺はおまえと一緒に、おふくろの背中を見てた」
「父親はいなかったけど、おふくろがいて、おまえがいた」
「幸せだった」拓海は思わず笑みをうかべる。
「おふくろは俺を愛してた。ずっとわかっていたけど、でもわからない振りをしていた。すごく怒ってたから」
「お前の気持ちもわかっていて、でも無視してきた。お前が俺の元を去ったら、俺は死ぬしかなかったから。お前を利用してたんだ」結城が小さく息を吐く気配が感じられた。
「おふくろのお墓に行ったらさ、管理の人に不思議がられたよ。毎年、違う人がくるのにって。すごく背が高くて、きれいな男の人で、その人が息子なんだって思ってたって」拓海は結城に顔をむける。
「お前がずっと、おふくろの側にいてくれたんだな」
「ありがとう」
結城の顔は依然として拓海を見ない。前をじっと見続けている。
「団地の敷地の中で、ドロケーをして走り回ったこととか、夏休みの自由工作を二人で作ったこととか、宿題を写させてもらったこと。同じ音楽を聴いて、同じテレビを見て、同じことで笑って、同じことで泣いた」
「お前と一緒じゃなきゃ、俺はあんな幸せな時間を過ごせなかった。お前は俺の特別だ」
結城が拓海の顔を見る。顔から感情は読み取れない。
「この気持ちをどうやって表したらいいのか、他に適当な表現が見つからない。俺の心の中には、お前の場所があって、それは永遠に消えない。きっと俺なりに、お前を愛してるんだと思う」
結城の目が赤く充血しているように見えた。結城が目を伏せる。
「長い間『家族』でいてくれてありがとう」拓海はそう言った。
結城は身動き一つせず、じっと自分の膝あたりを見つめている。
それから顔をあげる。いつもと変わらない笑みをうかべた。
少年のころから変わらない、本心を隠して冗談にしてしまう、そんな笑顔。
「何、言ってんだ。やたらと感傷的になって。俺は、お前が童貞じゃなかったってのが衝撃」
「違うって、言ってただろ」拓海は笑う。
「ゆきさんの気持ちが冷めないうちに、さっさと籍を入れちゃえよ」
「いちいち、ひっかかる言い方だな」拓海はカップを手にとって、最後のコーヒーを飲み終えた。
カップを持ってソファを立ち、キッチンへカップを戻しにいく。
背中から「幸せになれよ」と結城が声をかける。
「ああ」拓海は涙をこらえて、そう答えた。
クリーニングの袋から出したばかりの、紺色のダッフルコートを着て、目黒のマンションまで歩く。
随分と寒くなった。十一月も終わりに近い。見上げると街路樹が色づいていて、足下には枯れ葉が落ちている。
夏があまりにも長過ぎて、秋はあっという間に終わってしまった気がする。
頬にあたる風は痛いほど冷たく、マフラーを巻いてこなかったことを後悔した。
今日、拓海が家を出る。
おととい、結城から電話がかかってきた。結城の声はいつもよりずっと平坦で抑揚がない。事務的で、それがかえって、彼の心の中を表しているように感じた。
大通りから一本道を入り、しばらく行くと赤煉瓦のマンションが見えてきた。エントランス前に、小さめの引っ越しトラックが止まっている。
ここに来るのは、今日が最後だろう。
奈々子は胸がじんじんするのが、寒さのせいなのか、他の何かなのかわからなかった。
引っ越し業者が段ボールを運んでいるのが見えた。奈々子はその様子をみながら、エレベーターで六階にあがった。
外廊下突き当たりの扉が開け放たれている。奈々子は玄関で靴を脱ぎ「おじゃまします」と言って、部屋にはいった。
カーテンは開いており、太陽の光が入っているにも関わらず、部屋の中は、外気と変わりなく寒かった。
リビングのソファには、ダウンジャケットを着た拓海が座っていた。奈々子の顔を見ると「おはよう」と言って笑顔を見せた。
「おはようございます。寒いですね」奈々子はそう言うと、拓海の側に立った。
「うん、ごめんね。荷物を外に運び終わるまで、玄関開けっ放しなんだ。結城はちょっと買い物に出てる。すぐ帰ってくるよ」
「ゆきさんは、新居で待ってらっしゃるんですか?」
「うん。部屋を掃除してるって。ここ座る?」拓海はソファの隣を指し示した。
「ありがとうございます」奈々子は素直に腰を下ろした。
「なんか温かいものでも入れようか」
「大丈夫ですよ」奈々子は笑顔で返した。
「奈々子さん」
「はい」
「結城をよろしく」
「はい」
拓海は安心したように、ほっと息をついた。
「これで最後ですか?」青い作業着を着た引っ越し業者の青年が、段ボールを抱えて訊ねる。
「はい、そうです」拓海は頷くと、立ち上がった。「さあ、行こうかな」
拓海はいつもの布鞄を肩からさげると、ぐるりと部屋を見回した。その顔は晴れやかで、結城の寂しさとは対照的のような気がした。
「もう行く?」いつのまにか結城がリビングの扉のところに立っている。手にはコンビニの袋を下げていた。
「うん」拓海は頷くと、振り返らずに部屋を出て行った。
結城は奈々子の顔を見ると、無理をして笑顔をつくる。以前ならこの笑顔を無理に、とは思わなかっただろう。今は彼の表情が、彼の感情すべてを語っているわけではないと分かる。
玄関から出ると、奈々子は後ろから結城の手を取った。結城が振り向いた。奈々子は笑顔を返した。
彼の手は冷たくて、乾燥している。コンビニの袋の中はペットボトルが二本。今、このタイミングで買わなくてはいけないものではない。
エレベーターで下に降りると、管理人の中年男性が小窓から顔を出した。
「六階の方、お引っ越しですか?」
「はい、僕だけ。お世話になりました」拓海は笑顔で頭を下げる。
「こちらこそ、長くお世話になりました。こちらに引っ越しされてきた時のこと、覚えてますよ」人の良さげなその管理人は言った。「すっかり元気になられて」
「ありがとうございます」拓海は照れたようにそう言って、再び頭をさげた。
日差しの下に、トラックのエンジン音が鳴る。
「じゃあ、よろしくお願いします」拓海は業者にそう言うと、トラックは静かに出発した。右に曲がり、大通りへと入って行く。
拓海はそのトラックを見送ってから、結城を振り返り、見上げた。
「じゃあ、またな」拓海の黒髪に初冬の日差しが光る。
「うん」結城はそう答える。彼の指が奈々子の指を強く握った。
「奈々子さん、今日はわざわざありがとう。子供が産まれたら、結城と一緒に見に来て」
「はい、もちろん」
「またね」拓海は手を上げ、歩き出した。十歩歩いて、振り返り、手を上げて、また十歩歩いて、今度はマンションを見上げ、それから結城を見て、微笑み、それから一度も振り返らず、大通りへの道を入って行った。
高いビルの間を冷たい風が通る音がする。大通り沿いに植わる木々から飛ばされてきた枯れ葉が、足下に渦を作っている。
奈々子は結城を見上げた。結城は拓海が去って行った方向をじっと見ていた。目に涙はない。
「拓海さん、幸せそうでした」
「うん」
「よかったですね」
「うん」
結城はそう言うと、奈々子の顔を見る。それから「ありがとう」と言った。
奈々子はつないでいた手を離す。それから結城の顔を見つめた。
彼の整った顔。長いまつげ。大きな瞳。
女性は皆、彼の美しさに見惚れてしまうけれど、彼の心のうちは、悩み、苦しんでいる。
他の人と変わらない。
奈々子は結城を安心させるように笑顔をみせた。「役目が終わりました」
結城は何も言わず、じっと奈々子の顔を見ている。風が髪をかき乱す。コートの襟に半分かくれた頬は、寒さで赤くなっている。
「拓海さんの赤ちゃんを見に行くときには、声をかけてください。それから、暇でしかたなくて困るってときには、誘ってください。病院の受付で会っても、これまでどおりに接します」奈々子はそういって、息をはいた。
結城は奈々子の言葉を聞いた後、しばらく黙り込む。それから「これで終わり?」と聞いた。
奈々子は自分の手を組み合わせる。冷たくて痺れている。少しうつむいて、それから再び顔をあげ、結城の顔を見た。
「きっといつか……見つけようと思って出会う誰かではなく、知らぬ間に心に入り込んで、その場所を埋めてくれるような、そんな人と須賀さんは出会えると思います。それはきっと、わたしじゃありません」
結城はまばたきをせずに、奈々子を見つめる。
「今まで拓海さんのために生きてきたんですよね。だから……これからは自分のために生きてください。誰かに出会って、それから愛してください。なんだか偉そうなことを言って、申し訳ないんですけど。わたしも誰かを幸せにしたいから、そんな人と出会えるように祈ってもらえるとうれしいです」奈々子は再び笑顔を見せた。
枯れ葉が舞っている。結城のカーキのモッズコートの袖に、黄色く染まった葉が一枚留まった。奈々子は腕をのばして枯れ葉を取り、風の中に放つ。
結城は空に舞い上がったその枯れ葉を、目を細めて追う。それから再び奈々子の顔に視線を戻した。
「たぶん、奈々子さんの言う通りなんだろうな」結城が寂しげな笑みを見せる。
大通りから車のクラクションが聞こえた。奈々子は、結城の心なしか潤んでいるように見える瞳を見つめた。
「君には感謝しかない。本当に。僕も……奈々子さんが自分の幸せのために生きられるよう、心から願うよ」結城は奈々子に手を差し出す。「ありがとう」
奈々子は、指が長く大きい手の平をしばらく見つめ、それからそっとその手を握った。
「お別れのキスをしてもいい?」結城が訊ねる。
「冗談ですよね、わかってます」奈々子は笑ってそう返すと、結城もつられて笑った。
「さよなら」結城が言う。
「さよなら」奈々子もそう言った。
奈々子は手を離し、くるりと結城に背を向けた。
高いマンションやビルが並ぶ道の間を、まっすぐに歩いていく。コンクリートを踏みしめて、下を向かないように、振り返らないように、それから走り出したりしないように、心を落ち着けて歩いた。
結城は奈々子の背中を見送ってるだろうか。それとももう彼も背を向けただろうか。
冷たい風が奈々子の頬にあたる。東京の排気ガスの匂い。目の奥が痺れて、痛い。
奈々子は結城に恋をした。それは本当に甘くて、夢のようだった。彼の作られた優しさや計算された行動に心奪われた。
でも結城を愛していると思ったことはなかった。そんなこと、考えもしなかった。結城が拓海のために身を犠牲にしようとするその愛情と、自分の感情とでは比べ物にならないと思った。
でもなんで今、こんなに胸がちぎれるほど、この別れが痛いんだろう。
もう少しで大通りへと出る道に入れる。
あとちょっと。もう少し。
奈々子は唇を噛み締め、震えそうになるのを必死に堪えた。
本音を知ってからの方が、結城を気にしだした。容姿や表情、目に見えるものは関係なくなった。彼がどんなに魅力的に振る舞っても、彼の心のうちを思い、胸が締め付けられた。
あの人のために、何かしてあげたかった。
自分が彼を幸せにしてあげられる人ならいいって。
何度も。
何度も。
昼も夜も、寝ても覚めても、何をしてても。
そんな思いが、心に浮かんだ。
あと少し、本当にあと少しで、彼の視界から消えることができる。
もうちょっとで。
コンビニの角を大通りの方へ曲がった。
思わず手の平で頬を拭う。
二三歩歩いて、それからたまらず立ち止まった。
嗚咽が漏れる。両手で頬を拭う。
声を出して泣き出した。誰かに見られてもかまわなかった。
胸が痛い。本当に。
この感情を「愛」と呼ぶ人もいるかもしれない。
たくさんの車が走って行く音に、奈々子の泣き声はかき消される。
そうか、これが人を愛するってことなんだ。
二十九
彼女はしっかりとした足取りで、コンクリートの道を歩いて行く。紺色のダッフルコート。出会ったときよりも髪が伸びた。ストレートの髪を両肩にたらして、背中のフードの上に、彼女の首がちらりと見える。
道の脇には吹き寄せられた枯れ葉が集まる。時々冷たい風にのって、その枯れ葉が舞い上がる。
すべてを計画した通りにできた。
最後、一人きりになるところまで、全部。
もし相手が別れることを拒んだら、不誠実な対応をすればいい。
これまでもそうやって、たくさんの女性たちを捨てて来たのだから。
彼女の背中がどんどん小さくなっていくのが見えた。
ポケットに冷たくなった手を入れ、握りしめる。
でも彼女はそんなことをせずとも、自分から離れていった。
考えていることはすべて分かっているというように。
責めず、怒らず、静かに、笑顔で、離れて行った。
計画通りなんだから、安心すればいい。
むしろ予想以上にすんなり進んだことを、喜べばいいじゃないか。
でも、彼女の後ろ姿から目が離せない。
最後に握った、彼女の手の平の温度。晴れやかな笑顔。
別れのキスは冗談じゃなかったけど、でもしないほうが良かったんだろう。
彼女がコンビニの前をすぎ、大通りの方へと曲がる。
終わりなんだ、これで。
ふと、彼女の影が消えるその一瞬前、手のひらで頬を拭うのが見えた気がした。
泣いてる?
思わず歩き出した。迷いながら、でも歩き出した。
そのうち走り出す。迷いながら、でも走って、彼女が消えた角に向かった。
すべてが彼女にばれてしまったとき。
何もあんな約束なんかしなくても、彼女を引き止めることはできたのに。
それはわかっていたのに、思わず口に出していた。
「これから一生、君一人でいい」あの瞬間、本当にそう思った。
冷たい空気が、身体の中にはいってくる。
渇いた風が、頬に痛い。
走って角を曲がると、彼女の紺色の背中が視界に入る。
とっさに手を伸ばして、彼女の腕を引っ張った。
彼女が振り向く。
頬が濡れていて、瞳が真っ赤になっている。
彼女が驚いて目を開いた。
「泣くぐらいなら、なんで離れようとするんだ?」大きな声を出した。
本当に驚いている様子で、身動き一つ、呼吸一つしていない。
「このままでいいじゃないか!」腕をつかむ手に力が入った。
彼女は一度大きく息を吸い込むと「義務や責任感でわたしと一緒にいてほしくありません。罪悪感を感じながら、わたしに微笑むなんてことも駄目です」と言った。
「どうしてそんな風に思うんだよ。確かに隠してたことはあった。でも奈々子さんには本当のことしかしゃべってない」
彼女は動かない。濡れた目を見開き、顔を見続ける。それから堪えていた涙が再び流れ出した。
「……してはいけないことだと思っても、拓海さんとわたしのどちらを愛しているのか、考えてしまうから。笑顔が、言葉が、本物なのかどうか、いつも疑ってしまう。そんな……苦しいこと……」彼女は腕を振りほどき、口元を両手で覆って、声を出して泣き出した。
自分の身体から力が抜ける。このまま地面に座り込んでしまいたいけれど、ビルの壁面に手をついて、なんとか身体を支えた。
愛とはなんだろう。よくわからない。
拓海のことは愛していた。
あいつがいない世界は考えられなかったし、あいつが自分の中から消えることはない。あいつの幸せのためには、なんだってできると思った。
じゃあ、目の前で泣いている彼女はどうだろう。
一緒にいると彼女は幸せになれないと言ってる。
彼女の幸せのために、手を離すことができるのか?
「本当に終わりにするしかないんだな……」溜息のような言葉が出た。
彼女はうつむいて、それから「ごめんなさい」と言った。
力が出ない。
彼女は背を向けて、再び歩き出す。
その背中を目で追う気力もない。
壁にもたれかかり、そのままずるずると座り込んだ。
コンクリートが背中に冷たい。
たてた膝の上に腕を置き、ぼんやりと正面をみつめた。
彼女を愛しているのか、そんなことわからない。
失いたくない。それだけ。
拓海を思うのとはまったく違う。
どんなことをしても、彼女を失いたくなかった。
ふと気配を感じて顔をあげた。
彼女がいる。側に膝まづく。心配そうに見つめる。
「あの……」彼女が何かを言いかける。
無意識に彼女の頬に手をふれた。
「自分のために生きていいんだよね」
彼女は黙ってみつめる。
「失いたくない。僕の人生には君が必要だ」
彼女の頬は暖かい。
「僕を幸せにして」
彼女が僕の顔を見つめる。
それから小さく微笑んだ。
たったそれだけのことが、こんなにも心を満たす。
彼女を引き寄せて、胸に抱いた。
彼女は僕の特別な人。
完
ヒカリ