シェネイ
「僕はシェネイNO.2985。恋人は、きみで間違いないかな」
澄んだ湖にも似た青い瞳に微笑みをたたえ、彼はこちらを見つめた。仕切りのない冷蔵庫から、長い脚を伸ばして立ち上がる。背が高く185cm強というところで、ほっそりしてはいるが程よい筋肉質だ。涼やかなスラヴ系の顔立ちは、確かに注文通りだった。
シェネイ。
ブロンドの前髪が額に落ちかかり、彼は鬱陶しそうに指で払う。
「ここはどこ?」
あたしは取り落とした説明書を拾い、その裏面に書かれた世界地図を見せた。
「日本で、首都の東京」
「おお、ずいぶん遠くにきたな。初のアジア圏だよ」
彼の眼に光が宿った。しみひとつない陶器のような肌に、汗とは違う、細かい結露が勢いよく湧いた。真っ白なシャツに、するすると滴り落ちて円をつくる。
「暑くないの?」
言ってから、寒くないか聞くべきだったかとあたしは逡巡した。
「少し暑いかな。でも大丈夫、すぐ慣れる。汗ばんでるくらいのほうが楽しいし、ね」
ニッと笑い、彼はあたしの頬をそっと撫でた。大きな手で包むように、親指だけを動かして。それだけで気持ちがよく、あたしは目まいを起こしそうになる。
確かにこの部屋は暑い。西向きで夕日がアホほど差す上、高層ビルに挟まれて風通しが最悪だから。湿気が多くて居心地が悪い。本当はシェネイなんか置く場所もないくらい、物にあふれて小さな部屋なのだ。でも、つい買ってしまったのだった。深夜のテレビショッピングで、不覚にも心を動かされて。
ライトブルーの冷蔵庫は、シェネイを届ける使命を終え、静かにモーターの動きを止めた。
予備バッテリーのオプションをつけなかったので、激しい運動をした場合、シェネイは速やかに経口で栄養(正しくはバイオエネルギー)を摂らなければならなかった。冷蔵庫――彼が入っていたのではなく、あたしが日ごろ使っている方――に残っていたモヤシとシメジで、簡単に豚肉炒めを作る。
「旨いな。これは塩? 僕の国にはない味わいだ」
初体験のしょう油味がお気に召したらしい。
「それは何?」
あたしは白飯に生卵をかけて食べていた。大したもんじゃないわと答えてツルリと白身をすする。
「なんだかドロドロして不気味に見えるけど」
「食べてみる?」
「いや結構。内臓あたりの機構に異常をきたしそうだから」
シェネイは、素っ裸にタオルケットを一枚だけ巻きつけて座っていた。洗いたての金髪がざっくり乱れて、少年みたいにところどころ尖っている。そうしていると彼は幼く見えた。終えた行為はまるで逆なのに、大人から子どもに変貌した感じがした。
あたしは質問してみたくなる。
「どうしてこの仕事をしてるの」
シェネイは、深く悩むふうでもなく首を傾げた。
「理由は特にないな。成り行きだよ。兄弟が9人いて養わなきゃならないし、僕は割と贅沢が好きだから。大した苦労じゃない、サイボーグになるくらいはね」
来週ドバイに遊びに行くんだ、初めての中東だよと嬉しそうに笑う。
「何故きみは僕を呼んだ?」
彼は聞いた。ペットボトルの蓋を、あたしは手のひらでクルクルといじり回した。
「わからないわ。ただ会ってみたかったから。抱きしめて、大丈夫だよって言ってほしかったの。それだけ」
まるで子供みたいだと恥ずかしくなった。けれどそれは嘘のない気持ちだった。テレビの画面で彼を初めて見たとき、感じたのは紛れもない希望だった。法外な、貯金を使い果たすレベルの利用金額も吹き飛ぶくらいの、立派な一目ぼれだったのだ。
「元気になれた?」
シェネイの声はやさしい。かすれてセクシーで、あたたかみに満ちている。
「わからない。少なくとも今は」
あたしは答えた。
スーツの上着を脱ぎ洗濯機の上にたたんで置いてから、あたしはリビングのドアを開けた。ライトブルーの冷蔵庫の前で、シェネイは小さく体を縮め、静かに寝転がっていた。彼はすでに呼吸をしていなかった。頬の赤みは消え、まぶたは閉じきらず薄く白目をむいている。そっと腕に触れると、昨日の張りつめた弾力は失せて、ソーダアイスのように固まっていた。
施しておいた凝固作業がうまくいったことに、あたしはひとまず安堵する。
筋肉注射は扱いが難しく、あたしはひどく手間取って、結局会社に遅刻してしまったのだった。薬品で安定させた後、低温に冷やして鮮度を保つ。それだけのことが、素人にはとても難しい。
「ああごめん、上手くいかない、ごめんね」
何度も針を刺しては失敗し、半泣きで謝るあたしに、シェネイは冷や汗をかきながらも笑ってくれた。
「泣くことはない。弱虫だな」
そっと涙を拭ってくれた長い指。今はしっかりと膝に回され、組んだ手をほどくこともできなかい。
冷蔵庫を開け、やさしく、やさしく、シェネイを押し込む。乱暴にして骨ごと砕けてはいけないと、できるだけ丁寧に扱う。驚くほど軽いのは、やはりサイボーグだからだろうか。漏れだした白い冷気が、狭くて小さいあたしの部屋を冷やしていく。
「転送」
声がかぼそく震えてしまった。銀色のマイクはけれども一発で意図を読み取った。ひときわ大きな音をたて、冷蔵庫のファンが回り始める。
引きとめたい感情が、ふいに体中をうずまいた。目の前の取っ手を引けば、まだそこにはシェネイがいるのだ。唇をかみしめ、なんとか衝動に耐える。膨大な違約金のこと、蒸し暑い、これ以上ものを増やせない部屋のことを思い浮かべる。
金色の髪だけが、あたしの手のひらに2、3本残った。
ふと一枚のメモが目に入った。あたしのボールペンで書かれた、くせのある筆跡の走り書きだった。冷蔵庫のドア上部に、マグネットでぺたりと貼られている。
「次はアジアンの奴がおすすめ。もちろん僕でも構わない。NO.2985で発注して シェネイ」
思わず笑う。商魂たくましい。あの生命力はなんだろう。
何度か読み返してから、メモを破って細かくし、まとめてゴミ箱へ放った。部屋はすでに湿度と温度を取り戻し、いつもの不快な空間へと戻っていた。
軽く汗をかいた額を拭い、あたしはシャワーを浴びたいと思った。
シェネイ