practice(25)




二十五



 目を瞑り,匂いなんて嗅げないパプリカに鼻を近付けて胸一杯に息を吸い込んでいる。
 利用しない駅の周囲を歩くのは嫌い。丁度そうして,石畳の上を叩いて行く話し合いを振り返らせて,「何の話だっけ?」と誤魔化す本題のずる賢さにも似ているから,私は空いた木箱の上に座る。楽なワンピースから羽織ったコートから伸ばして,今は浮かせた足をぶらぶらさせたまま,巷で評判の売り子になろうと朝からずっと店先に居る。
「別に頼んでもいないんだけどな,お嬢ちゃん。」
「気にしないで,おじちゃん。これで野菜屋さんの『しょうばい』も『はんじょう』するってものよ。ほら,またお客さん!」
 私がそう言うと,苦い薬を飲んだ時の私や弟のような顔をしていたおじちゃんはこれ以上ないっていうぐらいににこにこして,そのお客さんに声をかけた。それでもまず私と笑顔を交わしたお客さんはきっと寒さに負けないと決めて着込んだ毛糸ばかりの格好で,とてもふっくらして見えるけど顔は可愛い奥さんだ(と思う。言われて幸せそうに野菜を選んでいるし,連れてる光が優しく見守ってる。)。ご注文に返事をしてザルに乗せているおじちゃんの動きはきびきびとして止まらない。その隠せない嬉しさを,おばちゃんに隠す代わりにここにしばらく居させてもらう材料に使うとして,私は駅を囲む通りを行く人の中からお客さんを呼び込もうとパプリカを手に,声を出した。
「ここの野菜は美味しいよ,新鮮だよ!」
 「ワンッ!」と聞こえた犬の返事はそれも素早くて,連れていたお兄さんとお姉さん(それとも?)の柔らかい注目を集めた。愛想を見せて,好意の気持ちをいっぱいに挨拶をしたけれど二人と一匹は,残念ながらお客さんにはなってくれなかった。けれど悪い気持ちが私に芽生えなかったのは,それが二人の助けになれた気がしたからだった。立ち止まらずに歩いて行った二人の影からは,最初に見かけたときの真新しさが取れて,くつろいで見える。外から帰って来て,脱いだ靴を玄関にそろえたばかりという感じだけれども。リビングのお菓子とか,それから気付く暖かさとか,思い出のものとか,好きなものとか。そこから色々と始まりそうだった。
 今頃は皆で,朝のお茶の時間かな。
 そう思ったことを思い直そうとして,おじちゃんのお礼を連れてお店から出て来たさっきのお客さんが私に声をかけた。
「えらいね,お店のお手伝い?」
「はい!だって私はここの『かんばんむすめ』だから。」
「いやいや,違う。違うだろ,違うんですよお客さん。」
 聞き逃さなかったおじちゃんは私の出自を明らかにした。
「この娘は近所の家の子なんですよ。いつもはお母さんと夕方ぐらいにここに来るんですがね,今日は開店からずっと,こうして店番してるんです。勝手にね。」
「あら,いいんじゃないですか?可愛らしいし,私はこの娘を見つけてこのお店に入ろうと思いましたから。」
 私も聞き逃さない。私は素直に喜んだ。
「ほら!やっぱり!」
「何が『やっぱり!』だ。裏がありそうで怖いんですよ。さっきもパプリカ一個,取られちまったし。」
「バイト代よ。『せいとうなようきゅう』だわ。」
「だから頼んでねえよ,バイト自体。」
 交わりそうにない私とおじちゃんの気持ちのすれ違いにも笑顔を乗せていったお客さんは,「また来ます。」という期待を残して帰って行った。やっぱり光も連れ立って,優しく側に居る。歩き方とか違うのに,行くところは同じなところに微笑んでしまう。それはやっぱり,家族なのだった。
「で,嬢ちゃん。」
「なに?おじちゃん。」
 同じように見送って,そのまま私の側に立つおじちゃんは背が低い。勿論私よりは高いけれど,他の大人に比べれば,頭の二つ分ぐらい低い。すぐ近くに見える腕の太さから分かるぐらい,がっしりとしているし,太い眉に堂々と開かれた眼の印象が強いから存在感をもって,たくさんの人の中でも見失ったりしないけれど(というとおじちゃんは勿論怒る),「探したりはしなきゃいけない。」とおばちゃんが私に話していた。そのおばちゃんはおじちゃんより背が高い。おじちゃんは「変わりはそんなにねぇ!」ということを付け加えて私に言っていた。
「今日はいつまで,そうしているつもりだ?」
 店内に戻るついで,という感じをきちんと示してからおじちゃんは私に聞いた。いつも雑な口調を見せながら,おじちゃんは結構気使い屋さんだと私も知っている。おばちゃんが惚れたところだ。
「ずっとよ,もちろん。お店が開いている限り働くのが『かんばんむすめ』の務めだわ。」
「娘じゃねぇ,って何度言わすんだ?」
「じゃあ,『むすめ』になってあげる。自慢の一人娘。どう,おじちゃん?」
 そう言って店内をきちんと振り返れば,おじちゃんは両手を上げていた。
「小生意気な娘は要らねえよ。」
 私はとてもむっとする,という表情を自然に見せておじちゃんに反論する。
「口が達者って,言ってくれない?その方がまだ賢そうだわ。」
「頭に『ずる』を付けないずる賢さ,ってか?」
 いたずらっぽい笑顔はまるで同級の男子そっくり,だからおじちゃんは子供だっておばちゃんに言われるんだ!
「失礼ね!賢いって言われるもん!」
 おじちゃんはダンボール箱を持って言う。
「へぇ,誰に?」
「それは…,」
 と言って黙った私はすべきことを思い出して,また『かんばんむすめ』に戻った。遠くなった目の前の通りを行く人たちにかけるべき事を探して,喉元近くで声を休ませた。聞いたおじちゃんは店先からは振り返っても見れない奥へと引っ込んでいったのが後ろの足音で分かった。
 ざわつく雑踏。ひんやりとした空気。他の店からも聞こえる呼び込みの声は私より大人で,『かつぜつ』だって悪くない。迷いがない。はっきりしていて,やっぱり大人だ。愛嬌と元気と,私で木箱に乗ったって大人っぽさも立ち上がらない。片手に一個のパプリカを持って,もう片手で遊べる遊びだって,今は思い付かないんだからしょうがないことだと思う。思うけど,全身を使って言いたいことは山程あるのだから。
 一つでも,良いのだから。
「親父さんか?」
 奥にこもった声だけ先に帰して来て,おじちゃんは私に聞いた。私は首を振ろうとして,起こした声で,振り返って大きく言った。
「違うわ。」
「じゃあ,おっかさんか?」
 姿も帰って来たおじちゃんに向かって,私は言った。
「それも違う,当たらないわね。おじちゃんは。」
 両手の代わりに顔の上で眉を二つとも上にあげて笑うおじちゃんは「じゃあもうワンチャンス,」と私に言って,答えを待った。「宜しい。」という言い方と頷きはお婆ちゃんの真似,仕草はお爺ちゃんの真似だった。
 おじちゃんは言った。
「両方だな。じゃあ。」
 私は答えた。
「まあまあね。よく出来ました。」
 そりゃどうも,胸に当てた手とともに黒い前掛けと『うやうやしく』表した仕草は野菜屋さんに似合わないものだった。それを正直に言えばおじちゃんは「だろうな。」と笑って,目の前を通り過ぎる人たちにお客さんになってもらうために声をかけた。私も後から追いかけて,声を出して頑張った。お客さんは,今度は来なかった。
「来ないね。」
「まあ,そうだな。」
 そう言って,私と同じように店先に立つおじちゃんを見上げても落ち込んでいる様子はない。それでも笑顔で道行く人を見送って迎えることを,また繰り返している。おじちゃんは背が低い。見せる腕から,がっしりとしている。
「ねえ,おじちゃん。」
 聞く私を見ないで,返事をするおじちゃんである。
「何だ?嬢ちゃん。」
「野菜屋さんのコツって何?」
 おじちゃんは軽く言う。
「んなもん,無いな。あったら,どこもかしも野菜屋さんだ。」
「じゃあ,」とそこでワンピースのシワを直してから,私はまた聞く。
「野菜屋さんに大事なことは?」
 おじちゃんは軽く言う。
「そんなのは決まってる。野菜が育つのを待つことだ。それしかない。」
 そう聞いた時に鳴った電話はすぐに切れたけど,私とおじちゃんは一応振り返ってお店の中を確かめた。蛍光灯よりも明るい陽はそこをいっぱいに低く照らしている。私の手の中にあるパプリカもそれを赤色いっぱいに浴びていた。
「離婚するかもしれないって,言ってたわ。」
 聞こえたはずのおじちゃんは,反応しない反応を見せた。それから「そうか。」とだけ言ってくれた。
「また来てもいい?」
 と私が聞けば,着ているシャツの,たくし上げている袖をまた一度たくし上げるようにして「まあ,な。」と言った。
「バイトでな,それならな。」
 そういう答えも付けてくれた。通りの前の人も増えてく。駅を利用する人も,増えているんだと思う。それを二人で眺めて,そうして私は木箱の上で足をぶらぶらさせて,また聞く。
「ねえ,おじちゃん?」
「何だ?」
「飲み物なら,何が好き?」
「飲み物か?まあ,なんでも好きだが強いて言えば,温かいのだな。」
「それ,『しいて』言ってないわ。」
「そうか?まあ,そうか。」
「お茶がいいの?珈琲がいいの?」
「うーん,どっちもいい,だな。」
「紅茶は?」
「まあ,嫌いじゃない。」
「生姜汁は?」
「生姜汁か?これはまた予想もしなかったものだな,飲んだこと,あんのか?」
 聞かれても,私は目を伏せなかった。
「一度ね。お婆ちゃんに作ってもらったことがあるの。」
「風邪を引いた時か?」
「ううん,ただ寒かった日に。」
 おじちゃんはそこで一度呼びかけをして,返事をした。
「そうか。うん,まあ俺は好きだな。生姜汁。あいつは確か嫌いだったけど。」
「あいつって,おばちゃんのこと?」
「ああ,その『おばちゃん』のことだ。」
 私はうなずいて言った。
「生姜汁を,おじちゃんは好きで,おばちゃんは嫌いってことね?」
「ああ,そういうことだな。」
「冷たいものは?って聞く前にこれも聞いておきたいわ。食べ物で嫌いなものとか,苦手なものとか,ある?例えば野菜とかで。」
 おじちゃんは短い間で強く笑う。楽しそうなのが伝わった。
「これはこれは野菜屋が答えにくい質問で。まあ,良いさ,俺もあいつも嫌いとか苦手とかで食べられないものはないよ。」
「『あれるぎー』とかは?」
「俺は無いけど,あいつは,確か,なかったはずだ。多分。まあ,これは確かめておいた方がいいことだから,俺もな。あいつが帰って来た後で,聞いてみるか。」
 私もうなずく。おじちゃんも頷いた。
「妙に詳しく聞くな,食生活関係で色々と。」
 おじちゃんにそう言われて,私はぶらぶらさせていた足を止めずに言った。
「興味ありますから。」
 おじちゃんは多分,肩を『すくめた』。
「そうかい。それはそれは。」
 それを確かめないで,パプリカのことも私は見なかった。ぶつけた木箱には気を付けて。
「ねえ,おじちゃん。」
「何だ,嬢ちゃん?」
「私,ここの『かんばんむすめ』になってもいいわよ。」
 そう言って見上げても,おじちゃんは私を見ていなかった。これもまた気の使い方なのだろうと,思う私は大人じゃなかった。
「小生意気な娘は要らねえよ。」
 見上げる私の視界の中でそう言っておじちゃんは,お店の中へと居なくなり始めた。また通りを向く私に聞こえたのは,『野菜屋』さんのおじちゃんの大きな声で,お客さんを呼び掛ける,少し高めの声だった。私ごと巻き込んでいるような,それは広い,大きな声だった。
 手の中のパプリカが冷たくなったりしないのは,気のせいじゃない。



 

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2013-12-02

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