神様
見慣れた川口駅前の風景から思いついた作品です。
その薄汚れたオヤジは、キリンラガービールのロング缶を片手に、真っ赤な顔でふらりと俺の前に現れた。
羽織った黒いジャンパーには、土汚れが付いていて、背中に背負った大きなリュックにも土汚れが付いている。
手は、爪の間まで真っ黒。
白髪の混じった無精ひげに、ぼさぼさの髪。ひげから髪から、今にもシラミが飛び出てきそうだ。
どう見ても、酔っぱらいの日暮オヤジ。
そのオヤジは、いつものようにアコースティックギターを掻き鳴らし歌っている俺の前にドカッと座り込んだ。
夕日に染まる川口駅東口、バス停留所案内板の横で、帰宅に急ぐ人々を横目に俺は、ただガムシャラに歌い続けていた。
俺を目当てに集まる客などいない。
付いた記憶が無い。
すぐ横に設置されている喫煙所に集まっている人々の耳にさえ、俺の歌は届いてないように思える。だから、もしかしたらそのオヤジが、始めて俺の歌を聴いた人間かもしれなかった。
もっとも、こんな酔っぱらいの日暮オヤジに聴いてもらったところで、嬉しくもなかったが……
「おにいちゃん、歌上手いねぇ」
一曲歌い終わったところで、オヤジは感心するようにそう言った。
「そりゃどうも……」
俺は、愛想笑いも浮かべずに、言葉だけの返答をする。
「でもなぁ、心が感じられないなぁ」
――こころ…?
言っている意味が良く判らなかった。
「なんて言うのかなぁ、歌が響かねぇんだよ」
――それはオマエの好みの問題だろ!
思わず、そう言い返しそうになってしまったが、それを言ったら負けのような気もした。
かと言って、何も言い返さないのもシャクだった俺は、歌で言い返す事にした。
「それじゃあ、次の曲を聴いてみてよ」
俺は、自慢の曲を歌い始めた。昔、とある音楽コンテストで優秀賞を取った曲だ。
――こんな酔っぱらいに、俺は何をムキになっているんだ……
自分でも馬鹿らしく思いつつも俺は、力いっぱい歌い上げた。
だが、俺が歌い終わった後、オヤジは下を向いて腕を組み、溜め息と共に首を横に振るのだった。
「全然ダメだなぁ」
やっぱり分かってない。所詮は酔っぱらいの冷やかしだ。
いい加減、腹が立ってきた…!
「どこがダメなのかな?」
分かりもしないで、答えられるもんなら答えてみろ!
「どこがって言われてもなぁ……全部ダメだからなぁ……」
それみろ! 専門的な事も分からないで知った風な口ききやがって!
「とにかく、心を込めて歌うこった」
それだけ言うと、オヤジは気怠るそうに立ち上がり、駅の雑踏の中に消えていった。
――イヤなオヤジだ!
でも……
「……心か」
俺は、溜め息と共に呟いた。
川口駅東口前で歌うのは三日に一度。
あの日からオヤジは、その三日に一度の路上ライブに毎度現れるようになった。キリンラガービールのロング缶を片手に、いつもの薄汚い恰好で。
初めは本当に鬱陶しかった。いい営業妨害だと思った。しかし、そんなものにもいつしか慣れてしまうと、俺はオヤジが現れてから歌いだすようになっていた。
「相変わらず客が居ないなぁ、にいちゃん」
「うるさいよ。そんなこと言ってると見物料取るぞ」
「まだ、おにいちゃんの歌に金は払えねえなぁ」
気が付けば、そんな憎まれ口を叩いては笑い合う仲にもなっていた。
そんなある日、歌いだそうとした俺に、オヤジは、ふと口を開いた。
「なあ、おにいちゃん、歌の神様って知ってるか?」
俺は、ギターを弾きだそうとした手を止め、思わず呆気に取られた。
「歌の神様?」
「そうだよ。役者には役者の神様、芸術家には芸術家の神様が居るように、歌には歌の神様が居るんだ」
――また始まったよ。心だの神様だの……
所詮は、酔っぱらい。
俺は、適当に話を合わせる事にした。
「歌の神様って言うか……まあ、自分に取っての音楽の神様は居るよ。ジョン・レノン。知ってるだろ? 友達には古いって笑われるけどね」
「そうか。だったらその神様を信じてみろよ。どっかで見ててくれてるかもしれねえぞ」
「まさか。たとえ天国からだって、ジョンは俺の事なんて見ちゃいないよ」
「だからダメなんだよ。信じるものを信じないでどうするんだ?」
「信じるものを信じてない…?」
「おにいちゃんの歌を聴いてるとな、何か計算高いって言うか、気取ってるって言うかな。何を気にしてるか知らねえけど、歌う事にそんなものが必要なのか? 一生懸命に歌う、それだけじゃダメなのか?」
「一生懸命に……」
始めは、ただ適当に話を合わせるだけのつもりが、いつの間にか俺は、オヤジの話に引き込まれていた。
俺は、目を瞑る。
まぶたの裏には、DVDで見るジョンのライブが思い出された。
ジョンは、嬉しそうに、悲しそうに、楽しそうに歌っていた。
深呼吸をする。
そして、一気に歌いだした。
何も考えず、ただ一心不乱に歌った。まるで、ギターを持って始めて歌を歌い始めた頃のように、ただ一生懸命に……
歌い終わると同時だった。
何人かの拍手する音が聞こえ、俺は驚いて目を開けた。目の前には、制服姿の高校生の女の子が三人、満面の笑みを俺に向けていた。
「いい歌ですね。キュンときちゃいました」
「あ、ありがとう」
女の子の一人にそう言われ、俺は思わず照れてしまった。路上ライブをやっていて、誰かにそんな事を言われたのは生まれて初めてだった。
確かに俺は、何か色々と計算していたのかもしれない。道行く人々の顔色を伺いながら、
『俺の歌で癒せれば……』
なんて、偉そうな事を考えながら歌っていたり、
『もしかしたら音楽プロデューサーとかの目に止まってスカウトされたりして……』
なんて、くだらない想像を巡らせてみたり……
――一生懸命に歌うって、こういう事だったんだ……
ふと気付くと、オヤジの姿が消えていた。
「ねえ君達、ここにしゃがみ込んでいたオヤジ知らない?」
女の子達は顔を見合わせる。
「いたっけ?」
「わかんなーい」
女の子達は、不思議そうな顔をするばかりだった。
それからも、相変わらずオヤジは現れた。
あの日に拍手をくれた高校生の女の子達三人も、学校の帰りには必ず立ち寄ってくれるようになった。
それはいつしか四人に増え、四人は五人に増え、気が付くと、俺が歌えば十人以上の人達が集まるようになっていた。
もちろんオヤジにはお礼を言って、俺は用意しておいたキリンラガービールのロング缶を渡した。
オヤジは「俺は何もしちゃいないよ」と言いつつも、嬉しそうに笑い、ビールを開けていた。
どんなに人が集まるようになっても、オヤジはいつも一番乗りで俺の目の前にビールを片手にしゃがみ込む。そこがオヤジの特等席だった。
「やったな、おにいちゃん」
俺を見上げながら、真っ赤な顔でオヤジが笑う。
俺も笑顔を向ける。
その時だ。
ふと、俺の脳裏には、ある疑問が思い浮かんだ。それは、
『もしかしたら、このオヤジの存在に、誰も気付いていないのではないのか?』
という事だった。
気のせいかもしれない……
でも、どんなに俺がオヤジに視線を送ろうと、誰もオヤジを見ない。
俺は、このオヤジが現れてくれたおかげで、自分の歌を見つける事が出来た。
――神様…?
――歌の神様?
――俺だけに見える歌の神様…!
――いや、そんなバカな。以前に観た映画の話じゃあるまいし……
俺は首を振る。
――でも……
「オジサンって、もしかして……」
そう言い掛けた時だった。オヤジは不意に立ち上がり、その拍子に、背後に立っていた女の子にぶつかったのだ。
――えっ?
と、俺は思わず声が出そうになる。
「おっと、ごめんよ」
オヤジは、女の子にそう謝ると、駅の雑踏の中へと消えていった。
「もうヤダ、あのオヤジ。なんか臭いし、なるべく気にしないようにシカトしてたのに!」
――まいったな……
――まったく俺は……
――ハハ……
「アレって絶対冷やかしですよ。超メーワク。いつも居るんですか?」
嫌な顔をしている女の子に俺は、小さく笑いながら答えた。
「神様だからね」
了
神様
こういったショートショートは、読むのも好き、書くのはもっと好きですね。