いいなずけたち
「あの定規はないんじゃないかな」
ケントは大きく息をつき、そう進言した。
「定規? なに?」
まったく見当がつかないという表情のまま、リエはブロック塀から飛び降りる。
「楽典のとき。定規忘れて、ノートの裏表紙を切り取って代用したろ」
二人が通うピアノ教室では、演奏のレッスン後、楽典を教わる時間が設けられている。音符や小説線をノートに書きとる機会が多く定規は必須なのだが、リエは今日も入れ忘れてきたらしい。
「ああー! そうそう、そうなんだよ。まっすぐ作れていたと思わない? 直前に気づいてさ、とっさに鋏で切ってみたの。ナイスアイディア~」
「鋏は持ってきてるのに定規はないってどういうことなんだ」
「工作グッズは持ってたけど、筆箱そのものを忘れたんだよね」
堂々と言い、リエはにっこりした。鉛筆は? 消しゴムは? ケントはそう聞きかけて、彼女がポケットに多機能ボールペンを忍ばせていることを思い出す。昨年の冬頃、急に探偵になりたいなどとほざき、何でもかんでもメモを取りまくっていた名残だ。備えあれば患いなし。濡れぬ先の傘。不手際にも全くめげないリエを、ケントは半ば尊敬するような気持ちで見つめた。
街は熱風と熱気で、存分に蒸されていた。
ケントとリエは大きなスクランブル交差点を渡り、住宅地に向かうバス停へ歩く。明日は選挙の日で、ちょっとした空きスペースにも候補者が立ち、流れる汗も気にせず声を張り上げていた。
「ありがとうございます! ありがとうございます! 自由民主党に、清き一票を! はい、応援ありがとうございます!」
歩道の左側を街宣車が通り、ケントはとっさに指を耳へつっこんだ。大きな音は幼いころから苦手だ。
「どうして煩くするんだろう。こんなこと、意味あると思う?」
自分のひ弱さにもうんざりしながら、ケントはリエに聞いた。
「もうさ、聞き流しちゃって全然耳に入らないよね。だから、やってもやんなくても同じって感じ」
あっけらかんとリエは言う。
「え!? そんなことあり得るの!? 俺、鼓膜がジンジンして最近は夜も寝つけないんだけど」
ケントは茫然とする。
「うーん、大丈夫よ。聞いてないもん、あたし。夜眠れないの? じゃ、うちに遊びに来ればいいのに。泊まってってもいいよ」
ひまわりのような笑顔で、リエはケントの肩をたたいた。
泊まっていく?
ケントは再び茫然とする。確かに彼女とは同じマンションの別部屋だが、そんなに簡単に招きあったりしていいものなんだろうか。誰かに見られたらどうするのだろう。母親たちは動転しないだろうか。ただでさえ、クラスの奴らには冷やかされたり噂されたりで面倒なことになっているのに。
何より、ケントはリエが好きで仕方がないのに。
住宅街でバスを降りて目の前に、幼いころから通い慣れた鯛焼き屋がある。
「やったー、カスタードのが焼きたてじゃん」
リエは、これ以上の喜びはないといった風情で店に駆け込んだ。ガラスのショーケースに、鯛焼きが中身の種類ごとに並べられている。焼いたばかりのものには、『アツアツだよ!』のマークがつけられているのだ。
ケントはこしあんをひとつ買い、リエはカスタードといちごジャムを各ふたつずつ購入した。店の前に並べられた簡単なベンチで、それぞれ取り出して頬張る。
リエはちんまり小さくて、でもエネルギーにあふれていて、驚くほど大らかだ。ケントのほうが15cmも背が高いのに、ずっと世界を斜めに見、恐れながら暮らしている。生まれながらのものなのか、育った過程で身についてしまったものなのかは分からない。
ただひとつ言えるのは、一生リエと居たいということだった。どうしても。
「ねえ」
赤い舌をちろりと出しながら、ん? とリエは答えた。
「いつか結婚、するよな?」
これまで何度も確認したせりふを繰り返す。何回も聞く、ということ自体が悲しいということを、11歳ながらケントはもう熟知している。
「ああ」
リエはまた、軽やかに笑った。
「もう、心配しないで。するって言ってるじゃん。しないときでも、ずっと友達だって約束したじゃん」
遠くで街宣車の響きが聞こえた。ありがとうございます。ありがとうございます。一票を、清き一票を。
情けないほど、大きな大きな安堵が胸に満ちた。そっかと微笑み、ケントは鯛焼きを指でちぎる。
三口目のこしあんは、皮がふやけてぼんやりした味だった。
いいなずけたち